日 時 2026年08月23日(日)午前10時30分~
礼 拝 式 次 第
前奏 (Prelude)
讃美歌524番
1
イエス 君 イエス 君 み救いに
われをも もらさで 入れたまえ
主よ 主よ 聞きたまえ
くだけし心の さけびをば
2
みまえにうちふし わが悔ゆる
心のなげきに こたえませ
主よ 主よ 聞きたまえ
くだけし心の さけびをば
3
君のいさおにぞ ただ頼らん
かよわきこの身を 助けませ
主よ 主よ 聞きたまえ
くだけし心の さけびをば
4
望みのもとなる 主のほかに
あめにもつちにも 救いなし
主よ 主よ 聞きたまえ
くだけし心の さけびをば
アーメン
BRIEF ORDER FOR CONFESSION AND FORGIVENESS
P In the name of the Father, and of the + Son, and of the Holy Spirit.
C Amen
P God, whose love is everlasting, welcomes sinners to the table of mercy.
Let us confess our sin, confident in God’s forgiveness.
Silence for reflection and self-examination.
P Gracious God,
C have mercy on us.
In your gracious compassion forgive us our sins, both known andunknown,
things done and left undone.
Uphold us by your Spirit so that we may serve you in newness of life,
to the honor and glory of your holy name, hrough Jesus Christ our Lord.
Amen.
P Since we are justified by God’s grace through faith, We have peace with
God through our Lord Jesus Christ.
Almighty God has mercy on you, forgives you all your sins,
And bring you to life everlasting. Amen
Prayer of the Day(今日の祈り)
Bible Reading (聖書の個所) マルコによる福音書9章33節から50節
一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない(反対しない)者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は(誰でも)、必ずその報いを受ける。」
「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなた(がた)をつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。―<底本に節が欠けている個所の異本による訳文>
地獄では蛆(うじ)が尽きることも、火が消えることもない。― もし片方の足があなた(がた)をつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。―<底本に節が欠けている個所の異本による訳文>
地獄では蛆(うじ)が尽きることも、火が消えることもない。― もし片方の目があなた(がた)をつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆(うじ)が尽きることも、火が消えることもない。人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」
(注)
・カファルナウム:ガリラヤ湖の北西に位置しています。イエス様の宣教の拠点となった町です。
・子供:必ずしも、謙遜を意味しないのです。当時の子供は父親の所有物でした。ここでは最も低い地位にある人々のことを指しています。
・異邦人の魔術師たちがユダヤ教やキリスト教の著名な指導者たちの名前を使って悪霊を追い出していたのです(使徒19:11-20)。
・キリストの弟子:12使徒、宣教師たち、最近に改宗した人々、社会的、経済的地位の低い信徒たち、信仰の弱い人々のことです。
・悪魔:サタンあるいは誘惑する者と呼ばれています。サタンに関する記事として、マタイ4:1-11、ルカ10:18-19、ヨハネ13:2、27、第1ペテロ5:8、黙示録12、13:1-4、20:1-3、7-10があります。旧約聖書のヨブ記1,2を併せてお読み下さい。
・小さな者:これらの人に対する姿勢は「最後の審判」における判断基準となるのです。
■そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たち(あなたがた)のために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たち(あなたがた)は、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟(家族)であるこの(これらの)最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども(たち)、わたしから離れ去り、悪魔とその手下(たち)のために用意してある永遠の火に入れ。お前たち(あなたがた)は、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この(これらの)最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者ども(たち)は永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」(マタイ25:34-46)
・大きな石臼:人々は穀物を砕くために二種類の方法によって石臼を動かしたのです。小さな石臼に手を、大きな石臼にはロバを用いたのです。
・塩の意味:神様との契約を表しています。
■穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなた(がた)の神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ。(レビ記2:13)
■イスラエルの人々が主にささげる聖なる献納物はすべて、あなた(がた)とあなた(がた)と共にいる息子たち、娘たちに与える。これは不変の定めである。これは、主の御前にあって、あなた(がた)とあなた(がた)と共にいるあなた(がた)の子孫に対する永遠の塩の契約である。(民数記18:19)
・塩の働き:人々の命と深く関わっているのです。
■この町の人々は(預言者)エリシャのところに来て、「御覧のように、この町は住むには良いのですが、水が悪く、土地は不毛です」と訴えた。彼は、「新しい器を持って来て、それに塩を入れなさい」と命じた。人々が持って来ると、彼は水の源に出かけて行って塩を投げ込み、「主はこう言われる。『わたしはこの水を清めた。もはやここから死も不毛も起こらない』」と言った。エリシャの告げた言葉のとおり、水は清くなって今日に至っている(列王記下2:19-22)。
・マルコのサンドイッチ手法:共通する物語の中に異なった話題を挿入することです。ところが、テーマ(趣旨)は一貫しているのです。
・心の貧しい人々:聖書の中で誤解されている言葉の一つです。圧政や迫害によって希望を失っている人々のことです。原因は外部にあるのです。
(メッセージの要旨)
*聖書の引用個所にはマルコの独特の形式-サンドイッチ手法‐が用いられています。異なった話題を挿入しているにも関わらずその意味するところは共通しているのです。十二弟子は誰が一番偉いかについて論じあっていたのです。信仰心の篤さや癒しの力などが話題になっていたことを推測させるのです。寝食を共にし、直接教えを受けていた弟子たちでも「福音の真理」を理解していないのです。「神の国」(天の国)-神様の支配-においては地上の評価は役に立たないのです。神様はすべての人に仕える者だけを「神の子」として認められるのです。イエス様は「心を入れ替えて子供のようにならなければ決して天の国に入ることは出来ない」と言われるのです(マタイ18:3)。信仰における傲慢(ごうまん)は重大な罪です。「永遠の命」に与れないのです。一方、イエス様は「あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は必ずその報いを受ける」と言われたのです。イエス様は神様から委ねられた権威に基づいて人々を評価し、裁かれるのです(ヨハネ5:22)。パウロは信仰に自信を持っていました。しかし、「裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません」と言っています(1コリント書4:4-5)。信仰の傲慢が「救い」を妨げているのです。人々の躓(つまずき)の石になっているのです。そのことに気づく人は少ないのです。イエス様は新しい生き方を示されたのです。貧しい人々や虐げられた人々に仕えるのです。他の人々の御心に適った働きから謙虚に学ぶのです。神様の戒めを心に刻むのです。
*直前にイエス様は「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言われたのです。ところが、弟子たちは「だれがいちばん偉いかについて」議論をしていたのです。当時、グループに属する者たちがこのように話し合うことは一般的に行われていたのです。弟子たちはイエス様と寝食を共にしていました。イエス様がこの世に来られた意味を誰よりも知っているのです。ところが、彼らの関心事は天上と地上における地位や名声なのです。イエス様は彼らの誤解を根本的に正されるのです。「神の国」において一番偉い人は「仕えられる人」ではなく「仕える人」であることを教えられたのです。律法を厳格に遵守(じゅんしゅ)している(ように見える)人々から罪人として蔑(さげす)まれ、社会から排斥された人たち-貧しい人々、心身に障害のある人々、徴税人や娼婦たち-がイエス様に「救い」を求めているのです。イエス様は子供を弟子たちの真ん中に立たせて、それから抱き上げられたのです。キリスト信仰における重要な理念を示されたのです。子供たちは両親に依存しているのです。社会から見捨てられた「子供たち」は神様を信頼して生きているのです。それ故に、イエス様は「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。・・」と明言されたのです(マタイ5:3)。キリスト信仰を標榜(ひょうぼう)する人々は悔い改めて「視点」を移すのです。助けを必要としている人々の所へ降りて行くのです。自分を低くすることは選択の問題ではないのです。その人の「救い」の要件なのです。
*キリスト信仰が誤って理解されているのです。ある時、イエス様に触(ふ)れていただくために、人々が子供たちを連れて来たのです。弟子たちはこれらの人を叱(しか)ったのです。イエス様は憤(いきどお)られたのです。ここでも「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨(さまた)げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。・・子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言って彼らを祝福されたのです(マルコ10:13-16)。安息日に手の萎(な)えた人を癒(いや)すことに反対した人々がいました。これらの人にも激しく怒られたのです(マルコ3:1-6)。イエス様が感情を露(あらわ)にされた数少ない例の一つです。道端に座っていた二人の盲人はイエス様が通られると聞いて「わたしたちを憐れんで下さい」と叫(さけ)んだのです。イエス様に従う大勢の群衆が彼らを黙(だま)らせようとしたのです。しかし、イエス様は二人を見えるようにされたのです。癒された二人は直ちにイエス様の群れに加わったのです(マタイ20:29-34)。「神の国」の福音(良い知らせ)が苦難に喘(あえ)ぐ人々(子供たち)に優先的に届けられているのです(ルカ4:18-21)。知的信仰に陥(おちい)ってはならないのです。信仰の篤(あつ)い人々、律法や神学に精通している人々が「神の国」に招かれるとは限らないのです。イエス様の教えを実行した人々が「救い」に与るのです。キリスト信仰には「行い」が不可欠です。良い働きによって信仰を証しするのです。
*ヨハネにとってイエス様の弟子であることが誇りなのです。他の人の宣教活動を容認できないのです。偏狭な態度が「神の国」の広がりを妨げているのです。イエス様のお側にいた弟子でも福音の真髄(しんずい)を理解していないのです。「神の国」においてはこの世の論理が逆転するのです。悔い改めてへりくだった人々が神様の祝福を受けるのです。天使の中にも傲慢の罪によって天上から追放された者がいたのです。それがサタンです。預言者イザヤは「かつて、お前(サタン)は心に思った。・・雲の頂に登っていと高き者(全能の神)のようになろうと。・・」と言って非難しているのです(イザヤ書14:12-15)。イエス様は七十二人の弟子を各地に派遣されたのです。これらの人に悪霊を追い出す権能が授けられたのです。事実、イエス様の御名によって悪霊が従ったのです。イエス様は弟子たちに「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と言って、戒められたのです(ルカ10:20)。悪魔と呼ばれたサタンは天使だったのです。この事実は「神の国」に属する人々に大きな教訓となるのです。神様と等しい者になろうとすること、神様を軽んじる尊大な思いや振舞いは大きな罪なのです。神様は傲慢な人々に厳しい罰を下されるのです。驕(おご)り、高ぶりは死に至る病です。キリストの信徒たちももこの病気に罹(かか)ることがあるのです。イエス様の教えに従って歩む以外に治る方法はないのです。日々、細心の注意を払って予防するのです。
*イエス様は「人は皆、火(神様の懲らしめ)で塩味を付けられる(本当の信仰を身に着けることが出来る)。塩(律法=正義と愛)は良いものである。だが、塩に塩気-自分を低くすること-がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして(それらを実践し)互いに平和に過ごしなさい」と言われたのです。律法には信仰共同体に属する人々が平和に過ごせるように様々な規定が設けられています。ところが、多くの戒めが有名無実になっているのです。穀物を収穫する時に畑の隅まで刈り尽くされているのです。偽りの誓いによって隣人を騙(だま)し、持ち物を奪い取っているのです。雇い主は労賃の支払いを翌朝まで引き伸ばしているのです。労働者たちが日々の生活に窮(きゅう)しているのです。耳の不自由な人々の悪口が公然と囁(ささや)かれ、目の不自由な人々の前に障害物が置かれているのです。不正な裁判が公然と行われ、物差し、秤(はかり)、升(ます)が不正に用いられているのです。律法を軽んじる力ある人々が弱い人々を苦しめているのです。キリスト信仰を現実から切り離して「霊的な救い」に限定することはイエス様がご自身の生と死と復活によって証しされた「神の国」の福音を歪(ゆがめ)めることになるのです。思想、信条、宗派に関わらず、隣人を愛し、正義と平和を実現するために働いている人々がおられるのです。「主よ、主よ」と言う人々ではなく「神様のご計画」を具体化している人々がキリストの信徒なのです。自分を内省するのです。隣人のために奉仕するのです。
讃美歌525番
1
恵み深き 主のほか
たれかわれを なぐさめん
わが主 わが神 恵みたまえ
ただ頼りゆく わが身を
2
わが主ともに いまさば
悪魔われを いかにせん
わが主 わが神 恵みたまえ
ただ頼りゆく わが身を
3
きよきみむね 教えて
はたしたまえ みちかい
わが主 わが神 恵みたまえ
ただ頼りゆく わが身を
4
とうとき主よ われをば
君のものと したまえ
わが主 わが神 恵みたまえ
ただ頼りゆく わが身を
アーメン
APOSTLES’ CREED
I believe in God, the Father almighty,
creator of heaven and earth.
I believe in Jesus Christ, his only Son, our Lord.
He was conceived by the power of the Holy Spirit
and born of the Virgin Mary.
He suffered under (Caiaphas and) Pontius Pilate,
was crucified, died, and was buried;
He descended into hell.
On the third day he rose again.
He ascended into heaven,
and is seated at the right hand of the Father.
He will come again to judge the living and the dead.
I believe in the Holy Spirit,
the holy catholic Church,
the communion of saints,
the forgiveness of sins,
the resurrection of the body,
and the life everlasting.
Amen.
(使徒信条)
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、(カイアファと)ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に降り、三日目に死人のうちより蘇り,天にのぼり全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。 アーメン
Benediction(祝福の祈り)
The Grace of the Lord Jesus Christ, the love of God,
and the communion of the Holy Spirit be with all of you.
PGo in peace. Serve the Lord.
C Thanks be to God.
Postlude(後奏)
「Go now in peace」
Go now in peace, never be afraid
God will go with you each hour of ev’ry day
Go now in faith, steadfast, strong and true
Know God will guide you in all you do.
Go now in love, and show you believe.
Reach out to others so all the world can see.
God will be there watching from above.
Go now in peace, in faith and in love.
Amen, Amen, Amen.