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「灯をともしていなさい」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書12章35節から56節

(イエスは弟子たちに言われた。)「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕(奴隷)たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」


そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、主は言われた。「主人が召し使い(奴隷)たちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し(同僚たちから切り離し)、不忠実な者たち(不信仰な人々)と同じ目に遭わせる。主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」

イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。偽善者(たち)よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」

(注)

・腰に帯を締め:真剣に、緊張感を持ってという意味が込められています。出エジプト記12:11をお読み下さい。

・灯をともしていなさい:「十人の乙女のたとえ」(マタイ25:1-13)を参照して下さい。

・主人の給仕:弟子たちの足を洗われたイエス様のお姿を想起させます(ヨハネ13:4-8)。

・管理人:重要な職務を任された有能な奴隷(捕虜など)のことです。主人の信頼が厚いことの証明です。そして、それに相応しい結果を求められるのです。他にも類似した「ムナのたとえ話」があります(ルカ19:11-27)。


・人の子:呼称には三つの意味があります。第一は預言者です(エゼキエル書2:1-3)。第二は天の雲に乗って現れる終わりの時の審判者です(ダニエル書7:13-14)。他に「わたしとわたしの言葉を恥じる者(たち)は、人の子も自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときにその者(たち)を恥じる」があります(ルカ9:26)。イエス様はご自身が審判者であることを明らかにされたのです。第三はこの世の人間を表しているのです(ルカ9:58)。


・火:「神様のメッセージ」、あるいは「神様の御力」の広がりを表す言葉です。「清め」(民数記31:23)、「裁き」(列王記下1:10-14)のために用いられます。

・洗礼:イエス様の死-死と復活と昇天-を意味しています。イエス様は神様に銘じられた使命を全身全霊で果たされたのです。以前の預言者たちも経験したのです。エレミヤ書20:9、アモス書3:8を参照して下さい。

・平和:福音の核心部分です。日本語訳では「安らか」(ルカ2:29)、「安心」(7:50)となっている個所があります。「救い主」が拒絶された時には分裂が待っているのです。

・平和の君:イエス様の尊称の一つです。

■ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。(イザヤ書9:5-6)

・一ムナ:ギリシャの銀貨です。一般的労働者の約3か月分の賃金に相当します。

・神の国(天の国):誤解されることも多いのですが、死後に行く天国のことではありません。イエス様の中心メッセージです。神様の全き支配のことです。神様が人間の心と社会の隅々にまで真に神様として崇められ、あらゆる価値の基準とされること、それを通して正義と平和の秩序が実現されることです。旧約聖書は神の国の到来を待ち望むイスラエルの信仰を書き記したものです。神様はイスラエルの民をエジプト人の支配から救い出し、砂漠を経て約束の地へ導かれたのです。ご自分に頼る者を決して見捨てられないのです。どのような地上の力にも勝っておられるのです。信頼するに値するお方なのです。イスラエルは異国の支配下で弾圧され、分断され、捕囚の地に連れていかれたのです。その時も、神様は常に自分たちと共におられ、民の身の上を思い,心を痛められたのです。イスラエルの民はこの神様がいつの日か、必ず自分たちを解放して下さることを信じたのです。

(メッセージの要旨)

*「聖書に忠実である」という言葉がよく聞かれます。ところが、大切な御言葉が読み飛ばされていることも事実なのです。その結果、イエス様の実像が変容されているのです。気付く人は必ずしも多くないのです。イエス様はある人に「従いなさい」と言われました。その人は「主よ。あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」と言ったのです。「鋤(すき)に手をかけてから後ろを顧(かえり)みる者は神の国にふさわしくない」と言われたのです(ルカ9:61-62)。弟子には覚悟がいるのです。人は信仰のみによって「救い」に与るのではないのです。「決断と行い」が不可欠なのです。「神の国」に招き入れられるために、イエス様の御跡を辿(たど)るのです。イエス様は分裂をもたらすために来られたのです。寝食を共にし、直接教えを受けた弟子たちさえ理解していないのです。ご自身の死と復活を否定するペトロに「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と厳しく叱責(しっせき)されたのです(マルコ8:31-33)。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と質問する弟子たちには「心を入れ替えなければ天の国に入れない」と警告されたのです(マタイ18:1-5)。復活を信じられないトマスに「手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われたのです(ヨハネ20:24-29)。イエス様が穏やかなお方、従順な小羊であるかのように誤解されているのです。与えられた責務を全力で果たすのです。

*イエス様は日常生活に生起する普通の事柄を取り上げて語られるのです。その目的はご自身の教え-神の国の福音-を人々に分かりやすく伝えることにありました。当時の生活を経験していない今日のキリストの信徒たちに理解することが出来ない内容も少なからずあるのです。他の聖書の個所が大いに助けとなるのです。イエス様はご自身の死と復活を三度も予告しておられます(マタイ20:17-19)。しかも、それが現実に起こったのです。十字架上で処刑されたイエス様は復活されました。四十日にわたって弟子たちに現れて「神の国」について話しをされたのです。その後天に上げられるのですが、二人の天使が「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたイエスは、天に昇って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またお出でになる」と言ったのです(使徒1:6-11)。イエス様の再臨は新しい天地創造の完成の時でもあるのです。人の子(イエス様)は思いがけない時に来られるのです。すべての人がそれぞれの「行い」によって裁かれるのです。主人が帰って来たとき、目を覚ましている僕たち、主人から命じられた職務を忠実に実行している僕たちは幸いなのです。ところが、キリスト信仰の厳しさが曖昧(あいまい)にされているのです。「信じること」で完結しているのです。イエス様は弟子たちに機会あるごとに覚悟を求められたのです。ご自身に従って歩む弟子たちは必ず迫害されるからです。キリスト信仰は厳しいのです。「神様の御心」に沿って生きたかを問う信仰なのです。

*イエス様は主人を軽んじる僕について言及しておられます。主人の帰りが遅いことを利用して、男女の召し使いに暴力を振るい、大切なお金を浪費している僕は主人の思いを知りながら信頼に応えなかったのです。職務を解かれただけでなく、厳しく罰せられたのです。「救い」に与った群れから切り離され、不信仰な人々と同様に扱われることになったのです。主人は僕たちの能力を知っているのです。相互に比較することはないのです。ただ、多くを任した者にはそれに相当する結果を求めるだけなのです。イエス様は別の角度から同じようなたとえ話をされています。ある身分の高い人が十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し「これで商売をしなさい」と言って遠い国に旅立ったのです。その人は帰って来ると、それぞれに取り組み状況を報告させたのです。ある僕は一ムナで十ムナ、別の僕は一ムナで五ムナを儲けたのです。主人は彼らの忠実さを誉め、さらに責任ある仕事を任せたのです。ところが、一ムナを布に包んでしまっておいた僕がいたのです。理由について「失敗を厳しく責めるご主人が恐ろしくて何もしなかったのです」と説明したのです。僕は自分の怠惰を正当化するために責任を主人に転嫁したのです。主人は僕の悪賢さを非難し、一ムナを取り上げたのです。キリストの信徒たちにも様々な資質が与えられているのです。「神様の御心」を実現するために用いるのです。イエス様に倣(なら)って生きることは簡単ではないのです。イエス様の教えの厳しさが原因ではないのです。先ず、キリスト信仰への理解度と覚悟の有無を内省するのです。

*イエス様は「知的信仰」を厳しく批判されたのです。「行い」を伴わない信仰はその人の「救い」に役に立たないのです。「善いサマリア人のたとえ話」はその一例です。追いはぎに襲われて半殺しの状態にあった見知らぬ人を介抱したのは、宗教儀式を司(つかさど)るユダヤ人祭司でも、祭司職の家系を誇るレビ人でもなかったのです。これらの人が蔑(さげす)んでいたサマリア人だったのです。「永遠の命を得るために何をしたら良いでしょうか」と質問する律法の専門家に、イエス様は「あなたも、サマリア人同じようにしなさい」と答えられたのです(ルカ10:25-37)。「行い」が何よりも重要なのです。ところが、この視点が真剣に語られていないのです。ある教会のパンフレットに「信仰とは戒めを守ることや、善い行いを積むことではありません。人が罪の赦しを得るためには、神様の恵みによるしか方法がないのです」と書かれているのです。キリスト信仰と「行い」が分離されているのです。イエス様のご生涯が「十字架の死」にのみ捧げられたかのような誤解を生む要因の一つになっているのです。イエス様のお言葉と旧・新約聖書に忠実であるべきなのです。預言者たちはイスラエルの指導者たちの不信仰と腐敗を非難したのです。イエス様もファリサイ派の人々や律法学者たちの偽善と不正を告発されたのです。悔い改めなければ天罰が下るのです。人間の支配の終わりを告げる「神の国」が到来しているのです。「永遠の命」は「行い」のない信仰-死んでいる信仰(ヤコブ2:17)-によって得られる安価な恵みではないのです。

*神様は預言者イザヤを通して「正義が造り出すものは平和であり/正義が生み出すものは/とこしえに安らかな信頼である。わが民は平和の住みか、安らかな宿/憂いなき休息の場所に住まう」と言われたのです(イザヤ書32:17-18)。イエス様は当時の平和が欺瞞(ぎまん)であることを非難されたのです。ご自身に従う人々に神様を中心とする真の平和の実現に参画するように促されたのです。信仰共同体や家族の中に、イエス様の教えに従った人々とそうでない人々の対立が生まれるのです。「神の国」とこの世は決して調和しないのです。キリスト信仰はその人の「救い」を事前に保証するものではないのです。イエス様は裁き主として再び来られるのです。人々を左右に分けられるのです。右側にいる人々は飢えている人々を食べさせ、のどが渇いている人々に飲ませ、旅人たちに宿を貸し、着る物のない人々に衣服を着せ、病気の人々を見舞い、牢獄にいる人々を訪ねたのです。これらの人に「永遠の命」が与えられたのです(マタイ25:31-46)。イエス様は律法の中で最も重要な掟として「神様と隣人を愛すること」を挙げられました(マルコ12:29-31)。主人が帰って来て全財産を任せる前に管理人の信頼は失墜していたのです。キリストの信徒たちも周到な準備を怠(おこた)れば同様の結果を招くことになるのです。イエス様の再臨に備えて日々自分たちの「行い」を検証するのです。「救い」に至る道は狭くて険(けわ)しいのです。この事実を再確認するのです。終わりの日まで灯を高く掲げて忍耐強く前進するのです。

2025年02月16日

「正義を求める信仰」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書18章1節から8節

イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れ(恐れ)ず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください(相手に対するわたしの主張の正当性を認めて下さい)』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れ(恐れ)ないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわない(煩わす)から、彼女のために(正しい)裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わす(へとへとにさせる)にちがいない。』」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさ(言うこと)を聞きなさい。まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。あなたがたに言っておくが、神はすみやかに(正しく)さばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。

(注)


・寡婦(やもめ)に関する聖書の個所:


■寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦(かふ)や孤児はすべて苦しめてはならない。(出エジプト記22:20―21)


■あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏(おそれ)るべき神、人を偏り見ず、賄賂(わいろ)を取ることをせず、 孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。(申命記10:17-18)


■寄留者や孤児の権利をゆがめてはならない。寡婦の着物を質に取ってはならない。(申命記24:17)


■寄留者、孤児、寡婦の権利をゆがめる者は呪われる。民は皆、「アーメン」と言わねばならない。(申命記27:19)


・レビレイト婚:先祖の名と寡婦の生活を守るための律法の規定です。

■兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。(申命記25:5-6)

・裁判官:イエス様は他の個所で裁判官や調停人に言及されています。

■群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」(ルカ12:13-14)

●先生、ラビ(先生の中の先生)と呼ばれる人々が遺産相続等に関する律法の解釈を行っていたのです。複雑な規定が民数記27:1-11,36:6-9,申命記21:15-17に記述されています。

・不正な裁判官:律法学者たちやファリサイ派の人々は「ラビ」と呼ばれることを好んだのです。裁判を担っていたことが十分に推測されるのです。イエス様はこれらの人の偽善と腐敗を厳しく批判されたのです(マタイ23)。


■律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。(ルカ20:46-47)


■主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。・・」(ルカ11:39)

■金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。」(ルカ16:14-15)

・主の祈り:イエス様が弟子たちに教えられた祈りです。

■だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇(あが)められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧(かて)を今日与えてください。わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』 (マタイ6:9-13)

・神様の正義と愛:

■主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなた(モーセ)をファラオ(エジプトの王)のもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」(出エジプト記3:7-10)


・人の子:


この呼称には三つの意味があります。第一は預言者です(エゼキエル書2:1-3)。第二は天の雲に乗って現れる終わりの時の審判者です(ダニエル書7:13-14)。他に「わたしとわたしの言葉を恥じる者(たち)は、人の子も自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときにその者(たち)を恥じる」があります(ルカ9:26)。イエス様はご自身が審判者であることを明らかにされたのです。第三はこの世の人間を表しているのです(ルカ9:58)。

(メッセージの要旨)


*たとえ話には二人の人物が登場します。一人は社会的地位の高い裁判官、もう一人は社会の底辺にあって日々の糧にも窮するやもめなのです。やもめは何かの件で「相手を裁いて、わたしを守ってください」と願い出たのです。ところが、裁判官は地位を利用して賄賂を求める不正な裁判官だったのです。やもめに特別なお金を支払う余裕などないのです。裁判官にとって、貧しいやもめの訴えを取り上げても実質的な利益はないのです。裁判官はやもめの切実な申し立てを無視したのです。権力の腐敗が無力なやもめを一層苦しめているのです。いつの時代も、公正を旨とするべき権力者たちの不正はなくならないのです。やもめに残された道は裁判官に訴え続けることでした。神様はやもめの権利を守るために律法を定めておられるのです。ところが、「神様の御心」が軽んじられているのです。やもめの人格と権利が否定されているのです。裁判官は社会的地位が高く、豊富な知識と経験を有する権力者なのです。地位も、お金も、支えてくれる人もいないやもめが対等に交渉することなど不可能に近いのです。しかし、やもめは諦(あきら)めることなく、正義の実現を訴え続けたのです。やもめの主張には共同体の一般の人々だけでなく、不正な裁判官も認めざるを得ない正当性があったからです。イスラエルの歴史が証明するように、神様は苦境に喘ぐ人々を決して見捨てられないのです。人々が祈る前から願いをご存じなのです(マタイ6:8)。イエス様は祈ることだけでなく、一人であっても正義を求めて立ち上がることの重要性を教えられたのです。

*神様は預言者たちを通して語られたのです。やもめらへの不当な扱いを決して容認されないのです。権力者たちが悔い改めなければ虐げられた人々に代わって報復されるのです。「もし、あなた(たち)が彼(ら)を苦しめ、彼(ら)がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる」と明言されたのです(出エジプト記22:22-23)。それにも関わらず、指導者たちの悪が絶えることはなかったのです。信仰の人サムエルの祭司職を継いだ二人の息子は父の道を歩まなかったのです。不正な利益を求め、賄賂を取って裁きを曲げたのです(サムエル記上8:2)。イスラエル(北王国)の王アハブは誰よりも主の前に悪事を重ねたのです(列王記上16:29-22:40)。その後も、神様は「支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり/皆、賄賂を喜び、贈り物を強要する。孤児の権利は守られず/やもめの訴えは取り上げられない」(イザヤ書1:23)、「イスラエルの君侯たちは、お前(エルサレム)の中でおのおの力を振るい、血を流している。父と母はお前の中で軽んじられ、お前の中に住む他国人は虐げられ、孤児や寡婦はお前の中で苦しめられている」(エゼキエル書22:6-7)、「裁きのために、わたしはあなたたちに近づき/直ちに告発する。・・偽って誓う者/雇い人の賃金を不正に奪う者/寡婦、孤児、寄留者を苦しめる者/わたしを畏れ(恐れ)ぬ者らを」(マラキ書3:5)と言って、警告されたのです。

*やもめの問題は家父長制度(男性中心の社会)と深く関わっています。女性は男性の所有物として扱われていました。自分のことについて決定権を持たなかったのです。娘は父の意向に従い、妻は夫に従属し、母は老後を長男に委ねるのです。結婚した女性がやもめになると状況は厳しくなるのです。特に、子供(男の子)を持たない女性の生活は悲惨です。自分に関心を寄せる男性が現れて庇護(結婚)してくれることを期待するだけなのです。日本における封建的な家制度と極めて似ているのです。旧約聖書のルツ記をご一読ください。夫を亡くしたやもめの苦労が詳細に描かれています。神様は夫の死後困窮生活を強いられるやもめの権利が守られ、最低必要な食物と衣服が与えられるように律法を定められたのです。やもめに後継ぎを儲けるために「レビレイト婚」の義務が課せられていたのです。ところが、神様のご命令を無視する夫の親せきも多く、妻を家から暴力的に追い出すことも行われたのです。やもめが律法の具体化を求めて裁判に訴えるケースがあったのです。たとえ話は現実に起こっている出来事を基に語られているのです。やもめは裁判官に執拗に願い出ているのです。将来に関わる重要な案件であることが推測されるのです。やもめが訴え出た裁判官は神様も人をも恐れない人物でした。地位を利用して不正を働いているのです。裁判官は貧しい人々よりも権力や財産のある人々を優遇するのです。金持ちには相応の賄賂を準備する経済的な余裕があるのです。当初、裁判官はやもめの訴えを無視していました。正義が歪められているのです。

*賄賂を払えない人々は律法の規定からも除外されるのです。しかし、不思議なことが起こるのです。やもめの正当性が徐々に広がり、裁判官の非情な姿勢が民衆の批判の対象となったのです。やもめの訴えを無視し続ければ、裁判官自身に不利益が及ぶのです。欲深い裁判官がやもめの訴えに譲歩したのです。彼女のために裁判が開かれることになったのです。やもめの粘り強い働きかけが大きな力となって裁判官を動かしたのです。イエス様は弟子たちに「諦めずに祈れば願いは叶えられること」を教えるために、窮状にあるやもめの信仰を例に挙げられたのです。ただ、やもめが祈っている姿はどこにも見られないのです。不正に対する不屈の精神と熱心な行動を強調しておられるのです。日々の生活に気を配らなければならないやもめにとって、何度も裁判官の所に行くことは簡単ではないのです。しかも、悪知恵に長けた自分を苦しめている相手や不正な裁判官と交渉しなければならないのです。想像を遥かに越える大変な状況に置かれているのです。しかし、女性は四面楚歌にあっても不正に屈服しないで、訴え続けたのです。イエス様が祈りを行動によって説明された意味は深いのです。祈りは神様に直接願いを申し出ることです。同時に、自らもその実現に向けて参画することなのです。相手や裁判官と自分との力関係には大きな差があるのです。結果は誰の目にも明らかなのです。しかし、やもめは律法が定める保護を求め続けたのです。一人で「主の祈り」を祈り、正義と愛の神様にすべてを委ねたのです。その上で自分に出来ることを実行したのです。

*イエス様はやもめの悲壮な姿を例に挙げて神様に願い続けることの大切さを教えられたのです。それと共に、やもめをそこまで追い詰めた貧しさとその原因に目を向けさせられたのです。やもめの窮状は指導者たちの不信仰と制度の欠陥の産物です。やもめは腐敗した社会の犠牲者なのです。公平を旨とする裁判官が職務を誠実に実行していないのです。権力を乱用して不当な利益を得ているのです。神様は必ず正義を求める人々の叫びを聞いて正しく裁いて下さるのです。ただ、イエス様は「人の子(ご自身)が来るとき、果たして地上に(やもめのような信仰を見いだすだろうか」と言われたのです。「自分の救い」にのみ関心を寄せるキリストの信徒たちに警鐘を鳴らしておられるのです。「永遠の命」に与るためには「行い」が不可欠なのです。イエス様は「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」と言われたのです(マルコ8:34-35)。お言葉に耳を傾けるのです。キリスト信仰がそれぞれの「生き方」を問うものではなく、「救いの手段」として理解されているのです。信徒たちは「自分を捨てること」や「自分の十字架を背負うこと」を実行するのではなく、ひたすら「救いの時」が来るのを待っているのです。「神様の御心」を実現するために奔走した人々が「永遠の命」に与るのです。やもめは「行い」によって信仰を表したのです。イエス様はこの点を高く評価されたのです。

2025年02月09日

「業としるしの力」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書10章22節から42節

そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業(わざ)が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」

ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒瀆(ぼうとく)したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、(旧約)聖書が廃れることはありえない。それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒瀆している』と言うのか。もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。

イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。多くの人がイエスのもとに来て言った。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」そこでは、多くの人がイエスを信じた。

(注)

・神殿奉献記念祭(ハヌカ):

12月に実施されました。紀元前164年、ユダ・マカバイはギリシャ人と彼らに同調するユダヤ人指導者たちの支配からエルサレム神殿を取り戻したのです。聖所及び神殿の内部を修復し、中庭を清めたのです。そして、祭壇を新たに奉献したのです。毎年この出来事を記念する行事が行われています。機会がありましたら旧約聖書続編マカバイ記(一)4:36-59をお読み下さい。

●ユダヤ人の三大祭りとは過越祭(3月か4月に実施、イスラエルの民がエジプトの圧政から解放されたことの記念)、七週祭(過越際から数えて7週目の行事、小麦の収穫と律法の付与への感謝)、仮庵祭(10月に開催、イスラエルの民が荒れ野で天幕に住んだことの想起、秋の収穫祭)のことです。

●名前が付いていない祭りも記述されています。ヨハネ5:1を参照して下さい。

・ソロモンの回廊:神殿の境内の東側(正面)にあります。

・ユダヤ人たち:一般的なユダヤ人を意味しているのではなく、イエス様に敵対するファリサイ派の人々や律法学者たちのことです。

・あなたたちは神々(gods)である:イエス様は機会あるごとに旧約聖書を引用されたのです。なぜなら、信仰の指導者たちが旧約聖書に精通していたからです。

●神様(God)のお言葉を受けた天使、裁判官、イスラエルの民を指しています。こうした表現は中東の神話に見られます。イエス様は詩篇の一節を用いて彼らの不信仰を批判されたのです。


■【賛歌。アサフの詩。】神は神聖な会議の中に立ち/神々の間で裁きを行われる。「いつまであなたたちは不正に裁き/神に逆らう者の味方をするのか。弱者や孤児のために裁きを行い/苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。弱い人、貧しい人を救い/神に逆らう者の手から助け出せ。」彼らは知ろうとせず、理解せず/闇の中を行き来する。地の基はことごとく揺らぐ。わたしは言った/「あなたたちは神々なのか/皆、いと高き方の子らなのか」と。しかし、あなたたちも人間として死ぬ。君侯(支配者)のように、いっせいに没落する。神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう(すべての民はあなたに属する遺産だからです)。(詩編82:1-8)

・悪い牧者(羊飼い)たち:

■「人の子(預言者エゼキエル)よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。それゆえ、牧者たちよ。主の言葉を聞け。」(エゼキエル書34:2-7)

(メッセージの要旨)

*以前、イエス様は「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」と言われました(ヨハネ8:58)。ユダヤ人たちは石を取り上げて投げつけようとしたのです。今回も「わたしは永遠の命を与える」、「わたしと父とは一つである」と言われたのです。ご自身を「安息日の主」(マタイ12:8)、エルサレム神殿を「わたしの家」と呼ばれたのです(マルコ11:17)。罪深い女性に「罪の赦し」を一方的に宣言されたのです(ルカ7:48)。イエス様のお言葉はユダヤ教の伝統と律法を順守する人々にとって「神様への冒涜」なのです。しかし、イエス様を通して神様に近づく道が開かれたのです。大祭司や祭司たちの仲介の必要性はなくなったのです。新しい天地創造の始まりを告げているのです。ユダヤ人たちは「メシア」(油注がれた者)が来られることを知識として理解していました。ところが、イエス様が「メシアであること」を信じなかったのです。イエス様に先駆けて遣わされた洗礼者ヨハネが「悔い改め」を迫っても耳を貸さなかったのです。イエス様が宣教された「神の国」の福音-律法の中で最も重要な戒め-正義、慈悲、誠実を実行すること-を拒否したのです。自分たちの権威や既得権益を守るために受け継がれて来た律法の解釈さえ恣意的に変更したのです。激しく非難する洗礼者ヨハネの首をはねさせ、後にイエス様を政治犯として処刑させたのです。彼らに天罰が下るのです(マタイ23)。イエス様は「神様の子であること」を疑う人々に「業」を信じなさいと言われました。多くの人が「しるし」によって信じたのです。

*福音書記者ヨハネはイエス様と敵対するユダヤ人たちとの対立が神殿奉献記念祭の時期であったことを強調しています。腐敗した神殿政治を想起させているのです。キリスト信仰は旧約聖書と密接に関わっています。神様はイスラエルの牧者なのです。預言者イザヤは「主は羊飼いのようにその群れを飼い/その腕に小羊を集めて、懐に抱き/乳を飲ませる羊を導く」と言っています。牧者は霊的に、現実的にも神様の民を導く指導者の呼称なのです(イザヤ書40:11)。モーセやダビデは羊飼いでした。不信仰な王は「偽りの羊飼い」と呼ばれたのです(エレミヤ書23:1-2)。イエス様もたとえ話の中でたびたびこのイメージを用いられたのです(ルカ15:1-7)。紀元前332年アレキサンダー大王が征服して以来、中東におけるギリシャ人たちの影響力は強まりました。民族の支配は人々をギリシャ的生活様式に徐々に同化させたのです。イスラエルは150年の間にギリシャ文化や宗教様式を取り入れたのです。ヘブライ語を読めないユダヤ人たちのために聖書さえもギリシャ語に翻訳したのです(70人訳聖書)。一方、信仰篤いユダヤ人たちはヘレニズム化の導入に反発したのです。ギリシャ人たちだけでなく、現状を受け入れたユダヤ人たちの間に対立が生じたのです。ギリシャ人の兵士たちは豚の血で神殿を汚し、偶像を建てたのです。割礼を無効にし、聖書を燃やしたのです。祭司たちはこうした蛮行に沈黙したのです。ユダ・マカバイを指導者とする心あるユダヤ人たちは立ち上がり、異邦人の支配からエルサレム神殿を奪還したのです。

*マカバイの時代における信仰の危機が連綿と続いているのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちはローマ帝国に協力して貧しい民衆を苦しめているのです。神様は終わりの日に先立って独り子イエス様を遣わされたのです。神様が人となられたのです。キリスト信仰の原点はここにあるのです。唯一の神様を信じるユダヤ人にとって到底理解出来ないのです。イエス様は「ご自身が救い主であること」を様々な機会に証しされたのです。カナの結婚式において水をぶどう酒に変えられたのです。最初の「しるし」を通して弟子たちはイエス様を信じたのです(ヨハネ2:1-11)。生まれつきの盲人を見えるようにされたのです。目が見えるようになったこの人もイエス様を信じたのです(ヨハネ9:1-12)。奇跡のような「しるし」や前代未聞の「癒しの業」などによって、多くの人はイエス様が「神の子であること」を信じたのです。一方、信仰が揺らいでいる、元々信じていなかった弟子たちは「天から降ってきた生きたパンである」と言われたイエス様に躓(つまず)いたのです。多くが離れ去り、共に歩まなくなったのです(ヨハネ6:60-66)。指導者たちのほとんどは「救い主であること」を受け入れなかったのです。しかし、議員の中にはイエス様を信じる人も多かったのです。ただ、会堂から追放されることを恐れて公にしなかったのです。神様からの誉れよりも人間の栄誉を選んだのです。ところが、金持の議員ヨセフやファリサイ派の議員ニコデモは危険を承知の上で、イエス様のご遺体を埋葬したのです(ヨハネ19:38-40)。

*イエス様はご自身の「復活」を信じることの出来ない12弟子の一人トマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われたのです(ヨハネ20:29)。トマスはイエス様と宣教を共にし、教えを直接受けているのです。それでも確信がなかったのです。イエス様のお言を信じることは簡単ではないのです。イエス様は具体的な証拠を求める人々に譲歩されるのです。「わたしの業を信じなさい」と言われるのです。四福音書には多くの「力ある業」と「しるし」が記述されています。五千人の群衆に食べ物を与え、湖の上を歩かれたのです(マタイ14:13-33)。会堂長の死んだ娘を蘇生(そせい)し、12年間も出血の止まらない女性を癒されたのです(マルコ5:21-43)。百人隊長に仕える死に瀕した奴隷を癒し、やもめの息子を生き返らされたのです(ルカ7:1-17)。38年間も病気で苦しんでいる人を癒し(ヨハネ5:1-18)、死んで四日も経っているラザロに再び命を与えられたのです(ヨハネ11:38-44)。これらは神様が共におられなければ実現しなかった出来事なのです。キリスト信仰が誤解されているのです。宣教する側の信仰理解と宣教方法に問題があるのです。神学や哲学が多用されていることも原因の一つです。イエス様の実像が語られていないのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」を再確認するのです(ヨハネ3:16)。神様はイエス様を通して働いておられるのです。

*神様に近づくためにイエス様以外の仲介者は必要ないのです。キリスト信仰において、この認識は不可欠です。イエス様はファリサイ派の人々や律法学者たちにも「神の国」-神様の支配-の福音を告げられたのです。ところが、これらの人は社会的地位や伝統的な教えに執着したのです。「終わりの日」-新しい天地創造-が始まっていることを理解しなかったのです。イエス様が天に帰られた後、初代教会は心を合わせて熱心に祈っていました。その中にはイエス様の母マリアもいたのです(使徒1:14)。使徒ペトロはイエス様のご命令を実行するのです。ユダヤ人たちに「これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです」と言ったのです(使徒2:22)。3000人ほどが悔い改めて群れに加わったのです。その後、祭司も大勢信仰に入ったのです。イエス様は教会を作られなかったのです。教義を文書にして残すこともされなかったのです。ただ「神様と隣人を愛して生きること」を教え、自らその模範となられたのです。ご自身に倣(なら)って生きる人々を弟子ではなく「友」と呼ばれるのです(ヨハネ15:15)。キリスト信仰とはイエス様を「救い主」として信じることなのです。逡巡している人々はもう一度イエス様の「業としるし」に目を向けるのです。人間には不可能なことばかりです。イエス様は「神の子」なのです。

2025年02月02日

「あなたを罪に定めない」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書7章53節から8章11節


〔人々はおのおの家へ帰って行った。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女(婦人)に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕

(注)

・モーセ五書:旧約聖書に編纂された創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のことです。

・姦淫の罪:モーセの十戒には「姦淫してはならない」(出エジプト記20:14)とあります。また、律法も「男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない」(申命記22:22)、「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる」(レビ記20:10)と定めています。しかし、姦淫の罪に対する死刑の方法は述べていないのです。受け継がれてきた口述の規定や取決め(慣習)によって、石打ちの刑や絞首刑が執行されたのです。


・死刑の執行の手続き:死刑に処せられるには、二人ないし三人の証言を必要とする。一人の証人の証言で死刑に処せられてはならない。死刑の執行に当たっては、まず証人(たち)が手を下し、次に民が全員手を下す。あなた(たち)はこうして、あなた(たち)の中から悪を取り除かねばならない。(申命記17:6-7)

・口述の規定:長老たちによって受け継がれて来た戒めのことです。文字で記述された律法の規定と同様の効力がありました。

・女(婦人)よ:この呼びかけ方は必ずしも非礼ではないのです。むしろ敬意を表しています。日本語訳の「女」は「婦人」と訳される言葉です。イエス様は母マリアにもこの言葉(婦人)を用いておられます。ヨハネ2:4;19:26を参照して下さい。

(メッセージの要旨)

*信仰の指導者たちは律法を「愛」によって解釈されるイエス様に激しく反発していました。姦淫している現場で捕えられた女性をわざわざイエス様の前に連れて来たのです。証人も確保しているのです。石打ちの刑を執行する準備は整っているのです。あえてイエス様に見解を求めているのです。律法の規定に反する言質(げんち)を引出し、告発することを画策しているからです。姦淫の現場で捕えられたのは女性だけではないのです。相手の男性もいたはずです。女性と同じように男性も公衆の前で罰を受けなければならないのです。女性だけを連れて来て罰を与えようとしているのです。イエス様は彼ら自身がすでに律法の規定に違反していることをご存じなのです。石打ちの刑の執行にあたって「罪を犯したことのない者が、まず、この女(婦人)に石を投げなさい」と言われたのです。年長者から始まって、一人また一人その場所から去ったのです。その中に律法学者たちやファリサイ派の人々もいたのです。ユダヤ教の基本となる十戒には「わたしの他に神があってはならない」、「いかなる像も造ってはならない」、「主の名をみだりに唱えてはならない」、「安息日を聖別せよ」、「父母を敬え」、「殺してはならない」、「盗んではならない」、「偽証してはならない」、「隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなどを一切欲してはならない」が記述されています(出エジプト記20:3-17)。完全に守っている人は誰もいなかったのです。イエス様は女性に「わたしもあなたを罪に定めない。・・もう罪を犯してはならない」と言われたのです。


*教会で取り上げられることが少ないテーマです。自分たちの罪を不問にして他の人の罪を告発する人間の偽善性が鋭く描かれています。ある女性が姦通の罪で捕らえられました。律法は誤った告発を防ぐために二人以上の証人を義務付けています。ファリサイ派の人々や律法学者たちは証拠(証言)を得ているのです。石打の刑を適用すべきであると主張しています。ただ、刑の執行方法は女性が婚約しているか、結婚しているかによって異なるのです。女性が婚約者していれば相手の男性と共に石打の刑が執行されるのです(申命記22:23-24)。結婚していれば両者は共に殺されるのです。ただ、その方法について規定が設けられていないのです。「口述の規定」では姦淫の罪を犯した婚約者は石打の刑、同様の罪を犯した妻は絞殺となっているのです。女性は婚約者として犯した罪を問われているのです。相手の男性も罰を受けなければならないのです。ところが、告発者たちは男性の罪を不問にしているのです。当時、女性は男性の従属物でした。男性よりも不公平に裁かれたのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちにとって女性の罪の告発は手段なのです。何とか訴える口実を見つけるために、イエス様に執拗(しつよう)に見解を求めたのです。イエス様はこれらの人の悪意を見抜いておられるのです。律法に対して律法を持って反論されたのです(申命記17:7)。裁こうとする人々はすべて男性です。当時の社会状況を反映しているのです。しかも、裁きの中に「正義」が見られないのです。何よりも、自分が偽善者でないかを吟味するのです。

*多くの人は女性の犯した大きな罪とイエス様の無条件の赦しに注目するのです。それは正しいのです。他にも重要な視点が幾つかあるのです。女性が犯した罪は神様への冒涜(ぼうとく)でも、窃盗などの律法違反でもないのです。姦淫なのです。信仰共同体は性に関する規定-婚前交渉、堕胎、姦淫、離婚など-の違反者には迅速(じんそく)な裁きを行うのです。生死に直結する罰も執行されるのです。ユダヤ人の社会では女性が性的な罪を犯した場合はいつでも女性の側の霊性や道徳心の欠如が問題になったのです。男性の熱情は女性の魅力による誘惑であると考えられていました。ファリサイ派の人々や律法学者たちはモーセの座について罪人を裁いているのです。ところが、告発したのは女性だけなのです。相手の男性を無罪放免にしているのです。不公平な裁きが行われているのです。イエス様は自分たちの都合に合わせて律法を解釈するファリサイ派の人々や律法学者たちの偽善と不正を明らかにされたのです。これらの人は神殿では「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でなく、また、この徴税人のような者でないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と祈るのです(ルカ18:11-12)。信仰心の篤さを誇っているのです。しかし、心の内は、不信仰と放縦に満ちているのです。神様はすべてをご存じなのです。このような空しい祈りを拒否されたのです。「福音の真理」が歪(ゆが)められ、救われるべき罪人たちが「神の国」(天の国)から遠ざけられているのです。

*女性が罪を犯したことは明白です。律法に従ってこの罪人は罰せられるのです。ところが、イエス様は石打の刑の執行に疑問を呈されたのです。裁く人々の側に正義がなかったからです。ファリサイ派の人々や律法学者たちは律法が定める宗教儀式の遂行には熱心です。しかし、律法を恣意的(しいてき)に解釈するのです。他の人々の罪に厳しく対応し、自分たちの罪には寛大なのです。後に、イエス様はこれらの人を偽善者と呼び「正義、慈悲、誠実をないがしろにしている。これこそ行うべきことである」と言って、激しく非難されたのです(マタイ23:23)。罪を犯さない人は誰もいないのです。ところが、自分の罪に気づいていないのです。イエス様は罪人を救うために地上に来られたのです(ルカ5:31-32)。憐れみによって死の淵にあった女性が生かされたのです。「律法主義」とそれに伴う偽善が横行しているのです。人間の解釈によって赦されない罪の範疇(はんちゅう)が拡大しているのです。神様に代わって、資格のない人々が審判者となって罪人を裁いているのです。女性は罪の赦しを願い出た訳ではないのです。集まった人々も「悔い改め」を表明していないのです。イエス様は罪人たちに福音(良い知らせ)を告げられたのです。先ず、姦淫の罪を犯した女性が赦されたのです。「これからは、もう罪を犯してはならない」と命じられたのです。裁きに関わった人々に隠れた罪の有無を問われたのです。罰を与えることなく、一人一人に後の「生き方」を委ねられたのです。自分のためにも人を裁いてはならないのです(マタイ7:1)。

*イエス様は女性が犯した姦淫の罪を認めておられるのです。ただ、罪を犯したことを責めるとか、その理由や原因を尋ねられることはなかったのです。女性から悔い改めの言葉を聞かれた訳でもないのです。イエス様は「わたしもあなたを罪に定めない」と言われたのです。罪の赦しが一方的に宣言されたのです。女性は石打ちの刑で処刑されるところを救われたのです。律法学者たちやファリサイ派の人々は罪人を裁くことに熱心なのです。イエス様は罪に死んでいた人々に再び命を与えられるのです。罪を赦された人々は新しく生まれ変わるのです。イエス様を「救い主」と仰ぎ、同じ過ちを繰り返さないように歩むのです。さらに、イエス様は信仰の指導者たちの偽善と不公正を明らかにされたのです。傲慢な人々に心からの悔い改めと謙虚さを求められるのです。また、ユダヤ教と女性の社会的地位との関係を浮き彫りにされたのです。石打の刑の執行に関わった人々の罪が問われなかったのです。キリストの信徒たちは様々な罪を犯しているのです。その罪が公になっていないだけなのです。神様の目には罪人であることに変わりはないのです。教会は罪人の集まりなのです。ところが、そのことを認識している人は少ないのです。むしろ、「救い」に与った自分の信仰心を誇っているのです。石打ちの刑に参加した人々のように振舞っているのです。これこそ大きな罪なのです。イエス様は弟子たちの高慢を厳しく戒められたのです。彼らの「救い」が危うくなるからです(マタイ18:1-5)。教会は自らを低くし、罪人たちの再出発に全力を尽くすのです。

2025年01月26日

「内側を清めなさい」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書7章1節から23節


ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。― そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』


あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」 


それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」† イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

(注)

・ファリサイ派:ユダヤ教の律法を日常生活に厳格に適用したユダヤ人グループです。イエス様に敵対していました。

・律法学者:文書管理を行う官僚です。イエス様と対立する指導者たちの一翼を担っていました。

・昔の人の言い伝え:長老たちが口述した慣習のことです。ファリサイ派の人々は口伝(くでん)によって受け継がれて来た戒めに律法と同様の効力を付与したのです。

・コルバン:ヘブライ語で神様にささげた献げ物のことです。新約聖書ではギリシャ語の音訳で表記されています。

・神の言葉:十戒及び律法のことです。

・この民は口先ではわたしを敬うが・・:イザヤ書29:13からの引用です。預言者イザヤは南王国ユダ(エルサレム)の王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に預言者として登場しました(イザヤ書1:1)。神様はイザヤを通して「むなしい捧げものを持ってくるな」、「・・悪を行うことをやめ、・・搾取する者を懲らしめ、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ」と警告されたのです(イザヤ書1:10-17)。

・父と母を敬え:新約聖書にも具体例が記述されています。

やもめに子や孫(たち)がいるならば、これらの者に、まず自分の家族を大切にし、親に恩返しをすることを学ばせるべきです。それは神に喜ばれることだからです。身寄りがなく独り暮らしのやもめは、神に希望を置き、昼も夜も願いと祈りを続けますが、放縦な生活をしているやもめは、生きていても死んでいるのと同然です。やもめたちが非難されたりしないように、次のことも(子や孫たちに)命じなさい。自分の親族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています(1テモテ5:4-8)。

(メッセージの要旨)

*イエス様のファリサイ派の人々や律法学者たちへの厳しい非難は新約聖書の至る所に見られるのです。これらの人は信仰心の篤さを装(よそお)っているのです。しかし、心の内は不信仰と欺瞞に満ちているのです。イエス様に「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」と尋ねたのです。衛生上の問題を取り上げているのではないのです。弟子たちが通りで異邦人たちと偶然に接触したことなどに伴う汚れを清めないことへの宗教的な批判なのです。イエス様は弟子たちが「言い伝え」を守らなかったことを認めておられるのです。元々、手を洗うことに信仰的な意味はないのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちは人間の「言い伝え」を厳格に遵守するのです。ところが、最も大切な戒め-正義、慈悲、誠実を実行すること-を軽んじているのです。両親のために蓄えたお金も巧みに献金させるのです。「神様に献げる」と宣言すれば責任は免除されると教えているのです。神殿収入を増やす-実質的に彼らの私腹を肥やす-ために人々の信仰心を利用するのです。神様を口先だけで敬っているのです。イエス様が言われたように偽善者なのです。人は見えるところからしか判断できないのです。神様はその人の心の内をご覧になられるのです。「むなしくわたしをあがめている」と言われるのです。神様を欺くことは重大な罪です。決して赦されないのです。厳しい罰が下されるのです。見せかけの信仰心はその人の「救い」を妨げているのです。イエス様は弟子たちにも「内側を清めなさい」と言われたのです。

*イエス様はガリラヤのカファルナウムを拠点に宣教されていました。「教え」と「力ある業」は人々の間で評判になっていたのです。エルサレムから派遣されたファリサイ派の人々や律法学者たちはユダヤ教に精通し、策略にも長けていました。イエス様を公衆の面前で貶(おとしめ)めるために機会を窺(うかが)っていたのです。イエス様の弟子たちの中に汚れた手-洗わない手-で食事をする者たちがいたのです。絶好の機会が訪れたのです。「違反」を指摘したのです。イエス様を間接的に非難しているのです。ユダヤ人たちには二つの「律法」があるのです。一つは旧約聖書に記述されている「モーセの律法」です。もう一つはモーセに始まり、祭司アーロンと彼の息子たち、長老たち、民族の指導者ヨシュア、預言者たちに連綿と受け継がれて来た「言い伝え」なのです。「モーセの律法」には特別の場合を除いて食事の前に手を洗うことが明記されていないのです。そこで「言い伝え」によって弟子たちを批判しているのです。イエス様は「モーセの律法」と「口述の規定」の違いを明確にされるのです。預言者イザヤの言葉によって反論されたのです。イエス様は弟子たちへの指摘を否定されないのです。衛生上の問題としては正しいからです。一方、ファリサイ派の人々や律法学者たちを偽善者と呼ばれたのです。これらの人は「神様の御名」によって不正を働いているからです。神様はすべてをご存じなのです。イエス様は指導者たちの不信仰に憤(いきどお)られただけではないのです。人々の苦しみや悲しみの元凶である神殿政治と闘われたのです。

*イエス様はファリサイ派の人々や律法学者たちが犯している大きな罪を告発されたのです。神様はモーセを通してご自身のお考えを語られました。「モーセの律法」の中に「父と母を敬え」(出エジプト記20:12) -十戒-と「父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである」(レビ記20:9) -律法-という規定が設けられたのです。さらに「モーセの律法」には神様に捧げ物をする場合の詳細が定められています(レビ記27:2-33)。彼らはモーセをユダヤ民族の偉大な指導者として認めているのです。ところが、これらの人には神様への真実の愛がないのです。尊大にも神様の「戒め」の上に人間が作った「口述規定」を置いているのです。「コルバン」は宗教儀式で用いられる専門用語です。この言葉によって「神様に捧げること」が宣言されるのです。捧げ物は神様に属するのです。実質的には神殿政治を担う人々に分配されるのです。両親の世話をする義務さえも免除するのです。イエス様は汚れについて直接言及されていないのです。しかし、ファリサイ派の人々や律法学者たちの偽善を白日の下に晒(さら)されたのです。「神様の主権」をないがしろにするような人間の「言い伝え」の無効が宣言されたのです。当時、高齢になった両親の窮状に無関心であることは不信仰の極みであると考えられていたのです。教会でも寡婦となった母親や祖母を持つ子供や孫に義務を果たしなさいと教えていたのです。真の信仰心はその人の「行い」によって証明されるのです。イエス様は弟子たちにも偽善に陥らないように警告されたのです。

*偶然であれ、何であれ、人が他の人々(異邦人を含む)や様々な物に触れることは避けられないのです。その場合、他の人の汚れが自分に移ると考えられていました。汚れを取り除くために、身体をはじめ物品などを入念に清めたのです。人間の汚れの原因は外側ではなく内側にあるのです。イエス様は他にも具体例を挙げておられます(マタイ23)。ファリサイ派の人々や律法学者たちは自分たちも実行できない「言い伝え」や「律法」を人々に強いているのです。宴会では上座に、会堂では上席に座り、広場で挨拶され、先生や教師と呼ばれることを好むのです。信仰を言葉で語るだけで「行い」によって証しすることはないのです。人々の前でうわべだけの長い祈りをし、信仰心を誇っているのです。学識や経験を悪用して「律法」を歪曲するのです。「神殿にかけて誓っても、それに縛られることはない。だが、神殿の黄金にかけて誓ったら、それを果たさねばならない」、「祭壇にかけて誓っても、それに縛られることはない。だが、その上の供え物にかけて誓ったら、それは果たさねばならない」と言うのです。貧しい人々を搾取し、保護すべきやもめたちを食い物にしているのです。イエス様は「師は一人だけで、あとは皆兄弟(姉妹)なのだ」、「誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」、「まず、杯の内側を清めよ。そうすれば、外側も清くなる」と明言されたのです。最も重要な戒め‐神様と隣人を愛すること‐をないがしろにする人々、外側は正しく見えても、内側が偽善と不法に満ちている人々は「神の国」に入れないのです。

*聖書が伝えるイエス様のご生涯を正しく理解することはキリストの弟子にとって決定的に重要です。イエス様は貧しい人々、体の不自由な人々、社会の隅に追いやられた人々の側に立たれたのです。誰に味方され、誰に反対されたかはキリストの信徒たちの判断基準となるのです。イエス様の弟子を公言して、虐げられた人々や社会的弱者の窮状に目を背けることは自己矛盾なのです。「救い主」と信じている人々に中立はないのです。罪を現行の法規や道徳的な範囲に限定して理解している方も多いのです。イエス様の「教え」や「生き方」を変容して教えること、社会の不正に加担し、あるいは不正を見逃すこと、正義のために何もしないことも罪なのです。イエス様はこうした弟子たちに「その心は、わたしから遠く離れている」と言われるのです。群衆がイエス様に「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか。」と尋ねた時、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と答えられたのです(ヨハネ6:28-29)。キリスト信仰とはイエス様が進まれた道を辿(たど)ることです。貧しい人々に食事を提供し、裸の人々に服を着せ、弱い人々を守り、あらゆる抑圧と搾取の構造を打ち砕くことなのです。ただ、そのように生きることは簡単ではないのです。旧約聖書の預言者たちは苦難と迫害を経験したのです。原始キリスト教会の信徒たちはそれらを耐え忍んだのです。この世の富や権力から距離を置くのです。「誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と祈るのです(マタイ6:13)。イエス様の御跡を辿るのです。

2025年01月19日

「幸いを得なさい」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書5章1節から20節

イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。義(正義)に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。義(正義)のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

「わたしが来たのは律法や預言者(たちの言葉)を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義(正義)が律法学者(たち)やファリサイ派の人々の義(正義)にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

(注)

・群衆:直前の4:23-25にありますように、イエス様の奇跡(あらゆる病気を癒されたこと)を聞いて、ガリラヤ、デカポリス(主にガリラヤ湖の南東地域)、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から大勢の群衆が来て、イエス様に従ったのです。エルサレムの指導者たちが民衆を掌握するまでは、人々はイエス様の教えに共感していたのです。聖書地図を参照して下さい。

・心の貧しい人々は幸いである:ルカによる福音書6:21では「貧しい人々は、幸いである」となっています。イエス様は旧約聖書(イザヤ書61:1-2;58:6)を引用し、ご自身の使命が貧しい人々や虐げられた人々の救いにあることを宣言されたのです(ルカ4:16-21)。聖書は全体的に理解することが大切です。可能でしたら様々な聖書訳を比較して下さい。より一層意味が深まります。

・天の国:神様の支配、神様の働きのことです。「神の国」と同じです。マタイは「神」を用いて表現することを避けて「天の国」と呼んだのです。ただ、「神の国」(マタイ12:28、19:24、21:31-43を使っている個所もあります。

・律法:神様のご意志による教えと戒めのことです。旧約聖書の最初の五巻-創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記-を指しています。「モーセ五書」と呼ばれています。

・律法学者たち:文書を専門に取り扱う官僚であり、学識を有していました。しかし、イエス様に敵対したのです。

・ファリサイ派の人々:ユダヤ教の教えを人々の日常生活に厳格に適用したのです。イエス様に反対するグループの一つです。

・正義の神様について:

■それゆえ、主は恵みを与えようとして/あなたたちを待ち/それゆえ、主は憐れみを与えようとして/立ち上がられる。まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人(人々)は。(イザヤ書30:18)

■わが民の中には逆らう者がいる。網を張り/鳥を捕る者のように、潜んでうかがい/罠を仕掛け、人を捕らえる。籠を鳥で満たすように/彼らは欺き取った物で家を満たす。こうして、彼らは強大になり富を蓄える。彼らは太って、色つやもよく/その悪事には限りがない。みなしごの訴えを取り上げず、助けもせず/貧しい者を正しく裁くこともしない。これらのことを、わたしが罰せずに/いられようか、と主は言われる。このような民に対し、わたしは必ずその悪に報いる。恐ろしいこと、おぞましいことが/この国に起こっている。預言者は偽りの預言をし/祭司はその手に富をかき集め/わたしの民はそれを喜んでいる。その果てに、お前たちはどうするつもりか。(エレミヤ書5:26-31)

■主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。それゆえ、牧者たちよ。主の言葉を聞け。わたしは生きている、と主なる神は言われる。・・(エゼキエル書34:1-8)

(メッセージの要旨)

*イエス様は旧約聖書と当時のユダヤ人たちが置かれていた社会的、経済的、政治的状況とを連動させて福音を語られたのです。歴史的背景を捨象して「神の国」を正しく理解することは出来ないのです。今日は「山上の説教」の基本となる冒頭の箇所から学びます。九つの幸いは終末論的です。しかし、聞いている人々にとって現実的な慰めの言葉となっているのです。イエス様はいろいろな病気や苦しみに悩む人々、悪霊に取りつかれた人々、てんかんの人々、中風の人々などあらゆる病人を癒し、「力ある業」を通して「神の国」が到来していることを証ししておられたからです。詩篇は神様に祝福される人々を「いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人」と表現しています(詩編1:1-2)。神様はご自身に聞き従い、教えを守る人々を祝福されるのです。箴言(しんげん)も同様の趣旨を記述しています(箴言8:32-34)。心の貧しい人々、悲しむ人々、柔和な人々、義に飢え渇く人々、憐れみ深い人々、心の清い人々、平和を実現する人々、義のために迫害される人々、ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる人々は幸いなのです。これらの人はイエス様の教えに従い、困難に直面しながら「神の国」の福音(良い知らせ)を宣べ伝えているからです。キリスト信仰は信じることで完結しないのです。何よりも「神の国と神の儀」を求めるのです。「神様と隣人」を愛して生きることなのです。


*弟子たちは「救い」の恵みに「行い」を持って応えるのです。神様のご計画-新しい天地創造-の完成のために全力を尽くすのです。一方、この世の権力者たちや富に執着する人々は「神の国」の広がりに敵対するのです。弟子たちは徹底的に迫害されているのです。絶望の淵をさまよい、深い悲しみと無力感に襲われているのです。神様は最も重要な戒め‐神様と隣人を愛すること‐のために悩み、苦しむ人々を決して見捨てられないのです。イエス様は「天には大きな報いがある」と明言し、「神様の約束」を信頼して歩むように教えられたのです。「心の貧しい人々」とは「誇るものがない人々」のことではないのです。迫害に苦しむ人々の心の状態を表しているのです。大きな力の前に「気力を打ち砕かれた人々」のことです。預言者イザヤは「主は・・わたしを遣わして/貧しい人(抑圧されている人々)に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人(捕虜となっている人々)には自由を/つながれている人(牢獄にいる人々)には解放を告知させるために」と宣言するのです(イザヤ書61:1)。さらに、「わたしたちの神が報復される日を告知して 嘆いている人々を慰め シオンのゆえに嘆いている人々に 灰に代えて冠をかぶらせ 嘆きに代えて喜びの香油を 暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために」と言うのです(イザヤ書61:2-3)。「悲しむ人々は幸いである・・」は個人への慰めの言葉ではないのです。神様は外国の支配下にあって生きる気力が萎(な)えている人々を再び立ち上がらせて下さるのです。


*「柔和な・・」が謙遜な人々、穏やかな人々のこととして理解されているのです。ローマ帝国の支配下にあって、なす術(すべ)もない「無力な人々」のことなのです。神様はイスラエルの民に「わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得、あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、それを得ることができるであろう」と言われたのです(申命記4:1)。掟と法を守るユダヤ人たちが虐げられたままに捨て置かれることはないのです。必ず約束の土地を与えて祝福して下さるのです。「義に飢え乾く・・」も個人的な信仰心のことではないのです。「義」と訳されている言葉が「神様との正しい関係」として解釈されているのです。元の言葉は「正義」と訳せるのです。イスラエルの民は「モーセ五書」、「預言書(エレミア書など)」、「詩編」に親しんでいました。「正義」の遂行が神様のご命令であることを良く知っていたのです(創世記18:19)。イエス様もまた「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と言われたのです(マタイ6:33)。イエス様の弟子として「正義」の確立を求めれば、不正に利益を得ている人々は必至で抵抗するのです。既得権益を守るために「義に飢え乾く人々」を迫害するのです。「憐れみ深い・・」は「憐れみ深くあること」の難しさを教えているのです。裁くよりも赦すことが出来る人たちは「憐れみ」を受けるのです。「心の清い・・」はこの世の悪から遠ざかり、主の教えを愛し、昼も夜も口ずさむ人々のことです。いつも神様を見ているのです。祝福されるのです。


*「平和を実現する・・」はキリストの信徒たちに広い視野と判断力を求めるのです。イエス様は「平和を維持する人々は幸いである」と言われなかったのです。抑圧や搾取のない世界を実現するために奮闘する人々は祝福されるのです。正義と公平を欠いた「平和」は偽りなのです。現状を維持するために「平和」を主張する人々は偽善者なのです。イエス様が判断される基準は宗教的な行事への参加でも、聖書の言葉を暗記することでも、教会に毎週出席することでもないのです。貧困や飢えに悩まされている人々をその窮状から救うために、不当に拘束されている人々のために何をしたかなのです。イエス様は貧しい人々や虐げられた人々とご自身を同一視されたのです。「この最も小さな者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」と言われるのです(マタイ25:31-41)。キリスト信仰は誤解されているような「個人的な救い」を信じることだけではないのです。日本はもとより世界の抑圧と搾取に苦しむ人々に目を向けることでもあるのです。神様の子供たちがもっと豊かに暮らせるように「平和の実現」に取り組むことなのです。信仰には「行い」が伴わなければならないのです。高い倫理観を保持することは当然のことです。「神様の御心」に沿った生き方を貫くのです。いずれも簡単なことではないのです。不正と不公平と戦争によって利益を得ている人々から誘惑されるからです。これらの人に同調することを拒否すれば迫害されるのです。イエス様は弟子たちに繰り返し覚悟を求められたのです(ルカ9:57-61)。


*イエス様の「生き方と教え」は本質的にこの世と相容れないのです。「神様の御心」を実行すれば相応の犠牲が伴うのです。キリスト信仰は誤解されているような「安価な恵み」ではないのです。「地の塩」とはキリスト信仰を日常生活において証しすることです。個人的な信仰心を深めるだけでなく、社会や組織の中に正義を確立することなのです。自らの立場を鮮明にして貧しい人々や虐げられた人々と共に歩むのです。イエス様は「山上の説教」を締め括るに際して弟子たちに警告をされたのです。「滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出すものは少ない」と言われるのです(マタイ7:13-14)。「狭い門」から入る人々(「山上の説教」に挙げられている人々など)に「救い」が訪れるのです。「主よ、主よ」と言う人が皆「神の国」に入る訳ではないのです(マタイ7:21)。人は信仰によって「救い」に与るのです。しかし、「行い」を欠いている信仰はそれだけでは死んでいるのです(ヤコブ書2:17)。イエス様は「神様の御心」を妨げる指導者たちと闘われたのです。これらの人の罪を公然と非難されたのです。敵対する人々はローマの権力を利用し、イエス様を「政治犯」として十字架上で処刑させたのです。今日においても、御跡を辿(たど)る人々が迫害されているのです。イエス様はご自身に倣(なら)う人々を「幸いである」と言われるのです。「山上の説教」はキリスト信仰に生きる人々を慰め、励まし、祝福しているのです。

2025年01月12日

「イエス様は神様のお言葉」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書1章1節から18節

初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

神から遣わされた一人の人がいた。その名は(洗礼者)ヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格(力)を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(洗礼者)ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

(注)

・言(ことば):ギリシャ語を音訳した「ロゴス」を日本語に訳したものです。神様が天地を創造された時に発せられた「言葉」のようなものではなく、「ロゴス」はギリシャ的思考を色濃く反映しています。宇宙に秩序を与え、人間の心を神様へと導く神的な理性のことです。イエス様は「ロゴス」であり、「神様の知恵」なのです。

・天地創造:「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である 」(創世記1:1-5)。

・イエス様によるご自身の定義:それぞれにおいて、キリスト信仰が簡潔に要約されているのです。

   
*わたしは命のパンである(ヨハネ6:48)
*わたしは世の光である(ヨハネ8:12)
*わたしは門である(ヨハネ10:9)
*わたしは良い羊飼いである(ヨハネ10:11)
*わたしは復活であり、命である(ヨハネ11:25) 
*わたしは道であり、真理であり、命である(ヨハネ14:6)
*わたしはまことのぶどうの木(ヨハネ15:1)

・神の国:神様の主権、支配のことです。死後に行く「天国」のことではありません。以下は「神の国」の到来を告げています。

■イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人(人々)に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人(人々)に解放を、/目の見えない人(人々)に視力の回復を告げ、/圧迫されている人(人々)を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた(ルカ4:16-21)。

■(洗礼者)ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人(人々)は見え、足の不自由な人(人々)は歩き、重い皮膚病を患っている人(人々)は清くなり、耳の聞こえない人(人々)は聞こえ、死者(たち)は生き返り、貧しい人(人々)は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」(マタイ11:2-6)。

・パウロの「神の国」に関する認識:社会性よりも個人の内面に言及しています。

「正しくない者(悪事を働く人々)が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをして(だまされて)はいけない。(性的に)みだらな者(たち)、偶像を礼拝する者(たち)、姦通する者(たち)、男娼(を行う人々)、男色をする者(たち)、泥棒(をする人々)、強欲な者(たち)、酒におぼれる者(たち)、人を悪く言う者(たち)、人の物を奪う者(たち)は、決して神の国を受け継ぐことができません」(1コリント6:9-10)。

・仮現論:初期のキリスト教における異端理論の一つです。キリスト信仰をこの世-社会・経済・政治-から切り離して霊的な側面だけを強調する考え方のことです。この信仰理解によれば、イエス・キリストは地上におられた間、人間の肉体を持っておられなかったのです。ただ肉体があるように見えていただけなのです。それ故、イエス様の復活を認めなかったのです。

・今日の讃美歌は368番(讃美歌21)です。歌詞は新年にふさわしい内容です。キリストの信徒たちへ決意を促しています。インターネットの検索サイトでこの番号を入力すれば視聴することができます。

1 新しい 年を迎えて
  新しい 歌をうたおう。
  なきものを あるがごとくに
  呼びたもう 神をたたえて
  新しい 歌をうたおう。

2 過ぎ去った 日々の悲しみ
  さまざまな うれいはすべて
  キリストの み手にゆだねて
  み恵みが あふれるような
  生きかたを 今年はしょう。

3 みことばに はげまされつつ
  欠け多き 土の器を
  主の前に すべて捧げて、
  み恵みが あふれるような
  生きかたを 今年はしよう。

4 自分だけ 生きるのでなく
  みな共に 手をたずさえて、
  み恵みが あふれる国を
  地の上に 来たらすような
  生きかたを 今年はしよう。

(メッセージの要旨)

*今日の聖書の個所はヨハネの福音書全体の序章というだけでなく、キリスト信仰の基本的な考え方を示しているのです。福音書記者ヨハネは「初めに言(ことば)があった。・・」において、言(イエス・キリスト)が天地創造に先立って存在されていたことを紹介しているのです。イエス様も「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。・・アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」と言われたのです(ヨハネ8:56-58)。言はこの世に「光」として来られたのです。「世の光であること」を宣言されたのです。神様が遣わされた「光」として罪に満ちた地上の闇を照らしておられるのです。言は肉となったのです。イエス様の「力ある業」を通して神様の恵みと真理が人々に届けられているのです。誰の目にも見えるのです。ところが、弟子たちでさえ「イエス様が命のパンであること」を受け入れられないのです。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられるようか」と言って、イエス様から離れて行ったのです(ヨハネ6:60-66)。イエス様は「永遠の命」に至る門です。道であり、真理であり、命なのです。イエス様に対する応答がその人の「救い」を決定するのです。洗礼者ヨハネは人々が「知的信仰」に陥(おちい)らないように警告しているのです。「イエス様の実像」を事前に証ししたのです。新しい年が始まっています。四福音書が心血を注いで伝える「救い主」イエス様について学びます。「お言葉」を心に刻み、「生き方」に倣(なら)って歩むのです。

*洗礼者ヨハネは「光」として来られたイエス様の先駆けとして使命を果たすのです。イエス様の宣教内容を前もって知らせたのです。後に、イエス様は「ヨハネより偉大な者はいない」と言われたのです(ルカ7:28)。ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯で洗礼を授けていました。洗礼を申し出た群衆に「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。・・斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と明言したのです(ルカ3:1-9)。洗礼者ヨハネは最後の審判が近づいていることを公言し、「救い」に与るためには「悔い改め」が必要であることを警告したのです。大切にされて来た信仰心の篤さや祭司による儀式の順守に言及するよりも、隣人愛の欠如と社会正義の軽視を問題にしたのです。「神の国」の意味が先取りされているのです。群衆は「わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねました。洗礼者ヨハネは「下着を二枚持っている者は(誰でも)、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も(誰でも)同じようにせよ」、徴税人たちにも「規定以上のものは取り立てるな」、兵士たちには「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と答えたのです。しかも、領主ヘロデ・アンティパスの律法違反と様々な悪事を公然と告発したのです(ルカ3:10-20)。しかし、ヨハネはイエス様について「わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」と言うのです(ルカ3:16)。

*ユダヤ人の多くが神殿政治の下で困窮生活を強いられ、ローマ帝国の当局者や兵士たちから乱暴な扱いを受けていたのです。民衆は約束の「救い主」を待望していたのです。イエス様の宣教活動はこのような政治状況にあって行われたのです。今日においても、キリスト信仰を標榜する人々の信仰内容は変わらないのです。「裁きは一切子に任せておられる」(ヨハネ5:22)、「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10:30)と言われたお方を「救い主」として信じているのです。ただ、「信仰の証し」を求められるのです。最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実行しているかが問われているのです。信仰以外に「責務」があることに驚かれる方も多いのです。しかし、これは新しい解釈ではないのです。2000年の間受け継がれて来たキリスト信仰における基本的な教えなのです。イエス・キリストを「救い主」として信じるだけでは「永遠の命」に与れないのです。信仰には「行い」が不可欠なのです。「救い」は神様と隣人を愛して生きた人々が賜(たまわ)る祝福なのです(マタイ25:31-46)。ところが、教会の多くが「神の国」の福音を個人の「霊的な救い」、「罪からの救い」として狭義に解釈しているのです。イエス様はローマ帝国の圧政とそれに協力するユダヤ人指導者たちの不信仰と腐敗を批判されたのです。人々の「全的な救い」に心を砕かれたのです。貧しい人々や虐げられた人々の苦しみや悲しみを担われたのです。この事実から目を逸らしてはならないのです。「イエス様の実像」はキリスト信仰の原点なのです。

*「言は肉となった」のです。ところが、「キリスト仮現論」はイエス様が地上に生きられたように「見える」、イエス様は人間社会に住まわれたように「見える」と主張して、イエス様が人(肉)となって、この世に来られた事実を否定するのです。イエス様は霊的指導者であって、社会の不正や不公平に抗議することなく、個人的な道徳心や信仰心の向上にのみ関心を持っておられたと説明するのです。こうした信仰理解は単なる事実認識の違いでは済まされない深刻な結果をもたらしているのです。イエス様がご生涯を通して深い関心を寄せられた最も小さな人々-貧しい人々や虐げられた人々-への無関心を信仰の名によって正当化しているのです。「パウロの神学」が誤って用いられていることも要因の一つです。パウロの宣教活動はイエス様が政治犯として十字架上で処刑されてからおよそ10年後に始まりました。ローマの市民権を持っていたパウロは、圧政と過酷な税に苦しむユダヤ人たちに「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう」と言うのです(ローマ13:1-2)。イエス様の現状認識とは極めて異なっているのです。確かに、パウロは「復活の主」に出会いました。しかし、イエス様と行動を共にしたことも、直接教えを受けたこともないのです。「神の国」に対するパウロの誤解を指摘しなければならないのです。イエス様の苦難のご生涯を想起するのです。

*国の内外で聖書が出版されています。「NEW KING JAMES VERSION-1982」のように、イエス様のお言葉を「赤字」で表記しているものもあるのです。聖書の翻訳には訳者の信仰理解が反映されるのです。偏りを防ぐために脚注が付けられることもあるのです。ある教会では担当者が福音書を朗読する時、出席者は全員起立して御言葉を聞くのです。読み終えると会衆がそろって「アーメン」と言うのです。神様の言(ことば)-イエス様-がキリスト信仰の中心に据えられているのです。イエス様は処刑され、復活した後もご自分が生きていることを数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ「神の国」について話されたのです(使徒言行録1:3)。イエス様は「神の国」を宣教するために地上に来られたのです。キリスト信仰とは「神の国」の到来を福音として信じることです。神様は御力によって正義と公平を実現して下さるのです。「死の支配」から解放して下さるのです。ただ、キリスト信仰は「安価な恵み」ではないのです。イエス様は「神様と隣人」を愛することを命じられたのです。洗礼者ヨハネはイエス様について「わたしよりも優れたお方」と言っています。ペトロやパウロが優れていたとしても「遣わされた者は遣わした者に勝らない」のです(ヨハネ13:16)。年の初めに368番を歌うのです。「新しい生き方」を決意するのです。「神の国」の建設に参画するのです。神様は「イエス様に聞け」と命じられたのです(マタイ17:5)。今年もまた四福音書が伝える「イエス様の実像」を辿(たど)るのです。

2025年01月05日

「神の国の建設」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書1章14節から39節

(洗礼者)ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。

朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。

(注)

・ガリラヤ:エルサレムの人々から律法を軽んじる田舎として蔑まれていました。ガリラヤ湖は内陸部にある湖です。漁業が盛んな地域でした。ゼベタイは他の漁師を雇っており、比較的裕福です。

・カファルナウム:ガリラヤ湖の北西にある町です。産業の中心は漁業、農業、交易です。イエス様のホームタウンであり、宣教の拠点でした(マタイ9:1)。

・神の国:神様の全き支配のことです。神様が人間の心と社会の隅々にまで真に神様として崇められ、あらゆる価値の基準とされること、それを通して正義と平和の秩序が実現されることです。旧約聖書は神の国の到来を待ち望むイスラエルの信仰を書き記したものです。神様は自分たちをエジプト人の支配から救い出し、砂漠を経て約束の地へ導かれたのです。ご自分に頼る者を決して見捨てられないのです。どのような地上の力にも勝っておられるのです。信頼するに値するお方なのです。イスラエルは異国の支配下で弾圧され、分断され、捕囚の地に連れていかれたのです。その時も、神様は常に自分たちと共におられ、民の身の上を思い,心を痛められたのです。イスラエルはこの神様がいつの日か、必ず自分たちを解放して下さることを信じたのです。

・汚れた霊:悪霊、悪魔のことです。

・ヘロデ・アンティパスの妻:ユダヤ人歴史家ヨセフスによればヘロディアは兄弟フィリップの妻ではなく、フィリップの義理の母となっています。


・エゼキエルの預言:「・・王は嘆き/君侯たちは恐怖にとらわれ/国の民の手は震える。わたしは彼らの行いに従って報い/彼らの法に従って彼らを裁く。そのとき、彼らは/わたしが主であることを知るようになる」(エゼキエル書7:27)。7章全体をご一読下さい。

・ナザレ:ガリラヤ湖の西約24㎞にある農業を中心とする村です。

・律法学者:ユダヤ教の律法を専門的に解釈する官僚のことです。彼らの多くは、イエス様が宣教された「神の国」の福音を拒否したのです。

ヨベルの年:

あなた(たち)は安息の年を七回、すなわち七年を七度数えなさい。七を七倍した年は四十九年である。その年の第七の月の十日の贖罪日(しょくざいび)に、雄羊の角笛を鳴り響かせる。あなたたちは国中に角笛を吹き鳴らして、この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る。五十年目はあなたたちのヨベルの年である。種蒔くことも、休閑中の畑に生じた穀物を収穫することも、手入れせずにおいたぶどう畑の実を集めることもしてはならない。この年は聖なるヨベルの年だからである。あなたたちは野に生じたものを食物とする。ヨベルの年には、おのおのその所有地の返却を受ける(レビ記25:8-13)。

(メッセージの要旨)

*洗礼者ヨハネはイエス様の先駆けとして、人々に「悔い改め」を求めたのです。ヨルダン川で洗礼を授けていました。この人は権力者たちを恐れなかったのです。ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスは兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚したのです。ヨハネはこの件だけでなく、アンティパスの様々な悪事を告発したのです。アンティパスはヨハネを捕らえさせ、牢につながせたのです。最終的には首をはねさせたのです(マルコ6:14-29)。洗礼者ヨハネと入れ替わるかのように、イエス様は30歳の時に宣教を開始されたのです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音(良い知らせ)を信じなさい」と言われたのです。短いお言葉の中にキリスト信仰の真髄が要約されているのです。「時は満ち」において、エゼキエルが預言したように神様によって定められた「裁きの時」が迫っていることを告げられたのです。「神の国」は死後に行く「天国」のことではないのです。「神様の主権」が天上と地上の隅々に及ぶことです。イエス様は人々に「神の国」の到来を語るだけでなく、目に見える形で証明されたのです。様々な「癒しの業」を実行されたのです。時が来れば、この世に平和、正義、公平を実現して下さるのです。「悔い改めて福音を信じなさい」において、最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実践する人々に「永遠の命」が約束されたのです。シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネはイエス様の宣教活動を共に担ったのです。キリストの信徒たちも、一年を振り返り、どのように「神の国」の建設に参画したかを自問するのです。

*イエス様は「神の国」の到来がもたらす福音について、具体的にまた簡潔に表現されています(ルカ4:16-21)。イエス様はお育ちになったナザレでも、いつものとおり安息日に会堂に入られました。イエス様はどこに行っても安息日には礼拝を守られたのです。当時、申し出れば誰でも(旧約)聖書の朗読をすることが出来ました。一般的に、各巻は祭壇の後ろの壁面にある棚に置かれています。担当者から預言者イザヤの巻物(イザヤ書)が手渡されました。お開きになって「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人々に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人々に解放を、/目の見えない人々に視力の回復を告げ、/圧迫されている人々を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」に目を留められたのです(イザヤ書61:1-2)。イエス様は朗読された後「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われたのです。ご自身を通して「イザヤの預言」が具体化していることを明言されたのです。ユダヤ人のほとんどを占める貧しい人々に福音が優先的に届けられるのです。不当に逮捕され、牢獄につながれている人々は解放されるのです。目の不自由な人々は視力を回復するのです。圧政に苦しむ人々は自由を得るのです。聖なる50年目の年-ヨベルの年-の規定が厳格に適用されるのです。「神の国」が限定的に解釈されているのです。福音は個人的な「罪からの救い」で完結しないのです。社会と人間の「全的な救い」に及ぶのです。

*洗礼者ヨハネは牢の中で、イエス様のなさった様々な「癒しの業」を耳にしたのです。そこで、自分の弟子たちを送って「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねたのです。イエス様は「見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人々は見え、足の不自由な人々は歩き、重い皮膚病を患っている人々は清くなり、耳の聞こえない人々は聞こえ、死者たちは生き返り、貧しい人々は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人々は幸いである」と答えられたのです(マタイ11:2-6)。「神の国」はイエス様を通して各地に広がっているのです。心身の障害はその人の「罪の結果」であると考えられていました。弟子たちも従来の教えに支配されていたのです。彼らは、生まれつき目の見えない人を見かけて、イエス様に「誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と質問したのです。イエス様は「神の国」の到来を告げる「新しい解釈」を示されたのです。「罪の結果ではなく、神様の業がこの人に現れるためである」と教えられたのです(ヨハネ9:1-3)。「神の国」の到来は人々が患っている様々な病を癒し、社会の隅に追いやられた罪人たちを罪の縄目から解き放ったのです。人間の根源的な願いである「永遠の命」への希望に確信を与えたのです。既得権益に執着し、伝統的なユダヤ教に固執する人々(指導者たち)は躓(つまず)いたのです。「神の国」の福音に激しく抵抗したのです。キリスト信仰は「神の国」の到来を福音として信じることなのです。

*「神の国」は悔い改める人々に福音となって訪れるのです。しかし、福音に与った人々には「善い行い」によって、信仰を証しすることが求められるのです。この点を曖昧にしてはならないのです。イエス様はキリスト信仰を標榜(ひょうぼう)する人々に最も重要な戒めを二つ与えられました。ある時、イエス様の教えに心打たれた一人の律法の専門家が「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と尋ねたのです。イエス様は「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」と答えられたのです。律法学者はイエス様に「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」と言ったのです。イエス様は律法学者が適切な答えをしたので「あなたは、神の国から遠くない」と言われたのです (マルコ12:28-34)。キリスト信仰とは「神の国」の福音に感謝するだけではないのです。最も重要な戒めへの責務を履行することなのです。「生き方」を通して「神様の御心」を証しするのです。信仰だけでは「救い」を得られないのです。「行い」が必須の要件だからです(ヤコブ書2:17)。

*「神の国」の到来は貧しい人々、虐げられた人々など暗闇に生きる人々にとって「希望の光」となったのです。同時に、「救い」が安価な恵みではないことを明確にしたのです。信仰には「行い」が不可欠なのです。イエス様は「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」と言われたのです(ヨハネ5:21-22)。最後の審判の判断基準についても、たとえ話によって示されたのです。飢えている人々に食べ物を、のどが渇いている人々に飲み物を提供し、旅をしている人々に宿を貸し、着る物のない人々に衣服を着せ、病気の人々を見舞い、牢にいる人々を訪ねて「神様の御心」を実践した人々が「永遠の命」(救い)に与ったのです。一方、社会の中で最も軽んじられている同胞に手を差し伸べなかった人々は「永遠の罰」を受けることになったのです(マタイ25:31-46)。キリスト信仰を神様と信徒との個人的な関係として理解されている人も多いのです。しかし、旧・新約聖書が伝える信仰の歴史は神様とユダヤ民族との関係であることを証明しているのです。イエス様が教えられた「主の祈り」も個人的な祈りではないのです。天におられる神様を崇め、富や権力の誘惑を退けて、「隣人愛」が貫けるようにと願う「信仰共同体」としての祈りなのです(マタイ6:9-13)。一年の終わりに、イエス様のお言葉と宣教活動を想起するのです。各自の信仰の軌跡を吟味するのです。怠惰であってはならないのです。新しい年に備えるのです。

2024年12月29日

「信仰の人シメオンの預言」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書2章21節から40節

八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」


また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。


親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。

(注)

・八日目の割礼:いつの時代でも、あなたたちの男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆、生まれてから八日目に割礼を受けなければならない。(創世記17:12)

・清めの儀式:主はモーセに仰せになった。・・妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚れの日数と同じ七日間汚れている。・・産婦は出血の汚れが清まるのに必要な三十三日の間、家にとどまる。その清めの期間が完了するまでは、聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない。・・男児もしくは女児を出産した産婦の清めの期間が完了したならば、産婦は一歳の雄羊一匹を焼き尽くす献げ物とし、家鳩または山鳩一羽を贖罪の献げ物として臨在の幕屋の入り口に携えて行き、祭司に渡す。・・なお産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合は、二羽の山鳩または二羽の家鳩を携えて行き、一羽を焼き尽くす献げ物とし、もう一羽を贖罪の献げ物とする。祭司が産婦のために贖いの儀式を行うと、彼女は清められる。(レビ記12:1-8)

・初めて生まれる子:主はモーセに仰せになった。「すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである。」(出エジプト記13:1-2)

・イスラエルの慰め:約束されたイスラエルの独立(解放)のことです。具体例としてバビロン捕囚からの帰還を挙げることが出来ます(イザヤ書40:1-2)。イザヤ書49:5-6、61:1-2を併せてお読み下さい。

・あなた自身も剣で心を刺し貫かれます:人々は神様の救いの業を拒否するのです。分裂の剣はマリアと家族にも苦痛をもたらすのです。ルカ8:19-21、11:27-28、12:51-53をご一読下さい。

・アンナ:祖先については申命記33:24-25を参照して下さい。預言者としての正当性が証明されています。アンナの言葉はシメオンの預言的宣言に呼応しているのです。

・ナザレ:サマリアの北に位置するガリラヤ地方の小さな村です。周辺地域から孤立しており、要衝の地でもなかったのです。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言われていたのです(ヨハネ1:46)。聖書地図をご覧下さい。

(メッセージの要旨)


*イエス様の誕生を共にお喜びします。同時に、イエス様の苦難に満ちたご生涯を想起したいのです。12月1日から、日曜日ごとに「洗礼者ヨハネの使命」、「受胎告知とマリアの賛歌」、「ヨセフが果たした役割」を学んでいます。それぞれは幼子の誕生の目的を明らかにしているのです。すべてにおいて聖霊様が働いておられるのです。イエス様はイスラエルを憎む者すべての敵から救い、権力のある者たちをその座から引き降ろし、身分の低い者たちを高く上げ、ご自分の民を罪から救われるのです。今日は「シメオンの預言」を通してイエス様のご生涯について考えます。イエス様の誕生は当時の社会情勢や政治状況の中で起こった出来事なのです。イエス様はローマ帝国が支配するユダヤのベツレヘムでお生まれになったのです。これは後のキリスト信仰を理解する上で重要な視点となるのです。幼子はヘロデ大王などの権力者たちから迫害されたのです。将来に起こる律法学者たちやファリサイ派の人々との鋭い対立を予想させるのです。「神の国」(天の国)―神様の支配―の到来は貧しい人々や虐げられた人々には「良い知らせ」なのです。ところが、支配者たちには既得権益の放棄を迫る「悪い知らせ」となるのです。イエス様は地上に分裂をもたらすために来られたのです(マタイ10:34-39)。「正義と公平」を主張されたので権力者たちが抵抗しているのです。「悔い改め」を求められたので家族の中にも対立が生じているのです。人々の「生き方」を問われたのです。シメオンは福音の真理とキリスト信仰に必要な覚悟を事前に語ったのです。


*シメオンについての詳細は不明です。ただ、信仰心篤く、律法を守り、イスラエルに「救い主」が現れるのを待ち続けていた人として紹介されているのです。神様は無名のシメオンを用いてイエス様の誕生の意味を明らかにされたのです。シメオンはイエス様が誕生された事実を知らなかったのです。ところが、聖霊様の不思議な導きによって神殿の境内でメシア(油注がれた者)‐キリスト‐に会うことが出来たのです。マリアは神殿の「イスラエル人の庭」(ユダヤ人の男性のみが礼拝することを認められた場所)に入れなかったのです。シメオンもそこには行かなかったのです。男女が共に礼拝することを許された「女性の庭」に向かったのです。それ故に、マリアとヨセフと幼子に出会ったのです。イエス様が約束の「救い主」であることを確認したのです。シメオンは神様を賛美したのです。ユダヤ人は異邦人を神様から離れた罪人として蔑んでいました。シメオンも例外ではなかったはずです。ところが、この人は幼子を抱いて「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです」と言ったのです。ユダヤ教にとって重大な教義の変更が一人のユダヤ人によって宣言されたのです。イエス様を通してユダヤ人にも、異邦人にも「救い」が訪れたのです。「救い主」が貧しいヨセフとマリアの間に誕生されたように、神様は御心を伝えるために、富や社会的地位、知恵や知識の有無ではなく、信仰をご覧になって用いられるのです。旧・新約聖書にこのような人が登場します。備えを怠ってはならないのです。


*シメオンはイエス様の誕生に神様の「救い」を見たのです。イエス様の行く末について「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ・・」と預言したのです。果たして、シメオンの預言は現実になるのです。「神の国」の福音(良い知らせ)に接した多くの人は悔い改めてイエス様を信じたのです。一方、神殿政治の中枢を担う律法学者たちやファリサイ派の人々の多くは既得権益と社会的地位に執着して悔い改めなかったのです。福音‐神様の憐れみ‐を拒否したのです。それだけではなく「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ5:31-32)と言われたイエス様を徹底的に迫害したのです。さらに、シメオンはマリアに「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と言っています。マリアが将来遭遇する苦悩を預言しているのです。イエス様は「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と言われたことがあります。マリアは意味を理解しながらも、地上の母としては遠ざかる「神の子」(息子)に心が揺れたのです(ルカ8:21)。人々の「あの男は気が変になっている」という言葉を聞いて、家族のある者たちがイエス様を取り押さえに来たのです。家族や親戚でも信仰理解は異なるのです。対立は避けられないのです。マリアは心を痛めたのです(マルコ3:21)。しかし、イエス様の兄弟の中に母マリアと共に熱心に祈る者たちもいたのです(使徒1:14)。


*ヨセフとマリアは主の律法で定められたことをみな終えたので、ガリラヤのナザレに帰ったのです。そこで、イエス様はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれて成長したのです。そして、イエス様は12歳の時(紀元後6年頃)、両親と共に「過越際」のためにエルサレムへ巡礼されたのです。ルカのみがこの出来事を伝えています。ヨセフとマリアはナザレへの帰途に着いたのです。ところが、イエス様はその群れの中におられなかったのです。神殿の境内に残っておられたのです。学者たちの真ん中に座って話を聞き、質問をしておられたのです。結局、イエス様は境内に三日間もおられたのです。論議の内容は不明ですが、人々はイエス様の賢い受け答えに驚いたのです。イエス様は捜しに戻って来た両親に「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということ知らなかったのですか」と言われました。すでに「神の子」であることを認識しておられるのです。この年、民族的にも、政治的に大きな事件が起こりました。多くの愛国的ユダヤ人は信仰に燃えていました。外国の支配者への納税を拒否するように呼びかけていたのです。彼らは代表団を派遣し、ユダヤ、サマリアを統治していたヘロデ大王の息子の一人ヘロデ・アルケラオ(紀元前4年に着任)の残虐性と統治能力の欠如をローマ皇帝アウグストに申し出たのです。皇帝は訴えを認めて領主アルケラオの地位をはく奪したのです(紀元後6年)。ユダヤはローマ帝国の直轄領となり、総督が派遣されたのです。クリスマスはイエス様の誕生の背景と苦難のご生涯を共有する機会なのです。

*シメオンはおよそ30年後(ルカ3:23)のイエス様の宣教活動を先取りして説明しているのです。イエス様はガリラヤで宣教を開始されました。その第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」でした(マルコ1:15)。イエス様はユダヤ人に「神の国」の到来を宣言することによって、「この世」の権力者が誰であっても、神様こそがイスラエルとすべての被造物の「王」であることを再確認させられたのです。これまで「神様の主権」が外国の勢力、専制君主、悪魔の力よって軽んじられて来たのです。しかし、時は満ちたのです。神様はご自身の主権を回復するために立ち上がられたのです。「救い主」(メシア)を通して支配者たちを打ち砕き、「死の支配」さえ滅ぼされるのです。イエス様は「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。今泣いている人々は幸いである。あなたがたは笑うようになる」(ルカ6:20-21)、「子供のように(自分を弱い立場にある人々の位置において)神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(マルコ10:15)と言われたのです。神様は「新しい天地創造」に着手されたのです。イエス様によってそれを証明されたのです。キリスト信仰は「良い行い」を求めるのです。隣人(貧しい人々や虐げられた人々)に奉仕しなければ「永遠の命」に与れないのです(マタイ25:31-46)。終わりの日に、ご自身と共に歩んだ信徒たちの「信仰内容」を問われるのです。

 

2024年12月22日

「ヨセフが果たした役割」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書2章1節から23節

イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者(支配者)たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者(一人の支配者)が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』(ミカ書5:1)」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」(ホセア書11:1)と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」(エレミヤ書31:15)

ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。


(注)


・ヘロデ大王:ローマ皇帝の承認を受け、ローマ人から「ユダヤ人の王」と呼ばれていました。猜疑心が強く自分の地位を脅かす人々(妻や息子たちを含めて)を容赦なく処刑しました。さらに、ユダヤ教の祭司たちも殺害したのです。これにより「最高法院」(ユダヤの最高議決機関)は弱体化したのです。幼子イエス様が成長して将来自分や後継者を脅かす存在になることを恐れたので、二歳以下の男の子をすべて殺したのです。在位は紀元前37年-4年です。

・ベツレヘム:エルサレムの南10kmにあり、ダビデ王の生誕地です(サムエル記上17:12)。


・占星術の学者:占星術や魔術を行う宮廷祭司です。彼らが持参した乳香は香りのする樹脂、没薬(もつやく)は「油を注ぐ」時、あるいは「防腐処置」を施す場合に用いられる樹脂です。東方はパルティア(現在のイランの北部)ではないかと言われています。


●星には政治的な意味が含まれています。「わたしには彼が見える。しかし、今はいない。彼を仰いでいる。しかし、間近にではない。ひとつの星(ダビデ)がヤコブから進み出る。ひとつの笏(王権を象徴する棒)がイスラエルから立ち上がり/モアブ(人たち)のこめかみ(ひたい)を打ち砕き/シェト(牧羊民族)のすべての子らの頭(の頂)を砕く 」(民数記24:17)。ローマ帝国と戦いわずか数年(紀元後132-135)ですが独立を勝ち取ったユダヤ人指導者バー・コクバは「星の子」と呼ばれています。 

・ユダヤ人の王;占星術の学者たちは幼子イエス様に敬意を表して「ユダヤ人の王」と呼んでいます。一方、ローマの総督ポンティオ・ピラトはイエス様を侮蔑してこの称号を用いています(マタイ27:11)。十字架の上に掛ける罪状書には「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いたのです。イエス様が十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読みました。ヘブライ語、ラテン語、ギリシヤ語で書かれていました。ユダヤ人の祭司長たちがピラトに「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男はユダヤ人の王と自称した』と書いてください」と申し出たのです。ピラトは「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と拒否したのです(ヨハネ19:19-22)。


・ダビデの子ヨセフ:主の天使はヨセフがイスラエルにおける最も偉大な王ダビデの子孫であることを確認しているのです。ダビデについては、サムエル記上16:1-列王記上2:12をお読み下さい。


・エレミヤの預言:ダビデ王の子ソロモン王の死後、イスラエルは南北に分裂しました。北王国はイスラエル、南王国はユダと呼ばれていました。北王国はアッシリヤによって滅ぼされたのです(紀元前722/721)。南王国はバビロン(現在のイラク)のネブカドレツアル王によって征服されました(紀元前587/586)。多くの人が捕囚の民となったのです。ラマはエルサレムの北8kmにある町です。捕囚地バビロンへの中継地です。エレミヤ書40:1をお読みください。ラケルはヤコブ(父祖アブラハムの子であるイサクの子)の妻です。イスラエルの「民族の母」の一人です(創世記30:23-24)。マタイは殺された子供たちの母親の嘆きをラケルの悲しみとして表現しているのです。


・アルケラオ:ヘロデ大王には処刑した妻と三人の子の他に、別の妻との間に三人の息子がいました。ヘロデ・アルケラオはユダヤ、サマリア、イドマヤを統治しました(紀元前4―紀元後6)。ヘロデ・アンティパスはガリラヤとペレアを支配しました(紀元前4-紀元後39)。ヘロデ・フィリップはガリラヤ湖の北部地域を管轄しました(紀元前4―紀元後33/34)。アルケラオは三人の息子の中で最も残虐な人物でした。ローマ皇帝アウグストス(紀元前27―紀元後14)は統治能力に欠けるアルケラオを廃位し、管轄地をローマ帝国の直轄領としました。


・ナザレ:ガリラヤ湖の西約24㎞にある農業の村です。

・彼はナザレの人と呼ばれる:旧約聖書にこの表現に対応する特定の個所は見当たらないのです。

(メッセージの要旨)

*神様から遣わされた天使ガブリエルはマリアと同じようにヨセフにも「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったこと」を告げたのです。イエス様の誕生においてマリアに焦点が当たるのですが、ヨセフも重要な役割を果たしているのです。マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、身ごもっていることが明らかになったのです。マリアの信仰、名誉、評判を貶(おとし)めるだけでなく、生命をも危うくするのです。ヨセフがマリアに疑いの目を向けるのは当然です。「姦淫の罪」を曖昧にすることは許されないのです。律法に従ってマリアの行為を公(おおやけ)に告発しなければならないのです。マリアは石打ちの刑で処刑される可能性があるのです(申命22:23,24)ヨセフは正しい人であると同時に憐れみ深い人でもありました。マリアのことを表沙汰(おもてざた)にしなかったのです。密かに離縁することを決断したのです。ただ、離縁を言い渡された女性が生活手段(土地など)を確保して生きることはほとんど不可能に近いのです。ヨセフはマリアに罪を償わせようとしているのです。ところが、主の天使が夢に現れて「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と言ったのです(マタイ1:20-21)。マリアは天使の受胎告知に「わたしは男の人を知りませんのに」と反論したのです。ヨセフも胎内の子が自分と無関係であることを確信しているのです。しかし、信仰によって「イエス様の誕生」の意味を理解したのです。


*ルカによればローマ皇帝アウグストス(紀元前31年-紀元後14年)、ガリラヤとユダヤを含む広大な行政区を管轄していたシリア州の総督キリニウスの時代に、ヨセフとマリアは住民登録(紀元後6-7年頃)のためにベツレヘムに滞在していました。イエス様はその時にお生まれになったのです。一方。マタイによればイエス様はヘロデ大王(紀元前4年に死亡)の統治下で誕生されたのです。その年は紀元前6年より以前ではないかと推測されています。どちらかが歴史的事実を誤認しているのです。イエス様の誕生日を特定することは困難なのです。イエス様の誕生に関わる状況についても両者の説明は異なるのです。ルカには牧歌的な雰囲気が漂(ただよ)っています。主の天使が羊飼いたちに「ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」と告げたのです。天の大軍が加わり「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ」と神様を賛美したのです(ルカ2:10-14)。ヘロデ大王の残虐行為に触れていないのです。マタイによれば、イエス様は誕生の瞬間から権力者に命を狙われているのです。誕生物語において、こうした事実に言及されることが極めて少ないのです。イエス様は「神の国」を延べ伝えてからも迫害されたのです。心を休ませられる日はなかったのです。キリスト信仰に生きる人々も試練に遭遇するのです。覚悟が求められるのです。

*ヘロデ大王は東方から来た占星術の学者たちの言葉を聞いて不安になったのです。ここで「不安を抱いた」と訳されている元の言葉はもっと驚きを表す「仰天した」と訳さなければならないのです。ヘロデ大王は自分の意志が及ばないところで、別の「ユダヤ人の王」が決定されていたことに恐れおののいたのです。人々、特に祭司長たちや律法学者たちも同じように動揺したのです。猜疑心の強いヘロデ大王は自分の地位を危うくする者に警戒したのです。妻子さえも容赦なく殺したのです。新たな「ユダヤ人の王」を早い段階で抹殺しようと画策することは当然でした。ヘロデ大王は幼子の生まれた場所とおよその年齢を特定したのです。占星術の学者たちは幼子を見つけると拝み、贈り物を献じたのです。ヘロデ大王が新たな「ユダヤ人の王」の正統性を主張するかも知れない東方の学者たちを生かして帰らすことはないのです。ところが、これらの人に「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったのです。報告をせずに自分たちの国へ帰ったのです。神様は異邦人である占星術の学者たちを助けられたのです。ヘロデ大王は占星術の学者たちが約束を守らなかったことに激怒したのです。確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を一人残らず殺させたのです。家族や親戚は激しく泣いたのです。誕生物語が恣意的に変容されているのです。脚色されたりもしているのです。「神の国」の福音は聖書が伝える厳しい現実において予告されているのです。キリストの信徒たちは真実から目を逸らしてはならないのです。


*主の天使は四度にわたってヨセフに現れました。ヨセフは真に信仰の人でした。「マリアが聖霊様によって身ごもった」という天使の言葉を信じてマリアを妻として迎え入れたのです。イエス様は信仰深いヨセフとマリアの間にお生まれになったのです。誕生物語は多くの場合この時点で終わるのです。キリスト信仰は「安価な恵み」でないのです。絶対的権力者ヘロデ大王と同じように、後の大祭司カイアファたちもイエス様を恐れたのです(ヨハネ11:48)。ローマ総督ポンティオ・ピラトを利用してイエス様を「ユダヤ人の王」として十字架上で処刑したのです。権力者たちが勝利したように見えたのです。ところが、神様はイエス様を復活させられたのです。復活を通して権力者たちの大罪を明らかにされたのです。ヨセフは信仰によってイエス様の誕生に深く関与したのです。その後も、イエス様と妻マリアを権力者たちの迫害からを守ったのです。「神様に委ねているので何もしなくても良い」と言うような信仰理解は避けなければなりません。キリスト信仰とは「神様の御心」を実現するために協力することです。マリアは天使に「わたしは主のはしため(下女)です。お言葉通り、この身に成りますように」と言ったのです。ヨセフは夢に現れた主の天使の指示に従って黙々と行動したのです。二人は「神様のご計画」のために自分たちを捧げたのです。マリアやヨセフの信仰から学ぶことは多いのです。キリストの信徒とは「神様の御心」に沿って生きる人のことです。「救い」はこの世の終わりの日‐再臨の日‐に判断されるのです。心に刻むのです。


*イエス様が降誕された当時は飢えと貧困、抑圧と反乱の時代だったのです。厳然たる事実がキリストの信徒たちに語られていないのです。理由は大きく分けて二つあります。一つはイエス様が生と死と復活を通して証された「神の国」の福音が「罪からの救い」に縮小されていることです。もう一つは指導者たちが一部の有力な信徒たちに配慮していることです。結果として、新約聖書が伝えるイエス様の実像を曖昧にしているのです。讃美歌109番「きよし、このよる・・」、114番「雨なる神には・・」も、イエス様が静かな環境に包まれ、平和の下で誕生されたような雰囲気を醸(かも)し出しているのです。しかし、事実とは明らかに異なっているのです。イスラエルの民はローマ帝国の支配と指導者たちの不信仰と腐敗に苦しめられていたのです。イエス様は「神様の御心」を実現するためにこの世に遣わされたのです。人を貶(おとし)める行動や抑圧的な政治構造と対峙されるのです。「神様の正義」を確立されるのです。イエス様は幼子の時にすでに人々の苦しみや悩みを直接経験しておられるのです。「神の国」が到来したのです。神様はすべてにおいて支配者であることを宣言されたのです。いずれ「新しい天と地」が創造されるのです。神様の子供たちは正義と公平を永遠に享受するのです。貧しい人々や虐げられた人々の目から涙が拭い去られるのです。一方、イエス様の誕生は地上の権力者や金持ちたちにとって脅威となったのです。これらの人に「悔い改め」が求められているのです。ヨセフの信仰によって福音の基礎が築かれたのです。

 

2024年12月15日

「受胎告知とマリアの賛歌」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書1章26節から38節及び46節から56節

(エリザベトが身ごもって)六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。・・・

(エリザベトが聖霊様に満たされて「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言うと)・・マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者(たち)に及びます。主はその腕で力を振るい、/思い上がる者(たち)を打ち散らし、権力ある者(たち)をその座から引き降ろし、/身分の低い者(たち)を高く上げ、飢えた人(たち)を(様々な)良い物で満たし、/富める者(たち)を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。


(注)


・天使ガブリエル:ダニエル書8:16,9:21にも登場しています。

・ナザレ:サマリアの北に位置するガリラヤの小さな村です。周辺地域から孤立しており要衝の地でもありませんでした。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言われていたのです(ヨハネ1:46)。聖書地図をご覧下さい。


・イエス様の系図:ルカ3:23-38、マタイ1:1-17に記載されています。


・神にできないことは何一つない:

■主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」(創世記18:13-14)イエス様は同様の言葉で語っておられます。マタイ19:26、マルコ14:36を参照して下さい。

・マリアの賛歌:サムエルの誕生に伴うエルカナの妻ハンナの賛歌(サムエル記上2:1-10)を併せてお読み下さい。

・神様とアブラハムの契約:「これがあなたと結ぶわたしの契約である。・・わたしは、あなたをますます反映させ、諸国民の父とする。・・」(創世記17:4-6)。


・神様によるダビデへの約束:「わたしは、・・あなたを・・わたしの民イスラエルの指導者にした。・・敵をわたしがすべて退けて、あなたに安らぎを与える。・・わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。・・」(サムエル記下7:8-16)。


・一リトラ:約326(あるいはおよそ340)グラムです。


・三百デナリオン:一デナリオンは当時の平均的労働者の一日分の賃金に相当します。一日5千円で計算すると150万円になります。高額です。

(メッセージの要旨)

*マリアは思春期を少し過ぎた頃と推測されています。ヨセフと婚約していました。一緒に住んでいないというだけで、両者は結婚と同じ義務を負っているのです。洗礼者ヨハネの母エリザベトとは親類です。すでに、天使ガブリエルは祭司の夫ザカリアに「不妊の妻エリザベトが子を宿すこと」を告げているのです。マリアはザカリアと同じように「どうして、そのようなことがあり得ましょうか・・」と天使の言葉に疑問を投げかけたのです。ところが、天使は「神にできないことは何一つない」と説明したのです。マリアはそれ以上反論することもなく「お言葉通り、この身に成りますように」と申し出たのです。マリアは真に信仰篤い女性でした。イエス様の誕生物語に言及する時、多くの場合この点が強調されて終わるのです。ところが、マリアの信仰告白はさらに続くのです。聖霊様に導かれて「マリアの賛歌」として有名な一連の言葉で主を讃えるのです。イエス様の誕生の意味が先取りされ、具体的に表現されているのです。身分の低い主のはしため(下女)にも目を留めてくださったこと、主の憐れみは代々限りなく、主を畏れる者たちに及ぶことを確信したからです。当時の社会には極めて裕福な人々と日々の生活を維持するのにさえ困難な人々がいたのです。神様はこうした現状を容認されないのです。ご自身の思いに反していることをマリアの言葉によって明確にされたのです。福音(良い知らせ)は貧しい人々や虐げられた人々に優先的に届けられるのです。クリスマスにはイエス様の誕生をお喜びすると共に「マリアの賛歌」を心に刻むのです。


*マリアは「救い主」の誕生に関わる重要人物です。ところが、それ以外にマリアの名前はほとんど見当たらないのです。福音書ではヨハネが「イエスの母」、マルコが「母マリア」と記述しています。使徒言行録に「イエスの母マリア」と一度だけ出ています(1:14)。マリアの祖先の詳細は不明です。洗礼者ヨハネの母エリザベトと親戚関係にあり、レビ族に属していたことが分かっています。イエス様の誕生において、マリアが聖霊様によって身ごもることやマリアの純粋な信仰に関心が集まるのです。キリスト信仰の真髄は「マリアの賛歌」にあるのです。マリアは天使ガブリエルから聞いた「救い主誕生」の告知をイスラエルに対する神様の憐れみ、祖先への約束の成就として理解したのです。「救い主誕生」はイスラエルの歴史の延長線上に起こった出来事なのです。マリアは神様が下女に目を留めて下さったことに感謝しているのです。「マリアの賛歌」は士師サムエルの母ハンナの祈りに似ています。長い間子供が授からなかったハンナは「わたしはこの子を授かるように祈り、主はわたしが願ったことをかなえて下さいました」と言って、神様を讃えているのです。出来事は身分の低い人々や虐げられている人々への希望の光となったのです。「救い主」は名もない、貧しい女性から誕生されたのです。この事実に注目するのです。神様はマリアによってご自身がどのようなお方であるかを明らかにされたのです。「救い」の意味を具体化されたのです。イエス様は「神様の御心」を実現するためにこの世に遣わされたのです。御業が証明しているのです。


*神様は不妊のエリザベトにヨハネ、マリアにイエス様を授けられたのです。ザカリアとマリアはヨハネとイエス様の将来について預言しています。洗礼者ヨハネはイエス様の先駆けとして道を整え、イエス様は「神の国」(天の国)-神様の支配-の宣教に生涯を捧げられたのです。神様はご自身の計画(新しい天地創造)に着手されたのです。「救い主」は貧しいヨセフとマリアの家庭に誕生されたのです。神様はへりくだった人々、貧しい人々や虐げられた人々を心にかけて下さるのです。「救いの御業」はイエス様の誕生から始まり、苦難の宣教活動と十字架刑、復活を経て再臨によって完成するのです。イエス様が誕生の瞬間から「十字架の死」を目指して歩まれたというような信仰理解は避けなければなりません。聖霊様はイエス様の誕生に関わるすべてのことを準備されたのです。「マリアの賛歌」は伝統的に「マグニフィカ―ト」と呼ばれています。キリスト信仰において「マリアの賛歌」が取り上げられることは極めて少ないのです。しかし,そこには「神の国」の本質が表現されているのです。マリアが語った内容は神様の勝利を祝う旧約聖書の詩篇のモチーフから引用されているのです。「その御名は尊く・・」はユダヤ人の賛美の歌なのです(詩篇111:9)。「主はその腕で力を振るい・・」は詩篇89:11を彷彿とさせるのです。「わたしたちの先祖におっしゃったとおり・・」は神様とアブラハムとの契約を想起させるのです。神様にダビデへの約束の成就を感謝する言葉です。「マリアの賛歌」はイエス様の宣教の視点そのものなのです。

*イスラエルにおける金持ちは人口の5パーセント以下でした。ローマ帝国の官僚たち、特権階級としての祭司たち、一握りの大土地所有者たち、そして財を成した徴税人たちでした。残りの人々は貧しく、その多くは極貧の状態にありました。ユダヤ教の文献には地方を徘徊しているホームレスの貧しい人々の集団が教会から給付されるわずかなお金を奪い合う様子が記録されています。福音書にも様々な形で貧しい人々の様子が描かれています。労働者の群れが広場に集まり、支払われる賃金の額を雇い主に尋ねることもなく、必死でその日の仕事を求めているのです。雇い主は労働者たちの間に分裂をもたらして搾取するのです(マタイ20:1-16)。ラザロというできものだらけの貧しい人が門前に横たわり、金持ちの食卓から落ちる物で空腹を満たしたいものだと思っていました。汚れた動物とされている犬もやって来てそのできものをなめたのです。この人にはもう犬を追い払う力がなかったのです(ルカ16:19-21)。イエス様の足に塗るために純粋で非常に高価なナルドの香油1リトラが使われたのです。イエス様を裏切ったイスカリオテのユダは「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って貧しい人々に鉾さなかったのか」言って、非難したのです(ヨハネ12:4-5)。ユダは貧しい人々を心にかけていなかったのですが、人々の生活状況を知ることは出来るのです。貧しい人々や虐げられた人々は「救い主」が来られることを待望していたのです。イエス様は「神の国」の福音を告げ、悔い改めた人々に「永遠の命」を与えられるのです。

*マリアは様々な困難(迫害)を恐れずに、天使ガブリエルの言葉を信じて「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と言ったのです。胎内の子(メシア)が後に「飢えた人(人々)を良い物で満たして下さることを確信したのです。神様がイエス様によって「新しい天地創造」に着手されたことを高らかに宣言したのです。イエス様の誕生の意味が「罪からの救い」に限定されているのです。キリスト信仰の本質が誤解されているのです。イスラエルの民は「エジプトの圧政」や「バビロン捕囚」に代表されるような他国の支配の下で苦しんだのです。イエス様の時代も人々はローマ帝国の圧政の下で喘(あえ)いでいるのです。「マリアの賛歌」は神様がこの世に直接介入されたことを讃えているのです。マリアとヨセフはイエス様を主に献上する儀式において、通常の羊ではなく最低限必要な山鳩一つがい(家鳩の雛二羽)を捧げているのです(ルカ2:22-24)。二人が貧しかったことを証明しているのです。イエス様は人々が貧困に苦しんでいる姿に心を痛められたのです。一方、「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今、飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる」と言われたのです(ルカ6:20-21)。マリアは聖霊様に初めから終わりまで導かれたのです。「マリアの賛歌」は年齢の若さや経験のなさを超えた「神様の啓示」です。イエス様が生と死と復活を通して証しされた「神の国」の福音の予告なのです。キリストの信徒たちは「神様の御業」に感謝するのです。

2024年12月08日

「洗礼者ヨハネの使命」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書1章5節から25節

ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。 さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父(両親たち)の心を子(たち)に向けさせ、逆らう者(たち)に正しい人(たち)の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」


民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った。その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた(隔絶された)。そして、こう言った。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」


(注)


・待降節:教派によって呼び方は異なります。イエス・キリスト(救い主)のご降誕を待ち望む期間のことです。クリスマスの4週前の日曜日から始まります。


・ヘロデ大王:イスラエルのレビ族が統治したハスモン王朝を倒し、エドム人へロデが統治するヘロデ王朝を創設しました。ローマ帝国との協調関係を維持し、エルサレム神殿の大改築を行いました。一方、猜疑心が強く身内を含む多くの人を殺害したのです。三人の息子たちと区別してヘロデ大王と呼ばれています。在位は紀元前37年から紀元前4年です。イサクの双子の息子、兄のエサウはエドム人、弟のヤコブはユダヤ人の祖先です。二つの民族の間に争いが絶えなかったのです。洗礼者ヨハネが宣教を開始した頃のガリラヤの領主ヘロデは、三人の息子の一人ヘロデ・アンティパスです。在位は紀元前4年から紀元後39年です。


・アビヤ組:祭司たちは余りも多くなったので24の組に分けられました。それぞれの組には名前がありました。一年に2週間職務を遂行したのです。それ以外はエルサレムを離れていたのです。自分の組が当番で あった時に、ザカリアのようにくじで選ばれて聖所で一日に二回香を焚くことは極めて稀です。


・アロン:モーセより三歳年上です。モーセとアロンの系図を参照して下さい(出エジプト記6:14-27)。イスラエルの祭司職の祖先です (出エジプト記40:12-15)。


・不妊の女性:エリザベトのような不妊の女性に子供が授かった例は他にもあります。アブラハムとサラの息子イサク(創世記18:1-15)、マノアとその妻の息子サムソン(士師記13:1-5)、エルカナとハンナの息子サムエル(サムエル記上1-2)をご一読下さい。


・天使(ガブリエル):神様からの公的な使節です。ダニエル書8:16、9:21にも登場します。


・エリヤの霊と力:エリヤは死ぬことなく天に上げられた偉大な預言者です(列王記下2:11)。洗礼者ヨハネはエリヤの再来と言われたのです。人々を「悔い改め」に導く使命が与えられたのです。旧約聖書の巻末マラキ書は次のように記述しています。


■見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤ(ヨハネ)をあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。(マラキ書3:23-24)
         
・救いの角:「救い主」イエス様のことです。この表現はダビデの家系に連なる支配者であることを強調しています。「主は逆らう者を打ち砕き天から彼らに雷鳴をとどろかされる。主は地の果てまで裁きを及ぼし王に力を与え油注がれた者の角を高く上げられる」(サムエル記上2:10)。詩篇18:3、132:17を参照して下さい。


・ヨセフス:祭司職の家系に生まれました。軍人、歴史家です。自伝「フラビウス・ヨセフスの生涯」を著しています。

(メッセージの要旨)


*今日から待降節が始まります。四福音書は預言者イザヤの言葉「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」(イザヤ書40:3)を引用し、ヨハネの使命について言及しています。ヨハネは神様が選ばれた器です。イエス様に先立って「神の国」の福音を担うのです。「神様の御心」を実現するために生涯を捧げたのです。祭司ザカリアと妻エリザベトは子供が授かることを願っていました。しかし、時は空しく過ぎたのです。ある日、ザカリアは神殿で香を焚いていました。天使ガブリエルが現れて「エリザベトが子を産むこと、その子によって主のために道が整えられること」を伝えたのです。ところが、ザカリアは天使の言葉を疑ったのです。ヨハネが生まれるまで口が利けなくなったのです。6か月後、同じ天使は乙女マリアに男の子が生まれることを告知し、親類のエリザベトにも子が宿ったことを知らせたのです。マリアは急いでエリザベトを訪れました。挨拶をするとエリザベトの胎内の子がおどったのです。ザカリアは話せるようになると聖霊様に導かれて「主は我らのために救いの角(イエス様)を、/僕ダビデの家から起こされた。・・幼子(ヨハネ)よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え・・」と預言したのです(ルカ1:67-80)。ヨハネは身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒野にいたのです。神様の言葉が降ったのです。人々に「悔い改め」を迫り、領主ヘロデ・アンティパスの様々な悪事を告発したのです。


*ユダヤ人の社会では女性の社会的地位は極めて低く、特に子供のいない(跡継ぎを儲けない)女性は蔑まれたのです。人格さえ否定されたのです。年老いたザカリアはエリザベトに子供が授かることを諦めていました。当時、祭司職にある人の数は膨大になっていました。ヨセフスは2万人の祭司がいたと記録しています。必要以上の祭司がいたので24組に分かれて奉仕したのです。それぞれの組は年に二週間奉仕するだけでした。それでも、一般的なユダヤ人が羨む収入を得ていたのです。ゼカリアはくじによって聖所で一日に二回香を焚く祭司に選ばれました。大変名誉なことでした。薄暗い光の中で一人立っている時に天使のお告げを聞いたのです。旧約聖書に精通し「救い主」の到来を信じている信仰篤いザカリアでも、年老いた妻エリザベトにアブラハムの妻サラやエルカナの妻ハンナと同様の祝福が与えられたことを信じなかったのです。不信仰の故にしばらくの間口が利けなくなったのです。その後、約束された男の子は生まれたのです。エリザベトは「主はわたしの恥を取り去ってくださいました」と言って、心から感謝したのです。ゼカリアはエリザベト共に子供の名前をヨハネにしたのです。その時、話すことが出来るようになったのです。父親であり、祭司であるザカリアは聖霊様に導かれて「救い主」イエス様の誕生の意味と我が子ヨハネの使命を預言するのです。洗礼者ヨハネは民衆に「行いによる悔い改め」を求めたのです。権力者たちの罪を躊躇(ちゅうちょ)することなく批判したのです。イエス様はそれをさらに先鋭化されたのです。


*エルサレム神殿におけるエリート祭司たちの状況を理解しておくことは重要です。祭司の家系は世襲で様々な特権を有していました。福音書は、大祭司の家が大きく贅沢な造りであったことを伝えています(ヨハネ18:12-18)。さらに、祭司の家系に生まれた歴史家ヨセフスは自分の家族がエルサレム郊外に土地を持っていたこと、祭司たちが貧しい民衆から集めた「十分の一税」によって広大な所有地を得ていたことを記しています。祭司たちは自分たちの利益を守るためにローマ帝国の支配を受け入れ、物心両面にわたって協力したのです。人々にローマ帝国に上納する新たな税の負担を強いるだけでなく、毎日カエサル(皇帝)へ「犠牲の供え物」を捧げたのです。皇帝は忠誠心と引き換えに、ユダヤ人指導者たちにエルサレム神殿の保護と宗教活動の自由を約束したのです。一方、神殿政治の腐敗から距離を置いている数少ない人がいたのです。ザカリアもその一人です。わが子の誕生に感謝して神様を賛美するのです。「救い主」の誕生を喜んで「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」、「それ(救いの角)は・・我らを憎む者の手からの救い。主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは・・恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく」と預言したのです(ルカ1:68-75)。「救い」は罪の赦しに留まらないのです。人間の「全的な解放」として完成するのです。


*荒れ野にいるヨハネに神様のお言葉が降ったのです。ヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために「悔い改め」の洗礼を授けていました。洗礼を申し出た群衆には厳しい口調で「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。・・斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と言ったのです(ルカ3:1-9)。信仰心の篤さや祭司による儀式の順守のことではないのです。「隣人愛」の欠如や「社会正義」の軽視を問題にしているのです。教えに心を打たれた群衆は「わたしたちはどうすればよいのですか」と率直に尋ねたのです。ヨハネは「下着を二枚持っている者は(誰でも)、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も(誰でも)同じようにせよ」と答えたのです。徴税人(たち)も洗礼を受けに来て「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と質問したのです。「規定以上のものは取り立てるな」と指示したのです。兵士たちが「このわたしたちはどうすればよいのですか」と言うと、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と命じたのです。さらに「わたしよりも優れた方(イエス様)が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と明言したのです。「手に箕(み)を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」と警告したのです。

*イエス様の宣教は洗礼者ヨハネの洗礼によって始まりました。ヨハネとイエス様はたびたび比較されています。共通点も多いのです。ヨハネは「悔い改めよ。天の国(神の国)は近づいた」と言って、宣教を開始したのです(マタイ3:2)。イエス様の第一声と同じです(マルコ1:15)。拠点として人口が多い都市や町ではなく、ユダヤの荒れ野を選んだのです(マタイ3:1)。預言者エリヤを想起させる毛衣を着、腰には皮の帯を締めていたのです(列王記下1:8)。質素な生き方を貫いたのです。イエス様は「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子(ご自身)には枕する所もない」と言われたのです(ルカ9:58)。貧しい人々や虐げられた人々と共に歩まれたのです。神殿の境内から商人たちを追い出し、指導者たちの偽善と不正を激しく非難されたのです(マルコ11:15-16)。ヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結べ。・・斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と言ったのです。イエス様は「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。・・集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」と明言されたのです(ヨハネ15:2-6)。ヨハネはイエス様の宣教-「神の国」の福音-を先取りしているのです。「悔い改め」と「社会の変革」を促(うなが)したのです。必然的に、権力者たちから迫害されたのです。後に、イエス様は「およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない」と言われたのです(ルカ7:28)。

2024年12月01日

「放蕩息子とその兄」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書15章11節から32節

また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天(神様)に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

(注)


・弟の放蕩(ほうとう):詳細は不明です。兄が「娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶした」と言っています。


・豚:ユダヤ教の律法によると豚は汚れた動物です。「いのしし(豚)はひづめが分かれ、完全に割れているが、全く反すうしないから、汚れたものである(レビ記11:7)。申命記14:8にも同様の記述があります。豚を養うことや豚のえさを食べることは恥ずべきことでした。


・良い服・・指輪:正式な息子として認知されたことの証明です。創世記41:42を参照して下さい。


・徴税人:ローマ帝国に協力して民衆から過酷な税を取り立てていました。人々はこれらの人を罪人として蔑んだのです。

・ファリサイ派:律法を日常生活に厳格に適用したユダヤ教の一派です。イエス様に律法学者と共に敵対しました。

・律法学者:文書を取り扱う官僚であり、律法に関する学者です。

・ドラクメ:ギリシャの銀貨です。ローマの銀貨デナリオンと等価です。平均的労働者の一日の賃金分に相当します。

・神の国(天の国):神様の主権、あるいは神様による支配のことです。誤解されているのですが、死後に行く「天国」のことではありません。イエス様は「神の国」の宣教に生涯を捧げられました。既得権益に執着する権力者たちは「神の国」を受け入れることが出来ずに、イエス様を十字架上で処刑したのです。ところが、神様はイエス様を復活させられたのです。イエス様は復活された後も天に帰られるまでの間、弟子たちに「神の国」について教えられたのです(使徒1:3)。

(メッセージの要旨)


*新約聖書の中でも神様の深い愛と慈しみを伝える有名な物語の一つです。新共同訳聖書の小見出しは「放蕩息子のたとえ」となっています。直前からの流れ、全体の内容から「放蕩息子とその兄のたとえ」とする方が適切です。イエス様は徴税人や罪人たちと一緒に食事をされたのです。律法学者たちやファリサイ派の人々はこの事実を非難したのです。たとえ話はこれらの人への反論なのです(ルカ15:1-7)。福音(良い知らせ)が罪人たちに届けられているのです。罪の中に死んでいた放蕩息子が悔い改めによって新しい命を与えられたのです。一方、「神様の御名」によって罪人たちの「救い」が妨げられているのです。たとえ話のもう一つの重要なテーマなのです。イエス様は機会あるごとに弟子たちの無理解と高慢を戒めておられます。自分を低くする人々だけが「神の国」に迎え入れられるのです(マルコ10:15)。兄の父親への不満は信仰を自負するファリサイ派の人々や律法学者たちのイエス様に対する非難に似ているのです。「わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません」と言って、善良で信仰深い息子であることを誇るのです。父親は兄の誤った認識を正すのです。イエス様は「山上の説教」において「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」と言われたのです(マタイ7:1-5)。お言葉に謙虚に耳を傾けるのです。イエス様がご自身の権威に基づいてすべての人を裁かれるのです。人が人を裁くことは大罪です。信仰を自負する人々が批判されているのです。


*以前、ファリサイ派の人々や律法学者たちが「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と質問したのです。イエス様は「医者を必要とするのは、健康な人(人々)ではなく病人(たち)である。わたしが来たのは、正しい人(人々)を招くためではなく、罪人(たち)を招いて悔い改めさせるためである」と答えられたのです(ルカ5:31-32) 。キリスト信仰の真髄(しんずい)はこのお言葉にあるのです。イエス様を地上に遣わされた神様のご意思は明確です。百匹の羊の内、一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回られるのです。ドラクメ銀貨十枚の内一枚をなくしたら、その一枚を見つけるまで捜されるのです。たとえ話も同様の観点から語られたのです。弟は信仰篤い父親の下で神様を仰いで暮らしていました。ある日、遠い国(この世)の魅力に憧れて旅に出たのです。そこで、財産を使い果たしただけでなく、信仰まで失ってしまったのです。「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである」の通り、暗闇を空しく彷徨(ほうこう)したのです(ヨハネ3:20)」。ところが、不思議な力に導かれるのです。予期しない出来事が起こるのです。放蕩に耽(ふけ)っていた弟が突然我に返ったのです。罪を悔いて神様の下へ帰る決心をしたのです。過去との決別を宣言するのです。「お父さん・・もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と言ったのです。死んでいたのに再び命を得るのです。

*イエス様のたとえ話を引用する場合「神様の愛」を強調して終わることが多いのです。このたとえ話は憐れみ深い神様と罪を赦された弟の物語として完結しないのです。兄は父親の寛容な態度に激しく反発するのです。弟をあの息子と呼んで軽蔑し、罪を赦さないのです。父親は「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」と言って、兄を叱責したのです。兄の弟に対する態度はファリサイ派の人々や律法学者たちの徴税人や罪人に対する冷徹さと同じなのです。罪を犯した人々を赦すことなく、信仰共同体(家族)から排斥するのです。イエス様は「神様、罪人のわたしを憐れんで下さい」と祈った徴税人の信仰を誉められたのです。罪を犯しても「救い」に与る人がいるのです。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められるのです(ルカ18:9-14)。自分で自分を正しい者と認定しても無意味です。一切の裁きを委ねられたイエス様が最終的にその人の「救い」を決定されるのです。恣意的(しいてき)に罪の定義が行われているのです。罪の軽重が判断されているのです。兄に代表される信仰の指導者たちは「神様の座」に着いているのです。神様が赦された人を再び罪人とすることは傲慢の極みです。重大な罪なのです。厳しく罰せられるのです。キリスト信仰を標榜する人々は「神様の憐れみ」によって「神様の子」とされたのです。自分を誇る根拠は何もないのです。

*イエス様がたとえ話をされた相手は「福音の真理」を歪(ゆが)めるファリサイ派の人々や律法学者たちです。これらの人はモーセの律法に精通しているのです。しかし、言うだけで実行しないのです。しかも、人々の前で「神の国」を閉ざしているのです。自分たちがそこに入らないばかりか、入ろうとしている人々をも入らせないのです(マタイ23:13)。イエス様を通して「神の国」が到来しているのです。病人たちが癒され、罪人たちが赦されているのです。これが福音なのです。イエス様の目的は罪人(たち)を招いて悔い改めさせることです。新しい生き方を決断した人々に「救い」が訪れるのです。神様が定められた罪の範囲は広いのです。この世の常識を超えているのです。神様の基準によれば、少数の人(例えばへブル書に名前が挙げられている人々)を除いてほとんどの人が罪人なのです。しかし、悔い改めた人々の罪は赦されるのです。最大の悲劇は信仰を自負する人々が自分の罪に気づいていないことです。これらの人にとって、既得権益に執着すること、権威を振り回して民衆を抑圧すること、貧しい人々や虐げられた人々の窮状に無関心なことは罪ではないのです。イエス様が教えられた最も重要な掟-神様と隣人を愛すること-を個人の道徳的、倫理的な行いに縮小しているのです(マルコ12:29-32)。罪の自覚がなければ悔い改めることもないのです。「神の国」は終わりの日に-新しい天地が創造される時に-完成するのです。神様は正義、慈悲、誠実を大切にされるのです(マタイ23:23)。「生き方」が問われるのです。


*弟は神様から離反したのです。特別な事ではないのです。信仰に自信がある人にも起こるのです。この世は誘惑に満ちているのです。罪を犯した人々も我に返って誘惑に負けたことを深く後悔するのです。罪を犯すような事態に至った原因が分からないことさえあるのです。神様から罪の赦しを得ても罪を犯した事実が消えることはないのです。それは罪を犯した人々の生涯にわたる教訓となるのです。罪を犯したけれども神様の「救い」を経験したのです。死んでいたのに生かされたことをいつも感謝するのです。神様は今も罪人が一人も滅びないようにイエス様を通して招かれているのです(ヨハネ3:16)。誤解を恐れずに言うならば、実際に罪を犯した人々が「救い」を実感することが出来るのです。弟は犯した罪を心から悔いているのです。神様はこのような砕けた魂を無条件で受け入れられるのです。救われる価値がないと諦めている人々に「救い」は優先的に届けられるのです。「永遠の命」の希望に励まされ「神様の御心」を実現するために全身全霊で奉仕するのです。一方、たとえ話の兄のようにファリサイ派の人々や律法学者たちが罪人たちを「神様の愛」から遠ざけているのです。これらの人の罪は赦されないのです。福音を妨げる人々には天罰が下るのです。罪人たちを歓迎しない教会が見られるのです。神様が赦された罪人たちを再び裁くことほど大きな罪はないのです。神様はイエス様を遣わされました。罪人たちを招くためです。キリスト信仰に生きる人々は「神様の御心」を実現するのです。たとえ話は神様の愛と警告の物語なのです。

2024年11月24日

「知的信仰への警鐘」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書10章25節から37節

すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい(申命記6:5)、また、隣人を自分のように愛しなさい(レビ記19:18)』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

(注)

・律法の専門家:文書を記録する官僚であり、同時に学識を有する学者です。多くはイエス様に批判的でしたが、「先生,あなたがおいでになる所ならどこへでも従って参ります」と言った人もいたのです(マタイ8:19)。

・エリコ:エルサレムからおよそ26kmです。エルサレムとエリコの高度差は約1000メートルあります。険しい道を下ってエリコに向かいます。途中には洞窟が多くあり、追いはぎが隠れていました。

・レビ人:祭司職を受け継いで来たレビ族出身の神殿の役人のことです。


・サマリア人:彼らの祖先は南北に分裂したイスラエル王国の北王国―イスラエル―に溯ります。南王国はユダです。ユダヤ人の目に混血を繰り返してきたサマリア人はユダヤ人でも異邦人でもなかったのです。ユダヤ人はサマリア人を敵視していました(ヨハネ4:9)。


・デナリオン銀貨:1デナリオンは当時の平均的労働者の一日分の賃金に相当します。


・神の国:「天の国」とも言います。死後に行く「天国」のことではありません。神様の支配、神様の主権のことです。福音(良い知らせ)とは、神様がこの世を終わらせて「新しい天地」を創造されることです。イエス様はご自身の教えと「力ある業」を通してご計画の一部を示されたのです。いずれ、再臨する(再び来る)時に完全なものにされるのです。

・「救い」についてのパウロの認識:

「こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」(1コリント4:1-5)。

・UNICEF::

United Nations Children’s Fundの略称です。国際連合児童基金です。1946年12月に設立され、第二次世界大戦後の食糧難の時代から飢えに苦しむ世界の子供たちに栄養支援を行ってきました。生死を分ける緊急救援から復興・自立へつながる支援に取り組んでいる機関です。

(メッセージの要旨)

*偉大な預言者イザヤは「(主)は死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである」(イザヤ書25:8)、「あなたの死者が命を得/わたし(彼ら)のしかばねが立ち上がります(ように)。塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光の露。あなたは死霊の地にそれを降らせられます」(イザヤ書26:19)と預言しています。すでに、死者に「永遠の命」を与えることが約束されているのです。律法の専門家は律法に精通していました。旧約聖書が伝える「永遠の命」について十分に理解しているのです。この人は「先生」(ラビ)として評判の高いイエス様について聞いていました。しかし、イエス様から学ぶのではなく、学識を試そうとするのです。そのテーマが「永遠の命」なのです。イエス様は旧約聖書に精通されています。二つの戒め-神様と隣人を愛すること-の重要性についての両者の認識は一致しているのです。イエス様は律法の専門家の認識を誉めた後「それらの規定を実行しなさい。そうすれば、永遠の命に与れる」と言われたのです。律法の専門家は誇りを傷つけられたのです。 まだ「永遠の命」から遠いと言われたからです。自分の信仰理解を正当化するために「わたしの隣人とはだれですか」と再度質問するのです。イエス様は隣人を定義されたのです。近所の人々や交流のある人々のことではないのです。心身共に疲弊(ひへい)している人々なのです。「知的信仰」に警鐘を鳴らしておられるのです。

*たとえ話は「隣人愛」の典型的な例として全体の文脈から切り離して用いられることが多いのです。しかし、これはイエス様を試すために行った律法の専門家の質問へのお答えなのです。指導者と呼ばれる人々の不信仰と偽善への婉曲的(えんきょくてき)な非難になっているのです。「永遠の命」に至る道を示し、「隣人の定義」を明確にされたのです。当初、イエス様は質問内容に直接答えられなかったのです。「律法には何と書いてあるか」と問い返されたのです。律法の専門家は「神様を愛し、隣人を愛することです」と正しい答えをしたのです。ところが、この問答は「信仰理解」から「善い行い」の問題へと展開して行くのです。きっかけは、イエス様の「それを実行しなさい」というお言葉でした。律法の専門家にとって、律法は解釈の対象なのです。実行を求めるものではなかったのです。「では、わたしの隣人とはだれですか」と尋ねたのです。自分が定義する「隣人の範囲」を正当化するためなのです。イエス様は律法の専門家の意図を見抜いておられました。この人にとって隣人とは自分が主体的に選んだ人々なのです。限定的ですが隣人を愛しているのです。ところが、イエス様の定義は全く異なっているのです。災難に遭遇した人々、貧しい人々や虐げられた人々が隣人なのです。キリスト信仰に関わる重要な問題が議論されているのです。「善い行い」を伴わない信仰は死んでいるのです。その人の「救い」にとって役に立たないのです。指導者たちの正当性は語る言葉だけでは証明されないのです。「生き方」によって判断されるからです。

*レビ人や祭司が登場します。イエス様は強盗に襲われた人を避けて通った人々の例として普通の旅人たちではなく、信仰の指導者たちを挙げておられるのです。イエス様は機会あるごとに律法学者たちやファリサイ派の人々の偽善や不正を告発されたのです。「彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである」と言われたのです(マタイ23:2-7)。サマリア人たちとユダヤ人たちとの間に交際はなかったのです。ユダヤ人たちは敵意さえ抱いていたのです。このサマリア人は自分に起こるかも知れない危険を顧みず、民族の不幸な歴史や階層間の対立に関わりなく、必要としている人に援助の手を差し伸べたのです。イエス様に質問した律法の専門家も律法を解釈するだけで実行しなかったのです。ユダヤ人たちから蔑まれ、交際のなかったサマリア人が「善い行い」によって「神様の御心」を証ししたのです。終わりの日に、イエス様は再び来られるのです。サマリア人の「善い行い」を「わたしにしてくれたもの」として理解されるのです。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からあなたがたのために用意されている国を受け継ぎなさい」と言われるのです(マタイ25:34-40)。「善い行い」をした人々は「神の国」に招かれるのです。一方、指導者たちの信仰のあり方が厳しく問われているのです。キリスト信仰が誤解されているのです。「永遠の命」に至る狭い道を歩むのです。「善い行い」が民族を越えてすべての人に命じられているからです。

*イエス様は隣人の範囲を広げられるのです。民族、階層、性別、信条、宗教に関わらず、苦難に喘(あえ)ぐ人々を愛するように指示されたのです(マタイ5:43-48)。サマリア人たちはユダヤ人たちがエルサレムの神殿で礼拝するように、北のゲリジム山で礼拝したのです(ヨハネ4:20)。サマリア人は「神様の御心」に沿って生きているのです。イエス様は律法の専門家たちに「あなたたち偽善者は不幸だ。・・律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである」と言われたのです(マタイ23:23)。サマリア人は困っている人の選別を行わなかったのです。助けを必要とする見知らぬ人のために傷の手当をしたのです。その後の治療のためにお金も用意したのです。礼拝に出席していることや献金をしていることが「救い」の保証にはならないのです。イエス様の教えは「隣人愛の勧め」に留まらないのです。律法の専門家たちの恣意的(しいてき)な信仰理を非難されているのです。要するに「神様の御心」に適う人々が救われるのです。UNICEFのニュースレターが「戦時下のガザ地区で実施されたポリオ予防接種のための一時休戦は、病気から子どもたちを守るためであれば、人々が利害を超えて協力し合えることを証明しました。・・途上国でいまだ多くの子どもたちが助ける病気で命を落としている現状は、決して容認できるものではありません」と記述しています(10月号)。キリストの信徒たちは自分に出来ることから始めるのです。戒めの実行が「永遠の命」に至る道なのです。

*イエス様はたとえ話の前後に「それを実行しなさい。」、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われたのです。「永遠の命」を得るためには「善い行い」が必須の要件なのです。指導者たちは律法に厳格なことを誇っているのです。しかし、聖書(旧約)に精通していても「善い行い」が伴わないなら「永遠の命」に与れないのです。律法の中で最も大切な戒め-神様と隣人を愛すること-を理解するだけではなく、強い意志を持って実行しなければならないのです。たとえ話は律法の専門家に悔い改めを求めているのです。キリスト信仰の有無に関わらず「神様の御心」に適った生き方をしている人がたくさんおられるのです。キリストの信徒たちはこれらの人から学ぶのです。「イエス様の名」によってこれらの人を軽んじてはならないのです。イザヤの預言にあるように、「永遠の命」はイスラエルの民の切なる願いなのです。信仰の中核になっているのです。イエス様がご自身の生と死と復活を通して証しされた「神の国」の福音(良い知らせ)は人間にとって永遠の課題である「死」にも及ぶのです。イエス様の復活は「永遠の命」の先取りなのです。「死の支配」に対する決定的な勝利を予告しているのです。キリスト信仰を標榜する人々も「永遠の命」の希望に生きているのです。高慢は「死に至る病」です。誰もが罹(かか)る心の病なのです。自己義認-自分を正しい者とすること-はその最たるものです。自分を低くしなければ「神の国」に入れないのです(マタイ18:1-5)。「知的信仰」への警戒を怠(おこた)ってはならないのです。

2024年11月17日

「神様の御心の実現」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書3章1節から6節

イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。(ファリサイ派の)人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

(注)

・安息日の規定(十戒):

■安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。(出エジプト記20:8-11)

●この他にも人々の行動は細かく制限されていました。例えば、900メートルしか移動できなかったのです。

・善を行うこと(命を救うこと):

■もし、あなたを憎む者のろばが荷物の下に倒れ伏しているのを見た場合、それを見捨てておいてはならない。必ず彼と共に助け起こさねばならない。(出エジプト記23:5)

■同胞のろばまたは牛が道に倒れているのを見て、見ない振りをしてはならない。その人に力を貸して、必ず助け起こさねばならない。(申命記22:4)

・イエス様の律法解釈:

■・・ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。(マタイ12:1-8)

■・・イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。そして、言われた。『あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。』彼らは、これに対して答えることができなかった。(ルカ14:13-6)。

・安息日に癒された人々:

●腰の曲がった婦人(ルカ13:10-17)

●38年間病気で苦しんでいる人(ヨハネ5:1-18)

・ファリサイ派:ユダヤ教の改革運動を推進し、信仰の証として律法や慣習を生活の隅々に厳格に適用したのです。

・ヘロデ派:ローマ帝国との協調を最優先する人々のことではないかと推測されています。ファリサイ派の人々とは互いに敵対関係にありましたが、イエス様を殺すために協力するのです。

(メッセージの要旨)


*福音書の中で最も古いとされているマルコにはイエス様の誕生物語が記述されていないのです。イエス様の宣教から始まっています。第一声において「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣言されたのです(マルコ1:15)。「神の国」(天の国)の到来-新しい天地創造の開始-は福音となったのです。イエス様は先ず漁師であるシモン(ペトロ)、アンデレ、ヤコブ、ヨハネを弟子に選ばれました。安息日にはユダヤ教の会堂に入り、旧約聖書を教えられたのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちは律法を教条的に解釈したのです。イエス様は「律法の主」として、最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実行するように命じられたのです。様々な力ある業を通して「神の国」を見える形で証しされたのです。汚れた霊に取りつかれた人、重い皮膚病を患っている人,中風の人、手の萎えた人などを癒されたのです。民衆は皆驚いて神様を賛美したのです。イエス様の評判はガリラヤ地方の隅々にまで広まったのです。病気が犯した罪の報いとして考えられていた時代に、イエス様は病人たちを癒されるだけでなく、これらの人の罪をも赦されたのです。社会から蔑まれていた罪人(娼婦)たちやローマ帝国に協力して高額な税を取り立てていた徴税人たちと交際し、強い絆(きずな)を養う場となる食事も共にされたのです。イエス様は立ち位置を明確にされるのです(マタイ9:13)。イエス様の言動はファリサイ派の人々の権威を危うくしているのです。容認することは出来ないのです。イエス様を殺そうとするのです。

*イエス様はユダヤ教の伝統的な考え方と真っ向から対峙(たいじ)されたのです。貧しい人々や虐げられた人々は「神の国」の到来に希望の光を見たのです。イエス様を「神様の子」として信じたのです。ファリサイは「分離する」という意味です。ファリサイ派の人々は罪人たちを蔑(さげす)んだのです。自分たちの信仰心を誇るために徹底的に罪人たちとの接触を避けたのです。モーセの十戒はユダヤ教の基本理念です。人々は大切に守って来たのです。ところが、指導者たちは自分たちの権威を強化し、民衆を支配するための手段として用いたのです。律法主義(形式主義)的に解釈して本来の趣旨を歪(ゆが)めたのです。民衆のための戒めが逆に人々の重荷となったのです。イエス様は指導者たちの誤りを指摘するかのように、癒しの業の多くを「安息日」に実行されたのです。「神様の御心」を鮮明にされたのです。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と言われたのです(マルコ2:27)。「安息日」は人々が働き過ぎて(働かされ過ぎて)命を損なわないように定められたことを想起させられたのです(申命記5:12-15)。「安息日」には善を行うこと、命を救うことは許されているのです。イエス様の主張は「神様の御心」に適っているのです。新しい律法解釈は民衆の熱い支持を得ているのです。ファリサイ派の人々の罪が告発されているのです。指導者たちに悔い改めが求められているのです。しかし、既得権益に執着するこれらの人は福音を拒否するのです。イエス様との対立を一層深めて行くのです。


*イエス様は「安息日」を破るだけではなく、「安息日の主である」と宣言されたのです(マルコ2:28)。エルサレム神殿を「父の家」と呼び、境内から両替人や商売人たちを追い出されたのです(ルカ19:45-47)。アブラハムが生まれる前から「わたしはある」(ヨハネ8:58)、わたしと父は一つである(ヨハネ10:30)と言って、ご自身を神様と等しい者とされたのです。イエス様の主張は神様への冒涜(ぼうとく)です。唯一の神様を信じるユダヤ人たちにとってイエス様は死罪に値する大罪人なのです。イエス様を殺さなければならないのです。イエス様はその理由について尋ねられました。指導者たちは「善い業のことで、石で打ち殺すのではない、神を冒涜しているからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ」と答えたのです(ヨハネ10:33)。イエス様の言動はファリサイ派やヘロデ派の人々にとって看過出来ないのです。信心深さを装う回し者を遣わし、イエス様の言葉じりをとらえ、ローマの総督(ポンティオ・ピラト)に引き渡すために、政治的に巧妙に工夫された「皇帝への税金」の問題を質問させているのです(マタイ22:15-22)。大祭司カイアファはイエス様への民衆の絶大な支持がローマ帝国への反乱に繋がることを恐れたのです。「ユダヤ人全体」を救うためにイエス様を政治犯として殺すのです(ヨハネ11:47-53)。イエス様は民衆と共に歩まれたのです。人々の悲しみや苦悩に心を砕かれたのです。御子として使命を果たされるのです。権力者たちから迫害を受けるのです。


*キリスト信仰における最も重要な戒めは「神様と隣人(苦難を覚える人々)」を愛することです。イエス様は貧しい人々や障害者たちが不当な扱いを受けているのを見て「怒り」を露にされたのです。律法を率先して順守すべきファリサイ派の人々のような指導者たちがこれらの人を虐げているのです。言うだけで律法を守らないのです。「神様の御心」である正義、慈悲、誠実を軽んじているのです。イエス様は先生や教師と呼ばれている人々の信仰姿勢を厳しく非難されたのです。彼らの不信仰と不正を赦されないのです。イエス様は「偽善者たち」と呼び、天罰が下ることを明言されたのです(マタイ23)。怒りや憤りが「罪」として見なされているのです。こうした信仰理解はキリスト信仰に対する誤解から生じているのです。キリスト信仰は「個人の救い」で完結しないのです。「全的な救い」として実現するのです。イエス様のご生涯から学ぶのです。「神の国」の建設に参画するのです。神様は終わりの日にそれを完成して下さるのです。イエス様の怒りを論じるのではなく、正義や公平を実現するために奔走(ほんそう)されたことに倣(なら)うのです。イエス様は権力者たちや指導者たちが「神様の御心」に反していれば躊躇(ちゅうちょ)することなく憤られたのです。抑圧や差別に対する怒りは「隣人愛」の原点です。ただ、それを正しく表現するのです。キリスト信仰における「霊性」と信徒としての「生き方」とは切り離せないのです。先ず「神様の霊」の導きを求めるのです。貧しい人々や虐げられた人々に共感する力が与えられるのです。

*イエス様の怒りは個人的な感情表現や気まぐれではないのです。指導者たちによる貧しい人々の搾取や不当な扱いへの抗議なのです。教条的な律法解釈や傲慢な振る舞いが障害のある人々から希望を奪い、絶望の淵に追いやっているのです。福音書が伝えるように、イエス様は民衆を取り巻く社会的、経済的、政治的状況の改善に深く関与されたのです。ところが、「救い主」の霊的な側面だけが強調されているのです。「神の国」の福音が誤解されているのです。キリストの信徒たちは隣人を愛するのです。そのためには立場を明確にするのです。正義の側に立たなければ悪と闘うことは出来ないのです。「神様の子供たち」から祝福を奪う体制、組織、政策、行為に憤るのです。「神様の名」によって傷つけられ、差別されている人々がいるなら怒るのです。信仰深い人々を誤った方向に導いている教会があるなら告発するのです。少数の人が経済的富を独占していることに憤るのです。役員の一年間の報酬が平均的労働者の生涯賃金を上回っているなら怒るのです。宗教、性別、人種、階層の故に虐げられている人々がいるなら告発するのです。「神様の御心」を実現するためには覚悟が必要なのです。「神様の座」に着いている人々が必死で抵抗するからです。イエス様は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と言われるのです。慰めと励ましのお言葉に支えられて今日も歩むのです。

2024年11月10日

「神様と富」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書6章19節から24節


「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」


「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなた(がた)の全身が明るいが、 濁っていれば、全身が暗い。だから、あなた(がた)の中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」


「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

(注)

・神の国:神様の主権、神様による支配のことです。天の国とも呼ばれています。死後に行く「天国」のことではないのです。イエス様は「神の国」の宣教に生涯を捧げられました。既得権益に執着する権力者たちは「神の国」を拒否し、イエス様を十字架上で処刑したのです。イエス様は復活後も天に帰られるまでの間、地上で弟子たちに「神の国」について教えられたのです(使徒1:3)。キリスト信仰の真髄なのです。


・体のともし火は目である。目が澄んでいれば・・:


「富」の問題と関係がない文章が挿入されているように見えますが、工夫された言葉の表現です。「目が澄んでいる」と訳されている言葉の「目」は本来複数ですが、ここでは単数なのです。豊かに施すことを表しているのです。「濁っている」は吝嗇(りんしょく)、あるいは富への執着に例えているのです。朽ちる富に「永遠の命」はないのです。イエス様こそが「救い」に至る道を照らす真の光なのです。


・神と富とに仕えることはできない:


「富」はアラム語の「マモン」から日本語に訳された言葉です。「マモン」はお金、家畜、土地などの財産を表しています。使い方を誤ってはならないのです(ルカ16:11)。ここでは偶像崇拝に陥(おちい)らせる「主人」として擬人化されているのです。

・主の祈り:イエス様が弟子たちに教えられた祈りです。

■・・あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』 (マタイ6:8-13)

・借金の深刻さ:マタイ18:21-35をお読み下さい。

・ぶどう園の労働者の状況:マタイ20:1-16を参照して下さい。


・デカポリス、ガリラヤ、エルサレム・・:聖書地図を参照して下さい。

(メッセージの要旨)


*イエス様はバプティスマのヨハネから洗礼を受けられた後、ガリラヤの諸会堂で「神の国」の福音を証しされたのです。民衆のありとあらゆる病気や患いを癒されたのです。イエス様の評判は近隣のシリアにも広まり、人々はいろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たのです。これらの人は様々な束縛から解放されたのです。ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から来た大勢の群衆はイエス様に従ったのです。イエス様は山に登り「山上の説教」を語られたのです(マタイ5-7)。「愛の観点」から律法を再解釈されたのです。ローマ帝国の支配下にあったユダヤ人の圧倒的多数は苦難の生活を強いられていたのです。イエス様に従った群衆も貧しかったのです。日々の生活を維持するのに奔走(ほんそう)していたのです。これらの人の関心が富に向かうことは当然だったのです。しかし、イエス様は「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と言われるのです。神様を信頼して「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈るように教えられたのです。富には人間を神様から遠ざける力が潜んでいるのです。神様のお導きによって富の誘惑を退けるのです。何よりも「神の国」と「神の義」を求めるのです。自分を愛するように隣人-貧しい人々や虐げられた人々-を愛するのです。「救い」は安価な恵みではないのです。富に執着する人々は厳しい裁きを受けるのです。イエス様のお言葉を真剣に受け止めるのです。


*当時のイスラエルは5パーセントにも満たない少数の金持ちと圧倒的多数の貧しい人々で構成されていました。金持ちの多くはローマ帝国に協力する議員たち、祭司職を担う人々、一握りの大土地所有者、成功した徴税人たちでした。貧しい人々の大半は農民と労働者たちです。ローマ帝国に高額な税を納めた後は自分たちの生計を維持するために心を砕いたのです。農民は自然災害や不作に備えるための余剰の農産物を蓄えることなど出来なかったのです。緊急事態が起これば、やむを得ずお金を借りたのです。やがて、支払い不能となり担保の土地は没収されたのです。男性は家族を養うためにぶどう園などで働く労働者になったのです。これらの人の悩みは尽きないのです。イエス様は「山上の説教」において「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」と言われたのです(マタイ5:3)。一方、「平地の説教」において「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、・・あなたがたは飢えるようになる」と明言されたのです(ルカ6:24-25)。イエス様の宣教姿勢は明確です。貧しい人々を優先的に祝福されるのです。ご自身が再臨する時の「裁きの基準」にも言及しておられます。人々が飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねたことが「救いの要件」になっているのです(マタイ25:31-46)。この世の富の「使い方」が厳しく問われるのです。イエス様の警告が恣意的(しいてき)に読み飛ばされているのです。

*「主の祈り」には貧しいユダヤ人たちの切実な状況が反映されています。しかも個人的な祈りではないのです。「わたしたちの父」、「わたしたちに必要な糧」、「わたしたちの負い目(負債)」、「わたしたちを誘惑に」とあるように、信仰共同体のあるべき姿を示す祈りになっているのです。イエス様は「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」と言われたのです(ヨハネ15:12)。「主の祈り」にも同様の趣旨が含まれているのです。人々は日々の糧と負債の問題に頭を悩ませているのです。生活が不安定であれば心身ともに疲弊するのです。本人や家族が病気になり、何らかの障害を有していれば経済的にも、精神的にも悩みは一層深くなるのです。中風の人の悩みを共に担った四人の男性がいました。彼らはイエス様(の癒しの業)を信じていました。中風の人を癒していただくために運んで来たのです。ところが、群衆に阻まれて御言葉を語っておられるイエス様のもとに連れて行くことが出来なかったのです。イエス様がおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろしたのです。イエス様はその人たちの信仰を御覧になって、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたのです。この人は癒されて家に帰ったのです(マルコ2:12)。後の初代教会の信徒たちは心も思いも一つにしたのです。貧しい人は一人もいなかったのです。土地や家を持っている人々は皆それらを売ったのです。持ち寄ったお金は必要に応じて分配されたのです(使徒言行録4:32-35)。


*イエス様は「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」と警告されたのです。たとえ話によってさらに説明されたのです。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』」と言われたのです(ルカ12:15-20)。ある金持は毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。門前にはラザロというできものだらけの貧しい人が横たわっていたのです。この人は死んで天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれたのです。金持ちも死んで葬られたのです。陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとがはるかかなたに見えたのです。「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます」と叫んだのです。アブラハムは「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」と言ったのです(ルカ16:19-25)。


*キリスト信仰とは「神の国」の到来を福音として信じることです。悔い改めて「神様の御心」に沿って生きることなのです。「神の国」の建設に参画し、最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実行するのです。昼も夜も「御名が崇められますように、御国が来ますように、御心が行われますように」と祈るのです。神様と富との両方に仕えることは出来ないのです。富の対応がその人の「救い」を決定するのです。人は「信仰」のみによって救われないのです。「行い」のない信仰-立ち位置を明確にしない信仰-は空しいのです。キリスト信仰が誤解されているのです。主な要因は二つです。一つはパウロの信仰理解が無批判的に引用されていることです。イエス様は弟子たちに「あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ」と言われました(マタイ23:8)。パウロがイエス様を超えることはないのです。もう一つは日本語訳にあるのです。新共同訳聖書の編纂に携わった方々に心から感謝するのです。同時に、問題点も指摘しなければならないのです。例えば「神の義」には原語にある「正義の神様であること」が表現されていないのです。ユダヤ人指導者たちは「神様の御心」を軽んじているのです。ローマ帝国に協力して民衆を抑圧し、搾取しているのです。「神の国」の福音-人間の全的な救い-が個人的な「罪からの救い」に縮小されているのです。キリストの信徒たちは信仰によって「永遠の命」に与れることを確信しているのです。しかし、神様と富との両方に仕えることは出来ないのです。「福音の真理」を変容してはならないのです。

2024年11月03日

「行いを伴わない信仰」

Bible Reading (聖書の個所) ヤコブの手紙2章1節から17節

わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。

わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者(たち)と断定されます。律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなた(がた)は律法の違犯者になるのです。自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者(たち)として、語り、またふるまいなさい。人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。

わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

(注)

・最も重要な戒め:

■彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が・・尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなた(がた)の神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほか神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。(マルコ12:28-34)

 

・パウロの信仰理解: 個人の信仰心に限定されているのです。

■口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです(ローマ10:9-10)。

■正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません(1コリント6:9-10)。

・ファリサイ派:律法を厳格に守っている人々です。しかし、イエス様は彼らを偽善者と呼ばれたのです。律法を人々に強いるのですが、自分たちはそれを実行しないからです。

・徴税人:ローマ帝国に協力して民衆から過酷な税を取り立てたのです。裏切り者と呼ばれ、罪人として社会から排斥されたのです。

・律法学者:ユダヤ教の律法を専門的に解釈する学者であり、文書を書き記す官僚です。イエス様に敵対するグループの一つです。


・宗教改革の時代(1517年前後)に、パウロの「信仰による救い」を堅持するルターは「行いによる救い」を強調するヤコブの手紙に異を唱えたのです。しかし、今日までこの手紙が聖典から除かれることはなかったのです。

(メッセージの要旨)


*キリスト信仰とはイエス様の教えに従い、御跡を辿(たど)ることです。忍耐と謙遜を旨とし、祈りに励み、主の再臨を待ち望むことなのです。ところが、信仰と行いが一致していないのです。しかも、多くの人がことの重大さに気づいていないのです。信仰共同体(教会)において、貧しい人々を辱(はずかし)めるようなことが公然と行われているのです。イエス様の視点は明確です。貧しい人々に優先的に福音を告げられたのです(ルカ4:18)、金持ちには「持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と命じられたのです(マルコ10:21)。いつの時代も、富裕層や知識階級が社会において権力を握っているのです。これらの人は信仰共同体においても指導的地位に就いているのです。大切なことは振る舞いが「神様の御心」に適っているか、イエス様の教えに従っているかどうかなのです。すべてがこの基準によって判断されるのです。「信仰は信仰、行いは行い」という考え方がキリストの信徒の間に広がっているのです。「神の国」(天の国)の福音が個人の「罪からの救い」へと変容されているのです。パウロの信仰理解が根拠として用いられているのです。ただ、パウロの「神の国」に対する認識には問題があるのです。それはイエス様から直接指導を受けていないことに起因しているのです。この点を常に留意するのです。イエス様は「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」と言われたのです(ルカ6:46)。生と死と復活を通して証しされた「神の国」の福音が正しく理解されていないのです。

 

*新約聖書はイエス様が貧しい人々や虐げられた人々の側に立たれたことを記しているのです。人々の窮状に心を砕かれたのです。イエス様の生き方と教えはキリスト信仰の真髄(しんずい)なのです。多くの信徒はこの世(地位や富へのあこがれ)の誘惑に晒(さら)されているのです。その矛盾を解決するために信仰と行いを分離するのです。イエス様が命を賭して神様と人とに仕えられたのに、自分たちは個人的な救いと平安のみを追求しているのです。ヤコブは誤った信仰理解を正すのです。律法には多くの規定があります。イエス様は最も重要な二つの戒め-神様と隣人を愛すること-に要約されたのです。「神様」を愛していると言いながら「隣人」を愛さない人は律法に違反しているのです。教会と信徒たちが躓(つまず)きの石になっているのです。それは罪なのです。罪の認識がなかったとしても免罪の理由にはならないのです。ヤコブが指摘するような問題を克服することは容易ではないのです。キリスト信仰はイエス様を「救い主」として信じることで完結しないのです。信徒には「神様の御心」を実践する責務があるのです。イエス様は弟子たちに「‥しなさい」と命じられたのです。すべての人は行いによって裁かれるのです。イエス様が再び来られる時、「わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたか」と問われるのです(マタイ25:35-36)。イエス様の教えを再確認し、実行して「救い」に与るのです。

*ヘブライ人への手紙は信仰の書と呼ばれています。先祖たちの信仰に言及して「信仰の意味」を明らかにしているのです。ノアはまだ見ていない事柄について神様のお告げを受けた時、畏れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定めたのです。神様はノアを祝福し、契約を結ばれたのです(創世記6:8-9:17)。モーセは王ファラオの怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているように信頼したのです。人々はまるで陸地を通るように紅海を渡ったのです。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは溺(おぼ)れて死んだのです(創世記14)。ヤコブも信仰の先駆者を例に挙げて信仰と行いが不可分であることを証明するのです。「神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことがこれで分かるでしょう」(創世記22:1-18)、「娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって義とされたではありませんか」(ヨシュア記2:1-21)と言うのです。人は行いによって義とされるのです。信仰だけによるのではないのです。魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んでいるのです。イエス様と寝食を共にしていないパウロが「解釈者」として評価されているのです。ただ、ヤコブの方がイエス様の教えと「神の国」の福音を正確に伝えているのです。

*信仰を誇り、他人を見下している人々に対して、イエス様はたとえを話されました。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は心の中で『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』と祈ったのです。一方、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら『神様、罪人のわたしを憐れんでください』と言ったのです。」神様に信仰を認められたのは徴税人だったのです(ルカ18:9-14)。大きな罪を犯した人々は神様の愛と憐れみに感謝するのです。罪の自覚がない人々は信仰心の篤さによって「永遠の命」を得たかのように誤解するのです。弟子たちが「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と尋ねたのです。イエス様は「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。・・」、そして「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」と言って警告されたのです(マタイ18:1-6)。信仰を口で告白し、洗礼を受けたとしても、行いが「神様の御心」に反していれば「神の国」に入れないのです。自己義認は「救い」の役には立たないのです。自分の信仰を問い直すことこそ重要なのです。

*あるテレビ番組でサーカスの練習場に転用されたフランスの教会が紹介されていました。信徒が少なくなり、教会運営が人的にも財政的にも成り立たなくなったのです。ドキュメンタリ―を観て教会が売買の対象になったことに驚いたのです。同時に、衰退する原因の究明が急務であることを知ったのです。「神の国」の福音-人間の全的な救い-が「罪からの救い」に縮小されているのです。「友なき友」を尋ねることにも無関心になっているのです。礼拝堂は物の売り買いを行う市場と化し、各部屋は教養講座(英会話、趣味の会など)の開催場所になっているのです。礼拝が始まる前に会堂内のベンチに座っている信徒に年配の女性がそこはわたしの席ですと言ったのです。ある日曜日、初めての方が来会したのです。この女性は祭壇に向かって最前列の左端に座ったのです。しばらくすると、男性の役員が来てそこは自分の席ですからと言ったのです。女性は別の席へ移ったのです。ただ、再び教会を訪れることはなかったのです。エルサレムの神殿が「祈りの家」と呼ばれているのです(マルコ11:17)。教会は「神様の家」なのです。ところが、有力な信徒たちが自分たちの憩いの場にしているのです。イエス様は「永遠の命」を願う律法学者に最も重要な戒めを実践するように命じられたのです(ルカ10:25-28)。自ら模範を示されたのです。イエス様の苦難のご生涯から学ぶのです。徹底して自分を低くするのです。「主」のみを誇るのです。正義を貫くのです。慈悲深く、誠実さに満ちたキリストの信徒になるのです(マタイ23:23)。

2024年10月27日

「命のパン」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書6章34節から59節

そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』(イザヤ書54:13)と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった(民数記14:26-35)。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。

(注)

・彼ら:イエス様はご自身の教えを聞くために集まったおよそ五千人の群衆に食べ物(大麦のパンと魚)を与えられたのです。彼らの空腹は満たされたのです。ところが、中にはイエス様を自分たちの王(ローマ帝国の圧政と闘う政治的指導者)として戴くために連れて行こうとする人々もいたのです。イエス様はそこを逃れて身を隠されたのです。しかし、これらの人はイエス様を捜し続けたのです(ヨハネ6:1-15)。再び出会った人々はイエス様に次のように質問したのです。


■「わたしたちが見てあなたを信じることができるように、(さらに)どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」と言ったのです。すると、イエス様は「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」と答えられたのです。(ヨハネ6:30-33)。

・イエス様によるご自身の定義:わたしは・・である

 

*わたしは命のパンである
*わたしは世の光である(ヨハネ8:12)
*わたしは門である(ヨハネ10:9)
*わたしは良い羊飼いである(ヨハネ10:11)
*わたしは復活であり、命である(ヨハネ11:25) 
*わたしは道であり、真理であり、命である(ヨハネ14:6)
*わたしはまことのぶどうの木(ヨハネ15:1)

・預言者の書:神様は「新しい契約」を人々の心の中に刻まれるのです。


■「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」 (エレミヤ書31:31-34)

・マンナ(マナ):パンのことです。出エジプト記16章をご一読下さい。詩篇78:24―25を併せてお読み下さい。

・カファルナウム:ガリラヤ湖の北の端にある町です。イエス様の宣教の拠点です。聖書地図をご覧下さい。

・イエス様が引用されたイザヤ書の個所:貧しい(抑圧された)人々への福音となっているのです。

■主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしを捕えた。わたしを遣わして、貧しい(抑圧された)人々に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心(人々)を包み、捕らわれ人(た人々)には自由を、つながれている人(囚人たち)には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年、わたしたちの神が報復される日を告知して、嘆いて人々を慰め・・。(イザヤ書61:1-2)

(メッセージの要旨)

*イエス様は後を追って来た5千人の人々に食べ物を与えるという「力ある業」を行われました。満腹した人々はイエス様を自分たちの王として戴こうとしたのです。イエス様はご自身への誤解を正されるのです。「神様の子」であることを先祖が荒れ野で食べた「パン」と比較して説明されたのです。民衆はローマ帝国の支配下にあって貧しい暮らしを余儀なくされているのです。日々の糧を確保するために奔走(ほんそう)しているのです。このような状況にあって、人々が食べ物に関心を注ぐことは当然なのです。しかし、そのことだけでは「永遠の命」に与れないのです。イエス様はこれらの人を深く憐れまれたのです。「神の国」-神様の支配-に迎えられる方法を教えられたのです。「ご自身を遣わされた方を信じる人々は永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」(ヨハネ5:24)、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子(イエス様)があなたがたに与える食べ物である」と言われたのです(ヨハネ6:27)。イエス様はご自身への絶対的な信仰を求められるのです。同時に、「永遠の命」を約束された人々に「神様の御心」を実践する責務を課せられるのです。「わたしは命のパンである」は霊的なものが肉的なものよりも優れていることを意味しているのではないのです。イエス様の教えを心に刻むことです。イエス様の生き方に倣って「神の国」の実現のために働くことなのです。イエス様に対する応答が「救い」を決定するのです。

*イエス様は「わたしは…である」という言葉で七回もご自身を定義しておられます。その最初が「わたしは命のパンである」です。パンは人間の肉体的必要性を満たすことについて誰もが知っているのです。しかし、民衆は「わたしたちに必要な糧を今日お与えください」と祈らなければならないほど貧しかったのです(マタイ6:11)。イエス様は窮乏生活を十分承知の上で人々に「朽ちない食べ物」-永遠の命に至る食べ物-を求めなさいと言われたのです。そこで、彼らは「主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい」と願い出たのです。人は「力ある業」を経験し、あるいは見聞きしてもイエス様を「救い主」として信じる訳ではないのです。この世の思いが信仰を妨げていることも多いのです。モーセは「あなた(がた)の神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。・・主はあなた(がた)を苦しめ、飢えさせ、あなた(がた)も先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなた(がた)に知らせるためであった」と言っています(申命記8:2-3)。イエス様は宣教を開始する直前、四十日間荒れ野で断食をされたのです。空腹を覚えられた時、悪魔が来て「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と誘惑したのです。イエス様はモーセの言葉によって反論されたのです(ルカ4:1-4)。ご自身は「神様の御心」を実現するために生涯を奉げられました。群衆にもそのように生きることを教えられたのです。

*ユダヤ人たちの信仰の根底には先祖が経験したエジプトの圧政からの解放があるのです。神様は「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、・・彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」と言って、モーセを遣わされたのです(出エジプト記3:1-21)。ヘブライ人たち(イスラエルの民)が信仰深いからではなく、絶望的な窮状に喘(あえ)いでいたことを心に留められたのです。この歴史的事実はキリスト信仰を理解する上で重要な役割を果たしているのです。「出エジプト」はイエス様のメッセージの原点を形成しているからです。宣教活動において繰り返しモーセの言葉と働きを取り上げておられます。「神様の御心」を想起させておられるのです。神様がエジプトの王ファラオによるヘブライ人への抑圧を直接介入の動機とされたように、イエス様もイザヤ書を引用して、貧しい人々や虐げられた人々の解放を宣教の目的にされたのです(ルカ4:18)。イエス様を通して「神の国」が到来しているのです。「神の国」の福音が個人の「霊的な救い」に縮小されてはならないのです。貧しい人々に福音(良い知らせ)が届けられているのです。神様は人々の切実な祈り-主の祈り-「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」に応えて下さるのです(マタイ6:11)。今、「新しい天地創造」が始まっているのです。イエス様は「何よりもまず、神の国(神様の支配)と神の義(正義)を求めなさい」と言われました。最も重要な戒めの一つです。優先順位が明確です。神様に信頼する人々に最低必要な物と「永遠の命」が与えられるのです。

*福音書記者マタイ、マルコ、ルカは「主の晩餐」について記述しています。最も古いマルコの福音書は「イエスはパンを取り・・弟子たちに与えて言われた。『これはわたしの体である。』また、杯を取り・・彼らにお渡しになった。そして、イエスは言われた。『これは多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」と記述しています(マルコ14:22-26)。ヨハネの福音書によれば、イエス様は「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」と言われたのです。イエス様の体(肉)を食べ、血を飲む者は誰でも「永遠の命」に与れるのです。ユダヤ人たちはイエス様のお言葉に躓(つまず)いたのです。人間の肉を食べることは究極の敵意を表しているのです(詩篇27:2)。血を飲むことは律法で禁じられているからです(レビ記3:17)。キリストの信徒たちはイエス様と一体になることであると理解しているのです。イエス様は「神の国」を宣教して指導者たちから迫害されたのです。イエス様の御跡を辿(たど)る人々はこの世に同調しないのです。このため、親、兄弟、親族、友人から見捨てられ、社会的地位や財産を失っているのです。時には命の危険に晒(さら)されることになるのです(ルカ21:7-19)。神様はすべての人に必要なパンを与えられるのです。しかし、誰もが「永遠の命」に与れる訳ではないのです。イエス様の肉を食べ、イエス様の血を飲む者だけが「永遠の命」に与れるのです。

*「命のパン」の意味が正しく伝えられていないのです。キリスト信仰における「救い」を説明するために、パウロの信仰理解-「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら救われる・・」―が引用されることも多いのです(ローマ10:9-10)。このような「救いの定義」はイエス様の教えから乖離(かいり)しているのです。知的信仰によって「救い」を得ることは出来ないのです。「行い」が必須の要件なのです。「天から降って来たパン」の意味の厳しさに気づいた-安価な恵みに慣れ親しんだ-弟子たちの多くが去り、共に歩まなくなったのです(ヨハネ6:66)。イエス様「わたしよりも父や母を愛する者は(だれでも)、わたしにふさわしくない。・・自分の十字架を担ってわたしに従わない者は(だれでも)、わたしにふさわしくない」と言われました(マタイ10:37-39)。「永遠の命」に与ろうとする人々には物心両面にわたる犠牲が伴うのです。キリスト信仰において「救い」は強調されるのですが、弟子としての覚悟や責務についてあまり語られていないのです。キリスト信仰に関する神学的、哲学的な説明が却って人々の正しい理解を妨げているのです。キリスト信仰とは信じることではないのです。イエス様の「命のパン」を食べることです。イエス様の「生き方」を自分の「生き方」とすることなのです。イエス様はご自身の生と死と復活を通して「神の国」を証しされたのです。「神の国」の到来こそ福音なのです。キリストの信徒たちは「神の国」の建設に参画するのです。

2024年10月20日

「指導者たちの腐敗と神殿崩壊」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書12章38節から13章2節 
            
イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

(注)


・律法学者たち:ユダヤ教の律法を専門的に解釈する学者であり、文書を書き記す官僚です。イエス様に敵対するグループの一つです。


・やもめ(寡婦):家父長社会にあって死別あるいは離婚されて一人となった彼女たちは窮乏生活を余儀なくされたのです。

■三年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、あなた(がた)のうちに嗣業の割り当てのないレビ人(たち)や、町の中にいる寄留者(たち)、孤児(たち)、寡婦(たち)がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。そうすれば、あなた(がた)の行うすべての手の業について、あなた(がた)の神、主はあなた(がた)を祝福するであろう。(申命記14:28-29)

■お前たち(指導者たち)が手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ 善を行うことを学び/裁きをどこまでも実行して/搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護せよ。・・支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり/皆、賄賂を喜び、贈り物を強要する。孤児の権利は守られず/やもめの訴えは取り上げられない。(イザヤ書1:15-23) 


■災いだ、偽りの判決を下す者/労苦を負わせる宣告文を記す者は。 彼らは弱い者の訴えを退け/わたしの民の貧しい者から権利を奪い/やもめを餌食とし、みなしごを略奪する。(イザヤ書10:1-2)


■万軍の主はこう言われる。正義と真理に基づいて裁き/互いにいたわり合い、憐れみ深くあり やもめ、みなしご/寄留者、貧しい者らを虐げず/互いに災いを心にたくらんではならない。」ところが、彼らは耳を傾けることを拒み、かたくなに背を向け、耳を鈍くして聞こうとせず、心を石のように硬くして、万軍の主がその霊によって、先の預言者たちを通して与えられた律法と言葉を聞こうとしなかった。こうして万軍の主の怒りは激しく燃えた。(ゼカリヤ書7:9-11)


■裁きのために、わたしはあなたたちに近づき/直ちに告発する。呪術を行う者、姦淫する者、偽って誓う者/雇い人の賃金を不正に奪う者/寡婦、孤児、寄留者を苦しめる者/わたしを畏れぬ者らを、と万軍の主は言われる。(マラキ書3:5)

●詩篇94:1-7も併せてお読み下さい。


・ファリサイ派:律法を日常生活に厳格に適用した人々です。

・ヘロデ派:ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパス、あるいはヘロデ王朝の支持者たちです。

・サドカイ派:ユダヤ教の一派です。死者の復活を否定しました。

・レプトン銅貨:当時流通していた貨幣の中で最も小さい単位の通貨です。平均的労働者の一日分の賃金1デナリオンの128分の1です。仮に1デナリオンを今日の通貨で換算して6,400円とすれば、50円です。やもめは一日100円で生活していたことになるのです。

・薄荷(はっか)・いのんど・茴香(ういきょう):最も小さいハーブです。

(メッセージの要旨)

*少し前に、イエス様は神殿の境内で売り買いしていた人々を追い出し、両替人たちの台や鳩販売業者たちの腰掛をひっくり返されたのです。物を運ぶことも阻止されたのです。「祈りの家」であるべき神殿が「強盗の巣」と化していることを激しく非難されたのです。祭司長たちや律法学者たちは彼らの権威と既得権益を守るためにイエス様をどのようにして殺そうかと謀議したのです(マルコ12:15-18)。緊迫した状況においても、イエス様はファリサイ派、ヘロデ派、サドカイ派の人々と論争されたのです。ご自身の方から挑戦するかのように律法学者たちの偽善と腐敗を告発されたのです。大勢の群衆がイエス様の教えに喜んで耳を傾けていたのです。指導者たちは律法を厳格に守るように教えているのです。ところが、自分たちはそれらを実行しないのです。富に執着し、専門的知識を悪用しているのです。金持ちたちは多額の献金によって「神様の祝福」を得ようとするのです。律法学者たちが貧しいやもめたちに援助の手を差し出すことはないのです。「神様の名」によって食い物にしているのです。イエス様はやもめの信仰を高く評価されたのです。一方では、やもめの献金に隠された指導者たちの大罪を告発しておられるのです。キリスト信仰において「愛」が強調されるのです。ただ、聖書のどこにも正義と裁きのない「愛」は見られないのです。最も重要な戒め-正義、慈悲、誠実の実行-を軽んじる人々には天罰が下されるのです(マタイ23:23)。後に、エルサレムの町と神殿はローマ軍によって完全に破壊されるのです(紀元70年)。


*エルサレム神殿はユダヤ人にとって神様が臨在される神聖な場所です。異邦人の中にもこのように考えている人が多いのです。神殿はそれ以外にも重要な役割を果たしているのです。イスラエルの政治・経済・社会を統括する国家機関なのです。大祭司によって最高法院が招集され、国の命運を左右する意思決定が行われているのです。ローマ帝国の利益のために自国の民を犠牲にするという苦渋の決断がエルサレム神殿においてなされたのです。ここでは法廷も開かれているのです。神殿はイスラエルの経済をコントロールするセンターなのです。中央銀行としての業務を行い、蓄積された莫大な富を保管しているのです。ところが、指導者たちは本来の機能を私的に悪用しているのです。イエス様は「強盗の巣」と化した神殿を「祈りの家」に戻そうとされるのです。物理的な力を用いて彼らに警告されたのです。「神の国」-神様の支配-が到来していることを群衆の前で公然と宣言されたのです。イエス様による実力行使が指導者たちの不信仰、神殿の商業化に対する「霊的な潔め」として語られているのです。ただ、「神の国」の全容を説明したことにはならないのです。福音(良い知らせ)が個人的な罪の問題に縮小されているからです。神様はしかるべき時に「新しい天地」を創造されるのです。イエス様を遣わし、ご計画を前もって明らかにされたのです。神様は指導者たちの腐敗と不正を断じて赦されないのです。イエス様は「神様の怒り」を表現されたのです。直接支配される日が近いのです。「神の国」は人間の「全的な救い」として完成するのです。

*神様はアブラハムに「わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである」と言われたのです(創世記18:19)。イエス様は律法学者たちの腐敗と偽善を厳しく批判されたのです。彼らはモーセの律法を教えているのです。しかし、言うだけで実行しないのです。しかも、律法に数多くの細かい規定を加えて人々を苦しめているのです。これらの人を「救い」に導くために指一本貸さないのです。守ることが出来ない人々を裁くだけなのです。自分たちの都合に合わせて律法を解釈するのです。神様さえも欺くのです。「神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない」、「祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない」と言うのです。黄金、供え物を神聖化するのです。献金(献品)の対象ではない農産物(薄荷、いのんど、茴香)の十分の一を献げて信仰を誇っているのです。彼らは白く塗った墓に似ているのです。外側は美しく見えるのです。しかし、内側は死者の骨で汚れているのです。外側は人に正しいように見せながら、内側は不法で満ちているのです。神様が遣わされた預言者、知者、学者たちを会堂で鞭打ち、町から町へと追い回しているのです。十字架上で処刑された人々もいるのです(マタイ23)。やもめたちや貧しい人々を虐げているのです。あらゆる策を弄(ろう)してこれらの人を搾取しているのです。

*人々がそれぞれの信仰に基づいて献金をしているのです。イエス様は献金額を確認できる位置に座られました。神様の前で「神の子」としての権威を示されたのです。金持ちたちがたくさんの献金をしているのです。貧しいやもめはレプトン銅貨二枚を捧げたのです。弟子たちを含め多くの人は献金額から金持ちの方が信仰心篤く、やもめは信仰心の薄い人として評価しているのです。しかし、神様は心の内を御覧になられるのです。イエス様が注目されたのは献金額の多寡ではなかったのです。信仰心を比較されたのです。献金額の多寡と信仰心は必ずしも連動しないのです。金持ちたちは献金の額によって「永遠の命」に与れると思っているのです。「神の国」に入るためには隣人-貧しい人々や虐げられた人々-を愛することが必須の要件なのです。それを実行すれば「救いの道」は開かれるのです(マタイ25:31-40)。一方、指導者たちは貧しい人たちにも「十分の一献金」を強いるのです。相応の献金をしなければ神様に罰せられるかのように教えているのです。やもめはその指示を忠実に実行したのです。しかし、生活費のすべてを捧げるような献金のあり方は「神様の御心」に反しているのです。確かに、イエス様は「だれよりもたくさん献金した」と言われたのです。やもめの信仰を誉められたのです。ただ、イエス様の真意を正確に理解することが重要です。注目すべき点はやもめの信仰心の篤さだけではないのです。生活費の全部を献金させる指導者たちの罪が告発されているのです。神様を欺く人々が「永遠の命」に与ることはないのです。

*律法学者たちは人々の前で「先生(ラビ=偉大な指導者)と呼ばれることを好んでいました。イエス様は弟子たちに「あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ 。・・『教師』(学究的先生)と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである」と言われたのです(マタイ23:8-10)。イエス様が天に上られた後、信仰共同体は初代教会へと発展するのです。信徒の数が増え、階層化も進んだのです。組織の効率化が不可欠になったのです。祭司(牧師)のような指導者たちが信徒の群れを率いるようになるのです。献金が貧しい信徒たちに分配されなくなったのです。指導者たちの生計維持に充当されるのです。しかし、パウロは経済的自立を貫いたのです。設立した教会から得られる権利-経済的支援-を敢えて行使しなかったのです。テント職人として働き、生活費を得ていたのです(1コリント9:12-18)。それは誰からも束縛されずに「復活の主」を証しするためであったのです。キリスト信仰を説明するためにパウロの「言葉」が多く引用されるのです。しかし、「生き方」への関心度は極めて低いのです。「聖書に忠実である」と明言する教会があるのです。愛が強調されているのです。ところが、正義や平和の重要性にほとんど言及していないのです。重要な聖書の個所が恣意的(しいてき)に選別されているのです。イエス様は「何よりもまず、神の国(神様の主権)と神の義(正義)を求めなさい」と命じられたのです(マタイ6:33)。お言葉を肝に銘じるのです。

2024年10月13日

「使命を果たしなさい」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書25章14節から30節

「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔(ま)かない所から刈り取り、(種子を)散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れて(銀行家に預けておく)おくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

(注)

・1タラントン:平均的労働者の15年分以上の賃金に相当する金額です。例えば、一日の賃金が10,000円とします。365日x15年x10,000円=54,750,000円となります。

・商売をして:宣教することです。迫害の危険に遭遇するのです。

・穴に埋める:何もしないということです。

・蒔かない所から刈り取り・・:人間にとって不可能なことです。(しかし、神様はそれを可能にされるのです。)

■イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた(神様に委ねた)者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(マルコ10:29-31)

・銀行に入れる:専門家に運用を委ねることです。優れた指導者の助言を求めることです。

・持っている人々、持っていない人々:「天の国」、「神の国」についての知識を持っている人々とそうでない人々のことです。「神の国」は死後に行く天国のことではないのです。神様の主権、神様の支配を表す言葉です。イエス様を「救い主」として信じる人々は神様と隣人を愛するのです。委ねられた才能を用いて「神の国」を建設するのです。

・12弟子:ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベタイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダです。(マタイ10:2)

(メッセージの要旨)

*イエス様は「タラントン」の前に「ノアの箱舟と大洪水」(創世記6-7章)に触れ、さらに「忠実な僕と悪い僕」や「十人のおとめ」のたとえ話を語っておられます。弟子たちにご自身の「再臨」-最後の審判-に備えるように前もって指示されたのです。主人と預かったお金を運用する僕たちとのやり取りはイエス様の教えを実践しようとする弟子たちの姿勢にたとえられているのです。イエス様は町や村を巡っては会堂で「神の国」の福音を宣べ伝え、人々のありとあらゆる病気や患いを癒されたのです。群衆が飼い主のいない羊の様に弱り果て打ちひしがれているのをご覧になって、働き手の少ないことを痛感されたのです。ペトロなど12弟子(後に72人)を選んで各地に派遣されたのです。病人たちをいやし、死者たちを生き返らせ、重い皮膚病を患っている人たちを清くし、悪霊たちを追い払う権能を授けられたのです。同時に「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と言われたのです。遭遇する苦難を予告されたのです(マタイ10:1-16)。派遣された弟子たちはそれぞれのタラントン(才能)を用いて「神様の御心」を実現したのです。一方、使命の遂行に逡巡(しゅんじゅん)した僕がいたのです。結局、怠惰な僕として「神の国」から追放されたのです。イエス様は「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」と言われました(マタイ10:39)。「行い」によって信仰を証しすることが求められているのです。自分の十字架に不忠実な人は「永遠の命」に与れないのです。

*イエス様は安易な信仰理解を戒めておられるのです。信仰には「行い」が伴わなければならないのです。弟子たちに人間の力を遥かに超えるタラントンが委ねられているのです。民衆は多くのしるしと不思議な業を見聞きしているのです。人々は病人たちを大通りに運び出し、担架や床に寝かせたのです。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにするためでした。果たして、そのことが起こったのです。一人残らず癒されたのです(使徒5:12-16)。地中海沿岸の町ヤッファにタビタという女性の弟子がいました。当時としては画期的なことです。この人はたくさんの良い行いや施しをしていました。ところが、病気で死んだのです。近くのリダに来ていたペトロはこの弟子を生き返らせたのです(使徒9:36-43)。一方、使徒たちに対する迫害は激しくなったのです。それはすべての弟子に広がったのです。最初の殉教者はステファノでした。恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていたからです。逮捕された後も最高法院で大祭司の前で堂々とイエス様への信仰を証ししたのです。神様への冒涜の罪で石打の刑に処せられたのです(使徒6:8-8:3)。ヘロデ大王の孫アグリッパ王は各教会に迫害の手を伸ばすのです。使徒ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺害したのです(使徒12:1-5)。「神様の御心」を実現するためには覚悟がいるのです。キリスト信仰に生きようとすれば迫害に遭遇するのです。弟子たちの中にもう一歩を踏み出せない人々もいたのです(ルカ9:57-62)。

*イエス様は律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実を実行しなさいと言われました(マタイ23:23)。キリスト信仰に生きる人々にはそれぞれに相応しいタラントンが与えられているのです。それらを「神様と隣人への愛」に用いるのです。新約聖書にはたくさんの具体例が記述されています。七つの悪霊を追い出していただいたマグダラのマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、スザンナなど多くの女性は自分の持ち物を出し合ってイエス様の一行に奉仕していたのです(ルカ8:1-3)。ユダヤ人たちから蔑まれていたサマリア人の女性はイエス様に出会ったのです。サマリアの地で最初の宣教者になったのです(ヨハネ4:1-42)。徴税人の頭ザアカイは財産の半分を貧しい人々に施したのです(ルカ19:38-42)。ニコデモはファリサイ派に属する議員でした。しかし、最高法院の意向に反してイエス様を弁護したのです(ヨハネ7:45-45-52)。アリマタヤ出身の議員ヨセフはローマの総督ポンティオ・ピラトにイエス様の埋葬を申し出たのです。初代教会においても見られたのです。バルナバと呼ばれるキプロス島生まれのヨセフなど土地や家を持っている人々はそれらを売ったのです。代金を持ち寄り使徒たちに委ねたのです。そのお金は信仰共同体のメンバーに必要に応じて分配されたのです(使徒4:32-37)。パウロはキリストの信徒たちを迫害していたのです。「復活の主」に出会って回心したのです(使徒9:1-19)。異邦人の宣教に生涯を奉げたのです。誰よりも労苦したのです(2コリント11:16-29)。

*「神の国」の福音(良い知らせ)-人間の全的な救い-が「罪からの救い」に縮小されているのです。しかも、キリスト信仰の厳しさが伝えられていないのです。福音はすべての人に届けられるのです。「救い」に与るためには幾つかの要件を満たす必要があるのです。主人から預かった1タラントンを僕はそのまま返したのです。何かの悪事を働いた訳でもないのです。しかし、この人は「永遠の命」に与れなかったのです。ある金持ちは律法を厳格に守っていたのです。ところが、富に執着したのです。貧しい人々に財産を施さなければ「神の国」に入れないのです(マルコ10:17-31)。傲慢な人々は心を入れ替えるのです。子供のように自分を低くしなければ決して「神の国」に入れないのです(マタイ18:1-5)。「救い」に不安を覚える弟子たちもいたのです。神様への信頼はキリスト信仰の真髄(しんずい)なのです。イエス様は機会あるごとに「終わりの日」に備えるように指示されたのです。キリスト信仰は「安価な恵み」ではないからです。「行い」のない信仰はそれだけでは死んでいるのです(ヤコブ2:14-17)。三人の僕のうちの二人は遭遇するかも知れない困難を承知の上で全力を尽くしたのです。もう一人は使命の遂行よりも自分の身の保全を優先したのです。その原因は自分の不信仰にではなく、主人(神様)の厳しさにあったと説明するのです。神様は「この民は・・唇でわたしを敬うが心はわたしから遠く離れている」と言われたのです(イザヤ書29:13)。神様は心の内をご存知です。欺く人を赦されないのです。

*イエス様は聖霊様によって誕生し「神の国」の福音に生涯を捧げ、天に戻られました。しかし、しかるべき時に再び来られるのです。再臨において、「新しい天地」が創造されるのです。神様から委ねられた「裁きの権限」を行使されるのです。すべての人が裁かれるのです(ヨハネ5:21-30)。忠実な僕であったかどうかによって、ある人は「永遠の命」に与り、ある人は「滅び」に至るのです。完成した「神の国」においては「・・神の幕屋が人(人々)の間にあって、神が人(人々)と共に住み、人(人々)は神の民となる。神は自ら人(人々)と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。・・」のです(ヨハネの黙示録21:3-4)。キリスト信仰を標榜する人々はこの福音を信じているのです。ただ、イエス様は「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。・・洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである」、「いつも目を覚ましていなさい」と言われたのです(マタイ24:36-44)。キリストの信徒たちにはそれぞれ貴重なタラントンが委ねられているのです。それらを「神様の御心」を実現するために有効に用いなければ「怠け者」として評価されるのです。自己義認はその人の「救い」に役立たないのです。キリスト信仰は「行い」を求めるのです。この事実を深刻に受け止めるのです。

2024年10月06日

「巧妙な搾取と偽善」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書20章1節から16節

「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者(たち)を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者(たち)をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者(たち)から始めて、最初に来た者(たち)まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中(者たち)は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中(最後に来た者たち)とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者(たち)にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

(注)

・聖書を正しく理解するためには当時の社会・政治・経済状況を常に念頭に置くことが必要です。キリスト信仰の根本理念に「正義」と「公平」の実現があるからです。

・労働者たち:元々、多くは農民でしたが借金を返済できずに担保の土地を失い労働者となった人々です。高利貸しの中には祭司たちもいたのです。彼らは毎日早朝から仕事を求めて「一定の場所」で雇い主たちが来るのを待ったのです。

・夜明け:午前6時です。

・1デナリオン:ローマ皇帝カエサルの肖像と刻印がある銀貨です。一般的労働者の一日の賃金に相当する額です。ただ、大きな家族の生計維持に十分な額ではないのです。

・神様の正義と愛:すべての分野に及ぶのです。

■寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。・・貧しい者(たち)に金を貸す場合は・・高利貸しのように・・利子を取ってはならない。・・隣人の上着を質に取る場合には、日没までに返さねばならない。(出エジプト記22:20-26)

■あなたたちは、不正な物差し、秤、升を用いてはならない。・・わたしのすべての掟、すべての法を守り、それ(ら)を行いなさい。わたしは主である。」(レビ記19:35-37)


■同胞であれ、あなたの国であなたの町に寄留している者であれ、貧しく乏しい雇い人(たち)を搾取してはならない。賃金はその日のうちに、日没前に支払わねばならない。彼(ら)は貧しく、その賃金を当てにしているからである。彼(ら)があなたを主に訴えて、罪を負うことがないようにしなさい。(申命記24:14-15)

・友よ:友達のように訳されていますが、実際には情愛のこもった言葉ではありません。元々は仲間のような少し距離を置いたニュアンスの言葉です。イエス様がご自身を逮捕するために群衆(ローマ兵を含む)と共にやって来たイスカリオテのユダに対して使われたお言葉と同じです。マタイ26:50を参照して下さい。

・後にいる者が先になり、先にいる者が後になる:

「神の国」(天の国)においてはこの世の地位が逆転するのです。イエス様は次のように言われました。

■自分を低くして、この子供のようになる人が天の国ではいちばん偉いのだ。(マタイ18:4)


■わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた(神様に委ねた)者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。(マタイ19:29)

・イエス様の宣教の原点:

■イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人(人々)に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人(人々)に解放を、/目の見えない人(人々)に視力の回復を告げ、/圧迫されている人(人々)を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(ルカ4:16-21)

・主の祈り:イエス様が教えられたこの祈りには借金に苦しむ労働者たちの切実な願いが表現されているのです。


■だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/赦しましたように。 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』 (マタイ6:9-13)

(メッセージの要旨)

*イエス様は「神様の御心」を軽んじる家の主人たちへの警告としてたとえ話を語られたのです。この家の主人はぶどう園で働く労働者たちを雇うために広場(労働市場)とぶどう園を何度も行き来しているのです。たくさんのぶどう園を所有していたからです。「家の主人」という日本語訳は彼らが貪欲な経営者であることを曖昧にするのです。「地主」と訳すべき言葉です。金持ちの地主はその日の仕事を求める労働者たちと交渉しています。一デナリオンの賃金に合意した労働者たちをぶどう園に送ったのです。「合意した」という言葉も誤解を招くのです。両者が対等であるかのような印象を与えるからです。実際は雇い主に最終的な決定権があるのです。成人男性は一デナリオンによってかろうじて肉体の必要を満たしているのです。家族を養うためにはもっとお金がいるのです。労働者たちは本来自分と家族を養えないような低賃金に同意しないのです。しかし、他に選択肢がなければ地主の提案を受け入れざるを得ないのです。地主は労働者たちの状況(弱さ)を熟知しているのです。利益を最大化するためには善意さえも装うのです。その方法は労働者たちの間に分裂をもたらすのです。たとえ話は貧しい人々の現実を反映しているのです。キリストの信徒たちは神様の愛と憐れみに注目しがちです。しかし、神様は正義と公平を大切にされるお方なのです。地主は暑い中一日中働いた労働者たちの正当な抗議を無視するのです。賃金の支払いを最後に回して侮辱しているのです。真実を見誤ってはならないのです。神様はこの人を厳しく罰せられるのです。

*たとえ話を聞いている人々の大半は貧しい農民であり、自分たちの姿と重ね合わせたのです。自分たちの土地があれば広場に仕事を求めて行くことはなかったのです。ところが、彼らにすでに土地はなく、生活の糧を確保するために仕事を見つける必要があるのです。どのような賃金でも働かざるを得ないのです。この事実は労働者たちの地主への対応に表れています。彼らはどれくらい払ってくれるかについて協議していないのです。地主の提示した額を考慮することなくそのまま受け入れているのです。労働者たちは地主が賃金を正当に支払ってくれることを願うだけなのです。地主と労働者たちの間にある力の差は歴然としているのです。一方には「ぶどう園」があり、他方には「労働力」しかないのです。地主が労働者たちの弱さに付け入るだけで十分に狡猾です。その上に、仕事を求めて広場にいる労働者たちに「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と尋ねているのです。農民たちは様々な理由(借金の返済など)によって土地の所有権を失い、必死で仕事を探しているのです。地主はその主要な原因を知っているのです。侮蔑的な質問をして労働者たちの自尊心を傷つけているのです。怠けて失業者になっているかのように認識させているのです。偽善は労働者たちの非難が自分たちに向かうことを避ける工夫の一つなのです。自然界に引力の法則があるのです。人間社会の経済活動にも法則があるのです。土地や資本を持っている人たちはそれらを持たない人々よりも優位に立つのです。たとえ話はその事実を具体的に明らかにしているのです。

*地主は労働者たちの不満に対する反論の根拠として「あなたがたはわたしと一デナリオンの約束をしたこと」を挙げるのです。地主は多くのぶどう園を所有しているのです。労働者たちには働く以外に生活の糧を得る方法がないのです。提示された賃金を拒否する余裕などないのです。労働者たちは地主の条件に合意しなければ決して雇われないことを知っているのです。地主は「わたしの気前のよさをねたむのか」と言って、巧みに論点をすり替えるのです。自分の善意に目を向けさせるのです。しかし、「神様の御心」に沿って是非を判断するのです。同一労働同一賃金の原則からすれば表面上の平等が不平等を招いているのです。気前の良さの問題ではないのです。ある労働者たちを苛酷に働かせ、ある労働者たちの労働時間を恣意的に軽減させているのです。それぞれの時刻に雇った労働者の人数は不明です。一般的に、早朝六時にぶどう園に送られた労働者の数が最も多いのです。1デナリオンで十二時間働いたのです。これらの人の労働によって十分な収益が確保されているのです。憐れみ深い人であるなら自分の利益を減らしてでも労働時間に応じた賃金を支払うのです。何よりも、労働者たちを時間ごとに雇うことなどしないのです。早朝に一括して採用するからです。その方が効率的です。長時間働いた労働者たちから非難された地主は「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか」と善意を強調しているのです。搾取と偽善のたくらみが露見しないように振る舞うのです。

*地主は労働者たちの賃金を一方的に決定しているのです。不公平な賃金の決定方法によって、一時的に得をした労働者たちがいるのです。しかし、楽をして賃金を得た労働者たちに明日も同じようなことが起こるとは限らないのです。別の雇い主が1デナリオン以下の賃金で働くことを強いるかも知れないのです。最悪の場合、一日中仕事に就けないこともあるのです。気まぐれや気前の良さは不公平を助長するのです。地主は尊大です。言葉には労働者たちへの愛や配慮が見られないのです。用いた方法も悪意に満ちているのです。自分の利益を最大化するために労働者たちを欺いているのです。労働者たちの間に分断をもたらしているのです。地主の強欲と富への執着がこの問題の根本原因なのです。労働時間数に応じて賃金を支払えば誰もが納得するのです。日没が六時であれば,五時に雇った労働者は一時間働いたのです。地主はこの人に1デナリオンを支払ったのです。この基準を他の労働者にも適用するのです。三時に雇った人には三デナリオン、正午に雇った人には六デナリオン、朝九時に雇った人には九デナリオン、六時に雇った人に十二デナリオンを支払うのです。ところが、一律だったのです。早朝から働いた労働者たちが賃金の上積みを求めることは当然です。地主が自分の取り分を減らして賃金に充当することはなかったのです。「主の祈り」にあるように、土地を失った(奪われた)農民たちは困窮しているのです。その日の糧を得ることに苦労しているのです。地主は労働者たちの声に耳を傾けなかったのです。神様がその訴えに応えられるのです。

*イエス様はファリサイ派の人々や律法学者たちの偽善を激しく非難して「律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実をないがしろにしている。これらこそ行うべきである」と言われたのです(マタイ23:23)。労働者のすべてが単身者ではないのです。これらの人には年老いた両親、妻や子供たちがいるのです。地主の目的は労働者たちを巧妙に搾取して最大の利益を得ることなのです。その意図を偽善によって覆い隠すのです。見せかけの正義と公平によって労働者たちを対立させるのです。地主は労働者たちに労働時間に関係なく1デナリオンを支払ったのです。契約上は正しいのです。キリストの信徒たちの中に地主の主張に賛同する人も多いのです。しかし、同一労働同一賃金の観点からは全く不公平なのです。地主の言動は愛と慈しみに満ちた「神様の御心」に反しているのです。労働者たちは地主が提示した賃金に異を唱えることなど出来ないのです。形式的な平等が実質的な不平等を生み出しているのです。地主の目的は明確です。労働者たちが生み出した果実を可能な限り自分の所有物にすることなのです。偽善はそのための手段なのです。イエス様は貧しい労働者たちに窮状の原因を分かり易く説明しておられるのです。雇い主の不正に対する労働者たちの申し立てを支持しておられるのです。神様はすべてのことをご存じです。虐げられた労働者たちの側に立たれるのです。不正を働く人々に報復されるのです。今日、同様なことが起こっているのです。農民や労働者たちが苦しんでいるのです。「神の国」においてはこの世の地位が逆転するのです。

2024年09月29日

「議員ニコデモの信仰」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書3章1節から15節

さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ(先生)、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。(わたしはそのように思わないのですが・・)」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風(霊)は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。

はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

(注)


・夜:イエス様は「・・しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである」と言われています(ヨハネ11:10)。ヨハネ13:30を併せてお読みください。

・ファリサイ派:厳格な律法解釈とその遵守、さらには慣習と伝統を大切にするユダヤ教の一派です。

・律法学者:文書を記録する官僚であり、同時に学識を有する学者です。多くはイエス様に批判的でしたが、「先生,あなたがおいでになる所ならどこへでも従って参ります」と言った律法学者もいたのです(マタイ8:19)。

・神の国:「天の国」とも言います。死後に行く「天国」のことではありません。神様の支配、神様の主権のことです。福音(良い知らせ)とは、神様がこの世を終わらせて「新しい天地」を創造されることです。イエス様はご自身の教えと「力ある業」を通してご計画の一部を示されたのです。いずれ、再臨する(再び来る)時に完全なものにされるのです。

・水と霊:旧約聖書にも記述されています。「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる」(エゼキエル書36:25-27)。イザヤ書32:15-20、ヨエル書3:1-5も参照して下さい。

●ユダヤ教ではユダヤ教への改宗者を「新しく生まれた子」と呼んでいました。

・霊から生まれた者:マリアはイエス様を聖霊様によって身ごもったのです(マタイ1:20)。

・サンへドリン:新共同訳聖書では「最高法院」と訳されています。エルサレムにあり、もともと司法(律法)に関する最高意思決定機関としての役割を果たしていました。大祭司がこの評議会の議長を担当し、議員は主として祭司職の家系の者、律法学者のような宗教指導者から選ばれました。結果として、祭司職のサドカイ派の人々、ファリサイ派に属する律法学者たちで構成されたのです。また、いずれの派にも属さない律法や慣習を監督する長老もメンバーに含まれていたのです。イエス様の時代にはローマ帝国の支配下にあり、大祭司は任命されたのです。自分たちで選ぶことは出来なかったのです。エルサレムの司法、行政、宗教(神殿政治)の中枢を担っていました。

・荒れ野の蛇:エジプトから導き出されたイスラエルの民は荒れ野における厳しい生活に耐えきれず、神様に不平を漏らしたのです。神様は怒って猛毒の蛇を地上の民に送られました。多くの死者が出たのです。神様の指示に従ってモーセは青銅の蛇を造り旗竿の先に掲げたのです。噛(か)まれてもこの蛇を仰げば死ぬことはなくなったのです。民数記21:4-9を参照して下さい。

(メッセージの要旨)

*ニコデモはヨハネによる福音書だけに三回登場します。信仰心の篤いユダヤ人で、サンヘドリンのメンバーでした。ファリサイ派の一員としてイエス様を理解しようと努力していました。密かな出会いを望んでいたのか、群衆を避けようとしていたのかは分かりませんが、イエス様を夜に訪問したのです。イエス様はご自身が「神の子であること」を信じられない人々に「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくてもその業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう」と言われました(ヨハネ10:37-38)。ニコデモは「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」と言っているように、彼(のグループ)はイエス様が神様から遣わされた教師であることを認めているのです。ただ、ニコデモが順守して来た「律法と預言者たち(の教え)」は洗礼者ヨハネの時を最後に重大な転換点を迎えるのです。イエス様を通して「新しい天地創造」が告げられているのです。この世の終わりが近いのです。イエス様は人々に水と霊(の洗礼)によって新たに生まれることを求められたのです。ニコデモはユダヤ教の教えと経験に基づいて反論するのです。ところが、新しく生まれ変わったのです。イエス様に有利な発言をしているのです。十字架上で処刑されたイエス様を埋葬したのです。同僚から非難され、地位の剥奪が予想されるのです。

*イエス様は神様から遣わされたお方です。ユダヤ教の教師(あるいは預言者)に留まらないのです。イエス様はニコデモの信仰理解をさらに深められるのです。サマリア人の女性に「神は霊である。 だから、神を礼拝する者は、霊と真理を持って礼拝しなければならない」(ヨハネ4:24)と言われたように、ニコデモにも「水と霊による洗礼を受けなければ神の国に入れない」と明言されたのです。ニコデモは神様がイエス様と共におられることを認めているのです。もう一歩が踏み出せないのです。イエス様は慈しんで「そこまで理解しているのに、なぜ、ご自身の中に神様がおられることを信じないのか」と不信仰を指摘されたのです。イエス様の母マリアは聖霊様によって身ごもったのです。イエス様が洗礼を受けられた時、天が裂けて「霊」が降っているのです(マルコ1:10)。神様はイエス様によって語られるのです。信じる人々に「永遠の命」を与えられるのです。神様とイエス様と聖霊様は一つなのです(ヨハネ10:30)。律法の厳格な順守による「救い」を確信し、人々にもそのように教えて来たニコデモが難題に直面しているのです。イエス様への応答がその人の「救い」を決定するという絶対的な要件に困惑するのです。律法の順守と「神の国」の福音とは矛盾しないのです。イエス様が「律法を廃止するためではなく、完成するために来た」と言われるからです(マタイ5:17-20)。イエス様を「神の子」と信じ、御跡に従うことは簡単ではないのです。新たに生まれるためには過去の生き方からの決別と強い信頼が不可欠なのです。

*イエス様はファリサイ派の人々や律法学者たちを非難して「(彼らは)モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」と言われたのです(マタイ23:2-4)。ニコデモはファリサイ派に属する議員です。律法を厳格に順守しているのです。社会的地位もあり、宗教指導者なのです。鋭く対立している相手のイエス様と会うことには危険が伴うのです(ヨハネ9:22)。相応の覚悟がなければイエス様を訪れることなど出来ないのです。しかし、ニコデモは他のファリサイ派の人々とは違っていました。自分の中に生じた「新しい教え」に対する疑問を何とかして解明したいのです。見えない力がそうさせているのです。すでに、聖霊様に導かれているのです。水と霊による洗礼は儀式や形式ではないのです。信仰を貫くことが出来る「神様の御力」に与ることなのです。ニコデモはイエス様への信仰を隠している議員が多い中、「行い」によって信仰を公にした数少ない人です(ヨハネ12:42-43)。キリスト信仰が誤解されているのです。「神の国」の福音-人類の全的な救い-が「霊的に」のみ語られているのです。ニコデモは最初「新しく生まれること」を論じたのです。ところが、後に「生き方」によってそれを示したのです。イエス様と出会って「水と霊から生まれた者」-真のキリストの信徒-になったのです。

*イエス様のお言葉「だれでも水と霊とによって生まれなければ、・・あなたがたは新たに生まれねばならない・・」が心(認識)の問題として理解されているのです。イエス様を「神の子」として信じた人々がこの世(肉)と同調することは出来ないのです。イエス様は神殿の境内から商売人たちを「実力行使」によって追い出されたのです。祭司長たちやファリサイ派の人々は激怒したのです。イエス様を捕らえるために下役たちを遣わすのです。イエス様を捕らえて殺そうとしているのです(マルコ11:15-18)。状況は緊迫しているのです。イエス様を信じる人たちも迫害を受けるのです。それでも、ニコデモは議員たちやファリサイ派の人々に「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」と警告しているのです(ヨハネ7:51)。権力者たちは威信が損なわれないように最善を尽くすのです。組織内部から造反者が出ないように注意を怠らないのです。必要なら力(恐怖)を用いて抑圧するのです。ニコデモが信念に基づいて「組織的律法違反」を告発するのです。制裁と不利益を被(こうむ)ることは避けられないのです。キリスト信仰とは信じることではないのです。「行い」によって信仰を証しすることなのです。ニコデモはイエス様の教えを聞いたのです。それらを実行するのです。「何よりもまず、神の国(神様の支配)と神の義(神様の正義)」を求めたのです(マタイ6:33)。新しく生まれたキリストの信徒はこのような人なのです。

*イエス様は聖霊様に導かれ「神様の御心」を実現するためにご生涯を捧げられました。権力の中枢にいたニコデモはイエス様に出会って新しく生まれ変わったのです。その後、同僚たちの非難を恐れずに律法を順守してイエス様を弁護したのです。そして、処刑されたイエス様のご遺体を議員であるアリマタヤのヨセフと共に埋葬したのです(ヨハネ19:38-40)。ヨセフは弟子であることを隠していたのです。ところが、イエス様のご遺体を取り降ろしたいとローマの総督ポンティオ・ピラトに願い出たのです。イエス様への信仰が公けになったのです。記述はないのですが、権力の中枢から迫害されたことは火を見るより明らかです。ニコデモやヨセフは議員の立場で出来ることを実行したのです。新しく生まれ変わった人々はこの世の常識の範疇(はんちゅう)-利害あるいは損得-で行動しないのです。最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実践するのです(マルコ12:29-31)。金持ちや社会的地位の高い人々が「神の国」に入るのは難しいのです。彼らには執着する物があまりにも多いからです。ニコデモはイエス様に出会って何が最も大切なことであるかを知ったのです。「水と霊によって生まれること」について様々な神学論争が行われているのです。議論で解明される問題ではないのです。もっと単純なのです。イエス様に神様と聖霊様が共におられることを信じるのです。「神様の御心」に沿ってこの世を生きるのです。議員ニコデモはイエス様を夜に訪れて「救い」に与ったのです。イエス様の教えを忠実に守った人なのです。

2024年09月22日

「狭い戸口」

聖書朗読(Bible Reading)ルカによる福音書13章22節から30節

イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義(悪)を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに(のを見るとき)、自分(たち)は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

(注)

・「救われる者は少ないのでしょうか」は広く議論されていました。旧約聖書続編のエズラ記(ラテン語)7:45-61を参照して下さい。旧約聖書続編は従来、第二聖典、アポクリファ、外典などと呼ばれています。紀元前三世紀以後、数世紀の間に、ユダヤ人によって書かれたものです。現在のヘブライ語の聖書の中には含まれていないのですが、初期のキリスト教徒はこれをギリシャ語を用いるユダヤ教徒から聖なる書物として受け継いだのです。この部分についてのカトリック教会の評価は定まっていますが、プロテスタント諸教会の間では必ずしも一定していないのです。(新共同訳聖書1987年版序文から)

■ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネ21:20-22)

・狭い戸口:

■すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」(ルカ10:25-28)

■「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイ25:31-40)

・不義を行う者ども:「不法」を働く者どもと訳す方が適切です。


■悪を行う者よ、皆わたしを離れよ。主はわたしの泣く声を聞き 主はわたしの嘆きを聞き/主はわたしの祈りを受け入れてくださる。(詩編6:9-10)


■イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」(マルコ12:38-40)

・神の国:神様の支配、神様の主権のことです。天の国とも言われます。ここでは狭い戸口のある家として表現されています。

・東から西、南から北: 世界中から

・後の人で先・・・:神様が最初に選ばれたのはイスラエル(ユダヤ人たち)です。しかし、不信仰の故にイエス様を通して「救い」はすべての民族に及ぶのです。

(メッセージの要旨)


*ある人がイエス様に「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねています。どのような思いから質問をしたのかは分かりませんが、この問題はユダヤ人の間では大きな関心事だったのです。すべてのイスラエルの民は救われると考える人もいれば、エジプトから脱出した人々の中で「約束の地」カナンに入ったのはヨシュアとカレブだけであったことを心に留める人もいたのです(民数記14:1-38)。イエス様は質問内容に直接答えるのではなく、もっと重要な問題―「どのようにすれば救われるのか」―について言及されたのです。そして、人々に「狭い戸口から入るように努めなさい」と言われたのです。これは、山上の説教で語られたお言葉「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」の再確認なのです(マタイ7:13-14)。多くの人は信仰によって「救い」が得られると信じているのです。しかし、「神の国」に入れる人は少ないのです。神様のご認識とキリストの信徒たちの理解には相違が見られるのです。「信仰によって救われる」という言葉が正しく伝えられていないのです。キリスト信仰は安価な恵みではないのです。「狭い戸口」、「狭い門」から入ることを求めるのです。自己犠牲を伴う厳しい信仰なのです。「神様の御心」-神様と隣人を愛すること-を実行した人が「永遠の命」に与れるのです。イエス様の御跡を辿(たど)るのです。苦難を覚える隣人のために全力で奉仕するのです。


*新約聖書の中に「広い門」を選んで滅びに至った人々と「狭い戸口」から入って「救い」に与った人々が記述されています。財産に執着して「神の国」から遠ざかった金持ちがいました。この人は律法の規定を忠実に守って生きて来たのです。ところが、「永遠の命」への確信が得られなかったのです。イエス様に「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と質問したのです。イエス様は「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬えという掟をあなたは知っているはずだ」と答えられたのです。金持ちは「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と誇らしげに語ったのです。イエス様は金持ちを慈しんで「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い貧しい人々に施しなさい。天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と命じられたのです。金持ちは「永遠の命」に至る道の厳しさに驚いたのです。気を落として悲しみながら立ち去ったのです。イエス様は「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と言われたのです。更に「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と続けられたのです。弟子たちは「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言ったのです(マルコ10:17-26)。自己評価は役に立たないのです。大切な物を捨てる(神様に委ねる)ことが求められているのです。金持ちは「狭い戸口」から入ることを決断出来なかったのです。


*「狭い門」から入った人々の中に徴税人のザアカイがいました。貧しい人々は重税に喘いでいました。徴税人たちが不正な取り立てをしていたからです。しかも、ローマ帝国の徴税に協力して利益を得ていたのです。ユダヤ人たちは彼らを民族の裏切り者と呼んだのです。罪人として蔑(さげす)んだのです。ザアカイはエリコ(エルサレムの東約37km)に住んでいました。徴税人の頭で金持ちでした。ある時、イエス様がこの町を通っておられました。ザアカイはどんな人か見ようとしたのですが、背が低かったので群衆に遮られて見ることができなかったのです。そこで、先回りしていちじく桑の木に登ったのです。イエス様はその場所に来ると「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われたのです。ザアカイは喜んでイエス様を迎えたのです。これを見た人たちが「イエス様は罪深い男のところに行って宿をとった」とつぶやいたのです。当然のことかも知れません。ところが、ザアカイはイエス様の憐れみに「行い」によって応えるのです。新しい生き方を表明するのです。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と言ったのです。前半は任意ですが、後半は律法の規定を十分に満たしているのです(出エジプト記22:1)。イエス様はザアカイの心の内を御覧になったのです。「今日、救いがこの家を訪れた。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」と言われたのです(ルカ19:1―10)。正義、慈悲、誠実は「救い」の基本要件なのです。


*「不義」と訳されている言葉には道徳的な過ちのニュアンスが強く表れているのです。原文の意味は不法行為、悪事のことなのです。信徒たちがキリスト信仰とこの世における生活を使い分けているのです。富の蓄積を擁護しているのです。一定の労働者を犠牲にしても、経営者が利益を得ることは企業の正当な経済活動だと主張しているのです。しかし、イエス様が明言されたように神様と富との両方に仕えることは出来ないのです(ルカ16:13)。「神の国」(神様の支配)と「神様の義」(神様の正義)を優先するのです(マタイ6:33)。当時の弟子たちがそうであったように、現代の信徒たちも同じ道を歩んでいるのです。イエス様の教えが日常生活から乖離(かいり)していることを理由に「逃れの道」を模索するのです。自分にとって可能な「戒め」だけを実行しているのです。イエス様は「『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。・・」と言われたのです(マタイ7:21-23)。ヤコブも「・・行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」と警告するのです(ヤコブ2:14-17)。「広い門」を選んだために「神の国」に入れない人が多くいるのです。キリスト信仰とは「神の国」の到来を福音(良い知らせ)として信じることです。人間の「全的な救い」として実現するのです。「罪からの解放」は一部です。キリストの信徒たちは「神様の恵み」を受けるだけでなく、「狭い戸口」から入るのです。「神の国」の建設のために責務を果たすのです。


*「狭い戸口」から入るために何よりも優先して神様の支配と神様の正義を求めるのです。ある男と徴税人ザアカイはいずれも金持ちでした。一方は、財産を施すことを惜しんで「神の国」から遠ざかったのです。金持ちが「神の国」に入ることは不可能に近いのです。しかし、イエス様は「人間にはできないことも、神様にはできる」と言われたのです(マタイ19:26)。お言葉の正しさが徴税人ザアカイを通して証明されたのです。徴税人は貧しい人々に財産の半分を施すこと、不正が確認されれば四倍にして返すことを明言して「救い」に与ったのです。イエス様は御子の権威によって「救い」の是非を判断される のです。このことを肝に銘じるのです。イエス様が「神様の御心」を実現するために十字架の死を遂げられたように、キリスト信仰に生きる人々も様々な苦難に遭遇するのです。「永遠の命」を希求しながら、神様のための「犠牲」を惜しむことは矛盾しているのです。キリスト信仰が誤解されているのです。キリスト信仰とはイエス様の教えを実行することです。イエス様に倣(なら)って生きることなのです。敵対する人々から迫害されるのです。イエス様は労苦している人々を慰め、励まして下さるのです。「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた(神様にお委ねした)者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」と約束されたのです(ルカ18:29-30)。イエス様を信じ「狭い戸口」から入るのです。「神の国」の到来を全力で証しし、名実ともにキリストの信徒になるのです。

2024年09月15日

「選ばれる人は少ない」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書22章1節から15節

イエスは、また、たとえを用いて語られた。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。 そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。

(注)

・「天の国」(神の国):神様の主権、神様の支配のことです。死後に行く天国のことではありません。イエス様の「力ある業」よって福音(良い知らせ)が具体化されているのです。

・譬えられた人々:王は神様、家来たち(僕、奴隷)はイスラエルの預言者、招かれた人々は不信仰なユダヤ人、別の家来たちはクリスチャンの預言者あるいは使徒のことです。

・婚宴:将来の天における「救い」の祝賀会がイメージされています(マタイ8:11)。

・町の破壊:指導者たちの不信仰はローマ軍の司令官ティトス(後のローマ皇帝)によるエルサレム陥落を招くのです(西暦70年)。

・婚礼の礼服:イエス様が歩まれたように生きることです。自分を正しい者とし、信仰を自負することは最も大きな罪の一つです。

●イエス様は「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、 その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」と言われたのです(マタイ7:13-14)。

・預言者イザヤ:紀元前738年ごろに活動を始め、不信仰な王と偽預言者たちと闘ったのです。

■わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。(イザヤ書56:7)


・預言者エレミヤ:イザヤからおよそ100年後の紀元前609年ごろ、国を憂い破滅から救うために活動したのです。

■わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。(エレミヤ書7:11)

・サマリア人:紀元前721年アッシリアがサマリアを支配下に置きました。サマリアでは混血が進み、独自の信仰が形成されたのです。ユダヤ人たちはサマリ人たちを蔑み、交際を拒否したのです。

・異邦人:ユダヤ人以外の人々のことです。

・大通り:あらゆる国の人々が行き交っているのです。

・通りや小道:イスラエルの「外」を表しています。そこにいる人々は異邦人たち、あるいはサマリア人たちを指しています。申命記32:21を参照して下さい。

(メッセージの要旨)

*たとえ話はユダヤ教の指導者たちに向けられています。イエス様は彼らの不信仰を批判し、「悔い改め」を求められたのです。一方、彼らが罪人として社会から排斥した人々に福音を届けられたのです。ユダヤ人たちから蔑まれていたサマリア人たちや異邦人たち、善人たちだけでなく悪人たちにも伝えられたのです。福音の種はすべての人に蒔(ま)かれたのです。しかし、すべての人が「神の国」の到来を信じた訳ではないのです。悔い改めて新しい道を歩むこと-神様と隣人を愛して生きること-を決断しなかった人もいたのです。具体例が挙げられています。イエス様を信じていながら神様の栄光よりも人間の賞賛を選んだ議員たち(ヨハネ12:42-43)、自分の財産を貧しい人々に施すことが出来なかった金持ちの男(マルコ10:17-31)、返せない大きな額の借金を免除してもらっても、自分に少額の負債がある人に返済を迫る人がいるのです(マタイ18:21-35)。重い皮膚病を癒してもらった10人の内「救い」に与ったのはサマリア人一人だけだったのです(ルカ17:11-19)。婚宴の席に礼服を着ていない人がいたのです。事前に招待を受けた人々は用意することが出来るのです。しかし、大通りや小道で招待された人々には時間的ゆとりなどないのです。経済的余裕がある人もほとんどいないのです。悪人たちも招かれているのです。婚礼の礼服とは「悔い改め」、「罪人としての自覚」のことなのです。ユダヤ人や異邦人の区別なく、「神様の御心」に相応しい実を結ばない人々は「神の国」の福音に与れないのです。

*聖書は膨大な書物です。人によって読み方が異なるのは自然なことです。読書計画を立てて読まれる方がおられます。一方、特定の章を選んで、あるいは 小見出しを見て読まれる方も多いのです。婚宴のたとえ話が語られた背景、状況、聞き手は誰かなどを知っておくことは、内容を理解する上で助けとなるのです。旧約聖書にはイスラエルの指導者たちと民衆の信仰の歴史が記述されています。神様は偶像礼拝を繰り返すイスラエルを導くために預言者を遣わされたのです。権力者(王)のほとんどが彼らの警告に耳を傾けなかったのです。民衆は外国勢力の支配下にあって辛酸(しんさん)をなめたのです。一部は「捕囚の民」としてバビロン(現在のイラク)へ連行されたのです(紀元前587年)。イエス様の時代においても指導者たちは祖先と同じ道を歩むのです。ローマ帝国の重税に協力して私腹を肥やしたのです。「悔い改め」を迫る洗礼者ヨハネを殺し、「神の国」の福音を拒否したのです。イエス様は群衆の大歓迎を受けてエルサレムに入場されました。先ず、神殿の腐敗を非難されたのです。境内から商売人たちを追い出し、両替人たちの台や鳩を売る者の腰掛を倒されたのです。二人の預言者の言葉を引用して「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」と言われたのです(マタイ21:12-13)。後日、境内で教えておられる時、憤った祭司長や民の長老たちが「権威の根拠」を尋ねているのです。イエス様は「御子の権威」によって傲慢な人々を「神の国」から追放されるのです。

*神様の民として選ばれたイスラエルは「神様の御心」に背き、期待に応えられなかったのです。しかも、警告する預言者たちを迫害し、殺すことさえしたのです。中心的役割を果たしたのが偶像礼拝に陥った歴代の王たちだったのです。現在のエルサレム神殿も紀元前八世紀、七世紀に預言者たちが非難した状態と酷似しているのです。祭司長たち、長老たち、律法学者たちが神様に仕えるのではなく、私利私欲を満たすために奔走しているのです。律法主義と偽善によって人々を誤った方向に導いているのです。そこで、彼らに三つのたとえ話をされたのです。聖書の個所は三番目です。一番目は「二人の息子」です。弟は父親の指示を承知したのですが実行しなかったのです。拒否した兄は後に考え直して従ったのです。祭司長たちや律法学者たちはイエス様の先駆けである洗礼者ヨハネに耳を傾けなかったのです。「永遠の命」に与る機会を閉ざしたのです。一方、罪人として蔑まれていた徴税人たちや娼婦たちは福音を信じたのです(マタイ21:28-32)。二番目は「ぶどう園と農夫」です。地主は農夫たちにぶどう園を貸して旅に出たのです。しばらくして、収穫を受け取るために僕たちを遣わしたのです。しかし、農夫たちは彼らを袋叩きにして殺したのです。最後に、敬ってくれるだろうと思って息子を送ったのです。息子も殺されたのです。地主は激怒してぶどう園を彼らから取り上げたのです。ぶどう園主を軽んじる農夫たちに厳しい罰が下されるのです。ふさわしい実を期待して他の民族(異邦人たち)に与えたのです(マタイ21:33-43)。

*三番目に「婚宴のたとえ」が語られたのです。預言者たちの正しさが証明されるのです。不信仰と悪業に対する罰が下されるのです。王様は人殺したちを滅ぼしたのです。イエス様の宣教の第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」です(マルコ1:15)。神様はイエス様を通して人々に「悔い改め」を求められたのです。「悔い改め」とは心の問題に留まらないのです。これまでの「悪い行い」と決別し「悔い改め」に相応しい良い実を結ぶことなのです。当初、イエス様は異邦人たちやサマリア人たちではなく、ユダヤ人たちを優先的に宣教されたのです。しかし、彼らの多くはイエス様を拒否したのです(マタイ10:5-6)。福音はユダヤ人の中でも、社会の隅に追いやられ、罪人としての烙印を押された人々に届けられたのです。福音書記者ルカはそれらの人の社会的、身体的状況に言及しています。招待を断った人々に怒った主人は僕たちに「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人々、体の不自由な人々、目の見えない人々、足の不自由な人々をここに連れて来なさい」と言ったのです。彼らが「御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります」と言うと、主人は「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」と命じたのです(ルカ14:21-24)。婚宴の席は広場や路地、通りや小道で声を掛けられた人によって占められたのです。選ばれたユダヤ人たちは責務を果たさなかったのです。「神の国」の福音が世界中の人に届けられることになったのです。

*たとえ話は「異邦人の救い」に至るプロセスを説明するだけでなく、招かれた人々の責務についても言及しているのです。神様の恩寵が不信仰なユダヤ人たちから取り上げられ、すべての民族(異邦人)に「救い」が及ぶことになったのです。以前、イエス様は集まって来た群衆に「山上の説教」を語られました。神様を「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるお方」として紹介されているのです(マタイ5:45)。神様は不信仰なユダヤ人が悔い改めることを待っておられるのです。すべての民族が神様の下に来て礼拝することを願っておられるのです。善人か悪人かを問うことなく「神の国」の婚宴に招かれるのです。神様は人が罪を犯したことではなく、罪を悔い改めて「新しい生き方」をしているかどうかをご覧になられるのです。ユダヤ人がそうであったように、異邦人たちも使命を果たさなければならないのです。イエス様は模範を示されたのです。イエス様が歩まれた道を辿(たど)る人々―良い実を結ぶ人々―が「救い」に与るのです。過去に洗礼を受けたこと、教会に通っていることが「救い」の保証ではないのです。それらは婚宴に出席することを許されたことと同じなのです。問題は婚礼の礼服を身に着けているかどうかなのです。ユダヤ人は神様に選ばれた民なのです。ところが、不信仰が栄誉を無効にしているのです。異邦人たちも憐れみによって婚宴の席に招かれたのです。ただ、信仰のあり方を問われるのです。イエス様が命じられた重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実践するのです。

2024年09月08日

「掟を守りなさい」

Bible Reading (聖書の個所) ヨハネによる福音書14章1節から15節


「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。・・」


(注)


・戒(いまし)めについて:旧約聖書から 


■あなた(がた)の神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼(主)を畏(おそ)れなさい。(申命記8:6)

■あなたの命令から英知を得たわたしは/どのような偽りの道をも憎みます。あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。わたしは誓ったことを果たします。あなたの正しい裁きを守ります。(詩編119:104-106)

・最も重要な掟(おきて)について:新約聖書から

■彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。(マルコ12:28-31)

・ペトロ、トマス、フィリポ:いずれも12使徒です。

・共観福音書:マタイ、マルコ、ルカによる福音書は、構成、考え方(観点)、内容に共通性を持っています。ヨハネによる福音書と区別してこのように呼ばれています。


・慰めに満ちたイエス様のお言葉:


■憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ(異教の神による神殿ぼうとくが行われている)のを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。このことが冬に起こらないように、祈りなさい。それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。(マルコ13:14-23)

(メッセージの要旨)


*イエス様はガリラヤで宣教を開始されました。洗礼者ヨハネの弟子であったペトロは、ヨハネの言葉「イエス様は神の小羊である」を聞いて、イエス様の弟子となったのです。フィリポはイエス様のお言葉「わたしに従いなさい」によって直ちに弟子となったのです(ヨハネ1:35-51)。彼らはイエス様と寝食を共にし、「道」(新しい教え)を学んだのです。最も重要な戒めを実践するのです。ところが、イエス様はこの世を去られるのです。弟子たちの足を洗われたのです(ヨハネ13:5)。イエス様の振る舞いやお言葉を理解できない使徒たちは質問したのです。先ず、ペトロが「主よ、どこへ行かれるのですか」と行く先を尋ねたのです。すると、イエス様は「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」と言われたのです。ペトロは「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」と決意を表明するのです。しかし、イエス様は「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言う」と予告されたのです(ヨハネ13:36-38)。トマスも同様の質問し、フィリポは「御父をお示しください」と願っているのです。イエス様は心を騒がせる使徒たちに理由を説明されたのです。天において住居を準備されるのです。そこで「救い」に与った人々と共に住むことを約束されたのです。キリスト信仰に生きる人々は「神様と隣人」を愛するのです。ただ、簡単なことではないのです。敵対する人々から迫害されるのです。「永遠の命」の希望が勇気を与えているのです。

*ヨハネによる福音書は三つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ)-共観福音書-から際立って異なっていると考えられているのです。その理由の一つに共観福音書が取り上げている記事や物語を欠いていることが挙げられます。あるいはそれらが言及していない人物や出来事を記述していることも一因になっているのです。それにも関わらず、神学的、霊的な福音書として高く評価されているのです。共観福音書との共通性も見られるのです。今日の聖書の個所がそのことを証明しているのです。イエス様を愛するとは命じられた「掟」を守ることなのです。キリスト信仰は「行い」を求めるのです。イエス様は愛するラザロの死に直面し「死の支配」に憤られ(心を騒がされ)たのです(ヨハネ11:33)。十字架の死を目前にし「今、わたしは心騒ぐ。『父よ、わたしをこの時から救ってください』」と言われたのです(ヨハネ12:27)。ユダの裏切りを知った時にも、心を騒がされたのです。しかし、神様の御力と約束に対する信頼が揺らぐことはなかったのです。今、弟子たちが同様の経験をしているのです。イエス様はこの世から父なる神様のもとへ移る時が来たことを悟り、食事の席で弟子たちの足を洗われました。どのように生きるべきかについて模範を示されたのです。互いに愛し合うように命じられたのです(ヨハネ13:1-35)。初代教会はすべての物を共有にし、心を一つにして祈っているのです。神様は彼らの信仰生活を祝福し、日々新しい仲間を加えられたのです(使徒2:43-47)。キリスト信仰は信じることで完結しないのです。


*神様はモーセに「わたしはある。わたしはあるという者だ」とご自身を紹介されたのです(出エジプト記3:14)。イエス様はユダヤ人たちに「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」と言われたのです(ヨハネ8:58)。「永遠の存在であること」を強調されたのです。「わたしと父は一つである」と言って「神様と一体であること」を公言されたのです(ヨハネ10:30)。神様を冒涜する言葉です。ユダヤ人たちは「あなたは、人間なのに自分を神としている」と激しく非難したのです。律法に従って、石打の刑で殺そうとしたのです。イエス様は彼らの手を逃れて去って行かれたのです。しかし、最終的には十字架上で処刑されるのです。その時も、イエス様は「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と言われたのです(ルカ23:34)。「神様の子」を受け入れることの難しさに言及されたお言葉なのです。神様はイスラエルの民の叫び声を聞かれるのです。中立の立場を取られることはないのです。抑圧された人々の側に立たれるのです。イエス様もイザヤの預言「・・貧しい人々に良い知らせを伝えるために。・・つながれている人々には解放を告知させるために。・・」に沿って使命を果たされるのです(イザヤ書61:1-2)。イエス様が「神性」を明確にすればするほどユダヤ人たちは反発したのです。「力ある業」(しるし)に接しても「この人は、大工ではないか。マリアの息子・・」と言って躓(つまず)いたのです(マルコ6:3)。弟子たちにとっても信じることは容易ではなかったのです。


*聖書が旧約聖書、新約聖書に分けられています。それは便宜上のことです。旧約聖書が伝える神様を語らないキリスト信仰は根のない草花に似ています。ひと時の感動を与えてもいずれ生命力が失われるのです。イエス様が神様とご自身を等しい者とされることには理由があるのです。キリスト信仰の本質がこの点にあるからです。復活されたイエス様も「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われたのです(マタイ28:18-20)。父と子と聖霊が並列されているのです。初代教会における典礼上の簡略された表現なのです。本来、神様をたたえるときは「栄光が、聖霊において、子を通して、父なる神に帰せられるように」、神様の祝福を求めるときは「父なる神の祝福が、子を通して、聖霊において、あなたがたの上にあるように」と表現するのが一般的だったのです。使徒たちはイエス様がどのようなお方であるかを理解していないのです。イエス様は「こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか」と叱責されたのです。「知る」というお言葉には信仰上の重要な意味があるのです。キリスト信仰とは「救い主」を認識することではないのです。神様が遣わされたイエス様の御跡を辿(たど)ることなのです。苦難が待っているのです。聖霊様がキリストの信徒たちを導いて下さるのです。


*キリスト信仰は信じることで始まるのです。信仰は抽象的な心の問題に留まらないのです。具体的な「行い」を求めるのです。四福音書は共通してこの点を明確にしているのです。共観福音書はイエス様が命じられた「最も重要な掟」を伝えているのです。律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいているからです。イエス様は自分を正当化しようとする律法の専門家に「善いサマリア人」のたとえ話を語って、言葉ではなく「行い」によって「永遠の命」に与りなさいと言われたのです(ルカ10:25-37)。ヨハネの福音書も実践を強調されたイエス様のお言葉「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。・・互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」を取り上げているのです(ヨハネ15:9-13)。イエス様はこの世を去って再び来られるまでの間、弟子たちがどのように生きるべきかについて教えられたのです。簡潔で、分かり易いのです。キリスト信仰において難しい神学は必要ないのです。イエス様の「生き方」がキリスト信仰の真髄を語っているからです。イエス様に倣(なら)って掟を実践することが「永遠の命」に至る道です。ただ、内容が正確に伝えられていないのです。キリスト信仰による「救い」が「罪からの解放」に縮小されているのです。イエス様の掟に戻るのです。

2024年09月01日

「悪霊との闘い」

Bible Reading (聖書の個所) マルコによる福音書9章14節から29節 

一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、 群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代(世代)なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」

イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。

(注)

・議論:イエス様の教えや力ある業と律法学者たちの律法主義が論争になったのです。

・群衆の驚き:出エジプト記34:30を参照して下さい。

・息子の症状:癲癇(てんかん)の病状を推測させるのです。

・霊、汚れた霊:悪霊のことです。

・神様の霊:

■そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した(マルコ1:9-12)。

・祈り:結果を信じる祈りには「力」があるのです。マルコ11:24をお読み下さい。


・ゲラサ人の地方:ガリラヤ湖に向かって右側のガダラ地方ではないかと言われています(マタイ8:28)。

・デカポリス:ヨルダン川の東側にある「10」の異邦人の町が一括してこのように呼ばれています。

・レギオン:約6000人の兵士で構成されるローマ軍の連隊のことです。

・豚:ユダヤ人は汚れた動物と見なしていました。レビ記11:7-8などに記されています。

・犬:ユダヤ人たちは異邦人たちを犬と呼んで蔑んでいたのです。サムエル記上17:43;24:14をお読み下さい。

・ベルゼブル:元々の意味は「家の主」あるいは「ハエたちの主」です。ここではサタン(悪魔)を表しています。

・カファルナウム、ティルスなどの位置については聖書地図を御覧下さい。

(メッセージの要旨)

*ユダヤ人たちは人に害を与える霊に悩まされていたのです。この霊は「悪霊」(使徒19:12-16))、「汚れた霊」(マルコ1:21-28)、「汚れた悪魔」(ルカ4:33-35)、単に「霊」(マタイ8:16)などと呼ばれていたのです。この霊は人を支配し、精神的、肉体的異常を引き起こしたのです。イエス様はペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて高い山に登られました。そこに預言者エリヤとモーセが現れてイエス様と語り合ったのです。雲がこれらの人を覆い、中から「これはわたしの愛する子。これに聞け」と言う声がしたのです(マルコ9:2-7)。神様はイエス様が「神の子」であることを再確認されたのです。一行が下山する前に、すでに山の麓(ふもと)では他の弟子たちが子供から霊を追い出そうと奮闘していたのです。しかし、彼らには出来なかったのです。父親は息子を癒していただくために連れて来たのですが、イエス様はそこにおられなかったのです。すべての弟子に悪魔払いの権能が与えられている訳ではないのです(マタイ10:1)。弟子たちはイエス様の帰りを待たずに実行したのです。しかし、彼らの力だけでは霊を追い出せなかったのです。弟子たちの質問に答えて、イエス様は「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできない」と言われたのです。霊には幾つかの種類があることを教えられたのです。医学の未発達な当時、特に精神的な病は悪霊の働きとされたのです。霊との闘いには周到な戦略と準備が必要です。イエス様への揺るぎない信仰と癒しの業への確信が不可欠なのです。
 
*四福音書の中でマルコの福音書が最も古いのです。しかし、他の福音書と比べると一番短いのです。それにも関わらず、イエス様の「力ある業」が多く取り上げられているのです。重い皮膚病を患っている人、中風の人、手の萎(な)えた人、ヤイロの娘と長血の止まらない女性、耳が聞こえず舌の回らない人、盲人のバルトロマイなど身体に障害のある人々、様々な病気を患っている人々が癒されたのです。霊に取りつかれた人々の癒しが四例も伝えられているのです。聖書の個所はその内の四番目です。第一の例はイエス様がガリラヤ宣教を開始された直後に起こりました(マルコ1:14)。イエス様の宣教の拠点は要衝の地であるカファルナウムにありました。安息日に会堂に入って教えられたのです。その時、男が「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と叫んだのです。イエス様は「黙れ。この人から出ていけ」とお叱りになったのです。「汚れた霊」はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行ったのです。イエス様の評判はガリラヤの隅々にまで広まったのです。たくさんの人が夜にイエス様を訪ねて来たのです。イエス様は多くの病人を癒されたのです。しかも、「汚れた霊」に物を言うことをお許しにならなかったのです。イエス様が「神様の子」であることを知っていたからです。「汚れた霊」はまるで人間のように話しているのです。弟子たちの中にはその力を恐れる人もいたのです。しかし、イエス様は「汚れた霊」を完全に支配されているのです(マルコ1:21-34)。

*第二の例はゲラサ地方で起こりました。「汚れた霊」に取りつかれている人は墓場を住まいとしていました。夜も昼も叫び、石で自分を打ちたたいていたのです。ところが、遠くにいるイエス様を見つけ、走り寄ってひれ伏したのです。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」と訴えたのです。イエス様が「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからです。イエス様は「汚れた霊」に名前を尋ねられたのです。「名はレギオン(大勢)」と答え、この地方から追い出さないように懇願したのです。さらに、自分たちを「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と申し出たのです。イエス様が彼らの願いを聞き入れると、「汚れた霊」が次々と豚の中に入ったのです。二千匹ほどの豚の群れが湖になだれ込んで死んだのです。豚飼いたちから知らせを受けた人々が現地に来たのです。これらの人は「汚れた霊」に取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て恐ろしくなったのです。一方、「汚れた霊」に取りつかれていた男性はキリスト信仰を証しするのです。自分の経験をデカポリス地方の人々に言い広めたのです。イエス様は「汚れた霊」にも名前があることを明らかにされたのです。「レギオン」には現実的な意味が含まれているのです。ユダヤ全土及び周辺地域はローマ帝国に支配されていたのです。民衆は圧政と重税に喘(あえ)いでいるのです。精神の錯乱は人々の苦難を表しているのです。「レギオン」は軍事力の象徴なのです。イエス様は部分的に打ち砕かれたのです(マルコ5:1-20)。

*ユダヤ人たちは神様から選ばれたことを自負しているのです。ところが、それに相応しい生き方をしていないのです。旧約聖書が伝える不信仰の歴史が証明しているのです。異邦人であってもユダヤ人以上の信仰に生きている人がいるのです。中風の僕(奴隷)の癒を願い出たローマ軍の百人隊長は「わたしはあなたを自宅にお迎えできるような者ではありません。ただ、一言おっしゃってください。わたしの僕は癒されます」と言ったのです。イエス様は「イスラエルの中でこれほどの信仰を見たことがない」と褒められたのです。その時、僕は癒されたのです(マタイ8:5-13)。第三の例は地中海沿岸のティルス地方で起こったのです。「汚れた霊」に取りつかれた娘を持つ異邦人の女性がイエス様のことを聞きつけたのです。足元にひれ伏して、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだのです。イエス様は民衆が口にしている諺(ことわざ)を引用して、「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」と言われたのです。神様の祝福(パン)はユダヤ人たちが優先して受け取ることを告げられたのです。しかし、女性は「主よ、食卓の下の小犬も子供のパン屑(くず)はいただきます」と答えたのです。イエス様は女性に「家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」と言われたのです。家に帰ってみると悪霊はすでに追い出されていたのです。母親の信仰が娘の病を癒したのです。イエス様は民族とか出自ではなく、人の心の内を御覧になられるのです(マルコ7:24-30)。

*イエス様はヨハネから洗礼を受けられました。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて「霊」が鳩のように御自分に降って来るのを御覧になったのです。神様はイエス様に聖霊様を注がれたのです。神様はイエス様と共におられるのです。イエス様は神様の霊の力によって「汚れた霊」に取りつかれた人々や子供たちを悪霊の支配から解放されたのです。一方、「あの男(イエス様)は気が変になっている」と嘲笑(ちょうしょう)する人々がいたのです。噂(うわさ)を信じてイエス様を取り押さえに来た家族(親戚)もいたのです。エルサレムから様子を見に来ていた敵対する律法学者たちは「あの男はベルゼブルに取りつかれている。悪霊の力で悪霊を追い出している」と誹謗・中傷したのです(マルコ3:20-30)。すべての罪は赦されるのです。しかし、聖霊様を冒涜する罪は赦されないのです。イエス様は彼らに「永遠の罰」を宣告されたのです。ユダヤ人の父親は悔い改めてイエス様の「力ある業」を信じたのです。息子は癒されたのです。イエス様は「汚れた霊」に取りつかれた二人の男性を憐れまれたのです。その内の一人はキリスト信仰を証ししたのです。異邦人の母親はイエス様への信頼を貫いたのです。イエス様は母親の切実な願いに応えられたのです。「汚れた霊」に取りつかれている状態は必ずしも個人や両親の責任ではないのです。政治的、経済的、社会的な影響も少なくないのです。害を与える霊がこれからも悩ますのです。イエス様は「勇気を出しなさい.わたしは既に世に勝っている」と励まして下さるのです(ヨハネ16:33)。

2024年08月25日

「イエス様と母マリアの信仰」

ヨハネによる福音書2章1節から12節

三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。

(注)

・カナ:ガリラヤの中央部にある小さな村です。カナとカファルナウムの間はおよそ26km、カナとナザレの間はおよそ14kmです。聖書地図を参照して下さい。イエス様はここで王の役人の死にかかっている息子の病も癒されたのです(ヨハネ4:46-54)。

・カファルナウム:ガリラヤ湖の北西に位置しています。経済的にも繁栄していた要衝の町です。

・ベトサイダ:ガリラヤ湖の北の端にある町です。アンデレとペトロ、フィリポはこの町の出身者です。いずれも12使徒に選ばれました。

・ナザレ:周辺地域から隔絶された小さな村です。イエス様は母マリア、父ヨセフと共にこの地に住まれました。それ故に「ナザレの人」と呼ばれたのです(マタイ2:23)。

・ナタナエル:故郷はカナです。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったのです。イエス様に出会って「あなたは神の子です」と信仰を告白したのです(ヨハネ1:43-51)。

・1メトレテス:約39リットルです。

・世話役:召使いたちの長です。招待されたお客の中の一人がその任に当たることもあったのです。

・過越祭:ユダヤ人たちがエジプトの圧政から解放されたことを記念する祭りです。出エジプト記12:1-27をお読み下さい。

・天使ガブリエルの言葉:

■あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。(ルカ1:31-33)

・マリアの賛歌:

■そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。 主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。 (ルカ1:46-55)

(メッセージの要旨)

*主催者側は何日も続く婚宴に備えて、食べ物や飲み物を十分に用意するのです。ところが、宴会の途中でぶどう酒が足りなくなったのです。これは単なる準備不足では済まないのです。花婿と花嫁、それぞれの家族や親族にとって極めて不名誉なことなのです。母マリアは世話役などにではなく、イエス様に対応を求めたのです。イエス様のお答えはマリアの意を汲んだものにはならなかったのです。ただ、母マリアに困惑は見られないのです。自分の願いが叶えられることを確信しているかのように、召し使いたちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言ったのです。カナの「しるし」(奇跡)については幾つかの疑問が残るのです。大きく分けて三つあります。第一は母マリアと結婚式を迎える人々との関係です。第二は母マリアになぜぶどう酒の管理責任があったのかです。第三はイエス様がなぜ母マリアにあのような非礼な言い方をされたのかです。第一、第二の疑問に答える記述は見当たらないのです。推測する以外に方法はないのです。第三の疑問を解決する視点はイエス様のお言葉「わたしの時はまだ来ていません」にあるのです。イエス様にとって「水をぶどう酒に変えること」は人々を驚かせることではないのです。「救い主」の到来を啓示する手段なのです。弟子たちは「しるし」によってイエス様を信じたのです。イエス様は「神様の御心」の実現のために全力を注がれるのです。一方、母マリアは天使ガブリエルの受胎告知以来、イエス様が「神の子」であることを心に刻んでいるのです。イエス様に問題解決を願い出たのです。

*イエス様が12歳になった時のことです。母マリアを驚かせた出来事がありました。母マリアと父ヨセフは慣例に従って毎年「過越際」にはエルサレムへ巡礼の旅をしたのです。祭りの期間が終わって帰路についた時、イエス様はまだ都に残っておられたのです。両親はイエス様が一団の中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまったのです。いない事に気づいて親類や知人の間を捜し回ったのですが見つからなかったのです。そこでエルサレムに引き返したのです。母マリアと父ヨセフはイエス様が神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを発見したのです。聞いている人は皆、イエス様の賢い受け答えに驚いていたのです。母マリアはイエス様に「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」と言ったのです、イエス様は「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と答えられたのです。母マリアはイエス様のお言葉の意味を理解できなかったのですが、これらのことをすべて心に納めたのです (ルカ2:41-52)。イエス様がヨハネから洗礼を受け、「神の国」の福音を宣教された年齢はおよそ30歳でした(ルカ3:23)。それまで、父ヨセフから大工の仕事を学び、父親の死後も一家の生計を支えられたのです。母マリアはイエス様と生活を共にしているのです。天使ガブリエルの言葉を想起する機会が何度もあるのです、息子が「神の子」であることを信じているのです。

*イエス様はガリラヤ湖の近郊にあるカファルナウムの町を宣教の拠点にされました。洗礼者ヨハネの弟子であったベトサイダ出身のアンデレとペトロを最初の弟子とされたのです。さらに、フィリポとナタナエルを弟子に加えられたのです。イエス様はナザレの北にあるカナと呼ばれる村で行われる結婚式に出席されたのです。母マリア、弟子たちも同席したのです。母マリアの行動を理解するためには当時の慣習を知っておくことが不可欠です。パレスティナにおいて婚姻は前もって全住民に告知されたのです。花婿が友人たちと共に行列を作って花嫁の家を訪問し、花嫁を迎えるのです。それから、花嫁と共に自分の家に戻り婚宴を始めるのです。伝統と慣習に従ってすべての事が順調に終われば、花婿と花嫁、家族と親戚に名誉がもたらされるのです。婚宴の途中に不都合が生じれば、非難と不名誉が待っているのです。それほど重要な出来事なのです。婚宴の席は一週間続いたのです(士師記14:12)。イエス様は「十人の乙女」のたとえ話において「救い」の厳しさを語っておられます(マタイ25:1-13)。花婿の到着が遅れて真夜中になったのです。予備の油を用意していなかった「五人の乙女」は油を店に買いに行ったのです。その間に花婿は到着し、婚宴の席の戸が閉められたのです。ぶどう酒を十分に用意していなかったことが明らかになれば、招待側の不手際が村や周辺地域に流布されるのです。世話係も責任を問われることになるのです。民族共同体において、不名誉は耐え難いことです。母マリアはイエス様に「特別な力」を期待したのです。

*母マリアは「ぶどう酒がなくなりました」と伝えたのです。イエス様は「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」と答えられたのです。「あなたが気にかけている『ぶどう酒の問題』がどうしてわたしたち相互の関心事になるのですか」と言い換えることが出来るのです。確かに、イエス様の「使命」と直接の関わりがないのです。言い方は母親のマリアに礼を失しているように見えるのです。「婦人よ」は男性から女性に対する一般的な呼びかけ方なのです。他に同様の言葉を使っておられるのです。サマリアの女性(ヨハネ4:21)、姦淫の罪で捕らえられた女性(ヨハネ8:10)、十字架の下にいた母マリア(ヨハネ19:26)、マグダラのマリア(ヨハネ20:15)です。それでも、母親に「婦人よ」は普通ではないのです。母マリアは「自分の息子」に対するように話しているのです。イエス様は母親の善意を承知の上で敢えて「神の子」として対応されたのです。「水をぶどう酒に変えること」は親子の関係を超越しているのです。母親の依頼で行動することではないのです。イエス様はもはや母親の下にはいないのです。「わたしの時はまだ来ていません」を加えられたのです。「救い主」であることを暗に告白しておられるのです。そこには苦難の道を歩む覚悟が表れているのです。イエス様は「神様の御心」の実現するために奔走(ほんそう)されるのです。最初に、母マリアの願いに応えられたのです。水をぶどう酒に変えられたのです。神様がイエス様と共におられるのです。その後も、数多くの「しるし」によって証しされたのです。

*乙女マリアはイエス様の誕生に関わる中心人物です。ところが、「マリアの賛歌」においてキリスト信仰の本質が明らかにされたこと、カナにおける母マリアの言葉「ぶどう酒がなくなりました」に隠されたイエス様への信仰について言及されることが少ないのです。マリアは最初のキリストの信徒です。生涯を通してキリストの信徒であり続けた人なのです。イエス様は母マリアの揺るぎない信仰を高く評価しておられるのです。個人的な母の願いに応えるということではなく、「しるし」-ユダヤ教の清めに用いる石の水がめに入れられた水を新しいぶどう酒に変えられたこと-を通して、キリスト信仰による「救い」を啓示されたのです。役人の息子を癒し、五千人に食べ物を与え、生まれつきの盲人を見えるようにするなど、数々の「しるし」を実行されたのです。最終的には、すべての人のためにご自身を捧げられるのです。イエス様は母マリアに「御覧なさい。あなたの子です」と言って感謝を表明されました。母親の行く末に深い配慮をされたのです。愛する弟子(ヨハネ?)に「見なさい。あなたの母です」と言って依頼をされたのです。この弟子は母マリアを自分の家に引き取ったのです(ヨハネ19:25-27)。母マリアはイエス様の十字架のそばに立って無言の別れを告げたのです。初代教会の信徒の数は百二十人ほどです。その中には母マリア、イエス様の兄弟たちもいたのです。イエス様の教えを守り、他の信徒と共に心を合わせて熱心に祈っていたのです(使徒1:13-15)。母マリアはキリスト信仰を誰よりも実践した人なのです。

2024年08月18日

「平地の説教の視点」

Bible Reading (聖書の個所) ルカによる福音書6章17節から36節

イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。

さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。


しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵(たち)を愛し、あなたがたを憎む者(たち)に親切にしなさい。悪口を言う者(ののしる者たち)に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者(たち)のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

(注)

・ ユダヤ全土:北のガリラヤ、中央のサマリア、南のユダヤに分かれていました。聖書地図を参照して下さい。


・ティルスとシドン:地中海沿岸の異邦人の町々です。シドンはティルスのさらに北にあります。


・不幸である:原文にはもっと厳しい言葉が使われているのです。本来「・・に災いあれ」と訳すべきなのです。日本語訳を通してイエス様が事実と異なる柔和なお方として紹介されるのです。複数の聖書によって訳を比較して下さい。


・偽預言者たち:神様の言葉の代わりに、人々の気に入ることだけを話した預言者たちです。人々は彼らを褒めるのです。

・神様の正義:


■災いだ、家に家を連ね、畑に畑を加える者は。お前たちは余地を残さぬまでに/この地を独り占めにしている。万軍の主はわたしの耳に言われた。この多くの家、大きな美しい家は/必ず荒れ果てて住む者がなくなる。十ツェメド(約25,000㎡)のぶどう畑に一バト(約23ℓ)の収穫/一ホメル(約230ℓ)の種に一エファ(約23ℓ)の実りしかない。


災いだ、朝早くから濃い酒をあおり/夜更けまで酒に身を焼かれる者は。酒宴には琴と竪琴、太鼓と笛をそろえている。だが、主の働きに目を留めず/御手の業を見ようともしない。それゆえ、わたしの民はなすすべも/知らぬまま捕らわれて行く。貴族らも飢え(で死に)、群衆は渇きで干上がる。それゆえ、陰府は喉を広げ/その口をどこまでも開く。高貴な者も群衆も/騒ぎの音も喜びの声も、そこに落ち込む。人間が卑しめられ、人はだれも低くされる。高ぶる者の目は低くされる。万軍の主は正義のゆえに高くされ/聖なる神は恵みの御業のゆえにあがめられる。小羊は牧場にいるように草をはみ/肥えた家畜は廃虚で餌を得る。


災いだ、むなしいものを手綱として/罪を車の綱として、咎を引き寄せる者は。彼らは言う。「イスラエルの聖なる方を急がせよ/早く事を起こさせよ、それを見せてもらおう。その方の計らいを近づかせ、実現させてみよ。そうすれば納得しよう。」


災いだ、悪を善と言い、善を悪と言う者は。彼らは闇を光とし、光を闇とし/苦いものを甘いとし、甘いものを苦いとする。災いだ、自分の目には知者であり/うぬぼれて、賢いと思う者は。


災いだ、酒を飲むことにかけては勇者/強い酒を調合することにかけては/豪傑である者は。これらの者は賄賂を取って悪人を弁護し/正しい人の正しさを退ける。それゆえ、火が舌のようにわらをなめ尽くし/炎が枯れ草を焼き尽くすように/彼らの根は腐り、花は塵のように舞い上がる。彼らが万軍の主の教えを拒み/イスラエルの聖なる方の言葉を侮ったからだ。(イザヤ書5:8-24)


■富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません。兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。(ヤコブ5:1-11)

・神様の愛:

■寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼(ら)を苦しめ、彼(ら)がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる。もし、あなた(たち)がわたしの民、あなた(たち)と共にいる貧しい者(たち)に金を貸す場合は、彼(ら)に対して高利貸しのようになってはならない。彼(ら)から利子を取ってはならない。もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。(出エジプト記22:20-26)

■穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者(たち)や寄留者(たち)のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは盗んではならない。うそをついてはならない。互いに欺いてはならない。わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなた(たち)の神の名を汚してはならない。わたしは主である。あなた(たち)は隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。・・心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。(レビ記19:9-18)

・仮現論:初期のキリスト教における異端理論の一つです。キリスト信仰をこの世-社会・経済・政治-から切り離して霊的な側面だけを強調する考え方のことです。この信仰理解によれば、イエス・キリストは地上におられた間、人間 の肉体を持っておられなかったのです。ただ肉体があるように見えていただけなのです。それ故、イエス様の復活を認めなかったのです。

(メッセージの要旨)

*イエス様は宣教の第一声において「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたのです(マルコ1:15)。特に、貧しい人々や虐げられた人々に「神の国」-神様の支配-の到来を「力ある業」によって証しされたのです。目の見えない人々は見え、足の不自由な人々は歩き、重い皮膚病を患っている人々は清くなり、耳の聞こえない人々は聞こえ、死者たちは生き返っているのです(マタイ11:5)。神様はしかるべき時にこの世を終わらせて「新しい天地」を創造されるのです。悔い改めてご自身の下に来る人々を「永遠の命」に与らせて下さるのです。これが福音(良い知らせ)なのです。一方、社会には指導者(金持ち)たちの腐敗と不正が蔓延(はびこ)っているのです。預言者たちは社会・経済・政治構造の歪(ゆが)みを告発したのです。イエス様は彼らを高く評価されたのです。富に対する姿勢はその人の「救い」を左右するのです。不正な手段-搾取、強欲、策略、暴力など-によって富を蓄積した金持ちたちに天罰が下るのです。イエス様は「敵を愛しなさい」と言われました。敵(悪)を無条件で受け入れることであるかのように誤解されているのです。神様は正義と愛を大切にされるのです。イエス様は「神様の御心」を実現するために地上に来られたのです。何よりもまず、神の国と神の義(正義)を求められたのです。弟子たちにもそれらの実行を命じられたのです(マタイ6:33)。同時に、敵対する人々が悔い改めて「救い」に与ることを願っておられるのです。キリスト信仰が要約されているのです。

*イエス様は山上から12弟子たちと共に下りて来られました。群衆は癒しを求めてイエス様に触れようとしたのです。すでに触れて癒された人々がいたことを知っていたからです。イエス様が町や村や里に入って行かれると、そこでは人々が病人たちを広場において、せめてその服の裾(すそ)にでも触れさせてほしいと願い出たのです。触れた者はみな癒されたのです(マルコ6:56)。12年間も長血を患っている女性が後ろからイエス様の服の房に触れたのです。服に触れさえすれば治してもらえると思っていたからです。イエス様はあなたの信仰があなたを救った(癒した)と言われたのです。その時、女性は病気から解放されたのです(マタイ9:20-23)。イエス様は福音を語るだけでなく、人々の悩みや苦しみを現実に取り除かれたのです。その際、人々の心の内を御覧になられるのです。見せかけの信仰は何の役にも立たないのです。一方、神様の子であることを信じられない人々には譲歩されたのです。「わたしが父の業おこなっていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくてもその業を信じなさい」と言われたのです(ヨハネ10:37-38)。「力ある業」によって神様が共におられることを証明されたのです。キリストの信徒たちは「隣人愛」によって信仰を証しするのです。貧しい人々や飢えている人々に衣服や食物を与え、旅人たちに宿を提供し、病人たちを見舞い、牢獄に不当に拘束されている人々を訪ねるのです。これらは「救いの要件」なのです(マタイ25:31-46)。

*「平地の説教」(ルカ6:17-49)と「山上の説教」(マタイ5-7)はよく比較されるのです。両方とも「幸い」で始まり「聞くだけでなく、行いなさい」で終わっているのです。マタイは9つの「幸い」を挙げています。ルカは4つの「幸い」の他に「山上の説教」にはない4つの「不幸(災い)」を加えているのです。金持ちに対する厳しい裁きが含まれている「平地の説教」よりも「山上の説教」が引用される理由の一つになっているのです。イエス様はガリラヤで宣教を始められたのです。安息日にはいつものように会堂に入られたのです。イザヤ書の「主の霊がわたしの上におられる、貧しい人々に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである」を朗読されたのです(ルカ4:18)。ご自身の立ち位置がイザヤの預言にあることを明言されたのです。「平地の説教」においても「神の国」が貧しい人々に属することを宣言されたのです。一方、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と記されているのです(ヨハネ3:16)。「救い」はすべての人に及ぶのです。ただ、神様と富とに仕えることは出来ないのです。イエス様は「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われたのです(マルコ10:25)。徴税人の頭ザアカイは「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたらそれを四倍にして返します」と言って「永遠の命」に与ったのです(ルカ19:8)。

*イエス様は「敵を愛しなさい」と言われました。この言葉を正しく理解することが重要です。聖書のどこを探しても正義と裁きのない愛は見つからないからです。迫害する人々の卑劣な行為を容認してはならないのです。悪と不正には毅然(きぜん)と対応するのです。これらの人が「救い」に与れるかどうかは別の問題なのです。ただ、非難や告発の方法には工夫を凝らすのです。抗議によって、呪う者たちや虐待する者たちに内省する機会を提供するのです。暴力を行使する者たちには非暴力で抵抗するのです。担保になっている上着を奪い取る者には下着を差し出して経済的暴力(高利貸し)の不当性に抗議するのです。貧しい人々が願い求めているものを拒んではならないのです。生きるために止むを得ず持ち物を奪った者から取り返そうとしてはならないのです。人に善いことをし、何も当てにしないで貸すのです。神様に倣(なら)って憐れみ深い者となるのです。神様の正義を強調すればイエス様の愛の教えと矛盾するかのように誤解されているのです。聖書が伝えるイエス様の実像が歪められているのです。イエス様は強盗の巣と化したエルサレム神殿の境内から商人たちを実力で追い出されたのです(マルコ11:15-18)。「平和ではなく分裂をもたらすために来た」と言われたのです(ルカ12:49-53)。ファリサイ派の人々や律法学者たちを偽善者と呼び、天罰を宣告されたのです(マタイ23)。病気や心身の障害、貧困や差別は当時の政治・経済・社会、宗教的慣習と深く関わっているのです。神様の正義と愛は表裏一体なのです。

*イエス様が出会った民衆はローマ帝国の支配下にあって重税に苦しみ、非人間的な取り扱いを受けていたのです。国内では金持ちたちによって搾取され、抑圧され、貧しい生活を強いられていたのです。医療が発達していない当時にあって、人々はいろいろな病気に罹ったのです。悪霊(精神的な病)に苦しめられていたのです。「平地の説教は」はこれらの人を大いに慰めたのです。一方、既得権に執着する指導者たちや金持ちたちにとっては苦々しい警告となったのです。贅沢な暮らしを取り上げられるだけでなく、それぞれに厳しい罰が下されるのです。ただ、悔い改めによって神様の下へ帰る道は残されているのです。キリスト信仰を標榜する人々は正義と愛を大切にするのです。イエス様の御跡を辿(たど)ればこの世との対立は避けられないのです。必ず迫害されるのです。迫害する人々のために善を行うことは簡単ではないのです。イエス様はそれを実践されたのです。十字架につけられた時には「父よ、彼らをお赦しください。自分(たち)が何をしているのか知らないのです」と言われたのです(ルカ23:34)。イエス様は「平地の説教」を語られたのです。ただ、内容が正確に伝えられていないのです。「神の国」の福音が「罪からの救い」に縮小されているのです。「天国」にのみ関心があるかのように変容されているのです。イエス様は血と肉の体でこの世に来られたのです。現代の仮現論に陥らないように最大の注意を払うのです。キリストの信徒たちはこれまでの生き方を変えるのです。正義を実践するのです。憐れみ深い人になるのです。

2024年08月11日

「あなたも罪人」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書7章36節から50節

さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。

そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」

そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して(平和のうちに)行きなさい」と言われた。

(注)

・ファリサイ派:ユダヤ教の律法を生活のあらゆる分野に厳格に適応した宗教グループです。マタイ15:1-20に具体例が記述されています。「ファリサイ」には自分たちを罪人たちから「分離する」と言う意味があります。イエス様に敵対する主要な勢力の一つです。

・食事の席:現代のように座って食事をするのではなく、テーブルに頭を向けて長椅子の上に横になったのです。履物を脱いだ足はテーブルから最も遠い位置にあります。招かれていない人でも家に自由に入り、招待客と会話をすることが出来たのです。

・石膏の壺:香水の混ざった油などを入れる高価な容器です。

・足を洗うこと:一般的に招待客への「おもてなし」の一つです。創世記18:4を参照して下さい。

・罪人との接触:触れた人は汚れるのです。それだけではなく責めを負うことになるです。レビ記5:1-5をお読み下さい。

・真の預言者:「あなた(がた)は心の中で、『どうして我々は、その言葉が主の語られた言葉ではないということを知りうるだろうか』と言うであろう。その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない(申命記18:21-22)。 イエス様も信じられない人々に「ご自身の業を信じなさい」と言われたのです(ヨハネ10:37-38)。


・50と500デナリオン:1デナリオンは当時の平均的労働者の一日分の賃金に相当します。現代に当てはめると例えば50万円と500万円になります。


・女性の一人暮らし:彼女たちの生活は大変厳しかったのです。そこで、神様は「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる」(申命記10:17-18)、「主は寄留の民を守り/みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる」(詩篇146:9)とあるように、孤児ややもめを養われるのです。旧約聖書ルツ記、列王記上17:8-24、列王記下4:1-8、新約聖書ルカ20:45-47を併せてお読みください。

・安心して行きなさい:伝統的な別れの挨拶です。平和は神様が共におられることの証明です。

・イエス様がファリサイ派の人から食事に招待された例は他にもあります。ある食事の席ではファリサイ派の人々や律法学者たちの偽善と腐敗を厳しく非難されました(ルカ11:37-54)。別の席では安息日に病気を癒すことが律法に適(かな)っていることを明言されたのです(ルカ14:1-6)。

・女性がイエス様に香油を注いだ例が他の福音書にも記述されています。マタイ26:6-13、マルコ14:3-9、ヨハネ12:1-8を参照して下さい。

(メッセージの要旨)

*信仰を自負する人が非難され、罪人が悔い改めによって「救い」に与ったのです。ここではキリスト信仰の本質が語られているのです。シモンはイエス様の教えや力ある業に関心を持っていました。神様から召命を受けた真の預言者か、約束の「救い主」であるかどうかについて確認したかったのです。イエス様の宣教の目的は罪人たちを「永遠の命」に与らせることです。これらの人を排斥するファリサイ派の人々とは根本的に違うのです。イエス様はシモンにたとえ話をされました。二人は借金しているのです。しかし、金貸しは両方の負債を帳消しにしたのです。イエス様の話は実に分かりやすいのです。シモンもすぐに理解することが出来たのです。ところが、負債の免除が自分の罪の赦しの問題であることに気づいていないのです。シモンには自分も罪人の一人であるという認識が全くないのです。シモンは律法の順守によって「救い」が得られることを確信しているのです。罪人たちと交際するイエス様を見下して最低の礼儀すら示さなかったのです。一方、罪深い女性は蔑(さげす)まれていました。社会の隅に追いやられ、生きる希望を失っていたのです。イエス様の評判を聞いていたのです。このお方に望みを託したのです。持っている最高の物-高価な香油-を捧げて信仰を表したのです。イエス様は神様から委ねられた権能に基づいて「罪の赦し」を宣言されたのです(ヨハネ17:2-3)。誰もが罪人なのです。信仰と行いによって「永遠の命」に与るのです。心に刻むのです。イエス様は応答の如何(いかん)によって「救い」を判断されるのです。

*社会的地位が高く、信仰心の篤いファリサイ派の人と罪深いことで評判になっている女性が登場しています。二人の信仰が比較されているのです。多くの人が罪深い女性の信仰心に注目するのです。しかし、物語のポイントは他にもあるのです。自己義認は「救い」の保証にならないのです。この点が見逃されているのです。ファリサイ派の人がイエス様を食事に招いた理由は分からないのです。両者の会話の内容から、イエス様をある程度受け入れていることが推測されるのです。女性は当初「罪深い女」、後に「信仰篤い女性」として紹介されているのです。シモンはイエス様に関心がありました。ただ、有名な預言者の一人として理解していたのです。自分にとって「特別な人」ではなかったのです。女性はイエス様に「救い」を求めたのです。それ以外に生きる道がなかったからです。イエス様に対する姿勢が異なるのです。シモンはイエス様に足を洗う水さえ用意しなかったのです。女性は涙で足をぬらし、髪の毛でぬぐったのです。シモンは接吻の挨拶をしなかったのです。女性は足に接吻してやまなかったのです。シモンは頭に普通のオリーブ油さえ塗らなかったのです。女性は足に高価な香油を塗ったのです。後に、イエス様は弟子たちの不信仰(高慢)を厳しく戒められたのです。心を入れ替えなければ「天の国」(神の国)に入れないのです(マタイ18:1-5)。信仰の高慢は「死に至る病」です。シモンも悔い改めなければ「永遠の命」に与れないのです。罪深い女性は言葉を交わしていないのです。ただ「行い」によって信仰を表わしたのです。

*イスラエルの歴史を知っておくことは不可欠です。伝統的に男性中心の家父長社会です。イエス様の時代においても女性が財産の一部であるという考え方は変わっていないのです。「人がまだ婚約していない処女を誘惑し、彼女と寝たならば、必ず結納金を払って、自分の妻としなければならない。もし、彼女の父親が彼に与えることを強く拒む場合は、彼は処女のための結納金に相当するものを銀で支払わねばならない」(出エジプト記22:15-16)。父親の財産権が担保されているのです。「人(夫)が・・妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。その女が家を出て行き、別の人の妻となり、次の夫も彼女を嫌って離縁状を書き、それを手に渡して家を去らせるか、あるいは彼女をめとって妻とした次の夫が死んだならば、彼女は汚されているのだから、彼女を去らせた最初の夫は、彼女を再び妻にすることはできない」と定められているのです(申命記24:1-4)。夫は妻を簡単に離婚出来るのです。妻は夫に離婚を通告出来ないだけでなく再婚も制限されているのです。他にも女性の低い地位を証明する規定や表現があるのです。ロトは御使いを守るためにソドムの暴徒たちに二人の娘を差し出したのです(創世記19:8)。十戒は「隣人の妻を欲してはならない」と命じているのです(出エジプト記20:17)、ボアズは出会ったルツに本人の名前ではなく、「誰の娘か」と聞いているのです(ルツ記2:5)。女性の涙には筆舌に尽くしがたい苦悩が隠されているのです。

*イエス様は「あなた(がた)は、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中にある丸太に気づかないのか」と言われたのです(マタイ7:1-4)。シモンには女性の罪が見えているのです。しかし、自分が罪人であることには思いが及ばないのです。律法順守の確信から生まれた尊大さが正しい認識を妨げているのです。イエス様が真の預言者であることに疑問を呈(てい)しているのです。罪深い女性の深い悲しみや苦悩を一顧(いっこ)だにしないのです。非難するだけなのです。シモンはイエス様と対立している訳ではないのです。イエス様を正しく理解していないのです。イエス様は「医者を必要とするのは、丈夫な人(人々)ではなく病人(たち)である。わたしが来たのは、正しい人(人々)を招くためではなく、罪人(たち)を招くためである」と言われたのです(マルコ2:17)。シモンも含まれているのです。イエス様はご自身の宣教目的を明確にしておられるのです。ところが、弟子の中には「救い」に与った経緯を忘れている人がいるのです。優れているから選ばれたかのように誤解しているのです。この信仰姿勢が人々の「躓(つまづ)きの石」になっているのです。物語は罪深い女性の罪が赦された話として語られているのです。女性の罪が分析の対象にされているのです。苦悩する女性に寄り添うよりも罪の内容をあれこれと詮索(せんさく)するのです。根拠もないのに「遊女」、「姦淫の罪を犯した女性」として結論付けているのです。シモンのような信仰理解が問われているのです。信仰を吟味する機会にしたいのです。

*イエス様は罪そのものよりも罪に至った経緯を重視されるのです。女性はただ、泣きながらイエス様の足を涙でぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、接吻して香油を塗ったのです。イエス様はご自身に対する心からの信頼に応えられたのです。「罪の赦し」が宣言されたのです。「あなたの信仰があなたを救った。安心して(平和のうちに)行きなさい」と言われたのです。イエス様は山上の説教で「人を裁いてはならない」と命じられたのです。キリスト信仰を標榜する人々はイエス様のご指示に従うのです。ところが、多くの人が裁きの座に着いているのです。イエス様が「罪人を招くため来た」と言われているのに、罪深い女性のような人を人間の教義によって排斥しているのです。人の罪に言及する場合は自分が罪人である(あった)ことを想起するのです。罪の重荷から解放されることを願い、立ち直れるように支えることが「隣人愛」なのです。日本語訳には翻訳者の信仰理解が如実に表れているのです。サマリア人の女性(ヨハネ4:7)、姦通の現場で捕らえられた女性(ヨハネ8:3)、長血を患った女性(マルコ5:25)がそれぞれ「~の女」のように軽蔑的に訳されているのです。イエス様に随行する女性たちには「婦人たち」が用いられているのです(ルカ8:1-3)。福音の真理を翻訳によって歪(ゆが)めてはならないのです。イエス様は罪深い女性の信仰を認めて「永遠の命」を与えられたのです。一方、信仰の傲慢に気づかないで罪人を裁くシモンに警告しておられるのです。罪人であることを自覚しなければ人は「救い」に与れないのです。

2024年07月28日

「あなたは隣人を愛したか」

聖書の個所(Bible Reading)マタイによる福音書25章31節から46節 


「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 そして、すべての国の民(異邦人たち)がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たち(あなたがた)のために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たち(あなたがた)は、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たち(あなたがた)は、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」


(注)


・人の子:この場合は審判者です。預言者ダニエルがそのイメージを表現しています。


■「夜の幻をなお見ていると、/見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り/日の老いたる者(神様)の前に来て、そのもとに進み 権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。(ダニエル書7:13-14)


■イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る。」(マタイ26:64)

・ノアの洪水:洪水になる前には人々は食べたたり飲んだりしていました、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで何も気が付かなかったのです。創世記6章-8章をお読み下さい。


・羊を右に、山羊を左に:すでに、預言者エゼキエルの言葉に登場しています。


■お前たち(あなたがた)、わたしの群れよ。主なる神はこう言われる。わたしは羊と羊、雄羊と雄山羊との間を裁く。お前たち(あなたがた)は良い牧草地で養われていながら、牧草の残りを足で踏み荒らし、自分たちは澄んだ水を飲みながら、残りを足でかき回すことは、小さいことだろうか。わたしの群れは、お前たち(あなたがた)が足で踏み荒らした草を食べ、足でかき回した水を飲んでいる。それゆえ、主なる神は彼らにこう言われる。わたし自身が、肥えた羊とやせた羊の間を裁く。お前たち(あなたがた)は、脇腹と肩ですべての弱いものを押しのけ、角で突き飛ばし、ついには外へ追いやった。しかし、わたしはわが群れを救い、二度と略奪にさらされないようにする。そして、羊と羊との間を裁く。(エゼキエル書34:17-22)

・正義と公平:

■主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人(抑圧された人々)に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人(た人々)には自由を/つながれている(人たち)には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。彼らはとこしえの廃虚を建て直し/古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。(イザヤ書61:1-4)

・最も重要な掟:

■イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコ12:29-31)


・神の国:イエス様の宣教の第一声はこのお言葉で始まっています。「天の国」とも呼ばれています。死後に行く「天国」のことではありません。神様の主権、神様の支配を表す言葉です。


・神の義:義は神様と人間との(倫理的な)正しい関係を表す言葉として用いられることが多いのです。しかし、元々の言葉(ギリシャ語)には「正義」の意味があるのです。神の国と神の義はキリスト信仰の真髄なのです。


・永遠の炎:イメージは次の通りです。

■彼ら(サタンの手下たち)は地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都(エルサレム)とを囲んだ。すると、天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。そして彼ら(神の民)を惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣(キリストに敵対するローマ皇帝)と偽預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。(ヨハネの黙示録20:9-10)


・百人隊長:100人のローマ兵を指揮し、命令を下していました。

(メッセージの要旨)


*最後の審判の様子が描かれています。「最も重要な戒め」を実践したかどうかが裁きの基準になっているのです。人は信仰によって「永遠の命」に与るのではないのです。社会の中で最も小さい者と呼ばれる人々を愛したかどうかが問われているのです。聖書の個所はイエス様の再臨(新しい天地創造)と深く関わっています。イエス様はご自身に起こる出来事を弟子たちに前もって教えられたのです。十字架上で政治犯として処刑され、三日目に復活し、再び地上に来てすべての国の民(異邦人たち)を裁くことを明言されたのです。初代教会の信徒たちは再臨が自分たちの時代に起こるものと考えていました。しかし、2000年の時を経た現在もまだイエス様の再臨は起こっていないのです。再臨が遅いのは神様の深い愛と憐れみの表れなのです。神様はすべての人が「救い」に与るように再臨の時期を遅らせておられるのです。イエス様はご自身の再臨をノアの時代に例えられたのです。洪水が襲って来て一人残らず取り去るまで、人々は洪水に気づかなかったのです。このように誰もその時を知らないのです。ただ、父なる神様だけがご存じなのです。イエス様は再臨の時に備えて「目を覚ましていなさい」と言われたのです(マタイ24:42)。イエス様を信じることは「救い」に至る道です(ヨハネ3:16)。キリストの信徒たちには「神様と隣人」を愛する責務が生じるのです。第一の戒めは実行されているのです。ところが、第二の戒め(隣人愛)が軽視されているのです。この事実は深刻な結果を招くのです。「行い」のない信仰は空しいのです。

*キリスト信仰を標榜(ひょうぼう)する人々は「神様の愛」と「罪の赦し」に感謝するのです。ところが、「神様の正義」の実現には極めて消極的なのです。キリスト信仰が誤解されているのです。神様は「わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主(わたし)の道を守り、主(わたし)に従って正義を行うよう命じて、主(わたし)がアブラハムに約束したことを成就するためである」と言われたのです(創世記18:19)。「正義と恵みの業(高潔さ)を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人(たち)、孤児(たち)、寡婦(たち)を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の(人の)血を流してはならない」と命じられたのです(エレミヤ書22:3)。イエス様も「先ず、神の国と神の義を求めなさい」と言われたのです(マタイ6:33)。「神の国」を人々に見える形で証しされたのです。福音が心身の障害で苦しむ人々、貧しい人々、虐げられた人々、不当に投獄された人々に届けられたのです。ヤコブも「信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ・・彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」と明言したのです(ヤコブ2:14-17)。

*神様による解放と救いの御業が始まっているのです。神様とイエス様の教えに従って「神の国」の建設に参画することがキリストの信徒たちの使命なのです。ところが、苦しみや悲しみに共感された「神様の御心」が個人的な「罪からの救い」に縮小されているのです。イエス様は直前に弟子たちに「天の国」について二つのたとえ話をされたのです。一つは「十人のおとめ」です(マタイ25:1-13)。もう一つは「タラントン」です(マタイ25:14-39)。神様から命じられた役割を忠実に果たした人々と与えられた責務を遂行しなかった者たちの話です。神様は前者を祝福し、後者を「神の国」から追放されたのです。「神の国」に招かれた人々は「神様の御心」を実現するのです。「善い働き」をしなければ「永遠の命」に与れないのです。たとえ話と今日の聖書の個所は連動しているのです。イエス様のお言葉が正確に語られていないのです。パウロの言葉「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなた(がた)は救われるからです」が「救いの根拠」とされているのです(ローマ10:9)。パウロの手紙を引用する場合は特に注意が必要なのです。「神の国」の福音が狭義に解釈されているからです。イエス様が明らかにされたように「罪の定義」は広いのです。個人の道徳的、倫理的な罪がすべてではないのです。最も小さい人々から目を逸(そ)らせていることも罪なのです。同情だけでは隣人を愛したことにはならないのです。窮状から解放するための支援行動が不可欠なのです。

*今日においても、貧困の故に飢えや渇きに苦しんでいる人々、迫害によって住むところを追われた人々、病気になっても十分な医療を受けられずに死を早めている人々、正義のために闘って投獄されている人々がいるのです。こうした現状を直視しない生き方は「神様の御心」に合致しないのです。「救い」から遠ざかっているのです。国連の機関UNICEF(日本ユニセフ協会)のパンフレット(5月)によると五歳未満で亡くなる世界中の子どもの数はおよそ490万人です。その約五割を生後一か月未満の新生児が占めているのです。死亡率が高い国のほんどは紛争下にあるのです。毎日数千人の新生児の命が失われているのです。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)はニュースレター(6月)で難民の危機に言及しています。ウクライナや中東での戦闘が日々ニュースで取り上げられています。一方、世界から見過ごされ支援が届かない中、多くの人が家を追われ、今こうしている間にも命の危険に晒(さら)されているのです。国内においても家族とのつながりもなく簡易宿舎に住み、日雇い労働によって糧を得ている人々がいるのです。高齢や病気のために仕事につけず困難な生活を余儀なくされている人々がいるのです。人種や民族、因習や偏見によって差別され、思想や信条の違いから迫害され、不当な扱いを受けている人々がいるのです。神様のお言葉やイエス様の教え、重要な聖書の個所が恣意的(しいてき)に読み飛ばされているのです。キリストの信徒たちが苦難にある人々との関りを逡巡(しゅんじゅん)しているのです。これらも罪なのです。

*神様はイエス様に人間を裁く権能を委ねられたのです。イエス様は「救いの基準」を誰もが理解できるように短い言葉で表現されたのです。人は信仰によって、教派の教義を通して「救い」に与るのではないのです。キリスト信仰に生きる人々は「最も重要な戒め」を実践するのです。ローマ帝国の圧政を担う百人隊長はユダヤ人たちから罪人として蔑まれていました。しかし、この人はユダヤ人たちを愛し、自分の僕(奴隷)の病のために奔走(ほんそう)したのです。イエス様は信仰を褒められたのです。ある金持ちは有り余るほどの富を持っていました。自宅の前で寝ている同胞の貧しいラザロに分け与えることはなかったのです。この人には厳しい罰が待っていたのです。ある旅人は追はぎに襲われて瀕死(ひんし)の状態にある人を助けたのです。イエス様は律法の専門家に「行ってあなたも同じようにしなさい」と言われたのです(ルカ10:25-37)。知的信仰は「救い」の役に立たないのです。旧・新約聖書の最後のヨハネの黙示録はイエス様の再臨で締め括られています。イエス様は「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる 」と言われるのです(ヨハネの黙示録22:12)。イエス様が再び来られる時、すべての国民が集められるのです。キリストの信徒たちも裁かれるのです。イエス様の警告を真剣に受け止めるのです。悔い改めて信仰の原点に戻るのです。言葉ではなく「行い」によって証しするのです。そして、「主イエスよ、来て下さい」と言うのです(ヨハネの黙示録22:20)。

2024年07月21日

「自分の十字架を担いなさい」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書10章26節から42節

「(敵対する)人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は(誰でも)、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は(誰でも)、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も(誰でも)、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は(誰でも)、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者(人々)は、それを失い、わたしのために命を失う者(たち)は、かえってそれを得るのである。」

「あなたがたを受け入れる人は(誰でも)、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は(誰でも)、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は(誰でも)、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は(誰でも)、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は(誰でも)、必ずその報いを受ける。」

(注)

・1アサリオン:1デナリオン(平均的労働者の一日分の賃金に相当する額)の16分の一です。

・人々の前でわたしを知らないと言う者:ペトロを想起するのです。

■ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。(マルコ14:66-72)

・イエス様による「神の国」の到来を示す言葉:

■イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人(人々)に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人(人々)に解放を、/目の見えない人(人々)に視力の回復を告げ、/圧迫されている人(人々)を自由にし、 主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(ルカ4:16-21)

■(洗礼者)ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人(人々)は見え、足の不自由な人(人々)は歩き、重い皮膚病を患っている人(人々)は清くなり、耳の聞こえない人(人々)は聞こえ、死者(たち)は生き返り、貧しい人(人々)は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。(マタイ11:2-6)

・「神の国」とこの世に関するパウロの認識:

■正しくない者(悪事を働く人々)が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをして(だまされて)はいけない。(性的に)みだらな者(たち)、偶像を礼拝する者(たち)、姦通する者(たち)、男娼(を行う人々)、男色をする者(たち)、泥棒(をする人々)、強欲な者(たち)、酒におぼれる者(たち)、人を悪く言う者(たち)、人の物を奪う者(たち)は、決して神の国を受け継ぐことができません。(1コリント6:9-10)

■人は皆、上に立つ権威(権力)に従うべきです。神に由来しない権威(権力)はなく、今ある権威(権力)はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は(だれでも)、神の定めに背くことになり、背く者(たち)は自分の身に裁きを招くでしょう。実際、支配者(たち)は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなた(がた)は権威者を恐れない(権力の恐怖から解放される)ことを願っている(のですか)。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう(権力による承認を得られるのでしょう)。権威者(権力)は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者(権力)はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。(ローマ13:1-4)

・ファリサイ派の人々:ユダヤ教の律法を生活の隅々に適用し、厳格に守ったのです。しかし、それは人々に見せるために行われたのです。彼らは偽善者なのです。

・律法学者たち:ユダヤ教の律法を専門的に解釈していた人々です。イエス様の主要な敵対的グループの一つです。

・敵対させるために:ミカ書7:6を参照して下さい。

・この小さな者の一人:クリスチャン宣教師のことです。

(メッセージの要旨)

*イエス様は生と死と復活を通して「神の国」(天の国)-神様の支配-を証しされたのです。キリスト信仰とは「神の国」の到来を福音として信じることなのです。キリスト信仰が誤解されているのです。福音が「罪の赦し」に縮小されているのです。キリストの信徒としての責務が疎(おろそ)かにされているのです。イエス様は神様から委ねられた使命のためにご生涯を奉げられたのです。「神様の御心」を実現するためには激しい対立さえも恐れられなかったのです。ファリサイ派に属する律法学者たちはイエス様が徴税人や罪人たちと食事していることを非難したのです。イエス様は「罪人たちを神様の下へ招くために来た」と言って反論されたのです(マルコ2:17)。それ故に迫害されたのです。イエス様は使徒たちを派遣するにあたって「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と言われたのです(マタイ10:16)。イエス様の弟子であると言う理由で地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるのです。家族にも分裂が生じるのです。兄弟は兄弟を、父は子を、子は親を殺すのです。イエス様の名前のために、すべての人に憎まれるのです。イエス様は弟子たちに覚悟を求められるのです。クリスチャンとは「キリストにつける者」と言う意味です。イエス様が十字架を背負われたように、自分の十字架を担った人がキリストの信徒と呼ばれるのです。キリスト信仰は安価な恵みではないのです。犠牲が伴うのです。「永遠の命」に与った人々はこの世に同調することは出来ないのです。御跡を辿(たど)るのです。「真理の剣」を高く掲げるのです。


*イエス様はユダヤ教の拠り所であるエルサレム神殿のあり方を公然と非難されたのです。過越祭-エジプトの圧政から解放されたことを記念する重要な祭り-が近づいた時です。イエス様はエルサレムへ上られたのです。神殿の境内で生贄(いけにえ)の羊や鳩などを売っている人々、座っている両替人たちを御覧になったのです。イエス様は縄で鞭(むち)を作り、動物たちをすべて追い出し、両替人の金をまき散らして「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と命じられたのです(ヨハネ2:13-16)。エルサレム神殿が腐敗していることに憤られたのです。エルサレム神殿に「祈りの家」の面影は見られないのです(イザヤ書56:7)。民衆を搾取する「強盗の巣」になっているのです(エレミヤ書7:11)。神殿機能が一時的に停止したのです。供え物の動物たちが確保されなければ、他国の通貨を清める両替が行われなければ神殿礼拝の正当性が失われるのです。ユダヤ教にとって最も重要な神殿礼拝が根底から揺らいでいるのです。大祭司カイアファを代表とする指導者たちにとって前代未聞のことが起こっているのです。神様への冒涜(ぼうとく)を断じて赦すことは出来ないのです。どのようにしてイエス様を殺そうかと謀議したのです。イエス様は誕生以来十字架の死を目指して歩まれた訳ではないのです。「神様の御心」-神の国の福音-が実現していることを証しされたのです。言葉だけではなく、「実力行使」によって神殿崩壊を警告されたのです。果たして、ローマ軍はエルサレム神殿を完全に破壊したのです(紀元70年)。

*「神の国」の福音を宣教するイエス様とユダヤ教の伝統に固執する人々の間に律法の解釈を巡って対立が生じているのです。イエス様は弟子たちに「恐れることなく、大胆に証ししなさい」と言われるのです。イエス様のお言葉には力があるのです。神様がイエス様と共におられるからです。イエス様は民衆の社会的、経済的、政治的窮状に心を砕かれたのです。信仰を自負するファリサイ派の人々や律法学者たちは最も重要な戒め-正義、慈悲、誠実を実行しないのです、既得権益に執着し、神様を軽んじて偽善者であり続けるのです。彼らに天罰が宣告されたのです(マタイ23)。使徒言行録は初代教会の信徒たちの多くがガリラヤから来た貧しい農民であったこと、イエス様が十字架上で政治犯として処刑された後も敵対する人々(指導者たち)から執拗に迫害されたことを伝えているのです(使徒1-8)。キリストの信徒たちは持ち物を共有していたので貧しい人は一人もいなかったのです。キリスト信仰は抑圧され、搾取されている人々には希望の光なのです。神様が御力を発揮して下さると信じているのです。勇気を出して家族関係を問い直し、指導者たちの不信仰と不正を告発するのです。キリスト信仰が恵みを受けるだけの信仰に陥(おちい)っているのです。イエス様はこのような信仰のあり方に警鐘を鳴らしておられるのです。キリストの信徒たちに曖昧(あいまい)な生き方は許されないのです。イエス様に従って「永遠の命」に与(あずか)るか、イエス様を拒否して「滅び」に至るかなのです。御心に適う人々は決して見捨てられないのです。

*預言者イザヤは「正義が造り出すものは平和であり/正義が生み出すものは/とこしえに安らかな信頼である」と言っています(イザヤ書32:17-18)、イエス様は山上の説教において「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。義(正義)のために迫害される人々は、幸いである、/天の国(神の国)はその人たちのものである」(マタイ5:9-10)と宣言されたのです。正義と平和は不可分なのです。いずれも「待っていれば訪れる」というものではないのです。人間の不断の努力が必要なのです。平和を希求するキリストの信徒たちは闘うことになるのです。「神様の御心」を軽んじる権力者たちと対峙するのです。剣なしでは平和は実現しないのです。このような視点が隅に追いやられているのです。個人的な罪の問題は強調されても、平和や正義に言及されることが極めて少ないのです。主な理由の一つは「神の国」を個人的な信仰心の問題として理解したパウロの影響です。パウロはイエス様から教えを受けたことや宣教活動に従事したこともないのです。ところが、キリスト信仰の有力な解釈者となっているのです。二つ目はローマ皇帝コンスタンティンがキリスト教を公認したことです(西暦312年)。このことが「神の国」の意味を変容するのです。権力者たちは支配を正当化するためにパウロの言葉「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」を引用するのです。「正当性」は言葉ではなく行いによって判断されるのです。

*「神の国」の福音は「罪からの救い」に留まるものではないのです。「人間の全的な解放」として実現するのです。ところが、クリスチャンに「永遠の命」のことは語られても、「自分の十字架」を担うことの厳しさが伝えられていないのです。この事実をもっと深刻に受け止めるべきです。キリスト信仰には行いが不可欠なのです。行いのない信仰は思いがけない悲惨な結果をもたらすのです(マタイ25:31-46)。イエス様は「わたしは柔和で、謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と言われたのです(マタイ11:29)。十字架の重みに耐えながら黙々と日々を過ごしている人々がいるのです。イエス様はこれらの人が涙を流し、眠れない夜を過ごしていることをご存知なのです。一方、イエス様の実像が歪められているのです。洗礼者ヨハネがイエス様について「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と言っています。人物像を屠り場に向かう穏やかで従順な小羊に重ねる人も多いのです。イエス様は平和、柔和、謙遜を大切にされたのです。同時に、正義、慈悲、誠実を貫かれたのです。イエス様は弟子たちに絶えず覚悟を求められたのです。キリストの信徒たちも様々な困難に遭遇するのです。幸いにも「涙と共に種を蒔(ま)く人は喜びの歌と共に刈り入れる」のです(詩編126:5)。イエス様も「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と約束されたのです(マタイ24:13)。お言葉を心に刻み、自分の十字架を担うのです。恐れることなく歩むのです。

2024年07月14日

「真理が見えない人々」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書9章24節から41節


さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方(預言者)が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。


イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者(人々)は見えるようになり、見える者(人々)は見えないようになる。」イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る(あなたたちが罪人であることに変わりはない)。」


(注)


・神様の業:この人が盲目になった原因が問題ではないのです。神様の癒しの業が現れる機会である点が重要なのです。

・預言者:一世紀には神様がローマ帝国からイスラエルを解放するために遣わされた預言者、王(救い主)と自称する人がたくさんいたのです。

・安息日:厳格に順守することが求められました。ところが、イエス様は「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」、さらに、ご自身を「安息日の主」と言われたのです(マルコ2:23-28)。ユダヤ教の指導者たちとの決定的な対立の要因となったのです。


・ユダヤ人たち:ファリサイ派の人々のことです。


・ファリサイ派の人々:会堂を実質的に管理・運営していました。社会的地位の高い議員の中にはイエス様を信じる人も多かったのです。しかし、会堂から追放されることを恐れて、自分たちの信仰を公にしなかったのです(ヨハネ12:42)。

・神は罪人の言うことはお聞きにならない:旧約聖書の詩篇34:16;66:18を参照して下さい。

・神様の御心:

■主は彼(モーセ)の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」(出エジプト記34:6-7)

■それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。(エゼキエル書18:30-31)

・人の子:


この呼称には三つの意味があります。第一は預言者です(エゼキエル書2:1-3)。第二は天の雲に乗って現れる終わりの時の審判者です(ダニエル書7:13-14)。今日の聖書の個所では、イエス様は預言された人の子であることを明らかにされたのです。他に「わたしとわたしの言葉を恥じる者(たち)は、人の子も自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときにその者(たち)を恥じる」(ルカ9:26)、「神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(ルカ18:8)などがあります。第三はこの世の人間を表しているのです(ルカ9:58)。

・見えない者(人々)は見えるようになり、見える者(人々)は見えないようになる:イザヤ書6:9-10からの引用です。イザヤ書35:5-6を併せてお読み下さい。

・ハーメルンの笛吹き男:物語の要旨は次の通りです。

ドイツのハーメルンという町にネズミがやたらに増えて人々は困っていました。そのような時に不思議な身なりをした笛吹き男が現れたのです。男は町の偉い人たちに自分をネズミ捕りとして紹介したのです。町に大金の報酬を約束させて、ネズミの駆除に取り掛かったのです。男の笛の音は町中のネズミを大きな川へ誘い出し一匹残らず溺れさせたのです。ところが、町の人たちはネズミがいなくなった途端、急にお金を払うのが惜しくなったのです。何のかんのと言ってお金を払おうとしないのです。とうとう笛吹き男は怒って帰ったのです。次の日曜日ハーメルンの町にまた笛吹き男が現れたのです。町角に立っていつかのように笛を吹き鳴らしたのです。町の子どもたちは不思議な笛の音につられて笛吹き男の後をついて行き山の洞穴に消えてしまったのです。子供たち(目の不自由な男の子と口の利けない男の子の二人を除く)と笛吹き男は二度とハーメルンの町に戻って来なかったのです。

●ハーメルン:中世の街並みが残るドイツの市です。現在の人口はおよそ57,000人です。緯度は北海道の最北端稚内よりもさらに北です。「ハーメルンの笛吹き男」は笛吹き男と共に130人の子どもたちがこの町から姿を消した事件です。1284年6月28日に起こっています。一般的に、この事件は東ヨーロッパに集団移住させられたことと、当時人気の職業だった「ネズミ捕り屋」が合体した話だとされています。その他にも諸説あります。

(メッセージの要旨)

*イエス様は通りすがりに生まれつき目の見えない人を見かけられました。ユダヤ人たちは-イエス様の弟子たちも同様に-この人の目が見えなくなった原因を本人か両親の罪の結果と考えていたのです。しかし、イエス様はユダヤ教の伝統的な教えである障害と罪の関連を明確に否定されたのです。「神様の愛が現れるためである」と新たな解釈を示されたのです。「力ある業」を用いてその事実を証明されたのです。ところが、ファリサイ派に属する指導者の中には生まれつき目の見えなかった人が見えるようになったことを信じない人々がいたのです。不信仰な人々はたとえ死者の中から生き返った人があってもその人の言うことを信じないのです(ルカ16:31)。しかも、イエス様をメシア(油注がれた者―キリスト(救い主)―であると公言する者がいれば会堂から追放すると決めていたのです。両親を呼び出して真相を確かめようとしたのです。両親は子が生まれつき目の見えなかったこと、今見えるようになったこと以外は分からないと説明したのです。詳しくは本人に聞いて下さいと言ったのです。ファリサイ派の人々は生まれつき盲人であった人を再び呼び出したのです。暗闇から解放されたことを喜ぶのではなく、癒しの業が「安息日」に行われたことを非難しているのです。癒された本人は「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今見えるということです」と反論したのです。モーセの座に着いている人々が罰せられ、イエス様を神の子と信じる人が「永遠の命」に与ったのです。

*「神の国」(天の国)-神様の支配-が到来しているのです。イエス様は見える形で証しされたのです(ルカ7:20-23)。すべての人に福音(良い知らせ)が届けられているのです。エリコの町で盲人バルティマイを見えるようにされたのです。この人は見えるようになるとイエス様に従ったのです(マルコ10:46-52)。ガリラヤ地方では二人の盲人を癒されたのです(マタイ9:27-31)、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人を、ものが言え目も見えるようにされたのです(マタイ12:22)。ベトサイダの村では盲人の目に唾(つば)をつけ、両手をその目に当てて癒されたのです(マルコ8:22-26)、エルサレムでは神殿の境内で売り買いをしていた人々を皆追い出した後、そばに寄って来た盲人たちを見えるようにされたのです(マタイ21:14)。目の病気は日常的に起こっていました。不衛生が大きな原因だったのです。特に、きれいな水が不足していたのです。しかも、治療方法がほとんど確立されていなかったのです。目が不自由な人々も生きて行かなくてはならないのです。しかし、これらの人が適切な仕事を見つけ自立することは極めて困難でした。多くの人は路上で物乞いをしたのです(ルカ18:35)。幸いなことに、生まれつき目の見えない人は両親の庇護の下にいたのです。癒された人々は「神の国」の福音を聞いただけではないのです。実際に目が見えるようになったのです。イエス様の教えが真実であることを経験したのです。イエス様の癒しの業は苦難に喘ぐ人々を信仰へと導いたのです。

*キリスト信仰が「霊的な救い」のみを目的にしているかのように誤解されているのです。「神の国」は人間の「全的な救い」としてしかるべき時に完成するのです。イエス様はそのことを部分的に先取りしておられるのです。生まれつきの盲人はイエス様の癒しの業を通して「救い」に与ったのです。一方、モーセの弟子を自負するユダヤ人たちは不信仰の故に「永遠の命」から遠ざかったのです。イエス様は信じられない人々に業を信じなさいと言われました(ヨハネ10:37-38)。神様がイエス様と共におられなければそのような「力ある業」は実現しないからです。イエス様の業と信仰を切り離すことは不信仰なのです。信仰と行いは表裏一体なのです。行いの伴わない信仰はそれだけでは死んだものなのです(ヤコブ2:17)。グリム兄弟の「ハーメルンの笛吹き男」は世界中の子供たちに親しまれています。物語については様々な解釈が行われています。キリスト信仰のあり方が問われていることに注目したいのです。町の偉い人たちはネズミが駆除された後に笛吹き男に約束したお金を払わなかったのです。ところが、次の日曜日には神様の祝福を求めて礼拝に出席しているのです。人々にとって信仰は魂の救いであって、正義や誠実さと関りがないのです。行いのない信仰を非難するかのように、子供たちの失踪事件は大人たちが皆教会でお祈りをしている時に起こったのです。ただ、目の不自由な男の子と口の利けない男の子の二人は他の子どもたちから遅れたので助かったのです。グリム兄弟の作品はいずれも何らかの真実を語っているのです。


*イエス様は「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」と言われたのです。イエス様に対する応答の如何(いかん)が既に裁きになっているのです。イエス様を信じた生まれつきの盲人は「神の国の本質」が見えるようになったのです。信仰を自負するユダヤ人たちは「福音の真理」を受け入れられないのです。誰でも謙虚にならなければ「神の子」に近づくことは出来ないのです。ファリサイ派の人々はモーセの律法を熟知しているのです。しかし、それらを実行しないのです。真に偽善者なのです。「見える」と言う人々は神様の位置に自分たちを置いているのです。人間が作った教義(神学)に基づいて「救い」を確信しているのです。ある人を義人、別の人を罪人として選別しているのです。イエス様は山上の説教で「人を裁いてはならない」と言われたのです(マタイ7:1-5)。パウロも自分を戒めて「・・主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。・・」と言うのです(1コリント4:5)。人間に人の「救い」の有無(うむ)を決定する権限はないのです。神様はイエス様に裁きを一切任せておられるからです(ヨハネ5:22)。キリストの信徒たちはこのことを肝に銘じるのです。尊大な人々には真理が見えないのです。「永遠の命」を得られないのです。謙虚な人々には物事が正しく見えるのです。罪人として蔑まれた人が信仰によって救われるのです。


*生まれつきの盲人は見えるようになったのです。イエス様を「救い主」として信じたのです。この人は「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません」と言っています。神様が共におられなければ起りえなかった出来事なのです。イエス様が神様のもとから来られたお方であることを確信しているのです。しかし、誤解を恐れずに言うならば信仰は決して「救い」の保証ではないのです。信仰を貫くためには絶え間ない努力と良い行いが必要なのです。キリスト信仰を告白していないけれども、隣人-貧しい人々や体の不自由な人々-を愛している人々がいるのです。これらの人は「神様の御心」を具体化しているのです。一方、あなたの良い行いは認めるがキリスト信仰を表明していないから「救い」に与れない、信仰があるから良い行いは必要ではないという人々もいるのです。信仰と行いが分離されているのです。キリスト信仰とは「神の国」の福音に与り、それを建設することなのです。分離して論じること自体が誤っているのです。人間の罪は神様への畏れ(恐れ)を無くしたことから始まるのです。「神様の御心」が人間の教義によって恣意的に変容されているのです。イエス様は弟子たちに徹底して謙虚になることを教えられたのです。そうしなければ「永遠の命」に与れないからです(マタイ18:1-5)。キリストの信徒たちはイエス様の生き方に倣(なら)うのです。最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実践するのです。選択の問題ではないのです。「救い」の要件なのです。

2024年07月07日

「財産の使い方」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書16章1節から14節

イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口(非難)をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』

また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富(この世の富)で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ(神の子であるという観点から対応しなければ)、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのもの(あなたがに属するもの)を与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。

(注)

・金持ち:イエス様は「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われました。ここに、イエス様のお考えが表れています。ただ、神様はこれらの人の「救い」を断念された訳ではないのです。マタイ19:24;マルコ10:25;ルカ18:25を参照して下さい。

・富:「マモン」から訳出された言葉です。「マモン」はお金のことです。そこには軽蔑的な意味が込められているのです。貪欲の「神」を表しているからです。

・不正な富:金持ちの多くは律法の規定に反して蓄財しているのです。

■もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない。(出エジプト記22:24)

■あなたたちは、不正な物差し、秤、升を用いてはならない。正しい天秤、正しい重り、正しい升、正しい容器を用いなさい。わたしは、あなたたちをエジプトの国から導き出したあなたたちの神、主である。わたしのすべての掟、すべての法を守り、それを行いなさい。わたしは主である。(レビ記19:35-37)

・管理人:一般的に良く訓練(教育)を受けた奴隷のことです。重要な仕事-管財-を任されていたのです。この世の子を代表しているのです。

・無駄遣い:金持ちが不正な管理人と呼んでいます。しかし、管理人が財産を横領したとか、何かを盗んだということではないのです。金持ちの貪欲な目的-利益優先―を遂行しないことです。お金に執着する人々にとっては職務怠慢なのです。

・パトス:約23リットルです。

・コロス:約230リットルです。


・抜け目のない:金持ちの立場から発せられた言葉です。「思慮ふかい」、「的確な」とも訳せる言葉です。管理人が「悪い人物である」という前提に立って翻訳されているのです。

・光の子:神様の子のことです。ヨハネ12:35-36を参照して下さい。しかし、富の誘惑に晒(さら)されているのです。

・太宰治:小説家、本名は津島修治です。1909年に生まれ1948年に没しています。「斜陽」、「走れメロス」、「津軽」、「人間失格」が有名です。

・永遠の住まい:「神の国」あるいは「永遠の命」を表しています。

(メッセージの要旨)

*管理人には財産管理を適切に行い、資金を効率よく運用し、最大限の利益をもたらすことが期待されているのです。ところが、金持ちは管理人が財産を無駄遣いしている-金持ちの利益を損なっている-という知らせを受け取ったのです。金持ちはこの人を不正な管理人と呼んでいます。しかし、私的に流用するなどの犯罪に手を染めた分けではないのです。金持ちの意向-利益第一主義-に沿った働きをしなかっただけなのです。お金の使い方がその人の「救い」を決定するのです。解雇通告を受けた管理人は就職先を模索するのです。債務者たちの証文を書き直させるのです。発想は「神様の御心」に適っているのです。イエス様は自らの職と引き換えに、不当な条件で貸し付ける金持ちを批判した管理人に「救い」を約束されたのです。マタイ16章は人間の貪欲に対する警告で貫かれているのです。この話の後に金に執着するファリサイ派の人々が厳しく批判されたのです。家の門前で横たわる貧しいラザロに援助の手を差し伸べなかった金持ちが死後に厳しく罰せられたのです。陰府(よみ)で炎にもだえ苦しんでいるのです。富に対する姿勢がその人の「救い」を左右するのです。イエス様は神様と富との両方に仕えることは出来ないと言われたのです。キリスト信仰の本質に関わるお言葉が恣意的に解釈されているのです。キリストの信徒たちが富との決別に逡巡しているのです。一方、この世の子が「神様の御心」を実践しているのです。「信仰告白」ではなく「行い」によって神の子であることが証明されるのです。立場を明確にしない信仰は空しいのです。

*この話を聞いたのは弟子たちだけではないのです。金に執着するファリサイ派の人々もいたのです。彼らに「悔い改め」を求められたのです。キリスト信仰において「富の問題」が曖昧にされてはならないのです。金持ちが不正に蓄財しているのです。管理人も不正に加担し(させられ)ているのです。管理人は財産を無駄遣いしているのです。金持ちの意向に沿った使い方をしていないのです。金持ちは職務怠慢を許さないのです。解雇するのです。管理人は債務者たちからだまし取った金額を返還して新しい就職先を確保しようとするのです。イスラエルの人々の困窮生活の原因は高額な税にありました。もう一つは負債です。農民たちの収入のおよそ半分はこれらの支払いに充当されたのです。生活は苦しかったのです。来年に備える農産物(種子など)は残らなかったのです。新しく作付けをするために、再び借金しなければなかったのです。青森県五所川原市金木にある太宰治(ペンネーム)の生家「斜陽館」(記念館)を訪れる機会がありました。津島家は大地主でした。一階の土間で銀行業務が行われたのです。小作人たちが地主に融資を申し込み、あるいは返済の猶予を願い出たのです。貧しい農民たちは凶作で苦しみ、生きて行くために娘を「奉公」に出したのです。税と借金はイスラエルの人々にとって深刻な問題でした。多額の負債を返済できなかった人々は土地、財産を処分したのです。労働力として貴重な本人や長男を奴隷として売りに出したのです。妻や他の子どもたちを売ることもあったのです。管理人の行為はこれらの人々を助けたのです。

*「神の国」の福音が誤解されているのです。「罪からの救い」に縮小されているのです。キリスト信仰とは「神の国」の建設に参画することなのです。ところが、神の子がそれを実践していないのです。イエス様は管理人を例に挙げてキリストの信徒たちに警告しておられるのです。管理人は就職先を確保する手段として主人の負債を用いたのです。目的は債務者たちに「恩を売ること」でした。ただ、手法は「神様の御心」に適っているのです。管理人は債務者たちの債務状況を的確に把握しているのです。負債のある人を順次呼んで律法の規定に従って金利分を減額したのです。金持ちは管理人の「抜け目のないやり方」を苦々しく思っているのです。律法に反して蓄財している金持ちは管理人を公然と非難できないのです。債務を軽減された人々は管理人に心から感謝したのです。イエス様は管理人の「隣人愛」を誉(ほ)められたのです。金持ちが不正に得た富を用いて-正しい経済活動を通して-友だちを作っているのです。この世の子が不正な富に正しく対応しているのです。ところが、神の子らは「富の問題」に真剣に取り組んでいないのです。神の子らの姿勢が曖昧である限り、本当に価値のあるもの-神の国の福音-を任せていただけないのです。管理人は金持ちの悪業に疑問を呈することなく、黙々と働いていれば現在の職を失うことはなかったのです。しかし、律法に反する金持ちのビジネス方針に心を痛めていたことは確かなのです。無駄遣いの内容は語られていないのです。債務者たちや貧しい人々への配慮であったことなどが推測されるのです。

*イエス様は「律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消え失せる方が易しい」と言われたのです(ルカ16:17)。律法を大切にしておられるのです。しかし、人々が律法を軽んじているのです。律法は経済活動について様々な規定を設けています。貧しい人々に対する横暴を厳しく戒めているのです。神様の命令は必要とする人々に必要なものを惜しみなく与えることです。「・・貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。『七年目の負債免除の年が近づいた』と、よこしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい。その同胞があなたを主に訴えるならば、あなたは罪に問われよう。彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない」と言われたのです(申命記15:7-10)。ところが、金持ちたちは人々の弱さに乗じて高利で貸し付けているのです。不正な物差し、秤、升を用いて暴利をむさぼっているのです。彼らには天罰が必ず下るのです。イエス様が宣教された「神の国」の根本理念は「神様と隣人」を愛することです。神様は戒めを実行する人々を祝福されるのです。イエス様は「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」と言われたのです。言い換えれば、光の子らが自分の仲間に無関心になっているのです。この世の富に執着しているからです。キリストの信徒たちが律法の中で最も重要な戒めを順守していないのです。

*金持ちの立場からすれば必要な支出を抑えてでも最大限の利益を追求することは当然なのです。管理人の様々な配慮はすべて無駄遣いとして映るのです。金持ちは律法の規定に反して不当な利息を課して儲(もう)けているのです。あるいは計量をごまかして利益を得ているのです。イエス様は金持ちが不正に蓄財していることをご存じなのです。不正な商取引に携わっている管理人は「神様の御心」に適った生き方をしたいのです。解雇という人生の転機が管理人を神様の下へ立ち帰らせるのです。律法に基づいて不正に得た利益を債務者たちに返したのです。管理人は「無駄遣い」によって職を失うことになったのです。後に、別の家に迎えられたかどうか分からないのです。「永遠の住まい」に招き入れられたことだけは確かなのです。今日においても、イエス様の時代と同じようにキリスト信仰に生きる人々の信仰が問われているのです。ビジネスに従事する人々が不正な取引に加担させられているのです。行政に携わる人々が特定の人々(政治勢力)に協力することを強いられているのです。悩みながら信仰と現実を切り離して解決する人々もいるのです。徴税人の頭で金持ちのザアカイは「主よ、・・だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と言ったのです。律法の規定(レビ記5:15-16)を上回る額で罪を償うのです。イエス様は「今日、救いがこの家を訪れた・・」 と言われたのです(ルカ19:1-10)。管理人の手法は律法に合致しているのです。光の子たちも信仰に堅く立って「神の国」の福音を証しするのです。

2024年06月30日

「神様が報いて下さる」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書6章1節から18節

「見てもらおうとして、人(人々)の前で善行をしない(敬虔さを表さない)ように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなた(がた)は施しをするときには、偽善者たちが人(人々)からほめられようと会堂や街角でするように、自分(たち)の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなた(がた)の施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなた(がた)に報いてくださる。」

「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人(人々)に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなた(がた)が祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなた(がた)の父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなた(がた)の父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人(たち)のようにくどくどと述べてはならない。異邦人(たち)は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧(かて)を今日与えてください。わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』もし人(人々)の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがた(の過ち)をお赦しになる。しかし、もし人(人々)を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

「断食するときには、あなたがたは偽善者(たち)のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者(たち)は、断食しているのを人(人々)に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなた(がた)は、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなた(がた)の断食が人(人々)に気づかれず、隠れたところにおられるあなた(がた)の父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなた(がた)の父が報いてくださる。」

(注)

・最も重要な戒め:第一は「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなた(がた)は心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなた(がた)の神、主を愛しなさい」(申命記6:4-5)、第二は「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」です(レビ記19:18)。イエス様もこれら二つを最も重要な戒めとされたのです(マルコ12:29-31)。

・施し:安息日にユダヤ教の会堂で施しや慈善寄付が行われていました。

・偽善者たち:律法学者たちやファリサイ派の人々を指しています。彼らの悪行はマタイ23章に詳述されています。

・祈り:ユダヤ人の成人男性はエルサレムに向かって毎日三回午前、午後、夕方に行います。食前と食後にも立ったまま、あるいは頭(こうべ)を垂れて祈ります。

・過ち:律法や慣習に違反することです。個人的(道徳的、倫理的)な観点から説明されることが多いのですが、返済期限を守らないことや返済不能なども含まれています。これらは社会的な要因が大きいのです。イエス様はローマ帝国の圧政に苦しんでいる貧しいユダヤ人キリスト者たちに「主の祈り」を教えられたのです。マタイ18:21-35を参照して下さい。

・断食:肉体に苦痛を課して自己を否定することです。食べ物や飲み物など体に必要なものを摂取しないだけでなく、体を清潔に保つことや楽しませたりすることも断つのです。レビ記16:29-31をご一読下さい。

(メッセージの要旨)

*「施し」、「祈り」、「断食」の戒めを遵守することはユダヤ教の重要な教えでした。イエス様は弟子たちにもそれらの実践を求められたのです。「神様の御心」に合致した行いは篤い信仰心や敬虔さの表れです。しかし、人は往々にしてそれを通して自分を喜ばせようとするのです。神様に栄光を帰すためではなく、自分を誇っているのです。偽りの信仰に堕(だ)しているのです。神様は心の奥底を見られるのです。イエス様も信仰を自負するファリサイ派の人々に「あなたたちは人(人々)に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるもの(富、地位、名誉など)は、神には忌み嫌われるものだ」と言われました(ルカ16:15)。偽善者と真のキリストの信徒の違いを明確にされたのです。「神様の御心」を実践する人は人間の賞賛を求めないのです。神様が報いて下さることを知っているからです。施しをするときは会堂や街角でしないこと、会堂や大通りの角に立って祈らないこと、沈んだ顔つきをして断食しないことは偽善に陥らないための警鐘なのです。イエス様は直前に「・・あなたがたの義(正義)が律法学者やファリサイ派の人々の義(正義)にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と言われたのです(マタイ5:20)。高慢と不正は大きな罪です。「死に至る病」なのです。それらは神様を欺いているからです。神様はそのような信仰を拒否されるのです。「主の祈り」は真に的を射ているのです。神様に日々「わたしたちを誘惑から守って下さい」と祈るのです。

*「施し」をすることはユダヤ人たちの義務なのです。モーセは「三年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、あなた(がた)のうちに嗣業(しぎょう)の割り当てのないレビ人や、町の中にいる寄留者、孤児、寡婦(か)がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。そうすれば、あなた(がた)の行うすべての手の業について、あなた(がた)の神、主はあなた(がた)を祝福するであろう」と言っているからです(申命記14:28-29)。神様は戒めを守る人々に報いて下さるのです。イエス様も隣人愛-貧しい人々や虐げられた人々への支援-を最も重要な戒めとされたのです。「祈り」は神様との直接対話です。誠実さが不可欠です。イエス様は「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と言われるのです。神様は祈る前から願いの内容を知っておられるのです。先ず「神様と隣人」について祈ることを教えられたのです。「主の祈り」は短い文章です。しかし、キリスト信仰の本質を要約しているのです。「わたしたちの」、「わたしたちを」、「わたしたちが」のように複数形が用いられているのです。「個人的な祈り」ではないのです。神様が「あなたたちは聖なるわたしの名を汚してはならない。・・わたしは・・エジプトの国からあなたたちを導き出した者である」と言われたことを起させるのです(レビ記22:32-33)。信仰共同体の一員であることを自覚し、同胞の苦難を担うことを命じられたのです。イエス様の教えは旧約聖書と律法に基づいているのです。

*「御名が崇められますように」は神様が軽んじられていることを表しています。当時、ローマ帝国がイスラエルを支配していました。皇帝は「救い主」(解放者)という称号で呼ばれていました。ユダヤ人たちにもローマ皇帝の名前を崇めることが強制されたのです。このような政治状況にあって、イエス様のお言葉は極めて過激です。「神様、地上の権力者(支配者)を裁いてご自身の御力と正義をお示し下さい」と解釈出来るからです。「御国が来ますように。御心が行われますように・・」も、文脈において「御名が崇められますように」と同じです。非情で不正に満ちた皇帝の支配が打ち砕かれて「神様の正義」が地上の隅々に及ぶことを願う祈りになっているのです。ユダヤ人のほとんどが貧しい生活を余儀なくされたのです。高額な税負担(収入の約40%)が大きな要因です。イエス様が誕生された年(紀元前6年ごろ)に皇帝アウグストゥスは全領土の住民に住民登録を命じているのです(ルカ2:1-3)。「主の祈り」が複数形になっている理由はこの点にあるのです。ユダヤ人たちは神殿税(会堂税)を納めるだけで良かったのです。ところが、新たに人頭税が課せられたのです。しかも、徴税人たちには税を上納した後、自分たちの裁量で追加の税を徴収することが許されたのです。彼らは民族の裏切り者として非難されたのです。罪人として蔑(さげす)まれたのです。税を払えない農民たちは悲惨でした。祖先から受け継いた土地を手放したのです。生産手段を失った人々は農園で過酷な日雇い労働に従事したのです(マタイ21:33-41)。

*「必要な糧を今日与えてください」は貧しい人々や虐げられた人々の切実な願いなのです。ローマ皇帝とその支配に協力している指導者たちが民衆に十分なパンを与えていないのです。イエス様は「わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/赦しましたように」と祈ることを教えられたのです。民衆は率先して「愛の教え」(ホセア書6:6)に従って負債を相互に免除するのです。「わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください」には苦痛や艱難を回避するために権力者たちの不正を黙認し、富の誘惑に屈している現実が反映されているのです。民衆はローマ帝国に協力して平和を維持するという誘惑に晒(さら)されているのです。信仰に堅く立って歩めるように願っているのです。「断食」は神様の前に自分を低くすることです。古くから受け継がれた悔い改めの儀式なのです。イスラエルの民は主を離れて異教の神々(バール)やアシュトレト(女神)を拝んでいたのです。士師サムエルは罪を犯した民に「イスラエルを全員、ミツパに集めなさい。あなたたちのために主に祈ろう」と訴えたのです。人々はミツパに集まると、水をくみ上げて主の御前に注ぎ、その日は断食し「わたしたちは主に罪を犯しました」と言ったのです(サムエル記上7:5-6)。「断食」は悔い改めを見える形で表しているのです。偽りがあってはならないのです。ファリサイ派の人々は信仰心の篤さを自負しているのです。「断食」は見せびらかすための手段です。イエス様は偽善を厳しく批判されたのです。

*キリストの信徒たちは「施し」(隣人愛)、「祈り」(神様との対話)、「断食」(悔い改め)を実行するのです。そのような生き方によって神様に栄光を帰すのです。ところが、いつの間にか自分を誇る手段になっているのです。誘惑に陥らないように日々警戒するのです。「主の祈り」には当時の社会的背景が反映されているのです。神様は権力者たちの圧政に喘(あえ)ぎ、窮乏生活に苦しむ人々の悲痛な叫びに応えられるのです。ご自身に信頼する人々に勇気と希望を与えて下さるのです。ユダヤ教の伝統的な祈りにも合致(がっち)しているのです。「アブラハム、イサク、ヤコブの神」のような言葉使いが見られないのです。「イエス様の御名によって」、「救い主の御名を通して」のようなキリスト教的な表現もないのです。「主の祈り」はユダヤ教、キリスト教を超えた普遍的な祈りなのです。困難を覚えるすべての人の慰めになっているのです。イエス様はユダヤ人たちが交際しなかったサマリア人たちにも「神の国」の福音を届けられたのです(ヨハネ4:39-42)。ローマ帝国の力による支配の担い手である兵士(百卒長)の息子を癒されたのです(マタイ8:5-13)。神様はご自身の民を決して見捨てられないのです。「もし同胞が貧しく、自分で生計を立てることができないときは、寄留者ないし滞在者を助けるようにその人を助け、共に生活できるようにしなさい」と人々に命じられたのです(レビ記25:35)。最も重要な戒め-正義、慈悲、誠実-を実践して「神様の愛」にお応えするのです。神様は必ず報いて下さるのです。

2024年06月23日

「神様の評価」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書18章9節から30節

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。するとペトロが、「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた(神様に委ねた)者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」

(注)

・神の国:キリスト信仰における根本理念です。イエス様の宣教の第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」です(マルコ1:15)。「神の国」-神様の支配-の到来こそ福音(良い知らせ)なのです。イエス様を通して「神の国」は具体化しているのです。病人が癒され、人の罪が赦されているのです。

・永遠の命:「神の国」に入ること、「救い」に与(あずか)ることです。

ファリサイ派の人:律法を厳格に遵守するユダヤ教の一派です。学識の豊富さから民衆に尊敬されていました。しかし、イエス様は彼らを厳しく批判されたのです。その理由は彼らが偽善者だったからです。マタイ23:1-36を参照してください。一方、律法学者の多くはファイサイ派によるモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)(トーラ)の解釈を支持していました。イエス様と対立した律法学者たちはファイサイ派に属していました。


・サドカイ派:「復活」を認めなかったのです。この点において、ファリサイ派の人々とは対立していました。しかし、イエス様には一致して敵対したのです。


徴税人:ローマ帝国のためにユダヤ人から税を徴収していました。他のユダヤ人からは「裏切り者」と呼ばれていました。さらに、民衆から集めた税金を当局に納めた後は自分のために追加の税を徴収することが許されていました。徴税人たちは強欲さと不正の故に「罪人」の一員として扱われ、社会の隅に追いやられたのです。ファリサイ派の人々からは蔑まれていましたが、イエス様は彼らの友となられたのです。さらに、徴税人マタイを12使徒の一人に選ばれたのです(マタイ9:10-13)。


・義:日本語訳では個人の道徳性の高さや信仰心の篤さとして理解されています。この言葉には社会的な正義という意味もあるのです。イエス様は「義(正義)に飢え乾く人々は、幸いである」(マタイ5:6)、さらに「何よりもまず、神の国と神の義(正義)を求めなさい」(6:33)と言われたのです。福音とは「神の国」(天の国)-神様の支配(主権)-が地上に遍(あまね)く行き渡り、「神の義(正義)」が確立されることなのです。

・子供:子供は無力な存在です。自分が出来ることは限られているのです。両親に頼る以外に方法はないのです。絶望の淵に生きる貧しい人々や虐げられた人々は「神の国」の到来に希望の光を見たのです。キリストの信徒たちは信仰によって「救い」に与るのではないのです。「神の国」を建設する使命があるのです。神様の戒めを守り、隣人を愛することが「永遠の命」に至る道なのです。

(メッセージの要旨)

*神様に訴えても受け入れられない祈りがあるのです。神様が願いを聞き入れられるかどうかは人間による評価とは全く関係がないのです。ファリサイ派の人は自分にとって都合の良い所だけを報告するのです。神様に信仰心の篤さを認めさせようと画策しているのです。称賛を得るためには神様さえコントロールしようとするのです。傲慢の極みです。神様は「高ぶる者を低くされ、へりくだる者を高められるのです。人間の心の内だけではなく御心を実践しているかどうかをご覧になられるのです。イエス様は卓越した知識や能力を不正な蓄財の手段として用いるファリサイ派の人々や律法学者たちに「蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか」と言われるのです(マタイ23:33)。徴税人はファリサイ派の人のように自分の良い行いを自画自賛することはありませんでした。自分の生き方を心の底から後悔しているのです。それは胸を打ち叩く姿に表れています。譬(たと)え話はファリサイ派の人の尊大さと徴税人の謙虚さを比較しているのではないのです。事態はもっと深刻なのです。偽善と不法に身を染めるファリサイ派の人が「滅び」に至り、徴税人が憐れみによって「救い」に与ったのです。両者を分けたのは犯した罪に対する悔い改めの姿勢なのです。傲慢(ごうまん)は大きな罪の一つです。一方、金持ちの議員は信仰心の篤い人です。ただ、信仰を許容範囲に限定するのです。イエス様のご指示を拒否したのです。神様の前に正しい人はいないのです。イエス様は謙遜と隣人愛を「救いの要件」とされたのです。

*ユダヤ人たちは毎日神殿で礼拝をしていました。ファリサイ派の人々も徴税人たちもこのために神殿に来ていました。神殿は犠牲の供え物を捧げるだけでなく祈りの場所でもありました。二人は神殿内部の至聖所近くの「イスラエルの庭」(ユダヤ人男性の礼拝場所)で祈ったのです。それぞれはユダヤ人社会の中で対照的な存在でした。ファリサイ派はサドカイカイ派と並んでユダヤ教の宗派の一つです。ファリサイ派はイエス様が地上に来られるおよそ150年前に創設されました。元々これらの人は信仰心が篤かったのです。律法と伝統を厳格に遵守していたのです。ところが、時代を経るに従って、信仰は形式化し、自己義認によって偽善化していったのです。一方、徴税人たちはローマ帝国に協力してユダヤ人たちから過酷に徴税し、富を蓄えていたのです。ユダヤ人たちから裏切り者、罪人と呼ばれたのです。こうした二つの階層に属する人々が祈っているのです。譬え話は神様の前で自らを正しい者であると公言し、罪人たちを蔑んでいる人々に向けて語られているのです。ファリサイ派の人は自分が奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でないことを自負しています。尊大にも神様に自分の評価を認めさせようとするのです。一方、罪人たちや社会の隅に追いやられている人々を見下しているのです。この人にとって律法を知らない徴税人は呪われているからです(ヨハネ7:49)。ファリサイ派の人には神様への畏敬の念が見られないのです。徴税人に対しても横柄に振舞うのです。徴税人は自分の罪を率直に告白し、神様の憐れみと赦しを乞うたのです。

*イエス様は「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われました。このお言葉は「人は神様を信頼しなければ神の国に入れない」というように理解されているのです。何事においても信頼を欠いては大切な関係を維持できないのです。しかし、ここで言われていることは、子供たちが置かれている位置-父親の従属物になっていること-にまで降りて行くことなのです。最も小さい者たち-貧しい人々や虐(しいた)げられた人々-と共に歩むことなのです。律法には基本となる戒めが二つあります。一つは「イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏(おそ)れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか」です(申命記10:12-13)。もう一つは「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。・・貧しい者(たち)や寄留者(たち)のために残しておかねばならない。・・あなた(がた)は隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。・・自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。・・」です(レビ記19:9-18)。イエス様はこれらを最も重要な戒めとされたのです(マルコ12:29-31)。キリスト信仰とは信じることではないのです。信じたことを実行することなのです。神様と隣人を愛して「救い」に与るのです。

*ある金持ちの議員は子供の時から「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」という掟を守ってきました。ところが、なお「永遠の命」の確信が得られなかったのです。議員と訳されている言葉は支配者のことです。日本語訳は往々にしてキリスト信仰に相応しくないとして政治的言葉を避けているのです。恣意的な翻訳は当時のイスラエルの民衆が置かれていた政治状況を正確に伝えないのです。絶大な権力とたくさんの財産を持っている支配者の一人が信仰上の不安を覚えているのです。イエス様はこの人の信仰心を認めておられるのです。ただ、「救い」は安価な恵みではないのです。本人が理解していない点を指摘し、解決方法を示されたのです。この世の権力とそれから得た富が信仰の確信へ至る道を妨げているのです。イエス様は「自分の財産を売って貧しい人々に施しなさい」、「ご自身の弟子になりなさい」と言われたのです。しかし、この金持ちは様々な思い煩いからイエス様の招き-「神の国」の福音を拒否したのです。現在の位置から社会の底辺へ降りて行くことが出来なかったのです。社会的地位と既得権益に執着したのです。この議員は律法の規定を選別しているのです。守ることが出来た規定だけを誇らしげに取り上げているのです。「隣人を自分のように愛しなさい」を実践するまでには至らなかったのです。神様よりも富の方を愛したことは明白です。神様はすべてのことをご存です。金持ちが「神の国」に入るのはらくだが針の穴を通るよりも難しいのです。しかし、神様はこの人の「救い」を断念されることはないのです。


*イエス様は「神の国」の本質を明確にされるのです。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」のです。しかし、イエス様のお言葉を実行することは簡単ではないのです。子供のように「神の国」を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできないのです。キリスト信仰が「罪の赦し」に縮小されているのです。「神の国」は人間の「全的な救い」として完成するのです。イエス様はご自身の教えと力ある業によって「神の国」が到来していることを証しされたのです。イエス様の教えを実践しない人々は「永遠の命」に与れないのです。道徳的、倫理的な罪のみが罪ではないのです。信仰の傲慢、富への執着、正義や平和への無関心はより深刻な罪なのです。身近にいた弟子たちも誰が一番偉いかについて議論しているのです。イエス様は彼らの誤った信仰理解を正すために徹底して仕えることを命じられたのです(マルコ9:33-37)。信仰を自負する人々は多くの場合自分たちの傲慢に気づかないのです。信仰の傲慢はその人を死に至らせるのです。一方、金持ちの議員はイエス様に教えを願い出ているのです。ところが、イエス様が示された「救いの道」を受け入れられないのです。有り余る富を隣人のために施すことに消極的なのです。視点を最も小さい人々へ向けなければ「神の国」に入れないのです。神様はこの人の悔い改めを忍耐して待っておられるのです。信仰を自負する人々が後になり、蔑まれていた徴税人が先になったのです(マタイ20:16)。信仰を誇っても無意味なのです。神様が判断されるからです。

2024年06月16日

「すべての人に届けられる福音」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書4章1節から20節

イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。「よく聞きなさい。種を蒔(ま)く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。

イエスがひとりになられたとき、十二人と、イエスの周りにいた人たちとが、たとえについて尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外(そと)の人々には、すべてがたとえで示される。それは、/『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』(イザヤ書6:9-10)/ようになるためである。」

また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いてもすぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難(かんなん)や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」

(注)

・預言者イザヤ:当時イスラエルは南北に分裂していました。北王国は「イスラエル」、南王国は「ユダ」と呼ばれていました。イザヤの宣教はユダ王国を中心に行われました。ウジヤ王の死(紀元前738年頃)と共に始まり、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ王の治世にも及びました。

・神の国:神様の主権、実際の支配のことです。「天の国」とも言われています。

■・・だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。(マタイ6:31-34)

■イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人(人々)に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人(人々)に解放を、/目の見えない人(人々)に視力の回復を告げ、/圧迫されている人(人々)を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(ルカ4:16-21)

・サタン:神様の敵です。旧約聖書のヨブ記1章に神様とサタンの会話が記されています。

■ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来ました。主はサタンに「お前はどこから来た」と言われました。サタンは「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」と答えたのです。主はサタンに「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な(非の打ちどころのない)正しい人で、神を畏(おそ)れ、悪を避けて生きている」と言われました。サタンは「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません」と答えました。主はサタンに「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな」と言われました。サタンは主のもとから出て行きました。 ・・その後、ヨブは何度も耐え難い災難に遭遇しました。・・ところが、神様を非難することもなく、罪も犯さなかったのです。

・主の祈り:イエス様が弟子たちに教えられた祈り

■・・天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように、御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目(様々な負債)を赦して下さい、わたしたちも自分に負い目(様々な負債)のある人(人々)を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救って下さい。(マタイ6:9-13)

(メッセージの要旨)

*イエス様はヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた後ガリラヤへ行き神の福音を宣教されました。その第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」でした(マルコ1:15)。この短いお言葉の中に 福音の真理が凝縮されているのです。キリスト信仰は「神の国」-神様の支配-の到来を福音(良い知らせ)として信じることなのです。福音の種はすべての人に蒔かれるのです。イエス様が神様の独り子であることを認められない人々や福音に無関心な人々、御言葉を聞いてすぐに受け入れても艱難や迫害に遭遇するとすぐにそれを捨てる人々、御言葉を聞くけれども富や様々な欲望の誘惑に負けて中途半端な信仰に終始する人々、そして御言葉を聞いて福音を信じる人々に届けられるのです。神様は「イエス様を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得ること」を願っておられるからです(ヨハネ3:16)。しかし、キリスト信仰を生涯貫くことは簡単ではないのです。受け入れた人々が途中で挫折する場合があるのです。拒否していた人々が悔い改めて「救い」に与ることもあるのです。一方、キリスト信仰は恵みに与ったことで完結しないのです。悔い改めた人々には神様と隣人を愛して生きることが責務になるのです。「神の国」の福音が「罪からの救い」に縮小されているのです。「神の国」の到来とはこの世に正義と愛が遍(あまね)く行き渡ることなのです。キリスト信仰を標榜する人々は「神の国」の建設に参画するのです。種はその人の現在の状況において蒔かれるのです。イエス様への応答が運命を決定するのです。

*「神の国」の秘密について、イエス様は身近な弟子たちなどごく少数の人々には打ち明けるが、グループ以外の人々にはすべてをたとえで示すと言われました。その理由についてイザヤ書を引用して説明されたのです。イザヤの時代のイスラエルは聖なる方を侮り、異国の民と手を結んで戦争をし、国内には偶像が満ち溢(あふ)れていました。支配者たちは無慈悲で、まるで盗人のようでした。賄賂を喜び、民衆に贈り物を強要したのです。孤児の権利を守らず、やもめの訴えを取り上げなかったのです。それ故、神様はご自分の民に向かって激しく怒り、御手を伸ばして、彼らを撃(う)たれたのです(イザヤ書1-5)。一方、「ユダ」も罪を犯し続けたのです。ウジヤ王が死んだ年のことです。神様はイザヤを召命されたのです。そして「この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし・・悔い改めていやされることのないために」と言われたのです。イザヤが「いつまででしょうか」と質問すると、神様は「町々が崩れ去って、住む者もなく/家々には人影もなく/大地が荒廃して崩れ去るときまで」と答えられたのです。「ユダ」の支配者たちも神様からのメッセージを拒んだのです。後に、新バビロニアの王ネブカドネザルはエルサレムを征服したのです。人々の大半は「捕囚の民」としてバビロン(現在のイラク)へ連れて行かれたのです(紀元前587年)。神様は民を滅ぼされることはないのです。少数の人々を残されるのです。これらの人を用いて「ユダ」を救おうとされるのです。

*神様はイエス様を遣わしてご自身の御心をすべての人に語られたのです。神様の御言葉(種)はどのような人にも届けられるのです。聞いた人々はそれぞれ応答するのです。最初の例は御言葉を聞いてもすぐにサタンによって福音を奪い去られる人々のことです。ファリサイ派の人々や律法学者たちを挙げることが出来ます。これらの人は最初から「神の国」を拒絶しているのです。「神の国」は特権的地位や既得権益の放棄を求めるからです。これまで、長い衣をまとって歩き回ることや広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好み、見せかけの長い祈りをして信仰心の篤さを誇っていたのです。やもめ(寡婦)の家を食い物にし、貧しい人々や虐げられた人々を苦しめて来たのです。律法を厳格に守っているように見せながら、心は強欲と放縦で満ちているのです。律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実をないがしろにしているのです。イエス様はこのような偽善者たちに「神様の罰」が下ることを明言されたのです(マタイ23)。一方、イエス様に「神様と隣人への愛はどんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」と答えて、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた律法学者もいたのです(マルコ12:32-34)。アリマタヤ出身の議員ヨセフは総督ピラトに願い出てイエス様のご遺体を埋葬したのです(ヨハネ19:38-42)。仲間たちの迫害を恐れずにキリスト信仰を証ししたのです。誰でも悔い改めて神様の下へ帰ることが出来るのです。人を裁くことには慎重であるべきなのです(マタイ7:1-5)。

*「神の国」の到来に感謝するのですが、艱難(かんなん)や迫害が起こるとすぐに躓(つまず)いてしまう人々がいるのです。イエス様はご自身を「天から降って来たパンである。・・このパンを食べる者は永遠に生きる」と言われました。弟子たちの多くの者はこれを聞いて「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。・・」と言って、イエス様と共に歩まなくなったのです(ヨハネ6:35-71)。理由は明確ではありませんが、12使徒の一人であったイスカリオテのユダはイエス様を裏切ったのです(ルカ22:47-48)。権力の中枢にイエス様を信じる人々は少なくなかったのです。ただ、彼らはファリサイ派に属していたました。キリスト信仰を公にすればユダヤ教の会堂から追放されるのです。社会的地位や名声だけでなく、生活の糧さえ失うことになるのです。結局、これらの人々は神様からの誉れよりも人間からの賞賛を選んだのです(ヨハネ12:42-43)。富に執着し「神の国」から遠ざかった金持ちの男(マタイ10:17-25)や門前に横たわる貧しいラザロを気にかけることなく贅沢に暮らして「永遠の命」を失った金持ち(ルカ16:19-31)もいるのです。一方、財産の半分を貧しい人々に施すなどして「救い」に与った徴税人ザアカイがいました(ルカ19:1-10)。弟は父親から譲り受けた財産を放蕩生活の中で浪費し、信仰的にも死んでいたのです。ところが、悔い改めによって生き返ったのです(ルカ15:11-24)。神様はこれらの罪人がご自身の下へ帰って来たことを喜ばれたのです。

*譬え話はキリスト信仰から距離を置く人々に日常生活の出来事によって説明する手法なのです。イエス様は譬え話を通して人々のところへ降りて行かれるのです。イエス様は「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と言われたのです(ルカ5:31-32)。キリスト信仰の真髄はこのお言葉にあるのです。神様の御言葉は道端、石だらけの所、茨の中、良い土地など様々な場所に届けられるのです。イエス様は弟子たちに「子供のように神の国を受け入れる人でなければ決してそこに入ることは出来ない」と警告されたのです(ルカ18:15-17)。素直さの勧めであるかのように誤解されているのです。視点を移して貧しい人々や虐げられた人々の所に降りて行くことなのです。イエス様はご自身の弟子になることを願う人々に「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子(ご自身)には枕する所もない」と言われました(マタイ8:18-22)。弟子には覚悟が必要です。イエス様は「神の国」の福音のために生涯を捧げられたのです。「神の国」を地上に建設するためには召命された人々もまた迫害を受けるのです。イエス様に倣(なら)う生き方は必然的にこの世と対立するのです。サタンはこの世の富や権力などを用いてキリストの信徒たちを誘惑するのです。神様から切り離して滅ぼそうと日夜画策しているのです。キリスト信仰に生きる人々は「主の祈り」に支えられて誘惑を退けるのです。豊かな実を結ぶために奔走するのです。

2024年06月02日

「パウロの信仰理解と宣教姿勢」

Bible Reading (聖書の個所)コリントの信徒への手紙一9章1節から27節

わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか。他の人たちにとってわたしは使徒でないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです。あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです。

わたしを批判する人たちには、こう弁明します。わたしたちには、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか。わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資(し)を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。

そもそも、いったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか。わたしがこう言うのは、人間の思いからでしょうか。律法も言っているではないですか。モーセの律法に、「脱穀している牛に口籠(くつこ)をはめてはならない」と書いてあります。神が心にかけておられるのは、牛のことですか。それとも、わたしたちのために言っておられるのでしょうか。もちろん、わたしたちのためにそう書かれているのです。耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分け前にあずかることを期待して働くのは当然です。わたしたちがあなたがたに霊的なものを蒔(ま)いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。他の人たちが、あなたがたに対するこの権利を持っているとすれば、わたしたちはなおさらそうではありませんか。しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます。あなたがたは知らないのですか。神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかります。同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました(マタイ10:10)。

しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない。それくらいなら、死んだ方がましです……。だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない(奪ってはならないのです)。(もっとも、)わたしが福音を告げ知らせても(いるなら)、それはわたしの誇り(の根拠)にはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです(わたしに災いあれ)。自分から(の意志で)そうしているなら、報酬を得るでしょう(受け取ります)。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。

わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。

あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。

(注)

・コリント:現在のギリシャにある都市です。

・主の兄弟たち:イエス様の兄弟たちです。中でもヤコブが有名です。1コリント15:7を参照して下さい。

・「脱穀している牛に口籠(くつこ)-噛みついたり食べたりしないようにする籠(かご)-をはめてはならない」は申命記25:4からの引用です。働く雄牛の取り扱いを通して人間の社会的公平性が例示されているのです。

・バルナバ:パウロの協力者です(使徒9:27;11:19-30)。しかし、後に考え方の違いから別行動をすることになりました(使徒15:36-41)。

・ケファ:ペトロの別名です。結婚していました(マルコ1:30)。

・他の人たち:アポロとペトロのことです。

・アポロ:エジプトのアレクサンドリア出身です。聖書に詳しい雄弁家です。コリントの教会でも有名です。使徒18:24-19:1に登場します。

・朽ちる冠:二年ごとにコリントの近くのイストミア地方で行われる競技会では勝者の冠は「しおれたセロリ」で作られていました。

・朽ちない冠:「救い」(永遠の命)を意味しています。

・ポントス:現在のトルコの北にある州の名前です。

・クラウディウス:ローマ皇帝(在位は紀元後41-54年)です。

・七つの手紙:ローマの信徒への手紙、コリント信徒への手紙一、コリント信徒への手紙二、ガラテヤの信徒への手紙、フィリッピの信徒への手紙、テサロニケの信徒への手紙一、フィレモンへの手紙

・弱い人々:社会的地位の低い未信者たち、信仰の弱い人々のことです。1コリント1:26-28、8:1-13を参照して下さい。

・啓示による信仰:神様は来るべき出来事(イエス様の再臨-最後の審判)によって助けて下さる」という信仰理解に基づいています。神様が瞬時にこの世を「新しい世界」に造り変えられるので信徒たちは何もする必要がないのです。ただ待つだけなのです。結果、人々の苦悩の原因や社会の不正に無関心になるのです。

(メッセージの要旨)


*コリントの信徒への手紙第一は西暦54年ごろにパウロが中心になって創設した教会の信徒たち宛に書いた手紙です(使徒18:1-18)。当時のコリントは繁栄した大都市です。道徳的にも、文化的にも、宗教的にも、多様な人々が暮らしていたのです。コリントにはユダヤ人もいましたが、異邦人が中心の町です。(1コリント12:2)。多くの人は貧しく、社会的地位も高くなかったのです(Ⅰコリント1:26-28)。信徒たちはそれぞれグループを形成して住んでいたのです。聖日には礼拝と聖餐式を行うために教会に集まったのです(1コリント11:18)。しかし、コリントの教会は無秩序に近い状態でした。グループ間の争いが絶えなかったのです。信仰の一致が揺らいでいたのです。「わたしはパウロに」、「わたしはアポロに」、「わたしはケファに」につくと言い合っていたのです(1コリント1:10-17)。不道徳の問題も深刻でした。ある人は父の妻をわがものとしていたのです(1コリント5:1-13)。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」(出エジプト記32:6)とあるように偶像礼拝も蔓延しているのです(1コリント10:1-22)。敵対する人々はパウロの権威を失墜させるために画策していたのです(1コリント4:1-5)。コリントの信徒たちは「救いの意味」を誤解しているのです。何事に対しても自由奔放に生きているのです。教会はパウロの見解を質すのです。パウロは「弱い人々」のために自由の制限(節制)が必要であることを教えたのです。使徒の諸権利を放棄して例示したのです。


*パウロが去ってからコリントの教会は論争と混乱の中にありました。パウロの教えから逸脱した信仰理解が原因の一つだったのです。信徒の中には知恵や知識を誇る人々がいたのです。これらの人はキリスト信仰を知的(自分本位)に理解しているのです。パウロは「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らない」と批判したのです(1コリント8:1-2)。霊的な賜物(異言や預言)を誇る人々には、それは神様が与えられた賜物であって、教会全体の益のために用いるように指示したのです(1コリント12-14)。コリントの教会は栄光に輝くイエス様と共にいるのです。天上の支配者(王様)であるかのように振る舞っているのです。勝手に信仰を自負しているのです(1コリント4:8)。彼らにとってパウロたちの助けはもはや不要なのです。パウロは彼らが失格者にならないように「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。・・次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」と証しするのです(1コリント15:3-8)。神様の知恵であるキリスト・イエスに目を向けさせるのです。


*パウロは一人でも救うために何でもしたのです。このために、様々な迫害を受けたのです。「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。・・」と言っています(2コリント11:23-29)。福音宣教に全身全霊を捧げたのです。パウロはコリントの信徒への手紙―を含めて少なくても七つの手紙を書いています。いずれにおいても「啓示による信仰」が基調になっているのです。不正や不公平に満ちた社会の変革にほとんど言及していないのです。神様が直接介入して社会正義を実現して下さることを確信していたからです。信徒たちにも不安定な現実の生活に思い悩むことなく、罪から救われるために信仰心に溢(あふ)れた生活に努めることを勧めていたのです。しかし、このような信仰理解は貧しい人々や虐げられた人々の解放(救い)に心を砕かれたイエス様の視点とは明らかに異なっているのです。パウロはイエス様が宣教された「神の国」の到来を「個人の救い」に縮小しているのです。キリスト信仰をパウロの信仰理解によって説明する際はこの点に留意することが必要です。それにも関わらず、パウロの宣教姿勢から学ぶことが多いのです。大きく分けて二つ挙げることが出来ます。一つは、混乱したコリントの教会の信徒たちに福音の本質-キリスト・イエスに焦点を当てること-を再度示したことです。もう一つは、自分の労働によって生活の糧を確保したことです。教会から自由になることによって信徒たちを正しく導くことが出来るのです。

*経済的に依存する宣教者たちは往々にして教会の有力者たちに迎合するのです。彼らの要求に応じなければ、彼らの信仰理解を認めなければ生活の糧を失うかもしれないのです。日本では少ないのですが、欧米の牧師夫婦には共働きが多いのです。これによって、教会から自由になって大切な意思決定をすることが出来るのです。パウロは自分の信仰の確信について誰からも束縛されないと言っています。コリントでポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会っています。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、二人は最近イタリアから来たのです。パウロと職業が同じであったのです。パウロは彼らの家に住み込んで一緒にテント造りをしたのです。安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていたのです(使徒18:1-4)。パウロは仕事をしながらキリスト信仰を証ししたのです。様々な問題を抱える信徒たちには適切なアドバイスが求められるのです。時には意見も厳しくなるのです。その際、経済的に自立していることが不可欠なのです。「安価な恵み」に慣れた信徒たちは原則に忠実な宣教者を屈服させるか、排斥しようとするのです。パウロは教会の支配を断固として拒否するのです。福音を告げ知らせるときにはそれを無報酬で伝え、自分が持っている諸権利を行使しないのです。神様からの報酬のみを望んでいるのです。パウロは迫害していた自分を用いて下さった神様に心から感謝しているのです。与えられた使命を果たそうとする決意がひしひしと伝わって来るのです。

*信仰は理論や神学によって得られるものではないのです。神様の導きによって、人はキリストの信徒になるのです。キリスト信仰を標榜(ひょうぼう)する人がキリストの信徒ではないのです。イエス様の生き方に倣(なら)う人、御跡を辿(たど)る人がキリストの信徒なのです。イエス様が生と死と復活を通して宣教された「神の国」への応答の如何によってその人の「救い」は決定されるのです。パウロは確かに「復活の主」に出会ったのです。しかし、イエス様から直接教えを受けていないのです。「神の国」の福音を「啓示による信仰」によって理解したのです。社会的な視点-正義と公平に対する認識-がほとんど見られないのです。男尊女卑を肯定するかのように「女が男のために造られた」と言うのです(使徒11:1-16)。ローマ帝国の圧政と搾取に苦しむ人々に支配者への従順を説いているのです(ローマ13:1-7)。パウロにはキリスト信仰を哲学的、神学的に語る傾向があるのです。その際、イエス様の宣教姿勢に立ち帰ることが重要です。一方、パウロは「復活の主」を全身全霊で証しするのです。この世の誘惑に屈してキリスト信仰から遠ざかった人々に悔い改めを求めているのです。言葉だけではなく、生き方によって「永遠の命」に至る道を示したのです。労働によって経済的自立を確保するのです。自己を抑制し、節制するのです。対象者を徹底的に配慮するのです。一人でも救うために命さえも惜しまないのです。キリスト信仰とは「神の国」の到来を福音として信じることです。パウロがイエス様を超えることはないのです。

2024年05月26日

「パウロの召命」

Bible Reading (聖書の個所)使徒言行録22章1節から21節


「兄弟であり父である皆さん、これから申し上げる弁明を聞いてください。」パウロがヘブライ語で話すのを聞いて、人々はますます静かになった。パウロは言った。「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。このことについては、大祭司も長老会全体も、わたしのために証言してくれます。実は、この人たちからダマスコにいる同志にあてた手紙までもらい、その地にいる者たちを縛り上げ、エルサレムへ連行して処罰するために出かけて行ったのです。」

「旅を続けてダマスコに近づいたときのこと、真昼ごろ、突然、天から強い光がわたしの周りを照らしました。 わたしは地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と言う声を聞いたのです。『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』と答えがありました。一緒にいた人々は、その光は見たのですが、わたしに話しかけた方の声は聞きませんでした。『主よ、どうしたらよいでしょうか』と申しますと、主は、『立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる』と言われました。わたしは、その光の輝きのために目が見えなくなっていましたので、一緒にいた人たちに手を引かれて、ダマスコに入りました。ダマスコにはアナニアという人がいました。律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人でした。 この人がわたしのところに来て、そばに立ってこう言いました。『兄弟サウル、元どおり見えるようになりなさい。』するとそのとき、わたしはその人が見えるようになったのです。アナニアは言いました。『わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです。今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。』」

「さて、わたしはエルサレムに帰って来て、神殿で祈っていたとき、我を忘れた状態になり、主にお会いしたのです。主は言われました。『急げ。すぐエルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々が受け入れないからである。』わたしは申しました。『主よ、わたしが会堂から会堂へと回って、あなたを信じる者を投獄したり、鞭で打ちたたいたりしていたことを、この人々は知っています。また、あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのです。』すると、主は言われました。『行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。』」


(注)


・アナ二ア:ダマスカスに住む信仰篤いキリストの信徒です。神様はこの人に命じてパウロを導かれたのです。


・パウロの回心:使徒言行録9:1-19、26:12-18を併せてお読み下さい。


・タルソス:ローマ帝国キリキア州の州都、現在はトルコの都市です。


・ダマスコ:ガリラヤ湖の北東約100kmにある町、現在はシリアの首都(ダマスカス)です。歴史的にはエルサレムの大祭司にダマスコにある会堂に命令を下す権限はなかったのです。


・この道:「新しい教え」、すなわち、キリスト信仰のことです。


・ガマリエル:ルカが人物像について若干言及しています。しかし、詳細は不明です。


・バルナバ:精霊様と信仰とに満ちた立派な人物です。パウロを大いに助けています。使徒9:27、11:22-30を参照して下さい。

・パウロの手紙:パウロは各教会宛てに手紙を書いたのです。「神学」ではないのです。この点に留意することが必要です。ローマの信徒への手紙、コリント信徒への手紙一、コリント信徒への手紙二、ガラテヤの信徒への手紙、フィリッピの信徒への手紙、テサロニケの信徒への手紙一、フィレモンへの手紙の七つはパウロの著作であることが確認されています。それ以外は弟子あるいは他の人が書いたものとされています。

・パウロの信仰告白:

■わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。(1テモテ1:12-17)。

・パウロの「神の国」:イエス様が宣教された「神の国」が個人的な問題に縮小されているのです。

■正しくない者(たち)が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者(たち)、偶像を礼拝する者(たち)、姦通する者(たち)、男娼(たち)、男色をする者(たち)、泥棒(たち)、強欲な者(たち)、酒におぼれる者(たち)、人を悪く言う者(たち)、人の物を奪う者(たち)は、決して神の国を受け継ぐことができません。あなたがたの中にはそのような者(たち)もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者(たち)とされ、義(神様との正しい関係にある者たち)とされています(1コリント6:9-11)。

(メッセージの要旨)


*サウロはキリスト信仰の主要な迫害者の一人でした。召命後は異邦人宣教の中心的役割を担ったのです。サウロが新約聖書に登場するのはエルサレムにおけるギリシャ語を話す教会の指導者の一人、ステファノの処刑に立ち会ったことからです。ディアスポラ(外国に住んでいた信徒たち)を脅迫して信仰を断念させようとしたのです。迫害の手を伸ばすために大祭司にダマスコの諸会堂あての手紙(逮捕許可)を求めたのです。ダマスコに近づいたとき、イエス様から呼びかける声を聞いて回心したのです。当初、アナニアはサウロの回心を疑っていたのです。しかし、主は「あの者はわたしが選んだ器である」と言われたのです。アナニアは主の命に従い、サウロに手を置いて「神様の御心」を伝えたのです。サウロの回心は復活されたイエス様が言われたように、本人にとって二重の大きな苦しみとなったのです。律法に従い神様への冒涜者を取り締まっていたユダヤ人たちからは裏切り者として命を狙われたのです。一方、サウロに迫害されていた信徒たちからはその非情さと執拗さを恐れられたのです。信仰共同体(教会)は一員として加わることを拒否したのです。苦境にあったサウロを支え、励ましたのがバルナバでした(使徒9:27-28)。二人は第一次宣教(使徒13:1-14:28)に出かけたのです。第三次宣教旅行(18:23-21:16)を終えてエルサレムに戻ったのです。この間、自らの回心を告白し、イエス・キリストについて証しし、「天の国」を宣べ伝えたのです。しかし、神殿冒涜の罪で逮捕されローマへ護送されたのです。


*パウロは民衆全体から尊敬されているファリサイ派の教師ガマリエルの下で厳しい教育を受けたのです。ガマリエルは最高法院において「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。・・あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ」と理不尽な迫害に警鐘を鳴らしたのです(使徒5:33-40)。議員たちはガマリエルの勧告に従ったのです。ところが、パウロは他の誰よりも苛酷(かこく)にキリストの信徒たちを迫害したのです。男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。使徒言行録の著者ルカはパウロの回心について三回も言及しています。イエス様はご自身がパウロに現れた理由について「あなたを奉仕者、また証人にするためである・・」と言われたのです(使徒26:9-18)。パウロは繰り返しこの点を強調するのです。しかし、聖なる人々を苦しめたことや殺害したことに対する罪の意識や後悔の念は見られないのです。ギリシャ哲学を学んだ人らしく淡々と「以前、わたしは神を冒涜する者・・でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました」、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られたという言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です」と言うのです(1テモテ1:15)。これでは、人々の心に響かないのです。


*イエス様は愛するラザロが病気で死に、姉妹や村人たちが泣いているのをご覧になって死が人間を支配していることに憤りを覚えられたのです。ご自身も涙を流されたのです(ヨハネ11:28-35)。ペトロはイエス様が裁判を受けておられる時、近くにいた人が質問しても弟子であることを三度も否定したのです。「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう」と言われたイエス様のお言葉を思い出して激しく泣いたのです(マタイ26:69-75)。パウロは意図的ではないとしてもキリスト信仰を知的に表現しているのです。パウロは洗礼を受けた後、あちらこちらの会堂で「イエス様が神の子であること」を証ししたのです。これまでのパウロを知っているユダヤ人たちは皆非常に驚いたのです。彼らは裏切り者のパウロを殺そうと昼も夜も町の門で見張っていました。ところが、キリストの信徒たちが逃亡を助けたのです。パウロは無事にエルサレムに着くことが出来たのです。仲間に加えてもらおうとしたのですが信徒たちから拒否されたのです。バルナバが使徒たちにパウロの回心とダマスコでの活動を説明してようやく認められたのです。パウロはエルサレムでも大胆に「復活の主」を宣べ伝えたのです。ここでもギリシャ語を話す(キリスト信仰へ改宗していない)ユダヤ人たちはパウロを殺そうと狙っていたのです。結局、パウロは故郷のタルソスヘ戻ることになったのです。皮肉なことに、ユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方に平和が訪れたのです。教会は神様を礼拝し、聖霊様から慰めを受け、信者の数を増やしたのです。


*パウロの考え方を教理に採り入れている教会があります。ただ、パウロの信仰理解にはイエス様の教えや宣教内容と異なる点があることも指摘しておかなければなりません。パウロは自分が憐れみを受けたことや罪人の頭であることは述べているのですが、人々に与えた苦痛に対する謝罪は一言も表明していないのです。確かに、パウロは回心したのです。使徒として、各教会あてに手紙を書いています。ところが、それらの中には罪人であった過去を忘れたかのような、時には尊大とも言える律法主義的な言葉使いや表現がなお残っているのです。迫害を受けたキリストの信徒たちには家族や親戚がいるのです。ステファノの死を悲しんで遺体を埋葬したキリストの信徒たちもいるのです(使徒8:2)。パウロが犯した罪はなかったことにはならないのです。傷つき、愛する人を失った人々の苦しみや悲しみが完全に癒(い)えることはないのです。四福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)が記述しているように、イエス様の主要な関心事は「天の国」の到来です。今や、それはイエス様を通して実現しているのです。「目の見えない人々は見え、足の不自由な人々は歩き、・・耳の聞こえない人々は聞こえ、死者たちは生き返り、貧しい人々は福音を告げ知らされている」のです(ルカ7:22)。イエス様は「愛」によって律法を解釈し、「力ある業」を通して「天の国」を証しされたのです。しかし、パウロの中心テーマは「天の国」ではなく、罪あるいは罪人なのです。「天の国」に言及する時も、それを個人的な信仰心や敬虔さの観点から語ったのです。


*今日、パウロの手紙が人々をキリスト信仰へ導く有力な解説書になっているのです。ただ、パウロはキリスト信仰に関する無謬(誤りのない)の解釈者ではないのです。パウロはイエス様の宣教に従事していないのです。イエス様から直接教えを受けたこともないのです。これらがキリスト信仰を生活の場から切り離して神学的(哲学的)に理解する要因にもなっているのです。イエス様が宣教された「天の国」の福音が個人の「罪からの救い」に縮小されているのです。キリスト信仰とは「神様と隣人」を愛して生きることなのです。イエス様に倣(なら)って「天の国」の建設に参画することなのです。イエス様は最後の審判における判断基準を示しておられるのです(マタイ25:35-45)。行いを伴わない悔い改めは空しいのです。サウロがそうであったように、キリストの信徒たちも他の人々に苦しみや悲しみを与えているのです。回心は悔い改めで完結しないのです。犯した罪を生涯忘れないことなのです。神様が傷つかせた人々を癒して下さるように心から願うことなのです。「復活の主」は使徒たちや弟子たちを立ち直らせられたのです。迫害者サウロさえ回心させ異邦人宣教に用いられたのです。サウロは洗礼を受けた後ダマスコの弟子たちと一緒に諸会堂でイエス様が神の子であることを論証したのです。その後も、キリスト信仰の発展に大きな役割を果たすことになるのです。異邦人たちは闇を捨てて光に向かい、サタン(悪魔)の支配から解放されるのです。「罪の赦し」と「救い」の恵みに与れるようになったのです(使徒26:17-18)。

2024年05月19日

「赦しなさい・・・あなたも赦される」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書18章15節から35節

「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

(注)

・兄弟:教会のメンバーのことです。

・二人または三人が集まる場所:法廷のことです。

・家来:この日本語訳は当時の厳しい現実を曖昧にするのです。「奴隷」と訳すべき言葉です。

・赦し:この言葉には「解放」という意味があります。

・七の七十倍:7は完全を表し、ここでは無限の赦しを意味します。創世記4:15、レビ記26:18、ルカ17:4、黙示録1:4、12、16を参照して下さい。

・1タラントン:労働者の賃金の15年分以上に相当する額です。例えば、労働者の一日の賃金が10,000円とし、休日を度外視して単純に計算すると、10.000円×365日×15年=54,750,000円となります。一万タラントンは5,475億円となります。

・1デナリオン:普通の労働者の一日の賃金に相当する額です。百デナリオンは100日分の賃金、すなわち上の例で換算しますと100万円となります。

・主の祈り:「・・『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」 (マタイ6:9-15)

・神の国:天の国とも言います。死後に行く「天国」のことではありません。神様の支配を表す言葉です。

・神様の御心:

■主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者(人々)を虐げる者(たち)の手から救え。寄留の外国人(たち)、孤児(たち)、寡婦(たち)を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人(たち)の血を流してはならない。(エレミヤ書22:3)

■もし、ある人が正しく、正義と恵みの業を行うなら、すなわち、山の上で偶像の供え物を食べず、イスラエルの家の偶像を仰ぎ見ず、隣人の妻を犯さず、生理中の女性に近づかず、人を抑圧せず、負債者の質物を返し、力ずくで奪わず、飢えた者(人々)に自分のパンを与え、裸の者(たち)に衣服を着せ、利息を天引きして金を貸さず、高利を取らず、不正から手を引き、人と人との間を真実に裁き、わたしの掟に従って歩み、わたしの裁きを忠実に守るなら、彼こそ正しい人で、彼は必ず生きる、と主なる神は言われる。(エゼキエル書18:5-9)

(メッセージの要旨)

*聖書の理解を深めるためには当時の社会的、経済的、政治的背景を念頭に置くことが重要です。一世紀のイスラエルにおける貧困の原因はローマ帝国の支配とそれに協力するユダヤ人指導者たちの過酷な搾取にあるのです。イエス様は「神様の御心」に沿って生きられるように、弟子たちに「わたしたちの罪を赦して下さい。わたしたちも自分の負い目(負債)のある人を赦しますから」と祈るように教えられたのです(ルカ11:4)。また、忠告を聞き入れない人に「異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と言われたのです。意味が誤解されているのです。悔い改めない兄弟(姉妹)を破門するとか追放することではないのです。イエス様は罪を犯した人を何とかして救おうとされているのです。律法を知らない異邦人や罪人として扱われている徴税人に対するように忍耐と憐れみを持って導きなさいということなのです。一方、憐れみのない人々には厳しい罰が下されるのです。罪を犯さない人は誰もいないからです。多額の借金を帳消しにしてもらったのに、それよりはるかに少額な負債-金額は少額ではありません-を取り立てる姿は人間の貪欲さと利己主義を浮き彫りにするのです。この世においては債権を回収することが認められているのです。人の罪を告発し,裁くことも許されているのです。しかし、「神の国」においては負債を免除しないことが罪なのです。人の罪を赦さなければ、自分の罪も赦されないのです。キリストの信徒たちは憐れみによって生かされたのです。隣人の痛みにも心を砕くのです。信仰と行いは切り離すことは出来ないのです。

*聖書をどのような立ち位置で読むかによって理解も異なるのです。忠告する人も罪を犯すのです。犯していても気づかないことがあるのです。自分も罪人の一人であることを肝に銘じるのです。イエス様は徴税人たちや罪人たちと一緒に食事をすることを非難するファリサイ派の律法学者たちに「医者を必要とするのは、丈夫な人(人々)ではなく病人(たち)である。わたしたが来たのは、正しい人(人々)を招くためではなく、罪人(たち)を招くためである」(マルコ2:13-17)、「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」と言われたのです(ルカ15:3-7)。福音書記者ヨハネは「神は、その独り子(イエス様)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」と記述しています(ヨハネ3:16-17)。百匹の羊を持っている人が群れから迷い出た一匹の羊を見つけるまで探し回るように、神様はご自身の下を離れた罪人が一人も滅びないように最善を尽くされるのです。イエス様は「神様の御心」を実現するためにこの世に来られたのです。イエス様のご指示が守られていないのです。罪を犯した兄弟(姉妹)が信仰の友ではなく、被告人として扱われているのです。赦しの広さと深さが数字で表現されているのです。キリスト信仰を標榜する人々は自分たちも福音の恵に与っていること忘れてはならないのです。

*罪を犯した兄弟(姉妹)の「救い」に怠惰(たいだ)であってはならないのです。手順を尽くして悔い改めに導くのです。イエス様は兄弟が犯した罪の内容について言及しておられないのです。譬え話から借金の返済に関係しているように推測されるのです。イエス様は「一定の手続き」の後に罪人の「救い」を断念している教会(信徒たちの)の誤りを指摘されたのです。二人または三人が心を一つにして兄弟(姉妹)の「救い」を願うなら、共にいて罪人を悔い改めへと導かれるのです。イエス様はペトロに七の七十倍まで赦しなさいと言われたのです。人間の判断で「神様の御心」を軽んじてはならないのです。弟子たちが「神の国」の福音を正しく理解出来るように厳しい現実に目を向けられたのです。人々にとって過酷な税と借金は深刻な問題だったのです。高利が民衆を苦しめているのです。譬え話に登場する人物は一万タラントンという途方もない借金を債権者の憐れみによって帳消しにしてもらったのです。ところが、自分に百デナリオンの負債がある人からは非情にも取り立てるのです。人間の本性(罪深さ)がよく表れているのです。結局、この人は借金の棒引きを取り消され、返済が終わるまで牢に閉じ込められたのです。イエス様は「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら-負債を免除しないなら-わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」と言われたのです。キリスト信仰とは「神様と隣人」を愛して生きることなのです(ルカ10:25-28)。正義と赦しを欠く信仰はその人の「救い」に役立たないのです。

*かつて、ペトロはイエス様から「サタン、引き下がれ」と厳しい言葉で叱責されたのです。しかし、後に初代教会の実質的なリーダーになったのです(マタイ16:23)。赦しは罪を犯した人々を生かすのです。神様は寛大な人々を祝福されるのです。イエス様の中心メッセージは「神の国」の到来にあるのです。「神様の主権」がこの世の隅々に行き渡ることが福音(良い知らせ)なのです。神様が共におられる所ではこの世の常識は通用しないのです。自分の権利と同じように隣人愛を大切にするのです。キリスト信仰は個人の「霊的な救い」として実を結ぶだけではないのです。人間の「全的な救い」として実現するのです。社会・経済・政治に関わる制度や人々の関係が「神様の御心」に相応しい形へ変更されるのです(ルカ4:18-19)。寝食を共にしてイエス様から教えを受け「力ある業」に直接触れたペトロでさえも「福音の真理」を誤解しているのです。弟子たちも同様なのです。王は家来の非情な振る舞いに激怒して「借金の免除」を無効にしたのです。「天の国」に招き入れた人々の「救い」は途上にあるのです。「終わりの日」-イエス様が再臨される日-に最終的に判断されるからです。「兄弟が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねたか」どうかが問われるのです(マタイ20:31:46)。信仰のみによって「永遠の命」が保証される訳ではないのです。キリストの信徒たちは感謝と共に「神の国」を証しするのです。

*神様の憐れみによって「救い」に与っているのです。イエス様の御跡を辿(たど)って「神の国」の建設に全力を注ぐのです。キリスト信仰とは信じることではないのです。信じて戒めを実践することなのです。キリストの信徒たちは多くの罪を赦されていながら、いつの間にか自分たちを信仰深い人間の範疇(はんちゅう)に入れているのです。悔い改めを求められている罪人の一人ではなく、忠告する側に立って罪人を裁いているのです。罪人の赦しを七回までとし、教会から追放することも容認するのです。イエス様は信仰心を装う律法学者たちやファリサイ派の人々に厳しい罰を宣告されました。「いったいだれが、天の国で一番偉いのでしょうか」と質問する弟子たちに「心を入れ替えなければ天の国に入ることは出来ない」と言われたのです(マタイ18:1-5)。信仰の傲慢は「死に至る病」なのです。徴税人たちは罪人として軽蔑され、社会から排斥されていました。ところが、神様は「罪人のわたしを憐れんで下さい」と祈った徴税人を正しい人とされたのです(ルカ18:9-14)。赦しを経験し、罪人であることを自覚した人々の言葉には力があるのです。信仰体験が相手の心に響くのです。しかし、兄弟(姉妹)を心情的に赦すことで完結しないのです。赦しには何らかの「犠牲」が伴うのです。相手の重荷を自分のものとして担うことなのです。七の七十回の赦しは不可能に見えるのです。神様は罪人たちが帰って来るのを忍耐強く待っておられるのです。イエス様は罪人たちの「救い」に奔走(ほんそう)する人々を支えて下さるのです。

2024年05月05日

「信徒の使命と覚悟」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書10章1節から23節

イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。

イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人(たち)の道に行ってはならない。また、サマリア人(たち)の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人(たち)をいやし、死者(たち)を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人(人々)を清くし、悪霊(たち)」を追い払いなさい。(あなたがたは)ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者(たち)が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」

「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々(狼たち)を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人(たち)に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。

(注)


・12使徒:ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネは漁師でした(マタイ4:18-22)。フィリポはイエス様から「わたしを見た者は、父を見たのだ」と叱責されました(ヨハネ14:8-9)。トマスはイエス様が「神様であること」を明言しました(ヨハネ20:24-29)。マタイはローマ帝国の税の取り立てに協力する徴税人でした(マタイ9:9-13)。もう一人のシモンはローマ帝国の支配に武力で抵抗する「熱心党」に属していました。イスカリオテのユダは祭司長たちからお金をもらってイエス様を裏切りました(マルコ14:10-11)。バルトロマイ、アルファイの子ヤコブとタダイの詳細は不明です。


・異邦人宣教:マタイ8:5-13,15:21-28,28:19-20に記述されています。


・サマリア宣教:ヨハネ4章、ルカ9:51をお読みください。


・イスラエルの家の失われた羊:牧者と羊の関係については民数記27:16-17、イザヤ書40:11、エゼキエル書34:1-6を参照して下さい。

・天の国:神の国と同じです。神様の支配を意味しています。天上と地上において神様が神様として崇められることです。

・家:当時、教会を兼ねている家もありました。

・足の埃を払い落とすこと:強い拒絶反応を表しているのです。

・ソドムとゴモラ:いずれも不信仰の町です。旧約聖書創世記18章、19章に登場します。

・エッセネ派:ユダヤ教の一派です。ユダヤ人歴史家ヨセフスが著書「ユダヤ戦記」において、彼らの特色を紹介しています。正義と公平を重んじ、禁欲的な生活を貫いたのです。

・シニク派:哲学の一派です。日本語では犬儒(けんじゅ)学派と訳されています。人間的な欲を捨てて犬のような生活を送ったことからこの名が付けられたのです。

・主の祈り:「天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人(人々)を/赦しましたように。わたしたちを誘惑(試練)に遭わせず、/悪い者から救ってください。」(マタイ6:9-13)

・人の子:この場合は「最後の審判者」のことです。

・ミッション(The Mission ):280年前の宣教活動をリアルに描いたイギリス映画です。1986年に製作されました。登場人物は架空です。しかし内容は史実に沿っているのです。

(メッセージの要旨)


*キリスト信仰における最も大きな問題は「神の国」の福音が「罪の赦し」に縮小されて理解されていることです。「永遠の命」は安価な恵みではないのです。「救い」に与るためにはそれに相応しい働きが求められるのです。イエス様は町や村を回り、会堂で教え、ありとあらゆる病気や患いを癒しておられました。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれたのです。そこで、弟子たちの中から12使徒を選び派遣したのです。福音宣教は御言葉を伝えるだけではないのです。人々が悩み苦しんでいる様々な問題を具体的に解決するために奉仕することなのです。「神の国」の福音は人間の「全的な救い」として具体化されるのです。福音が「罪の赦し」として語られているのですが、それは「神の国」の一部です。キリスト信仰は自分の救いだけを願う信仰ではないのです。観念的(神学的)な理解で完結する知的信仰でもないのです。全身全霊で「神様と隣人」を愛して生きる信仰なのです。イエス様は絶望の淵にある人々の生活の場へ下って行かれたのです。ご自身に倣(なら)って「神の国」の到来を伝え、病気や患いを癒し、希望を与えなさいと命じられたのです。キリスト信仰を標榜する人々はこの視点を大切にするのです。神様を愛する人は隣人の悩みや悲しみに心を砕くのです。重荷を取り除くための方策に直接的、間接的に参画するのです。使徒たちに与えられた命令はキリストの信徒たちへのご指示でもあるのです。実行することは容易ではないのです。しかし、イエス様が共にいて支えて下さるのです。


*今回の宣教は困難を覚えるユダヤ人たちに限定されているのです。ただ、別の機会にサマリア人たちや異邦人たちにも福音は届けられているのです。宣教内容は「天の国の到来」です。この点を心に刻むのです。旧・新約聖書には「イスラエルの家の失われた羊」の歴史が記述されています。「神様の御心」を軽視する指導者(祭司や議員)たちや彼らに同調する人々の罪が取り上げられているのです。神様は預言者エゼキエルを通して「・・災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者(王)たちは。牧者は群れ(イスラエルの民)を養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。・・彼らは飼う者がいないので散らされあらゆる野の獣(エジプトやバビロニアなどの外国)の餌食となり、ちりぢりになった」と言っておられます(34:1-6)。イエス様の時代においても状況は変わっていないのです。不正と腐敗が社会の隅々に蔓延しているのです。神様に選ばれたイスラエルが二極に分かれているのです。ローマ帝国の支配に協力する指導者たちが莫大な富を得ているのです。他方、彼らに搾取されている一般民衆は貧しい生活を余儀なくされているのです。「失われた羊」とは外敵から守るために設けられた囲いから出ている人々のことです。人々の苦難の原因を個人的な失敗や罪に求めることが多いのです。イエス様は指導者たちの不信仰と無責任、強欲と放縦を厳しく非難されたのです(マタイ23章)。人々の窮状を深く憐れまれたのです。「迷い出た羊」への宣教を最優先されたのです。


*イエス様は「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない」と言われました。使徒たちに神様への揺るぎない信仰を求められたのです(マタイ6:25-34)。ここに、使命を担う人々のあるべき姿が示されているのです。エッセネ派の人々は旅をしている時、擦り切れるまで服や履物を替えなかったのです。ただ、悪人たちを追い払うために杖は携行したのです。シニク学派の哲学者たちは思想を具体化するために「貧者の生活」に徹したのです。キリスト信仰の有無に関わらず、イエス様のお言葉-神と富とに仕えることはできない(ルカ16:13)-が実践されているのです。イスラエルの人々の約95パーセントは貧しいのです。多くは小作人か土地を持たない労働者です。自然災害に悩まされ、長時間労働に喘いでいるのです。税の取り立ては厳しく、生活の糧を確保するために奔走(ほんそう)したのです。「主の祈り」には人々の切実な願いが反映されているのです。イエス様は言葉を語られただけではないのです。人々の貧しさや労苦を自分のものとして担われたのです。ご自身の生き方によって「神の国」の福音を可視化されたのです。知識の教授や癒しの業から報酬を得てはならないのです。イエス様は貧しい人々や虐げられた人々の「救い」に心血を注がれたのです。宣教する人々もこれらの人に優先的に働きかけるのです。福音を「罪からの救い」に限定してはならないのです。「神の国」の本質を歪めてはならないのです。

*何十年も前に映画「ミッション」を観たことがあります。宣教に従事する人々の苦難と葛藤の歴史がリアルに描かれています。1740年代、イエズス会の宣教師たちはスペインの植民地であったジャングル(現在のアルゼンチンの北東とパラグアイの東)に暮らす先住民の開拓伝道に着手したのです。グアラニ―族の人々は彼らとの接触を断固拒否したのです。多くの宣教師が命を落としたのです。ガブリエル神父はグアラニ―の人々と対話するために「音楽」を用いたのです。オーボエの音に魅了された人々は神父を迎え入れたのです。一方、奴隷商人であったメンドーサは先住民たちを誘拐し、近くのプランテーションに売っていたのです。ある時、許嫁(いいなずけ)の気持ちが弟に傾いていることを知ったのです。決闘の末弟を殺したのです。ガブリエル神父はメンドーサを悔い改めに導き、宣教団の一員に加えたのです。メンドーサが先住民の地域に入った時、現地に緊張が走ったのです。しかし、涙する彼を見た人々は受け入れたのです。宣教は着実に成果を上げました。農産物の収益は平等に分配されたのです。ところが、この地域がポルトガル領になったのです。グアラニ―の人々に移住、宣教師たちには退去が命じられたのです。人々は政府の横暴に抗議し、徹底的に闘うことを決断したのです。力の差は明らかです。女性や子供たちを含めてほとんどの住民が殺されたのです。ガブリエル神父やメンドーサも住民の側に立って戦い、殉教したのです。イエズス会はこの地から追放されたのです。現在は伝道所跡の幾つかが世界遺産になっているのです。

*イエス様は「あなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と言われました。弟子たちにもイエス様に向けられた敵意が及ぶのです。すでに、イエス様は律法学者たちやファリサイ派の人々を辛らつな言葉で非難されていました。神殿政治を担う人々の偽善と貪欲に敢然と立ち向かわれたのです。イエス様の告発は律法学者たちやファリサイ派の人々の権威を失墜させ、既得権益を危うくしたのです。彼らが行いを悔い改めることはなかったのです。逆に、イエス様に激しい敵意を抱いたのです。イエス様は貧しい人々や虐げられた人々と共に歩まれたのです。権力者たちはイエス様と民衆を切り離すために画策するのです。使徒たちもイエス様の御跡を辿(たど)るのです。言葉だけでは人々を動かすことは出来ないのです。民衆は自分たちと運命を共にするかどうかを確認するのです。宣教者たちの言葉が行いによって証明された時に福音を信じるのです。ガブリエル神父やメンドーサたちはグアラニ―族の人々と共に生きたのです。イエス様に倣った彼らの生き方がこの地にキリスト信仰の種を蒔いたのです。宣教に従事する人々が対象となる町や村の状況や人々の暮らしぶりを事前に知っておくことはとても重要です。何よりも福音宣教への熱意と覚悟が不可欠です。「神の国」と「この世」との対立は不可避なのです。イエス様に従う人々は迫害されるのです。最後まで耐え忍ぶ人々が救われるのです。キリスト信仰が誤解されているのです。信仰によって救われるのではないのです。「神様の御心」に沿って生きた人々が「救い」に与るのです。

2024年04月28日

「ステファノの殉教」

Bible Reading (聖書の個所)使徒言行録6章1節から15節及び7章51節から60節

そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の(食べ物等の)分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじら(無視さ)れていたからである。そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。

さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる「解放された奴隷の会堂」に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した。しかし、彼が知恵と“霊”とによって語るので、歯が立たなかった。そこで、彼らは人々を唆して、「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」と言わせた。また、民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。そして、偽証人を立てて、次のように訴えさせた。「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。

・・「ステファノの説教」(使徒7:1-50)

かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。」

人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。

(注)

・ギリシャ語を話すユダヤ人:外国に住んでいたユダヤ人(ディアスプラ)です。彼らはヘブライ語をほとんど話せなかったのです。文化や生活習慣の違いもあって、もともとエルサレムに住んでいるユダヤ人たちとの間に確執があったのです。

・七人の選出:ステファノ、フィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、二コラオはすべてギリシャ語名です。二コラオはアンティオキア出身の改宗者(異教徒からユダヤ教への改宗者)として紹介されています。アンティオキアはシリアの重要な都市です。現在はトルコ領です。他の六人はユダヤ人の家に生まれたことを推測させるのです。以後、ステファノとフィリポ以外の人は登場しないのです。

・解放された奴隷の会堂:アフリカのキレネ(リビア)やエジプトのアレクサンドリア出身の解放された奴隷たちが属するユダヤ教の会堂です。

・キリキア州とアジア州:小アジア(現在のトルコ)にある州です。

・ステファノの説教:旧約聖書を用いてユダヤ人たちの反抗の歴史を想起させるのです。機会がありましたら、全体を通してお読み下さい。以下は要約です。

●人々が「だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか」と言って拒んだこのモーセを、神は柴の中に現れた天使の手を通して、指導者また解放者としてお遣わしになったのです。この人がエジプトの地でも紅海でも、また四十年の間、荒れ野でも、不思議な業としるしを行って人々を導き出したのです。

●この人が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです。先祖たちはこの人に従おうとせず、エジプトをなつかしく思い「わたしたちの先に立って導いてくれる神々を造ってください」と言ったのです。

●彼らが若い雄牛の像を造ったのはそのころで、この偶像にいけにえを献げ、自分たちの手で造ったものをまつって楽しんでいました。そこで神は顔を背け、彼らが天の星を拝むままにしておかれまたのです。しかし、預言者の言葉が実現するのです。人々はバビロンのかなたへ移住させられたのです。

●ダビデは神の御心に適い、ヤコブの家のために神の住まいが欲しいと願っていましたが、神のために家を建てたのはソロモンでした。けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。主は「天はわたしの王座、/地はわたしの足台。憩う場所はどこにあるのか」と言われるからです。

・ガザ:地中海沿岸の町です。エルサレムから西へ77kmです。

・アソド:地中海沿岸の町です。ガザの北35kmにあります。

・カイサリア:地中海沿岸の町です。ローマ帝国の総督府がありました。異邦人が多く住む要衝の地です。

(メッセージの要旨)

*初代教会は日々新しい信徒を加え着実に発展していました。一方、信徒が増えるに従って様々な問題が生じました。キリスト信仰を標榜する人々でも信仰理解が必ずしも同じではないのです。十二人の使徒は「信仰共同体」における効率的な組織運営の必要性を痛感したのです。すべての信徒を招集して「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」と言ったのです。全信徒はこの提案に賛成して七人を選出したのです。十二人は祈りと御言葉の奉仕に専念したのです。七人は日々の糧の分配などの日常的な業務に従事することになったのです。使徒たちの態度は尊大に見えるのです。これは指導者としての責任感から生まれた決断なのです。「復活の主」を宣教すれば逮捕され、議会で取り調べを受けるのです。投獄され鞭で打たれるのです。使徒たちは最も困難な任務を信徒たちに負わせるのではなく、自分たちが担ったのです。イエス様は「異邦人の間では、王(たち)が民を支配し、民の上に権力を振るう者(たち)が守護者(慈善を施す人々)と呼ばれている。・・あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」と言われたのです(ルカ22:25-26)。使徒たちはイエス様の教えを実践したのです。ステファノも「神の国」の福音を証しして殉教したのです。

*使徒たちは聖霊様から「力」を受けて大胆に御言葉を語りました。大祭司カイアファたちは厳しく命じたにも拘らずイエス様の名によってエルサレム中に宣教している彼らに激高したのです。イエス様の処刑の責任を自分たちに負わせようとしていることにも警戒したのです。使徒たちは「人間に従うよりも、神様に従うこと」を公言するだけでなく、指導者たちを罪人と呼び、悔い改めを迫ったのです(使徒5:27-32)。ユダヤ教の権威と律法主義が脅かされているのです。最高法院は偽証人を立ててでも初代教会の発展を阻止しようとするのです。まさに、彼らは先祖と同じ様に誤った道を歩んでいるのです。緊張した状況にあっても、揺るぎない宣教活動は着実に信徒の数を増やしたのです。ユダヤ教の祭司たちもキリストの信徒になったのです。一世紀のエルサレムは多くの国から移って来たユダヤ人たちが住む国際都市でした。外国に住んだことのあるユダヤ人たちはその国の文化や伝統から様々な影響を受けていました。ある人々はユダヤ教とギリシャ文化の融合を図ろうとしました。他のユダヤ人たちはこれまで通りモーセの律法と神殿礼拝を堅持したのです。ステファノはギリシャ語を話すユダヤ人です。イエス様を知っていたと思われるのです。五旬節(ペンテコステ)の日に集まっていた120人の信徒の中にいたかも知れないのです。この人は恵みと力に満ち、不思議な業としるしを民衆の間で行っていたからです。キリストの信徒であってもそれぞれの信仰理解が同じとは限らないのです。「信仰共同体」にとって克服すべき課題なのです。

*イエス様の教えを守り、初代教会は寡婦や孤児などの貧しい人々を大切にしたのです(申命記10:12-19)。食べ物や他の必需品は公平に分配されたのです。ところが、信徒が増えるに従って信仰理解の相違から混乱も生じたのです。信徒間の公平・平等を確保するためにギリシャ語を話す世話役が新たに任命されたのです。初代教会の試練は内部に留まらないのです。外部から激しい迫害に晒(さら)されているのです。ステファノはイエス様のメッセージがユダヤ教への挑戦であることを理解していました。ユダヤ教の伝統に固執する人々との論争内容は記録されていないのです。ステファノへの非難の内容から両者の対立点を知ることが出来るのです。イエス様が生と死と復活を通して宣教された「神の国」の福音は大祭司による神様への仲介、モーセの律法に定められた捧げ物と祭儀を不要にするのです。腐敗したエルサレム神殿は崩壊すると言われたイエス様のお言葉の意味は旧約聖書に基づいているのです。神殿政治の中枢を担う大祭司や長老たち、律法を遵守するサウロ(パウロ)のような人々はステファノの言動を放置することは出来ないのです。神様への冒涜(ぼうとく)として断罪したのです。ステファノに告発された罪に対する弁明の機会が与えられたのです。しかし、指導者たちを説得するとか自分を弁護することはしなかったのです。指導者たちの罪を非難する場として用いたのです。十二人の使徒が聖霊様に導かれて大胆に「復活の主」を語ったように、ステファノも権力者たちを恐れることなく、自分のキリスト信仰を貫いたのです。

*ステファノはイスラエルの歴史を振り返り先祖の不信仰に言及したのです。同時に、今日の権力者たちの罪を明らかにしたのです。エジプトの圧政から解放された民の中には神様を軽んじる人々もいたのです。「金の子牛」を造って礼拝したのです。神様は偶像礼拝に参加した三千人に厳しい罰を下されたのです。イスラエルを「かたくな民」と呼ばれたのです(出エジプト記33:3,5)。預言者エレミヤは「見よ、彼らの耳は無割礼で耳を傾けることができない。見よ、主の言葉が彼らに臨んでもそれを侮り、受け入れようとしない」と非難したのです(エレミヤ書6:10)。預言者イザヤは「イスラエルの民は背いて聖なる霊を悲しませたので、神様の敵となった」と明言したのです(イザヤ書63:10)。ステファノの言葉は辛辣(しんらつ)です。「あなたがたの先祖が神様に逆らったように、あなたがたも神様にそうしているのです」、「あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方(イエス様)が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となったのです」と言ったのです。人々は激しく怒り、ステファノに向かって一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げて殺したのです。しかし、迫害はステファノの処刑で終わらなかったのです。ステファノの「過激な証し」がユダヤ人たちの怒りを増幅させたからです。その日に、エルサレムの教会に対して大迫害が起こったのです。ギリシア語を話すユダヤ人たちはユダヤとサマリア地方に逃げたのです。

*イエス様は最高法院で大祭司たちに「ご自身がメシアである」、「あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」と言われたのです(マルコ14:62)。使徒たちも「神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために,この方(イエス様)を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました」と証ししたのです(使徒5:31)。聖霊様に導かれたステファノはありのままに「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言ったのです。いずれの言葉もユダヤ教との深刻な対立を招いたのです。指導者たちはイエス様に続いて初代教会の信徒たちを迫害したのです。一方、ステファノの殺害に賛成していたサウロは家から家へと押し入って教会を荒らしていたのです。男女を問わずキリストの信徒たちを牢に送っていたのです。ところが、激しい弾圧が異邦人宣教への新たな扉を開くことになったのです。七人の一人フィリポは異邦人宣教の先駆けになるのです。サマリアの町に下って「神の国」の福音を告げ知らせたのです。ペトロとヨハネがそこへ派遣されたのです。二人がサマリアの信徒たちに手を置くと聖霊様が降ったのです(使徒8:17)。フィリポはガザへ向かう途中でエチオピアの高官に出会い、洗礼を授けたのです。アゾトなどを巡りながらカイサリアまで行って宣教したのです。イエス様のお言葉「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」が実現したのです(使徒1:8)。ステファノは最初の殉教者になったのです。

2024年04月21日

「初代教会の実践」

Bible Reading (聖書の個所)使徒言行録4章32節から5章16節

信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。

ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。 すると、ペトロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた。若者たちが立ち上がって死体を包み、運び出して葬った。それから三時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事を知らずに入って来た。ペトロは彼女に話しかけた。「あなたたちは、あの土地をこれこれの値段で売ったのか。言いなさい。」彼女は、「はい、その値段です」と言った。ペトロは言った。「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。見なさい。あなたの夫を葬りに行った人たちが、もう入り口まで来ている。今度はあなたを担ぎ出すだろう。」すると、彼女はたちまちペトロの足もとに倒れ、息が絶えた。青年たちは入って来て、彼女の死んでいるのを見ると、運び出し、夫のそばに葬った。教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。

使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが、ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった。

(注)

・信じた人々の群れ:後に「教会」と呼ばれるのです。

・ヨセフ:バルナバと呼ばれています。ただ「バルナバ」という言葉が「慰めの子(励ましの子)」として表現されていることについては疑問視されています。バルナバは後にパウロの宣教活動への道を開くという大きな役割を果たしています。使徒9:27を参照して下さい。

・ペトロ:アラム語で「岩」を表しています。イエス様はペトロに「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府(よみ)の力もこれに対抗できない」と言われたのです(マタイ16:18)。陰府は死者の世界のことです。

・ソロモンの回廊:エルサレム神殿を囲む塀の東側に位置する柱廊です。

・ほかの者:レビ人、長老のようなユダヤ人の指導者たちを意味しているという説が有力です。

・女性の地位:家父長社会にあって女性は低い地位を強いられていました。人数に数えられることもなかったのです。

・負債の免除:ユダヤ教の律法においては貧しい同胞を見捨てることは罪なのです。初代教会の人々はこの戒めを実行したのです。

■「七年目ごとに負債を免除しなさい。負債免除のしかたは次のとおりである。だれでも隣人に貸した者は皆、負債を免除しなければならない。同胞である隣人から取り立ててはならない。・・あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。『七年目の負債免除の年が近づいた』と、よこしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい。その同胞があなたを主に訴えるならば、あなたは罪に問われよう(罰を受ける)。・・」(申命記15:1-11)。

・神の国:天の国とも言います。死後に行く天国のことではないのです。神様による完全な支配のことです。人間の心と社会の隅々において神様として崇められ、あらゆる価値の基準とされることです。正義と平和と愛に満ちた秩序が実現することです。イエス様は「神の国」の福音宣教を神様から与えられた使命として受け止められたのです。ご自身の生と死と復活を通して証しされたのです(使徒1:3)。「神の国」はキリスト信仰の中心メッセージなのです。


(メッセージの要旨)


*イエス様は「神と富とに仕えることはできない」と警告されたのです(ルカ16:13)。しかし、このお言葉の重要性が軽んじられているのです。アナニヤとサフィラはその典型的な例です。初代教会の信徒たちは富への対応が「永遠の命」に与る要件であることを理解していたのです。初代教会の実践は今日の実情に合わないという意見が聞かれます。この考え方に同調するキリストの信徒も少なくないのです。日頃の思い-イエス様の教えには実行不可能なものが多いことへの疑問-を代弁しているからです。キリスト信仰が誤解されているのです。「永遠の命」は決して安価な恵みではないのです。それぞれに覚悟を求めるのです。イエス様の厳しいご指示に弟子たちが「それでは、だれが救われるのだろうか」と相互に言ったのです。イエス様は「救いの基準」を緩和されることはなかったのです。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われたのです(マタイ19:23-26)。お言葉の意味は真に深いのです。信仰を誇れる人など誰もいないのです。神様の前に信仰の弱さを隠す必要はないのです。神様に依り頼む道がまだ残されているのです。ユダヤ人の圧倒的多数は困窮生活を余儀なくされでいるのです。イエス様は民衆を搾取し、苦しめている指導者たちの不信仰と不正を厳しく非難されたのです(マタイ23:1-38)。イエス様の教えに従って、土地や家、財産を持っている人はそれらを売ったのです。それぞれ代金を持ち寄ったのです。教会全体を経済的に支えたのです。神様は信徒たちの実践を祝福されたのです。


*使徒言行録はその名の通り使徒たちに導かれた「信徒の群れ」の歩みを具体的に記録しているのです。今日においても教会の行動指針として用いられているのです。モーセはイスラエルの会衆に「(あなたがた)不正を好む曲がった世代は・・神を離れその傷のゆえに、もはや神の子らではない」と言ったのです(申命記32:5)。ペトロもイエス様を処刑した指導者たちや彼らに協力したユダヤ人たちに悔い改めを求めたのです。「救い」(永遠の命)に与るためには悔い改めに相応しい実を結ぶことが不可欠なのです。「言葉」だけでなく「行い」によって証明する必要があるのです。罪を悔いた人々はイエス様が教えられた最も大切な戒め-神様と隣人を愛すること-を日常生活の中で実践するのです(マルコ12:29-31)。貧しい人々や虐げられた人々に奉仕するのです。「信徒の群れ」は霊的においてだけではなく、現実的にも一つになっているのです。すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれらを分け合ったのです。毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神様を賛美していたのです。当時「教会」は家に併設されていました。「家の教会」と呼ばれていたのです。民衆全体は信徒たちの「生き方」に好感を持っていました。神様は救われる人を加えられたのです(使徒2:40-47)。教会の礼拝に出席することは信仰生活の出発点です。しかし、「神の国」の福音はこの世の真っ只中において宣教されるのです。学ぶことが多いのです。

*イエス様は弟子になりたい人々に覚悟を求められました。ある律法学者が「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言ったのです。イエス様は「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と答えられたのです(マタイ8:19-20)。初代教会の信徒たちはイエス様の教えを肝に銘じたのです。「行い」によって「神の国」の福音を宣教したのです。その萌芽は女性の信徒たちの篤い信仰に見られるのです。イエス様は12使徒と共に「神の国」を宣べ伝え、福音を告げ知らせながら町や村を巡られたのです。当時としては考えられないことですが、弟子の中に女性がいたのです。七つの悪霊を追い出していただいたマグダラのマリア、ヘロデ・アンティパスの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナを含む多くの女性も一緒に旅をしていたのです。自分たちの持ち物を出し合って、一行に奉仕していたのです(ルカ8:1-3)。すでに、女性の信徒たちが模範を示しているのです。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」という掟を子供の時から守って来た金持ちが「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねたのです。イエス様は「持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。・・それから、わたしに従いなさい」と言われたのです。この人は財産に執着したのです。「永遠の命」を得られなかったのです(マルコ10:17-22)。人は信仰によってのみ救われるのではないのです。「神様の御心」に沿って生きたかどうかによるのです。

*イエス様は「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである」と明言されたのです(マタイ6:24)。イエス様は人間の根本的な弱点をご存じなのです。富には抗いがたい魅力があるのです。しかし、神様に従う人々は富-マモン(貪欲の神)-の誘惑と闘うのです。「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた(神様に委ねた)者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」からです(ルカ18:29-30)。律法を厳格に守って来た人であっても富に執着しては「永遠の命」に与れないのです。アナニアとサフィラは自分たちの財産の取り扱いを誤って命を失ったのです。二人に思いもよらない罰が下されたのです。ペトロは二人が「神様を欺いた」と言っているのです。神様が「罪の軽重」を判断されるのです。信徒たちは予想外の厳しい裁きに驚いたのです。神様を恐れたのです。使徒たちから距離を置く人々もいたのです。一方、多くの人が使徒たちの教えを信じてキリストの信徒になったのです。その後も「信徒の群れ」は日々仲間を増やしたのです。神様はイエス様の御跡を辿る人々を祝福されたのです。しかし、「神の国」の福音が変容されているのです。人間の「全的な救い」が「罪の赦し」に縮小されているのです。「信仰」と「行い」が分離されているのです。神様に属する富が個人的に浪費されているのです。キリスト信仰の真髄である正義や公平への関心が薄くなっているのです。「信仰の原点」に戻るのです。


*初代教会の信徒たちはキリスト信仰を観念的に、個人主義的に理解することはなかったのです。神様の愛と慈しみに全力で応えたのです。イエス様の教えを自分たちの「生き方」を通して実践したのです。イエス様が犠牲を払われたように、この世で得た富を「神様の御心」と「隣人愛」の実現のために捧げたのです。キリスト信仰は個人的な「罪からの救い」で完結しないのです。人間の「全的な救い」を目的としているのです。教会の中にも貧しい人々や虐げられた人々がいるのです。教会の外には同様の人がもっと多くいるのです。世界に目を向ければ、戦争や紛争、テロなどによって兵士だけでなく一般市民や子供たちの尊い命が奪われているのです。キリストの信徒たちは信仰によって「永遠の命」が得られると信じているのです。しかし、行いを伴わない信仰は「救い」の役に立たないのです。イエス様は「隣人が飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねなければ、永遠の罰を受ける」と言われたのです(マタイ25:31-46)。自分が認識する罪だけが罪ではないのです。困っている隣人のために何もしないことも大きな罪なのです。神様はすべてをご存じなのです。富に執着するキリストの弟子たちは「救い」に与れないのです。苦難に喘ぐ人々に手を差し伸べない信徒たちは罰せられるのです。キリスト信仰は安価な恵みではないのです。信仰に生きる覚悟が求められているのです。イエス様の教えを想起するのです。初代教会に倣(なら)うのです。

2024年04月14日

「聖霊様の降臨」

Bible Reading (聖書の個所)使徒言行録2章1節からから21節

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎(火)のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人(たち)が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時(祈りの時)ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者(イスラエルの人々)は皆、救われる。』・・」

(注)


・五旬祭(七週祭):ユダヤ教の三大祭り(過越祭、七週祭、仮庵祭)の一つです。過越祭から数えて50日目に祝う春の収穫祭です。レビ記23:15-21をご一読下さい。当時、キリストの信徒たちはユダヤ教からの改宗者です。彼らは改宗後もユダヤ教の祭日を遵守していたのです。キリスト教ではこの日を聖霊降臨日「ペンテコステ(ギリシャ語の『五十』を表す言葉)」として記念する教派もあります。

・風:神様の顕現を示しています。列王記上19:11、イザヤ書66:15、エゼキエル書37:9-14を参照して下さい。

・炎(火):神様の臨在を表しています。出エジプト記19:18、イザヤ書5:24;66:15-16をお読み下さい。

・使徒言行録:ルカによる福音書の続編(第二巻)です。支援者テオフィロへの感謝から始まっています。

・ディアスポラ:外国に住んでいるユダヤ人のことです。


・地域と現在の国:パルティア、メディア、エラムはイラン、メソポタミアはシリアとイラクの北部、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリアはトルコです。キレネに接するリビア地方はアフリカの北東部、クレタは地中海にあるギリシャの島、アラビアはサウジアラビアです。


・ヨエルの預言:ヨエル書は紀元前800年から300年の間に編纂されたと言われています。ヨエルの意図を明確にするために、ルカは原文の「その後」を「終わりの時に」に変更し、さらに「彼らは預言する」を加えています。

・ティベリアス湖:ガリラヤ湖のことです。聖書地図を参照して下さい。

・三位(さんみ)一体(いったい):新約聖書の記者たちは便宜上「神様」と「イエス様」と「聖霊様」を分けて取り上げています。しかし、神様はお一人なのです。神様は霊なるお方です(ヨハネ4:24)。イエス様と父なる神様とは一つなのです(ヨハネ10:30)。

(メッセージの要旨)

*復活されたイエス様は四十日にわたってご自身を現わし「神の国」について語られたのです。ティベリアス湖畔ではペトロなど七人の弟子に会い、朝の食事を共にされたのです。ペトロに「わたしを愛しているか」と三度質問されたのです。信仰を確認した後に「わたしの羊を飼いなさい。・・」と命じられたのです(ヨハネ21:1-19)。エルサレムでは使徒たちに「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりではなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と言われたのです(使徒1:8)。彼らは「復活の主」に会って再び信仰に燃えたのです。女性の信徒たちやイエス様の母マリア、イエス様の兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていたのです。初代教会の実質的リーダーはペトロです。信徒の数はおよそ120人です。イスカリオテのユダの後任にマティアを選出したのです。五旬祭が来てこの日も集まっていました。巡礼に来ていたユダヤ人たち、ビジネスのために長期に滞在しているユダヤ人たちは自国の言葉をエルサレムで聞いて驚いたのです。ユダヤ人たちはどこにいても律法を厳格に守ったのです。(旧約)聖書にも精通していました。多くの人は「激しい風のような音や炎」の意味を理解したのです。神様が信徒の群れと共におられることに戸惑ったのです。ガリラヤの人々はエルサレムの指導者たちから不信仰を非難されていたからです。ペトロが代表してキリスト信仰を証ししたのです。聖霊様の導きによって「神の国」の福音が受け継がれて行くのです。

*無学なペトロが(旧約)聖書から預言者ヨエルの言葉を引用し、聖霊様の降臨の意味を説明しているのです。ヨエルの時代、神様は不信仰なイスラエルを罰するためにいなごの大群を送られたのです。国土は荒廃し、民は深刻な飢饉に苦しんだのです。ヨエルはイスラエルの民が悔い改めて神様の下に立ち帰れば繁栄が回復することを告げたのです。その徴(しるし)として神様は大人だけではなく、息子や娘、若者、老人、奴隷にも聖霊様を注がれるのです。ヨエルは精霊様の降臨をイスラエルの民への恵みとして理解していたのです。「神の国」の福音はユダヤ人を含めすべての人に届けられるのです。ペトロはヨエルの預言をキリスト信仰による「救い」の根拠として用いたのです。ヨエル書の原文に記述されている「その後」を「終わりの時」に変更し、必要な言葉を加えて内容を深めているのです。聖霊様の降臨はイエス様が再び来られる日-最後の審判-が近いことを表しているのです。ユダヤ人たちは神様がダビデにされた約束「あなたの王国は・・とこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる」を信じていました(サムエル下7:16)。ペトロはダビデ自身の言葉-「彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない」など-によって、イエス様の復活を人々に確信させるのです(使徒2:25-35)。復活されたイエス様は神様の右におられるのです。聖霊様を御父から受けて注いで下さっているのです。ペトロの証しは人々の心を大いに打ったのです。彼らは「わたしたちはどうしたらよいのですか」と言ったのです。

*ペトロは人々に悔い改めを求めたのです。「イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と明言したのです。福音書記者ルカは重要な出来事には聖霊様が働いておられることを伝えているのです。洗礼者ヨハネは母エリザベトの胎内にいる時から聖霊様に満たされていました(ルカ1:15)。天使はマリアに「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と告知したのです(ルカ1:35)。聖霊様は洗礼者ヨハネの母エリザベト(ルカ1:41-45)、父ザカリア(ルカ1:67-79)、信仰篤いシメオン(ルカ2:25-35)を導いて証人にされたのです。イエス様は洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたのです。神様は祈っておられるイエス様に聖霊様を注がれたのです。天が開け聖霊様は鳩のような姿で降られたのです(ルカ3:21)。イエス様はお育ちになったナザレの会堂でイザヤ書を朗読されたのです。預言者イザヤのメッセージ-「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人(人々)に福音を告げ知らせるためにわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは・・」-が今日実現したと言われたのです(ルカ4:18)。聖霊様はペトロを導かれました。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを神は主とし、またメシア(キリスト)となさったのです」と言わせたのです(使徒2:22-36)。ユダヤ教の伝統に生きる人々に(旧約)聖書が伝える「神様の約束」を確認させるのです。

*ペトロの説教はユダヤ人だけでなく、今日のキリストの信徒たちにも分かり易い解説書になっているのです。聖霊様の降臨には「三位一体」(さんみいったい)の概念が内包されているのです。神様とイエス様と聖霊様は常に一つなのです。神様はご自身を「主、主、憐み深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし、罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者」として定義されたのです(出エジプト34:6-7)。イエス様は神様との関係に言及して「わたしは、彼らに永遠の命を与える。・・わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである」と言われたのです(ヨハネ10:28-30)。聖霊様との関係について「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがはなしたことをことごとく思い起こさせて下さる」と説明されたのです(ヨハネ14:25-26)。復活されたイエス様は使徒たちに「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け・・なさい」と指示されたのです(マタイ28:19)。ペトロはヨエルの預言やダビデの詩を引用し、神様が「三位一体」であることを強調しているのです。神様はイエス様を通して聖霊様と共に働いておられるのです。

*神様が便宜上「父」と「子」と「聖霊」のように別々に表現されているのです。このような用法には注意が必要です。キリスト信仰を「知的信仰」に陥(おちい)らせる危険性があるのです。ペトロはイエス様と共に歩んだのです。直接教えを受けたのです。不信仰を叱責されたのです。聖霊様の降臨の背景にあるユダヤ教の歴史と伝統、イエス様が寝食を忘れて証しされた「神の国」-神様の支配-に言及しているのです。イエス様の苦難に満ちたご生涯を知る(追体験する)ことの大切さを訴えているのです。神様はイスラエルの民をエジプトの圧政から解放されたのです。終わりの時に先立って、イエス様を遣わされたのです。イエス様は与えられた使命を果たされるのです。生と死と復活を通して「神の国」を証しされたのです。イエス様に代わって来られた聖霊様は「神様の御心」を実現するための勇気と力を与えて下さるのです。初代教会では神様を讃える時は「栄光が、聖霊において、子を通して、父なる神に帰せられるように」、神様の祝福を求める時は「父なる神の祝福が、子を通して、聖霊において、あなたがたの上にあるように」と祈ったのです。キリスト信仰が「霊的な救い」のみを目的としているかのように誤解されないための表現なのです。エルサレムの人や各国から来た巡礼者の多くは聖霊様の降臨が「神様の御心」であることを理解したのです。イエス様が預言された「メシア(救い主)」であることを信じたのです。「神の国」の到来こそ福音なのです。キリスト信仰はイエス様の地上の歩みに倣(なら)って生きることを求めるのです。

2024年04月07日

「イエス様の処刑と復活信仰」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書15:25-38及び16:9-20

イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。<底本に節が欠けている個所の異本による訳文>こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。†そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

・・・・・・・・・・・・・

〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。〕

(注)

・最後のお言葉の比較:

●「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46;マルコ15:34)は詩篇22:1の引用です。

・・わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻(うめ)きも言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。わたしたちの先祖はあなたに依り頼み/依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され/あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥(人々から嘲りを受け、軽蔑されている)。わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑(あざわら)い/唇を突き出し、頭を振る。「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」・・わたしを遠く離れないでください/苦難が近づき、助けてくれる者は(誰も)いないのです。雄牛が群がってわたしを囲み/バシャン(ガリラヤ湖の東側)の猛牛がわたしに迫る。餌食(えじき)を前にした獅子のようにうなり/牙をむいてわたしに襲いかかる者(たち)がいる。わたしは水となって注ぎ出され/骨はことごとくはずれ/心は胸の中で蝋(ろう)のように溶ける。口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎(うわあご)にはり付く。あなたはわたしを塵(ちり)と死の中に打ち捨てられる。犬(敵)どもがわたしを取り囲み/さいなむ者が群がってわたしを囲み/獅子のようにわたしの手足を砕く。骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺(なが)め わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。主よ、あなただけは/わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ/今すぐにわたしを助けてください。わたしの魂を剣から救い出し/わたしの身を犬どもから救い出してください。獅子の口、雄牛の角からわたしを救い/わたしに答えてください。・・わたしの魂は必ず命を得 子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。

●「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」(ルカ23:46)は詩篇31:5の引用です。

●「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)。

・神の国:天の国とも言います。死後に行く天国のことではないのです。神様による完全な支配のことです。人間の心と社会の隅々において神様として崇められ、あらゆる価値の基準とされることです。正義と平和と愛に満ちた秩序が実現することです。イエス様は「神の国」の福音宣教を神様から与えられた使命として受け止められたのです。ご自身の生と死と復活を通して証しされたのです(使徒1:3)。「神の国」の福音はキリスト信仰の真髄なのです。

・エリヤ:イスラエル(北王国)において紀元前865年から850年ごろに活動した偉大な預言者です。突然現れ、風のように消えたことで有名です。旧約聖書列王記上・下をお読み下さい。

・週の初めの日の朝早く:「安息日」は土曜日の午後6時に終わります。日曜日の朝のことです。

(メッセージの要旨)

*今日はイースターです。イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って宣教を開始されました(マルコ1:15)。神様の支配の到来を告げる「神の国」の福音はこの世の権力者たちとの間に鋭い対立を生み出したのです。大祭司やファリサイ派の人々は「安息日」を軽んじ、自分たちの不信仰と腐敗を告発するイエス様を何とかして殺そうとしたのです。ユダを裏切らせ、ピラトの権限を巧みに利用し「政治犯」として処刑することに成功したのです。イエス様がご生涯を通して宣教された「神の国」がこの世の権力たちによって否定されようとしているのです。ところが、神様はイエス様を三日後に復活させられたのです。イエス様は四十日にわたって使徒たちに現れ、ご自身が生きていることを多くの証拠によって示し、「神の国」について語られたのです。神様はイエス様を見捨てられなかったのです。切実な祈りに応えられたのです。「神の国」の到来が真実であることを証明されたのです。イエス様の教え-「山上の説教」(マタイ5-7)や「平地の説教」(ルカ6:17-49)、「最も重要な掟」(マルコ12:28-34)、「イザヤの預言」(ルカ4:16-21)、「御子の権威」(ヨハネ5:19-31)など-が人々を正しい道へ導くのです。イエス様は死者の中から復活された初穂なのです。死の支配が打ち砕かれたのです。復活信仰に生きる人々に「永遠の命」が約束されたのです。「新しい天地創造」が始まっているのです。イエス様に倣(なら)って「神の国」の建設に全力を尽くすのです。

*イエス様は弟子たちにご自身の死と復活について三度も予告されています(マルコ9:31)。エルサレムへは受難を覚悟して入城されたのです。ところがゲツセマネの祈りにおいて「御心に適うことが行われますように」という言葉で結ばれているとはいえ、神様に「この杯をわたしから取りのけて下さい」と訴えておられるのです(マルコ14:36)。十字架上では絶対的な信頼を表明しながらも、神様に「なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」と疑問を呈されたのです。マルコより後に書かれたルカは「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」、ヨハネは「成し遂げられた」と表現を和らげているのです。マルコ(マタイ)の記述の方が史実に近いように推測されるのです。イエス様の罪状書きには「ユダヤ人の王」と書かれています。イエス様はローマ帝国への反逆罪で処刑されたのです。両側の強盗も「政治犯」であることが考えられるのです。十字架刑は人間の尊厳を否定する屈辱的な刑罰でした。裸にされ、数日人目に晒(さら)されたのです。手首や足に釘が打たれているだけで体を支える物が下にはないのです。途方もない苦痛と出血を伴いながら窒息死するのです。イエス様がお心を騒がせられた理由は分からないのです。死に至る過程おいて筆舌に尽くしがたい試練を経験されたのです。惨めさや悲惨さを軽んじて死を美化するようなことがあってはならないのです。神殿の垂れ幕が上から下まで裂けたのです。重要な意味を暗示しているのです。信徒たちに祭司たちの仲介がなくても、イエス様を通して神様に近づける道が開かれたのです。

*イエス様の死を目撃した人々にも様々なことが起こっているのです。異邦人である百人隊長はイエス様が息を引き取られたのを見て「本当に、この人は神の子だった」と言ったのです。11人の使徒はイエス様が逮捕されて以来姿を隠しているのです。女性の信徒たちはイエス様の処刑の様子を遠くから見守っていたのです。マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、サロメもいたのです。イエス様がガリラヤにおられた時にお世話をしていた人々です。他にも、イエス様と共にエルサレムへ上って来た女性たちが大勢いたのです。十字架上のイエス様は母マリアと愛する弟子に言葉をかけておられます(ヨハネ19:26-27)。権力の中枢にいた議員の中にはイエス様を信じている人も多かったのです。しかし、会堂から追放されることを恐れていたので信仰を告白しなかったのです(ヨハネ12:42)。イエス様が処刑された日は安息日の前日の金曜日です。夕方にアリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが勇気を出して総督ピラトにイエス様の遺体を渡してくれるように願い出たのです。この人も密かに「神の国」を待ち望んでいたのです。同僚から非難され、議員の職を奪われ、社会から排斥されることが予想されるのです。それでも信仰を証ししたのです。ピラトはイエス様の死を確認してから下げ渡したのです。ヨセフは亜麻布を買い、イエス様を十字架から降ろして布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口を石で塞いだのです。以前、イエス様を訪ねたことがある議員のニコデモも埋葬に加わったのです(ヨハネ19:38-42)。

*イエス様は日曜日の朝早く復活して先ずマグダラのマリアにご自身を現わされたのです。マリアが他の弟子たちにこのことを知らせたのです。彼らは信じなかったのです。また、別の二人の弟子にもご自身を現わされました。彼らの言うことも他の弟子たちは信じなかったのです。弟子たちはイエス様からご自身が殺され三日後に復活されることを聞いていたのです。11人の使徒も含めてイエス様のお言葉を信じていなかったのです。イエス様は彼らの不信仰を叱責されたのです。譲歩して復活の事実を目に目る形で示されたのです。「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」と言われたのです(ルカ24:39)。「焼いた魚を一切れ 差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた」と記述されているのです(ルカ24:42-43)。イエス様は弟子たちに全世界に行って福音を宣教するように命じられたのです。地位の高い人、財産を持っている人、教育の機会に恵まれた人はほとんどいなかったのです。ところが、「復活の主」に出会って「神の国」の意味をようやく理解することが出来たのです。「永遠の命」の希望において生きるのです。大祭司や議員、長老や律法学者などの権力者たちを恐れることはなくなったのです。至る所で(旧約)聖書に基づいてイエス様の復活を証ししたのです。指導者たちは自信に満ち、大胆に「イエスの名による以外に救いの道はない」と語るペトロとヨハネに驚いたのです(使徒4:12-13)。

*イースターの日にキリストの信徒たちは「復活の主」に出会うのです。弟子たちのようにイエス様がご生涯を通して証しされた「神の国」の意味を再確認するのです。神様はナザレのイエス様を復活させることによって次の点を明らかにされたのです。第一は、ご自身がどのようなお方であるかを決定的な形で啓示されたことです。無から有を造り、不可能なことを可能にされるのです。依り頼む者を決して見捨てられないのです。第二は、イエス様が寝食を忘れて証しされた「神の国」の福音と律法解釈を御旨に適うものとして認められたことです。福音の範囲を「罪からの救い」に縮小してはならないのです。第三は、「永遠の命」の希望に生きる人々に保証を与えられたことです。「神の国」は人間の全的な救いとして完成するのです。イエス様の復活によって基礎づけられた「神の国」の到来を確信し、「復活信仰」に生きる人々は「神様の御心」の実現のために与えられた使命を果たすのです。キリスト信仰とは知的に理解することではないのです。イエス様が歩まれた道を辿(たど)ることなのです。ロシアのウクライナ侵攻が三年目を迎えているのです。中東・パレスチナのガザ地区では激化した紛争により、甚大な被害が子供たちにも広がっているのです(ユニセフ2024年3月)。神様の助けを待つのではなく、出来ることを実践するのです。「悪の力」と戦うのです。無意味に思われるような取り組みであっても愛によってなされた行為には価値があるのです。挫折と行き詰まりを前にして失望しないのです。イエス様もそのように生きられたのです。

2024年03月31日

「二度の死刑判決」

Bible Reading(聖書の個所)マルコによる福音書14章53節から65節及び15章1節から15節

人々は、イエスを大祭司のところへ連れて行った。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来た。ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていたからである。すると、数人の者が立ち上がって、イエスに不利な偽証をした。「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」しかし、この場合も、彼らの証言は食い違った。そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」 しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に囲まれて来るのを見る。」大祭司は、衣を引き裂きながら言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。」一同は、死刑にすべきだと決議した。それから、ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った。

・・・・

夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。


(注) 

・大祭司:カイアファのことです。在職は西暦18-36/7年です。最高法院(サンヘドリン)においてイエス様を尋問した中心人物です。

・最高法院:大祭司を中心に祭司たち、祭司の家系の長老たち、民の長老たち、律法学者たちの71人で構成されていました。後に、ペテロとヨハネを尋問し(使徒4:5-42)、ステファノを死刑にし(使徒6:8-7:60)、迫害のためにパウロを任命し(使徒9:1-2)たのはこの最高法院なのです。

・ポンティオ・ピラト:ユダヤにおけるローマの第五代総督で、在位は西暦26-36年です。イエス様を十字架刑で処刑する権限はローマの総督にありました。

・ユダヤ人の王:イエス様に対するローマ総督ピラトの皮肉を込めた呼び方です。

・暴動:ローマ帝国の支配に抵抗する闘争のことです。当時ユダヤ人の反乱は至る所に見られたのです。ユダヤ人歴史家ヨセフスもそのことを記述しています。

・囚人の釈放:福音書以外にこのような慣例を記述した文献などは見当たらないのです。

・銀貨三十枚:傷を負った奴隷の値打ちに相当します(出エジプト記21:32)。ゼカリヤ書11章をお読みください。

・十字架刑:ローマ帝国への反逆者や重大な罪を犯した奴隷に対して適用されたのです。見せしめのために用いられた最も残酷な死刑の執行方法です。

(メッセージの要旨)

*イエス様はヨハネから洗礼を受けられた後「神の国」(天の国)-神様の主権と神様の正義-について宣教されたのです。神殿政治を担う人々の不信仰と腐敗を厳しく批判されたのです。多くの人がイエス様を支持したのです。政治運動へ発展しかねないのです。一方、イエス様は「神様の愛」の観点からユダヤ人たちがこれまで順守してきた律法の解釈を変更されたのです。ある時、弟子たちは空腹になったのです。安息日に麦の穂を摘んで食べたのです。ファリサイ派の人々は弟子たちの行為を律法違反として非難したのです。イエス様は律法の厳格な適用よりも憐れみの大切さを指摘されたのです。姦通の現場で捕らえられた女性に「わたしはあなたを罪に定めない」と言われたのです(ヨハネ8:11)。「神の国」の福音はユダヤ教の指導者たちの権威と既得権益を危うくしたのです。さらに、ご自身を「安息日の主」と呼ばれたのです(マタイ12:1-8)。「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」と公言されたのです(ヨハネ5:21-22)。これらの言動は神様を冒涜(冒とく)しているのです。祭司長たちやファリサイ派の人々は最高法院を招集したのです。律法に従って死刑の判決を下したのです。ところが、刑を執行しないのです。イエス様を「政治犯」として断罪しようと画策するのです。ただ、十字架刑を適用する権限はなかったのです。ピラトに裁かせるのです。ローマ皇帝に反逆する「ユダヤ人の王」として処刑させるのです。

*イエス様は「その人は犯罪人の一人に数えられた」(イザヤ書53:12)を引用し、ご自身に起こる受難を予告されたのです(ルカ22:37)。イエス様は「神の子」としてご自分をモーセの律法の上に置かれたのです。最高法院-裁判所と議会を兼ねた機関-は神様を冒涜する者、偽預言者として認定したのです。しかし、律法に従って石打ちの刑で処刑しないのです。ローマ帝国の治安を脅かす政治犯などに適用される十字架刑で処刑させようとしているのです。「神の国」の本質が一層明らかになるのです。イエス様は政治的な観点から宣教されたのではないのです。ただ、「神の国」は人が人を支配するような社会秩序とは根本的に相容れないのです。イエス様はご自身への応答が裁きの基準になるという途方もない主張をされたのです。ユダヤ人たちに「神の国」かローマ皇帝かを選択させるのです。この世の権力者たちはイエス様を断じて許さないのです。殺さなければならないのです。新約聖書の記者たちはイエス様の死を神様のご計画の中に定められていたこと、世の罪を取り除くために捧げられた犠牲であったこと、神様のご意思を絶望の中において受け止められたこととして理解したのです。これらはイエス様の復活を通して形成された信仰理解なのです。現実の出来事をベースにして解釈されているのです。「知的信仰」への警戒を怠(おこた)ってはならないのです。イエス様は神様から与えられた使命の実現に生涯を奉げられたのです。弟子たちに倣(なら)うように命じられたのです。「神の国」を宣教する人々は試練に遭遇するのです。

*イエス様の予告が現実になったのです。暗闇と群衆の中でイエス様を逮捕することは至難の業です。ところが、考えられないことが起こったのです。サタンが十二弟子の一人イスカリオテのユダを支配しているのです(ルカ22:3)。ユダはグループの内情を熟知しているのです。サタンと共に歩むことを決断したのです。祭司長たちに「あの男」をあなたたちに引き渡せば幾らくれますかと申し出たのです。彼らは陰謀への加担の謝礼として銀貨三十枚を支払ったのです(マタイ26:14-15)。しかし、ユダはイエス様に有罪判決が下ったのを知って後悔したのです。銀貨を神殿に投げ込み首をつって死んだのです(マタイ27:3-5)。祭司長、長老、律法学者たちが集まりイエス様に対する裁判を開始したのです。大祭司は「お前はほむべき方(神様)の子、メシアなのか」と尋ねたのです。イエス様は「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に囲まれて来るのを見る」と答えられたのです。旧約聖書の「詩篇110:1」、「ダニエル書7:13-14」がご自身において成就することを明言されたのです。「神の子」であることを宣言されたのです。「神様のご意思」の解釈をめぐる審理が行われているのです。イエス様の断罪はピラトの言うような妬(ねた)みとか悪意ではないのです。最高法院の宗教的権威が「神様の名」によって決定したのです。「政治犯」として処刑させるために陰謀が実行されるのです。ピラトに十字架刑の判断を迫るのです。イエス様は大祭司カイアファの邸宅から総督の官邸へ連行されるのです。

*祭司長たちは汚れないで過越の食事をするために官邸に入らなかったのです。表面上は律法を順守しているのです。しかし、彼らの心はイエス様に対する敵意と憎しみで満ちているのです。ピラトが出て来て「どういう罪でこの男を訴えるのか」と問い質したのです。祭司長たちは「この男が悪いことをしていな
かったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と答えたのです。ピラトは関わりを避けるために「自分たちの律法に従って裁け」と言ったのです(ヨハネ18:31)。彼らは「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と答えたのです。イエス様をローマ帝国の支配に抵抗する「政治犯」として処刑させるための決意が表れているのです。ピラトは罪状を確かめるためにイエス様に「お前がユダヤ人の王(政治的指導者)なのか」と尋ねたのです。イエス様はピラトの質問に直接答えられなかったのです。ただ、「神の子」として「もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人(たち)に引き渡されないように、部下(弟子たち)が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない」、さら「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と言われたのです。ピラトはユダヤ教における信仰上の争いとして結論付けたのです。イエス様に反逆の意図がないことを確認したのです。「わたしはあの男に(政治犯として)何の罪も見いだせない」と見解を示したのです(ヨハネ18:38)。祭司長たちはイエス様の釈放に激しく抵抗したのです。代わりにバラバ(政治犯)を求めたのです。

*同じ政治犯ならば誰が釈放されてもいいはずなのです。祭司長たちは何としてもイエス様を処刑させたいのです。「イエスを釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称するものは皆、皇帝に背いています」と言って、ピラトを脅したのです(ヨハネ19:12)。ヘロデ大王の死後三人の息子の一人アルケラオがユダヤを統治したのです。この人は残酷で悪政を重ねたのです。ユダヤ人たちがアルケラオの不適格性をローマに上訴したのです。皇帝は職を解任したのです(紀元後6年)。ユダヤはローマの直轄領となり、総督が派遣されることになったのです。ピラトもユダヤ統治の難しさを知っているのです。祭司長たちはピラトに過去の歴史を想起させるのです。ピラトがイエス様を外に連れ出し「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、彼らは「殺せ。殺せ。十字架につけろ」と叫んだのです。ピラトは「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と反論したのです。祭司長たちは「わたしたちには皇帝のほかに王はありません」と答えたのです(ヨハネ19:14-17)。公然と皇帝崇拝を宣言しているのです。律法の基本である「十戒」の規定に違反しているのです。大罪を犯しているのです。信仰を捨てたとさえ言えるのです。ローマの総督の最大の任務は祭りの間エルサレムの治安を維持することです。エルサレムにおいて暴動が起きれば皇帝から責任を問われるのです。一方、ピラトは在任中に莫大な富を蓄えているのです。社会的地位と既得権益に執着するのです。不本意でも譲歩したのです。イエス様を執行人たちに引き渡したのです。

2024年03月24日

「最後のエルサレム」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書11章1節から19節

一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。


翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。


それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。

(注)

・ベトファゲ:場所は不明です。

・ベタニア:エルサレムの南東およそ3.2kmのところにあります。

・オリーブ山:エルサレムの東にある小高い丘です。

・子ろば:

■娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。(ゼカリア書9:9)。

・服を道に敷き、葉の付いた枝を道に敷いた:イスラエルの王室あるいは祭りの行列を想起させるのです。

■彼らはおのおの急いで上着を脱ぎ、階段の上にいた彼の足もとに敷き、角笛を吹いて、「イエフが王になった」と宣言した。(列王記下9:13)

・ホザナ:「今、救ってください」という意味です。詩編118:25-26を参照して下さい。

・父ダビデの来るべき国:神様から特別に選ばれたダビデは民を導き、初めてイスラエルを王国として統一した卓越した指導者です。民は苦難にある時、神様が預言者ナタンを通してダビデに告げられた約束の実現に期待したのです(サムエル記上7:9-14)。

いちじく:イスラエルは実を結ばないいちじくに例えられているのです(ホセア書9:10)。


・祈りの家:

■また、主のもとに集って来た異邦人(外国人たち)が/主に仕え、主の名を愛し、その僕となり/安息日を守り、それを汚すことなく/わたしの契約を固く守るなら わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。(イザヤ書:56:6-7)

・強盗の巣:

■主からエレミヤに臨んだ言葉。主の神殿の門に立ち、この言葉をもって呼びかけよ。そして、言え。「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。そうすれば、わたしはお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。しかし見よ、お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。(エレミヤ書:7:1-11)

シロ:エルサレムの北約29㎞にあった聖なる町です。士師の時代(紀元前12世紀の頃)に「信仰のセンター」としての役割を果たしていたのです。紀元前11世紀に不信仰の故に異教徒のペリシテ人によって滅ぼされたのです。

(メッセージの要旨)

*イエス様はエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人(たち)に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する」と言われました(マタイ20:17-19)。ご自身の死と復活を予告されたのです。イエス様は迫害を覚悟してエルサレムへ入られたのです。神殿の境内に入り、売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返されたのです。境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかったのです。このような激しい振る舞いは一時的な気まぐれではないのです。前日に辺りの様子を見て回っておられることからして、十分に計画された行動なのです。しかし、出来事があまりにも急進的であるとして、礼拝のテーマになることはほとんどないのです。言及されたとしても、実力行使は純粋に信仰の観点からの怒りの表現として解釈されたのです。神殿礼拝における霊性の欠如や見せかけの信仰、礼拝の商業化や不正な両替への非難として説明されたのです。しかし、このような信仰理解には重要な点が見落とされているのです。神様は預言者イザヤやエレミヤを通してエルサレム神殿の腐敗を非難されたのです。イエス様も「強盗の巣」になっているエルサレム神殿を告発されたのです。神殿政治の中枢にいる人々はイエス様の呼びかけを拒否したのです。神様から受けた使命の貫徹と人々への愛がイエス様を死へと導くのです。

*イエス様は「ユダヤ人の祭り」にはエルサレムに上っておられます。しかし、今回は最後のエルサレムになるのです。政治犯に適用される十字架刑、三日目に起こった復活の出来事を通して、福音の真理-神の国の到来-の意味について学びます。二人の弟子は子ろばの上に自分たちの服を掛けたのです。これは古代から王が即位する時に行われていた儀式です。イスラエル(北王国)のイエフ王の例が記録されています。イエス様は「ダビデの子」と呼ばれています(マタイ21:9)。ユダヤや民族を鼓舞する政治的、国粋主義的なこの尊称は当時の状況と密接に関わっているのです。イエス様がエルサレムに向かっておられるという噂は近隣地域にも広まり、多くの人が一行に加わって共に歩いたのです。民衆は城門の外に出てイエス様を歓迎したのです。「過越祭」と並ぶ三大祭りの一つ「仮庵祭」の時にも人々がなつめやしの葉や茂った木の枝を手にして「救いの歌」を唱えたのです(詩篇118:25-26)。イエス様は栄光のイスラエルを取り戻してくれる民族の解放者なのです。「ホサナ」にはメシア(油注がれた者)の到来を待ち続けていた人々の喜びが溢(あふれ)れているのです。ファリサイ派の人々は民衆の歓喜の叫びを黙らせようとするのです。イエス様は民衆を弾圧して平和を作ろうとすれば石が叫びだすと言われたのです(ルカ19:39-40)。神殿政治を担う指導者たちは激怒するのです。イエス様の殺害計画を巧妙に実行するのです。イエス様の関心事であった「神の国」の宣教はご自身の死を抜きに考えられなくなったのです。

*エルサレム神殿はイスラエルの民の信仰の中心地なのです。ところが、その役割を誠実に果たしていないのです。イエス様はエルサレム入城後直ちにこの神殿の境内から商人たちを追い出すことによって「神の国」の具体化に取り組まれたのです。何世紀にもわたって、イエス様の過激な行動は純粋にユダヤ人たちの不信仰への告発として語られたのです。神殿礼拝の商業化やそれに伴う商人たちの悪事に対する非難、形式的に捧げ物をすることによって罪の赦しを得ようとする巡礼者たちの霊性の欠如や偽善性への批判として説明されたのです。いずれも、出来事に目を奪われて本質的な問題への言及がなされていないのです。エルサレム神殿は「信仰のセンター」だけではないのです。それ以外にも重要な役割も担っているのです。イスラエルの社会・政治・経済を統治する機関なのです。律法機関と裁判所を兼ねた最高法院(サンヘドリン)-衆議会-が開催されているのです。特権階級の祭司たちがローマ帝国の支配に屈して彼らの利益のために協力しているのです。すべてのユダヤ人の生活に影響する布告や命令が出されているのです。大祭司による裁判が行われているのです。ほとんど紹介されていないのですが、イスラエルの経済を管轄する機関なのです。両替を行う中央銀行であり、莫大な富を保管する国庫なのです。貧しい人々にとって負債は深刻な問題の一つです。ユダヤ人歴史家ヨセフスは著書「ユダヤ戦記」において当時の様子を伝えています。ローマ帝国に抵抗するユダヤ人たちは先ずエルサレム神殿に保管されている「借用証書」を焼いたのです。

*すでにエルレム神殿はうわべだけの神聖さと宗教心の下に「神様の御心」である正義と隣人愛を軽んじ、貧しい人々を抑圧する機関に堕(だ)していたのです。神殿の境内における貪欲な商人たちに対するイエス様の怒りには目に見える現象以上の深い意味が込められていました。イスラエルの政治と経済を私物化する指導者たちへの激しい非難だったのです。公然の政治行動だったのです。他の三福音書の記述に比べるとマルコはこの点を強調しているのです。イエス様は両替人や鳩の販売人たちを追い出しただけでなく、弟子たちと共にエルサレム神殿の広大な境内を封鎖し、一時的とはいえ商業活動を停止させたのです。平時としては前代未聞の出来事なのです。イエス様が商人たちに使われた「強盗の巣」はエレミヤ書からの引用です。境内にいたすべての人に不信仰の歴史を思い起こさせるのです。古代においてもイスラエルは神様を試み、反抗し、戒めを守らなかったのです。憤られた神様はシロにある聖所-人によって張られた幕屋-を敵の手に渡されたのです(詩篇78:56,60)。エレミヤの時代にも、神様は「わたしの名によって呼ばれ、お前たちが依り頼んでいるこの(エルサレム)神殿・・に対して、わたしはシロにしたようにする」と言われたのです(エレミヤ書7:14)。イエス様はエルサレム入城の直前にユダヤ人たちが遭遇する悲劇と神殿崩壊に涙を流されたのです(ルカ19:41-44)。しかし、エルサレム神殿は「祈りの家」にならなかったのです。いちじくの木が根元から枯れたように完全に崩壊するのです(紀元後70年)。

*イエス様の時代においても、エルサレム神殿は「神様の御心」から遠く離れていたのです。単なる壮大な建造物と化していたのです。イエス様はエレミヤの預言「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない・・」によって非難されたのです。イエス様の行動は幾つかの目的を持っています。第一に、エルサレム神殿が「祈りの家」ではなくなったことを明確にされたのです。多くのユダヤ人が祭司たちと対峙(たいじ)することを逡巡していたのです。「神様の怒り」を恐れていたのです。第二は、ユダヤの民衆-特に貧しい人々や虐げられた人々-にも指導者たちの不信仰を批判し、貪欲と不正に抗議する権利と資格があることを教えられたのです。イエス様は神殿政治の腐敗を暴露し、人々を罪の恐怖-指導者たちを断罪することから生じる罪の意識-から解放し、告発することの正当性を証明されたのです。群衆はイエス様の教えに勇気づけられたのです。祭司長たちや律法学者たちは旧約聖書に精通していました。神様の裁きが自分たちに下ることに怯(おび)えたのです。しかし、神殿政治を改めることはないのです。イエス様の処刑によって問題を解決するのです。イエス様は誕生の瞬間から十字架上で贖(あがない)の死を遂げるために歩まれたというような信仰理解は歴史的事実に合致しないのです。「神の子」がこの世に来られたのです。イエス様は「神様の御心」に従って「神の国」の福音を証しされたのです。貧しい人々や虐げられた人々の側に立たれたのです。権力者たちの迫害に真正面から対決されたのです。

2024年03月17日

「イエス様への殺意と陰謀」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書11章45節から57節

(ベタニアの)マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので(無意識に)預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。

さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。

(注)

・イースター:イエス・キリストの復活をお祝いする日(日曜日)です。八世紀の早い時期に始まりました。西方教会では3月22日から4月25日の間を移動します。

・カイアファ:在任期間は紀元後18年から36年です。祭司職は本来世襲でした(民数記25:10-13)。ところが、紀元後1世紀にローマ帝国の総督の承認事項になったのです。宗教指導者であると同
時に政治的指導者です。最高法院を招集する権限を有していたのです。

・最高法院:サンヘドリン-衆議会-のことです。今日の最高裁判所と国会の機能を兼ねています。神殿の治安を維持する警察の役割も果たしていました。 

・エフライム:場所は不明です。ベタニア(エルサレムの東)の近くではないかと推測されています。聖書地図を参照して下さい。

・過越祭:三月か四月に行われました。およそ10万人がエルサレムへ巡礼したのです。歴史的経過については出エジプト記12:1-13:10をご一読ください。イエス様は三回エルサレムで過ごされました(ヨハネ2:13,6:4,11:55)。

・イエス様のエルサレム巡礼:福音書記者ヨハネによると四回です。2:13,5:1(ユダヤ人の祭り),7:10(仮庵祭),12:12です。


・イエス様の宣教活動:十字架の死によって終結するのです。イエス様の死はキリスト教以外の文献タキツスの「年代記」やヨセフスの「ユダヤ古代誌」によっても証明されています。

・ティベリウス:ローマ帝国の皇帝、在位は紀元後14年から37年です。

・ポンティオ・ピラト:ローマ帝国から任命されたユダヤの総督です。在位は紀元後26年から36年です。新約聖書は意志の弱い人物として伝えていますが、古代の歴史家たちは圧政と不正で悪名をなした人物として紹介しています。本来の赴任地は地中海沿岸の都市カエサリアです。ユダヤ人たちの「過越祭」には多くの人々が集まるので治安を確保するためにエルサレムに滞在したのです。

・ヘロデ・アンティパス:ヘロデ大王(ローマ人によって「ユダヤ人の王」と呼ばれていました)の三人の息子の一人です。在位は紀元前4年から紀元後39年です。

・ヘロデ・フィリポ:ヘロデ大王の三人の息子の一人、在位は紀元前4年から紀元後34年です。イトラヤとトラコンはそれぞれガリラヤ湖の北と東に位置しています。

・ヘロデ・アルケラオ:ヘロデ大王の三人の息子の一人です。ユダヤとサマリアの領主、在位は紀元前4年-紀元後6年です。三人の中で最も残虐な人物です(マタイ2:22)。ローマ皇帝アウグストス(紀元前27年-紀元後14年)は統治能力に欠けるアルケラオを廃位し、管轄地をローマ帝国の直轄領としたのです。総督が任命されたのです。

・リサニア:この人物については不明です。アビレネはダマスカスの北西にある町です。

・アンナス:紀元後6年から15年まで大祭司でした。職を退いた大祭司にも慣例として大祭司の称号が用いられたのです。イエス様の裁判、使徒ペトロとヨハネの裁判に関わっています。

・メシア:ヘブライ語です。ギリシャ語のキリストのことです。いずれも「油注がれた者」という意味です。神様から特別の使命を与えられたのです。政治的指導者でもありました。サムエル記上10:1-10を参照して下さい。イスラエルの民はメシアを待望していたのです。キリスト信仰とはイエス様を「キリストである」と信仰することなのです。


(メッセージの要旨)

*今年のイースターは3月31日(日)です。イエス様はヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた後、「神の国」の到来を福音として宣教されたのです。福音書記者ルカは当時の政治状況について「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき・・」と記述しています(3:1-2)。ガリラヤでの宣教活動は多くの人に感銘を与え、キリスト信仰へ導いたのです。一方、宗教的、政治的な民衆運動へと発展する機会にもなったのです。イエス様から食べ物を与えられた五千人の群衆はイエス様を自分たちの王とするために連れて行こうとしたのです(ヨハネ6:1-14)。イエス様は教えと力ある業を通して「神の国」を宣教されました。しかし、人々の間に意見の対立を生み出したのです。ラザロが墓から蘇った出来事を見たり、聞いたりした人の多くはイエス様が神様の子であることを信じたのです。エルサレムに近いベタニアの人々がイエス様を「メシア」として受け入れたのです。イエス様はガリラヤとエルサレムの間を何度も旅しておられます。ユダヤの中心に住む人々までがイエス様の影響を受ければ宗教的対立の枠内に留まらないのです。ユダヤ人による反ローマ帝国運動になりかねないのです。エルサレムの指導者たちは危機感を募(つの)らせたのです。カイアファの意向を受けた最高法院は重大な決定を行ったのです。イエス様を「政治犯」として処刑させるのです。

*イエス様は(旧約)聖書に基づいて宣教姿勢を明確にされるのです。「地上に平和ではなく、分裂をもたらすために来た」と言われたのです(ルカ12:49-53)。弟子たちや群衆の誤解を正されるのです。お育ちになったナザレでいつものとおり安息日に会堂に入り「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人(人々)に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人(人々)に解放を、/目の見えない人(人々)に視力の回復を告げ、/圧迫されている人(人々)を自由にし、主の恵みの年(50年目の年-ヨベルの年-におのおの所有地の返却を受けること)を告げるためである」(イザヤ書61:1-2及び58:6)を朗読されたのです。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき実現した」と言われたのです(ルカ4:16-19)。ところが、故郷の人々は信じなかったのです。イエス様は預言者エリヤの時代に三年六か月の間雨が降らずその地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたがエリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタ-異教の神バール信仰の中心地である地中海沿岸の町-の信仰深いやもめのもとにだけ遣わされたこと(列王記上17:1-16)を例に挙げて、彼らの不信仰を批判されたのです。会堂内の人々は皆憤慨し、イエス様を町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとしたのです。四福音書はイエス様のお言葉が真実であることを伝えているのです。

*イエス様はご自身を敵視するファリサイ派の人々の会堂にも入られました。そこに、片手の萎(な)えた人がいたのです。指導者たちがイエス様を陥れるために、律法主義の観点から「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねたのです。人々は安息日であっても穴に落ちた羊を手で引き上げているのです。人間は羊よりはるかに大切なのです。イエス様は「安息日に善いことをするのは許されている」と答えて、手の不自由な人の手を癒されたのです。ファリサイ派の人々はどのようにしてイエス様を殺そうかと相談したのです(マタイ12:9-14)。しかし、後代には教条主義的な律法解釈が現実に合わなくなったのです。命に関わる緊急の場合には例外が認められるようになったのです。敵対する人々が「わたしたちの父アブラハムよりもあなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。あなたは自分を何者だと思っているのか」と質問したのです。イエス様は「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」と答えられたのです。彼らは不遜な態度に激怒したのです。石を取り上げてイエス様に投げつけようとしたのです(ヨハネ8:48-59)。ユダヤ人たちは神殿の境内でイエス様を取り囲んで「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」と詰問したのです。イエス様は「わたしが父の名によって行う業がわたしについて証しをしている。わたしを信じる人々に永遠の命を与える。わたしと父とは一つである」と言われたのです。イエス様を打ち殺そうとして石を取り上げたのです(ヨハネ10:22-31)。

*イエス様は「神様の声」として語り、「神様の権威」を持って行動されたのです。ご自身の呼びかけに対する応答がその人の「救い」を決定すると公言されたのです。これらはユダヤ教の律法を根底から覆(くつがえ)しているのです。律法を無視し、神様を冒涜(ぼうとく)するイエス様の言動は万死に値するのです。旧約聖書に神様を冒涜する者に対する死刑の掟が記されています。「冒瀆した男を宿営の外に連れ出し、冒瀆の言葉を聞いた者全員が手を男の頭に置いてから、共同体全体が彼を石で打ち殺す」(レビ記24:14)、「その預言者がわたしの命じていないことを、勝手にわたしの名によって語り、あるいは、他の神々の名によって語るならば、その預言者は死なねばならない」(申命記18:20)が挙げられます。イエス様は律法の規定に従って断罪されているのです。「神様の御心」の解釈を巡る神学的な争いが起こっているのです。イエス様は「神の国」の宣教を神様から与えられた使命として理解されたのです。迫害と死の危険が迫っている時にあっても、恐れることなく寝食を忘れて目的の実現のために全力を尽くされたのです。貧しい人々や虐(しいた)げられた人々と共に歩まれたのです。権力者たちを公然と批判されたのです。ヘロデ・アンティパスを「あの狐」と呼ばれたのです(ルカ13:32)。これは民族を裏切ってローマ帝国に協力するヘロデに人々がつけた「あだ名」なのです。エルサレム神殿から不正な商人たちを追い出し、神殿政治を担う指導者たちの不信仰と腐敗を激しく非難されたのです(マルコ11:15-16)。

*イエス様はご自身の死において初めて人間の「救い」がもたらされるとは考えておられなかったのです。ただ、イスラエルの民が「神の国」の福音を拒否したことにより新しい状況が生まれたのです。イエス様の十字架上の死を神様のご計画に定められた贖(あがな)いの犠牲とするだけでは「福音の全体」を説明したことにはならないのです。「神の国」は正義と愛を基本理念としているからです。貧しい人々や虐げられた人々の側に立って社会秩序の変革を求めるのです。イエス様はご自身の方から権力者たちを挑発するような言動をされたのです。イエス様の宣教活動は急進的であり、宗教的、政治的な権力者たちから迫害されることは必然だったのです。「神の国」の福音は本質的にこの世の権力たちと相容れないのです。エジプトの王ファラオ、ローマ皇帝が「神様の支配」に服従することはないのです。「神の国」の福音はローマ帝国の支配とユダヤ教の律法と鋭く対立したのです。民衆の多くはイエス様を熱烈に支持したのです。「神の国」の宣教活動がローマ帝国の平和を損なう要因になりかねないのです。ローマ帝国は支配下にある国や地域の民族解放闘争を決して容認しなかったのです。(事実、紀元後70年にローマ軍はエルサレムの町と神殿を完全に破壊するのです。)今、神殿政治(民族の自治)の存立が危ぶまれているのです。カイアファはユダヤ(特にエルサレム)の政治的安定に腐心するのです。イエス様を十字架刑に処するために民衆が動員されるのです。彼らはローマの総督ポンティオ・ピラトを脅迫するのです(ヨハネ19:12)。

2024年03月10日

「優先順位」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書12章13節から34節

群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんな(神様にとって)ごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの(もっと小さい)事まで思い悩むのか。野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」


(注)


・遺産相続: 律法によると遺産の内3分の2は兄に、3分の1は弟に配分されるのです。(申命記21:17)

・お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか:

■土を盛るように銀を積み/粘土を備えるように衣服を備えても、その備えた衣服は正しい人が着/その銀は潔白な(無実の)人の所有となる。家を建てても、巣のよう/番人の作る仮小屋のようなものだ。寝るときには豊かであっても、それが最後/目を開けば、もう何ひとつない。(ヨブ記27:16-19)


・ソロモン:神様はソロモンに「・・あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命を求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。・・」と言われて、知恵に満ちた賢明な心を与えられたのです。さらに、ソロモンが求めなかった富と栄光を加えられたのです。旧約聖書の列王記上3章をお読み下さい。


・神の国:イエス様の宣教の目的は「神の国」(天の国)の到来を証しすることです。神様の支配が地上の隅々に及ぶのです。政治、経済、社会における新しい秩序-正義と愛を基本とする人間関係-が実現するのです。

・からす:マタイでは鳥(とり)となっています。

・人間の命:野の草花と同じように儚(はかな)いのです。旧約聖書のヨブ記8:12-14、イザヤ書40:6-8を参照して下さい。

・小さな群れ:虐げられている人々の様子が詳細に描かれています(エゼキエル書34:11-31)。

・持ち物を売ること:貧しい人々に施しをすることはユダヤ人の信仰にとって重要なことでした。初代教会の信徒たちもそれを実践したのです。使徒言行録2:44-45に記述されています。

・1レプトン:最小の銅貨です。1デナリオン(当時の平均的労働者の一日分の賃金に相当)の128分の1の価値です。やもめの生活費は2レプトンだったのです。人々の貧しさを象徴しているのです。

(メッセージの要旨)

*有り余る物を持っている人には心配事がないように見えるのです。しかし、これらの人にも財産管理という悩みがあるのです。たとえ話に登場する金持ちは悪事を働いて蓄財したのではないのです。所有する畑から正当に収穫物を得たのです。富に執着する金持ちは自分のために穀物や財産を蓄える大きな倉を建てようとしているのです。神様は金持ちを愚か者と呼ばれたのです。富と命の両方が金持ちから取り上げられたのです。富はご自身の所有物であり、命もご自身の主権に属するものであることを宣言されたのです。人口の95%は貧しかったのです。イエス様は富と「救い」の関係について金持ちの青年の生き方を通して語っておられるのです(マタイ19:16-22)。貧しい人々に富を施すことは「永遠の命」に与るための必須の要件です。富への対応を誤れば「永遠の命」を失うことになるのです。一方、ほとんどの人は労働によって最低限必要な生活の糧を確保しているのです。将来に備える余剰のお金などないのです。人々は日々の生活に不安を覚えているのです。イエス様は「恐れるな。神様が養って下さる」と言われるのです。その上に立って「何よりもまず、神の国(神様の支配)と神の義(神様の正義)を求めなさい」と命じられたのです(マタイ6:33)。しかし、この世に生きている限り悩みがなくなることはないのです。困難に直面した時イエス様のお言葉を想起するのです。神様にすべてを委ねる人の心に平安が与えられるのです。不思議な力が内側から湧いて来るのです。イエス様は「優先順位」の大切さを再確認されたのです。

*神様はご自分にかたどって人間を造られました。彼らを祝福されたのです(創世記1:27—28)。土地所有者に「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である」と言われたのです(レビ記19:9-10)。イエス様は最も重要な戒めとして「神様と隣人を愛すること」を挙げておられます(マルコ12:28-34)。「神様の御心」に沿って生きることが義務付けられているのです。からすはパレスティナの地に多く見られました。旧約聖書にもたびたび登場します。預言者エリヤを養った鳥としても有名です(列王記上17:4-6)。からすは蒔きも刈り取りもしないのです。食べ物を貯蔵する納屋などはないのです。日々エサを探して命をつなぎ、与えられた時期に巣を作って雛を育てているのです。神様が養っておられるのです。何種類かのユリがパレスティナの地に咲いています。野の花は働きも紡ぎもしないのです。自らを美しく着飾って良い香りを漂(ただよ)わせているのです。ただ、命は短いのです。雑草と共に刈り取られるのです。ユダヤ人たちは土か鉄の窯(かま)を持っていました。乾燥した花の茎と雑草は燃料として使われたのです。被造物はそれぞれの役割を果たしているのです。人間も使命を遂行するのです。神様を信頼するのです。命を維持するために必要な物は必ず満たされるのです。


*信仰による「救い」が語られているのです。ところが、イエス様が宣教された「神の国」の根本理念-人間の全的な救い-に言及されることが極めて少ないのです。福音の範囲が「罪の赦し」に縮小されているのです。キリスト信仰とは悔い改めて「神の国」の到来を福音として信じることです。「神の国」においてはすべてのものが神様の支配下に置かれているのです。権力や富は勿論のこと、人間の死さえも例外ではないのです。「神の国」を欠いた信仰理解は土台のない家を建てることに似ています。洪水(試練)が来ればその家は押し流されるのです(マタイ7:24-29)。現実を直視するのです。富が偏在しているのです。多くの人が食べ物を得るために日々奔走(ほんそう)しているのです。金持ち(指導者)たちが肥え太り、貧しい人々はやせ衰えているのです。社会・経済制度の不備と神殿政治を担う祭司たちの腐敗と偽善が格差と矛盾を拡大させているのです。イエス様は荒れ野でサタン(悪魔)の誘惑を退けられました。弟子たちにも富-別名マモン(悪魔)-の誘惑と闘うことが求められているのです。神様と富の両方に仕えることは出来ないからです(マタイ6:24)。イエス様は神様の「正義と愛」を地上に実現するために、町や村を残らず回られたのです。「神の国」には貧しい人々や虐げられた人々が優先的に招き入れられるのです。イエス様は人々が飼い主のいない羊のように弱り果てているのをご覧になったのです。キリスト信仰とは福音に与るだけではないのです。自らが福音の担い手になることです(マタイ9:35-38)。


*キリスト信仰を標榜(ひょうぼう)する人々が自分たちの生活や「救い」に関心を寄せることは当然です。同時に「神様の御心」の実現に向けて責務を果たすのです。「神様と隣人を愛すること」に怠惰(たいだ)であってはならないのです。一人の貧しいやもめが神殿の賽銭箱にレプトン銀貨二枚を献金したのです。イエス様は誰よりもたくさん入れたと言われたのです(マルコ12:41-44)。この人は乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからです。神様への信頼が揺るぎないのです。神様は人を見えるところで判断されないのです。イエス様はご自身を「良い羊飼い」と呼ばれたのです(ヨハネ10:14)。直接群れを導き養って下さるのです。初代教会は財産や持ち物が神様に属することを理解していたのです。土地や家屋を売ったお金は集められ必要とする人々(隣人)に配分されたのです。信徒たちの中には貧しい人が一人もいなかったのです(使徒4:34-35)。信徒たちは「神様の栄光」を表すために財産を用いたのです。天上に富を蓄えたのです。金持ちたちは富に執着するのです。貪欲に増やそうとするのです。神様に富を少しでも委ねることに躊躇(ちゅうちょ)するのです。自分で財産を管理するのです。貧しい人々が生活の糧を隣人に分け与えることも簡単ではないのです。金額の多寡(たか)ではないのです。「神様の御心」に沿って生きているか否かが問われているのです。「神の国」の建設に参画する人々に「永遠の命」が与えられるのです。キリスト信仰の真髄(しんずい)はここにあるのです。

*神様は自己中心的な金持ちを厳しく罰せられました。富を貧しい人々に施すことができない人々は「神の国」に入れないのです。神様の富に対する厳しさが曖昧(あいまい)にされてはならないのです。一方、貧しい人々や虐げられた人々、病気を患っている人々にも様々な苦悩があるのです。貧しさや負債から解放され、肉体や精神の障害が癒されることを切望しているのです。イエス様は信徒たちの思いをご存じなのです。その上で「信仰の薄い者たち」と言って、信仰理解の誤りを正されるのです。すべてを神様に委ねることが信仰だからです。イエス様は「御名が崇められますように。・・わたしたちに必要な糧(かて)を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように」と祈るように教えられたのです(マタイ6:9-12)。これが「主の祈り」です。「個人的な祈り」として誤解され易いのですが、「集団的な祈り」なのです。先ず神様の名が崇められることを願うのです。神様の前で相互に助け合うことを約束するのです。順風満帆(じゅんぷうまんぱん)の時ばかりではないのです。生きている限り悩みの種は尽きないのです。「優先順位」を間違えることがあるのです。その時は悔い改めて信仰の原点に戻るのです。「神の国」の福音に感謝するのです。イエス様の御跡を辿(たど)るのです。「神様と隣人」を愛して生きるのです。苦難に喘(あえ)いでいる人々のために持っている物-財産、地位、名誉など-を用いるのです。神様はこのような人々を必ず祝福して下さるのです。

2024年03月03日

「洗足の意味」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書13章1節から20節

さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。

さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

(注)

・過越祭:ユダヤ教の三大祭りの一つです。イスラエルの民がエジプトの奴隷から解放された出来事を記念する重要な祭りです。出エジプト記12:1-13:16をお読み下さい。他の二つは七週祭と仮庵祭です。

・最高法院:ユダヤ民族の宗教的、社会的意志を決定する最高の機関です。律法機関と裁判所を兼ねていました。大祭司を中心に、祭司たちと祭司の家系の長老たち、民の長老たち、律法学者たちの71人で構成されています。

・わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった:詩編41:10の引用です。

・わたしはある:神様の顕現(けんげん)を表現しています。出エジプト記3:14を参照して下さい。

・ユダヤ人の埋葬(まいそう):香油を体に塗(ぬ)ることが含まれています(ルカ23:56)。

・ベタニヤ:エルサレムからおよそ2.8kmのところにあります。

・1リトラ:約340グラムです。

・1デナリオン:当時の平均的労働者の一日分の賃金に相当しています。三百デナリオンはかなりの金額です。

・子供:貧しい人々、虐(しいた)げられた人々のことです。

(メッセージの要旨)

*イエス様は宣教活動の最終地としてエルサレムを選ばれたのです。その前に近くのベタニヤの村でラザロを墓から呼び出して、死者の中から蘇(よみがえ)らしておられるのです。これを聞いていた群衆は熱狂してイエス様を出迎えたのです。大祭司は対応するために最高法院を招集したのです。祭司長たちやファリサイ派の人々は「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」と不安を口にしたのです(ヨハネ11:48)。イエス様を殺すことが決定されたのです。逮捕するための命令が出されたのです。イエス様はご自身がこの世から神様の下へ帰る時が来たことを悟られたのです。イエス様はこれまでもキリスト信仰の真髄(しんずい)を語られました。言葉だけではなく「力ある業」によって証しされたのです。もうすぐこの世を去られるのです。最後に模範を示されたのです・それが「洗足」です。二つの意味があるのです。一つはイエス様に繋がっていることです。ぶどうの枝はぶどうの木に繋がっていなければ枯れるのです(ヨハネ15:1-6)。サタンに誘惑されたイスカリオテのユダはイエス様を裏切ろうとしているのです。不幸な死を遂(と)げることになるのです。二つ目は評価の低い仕事を担うことです。イエス様は「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われたのです(ヨハネ15:12-13)。十字架刑の死によって証明されたのです。

*「洗足」の慣習は古代から受け継がれているのです。招いた客が家に入る時に行われました。履物が擦り切れた場合に両足は土で汚れたからです。創世記に「目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、言った。『お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください』」と記述されています(18:2-4)。祭司たちには聖所に入る前に足を洗うことが義務付けられていたのです。「洗盤を臨在の幕屋と祭壇の間に据え、それに清めの水を入れた。その水でモーセ、アロンおよびその子らは、自分の手足を清めた。彼らが臨在の幕屋に入るとき、あるいは、祭壇に献げ物をささげるときは、水で清めるのを常とした。主がモーセに命じられたとおりであった」(出エジプト記40:30-32)。社会的地位のある人々の家では奴隷が来客の履物のひもを解いて足を洗うために入口で立っていたのです。洗礼者ヨハネはイエス様が「神の子」であることを強調するために、群衆に「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と言ったのです(ルカ3:16)。また、特別な客の「洗足」には水ではなく、高価な香油が用いられたのです。初代教会において「洗足」は謙遜の徴(しるし)として実行されたのです(1テモテ5:10)。

*イエス様は公然とユダヤ人たちの間を歩けなくなっていたのです。命の危険が迫っているのです。緊迫した状況の中で「洗足」は行われたのです。イエス様は模範を示されたのです。ところが、二人の女性がイエス様の教えをすでに実行しているのです。一人はイエス様と交流のあったマリア、もう一人は罪深い女性です。イエス様はベタニヤにあるマルタ、マリア、ラザロの家を訪問されたのです。三人はイエス様が逮捕されることを恐れていたのです。重苦しい雰囲気が漂(ただよ)っていたことが推測されるのです。イエス様のために夕食が用意されました。マルタが給仕をしていたのです。マリアは純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持ってきて、イエス様の足に塗り、自分の髪でその足をぬぐったのです。イスカリオテのユダが見せかけの信仰心から「香油を三百デナリオンで売って貧しい人々に施さなかったのか」とマリアを叱責(しっせき)したのです。イエス様はユダの悪業を見抜いておられました。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬(ほうむ)りのためにそれを取っておいたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」と言われたのです(ヨハネ12:1-8)。イエス様はご自身の死が近いことを暗示されたのです。特別な人の「洗足」には香油が用いられたのです。マリアたちも慣習に従ったのです。イエス様のラザロに対する「力ある業」に感謝していたからです。意図は別にして、後の十字架刑による死を見ればイエス様の埋葬を準備したことになったのです。

*もう一人イエス様の足を洗った女性がいたのです。その人は罪深い女性と呼ばれていました。イエス様は対立しているファリサイ派のシモンの家に行かれたのです。おそらく、会堂の礼拝が終わった後に食事に招かれたのです。招かれていない人々がその場に居合わせることは珍しいことではないのです。その内の一人が誰もが知っている罪深い女性だったのです。席に着いている人々は今日のように椅子に座らなかったのです。カウチ(簡易ベッド)の上に横たわり、足を延ばして食事をしたのです。女性は容易にイエス様に近づくことが出来たのです。信仰を誇る社会的地位の高い男性の中へ女性が一人で入って行くことなど考えられないことです。女性は香油を塗るために勇気を奮ってイエス様の足元に向かったのです。罪の重荷に苦しんで泣いていたのです。イエス様の足を涙で濡らし、自分の髪の毛でぬぐい、接吻して、高価な香油を塗ったのです。イエス様は罪深い女性の振る舞いを拒絶しなかったのです。シモンはイエス様の預言者としての資質に疑問を抱いたのです。イエス様はシモンに「わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかった」と言われたのです。ご自身に対する不信仰を指摘されたのです。「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」と言われたのです。罪深い女の人には「あなたの罪は赦された」と宣言されたのです(ルカ7:36-50)。男性中心の家父長社会において蔑まれていた女性が「行い」によって「救い」に与ったのです。

*イエス様の足を洗ったのはいずれも女性なのです。使徒たちはその事実をすでに見ているのです。ある時、弟子たちは誰が一番偉いかについて論じあっていたのです。イエス様は一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」と言われたのです(マタイ18:3-4)。仕えることこそ「神様の御心」に適(かな)っているのです。イエス様は最後の晩餐において弟子たちの足を洗われたのです。ご自身の死が及ぼす人間の罪の清めを象徴しているのです。同時に、隣人への愛は「救い」にとって不可欠な要素であることが明らかになったのです。使徒たちにとってもイエス様の命令を実行する時が来たのです。へりくだることの大切さを言葉で理解するだけではなく「行い」によって具体化するのです。イスカリオテのユダはイエス様に足を洗っていただいた後に引き返すことも出来たのです。しかし、サタンと共に歩むことを決断したのです。イエス様は何度もご自分の死と復活について予告しておられるのです(マルコ9:31)。弟子たちにも覚悟を求められたのです(マタイ8:18-22)。イエス様は残していく使徒たちに最も重要な戒めを教えられたのです。キリスト信仰とは「神様の御心」に沿って生きることです。イエス様はユダヤ教の慣習に反して罪人や女性たちを弟子にされたのです(ルカ8:1-3)。ご自身に倣(なら)うように命じられたのです。

2024年02月25日

「二人の金持ち」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書18章18節から30節及び19章1節から10節

ある議員(権力者)がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると議員(権力者)は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。イエスは、議員(権力者)が非常に悲しむのを見て、言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。するとペトロが、「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」

・・・・・・・・・・・

イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

(注)

・議員:支配者あるいは権力者と訳すべき言葉です。日本語訳はイエス様の真意を曖昧(あいまい)にしているのです。

・エリコ:エルサレムから高度差およそ1,000m下り、約28km離れた所にある町です。

・神の国(天の国):神様の主権、神様の支配のことです。死後に行く「天国」のことではありません。

・永遠の命:神様によって来たるべき時に新しく創造されることです。ダニエル書12:2を参照して下さい。

・捨てる:日本語訳では非情な響きを与えますが、「神様に委ねること」です。

・正義と愛:

■アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。(創世記18:18-19)

■あなた(たち)は寄留者を虐げてはならない。あなたたちは寄留者の気持を知っている。あなたたちは、エジプトの国で寄留者であったからである。あなた(たち)は六年の間、自分の土地に種を蒔き、産物を取り入れなさい。しかし、七年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない。あなた(たち)の民の乏しい者(たち)が食べ、残りを野の獣に食べさせるがよい。ぶどう畑、オリーブ畑の場合も同じようにしなければならない。(出エジプト記23:9-11)

■同胞であれ、あなた(たち)の国であなた(たち)の町に寄留している者(たち)であれ、貧しく乏しい雇い人(たち)を搾取してはならない。賃金はその日のうちに、日没前に支払わねばならない。彼(ら)は貧しく、その賃金を当てにしているからである。彼(ら)があなた(たち)を主に訴えて、罪を負うことがないようにしなさい。(申命記24:14-15)

■主は裁きに臨まれる/民の長老、支配者らに対して。「お前たちはわたしのぶどう畑を食い尽くし/貧しい者(たち)から奪って家を満たした。何故、お前たちはわたしの民を打ち砕き/貧しい者(たち)の顔を臼でひきつぶしたのか」と/主なる万軍の神は言われる。(イザヤ書3:14-15)

■災いだ、恵みの業を行わず自分の宮殿を/正義を行わずに高殿を建て/同胞をただで働かせ/賃金を払わない者は。・・あなたの目も心も不当な利益を追い求め/無実の人の血を流し、虐げと圧制を行っている。(エレミヤ書22:13,17)

■このことを聞け。貧しい者(たち)を踏みつけ/苦しむ農民(たち)を押さえつける者たちよ。お前たちは言う。「新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。(アモス書8:4-5)

■災いだ、寝床の上で悪をたくらみ/悪事を謀る者(たち)は。夜明けとともに、彼らはそれを行う。力をその手に持っているからだ。彼らは貪欲に畑を奪い、家々を取り上げる。住人(たち)から家(々)を、人々から(彼らの)嗣業を強奪する。(ミカ書2:1-2)

(メッセージの要旨)

*イエス様はメッセージの中心に正義と愛を据えられました。旧約聖書が伝える律法を大切にされたのです(マタイ5:17-20)。律法には三つの目的があります。第一は制度が生み出す様々な弊害を最小限にすること、第二は人々を対立させている貧富の差をこれ以上拡大させないこと、第三は金持ちや権力者たちの搾取から貧しい人々や虐げられている人々を守ることです。イエス様はそれらを再解釈されたのです。ユダヤ人たちの信仰の原点は「出エジプト」の出来事にありました。神様がヘブライ人たち(イスラエルの民)をエジプトの圧政と搾取から解放されたからです。人々はエジプトと同じような罪を犯せば、神様から厳しい罰が下ることを知っているのです(ルカ1:51-52)。議員 たちは既得権益を享受しているのです。貧しい人々を犠牲にして富を蓄積しているのです。すべての財産を自分のために使っているのです(ルカ12:16-21)。エルサレム神殿では有り余るほどの中から多額の献金をしているのです(マルコ12:41)。一方、貧しい人々は借金返済のために担保の土地を奪われ、長時間労働と低賃金によって健康を害し、最低生活を維持するために日々奔走(ほんそう)しているのです。人々の貧しさの主たる原因は議員たちの搾取と強欲にあるのです。同時に、社会・政治・経済システムが議員たちと貧しい人々を再生産しているのです。イエス様は信仰と行いの矛盾に苦しんでいるこの議員に律法を厳格に守るように指示されたのです。しかし、この世に執着したのです。徴税人ザアカイは悔い改めて「救い」に与ったのです。

*二人の対照的な金持ちが登場します。一人は神様の戒めを守り、信仰の篤い人として人々から尊敬されている議員です。もう一人は徴税人の頭です。ローマ帝国に協力する罪人として社会から排斥されていたのです。前者は社会的地位の高い権力者ですが、どうしても「永遠の命」の確信を得られないのです。死の恐怖に怯(おび)えているのです。評判を聞いていたイエス様に解決方法を尋ねたのです。イエス様は十戒(出エジプト記20:1-17)の一部を引用して、それらを実行しなさいと言われたのです。議員は誇らしげに「子供の時から守っています」と答えたのです。しかし、イエス様は「あなたにかけているものがまだ一つある」と言われたのです。律法の重要な規定を守っていないことが指摘されたのです。貧しい人々に財産の一部または全部を施すという義務を怠っていたのです。議員は律法に精通しているのです。それを実行しているのです。しかし、自分にとって不都合な個所を除外していることが明らかになったのです。イエス様は「永遠の命」に至る道を示されたのです。「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と言われたのです。議員に不信仰と偽善を悔い改めることが求められたのです。神様を信頼することから始めるのです。お預かりしている大切な物(富)をお返しするのです。議員は大きな決断を迫られたのです。しかし、イエス様と共に歩まなかったのです。この世に執着したからです。自ら「神の国」に入る道を閉ざしたのです。

*徴税人たちはローマ帝国に協力して自国の民から税金を徴収し上納していました。見返りとして自分たちのために追加の税を取り立てる権限が与えられていたのです。ユダヤ人たちは過酷な税に喘(あえ)いでいたのです。徴税人たちを裏切り者、罪人として軽蔑したのです。交際することもなかったのです。ザアカイは徴税人たちを束ねる頭です。民衆の犠牲の上に富を築いている代表的人物の一人です。イエス様の評判はこの人にも伝わっていたのです。心の中に信仰心が芽生えていたのです。興味を持っていたイエス様を一目見ようとして木に登ったのです。ところが、イエス様の方からザアカイに声をかけ、家に泊りたいと言われたのです。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)にイエス様が徴税人や罪人たちと食事をされている様子が記されています。マルコ2:13-17が一例です。しかし、初対面の人に宿泊を申し出られた記事はどこにも見当たらないのです。ザアカイは喜んでイエス様を迎えたのです。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と言ったのです。これまでの生き方を悔い改めたのです。自分の意志によって財産の半分を貧しい人々に施すことにするのです。不正な手段によって富を得ていた場合は律法の規定に従って償うことにするのです(出エジプト記21:37)。イエス様は「今日、救いがこの家を訪れた」と言われたのです。ザアカイは「神様の御心」に適(かな)った「行い」によって罪を赦されたのです。「永遠の命」に与ったのです。


*イエス様は弟子たちに「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と言われました(マタイ5:48)。ところが、信仰を自負する人々は遵守すべき戒めの範囲を恣意的に狭めるのです。貧しい人々や虐げられた人々への無関心は罪ではないのです。イエス様はこれらの人に心を砕かれたのです。山上の説教(マタイ5-7)や平地の説教(ルカ6:17-49)に詳述されているのです。隣人を自分のように愛することは「永遠の命」に与るための必須の要件なのです。聖書に依拠することを表明しながらイエス様のお言葉を軽んじてはならないのです。議員のようにイエス様の教えを実行しなければ「神の国」に入れないのです。人は誰でも罪を犯すのです。イエス様は姦淫の罪に怯(おび)える女性を憐れまれたのです。「わたしもあなたを罪に定めない。・・これからは、もう罪を犯してはならない」と言われたのです(ヨハネ8:1-11)。放蕩息子は罪を悔いて父親の下へ帰ったのです。父親は息子の過去を非難しなかったのです。「死んでいたのに生き返った」と喜んで祝宴を開いたのです(ルカ15:11-24)。徴税人は神殿に上ったのです。罪の重荷に苦しんでいたからです。目を天に向けることもなく「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈ったのです。イエス様はこの人の罪が赦されたことを明言されたのです(ルカ18:9-14)。神様は罪人たちがご自身の下へ返って来ることを待っておられるのです。キリスト信仰とは信じることではないのです。イエス様に従って生きることなのです。


*イエス様は山上の説教において「神の国と富とに仕えることは出来ない」と言われました(マタイ6:24)。お言葉は弟子であるかどうかの判断基準になっているのです。「永遠の命」の要件があまりにも厳しいので弟子たちは「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言ったのです。弟子たちの率直な気持ちが表れているのです。自分たちに議員と同じような弱さがあることを自覚しているのです。イエス様は彼らを見つめて「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」と言われたのです。イエス様は弟子たちに譲歩して基準を緩和されることはなかったのです。全能の神様がすべての困難を取り除いて下さるからです。信仰の先駆者の中には福音宣教のために愛する家族と別れた人、家や畑を残して来た人がおられるのです。命を捧げられた方も一人や二人ではないのです。これらの方は悩みに悩んで決断されたのです。神様は「捨てる勇気」を与えられたのです。適切な時期にその労苦に報いて下さるのです。イエス様のお言葉はまことに厳しいのです。今日のキリストの信徒たちの中に「それでは、だれが救われるのだろうか」と言う方がおられるかも知れません。キリスト信仰は安価な恵みではないのです。神様は逡巡する信徒たちに困難な道へ踏み出す決断と力を与えて下さのです。父親の言いつけを拒否した兄は後に考え直したのです(マタイ21:28-29)。「神様の御心」に相応しい生き方を始めたのです。イエス様はザアカイのような信徒たちを待っておられるのです。「神の国」に迎え入れて下さるのです。

2024年02月18日

「人間の全的な救い」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書11章17節から44節

さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

(注)

・十五スタディオン:1スタディオンは約185メートルです。およそ2.8kmの距離になります。

・イエス様の憤り: 「死」が人間を支配していることに怒られたのです。イエス様は温厚なお方として語られることが多いのです。恣意的に作られたイメ―ジは読者に「福音の本質」を誤って伝えることになるのです。イエス様は「祈りの家」と呼ばれる神殿を強盗の巣にした商人たちを実力で追い出されたのです(ルカ19:45-48)。他にも厳しい口調で語っておられるのです。マタイ9:30、マルコ1:43などが挙げられます。イエス様の実像を正確に理解することが大切です。

・ユダヤ人の葬儀:死んだ日に遺体の埋葬も行われたのです。葬儀は七日間続いたのです。

・ナイン:ナザレの近くにある村です。


・死について:

■死の縄がからみつき/奈落の激流がわたしをおののかせ  陰府の縄がめぐり/死の網が仕掛けられている。(詩編18:5-6)

■あなたの死者が命を得/わたしのしかばねが立ち上がりますように。塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光の露。あなたは死霊の地にそれを降らせられます。(イザヤ書26:19)

■神は・・彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。(ヨハネ黙示録21:4) 

・裁きについて:

■見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。(ヨハネの黙示録22:12-15)

・復活について:

イエス様は復活を否定するサドカイ派の人々に「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている」と言われまたのです(マルコ12:24-27)。モーセの書の『柴』の個所については出エジプト記3:6、15-16を参照して下さい。


(メッセージの要旨)

*イエス様は洗礼者ヨハネが捕らえられた後ガリラヤへ行き「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って、宣教を開始されたのです(マルコ1:15)。「神の国」(天の国)は誤解されているような死後に行く「天国」のことではないのです。「神様の支配」を表しているのです。地上の出来事に焦点を当てる言葉なのです。キリスト信仰とは「神の国」の到来を福音(良い知らせ)として信じることなのです。神様はこの世を終わらせ「新しい天地」を創造されるのです。「主権」がご自身に属することをイエス様によって語り、証明されたのです。「救い」はすべての被造物に届けられるのです。罪の重荷に苦しんでいる人々、権力者たちの腐敗や不公正が蔓延(はびこ)る政治・経済・社会の変革に取り組んでいる人々、死の恐怖に怯(おび)えている人々に及ぶのです。「神の国」の到来は罪と死の力に対する決定的な勝利を予告しているのです。神様はしかるべき時に人間の「全的な救い」を完成して下さるのです。マルタはイザヤの預言「主は・・死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。・・」(イザヤ書25:7-8)を死後に起こる出来事として理解していたのです。ところが、イエス様は最後の敵である「死」の支配をご自身の権能によって一時的に停止されたのです。「永遠の命」の希望に生きる人々に「復活の約束」が真実であることを示されたのです。イエス様は終わりの日に先立って遣わされた「命の与え主」なのです(ヨハネ5:21)。

*イエス様がマルタとマリアから知らせを受けてベタニヤに着いた時にはラザロは死んで既に四日経っていました(ヨハネ11:1-6)。これは単に経過した日数の問題ではないのです。重要な意味が隠されているのです。ユダヤ人の間に死んだ人の魂は三日間肉体に戻ろうとして周りを彷徨(さまよ)い、肉体の腐敗が始まると魂は離れて行くという信仰があったのです。福音書記者ヨハネはラザロが確実に死んだこと、イエス様の「力ある業」が心肺停止の状態から再び生命を取り戻す蘇生ではないことを知らせているのです。イエス様は他にも死者を生き返らせておられます。会堂長ヤイロの幼い娘(マルコ5:21-43)やナインのやもめの息子(ルカ7:11-17)です。イエス様はご自身が復活であり命であると言われるのです。それはイエス様の復活という出来事を通して基礎づけられるのですが事前に見せて下さったのです。「永遠の命」は神様に願い出て得られる贈り物ではないのです。イエス様との結びつきを通して「この世」において与ることなのです。イエス様の弟子たちが「肉体の死」を経験しないことではないのです。死を越えて約束されているということなのです。イエス様を「救い主」と信じる人々は「死の支配」から解放されているのです。「永遠の命」の確信において生きることが出来るのです。マルタの信仰理解のように「永遠の命」に与るために「この世」の終わりを待つ必要はないのです。イエス様は「神様は死んだ者の神様ではなく、生きている者の神様である」と言われるのです。神様は私たちと共におられるのです。

*信仰深いマルタやマリアであっても「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言っているのです。イエス様を非難しているようにも聞こえるのです。死が人々を深く悲しませていることの証左なのです。しかし、この言葉は「神様はイエス様を通して働いて下さる」という信頼に基づいているのです。むしろ、イエス様への信仰が揺るぎないことを語っているのです。死者が復活することを信じている人々であってもラザロの死に泣いているのです。これらの人はラザロが「永遠の命」に与っていることを喜ぶよりも、彼の「現在の死」を悲しんでいるのです。愛する人の死という現実が人々の信仰の確信を圧倒しているのです。イエス様はラザロを愛した人々がこれほどまでに苦しむ姿を見て、人間を支配している「死」に憤(いきどお)られたのです。ご自身も愛されたラザロの死に涙を流されたのです。福音書の中でも感情を露(あらわ)にされた数少ない例なのです。イエス様の涙はラザロへの同情に留まらないのです。心の底から湧き上がる「死」に対する怒りの表れなのです。人々の信仰を確かなものにするために「力ある業」を実行されたのです。イエス様は神様に祈られた後ラザロを大声で呼ばれたのです。死んでいた人が蘇って墓から出て来たのです。人々はラザロを巻いていた布や覆いをほどいてお互いに言葉も交わしたのです。ラザロの復活は終わりの日の復活の先取りなのです。「神の国」の福音を証明する出来事なのです。イエス様のなさったことを目撃したユダヤ人の多くはイエス様を信じたのです。

*イエス様は「救い」(癒し)を語られるだけでなく、可視化されたのです。ご自身を「光」であると言われただけではなく、生まれつきの盲人を見えるようにされたのです(ヨハネ9:1-12)。「わたしは復活であり、命である」と言われただけでなく、死んだラザロに再び「命」を与えられたのです。ラザロの復活は、後に起こるイエス様の十字架上の死からの復活を予想させる十分な根拠となっているのです。ところが、死者の復活がすべての人に「神様の御力」と出来事の信ぴょう性を納得させるとは限らないのです。ベタニアに来た弔問客の中には親戚や友人がたくさんいました。彼らは葬儀に参列してラザロの死を確認しているのです。一方、ラザロの復活にも遭遇しているのです。ところが、イエス様への信仰を拒否する人々がいるのです。イエス様は不信仰な人々を救うために譲歩して「わたしを信じなくても、その業を信じなさい」と言われたのです(ヨハネ10:38)。ご自身の復活を疑う12弟子の一人トマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人(人々)は、幸いである」と言われたのです(ヨハネ20:29)。父祖アブラハムも「もし、モーセと預言者(たち)に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があってもその言うことを聞き入れはしないだろう」と言うのです (ルカ16:19-31)。神様が召命されたモーセと預言者たち、神様が遣わされたイエス様への応答が運命を決定するのです。「永遠の命」に通じる門は狭く、その道も細いのです(マタイ7:14)。ただ、謙虚に探せば直ぐに見つかるのです。

*ラザロは病気で死んでいるのです。しかし、人が死ぬ理由は様々です。自然死があれば殺されることもあるのです。神様が与えられた大切な「命」が人間によって簡単に奪われているのです。日常茶飯事のように殺人事件が報道されているのです。親が虐待して子供の命を奪い、子供が親を殺しているのです。最も愛情に満ちた家族の関係が憎しみによって破壊されているのです。人間の死が人為的に起こされているのです。人間にとって殺人が特別のことではなくなっているのです。人の命を奪うことに対する罰への恐れが希薄になっているのです。「命」の与え主である神様が軽んじられているのです。国連の報告によると、変わりゆく世界情勢の中で日本の人口と同じ数の人が故郷を追われているのです。この瞬間も苦しい避難生活を強いられているのです。今年も無事に冬を乗り越えられるであろうかと危惧しているのです。戦争による攻撃や貧困、食料不足に必死に耐えているのです。過酷な冬は難民、国内難民を命の危険に晒(さら)しているのです。ロシアによるウクライナ侵攻は3年目を迎えようとしているのです。双方で何十万人の兵士や民間人が死傷しているのです。イスラエルとハマスの戦闘によって二万数千人の命が奪われているのです。多くの人が犠牲になっているのです。心から憤りを覚えるのです。ロシアのプ-チン大統領を厳しく罰して下さい、中東に平和を実現して下さいと切に祈るのです。イエス様は権力者たちから命を狙われているのです。ご自身の方から「神の国」の完成のために苦難が待っているエルサレムへ向かわれたのです。

2024年02月11日