「天の国はあなたがたのもの」
Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書5章1節から16節
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。柔和な(権力のない)人々は、幸いである、/その人たちは地(土地)を受け継ぐ。義(正義)に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。義(正義)のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
(注)
・ルカの「平地の説教」(6:20-26)と比較して下さい。「幸い」だけでなく「不幸」(天罰)が記述されています。
・群衆:直前の4:23-25にあるように、イエス様の奇跡(あらゆる病気を癒されたこと)を聞いて、ガリラヤ、デカポリス(主にガリラヤ湖の南東地域)、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から大勢の群衆が来て、イエス様に従ったのです。エルサレムの宗教指導者たちが民衆を掌握するまでは、人々はイエス様の教えに共感していたのです。聖書地図を参照して下さい。
・天の国:神様の支配、働きのことです。「神の国」と同じです。マタイは「神様」という表現を避けたのです。「天の国」を用いたのです。ただ、「神の国」(12:28;19:24;21:31、43)を使っている個所もあります。誤解されているのですが、死後に行く「天国」のことではないのです。
・心の貧しい人々は幸いである:ルカ6:21では「貧しい人々は幸いである」となっています。イエス様はご自身の宣教の視点を明確にされているのです(ルカ4:18-19)。
・正義の神様:
■それゆえ、主は恵みを与えようとして/あなたたちを待ち/それゆえ、主は憐れみを与えようとして/立ち上がられる。まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人(人々)は。(イザヤ書30:18)
■わが民の中には逆らう者がいる。網を張り/鳥を捕る者のように、潜んでうかがい/罠を仕掛け、人を捕らえる。籠を鳥で満たすように/彼らは欺き取った物で家を満たす。こうして、彼らは強大になり富を蓄える。彼らは太って、色つやもよく/その悪事には限りがない。みなしごの訴えを取り上げず、助けもせず/貧しい者を正しく裁くこともしない。これらのことを、わたしが罰せずに/いられようか、と主は言われる。このような民に対し、わたしは必ずその悪に報いる。恐ろしいこと、おぞましいことが/この国に起こっている。預言者は偽りの預言をし/祭司はその手に富をかき集め/わたしの民はそれを喜んでいる。その果てに、お前たちはどうするつもりか。」
(エレミヤ書5:26-31)
■・・主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。・・見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ。(エゼキエル書34:1-10)
(メッセージの要旨)
*聖書の個所は「山上の説教」(5章―7章)の冒頭部分です。新共同訳聖書では「幸い」の小見出しが付けられています。イエス様の宣教活動はガリラヤから始まりました。この地にある諸会堂で教え、「天の国」(神の国)の福音を宣べ伝えられたのです。また、人々の悩み、悲しみ、ありとあらゆる病気を癒されたのです。イエス様の教えや力ある業の評判を聞いてガリラヤはもとより、デカポリス、エルサレム、ユダヤの各地から大勢の群衆が来たのです。当時のユダヤはローマ帝国の支配下にありました。神殿政治を担う指導者たちは当局に協力して民衆を搾取したのです。一般民衆の生活は困窮を極めたのです。その日の糧を得るために奔走(ほんそう)する毎日だったのです。イエス様が教えられた「主の祈り」にその状況が反映されているのです(マタイ6:11)。イザヤが預言しているように、神様は貧しい人々に福音を告げ、捕らわれている人々を解放し、圧迫されている人々を自由にするために、イエス様を遣わされたのです(イザヤ書61:1-2)。イエス様に従う群衆は貧困と苦難の中で心身が疲弊していたのです。イエス様に倣(なら)って「天の国」の福音を宣教する弟子たちは迫害に遭遇しているのです。イエス様はこれらの人を深く憐れまれたのです。キリスト信仰の真髄(しんずい)を語られたのです。神様はご自身を信じる人々と共におられ、終わりの日にはそれぞれの労苦に報いて下さることを明言されたのです。「幸い」は群衆に生きる希望と勇気を与えたのです。キリスト信仰を標榜する人々には大いなる慰めとなったのです。
*日本語訳はイエス様のお言葉を正確に伝えないことがあるのです。特に政治的な言葉や文章の意味が和らげられているのです。完全に変更されたりしている個所も見られるのです。キリスト信仰が「罪からの救い」、「道徳の教え」として限定的に理解される要因にもなっているのです。「天の国」の福音はこの世の隅々に及ぶのです。社会・政治・経済の変革を求めるのです。日本(欧米)においてはキリスト信仰を神様との個人的な関係とし位置づける傾向があります。このような信仰理解はユダヤ教にもイエス様の時代にもなかったのです。イスラエルの民は信仰共同体として神様を礼拝したのです。神様は「わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである」と言われたのです(創世記18:19)。アブラハムを召命された理由は世界のすべての国民が彼によって祝福に入るためなのです。旧・新約聖書は「正義と愛の神様」を伝えているのです。キリスト信仰の本質もここにあるのです。イエス様に倣(なら)う人々は権力者たちの不正を告発するのです。迫害は避けられないのです。「心の貧しい人々」、「悲しむ人々」、「柔和な人々」、「義に飢え渇く人々」、「憐れみ深い人々」、「心の清い人々」、「平和を実現する人々」、「義のために迫害される人々」、「ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる人々」は幸いなのです。神様は戒めを心に刻み、正義を実行する人々を祝福されるのです。
*「心の貧しい」とは謙遜のことではないのです。貧困と迫害に苦しむ人々の心の状態を表しているのです。これらの人は「天の国」の福音を妨げる大きな力の前に心が萎(な)えているのです。ユダヤ人歴史家ヨセフスはローマ帝国による暴虐の例を挙げています。イエス様がお生まれになった頃、ローマ軍は抵抗するガリラヤの町に住むおよそ2000人を十字架上で処刑したのです。ローマの歴史家クインティリアヌスはその後も見せしめのために公の場所で十字架刑が執行されたことを伝えているのです。人々の心に恐怖が植え付けられたのです。神様は絶望の淵にある人々を立ち上がらせて下さるのです。「悲しむ人々は幸いである」も個人的な悲しみへの慰めというよりも、外国の勢力や権力者たちの下で屈辱的に生きるイスラエルの民の解放への約束なのです。イザヤは「・・わたしたちの神が報復される日を告知して、嘆いている人々を慰め、 シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。・・」と預言しているのです(61:2-3)。神様が信仰に生きる人々の涙を拭って下さるのです。「柔和な人々」も穏やかな人々のことではないのです。圧政下にあってなす術(すべ)もない無力感を覚える人々のことなのです。神様は逡巡(しゅんじゅん)する民に「・・わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得、あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、それを得ることができるであろう」と言われたのです(申命記4:1)。
*「義に飢え渇く」、「義のために迫害される」は個人的な信仰心の篤さを示しているだけではないのです。「義」(Righteousness)と訳されている言葉には、「正義」(Just)という意味があるのです。預言者ミカは「・・何が善であり、 主が何をお前に求めておられるかはお前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」と言っています(ミカ書6:8)。ゼカリアも同じ趣旨のことを預言しているのです(ゼカリア書7:9-10)。イエス様は神殿政治の腐敗を激しく非難されたのです。既得権益に執着する指導者たちはイエス様を十字架上で処刑させたのです。神様はイエス様の正しさを「復活」を持って証明されたのです。「正義」を貫く人の正しさが明らかになったのです。「平和を実現する」はローマ帝国の支配下にあったユダヤ人たちの現状が「平和」でないことを表しているのです。民衆は当局から過酷な税を課せられたのです。彼らの必要に応じて男性は労働に徴用されたのです。女性は凌辱(りょうじょく)の危険に晒(さら)されたのです。暴力的な手法を用いなかったとしても、独立の要求は反乱と同じなのです。厳罰に処せられたのです。その人たちは神様の子と呼ばれるのです。「憐れみ深い人々は幸いである」は憐れみ深くあることの難しさを語っているのです。裁くことより赦すことが出来る人たちは神様から憐れみを受けるのです。「心の清い人々は幸いである」はこの世の悪から遠ざかり、主の教えを愛し、昼も夜も口ずさむ人々のことです。これらの人はいつも神様を見ているのです。
*イエス様の教えは本質的にこの世と相容れないのです。「神様の御心」を実行すれば必ず犠牲が伴うのです。弟子たちには繰り返し覚悟が求められたのです。「地の塩」とはキリスト信仰を日々の生活において具体化することです。個人的な信仰心を深めるだけでなく、社会に正義を確立するために全力で奉仕することです。自らの立場を鮮明にして貧しい人々や虐げられた人々と共に歩むことなのです。この世はイエス様が「光」として来られたことを認めなかったのです(ヨハネ1:11)。ところが、イエス様を「救い主」と信じた人々には神様の子となる資格が付与されるのです。キリストの信徒たちには暗闇が支配するこの世において「光」をともし続ける使命があるのです。良い行いによって「天の国」の到来が福音(良い知らせ)となるのです。キリスト信仰は「罪の問題」を解決することで完結しないのです。「神様の正義」を光として輝かせるのです。終わりの日-イエス様の再臨の日-までこの世の支配者たちの罪を告発するのです。一方、イエス様は「山上の説教」を締め括(くく)るにあたって弟子たちに注意を促されたのです。「滅びに通じる門は広く、その道も広々して、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出すものは少ない」と言われるのです(マタイ7:13-14)。「主よ、主よ」と言う人が「天の国」に受け入れられるのではないのです。狭い門から入る人々だけに「救い」が訪れるのです。「神様の御心」を実行する人々だけが「永遠の命」を得るのです(マタイ7:21)。