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「悪霊との闘い」

Bible Reading (聖書の個所)

「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊(たち)に対する権能(を支配する権限)をお授けになった。汚れた霊(たち)を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。・・イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人(たち)の道に行ってはならない。また、サマリア人(たち)の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊(たち)のところへ行きなさい。行って、『天の国(神の国)は近づいた』と(言って福音を)宣べ伝えなさい。病人(たち)をいやし、死者(たち)を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人(人々)を清くし、悪霊(たち)を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」(マタイ10:1-15)

イエスはそこ(ガリラヤ湖の西北岸)を立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑(くず)はいただきます。」そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。(マルコ7:24-30)

(注)

・汚れた霊:悪霊のことです。当時、あらゆる病気や患いの原因であると考えられていました。ファリサイ派の人々はイエス様の癒しの業を貶(おとし)めるために「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言ったのです。(マタイ9:32-34)

・サタン:元々は神様の命に従って活動する天使です。「告発する者」と呼ばれています。悪霊の頭です。ベルゼブルはサタンの別名です。

■ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢(むく)な正しい人で、神を畏(おそ)れ、悪を避けて生きている。」サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪(のろ)うにちがいありません。」主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。(ヨブ記1:6-12)

・サタンの誘惑:宣教を開始される前のイエス様に挑戦しています。

■すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。(マタイ4:3-11)

・サタンの追放:

■さて、天で戦いが起こった。ミカエル(大天使)とその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。(ヨハネの黙示録12:7-9)


・12使徒:ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネは漁師でした(マタイ4:18-22)。フィリポはイエス様から「わたしを見た者は、父を見たのだ」と叱責されました(ヨハネ14:8-9)。トマスはイエス様が「神様であること」を明言しました(ヨハネ20:24-29)。マタイはローマ帝国の税の取り立てに協力する徴税人でした(マタイ9:9-13)。もう一人のシモンはローマ帝国の支配に武力で抵抗する熱心党に属していました。イスカリオテのユダは祭司長たちからお金をもらってイエス様を裏切りました(マルコ14:10-11)。バルトロマイ、アルファイの子ヤコブとタダイの詳細は不明です。

 

・72人の派遣:その後、イエス様はご自分が行くつもりの町や村に二人ずつ先に遣わされました。

 

■七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ10:17-20)

・異邦人宣教:マタイ8:5-13,15:21-28,28:19-20に記述されています。

 

・サマリア宣教:ヨハネ4、ルカ9:51をお読みください。

 

・イスラエルの家の失われた羊:牧者と羊の関係を表しています。民数記27:16-17、イザヤ書40:11、エゼキエル書34:1-6を参照して下さい。

・天の国:神の国とも言います。神様の支配を表す言葉です。天上と地上において神様が神様として崇(あが)められることです。

・家:教会を兼ねている家もあったのです。イエス様は「家」を宣教の拠点とされていました(マルコ3:20)。

・足の埃を払い落とすこと:強い拒絶反応を表す行動です。

・ソドムとゴモラ:いずれも不信仰の町です。創世記18ー19に登場します。

・サマリア、シリア、ガリラヤ、ゲラサ、エルサレム、ユダヤについては聖書地図を参照して下さい。

・ティルス:ガリラヤの西北に位置しています。ほとんどの住民が異邦人です。ユダヤ人たちから蔑(さげす)まれていました。エゼキエル書26:1-28:19を参照して下さい。

・ひれ伏す:イエス様を「神の子」として認めていることです。

・ギリシア人:一般的には異邦人を指しています。この場合、民族(国籍)としてはシリア・フェニキア人を表しています。

・子供たち:イスラエルの人々(ユダヤ人たち)です。

・子犬たち:犬はユダヤ人たちにとって汚れた動物です。異邦人たちに対する極めて非礼な言葉です。

・サタンがペトロを一時的に支配することがあったのです。

■それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。(マルコ8:31-33)

■「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」(ルカ22:31-34)

(メッセージの要旨)

*イエス様は「わたしは、サタンが稲妻(いなずま)のように天から落ちるのを見(てい)た」と言われました。「神様の御心」が天上で実行されているのです。神様は地上においてもご意思を貫かれるのです。それが、イエス様を通して証しされた「神の国」の到来なのです。すでに、神様は天上と地上において勝利を宣言されたのです。ところが、汚れた霊たち(サタン)は人間を一時的にでも何とか支配しようとしているのです。汚れた霊たちはイエス様を見れば自分たちの方から話しかけるのです。彼らの中には自分の名前を持っている悪霊もいるのです。イエス様が悪霊を追い出しておられると、人々の中には「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者たちもいたのです。イエス様は彼らに「わたしは神の指で悪霊を追い出している」と反論されたのです(ルカ11:14-20)。後の話ですが、パウロがエフェソ(現在のトルコ)で宣教していた頃、悪霊がイエス様の名前によって自分を追い出そうとするユダヤ人祈祷師(きとうし)たちに「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ」と言って、彼らをひどい目に遭わせたこともあったのです(使徒19:11-16)。結果として、イエス様の名が大いに崇(あが)められるようになったのです。しばらくはこの世の支配者であるサタンとの闘いが続くのです。その際、キリストの信徒たちの信仰が常に問われることになるのです。ティルスの母親が示したようなイエス様への揺るぎない信頼が闘いを勝利に導くのです。

*イエス様は洗礼者ヨハネが捕らえられた後、ガリラヤへ行き「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って宣教を開始されました。いよいよ「神様の支配」が実現するのです。イエス様を通してその事実が人々に見えるようになるのです。先ず、シモン(ペトロ)、アンデレ、ヤコブ、ヨハネを弟子とし、ガリラヤ湖畔の町カファルナウムの会堂で安息日に教え始められたのです。人々は律法を引用するのではなく、ご自身を主語とする教え方に驚いたのです。そのとき、会堂にいた汚れた霊に取りつかれた男が叫んだのです。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエス様が「黙れ。この人から出て行け」とお叱(しか)りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行ったのです。人々は「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚(けが)れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエス様の評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々に広まったのです。夕方になって日が沈むと(安息日が終わると)、町中の人が病人たちや悪霊に取りつかれた人たちを連れて来ました。イエス様は彼らを癒されたのです(マルコ1:14-34)。最も古いマルコ福音書は16章です。他の福音書と比べても短いのです。イエス様の悪霊払いを四例も取り上げているのです。最初に「復活の主」に出会ったマグダラのマリアは七つの悪霊を追い出していただいた女性です(マルコ16:9)。人々は悪霊に苦しめられていたのです。

*イエス様は弟子たちの中から12人を選んで使徒として各地方に派遣されました。その際、汚れた霊に対する権能をお授(さず)けになられたのです。「神の国」の宣教活動の中には悪霊払いという重要な使命がありました。多くの人が悪霊に悩まされているという厳しい現実があったからです。イエス様の一行がガリラヤ湖の東側にあるゲラサ(ガダラ)地方に着きました。汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来てひれ伏したのです。イエス様がこの人から出て行けと言われると、汚れた霊は「いと高き神の子イエス・・苦しめないでほしい」と大声で叫んだのです。この霊には「レギオン」(大勢)という名前がありました。イエス様は彼らの希望通りに豚に乗り移らせました。豚の群れは崖(がけ)から落ちて湖の中でおぼれ死んだのです。汚れた霊に取りつかれていた人は正気に戻り、イエス様に従いたいと願い出たのです。しかし、イエス様は主があなたを憐れんで下さったことを身内の人々や地元の人たちに証ししなさいと言われたのです。この人は直ちにそれを実行したのです(マルコ5:1-20)。カファルナウムの会堂にいた汚れた霊もゲラサの「レギオン」もイエス様を見て自分たちの方から語りかけているのです。早かれ遅かれ滅ぼされることを承知しているのです。イエス様のお名前を使うと汚れた霊たちは屈服するのです。サタンはすでに天から追放されているのです。イエス様は「・・あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と励まして下さるのです(ヨハネ16:33)。

*一方、イエス様は悪霊に取りつかれた子供たちの癒しについては悪霊と直接言葉を交わされることはなかったのです。親の信仰を重視されるのです。地中海沿岸の町ティルスにも悪霊に苦しめられている異邦人の幼い女の子がいました。母親は幼い娘のことを心配していましたが、有効な治療方法は見つからなかったのです。ある時、母親はイエス様が近くに来られたことを聞きつけたのです。すでに、彼女はイエス様の評判を知っていました。藁(わら)をもつかむ思いでイエス様のもとへ駆けつけたのです。ところが、イエス様は母親の申し出をすぐには受け入れられませんでした。「悔い改め」が必要な同胞への宣教を優先されるのです。「神様の祝福は他の民族(異邦人たち)よりもユダヤ人たちに優先的に与えられるという祖先への約束」を表現した諺(ことわざ)を用いて、母親の信仰心を確かめられたのです。彼女はユダヤ人たちの優越性を認めた上で、恵みの極一部を異邦人の娘にも分けて下さるようにと懇願したのです。母親の言葉は謙虚とか遠慮と言うようなものではないのです。イエス様への絶対的な信頼を表明しているのです。彼女はイエス様が誰にでも癒しの業を実施して下さることを信仰によって確信していたからです。マタイの並行個所では、イエス様は「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように」と言われたのです(マタイ15:28)。その時、悪霊は幼い娘から追い出されたのです。母親は家に帰ってその事実を確認したのです。先ず、イエス様を信じることから始めるのです。そうすれば願いは叶えられるのです。

*汚れた霊に苦しめられている(恐らくてんかん症状のある)息子を持つユダヤ人の父親がイエス様に助けを求めてやって来ました。汚れた霊はイエス様を見るとすぐにその子をひきつけさせたのです。その子は地面に倒れ、転び回って泡(あわ)を吹いたのです。幼い時から今日に至るまで息子の病状は少しも改善しませんでした。汚れた霊が息子の命を危うくすることも度々あったのです。父親はイエス様の弟子たちに癒していただこうとしたのですが、彼らには出来なかったのです。イエス様に出会った父親はわずかな望みを抱いて「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助け下さい」と申し出たのです。イエス様は「おできになるなら・・」と言った父親の不信仰を叱責(しっせき)されたのです。「信じる者には何でもできること」を明言されたのです。父親は自分の不信仰を悔いたのです。「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい」と再度訴えたのです。イエス様は汚れた霊に「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな」と命じられたのです。すると、汚れた霊は叫び声をあげ、ひどくひきつけさせて息子から出て行ったのです(マルコ9:14-27)。イエス様から指示されると彼らは黙って従うのではないのです。人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行くのです。汚れた霊たちは抵抗するのです。しかし、最終的に人間に対する支配を放棄するのです。悪霊であれ、他の誰であれ「神の国」の福音を妨げることは出来ないのです。イエス様を信じて悪霊と闘うのです。

2025年06月15日

「わたしの言うことを行いなさい」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書6章37節から49節

「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量(はか)りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤(はかり)で量り返されるからである。」イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑(くず)は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」

「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺(ゆ)り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊(こわ)れ方がひどかった。」

(注)

・十戒:神様の深い愛が表れています。

■神はこれらすべての言葉を告げられた。「わたしは主、あなたたちの神、あなたたちをエジプトの国、奴隷(どれい)の家から導き出した神である。あなたたちには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたたちはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたたちはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたたちの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代(いくせんだい)にも及ぶ慈(いつく)しみを与える。あなたたちの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたたちの仕事をし、七日目は、あなたたちの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたたちも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたたちの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。あなたたちの父母を敬え。そうすればあなたたちは、あなたたちの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。殺してはならない。姦淫(かんいん)してはならない。盗んではならない 隣人に関して偽証してはならない。隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」

民全員は、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が煙に包まれる有様を見た。民は見て恐れ、遠く離れて立ち、モーセに言った。「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます。」モーセは民に答えた。「恐れることはない。神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたたちの前に神を畏(おそ)れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである」(出エジプト記20:1-20)

・最も重要な掟(おきて):主はモーセに次のように仰せになりました

■穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは盗んではならない。うそをついてはならない。互いに欺いてはならない。わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたたちの神の名を汚してはならない。わたしは主である。あなたたちは隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたたちの神を畏れなさい。わたしは主である。あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたたちは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。民の間で中傷をしたり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。わたしは主である。心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒(いまし)めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐(ふくしゅう)してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。(レビ記19:9-18)

■イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたたちの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。・・・あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏(おそれ)るべき神、人を偏(かたよ)り見ず、賄賂(わいろ)を取ることをせず、孤児と寡婦(かふ)の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。(申命記10:12-19)

●あなたは「あなたがた」と訳さなければなりません。共同体として信仰が求められているからです。

・イエス様の宣教の視点:

■イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人(人々)に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人(人々)に解放を、/目の見えない人(人々)に視力の回復を告げ、/圧迫されている人(人々)を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた(ルカ4:16-21)。

(メッセージの要旨)

*キリストの信徒たちはイエス様(キリスト・イエス)を「救い主」として信じているのです。「永遠の命」の希望の内に生きることが出来るのです。ただ、信仰の意味を誤解している方もおられるのです。キリスト信仰は信じることで完結しないのです。福音は信じれば救いに与(あずか)れるというような安価な恵みではないのです。「神様の戒め」を実行することが必須の要件になっているのです。信仰の有無はその人の「生き方」によって証明されるのです。再び来られたイエス様がそれぞれの「行い」によって「救い」を決定されるのです(ヨハネ5:22)。「無慈悲に裁いたこと」、「罪人を赦さなかったこと」、「升(ます)に緩やかに盛って量を多く見せたこと」が「永遠の命」に大きく影響するのです。傲慢(ごうまん)と貪欲(どんよく)が「救い」を危うくしているのです。イエス様は「誰が天の国(神の国)でいちばん偉いのでしょうか」と質問する弟子たちに「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入れない」と言われたのです(マタイ18:1-5)。何を食べようか、何を着ようかと思い悩む人々に「ただ、神の国を求めなさい。・・自分の持ち物を売り払って施しなさい。・・富を天に積みなさい」と命じられたのです(ルカ12:31-34)。キリスト信仰には「行い」が伴わなければならないのです。「主よ、主よ」と言うだけで「良い実」を結ばない信仰は空しいのです。ヤコブはさらに厳しく「行いのない信仰はそれだけでは死んだものなのです」と言うのです(ヤコブ書1:17)。胆に銘じるのです。

*イエス様は度々神殿の境内で民衆に(旧約)聖書について教えられました。その学識に驚いて、多くの人がイエス様を預言者あるいはメシアとして信じたのです。逮捕に向かっていた下役たちも「あの人のように話した人はいません」と報告したのです。祭司長たちやファリサイ派の人々はイエス様に好意的な発言をした下役たちを叱責したのです。イエス様に従う群衆を「律法を知らない人々は呪われている」と言って非難したのです。エルサレムで神殿政治を担っている指導者たちは信仰心の薄いガリラヤ地方(ガリラヤ出身の人々)を軽蔑していました。その地から優れた預言者が出ることなど想像もしなかったのです(ヨハネ7:45-52)。イエス様は指導者たちを偽善者と呼び、天罰が下ることを宣言されたのです(マタイ23)。ある時、二人の人が祈るために神殿に上(のぼ)りました。一人はファリサイ派の人、もう一人はローマ帝国の協力者として社会から排斥されていた徴税人でした。ファリサイ派の人は心の中で自信に満ちて「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と祈ったのです。一方、徴税人は遠くに立って目を天に上げようともせず、胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と訴えたのです。イエス様は「神様に義(正しい人)とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」と明言されたのです(ルカ18:9-14)。

*神様は「アブラハム(イスラエルの父祖)は大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主(わたし)の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである」と言われました(創世記18:18-19)。「神様の御心」は人々が正義を実行して祝福に与ることなのです。ご自身が先ず模範を示されたのです。エジプト王ファラオの圧政に苦しむイスラエルの民を哀れみ、モーセによって解放されたのです。基本となる戒め-十戒-と関連する律法を付与されたのです。目的は人々を罰するためではなく、生かすためなのです。イエス様は「神様の愛」の観点から律法を解釈されたのです。ところが、ユダヤ人たちには律法違反を助長しているように映ったのです。イエス様は誤解を払拭(ふっしょく)するために「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言われたのです(マタイ5:17)。ただ、イエス様は優先順位があることを明確にし「何よりもまず、神の国(神様の支配)と神の義(正義)を求めなさい。そうすれば、これらのもの(生活に最低必要なもの)はみな加えて与えられる」と言われたのです(マタイ6:33)。キリスト信仰において「神様の愛」は強調されるのです。一方、「神様の正義」が軽んじられているのです。旧・新約聖書を通して「正義」のない「愛」はどこにも見られないのです。順序を間違えてはならないのです。

*イエス様はある律法学者の「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」 という質問に「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」と答えられました。律法学者は「二つの戒めを実行することがどんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」と同調したのです。イエス様はこの人の信仰を褒(ほ)めて「あなたは神の国から遠くない」と言われたのです(マルコ12:28―34)。イエス様は律法学者たちの偽善を厳しく非難しておられます(マタイ23)。その中にあって「救い」に与る可能性を告げられた数少ない人となったのです。イエス様のお言葉-神の国から遠くない-は意味が深いのです。この時点では「行い」によって信仰が証明されていないからです。「救い」は「神様の御心」に沿って善い業を実践した人々に訪れるのです。神様は迷い出た一匹の羊を見つけ出すまで探し回られるお方です(ルカ15:1-7)。イエス様は罪人の烙印(らくいん)を押され、社会から排斥された徴税人や娼婦たちと共に歩まれたのです(マタイ21:28-32)。飢えている時に食べさせ、のどが渇いている時に飲ませ、旅をしている時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいる時に訪ねた人々を祝福されるのです(マタイ25:35-36)。キリスト信仰の真髄は「行い」なのです。

*神様は天地創造の始めからイエス様の再臨-終わりの日-に至るまで罪深い人間を忍耐して導いておられるのです。「神様の裁きと赦し」が繰り返されているのです。信仰のみによって「救い」に与(あずか)れると信じている人も多いのです。イエス様は具体的な「善い行い」を求められるのです。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」と言われたのです(マタイ7:21-23)。「天の国」にはイエス様の御名によって預言し、悪霊を追い出し、奇跡をいろいろ行ったとしても、やもめの家を食い物にするような人々は入れないのです(マルコ12:30)。商取引においても公正を貫くのです。量(はかり)り升を不正に用いてはならないのです。イエス様は最後の審判者として再び来られるのです。その時、すべての人が「行い」によって裁かれるのです。神様は「主の道」-正義と愛の実践-を歩む人々を祝福されるのです。イエス様は社会の底辺で苦しんでいる人々に寄り添い、出来ることを実行しなさいと命じられたのです。罪とは「神様の戒め」を軽んじることです。「行い」のない信仰がその人の「救い」に役に立つことなどないのです。

2025年06月08日

「パウロの回心と苦難」

Bible Reading (聖書の個所)使徒言行録9章1節から31節


さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。 ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。

ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。・・・

そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。・・・

かなりの日数がたって、ユダヤ人(たち)はサウロを殺そうとたくらんだが、この陰謀はサウロの知るところとなった。しかし、ユダヤ人(たち)は彼を殺そうと、昼も夜も町の門で見張っていた。そこで、サウロの弟子たちは、夜の間に彼を連れ出し、籠(かご)に乗せて町の城壁づたいにつり降ろした。

サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。また、ギリシア語を話すユダヤ人(たち)と語り、議論もしたが、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ出発させた。こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。


(注)


・サウロ(パウロ)の回心:使徒言行録22:3-21、26:12-18を併せてお読み下さい。


・ダマスコ:ガリラヤ湖の北東約100kmにある町、現在のシリアの首都ダマスカスです。ただ、エルサレムの大祭司にダマスコにある諸会堂まで命令を下す権限があったというような歴史的事実は確認されていないのです。


・この道:「新しい教え」、キリスト信仰のことです。


・カイサリア(マルティマ):地中海沿岸の港湾都市です。イエス様の時代にはユダヤを管轄するローマ帝国の総督府が置かれていました。


・タルソス:ローマ帝国キリキア州の州都、現在はトルコの都市です。


・バルナバ:精霊様に導かれた信仰篤い人物です。パウロを大いに支え、助けています(使徒11:19-30)。後に、考え方の違いから二人は別々に宣教活動をするようになったのです(使徒15:36-41)。

・ステファノによる大祭司たちへの非難:

■・・かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。パウロは、ステファノの殺害に賛成していた。(使徒7:1-8:1)


・ガマリエル:民衆全体から尊敬されている律法の教師です。ファリサイ派に属していました。最高法院(サンヘドリン)において使徒たちに言及しています。


■あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。(使徒5:38-39)


・コリント:現在のギリシャの都市です。

・ポントス:現在のトルコの町です。

・アポロ:エジプトのアレクサンドリアで生まれ、旧約聖書に詳しい雄弁家です。コリントの教会でも有名です。使徒18:24-19:1に登場します。

・パウロの手紙:ローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙一、コリントの信徒への手紙二、ガラテヤの信徒への手紙、フィリッピの信徒への手紙、テサロニケの信徒への手紙一、フィレモンへの手紙の七つは、パウロの直筆であることが確認されています。これら以外は弟子あるいは他の人が書いたものとされています。


・パウロの信仰告白:

■わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。以前、わたしは神を冒涜(ぼうとく)する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。(1テモテ1:12-17)

・パウロの「神の国」:

■正しくない者(たち)が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者(たち)、偶像を礼拝する者(たち)、姦通する者(たち)、男娼(たち)、男色をする者(たち)、泥棒(たち)、強欲な者(たち)、酒におぼれる者(たち)、人を悪く言う者(たち)、人の物を奪う者(たち)は、決して神の国を受け継ぐことができません。あなたがたの中にはそのような者(たち)もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者(たち)とされ、義(神様との正しい関係にある者たち)とされています。(1コリント6:9-11)。

・啓示による信仰:

神様は来るべき出来事-イエス様の再臨-によって助けて下さるという信仰理解のことです。神様が瞬時にこの世を新しい世界に造り変えられるのです。信徒たちは何もする必要がないのです。ただ待つだけなのです。結果、人々の苦悩の原因や社会の不正に無関心となるのです。イエス様が生と死と復活を通して宣教された「神の国」の福音-人間の全的な救い-が個人的な救いに縮小されているのです。イエス様が命じられた最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-は軽んじられているのです。

(メッセージの要旨)


*パウロの回心は二重の大きな苦しみとなったのです。キリストの信徒たちを律法に従い取り締まっていたユダヤ人たちからは裏切り者として命を狙われたのです。一方、パウロに迫害された信徒たちからは非情さと執拗(しつよう)さを恐れられ、信仰共同体(教会)の一員に加わることに疑念を持たれたのです。苦境にあるパウロを支え、励ましたのがバルナバだったのです(使徒9:27-28)。二人は聖霊様に導かれて第一次宣教に出かけたのです(使徒13:1-14:28)。しかし、両者の間に意見の対立が生じて別々に行動することになるのです。パウロは第二次宣教を独自に始めるのです(使徒15:36-18:22)。第三次宣教を終えてエルサレムに戻ったのですが、誤解も重なってユダヤ人たちによって逮捕され、ローマへ護送されることになったのです(使徒21-28)。この間、パウロは回心を告白し、イエス・キリストについて証しし、「神の国」(天の国)の到来を宣べ伝えたのです。しかし、中心テーマは「人間の全的な救い」ではなく、「罪」あるいは「罪人」なのです。「神の国」に言及する時も、個人的な信仰心や敬虔さの観点から説明したのです。福音が「個人的な救い」に限定されているのです。著名な律法学者ガマリエルの教えを受けた知識人であったこと(使徒22:3)、ローマ帝国の市民権を持っていたこと(22:25)、イエス様の苦難を経験する機会がなかったことが影響しているのです。キリスト信仰とは「永遠の命」に与るだけではなく、人々の苦しみを共に担い「神様の正義」を実現することなのです。


*パウロが新約聖書に登場するのはエルサレムにおけるギリシャ語を話す教会の指導者の一人、ステファノの処刑に立ち会った時からです。ステファノは最高法院の尋問に反論したのです。神様が人間の手によって造られたエルサレム神殿に住まわれないことを公言し、大祭司カイアファを頂点とする指導者たちがメシアであるイエス様を殺した罪について非難したのです。パウロは初代教会が証しする新しい道(教え)がこれ以上広まれば、ユダヤ教の律法や伝統が脅かされることを危惧したのです。そこで、エルサレムにいる初代教会の信徒たちを迫害したのです。特に、ディアスポラ(外国に住んでいるユダヤ人たち)を脅迫してキリスト信仰を断念させようとしたのです。迫害を強化するためシリアの都市ダマスコへも向かったのです。ところが、ダマスコに近づいたとき「復活の主」に出会い劇的に回心したのです。当時を振り返り「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都(エルサレム)で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです」と告白しています(使徒22:3-4)。その後、今日のシリア、トルコ、ギリシャなどの国にキリスト教会を設立したのです。パウロは異邦人宣教において中心的な役割を果たしたのです。活動は苦難の連続でした。投獄されたこと、鞭打たれたこと、死ぬような目にあったことも度々だったのです(2コリント11:23)。


*パウロは博学でした。旧約聖書にも精通していました。「復活の主」を宣教することにおいて労苦を厭(いと)いませんでした。命さえ惜しまなかったのです。しかし、以前は先頭に立ってキリストの信徒たちを暴力的に迫害したのです。多くの人の命さえ奪ったのです。パウロはユダヤ人たちやキリストの信徒たちから反発されることを承知の上で「復活の主」に出会ったこと、自分が犯した罪について深く悔いていること、自分のような罪人に異邦人宣教が委ねられたことを説明したのです。罪から解放されるためには「救い主」を信じなければならないことを神学的、哲学的に論証したのです。パウロは言葉だけでなく「生き方」によってキリスト信仰を証ししたのです。経済と文化の中心地であるギリシャのコリントではポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会っています。パウロと職業が同じであったので彼らの家に住み込んで一緒にテントを造ったのです。パウロは自力で生活を維持しながら宣教に取り組んだのです。イエス様は「(宣教のために)働く者たちが食べ物を受けるのは当然である」と言われました(マタイ10:10)。しかし、パウロは人々を救うために当然の権利さえ放棄するのです(1コリント9:14-15)。信仰の確信に基づき安息日ごとに会堂で論争し、ユダヤ人たちやギリシア人たちの説得に努めたのです(使徒18:1-4)。ユダヤ教の教えやキリスト信仰と関わりのなかった異邦人たちに「復活の主」を伝えることは簡単ではないのです。パウロは相手の状況に応じて宣教方法を選んだのです。


*パウロの宣教に対する並々ならぬ決意が伝わって来るのです。人々は覚悟を備えた指導者の教えに耳を傾けるのです。ユダヤ教の伝統や律法を順守していたディアスポラのキリストの信徒たちは現地の慣習や文化への対応、人々との交際のあり方などについて悩んでいたのです。しかも、偽宣教者(偽預言者)たちがパウロが設立した教会に混乱を持ち込んでいるのです。信徒たちを正しく導くためには経済的に自立していることが不可欠です。教会に依存する指導者は往々にして有力信徒の信仰理解に迎合するのです。信徒たちの考え方を認めなければ生活の糧を失う可能性があるからです。「安価な恵み」に慣れた信徒たちは原則に忠実な指導者を自分たちの信仰理解に屈服させるか、あるいは教会から追放するのです。パウロは信徒の支配を断固として拒否するのです。キリスト信仰を宣教する指導者のあるべき姿が示されているのです。日本では少ないのですが、アメリカでは共働きの牧師が多く見られます。パウロの「生き方」が影響しているのかも知れないのです。パウロがキリスト信仰の有力な解釈者として評価されているのです。パウロの信仰理解の一部分だけが強調されているのです。時には、「知的信仰」を正当化するための根拠として用いられているのです。パウロは「七つの手紙」を教会と信徒あてに書いています。誤解されているような「パウロの神学」を語った訳ではないのです。信徒たちが陥(おちい)り易い誤り-重要な視点の欠如-を指摘しているのです。人間ではなく、「復活の主」に目を向けるように促(うなが)しているのです。


*パウロは異邦人宣教に大きな役割を果たしたのです。キリスト信仰に関する有力な解釈者になっているのです。一方、パウロの信仰理解には「人間の全的な救い」に心を砕かれたイエス様の視点が欠落していることも事実なのです。パウロはイエス様から直接教えを受けていないのです。イエス様と苦楽を共にしたこともないのです。豊かな学識と教養によってキリスト信仰を理解したのです。これらは「神の国」の福音を「個人の罪からの救い」に限定する要因となったのです。パウロは設立した教会と信徒あてに手紙を書いています。いずれも「啓示による信仰」が基調になっているのです。「社会の変革」についてほとんど言及していないのです。信徒たちには貧しい生活を忍耐して、思い悩むことなく道徳的な生活に努めることを勧めたのです。まもなく、イエス様が再び来られて「社会正義」を実現して下さるのです。キリストの信徒たちは何もする必要がないのです。再臨を待つだけなのです。結果、貧しい人々や虐(しいた)げられた人々の窮状を容認し、正当化することになったのです。パウロは自分の立ち位置を自覚して「あなたがたはめいめい、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファ(ペトロ)に』『わたしはキリストに』などと言い合っているとのことです。キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか」と言うのです(1コリント1:12-13)。パウロがイエス様を超えることはないのです。

2025年06月01日

「隣人のために何をしたか」

Bible Reading Matthew 25:31-46


31 "When the Son of Man comes in his glory, and all the angels with him, then he will sit on the throne of his glory. 32 All the nations will be gathered before him, and he will separate people one from another as a shepherd separates the sheep from the goats, 33 and he will put the sheep at his right hand and the goats at the left. 34 Then the king will say to those at his right hand, "Come, you that are blessed by my Father, inherit the kingdom prepared for you from the foundation of the world; 35 for I was hungry and you gave me food, I was thirsty and you gave me something to drink, I was a stranger and you welcomed me, 36 I was naked and you gave me clothing, I was sick and you took care of me, I was in prison and you visited me.' 37 Then the righteous will answer him, "Lord, when was it that we saw you hungry and gave you food, or thirsty and gave you something to drink? 38 And when was it that we saw you a stranger and welcomed you, or naked and gave you clothing? 39 And when was it that we saw you sick or in prison and visited you?' 40 And the king will answer them, "Truly I tell you, just as you did it to one of the least of these who are members of my family, you did it to me.'

41 Then he will say to those at his left hand, "You that are accursed, depart from me into the eternal fire prepared for the devil and his angels; 42 for I was hungry and you gave me no food, I was thirsty and you gave me nothing to drink, 43 I was a stranger and you did not welcome me, naked and you did not give me clothing, sick and in prison and you did not visit me.' 44 Then they also will answer, "Lord, when was it that we saw you hungry or thirsty or a stranger or naked or sick or in prison, and did not take care of you?' 45 Then he will answer them, "Truly I tell you, just as you did not do it to one of the least of these, you did not do it to me.' 46 And these will go away into eternal punishment, but the righteous into eternal life."

(Notes)

・Other Bible Passages

■21 For just as the Father raises the dead and gives them life, even so the Son gives life to whom he is pleased to give it. 22 Moreover, the Father judges no one, but has entrusted all judgment to the Son, 23 that all may honor the Son just as they honor the Father. Whoever does not honor the Son does not honor the Father, who sent him.24 “Very truly I tell you, whoever hears my word and believes him who sent me has eternal life and will not be judged but has crossed over from death to life. (John5:21-24)

■11 For God does not show favoritism.12 All who sin apart from the law will also perish apart from the law, and all who sin under the law will be judged by the law. 13 For it is not those who hear the law who are righteous in God’s sight, but it is those who obey the law who will be declared righteous. 14 (Indeed, when Gentiles, who do not have the law, do by nature things required by the law, they are a law for themselves, even though they do not have the law. 15 They show that the requirements of the law are written on their hearts, their consciences also bearing witness, and their thoughts sometimes accusing them and at other times even defending them.) 16 This will take place on the day when God judges people’s secrets through Jesus Christ, as my gospel declares. (Romans 2:11-16)

■14 What good is it, my brothers and sisters, if someone claims to have faith but has no deeds? Can such faith save them? 15 Suppose a brother or a sister is without clothes and daily food. 16 If one of you says to them, “Go in peace; keep warm and well fed,” but does nothing about their physical needs, what good is it? 17 In the same way, faith by itself, if it is not accompanied by action, is dead. (James 2:14-17)

・Second Coming:

■9 pNow when He had spoken these things, while they watched, qHe was taken up, and a cloud received Him out of their sight. 10 And while they looked steadfastly toward heaven as He went up, behold, two men stood by them rin white apparel, 11 who also said, “Men of Galilee, why do you stand gazing up into heaven? This same Jesus, who was taken up from you into heaven, swill so come in like manner as you saw Him go into heaven.” (Act1:9-11)

(A few comments)


Some Christians struggle to understand the relationship of works to faith. They wonder, “If we are saved by faith alone without works, are not works still required?” Unless we understand the biblical relationship of works to faith, we will be confused by texts such as Matthew 25:31-46.


The text teaches us: on the last day Jesus will judge all people by their works. The sheep, who have produced good works as the fruits of their faith, will be saved. Jesus judges the existence of their saving faith on the basis of their works, for where there is saving faith, there will be good works. The goats, however, will be damned, because they have no good works as the fruits of faith. Jesus judges their lack of good works as evidence of their lack of faith.


Jesus will look for the good works of faith that fulfill his commandments to love God and our neighbor. By our works of love he will determine that we are a believer in him whose faith produced the works he sees. On the other hand, if he sees a lack of good works of faith, he will judge us to be an unbeliever.


Needless to say, when Jesus comes in his glory, we want to be numbered among his sheep. Our faith in Jesus, who saved us and gave us eternal life, will produce the good works of love that declare we are his sheep. Our faith will do good deeds for those around us, and in the process do them for Jesus.


We have many opportunities to do this. We can collect food items to help a needy family in our area. We can collect gifts for those in institutions like hospitals and prisons. We can give items that we no longer use to agencies that help the poor. We can give a special gift to a relief fund that helps the victims of floods, tornadoes, earthquakes, or other natural disasters. We can help an elderly or sick neighbor by cutting his grass or shoveling his snow or running his errands. The opportunities are endless.

Today’s passage presents a perfect picture of judgment and the coming world. There is little doubt about what is waiting for God’s sons in glory. The questions have to do with judgment and the future of unbelievers who have done deeds of love. Remember, Paul said that some Gentiles who do not have the Law will have been “justified ”by having done “instinctively” what God requires. We know that believers are justified by faith in Jesus and they will obey His commands to love others. Some others will love by instinct and I think that those people will have chances to be justified.

The parable can thus be summed up: LOVE is the answer. One group is merciful, kind, generous, loving and willing to do whatever it takes - even at their own expense - to help out another fellow human ('the least') in true need. Jesus regarded their actions as personally affecting him. Because of their unselfishness and giving behavior they inherit God's kingdom. The other group is selfish, self-centered, self-absorbed and self-seeking. They are rejected in the judgment.

(聖書の個所)マタイによる福音書25章31節から46節 


「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 そして、すべての国の民(異邦人たち)がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たち(あなたがた)のために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たち(あなたがた)は、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たち(あなたがた)は、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」


(注)


・他の聖書の個所


■すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。(ヨハネ5:21-24)

■神は人を分け隔てなさいません。律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。(ローマ書2:11-16)

■わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

・イエス様の再臨:

■こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(使徒言行録1:9-11)


・人の子:この場合は審判者です。預言者ダニエルがそのイメージを表現しています。「夜の幻をなお見ていると、/見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」(神様)の前に来て、そのもとに進み 権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない」(ダニエル書7:13-14)。

・羊を右に、山羊を左に:すでに、預言者エゼキエルの言葉に登場しています。


■お前たち(あなたがた)、わたしの群れよ。主なる神はこう言われる。わたしは羊と羊、雄羊と雄山羊との間を裁く。お前たち(あなたがた)は良い牧草地で養われていながら、牧草の残りを足で踏み荒らし、自分たちは澄んだ水を飲みながら、残りを足でかき回すことは、小さいことだろうか。わたしの群れは、お前たち(あなたがた)が足で踏み荒らした草を食べ、足でかき回した水を飲んでいる。それゆえ、主なる神は彼らにこう言われる。わたし自身が、肥えた羊とやせた羊の間を裁く。お前たち(あなたがた)は、脇腹と肩ですべての弱いものを押しのけ、角で突き飛ばし、ついには外へ追いやった。しかし、わたしはわが群れを救い、二度と略奪にさらされないようにする。そして、羊と羊との間を裁く。(エゼキエル書34:17-22)。

・正しい人たち:異邦人であれ、ユダヤ人であれ、「神様の御心」-平和、正義、隣人愛-を実行している人たちのことです。

・最も小さい者たち:第一義的にはイエス様を救い主と信じ、宣教活動に従事している人々のことです。社会的に排斥された貧しい人々や虐げられた人々を表しています。


・神の国(天の国):死後に行く天国のことではありません。神様の主権、神様の支配を表す言葉です。


・神の義:「義」は神様と人間との(倫理的な)正しい関係を表す言葉として用いられることが多いのです。ただ、元々の言葉(ギリシャ語)は「正義」の意味を持っているのです。神様は人間に「正義」の実行を求められるのです。


・百人隊長:100人のローマ兵に指揮・命令を行っていました。


・モーセ五書:旧約聖書の創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のことです。


・御国の子(たち):ユダヤ人たち、あるいはファリサイ派の人々や律法学者たちのことです。


・陰府(よみ):すべての死者が住む暗闇の世界を意味していました(イザヤ書38:10)。後に「神様の御心」に背いて永遠の罰を受けた人々が死後に滞在する場所となったのです。


(メッセージの要旨)


*初代教会の信徒たちは再臨が自分たちの時代に起こるものと考えていたのです。ところが、2000年の時を経た現在もイエス様の再臨は実現していないのです。再臨が遅いのは神様の深い愛と憐れみの表れなのです。神様はすべての人が「救い」に与るように再臨の時期を遅らせておられるのです。イエス様はご自身の再臨をノアの時代に例えておられます(創世記6-7)。洪水になる前人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。洪水が襲って来て一人残らず取り去るまで、洪水について気づかなかったのです。このように誰もその時を知らないのです。ただ、父なる神様だけがご存じなのです。それ故に、再臨の時に備えて「目を覚ましていなさい」と言われたのです(マタイ24:42)。イエス様はたとえ話を用いて簡潔に説明されるのです。「十人のおとめ」においては、真夜中に到着した花婿を備えの油まで用意して迎えた賢いおとめたちとして、「タラントン」においては、主人から預かったお金をその能力に応じて増やした忠実な良い僕たちとして褒められたのです(マタイ25)。キリスト信仰は罪人が赦されたことで完結しないのです。「神の国」の建設に参画することを厳しく求めるのです。イエス様は最も重要な戒めとして「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」、「隣人を自分のように愛しなさい」の二つを挙げられたのです(マタイ22:37-39)。後者が軽んじられているのです。深刻な結果を招くことが予告されているのです。「行い」を伴わない信仰は空しいのです。

*最後の審判の様子が描かれています。イエス様が命じられた「隣人愛」を実践したかどうかが「救い」の判断基準になっているのです。社会の中で最も小さい者たちと呼ばれる人々を自分を愛するように愛したかどうかが問われているのです。キリスト信仰を標榜(ひょうぼう)する人々の中には「神様の愛」と「罪の赦し」に感謝しながら「神様の正義」の実現に消極的か、無関心な方々がおられるのです。旧・新約聖書を恣意的(しいてきに)に読んでいることに原因があるのです。正確に読めば分かるのです。信仰のみによって「救い」に与ることは出来ないのです。神様は「正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人(たち)、孤児(たち)、寡婦(たち)を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の(人の)血を流してはならない」と命じられたのです(エレミヤ書22:3)。しかし、ファリサイ派の人々や律法学者たちは「神の国」の福音を拒否し、社会的地位や既得権益に執着して民衆を苦しめているのです。モーセ五書を教えるのですが、言うだけで実行しないのです。イエス様は難しい神学を語られなかったのです。心身の障害に苦しむ人々、貧しい人々、虐げられた人々、不当に投獄された人々の側に立たれたのです。それぞれの苦難を共に担われたのです。「神の国」の福音-癒しと解放の業-を届けられたのです。「救い主」として信じる人々には「先ず、神の国と神の義(正義)を求めなさい」と言われたのです(マタイ6:33)。語るだけでなく「生き方」によって模範を示されたのです。


*「救い」と「滅び」を分ける根拠は明白です。その人に信仰があるかではないのです。「行い」が伴っているかどうかなのです。ユダヤ人のために会堂を建てた異邦人の百人隊長がいました。中風でひどく苦しんでいる僕の癒しを願い出たのです。イエス様は「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われたのです。ところが「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。わたしの僕はいやされます」と答えたのです。イエス様は「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、(不信仰な)御国の子らは、外の暗闇に追い出される」と断言されたのです(マタイ8:5-13)。金持ちがぜいたくに遊び暮らしていました。門前にラザロという貧しい人が横たわり、空腹に耐えて日々を過ごしていたのです。やがて、貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのそばに連れて行かれました。金持ちも死んで葬られたのです。金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとラザロとがはるかかなたに見えたのです。そこで「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。炎の中でもだえ苦しんでいます」と訴えたのです。アブラハムは「お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」と言ったのです(ルカ16:19-31)。


*最も小さい者たちとは何らかの困難な状況に置かれている人々のことです。国内には家族とのつながりもなく簡易旅館に住み、日雇い労働によって生活の糧(かて)を得ている人々がいます。高齢や病気のために仕事につけず困難な生活を余儀なくされているのです。イエス様のお言葉通りこれらの人は裸なのです。人種や民族、因習や偏見によって差別されている人々がいるのです。思想や信条の故に権力者たちから迫害されている人々がいるのです。世界に目を向ければ各地で紛争や戦争が起こっています。人道危機も深刻です。国連の機関UNICEF(ユニセフ)が「2022年2月に戦火が拡大して以来3年間、ウクライナで戦争の影響を受けなかった子どもは一人もいません。避難先で、あるいは自宅で、空襲警報が鳴り響くたびに地下シェルターや防空壕で耐えている子どもたちに、停電や断水、暖房の停止が追い打ちをかけています。子どもたちの父親の多くが戦場に赴き、一緒に暮らせなくなる中、大切な人の死や学校の閉鎖によって不安と孤独にさいなまれています」と訴えています(3月号)。同じくUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)は4月号で「世界では、1億2千万人を超える人々が故郷を追われていますが、そのうち5000万人以上が18歳未満の子どもです。彼らはかけがいのない子ども時代を奪われ、過酷な避難生活を続けています。また、世界の難民の子どもたのうち、約半数は教育を受けることができません。『学校に行きたい』と切望しながら、それが叶わず、未来への希望を失っている子どもたちが多くいます」と報告しています。

*「天の国」に招かれた人々も「神様の御心」を具体化するために善い働きをしなければ「永遠の命」に与れないのです。教会ではこうしたキリスト信仰の根本教理がほとんど語られていないのです。パウロの「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなた(がた)は救われるからです」の意味が教条的に解釈されているのです(ローマ書10:9)。パウロはイエス様の再臨が自分の存命中に起ると信じていました。神様が直接介入して「神の国」を速やかに完成して下さるのです。キリストの信徒たちは「その時」を待つだけだったのです。パウロはイエス様から直接教えを受けていないのです。「神の国」の福音を限定的に理解したのです。パウロは自分の立場をわきまえていました。自らを戒めて「自分には何もやましい(責められる)ところはないが、それでわたしが義とされている(救いに与っている)わけではありません。わたしを裁くのは主なのです」と言っているのです(1コリント4-5)。ところが、パウロの言葉が無批判的に引用されているのです。パウロの真意が伝えられるべきです。イエス様はご自身の「生き方」に学びなさいと言われるのです。イエス様を「救い主」と信じる人々に視点の変更を迫るのです。「悔い改める」とは隣人-貧しい人々や虐げられた人々-への無関心を反省することです。「神の国」を建設することなのです。「神の国」の福音を「罪からの救い」に縮小してはならないのです。「神の国」は終わりの日に「人間の全的な救い」として完成するのです。

2025年05月18日

「見たことや聞いたことを話しているのです」

Bible Reading (聖書の個所)使徒言行録4章1節から22節

ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである。しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。

次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。そして、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した。そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、/『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石』(詩編118:22)/です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった。

そこで、二人に議場を去るように命じてから、相談して、言った。「あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレムに住むすべての人に知れ渡っており、それを否定することはできない。しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう。」そして、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した。しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」議員や他の者たちは、二人を更に脅してから釈放した。皆の者がこの出来事について神を賛美していたので、民衆を恐れて、どう処罰してよいか分からなかったからである。このしるしによっていやしていただいた人は、四十歳を過ぎていた。

(注)


・ペトロとヨハネ:12使徒の中でもイエス様が最も愛された三人の弟子の内の二人です。もう一人はヤコブです。信徒たちは「新しい道」の弟子と呼ばれていました。後に、他の人々から軽蔑を込めてクリスチャンと呼ばれたのです。使徒11:26、1ペトロ4:16を参お読み下さい。


・午後三時:神殿において定例の祈りが行われました。祭壇に犠牲も捧げられたのです。ダニエル書9:21をご一読下さい。


・神殿守衛長:神殿境内における秩序の維持を職務としていました。権力的には大祭司の次に位置づけられていました。


・サドカイ派の人々:死者の復活を信じていなかったので、キリスト信仰に反対していました。ユダヤ教の宗派としての詳細は明らかではありませんが、貴族政治や神殿祭司制度の中枢を担っていました。彼らはローマ帝国に協力する見返りとして大祭司の職(皇帝の任命)を得ていたのです。


・男の数:家父長社会にあって女性は低い地位を強いられていました。人数に加えられることもなかったのです。


・大祭司アンナスとカイアファ:アンナスの在任期間は西暦6年から15年です。カイアファはアンナスの義理の息子です。西暦18年から36(37)年の間大祭司の職にありました。アンナスが卓越していたことからカイアファの時代になっても大祭司と呼ばれていたのです。


・ヨハネとアレクサンドロ:詳細は不明です。

・デカポリス:ヨルダン川の東側の地域です。聖書地図を参照して下さい

・「平地の説教」の抜粋:

■さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」(ルカ6:20-26)

・四十歳を過ぎていた:ルカは癒しの出来事の信ぴょう性を強調しています。

(メッセージの要旨)


*神様は初代教会を祝福し救われる人々を日々加えられたのです。信徒たちは毎日心を一つにして神殿に参り礼拝していました。ペトロとヨハネも午後三時に神殿に上りました。生まれながら足の不自由な人に出会ったのです。ペトロがナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさいといったのです。彼は直ちに歩けるようになったのです。不思議な業としるしは民衆を驚かせたのです。「神の国」の福音にはこの世の価値基準を覆(くつがえ)す力があるのです。イエス様のお言葉「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」が現実になるのです(マルコ10:31)。貧しい人々、心身に障害がある人々、社会から排斥された人々、罪人と言われた人々が優先的に「救い」に与るのです。初代教会の信徒たちは「主の復活」によって見たことや聞いたことが真実であることを確信したのです。ペトロとヨハネは漁師でした。律法を専門的に学んだこともないのです。聖霊に満たされて旧約聖書の創世記や申命記に言及しているのです。民衆にイエス様が約束のメシアであることを説明したのです。指導者たちには詩編を用いて彼らの不信仰を批判するのです。イエス様は「神の国」の福音を人々が理解しやすいように「平地の説教」として簡潔に要約されたのです。日常に生起する出来事-種を蒔く人のたとえ話など-によって教えられたのです(マタイ13)。キリスト信仰とは、誤解されているように教義を理解することではないのです。「復活の主」に倣(なら)って生きることです。「行い」によって証しすることなのです。


*イエス様はエルサレムから遠く離れた辺境の地ガリラヤから宣教を始められました。この事実はとても重要です。「福音の視点」を明確にされているからです。人々は貧しく、飢えにも苦しめられていたのです。イエス様は各地を回って諸会堂で教え「神の国」(天の国)-神様の支配-の到来を語られたのです。農民(小作人)や土地を持たない労働者たちは日々の生活を確保するために必死で働いたのです。安息日における礼拝出席も自由にならず、十分の一献金も滞(とどこお)ったのです。指導者たちは律法を厳格に遵守(じゅんしゅ)しないガリラヤの人々に罪人の烙印(らくいん)を押して蔑(さげす)んだのです。イエス様はご自身を「神の子」と信じる人々に「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」と明言されたのです(ヨハネ10:27-28)。民衆のありとあらゆる病気や患(わずら)いを癒されたのです。罪人として排斥された人々を優先的に「救い」に導かれたのです。イエス様の評判は周辺地域にも広まったのです。デカポリス、エルサレム、ユダヤだけでなく、ヨルダン川の向こう側の地域からも大勢の群衆が来てイエス様に従ったのです(マタイ4:23-25)。「神の国」の福音がユダヤ教の垣根を越えて広がっているのです。社会の底辺で労苦する人々に届けられているのです。弟子たちはイエス様の教え、力ある業、奇跡を見たり、聞いたりしたのです。自らも直接経験しているのです。これらの出来事は神様がイエス様と共におられることを確信させたのです。


*ペトロは集まって来た人々に出来事の意味を語ったのです。足の不自由な人の癒しは自分たちが行ったように見えるが、実際はあなたがたが殺したイエス様の御力によるものであることを訴えたのです。自分たちの罪が消し去られるように悔い改めて立ち帰ることを勧めたのです(使徒3:11―26)。ところが、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が来て二人を捕えたのです。一方、初代教会はおよそ120人から前回3000人、今回5000人の仲間を加え、着実に発展しているのです。使徒たちの宣教活動は指導者たちにとって看過できなくなったのです。大祭司アンナスとカイアファ、議員、長老、律法学者たちが集まって対策を協議したのです。ペトロとヨハネに「お前たちは何の権威によって・・ああいうことをしたのか」と尋問するのです。神殿から商人たちを追い出されたイエス様に対する質問と同じです(マルコ11:27-28)。ペトロは聖霊様に導かれてナザレのイエス・キリスト-復活の主-を証ししたのです。ナザレという地名によって、実在した人物であることを強調するのです。「あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石」によって、指導者たちの罪を告発したのです。彼らが権威の拠り所としている旧約聖書に基づいて断罪したのです。神様に反抗してきた歴史を想起させるのです。大祭司たちはユダヤ教の律法や伝統に精通しているのです。しかし、イエス様が「神の子」であることを認めなかったのです。キリスト信仰-永遠の命に至る道-は学識によって得られないのです。神様のお導きなのです。


*初代教会の発展に中心的な役割を果たしたのは「復活の主」に会った人々でした。新しく信徒になった人々も使徒たちから熱心に学んだのです。彼らの生き方は民衆の共感を得たのです。神様は初代教会を祝福して救われる人々を日々加えられたのです。信徒たちは「復活の主」を言葉で語るだけでなく「行い」によって証ししたのです。神様が遣わされたイエス様の戒め-神様と隣人を愛すること-を聖霊様の助けによって実践したのです。心も思いも一つにし、お互いを兄弟姉妹と呼び、愛と尊敬をもって交際したのです。社会・政治・経済の根底にある自己中心性、貪欲性を拒否したのです。信徒たちは「御名が崇められますように・・」「御国が来ますように・・」(マタイ6:9-10)と唱えるだけでなく、自らを神様と公言するローマ皇帝に恭順しなかったのです。土地や家を持っている信徒たちはそれらを売って代金を持ち寄り、お金は必要な信徒たちに分配したのです。彼らの中に一人も貧しい人がいなかったのです。初代教会の信徒たちは今日のキリストの信徒たちが往々にして忘れている、あるいは誤解している「信仰の原点」に固く立っているのです。キリスト信仰とは心で信じることで完結しないのです。イエス様のご生涯に倣(なら)って生きることだからです。要するに、イエス様のなさったことを信徒たちもするのです。イエス様が選ばれた道を信徒たちも選び取る、イエス様が立たれた視点に信徒たちも立つ、イエス様が受けられた苦難や悩みを信徒たちも恐れずに受け入れるのです。簡単ではないのです。「安価な恵み」ではないのです。


*イエス様はご自身を「救い主」として宣教する弟子たちが迫害されることをご存知でした。そこで、あらかじめ「わたしのために総督や王の前に・・引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。・・言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」と言われました(マタイ10:18-20)。果たしてイエス様のお言葉が実現するのです。ペトロは聖霊様に励まされて、指導者たちの罪を公然と非難するのです。彼らはペトロとヨハネがイエス・キリストを大胆に証しする態度に圧倒されるのです。無学な普通の人であることを知って驚かされるのです。学識や知恵が人を宣教者にするのではないのです。篤い信仰(信頼)がそうさせるのです。ペトロとヨハネは聖霊様から力を受けて「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」と言っています。彼らはイエス様の証人として自分たちを捧げたのです。イエス様は人々の日常生活に即して分り易いお言葉で福音を語られたのです。弟子たちはイエス様の生と死と復活の事実をそのまま話したのです。初代教会は「復活の主」が教えられた「神の国」の福音を宣教したのです。現代のキリストの信徒たちはイエス様に直接お会いしていないのです。しかし、聖書を通して知っているのです。個々の経験によって「救い主」であることを確信しているのです。いつの時代においても、愛と正義を貫く人々は権力者たちによって迫害されるのです。信徒たちには与えられた使命があるのです。責務を果たすのです。

2025年05月11日

「聖霊様の降臨とペトロの証し」

Bible Reading (聖書の個所)使徒言行録2章22節からから42節

イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』(詩編16:8-11)

兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬(ほうむ)られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、/『彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない』(詩編16:10)/と語りました。神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで。」』(詩編110:1)

だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代(世代)から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。

(注)

・聖霊様の降臨:

■五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした(使徒言行録2:1-4)。

・五旬祭(七週祭):ユダヤ教の三大祭りの一つです。他の二つは過越祭、仮庵祭です。過越祭から数えて50日目に祝う春の収穫祭です。レビ記23:15-21をご一読下さい。キリスト教ではこの日を聖霊降臨日「ペンテコステ(ギリシャ語の五十を表す言葉)として記念する教派もあります。

・風:神様の顕現(けんげん)を示す言葉です。

■主は言われた。「出て来て、この山中で主の前に立ちなさい。」主が通り過ぎて行かれると、主の前で非常に激しい風が山を裂き、岩を砕いた。しかし、その風の中に主はおられなかった。風の後に地震があった。しかし、その地震の中に主はおられなかった(列王記上19:11)。イザヤ書66:15、エゼキエル書37:9-14を併せてお読み下さい。

・炎(火):神様の臨在(りんざい)を表しています。

■シナイ山は山全体が煙に包まれていた。主が火の中を通って、山の上に降り立たれたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた(出エジプト記19:18)。イザヤ書5:24;66:15-16も参照して下さい。

・ディアスポラ:外国に住んでいるユダヤ人のことです。

・ヨエルの預言:旧約聖書のヨエル書は紀元前800年から300年の間に編纂(へんさん)されたと言われています。

■神は言われる。終わりの時に(ヨエル書の原文では「その後」)、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘(たち)は預言し、/若者(たち)は幻を見、老人(たち)は夢を見る。わたしの僕やはしため(男女の奴隷たち)にも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴(しるし)を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる(ヨエル書3:1-5)。

●すべての人とは前後の文脈から悲しみや痛みの中にあるすべての人という意味です。息子や娘は遊女や酒を買うために売り飛ばされた少年や少女のことです(4:3)。若者は徴兵年齢に達した男子で、耐え難い死の恐怖に晒(さら)されているのです。老人は死の影に怯え、奴隷は苦難に喘(あえ)いでいるのです。


・陰府(よみ):神様から遠ざかった死者たちの住まいのことです。

・120人:ユダヤ教の伝統によれば地方の「サンヘドリン」(地方議会)を構成するためには最低120人のメンバーが必要でした。


・邪悪な時代から救われなさい:


ペトロは信仰共同体に罪が蔓延していることを強調するのです。「時代」と訳されている言葉は、英語の「GENERATION」に相当します。「世代」の方が適切と思われます。不正を好む曲がった世代はしかし、神を離れその傷の故に、もはや神の子らではない(申命記32:5)。先祖のように頑なな反抗の世代とならないように、心が確かに定まらない世代、神に不忠実な霊の世代とならないように(詩編78:8)。いずれも「世代」と訳されています。一方、「よこしまで曲がった時代」(フィリッピ2:15)と訳している個所もあります。

(メッセージの要旨)

*イエス様の逮捕以来姿を隠していたペトロは「復活の主」に出会い「神の国」の福音の正しさを確信したのです。ペトロは漁師でした。学識も豊かではなかったのです。聖霊様がペトロに勇気と力を与え、必要なことを語らせられたのです。旧約聖書(モーセ五書)が伝える神様のお言葉や油注がれたダビデの言葉はユダヤ人たちを緊張させたのです。ペトロは神様とイエス様と聖霊様の関係-三位一体-を丁寧に説明したのです。人々は大いに心を打たれ「わたしたちはどうしたらよいのですか」と質問したのです。ペトロは「イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と説明したのです。その日だけでも三千人ほどが仲間に加わったのです。ヨエルが神様のご計画を預言しているのです。福音書が具体例を記述しています。放蕩(ほうとう)の限りを尽くして財産を無駄遣いした弟は飢饉(ききん)に遭遇し、食べる物さえ買えなかったのです。ある時、ふと我に返り罪を深く悔いて神様の下へ立ち帰ったのです(ルカ15:11-32)。徴税人の頭で金持ちのザアカイはイエス様に会った時「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから、何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と言ったのです。イエス様は「今日、救いがこの家を訪れた」と言われたのです(ルカ19:1-10)。イエス様は失われた羊を救うために地上に来られたのです。聖霊様はこれらの人を導くために降臨されたのです。初代教会は「神の国」の建設に全力を注ぐのです。

*信徒たちは心を合わせて熱心に祈っていました。イエス様が約束された聖霊様の降臨を待っていたのです。神様は「復活の主」を天に上げられた後、今度は聖霊様を降(くだ)されたのです。五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いたのです。炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまったのです。すると、一同は聖霊に満たされ、神様の霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだしたのです。当時、祭りのために世界中から大勢のディアスポラがエルサレムに帰って来ていました、彼らはそれぞれの故郷の言葉が話されているのを聞いて驚き、戸惑ったのです。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」と言う人たちや「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」とあざける者たちがいたのです。ペトロは十一人と共に立って声を張り上げ話し始めたのです。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです」と説明したのです。集まって来た人々は出来事を預言の成就として理解したのです。初代教会は徐々に発展するのです。「神の国」の福音はすべての民に届けられることになるのです。

*ペトロは人々に悔い改めを通して、自らの中に聖霊様を迎え入れるように勧めたのです。神様(の霊)に導かれた人々の行動は常識では測れないのです。神様はアブラハムに「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。・・地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」と言われたのです(創世記12:1-3)。アブラハムは神様の約束を信じて出発するのです。神様はモーセに「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」と言われました。モーセは「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」と不安を表し、逡巡(しゅんじゅん)したのです(創世記3:9-11)。最後は神様の命令に従うのです。これらの人は生涯神様への信頼を貫いたのです。神様によって油注がれた少年ダビデは剣や槍を装備したペリシテの戦士ゴリアトとの一騎打ちに臨(のぞ)み、石投げ紐(ひも)と拾った石だけでゴリアトを撃(う)ち殺したのです(サムエル記上17:45-51)。ペトロはダビデの言葉によってイエス様の復活を証明するのです。復活されたイエス様は神様の右におられるのです。約束通り聖霊様を神様から受けて今注いで下さっているのです。

*使徒言行録の著者ルカは「ルカの福音書」を著しています。聖霊様の働きの重要性について強調しています。洗礼者ヨハネに言及して「彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる」と記述しています(ルカ1:15-17)。母エリサベトは親戚の乙女マリアの挨拶を聞いたとき、聖霊に満たされて「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。・・主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言ったのです(ルカ1:41-45)。父ザカリアも聖霊様に導かれて「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」と預言したのです(ルカ1:67-79)。主が遣わされるメシアを見るまでは死ぬことはないと聖霊様からお告げを受けていたシメオンは幼子イエス様を腕に抱いて神様を賛美したのです(ルカ2:25-35)。何よりも、イエス様の誕生は聖霊様の働きによるものだったのです(ルカ1:35)。夫ヨセフは一緒になる前に聖霊によって身ごもったマリアを迎え入れたのです。ヘロデ大王の迫害から幼子と妻マリアを守るためにエジプトへ逃げたのです。その後、エジプトからナザレに戻って来たのです(マタイ1-2)。聖霊様に導かれたペトロは「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを神は主とし、またメシア(キリスト)となさったのです」と公言したのです。

*「復活の主」は天に上げられましたが、神様が定められた時に再び来られるのです。その時に「神の国」は完成を見るのです。「天地」が新しく造り変えられるのです。新約聖書の最後に位置するヨハネの黙示録の著者は「完成した神の国」の様子について「神の幕屋が人(人々)と共にあり、神が人(人々)と共に住み、人(人々)は神の民となる。神自ら人(人々)と共にいて、その神となり、(彼らの)目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。最初のものが過ぎ去ったからである」と表現しています(ヨハネの黙示録21:3-4)。キリストの信徒たちには使命があるのです。「神の国」を全世界に宣教することです。聖霊様が信徒たちに降ったのです。ペトロは邪悪なこの時代(世代)から救われなさい」と勧めるのです。この言葉は神様に反抗したイスラエルの歴史を想起させるのです。ペトロは権威と既得権益に執着する指導者たちや彼らに同調する人々に警告しているのです。悔い改めによって「永遠の命」に与りなさいと言うのです。イエス様が罪を個人の問題に留めることなく、神殿政治を担う律法学者たちやファリサイ派の人々の偽善と腐敗に言及されたように、ペトロもまた罪を共同体の問題として捉えているのです。エルサレムにおいて当初120人ほどの小さな群れはこの後は飛躍的な発展を遂げて行くのです。特筆すべきは祭司も大勢この信仰に入ったのです(使徒6:7)。使徒言行録は「神の国」の完成を望みつつ、聖霊様に導かれて歩んだ初代教会の信仰と宣教活動を記録しているのです。

2025年05月04日

「地の果てに至るまで証人となりなさい」

Bible Reading (聖書の個所)使徒言行録1章3節から26節

イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」

さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。

そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。詩編にはこう書いてあります。『その住まいは荒れ果てよ、/そこに住む者はいなくなれ。』(詩編69:26)/また、/『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』(詩編109:8) そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」

そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて、次のように祈った。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」 二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。

(注)

・使徒言行録はルカによる福音書の第二部と言われています。初代教会の信仰生活とその働きを伝えています。

・神の国:神様の全き支配のことです。神様が人間の心と社会の隅々にまで真に神様として崇められ、あらゆる価値の基準とされること、それを通して正義と平和の秩序が実現されることです。旧約聖書は神の国の到来を待ち望むイスラエルの信仰を書き記したものです。神様は自分たちをエジプト人の支配から救い出し、砂漠を経て約束の地へ導かれたのです。ご自分に頼る者を決して見捨てられないのです。どのような地上の力にも勝っておられるのです。信頼するに値するお方なのです。イスラエルは異国の支配下で弾圧され、分断され、捕囚の地に連れていかれたのです。その時も、神様は常に自分たちと共におられ、民の身の上を思い,心を痛められたのです。イスラエルはこの神様がいつの日か、必ず自分たちを解放して下さることを信じたのです。・ヨハネ:イエス様の先駆けとなった洗礼者ヨハネです。

・国を建てなおす:イスラエルの独立を回復することです。

・ヨセフとマティア:二人はこの個所以外に新約聖書のどこにも登場しないのです。

・くじを引く:「神様の御心」を確認する方法です。箴言16:33を参照して下さい。

・主の祈り: イエス様は群衆と弟子たちに祈りについて教えられました。

■だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国(神の国)が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧(かて)を今日与えてください。わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』(マタイ6:9-12)

・最も重要な掟:イエス様は律法学者の質問に次のように答えられました。

■イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコ12:29-31)

(メッセージの要旨)

*イエス様は復活した後も40日間にわたって弟子たちに「神の国」(天の国)について話をされたのです。イエス様の宣教はガリラヤで始まりました。第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」でした(マルコ1:15)。キリスト信仰とは「神の国」の到来を福音として信じることです。アメリカのシアトル近郊である教会に出席させていただきました。福音書が朗読される時、会衆は全員起立して聞き入ったのです。イエス様が礼拝の中心におられるのです。イエス様の復活は迫害に怯(おび)えていた使徒や信徒たちに勇気と力を与えました。およそ120人の信徒からなる初代教会はイスカリオテのユダに代わってマティアを使徒として選出し、新しく12人の指導体制で歩みだしたのです。信徒の中には女性、イエス様の母マリアと兄弟たちもいました。神殿の境内で神様を褒め称え、祈りを捧げていたのです。イエス様の教えを忠実に守り福音の宣教に全力を注いだのです。使徒言行録が「神の国]で始まり(1:3)、「神の国」で終わっている(28:31)ことは注目に値するのです。「神の国」が到来しているのです。神様は新しい天地創造に着手されたのです。死の問題が解決され、「永遠の命」に生きる希望が与えられたのです。イエス様は天に上げられる前にご自身の使命を弟子たちに託されたのです。初代教会の信徒たちの多くは貧しかったのです。教育の機会に恵まれた人も少なかったのです。ところが「復活の主」に出会い、約束の聖霊様に導かれ、権力者たちを恐れず大胆にイエス様を証ししたのです。

*「神の国」とは神様の主権・支配のことです。誤解されているような死後に行く天国のことではないのです。旧約聖書を通して神様について知ることが出来るのです。神様は「アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主(わたし)がアブラハムに約束したことを成就するためである」と言われました(創世記18:18-19)。神様はすべての民を祝福されるのです。ただ、彼らが正義と公正を行い、後に与えられる「主の道」(出エジプト記20-24)-十戒-などのシナイ山の契約を守ることをその条件とされたのです。具体的な指示もされたのです。「土地の実りを刈り入れる場合、あなたがたは畑の隅まで刈り尽くしてはならない。刈り入れの落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどう畑の実を摘み尽くしてはならない。ぶどう畑に落ちた実を拾い集めてはならない。貧しい人(人々)や寄留者(たち)のために残しなさい。・・隣人を虐げ(だまし)てはならない。奪い取ってはならない。雇い人への賃金を翌朝までとどめていてはならない。耳の聞こえない人(たち)を呪(のろ)って(侮辱し)はならない。目の見えない人(人々)の前につまずく物を置いてはならない。・・裁きにおいて不正をしてはならない。・・隣人の命に関わる偽証をしてはならない。隣人を自分のように愛しなさい」と言われたのです(レビ記19:9-18)。神様とはこのようなお方なのです。胆に銘じるのです。

*神様は預言者たちを通してご自身の戒めを守って生きるように命じておられるのです。「正義が造り出すものは平和であり/正義が生み出すものは/とこしえに安らかな信頼である。わが民は平和の住みか、安らかな宿/憂いなき休息の場所に住まう」(イザヤ書32:17-18)、「正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない」(エレミヤ書22:3)と言われるのです。正義のないところには真の平和はないのです。正義を造り出すことや搾取されている者たちを虐げる者たの手から救いだすことは選択の問題ではないのです。神様の民に与えられた責務なのです。預言者エゼキエルは神様のお言葉「人を抑圧せず、負債者の質物を返し、力ずくで奪わず、飢えた者に自分のパンを与え、裸の者に衣服を着せ、利息を天引きして金を貸さず、高利を取らず、不正から手を引き、人と人との間を真実に裁き、わたしの掟に従って歩み、わたしの裁きを忠実に守るなら、彼こそ正しい人で、彼は必ず生きる」を民衆に語っています(エゼキエル書18:7-9)。「永遠の命」を得るためには「神様の御心」を具体化する「行い」が伴わなければならないのです。外国の支配と圧政に苦しめられて来たイスラエルの民は忍耐しながら「神の国」がこの世-地上の権力者たち-にとって代わることを忍耐して待っているのです。およそ2000年前に神様は約束のメシアイエス様を遣わされたのです。この世の終わりが近づいているのです。

*イエス様は様々な業を通して「神の国」が到来していることを証しされたのです。権力者たちは既得権益に執着したのです。イエス様を政治犯として処刑したのです。イエス様の福音宣教が挫折したように見えたのです。ところが、神様はイエス様を死者の中から復活させられたのです。ご自身が遣わした「独り子」であることを証明されたのです。イエス様は復活後も「神の国」を宣教されたのです。今日、「神の国」の福音が変容されているのです。この世との対立を避けるかのように「罪の赦し」に縮小されているのです。イエス様は聖霊様の降臨を待つように指示されて天に上げられたのです。この世の終わりには「最後の審判」を行うために再び来られるのです。初代教会の信徒たちに「神の国」の宣教が委ねられたのです。信徒たちは使命が果たせるように心を合わせてひたすら祈ったのです。祈り-聖霊様の働き-は信仰を強め、人々に力を与えるのです。イエス様が教えられた「主の祈り」は個人的な祈りではないのです。「わたしたち」が示すように信仰共同体としての祈りなのです。最初に「神の国」が天上と地上の隅々に及ぶことを祈るのです。信仰共同体のすべての人に日々の糧が与えられるように祈るのです。率先して債権を放棄する勇気が与えられるように祈るのです。権力たちや金持ちたちからの誘惑を退け、自分を愛するように隣人-貧しい人々や虐げられた人々-を愛することが出来るように祈るのです。宣教体制を強化するために一緒にいた者の中から新しい使徒が選出されたのです。知的信仰ではなく実践が重視されているのです。

*初代教会の信徒たちは信仰を具体的な「行い」によって示しました。ルカは次のように記述しています。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた・・」(使徒2:44-47)。神様は信徒たちを祝福し、民衆全体も彼らに好意を寄せていたのです。「救い」に与る人々が日々増えていったのです。信徒たちは「信仰は信仰」、「現実は現実」というような生き方をしなかったのです。迫害も予想される中において「キリスト信仰」を貫いたのです。人は教義を信じる人々の「行い」によってその正しさを確認するのです。信仰は神様と人間との個人的な関係に留まらないのです。信仰共同体として神様を礼拝し、証しするのです。ただ、信仰の確信が揺れ動いている人、悲しみの中で絶望している人、貧しさや苦しみに喘いでいる人など様々な信徒がいたのです。相互に励まし、慰め、経済的な必要性についても心を砕いたのです。神様は初代教会を祝福されたのです。今日、「神の国」の福音が正しく伝えられていないのです。神様の働きが個人的な「罪の赦し」に変容され、社会の隅々に「神様の正義」が及ぶことへの関心が希薄です。「神様への愛」を告白して、社会の不正や人々の貧しさや苦しみに無関心でいることは出来ないのです。「神の国」の福音に与るだけではなく「行い」によって証しするのです。イエス様のご命令なのです。

2025年04月27日

「復活信仰」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書15章25節から41節及び16章9節から20節

イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。<底本に節が欠けている個所の異本による訳文>こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。†そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや(なるほど)、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。

昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦(あし)の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。

・・・

〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。〕

(注)

・最後のお言葉の比較:

■「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46、マルコ15:34)。詩篇22:1からの引用です。

■「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」(ルカ23:46)。詩篇31:5か らの引用です。

■「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)。

・詩篇22編:イエス様が引用されたお言葉の全体は以下の通りです。

・・わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻(うめ)きも言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。わたしたちの先祖はあなたに依り頼み/依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され/あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥(人々から嘲りを受け、軽蔑されている)。わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑(あざわら)い/唇を突き出し、頭を振る。「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」・・わたしを遠く離れないでください/苦難が近づき、助けてくれる者は(誰も)いないのです。雄牛が群がってわたしを囲み/バシャン(ガリラヤ湖の東側)の猛牛がわたしに迫る。餌食(えじき)を前にした獅子のようにうなり/牙をむいてわたしに襲いかかる者(たち)がいる。わたしは水となって注ぎ出され/骨はことごとくはずれ/心は胸の中で蝋(ろう)のように溶ける。口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎(うわあご)にはり付く。あなたはわたしを塵(ちり)と死の中に打ち捨てられる。犬(敵)どもがわたしを取り囲み/さいなむ者が群がってわたしを囲み/獅子のようにわたしの手足を砕く。骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺(なが)め わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。主よ、あなただけは/わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ/今すぐにわたしを助けてください。わたしの魂を剣から救い出し/わたしの身を犬どもから救い出してください。獅子の口、雄牛の角からわたしを救い/わたしに答えてください。・・わたしの魂は必ず命を得 子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。

・エリヤ:イスラエル(北王国)において紀元前865年から850年ごろに活動した偉大な預言者です。突然現れ、風のように消えたことで有名です。ユダヤ人の中には「エリヤは困難にある人を救い出す預言者」として期待する人もいたのです。列王記上・下をお読み下さい。

・神の子:イエス様に対する特別な称号です。神様の救いの歴史における忠実な僕を意味しています。預言者ナタンがダビデ王に神様のお言葉「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫(ソロモン)に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据(す)える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が過ちを犯すときは、人間の杖、人の子らの(人間が用いる)鞭をもって彼を懲らしめよう」を告げています(サムエル記下7:12-14)。

・婦人(女性)たち:イエス様の弟子たちの中に多くの女性がいました。家父長社会(男性中心の社会)にあった当時としては考えられないことでした。


・週の初めの日の朝早く:安息日は土曜日の午後6時に終わります。日曜日の朝のことです。

・しるし:イエス様が「水をぶどう酒に変えられたこと」(ヨハネ2:1-11),「死にかかっている役人の息子の病気を癒されたこと」(ヨハネ4:43-53)などは多くの人々を信仰に導いたのです。

・新しい言語:他の国々の言葉、あるいは「異言」のことです。使徒言行録2:4-11;10:46をお読み下さい。

・神の右:

■【ダビデの詩。賛歌。】わが主に賜った主の御言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」(詩篇110:1)

・神の国:天の国とも言います。場所のことではなく「神様の支配」を表す言葉です。来るべき日に、正義と愛に満ちた秩序として完成するのです。

 

「復活信仰」

April20,2025

 

(メッセージの要旨)

*今日はキリスト信仰の原点イースターです。「復活の主」に感謝し、新たな一歩を踏み出すのです。イエス様の十字架刑による死は「神の国」の福音を貫かれたことが招いた当然の帰結なのです。「神の国」-神様の主権・支配-がこの世の権力者たちによって拒否されたことなのです。イエス様の心の内を推測することは真に畏(おそ)れ多いことです。キリスト信仰を正確にお伝えするためにこの作業を進める必要があるのです。イエス様は弟子たちに三度もご自身の身に起ころうとしていることについて「人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人(たち)に引き渡す。異邦人(たち)は人の子を嘲(あざけ)り、唾をかけ、鞭打ち、殺す。そして、人の子は三日後に復活する」と予告されたのです(マルコ10:33-34)。ところが、十字架上では「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言われたのです。神様に絶対的な信頼を寄せていたイエス様が「見捨てられている」と思われたのです。福音書記者たちはその理由を記述していないのです。十字架刑は人間の尊厳を徹底的に奪う残酷な処罰です。イエス様は屈辱と悲惨の極みを経験されたのです。しかし、神様は決して沈黙しておられなかったのです。イエス様と共に人間の宿命である死の苦しみを担われたのです。死者からの初穂として復活させられたのです。罪と死の影に怯(おび)えている人々に「永遠の命」への希望を与えられたのです。同時に、イエス様の復活は神様が「神の国」の福音の正しさを証明された出来事なのです。

*イエス様の罪状書きには「ユダヤ人の王」と書かれていました。イエス様はローマ帝国への反逆罪で処刑されたのです。両側の強盗も政治犯であることが推測されるのです。イエス様の最後のお言葉は弟子たちに戸惑いを与えたのです。余りにも惨めに映ったからです。他の福音書の記者たちもそのように感じたのです。ルカは「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」という言葉に置き換えています。イエス様の穏やかな死を表現しているのです。ヨハネはイエス様の荘厳な死を描くために「成し遂げられた」と記述しています。しかし、イエス様は大声を出して息を引き取られたのです。十字架刑はよく知られた過酷な拷問の一種です。裸のまま手足を十字架に釘付けにされたのです。通行人たちに晒(さら)され、耐え難い苦痛と出血がおよそ36時間も続いたのです。福音書にはそのような残酷さと恐怖が記述されていないのです。むしろ、見物人や通行人たち、ローマ帝国の兵士や百人隊長、家族や弟子たちの様子が伝えられているのです。おそらく、福音書記者たちの深い配慮があったのです。最も古いマルコの表現が史実に近いのではないかと言われています。イエス様は神様から委ねられた「神の国」の福音のために、この世に正義と平和を実現するためにご生涯を捧げられたのです。ところが「神様の御心」を踏みにじる権力者たちは、イエス様を十字架刑-政治犯-で処罰したのです。キリスト信仰はユダヤがローマ帝国の支配下にあった時に生まれたのです。イエス様が自ら進んで死を選ばれたというような信仰理解は非歴史的であり、一面的なのです。

*イエス様の処刑後に幾つかの特筆すべき出来事が起こっています。エルサレム神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたのです。至聖所と聖所を分ける垂れ幕が取り払われたのです(出エジプト記26:31-37)。神殿の役割が終わったこと、大祭司のような仲介者が不要になったことを象徴しているのです。イエス様を通して神様に近づくことが出来るようになったのです。百人隊長がイエス様について、「本当に、この人は神の子だった」と言っています。異邦人が初めてイエス様を「神の子」として認めたのです。また、議員であるアリマタのヨセフとニコデモがイエス様のご遺体を埋葬したのです。彼らは同僚の議員やファリサイ派の人々を恐れていたのですが「行い」によって自分たちの信仰を証ししたのです(ヨハネ19:38-42)。一方、イエス様の刑死によって「神の国」の福音が終焉(しゅうえん)したかのように見えたのです。多くの弟子たちが群れから離れて行ったのです。しかし、神様は三日目に死んで葬(ほうむ)られたイエス様を復活させられたのです。福音書は様々な事例を挙げてイエス様の復活が現実に起こったことを証明するのです。「復活の主」はまずマグダラのマリアにご自身を現されました。男性の弟子ではではなかったのです。その後、二人の弟子にもご自身を現されたのです。名もない信徒たちです。ところが、イエス様の身近にいた使徒たちがこれらの人の証言を信じなかったのです。「復活の主」は使徒たちの不信仰を厳しく叱責されたのです。キリスト信仰の正当性は「復活」を信じることにあるからです。

*神様は決定的な方法-イエス様を復活させること-によって「神の国」の正しさを確認されたのです。イエス様は「何よりもまず、神の国(神様の支配)と神の義(神様の正義)を求めなさい。そうすれば、これらのもの(最低限必要な物)はみな加えて与えられる」(山上の説教)(マタイ5-7)、「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」(平地の説教)と明言されたのです(ルカ6:17-49)。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と言われたのです(ルカ5:31-32)。姦淫(かんいん)の現場で捕らえられた女性に石打ちの刑が執行される直前に、一方的に彼女の罪を赦されたのです(ヨハネ8:3-11)。中風(ちゅうぶ)の人の罪を赦すだけでなく、この人の病気も癒されたのです(マルコ2:1-12)。「父(神様)が死者を復活させて命をお与えになるように、子(イエス様)も、与えたいと思う者に命を与える」と言われたのです(ヨハネ5:21)。会堂長ヤイロの娘を死から蘇生(そせい)されたのです(マルコ5:35-43)。埋葬に向かおうとしているやもめの息子を生き返らされたのです(ルカ7:11-17)。死後四日も経っているラザロに再び命を与えられたのです(ヨハネ11:38-44)。「神様と隣人」を愛して「永遠の命」に与りなさいと言われたのです(ルカ10:21-37)。イエス様の復活によって、すべては神様のご意志であることが明らかになったのです。

*「神の国」を認めない権力者たちは、イエス様をローマ帝国への反逆者-ユダヤ人の王-として十字架刑で処罰したのです。しかし、神様はイエス様を復活させられたのです。イエス様の祈りに応えられたのです。ご自身により頼む者を決して見捨てられないのです。イエス様を「救い主」として信じる人々と共におられるお方なのです。イエス様の復活はキリスト信仰の本質を要約しているのです。イエス様の生と死を通して宣教された「神の国」の福音は「神様の御心」であったことが証明された出来事だったのです。神様は死が滅ぼされたことを宣言し、約束の「永遠の命」を先取りして見せて下さったのです。ところが、弟子たちの多くはイエス様の復活を信じられなかったのです。イエス様はご自身に出会って復活を信じた12弟子の一人トマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われたのです(ヨハネ20:29)。今日のキリストの信徒たちもトマスと大きな違いはないのです。具体的証拠によって確認しなければ事実を信じないのです。イエス様は不信仰な信徒たちに「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい」と譲歩して下さるのです(ヨハネ10:37-38)。聖書が伝える神様はイエス様の「しるし」や「癒しの業」の中で共に働いておられるのです。「復活信仰」はキリスト信仰の根幹なのです。キリストの信徒たちはイエス様が歩まれた道を辿り、「神の国」の建設に参画するのです。

2025年04月23日

「政治的裁判」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書14:53-65及び15:1-15

人々は、イエスを大祭司のところへ連れて行った。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来た。ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていたからである。すると、数人の者が立ち上がって、イエスに不利な偽証をした。「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」しかし、この場合も、彼らの証言は食い違った。そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」 しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に囲まれて来るのを見る。」大祭司は、衣を引き裂きながら言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒涜(ぼうとく)の言葉を聞いた。どう考えるか。」一同は、死刑にすべきだと決議した。それから、ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った。

・・・・

夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。


(注) 


・過越祭:七週祭、仮庵祭と共に、ユダヤ教の三大祭りの一つです。神様がイスラエルの民をエジプトから解放されたことを記念しています。七週祭は過越祭から数えて7週目、すなわち50日目に祝われた収穫祭のことです。仮庵祭はイスラエルの民が荒れ野で天幕に住んだことを記念する祭りです。秋の収穫祭でもありました。レビ記23章をご一読下さい。後代になって、七日間の除酵祭と結合されたのです。歴代誌下35:17,エゼキエル書45:21-24に記述されています。


・除酵祭:過越祭に続いて7日間行われます。歴史的経過については出エジプト記12:14-20を参照して下さい。


・大祭司:最高の権力者カイアファのことです。在職は西暦18-36/7年です。イエス様の主要な告発者となっています。

・長老:専門家ではありませんが、大土地所有者です。

・律法学者:律法を専門的に解釈する人です。

・最高法院:最高議決機関です。法廷であり、国会のような機能も有しています。

・ポンティオ・ピラト:ローマからユダヤに派遣された第五代総督です。在位は西暦26-36年です。イエス様を十字架刑で処罰する権限はローマの総督にありました。

・銀貨三十枚:イスカリオテのユダが裏切りの報酬(ほうしゅう)として受け取った金額です(マタイ27:3-5)。傷を負った奴隷の値打ちに相当します(出エジプト記21:32)。ゼカリヤ書11章を併せてお読みください。

・囚人の釈放:このような慣例を証明する文献や資料は福音書以外に見当たらないのです。

・ユダヤ人の王:イエス様に対する皮肉を込めた称号です。「政治犯」の意味が込められています。

・バラバ:ローマ帝国の支配に抵抗していた人々の一人です。強盗という訳は正確ではありません。

・十字架刑:最も残酷な処刑です。特に凶悪犯に適用されました。反逆者(政治犯)に対する見せしめとしても行われました。イエス様について書かれた「ユダヤ人の王」のように、犯罪人の罪状書きも掲示されました。

・暴動:ローマ帝国の支配に抵抗する闘争のことです。当時ユダヤ人の反乱は至る所に見られたのです。ユダヤ人歴史家ヨセフスもそのことを記述しています。

(メッセージの要旨)

*過越祭と除酵祭の二日前(水曜日)になった頃、祭司長たちや律法学者たちはなんとかイエス様を捕らえて殺そうと考えていました。イスカリオテのユダとの共謀が功を奏し、イエス様を大祭司の所へ連行することが出来たのです。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まりイエス様に対する裁判を開始したのです。大祭司は「お前はほむべき方(神様)の子、メシアなのか」と尋ねました。イエス様は「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に囲まれて来るのを見る」と答えられたのです。旧約聖書の詩篇110:1、ダニエル書7:13-14がご自身において成就することを明らかにされたのです。律法は「神を冒涜する者はだれでも、その罪を負う。主の御名を呪うものは死刑に処せられる。共同体全体が彼を石で打ち殺す」と規定しています(レビ記15-16)。イエス様は神様の名を呪い、汚したりしている訳ではないのです。しかし、最高法院の全員が死刑にすべきであると決議したのです。ところが、イエス様に石打の刑を執行しなかったのです。政治的策略が働いているのです。ローマの総督の官邸に連れて行ったのです。ピラトはイエス様を釈放しようとするのです。しかし、指導者たちは群衆を巧みに扇動し、強盗のバラバの釈放を求めさせたのです。ヨハネの福音書は彼らの脅しの言葉「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称するものは皆、皇帝に背いています」を伝えています(ヨハネ19:12)。イエス様は皇帝への反逆者として告発されているのです。十字架刑が適用されるのです。

*キリスト信仰において「神様の救い」が往々にして「罪の赦し」に限定されているのです。しかし「神の国」は人々の「全的な救い」として実現するのです。この点を肝に銘じるのです。「救いの原点」はエジプトからの解放にあるのです。イエス様の時代においても、神様はローマ帝国の圧政と腐敗した神殿政治の下で苦しむユダヤ人たちの窮状をつぶさにご覧になったのです。ご自身の独り子イエス様を遣わされたのです。イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って宣教を開始されたのです(マルコ1:15)。町や村を残らず回り、ユダヤ教の諸会堂で教えられました。また、群衆が羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれたのです(マタイ9:35-36)。病気の人々、心身に障害のある人々、悪霊に悩まされている人々を癒し、罪人として蔑(さげす)まれた徴税人たち、遊女たち、サマリア人たちと共に歩まれたのです。イエス様は「神様の御心」に反して職務を遂行するファリサイ派の人々や律法学者たちに厳しい罰が下ることを予告されたのです(マタイ23)。律法を「愛の観点」から修正しされたのです。指導者たちは自分たちの偽善と貪欲を告発するイエス様に激しい敵意を抱いたのです。この世の権威と既得権益を脅かすイエス様を殺そうとしているのです。一方、貧しい人々や虐げられた人々に「まず神の国と神の義(正義)とを求めなさい」(マタイ6:33)、「『神様と隣人』を愛して『永遠の命』を得なさい」と言われたのです(ルカ10:25-37)。

*大祭司、祭司長、長老、律法学者たちは律法に精通しているのです。ところが、人々に厳格に順守するように教えながら、自分たちはそれを実行しないのです。イエス様は「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。・・薄荷(はっか)や芸香(うんこう)-ハーブ類-やあらゆる野菜の十分の一は献(ささ)げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。・・あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ」と非難されたのです(ルカ11:37-52)。ファリサイ派の人々や律法学者たちは群衆の前で自分たちの権威を失墜させるイエス様を断じて許さなかったのです。最高法院の結論は決まっていたのです。殺すための正当な理由を見つけるだけだったのです。イエス様を神様への冒涜の罪で死刑にすることに成功したのです。彼らの憎しみは深いのです。律法の規定に従って石打の刑で殺さないのです。政治犯としてローマ帝国の法律で処刑させるのです。反逆者に適用される十字架刑で処罰させるのです。指導者たちはイエス様を釈放しようとする総督ピラトさえ脅すのです。皇帝に反旗を翻(ひるがえ)す政治犯に寛大な総督として批判するのです。ピラトの「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」に対して、祭司長たちは「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と反論しているのです(ヨハネ19:12-15)。ピラトの最大の任務は過越祭における治安維持だからです。指導者たちはピラトの弱点を突いたのです。

*神様は「アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである」と言われました(創世記18:18-19)。ご自身の戒め(律法)を実行するすべての人を祝福されるのです。ところが、歴代の王や彼らに同調する権力者たちは「神様の御心」を軽んじたのです。心の内は不信仰と放縦(ほうじゅう)に満ちているのです。偶像崇拝と悪事を止めなかったのです。神様は繰り返し預言者を遣わされたのです。彼らが悔い改めることはなかったのです。最後に、イエス様を遣わして新しい天地創造―この世を終わらせること-に着手されたのです。「神の国」-神様の支配-が適切な時期に完成することを宣言されたのです。イエス様は「神の国」の到来-神様の御心-を具体的に、目に見える形で証しされたのです。この世の権威や既得権益に執着する指導者たちは神様に主権を返すことを拒否したのです。しかも、神様が遣わされたイエス様を殺そうとしているのです。彼らの罪は真に深いのです。イエス様の十字架上の死の意味について旧約聖書に登場する表現-贖(あがな)いや契約の血など-によって説明されることがあります。しかし、イエス様を死に導いた主な原因は「神の国」と「この世」との対立にあったのです。イエス様は十字架の死に至るまでご自身の使命を貫かれたのです。「救いの御業」は生と死と復活の全体を通して理解されるべきことなのです。

*イエス様は「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。・・ わたしは彼らに永遠の命を与える。・・わたしと父とは一つである」と言われました(ヨハネ10:27-30)。ご自身を神様と同等の位置に置かれたのです。唯一の神を信じる律法学者たちやファリサイ派の人々にとって、イエス様の主張は「神様への冒涜」以外の何物でもなかったのです。万死に値する罪だったのです。律法に従いイエス様を石で撃ち殺そうとしたのです。一方、民衆はイエス様の教えと力ある業に「メシア」の姿を見たのです。指導者たちは社会が不安定になることを最も恐れたのです。「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」に良く表れています(ヨハネ11:48)。イエス様の宣教活動がローマ帝国への反乱と見なされ、軍事介入に結びつくことを危惧しているのです。大祭司カイアファは「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」と言って解決策を示したのです。イエス様が宣べ伝えた「神の国」の福音は、ユダヤ教の指導者たちの権威や既得権益と根本的に相容れないのです。指導者たちは自分たちの信仰を捨ててでも、総督ピラトの力を借りるのです。ローマ皇帝に背くユダヤ人の王として死刑判決を下し、十字架の上で処刑させるのです。イエス様の十字架の死はユダヤ教の伝統にある「罪の贖い」というよりは、「神の国」の福音を拒否し、律法と伝統に固執するこの世の権力者たちとの対立の必然的結果なのです。

2025年04月13日

「偽りの断食」

Bible Reading (聖書の個所)イザヤ書58章1節から8節


喉をからして叫べ、黙すな/声をあげよ、角笛のように。わたしの民に、その背きを/ヤコブの家に、その罪を告げよ。彼ら(イスラエルの人々)が日々わたしを尋ね求め/わたしの道を知ろうと望むように。恵みの業を行い、神の裁きを捨てない民として/彼らがわたしの正しい裁きを尋ね/神に近くあることを望むように。何故あなたはわたしたちの断食を顧みず/苦行しても認めてくださらなかったのか。見よ、断食の日にお前たちはしたい事をし/お前たちのために労する人々を追い使う。見よ/お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし/神に逆らって、こぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては/お前たちの声が天で聞かれることはない。そのようなものがわたしの選ぶ断食/苦行の日であろうか。葦(あし)のように頭を垂れ、粗布(あらぬの)を敷き、灰をまくこと/それを、お前は断食と呼び/主に喜ばれる日と呼ぶのか。わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛(くびき)の結び目をほどいて/虐げられた人(人々)を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人(人々)にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人(人々)を家に招き入れ/裸の人(人々)に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなた(がた)の光は曙(あけぼの)のように射(さ)し出で/あなた(がた)の傷は速やかにいやされる。あなた(がた)の正義があなた(がた)を先導し/主の栄光があなた(がた)のしんがりを守る。

(注)

・預言者イザヤ:当時イスラエルは南北に分裂していました。北王国は「イスラエル」、南王国は「ユダ」と呼ばれていました。イザヤの宣教はユダ王国を中心に行われました。ウジヤ王の死(紀元前738年頃)と共に始まり、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ王の治世にも及びました。

・大祭司:新約時代には同時に最高法院の長でもありました。一年に一度贖罪日に自分自身とイスラエルの民全体のために、いけにえとして捧げられた雄牛の血を皿に入れて神殿の至聖所に入り、そこでその血を注いだのです(レビ記16:11-34)。祭司の家系から選ばれ、終身制でした。ヘロデ時代以降この制度は歪(ゆが)められ、任免が権力者の意のままに行われたのです。

・イエス様の警告:イエス様も宣教を開始するにあたり、40日間の断食を荒野でされたのです(マタイ4:2)。

■断食(だんじき)するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなた(がた)は、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなた(がた)の断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなた(がた)の父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなた(がた)の父が報いてくださる。 (マタイ6:16-18)

・聖句の入った小箱:皮で作られた四角の小さな箱のことです。そこに聖句が入っています。ユダヤ人の男性は額(ひたい)と左腕に箱を巻いて祈るのです(出エジプト記:13:9)。

・衣服の房(ふさ):

■主はモーセに言われた。イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。代々にわたって、衣服の四隅に房を縫(ぬ)い付け、その房に青いひもを付けさせなさい。それはあなたたちの房となり、あなたたちがそれを見るとき、主のすべての命令を思い起こして守り、あなたたちが自分の心と目の欲に従って、みだらな行いをしないためである。(民数記15:37-39)

・貧しい人々を支える義務:

■穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘(つ)み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者たちや寄留者たちのために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。(レビ記19:9-10)

・「主の祈り」:

■だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭(あ)わせず、/悪い者から救ってください。』(マタイ6:9-13)

・贖罪日:

■以下は、あなたたちの守るべき不変の定めである。第七の月の十日にはあなたたちは苦行(断食)をする。何の仕事もしてはならない。土地に生まれた者たちも、あなたたちのもとに寄留している者たちも同様である。なぜなら、この日にあなたたちを清めるために贖(あがな)いの儀式が行われ、あなたたちのすべての罪責(罪)が主の御前に清められるからである。これは、あなたたちにとって最も厳(おごそ)かな安息日である。あなたたちは苦行(断食)をする。これは不変の定めである。(レビ記16:29-31)

●第七の月→太陰暦です。季節としては太陽暦の9月の終わりから10月の初めの頃です。

(メッセージの要旨)


*旧約の時代、宗教的な動機から一定期間食事を断つこと-断食-が実践されていました。モーセは「主の目に悪と見なされることを行って罪を犯し、主を憤らせた、あなたたちのすべての罪のゆえに、わたしは前と同じように、四十日四十夜、パンも食べず水も飲まず主の前にひれ伏した」と言っています(申命記9:18)。新約の時代も順守されていました(使徒13:2-3)。大祭司は贖罪の日に至聖所に入り、全国民の罪の懺悔(ざんげ)のために断食したのです。断食とは「神様の御心」に沿った生き方に立ち帰ることなのです。ところが、儀式だけに終わっているのです。神様は抑圧されている人々の苦しみと痛みへの共感に促されて、「救いの御業」を始められました(出エジプト記3:7-10)。「全人類の救い」の協力者として、最も貧弱な民を選ばれたのです(申命記7:6-8)。神様は民に律法を与えられました。イエス様は律法を要約して「神様と隣人を愛すること」を最も重要な戒めとされたのです。神様を愛するとは孤児、やもめ、寄留者などの権利を守ことです(申命記:10:12-19)。隣人を愛するとは雇い人たち、体の不自由な人々、虐げられている人々の側に立って行動することです(レビ記19:9-18)。断食は行われているのです。預言者イザヤは本来の目的を教えているのです。社会正義の妨げとなる事柄を断ち切ることなのです。神様は抑圧と差別を容認している人々に悔い改めを求めておられるのです。イエス様も指導者たちの内側が強欲と放縦に満ちていることを告発されたのです(マタイ23:25)。

*神殿で、ファリサイ派の人が心の中で「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通(かんつう)を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と祈ったのです。一方、徴税人は目を天に上げようともせず、胸を打ちながら「罪人のわたしを憐れんでください」と言ったのです。徴税人の祈りの方が聞き入れられたのです(ルカ18:9-14)。イエス様は律法学者たちやファリサイ派の人々の偽善を告発して「彼らはモーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣(なら)ってはならない。言うだけで、実行しないからである。・・そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。・・あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言われました(マタイ23:1-12)。不純な動機を隠して信仰心を装(よそお)えば、それは偽善なのです。神様ではなく自分を褒(ほ)めたたえることは偶像礼拝に他ならないのです。断食は施し、祈りと共にユダヤ教の中でも重要な信仰の証しなのです。しかし、人間は名声や富の誘惑に陥(おちい)りやすいのです。人間の評価を求めるいかなる行いも神様には喜ばれないのです。イエス様は「すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である(に災いあれ)」と言われたのです(ルカ6:26)。

*モーセは神様のご命令とお約束「三年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、あなたがたのうちに嗣業(しぎょう)の割り当てのないレビ人たちや、町の中にいる寄留者たち、孤児たち、寡婦たちがそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。そうすれば、あなたがたの行うすべての手の業について、あなたがたの神、主はあなたがたを祝福するであろう」をイスラエルの民に伝えました(申命記14:28-29)。人々はこの規定に則(のっと)って施しをするのです。安息日に会堂で貧しい人々に施しが行われていました。これは「神様の御心」に適っているのです。ところが施し方によっては人間の尊厳を損なうことがあるのです。元々施す側と施しを受ける側との間には貧富の差あるいは上下の関係があるのです。施しという現実はその関係を一層明白にするのです。どれほど注意を払っても施しをする人々は優越感を持ち施しを受ける人々に劣等感を植え付けるのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちのように人々の賞賛を得るために施しをすることは偽善なのです。ところが、兄弟姉妹に施しをして信仰心を誇ることもまた結果として偽善となるのです。本来、神様の命令である施しをしても誇る理由などないのです。イエス様が示された模範(もはん)に従って当然すべきことをしただけだからです(ヨハネ13:14-15)。施しには人を偽善と高慢に至らせる危険があるのです。貧しい人々に施すのです。同時に、自分を低くするのです。「救い」に与るための要件なのです(マタイ18:1-5)。

*確かに「神様の御心」に合致した行いはその人の篤い信仰心や敬虔さの表れです。一方、神様は人の心の奥を見られるのです。イエス様も信仰を自負するファリサイ派の人々に「あなたたちは人(人々)に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。施しをするときは人々からの誉れを期待して会堂や街角でしないこと、人々に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈らないこと、人々に見てもらおうと沈んだ顔つきをして断食しないこと」を助言されたのです。いずれも、人々を誤った信仰に陥(おちい)らせているからです。信仰心は神様に捧げるものであって、自分の誉(ほまれ)」を得るためのものではないのです。見せるための敬虔さや行いは空しいのです。神様はそのような信仰心を拒否されるのです。イエス様は「主の祈り」を教えられました。真空の中で語られたのではないのです。ローマ帝国の支配下にあって喘ぐユダヤ人たちに希望の光を示されたのです。「御名が崇められますように」にはローマ皇帝(シーザー)への偶像崇拝から解放して下さることへの願いが込められているのです。ローマ帝国はユダヤ人たちに信仰の自由を認める一方、皇帝を「神」として崇めることを強いていたからです。イエス様は同胞への債権を相互に放棄するように命じられました。神様と富との両方に仕えることは出来ないのです(マタイ6:24)。エルサレム神殿は強盗の巣窟なのです。地下の金庫にはたくさんの借用証書が保管されているのです。イエス様は神殿政治を担う指導者たちの偽善と腐敗を激しく非難されたのです。

*時代は下って紀元前520年頃、神様は預言者ゼカリアを通して「国の民すべてに言いなさい。また祭司たちにも言いなさい。五月にも、七月にも/あなたたちは断食し、嘆き悲しんできた。こうして七十年にもなるが/果たして、真にわたしのために断食してきたか。あなたたちは食べるにしても飲むにしても、ただあなたたち自身のために食べたり飲んだりしてきただけではないか」と言われたのです(ゼカリア書7:5-6)。イザヤの時代と変わっていないのです。断食が悔い改めの証しとして豊かな実を結んでいないのです。いつの間にか形だけのものになっているのです。イエス様も断食について言及されました。自分の信仰を誇るために断食しても何の役にも立たないのです。神様はそのような偽善を見抜いておられるのです。断食と訳されている言葉はもっと深刻なのです。自分を否定するという意味があるのです。食べ物や飲み物を断つだけでなく、お風呂に入ること(水浴び)や肉体を喜ばせること、心の楽しみなどを避けることなのです。断食をすることは施しをすること、祈ることと密接に関係しているのです。イエス様はファリサイ派の人々や律法学者たちに「あなたがたは不幸だ」と言われたのです。天罰が下ることを宣告されたのです(ルカ11:42-44)。大祭司たちはモーセの律法を熟知しているのです。ところが、本当の意味を理解していないのです。儀式として実行しているだけなのです。イエス様は「神様の御心」に従って職務を遂行しなさいと警告されたのです。権力者たちはイエス様を拒否し、殺すために全力を注ぐのです。

2025年04月06日

「神のものは神に返しなさい」

・Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書20章9節から26節

イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』(詩編118:22)その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。

そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者(スパイ・情報収集者たち)を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督(ポンティオ・ピラト)の支配と権力にイエスを渡そうとした。回し者らはイエスに尋ねた。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」彼らが「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは民衆の前でイエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった。

(注)

・律法学者:律法の書き写しを職業としていた人々です。旧約聖書に精通していたので教師、学者と呼ばれていました。多くはファリサイ派に属していました。

・祭司:神様と人との仲介者です。エルサレム神殿の宗教儀式を司(つかさど)る聖職者とその家系のことです。祭司長は祭司の頭(かしら)です。

・ファリサイ派:モーセの律法を守ることが「永遠の命」に至る道であると信じていました。ローマ帝国から「信仰の自由」を認められたことにより、納税への表立った抵抗はしなかったのです。イエス様はこれらの人の偽善と不信仰を激しく非難されたのです(マタイ23)。

・サドカイ派:祭司、長老(土地を所有している貴族)、上流階級の人々からなるグループです。モーセ五書だけを聖書と見なしたのです。霊、天使、復活を認めなかったのです。ローマの支配に協力的でした。ファリサイ派と対立していましたのでが、イエス様には共同で対抗したのです(マタイ16:1)。

・ヘロデ派:ヘロデ王家をパレスチナ支配の中心に据(す)えることを目論んでいました。信仰の問題に関心はなかったのです。ローマとの友好関係の維持に腐心していました。納税は当然のことでした。イエス様はこれらの人の不正と腐敗に警戒するように教えられたのです(マルコ8:15)

・ぶどう園:預言者イザヤがイスラエルに神様のお言葉を伝えています。

■わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ/わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに/なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。さあ、お前たちに告げよう/わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ/石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず/耕されることもなく/茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑/主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は(正しい)裁き(ミシュパト)を待っておられたのに/見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに/見よ、叫喚(ツェアカ)。(イザヤ書5:1-7)

・徴税(徴用)について:福音書にはローマ帝国の支配下にあったユダヤ人たちの様子が記述されています。対象人数を確認するために人口調査が行われたのです。

■そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。(ルカ2:1-5)

ただ、紀元後6年頃、ガリラヤのユダヤ人たちがキリニウスの命令による住民登録に抗議して暴動を起こしています(使徒5:37)。

・デナリオン銀貨:この時期の銀貨にはローマ皇帝ティベリウス・シーザー(紀元14年から37年)の肖像が描かれています。「ティベリウス・シーザー、神のアウグスト、アウグストの息子」という文字も刻印されているのです。

(メッセージの要旨)

*福音書はイスラエルに貧困が広まっていることを様々な形で詳細に伝えています。イエス様の教えと力ある業は貧しい人々や虐げられた人々の共感を得ていたのです。律法学者たちや祭司長たちはイエス様を殺すために手段を選ばないのです。巧妙な罠(わな)を仕掛けるのです。これらの人はこれまでユダヤ教の律法の範囲内でイエス様と論争したのです。今回の問いにはイエス様を全く違った土俵-政治-へ巻き込む意図があるのです。当時のユダヤはローマ帝国の支配下にありました。いつの時代においても税金は国家にとって重要な財源です。納税拒否は国家の根幹を揺るがす反逆行為なのです。ローマ帝国の支配に抵抗する人々は厳罰に処せられたのです。反乱者には十字架刑が適用されたのです。一方、ユダヤ教では十戒の冒頭に「あなた(がた)には、わたしをおいてほかに神があってはならない」と規定されています(出エジプト記20:3)。ユダヤ人たちにとって自らを神様と称するローマ皇帝に納税することは耐え難いのです。イエス様が神様を選べば反逆罪で政治犯として処刑されるのです。皇帝を選べば偽預言者として同胞から断罪されるのです。イエス様のお答えは短く、鋭く、力あるものでした。すべてのことは「神様のものは神様に返す」という根本理念に立ち返って判断されるのです。質問者たちに「皇帝のものは何か」を問いかけられたのです。「神様のもの」を自分のものにしている人々に「神様に返しなさい」と言われたのです。先ず、「神様の御心」-正義・慈悲・誠実-に沿って生きるのです。その後、税金を納めるのです。

*ユダヤ教の最高法院はイエス様を陥れるために罠を仕掛けるのです。ローマの総督の力を借りようとしているのです。派遣された人々は信仰を装っているのです。納税制度を熟知しているのです。ファリサイ派、サドカイ派、ヘロデ派の人々であることが推測されるのです。納税についての考え方は異なっていました。ところが、イエス様との対決においては一致して行動するのです。宗教的、政治的団体はお互いに牽制(けんせい)し、せめぎあっていたのです。民衆は大いに戸惑い、不安に揺れ動いていました。人々は信仰について指針を求めていたのです。質問は税金一般についてではないのです。ローマ皇帝への納税です。イスラエルの最大の関心事なのです。政治的な問題がユダヤ教の律法と絡(から)められているのです。ファリサイ派の背後にはこれらの人の指導に従順な民衆と伝統を重んじる正統派のユダヤ人たちがいるのです。サドカイ派とヘロデ派の後ろには強力なローマ軍が控(ひか)えているのです。権力者たちは立場の違いを超えて結束しているのです。イエス様がどのようなお答えをしても結論は同じなのです。処刑の口実を探しているからです。イエス様は「貧しい人々」、「捕らわれている人々」、「体の不自由な人々」、「抑圧されている人々」に解放を告げるために地上に来られたのです(ルカ4:18-19)。教えと力ある業は圧政に苦しむ人々に神様の臨在を感じさせたのです。権力者たちの権威と既得権益を脅かしているのです。社会の秩序と平穏を乱す危険思想なのです。イエス様をこのまま放置することは出来ないのです。

*イスラエルの貧困の最大の原因はローマ帝国による重税なのです。二年ごとに収穫物の四分の一を税として徴収し、当局の役人や兵士たちの生活を支えるために経費を支出させ、人頭税や関税を課しているのです。農民たちは経済的、精神的に疲弊しているのです。ローマの総督たちは赴任地を短期間で財を生みだす「打ち出の小づち」のように考えていました。イエス様を処刑したポンティオ・ピラト(紀元26年から36年)などはユダヤ人たちに貢物(みつぎもの)を求めたのです。在職中は徹底的に搾取したのです。さらに、民衆はエルサレムの神殿に仕える祭司たちを支えるために神殿税(宗教税)を納めなければならないのです。以前、祭司たちを支えるための定額献金や随時献金の習慣はなかったのです。巡礼者たちが捧げる供え物の一部を受け取っていただけなのです。ところが、バビロン捕囚からの帰還(紀元前538年)後に自分たちの収入を増やすために新たに12種類の献金を設けたのです。ローマ帝国への税と神殿税の合計は生活費のおよそ40%にも達したのです。それでも、毎年担当者たちが未納の農民たちの家を訪問し、定額献金を取り立てているのです。ユダヤ人歴史家ヨセフスは当時2万人の祭司がいたことを記録しています。これらの人は1年に2週間神殿に奉仕するのです。民衆の平均以上の報酬を得ているのです。イエス様は神殿政治の腐敗と不正を告発し、指導者たちを厳しく非難されたのです。社会の底辺に追いやられた貧しく、抑圧されている人々には正義の核となる力があるのです。「神の国」の建設に取り組むのです。

*イエス様の十字架上の死をあらかじめ神様が定められた出来事として、あるいは罪の贖(あがな)いの犠牲として理解している人も多いのです。イエス様は始めからご自身の命を捧げるために生きられたのではないのです。イエス様が生涯を捧げて宣教された「神の国」の福音は歪(ゆが)められてはならないのです。イエス様はご自身の死において初めて人間の救いがもたらされるとは考えておられなかったのです。特別の使命-神様への従順と隣人愛-を果たそうとする強い意志が結果として死を招いたのです。当時の歴史的背景を理解することはとても重要です。イエス様は真空の中で生きて来られたのではないからです。イエス様の教えと力ある業は「神の国」の到来を告げる具体的事実なのです。神様は終わりの時にこの世の権力者たちにご自身による直接統治を宣言されたのです。イエス様はご自身の生と死と復活を通して「神の国」-「神様の御心」-を証しされたのです(使徒1:3)。パウロの信仰理解を用いて福音を「罪の赦しの問題」に縮小してはならないのです。キリスト信仰の真髄は「神の国」の到来にあるのです。イエス様は人々に悔い改めて神様の下に立ち帰ることを促(うなが)されたのです。しかし、ユダヤ教の伝統に固執し、既得権益に執着するファリサイ派の人々や律法学者たちは「神の国」を受け入れなかったのです。大祭司たちの決意は揺るがないのです。世俗の力-ローマ皇帝の権力-を用いてイエス様を殺すのです。この時点から死は避けられなくなったのです。イエス様は十字架に向かって歩むことを決断されたのです。

*イエス様の結びのお言葉は様々に解釈されています。キリスト信仰を純粋に内的なもの、個人の魂の救いとして解釈し、政治と宗教の分離の根拠とされたのです。しかし、神様は「(アブラハムが)息子たちとその子孫に主の道(戒め)を守り、主に従って正義を行うように命じること」を祝福の要件とされたのです(創世記18:19)。イエス様は「神の国」-神様が支配者であること-を宣言されたのです。福音が「罪の赦し」に限定されてはならないのです。「神様の正義」はこの世のすべて-政治、経済、社会-に及ぶのです。地上の権力者たちに悔い改めが求められているのです。ところが、先祖の指導者たちと同じように預言者たちや使徒たちを迫害しているのです。神様が遣わされた「神の子」イエス様を殺そうとしているのです。たとえ話においてその事実が語られているのです。イエス様は民衆から強い支持を得ているのです。律法違反で殺すことは困難だったからです。そこで、もっと大きな力を得るために画策するのです。政治状況を巧みに利用するのです。イエス様の言葉尻を捕らえてローマ帝国に対する反逆者に仕立て上げるのです。ローマの総督に引き渡して処刑させようとしたのです。イエス様は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えられたのです。質問者たちは黙ってしまったのです。納税に苦しんでいる民衆はお言葉に納得したのです。指導者たちが神様のものを奪っていることを知っているのです。神様のものは神様に返すのです。信仰の原点はここにあるのです。拒否した人々に厳しい罰が下されるのです。

2025年03月30日

「光のあるうちに歩きなさい」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書12章20節から43節


さて、祭り(過越際)のとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え(いなさい)。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した(過去)。再び栄光を現そう(現在)。」そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者(サタン₋=権力者たち)が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。

このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせ(神様からのメッセージ)を信じましたか。主の御腕(主の御業)は、だれに示されましたか」(イザヤ書53:1)。彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟(さと)らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない」(イザヤ書6:10)。イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである(イザヤ書6:1-4)。とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉(ほま)れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。

(注)


・ギリシヤ人:異邦人を総称する言葉です。将来の異邦人宣教を象徴しています。


・フィリポとアンデレ:12使徒に選ばれています。


・人の子:


この呼称には三つの意味があります。第一は預言者です(エゼキエル書2:1-3)。第二は天の雲に乗って現れる終わりの時の審判者です(ダニエル書7:13-14)。他に「わたしとわたしの言葉を恥じる者(たち)は、人の子も自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときにその者(たち)を恥じる」があります(ルカ9:26)。イエス様はご自身が審判者であることを明らかにされたのです。第三はこの世の人間を表しているのです(ルカ9:58)。


・人の子が栄光を受ける時:イエス様の死と復活と昇天が起こること、神様の名が讃えられることを表しています。


・心が騒ぐ:「ゲツセマネの祈り」にも表しておられます。


■そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ14:33-36)

・メシア:「油注がれた者」という意味です。選ばれた王や祭司です。以下は一例です。

■(あなた(神様)は言いました。)「わたしが選んだ者とわたしは契約を結び/わたしの僕ダビデに誓った  あなたの子孫をとこしえに立て/あなたの王座を代々に備える、と。」(詩編89:4-5)

・天からの声:他にも記述があります。

■そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適(かな)う者」という声が、天から聞こえた。(マルコ1:9-11)

■ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆(おお)った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。(ルカ9:34-36)

光:ご自身に関する定義の一つです。

■イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ8:12)

・預言者イザヤ:当時イスラエルは南北に分裂していました。北王国は「イスラエル」、南王国は「ユダ」と呼ばれていました。イザヤの宣教はユダ王国を中心に行われました。ウジヤ王の死(紀元前738年頃)と共に始まり、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ王の治世にも及びました。

終末のしるし:

■イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」(マタイ24:3-14)

・キング牧師:アメリカの公民権運動の指導者の一人です。黒人の差別撤廃に短い生涯を捧げたのです。たくさんの名言を残しています。以下はその一例です。

The ultimate tragedy is not the oppression and cruelty by the bad people but the silence over that by the good people.

「悪人たちの抑圧と残虐行為は悲劇です。しかし、究極の悲劇は善人たちがそのことに沈黙していることです。」(私訳)
                       
(メッセージの要旨)


*イエス様はエルサレム入城後、ご自身の使命を実力行使によって遂行されたのです。神殿の境内から礼拝に必要な生贄(いけにえ)の羊や牛をすべて追い出し、献金のために外国の通貨をシェケル銀貨に交換する両替人の金をまき散らし、鳩を売る者たちに「わたしの父の家を商売の家としてはなららない」と言われたのです。神殿政治の機能が一時的に停止したのです。祭司長、律法学者、長老たちがやって来て「何の権威でこのようなことをするのか。誰が、そうする権威を与えたのか」と詰問したのです。イエス様は「この神殿を壊して見よ。三日で建て直してみせる」と明言されたのです。彼らは建設するのに四十六年も費やしたエルサレム神殿を「三日で建てる」と言われたイエス様を非難したのです(ヨハネ2:13-22)。指導者たちは神殿の威光を貶(おとし)めるイエス様に激怒したのです。しかし、群衆はイエス様の教えや力ある業(癒しの業など)に共感していたのです。神様を畏(おそ)れる数人のギリシャ人がイエス様を訪ねたのです。ユダヤ教への改宗者ではないのです。ユダヤ教の教えや伝統に敬意を表する人々です。病気の奴隷(使用人)のために奔走(ほんそう)し、ユダヤ人たちのために会堂を建てたローマ軍の百卒長もそのような人たちの一人です(ルカ7:1-10)。イエス様は世の光です。暗闇を照らす真の光なのです。「神の国」の福音が着実に広がっているのです。ただ、多くのユダヤ人にはこの光が見えないのです。イエス様を殺すために陰謀が巡(めぐ)らされているのです。弟子たちに覚悟が求められているのです。


*イエス様の評判を聞いてギリシヤ人が数人訪ねて来ました。しかし、この時期に彼らと会うことは極めて危険でした。後に、パウロに起こった事件がそのことを証明しています。ディアスポラのユダヤ人たちが神殿の境内でパウロを見つけ「この男は、民と律法とこの場所に背くことを、至るところで誰にでも教えている。その上、ギリシヤ人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった」と告発したのです。群衆がパウロを境内から引きずり出したのです(使徒21:27-30)。これは誤解に基づく出来事だったのですが、異邦人との接触は敵対する人々に迫害する口実を与える機会となるのです。しかし、イエス様は「その時」が来たことを悟られたのです。弟子たちに繰り返し「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」と言われたのです(マタイ10:37-39)。かつて、イエス様は地中海沿岸の町に住む異邦人の女性に出会われました。この人は悪霊にひどく苦しめられている娘の癒しを申し出たのです。イエス様は「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と答えられたのです。ところがが、女性の立派な信仰心がイエス様のお心を動かすことになるのです(マタイ15:21-28)。今、ギリシャ人たちにも覚悟を求められたのです。


*「終末のしるし」が現れているのです。四福音書はイエス様が政治犯として処刑される前後の出来事を詳細に記述しています。それぞれの記者は事実を見て(あるいは聞いて)記事を書いたのです。イエス様は敢然と十字架に向かわれたというような信仰理解は避けなければならないのです。「父よ、わたしをこの時から救ってください」と言って、心を騒がせられたのです。イエス様はエルサレムへ入城される前に、ベタニヤで死後四日も経ったラザロを甦(よみがえ)らされたのです。出来事を目撃したユダヤ人の多くがイエス様を信じたのです。大祭司カイアファを中心とする指導者たちは自分たちの権威と地位が脅(おびや)かされていることを敏感に感じ取ったのです。最高法院(サンヘドリン)を招集してイエス様の抹殺を決議したのです。しかも、生き証人であるラザロも殺そうとしているのです(ヨハネ11:45-12:9-10)。神様はイエス様と共におられたのです。数々の力ある業がそのことを証明しているのです。ご自身の栄光をイエス様によって現わされたのです。伝統的なメシア思想に慣れ親しんでいる人々はイエス様に権力者である王の姿を重ね合わせたのです。民族の解放者としての圧倒的な力を期待しているのです。イエス様は彼らのメシア理解を根底から覆(くつがえ)されるのです。イザヤの預言にあるように「苦難の僕」として最後まで歩まれるのです。ご自身の死によって「救い」が訪れることを宣言されたのです。多くの人はイエス様に失望したのです。しかし、神様はこれらの人のために再び栄光を現わされるのです。


*律法によれば、石打の刑は「霊媒や口寄せをする者」(レビ記20:27)、「他の神々を礼拝する者」(申命記13:10)、「安息日を犯した者」(民数記15:35)、「神様を冒涜する者」(レビ記24:14)に適用されるのです。以前、イエス様はご自身を石打の刑で殺そうとする祭司長たちやファリサイ派の人々に「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか」と質問されたのです。彼らは「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒瀆したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ」と言って罪状を明らかにしたのです(ヨハネ10:31-33)。今回も、イエス様は「天に上げられる」という言葉で「神様の独り子であること」を鮮明にされたのです。十字架上の死を経て復活し、神様の下へ帰られることを予告されたのです。ユダヤ教のメシアから全人類に「永遠の命」を与える「救い主」になられるのです。一方、群衆は従来のメシア像に固執するのです。イエス様は「神様のお約束」を信じるように促(うなが)されたのです。ご自身を闇に輝く光に例えて「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。・・光のあるうちに歩きなさい」と命じられたのです。ユダヤ人たちにも決断を迫られたのです。イエス様は終わりの日が来る前にこの世に遣わされたのです。神様にとって1000年は一日に等しいのです。一人でも救おうと忍耐されているのです。終わりの日がいつかは誰にも分らないのです。しかし、確実に突然起こるのです。


*イエス様はご自身を主語として語られました。「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」(ヨハネ8:58)、「わたしは彼ら(ご自身を信じる人々)に永遠の命を与える」、あるいは「わたしと父(神様)とは一つである」と言われたのです(ヨハネ10:28-30)。ご自身を「安息日の主」(マタイ12:8)、エルサレム神殿を「わたしの家」と呼ばれたのです(マルコ11:17)。罪深い女性に「罪の赦し」を一方的に宣言されたのです(ルカ7:48)。イエス様の言動はユダヤ教の伝統と律法を順守する人々にとって「神様への冒涜」なのです。イエス様が「神の国」の宣教において死を覚悟されていたことは十分に推測されるのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちはローマ帝国への恭順と協力によって「信仰の自由」を確保したのです。一方、「神様の名」によって貧しい農民や労働者たちを搾取し、私腹を肥やしたのです。イエス様は指導者たちの偽善と腐敗を激しく非難されたのです。彼らは悔い改めることなく既得権益に執着したのです。「神の国」の福音を拒否したのです。イエス様を「石打の刑」ではなく、ローマ帝国への反逆者に適用される十字架刑で殺そうとするのです。当初、民衆の多くはイエス様を支持していました。指導者たちはローマ帝国の脅威を訴えて巧妙に分断するのです。正義が歪(ゆが)められているのです。いつの時代においても、キング牧師の言葉は真実なのです。キリスト信仰を標榜する人々がダブル・スタンダードに陥(おちい)っているのです。「神の国」と「この世」とは両立しないのです。

2025年03月23日

「神殿政治の腐敗」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書11章1節から20節


一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけるとイエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。


翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。


それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。


翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。

(注)

・オリーブ山:エルサレムの東にある高い丘のことです。

・ベトファゲ:場所については不明です。

・ベタニア:エルサレムの東南およそ3.2kmnに位置しています。

・まだ誰も乗ったことのない: 聖別された動物であることを表しています。民数記19:2、申命記21:3、サムエル記上6:7をお読み下さい。

・多くの人が自分の服を道に敷き・・:イスラエルの王あるいは祭りの行列を想起させます。列王記下9:13を参照して下さい。

・葉の付いた枝:福音書記者ヨハネのみ仮庵祭の時に用いられた「棕櫚(しゅろ)の枝」として表現しています。

●仮庵祭は神様が圧政に喘ぐスラエルの人々をエジプトの国から導き出したとき、仮庵(かりいお)に住まわせられたことを記念する祭りです。レビ記23:39―43に記述されています。


・ホサナ:文字通りの意味は「今救って下さい」です。ここでは、神様を賛美する言葉となっています。


・いちじくの木:イスラエルは実を結ばないいちじくの木に例えられたのです(ホセア書9:10)。


・エルサレム神殿:イスラエルの宗教センターであるだけでなく、政治的機能の中枢を担っています。ヘロデ大王(紀元前37年-4年)によって再建されました。後にローマ軍によって徹底的に破壊されたのです(紀元後70年)。


・両替:献金するためには各国に流通している通貨をユダヤの銀貨シェケルに交換する必要がありました。

・祈りの家:

■また、主のもとに集って来た異邦人(外国人たち)が/主に仕え、主の名を愛し、その僕となり/安息日を守り、それを汚すことなく/わたしの契約を固く守るなら わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。(イザヤ書:56:6-7)

・強盗の巣:

■主からエレミヤに臨んだ言葉。主の神殿の門に立ち、この言葉をもって呼びかけよ。そして、言え。「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。そうすれば、わたしはお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。しかし見よ、お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。(エレミヤ書:7:1-11)

・ユダヤ人の祭り:ヨハネの福音書には過越祭(3月か4月)、仮庵祭(10月)、神殿奉献祭(12月)が登場します。他に、新年祭、春の七週祭があります。

・受難週:イエス様がエルサレムに入城されてから復活の日の前日までの一週間を指しています。各教派によって呼び方が異なっています。

・シロ:エルサレムの北約29kmの所にあった聖なる町です。士師の時代(紀元前12世紀の頃)に宗教センターとしての役割を担っていました。紀元前11世紀にペリシテ人によって滅ぼされたのです。

(メッセージの要旨)


*今年のイースターは4月20日です。神様の主権はたびたびこの世の支配者、諸外国の勢力、サタン(悪魔)によって侵されたのです。油注がれた者-士師、預言者、王など-を用いて略奪者たちを打倒してご自身が主権者であることを証明されたのです。終わりの時代に、神様が遣わされたイエス様はガリラヤの村々に希望に満ちたメッセージ「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」を届けられたのです(マルコ1:15)。イエス様の教えと力ある業の評判は広まっていました。多くの人が一行に加わったのです。民衆がエルサレムの城門の外に出てイエス様を歓迎したのです。イスラエルを取り戻す政治的指導者-民族の解放者-としての特別の力を確信したからです。ホサナには「メシア」の到来を待ち続けた人々の喜びが溢(あふ)れているのです。ファリサイ派の人々は民衆を黙らせようとしたのです。イエス様は民衆を力で抑圧しても「石が叫びだす」と言われたのです(ルカ19:39-40)。一方、イエス様はエルサレムの入城に先立って「もしこの日に、お前(エルサレム)も平和の道をわきまえていたなら(人々を抑圧して偽りの平和を作ろうとしなければ)神様の裁きを招かなかったであろう」と言われたのです。エルサレムが後に遭遇する悲劇と神殿崩壊に涙を流されたのです(ルカ19:41-44)。イエス様は民衆の「声なき声」に応えて神殿政治の腐敗を激しく告発されたのです。エルサレム入城、権力者たちとの対立、政治犯としての処刑、死後三日目の復活を通して「神の国」の到来の意味が鮮明になるのです。

*イエス様はこれまで過越際(ヨハネ2:13)、ユダヤ人の祭り(ヨハネ5:1)、仮庵祭(ヨハネ7:10)、神殿奉献記念祭(ヨハネ10:22)などに巡礼されているのです。今回は最後の機会となるのです。預言者ゼカリヤの言葉「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って」が実現したのです(ゼカリヤ書9:9)。イエス様は権力者たちの罪を公にし、天罰が下ることを宣告するために来られたのです。多くの人が自分の上着、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いたのです。「彼らはおのおの急いで自分の上着を脱ぎ、階段の上にいたイエフの足元に敷いた。そして角笛を吹き鳴らし、『イエフが王となった』と宣言した」を想起させるのです(列王記下9:13)。ローマ帝国の圧政に苦しむ民衆はイスラエルを諸外国の敵から守り、繁栄させたダビデ王の再来に歓喜したのです。イエス様はガリラヤで宣教を開始されました。今、新しい「ユダヤ人の王」としてエルサレムに凱旋(がいせん)されたのです。民衆はイエス様に「救い主」としてだけでなく、社会的、政治的解放者としての役割を期待したのです。イエス様は民衆の労苦の原因を明らかにされたのです。民衆の怒りが神殿政治を担う人々に向かっているのです。社会的地位と既得権益に執着する指導者たちに不安と恐れが生じたのです。イエス様を神様の冒涜者、反逆者として処刑するために謀議したのです。

*イエス様はエルサレム神殿の境内に入り、周囲を一瞥(いちべつ)しておられます。計画の実行に向けて事前に周到な準備をされたのです。その後、ベタニアへ向かわれたのです。翌日、もう一度神殿に来られたのです。商売人たちを追い出し、両替人たちの台や鳩の販売人たちの腰掛けをひっくり返されたのです。境内の中で物を運ぶこともお許しにならなかったのです。イエス様は怒りに任せて、突発的、感情的に行動されたのではないのです。神殿はイスラエルの民の心の拠り所であり、生きる力なのです。ところが、偽善と不正に満ちているのです。イエス様は実力行使によって神殿機能を一時的に停止されたのです。「神様のお怒り」を人々に見える形で表現されたのです。「神の国」が到来していることを宣言されたのです。イエス様の行動が神殿礼拝の商業化や悪徳商人たちに対する非難として語られているのです。捧げ物によって罪の赦しを得ようとする巡礼者たちの霊性の欠如や偽善性への批判として説明されているのです。いずれの解釈も本質的な問題を見落としているのです。神殿は純粋に人々の信仰のセンターではないのです。それ以上の存在なのです。イスラエルの社会・政治・経済を統治しているのです。最高議決機関(サンヘドリン)が開かれ、大祭司による裁判も行われているのです。生活に大きく影響する布告や命令が出されているのです。外国通貨の汚れを避けるために自国通貨(シェケル)へ両替させているのです。中央銀行であり、莫大な富を保管する金庫なのです。ローマ帝国に協力して民衆を苦しめている機関でもあるのです。

*福音は人間のすべての分野に及ぶのです。「罪の赦し」に縮小されてはならないのです。エルサレム神殿は神聖さを装い、うわべだけの儀式を執(と)り行っているのです。「神様の御心」である正義と隣人愛を軽んじ、貧しい人々を抑圧する機関に堕(だ)しているのです。神殿の境内における貪欲な商人たちに対するイエス様の怒りには目に見える現象以上の深い意味が込められているのです。イスラエルの政治と経済を私物化する指導者たちへの激しい非難だったのです。民衆の心の内を代弁する政治的な行動だったのです。他の三福音書の記述に比べるとマルコはこの点を強調しているのです。イエス様は両替人や鳩の販売人たちを追い出しただけでなく、弟子たちと共にエルサレム神殿の広大な境内を封鎖し、神殿礼拝と必要な商業活動を阻止されたのです。平時としては前代未聞の出来事です。イエス様が商人たちに使われた「強盗の巣」はエレミヤ書からの引用です。この言葉は境内にいたすべての人に過去の歴史を思い出させるのです。古代においてもイスラエルは神様を試み、反抗し、戒めを守らなかったのです。憤られた神様はシロにある聖所-人間によって張られた幕屋-を敵の手に渡されたのです(詩篇78:56,60)。エレミヤの時代にも、神様は「わたしの名によって呼ばれ、お前たちが依り頼んでいるこの神殿・・に対して、わたしはシロにしたようにする」と言われたのです(エレミヤ書7:14)。イエス様は指導者たちが悔い改めなければ、いちじくの木が根元から枯れたように、神殿が完全に崩壊することを予告されたのです。

*イエス様は「神の国」の到来を福音として宣教されたのです。民衆の熱烈な歓迎はイスラエルの政治的な安定を危うくする可能性があるのです。現状の平和を維持したい指導者たちは問題の解決に苦慮しているのです。イエス様は権力者たちを恐れませんでした。以前、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て「ヘロデ(ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパス)があなたを殺そうとしています」と警告したのです。イエス様は「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい」と言われたのです(ルカ13:32)。武力でローマ帝国に抵抗している熱心党(ゼーロータイ)が用いたあだ名-狐-によってヘロデを批判されたのです。イエス様は神殿の重要な宗教儀式や統治機能を一時的に停止させられたのです。神殿政治を担う指導者たちの不信仰と腐敗を公然と非難されたのです。祭司長たちやファリサイ派の人々は「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の土地も国民も奪ってしまうだろう」と言ったのです(ヨハネ11:47-48)。祭司長たちや律法学者たちは旧約聖書に精通しているのです。自分たちの偽善と不正を認識しているのです。しかし、悔い改めることはなかったのです。イエス様を殺すために画策するのです。「神様の御心」を軽んじる行動が後に重大な結果をもたらすのです。熱烈に歓迎した民衆の中にも変化が起きているのです。「神の国」の到来を信じた人々と指導者たちに同調する人々に分かれるのです。

2025年03月16日

「神様の審判」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書16章19節から31節


「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって(宴席にいる)アブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬(ほうむ)られた。そして、金持ちは陰府(よみ)でさいなまれながら目を上げると、(宴席で)アブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前(あなた)は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前(あなた)はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前(あなた)たちの間には大きな淵(ふち)があって、ここからお前(あなた)たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣(つか)わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前(あなた)の兄弟たちにはモーセと預言者(たち)がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者(たち)の中からだれかが兄弟(たち)のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者(たち)に耳を傾けないのなら、たとえ死者(たち)の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう(彼らはその事実を受け入れないだろう)。』」


(注)

・ラザロ:死者から蘇(よみがえ)ったラザロとは別人です(ヨハネ11)。

・犬:ユダヤ人たちにとって汚れた動物です。人に用いられる時、軽蔑のニュアンスが含まれています。ラザロは社会から排斥されていたことを示しています。豚も汚れた動物と見なされていました。

・アブラハム:神様から直接祝福を受けた人です。

■主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」(創世記12:1-3)

・モーセ五書:旧約聖書に編纂(へんさん)されている創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のことです。

・陰府:すべての死者が集められた暗い世界のことです。「神様の御心」に反する行いをした人々に永遠の罰が下される場所として表現されています。ただ、イエス様は死者が陰府に留め置かれるのは最後の審判の前かその後かを明確にしておられないのです。

・立場の逆転:イエス様の平地の説教(抜粋)


■さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」(ルカ6:20-26)

●不幸である:表現が和らげられています。「災いあれ」と訳すべきです。

・ファリサイ派の人々:律法を日常生活に厳格に適用した人々です。イエス様はこれらの人を偽善者と呼ばれたのです。

・律法学者たち:律法に精通している学者であり、文書を作成するエリート官僚です。イエス様に敵対していました。

・イエス様はファリサイ派の人々や律法学者たちの偽善を厳しく非難し、天罰を宣告されたのです。以下はその一部です。

■律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ(に災いあれ)。薄荷(はっか)、いのんど、茴香(ういきょう)の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。(マタイ23:23)

●薄荷、いのんど,茴香はいずれも最も小さなハーブです。

(メッセージの要旨)

*キリスト信仰における最大の敵は高慢です。自分を低くして「神様と隣人」に奉仕するのです。富に対する姿勢もその人の「救い」を決定づけるのです。ところが、イエス様の教えと実像が恣意的(しいてき)に変容されているのです。信仰と富が調和するかのように語られているのです。しかし、両者は相容れないのです。ある時、イエス様は弟子たちに「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を疎(うと)んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と言われたのです。これを聞いていたお金に執着するファリサイ派の人々(と律法学者たち)がイエス様を嘲笑(あざわら)ったのです。イエス様は「神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神には忌(い)み嫌われるものだ」と明言されたのです(ルカ16:13-15)。「神様の御心」に沿って富を用いない人々の死後の状況が事前に明らかにされたのです。キリスト信仰の土台は旧約聖書なのです。最も重要な二つの戒めを基本理念としているのです。「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、神である主を愛すること」(申命記6:4-5)、「隣人を自分のように愛すること」(レビ記19:18)を実行することによって「救い」に与(あずか)る信仰なのです(マルコ12:30-31)。アブラハムが言うように、モーセの律法と預言者(たち)の言葉に耳を傾けるのです。イエス様の教えと力ある業を信じるのです。「神の国」の建設に参画するのです。

*イエス様はファリサイ派の人々や律法学者たちを偽善者と呼ばれたのです。これらの人はモーセの座について律法を教えているのですが、それらを実行しないのです。当時の金持ちは裕福な特権階級に属する人々と代々祭司職を受け継いできた人々の二つのグループから成り立っていました。イスラエルの人口の約5%です。前者の多くは大土地所有者です。人々は貧しさに喘(あえ)いでいました。最低限の必需品を確保することにも苦労しているのです。多くはわずかな土地を持っている小作人と土地を持たない労働者でした。小作人たちは収穫した農産物などからローマ帝国へ人頭税を上納し、国内では独自の神殿税を納めたのです。しかも、干ばつや天候不順、家畜や農産物の病気などに翻弄(ほんろう)されたのです。土地を担保に借金した後返済が滞(とどこお)り、土地を手放す小作人も少なからずいたのです。労働者たちは仕事を得るために日々労働市場に出向いたのです。競争は激しく、雇い主から提示された安い賃金を拒否する余裕はなかったのです(マタイ20:1-16)。ヤコブは金持たちの強欲と運命について「畑の刈り取りをした労働者(たち)にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声を上げています。刈り入れをした人たちの叫びが、万軍の主の耳に届いています。あなたがたは、地上で贅沢(ぜいたく)に暮らし、快楽にふけり、屠(ほふ)られる日のために自分の心を肥やしたのです」と記述しています(ヤコブ書5:4-5)。神様は労働者や農民たちの過酷な状況と悲痛な叫びをご存じなのです。労苦に報いて下さるのです。

*紫の衣や柔らかい麻布は金持ちであることの証明です。この人は毎日贅沢に暮らし、富を浪費していたのです。一方、ラザロは金持ちの食卓から落ちる食べ物に依存しなければ生きていけないほどに窮乏していたのです。土地を失った小作人たちやその日の仕事に就けなかった労働者たちは悲惨でした。物乞いをして日々の糧を得ている人々もいたのです。ラザロはそういう境遇に置かれた人々の一人であったかも知れないのです。金持ちが門前に横たわっているラザロに援助の手を差し伸べることはなかったのです。この世の生活がどのようなものであっても人間は必ず死を迎えるのです。この点においてすべての人は平等なのです。金持ちもラザロも共に死んだのです。神様が二人を裁かれたことは明白です。ラザロは天使たちによってアブラハムの懐(ふところ)-パラダイス-に連れて行かれました。イエス様は「東から西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に宴会の席に着く」とも表現されています(マタイ8:11)。ところが、金持ちは陰府の炎でさいなまれているのです。ラザロと自分の運命を分けた基準について質問する金持ちに、アブラハムは「子よ、思い出すがよい。お前は生きている間に良いものを受け、ラザロのほうは悪いものを受けた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」と答えています。それぞれの生前の生活状況が説明されているのです。信仰心の有無については言及していないのです。神様はすべてをご存じなのです。公平で憐れみ深いお方なのです。「正しい裁き」が行われたのです。

*金持ちはアブラハムに憐れみを乞(こ)うています。何の関りもなかったラザロを用いて自分の苦しみを和らげようとするのです。ただ、過ぎ去った時は取り戻せないのです。この金持ちは永遠に苦しむのです。貧しいしい人々に富を施さなかった金持ちは同様の運命を辿(たど)るのです。イエス様は「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易(やさ)しい」と言われたのです(ルカ18:25)。この金持ちは自分の「救い」を断念すると、関心を五人の兄弟へと移すのです。彼らに「悔い改め」を警告するために、死んだ者たちの中からラザロを選んで遣(つか)わそうとするのです。この金持ちの自己中心的な性格がよく表れています。神様はモーセを通して「イスラエルよ、今、あなた(たち)の神、主があなた(たち)に求めておられることは何か。・・今日あなた(たち)に命じる主の戒めと掟を守って、あなた(たち)が幸せになることではないか」(申命記10:12-13)、預言者エレミヤによって「公正と正義(の業)を行い、搾取されている者(たち)を虐げる者(たち)の手から救いなさい。寄留者、孤児、寡婦(たち)を抑圧したり、虐待したりしてはならない。・・」(エレミヤ書22:3)と語られたのです。モーセと預言者(たち)に耳を傾けない人々は死者が復活してもその事実を信じないのです。神様はアブラハム、モーセ、預言者たちに御心を伝えられたのです。これらの人の生き方と言葉は「永遠の命」に至る道を指し示しているのです。キリストの信徒たちは旧約聖書の重要性を再確認するのです。


*イエス様は前もって死後の世界を見せて下さったのです。そこは二つに分けられているのです。どちらに行くかは生前の「行い」によるのです。キリスト信仰において「行いの重要性」が軽視されているのです。キリストの信徒たちの中には「行い」を欠いた信仰によって「救い」が得られるかのように誤解している人もいるのです。神様はアブラハムに「祝福の要件」を提示されたのです。息子たちと子孫に「主の道」を守らせ、「正義」を行わせることでした(創世記18:19)。イエス様も「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。・・あなたがたの義(正義)が律法学者たちやファリサイ派の人々の義(正義)にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と断言されたのです(マタイ5:17-20)。強盗の巣と化したエルサレム神殿を激しく非難されたのです。縄で鞭(むち)を作り、羊や牛をすべて境内から追い出されたのです。両替人の金をまき散らし、その台を倒されたのです(ヨハネ2:13-22)。イエス様の厳しいお言葉と揺るぎない姿勢が意図的に和らげられているのです。真のお姿を曖昧(あいまい)にしてはならないのです。世界では権力者たちが信仰心の篤さを装っているのです。律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実をないがしろにしているのです。神様が正しく裁いて下さることを切に祈るのです。

2025年03月09日

「自分の十字架を背負いなさい」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書16章13節から28節

イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ(ヨナの子シモン)、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力(門)もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。


このとき(それ)から、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者(躓きの石)。神のこと(ご計画)を思わず、人間のことを思っている。」それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いる(裁く)のである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者(たち)がいる。」

(注)

・フィリポ・カイサリア:ガリラヤ湖の北32kmにある町です。聖書地図を参照して下さい。

12使徒:

■イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らは御もとに来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、宣教に遣わし、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。こうして十二人を任命された。シモンにはペトロ(岩)という名を付けられた。ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。(マルコ3:13-19)

・人の子:三つの異なった意味があります。「最後の審判者」、「苦難の僕」、そして、いわゆる「人間」です。

・洗礼者ヨハネ:イエス様は預言者以上の預言者と言われました(ルカ7:18-35)。イエス様との関係はマタイ14:1-2に記述されています。一般的に預言者の称号は奇跡、預言、裁きなどを行う人々に与えられていました。

・エリヤ:紀元前900年頃、北王国(イスラエル)の悪名高いアハブ王の治世に登場した預言者です。神様はエリヤを通して、死者を甦らせ、天から火を送られたのです。列王記上17-19をお読み下さい。「癒しの業」はイエス様の「力ある業」と似ているのです(列王記上17:17-24)。

・エレミヤ:紀元前627年頃に召命を受けた預言者です。南王国(ユダ)の王ヨシヤ、ヨヤキム、エルサレムの住民がバビロン捕囚となる時のゼデキヤの治世まで活動しました。エルサレム神殿が「強盗の巣窟」になっていることを厳しく批判しました(エレミヤ書7:11)。

・メシア(キリスト):油注がれた者-神様から聖別された者-という意味です。王や祭司の就任式において油が注がれたのです。その様子はレビ記21:10-12に記述されています。

・生ける神の子:「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という神様の御声が証明しています(マタイ17:5)。詩編2:7、イザヤ書42:1も参照して下さい。

・バルヨナ:ペトロはヨナの息子です。別の個所ではヨハネの息子と呼ばれています(ヨハネ1:42)。

・陰府の門:死の力、闇の支配を表しています。

・天の国(神の国):神様の主権・支配のことです。死後に行く「天国」のことではありません。

・天の国の鍵:神様の支配(信仰共同体)に受け入れる権限を象徴しています。悪霊の追い出し(マタイ12:29)、罪の赦し(マタイ26:28)、指示・命令(マタイ28:20)のことです。

・サタン:デビル、悪魔、誘惑する者と呼ばれています。

・人の子がその国と共に来るのを見るまでは・・:弟子たちの中には自分たちの存命中に人の子がすぐにやって来ると期待している人々がいたのです。

(メッセージの要旨)

*すべての預言者と律法が預言したのは(洗礼者)ヨハネの時までなのです(マタイ11:13)。終わりの時に、神様がこの世に直接介入されたのです。独り子イエス様によって御心を語られるのです。「神の国」が到来しているのです。民衆がイエス様を洗礼者ヨハネ、エリヤ、エレミヤ、預言者(たち)の一人と重ね合わせるのは当然です。イエス様の教えと御業が預言者たちの働きと一致しているからです。しかし、イエス様は弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われるのです。イエス様はご自身を定義して「人の子は安息日の主である」(マルコ2:28)、「アブラハムが生まれる前からわたしはある」(ヨハネ8:58)、「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10:30)と言われました。自己認識が神様の言葉を託された預言者たちと決定的に異なるのです。イエス様はユダヤ教の伝統の中で培われて来たメシア観を否定したのではなく、修正されたのです。偉大な預言者の一人であるだけでなく、「神様の御言葉」なのです。道であり、真理であり、命なのです(ヨハネ14:6)。ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えています。弟子の一人ナタナエルは悔い改めて「あなたは神の子です」と言ったのです(ヨハネ1:49)。後に「復活の主」に出会ったトマスは不信仰を恥じて「わたしの主、わたしの神よ」と告白しているのです(ヨハネ20:28)。イエス様は「神の国」を宣教するために生涯を捧げられたのです。「神の子」を信じるキリストの信徒たちも自分の十字架を背負って証しするのです。

*民衆はメシアを待ち望んでいて、もしかしたらヨハネがメシアではないかと心の中で考えていたのです(ルカ3:15)。イエス様が宣教を開始されるまでに、洗礼者ヨハネはすでに「最後の審判が近いこと」、「悔い改めがなければ救われないこと」を宣教していました。ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼(バプテスマ)を受けに来たのを見て「毒蛇(まむし)の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結べ・・」と警告したのです(マタイ3:7-10)。エリヤもイエス様と同じような「力ある業」を行っています。数年に及ぶ干ばつを預言し、貧しい寡婦の死んだ息子を蘇らせたのです(列王記上17)。天からの火によって、異教の神バアルに仕える預言者たちとの闘いに勝利したのです(列王記上18)。アハブ王と妻イゼベルの偶像崇拝を非難して命を狙われました。後に、火の車に引かれた戦車に乗ってそのままの姿で天に上げられたのです(列王記 下2:11)。エレミヤは「主はこう言われる。公正と正義を行い、搾取されている者(たち)を虐げる者(たち)の手から救いなさい。寄留者(たち)、孤児(たち)、寡婦(たち)を抑圧したり虐待したりしてはならない。また無実の人(たち)の血をこの場所で流してはならない」と言って、ユダの王たちに警鐘を鳴らしたのです(エレミヤ書22:3)。預言者たちが現状を容認することはなかったのです。御言葉によって偶像礼拝を非難し、社会的、政治的正義を確立させようとしたのです。それ故、徹底的に迫害されたのです。

*使徒たちはもとより、弟子たちは自分の十字架を背負ったのです。イエス様は、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられた時、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になったのです。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。二人はすぐに網を捨てて従ったのです。さらに、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが父ゼベダイと一緒に舟の中で網の手入れをしているのを御覧になったのです。二人をお呼びになったのです。彼らはすぐに舟と父を残してイエス様に従ったのです(マタイ4:18-22)。イエス様はマタイ(レビ)が収税所に座っているのを見て「わたしに従いなさい」と言われました。彼は何もかも捨ててイエス様に従ったのです(ルカ5:27-28)。イエス様はフィリポにも「わたしに従いなさい」と言われました。彼も直ちに従ったのです(ヨハネ1:43)。トマスはイエス様と共に死ぬ覚悟を表明し、仲間の弟子たちにもそれを求めています(ヨハネ11:15)。熱心党(信仰を貫くために武力でローマ帝国に抵抗しているグループ)に属するもう一人のシモンのような使徒もいました。バルトロマイ、アルファイの子ヤコブとタダイの詳細は不明です。異例のことですが、悪霊を追い出していただいたマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナなどの女性の弟子たちもいたのです。自分の持ち物を出し合って一行に奉仕していたのです(ルカ8:1-3)。町や村に派遣された72人の弟子たちがいました。「神の国」の宣教は敵視され困難を極めたのです(ルカ10:1-12)。

 

*神様は新しい天地創造を開始されたのです。預言者たちに代わって「神の子」を遣わされたのです。イエス様は弟子たちの認識を尋ねられたのです。ペトロが率先して「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたのです。的確な答えをしたので「この岩(ペトロ)の上にわたしの教会を建てる・・」と言われたのです。ところが、すぐ後にペトロは厳しいお言葉で叱責されているのです。ペトロはイエス様の重要な教え-山上の説教-を直接聞いたのです(マタイ5-7)。家に来られた時には姑の病を治していただいたのです。イエス様は多くの病人や体の不自由な人々を癒されたのです。ペトロはそれらの証人なのです(マタイ9)。五つのパンと二匹の魚で五千人に食べ物を与える時には手伝い、湖の上を少しですが歩いたのです(マタイ14)。イエス様に従ってヤコブ、ヨハネと共に高い山に上ったのです。イエス様がモーセとエリヤと語られているのを目撃したのです(マタイ17:1-8)。ペトロは「主よ、わたしたちがここにいるのは、素晴らしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ立てましょう」と言ったのです。偉大な預言者たちとの会話に割り込み、奇妙な提案さえしているのです。その時、光り輝く雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が聞こえたのです。神様はイエス様が独り子であることを認められたのです。ペトロは神様から直接ご指示を受けたのです。イエス様の教えと業(わざ)はすべての判断基準となるのです。ペトロは迫害を恐れずに大胆に証ししたのです。 


*キリストの信徒たちがペトロや他の弟子たちのようにイエス様から直接教えを受け、「力ある業」に接することはないのです。しかし、新約聖書-特に福音書-が伝える「生ける神の子」にお会いすることは出来るのです。聖霊様の働きにより、イエス様はベツレヘムの貧しいヨセフとマリアの家庭に生まれました。猜疑心の強いヘロデ大王に命を狙われ、エジプトへ逃れたのです。イスラエルに戻ってからもガリラヤ地方のナザレに住むことを余儀なくされたのです(マタイ2)。およそ30歳の時に宣教を開始されました。しかし、日々の活動は苦難の連続でした。「人の子には枕する所もない」と言われたのです(ルカ9:58)。「神様の御心」に沿って律法を解釈し、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが求めるのは憐れみであって、生贄(いけにえ)ではない」と宣言されたのです。徴税人たちや罪人たちの救いに心を砕かれたのです(マタイ9:12-13)。一方、ファリサイ派の人々や律法学者たちの不信仰と偽善を非難されたのです。指導者たちはローマの総督ピラトを脅して政治犯に適用される十字架刑で殺させたのです。主は復活されたのです。40日の間「神の国」を語られたのです(使徒1:3)。神と富とに仕えることは出来ないのです(マタイ6:24)。自分を低くすること(マタイ18:1-5)、自分の内に塩味(神様への忠誠心)を持つこと(マルコ9:42-50)がなければ「神の国」に入れないのです。キリストの信徒たちは自分の十字架を背負うのです。「神様と隣人」に奉仕するのです。

2025年03月02日

「あなたがたは分かっていない」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書10章32節から45節

一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「(あなたが)栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

(注)


・人の子:イエス様のことです。


この呼称には三つの意味があります。第一は預言者です(エゼキエル書2:1-3)。第二は天の雲に乗って現れる終わりの時の審判者です(ダニエル書7:13-14)。他に「わたしとわたしの言葉を恥じる者(たち)は、人の子も自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときにその者(たち)を恥じる」があります(ルカ9:26)。イエス様はご自身が審判者であることを明らかにされたのです。第三はこの世の人間を表しているのです(ルカ9:58)。


・ヤコブとヨハネ:後の使徒たちです。


■また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。(マルコ1:19-20)


・栄光:本質的に神様に属するのです。神様は褒(ほ)めたたえられ、尊敬されるお方なのです。


■神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。・・ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者(たち)がいる。(マルコ8:38-9:1)


・杯:旧約聖書において杯は「喜びと救い」、あるいは「災いと苦難」を表しています。ここでは後者のことです。詩篇11:6、イザヤ書51:17,22を参照して下さい。


・洗礼:イエス様や弟子たちの「死」を意味しています。


・偉い人:専制君主のことです。


・身代金:元々、奴隷や牛を買い戻すために支払うお金のことです。出エジプト記21:7-32を参照して下さい。後に、神の民の再生や解放に例える言葉として用いられたのです。イザヤ書43:1-7をご一読下さい。イエス様の十字架の死が旧約聖書の伝統に従って罪の贖(あがな)いの犠牲として解釈されているのです。こうした信仰理解には注意が必要です。イエス様はご自身の生と死と復活によって「神の国」(天の国)-神様の主権-の到来を証しされたのです。「この世」の権力者たちは悔い改めることを拒否したのです。イエス様は分裂をもたらすために来られたのです(ルカ12:49-53)。対立は不可避だったのです。

・多くの人の身代金:全員ではないのです。この点を肝に銘じるのです。

・サマリア:ガリラヤの南に位置しています。ユダヤ人たちがエルサレムへ旅をする時は近道であってもサマリアを通らないで迂回(うかい)したのです。聖書地図を参照して下さい。

・ゲツセマネ:エルサレムの城外にあるオリーブ山の西側のあたりと言われています。

(メッセージの要旨)


*イエス様はすでに二回弟子たちにご自身の死と復活を予告されています。今回で三度目になります。第一回目の時にペトロはイエス様を諫(いさめ)めました。イエス様は「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言って叱責(しっせき)されたのです。ヤコブとヨハネはイエス様の弟子たちが遭遇する苦難を覚悟していました。しかし、二人の願いはキリスト信仰の根本理念から乖離(かいり)しているのです。他の使徒たちも同じ望みを持っていたのです。イエス様は「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」と言われたのです。イエス様は別の機会にもヤコブとヨハネの権威主義を戒めておられます。天に上げられる日が近づいたので、イエス様はガリラヤ宣教を終えてエルサレムに向かうことを決意されました。先に使いの者たちをお遣わしになったのです。イエス様のために準備を整えようとサマリア人の村に入ったのです。人々はイエス様を歓迎しなかったのです。ヤコブとヨハネは尊大にも「主よ、お望みなら、天から火を下し、彼らを焼き滅ぼすように言いましょうか」と言ったのです(ルカ9:51-54)。ユダヤ人とサマリア人の間に不幸な歴史が連綿と続いているのです。イエス様はサマリア宣教に取り組まれるのです。二人は福音宣教の意味を理解していないのです。キリストの信徒たちにとって最大の敵は傲慢です。イエス様は筆舌に尽くしがたい十字架への道を歩まれているのです。ところが、使徒たちの関心事は天上における地位なのです。イエス様に倣(なら)って仕えるのです。


*ヤコブとヨハネはイエス様に召命された最初の弟子たちです。イエス様は十二使徒の中でも特にペトロと二人を選んで特別な機会-会堂長ヤイロの娘の蘇生(ルカ8:40-56)、イエス様のお姿の変容(マルコ9:2-13)、ゲツセマネにおけるイエス様の祈り(マタイ26:36-46)-に立ち会わせられたのです。イエス様が十字架上で処刑される直前の「過越しの食事」-最後の晩餐-を準備したのはペトロとヨハネでした(ヨハネ22:7-13)。ペトロと共にサマリア地方に派遣されたヨハネを通して神様の言葉を受け入れた人々に聖霊様が降ったのです(使徒8:14―17)。ヤコブはヘロデ・アグリッパ王の剣によって殺されました。殉教した最初の使徒となったのです(使徒12:1-2)。ヨハネは初代教会の指導者として働いたのです。ただ、大きな役割を果たしたペトロ、ヤコブ、ヨハネでもキリスト信仰を十分に理解していない時期があったのです。「神の国」-神様の支配-においては「この世」の常識が逆転するのです。ヤコブやヨハネ、他の使徒たちもイエス様の苦難を共に担っているのです。ところが、一方では「この世」の魅力に心を奪われているのです。「この世」の人々が熱心に望んでいるものを求めているのです。この点において、非難されているファリサイ派の人々や律法学者たちと違いはないのです。イエス様は「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」と命じられたのです。地上で徹底して仕えることによって天上の願いは叶えられるのです。


*ヨハネの高慢さは他にも見られるのです。イエス様に「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」と言っています。悪霊を追い出している他のグループの人を自分たちの支配下に置こうとしているのです。イエス様は「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。・・キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」と言われたのです(マルコ9:38-41)。「神の国」を独占する権限など誰にもないのです。キリスト信仰を表明していない人は多いのです。しかし、信仰の有無に関わらず「隣人愛」を実践している人がおられるのです。これらの人の働きを妨げてはないのです。イエス様は弟子たちの無理解に憤(いきどお)られたことがありました。イエス様が怒られた数少ない例の一つです。人々が子どもたちを連れて来たのです。弟子たちは彼らを叱ったのです。イエス様はこれを見て「子供たちをわたしのところに来させなさい。・・神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように(自分を低くして)神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と明言されたのです(マルコ10:13-15)。ここに「救いの基準」が示されているのです。社会の底辺で喘(あえ)ぐ人々に心を砕き、労苦を共にする人々だけが「神の国」に招き入れられるのです。


*「神の国」に対する誤解は使徒や弟子たちだけではないのです。今日のキリストの信徒たちにも同様のことが言えるのです。イエス様の死は「定められた神様のご計画」、「罪の贖いのための犠牲」として語られています。このような信仰理解はイエス様の復活を通して形成され、時代を経て受け継がれて来たものです。しかし、イエス様が誕生以来「十字架の死」を目指して歩まれたかのように結論付けることは歴史的事実と一致しないのです。「神の国」の福音を変容することにもなるのです。イエス様が十字架上で処刑された理由は「神の国」の福音がユダヤ教の律法と対立して解釈されたことです。権力と既得権益に執着する指導者たちが「悔い改め」を拒否したことにあるのです。イエス様はご自身を「神の子」と称し、神様から裁きを委ねられていることを宣言されたのです。イエス様の主張は「神様への冒涜(ぼうとく)」そのものなのです。指導者たちは律法を軽視するイエス様を律法の規定に従って裁いたのです。ところが、「神様を冒涜する者」として石打の刑で処刑されたのではないのです。ローマ帝国の治安を脅かす「政治犯」として処刑されたのです。イエス様の罪状書きにも「ユダヤ人の王」と記されているのです(マルコ15:26)。「神の国」の到来は「神様が主権者であること」を鮮明にするのです。「この世」の権力者たちはその事実を徹底的に無視するのです。イエス様の十字架の死は「神の国」の宣教を担われたことによる当然の帰結なのです。ヤコブとヨハネは「神の国」を深く理解していないのです。「他山の石」とするのです。


*「皆に仕える者になること」、「子供のようになること」が個人的な謙遜の勧めとして理解されているのです。権力者や金持ちたちに苦しめられている貧しい人々、虐げられた人々の側に立って共に歩むことなのです。これらの人を貧しさや不合理の中に閉じ込め、抑圧している人々に政治・経済・社会の仕組みを改めさせることなのです。イエス様に従えば社会的地位や既得権益を失うかも知れないのです。それ故、弟子たちに覚悟を求められたのです。ヤコブとヨハネはイエス様のために苦難の杯を飲むことが出来るのです。ただ、二人の動機は不純です。権力の座に着くためにそのようにするからです。イエス様は使徒たちを「分かっていない」と言って叱責されたのです。イエス様の復活を経験したこれらの人は新たな歩みを始めるのです。迫害を恐れずに「復活の主」を大胆に証ししたのです(使徒2:22-36)。初代教会の礎(いしずえ)を築いたのです。イエス様は生と死と復活を通して「神の国」を証しされたのです。「神の国」はキリスト信仰の根本理念であり、真髄(しんずい)なのです。キリストの信徒たちの使命は「神の国」を建設することなのです。ヤコブやヨハネのような誤った信仰理解に陥(おちい)ることがあるのです。それぞれの信仰のあり方を日々内省するのです。イエス様は多大な犠牲を払われたのです。「行いを欠いた信仰」によって「永遠の命」に与ることは出来ないのです(マタイ25:31-46)。神学や教義にではなく、イエス様のご生涯に目を向けるのです。信仰における驕(おご)りの空しさが分かるのです。

2025年02月23日

「灯をともしていなさい」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書12章35節から56節

(イエスは弟子たちに言われた。)「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕(奴隷)たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」


そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、主は言われた。「主人が召し使い(奴隷)たちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し(同僚たちから切り離し)、不忠実な者たち(不信仰な人々)と同じ目に遭わせる。主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」

イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。偽善者(たち)よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」

(注)

・腰に帯を締め:真剣に、緊張感を持ってという意味が込められています。出エジプト記12:11をお読み下さい。

・灯をともしていなさい:「十人の乙女のたとえ」(マタイ25:1-13)を参照して下さい。

・主人の給仕:弟子たちの足を洗われたイエス様のお姿を想起させます(ヨハネ13:4-8)。

・管理人:重要な職務を任された有能な奴隷(捕虜など)のことです。主人の信頼が厚いことの証明です。そして、それに相応しい結果を求められるのです。他にも類似した「ムナのたとえ話」があります(ルカ19:11-27)。


・人の子:呼称には三つの意味があります。第一は預言者です(エゼキエル書2:1-3)。第二は天の雲に乗って現れる終わりの時の審判者です(ダニエル書7:13-14)。他に「わたしとわたしの言葉を恥じる者(たち)は、人の子も自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときにその者(たち)を恥じる」があります(ルカ9:26)。イエス様はご自身が審判者であることを明らかにされたのです。第三はこの世の人間を表しているのです(ルカ9:58)。


・火:「神様のメッセージ」、あるいは「神様の御力」の広がりを表す言葉です。「清め」(民数記31:23)、「裁き」(列王記下1:10-14)のために用いられます。

・洗礼:イエス様の死-死と復活と昇天-を意味しています。イエス様は神様に銘じられた使命を全身全霊で果たされたのです。以前の預言者たちも経験したのです。エレミヤ書20:9、アモス書3:8を参照して下さい。

・平和:福音の核心部分です。日本語訳では「安らか」(ルカ2:29)、「安心」(7:50)となっている個所があります。「救い主」が拒絶された時には分裂が待っているのです。

・平和の君:イエス様の尊称の一つです。

■ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。(イザヤ書9:5-6)

・一ムナ:ギリシャの銀貨です。一般的労働者の約3か月分の賃金に相当します。

・神の国(天の国):誤解されることも多いのですが、死後に行く天国のことではありません。イエス様の中心メッセージです。神様の全き支配のことです。神様が人間の心と社会の隅々にまで真に神様として崇められ、あらゆる価値の基準とされること、それを通して正義と平和の秩序が実現されることです。旧約聖書は神の国の到来を待ち望むイスラエルの信仰を書き記したものです。神様はイスラエルの民をエジプト人の支配から救い出し、砂漠を経て約束の地へ導かれたのです。ご自分に頼る者を決して見捨てられないのです。どのような地上の力にも勝っておられるのです。信頼するに値するお方なのです。イスラエルは異国の支配下で弾圧され、分断され、捕囚の地に連れていかれたのです。その時も、神様は常に自分たちと共におられ、民の身の上を思い,心を痛められたのです。イスラエルの民はこの神様がいつの日か、必ず自分たちを解放して下さることを信じたのです。

(メッセージの要旨)

*「聖書に忠実である」という言葉がよく聞かれます。ところが、大切な御言葉が読み飛ばされていることも事実なのです。その結果、イエス様の実像が変容されているのです。気付く人は必ずしも多くないのです。イエス様はある人に「従いなさい」と言われました。その人は「主よ。あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」と言ったのです。「鋤(すき)に手をかけてから後ろを顧(かえり)みる者は神の国にふさわしくない」と言われたのです(ルカ9:61-62)。弟子には覚悟がいるのです。人は信仰のみによって「救い」に与るのではないのです。「決断と行い」が不可欠なのです。「神の国」に招き入れられるために、イエス様の御跡を辿(たど)るのです。イエス様は分裂をもたらすために来られたのです。寝食を共にし、直接教えを受けた弟子たちさえ理解していないのです。ご自身の死と復活を否定するペトロに「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と厳しく叱責(しっせき)されたのです(マルコ8:31-33)。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と質問する弟子たちには「心を入れ替えなければ天の国に入れない」と警告されたのです(マタイ18:1-5)。復活を信じられないトマスに「手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われたのです(ヨハネ20:24-29)。イエス様が穏やかなお方、従順な小羊であるかのように誤解されているのです。与えられた責務を全力で果たすのです。

*イエス様は日常生活に生起する普通の事柄を取り上げて語られるのです。その目的はご自身の教え-神の国の福音-を人々に分かりやすく伝えることにありました。当時の生活を経験していない今日のキリストの信徒たちに理解することが出来ない内容も少なからずあるのです。他の聖書の個所が大いに助けとなるのです。イエス様はご自身の死と復活を三度も予告しておられます(マタイ20:17-19)。しかも、それが現実に起こったのです。十字架上で処刑されたイエス様は復活されました。四十日にわたって弟子たちに現れて「神の国」について話しをされたのです。その後天に上げられるのですが、二人の天使が「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたイエスは、天に昇って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またお出でになる」と言ったのです(使徒1:6-11)。イエス様の再臨は新しい天地創造の完成の時でもあるのです。人の子(イエス様)は思いがけない時に来られるのです。すべての人がそれぞれの「行い」によって裁かれるのです。主人が帰って来たとき、目を覚ましている僕たち、主人から命じられた職務を忠実に実行している僕たちは幸いなのです。ところが、キリスト信仰の厳しさが曖昧(あいまい)にされているのです。「信じること」で完結しているのです。イエス様は弟子たちに機会あるごとに覚悟を求められたのです。ご自身に従って歩む弟子たちは必ず迫害されるからです。キリスト信仰は厳しいのです。「神様の御心」に沿って生きたかを問う信仰なのです。

*イエス様は主人を軽んじる僕について言及しておられます。主人の帰りが遅いことを利用して、男女の召し使いに暴力を振るい、大切なお金を浪費している僕は主人の思いを知りながら信頼に応えなかったのです。職務を解かれただけでなく、厳しく罰せられたのです。「救い」に与った群れから切り離され、不信仰な人々と同様に扱われることになったのです。主人は僕たちの能力を知っているのです。相互に比較することはないのです。ただ、多くを任した者にはそれに相当する結果を求めるだけなのです。イエス様は別の角度から同じようなたとえ話をされています。ある身分の高い人が十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し「これで商売をしなさい」と言って遠い国に旅立ったのです。その人は帰って来ると、それぞれに取り組み状況を報告させたのです。ある僕は一ムナで十ムナ、別の僕は一ムナで五ムナを儲けたのです。主人は彼らの忠実さを誉め、さらに責任ある仕事を任せたのです。ところが、一ムナを布に包んでしまっておいた僕がいたのです。理由について「失敗を厳しく責めるご主人が恐ろしくて何もしなかったのです」と説明したのです。僕は自分の怠惰を正当化するために責任を主人に転嫁したのです。主人は僕の悪賢さを非難し、一ムナを取り上げたのです。キリストの信徒たちにも様々な資質が与えられているのです。「神様の御心」を実現するために用いるのです。イエス様に倣(なら)って生きることは簡単ではないのです。イエス様の教えの厳しさが原因ではないのです。先ず、キリスト信仰への理解度と覚悟の有無を内省するのです。

*イエス様は「知的信仰」を厳しく批判されたのです。「行い」を伴わない信仰はその人の「救い」に役に立たないのです。「善いサマリア人のたとえ話」はその一例です。追いはぎに襲われて半殺しの状態にあった見知らぬ人を介抱したのは、宗教儀式を司(つかさど)るユダヤ人祭司でも、祭司職の家系を誇るレビ人でもなかったのです。これらの人が蔑(さげす)んでいたサマリア人だったのです。「永遠の命を得るために何をしたら良いでしょうか」と質問する律法の専門家に、イエス様は「あなたも、サマリア人同じようにしなさい」と答えられたのです(ルカ10:25-37)。「行い」が何よりも重要なのです。ところが、この視点が真剣に語られていないのです。ある教会のパンフレットに「信仰とは戒めを守ることや、善い行いを積むことではありません。人が罪の赦しを得るためには、神様の恵みによるしか方法がないのです」と書かれているのです。キリスト信仰と「行い」が分離されているのです。イエス様のご生涯が「十字架の死」にのみ捧げられたかのような誤解を生む要因の一つになっているのです。イエス様のお言葉と旧・新約聖書に忠実であるべきなのです。預言者たちはイスラエルの指導者たちの不信仰と腐敗を非難したのです。イエス様もファリサイ派の人々や律法学者たちの偽善と不正を告発されたのです。悔い改めなければ天罰が下るのです。人間の支配の終わりを告げる「神の国」が到来しているのです。「永遠の命」は「行い」のない信仰-死んでいる信仰(ヤコブ2:17)-によって得られる安価な恵みではないのです。

*神様は預言者イザヤを通して「正義が造り出すものは平和であり/正義が生み出すものは/とこしえに安らかな信頼である。わが民は平和の住みか、安らかな宿/憂いなき休息の場所に住まう」と言われたのです(イザヤ書32:17-18)。イエス様は当時の平和が欺瞞(ぎまん)であることを非難されたのです。ご自身に従う人々に神様を中心とする真の平和の実現に参画するように促されたのです。信仰共同体や家族の中に、イエス様の教えに従った人々とそうでない人々の対立が生まれるのです。「神の国」とこの世は決して調和しないのです。キリスト信仰はその人の「救い」を事前に保証するものではないのです。イエス様は裁き主として再び来られるのです。人々を左右に分けられるのです。右側にいる人々は飢えている人々を食べさせ、のどが渇いている人々に飲ませ、旅人たちに宿を貸し、着る物のない人々に衣服を着せ、病気の人々を見舞い、牢獄にいる人々を訪ねたのです。これらの人に「永遠の命」が与えられたのです(マタイ25:31-46)。イエス様は律法の中で最も重要な掟として「神様と隣人を愛すること」を挙げられました(マルコ12:29-31)。主人が帰って来て全財産を任せる前に管理人の信頼は失墜していたのです。キリストの信徒たちも周到な準備を怠(おこた)れば同様の結果を招くことになるのです。イエス様の再臨に備えて日々自分たちの「行い」を検証するのです。「救い」に至る道は狭くて険(けわ)しいのです。この事実を再確認するのです。終わりの日まで灯を高く掲げて忍耐強く前進するのです。

2025年02月16日

「正義を求める信仰」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書18章1節から8節

イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れ(恐れ)ず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください(相手に対するわたしの主張の正当性を認めて下さい)』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れ(恐れ)ないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわない(煩わす)から、彼女のために(正しい)裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わす(へとへとにさせる)にちがいない。』」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさ(言うこと)を聞きなさい。まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。あなたがたに言っておくが、神はすみやかに(正しく)さばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。

(注)


・寡婦(やもめ)に関する聖書の個所:


■寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦(かふ)や孤児はすべて苦しめてはならない。(出エジプト記22:20―21)


■あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏(おそれ)るべき神、人を偏り見ず、賄賂(わいろ)を取ることをせず、 孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。(申命記10:17-18)


■寄留者や孤児の権利をゆがめてはならない。寡婦の着物を質に取ってはならない。(申命記24:17)


■寄留者、孤児、寡婦の権利をゆがめる者は呪われる。民は皆、「アーメン」と言わねばならない。(申命記27:19)


・レビレイト婚:先祖の名と寡婦の生活を守るための律法の規定です。

■兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。(申命記25:5-6)

・裁判官:イエス様は他の個所で裁判官や調停人に言及されています。

■群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」(ルカ12:13-14)

●先生、ラビ(先生の中の先生)と呼ばれる人々が遺産相続等に関する律法の解釈を行っていたのです。複雑な規定が民数記27:1-11,36:6-9,申命記21:15-17に記述されています。

・不正な裁判官:律法学者たちやファリサイ派の人々は「ラビ」と呼ばれることを好んだのです。裁判を担っていたことが十分に推測されるのです。イエス様はこれらの人の偽善と腐敗を厳しく批判されたのです(マタイ23)。


■律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。(ルカ20:46-47)


■主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。・・」(ルカ11:39)

■金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。」(ルカ16:14-15)

・主の祈り:イエス様が弟子たちに教えられた祈りです。

■だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇(あが)められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧(かて)を今日与えてください。わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』 (マタイ6:9-13)

・神様の正義と愛:

■主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなた(モーセ)をファラオ(エジプトの王)のもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」(出エジプト記3:7-10)


・人の子:


この呼称には三つの意味があります。第一は預言者です(エゼキエル書2:1-3)。第二は天の雲に乗って現れる終わりの時の審判者です(ダニエル書7:13-14)。他に「わたしとわたしの言葉を恥じる者(たち)は、人の子も自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときにその者(たち)を恥じる」があります(ルカ9:26)。イエス様はご自身が審判者であることを明らかにされたのです。第三はこの世の人間を表しているのです(ルカ9:58)。

(メッセージの要旨)


*たとえ話には二人の人物が登場します。一人は社会的地位の高い裁判官、もう一人は社会の底辺にあって日々の糧にも窮するやもめなのです。やもめは何かの件で「相手を裁いて、わたしを守ってください」と願い出たのです。ところが、裁判官は地位を利用して賄賂を求める不正な裁判官だったのです。やもめに特別なお金を支払う余裕などないのです。裁判官にとって、貧しいやもめの訴えを取り上げても実質的な利益はないのです。裁判官はやもめの切実な申し立てを無視したのです。権力の腐敗が無力なやもめを一層苦しめているのです。いつの時代も、公正を旨とするべき権力者たちの不正はなくならないのです。やもめに残された道は裁判官に訴え続けることでした。神様はやもめの権利を守るために律法を定めておられるのです。ところが、「神様の御心」が軽んじられているのです。やもめの人格と権利が否定されているのです。裁判官は社会的地位が高く、豊富な知識と経験を有する権力者なのです。地位も、お金も、支えてくれる人もいないやもめが対等に交渉することなど不可能に近いのです。しかし、やもめは諦(あきら)めることなく、正義の実現を訴え続けたのです。やもめの主張には共同体の一般の人々だけでなく、不正な裁判官も認めざるを得ない正当性があったからです。イスラエルの歴史が証明するように、神様は苦境に喘ぐ人々を決して見捨てられないのです。人々が祈る前から願いをご存じなのです(マタイ6:8)。イエス様は祈ることだけでなく、一人であっても正義を求めて立ち上がることの重要性を教えられたのです。

*神様は預言者たちを通して語られたのです。やもめらへの不当な扱いを決して容認されないのです。権力者たちが悔い改めなければ虐げられた人々に代わって報復されるのです。「もし、あなた(たち)が彼(ら)を苦しめ、彼(ら)がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる」と明言されたのです(出エジプト記22:22-23)。それにも関わらず、指導者たちの悪が絶えることはなかったのです。信仰の人サムエルの祭司職を継いだ二人の息子は父の道を歩まなかったのです。不正な利益を求め、賄賂を取って裁きを曲げたのです(サムエル記上8:2)。イスラエル(北王国)の王アハブは誰よりも主の前に悪事を重ねたのです(列王記上16:29-22:40)。その後も、神様は「支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり/皆、賄賂を喜び、贈り物を強要する。孤児の権利は守られず/やもめの訴えは取り上げられない」(イザヤ書1:23)、「イスラエルの君侯たちは、お前(エルサレム)の中でおのおの力を振るい、血を流している。父と母はお前の中で軽んじられ、お前の中に住む他国人は虐げられ、孤児や寡婦はお前の中で苦しめられている」(エゼキエル書22:6-7)、「裁きのために、わたしはあなたたちに近づき/直ちに告発する。・・偽って誓う者/雇い人の賃金を不正に奪う者/寡婦、孤児、寄留者を苦しめる者/わたしを畏れ(恐れ)ぬ者らを」(マラキ書3:5)と言って、警告されたのです。

*やもめの問題は家父長制度(男性中心の社会)と深く関わっています。女性は男性の所有物として扱われていました。自分のことについて決定権を持たなかったのです。娘は父の意向に従い、妻は夫に従属し、母は老後を長男に委ねるのです。結婚した女性がやもめになると状況は厳しくなるのです。特に、子供(男の子)を持たない女性の生活は悲惨です。自分に関心を寄せる男性が現れて庇護(結婚)してくれることを期待するだけなのです。日本における封建的な家制度と極めて似ているのです。旧約聖書のルツ記をご一読ください。夫を亡くしたやもめの苦労が詳細に描かれています。神様は夫の死後困窮生活を強いられるやもめの権利が守られ、最低必要な食物と衣服が与えられるように律法を定められたのです。やもめに後継ぎを儲けるために「レビレイト婚」の義務が課せられていたのです。ところが、神様のご命令を無視する夫の親せきも多く、妻を家から暴力的に追い出すことも行われたのです。やもめが律法の具体化を求めて裁判に訴えるケースがあったのです。たとえ話は現実に起こっている出来事を基に語られているのです。やもめは裁判官に執拗に願い出ているのです。将来に関わる重要な案件であることが推測されるのです。やもめが訴え出た裁判官は神様も人をも恐れない人物でした。地位を利用して不正を働いているのです。裁判官は貧しい人々よりも権力や財産のある人々を優遇するのです。金持ちには相応の賄賂を準備する経済的な余裕があるのです。当初、裁判官はやもめの訴えを無視していました。正義が歪められているのです。

*賄賂を払えない人々は律法の規定からも除外されるのです。しかし、不思議なことが起こるのです。やもめの正当性が徐々に広がり、裁判官の非情な姿勢が民衆の批判の対象となったのです。やもめの訴えを無視し続ければ、裁判官自身に不利益が及ぶのです。欲深い裁判官がやもめの訴えに譲歩したのです。彼女のために裁判が開かれることになったのです。やもめの粘り強い働きかけが大きな力となって裁判官を動かしたのです。イエス様は弟子たちに「諦めずに祈れば願いは叶えられること」を教えるために、窮状にあるやもめの信仰を例に挙げられたのです。ただ、やもめが祈っている姿はどこにも見られないのです。不正に対する不屈の精神と熱心な行動を強調しておられるのです。日々の生活に気を配らなければならないやもめにとって、何度も裁判官の所に行くことは簡単ではないのです。しかも、悪知恵に長けた自分を苦しめている相手や不正な裁判官と交渉しなければならないのです。想像を遥かに越える大変な状況に置かれているのです。しかし、女性は四面楚歌にあっても不正に屈服しないで、訴え続けたのです。イエス様が祈りを行動によって説明された意味は深いのです。祈りは神様に直接願いを申し出ることです。同時に、自らもその実現に向けて参画することなのです。相手や裁判官と自分との力関係には大きな差があるのです。結果は誰の目にも明らかなのです。しかし、やもめは律法が定める保護を求め続けたのです。一人で「主の祈り」を祈り、正義と愛の神様にすべてを委ねたのです。その上で自分に出来ることを実行したのです。

*イエス様はやもめの悲壮な姿を例に挙げて神様に願い続けることの大切さを教えられたのです。それと共に、やもめをそこまで追い詰めた貧しさとその原因に目を向けさせられたのです。やもめの窮状は指導者たちの不信仰と制度の欠陥の産物です。やもめは腐敗した社会の犠牲者なのです。公平を旨とする裁判官が職務を誠実に実行していないのです。権力を乱用して不当な利益を得ているのです。神様は必ず正義を求める人々の叫びを聞いて正しく裁いて下さるのです。ただ、イエス様は「人の子(ご自身)が来るとき、果たして地上に(やもめのような信仰を見いだすだろうか」と言われたのです。「自分の救い」にのみ関心を寄せるキリストの信徒たちに警鐘を鳴らしておられるのです。「永遠の命」に与るためには「行い」が不可欠なのです。イエス様は「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」と言われたのです(マルコ8:34-35)。お言葉に耳を傾けるのです。キリスト信仰がそれぞれの「生き方」を問うものではなく、「救いの手段」として理解されているのです。信徒たちは「自分を捨てること」や「自分の十字架を背負うこと」を実行するのではなく、ひたすら「救いの時」が来るのを待っているのです。「神様の御心」を実現するために奔走した人々が「永遠の命」に与るのです。やもめは「行い」によって信仰を表したのです。イエス様はこの点を高く評価されたのです。

2025年02月09日

「業としるしの力」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書10章22節から42節

そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業(わざ)が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」

ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒瀆(ぼうとく)したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、(旧約)聖書が廃れることはありえない。それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒瀆している』と言うのか。もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。

イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。多くの人がイエスのもとに来て言った。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」そこでは、多くの人がイエスを信じた。

(注)

・神殿奉献記念祭(ハヌカ):

12月に実施されました。紀元前164年、ユダ・マカバイはギリシャ人と彼らに同調するユダヤ人指導者たちの支配からエルサレム神殿を取り戻したのです。聖所及び神殿の内部を修復し、中庭を清めたのです。そして、祭壇を新たに奉献したのです。毎年この出来事を記念する行事が行われています。機会がありましたら旧約聖書続編マカバイ記(一)4:36-59をお読み下さい。

●ユダヤ人の三大祭りとは過越祭(3月か4月に実施、イスラエルの民がエジプトの圧政から解放されたことの記念)、七週祭(過越際から数えて7週目の行事、小麦の収穫と律法の付与への感謝)、仮庵祭(10月に開催、イスラエルの民が荒れ野で天幕に住んだことの想起、秋の収穫祭)のことです。

●名前が付いていない祭りも記述されています。ヨハネ5:1を参照して下さい。

・ソロモンの回廊:神殿の境内の東側(正面)にあります。

・ユダヤ人たち:一般的なユダヤ人を意味しているのではなく、イエス様に敵対するファリサイ派の人々や律法学者たちのことです。

・あなたたちは神々(gods)である:イエス様は機会あるごとに旧約聖書を引用されたのです。なぜなら、信仰の指導者たちが旧約聖書に精通していたからです。

●神様(God)のお言葉を受けた天使、裁判官、イスラエルの民を指しています。こうした表現は中東の神話に見られます。イエス様は詩篇の一節を用いて彼らの不信仰を批判されたのです。


■【賛歌。アサフの詩。】神は神聖な会議の中に立ち/神々の間で裁きを行われる。「いつまであなたたちは不正に裁き/神に逆らう者の味方をするのか。弱者や孤児のために裁きを行い/苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。弱い人、貧しい人を救い/神に逆らう者の手から助け出せ。」彼らは知ろうとせず、理解せず/闇の中を行き来する。地の基はことごとく揺らぐ。わたしは言った/「あなたたちは神々なのか/皆、いと高き方の子らなのか」と。しかし、あなたたちも人間として死ぬ。君侯(支配者)のように、いっせいに没落する。神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう(すべての民はあなたに属する遺産だからです)。(詩編82:1-8)

・悪い牧者(羊飼い)たち:

■「人の子(預言者エゼキエル)よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。それゆえ、牧者たちよ。主の言葉を聞け。」(エゼキエル書34:2-7)

(メッセージの要旨)

*以前、イエス様は「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」と言われました(ヨハネ8:58)。ユダヤ人たちは石を取り上げて投げつけようとしたのです。今回も「わたしは永遠の命を与える」、「わたしと父とは一つである」と言われたのです。ご自身を「安息日の主」(マタイ12:8)、エルサレム神殿を「わたしの家」と呼ばれたのです(マルコ11:17)。罪深い女性に「罪の赦し」を一方的に宣言されたのです(ルカ7:48)。イエス様のお言葉はユダヤ教の伝統と律法を順守する人々にとって「神様への冒涜」なのです。しかし、イエス様を通して神様に近づく道が開かれたのです。大祭司や祭司たちの仲介の必要性はなくなったのです。新しい天地創造の始まりを告げているのです。ユダヤ人たちは「メシア」(油注がれた者)が来られることを知識として理解していました。ところが、イエス様が「メシアであること」を信じなかったのです。イエス様に先駆けて遣わされた洗礼者ヨハネが「悔い改め」を迫っても耳を貸さなかったのです。イエス様が宣教された「神の国」の福音-律法の中で最も重要な戒め-正義、慈悲、誠実を実行すること-を拒否したのです。自分たちの権威や既得権益を守るために受け継がれて来た律法の解釈さえ恣意的に変更したのです。激しく非難する洗礼者ヨハネの首をはねさせ、後にイエス様を政治犯として処刑させたのです。彼らに天罰が下るのです(マタイ23)。イエス様は「神様の子であること」を疑う人々に「業」を信じなさいと言われました。多くの人が「しるし」によって信じたのです。

*福音書記者ヨハネはイエス様と敵対するユダヤ人たちとの対立が神殿奉献記念祭の時期であったことを強調しています。腐敗した神殿政治を想起させているのです。キリスト信仰は旧約聖書と密接に関わっています。神様はイスラエルの牧者なのです。預言者イザヤは「主は羊飼いのようにその群れを飼い/その腕に小羊を集めて、懐に抱き/乳を飲ませる羊を導く」と言っています。牧者は霊的に、現実的にも神様の民を導く指導者の呼称なのです(イザヤ書40:11)。モーセやダビデは羊飼いでした。不信仰な王は「偽りの羊飼い」と呼ばれたのです(エレミヤ書23:1-2)。イエス様もたとえ話の中でたびたびこのイメージを用いられたのです(ルカ15:1-7)。紀元前332年アレキサンダー大王が征服して以来、中東におけるギリシャ人たちの影響力は強まりました。民族の支配は人々をギリシャ的生活様式に徐々に同化させたのです。イスラエルは150年の間にギリシャ文化や宗教様式を取り入れたのです。ヘブライ語を読めないユダヤ人たちのために聖書さえもギリシャ語に翻訳したのです(70人訳聖書)。一方、信仰篤いユダヤ人たちはヘレニズム化の導入に反発したのです。ギリシャ人たちだけでなく、現状を受け入れたユダヤ人たちの間に対立が生じたのです。ギリシャ人の兵士たちは豚の血で神殿を汚し、偶像を建てたのです。割礼を無効にし、聖書を燃やしたのです。祭司たちはこうした蛮行に沈黙したのです。ユダ・マカバイを指導者とする心あるユダヤ人たちは立ち上がり、異邦人の支配からエルサレム神殿を奪還したのです。

*マカバイの時代における信仰の危機が連綿と続いているのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちはローマ帝国に協力して貧しい民衆を苦しめているのです。神様は終わりの日に先立って独り子イエス様を遣わされたのです。神様が人となられたのです。キリスト信仰の原点はここにあるのです。唯一の神様を信じるユダヤ人にとって到底理解出来ないのです。イエス様は「ご自身が救い主であること」を様々な機会に証しされたのです。カナの結婚式において水をぶどう酒に変えられたのです。最初の「しるし」を通して弟子たちはイエス様を信じたのです(ヨハネ2:1-11)。生まれつきの盲人を見えるようにされたのです。目が見えるようになったこの人もイエス様を信じたのです(ヨハネ9:1-12)。奇跡のような「しるし」や前代未聞の「癒しの業」などによって、多くの人はイエス様が「神の子であること」を信じたのです。一方、信仰が揺らいでいる、元々信じていなかった弟子たちは「天から降ってきた生きたパンである」と言われたイエス様に躓(つまず)いたのです。多くが離れ去り、共に歩まなくなったのです(ヨハネ6:60-66)。指導者たちのほとんどは「救い主であること」を受け入れなかったのです。しかし、議員の中にはイエス様を信じる人も多かったのです。ただ、会堂から追放されることを恐れて公にしなかったのです。神様からの誉れよりも人間の栄誉を選んだのです。ところが、金持の議員ヨセフやファリサイ派の議員ニコデモは危険を承知の上で、イエス様のご遺体を埋葬したのです(ヨハネ19:38-40)。

*イエス様はご自身の「復活」を信じることの出来ない12弟子の一人トマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われたのです(ヨハネ20:29)。トマスはイエス様と宣教を共にし、教えを直接受けているのです。それでも確信がなかったのです。イエス様のお言を信じることは簡単ではないのです。イエス様は具体的な証拠を求める人々に譲歩されるのです。「わたしの業を信じなさい」と言われるのです。四福音書には多くの「力ある業」と「しるし」が記述されています。五千人の群衆に食べ物を与え、湖の上を歩かれたのです(マタイ14:13-33)。会堂長の死んだ娘を蘇生(そせい)し、12年間も出血の止まらない女性を癒されたのです(マルコ5:21-43)。百人隊長に仕える死に瀕した奴隷を癒し、やもめの息子を生き返らされたのです(ルカ7:1-17)。38年間も病気で苦しんでいる人を癒し(ヨハネ5:1-18)、死んで四日も経っているラザロに再び命を与えられたのです(ヨハネ11:38-44)。これらは神様が共におられなければ実現しなかった出来事なのです。キリスト信仰が誤解されているのです。宣教する側の信仰理解と宣教方法に問題があるのです。神学や哲学が多用されていることも原因の一つです。イエス様の実像が語られていないのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」を再確認するのです(ヨハネ3:16)。神様はイエス様を通して働いておられるのです。

*神様に近づくためにイエス様以外の仲介者は必要ないのです。キリスト信仰において、この認識は不可欠です。イエス様はファリサイ派の人々や律法学者たちにも「神の国」-神様の支配-の福音を告げられたのです。ところが、これらの人は社会的地位や伝統的な教えに執着したのです。「終わりの日」-新しい天地創造-が始まっていることを理解しなかったのです。イエス様が天に帰られた後、初代教会は心を合わせて熱心に祈っていました。その中にはイエス様の母マリアもいたのです(使徒1:14)。使徒ペトロはイエス様のご命令を実行するのです。ユダヤ人たちに「これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです」と言ったのです(使徒2:22)。3000人ほどが悔い改めて群れに加わったのです。その後、祭司も大勢信仰に入ったのです。イエス様は教会を作られなかったのです。教義を文書にして残すこともされなかったのです。ただ「神様と隣人を愛して生きること」を教え、自らその模範となられたのです。ご自身に倣(なら)って生きる人々を弟子ではなく「友」と呼ばれるのです(ヨハネ15:15)。キリスト信仰とはイエス様を「救い主」として信じることなのです。逡巡している人々はもう一度イエス様の「業としるし」に目を向けるのです。人間には不可能なことばかりです。イエス様は「神の子」なのです。

2025年02月02日

「あなたを罪に定めない」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書7章53節から8章11節


〔人々はおのおの家へ帰って行った。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女(婦人)に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕

(注)

・モーセ五書:旧約聖書に編纂された創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のことです。

・姦淫の罪:モーセの十戒には「姦淫してはならない」(出エジプト記20:14)とあります。また、律法も「男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない」(申命記22:22)、「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる」(レビ記20:10)と定めています。しかし、姦淫の罪に対する死刑の方法は述べていないのです。受け継がれてきた口述の規定や取決め(慣習)によって、石打ちの刑や絞首刑が執行されたのです。


・死刑の執行の手続き:死刑に処せられるには、二人ないし三人の証言を必要とする。一人の証人の証言で死刑に処せられてはならない。死刑の執行に当たっては、まず証人(たち)が手を下し、次に民が全員手を下す。あなた(たち)はこうして、あなた(たち)の中から悪を取り除かねばならない。(申命記17:6-7)

・口述の規定:長老たちによって受け継がれて来た戒めのことです。文字で記述された律法の規定と同様の効力がありました。

・女(婦人)よ:この呼びかけ方は必ずしも非礼ではないのです。むしろ敬意を表しています。日本語訳の「女」は「婦人」と訳される言葉です。イエス様は母マリアにもこの言葉(婦人)を用いておられます。ヨハネ2:4;19:26を参照して下さい。

(メッセージの要旨)

*信仰の指導者たちは律法を「愛」によって解釈されるイエス様に激しく反発していました。姦淫している現場で捕えられた女性をわざわざイエス様の前に連れて来たのです。証人も確保しているのです。石打ちの刑を執行する準備は整っているのです。あえてイエス様に見解を求めているのです。律法の規定に反する言質(げんち)を引出し、告発することを画策しているからです。姦淫の現場で捕えられたのは女性だけではないのです。相手の男性もいたはずです。女性と同じように男性も公衆の前で罰を受けなければならないのです。女性だけを連れて来て罰を与えようとしているのです。イエス様は彼ら自身がすでに律法の規定に違反していることをご存じなのです。石打ちの刑の執行にあたって「罪を犯したことのない者が、まず、この女(婦人)に石を投げなさい」と言われたのです。年長者から始まって、一人また一人その場所から去ったのです。その中に律法学者たちやファリサイ派の人々もいたのです。ユダヤ教の基本となる十戒には「わたしの他に神があってはならない」、「いかなる像も造ってはならない」、「主の名をみだりに唱えてはならない」、「安息日を聖別せよ」、「父母を敬え」、「殺してはならない」、「盗んではならない」、「偽証してはならない」、「隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなどを一切欲してはならない」が記述されています(出エジプト記20:3-17)。完全に守っている人は誰もいなかったのです。イエス様は女性に「わたしもあなたを罪に定めない。・・もう罪を犯してはならない」と言われたのです。


*教会で取り上げられることが少ないテーマです。自分たちの罪を不問にして他の人の罪を告発する人間の偽善性が鋭く描かれています。ある女性が姦通の罪で捕らえられました。律法は誤った告発を防ぐために二人以上の証人を義務付けています。ファリサイ派の人々や律法学者たちは証拠(証言)を得ているのです。石打の刑を適用すべきであると主張しています。ただ、刑の執行方法は女性が婚約しているか、結婚しているかによって異なるのです。女性が婚約者していれば相手の男性と共に石打の刑が執行されるのです(申命記22:23-24)。結婚していれば両者は共に殺されるのです。ただ、その方法について規定が設けられていないのです。「口述の規定」では姦淫の罪を犯した婚約者は石打の刑、同様の罪を犯した妻は絞殺となっているのです。女性は婚約者として犯した罪を問われているのです。相手の男性も罰を受けなければならないのです。ところが、告発者たちは男性の罪を不問にしているのです。当時、女性は男性の従属物でした。男性よりも不公平に裁かれたのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちにとって女性の罪の告発は手段なのです。何とか訴える口実を見つけるために、イエス様に執拗(しつよう)に見解を求めたのです。イエス様はこれらの人の悪意を見抜いておられるのです。律法に対して律法を持って反論されたのです(申命記17:7)。裁こうとする人々はすべて男性です。当時の社会状況を反映しているのです。しかも、裁きの中に「正義」が見られないのです。何よりも、自分が偽善者でないかを吟味するのです。

*多くの人は女性の犯した大きな罪とイエス様の無条件の赦しに注目するのです。それは正しいのです。他にも重要な視点が幾つかあるのです。女性が犯した罪は神様への冒涜(ぼうとく)でも、窃盗などの律法違反でもないのです。姦淫なのです。信仰共同体は性に関する規定-婚前交渉、堕胎、姦淫、離婚など-の違反者には迅速(じんそく)な裁きを行うのです。生死に直結する罰も執行されるのです。ユダヤ人の社会では女性が性的な罪を犯した場合はいつでも女性の側の霊性や道徳心の欠如が問題になったのです。男性の熱情は女性の魅力による誘惑であると考えられていました。ファリサイ派の人々や律法学者たちはモーセの座について罪人を裁いているのです。ところが、告発したのは女性だけなのです。相手の男性を無罪放免にしているのです。不公平な裁きが行われているのです。イエス様は自分たちの都合に合わせて律法を解釈するファリサイ派の人々や律法学者たちの偽善と不正を明らかにされたのです。これらの人は神殿では「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でなく、また、この徴税人のような者でないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と祈るのです(ルカ18:11-12)。信仰心の篤さを誇っているのです。しかし、心の内は、不信仰と放縦に満ちているのです。神様はすべてをご存じなのです。このような空しい祈りを拒否されたのです。「福音の真理」が歪(ゆが)められ、救われるべき罪人たちが「神の国」(天の国)から遠ざけられているのです。

*女性が罪を犯したことは明白です。律法に従ってこの罪人は罰せられるのです。ところが、イエス様は石打の刑の執行に疑問を呈されたのです。裁く人々の側に正義がなかったからです。ファリサイ派の人々や律法学者たちは律法が定める宗教儀式の遂行には熱心です。しかし、律法を恣意的(しいてき)に解釈するのです。他の人々の罪に厳しく対応し、自分たちの罪には寛大なのです。後に、イエス様はこれらの人を偽善者と呼び「正義、慈悲、誠実をないがしろにしている。これこそ行うべきことである」と言って、激しく非難されたのです(マタイ23:23)。罪を犯さない人は誰もいないのです。ところが、自分の罪に気づいていないのです。イエス様は罪人を救うために地上に来られたのです(ルカ5:31-32)。憐れみによって死の淵にあった女性が生かされたのです。「律法主義」とそれに伴う偽善が横行しているのです。人間の解釈によって赦されない罪の範疇(はんちゅう)が拡大しているのです。神様に代わって、資格のない人々が審判者となって罪人を裁いているのです。女性は罪の赦しを願い出た訳ではないのです。集まった人々も「悔い改め」を表明していないのです。イエス様は罪人たちに福音(良い知らせ)を告げられたのです。先ず、姦淫の罪を犯した女性が赦されたのです。「これからは、もう罪を犯してはならない」と命じられたのです。裁きに関わった人々に隠れた罪の有無を問われたのです。罰を与えることなく、一人一人に後の「生き方」を委ねられたのです。自分のためにも人を裁いてはならないのです(マタイ7:1)。

*イエス様は女性が犯した姦淫の罪を認めておられるのです。ただ、罪を犯したことを責めるとか、その理由や原因を尋ねられることはなかったのです。女性から悔い改めの言葉を聞かれた訳でもないのです。イエス様は「わたしもあなたを罪に定めない」と言われたのです。罪の赦しが一方的に宣言されたのです。女性は石打ちの刑で処刑されるところを救われたのです。律法学者たちやファリサイ派の人々は罪人を裁くことに熱心なのです。イエス様は罪に死んでいた人々に再び命を与えられるのです。罪を赦された人々は新しく生まれ変わるのです。イエス様を「救い主」と仰ぎ、同じ過ちを繰り返さないように歩むのです。さらに、イエス様は信仰の指導者たちの偽善と不公正を明らかにされたのです。傲慢な人々に心からの悔い改めと謙虚さを求められるのです。また、ユダヤ教と女性の社会的地位との関係を浮き彫りにされたのです。石打の刑の執行に関わった人々の罪が問われなかったのです。キリストの信徒たちは様々な罪を犯しているのです。その罪が公になっていないだけなのです。神様の目には罪人であることに変わりはないのです。教会は罪人の集まりなのです。ところが、そのことを認識している人は少ないのです。むしろ、「救い」に与った自分の信仰心を誇っているのです。石打ちの刑に参加した人々のように振舞っているのです。これこそ大きな罪なのです。イエス様は弟子たちの高慢を厳しく戒められたのです。彼らの「救い」が危うくなるからです(マタイ18:1-5)。教会は自らを低くし、罪人たちの再出発に全力を尽くすのです。

2025年01月26日

「内側を清めなさい」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書7章1節から23節


ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。― そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』


あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」 


それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」† イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

(注)

・ファリサイ派:ユダヤ教の律法を日常生活に厳格に適用したユダヤ人グループです。イエス様に敵対していました。

・律法学者:文書管理を行う官僚です。イエス様と対立する指導者たちの一翼を担っていました。

・昔の人の言い伝え:長老たちが口述した慣習のことです。ファリサイ派の人々は口伝(くでん)によって受け継がれて来た戒めに律法と同様の効力を付与したのです。

・コルバン:ヘブライ語で神様にささげた献げ物のことです。新約聖書ではギリシャ語の音訳で表記されています。

・神の言葉:十戒及び律法のことです。

・この民は口先ではわたしを敬うが・・:イザヤ書29:13からの引用です。預言者イザヤは南王国ユダ(エルサレム)の王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に預言者として登場しました(イザヤ書1:1)。神様はイザヤを通して「むなしい捧げものを持ってくるな」、「・・悪を行うことをやめ、・・搾取する者を懲らしめ、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ」と警告されたのです(イザヤ書1:10-17)。

・父と母を敬え:新約聖書にも具体例が記述されています。

やもめに子や孫(たち)がいるならば、これらの者に、まず自分の家族を大切にし、親に恩返しをすることを学ばせるべきです。それは神に喜ばれることだからです。身寄りがなく独り暮らしのやもめは、神に希望を置き、昼も夜も願いと祈りを続けますが、放縦な生活をしているやもめは、生きていても死んでいるのと同然です。やもめたちが非難されたりしないように、次のことも(子や孫たちに)命じなさい。自分の親族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています(1テモテ5:4-8)。

(メッセージの要旨)

*イエス様のファリサイ派の人々や律法学者たちへの厳しい非難は新約聖書の至る所に見られるのです。これらの人は信仰心の篤さを装(よそお)っているのです。しかし、心の内は不信仰と欺瞞に満ちているのです。イエス様に「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」と尋ねたのです。衛生上の問題を取り上げているのではないのです。弟子たちが通りで異邦人たちと偶然に接触したことなどに伴う汚れを清めないことへの宗教的な批判なのです。イエス様は弟子たちが「言い伝え」を守らなかったことを認めておられるのです。元々、手を洗うことに信仰的な意味はないのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちは人間の「言い伝え」を厳格に遵守するのです。ところが、最も大切な戒め-正義、慈悲、誠実を実行すること-を軽んじているのです。両親のために蓄えたお金も巧みに献金させるのです。「神様に献げる」と宣言すれば責任は免除されると教えているのです。神殿収入を増やす-実質的に彼らの私腹を肥やす-ために人々の信仰心を利用するのです。神様を口先だけで敬っているのです。イエス様が言われたように偽善者なのです。人は見えるところからしか判断できないのです。神様はその人の心の内をご覧になられるのです。「むなしくわたしをあがめている」と言われるのです。神様を欺くことは重大な罪です。決して赦されないのです。厳しい罰が下されるのです。見せかけの信仰心はその人の「救い」を妨げているのです。イエス様は弟子たちにも「内側を清めなさい」と言われたのです。

*イエス様はガリラヤのカファルナウムを拠点に宣教されていました。「教え」と「力ある業」は人々の間で評判になっていたのです。エルサレムから派遣されたファリサイ派の人々や律法学者たちはユダヤ教に精通し、策略にも長けていました。イエス様を公衆の面前で貶(おとしめ)めるために機会を窺(うかが)っていたのです。イエス様の弟子たちの中に汚れた手-洗わない手-で食事をする者たちがいたのです。絶好の機会が訪れたのです。「違反」を指摘したのです。イエス様を間接的に非難しているのです。ユダヤ人たちには二つの「律法」があるのです。一つは旧約聖書に記述されている「モーセの律法」です。もう一つはモーセに始まり、祭司アーロンと彼の息子たち、長老たち、民族の指導者ヨシュア、預言者たちに連綿と受け継がれて来た「言い伝え」なのです。「モーセの律法」には特別の場合を除いて食事の前に手を洗うことが明記されていないのです。そこで「言い伝え」によって弟子たちを批判しているのです。イエス様は「モーセの律法」と「口述の規定」の違いを明確にされるのです。預言者イザヤの言葉によって反論されたのです。イエス様は弟子たちへの指摘を否定されないのです。衛生上の問題としては正しいからです。一方、ファリサイ派の人々や律法学者たちを偽善者と呼ばれたのです。これらの人は「神様の御名」によって不正を働いているからです。神様はすべてをご存じなのです。イエス様は指導者たちの不信仰に憤(いきどお)られただけではないのです。人々の苦しみや悲しみの元凶である神殿政治と闘われたのです。

*イエス様はファリサイ派の人々や律法学者たちが犯している大きな罪を告発されたのです。神様はモーセを通してご自身のお考えを語られました。「モーセの律法」の中に「父と母を敬え」(出エジプト記20:12) -十戒-と「父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである」(レビ記20:9) -律法-という規定が設けられたのです。さらに「モーセの律法」には神様に捧げ物をする場合の詳細が定められています(レビ記27:2-33)。彼らはモーセをユダヤ民族の偉大な指導者として認めているのです。ところが、これらの人には神様への真実の愛がないのです。尊大にも神様の「戒め」の上に人間が作った「口述規定」を置いているのです。「コルバン」は宗教儀式で用いられる専門用語です。この言葉によって「神様に捧げること」が宣言されるのです。捧げ物は神様に属するのです。実質的には神殿政治を担う人々に分配されるのです。両親の世話をする義務さえも免除するのです。イエス様は汚れについて直接言及されていないのです。しかし、ファリサイ派の人々や律法学者たちの偽善を白日の下に晒(さら)されたのです。「神様の主権」をないがしろにするような人間の「言い伝え」の無効が宣言されたのです。当時、高齢になった両親の窮状に無関心であることは不信仰の極みであると考えられていたのです。教会でも寡婦となった母親や祖母を持つ子供や孫に義務を果たしなさいと教えていたのです。真の信仰心はその人の「行い」によって証明されるのです。イエス様は弟子たちにも偽善に陥らないように警告されたのです。

*偶然であれ、何であれ、人が他の人々(異邦人を含む)や様々な物に触れることは避けられないのです。その場合、他の人の汚れが自分に移ると考えられていました。汚れを取り除くために、身体をはじめ物品などを入念に清めたのです。人間の汚れの原因は外側ではなく内側にあるのです。イエス様は他にも具体例を挙げておられます(マタイ23)。ファリサイ派の人々や律法学者たちは自分たちも実行できない「言い伝え」や「律法」を人々に強いているのです。宴会では上座に、会堂では上席に座り、広場で挨拶され、先生や教師と呼ばれることを好むのです。信仰を言葉で語るだけで「行い」によって証しすることはないのです。人々の前でうわべだけの長い祈りをし、信仰心を誇っているのです。学識や経験を悪用して「律法」を歪曲するのです。「神殿にかけて誓っても、それに縛られることはない。だが、神殿の黄金にかけて誓ったら、それを果たさねばならない」、「祭壇にかけて誓っても、それに縛られることはない。だが、その上の供え物にかけて誓ったら、それは果たさねばならない」と言うのです。貧しい人々を搾取し、保護すべきやもめたちを食い物にしているのです。イエス様は「師は一人だけで、あとは皆兄弟(姉妹)なのだ」、「誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」、「まず、杯の内側を清めよ。そうすれば、外側も清くなる」と明言されたのです。最も重要な戒め‐神様と隣人を愛すること‐をないがしろにする人々、外側は正しく見えても、内側が偽善と不法に満ちている人々は「神の国」に入れないのです。

*聖書が伝えるイエス様のご生涯を正しく理解することはキリストの弟子にとって決定的に重要です。イエス様は貧しい人々、体の不自由な人々、社会の隅に追いやられた人々の側に立たれたのです。誰に味方され、誰に反対されたかはキリストの信徒たちの判断基準となるのです。イエス様の弟子を公言して、虐げられた人々や社会的弱者の窮状に目を背けることは自己矛盾なのです。「救い主」と信じている人々に中立はないのです。罪を現行の法規や道徳的な範囲に限定して理解している方も多いのです。イエス様の「教え」や「生き方」を変容して教えること、社会の不正に加担し、あるいは不正を見逃すこと、正義のために何もしないことも罪なのです。イエス様はこうした弟子たちに「その心は、わたしから遠く離れている」と言われるのです。群衆がイエス様に「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか。」と尋ねた時、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と答えられたのです(ヨハネ6:28-29)。キリスト信仰とはイエス様が進まれた道を辿(たど)ることです。貧しい人々に食事を提供し、裸の人々に服を着せ、弱い人々を守り、あらゆる抑圧と搾取の構造を打ち砕くことなのです。ただ、そのように生きることは簡単ではないのです。旧約聖書の預言者たちは苦難と迫害を経験したのです。原始キリスト教会の信徒たちはそれらを耐え忍んだのです。この世の富や権力から距離を置くのです。「誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と祈るのです(マタイ6:13)。イエス様の御跡を辿るのです。

2025年01月19日

「幸いを得なさい」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書5章1節から20節

イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。義(正義)に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。義(正義)のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

「わたしが来たのは律法や預言者(たちの言葉)を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義(正義)が律法学者(たち)やファリサイ派の人々の義(正義)にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

(注)

・群衆:直前の4:23-25にありますように、イエス様の奇跡(あらゆる病気を癒されたこと)を聞いて、ガリラヤ、デカポリス(主にガリラヤ湖の南東地域)、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から大勢の群衆が来て、イエス様に従ったのです。エルサレムの指導者たちが民衆を掌握するまでは、人々はイエス様の教えに共感していたのです。聖書地図を参照して下さい。

・心の貧しい人々は幸いである:ルカによる福音書6:21では「貧しい人々は、幸いである」となっています。イエス様は旧約聖書(イザヤ書61:1-2;58:6)を引用し、ご自身の使命が貧しい人々や虐げられた人々の救いにあることを宣言されたのです(ルカ4:16-21)。聖書は全体的に理解することが大切です。可能でしたら様々な聖書訳を比較して下さい。より一層意味が深まります。

・天の国:神様の支配、神様の働きのことです。「神の国」と同じです。マタイは「神」を用いて表現することを避けて「天の国」と呼んだのです。ただ、「神の国」(マタイ12:28、19:24、21:31-43を使っている個所もあります。

・律法:神様のご意志による教えと戒めのことです。旧約聖書の最初の五巻-創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記-を指しています。「モーセ五書」と呼ばれています。

・律法学者たち:文書を専門に取り扱う官僚であり、学識を有していました。しかし、イエス様に敵対したのです。

・ファリサイ派の人々:ユダヤ教の教えを人々の日常生活に厳格に適用したのです。イエス様に反対するグループの一つです。

・正義の神様について:

■それゆえ、主は恵みを与えようとして/あなたたちを待ち/それゆえ、主は憐れみを与えようとして/立ち上がられる。まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人(人々)は。(イザヤ書30:18)

■わが民の中には逆らう者がいる。網を張り/鳥を捕る者のように、潜んでうかがい/罠を仕掛け、人を捕らえる。籠を鳥で満たすように/彼らは欺き取った物で家を満たす。こうして、彼らは強大になり富を蓄える。彼らは太って、色つやもよく/その悪事には限りがない。みなしごの訴えを取り上げず、助けもせず/貧しい者を正しく裁くこともしない。これらのことを、わたしが罰せずに/いられようか、と主は言われる。このような民に対し、わたしは必ずその悪に報いる。恐ろしいこと、おぞましいことが/この国に起こっている。預言者は偽りの預言をし/祭司はその手に富をかき集め/わたしの民はそれを喜んでいる。その果てに、お前たちはどうするつもりか。(エレミヤ書5:26-31)

■主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。それゆえ、牧者たちよ。主の言葉を聞け。わたしは生きている、と主なる神は言われる。・・(エゼキエル書34:1-8)

(メッセージの要旨)

*イエス様は旧約聖書と当時のユダヤ人たちが置かれていた社会的、経済的、政治的状況とを連動させて福音を語られたのです。歴史的背景を捨象して「神の国」を正しく理解することは出来ないのです。今日は「山上の説教」の基本となる冒頭の箇所から学びます。九つの幸いは終末論的です。しかし、聞いている人々にとって現実的な慰めの言葉となっているのです。イエス様はいろいろな病気や苦しみに悩む人々、悪霊に取りつかれた人々、てんかんの人々、中風の人々などあらゆる病人を癒し、「力ある業」を通して「神の国」が到来していることを証ししておられたからです。詩篇は神様に祝福される人々を「いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人」と表現しています(詩編1:1-2)。神様はご自身に聞き従い、教えを守る人々を祝福されるのです。箴言(しんげん)も同様の趣旨を記述しています(箴言8:32-34)。心の貧しい人々、悲しむ人々、柔和な人々、義に飢え渇く人々、憐れみ深い人々、心の清い人々、平和を実現する人々、義のために迫害される人々、ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる人々は幸いなのです。これらの人はイエス様の教えに従い、困難に直面しながら「神の国」の福音(良い知らせ)を宣べ伝えているからです。キリスト信仰は信じることで完結しないのです。何よりも「神の国と神の儀」を求めるのです。「神様と隣人」を愛して生きることなのです。


*弟子たちは「救い」の恵みに「行い」を持って応えるのです。神様のご計画-新しい天地創造-の完成のために全力を尽くすのです。一方、この世の権力者たちや富に執着する人々は「神の国」の広がりに敵対するのです。弟子たちは徹底的に迫害されているのです。絶望の淵をさまよい、深い悲しみと無力感に襲われているのです。神様は最も重要な戒め‐神様と隣人を愛すること‐のために悩み、苦しむ人々を決して見捨てられないのです。イエス様は「天には大きな報いがある」と明言し、「神様の約束」を信頼して歩むように教えられたのです。「心の貧しい人々」とは「誇るものがない人々」のことではないのです。迫害に苦しむ人々の心の状態を表しているのです。大きな力の前に「気力を打ち砕かれた人々」のことです。預言者イザヤは「主は・・わたしを遣わして/貧しい人(抑圧されている人々)に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人(捕虜となっている人々)には自由を/つながれている人(牢獄にいる人々)には解放を告知させるために」と宣言するのです(イザヤ書61:1)。さらに、「わたしたちの神が報復される日を告知して 嘆いている人々を慰め シオンのゆえに嘆いている人々に 灰に代えて冠をかぶらせ 嘆きに代えて喜びの香油を 暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために」と言うのです(イザヤ書61:2-3)。「悲しむ人々は幸いである・・」は個人への慰めの言葉ではないのです。神様は外国の支配下にあって生きる気力が萎(な)えている人々を再び立ち上がらせて下さるのです。


*「柔和な・・」が謙遜な人々、穏やかな人々のこととして理解されているのです。ローマ帝国の支配下にあって、なす術(すべ)もない「無力な人々」のことなのです。神様はイスラエルの民に「わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得、あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、それを得ることができるであろう」と言われたのです(申命記4:1)。掟と法を守るユダヤ人たちが虐げられたままに捨て置かれることはないのです。必ず約束の土地を与えて祝福して下さるのです。「義に飢え乾く・・」も個人的な信仰心のことではないのです。「義」と訳されている言葉が「神様との正しい関係」として解釈されているのです。元の言葉は「正義」と訳せるのです。イスラエルの民は「モーセ五書」、「預言書(エレミア書など)」、「詩編」に親しんでいました。「正義」の遂行が神様のご命令であることを良く知っていたのです(創世記18:19)。イエス様もまた「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と言われたのです(マタイ6:33)。イエス様の弟子として「正義」の確立を求めれば、不正に利益を得ている人々は必至で抵抗するのです。既得権益を守るために「義に飢え乾く人々」を迫害するのです。「憐れみ深い・・」は「憐れみ深くあること」の難しさを教えているのです。裁くよりも赦すことが出来る人たちは「憐れみ」を受けるのです。「心の清い・・」はこの世の悪から遠ざかり、主の教えを愛し、昼も夜も口ずさむ人々のことです。いつも神様を見ているのです。祝福されるのです。


*「平和を実現する・・」はキリストの信徒たちに広い視野と判断力を求めるのです。イエス様は「平和を維持する人々は幸いである」と言われなかったのです。抑圧や搾取のない世界を実現するために奮闘する人々は祝福されるのです。正義と公平を欠いた「平和」は偽りなのです。現状を維持するために「平和」を主張する人々は偽善者なのです。イエス様が判断される基準は宗教的な行事への参加でも、聖書の言葉を暗記することでも、教会に毎週出席することでもないのです。貧困や飢えに悩まされている人々をその窮状から救うために、不当に拘束されている人々のために何をしたかなのです。イエス様は貧しい人々や虐げられた人々とご自身を同一視されたのです。「この最も小さな者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」と言われるのです(マタイ25:31-41)。キリスト信仰は誤解されているような「個人的な救い」を信じることだけではないのです。日本はもとより世界の抑圧と搾取に苦しむ人々に目を向けることでもあるのです。神様の子供たちがもっと豊かに暮らせるように「平和の実現」に取り組むことなのです。信仰には「行い」が伴わなければならないのです。高い倫理観を保持することは当然のことです。「神様の御心」に沿った生き方を貫くのです。いずれも簡単なことではないのです。不正と不公平と戦争によって利益を得ている人々から誘惑されるからです。これらの人に同調することを拒否すれば迫害されるのです。イエス様は弟子たちに繰り返し覚悟を求められたのです(ルカ9:57-61)。


*イエス様の「生き方と教え」は本質的にこの世と相容れないのです。「神様の御心」を実行すれば相応の犠牲が伴うのです。キリスト信仰は誤解されているような「安価な恵み」ではないのです。「地の塩」とはキリスト信仰を日常生活において証しすることです。個人的な信仰心を深めるだけでなく、社会や組織の中に正義を確立することなのです。自らの立場を鮮明にして貧しい人々や虐げられた人々と共に歩むのです。イエス様は「山上の説教」を締め括るに際して弟子たちに警告をされたのです。「滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出すものは少ない」と言われるのです(マタイ7:13-14)。「狭い門」から入る人々(「山上の説教」に挙げられている人々など)に「救い」が訪れるのです。「主よ、主よ」と言う人が皆「神の国」に入る訳ではないのです(マタイ7:21)。人は信仰によって「救い」に与るのです。しかし、「行い」を欠いている信仰はそれだけでは死んでいるのです(ヤコブ書2:17)。イエス様は「神様の御心」を妨げる指導者たちと闘われたのです。これらの人の罪を公然と非難されたのです。敵対する人々はローマの権力を利用し、イエス様を「政治犯」として十字架上で処刑させたのです。今日においても、御跡を辿(たど)る人々が迫害されているのです。イエス様はご自身に倣(なら)う人々を「幸いである」と言われるのです。「山上の説教」はキリスト信仰に生きる人々を慰め、励まし、祝福しているのです。

2025年01月12日

「イエス様は神様のお言葉」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書1章1節から18節

初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

神から遣わされた一人の人がいた。その名は(洗礼者)ヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格(力)を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(洗礼者)ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

(注)

・言(ことば):ギリシャ語を音訳した「ロゴス」を日本語に訳したものです。神様が天地を創造された時に発せられた「言葉」のようなものではなく、「ロゴス」はギリシャ的思考を色濃く反映しています。宇宙に秩序を与え、人間の心を神様へと導く神的な理性のことです。イエス様は「ロゴス」であり、「神様の知恵」なのです。

・天地創造:「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である 」(創世記1:1-5)。

・イエス様によるご自身の定義:それぞれにおいて、キリスト信仰が簡潔に要約されているのです。

   
*わたしは命のパンである(ヨハネ6:48)
*わたしは世の光である(ヨハネ8:12)
*わたしは門である(ヨハネ10:9)
*わたしは良い羊飼いである(ヨハネ10:11)
*わたしは復活であり、命である(ヨハネ11:25) 
*わたしは道であり、真理であり、命である(ヨハネ14:6)
*わたしはまことのぶどうの木(ヨハネ15:1)

・神の国:神様の主権、支配のことです。死後に行く「天国」のことではありません。以下は「神の国」の到来を告げています。

■イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人(人々)に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人(人々)に解放を、/目の見えない人(人々)に視力の回復を告げ、/圧迫されている人(人々)を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた(ルカ4:16-21)。

■(洗礼者)ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人(人々)は見え、足の不自由な人(人々)は歩き、重い皮膚病を患っている人(人々)は清くなり、耳の聞こえない人(人々)は聞こえ、死者(たち)は生き返り、貧しい人(人々)は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」(マタイ11:2-6)。

・パウロの「神の国」に関する認識:社会性よりも個人の内面に言及しています。

「正しくない者(悪事を働く人々)が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをして(だまされて)はいけない。(性的に)みだらな者(たち)、偶像を礼拝する者(たち)、姦通する者(たち)、男娼(を行う人々)、男色をする者(たち)、泥棒(をする人々)、強欲な者(たち)、酒におぼれる者(たち)、人を悪く言う者(たち)、人の物を奪う者(たち)は、決して神の国を受け継ぐことができません」(1コリント6:9-10)。

・仮現論:初期のキリスト教における異端理論の一つです。キリスト信仰をこの世-社会・経済・政治-から切り離して霊的な側面だけを強調する考え方のことです。この信仰理解によれば、イエス・キリストは地上におられた間、人間の肉体を持っておられなかったのです。ただ肉体があるように見えていただけなのです。それ故、イエス様の復活を認めなかったのです。

・今日の讃美歌は368番(讃美歌21)です。歌詞は新年にふさわしい内容です。キリストの信徒たちへ決意を促しています。インターネットの検索サイトでこの番号を入力すれば視聴することができます。

1 新しい 年を迎えて
  新しい 歌をうたおう。
  なきものを あるがごとくに
  呼びたもう 神をたたえて
  新しい 歌をうたおう。

2 過ぎ去った 日々の悲しみ
  さまざまな うれいはすべて
  キリストの み手にゆだねて
  み恵みが あふれるような
  生きかたを 今年はしょう。

3 みことばに はげまされつつ
  欠け多き 土の器を
  主の前に すべて捧げて、
  み恵みが あふれるような
  生きかたを 今年はしよう。

4 自分だけ 生きるのでなく
  みな共に 手をたずさえて、
  み恵みが あふれる国を
  地の上に 来たらすような
  生きかたを 今年はしよう。

(メッセージの要旨)

*今日の聖書の個所はヨハネの福音書全体の序章というだけでなく、キリスト信仰の基本的な考え方を示しているのです。福音書記者ヨハネは「初めに言(ことば)があった。・・」において、言(イエス・キリスト)が天地創造に先立って存在されていたことを紹介しているのです。イエス様も「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。・・アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」と言われたのです(ヨハネ8:56-58)。言はこの世に「光」として来られたのです。「世の光であること」を宣言されたのです。神様が遣わされた「光」として罪に満ちた地上の闇を照らしておられるのです。言は肉となったのです。イエス様の「力ある業」を通して神様の恵みと真理が人々に届けられているのです。誰の目にも見えるのです。ところが、弟子たちでさえ「イエス様が命のパンであること」を受け入れられないのです。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられるようか」と言って、イエス様から離れて行ったのです(ヨハネ6:60-66)。イエス様は「永遠の命」に至る門です。道であり、真理であり、命なのです。イエス様に対する応答がその人の「救い」を決定するのです。洗礼者ヨハネは人々が「知的信仰」に陥(おちい)らないように警告しているのです。「イエス様の実像」を事前に証ししたのです。新しい年が始まっています。四福音書が心血を注いで伝える「救い主」イエス様について学びます。「お言葉」を心に刻み、「生き方」に倣(なら)って歩むのです。

*洗礼者ヨハネは「光」として来られたイエス様の先駆けとして使命を果たすのです。イエス様の宣教内容を前もって知らせたのです。後に、イエス様は「ヨハネより偉大な者はいない」と言われたのです(ルカ7:28)。ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯で洗礼を授けていました。洗礼を申し出た群衆に「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。・・斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と明言したのです(ルカ3:1-9)。洗礼者ヨハネは最後の審判が近づいていることを公言し、「救い」に与るためには「悔い改め」が必要であることを警告したのです。大切にされて来た信仰心の篤さや祭司による儀式の順守に言及するよりも、隣人愛の欠如と社会正義の軽視を問題にしたのです。「神の国」の意味が先取りされているのです。群衆は「わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねました。洗礼者ヨハネは「下着を二枚持っている者は(誰でも)、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も(誰でも)同じようにせよ」、徴税人たちにも「規定以上のものは取り立てるな」、兵士たちには「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と答えたのです。しかも、領主ヘロデ・アンティパスの律法違反と様々な悪事を公然と告発したのです(ルカ3:10-20)。しかし、ヨハネはイエス様について「わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」と言うのです(ルカ3:16)。

*ユダヤ人の多くが神殿政治の下で困窮生活を強いられ、ローマ帝国の当局者や兵士たちから乱暴な扱いを受けていたのです。民衆は約束の「救い主」を待望していたのです。イエス様の宣教活動はこのような政治状況にあって行われたのです。今日においても、キリスト信仰を標榜する人々の信仰内容は変わらないのです。「裁きは一切子に任せておられる」(ヨハネ5:22)、「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10:30)と言われたお方を「救い主」として信じているのです。ただ、「信仰の証し」を求められるのです。最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実行しているかが問われているのです。信仰以外に「責務」があることに驚かれる方も多いのです。しかし、これは新しい解釈ではないのです。2000年の間受け継がれて来たキリスト信仰における基本的な教えなのです。イエス・キリストを「救い主」として信じるだけでは「永遠の命」に与れないのです。信仰には「行い」が不可欠なのです。「救い」は神様と隣人を愛して生きた人々が賜(たまわ)る祝福なのです(マタイ25:31-46)。ところが、教会の多くが「神の国」の福音を個人の「霊的な救い」、「罪からの救い」として狭義に解釈しているのです。イエス様はローマ帝国の圧政とそれに協力するユダヤ人指導者たちの不信仰と腐敗を批判されたのです。人々の「全的な救い」に心を砕かれたのです。貧しい人々や虐げられた人々の苦しみや悲しみを担われたのです。この事実から目を逸らしてはならないのです。「イエス様の実像」はキリスト信仰の原点なのです。

*「言は肉となった」のです。ところが、「キリスト仮現論」はイエス様が地上に生きられたように「見える」、イエス様は人間社会に住まわれたように「見える」と主張して、イエス様が人(肉)となって、この世に来られた事実を否定するのです。イエス様は霊的指導者であって、社会の不正や不公平に抗議することなく、個人的な道徳心や信仰心の向上にのみ関心を持っておられたと説明するのです。こうした信仰理解は単なる事実認識の違いでは済まされない深刻な結果をもたらしているのです。イエス様がご生涯を通して深い関心を寄せられた最も小さな人々-貧しい人々や虐げられた人々-への無関心を信仰の名によって正当化しているのです。「パウロの神学」が誤って用いられていることも要因の一つです。パウロの宣教活動はイエス様が政治犯として十字架上で処刑されてからおよそ10年後に始まりました。ローマの市民権を持っていたパウロは、圧政と過酷な税に苦しむユダヤ人たちに「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう」と言うのです(ローマ13:1-2)。イエス様の現状認識とは極めて異なっているのです。確かに、パウロは「復活の主」に出会いました。しかし、イエス様と行動を共にしたことも、直接教えを受けたこともないのです。「神の国」に対するパウロの誤解を指摘しなければならないのです。イエス様の苦難のご生涯を想起するのです。

*国の内外で聖書が出版されています。「NEW KING JAMES VERSION-1982」のように、イエス様のお言葉を「赤字」で表記しているものもあるのです。聖書の翻訳には訳者の信仰理解が反映されるのです。偏りを防ぐために脚注が付けられることもあるのです。ある教会では担当者が福音書を朗読する時、出席者は全員起立して御言葉を聞くのです。読み終えると会衆がそろって「アーメン」と言うのです。神様の言(ことば)-イエス様-がキリスト信仰の中心に据えられているのです。イエス様は処刑され、復活した後もご自分が生きていることを数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ「神の国」について話されたのです(使徒言行録1:3)。イエス様は「神の国」を宣教するために地上に来られたのです。キリスト信仰とは「神の国」の到来を福音として信じることです。神様は御力によって正義と公平を実現して下さるのです。「死の支配」から解放して下さるのです。ただ、キリスト信仰は「安価な恵み」ではないのです。イエス様は「神様と隣人」を愛することを命じられたのです。洗礼者ヨハネはイエス様について「わたしよりも優れたお方」と言っています。ペトロやパウロが優れていたとしても「遣わされた者は遣わした者に勝らない」のです(ヨハネ13:16)。年の初めに368番を歌うのです。「新しい生き方」を決意するのです。「神の国」の建設に参画するのです。神様は「イエス様に聞け」と命じられたのです(マタイ17:5)。今年もまた四福音書が伝える「イエス様の実像」を辿(たど)るのです。

2025年01月05日

「神の国の建設」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書1章14節から39節

(洗礼者)ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。

朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。

(注)

・ガリラヤ:エルサレムの人々から律法を軽んじる田舎として蔑まれていました。ガリラヤ湖は内陸部にある湖です。漁業が盛んな地域でした。ゼベタイは他の漁師を雇っており、比較的裕福です。

・カファルナウム:ガリラヤ湖の北西にある町です。産業の中心は漁業、農業、交易です。イエス様のホームタウンであり、宣教の拠点でした(マタイ9:1)。

・神の国:神様の全き支配のことです。神様が人間の心と社会の隅々にまで真に神様として崇められ、あらゆる価値の基準とされること、それを通して正義と平和の秩序が実現されることです。旧約聖書は神の国の到来を待ち望むイスラエルの信仰を書き記したものです。神様は自分たちをエジプト人の支配から救い出し、砂漠を経て約束の地へ導かれたのです。ご自分に頼る者を決して見捨てられないのです。どのような地上の力にも勝っておられるのです。信頼するに値するお方なのです。イスラエルは異国の支配下で弾圧され、分断され、捕囚の地に連れていかれたのです。その時も、神様は常に自分たちと共におられ、民の身の上を思い,心を痛められたのです。イスラエルはこの神様がいつの日か、必ず自分たちを解放して下さることを信じたのです。

・汚れた霊:悪霊、悪魔のことです。

・ヘロデ・アンティパスの妻:ユダヤ人歴史家ヨセフスによればヘロディアは兄弟フィリップの妻ではなく、フィリップの義理の母となっています。


・エゼキエルの預言:「・・王は嘆き/君侯たちは恐怖にとらわれ/国の民の手は震える。わたしは彼らの行いに従って報い/彼らの法に従って彼らを裁く。そのとき、彼らは/わたしが主であることを知るようになる」(エゼキエル書7:27)。7章全体をご一読下さい。

・ナザレ:ガリラヤ湖の西約24㎞にある農業を中心とする村です。

・律法学者:ユダヤ教の律法を専門的に解釈する官僚のことです。彼らの多くは、イエス様が宣教された「神の国」の福音を拒否したのです。

ヨベルの年:

あなた(たち)は安息の年を七回、すなわち七年を七度数えなさい。七を七倍した年は四十九年である。その年の第七の月の十日の贖罪日(しょくざいび)に、雄羊の角笛を鳴り響かせる。あなたたちは国中に角笛を吹き鳴らして、この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る。五十年目はあなたたちのヨベルの年である。種蒔くことも、休閑中の畑に生じた穀物を収穫することも、手入れせずにおいたぶどう畑の実を集めることもしてはならない。この年は聖なるヨベルの年だからである。あなたたちは野に生じたものを食物とする。ヨベルの年には、おのおのその所有地の返却を受ける(レビ記25:8-13)。

(メッセージの要旨)

*洗礼者ヨハネはイエス様の先駆けとして、人々に「悔い改め」を求めたのです。ヨルダン川で洗礼を授けていました。この人は権力者たちを恐れなかったのです。ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスは兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚したのです。ヨハネはこの件だけでなく、アンティパスの様々な悪事を告発したのです。アンティパスはヨハネを捕らえさせ、牢につながせたのです。最終的には首をはねさせたのです(マルコ6:14-29)。洗礼者ヨハネと入れ替わるかのように、イエス様は30歳の時に宣教を開始されたのです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音(良い知らせ)を信じなさい」と言われたのです。短いお言葉の中にキリスト信仰の真髄が要約されているのです。「時は満ち」において、エゼキエルが預言したように神様によって定められた「裁きの時」が迫っていることを告げられたのです。「神の国」は死後に行く「天国」のことではないのです。「神様の主権」が天上と地上の隅々に及ぶことです。イエス様は人々に「神の国」の到来を語るだけでなく、目に見える形で証明されたのです。様々な「癒しの業」を実行されたのです。時が来れば、この世に平和、正義、公平を実現して下さるのです。「悔い改めて福音を信じなさい」において、最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実践する人々に「永遠の命」が約束されたのです。シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネはイエス様の宣教活動を共に担ったのです。キリストの信徒たちも、一年を振り返り、どのように「神の国」の建設に参画したかを自問するのです。

*イエス様は「神の国」の到来がもたらす福音について、具体的にまた簡潔に表現されています(ルカ4:16-21)。イエス様はお育ちになったナザレでも、いつものとおり安息日に会堂に入られました。イエス様はどこに行っても安息日には礼拝を守られたのです。当時、申し出れば誰でも(旧約)聖書の朗読をすることが出来ました。一般的に、各巻は祭壇の後ろの壁面にある棚に置かれています。担当者から預言者イザヤの巻物(イザヤ書)が手渡されました。お開きになって「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人々に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人々に解放を、/目の見えない人々に視力の回復を告げ、/圧迫されている人々を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」に目を留められたのです(イザヤ書61:1-2)。イエス様は朗読された後「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われたのです。ご自身を通して「イザヤの預言」が具体化していることを明言されたのです。ユダヤ人のほとんどを占める貧しい人々に福音が優先的に届けられるのです。不当に逮捕され、牢獄につながれている人々は解放されるのです。目の不自由な人々は視力を回復するのです。圧政に苦しむ人々は自由を得るのです。聖なる50年目の年-ヨベルの年-の規定が厳格に適用されるのです。「神の国」が限定的に解釈されているのです。福音は個人的な「罪からの救い」で完結しないのです。社会と人間の「全的な救い」に及ぶのです。

*洗礼者ヨハネは牢の中で、イエス様のなさった様々な「癒しの業」を耳にしたのです。そこで、自分の弟子たちを送って「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねたのです。イエス様は「見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人々は見え、足の不自由な人々は歩き、重い皮膚病を患っている人々は清くなり、耳の聞こえない人々は聞こえ、死者たちは生き返り、貧しい人々は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人々は幸いである」と答えられたのです(マタイ11:2-6)。「神の国」はイエス様を通して各地に広がっているのです。心身の障害はその人の「罪の結果」であると考えられていました。弟子たちも従来の教えに支配されていたのです。彼らは、生まれつき目の見えない人を見かけて、イエス様に「誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と質問したのです。イエス様は「神の国」の到来を告げる「新しい解釈」を示されたのです。「罪の結果ではなく、神様の業がこの人に現れるためである」と教えられたのです(ヨハネ9:1-3)。「神の国」の到来は人々が患っている様々な病を癒し、社会の隅に追いやられた罪人たちを罪の縄目から解き放ったのです。人間の根源的な願いである「永遠の命」への希望に確信を与えたのです。既得権益に執着し、伝統的なユダヤ教に固執する人々(指導者たち)は躓(つまず)いたのです。「神の国」の福音に激しく抵抗したのです。キリスト信仰は「神の国」の到来を福音として信じることなのです。

*「神の国」は悔い改める人々に福音となって訪れるのです。しかし、福音に与った人々には「善い行い」によって、信仰を証しすることが求められるのです。この点を曖昧にしてはならないのです。イエス様はキリスト信仰を標榜(ひょうぼう)する人々に最も重要な戒めを二つ与えられました。ある時、イエス様の教えに心打たれた一人の律法の専門家が「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と尋ねたのです。イエス様は「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」と答えられたのです。律法学者はイエス様に「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」と言ったのです。イエス様は律法学者が適切な答えをしたので「あなたは、神の国から遠くない」と言われたのです (マルコ12:28-34)。キリスト信仰とは「神の国」の福音に感謝するだけではないのです。最も重要な戒めへの責務を履行することなのです。「生き方」を通して「神様の御心」を証しするのです。信仰だけでは「救い」を得られないのです。「行い」が必須の要件だからです(ヤコブ書2:17)。

*「神の国」の到来は貧しい人々、虐げられた人々など暗闇に生きる人々にとって「希望の光」となったのです。同時に、「救い」が安価な恵みではないことを明確にしたのです。信仰には「行い」が不可欠なのです。イエス様は「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」と言われたのです(ヨハネ5:21-22)。最後の審判の判断基準についても、たとえ話によって示されたのです。飢えている人々に食べ物を、のどが渇いている人々に飲み物を提供し、旅をしている人々に宿を貸し、着る物のない人々に衣服を着せ、病気の人々を見舞い、牢にいる人々を訪ねて「神様の御心」を実践した人々が「永遠の命」(救い)に与ったのです。一方、社会の中で最も軽んじられている同胞に手を差し伸べなかった人々は「永遠の罰」を受けることになったのです(マタイ25:31-46)。キリスト信仰を神様と信徒との個人的な関係として理解されている人も多いのです。しかし、旧・新約聖書が伝える信仰の歴史は神様とユダヤ民族との関係であることを証明しているのです。イエス様が教えられた「主の祈り」も個人的な祈りではないのです。天におられる神様を崇め、富や権力の誘惑を退けて、「隣人愛」が貫けるようにと願う「信仰共同体」としての祈りなのです(マタイ6:9-13)。一年の終わりに、イエス様のお言葉と宣教活動を想起するのです。各自の信仰の軌跡を吟味するのです。怠惰であってはならないのです。新しい年に備えるのです。

2024年12月29日

「信仰の人シメオンの預言」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書2章21節から40節

八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」


また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。


親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。

(注)

・八日目の割礼:いつの時代でも、あなたたちの男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆、生まれてから八日目に割礼を受けなければならない。(創世記17:12)

・清めの儀式:主はモーセに仰せになった。・・妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚れの日数と同じ七日間汚れている。・・産婦は出血の汚れが清まるのに必要な三十三日の間、家にとどまる。その清めの期間が完了するまでは、聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない。・・男児もしくは女児を出産した産婦の清めの期間が完了したならば、産婦は一歳の雄羊一匹を焼き尽くす献げ物とし、家鳩または山鳩一羽を贖罪の献げ物として臨在の幕屋の入り口に携えて行き、祭司に渡す。・・なお産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合は、二羽の山鳩または二羽の家鳩を携えて行き、一羽を焼き尽くす献げ物とし、もう一羽を贖罪の献げ物とする。祭司が産婦のために贖いの儀式を行うと、彼女は清められる。(レビ記12:1-8)

・初めて生まれる子:主はモーセに仰せになった。「すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである。」(出エジプト記13:1-2)

・イスラエルの慰め:約束されたイスラエルの独立(解放)のことです。具体例としてバビロン捕囚からの帰還を挙げることが出来ます(イザヤ書40:1-2)。イザヤ書49:5-6、61:1-2を併せてお読み下さい。

・あなた自身も剣で心を刺し貫かれます:人々は神様の救いの業を拒否するのです。分裂の剣はマリアと家族にも苦痛をもたらすのです。ルカ8:19-21、11:27-28、12:51-53をご一読下さい。

・アンナ:祖先については申命記33:24-25を参照して下さい。預言者としての正当性が証明されています。アンナの言葉はシメオンの預言的宣言に呼応しているのです。

・ナザレ:サマリアの北に位置するガリラヤ地方の小さな村です。周辺地域から孤立しており、要衝の地でもなかったのです。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言われていたのです(ヨハネ1:46)。聖書地図をご覧下さい。

(メッセージの要旨)


*イエス様の誕生を共にお喜びします。同時に、イエス様の苦難に満ちたご生涯を想起したいのです。12月1日から、日曜日ごとに「洗礼者ヨハネの使命」、「受胎告知とマリアの賛歌」、「ヨセフが果たした役割」を学んでいます。それぞれは幼子の誕生の目的を明らかにしているのです。すべてにおいて聖霊様が働いておられるのです。イエス様はイスラエルを憎む者すべての敵から救い、権力のある者たちをその座から引き降ろし、身分の低い者たちを高く上げ、ご自分の民を罪から救われるのです。今日は「シメオンの預言」を通してイエス様のご生涯について考えます。イエス様の誕生は当時の社会情勢や政治状況の中で起こった出来事なのです。イエス様はローマ帝国が支配するユダヤのベツレヘムでお生まれになったのです。これは後のキリスト信仰を理解する上で重要な視点となるのです。幼子はヘロデ大王などの権力者たちから迫害されたのです。将来に起こる律法学者たちやファリサイ派の人々との鋭い対立を予想させるのです。「神の国」(天の国)―神様の支配―の到来は貧しい人々や虐げられた人々には「良い知らせ」なのです。ところが、支配者たちには既得権益の放棄を迫る「悪い知らせ」となるのです。イエス様は地上に分裂をもたらすために来られたのです(マタイ10:34-39)。「正義と公平」を主張されたので権力者たちが抵抗しているのです。「悔い改め」を求められたので家族の中にも対立が生じているのです。人々の「生き方」を問われたのです。シメオンは福音の真理とキリスト信仰に必要な覚悟を事前に語ったのです。


*シメオンについての詳細は不明です。ただ、信仰心篤く、律法を守り、イスラエルに「救い主」が現れるのを待ち続けていた人として紹介されているのです。神様は無名のシメオンを用いてイエス様の誕生の意味を明らかにされたのです。シメオンはイエス様が誕生された事実を知らなかったのです。ところが、聖霊様の不思議な導きによって神殿の境内でメシア(油注がれた者)‐キリスト‐に会うことが出来たのです。マリアは神殿の「イスラエル人の庭」(ユダヤ人の男性のみが礼拝することを認められた場所)に入れなかったのです。シメオンもそこには行かなかったのです。男女が共に礼拝することを許された「女性の庭」に向かったのです。それ故に、マリアとヨセフと幼子に出会ったのです。イエス様が約束の「救い主」であることを確認したのです。シメオンは神様を賛美したのです。ユダヤ人は異邦人を神様から離れた罪人として蔑んでいました。シメオンも例外ではなかったはずです。ところが、この人は幼子を抱いて「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです」と言ったのです。ユダヤ教にとって重大な教義の変更が一人のユダヤ人によって宣言されたのです。イエス様を通してユダヤ人にも、異邦人にも「救い」が訪れたのです。「救い主」が貧しいヨセフとマリアの間に誕生されたように、神様は御心を伝えるために、富や社会的地位、知恵や知識の有無ではなく、信仰をご覧になって用いられるのです。旧・新約聖書にこのような人が登場します。備えを怠ってはならないのです。


*シメオンはイエス様の誕生に神様の「救い」を見たのです。イエス様の行く末について「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ・・」と預言したのです。果たして、シメオンの預言は現実になるのです。「神の国」の福音(良い知らせ)に接した多くの人は悔い改めてイエス様を信じたのです。一方、神殿政治の中枢を担う律法学者たちやファリサイ派の人々の多くは既得権益と社会的地位に執着して悔い改めなかったのです。福音‐神様の憐れみ‐を拒否したのです。それだけではなく「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ5:31-32)と言われたイエス様を徹底的に迫害したのです。さらに、シメオンはマリアに「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と言っています。マリアが将来遭遇する苦悩を預言しているのです。イエス様は「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と言われたことがあります。マリアは意味を理解しながらも、地上の母としては遠ざかる「神の子」(息子)に心が揺れたのです(ルカ8:21)。人々の「あの男は気が変になっている」という言葉を聞いて、家族のある者たちがイエス様を取り押さえに来たのです。家族や親戚でも信仰理解は異なるのです。対立は避けられないのです。マリアは心を痛めたのです(マルコ3:21)。しかし、イエス様の兄弟の中に母マリアと共に熱心に祈る者たちもいたのです(使徒1:14)。


*ヨセフとマリアは主の律法で定められたことをみな終えたので、ガリラヤのナザレに帰ったのです。そこで、イエス様はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれて成長したのです。そして、イエス様は12歳の時(紀元後6年頃)、両親と共に「過越際」のためにエルサレムへ巡礼されたのです。ルカのみがこの出来事を伝えています。ヨセフとマリアはナザレへの帰途に着いたのです。ところが、イエス様はその群れの中におられなかったのです。神殿の境内に残っておられたのです。学者たちの真ん中に座って話を聞き、質問をしておられたのです。結局、イエス様は境内に三日間もおられたのです。論議の内容は不明ですが、人々はイエス様の賢い受け答えに驚いたのです。イエス様は捜しに戻って来た両親に「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということ知らなかったのですか」と言われました。すでに「神の子」であることを認識しておられるのです。この年、民族的にも、政治的に大きな事件が起こりました。多くの愛国的ユダヤ人は信仰に燃えていました。外国の支配者への納税を拒否するように呼びかけていたのです。彼らは代表団を派遣し、ユダヤ、サマリアを統治していたヘロデ大王の息子の一人ヘロデ・アルケラオ(紀元前4年に着任)の残虐性と統治能力の欠如をローマ皇帝アウグストに申し出たのです。皇帝は訴えを認めて領主アルケラオの地位をはく奪したのです(紀元後6年)。ユダヤはローマ帝国の直轄領となり、総督が派遣されたのです。クリスマスはイエス様の誕生の背景と苦難のご生涯を共有する機会なのです。

*シメオンはおよそ30年後(ルカ3:23)のイエス様の宣教活動を先取りして説明しているのです。イエス様はガリラヤで宣教を開始されました。その第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」でした(マルコ1:15)。イエス様はユダヤ人に「神の国」の到来を宣言することによって、「この世」の権力者が誰であっても、神様こそがイスラエルとすべての被造物の「王」であることを再確認させられたのです。これまで「神様の主権」が外国の勢力、専制君主、悪魔の力よって軽んじられて来たのです。しかし、時は満ちたのです。神様はご自身の主権を回復するために立ち上がられたのです。「救い主」(メシア)を通して支配者たちを打ち砕き、「死の支配」さえ滅ぼされるのです。イエス様は「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。今泣いている人々は幸いである。あなたがたは笑うようになる」(ルカ6:20-21)、「子供のように(自分を弱い立場にある人々の位置において)神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(マルコ10:15)と言われたのです。神様は「新しい天地創造」に着手されたのです。イエス様によってそれを証明されたのです。キリスト信仰は「良い行い」を求めるのです。隣人(貧しい人々や虐げられた人々)に奉仕しなければ「永遠の命」に与れないのです(マタイ25:31-46)。終わりの日に、ご自身と共に歩んだ信徒たちの「信仰内容」を問われるのです。

 

2024年12月22日

「ヨセフが果たした役割」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書2章1節から23節

イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者(支配者)たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者(一人の支配者)が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』(ミカ書5:1)」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」(ホセア書11:1)と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」(エレミヤ書31:15)

ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。


(注)


・ヘロデ大王:ローマ皇帝の承認を受け、ローマ人から「ユダヤ人の王」と呼ばれていました。猜疑心が強く自分の地位を脅かす人々(妻や息子たちを含めて)を容赦なく処刑しました。さらに、ユダヤ教の祭司たちも殺害したのです。これにより「最高法院」(ユダヤの最高議決機関)は弱体化したのです。幼子イエス様が成長して将来自分や後継者を脅かす存在になることを恐れたので、二歳以下の男の子をすべて殺したのです。在位は紀元前37年-4年です。

・ベツレヘム:エルサレムの南10kmにあり、ダビデ王の生誕地です(サムエル記上17:12)。


・占星術の学者:占星術や魔術を行う宮廷祭司です。彼らが持参した乳香は香りのする樹脂、没薬(もつやく)は「油を注ぐ」時、あるいは「防腐処置」を施す場合に用いられる樹脂です。東方はパルティア(現在のイランの北部)ではないかと言われています。


●星には政治的な意味が含まれています。「わたしには彼が見える。しかし、今はいない。彼を仰いでいる。しかし、間近にではない。ひとつの星(ダビデ)がヤコブから進み出る。ひとつの笏(王権を象徴する棒)がイスラエルから立ち上がり/モアブ(人たち)のこめかみ(ひたい)を打ち砕き/シェト(牧羊民族)のすべての子らの頭(の頂)を砕く 」(民数記24:17)。ローマ帝国と戦いわずか数年(紀元後132-135)ですが独立を勝ち取ったユダヤ人指導者バー・コクバは「星の子」と呼ばれています。 

・ユダヤ人の王;占星術の学者たちは幼子イエス様に敬意を表して「ユダヤ人の王」と呼んでいます。一方、ローマの総督ポンティオ・ピラトはイエス様を侮蔑してこの称号を用いています(マタイ27:11)。十字架の上に掛ける罪状書には「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いたのです。イエス様が十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読みました。ヘブライ語、ラテン語、ギリシヤ語で書かれていました。ユダヤ人の祭司長たちがピラトに「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男はユダヤ人の王と自称した』と書いてください」と申し出たのです。ピラトは「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と拒否したのです(ヨハネ19:19-22)。


・ダビデの子ヨセフ:主の天使はヨセフがイスラエルにおける最も偉大な王ダビデの子孫であることを確認しているのです。ダビデについては、サムエル記上16:1-列王記上2:12をお読み下さい。


・エレミヤの預言:ダビデ王の子ソロモン王の死後、イスラエルは南北に分裂しました。北王国はイスラエル、南王国はユダと呼ばれていました。北王国はアッシリヤによって滅ぼされたのです(紀元前722/721)。南王国はバビロン(現在のイラク)のネブカドレツアル王によって征服されました(紀元前587/586)。多くの人が捕囚の民となったのです。ラマはエルサレムの北8kmにある町です。捕囚地バビロンへの中継地です。エレミヤ書40:1をお読みください。ラケルはヤコブ(父祖アブラハムの子であるイサクの子)の妻です。イスラエルの「民族の母」の一人です(創世記30:23-24)。マタイは殺された子供たちの母親の嘆きをラケルの悲しみとして表現しているのです。


・アルケラオ:ヘロデ大王には処刑した妻と三人の子の他に、別の妻との間に三人の息子がいました。ヘロデ・アルケラオはユダヤ、サマリア、イドマヤを統治しました(紀元前4―紀元後6)。ヘロデ・アンティパスはガリラヤとペレアを支配しました(紀元前4-紀元後39)。ヘロデ・フィリップはガリラヤ湖の北部地域を管轄しました(紀元前4―紀元後33/34)。アルケラオは三人の息子の中で最も残虐な人物でした。ローマ皇帝アウグストス(紀元前27―紀元後14)は統治能力に欠けるアルケラオを廃位し、管轄地をローマ帝国の直轄領としました。


・ナザレ:ガリラヤ湖の西約24㎞にある農業の村です。

・彼はナザレの人と呼ばれる:旧約聖書にこの表現に対応する特定の個所は見当たらないのです。

(メッセージの要旨)

*神様から遣わされた天使ガブリエルはマリアと同じようにヨセフにも「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったこと」を告げたのです。イエス様の誕生においてマリアに焦点が当たるのですが、ヨセフも重要な役割を果たしているのです。マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、身ごもっていることが明らかになったのです。マリアの信仰、名誉、評判を貶(おとし)めるだけでなく、生命をも危うくするのです。ヨセフがマリアに疑いの目を向けるのは当然です。「姦淫の罪」を曖昧にすることは許されないのです。律法に従ってマリアの行為を公(おおやけ)に告発しなければならないのです。マリアは石打ちの刑で処刑される可能性があるのです(申命22:23,24)ヨセフは正しい人であると同時に憐れみ深い人でもありました。マリアのことを表沙汰(おもてざた)にしなかったのです。密かに離縁することを決断したのです。ただ、離縁を言い渡された女性が生活手段(土地など)を確保して生きることはほとんど不可能に近いのです。ヨセフはマリアに罪を償わせようとしているのです。ところが、主の天使が夢に現れて「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と言ったのです(マタイ1:20-21)。マリアは天使の受胎告知に「わたしは男の人を知りませんのに」と反論したのです。ヨセフも胎内の子が自分と無関係であることを確信しているのです。しかし、信仰によって「イエス様の誕生」の意味を理解したのです。


*ルカによればローマ皇帝アウグストス(紀元前31年-紀元後14年)、ガリラヤとユダヤを含む広大な行政区を管轄していたシリア州の総督キリニウスの時代に、ヨセフとマリアは住民登録(紀元後6-7年頃)のためにベツレヘムに滞在していました。イエス様はその時にお生まれになったのです。一方。マタイによればイエス様はヘロデ大王(紀元前4年に死亡)の統治下で誕生されたのです。その年は紀元前6年より以前ではないかと推測されています。どちらかが歴史的事実を誤認しているのです。イエス様の誕生日を特定することは困難なのです。イエス様の誕生に関わる状況についても両者の説明は異なるのです。ルカには牧歌的な雰囲気が漂(ただよ)っています。主の天使が羊飼いたちに「ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」と告げたのです。天の大軍が加わり「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ」と神様を賛美したのです(ルカ2:10-14)。ヘロデ大王の残虐行為に触れていないのです。マタイによれば、イエス様は誕生の瞬間から権力者に命を狙われているのです。誕生物語において、こうした事実に言及されることが極めて少ないのです。イエス様は「神の国」を延べ伝えてからも迫害されたのです。心を休ませられる日はなかったのです。キリスト信仰に生きる人々も試練に遭遇するのです。覚悟が求められるのです。

*ヘロデ大王は東方から来た占星術の学者たちの言葉を聞いて不安になったのです。ここで「不安を抱いた」と訳されている元の言葉はもっと驚きを表す「仰天した」と訳さなければならないのです。ヘロデ大王は自分の意志が及ばないところで、別の「ユダヤ人の王」が決定されていたことに恐れおののいたのです。人々、特に祭司長たちや律法学者たちも同じように動揺したのです。猜疑心の強いヘロデ大王は自分の地位を危うくする者に警戒したのです。妻子さえも容赦なく殺したのです。新たな「ユダヤ人の王」を早い段階で抹殺しようと画策することは当然でした。ヘロデ大王は幼子の生まれた場所とおよその年齢を特定したのです。占星術の学者たちは幼子を見つけると拝み、贈り物を献じたのです。ヘロデ大王が新たな「ユダヤ人の王」の正統性を主張するかも知れない東方の学者たちを生かして帰らすことはないのです。ところが、これらの人に「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったのです。報告をせずに自分たちの国へ帰ったのです。神様は異邦人である占星術の学者たちを助けられたのです。ヘロデ大王は占星術の学者たちが約束を守らなかったことに激怒したのです。確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を一人残らず殺させたのです。家族や親戚は激しく泣いたのです。誕生物語が恣意的に変容されているのです。脚色されたりもしているのです。「神の国」の福音は聖書が伝える厳しい現実において予告されているのです。キリストの信徒たちは真実から目を逸らしてはならないのです。


*主の天使は四度にわたってヨセフに現れました。ヨセフは真に信仰の人でした。「マリアが聖霊様によって身ごもった」という天使の言葉を信じてマリアを妻として迎え入れたのです。イエス様は信仰深いヨセフとマリアの間にお生まれになったのです。誕生物語は多くの場合この時点で終わるのです。キリスト信仰は「安価な恵み」でないのです。絶対的権力者ヘロデ大王と同じように、後の大祭司カイアファたちもイエス様を恐れたのです(ヨハネ11:48)。ローマ総督ポンティオ・ピラトを利用してイエス様を「ユダヤ人の王」として十字架上で処刑したのです。権力者たちが勝利したように見えたのです。ところが、神様はイエス様を復活させられたのです。復活を通して権力者たちの大罪を明らかにされたのです。ヨセフは信仰によってイエス様の誕生に深く関与したのです。その後も、イエス様と妻マリアを権力者たちの迫害からを守ったのです。「神様に委ねているので何もしなくても良い」と言うような信仰理解は避けなければなりません。キリスト信仰とは「神様の御心」を実現するために協力することです。マリアは天使に「わたしは主のはしため(下女)です。お言葉通り、この身に成りますように」と言ったのです。ヨセフは夢に現れた主の天使の指示に従って黙々と行動したのです。二人は「神様のご計画」のために自分たちを捧げたのです。マリアやヨセフの信仰から学ぶことは多いのです。キリストの信徒とは「神様の御心」に沿って生きる人のことです。「救い」はこの世の終わりの日‐再臨の日‐に判断されるのです。心に刻むのです。


*イエス様が降誕された当時は飢えと貧困、抑圧と反乱の時代だったのです。厳然たる事実がキリストの信徒たちに語られていないのです。理由は大きく分けて二つあります。一つはイエス様が生と死と復活を通して証された「神の国」の福音が「罪からの救い」に縮小されていることです。もう一つは指導者たちが一部の有力な信徒たちに配慮していることです。結果として、新約聖書が伝えるイエス様の実像を曖昧にしているのです。讃美歌109番「きよし、このよる・・」、114番「雨なる神には・・」も、イエス様が静かな環境に包まれ、平和の下で誕生されたような雰囲気を醸(かも)し出しているのです。しかし、事実とは明らかに異なっているのです。イスラエルの民はローマ帝国の支配と指導者たちの不信仰と腐敗に苦しめられていたのです。イエス様は「神様の御心」を実現するためにこの世に遣わされたのです。人を貶(おとし)める行動や抑圧的な政治構造と対峙されるのです。「神様の正義」を確立されるのです。イエス様は幼子の時にすでに人々の苦しみや悩みを直接経験しておられるのです。「神の国」が到来したのです。神様はすべてにおいて支配者であることを宣言されたのです。いずれ「新しい天と地」が創造されるのです。神様の子供たちは正義と公平を永遠に享受するのです。貧しい人々や虐げられた人々の目から涙が拭い去られるのです。一方、イエス様の誕生は地上の権力者や金持ちたちにとって脅威となったのです。これらの人に「悔い改め」が求められているのです。ヨセフの信仰によって福音の基礎が築かれたのです。

 

2024年12月15日

「受胎告知とマリアの賛歌」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書1章26節から38節及び46節から56節

(エリザベトが身ごもって)六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。・・・

(エリザベトが聖霊様に満たされて「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言うと)・・マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者(たち)に及びます。主はその腕で力を振るい、/思い上がる者(たち)を打ち散らし、権力ある者(たち)をその座から引き降ろし、/身分の低い者(たち)を高く上げ、飢えた人(たち)を(様々な)良い物で満たし、/富める者(たち)を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。


(注)


・天使ガブリエル:ダニエル書8:16,9:21にも登場しています。

・ナザレ:サマリアの北に位置するガリラヤの小さな村です。周辺地域から孤立しており要衝の地でもありませんでした。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言われていたのです(ヨハネ1:46)。聖書地図をご覧下さい。


・イエス様の系図:ルカ3:23-38、マタイ1:1-17に記載されています。


・神にできないことは何一つない:

■主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」(創世記18:13-14)イエス様は同様の言葉で語っておられます。マタイ19:26、マルコ14:36を参照して下さい。

・マリアの賛歌:サムエルの誕生に伴うエルカナの妻ハンナの賛歌(サムエル記上2:1-10)を併せてお読み下さい。

・神様とアブラハムの契約:「これがあなたと結ぶわたしの契約である。・・わたしは、あなたをますます反映させ、諸国民の父とする。・・」(創世記17:4-6)。


・神様によるダビデへの約束:「わたしは、・・あなたを・・わたしの民イスラエルの指導者にした。・・敵をわたしがすべて退けて、あなたに安らぎを与える。・・わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。・・」(サムエル記下7:8-16)。


・一リトラ:約326(あるいはおよそ340)グラムです。


・三百デナリオン:一デナリオンは当時の平均的労働者の一日分の賃金に相当します。一日5千円で計算すると150万円になります。高額です。

(メッセージの要旨)

*マリアは思春期を少し過ぎた頃と推測されています。ヨセフと婚約していました。一緒に住んでいないというだけで、両者は結婚と同じ義務を負っているのです。洗礼者ヨハネの母エリザベトとは親類です。すでに、天使ガブリエルは祭司の夫ザカリアに「不妊の妻エリザベトが子を宿すこと」を告げているのです。マリアはザカリアと同じように「どうして、そのようなことがあり得ましょうか・・」と天使の言葉に疑問を投げかけたのです。ところが、天使は「神にできないことは何一つない」と説明したのです。マリアはそれ以上反論することもなく「お言葉通り、この身に成りますように」と申し出たのです。マリアは真に信仰篤い女性でした。イエス様の誕生物語に言及する時、多くの場合この点が強調されて終わるのです。ところが、マリアの信仰告白はさらに続くのです。聖霊様に導かれて「マリアの賛歌」として有名な一連の言葉で主を讃えるのです。イエス様の誕生の意味が先取りされ、具体的に表現されているのです。身分の低い主のはしため(下女)にも目を留めてくださったこと、主の憐れみは代々限りなく、主を畏れる者たちに及ぶことを確信したからです。当時の社会には極めて裕福な人々と日々の生活を維持するのにさえ困難な人々がいたのです。神様はこうした現状を容認されないのです。ご自身の思いに反していることをマリアの言葉によって明確にされたのです。福音(良い知らせ)は貧しい人々や虐げられた人々に優先的に届けられるのです。クリスマスにはイエス様の誕生をお喜びすると共に「マリアの賛歌」を心に刻むのです。


*マリアは「救い主」の誕生に関わる重要人物です。ところが、それ以外にマリアの名前はほとんど見当たらないのです。福音書ではヨハネが「イエスの母」、マルコが「母マリア」と記述しています。使徒言行録に「イエスの母マリア」と一度だけ出ています(1:14)。マリアの祖先の詳細は不明です。洗礼者ヨハネの母エリザベトと親戚関係にあり、レビ族に属していたことが分かっています。イエス様の誕生において、マリアが聖霊様によって身ごもることやマリアの純粋な信仰に関心が集まるのです。キリスト信仰の真髄は「マリアの賛歌」にあるのです。マリアは天使ガブリエルから聞いた「救い主誕生」の告知をイスラエルに対する神様の憐れみ、祖先への約束の成就として理解したのです。「救い主誕生」はイスラエルの歴史の延長線上に起こった出来事なのです。マリアは神様が下女に目を留めて下さったことに感謝しているのです。「マリアの賛歌」は士師サムエルの母ハンナの祈りに似ています。長い間子供が授からなかったハンナは「わたしはこの子を授かるように祈り、主はわたしが願ったことをかなえて下さいました」と言って、神様を讃えているのです。出来事は身分の低い人々や虐げられている人々への希望の光となったのです。「救い主」は名もない、貧しい女性から誕生されたのです。この事実に注目するのです。神様はマリアによってご自身がどのようなお方であるかを明らかにされたのです。「救い」の意味を具体化されたのです。イエス様は「神様の御心」を実現するためにこの世に遣わされたのです。御業が証明しているのです。


*神様は不妊のエリザベトにヨハネ、マリアにイエス様を授けられたのです。ザカリアとマリアはヨハネとイエス様の将来について預言しています。洗礼者ヨハネはイエス様の先駆けとして道を整え、イエス様は「神の国」(天の国)-神様の支配-の宣教に生涯を捧げられたのです。神様はご自身の計画(新しい天地創造)に着手されたのです。「救い主」は貧しいヨセフとマリアの家庭に誕生されたのです。神様はへりくだった人々、貧しい人々や虐げられた人々を心にかけて下さるのです。「救いの御業」はイエス様の誕生から始まり、苦難の宣教活動と十字架刑、復活を経て再臨によって完成するのです。イエス様が誕生の瞬間から「十字架の死」を目指して歩まれたというような信仰理解は避けなければなりません。聖霊様はイエス様の誕生に関わるすべてのことを準備されたのです。「マリアの賛歌」は伝統的に「マグニフィカ―ト」と呼ばれています。キリスト信仰において「マリアの賛歌」が取り上げられることは極めて少ないのです。しかし,そこには「神の国」の本質が表現されているのです。マリアが語った内容は神様の勝利を祝う旧約聖書の詩篇のモチーフから引用されているのです。「その御名は尊く・・」はユダヤ人の賛美の歌なのです(詩篇111:9)。「主はその腕で力を振るい・・」は詩篇89:11を彷彿とさせるのです。「わたしたちの先祖におっしゃったとおり・・」は神様とアブラハムとの契約を想起させるのです。神様にダビデへの約束の成就を感謝する言葉です。「マリアの賛歌」はイエス様の宣教の視点そのものなのです。

*イスラエルにおける金持ちは人口の5パーセント以下でした。ローマ帝国の官僚たち、特権階級としての祭司たち、一握りの大土地所有者たち、そして財を成した徴税人たちでした。残りの人々は貧しく、その多くは極貧の状態にありました。ユダヤ教の文献には地方を徘徊しているホームレスの貧しい人々の集団が教会から給付されるわずかなお金を奪い合う様子が記録されています。福音書にも様々な形で貧しい人々の様子が描かれています。労働者の群れが広場に集まり、支払われる賃金の額を雇い主に尋ねることもなく、必死でその日の仕事を求めているのです。雇い主は労働者たちの間に分裂をもたらして搾取するのです(マタイ20:1-16)。ラザロというできものだらけの貧しい人が門前に横たわり、金持ちの食卓から落ちる物で空腹を満たしたいものだと思っていました。汚れた動物とされている犬もやって来てそのできものをなめたのです。この人にはもう犬を追い払う力がなかったのです(ルカ16:19-21)。イエス様の足に塗るために純粋で非常に高価なナルドの香油1リトラが使われたのです。イエス様を裏切ったイスカリオテのユダは「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って貧しい人々に鉾さなかったのか」言って、非難したのです(ヨハネ12:4-5)。ユダは貧しい人々を心にかけていなかったのですが、人々の生活状況を知ることは出来るのです。貧しい人々や虐げられた人々は「救い主」が来られることを待望していたのです。イエス様は「神の国」の福音を告げ、悔い改めた人々に「永遠の命」を与えられるのです。

*マリアは様々な困難(迫害)を恐れずに、天使ガブリエルの言葉を信じて「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と言ったのです。胎内の子(メシア)が後に「飢えた人(人々)を良い物で満たして下さることを確信したのです。神様がイエス様によって「新しい天地創造」に着手されたことを高らかに宣言したのです。イエス様の誕生の意味が「罪からの救い」に限定されているのです。キリスト信仰の本質が誤解されているのです。イスラエルの民は「エジプトの圧政」や「バビロン捕囚」に代表されるような他国の支配の下で苦しんだのです。イエス様の時代も人々はローマ帝国の圧政の下で喘(あえ)いでいるのです。「マリアの賛歌」は神様がこの世に直接介入されたことを讃えているのです。マリアとヨセフはイエス様を主に献上する儀式において、通常の羊ではなく最低限必要な山鳩一つがい(家鳩の雛二羽)を捧げているのです(ルカ2:22-24)。二人が貧しかったことを証明しているのです。イエス様は人々が貧困に苦しんでいる姿に心を痛められたのです。一方、「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今、飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる」と言われたのです(ルカ6:20-21)。マリアは聖霊様に初めから終わりまで導かれたのです。「マリアの賛歌」は年齢の若さや経験のなさを超えた「神様の啓示」です。イエス様が生と死と復活を通して証しされた「神の国」の福音の予告なのです。キリストの信徒たちは「神様の御業」に感謝するのです。

2024年12月08日

「洗礼者ヨハネの使命」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書1章5節から25節

ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。 さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父(両親たち)の心を子(たち)に向けさせ、逆らう者(たち)に正しい人(たち)の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」


民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った。その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた(隔絶された)。そして、こう言った。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」


(注)


・待降節:教派によって呼び方は異なります。イエス・キリスト(救い主)のご降誕を待ち望む期間のことです。クリスマスの4週前の日曜日から始まります。


・ヘロデ大王:イスラエルのレビ族が統治したハスモン王朝を倒し、エドム人へロデが統治するヘロデ王朝を創設しました。ローマ帝国との協調関係を維持し、エルサレム神殿の大改築を行いました。一方、猜疑心が強く身内を含む多くの人を殺害したのです。三人の息子たちと区別してヘロデ大王と呼ばれています。在位は紀元前37年から紀元前4年です。イサクの双子の息子、兄のエサウはエドム人、弟のヤコブはユダヤ人の祖先です。二つの民族の間に争いが絶えなかったのです。洗礼者ヨハネが宣教を開始した頃のガリラヤの領主ヘロデは、三人の息子の一人ヘロデ・アンティパスです。在位は紀元前4年から紀元後39年です。


・アビヤ組:祭司たちは余りも多くなったので24の組に分けられました。それぞれの組には名前がありました。一年に2週間職務を遂行したのです。それ以外はエルサレムを離れていたのです。自分の組が当番で あった時に、ザカリアのようにくじで選ばれて聖所で一日に二回香を焚くことは極めて稀です。


・アロン:モーセより三歳年上です。モーセとアロンの系図を参照して下さい(出エジプト記6:14-27)。イスラエルの祭司職の祖先です (出エジプト記40:12-15)。


・不妊の女性:エリザベトのような不妊の女性に子供が授かった例は他にもあります。アブラハムとサラの息子イサク(創世記18:1-15)、マノアとその妻の息子サムソン(士師記13:1-5)、エルカナとハンナの息子サムエル(サムエル記上1-2)をご一読下さい。


・天使(ガブリエル):神様からの公的な使節です。ダニエル書8:16、9:21にも登場します。


・エリヤの霊と力:エリヤは死ぬことなく天に上げられた偉大な預言者です(列王記下2:11)。洗礼者ヨハネはエリヤの再来と言われたのです。人々を「悔い改め」に導く使命が与えられたのです。旧約聖書の巻末マラキ書は次のように記述しています。


■見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤ(ヨハネ)をあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。(マラキ書3:23-24)
         
・救いの角:「救い主」イエス様のことです。この表現はダビデの家系に連なる支配者であることを強調しています。「主は逆らう者を打ち砕き天から彼らに雷鳴をとどろかされる。主は地の果てまで裁きを及ぼし王に力を与え油注がれた者の角を高く上げられる」(サムエル記上2:10)。詩篇18:3、132:17を参照して下さい。


・ヨセフス:祭司職の家系に生まれました。軍人、歴史家です。自伝「フラビウス・ヨセフスの生涯」を著しています。

(メッセージの要旨)


*今日から待降節が始まります。四福音書は預言者イザヤの言葉「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」(イザヤ書40:3)を引用し、ヨハネの使命について言及しています。ヨハネは神様が選ばれた器です。イエス様に先立って「神の国」の福音を担うのです。「神様の御心」を実現するために生涯を捧げたのです。祭司ザカリアと妻エリザベトは子供が授かることを願っていました。しかし、時は空しく過ぎたのです。ある日、ザカリアは神殿で香を焚いていました。天使ガブリエルが現れて「エリザベトが子を産むこと、その子によって主のために道が整えられること」を伝えたのです。ところが、ザカリアは天使の言葉を疑ったのです。ヨハネが生まれるまで口が利けなくなったのです。6か月後、同じ天使は乙女マリアに男の子が生まれることを告知し、親類のエリザベトにも子が宿ったことを知らせたのです。マリアは急いでエリザベトを訪れました。挨拶をするとエリザベトの胎内の子がおどったのです。ザカリアは話せるようになると聖霊様に導かれて「主は我らのために救いの角(イエス様)を、/僕ダビデの家から起こされた。・・幼子(ヨハネ)よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え・・」と預言したのです(ルカ1:67-80)。ヨハネは身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒野にいたのです。神様の言葉が降ったのです。人々に「悔い改め」を迫り、領主ヘロデ・アンティパスの様々な悪事を告発したのです。


*ユダヤ人の社会では女性の社会的地位は極めて低く、特に子供のいない(跡継ぎを儲けない)女性は蔑まれたのです。人格さえ否定されたのです。年老いたザカリアはエリザベトに子供が授かることを諦めていました。当時、祭司職にある人の数は膨大になっていました。ヨセフスは2万人の祭司がいたと記録しています。必要以上の祭司がいたので24組に分かれて奉仕したのです。それぞれの組は年に二週間奉仕するだけでした。それでも、一般的なユダヤ人が羨む収入を得ていたのです。ゼカリアはくじによって聖所で一日に二回香を焚く祭司に選ばれました。大変名誉なことでした。薄暗い光の中で一人立っている時に天使のお告げを聞いたのです。旧約聖書に精通し「救い主」の到来を信じている信仰篤いザカリアでも、年老いた妻エリザベトにアブラハムの妻サラやエルカナの妻ハンナと同様の祝福が与えられたことを信じなかったのです。不信仰の故にしばらくの間口が利けなくなったのです。その後、約束された男の子は生まれたのです。エリザベトは「主はわたしの恥を取り去ってくださいました」と言って、心から感謝したのです。ゼカリアはエリザベト共に子供の名前をヨハネにしたのです。その時、話すことが出来るようになったのです。父親であり、祭司であるザカリアは聖霊様に導かれて「救い主」イエス様の誕生の意味と我が子ヨハネの使命を預言するのです。洗礼者ヨハネは民衆に「行いによる悔い改め」を求めたのです。権力者たちの罪を躊躇(ちゅうちょ)することなく批判したのです。イエス様はそれをさらに先鋭化されたのです。


*エルサレム神殿におけるエリート祭司たちの状況を理解しておくことは重要です。祭司の家系は世襲で様々な特権を有していました。福音書は、大祭司の家が大きく贅沢な造りであったことを伝えています(ヨハネ18:12-18)。さらに、祭司の家系に生まれた歴史家ヨセフスは自分の家族がエルサレム郊外に土地を持っていたこと、祭司たちが貧しい民衆から集めた「十分の一税」によって広大な所有地を得ていたことを記しています。祭司たちは自分たちの利益を守るためにローマ帝国の支配を受け入れ、物心両面にわたって協力したのです。人々にローマ帝国に上納する新たな税の負担を強いるだけでなく、毎日カエサル(皇帝)へ「犠牲の供え物」を捧げたのです。皇帝は忠誠心と引き換えに、ユダヤ人指導者たちにエルサレム神殿の保護と宗教活動の自由を約束したのです。一方、神殿政治の腐敗から距離を置いている数少ない人がいたのです。ザカリアもその一人です。わが子の誕生に感謝して神様を賛美するのです。「救い主」の誕生を喜んで「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」、「それ(救いの角)は・・我らを憎む者の手からの救い。主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは・・恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく」と預言したのです(ルカ1:68-75)。「救い」は罪の赦しに留まらないのです。人間の「全的な解放」として完成するのです。


*荒れ野にいるヨハネに神様のお言葉が降ったのです。ヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために「悔い改め」の洗礼を授けていました。洗礼を申し出た群衆には厳しい口調で「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。・・斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と言ったのです(ルカ3:1-9)。信仰心の篤さや祭司による儀式の順守のことではないのです。「隣人愛」の欠如や「社会正義」の軽視を問題にしているのです。教えに心を打たれた群衆は「わたしたちはどうすればよいのですか」と率直に尋ねたのです。ヨハネは「下着を二枚持っている者は(誰でも)、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も(誰でも)同じようにせよ」と答えたのです。徴税人(たち)も洗礼を受けに来て「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と質問したのです。「規定以上のものは取り立てるな」と指示したのです。兵士たちが「このわたしたちはどうすればよいのですか」と言うと、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と命じたのです。さらに「わたしよりも優れた方(イエス様)が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と明言したのです。「手に箕(み)を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」と警告したのです。

*イエス様の宣教は洗礼者ヨハネの洗礼によって始まりました。ヨハネとイエス様はたびたび比較されています。共通点も多いのです。ヨハネは「悔い改めよ。天の国(神の国)は近づいた」と言って、宣教を開始したのです(マタイ3:2)。イエス様の第一声と同じです(マルコ1:15)。拠点として人口が多い都市や町ではなく、ユダヤの荒れ野を選んだのです(マタイ3:1)。預言者エリヤを想起させる毛衣を着、腰には皮の帯を締めていたのです(列王記下1:8)。質素な生き方を貫いたのです。イエス様は「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子(ご自身)には枕する所もない」と言われたのです(ルカ9:58)。貧しい人々や虐げられた人々と共に歩まれたのです。神殿の境内から商人たちを追い出し、指導者たちの偽善と不正を激しく非難されたのです(マルコ11:15-16)。ヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結べ。・・斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と言ったのです。イエス様は「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。・・集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」と明言されたのです(ヨハネ15:2-6)。ヨハネはイエス様の宣教-「神の国」の福音-を先取りしているのです。「悔い改め」と「社会の変革」を促(うなが)したのです。必然的に、権力者たちから迫害されたのです。後に、イエス様は「およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない」と言われたのです(ルカ7:28)。

2024年12月01日

「放蕩息子とその兄」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書15章11節から32節

また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天(神様)に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

(注)


・弟の放蕩(ほうとう):詳細は不明です。兄が「娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶした」と言っています。


・豚:ユダヤ教の律法によると豚は汚れた動物です。「いのしし(豚)はひづめが分かれ、完全に割れているが、全く反すうしないから、汚れたものである(レビ記11:7)。申命記14:8にも同様の記述があります。豚を養うことや豚のえさを食べることは恥ずべきことでした。


・良い服・・指輪:正式な息子として認知されたことの証明です。創世記41:42を参照して下さい。


・徴税人:ローマ帝国に協力して民衆から過酷な税を取り立てていました。人々はこれらの人を罪人として蔑んだのです。

・ファリサイ派:律法を日常生活に厳格に適用したユダヤ教の一派です。イエス様に律法学者と共に敵対しました。

・律法学者:文書を取り扱う官僚であり、律法に関する学者です。

・ドラクメ:ギリシャの銀貨です。ローマの銀貨デナリオンと等価です。平均的労働者の一日の賃金分に相当します。

・神の国(天の国):神様の主権、あるいは神様による支配のことです。誤解されているのですが、死後に行く「天国」のことではありません。イエス様は「神の国」の宣教に生涯を捧げられました。既得権益に執着する権力者たちは「神の国」を受け入れることが出来ずに、イエス様を十字架上で処刑したのです。ところが、神様はイエス様を復活させられたのです。イエス様は復活された後も天に帰られるまでの間、弟子たちに「神の国」について教えられたのです(使徒1:3)。

(メッセージの要旨)


*新約聖書の中でも神様の深い愛と慈しみを伝える有名な物語の一つです。新共同訳聖書の小見出しは「放蕩息子のたとえ」となっています。直前からの流れ、全体の内容から「放蕩息子とその兄のたとえ」とする方が適切です。イエス様は徴税人や罪人たちと一緒に食事をされたのです。律法学者たちやファリサイ派の人々はこの事実を非難したのです。たとえ話はこれらの人への反論なのです(ルカ15:1-7)。福音(良い知らせ)が罪人たちに届けられているのです。罪の中に死んでいた放蕩息子が悔い改めによって新しい命を与えられたのです。一方、「神様の御名」によって罪人たちの「救い」が妨げられているのです。たとえ話のもう一つの重要なテーマなのです。イエス様は機会あるごとに弟子たちの無理解と高慢を戒めておられます。自分を低くする人々だけが「神の国」に迎え入れられるのです(マルコ10:15)。兄の父親への不満は信仰を自負するファリサイ派の人々や律法学者たちのイエス様に対する非難に似ているのです。「わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません」と言って、善良で信仰深い息子であることを誇るのです。父親は兄の誤った認識を正すのです。イエス様は「山上の説教」において「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」と言われたのです(マタイ7:1-5)。お言葉に謙虚に耳を傾けるのです。イエス様がご自身の権威に基づいてすべての人を裁かれるのです。人が人を裁くことは大罪です。信仰を自負する人々が批判されているのです。


*以前、ファリサイ派の人々や律法学者たちが「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と質問したのです。イエス様は「医者を必要とするのは、健康な人(人々)ではなく病人(たち)である。わたしが来たのは、正しい人(人々)を招くためではなく、罪人(たち)を招いて悔い改めさせるためである」と答えられたのです(ルカ5:31-32) 。キリスト信仰の真髄(しんずい)はこのお言葉にあるのです。イエス様を地上に遣わされた神様のご意思は明確です。百匹の羊の内、一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回られるのです。ドラクメ銀貨十枚の内一枚をなくしたら、その一枚を見つけるまで捜されるのです。たとえ話も同様の観点から語られたのです。弟は信仰篤い父親の下で神様を仰いで暮らしていました。ある日、遠い国(この世)の魅力に憧れて旅に出たのです。そこで、財産を使い果たしただけでなく、信仰まで失ってしまったのです。「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである」の通り、暗闇を空しく彷徨(ほうこう)したのです(ヨハネ3:20)」。ところが、不思議な力に導かれるのです。予期しない出来事が起こるのです。放蕩に耽(ふけ)っていた弟が突然我に返ったのです。罪を悔いて神様の下へ帰る決心をしたのです。過去との決別を宣言するのです。「お父さん・・もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と言ったのです。死んでいたのに再び命を得るのです。

*イエス様のたとえ話を引用する場合「神様の愛」を強調して終わることが多いのです。このたとえ話は憐れみ深い神様と罪を赦された弟の物語として完結しないのです。兄は父親の寛容な態度に激しく反発するのです。弟をあの息子と呼んで軽蔑し、罪を赦さないのです。父親は「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」と言って、兄を叱責したのです。兄の弟に対する態度はファリサイ派の人々や律法学者たちの徴税人や罪人に対する冷徹さと同じなのです。罪を犯した人々を赦すことなく、信仰共同体(家族)から排斥するのです。イエス様は「神様、罪人のわたしを憐れんで下さい」と祈った徴税人の信仰を誉められたのです。罪を犯しても「救い」に与る人がいるのです。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められるのです(ルカ18:9-14)。自分で自分を正しい者と認定しても無意味です。一切の裁きを委ねられたイエス様が最終的にその人の「救い」を決定されるのです。恣意的(しいてき)に罪の定義が行われているのです。罪の軽重が判断されているのです。兄に代表される信仰の指導者たちは「神様の座」に着いているのです。神様が赦された人を再び罪人とすることは傲慢の極みです。重大な罪なのです。厳しく罰せられるのです。キリスト信仰を標榜する人々は「神様の憐れみ」によって「神様の子」とされたのです。自分を誇る根拠は何もないのです。

*イエス様がたとえ話をされた相手は「福音の真理」を歪(ゆが)めるファリサイ派の人々や律法学者たちです。これらの人はモーセの律法に精通しているのです。しかし、言うだけで実行しないのです。しかも、人々の前で「神の国」を閉ざしているのです。自分たちがそこに入らないばかりか、入ろうとしている人々をも入らせないのです(マタイ23:13)。イエス様を通して「神の国」が到来しているのです。病人たちが癒され、罪人たちが赦されているのです。これが福音なのです。イエス様の目的は罪人(たち)を招いて悔い改めさせることです。新しい生き方を決断した人々に「救い」が訪れるのです。神様が定められた罪の範囲は広いのです。この世の常識を超えているのです。神様の基準によれば、少数の人(例えばへブル書に名前が挙げられている人々)を除いてほとんどの人が罪人なのです。しかし、悔い改めた人々の罪は赦されるのです。最大の悲劇は信仰を自負する人々が自分の罪に気づいていないことです。これらの人にとって、既得権益に執着すること、権威を振り回して民衆を抑圧すること、貧しい人々や虐げられた人々の窮状に無関心なことは罪ではないのです。イエス様が教えられた最も重要な掟-神様と隣人を愛すること-を個人の道徳的、倫理的な行いに縮小しているのです(マルコ12:29-32)。罪の自覚がなければ悔い改めることもないのです。「神の国」は終わりの日に-新しい天地が創造される時に-完成するのです。神様は正義、慈悲、誠実を大切にされるのです(マタイ23:23)。「生き方」が問われるのです。


*弟は神様から離反したのです。特別な事ではないのです。信仰に自信がある人にも起こるのです。この世は誘惑に満ちているのです。罪を犯した人々も我に返って誘惑に負けたことを深く後悔するのです。罪を犯すような事態に至った原因が分からないことさえあるのです。神様から罪の赦しを得ても罪を犯した事実が消えることはないのです。それは罪を犯した人々の生涯にわたる教訓となるのです。罪を犯したけれども神様の「救い」を経験したのです。死んでいたのに生かされたことをいつも感謝するのです。神様は今も罪人が一人も滅びないようにイエス様を通して招かれているのです(ヨハネ3:16)。誤解を恐れずに言うならば、実際に罪を犯した人々が「救い」を実感することが出来るのです。弟は犯した罪を心から悔いているのです。神様はこのような砕けた魂を無条件で受け入れられるのです。救われる価値がないと諦めている人々に「救い」は優先的に届けられるのです。「永遠の命」の希望に励まされ「神様の御心」を実現するために全身全霊で奉仕するのです。一方、たとえ話の兄のようにファリサイ派の人々や律法学者たちが罪人たちを「神様の愛」から遠ざけているのです。これらの人の罪は赦されないのです。福音を妨げる人々には天罰が下るのです。罪人たちを歓迎しない教会が見られるのです。神様が赦された罪人たちを再び裁くことほど大きな罪はないのです。神様はイエス様を遣わされました。罪人たちを招くためです。キリスト信仰に生きる人々は「神様の御心」を実現するのです。たとえ話は神様の愛と警告の物語なのです。

2024年11月24日

「知的信仰への警鐘」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書10章25節から37節

すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい(申命記6:5)、また、隣人を自分のように愛しなさい(レビ記19:18)』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

(注)

・律法の専門家:文書を記録する官僚であり、同時に学識を有する学者です。多くはイエス様に批判的でしたが、「先生,あなたがおいでになる所ならどこへでも従って参ります」と言った人もいたのです(マタイ8:19)。

・エリコ:エルサレムからおよそ26kmです。エルサレムとエリコの高度差は約1000メートルあります。険しい道を下ってエリコに向かいます。途中には洞窟が多くあり、追いはぎが隠れていました。

・レビ人:祭司職を受け継いで来たレビ族出身の神殿の役人のことです。


・サマリア人:彼らの祖先は南北に分裂したイスラエル王国の北王国―イスラエル―に溯ります。南王国はユダです。ユダヤ人の目に混血を繰り返してきたサマリア人はユダヤ人でも異邦人でもなかったのです。ユダヤ人はサマリア人を敵視していました(ヨハネ4:9)。


・デナリオン銀貨:1デナリオンは当時の平均的労働者の一日分の賃金に相当します。


・神の国:「天の国」とも言います。死後に行く「天国」のことではありません。神様の支配、神様の主権のことです。福音(良い知らせ)とは、神様がこの世を終わらせて「新しい天地」を創造されることです。イエス様はご自身の教えと「力ある業」を通してご計画の一部を示されたのです。いずれ、再臨する(再び来る)時に完全なものにされるのです。

・「救い」についてのパウロの認識:

「こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」(1コリント4:1-5)。

・UNICEF::

United Nations Children’s Fundの略称です。国際連合児童基金です。1946年12月に設立され、第二次世界大戦後の食糧難の時代から飢えに苦しむ世界の子供たちに栄養支援を行ってきました。生死を分ける緊急救援から復興・自立へつながる支援に取り組んでいる機関です。

(メッセージの要旨)

*偉大な預言者イザヤは「(主)は死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである」(イザヤ書25:8)、「あなたの死者が命を得/わたし(彼ら)のしかばねが立ち上がります(ように)。塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光の露。あなたは死霊の地にそれを降らせられます」(イザヤ書26:19)と預言しています。すでに、死者に「永遠の命」を与えることが約束されているのです。律法の専門家は律法に精通していました。旧約聖書が伝える「永遠の命」について十分に理解しているのです。この人は「先生」(ラビ)として評判の高いイエス様について聞いていました。しかし、イエス様から学ぶのではなく、学識を試そうとするのです。そのテーマが「永遠の命」なのです。イエス様は旧約聖書に精通されています。二つの戒め-神様と隣人を愛すること-の重要性についての両者の認識は一致しているのです。イエス様は律法の専門家の認識を誉めた後「それらの規定を実行しなさい。そうすれば、永遠の命に与れる」と言われたのです。律法の専門家は誇りを傷つけられたのです。 まだ「永遠の命」から遠いと言われたからです。自分の信仰理解を正当化するために「わたしの隣人とはだれですか」と再度質問するのです。イエス様は隣人を定義されたのです。近所の人々や交流のある人々のことではないのです。心身共に疲弊(ひへい)している人々なのです。「知的信仰」に警鐘を鳴らしておられるのです。

*たとえ話は「隣人愛」の典型的な例として全体の文脈から切り離して用いられることが多いのです。しかし、これはイエス様を試すために行った律法の専門家の質問へのお答えなのです。指導者と呼ばれる人々の不信仰と偽善への婉曲的(えんきょくてき)な非難になっているのです。「永遠の命」に至る道を示し、「隣人の定義」を明確にされたのです。当初、イエス様は質問内容に直接答えられなかったのです。「律法には何と書いてあるか」と問い返されたのです。律法の専門家は「神様を愛し、隣人を愛することです」と正しい答えをしたのです。ところが、この問答は「信仰理解」から「善い行い」の問題へと展開して行くのです。きっかけは、イエス様の「それを実行しなさい」というお言葉でした。律法の専門家にとって、律法は解釈の対象なのです。実行を求めるものではなかったのです。「では、わたしの隣人とはだれですか」と尋ねたのです。自分が定義する「隣人の範囲」を正当化するためなのです。イエス様は律法の専門家の意図を見抜いておられました。この人にとって隣人とは自分が主体的に選んだ人々なのです。限定的ですが隣人を愛しているのです。ところが、イエス様の定義は全く異なっているのです。災難に遭遇した人々、貧しい人々や虐げられた人々が隣人なのです。キリスト信仰に関わる重要な問題が議論されているのです。「善い行い」を伴わない信仰は死んでいるのです。その人の「救い」にとって役に立たないのです。指導者たちの正当性は語る言葉だけでは証明されないのです。「生き方」によって判断されるからです。

*レビ人や祭司が登場します。イエス様は強盗に襲われた人を避けて通った人々の例として普通の旅人たちではなく、信仰の指導者たちを挙げておられるのです。イエス様は機会あるごとに律法学者たちやファリサイ派の人々の偽善や不正を告発されたのです。「彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである」と言われたのです(マタイ23:2-7)。サマリア人たちとユダヤ人たちとの間に交際はなかったのです。ユダヤ人たちは敵意さえ抱いていたのです。このサマリア人は自分に起こるかも知れない危険を顧みず、民族の不幸な歴史や階層間の対立に関わりなく、必要としている人に援助の手を差し伸べたのです。イエス様に質問した律法の専門家も律法を解釈するだけで実行しなかったのです。ユダヤ人たちから蔑まれ、交際のなかったサマリア人が「善い行い」によって「神様の御心」を証ししたのです。終わりの日に、イエス様は再び来られるのです。サマリア人の「善い行い」を「わたしにしてくれたもの」として理解されるのです。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からあなたがたのために用意されている国を受け継ぎなさい」と言われるのです(マタイ25:34-40)。「善い行い」をした人々は「神の国」に招かれるのです。一方、指導者たちの信仰のあり方が厳しく問われているのです。キリスト信仰が誤解されているのです。「永遠の命」に至る狭い道を歩むのです。「善い行い」が民族を越えてすべての人に命じられているからです。

*イエス様は隣人の範囲を広げられるのです。民族、階層、性別、信条、宗教に関わらず、苦難に喘(あえ)ぐ人々を愛するように指示されたのです(マタイ5:43-48)。サマリア人たちはユダヤ人たちがエルサレムの神殿で礼拝するように、北のゲリジム山で礼拝したのです(ヨハネ4:20)。サマリア人は「神様の御心」に沿って生きているのです。イエス様は律法の専門家たちに「あなたたち偽善者は不幸だ。・・律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである」と言われたのです(マタイ23:23)。サマリア人は困っている人の選別を行わなかったのです。助けを必要とする見知らぬ人のために傷の手当をしたのです。その後の治療のためにお金も用意したのです。礼拝に出席していることや献金をしていることが「救い」の保証にはならないのです。イエス様の教えは「隣人愛の勧め」に留まらないのです。律法の専門家たちの恣意的(しいてき)な信仰理を非難されているのです。要するに「神様の御心」に適う人々が救われるのです。UNICEFのニュースレターが「戦時下のガザ地区で実施されたポリオ予防接種のための一時休戦は、病気から子どもたちを守るためであれば、人々が利害を超えて協力し合えることを証明しました。・・途上国でいまだ多くの子どもたちが助ける病気で命を落としている現状は、決して容認できるものではありません」と記述しています(10月号)。キリストの信徒たちは自分に出来ることから始めるのです。戒めの実行が「永遠の命」に至る道なのです。

*イエス様はたとえ話の前後に「それを実行しなさい。」、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われたのです。「永遠の命」を得るためには「善い行い」が必須の要件なのです。指導者たちは律法に厳格なことを誇っているのです。しかし、聖書(旧約)に精通していても「善い行い」が伴わないなら「永遠の命」に与れないのです。律法の中で最も大切な戒め-神様と隣人を愛すること-を理解するだけではなく、強い意志を持って実行しなければならないのです。たとえ話は律法の専門家に悔い改めを求めているのです。キリスト信仰の有無に関わらず「神様の御心」に適った生き方をしている人がたくさんおられるのです。キリストの信徒たちはこれらの人から学ぶのです。「イエス様の名」によってこれらの人を軽んじてはならないのです。イザヤの預言にあるように、「永遠の命」はイスラエルの民の切なる願いなのです。信仰の中核になっているのです。イエス様がご自身の生と死と復活を通して証しされた「神の国」の福音(良い知らせ)は人間にとって永遠の課題である「死」にも及ぶのです。イエス様の復活は「永遠の命」の先取りなのです。「死の支配」に対する決定的な勝利を予告しているのです。キリスト信仰を標榜する人々も「永遠の命」の希望に生きているのです。高慢は「死に至る病」です。誰もが罹(かか)る心の病なのです。自己義認-自分を正しい者とすること-はその最たるものです。自分を低くしなければ「神の国」に入れないのです(マタイ18:1-5)。「知的信仰」への警戒を怠(おこた)ってはならないのです。

2024年11月17日

「神様の御心の実現」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書3章1節から6節

イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。(ファリサイ派の)人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

(注)

・安息日の規定(十戒):

■安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。(出エジプト記20:8-11)

●この他にも人々の行動は細かく制限されていました。例えば、900メートルしか移動できなかったのです。

・善を行うこと(命を救うこと):

■もし、あなたを憎む者のろばが荷物の下に倒れ伏しているのを見た場合、それを見捨てておいてはならない。必ず彼と共に助け起こさねばならない。(出エジプト記23:5)

■同胞のろばまたは牛が道に倒れているのを見て、見ない振りをしてはならない。その人に力を貸して、必ず助け起こさねばならない。(申命記22:4)

・イエス様の律法解釈:

■・・ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。(マタイ12:1-8)

■・・イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。そして、言われた。『あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。』彼らは、これに対して答えることができなかった。(ルカ14:13-6)。

・安息日に癒された人々:

●腰の曲がった婦人(ルカ13:10-17)

●38年間病気で苦しんでいる人(ヨハネ5:1-18)

・ファリサイ派:ユダヤ教の改革運動を推進し、信仰の証として律法や慣習を生活の隅々に厳格に適用したのです。

・ヘロデ派:ローマ帝国との協調を最優先する人々のことではないかと推測されています。ファリサイ派の人々とは互いに敵対関係にありましたが、イエス様を殺すために協力するのです。

(メッセージの要旨)


*福音書の中で最も古いとされているマルコにはイエス様の誕生物語が記述されていないのです。イエス様の宣教から始まっています。第一声において「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣言されたのです(マルコ1:15)。「神の国」(天の国)の到来-新しい天地創造の開始-は福音となったのです。イエス様は先ず漁師であるシモン(ペトロ)、アンデレ、ヤコブ、ヨハネを弟子に選ばれました。安息日にはユダヤ教の会堂に入り、旧約聖書を教えられたのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちは律法を教条的に解釈したのです。イエス様は「律法の主」として、最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実行するように命じられたのです。様々な力ある業を通して「神の国」を見える形で証しされたのです。汚れた霊に取りつかれた人、重い皮膚病を患っている人,中風の人、手の萎えた人などを癒されたのです。民衆は皆驚いて神様を賛美したのです。イエス様の評判はガリラヤ地方の隅々にまで広まったのです。病気が犯した罪の報いとして考えられていた時代に、イエス様は病人たちを癒されるだけでなく、これらの人の罪をも赦されたのです。社会から蔑まれていた罪人(娼婦)たちやローマ帝国に協力して高額な税を取り立てていた徴税人たちと交際し、強い絆(きずな)を養う場となる食事も共にされたのです。イエス様は立ち位置を明確にされるのです(マタイ9:13)。イエス様の言動はファリサイ派の人々の権威を危うくしているのです。容認することは出来ないのです。イエス様を殺そうとするのです。

*イエス様はユダヤ教の伝統的な考え方と真っ向から対峙(たいじ)されたのです。貧しい人々や虐げられた人々は「神の国」の到来に希望の光を見たのです。イエス様を「神様の子」として信じたのです。ファリサイは「分離する」という意味です。ファリサイ派の人々は罪人たちを蔑(さげす)んだのです。自分たちの信仰心を誇るために徹底的に罪人たちとの接触を避けたのです。モーセの十戒はユダヤ教の基本理念です。人々は大切に守って来たのです。ところが、指導者たちは自分たちの権威を強化し、民衆を支配するための手段として用いたのです。律法主義(形式主義)的に解釈して本来の趣旨を歪(ゆが)めたのです。民衆のための戒めが逆に人々の重荷となったのです。イエス様は指導者たちの誤りを指摘するかのように、癒しの業の多くを「安息日」に実行されたのです。「神様の御心」を鮮明にされたのです。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と言われたのです(マルコ2:27)。「安息日」は人々が働き過ぎて(働かされ過ぎて)命を損なわないように定められたことを想起させられたのです(申命記5:12-15)。「安息日」には善を行うこと、命を救うことは許されているのです。イエス様の主張は「神様の御心」に適っているのです。新しい律法解釈は民衆の熱い支持を得ているのです。ファリサイ派の人々の罪が告発されているのです。指導者たちに悔い改めが求められているのです。しかし、既得権益に執着するこれらの人は福音を拒否するのです。イエス様との対立を一層深めて行くのです。


*イエス様は「安息日」を破るだけではなく、「安息日の主である」と宣言されたのです(マルコ2:28)。エルサレム神殿を「父の家」と呼び、境内から両替人や商売人たちを追い出されたのです(ルカ19:45-47)。アブラハムが生まれる前から「わたしはある」(ヨハネ8:58)、わたしと父は一つである(ヨハネ10:30)と言って、ご自身を神様と等しい者とされたのです。イエス様の主張は神様への冒涜(ぼうとく)です。唯一の神様を信じるユダヤ人たちにとってイエス様は死罪に値する大罪人なのです。イエス様を殺さなければならないのです。イエス様はその理由について尋ねられました。指導者たちは「善い業のことで、石で打ち殺すのではない、神を冒涜しているからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ」と答えたのです(ヨハネ10:33)。イエス様の言動はファリサイ派やヘロデ派の人々にとって看過出来ないのです。信心深さを装う回し者を遣わし、イエス様の言葉じりをとらえ、ローマの総督(ポンティオ・ピラト)に引き渡すために、政治的に巧妙に工夫された「皇帝への税金」の問題を質問させているのです(マタイ22:15-22)。大祭司カイアファはイエス様への民衆の絶大な支持がローマ帝国への反乱に繋がることを恐れたのです。「ユダヤ人全体」を救うためにイエス様を政治犯として殺すのです(ヨハネ11:47-53)。イエス様は民衆と共に歩まれたのです。人々の悲しみや苦悩に心を砕かれたのです。御子として使命を果たされるのです。権力者たちから迫害を受けるのです。


*キリスト信仰における最も重要な戒めは「神様と隣人(苦難を覚える人々)」を愛することです。イエス様は貧しい人々や障害者たちが不当な扱いを受けているのを見て「怒り」を露にされたのです。律法を率先して順守すべきファリサイ派の人々のような指導者たちがこれらの人を虐げているのです。言うだけで律法を守らないのです。「神様の御心」である正義、慈悲、誠実を軽んじているのです。イエス様は先生や教師と呼ばれている人々の信仰姿勢を厳しく非難されたのです。彼らの不信仰と不正を赦されないのです。イエス様は「偽善者たち」と呼び、天罰が下ることを明言されたのです(マタイ23)。怒りや憤りが「罪」として見なされているのです。こうした信仰理解はキリスト信仰に対する誤解から生じているのです。キリスト信仰は「個人の救い」で完結しないのです。「全的な救い」として実現するのです。イエス様のご生涯から学ぶのです。「神の国」の建設に参画するのです。神様は終わりの日にそれを完成して下さるのです。イエス様の怒りを論じるのではなく、正義や公平を実現するために奔走(ほんそう)されたことに倣(なら)うのです。イエス様は権力者たちや指導者たちが「神様の御心」に反していれば躊躇(ちゅうちょ)することなく憤られたのです。抑圧や差別に対する怒りは「隣人愛」の原点です。ただ、それを正しく表現するのです。キリスト信仰における「霊性」と信徒としての「生き方」とは切り離せないのです。先ず「神様の霊」の導きを求めるのです。貧しい人々や虐げられた人々に共感する力が与えられるのです。

*イエス様の怒りは個人的な感情表現や気まぐれではないのです。指導者たちによる貧しい人々の搾取や不当な扱いへの抗議なのです。教条的な律法解釈や傲慢な振る舞いが障害のある人々から希望を奪い、絶望の淵に追いやっているのです。福音書が伝えるように、イエス様は民衆を取り巻く社会的、経済的、政治的状況の改善に深く関与されたのです。ところが、「救い主」の霊的な側面だけが強調されているのです。「神の国」の福音が誤解されているのです。キリストの信徒たちは隣人を愛するのです。そのためには立場を明確にするのです。正義の側に立たなければ悪と闘うことは出来ないのです。「神様の子供たち」から祝福を奪う体制、組織、政策、行為に憤るのです。「神様の名」によって傷つけられ、差別されている人々がいるなら怒るのです。信仰深い人々を誤った方向に導いている教会があるなら告発するのです。少数の人が経済的富を独占していることに憤るのです。役員の一年間の報酬が平均的労働者の生涯賃金を上回っているなら怒るのです。宗教、性別、人種、階層の故に虐げられている人々がいるなら告発するのです。「神様の御心」を実現するためには覚悟が必要なのです。「神様の座」に着いている人々が必死で抵抗するからです。イエス様は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と言われるのです。慰めと励ましのお言葉に支えられて今日も歩むのです。

2024年11月10日

「神様と富」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書6章19節から24節


「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」


「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなた(がた)の全身が明るいが、 濁っていれば、全身が暗い。だから、あなた(がた)の中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」


「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

(注)

・神の国:神様の主権、神様による支配のことです。天の国とも呼ばれています。死後に行く「天国」のことではないのです。イエス様は「神の国」の宣教に生涯を捧げられました。既得権益に執着する権力者たちは「神の国」を拒否し、イエス様を十字架上で処刑したのです。イエス様は復活後も天に帰られるまでの間、地上で弟子たちに「神の国」について教えられたのです(使徒1:3)。キリスト信仰の真髄なのです。


・体のともし火は目である。目が澄んでいれば・・:


「富」の問題と関係がない文章が挿入されているように見えますが、工夫された言葉の表現です。「目が澄んでいる」と訳されている言葉の「目」は本来複数ですが、ここでは単数なのです。豊かに施すことを表しているのです。「濁っている」は吝嗇(りんしょく)、あるいは富への執着に例えているのです。朽ちる富に「永遠の命」はないのです。イエス様こそが「救い」に至る道を照らす真の光なのです。


・神と富とに仕えることはできない:


「富」はアラム語の「マモン」から日本語に訳された言葉です。「マモン」はお金、家畜、土地などの財産を表しています。使い方を誤ってはならないのです(ルカ16:11)。ここでは偶像崇拝に陥(おちい)らせる「主人」として擬人化されているのです。

・主の祈り:イエス様が弟子たちに教えられた祈りです。

■・・あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』 (マタイ6:8-13)

・借金の深刻さ:マタイ18:21-35をお読み下さい。

・ぶどう園の労働者の状況:マタイ20:1-16を参照して下さい。


・デカポリス、ガリラヤ、エルサレム・・:聖書地図を参照して下さい。

(メッセージの要旨)


*イエス様はバプティスマのヨハネから洗礼を受けられた後、ガリラヤの諸会堂で「神の国」の福音を証しされたのです。民衆のありとあらゆる病気や患いを癒されたのです。イエス様の評判は近隣のシリアにも広まり、人々はいろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たのです。これらの人は様々な束縛から解放されたのです。ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から来た大勢の群衆はイエス様に従ったのです。イエス様は山に登り「山上の説教」を語られたのです(マタイ5-7)。「愛の観点」から律法を再解釈されたのです。ローマ帝国の支配下にあったユダヤ人の圧倒的多数は苦難の生活を強いられていたのです。イエス様に従った群衆も貧しかったのです。日々の生活を維持するのに奔走(ほんそう)していたのです。これらの人の関心が富に向かうことは当然だったのです。しかし、イエス様は「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と言われるのです。神様を信頼して「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈るように教えられたのです。富には人間を神様から遠ざける力が潜んでいるのです。神様のお導きによって富の誘惑を退けるのです。何よりも「神の国」と「神の義」を求めるのです。自分を愛するように隣人-貧しい人々や虐げられた人々-を愛するのです。「救い」は安価な恵みではないのです。富に執着する人々は厳しい裁きを受けるのです。イエス様のお言葉を真剣に受け止めるのです。


*当時のイスラエルは5パーセントにも満たない少数の金持ちと圧倒的多数の貧しい人々で構成されていました。金持ちの多くはローマ帝国に協力する議員たち、祭司職を担う人々、一握りの大土地所有者、成功した徴税人たちでした。貧しい人々の大半は農民と労働者たちです。ローマ帝国に高額な税を納めた後は自分たちの生計を維持するために心を砕いたのです。農民は自然災害や不作に備えるための余剰の農産物を蓄えることなど出来なかったのです。緊急事態が起これば、やむを得ずお金を借りたのです。やがて、支払い不能となり担保の土地は没収されたのです。男性は家族を養うためにぶどう園などで働く労働者になったのです。これらの人の悩みは尽きないのです。イエス様は「山上の説教」において「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」と言われたのです(マタイ5:3)。一方、「平地の説教」において「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、・・あなたがたは飢えるようになる」と明言されたのです(ルカ6:24-25)。イエス様の宣教姿勢は明確です。貧しい人々を優先的に祝福されるのです。ご自身が再臨する時の「裁きの基準」にも言及しておられます。人々が飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねたことが「救いの要件」になっているのです(マタイ25:31-46)。この世の富の「使い方」が厳しく問われるのです。イエス様の警告が恣意的(しいてき)に読み飛ばされているのです。

*「主の祈り」には貧しいユダヤ人たちの切実な状況が反映されています。しかも個人的な祈りではないのです。「わたしたちの父」、「わたしたちに必要な糧」、「わたしたちの負い目(負債)」、「わたしたちを誘惑に」とあるように、信仰共同体のあるべき姿を示す祈りになっているのです。イエス様は「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」と言われたのです(ヨハネ15:12)。「主の祈り」にも同様の趣旨が含まれているのです。人々は日々の糧と負債の問題に頭を悩ませているのです。生活が不安定であれば心身ともに疲弊するのです。本人や家族が病気になり、何らかの障害を有していれば経済的にも、精神的にも悩みは一層深くなるのです。中風の人の悩みを共に担った四人の男性がいました。彼らはイエス様(の癒しの業)を信じていました。中風の人を癒していただくために運んで来たのです。ところが、群衆に阻まれて御言葉を語っておられるイエス様のもとに連れて行くことが出来なかったのです。イエス様がおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろしたのです。イエス様はその人たちの信仰を御覧になって、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたのです。この人は癒されて家に帰ったのです(マルコ2:12)。後の初代教会の信徒たちは心も思いも一つにしたのです。貧しい人は一人もいなかったのです。土地や家を持っている人々は皆それらを売ったのです。持ち寄ったお金は必要に応じて分配されたのです(使徒言行録4:32-35)。


*イエス様は「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」と警告されたのです。たとえ話によってさらに説明されたのです。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』」と言われたのです(ルカ12:15-20)。ある金持は毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。門前にはラザロというできものだらけの貧しい人が横たわっていたのです。この人は死んで天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれたのです。金持ちも死んで葬られたのです。陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとがはるかかなたに見えたのです。「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます」と叫んだのです。アブラハムは「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」と言ったのです(ルカ16:19-25)。


*キリスト信仰とは「神の国」の到来を福音として信じることです。悔い改めて「神様の御心」に沿って生きることなのです。「神の国」の建設に参画し、最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実行するのです。昼も夜も「御名が崇められますように、御国が来ますように、御心が行われますように」と祈るのです。神様と富との両方に仕えることは出来ないのです。富の対応がその人の「救い」を決定するのです。人は「信仰」のみによって救われないのです。「行い」のない信仰-立ち位置を明確にしない信仰-は空しいのです。キリスト信仰が誤解されているのです。主な要因は二つです。一つはパウロの信仰理解が無批判的に引用されていることです。イエス様は弟子たちに「あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ」と言われました(マタイ23:8)。パウロがイエス様を超えることはないのです。もう一つは日本語訳にあるのです。新共同訳聖書の編纂に携わった方々に心から感謝するのです。同時に、問題点も指摘しなければならないのです。例えば「神の義」には原語にある「正義の神様であること」が表現されていないのです。ユダヤ人指導者たちは「神様の御心」を軽んじているのです。ローマ帝国に協力して民衆を抑圧し、搾取しているのです。「神の国」の福音-人間の全的な救い-が個人的な「罪からの救い」に縮小されているのです。キリストの信徒たちは信仰によって「永遠の命」に与れることを確信しているのです。しかし、神様と富との両方に仕えることは出来ないのです。「福音の真理」を変容してはならないのです。

2024年11月03日

「行いを伴わない信仰」

Bible Reading (聖書の個所) ヤコブの手紙2章1節から17節

わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。

わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者(たち)と断定されます。律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなた(がた)は律法の違犯者になるのです。自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者(たち)として、語り、またふるまいなさい。人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。

わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

(注)

・最も重要な戒め:

■彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が・・尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなた(がた)の神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほか神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。(マルコ12:28-34)

 

・パウロの信仰理解: 個人の信仰心に限定されているのです。

■口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです(ローマ10:9-10)。

■正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません(1コリント6:9-10)。

・ファリサイ派:律法を厳格に守っている人々です。しかし、イエス様は彼らを偽善者と呼ばれたのです。律法を人々に強いるのですが、自分たちはそれを実行しないからです。

・徴税人:ローマ帝国に協力して民衆から過酷な税を取り立てたのです。裏切り者と呼ばれ、罪人として社会から排斥されたのです。

・律法学者:ユダヤ教の律法を専門的に解釈する学者であり、文書を書き記す官僚です。イエス様に敵対するグループの一つです。


・宗教改革の時代(1517年前後)に、パウロの「信仰による救い」を堅持するルターは「行いによる救い」を強調するヤコブの手紙に異を唱えたのです。しかし、今日までこの手紙が聖典から除かれることはなかったのです。

(メッセージの要旨)


*キリスト信仰とはイエス様の教えに従い、御跡を辿(たど)ることです。忍耐と謙遜を旨とし、祈りに励み、主の再臨を待ち望むことなのです。ところが、信仰と行いが一致していないのです。しかも、多くの人がことの重大さに気づいていないのです。信仰共同体(教会)において、貧しい人々を辱(はずかし)めるようなことが公然と行われているのです。イエス様の視点は明確です。貧しい人々に優先的に福音を告げられたのです(ルカ4:18)、金持ちには「持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と命じられたのです(マルコ10:21)。いつの時代も、富裕層や知識階級が社会において権力を握っているのです。これらの人は信仰共同体においても指導的地位に就いているのです。大切なことは振る舞いが「神様の御心」に適っているか、イエス様の教えに従っているかどうかなのです。すべてがこの基準によって判断されるのです。「信仰は信仰、行いは行い」という考え方がキリストの信徒の間に広がっているのです。「神の国」(天の国)の福音が個人の「罪からの救い」へと変容されているのです。パウロの信仰理解が根拠として用いられているのです。ただ、パウロの「神の国」に対する認識には問題があるのです。それはイエス様から直接指導を受けていないことに起因しているのです。この点を常に留意するのです。イエス様は「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」と言われたのです(ルカ6:46)。生と死と復活を通して証しされた「神の国」の福音が正しく理解されていないのです。

 

*新約聖書はイエス様が貧しい人々や虐げられた人々の側に立たれたことを記しているのです。人々の窮状に心を砕かれたのです。イエス様の生き方と教えはキリスト信仰の真髄(しんずい)なのです。多くの信徒はこの世(地位や富へのあこがれ)の誘惑に晒(さら)されているのです。その矛盾を解決するために信仰と行いを分離するのです。イエス様が命を賭して神様と人とに仕えられたのに、自分たちは個人的な救いと平安のみを追求しているのです。ヤコブは誤った信仰理解を正すのです。律法には多くの規定があります。イエス様は最も重要な二つの戒め-神様と隣人を愛すること-に要約されたのです。「神様」を愛していると言いながら「隣人」を愛さない人は律法に違反しているのです。教会と信徒たちが躓(つまず)きの石になっているのです。それは罪なのです。罪の認識がなかったとしても免罪の理由にはならないのです。ヤコブが指摘するような問題を克服することは容易ではないのです。キリスト信仰はイエス様を「救い主」として信じることで完結しないのです。信徒には「神様の御心」を実践する責務があるのです。イエス様は弟子たちに「‥しなさい」と命じられたのです。すべての人は行いによって裁かれるのです。イエス様が再び来られる時、「わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたか」と問われるのです(マタイ25:35-36)。イエス様の教えを再確認し、実行して「救い」に与るのです。

*ヘブライ人への手紙は信仰の書と呼ばれています。先祖たちの信仰に言及して「信仰の意味」を明らかにしているのです。ノアはまだ見ていない事柄について神様のお告げを受けた時、畏れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定めたのです。神様はノアを祝福し、契約を結ばれたのです(創世記6:8-9:17)。モーセは王ファラオの怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているように信頼したのです。人々はまるで陸地を通るように紅海を渡ったのです。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは溺(おぼ)れて死んだのです(創世記14)。ヤコブも信仰の先駆者を例に挙げて信仰と行いが不可分であることを証明するのです。「神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことがこれで分かるでしょう」(創世記22:1-18)、「娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって義とされたではありませんか」(ヨシュア記2:1-21)と言うのです。人は行いによって義とされるのです。信仰だけによるのではないのです。魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んでいるのです。イエス様と寝食を共にしていないパウロが「解釈者」として評価されているのです。ただ、ヤコブの方がイエス様の教えと「神の国」の福音を正確に伝えているのです。

*信仰を誇り、他人を見下している人々に対して、イエス様はたとえを話されました。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は心の中で『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』と祈ったのです。一方、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら『神様、罪人のわたしを憐れんでください』と言ったのです。」神様に信仰を認められたのは徴税人だったのです(ルカ18:9-14)。大きな罪を犯した人々は神様の愛と憐れみに感謝するのです。罪の自覚がない人々は信仰心の篤さによって「永遠の命」を得たかのように誤解するのです。弟子たちが「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と尋ねたのです。イエス様は「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。・・」、そして「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」と言って警告されたのです(マタイ18:1-6)。信仰を口で告白し、洗礼を受けたとしても、行いが「神様の御心」に反していれば「神の国」に入れないのです。自己義認は「救い」の役には立たないのです。自分の信仰を問い直すことこそ重要なのです。

*あるテレビ番組でサーカスの練習場に転用されたフランスの教会が紹介されていました。信徒が少なくなり、教会運営が人的にも財政的にも成り立たなくなったのです。ドキュメンタリ―を観て教会が売買の対象になったことに驚いたのです。同時に、衰退する原因の究明が急務であることを知ったのです。「神の国」の福音-人間の全的な救い-が「罪からの救い」に縮小されているのです。「友なき友」を尋ねることにも無関心になっているのです。礼拝堂は物の売り買いを行う市場と化し、各部屋は教養講座(英会話、趣味の会など)の開催場所になっているのです。礼拝が始まる前に会堂内のベンチに座っている信徒に年配の女性がそこはわたしの席ですと言ったのです。ある日曜日、初めての方が来会したのです。この女性は祭壇に向かって最前列の左端に座ったのです。しばらくすると、男性の役員が来てそこは自分の席ですからと言ったのです。女性は別の席へ移ったのです。ただ、再び教会を訪れることはなかったのです。エルサレムの神殿が「祈りの家」と呼ばれているのです(マルコ11:17)。教会は「神様の家」なのです。ところが、有力な信徒たちが自分たちの憩いの場にしているのです。イエス様は「永遠の命」を願う律法学者に最も重要な戒めを実践するように命じられたのです(ルカ10:25-28)。自ら模範を示されたのです。イエス様の苦難のご生涯から学ぶのです。徹底して自分を低くするのです。「主」のみを誇るのです。正義を貫くのです。慈悲深く、誠実さに満ちたキリストの信徒になるのです(マタイ23:23)。

2024年10月27日

「命のパン」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書6章34節から59節

そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』(イザヤ書54:13)と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった(民数記14:26-35)。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。

(注)

・彼ら:イエス様はご自身の教えを聞くために集まったおよそ五千人の群衆に食べ物(大麦のパンと魚)を与えられたのです。彼らの空腹は満たされたのです。ところが、中にはイエス様を自分たちの王(ローマ帝国の圧政と闘う政治的指導者)として戴くために連れて行こうとする人々もいたのです。イエス様はそこを逃れて身を隠されたのです。しかし、これらの人はイエス様を捜し続けたのです(ヨハネ6:1-15)。再び出会った人々はイエス様に次のように質問したのです。


■「わたしたちが見てあなたを信じることができるように、(さらに)どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」と言ったのです。すると、イエス様は「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」と答えられたのです。(ヨハネ6:30-33)。

・イエス様によるご自身の定義:わたしは・・である

 

*わたしは命のパンである
*わたしは世の光である(ヨハネ8:12)
*わたしは門である(ヨハネ10:9)
*わたしは良い羊飼いである(ヨハネ10:11)
*わたしは復活であり、命である(ヨハネ11:25) 
*わたしは道であり、真理であり、命である(ヨハネ14:6)
*わたしはまことのぶどうの木(ヨハネ15:1)

・預言者の書:神様は「新しい契約」を人々の心の中に刻まれるのです。


■「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」 (エレミヤ書31:31-34)

・マンナ(マナ):パンのことです。出エジプト記16章をご一読下さい。詩篇78:24―25を併せてお読み下さい。

・カファルナウム:ガリラヤ湖の北の端にある町です。イエス様の宣教の拠点です。聖書地図をご覧下さい。

・イエス様が引用されたイザヤ書の個所:貧しい(抑圧された)人々への福音となっているのです。

■主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしを捕えた。わたしを遣わして、貧しい(抑圧された)人々に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心(人々)を包み、捕らわれ人(た人々)には自由を、つながれている人(囚人たち)には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年、わたしたちの神が報復される日を告知して、嘆いて人々を慰め・・。(イザヤ書61:1-2)

(メッセージの要旨)

*イエス様は後を追って来た5千人の人々に食べ物を与えるという「力ある業」を行われました。満腹した人々はイエス様を自分たちの王として戴こうとしたのです。イエス様はご自身への誤解を正されるのです。「神様の子」であることを先祖が荒れ野で食べた「パン」と比較して説明されたのです。民衆はローマ帝国の支配下にあって貧しい暮らしを余儀なくされているのです。日々の糧を確保するために奔走(ほんそう)しているのです。このような状況にあって、人々が食べ物に関心を注ぐことは当然なのです。しかし、そのことだけでは「永遠の命」に与れないのです。イエス様はこれらの人を深く憐れまれたのです。「神の国」-神様の支配-に迎えられる方法を教えられたのです。「ご自身を遣わされた方を信じる人々は永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」(ヨハネ5:24)、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子(イエス様)があなたがたに与える食べ物である」と言われたのです(ヨハネ6:27)。イエス様はご自身への絶対的な信仰を求められるのです。同時に、「永遠の命」を約束された人々に「神様の御心」を実践する責務を課せられるのです。「わたしは命のパンである」は霊的なものが肉的なものよりも優れていることを意味しているのではないのです。イエス様の教えを心に刻むことです。イエス様の生き方に倣って「神の国」の実現のために働くことなのです。イエス様に対する応答が「救い」を決定するのです。

*イエス様は「わたしは…である」という言葉で七回もご自身を定義しておられます。その最初が「わたしは命のパンである」です。パンは人間の肉体的必要性を満たすことについて誰もが知っているのです。しかし、民衆は「わたしたちに必要な糧を今日お与えください」と祈らなければならないほど貧しかったのです(マタイ6:11)。イエス様は窮乏生活を十分承知の上で人々に「朽ちない食べ物」-永遠の命に至る食べ物-を求めなさいと言われたのです。そこで、彼らは「主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい」と願い出たのです。人は「力ある業」を経験し、あるいは見聞きしてもイエス様を「救い主」として信じる訳ではないのです。この世の思いが信仰を妨げていることも多いのです。モーセは「あなた(がた)の神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。・・主はあなた(がた)を苦しめ、飢えさせ、あなた(がた)も先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなた(がた)に知らせるためであった」と言っています(申命記8:2-3)。イエス様は宣教を開始する直前、四十日間荒れ野で断食をされたのです。空腹を覚えられた時、悪魔が来て「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と誘惑したのです。イエス様はモーセの言葉によって反論されたのです(ルカ4:1-4)。ご自身は「神様の御心」を実現するために生涯を奉げられました。群衆にもそのように生きることを教えられたのです。

*ユダヤ人たちの信仰の根底には先祖が経験したエジプトの圧政からの解放があるのです。神様は「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、・・彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」と言って、モーセを遣わされたのです(出エジプト記3:1-21)。ヘブライ人たち(イスラエルの民)が信仰深いからではなく、絶望的な窮状に喘(あえ)いでいたことを心に留められたのです。この歴史的事実はキリスト信仰を理解する上で重要な役割を果たしているのです。「出エジプト」はイエス様のメッセージの原点を形成しているからです。宣教活動において繰り返しモーセの言葉と働きを取り上げておられます。「神様の御心」を想起させておられるのです。神様がエジプトの王ファラオによるヘブライ人への抑圧を直接介入の動機とされたように、イエス様もイザヤ書を引用して、貧しい人々や虐げられた人々の解放を宣教の目的にされたのです(ルカ4:18)。イエス様を通して「神の国」が到来しているのです。「神の国」の福音が個人の「霊的な救い」に縮小されてはならないのです。貧しい人々に福音(良い知らせ)が届けられているのです。神様は人々の切実な祈り-主の祈り-「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」に応えて下さるのです(マタイ6:11)。今、「新しい天地創造」が始まっているのです。イエス様は「何よりもまず、神の国(神様の支配)と神の義(正義)を求めなさい」と言われました。最も重要な戒めの一つです。優先順位が明確です。神様に信頼する人々に最低必要な物と「永遠の命」が与えられるのです。

*福音書記者マタイ、マルコ、ルカは「主の晩餐」について記述しています。最も古いマルコの福音書は「イエスはパンを取り・・弟子たちに与えて言われた。『これはわたしの体である。』また、杯を取り・・彼らにお渡しになった。そして、イエスは言われた。『これは多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」と記述しています(マルコ14:22-26)。ヨハネの福音書によれば、イエス様は「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」と言われたのです。イエス様の体(肉)を食べ、血を飲む者は誰でも「永遠の命」に与れるのです。ユダヤ人たちはイエス様のお言葉に躓(つまず)いたのです。人間の肉を食べることは究極の敵意を表しているのです(詩篇27:2)。血を飲むことは律法で禁じられているからです(レビ記3:17)。キリストの信徒たちはイエス様と一体になることであると理解しているのです。イエス様は「神の国」を宣教して指導者たちから迫害されたのです。イエス様の御跡を辿(たど)る人々はこの世に同調しないのです。このため、親、兄弟、親族、友人から見捨てられ、社会的地位や財産を失っているのです。時には命の危険に晒(さら)されることになるのです(ルカ21:7-19)。神様はすべての人に必要なパンを与えられるのです。しかし、誰もが「永遠の命」に与れる訳ではないのです。イエス様の肉を食べ、イエス様の血を飲む者だけが「永遠の命」に与れるのです。

*「命のパン」の意味が正しく伝えられていないのです。キリスト信仰における「救い」を説明するために、パウロの信仰理解-「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら救われる・・」―が引用されることも多いのです(ローマ10:9-10)。このような「救いの定義」はイエス様の教えから乖離(かいり)しているのです。知的信仰によって「救い」を得ることは出来ないのです。「行い」が必須の要件なのです。「天から降って来たパン」の意味の厳しさに気づいた-安価な恵みに慣れ親しんだ-弟子たちの多くが去り、共に歩まなくなったのです(ヨハネ6:66)。イエス様「わたしよりも父や母を愛する者は(だれでも)、わたしにふさわしくない。・・自分の十字架を担ってわたしに従わない者は(だれでも)、わたしにふさわしくない」と言われました(マタイ10:37-39)。「永遠の命」に与ろうとする人々には物心両面にわたる犠牲が伴うのです。キリスト信仰において「救い」は強調されるのですが、弟子としての覚悟や責務についてあまり語られていないのです。キリスト信仰に関する神学的、哲学的な説明が却って人々の正しい理解を妨げているのです。キリスト信仰とは信じることではないのです。イエス様の「命のパン」を食べることです。イエス様の「生き方」を自分の「生き方」とすることなのです。イエス様はご自身の生と死と復活を通して「神の国」を証しされたのです。「神の国」の到来こそ福音なのです。キリストの信徒たちは「神の国」の建設に参画するのです。

2024年10月20日

「指導者たちの腐敗と神殿崩壊」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書12章38節から13章2節 
            
イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

(注)


・律法学者たち:ユダヤ教の律法を専門的に解釈する学者であり、文書を書き記す官僚です。イエス様に敵対するグループの一つです。


・やもめ(寡婦):家父長社会にあって死別あるいは離婚されて一人となった彼女たちは窮乏生活を余儀なくされたのです。

■三年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、あなた(がた)のうちに嗣業の割り当てのないレビ人(たち)や、町の中にいる寄留者(たち)、孤児(たち)、寡婦(たち)がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。そうすれば、あなた(がた)の行うすべての手の業について、あなた(がた)の神、主はあなた(がた)を祝福するであろう。(申命記14:28-29)

■お前たち(指導者たち)が手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ 善を行うことを学び/裁きをどこまでも実行して/搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護せよ。・・支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり/皆、賄賂を喜び、贈り物を強要する。孤児の権利は守られず/やもめの訴えは取り上げられない。(イザヤ書1:15-23) 


■災いだ、偽りの判決を下す者/労苦を負わせる宣告文を記す者は。 彼らは弱い者の訴えを退け/わたしの民の貧しい者から権利を奪い/やもめを餌食とし、みなしごを略奪する。(イザヤ書10:1-2)


■万軍の主はこう言われる。正義と真理に基づいて裁き/互いにいたわり合い、憐れみ深くあり やもめ、みなしご/寄留者、貧しい者らを虐げず/互いに災いを心にたくらんではならない。」ところが、彼らは耳を傾けることを拒み、かたくなに背を向け、耳を鈍くして聞こうとせず、心を石のように硬くして、万軍の主がその霊によって、先の預言者たちを通して与えられた律法と言葉を聞こうとしなかった。こうして万軍の主の怒りは激しく燃えた。(ゼカリヤ書7:9-11)


■裁きのために、わたしはあなたたちに近づき/直ちに告発する。呪術を行う者、姦淫する者、偽って誓う者/雇い人の賃金を不正に奪う者/寡婦、孤児、寄留者を苦しめる者/わたしを畏れぬ者らを、と万軍の主は言われる。(マラキ書3:5)

●詩篇94:1-7も併せてお読み下さい。


・ファリサイ派:律法を日常生活に厳格に適用した人々です。

・ヘロデ派:ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパス、あるいはヘロデ王朝の支持者たちです。

・サドカイ派:ユダヤ教の一派です。死者の復活を否定しました。

・レプトン銅貨:当時流通していた貨幣の中で最も小さい単位の通貨です。平均的労働者の一日分の賃金1デナリオンの128分の1です。仮に1デナリオンを今日の通貨で換算して6,400円とすれば、50円です。やもめは一日100円で生活していたことになるのです。

・薄荷(はっか)・いのんど・茴香(ういきょう):最も小さいハーブです。

(メッセージの要旨)

*少し前に、イエス様は神殿の境内で売り買いしていた人々を追い出し、両替人たちの台や鳩販売業者たちの腰掛をひっくり返されたのです。物を運ぶことも阻止されたのです。「祈りの家」であるべき神殿が「強盗の巣」と化していることを激しく非難されたのです。祭司長たちや律法学者たちは彼らの権威と既得権益を守るためにイエス様をどのようにして殺そうかと謀議したのです(マルコ12:15-18)。緊迫した状況においても、イエス様はファリサイ派、ヘロデ派、サドカイ派の人々と論争されたのです。ご自身の方から挑戦するかのように律法学者たちの偽善と腐敗を告発されたのです。大勢の群衆がイエス様の教えに喜んで耳を傾けていたのです。指導者たちは律法を厳格に守るように教えているのです。ところが、自分たちはそれらを実行しないのです。富に執着し、専門的知識を悪用しているのです。金持ちたちは多額の献金によって「神様の祝福」を得ようとするのです。律法学者たちが貧しいやもめたちに援助の手を差し出すことはないのです。「神様の名」によって食い物にしているのです。イエス様はやもめの信仰を高く評価されたのです。一方では、やもめの献金に隠された指導者たちの大罪を告発しておられるのです。キリスト信仰において「愛」が強調されるのです。ただ、聖書のどこにも正義と裁きのない「愛」は見られないのです。最も重要な戒め-正義、慈悲、誠実の実行-を軽んじる人々には天罰が下されるのです(マタイ23:23)。後に、エルサレムの町と神殿はローマ軍によって完全に破壊されるのです(紀元70年)。


*エルサレム神殿はユダヤ人にとって神様が臨在される神聖な場所です。異邦人の中にもこのように考えている人が多いのです。神殿はそれ以外にも重要な役割を果たしているのです。イスラエルの政治・経済・社会を統括する国家機関なのです。大祭司によって最高法院が招集され、国の命運を左右する意思決定が行われているのです。ローマ帝国の利益のために自国の民を犠牲にするという苦渋の決断がエルサレム神殿においてなされたのです。ここでは法廷も開かれているのです。神殿はイスラエルの経済をコントロールするセンターなのです。中央銀行としての業務を行い、蓄積された莫大な富を保管しているのです。ところが、指導者たちは本来の機能を私的に悪用しているのです。イエス様は「強盗の巣」と化した神殿を「祈りの家」に戻そうとされるのです。物理的な力を用いて彼らに警告されたのです。「神の国」-神様の支配-が到来していることを群衆の前で公然と宣言されたのです。イエス様による実力行使が指導者たちの不信仰、神殿の商業化に対する「霊的な潔め」として語られているのです。ただ、「神の国」の全容を説明したことにはならないのです。福音(良い知らせ)が個人的な罪の問題に縮小されているからです。神様はしかるべき時に「新しい天地」を創造されるのです。イエス様を遣わし、ご計画を前もって明らかにされたのです。神様は指導者たちの腐敗と不正を断じて赦されないのです。イエス様は「神様の怒り」を表現されたのです。直接支配される日が近いのです。「神の国」は人間の「全的な救い」として完成するのです。

*神様はアブラハムに「わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである」と言われたのです(創世記18:19)。イエス様は律法学者たちの腐敗と偽善を厳しく批判されたのです。彼らはモーセの律法を教えているのです。しかし、言うだけで実行しないのです。しかも、律法に数多くの細かい規定を加えて人々を苦しめているのです。これらの人を「救い」に導くために指一本貸さないのです。守ることが出来ない人々を裁くだけなのです。自分たちの都合に合わせて律法を解釈するのです。神様さえも欺くのです。「神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない」、「祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない」と言うのです。黄金、供え物を神聖化するのです。献金(献品)の対象ではない農産物(薄荷、いのんど、茴香)の十分の一を献げて信仰を誇っているのです。彼らは白く塗った墓に似ているのです。外側は美しく見えるのです。しかし、内側は死者の骨で汚れているのです。外側は人に正しいように見せながら、内側は不法で満ちているのです。神様が遣わされた預言者、知者、学者たちを会堂で鞭打ち、町から町へと追い回しているのです。十字架上で処刑された人々もいるのです(マタイ23)。やもめたちや貧しい人々を虐げているのです。あらゆる策を弄(ろう)してこれらの人を搾取しているのです。

*人々がそれぞれの信仰に基づいて献金をしているのです。イエス様は献金額を確認できる位置に座られました。神様の前で「神の子」としての権威を示されたのです。金持ちたちがたくさんの献金をしているのです。貧しいやもめはレプトン銅貨二枚を捧げたのです。弟子たちを含め多くの人は献金額から金持ちの方が信仰心篤く、やもめは信仰心の薄い人として評価しているのです。しかし、神様は心の内を御覧になられるのです。イエス様が注目されたのは献金額の多寡ではなかったのです。信仰心を比較されたのです。献金額の多寡と信仰心は必ずしも連動しないのです。金持ちたちは献金の額によって「永遠の命」に与れると思っているのです。「神の国」に入るためには隣人-貧しい人々や虐げられた人々-を愛することが必須の要件なのです。それを実行すれば「救いの道」は開かれるのです(マタイ25:31-40)。一方、指導者たちは貧しい人たちにも「十分の一献金」を強いるのです。相応の献金をしなければ神様に罰せられるかのように教えているのです。やもめはその指示を忠実に実行したのです。しかし、生活費のすべてを捧げるような献金のあり方は「神様の御心」に反しているのです。確かに、イエス様は「だれよりもたくさん献金した」と言われたのです。やもめの信仰を誉められたのです。ただ、イエス様の真意を正確に理解することが重要です。注目すべき点はやもめの信仰心の篤さだけではないのです。生活費の全部を献金させる指導者たちの罪が告発されているのです。神様を欺く人々が「永遠の命」に与ることはないのです。

*律法学者たちは人々の前で「先生(ラビ=偉大な指導者)と呼ばれることを好んでいました。イエス様は弟子たちに「あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ 。・・『教師』(学究的先生)と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである」と言われたのです(マタイ23:8-10)。イエス様が天に上られた後、信仰共同体は初代教会へと発展するのです。信徒の数が増え、階層化も進んだのです。組織の効率化が不可欠になったのです。祭司(牧師)のような指導者たちが信徒の群れを率いるようになるのです。献金が貧しい信徒たちに分配されなくなったのです。指導者たちの生計維持に充当されるのです。しかし、パウロは経済的自立を貫いたのです。設立した教会から得られる権利-経済的支援-を敢えて行使しなかったのです。テント職人として働き、生活費を得ていたのです(1コリント9:12-18)。それは誰からも束縛されずに「復活の主」を証しするためであったのです。キリスト信仰を説明するためにパウロの「言葉」が多く引用されるのです。しかし、「生き方」への関心度は極めて低いのです。「聖書に忠実である」と明言する教会があるのです。愛が強調されているのです。ところが、正義や平和の重要性にほとんど言及していないのです。重要な聖書の個所が恣意的(しいてき)に選別されているのです。イエス様は「何よりもまず、神の国(神様の主権)と神の義(正義)を求めなさい」と命じられたのです(マタイ6:33)。お言葉を肝に銘じるのです。

2024年10月13日

「使命を果たしなさい」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書25章14節から30節

「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔(ま)かない所から刈り取り、(種子を)散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れて(銀行家に預けておく)おくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

(注)

・1タラントン:平均的労働者の15年分以上の賃金に相当する金額です。例えば、一日の賃金が10,000円とします。365日x15年x10,000円=54,750,000円となります。

・商売をして:宣教することです。迫害の危険に遭遇するのです。

・穴に埋める:何もしないということです。

・蒔かない所から刈り取り・・:人間にとって不可能なことです。(しかし、神様はそれを可能にされるのです。)

■イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた(神様に委ねた)者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(マルコ10:29-31)

・銀行に入れる:専門家に運用を委ねることです。優れた指導者の助言を求めることです。

・持っている人々、持っていない人々:「天の国」、「神の国」についての知識を持っている人々とそうでない人々のことです。「神の国」は死後に行く天国のことではないのです。神様の主権、神様の支配を表す言葉です。イエス様を「救い主」として信じる人々は神様と隣人を愛するのです。委ねられた才能を用いて「神の国」を建設するのです。

・12弟子:ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベタイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダです。(マタイ10:2)

(メッセージの要旨)

*イエス様は「タラントン」の前に「ノアの箱舟と大洪水」(創世記6-7章)に触れ、さらに「忠実な僕と悪い僕」や「十人のおとめ」のたとえ話を語っておられます。弟子たちにご自身の「再臨」-最後の審判-に備えるように前もって指示されたのです。主人と預かったお金を運用する僕たちとのやり取りはイエス様の教えを実践しようとする弟子たちの姿勢にたとえられているのです。イエス様は町や村を巡っては会堂で「神の国」の福音を宣べ伝え、人々のありとあらゆる病気や患いを癒されたのです。群衆が飼い主のいない羊の様に弱り果て打ちひしがれているのをご覧になって、働き手の少ないことを痛感されたのです。ペトロなど12弟子(後に72人)を選んで各地に派遣されたのです。病人たちをいやし、死者たちを生き返らせ、重い皮膚病を患っている人たちを清くし、悪霊たちを追い払う権能を授けられたのです。同時に「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と言われたのです。遭遇する苦難を予告されたのです(マタイ10:1-16)。派遣された弟子たちはそれぞれのタラントン(才能)を用いて「神様の御心」を実現したのです。一方、使命の遂行に逡巡(しゅんじゅん)した僕がいたのです。結局、怠惰な僕として「神の国」から追放されたのです。イエス様は「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」と言われました(マタイ10:39)。「行い」によって信仰を証しすることが求められているのです。自分の十字架に不忠実な人は「永遠の命」に与れないのです。

*イエス様は安易な信仰理解を戒めておられるのです。信仰には「行い」が伴わなければならないのです。弟子たちに人間の力を遥かに超えるタラントンが委ねられているのです。民衆は多くのしるしと不思議な業を見聞きしているのです。人々は病人たちを大通りに運び出し、担架や床に寝かせたのです。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにするためでした。果たして、そのことが起こったのです。一人残らず癒されたのです(使徒5:12-16)。地中海沿岸の町ヤッファにタビタという女性の弟子がいました。当時としては画期的なことです。この人はたくさんの良い行いや施しをしていました。ところが、病気で死んだのです。近くのリダに来ていたペトロはこの弟子を生き返らせたのです(使徒9:36-43)。一方、使徒たちに対する迫害は激しくなったのです。それはすべての弟子に広がったのです。最初の殉教者はステファノでした。恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていたからです。逮捕された後も最高法院で大祭司の前で堂々とイエス様への信仰を証ししたのです。神様への冒涜の罪で石打の刑に処せられたのです(使徒6:8-8:3)。ヘロデ大王の孫アグリッパ王は各教会に迫害の手を伸ばすのです。使徒ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺害したのです(使徒12:1-5)。「神様の御心」を実現するためには覚悟がいるのです。キリスト信仰に生きようとすれば迫害に遭遇するのです。弟子たちの中にもう一歩を踏み出せない人々もいたのです(ルカ9:57-62)。

*イエス様は律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実を実行しなさいと言われました(マタイ23:23)。キリスト信仰に生きる人々にはそれぞれに相応しいタラントンが与えられているのです。それらを「神様と隣人への愛」に用いるのです。新約聖書にはたくさんの具体例が記述されています。七つの悪霊を追い出していただいたマグダラのマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、スザンナなど多くの女性は自分の持ち物を出し合ってイエス様の一行に奉仕していたのです(ルカ8:1-3)。ユダヤ人たちから蔑まれていたサマリア人の女性はイエス様に出会ったのです。サマリアの地で最初の宣教者になったのです(ヨハネ4:1-42)。徴税人の頭ザアカイは財産の半分を貧しい人々に施したのです(ルカ19:38-42)。ニコデモはファリサイ派に属する議員でした。しかし、最高法院の意向に反してイエス様を弁護したのです(ヨハネ7:45-45-52)。アリマタヤ出身の議員ヨセフはローマの総督ポンティオ・ピラトにイエス様の埋葬を申し出たのです。初代教会においても見られたのです。バルナバと呼ばれるキプロス島生まれのヨセフなど土地や家を持っている人々はそれらを売ったのです。代金を持ち寄り使徒たちに委ねたのです。そのお金は信仰共同体のメンバーに必要に応じて分配されたのです(使徒4:32-37)。パウロはキリストの信徒たちを迫害していたのです。「復活の主」に出会って回心したのです(使徒9:1-19)。異邦人の宣教に生涯を奉げたのです。誰よりも労苦したのです(2コリント11:16-29)。

*「神の国」の福音(良い知らせ)-人間の全的な救い-が「罪からの救い」に縮小されているのです。しかも、キリスト信仰の厳しさが伝えられていないのです。福音はすべての人に届けられるのです。「救い」に与るためには幾つかの要件を満たす必要があるのです。主人から預かった1タラントンを僕はそのまま返したのです。何かの悪事を働いた訳でもないのです。しかし、この人は「永遠の命」に与れなかったのです。ある金持ちは律法を厳格に守っていたのです。ところが、富に執着したのです。貧しい人々に財産を施さなければ「神の国」に入れないのです(マルコ10:17-31)。傲慢な人々は心を入れ替えるのです。子供のように自分を低くしなければ決して「神の国」に入れないのです(マタイ18:1-5)。「救い」に不安を覚える弟子たちもいたのです。神様への信頼はキリスト信仰の真髄(しんずい)なのです。イエス様は機会あるごとに「終わりの日」に備えるように指示されたのです。キリスト信仰は「安価な恵み」ではないからです。「行い」のない信仰はそれだけでは死んでいるのです(ヤコブ2:14-17)。三人の僕のうちの二人は遭遇するかも知れない困難を承知の上で全力を尽くしたのです。もう一人は使命の遂行よりも自分の身の保全を優先したのです。その原因は自分の不信仰にではなく、主人(神様)の厳しさにあったと説明するのです。神様は「この民は・・唇でわたしを敬うが心はわたしから遠く離れている」と言われたのです(イザヤ書29:13)。神様は心の内をご存知です。欺く人を赦されないのです。

*イエス様は聖霊様によって誕生し「神の国」の福音に生涯を捧げ、天に戻られました。しかし、しかるべき時に再び来られるのです。再臨において、「新しい天地」が創造されるのです。神様から委ねられた「裁きの権限」を行使されるのです。すべての人が裁かれるのです(ヨハネ5:21-30)。忠実な僕であったかどうかによって、ある人は「永遠の命」に与り、ある人は「滅び」に至るのです。完成した「神の国」においては「・・神の幕屋が人(人々)の間にあって、神が人(人々)と共に住み、人(人々)は神の民となる。神は自ら人(人々)と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。・・」のです(ヨハネの黙示録21:3-4)。キリスト信仰を標榜する人々はこの福音を信じているのです。ただ、イエス様は「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。・・洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである」、「いつも目を覚ましていなさい」と言われたのです(マタイ24:36-44)。キリストの信徒たちにはそれぞれ貴重なタラントンが委ねられているのです。それらを「神様の御心」を実現するために有効に用いなければ「怠け者」として評価されるのです。自己義認はその人の「救い」に役立たないのです。キリスト信仰は「行い」を求めるのです。この事実を深刻に受け止めるのです。

2024年10月06日

「巧妙な搾取と偽善」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書20章1節から16節

「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者(たち)を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者(たち)をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者(たち)から始めて、最初に来た者(たち)まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中(者たち)は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中(最後に来た者たち)とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者(たち)にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

(注)

・聖書を正しく理解するためには当時の社会・政治・経済状況を常に念頭に置くことが必要です。キリスト信仰の根本理念に「正義」と「公平」の実現があるからです。

・労働者たち:元々、多くは農民でしたが借金を返済できずに担保の土地を失い労働者となった人々です。高利貸しの中には祭司たちもいたのです。彼らは毎日早朝から仕事を求めて「一定の場所」で雇い主たちが来るのを待ったのです。

・夜明け:午前6時です。

・1デナリオン:ローマ皇帝カエサルの肖像と刻印がある銀貨です。一般的労働者の一日の賃金に相当する額です。ただ、大きな家族の生計維持に十分な額ではないのです。

・神様の正義と愛:すべての分野に及ぶのです。

■寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。・・貧しい者(たち)に金を貸す場合は・・高利貸しのように・・利子を取ってはならない。・・隣人の上着を質に取る場合には、日没までに返さねばならない。(出エジプト記22:20-26)

■あなたたちは、不正な物差し、秤、升を用いてはならない。・・わたしのすべての掟、すべての法を守り、それ(ら)を行いなさい。わたしは主である。」(レビ記19:35-37)


■同胞であれ、あなたの国であなたの町に寄留している者であれ、貧しく乏しい雇い人(たち)を搾取してはならない。賃金はその日のうちに、日没前に支払わねばならない。彼(ら)は貧しく、その賃金を当てにしているからである。彼(ら)があなたを主に訴えて、罪を負うことがないようにしなさい。(申命記24:14-15)

・友よ:友達のように訳されていますが、実際には情愛のこもった言葉ではありません。元々は仲間のような少し距離を置いたニュアンスの言葉です。イエス様がご自身を逮捕するために群衆(ローマ兵を含む)と共にやって来たイスカリオテのユダに対して使われたお言葉と同じです。マタイ26:50を参照して下さい。

・後にいる者が先になり、先にいる者が後になる:

「神の国」(天の国)においてはこの世の地位が逆転するのです。イエス様は次のように言われました。

■自分を低くして、この子供のようになる人が天の国ではいちばん偉いのだ。(マタイ18:4)


■わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた(神様に委ねた)者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。(マタイ19:29)

・イエス様の宣教の原点:

■イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人(人々)に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人(人々)に解放を、/目の見えない人(人々)に視力の回復を告げ、/圧迫されている人(人々)を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(ルカ4:16-21)

・主の祈り:イエス様が教えられたこの祈りには借金に苦しむ労働者たちの切実な願いが表現されているのです。


■だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/赦しましたように。 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』 (マタイ6:9-13)

(メッセージの要旨)

*イエス様は「神様の御心」を軽んじる家の主人たちへの警告としてたとえ話を語られたのです。この家の主人はぶどう園で働く労働者たちを雇うために広場(労働市場)とぶどう園を何度も行き来しているのです。たくさんのぶどう園を所有していたからです。「家の主人」という日本語訳は彼らが貪欲な経営者であることを曖昧にするのです。「地主」と訳すべき言葉です。金持ちの地主はその日の仕事を求める労働者たちと交渉しています。一デナリオンの賃金に合意した労働者たちをぶどう園に送ったのです。「合意した」という言葉も誤解を招くのです。両者が対等であるかのような印象を与えるからです。実際は雇い主に最終的な決定権があるのです。成人男性は一デナリオンによってかろうじて肉体の必要を満たしているのです。家族を養うためにはもっとお金がいるのです。労働者たちは本来自分と家族を養えないような低賃金に同意しないのです。しかし、他に選択肢がなければ地主の提案を受け入れざるを得ないのです。地主は労働者たちの状況(弱さ)を熟知しているのです。利益を最大化するためには善意さえも装うのです。その方法は労働者たちの間に分裂をもたらすのです。たとえ話は貧しい人々の現実を反映しているのです。キリストの信徒たちは神様の愛と憐れみに注目しがちです。しかし、神様は正義と公平を大切にされるお方なのです。地主は暑い中一日中働いた労働者たちの正当な抗議を無視するのです。賃金の支払いを最後に回して侮辱しているのです。真実を見誤ってはならないのです。神様はこの人を厳しく罰せられるのです。

*たとえ話を聞いている人々の大半は貧しい農民であり、自分たちの姿と重ね合わせたのです。自分たちの土地があれば広場に仕事を求めて行くことはなかったのです。ところが、彼らにすでに土地はなく、生活の糧を確保するために仕事を見つける必要があるのです。どのような賃金でも働かざるを得ないのです。この事実は労働者たちの地主への対応に表れています。彼らはどれくらい払ってくれるかについて協議していないのです。地主の提示した額を考慮することなくそのまま受け入れているのです。労働者たちは地主が賃金を正当に支払ってくれることを願うだけなのです。地主と労働者たちの間にある力の差は歴然としているのです。一方には「ぶどう園」があり、他方には「労働力」しかないのです。地主が労働者たちの弱さに付け入るだけで十分に狡猾です。その上に、仕事を求めて広場にいる労働者たちに「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と尋ねているのです。農民たちは様々な理由(借金の返済など)によって土地の所有権を失い、必死で仕事を探しているのです。地主はその主要な原因を知っているのです。侮蔑的な質問をして労働者たちの自尊心を傷つけているのです。怠けて失業者になっているかのように認識させているのです。偽善は労働者たちの非難が自分たちに向かうことを避ける工夫の一つなのです。自然界に引力の法則があるのです。人間社会の経済活動にも法則があるのです。土地や資本を持っている人たちはそれらを持たない人々よりも優位に立つのです。たとえ話はその事実を具体的に明らかにしているのです。

*地主は労働者たちの不満に対する反論の根拠として「あなたがたはわたしと一デナリオンの約束をしたこと」を挙げるのです。地主は多くのぶどう園を所有しているのです。労働者たちには働く以外に生活の糧を得る方法がないのです。提示された賃金を拒否する余裕などないのです。労働者たちは地主の条件に合意しなければ決して雇われないことを知っているのです。地主は「わたしの気前のよさをねたむのか」と言って、巧みに論点をすり替えるのです。自分の善意に目を向けさせるのです。しかし、「神様の御心」に沿って是非を判断するのです。同一労働同一賃金の原則からすれば表面上の平等が不平等を招いているのです。気前の良さの問題ではないのです。ある労働者たちを苛酷に働かせ、ある労働者たちの労働時間を恣意的に軽減させているのです。それぞれの時刻に雇った労働者の人数は不明です。一般的に、早朝六時にぶどう園に送られた労働者の数が最も多いのです。1デナリオンで十二時間働いたのです。これらの人の労働によって十分な収益が確保されているのです。憐れみ深い人であるなら自分の利益を減らしてでも労働時間に応じた賃金を支払うのです。何よりも、労働者たちを時間ごとに雇うことなどしないのです。早朝に一括して採用するからです。その方が効率的です。長時間働いた労働者たちから非難された地主は「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか」と善意を強調しているのです。搾取と偽善のたくらみが露見しないように振る舞うのです。

*地主は労働者たちの賃金を一方的に決定しているのです。不公平な賃金の決定方法によって、一時的に得をした労働者たちがいるのです。しかし、楽をして賃金を得た労働者たちに明日も同じようなことが起こるとは限らないのです。別の雇い主が1デナリオン以下の賃金で働くことを強いるかも知れないのです。最悪の場合、一日中仕事に就けないこともあるのです。気まぐれや気前の良さは不公平を助長するのです。地主は尊大です。言葉には労働者たちへの愛や配慮が見られないのです。用いた方法も悪意に満ちているのです。自分の利益を最大化するために労働者たちを欺いているのです。労働者たちの間に分断をもたらしているのです。地主の強欲と富への執着がこの問題の根本原因なのです。労働時間数に応じて賃金を支払えば誰もが納得するのです。日没が六時であれば,五時に雇った労働者は一時間働いたのです。地主はこの人に1デナリオンを支払ったのです。この基準を他の労働者にも適用するのです。三時に雇った人には三デナリオン、正午に雇った人には六デナリオン、朝九時に雇った人には九デナリオン、六時に雇った人に十二デナリオンを支払うのです。ところが、一律だったのです。早朝から働いた労働者たちが賃金の上積みを求めることは当然です。地主が自分の取り分を減らして賃金に充当することはなかったのです。「主の祈り」にあるように、土地を失った(奪われた)農民たちは困窮しているのです。その日の糧を得ることに苦労しているのです。地主は労働者たちの声に耳を傾けなかったのです。神様がその訴えに応えられるのです。

*イエス様はファリサイ派の人々や律法学者たちの偽善を激しく非難して「律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実をないがしろにしている。これらこそ行うべきである」と言われたのです(マタイ23:23)。労働者のすべてが単身者ではないのです。これらの人には年老いた両親、妻や子供たちがいるのです。地主の目的は労働者たちを巧妙に搾取して最大の利益を得ることなのです。その意図を偽善によって覆い隠すのです。見せかけの正義と公平によって労働者たちを対立させるのです。地主は労働者たちに労働時間に関係なく1デナリオンを支払ったのです。契約上は正しいのです。キリストの信徒たちの中に地主の主張に賛同する人も多いのです。しかし、同一労働同一賃金の観点からは全く不公平なのです。地主の言動は愛と慈しみに満ちた「神様の御心」に反しているのです。労働者たちは地主が提示した賃金に異を唱えることなど出来ないのです。形式的な平等が実質的な不平等を生み出しているのです。地主の目的は明確です。労働者たちが生み出した果実を可能な限り自分の所有物にすることなのです。偽善はそのための手段なのです。イエス様は貧しい労働者たちに窮状の原因を分かり易く説明しておられるのです。雇い主の不正に対する労働者たちの申し立てを支持しておられるのです。神様はすべてのことをご存じです。虐げられた労働者たちの側に立たれるのです。不正を働く人々に報復されるのです。今日、同様なことが起こっているのです。農民や労働者たちが苦しんでいるのです。「神の国」においてはこの世の地位が逆転するのです。

2024年09月29日

「議員ニコデモの信仰」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書3章1節から15節

さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ(先生)、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。(わたしはそのように思わないのですが・・)」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風(霊)は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。

はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

(注)


・夜:イエス様は「・・しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである」と言われています(ヨハネ11:10)。ヨハネ13:30を併せてお読みください。

・ファリサイ派:厳格な律法解釈とその遵守、さらには慣習と伝統を大切にするユダヤ教の一派です。

・律法学者:文書を記録する官僚であり、同時に学識を有する学者です。多くはイエス様に批判的でしたが、「先生,あなたがおいでになる所ならどこへでも従って参ります」と言った律法学者もいたのです(マタイ8:19)。

・神の国:「天の国」とも言います。死後に行く「天国」のことではありません。神様の支配、神様の主権のことです。福音(良い知らせ)とは、神様がこの世を終わらせて「新しい天地」を創造されることです。イエス様はご自身の教えと「力ある業」を通してご計画の一部を示されたのです。いずれ、再臨する(再び来る)時に完全なものにされるのです。

・水と霊:旧約聖書にも記述されています。「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる」(エゼキエル書36:25-27)。イザヤ書32:15-20、ヨエル書3:1-5も参照して下さい。

●ユダヤ教ではユダヤ教への改宗者を「新しく生まれた子」と呼んでいました。

・霊から生まれた者:マリアはイエス様を聖霊様によって身ごもったのです(マタイ1:20)。

・サンへドリン:新共同訳聖書では「最高法院」と訳されています。エルサレムにあり、もともと司法(律法)に関する最高意思決定機関としての役割を果たしていました。大祭司がこの評議会の議長を担当し、議員は主として祭司職の家系の者、律法学者のような宗教指導者から選ばれました。結果として、祭司職のサドカイ派の人々、ファリサイ派に属する律法学者たちで構成されたのです。また、いずれの派にも属さない律法や慣習を監督する長老もメンバーに含まれていたのです。イエス様の時代にはローマ帝国の支配下にあり、大祭司は任命されたのです。自分たちで選ぶことは出来なかったのです。エルサレムの司法、行政、宗教(神殿政治)の中枢を担っていました。

・荒れ野の蛇:エジプトから導き出されたイスラエルの民は荒れ野における厳しい生活に耐えきれず、神様に不平を漏らしたのです。神様は怒って猛毒の蛇を地上の民に送られました。多くの死者が出たのです。神様の指示に従ってモーセは青銅の蛇を造り旗竿の先に掲げたのです。噛(か)まれてもこの蛇を仰げば死ぬことはなくなったのです。民数記21:4-9を参照して下さい。

(メッセージの要旨)

*ニコデモはヨハネによる福音書だけに三回登場します。信仰心の篤いユダヤ人で、サンヘドリンのメンバーでした。ファリサイ派の一員としてイエス様を理解しようと努力していました。密かな出会いを望んでいたのか、群衆を避けようとしていたのかは分かりませんが、イエス様を夜に訪問したのです。イエス様はご自身が「神の子であること」を信じられない人々に「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくてもその業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう」と言われました(ヨハネ10:37-38)。ニコデモは「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」と言っているように、彼(のグループ)はイエス様が神様から遣わされた教師であることを認めているのです。ただ、ニコデモが順守して来た「律法と預言者たち(の教え)」は洗礼者ヨハネの時を最後に重大な転換点を迎えるのです。イエス様を通して「新しい天地創造」が告げられているのです。この世の終わりが近いのです。イエス様は人々に水と霊(の洗礼)によって新たに生まれることを求められたのです。ニコデモはユダヤ教の教えと経験に基づいて反論するのです。ところが、新しく生まれ変わったのです。イエス様に有利な発言をしているのです。十字架上で処刑されたイエス様を埋葬したのです。同僚から非難され、地位の剥奪が予想されるのです。

*イエス様は神様から遣わされたお方です。ユダヤ教の教師(あるいは預言者)に留まらないのです。イエス様はニコデモの信仰理解をさらに深められるのです。サマリア人の女性に「神は霊である。 だから、神を礼拝する者は、霊と真理を持って礼拝しなければならない」(ヨハネ4:24)と言われたように、ニコデモにも「水と霊による洗礼を受けなければ神の国に入れない」と明言されたのです。ニコデモは神様がイエス様と共におられることを認めているのです。もう一歩が踏み出せないのです。イエス様は慈しんで「そこまで理解しているのに、なぜ、ご自身の中に神様がおられることを信じないのか」と不信仰を指摘されたのです。イエス様の母マリアは聖霊様によって身ごもったのです。イエス様が洗礼を受けられた時、天が裂けて「霊」が降っているのです(マルコ1:10)。神様はイエス様によって語られるのです。信じる人々に「永遠の命」を与えられるのです。神様とイエス様と聖霊様は一つなのです(ヨハネ10:30)。律法の厳格な順守による「救い」を確信し、人々にもそのように教えて来たニコデモが難題に直面しているのです。イエス様への応答がその人の「救い」を決定するという絶対的な要件に困惑するのです。律法の順守と「神の国」の福音とは矛盾しないのです。イエス様が「律法を廃止するためではなく、完成するために来た」と言われるからです(マタイ5:17-20)。イエス様を「神の子」と信じ、御跡に従うことは簡単ではないのです。新たに生まれるためには過去の生き方からの決別と強い信頼が不可欠なのです。

*イエス様はファリサイ派の人々や律法学者たちを非難して「(彼らは)モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」と言われたのです(マタイ23:2-4)。ニコデモはファリサイ派に属する議員です。律法を厳格に順守しているのです。社会的地位もあり、宗教指導者なのです。鋭く対立している相手のイエス様と会うことには危険が伴うのです(ヨハネ9:22)。相応の覚悟がなければイエス様を訪れることなど出来ないのです。しかし、ニコデモは他のファリサイ派の人々とは違っていました。自分の中に生じた「新しい教え」に対する疑問を何とかして解明したいのです。見えない力がそうさせているのです。すでに、聖霊様に導かれているのです。水と霊による洗礼は儀式や形式ではないのです。信仰を貫くことが出来る「神様の御力」に与ることなのです。ニコデモはイエス様への信仰を隠している議員が多い中、「行い」によって信仰を公にした数少ない人です(ヨハネ12:42-43)。キリスト信仰が誤解されているのです。「神の国」の福音-人類の全的な救い-が「霊的に」のみ語られているのです。ニコデモは最初「新しく生まれること」を論じたのです。ところが、後に「生き方」によってそれを示したのです。イエス様と出会って「水と霊から生まれた者」-真のキリストの信徒-になったのです。

*イエス様のお言葉「だれでも水と霊とによって生まれなければ、・・あなたがたは新たに生まれねばならない・・」が心(認識)の問題として理解されているのです。イエス様を「神の子」として信じた人々がこの世(肉)と同調することは出来ないのです。イエス様は神殿の境内から商売人たちを「実力行使」によって追い出されたのです。祭司長たちやファリサイ派の人々は激怒したのです。イエス様を捕らえるために下役たちを遣わすのです。イエス様を捕らえて殺そうとしているのです(マルコ11:15-18)。状況は緊迫しているのです。イエス様を信じる人たちも迫害を受けるのです。それでも、ニコデモは議員たちやファリサイ派の人々に「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」と警告しているのです(ヨハネ7:51)。権力者たちは威信が損なわれないように最善を尽くすのです。組織内部から造反者が出ないように注意を怠らないのです。必要なら力(恐怖)を用いて抑圧するのです。ニコデモが信念に基づいて「組織的律法違反」を告発するのです。制裁と不利益を被(こうむ)ることは避けられないのです。キリスト信仰とは信じることではないのです。「行い」によって信仰を証しすることなのです。ニコデモはイエス様の教えを聞いたのです。それらを実行するのです。「何よりもまず、神の国(神様の支配)と神の義(神様の正義)」を求めたのです(マタイ6:33)。新しく生まれたキリストの信徒はこのような人なのです。

*イエス様は聖霊様に導かれ「神様の御心」を実現するためにご生涯を捧げられました。権力の中枢にいたニコデモはイエス様に出会って新しく生まれ変わったのです。その後、同僚たちの非難を恐れずに律法を順守してイエス様を弁護したのです。そして、処刑されたイエス様のご遺体を議員であるアリマタヤのヨセフと共に埋葬したのです(ヨハネ19:38-40)。ヨセフは弟子であることを隠していたのです。ところが、イエス様のご遺体を取り降ろしたいとローマの総督ポンティオ・ピラトに願い出たのです。イエス様への信仰が公けになったのです。記述はないのですが、権力の中枢から迫害されたことは火を見るより明らかです。ニコデモやヨセフは議員の立場で出来ることを実行したのです。新しく生まれ変わった人々はこの世の常識の範疇(はんちゅう)-利害あるいは損得-で行動しないのです。最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実践するのです(マルコ12:29-31)。金持ちや社会的地位の高い人々が「神の国」に入るのは難しいのです。彼らには執着する物があまりにも多いからです。ニコデモはイエス様に出会って何が最も大切なことであるかを知ったのです。「水と霊によって生まれること」について様々な神学論争が行われているのです。議論で解明される問題ではないのです。もっと単純なのです。イエス様に神様と聖霊様が共におられることを信じるのです。「神様の御心」に沿ってこの世を生きるのです。議員ニコデモはイエス様を夜に訪れて「救い」に与ったのです。イエス様の教えを忠実に守った人なのです。

2024年09月22日

「狭い戸口」

聖書朗読(Bible Reading)ルカによる福音書13章22節から30節

イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義(悪)を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに(のを見るとき)、自分(たち)は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

(注)

・「救われる者は少ないのでしょうか」は広く議論されていました。旧約聖書続編のエズラ記(ラテン語)7:45-61を参照して下さい。旧約聖書続編は従来、第二聖典、アポクリファ、外典などと呼ばれています。紀元前三世紀以後、数世紀の間に、ユダヤ人によって書かれたものです。現在のヘブライ語の聖書の中には含まれていないのですが、初期のキリスト教徒はこれをギリシャ語を用いるユダヤ教徒から聖なる書物として受け継いだのです。この部分についてのカトリック教会の評価は定まっていますが、プロテスタント諸教会の間では必ずしも一定していないのです。(新共同訳聖書1987年版序文から)

■ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネ21:20-22)

・狭い戸口:

■すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」(ルカ10:25-28)

■「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイ25:31-40)

・不義を行う者ども:「不法」を働く者どもと訳す方が適切です。


■悪を行う者よ、皆わたしを離れよ。主はわたしの泣く声を聞き 主はわたしの嘆きを聞き/主はわたしの祈りを受け入れてくださる。(詩編6:9-10)


■イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」(マルコ12:38-40)

・神の国:神様の支配、神様の主権のことです。天の国とも言われます。ここでは狭い戸口のある家として表現されています。

・東から西、南から北: 世界中から

・後の人で先・・・:神様が最初に選ばれたのはイスラエル(ユダヤ人たち)です。しかし、不信仰の故にイエス様を通して「救い」はすべての民族に及ぶのです。

(メッセージの要旨)


*ある人がイエス様に「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねています。どのような思いから質問をしたのかは分かりませんが、この問題はユダヤ人の間では大きな関心事だったのです。すべてのイスラエルの民は救われると考える人もいれば、エジプトから脱出した人々の中で「約束の地」カナンに入ったのはヨシュアとカレブだけであったことを心に留める人もいたのです(民数記14:1-38)。イエス様は質問内容に直接答えるのではなく、もっと重要な問題―「どのようにすれば救われるのか」―について言及されたのです。そして、人々に「狭い戸口から入るように努めなさい」と言われたのです。これは、山上の説教で語られたお言葉「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」の再確認なのです(マタイ7:13-14)。多くの人は信仰によって「救い」が得られると信じているのです。しかし、「神の国」に入れる人は少ないのです。神様のご認識とキリストの信徒たちの理解には相違が見られるのです。「信仰によって救われる」という言葉が正しく伝えられていないのです。キリスト信仰は安価な恵みではないのです。「狭い戸口」、「狭い門」から入ることを求めるのです。自己犠牲を伴う厳しい信仰なのです。「神様の御心」-神様と隣人を愛すること-を実行した人が「永遠の命」に与れるのです。イエス様の御跡を辿(たど)るのです。苦難を覚える隣人のために全力で奉仕するのです。


*新約聖書の中に「広い門」を選んで滅びに至った人々と「狭い戸口」から入って「救い」に与った人々が記述されています。財産に執着して「神の国」から遠ざかった金持ちがいました。この人は律法の規定を忠実に守って生きて来たのです。ところが、「永遠の命」への確信が得られなかったのです。イエス様に「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と質問したのです。イエス様は「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬えという掟をあなたは知っているはずだ」と答えられたのです。金持ちは「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と誇らしげに語ったのです。イエス様は金持ちを慈しんで「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い貧しい人々に施しなさい。天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と命じられたのです。金持ちは「永遠の命」に至る道の厳しさに驚いたのです。気を落として悲しみながら立ち去ったのです。イエス様は「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と言われたのです。更に「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と続けられたのです。弟子たちは「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言ったのです(マルコ10:17-26)。自己評価は役に立たないのです。大切な物を捨てる(神様に委ねる)ことが求められているのです。金持ちは「狭い戸口」から入ることを決断出来なかったのです。


*「狭い門」から入った人々の中に徴税人のザアカイがいました。貧しい人々は重税に喘いでいました。徴税人たちが不正な取り立てをしていたからです。しかも、ローマ帝国の徴税に協力して利益を得ていたのです。ユダヤ人たちは彼らを民族の裏切り者と呼んだのです。罪人として蔑(さげす)んだのです。ザアカイはエリコ(エルサレムの東約37km)に住んでいました。徴税人の頭で金持ちでした。ある時、イエス様がこの町を通っておられました。ザアカイはどんな人か見ようとしたのですが、背が低かったので群衆に遮られて見ることができなかったのです。そこで、先回りしていちじく桑の木に登ったのです。イエス様はその場所に来ると「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われたのです。ザアカイは喜んでイエス様を迎えたのです。これを見た人たちが「イエス様は罪深い男のところに行って宿をとった」とつぶやいたのです。当然のことかも知れません。ところが、ザアカイはイエス様の憐れみに「行い」によって応えるのです。新しい生き方を表明するのです。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と言ったのです。前半は任意ですが、後半は律法の規定を十分に満たしているのです(出エジプト記22:1)。イエス様はザアカイの心の内を御覧になったのです。「今日、救いがこの家を訪れた。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」と言われたのです(ルカ19:1―10)。正義、慈悲、誠実は「救い」の基本要件なのです。


*「不義」と訳されている言葉には道徳的な過ちのニュアンスが強く表れているのです。原文の意味は不法行為、悪事のことなのです。信徒たちがキリスト信仰とこの世における生活を使い分けているのです。富の蓄積を擁護しているのです。一定の労働者を犠牲にしても、経営者が利益を得ることは企業の正当な経済活動だと主張しているのです。しかし、イエス様が明言されたように神様と富との両方に仕えることは出来ないのです(ルカ16:13)。「神の国」(神様の支配)と「神様の義」(神様の正義)を優先するのです(マタイ6:33)。当時の弟子たちがそうであったように、現代の信徒たちも同じ道を歩んでいるのです。イエス様の教えが日常生活から乖離(かいり)していることを理由に「逃れの道」を模索するのです。自分にとって可能な「戒め」だけを実行しているのです。イエス様は「『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。・・」と言われたのです(マタイ7:21-23)。ヤコブも「・・行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」と警告するのです(ヤコブ2:14-17)。「広い門」を選んだために「神の国」に入れない人が多くいるのです。キリスト信仰とは「神の国」の到来を福音(良い知らせ)として信じることです。人間の「全的な救い」として実現するのです。「罪からの解放」は一部です。キリストの信徒たちは「神様の恵み」を受けるだけでなく、「狭い戸口」から入るのです。「神の国」の建設のために責務を果たすのです。


*「狭い戸口」から入るために何よりも優先して神様の支配と神様の正義を求めるのです。ある男と徴税人ザアカイはいずれも金持ちでした。一方は、財産を施すことを惜しんで「神の国」から遠ざかったのです。金持ちが「神の国」に入ることは不可能に近いのです。しかし、イエス様は「人間にはできないことも、神様にはできる」と言われたのです(マタイ19:26)。お言葉の正しさが徴税人ザアカイを通して証明されたのです。徴税人は貧しい人々に財産の半分を施すこと、不正が確認されれば四倍にして返すことを明言して「救い」に与ったのです。イエス様は御子の権威によって「救い」の是非を判断される のです。このことを肝に銘じるのです。イエス様が「神様の御心」を実現するために十字架の死を遂げられたように、キリスト信仰に生きる人々も様々な苦難に遭遇するのです。「永遠の命」を希求しながら、神様のための「犠牲」を惜しむことは矛盾しているのです。キリスト信仰が誤解されているのです。キリスト信仰とはイエス様の教えを実行することです。イエス様に倣(なら)って生きることなのです。敵対する人々から迫害されるのです。イエス様は労苦している人々を慰め、励まして下さるのです。「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた(神様にお委ねした)者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」と約束されたのです(ルカ18:29-30)。イエス様を信じ「狭い戸口」から入るのです。「神の国」の到来を全力で証しし、名実ともにキリストの信徒になるのです。

2024年09月15日

「選ばれる人は少ない」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書22章1節から15節

イエスは、また、たとえを用いて語られた。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。 そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。

(注)

・「天の国」(神の国):神様の主権、神様の支配のことです。死後に行く天国のことではありません。イエス様の「力ある業」よって福音(良い知らせ)が具体化されているのです。

・譬えられた人々:王は神様、家来たち(僕、奴隷)はイスラエルの預言者、招かれた人々は不信仰なユダヤ人、別の家来たちはクリスチャンの預言者あるいは使徒のことです。

・婚宴:将来の天における「救い」の祝賀会がイメージされています(マタイ8:11)。

・町の破壊:指導者たちの不信仰はローマ軍の司令官ティトス(後のローマ皇帝)によるエルサレム陥落を招くのです(西暦70年)。

・婚礼の礼服:イエス様が歩まれたように生きることです。自分を正しい者とし、信仰を自負することは最も大きな罪の一つです。

●イエス様は「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、 その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」と言われたのです(マタイ7:13-14)。

・預言者イザヤ:紀元前738年ごろに活動を始め、不信仰な王と偽預言者たちと闘ったのです。

■わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。(イザヤ書56:7)


・預言者エレミヤ:イザヤからおよそ100年後の紀元前609年ごろ、国を憂い破滅から救うために活動したのです。

■わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。(エレミヤ書7:11)

・サマリア人:紀元前721年アッシリアがサマリアを支配下に置きました。サマリアでは混血が進み、独自の信仰が形成されたのです。ユダヤ人たちはサマリ人たちを蔑み、交際を拒否したのです。

・異邦人:ユダヤ人以外の人々のことです。

・大通り:あらゆる国の人々が行き交っているのです。

・通りや小道:イスラエルの「外」を表しています。そこにいる人々は異邦人たち、あるいはサマリア人たちを指しています。申命記32:21を参照して下さい。

(メッセージの要旨)

*たとえ話はユダヤ教の指導者たちに向けられています。イエス様は彼らの不信仰を批判し、「悔い改め」を求められたのです。一方、彼らが罪人として社会から排斥した人々に福音を届けられたのです。ユダヤ人たちから蔑まれていたサマリア人たちや異邦人たち、善人たちだけでなく悪人たちにも伝えられたのです。福音の種はすべての人に蒔(ま)かれたのです。しかし、すべての人が「神の国」の到来を信じた訳ではないのです。悔い改めて新しい道を歩むこと-神様と隣人を愛して生きること-を決断しなかった人もいたのです。具体例が挙げられています。イエス様を信じていながら神様の栄光よりも人間の賞賛を選んだ議員たち(ヨハネ12:42-43)、自分の財産を貧しい人々に施すことが出来なかった金持ちの男(マルコ10:17-31)、返せない大きな額の借金を免除してもらっても、自分に少額の負債がある人に返済を迫る人がいるのです(マタイ18:21-35)。重い皮膚病を癒してもらった10人の内「救い」に与ったのはサマリア人一人だけだったのです(ルカ17:11-19)。婚宴の席に礼服を着ていない人がいたのです。事前に招待を受けた人々は用意することが出来るのです。しかし、大通りや小道で招待された人々には時間的ゆとりなどないのです。経済的余裕がある人もほとんどいないのです。悪人たちも招かれているのです。婚礼の礼服とは「悔い改め」、「罪人としての自覚」のことなのです。ユダヤ人や異邦人の区別なく、「神様の御心」に相応しい実を結ばない人々は「神の国」の福音に与れないのです。

*聖書は膨大な書物です。人によって読み方が異なるのは自然なことです。読書計画を立てて読まれる方がおられます。一方、特定の章を選んで、あるいは 小見出しを見て読まれる方も多いのです。婚宴のたとえ話が語られた背景、状況、聞き手は誰かなどを知っておくことは、内容を理解する上で助けとなるのです。旧約聖書にはイスラエルの指導者たちと民衆の信仰の歴史が記述されています。神様は偶像礼拝を繰り返すイスラエルを導くために預言者を遣わされたのです。権力者(王)のほとんどが彼らの警告に耳を傾けなかったのです。民衆は外国勢力の支配下にあって辛酸(しんさん)をなめたのです。一部は「捕囚の民」としてバビロン(現在のイラク)へ連行されたのです(紀元前587年)。イエス様の時代においても指導者たちは祖先と同じ道を歩むのです。ローマ帝国の重税に協力して私腹を肥やしたのです。「悔い改め」を迫る洗礼者ヨハネを殺し、「神の国」の福音を拒否したのです。イエス様は群衆の大歓迎を受けてエルサレムに入場されました。先ず、神殿の腐敗を非難されたのです。境内から商売人たちを追い出し、両替人たちの台や鳩を売る者の腰掛を倒されたのです。二人の預言者の言葉を引用して「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」と言われたのです(マタイ21:12-13)。後日、境内で教えておられる時、憤った祭司長や民の長老たちが「権威の根拠」を尋ねているのです。イエス様は「御子の権威」によって傲慢な人々を「神の国」から追放されるのです。

*神様の民として選ばれたイスラエルは「神様の御心」に背き、期待に応えられなかったのです。しかも、警告する預言者たちを迫害し、殺すことさえしたのです。中心的役割を果たしたのが偶像礼拝に陥った歴代の王たちだったのです。現在のエルサレム神殿も紀元前八世紀、七世紀に預言者たちが非難した状態と酷似しているのです。祭司長たち、長老たち、律法学者たちが神様に仕えるのではなく、私利私欲を満たすために奔走しているのです。律法主義と偽善によって人々を誤った方向に導いているのです。そこで、彼らに三つのたとえ話をされたのです。聖書の個所は三番目です。一番目は「二人の息子」です。弟は父親の指示を承知したのですが実行しなかったのです。拒否した兄は後に考え直して従ったのです。祭司長たちや律法学者たちはイエス様の先駆けである洗礼者ヨハネに耳を傾けなかったのです。「永遠の命」に与る機会を閉ざしたのです。一方、罪人として蔑まれていた徴税人たちや娼婦たちは福音を信じたのです(マタイ21:28-32)。二番目は「ぶどう園と農夫」です。地主は農夫たちにぶどう園を貸して旅に出たのです。しばらくして、収穫を受け取るために僕たちを遣わしたのです。しかし、農夫たちは彼らを袋叩きにして殺したのです。最後に、敬ってくれるだろうと思って息子を送ったのです。息子も殺されたのです。地主は激怒してぶどう園を彼らから取り上げたのです。ぶどう園主を軽んじる農夫たちに厳しい罰が下されるのです。ふさわしい実を期待して他の民族(異邦人たち)に与えたのです(マタイ21:33-43)。

*三番目に「婚宴のたとえ」が語られたのです。預言者たちの正しさが証明されるのです。不信仰と悪業に対する罰が下されるのです。王様は人殺したちを滅ぼしたのです。イエス様の宣教の第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」です(マルコ1:15)。神様はイエス様を通して人々に「悔い改め」を求められたのです。「悔い改め」とは心の問題に留まらないのです。これまでの「悪い行い」と決別し「悔い改め」に相応しい良い実を結ぶことなのです。当初、イエス様は異邦人たちやサマリア人たちではなく、ユダヤ人たちを優先的に宣教されたのです。しかし、彼らの多くはイエス様を拒否したのです(マタイ10:5-6)。福音はユダヤ人の中でも、社会の隅に追いやられ、罪人としての烙印を押された人々に届けられたのです。福音書記者ルカはそれらの人の社会的、身体的状況に言及しています。招待を断った人々に怒った主人は僕たちに「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人々、体の不自由な人々、目の見えない人々、足の不自由な人々をここに連れて来なさい」と言ったのです。彼らが「御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります」と言うと、主人は「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」と命じたのです(ルカ14:21-24)。婚宴の席は広場や路地、通りや小道で声を掛けられた人によって占められたのです。選ばれたユダヤ人たちは責務を果たさなかったのです。「神の国」の福音が世界中の人に届けられることになったのです。

*たとえ話は「異邦人の救い」に至るプロセスを説明するだけでなく、招かれた人々の責務についても言及しているのです。神様の恩寵が不信仰なユダヤ人たちから取り上げられ、すべての民族(異邦人)に「救い」が及ぶことになったのです。以前、イエス様は集まって来た群衆に「山上の説教」を語られました。神様を「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるお方」として紹介されているのです(マタイ5:45)。神様は不信仰なユダヤ人が悔い改めることを待っておられるのです。すべての民族が神様の下に来て礼拝することを願っておられるのです。善人か悪人かを問うことなく「神の国」の婚宴に招かれるのです。神様は人が罪を犯したことではなく、罪を悔い改めて「新しい生き方」をしているかどうかをご覧になられるのです。ユダヤ人がそうであったように、異邦人たちも使命を果たさなければならないのです。イエス様は模範を示されたのです。イエス様が歩まれた道を辿(たど)る人々―良い実を結ぶ人々―が「救い」に与るのです。過去に洗礼を受けたこと、教会に通っていることが「救い」の保証ではないのです。それらは婚宴に出席することを許されたことと同じなのです。問題は婚礼の礼服を身に着けているかどうかなのです。ユダヤ人は神様に選ばれた民なのです。ところが、不信仰が栄誉を無効にしているのです。異邦人たちも憐れみによって婚宴の席に招かれたのです。ただ、信仰のあり方を問われるのです。イエス様が命じられた重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実践するのです。

2024年09月08日

「掟を守りなさい」

Bible Reading (聖書の個所) ヨハネによる福音書14章1節から15節


「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。・・」


(注)


・戒(いまし)めについて:旧約聖書から 


■あなた(がた)の神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼(主)を畏(おそ)れなさい。(申命記8:6)

■あなたの命令から英知を得たわたしは/どのような偽りの道をも憎みます。あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。わたしは誓ったことを果たします。あなたの正しい裁きを守ります。(詩編119:104-106)

・最も重要な掟(おきて)について:新約聖書から

■彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。(マルコ12:28-31)

・ペトロ、トマス、フィリポ:いずれも12使徒です。

・共観福音書:マタイ、マルコ、ルカによる福音書は、構成、考え方(観点)、内容に共通性を持っています。ヨハネによる福音書と区別してこのように呼ばれています。


・慰めに満ちたイエス様のお言葉:


■憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ(異教の神による神殿ぼうとくが行われている)のを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。このことが冬に起こらないように、祈りなさい。それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。(マルコ13:14-23)

(メッセージの要旨)


*イエス様はガリラヤで宣教を開始されました。洗礼者ヨハネの弟子であったペトロは、ヨハネの言葉「イエス様は神の小羊である」を聞いて、イエス様の弟子となったのです。フィリポはイエス様のお言葉「わたしに従いなさい」によって直ちに弟子となったのです(ヨハネ1:35-51)。彼らはイエス様と寝食を共にし、「道」(新しい教え)を学んだのです。最も重要な戒めを実践するのです。ところが、イエス様はこの世を去られるのです。弟子たちの足を洗われたのです(ヨハネ13:5)。イエス様の振る舞いやお言葉を理解できない使徒たちは質問したのです。先ず、ペトロが「主よ、どこへ行かれるのですか」と行く先を尋ねたのです。すると、イエス様は「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」と言われたのです。ペトロは「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」と決意を表明するのです。しかし、イエス様は「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言う」と予告されたのです(ヨハネ13:36-38)。トマスも同様の質問し、フィリポは「御父をお示しください」と願っているのです。イエス様は心を騒がせる使徒たちに理由を説明されたのです。天において住居を準備されるのです。そこで「救い」に与った人々と共に住むことを約束されたのです。キリスト信仰に生きる人々は「神様と隣人」を愛するのです。ただ、簡単なことではないのです。敵対する人々から迫害されるのです。「永遠の命」の希望が勇気を与えているのです。

*ヨハネによる福音書は三つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ)-共観福音書-から際立って異なっていると考えられているのです。その理由の一つに共観福音書が取り上げている記事や物語を欠いていることが挙げられます。あるいはそれらが言及していない人物や出来事を記述していることも一因になっているのです。それにも関わらず、神学的、霊的な福音書として高く評価されているのです。共観福音書との共通性も見られるのです。今日の聖書の個所がそのことを証明しているのです。イエス様を愛するとは命じられた「掟」を守ることなのです。キリスト信仰は「行い」を求めるのです。イエス様は愛するラザロの死に直面し「死の支配」に憤られ(心を騒がされ)たのです(ヨハネ11:33)。十字架の死を目前にし「今、わたしは心騒ぐ。『父よ、わたしをこの時から救ってください』」と言われたのです(ヨハネ12:27)。ユダの裏切りを知った時にも、心を騒がされたのです。しかし、神様の御力と約束に対する信頼が揺らぐことはなかったのです。今、弟子たちが同様の経験をしているのです。イエス様はこの世から父なる神様のもとへ移る時が来たことを悟り、食事の席で弟子たちの足を洗われました。どのように生きるべきかについて模範を示されたのです。互いに愛し合うように命じられたのです(ヨハネ13:1-35)。初代教会はすべての物を共有にし、心を一つにして祈っているのです。神様は彼らの信仰生活を祝福し、日々新しい仲間を加えられたのです(使徒2:43-47)。キリスト信仰は信じることで完結しないのです。


*神様はモーセに「わたしはある。わたしはあるという者だ」とご自身を紹介されたのです(出エジプト記3:14)。イエス様はユダヤ人たちに「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」と言われたのです(ヨハネ8:58)。「永遠の存在であること」を強調されたのです。「わたしと父は一つである」と言って「神様と一体であること」を公言されたのです(ヨハネ10:30)。神様を冒涜する言葉です。ユダヤ人たちは「あなたは、人間なのに自分を神としている」と激しく非難したのです。律法に従って、石打の刑で殺そうとしたのです。イエス様は彼らの手を逃れて去って行かれたのです。しかし、最終的には十字架上で処刑されるのです。その時も、イエス様は「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と言われたのです(ルカ23:34)。「神様の子」を受け入れることの難しさに言及されたお言葉なのです。神様はイスラエルの民の叫び声を聞かれるのです。中立の立場を取られることはないのです。抑圧された人々の側に立たれるのです。イエス様もイザヤの預言「・・貧しい人々に良い知らせを伝えるために。・・つながれている人々には解放を告知させるために。・・」に沿って使命を果たされるのです(イザヤ書61:1-2)。イエス様が「神性」を明確にすればするほどユダヤ人たちは反発したのです。「力ある業」(しるし)に接しても「この人は、大工ではないか。マリアの息子・・」と言って躓(つまず)いたのです(マルコ6:3)。弟子たちにとっても信じることは容易ではなかったのです。


*聖書が旧約聖書、新約聖書に分けられています。それは便宜上のことです。旧約聖書が伝える神様を語らないキリスト信仰は根のない草花に似ています。ひと時の感動を与えてもいずれ生命力が失われるのです。イエス様が神様とご自身を等しい者とされることには理由があるのです。キリスト信仰の本質がこの点にあるからです。復活されたイエス様も「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われたのです(マタイ28:18-20)。父と子と聖霊が並列されているのです。初代教会における典礼上の簡略された表現なのです。本来、神様をたたえるときは「栄光が、聖霊において、子を通して、父なる神に帰せられるように」、神様の祝福を求めるときは「父なる神の祝福が、子を通して、聖霊において、あなたがたの上にあるように」と表現するのが一般的だったのです。使徒たちはイエス様がどのようなお方であるかを理解していないのです。イエス様は「こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか」と叱責されたのです。「知る」というお言葉には信仰上の重要な意味があるのです。キリスト信仰とは「救い主」を認識することではないのです。神様が遣わされたイエス様の御跡を辿(たど)ることなのです。苦難が待っているのです。聖霊様がキリストの信徒たちを導いて下さるのです。


*キリスト信仰は信じることで始まるのです。信仰は抽象的な心の問題に留まらないのです。具体的な「行い」を求めるのです。四福音書は共通してこの点を明確にしているのです。共観福音書はイエス様が命じられた「最も重要な掟」を伝えているのです。律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいているからです。イエス様は自分を正当化しようとする律法の専門家に「善いサマリア人」のたとえ話を語って、言葉ではなく「行い」によって「永遠の命」に与りなさいと言われたのです(ルカ10:25-37)。ヨハネの福音書も実践を強調されたイエス様のお言葉「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。・・互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」を取り上げているのです(ヨハネ15:9-13)。イエス様はこの世を去って再び来られるまでの間、弟子たちがどのように生きるべきかについて教えられたのです。簡潔で、分かり易いのです。キリスト信仰において難しい神学は必要ないのです。イエス様の「生き方」がキリスト信仰の真髄を語っているからです。イエス様に倣(なら)って掟を実践することが「永遠の命」に至る道です。ただ、内容が正確に伝えられていないのです。キリスト信仰による「救い」が「罪からの解放」に縮小されているのです。イエス様の掟に戻るのです。

2024年09月01日

「イエス様と母マリアの信仰」

ヨハネによる福音書2章1節から12節

三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。

(注)

・カナ:ガリラヤの中央部にある小さな村です。カナとカファルナウムの間はおよそ26km、カナとナザレの間はおよそ14kmです。聖書地図を参照して下さい。イエス様はここで王の役人の死にかかっている息子の病も癒されたのです(ヨハネ4:46-54)。

・カファルナウム:ガリラヤ湖の北西に位置しています。経済的にも繁栄していた要衝の町です。

・ベトサイダ:ガリラヤ湖の北の端にある町です。アンデレとペトロ、フィリポはこの町の出身者です。いずれも12使徒に選ばれました。

・ナザレ:周辺地域から隔絶された小さな村です。イエス様は母マリア、父ヨセフと共にこの地に住まれました。それ故に「ナザレの人」と呼ばれたのです(マタイ2:23)。

・ナタナエル:故郷はカナです。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったのです。イエス様に出会って「あなたは神の子です」と信仰を告白したのです(ヨハネ1:43-51)。

・1メトレテス:約39リットルです。

・世話役:召使いたちの長です。招待されたお客の中の一人がその任に当たることもあったのです。

・過越祭:ユダヤ人たちがエジプトの圧政から解放されたことを記念する祭りです。出エジプト記12:1-27をお読み下さい。

・天使ガブリエルの言葉:

■あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。(ルカ1:31-33)

・マリアの賛歌:

■そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。 主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。 (ルカ1:46-55)

(メッセージの要旨)

*主催者側は何日も続く婚宴に備えて、食べ物や飲み物を十分に用意するのです。ところが、宴会の途中でぶどう酒が足りなくなったのです。これは単なる準備不足では済まないのです。花婿と花嫁、それぞれの家族や親族にとって極めて不名誉なことなのです。母マリアは世話役などにではなく、イエス様に対応を求めたのです。イエス様のお答えはマリアの意を汲んだものにはならなかったのです。ただ、母マリアに困惑は見られないのです。自分の願いが叶えられることを確信しているかのように、召し使いたちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言ったのです。カナの「しるし」(奇跡)については幾つかの疑問が残るのです。大きく分けて三つあります。第一は母マリアと結婚式を迎える人々との関係です。第二は母マリアになぜぶどう酒の管理責任があったのかです。第三はイエス様がなぜ母マリアにあのような非礼な言い方をされたのかです。第一、第二の疑問に答える記述は見当たらないのです。推測する以外に方法はないのです。第三の疑問を解決する視点はイエス様のお言葉「わたしの時はまだ来ていません」にあるのです。イエス様にとって「水をぶどう酒に変えること」は人々を驚かせることではないのです。「救い主」の到来を啓示する手段なのです。弟子たちは「しるし」によってイエス様を信じたのです。イエス様は「神様の御心」の実現のために全力を注がれるのです。一方、母マリアは天使ガブリエルの受胎告知以来、イエス様が「神の子」であることを心に刻んでいるのです。イエス様に問題解決を願い出たのです。

*イエス様が12歳になった時のことです。母マリアを驚かせた出来事がありました。母マリアと父ヨセフは慣例に従って毎年「過越際」にはエルサレムへ巡礼の旅をしたのです。祭りの期間が終わって帰路についた時、イエス様はまだ都に残っておられたのです。両親はイエス様が一団の中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまったのです。いない事に気づいて親類や知人の間を捜し回ったのですが見つからなかったのです。そこでエルサレムに引き返したのです。母マリアと父ヨセフはイエス様が神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを発見したのです。聞いている人は皆、イエス様の賢い受け答えに驚いていたのです。母マリアはイエス様に「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」と言ったのです、イエス様は「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と答えられたのです。母マリアはイエス様のお言葉の意味を理解できなかったのですが、これらのことをすべて心に納めたのです (ルカ2:41-52)。イエス様がヨハネから洗礼を受け、「神の国」の福音を宣教された年齢はおよそ30歳でした(ルカ3:23)。それまで、父ヨセフから大工の仕事を学び、父親の死後も一家の生計を支えられたのです。母マリアはイエス様と生活を共にしているのです。天使ガブリエルの言葉を想起する機会が何度もあるのです、息子が「神の子」であることを信じているのです。

*イエス様はガリラヤ湖の近郊にあるカファルナウムの町を宣教の拠点にされました。洗礼者ヨハネの弟子であったベトサイダ出身のアンデレとペトロを最初の弟子とされたのです。さらに、フィリポとナタナエルを弟子に加えられたのです。イエス様はナザレの北にあるカナと呼ばれる村で行われる結婚式に出席されたのです。母マリア、弟子たちも同席したのです。母マリアの行動を理解するためには当時の慣習を知っておくことが不可欠です。パレスティナにおいて婚姻は前もって全住民に告知されたのです。花婿が友人たちと共に行列を作って花嫁の家を訪問し、花嫁を迎えるのです。それから、花嫁と共に自分の家に戻り婚宴を始めるのです。伝統と慣習に従ってすべての事が順調に終われば、花婿と花嫁、家族と親戚に名誉がもたらされるのです。婚宴の途中に不都合が生じれば、非難と不名誉が待っているのです。それほど重要な出来事なのです。婚宴の席は一週間続いたのです(士師記14:12)。イエス様は「十人の乙女」のたとえ話において「救い」の厳しさを語っておられます(マタイ25:1-13)。花婿の到着が遅れて真夜中になったのです。予備の油を用意していなかった「五人の乙女」は油を店に買いに行ったのです。その間に花婿は到着し、婚宴の席の戸が閉められたのです。ぶどう酒を十分に用意していなかったことが明らかになれば、招待側の不手際が村や周辺地域に流布されるのです。世話係も責任を問われることになるのです。民族共同体において、不名誉は耐え難いことです。母マリアはイエス様に「特別な力」を期待したのです。

*母マリアは「ぶどう酒がなくなりました」と伝えたのです。イエス様は「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」と答えられたのです。「あなたが気にかけている『ぶどう酒の問題』がどうしてわたしたち相互の関心事になるのですか」と言い換えることが出来るのです。確かに、イエス様の「使命」と直接の関わりがないのです。言い方は母親のマリアに礼を失しているように見えるのです。「婦人よ」は男性から女性に対する一般的な呼びかけ方なのです。他に同様の言葉を使っておられるのです。サマリアの女性(ヨハネ4:21)、姦淫の罪で捕らえられた女性(ヨハネ8:10)、十字架の下にいた母マリア(ヨハネ19:26)、マグダラのマリア(ヨハネ20:15)です。それでも、母親に「婦人よ」は普通ではないのです。母マリアは「自分の息子」に対するように話しているのです。イエス様は母親の善意を承知の上で敢えて「神の子」として対応されたのです。「水をぶどう酒に変えること」は親子の関係を超越しているのです。母親の依頼で行動することではないのです。イエス様はもはや母親の下にはいないのです。「わたしの時はまだ来ていません」を加えられたのです。「救い主」であることを暗に告白しておられるのです。そこには苦難の道を歩む覚悟が表れているのです。イエス様は「神様の御心」の実現するために奔走(ほんそう)されるのです。最初に、母マリアの願いに応えられたのです。水をぶどう酒に変えられたのです。神様がイエス様と共におられるのです。その後も、数多くの「しるし」によって証しされたのです。

*乙女マリアはイエス様の誕生に関わる中心人物です。ところが、「マリアの賛歌」においてキリスト信仰の本質が明らかにされたこと、カナにおける母マリアの言葉「ぶどう酒がなくなりました」に隠されたイエス様への信仰について言及されることが少ないのです。マリアは最初のキリストの信徒です。生涯を通してキリストの信徒であり続けた人なのです。イエス様は母マリアの揺るぎない信仰を高く評価しておられるのです。個人的な母の願いに応えるということではなく、「しるし」-ユダヤ教の清めに用いる石の水がめに入れられた水を新しいぶどう酒に変えられたこと-を通して、キリスト信仰による「救い」を啓示されたのです。役人の息子を癒し、五千人に食べ物を与え、生まれつきの盲人を見えるようにするなど、数々の「しるし」を実行されたのです。最終的には、すべての人のためにご自身を捧げられるのです。イエス様は母マリアに「御覧なさい。あなたの子です」と言って感謝を表明されました。母親の行く末に深い配慮をされたのです。愛する弟子(ヨハネ?)に「見なさい。あなたの母です」と言って依頼をされたのです。この弟子は母マリアを自分の家に引き取ったのです(ヨハネ19:25-27)。母マリアはイエス様の十字架のそばに立って無言の別れを告げたのです。初代教会の信徒の数は百二十人ほどです。その中には母マリア、イエス様の兄弟たちもいたのです。イエス様の教えを守り、他の信徒と共に心を合わせて熱心に祈っていたのです(使徒1:13-15)。母マリアはキリスト信仰を誰よりも実践した人なのです。

2024年08月18日

「平地の説教の視点」

Bible Reading (聖書の個所) ルカによる福音書6章17節から36節

イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。

さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。


しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵(たち)を愛し、あなたがたを憎む者(たち)に親切にしなさい。悪口を言う者(ののしる者たち)に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者(たち)のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

(注)

・ ユダヤ全土:北のガリラヤ、中央のサマリア、南のユダヤに分かれていました。聖書地図を参照して下さい。


・ティルスとシドン:地中海沿岸の異邦人の町々です。シドンはティルスのさらに北にあります。


・不幸である:原文にはもっと厳しい言葉が使われているのです。本来「・・に災いあれ」と訳すべきなのです。日本語訳を通してイエス様が事実と異なる柔和なお方として紹介されるのです。複数の聖書によって訳を比較して下さい。


・偽預言者たち:神様の言葉の代わりに、人々の気に入ることだけを話した預言者たちです。人々は彼らを褒めるのです。

・神様の正義:


■災いだ、家に家を連ね、畑に畑を加える者は。お前たちは余地を残さぬまでに/この地を独り占めにしている。万軍の主はわたしの耳に言われた。この多くの家、大きな美しい家は/必ず荒れ果てて住む者がなくなる。十ツェメド(約25,000㎡)のぶどう畑に一バト(約23ℓ)の収穫/一ホメル(約230ℓ)の種に一エファ(約23ℓ)の実りしかない。


災いだ、朝早くから濃い酒をあおり/夜更けまで酒に身を焼かれる者は。酒宴には琴と竪琴、太鼓と笛をそろえている。だが、主の働きに目を留めず/御手の業を見ようともしない。それゆえ、わたしの民はなすすべも/知らぬまま捕らわれて行く。貴族らも飢え(で死に)、群衆は渇きで干上がる。それゆえ、陰府は喉を広げ/その口をどこまでも開く。高貴な者も群衆も/騒ぎの音も喜びの声も、そこに落ち込む。人間が卑しめられ、人はだれも低くされる。高ぶる者の目は低くされる。万軍の主は正義のゆえに高くされ/聖なる神は恵みの御業のゆえにあがめられる。小羊は牧場にいるように草をはみ/肥えた家畜は廃虚で餌を得る。


災いだ、むなしいものを手綱として/罪を車の綱として、咎を引き寄せる者は。彼らは言う。「イスラエルの聖なる方を急がせよ/早く事を起こさせよ、それを見せてもらおう。その方の計らいを近づかせ、実現させてみよ。そうすれば納得しよう。」


災いだ、悪を善と言い、善を悪と言う者は。彼らは闇を光とし、光を闇とし/苦いものを甘いとし、甘いものを苦いとする。災いだ、自分の目には知者であり/うぬぼれて、賢いと思う者は。


災いだ、酒を飲むことにかけては勇者/強い酒を調合することにかけては/豪傑である者は。これらの者は賄賂を取って悪人を弁護し/正しい人の正しさを退ける。それゆえ、火が舌のようにわらをなめ尽くし/炎が枯れ草を焼き尽くすように/彼らの根は腐り、花は塵のように舞い上がる。彼らが万軍の主の教えを拒み/イスラエルの聖なる方の言葉を侮ったからだ。(イザヤ書5:8-24)


■富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません。兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。(ヤコブ5:1-11)

・神様の愛:

■寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼(ら)を苦しめ、彼(ら)がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる。もし、あなた(たち)がわたしの民、あなた(たち)と共にいる貧しい者(たち)に金を貸す場合は、彼(ら)に対して高利貸しのようになってはならない。彼(ら)から利子を取ってはならない。もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。(出エジプト記22:20-26)

■穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者(たち)や寄留者(たち)のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは盗んではならない。うそをついてはならない。互いに欺いてはならない。わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなた(たち)の神の名を汚してはならない。わたしは主である。あなた(たち)は隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。・・心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。(レビ記19:9-18)

・仮現論:初期のキリスト教における異端理論の一つです。キリスト信仰をこの世-社会・経済・政治-から切り離して霊的な側面だけを強調する考え方のことです。この信仰理解によれば、イエス・キリストは地上におられた間、人間 の肉体を持っておられなかったのです。ただ肉体があるように見えていただけなのです。それ故、イエス様の復活を認めなかったのです。

(メッセージの要旨)

*イエス様は宣教の第一声において「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたのです(マルコ1:15)。特に、貧しい人々や虐げられた人々に「神の国」-神様の支配-の到来を「力ある業」によって証しされたのです。目の見えない人々は見え、足の不自由な人々は歩き、重い皮膚病を患っている人々は清くなり、耳の聞こえない人々は聞こえ、死者たちは生き返っているのです(マタイ11:5)。神様はしかるべき時にこの世を終わらせて「新しい天地」を創造されるのです。悔い改めてご自身の下に来る人々を「永遠の命」に与らせて下さるのです。これが福音(良い知らせ)なのです。一方、社会には指導者(金持ち)たちの腐敗と不正が蔓延(はびこ)っているのです。預言者たちは社会・経済・政治構造の歪(ゆが)みを告発したのです。イエス様は彼らを高く評価されたのです。富に対する姿勢はその人の「救い」を左右するのです。不正な手段-搾取、強欲、策略、暴力など-によって富を蓄積した金持ちたちに天罰が下るのです。イエス様は「敵を愛しなさい」と言われました。敵(悪)を無条件で受け入れることであるかのように誤解されているのです。神様は正義と愛を大切にされるのです。イエス様は「神様の御心」を実現するために地上に来られたのです。何よりもまず、神の国と神の義(正義)を求められたのです。弟子たちにもそれらの実行を命じられたのです(マタイ6:33)。同時に、敵対する人々が悔い改めて「救い」に与ることを願っておられるのです。キリスト信仰が要約されているのです。

*イエス様は山上から12弟子たちと共に下りて来られました。群衆は癒しを求めてイエス様に触れようとしたのです。すでに触れて癒された人々がいたことを知っていたからです。イエス様が町や村や里に入って行かれると、そこでは人々が病人たちを広場において、せめてその服の裾(すそ)にでも触れさせてほしいと願い出たのです。触れた者はみな癒されたのです(マルコ6:56)。12年間も長血を患っている女性が後ろからイエス様の服の房に触れたのです。服に触れさえすれば治してもらえると思っていたからです。イエス様はあなたの信仰があなたを救った(癒した)と言われたのです。その時、女性は病気から解放されたのです(マタイ9:20-23)。イエス様は福音を語るだけでなく、人々の悩みや苦しみを現実に取り除かれたのです。その際、人々の心の内を御覧になられるのです。見せかけの信仰は何の役にも立たないのです。一方、神様の子であることを信じられない人々には譲歩されたのです。「わたしが父の業おこなっていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくてもその業を信じなさい」と言われたのです(ヨハネ10:37-38)。「力ある業」によって神様が共におられることを証明されたのです。キリストの信徒たちは「隣人愛」によって信仰を証しするのです。貧しい人々や飢えている人々に衣服や食物を与え、旅人たちに宿を提供し、病人たちを見舞い、牢獄に不当に拘束されている人々を訪ねるのです。これらは「救いの要件」なのです(マタイ25:31-46)。

*「平地の説教」(ルカ6:17-49)と「山上の説教」(マタイ5-7)はよく比較されるのです。両方とも「幸い」で始まり「聞くだけでなく、行いなさい」で終わっているのです。マタイは9つの「幸い」を挙げています。ルカは4つの「幸い」の他に「山上の説教」にはない4つの「不幸(災い)」を加えているのです。金持ちに対する厳しい裁きが含まれている「平地の説教」よりも「山上の説教」が引用される理由の一つになっているのです。イエス様はガリラヤで宣教を始められたのです。安息日にはいつものように会堂に入られたのです。イザヤ書の「主の霊がわたしの上におられる、貧しい人々に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである」を朗読されたのです(ルカ4:18)。ご自身の立ち位置がイザヤの預言にあることを明言されたのです。「平地の説教」においても「神の国」が貧しい人々に属することを宣言されたのです。一方、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と記されているのです(ヨハネ3:16)。「救い」はすべての人に及ぶのです。ただ、神様と富とに仕えることは出来ないのです。イエス様は「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われたのです(マルコ10:25)。徴税人の頭ザアカイは「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたらそれを四倍にして返します」と言って「永遠の命」に与ったのです(ルカ19:8)。

*イエス様は「敵を愛しなさい」と言われました。この言葉を正しく理解することが重要です。聖書のどこを探しても正義と裁きのない愛は見つからないからです。迫害する人々の卑劣な行為を容認してはならないのです。悪と不正には毅然(きぜん)と対応するのです。これらの人が「救い」に与れるかどうかは別の問題なのです。ただ、非難や告発の方法には工夫を凝らすのです。抗議によって、呪う者たちや虐待する者たちに内省する機会を提供するのです。暴力を行使する者たちには非暴力で抵抗するのです。担保になっている上着を奪い取る者には下着を差し出して経済的暴力(高利貸し)の不当性に抗議するのです。貧しい人々が願い求めているものを拒んではならないのです。生きるために止むを得ず持ち物を奪った者から取り返そうとしてはならないのです。人に善いことをし、何も当てにしないで貸すのです。神様に倣(なら)って憐れみ深い者となるのです。神様の正義を強調すればイエス様の愛の教えと矛盾するかのように誤解されているのです。聖書が伝えるイエス様の実像が歪められているのです。イエス様は強盗の巣と化したエルサレム神殿の境内から商人たちを実力で追い出されたのです(マルコ11:15-18)。「平和ではなく分裂をもたらすために来た」と言われたのです(ルカ12:49-53)。ファリサイ派の人々や律法学者たちを偽善者と呼び、天罰を宣告されたのです(マタイ23)。病気や心身の障害、貧困や差別は当時の政治・経済・社会、宗教的慣習と深く関わっているのです。神様の正義と愛は表裏一体なのです。

*イエス様が出会った民衆はローマ帝国の支配下にあって重税に苦しみ、非人間的な取り扱いを受けていたのです。国内では金持ちたちによって搾取され、抑圧され、貧しい生活を強いられていたのです。医療が発達していない当時にあって、人々はいろいろな病気に罹ったのです。悪霊(精神的な病)に苦しめられていたのです。「平地の説教は」はこれらの人を大いに慰めたのです。一方、既得権に執着する指導者たちや金持ちたちにとっては苦々しい警告となったのです。贅沢な暮らしを取り上げられるだけでなく、それぞれに厳しい罰が下されるのです。ただ、悔い改めによって神様の下へ帰る道は残されているのです。キリスト信仰を標榜する人々は正義と愛を大切にするのです。イエス様の御跡を辿(たど)ればこの世との対立は避けられないのです。必ず迫害されるのです。迫害する人々のために善を行うことは簡単ではないのです。イエス様はそれを実践されたのです。十字架につけられた時には「父よ、彼らをお赦しください。自分(たち)が何をしているのか知らないのです」と言われたのです(ルカ23:34)。イエス様は「平地の説教」を語られたのです。ただ、内容が正確に伝えられていないのです。「神の国」の福音が「罪からの救い」に縮小されているのです。「天国」にのみ関心があるかのように変容されているのです。イエス様は血と肉の体でこの世に来られたのです。現代の仮現論に陥らないように最大の注意を払うのです。キリストの信徒たちはこれまでの生き方を変えるのです。正義を実践するのです。憐れみ深い人になるのです。

2024年08月11日

「あなたも罪人」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書7章36節から50節

さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。

そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」

そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して(平和のうちに)行きなさい」と言われた。

(注)

・ファリサイ派:ユダヤ教の律法を生活のあらゆる分野に厳格に適応した宗教グループです。マタイ15:1-20に具体例が記述されています。「ファリサイ」には自分たちを罪人たちから「分離する」と言う意味があります。イエス様に敵対する主要な勢力の一つです。

・食事の席:現代のように座って食事をするのではなく、テーブルに頭を向けて長椅子の上に横になったのです。履物を脱いだ足はテーブルから最も遠い位置にあります。招かれていない人でも家に自由に入り、招待客と会話をすることが出来たのです。

・石膏の壺:香水の混ざった油などを入れる高価な容器です。

・足を洗うこと:一般的に招待客への「おもてなし」の一つです。創世記18:4を参照して下さい。

・罪人との接触:触れた人は汚れるのです。それだけではなく責めを負うことになるです。レビ記5:1-5をお読み下さい。

・真の預言者:「あなた(がた)は心の中で、『どうして我々は、その言葉が主の語られた言葉ではないということを知りうるだろうか』と言うであろう。その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない(申命記18:21-22)。 イエス様も信じられない人々に「ご自身の業を信じなさい」と言われたのです(ヨハネ10:37-38)。


・50と500デナリオン:1デナリオンは当時の平均的労働者の一日分の賃金に相当します。現代に当てはめると例えば50万円と500万円になります。


・女性の一人暮らし:彼女たちの生活は大変厳しかったのです。そこで、神様は「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる」(申命記10:17-18)、「主は寄留の民を守り/みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる」(詩篇146:9)とあるように、孤児ややもめを養われるのです。旧約聖書ルツ記、列王記上17:8-24、列王記下4:1-8、新約聖書ルカ20:45-47を併せてお読みください。

・安心して行きなさい:伝統的な別れの挨拶です。平和は神様が共におられることの証明です。

・イエス様がファリサイ派の人から食事に招待された例は他にもあります。ある食事の席ではファリサイ派の人々や律法学者たちの偽善と腐敗を厳しく非難されました(ルカ11:37-54)。別の席では安息日に病気を癒すことが律法に適(かな)っていることを明言されたのです(ルカ14:1-6)。

・女性がイエス様に香油を注いだ例が他の福音書にも記述されています。マタイ26:6-13、マルコ14:3-9、ヨハネ12:1-8を参照して下さい。

(メッセージの要旨)

*信仰を自負する人が非難され、罪人が悔い改めによって「救い」に与ったのです。ここではキリスト信仰の本質が語られているのです。シモンはイエス様の教えや力ある業に関心を持っていました。神様から召命を受けた真の預言者か、約束の「救い主」であるかどうかについて確認したかったのです。イエス様の宣教の目的は罪人たちを「永遠の命」に与らせることです。これらの人を排斥するファリサイ派の人々とは根本的に違うのです。イエス様はシモンにたとえ話をされました。二人は借金しているのです。しかし、金貸しは両方の負債を帳消しにしたのです。イエス様の話は実に分かりやすいのです。シモンもすぐに理解することが出来たのです。ところが、負債の免除が自分の罪の赦しの問題であることに気づいていないのです。シモンには自分も罪人の一人であるという認識が全くないのです。シモンは律法の順守によって「救い」が得られることを確信しているのです。罪人たちと交際するイエス様を見下して最低の礼儀すら示さなかったのです。一方、罪深い女性は蔑(さげす)まれていました。社会の隅に追いやられ、生きる希望を失っていたのです。イエス様の評判を聞いていたのです。このお方に望みを託したのです。持っている最高の物-高価な香油-を捧げて信仰を表したのです。イエス様は神様から委ねられた権能に基づいて「罪の赦し」を宣言されたのです(ヨハネ17:2-3)。誰もが罪人なのです。信仰と行いによって「永遠の命」に与るのです。心に刻むのです。イエス様は応答の如何(いかん)によって「救い」を判断されるのです。

*社会的地位が高く、信仰心の篤いファリサイ派の人と罪深いことで評判になっている女性が登場しています。二人の信仰が比較されているのです。多くの人が罪深い女性の信仰心に注目するのです。しかし、物語のポイントは他にもあるのです。自己義認は「救い」の保証にならないのです。この点が見逃されているのです。ファリサイ派の人がイエス様を食事に招いた理由は分からないのです。両者の会話の内容から、イエス様をある程度受け入れていることが推測されるのです。女性は当初「罪深い女」、後に「信仰篤い女性」として紹介されているのです。シモンはイエス様に関心がありました。ただ、有名な預言者の一人として理解していたのです。自分にとって「特別な人」ではなかったのです。女性はイエス様に「救い」を求めたのです。それ以外に生きる道がなかったからです。イエス様に対する姿勢が異なるのです。シモンはイエス様に足を洗う水さえ用意しなかったのです。女性は涙で足をぬらし、髪の毛でぬぐったのです。シモンは接吻の挨拶をしなかったのです。女性は足に接吻してやまなかったのです。シモンは頭に普通のオリーブ油さえ塗らなかったのです。女性は足に高価な香油を塗ったのです。後に、イエス様は弟子たちの不信仰(高慢)を厳しく戒められたのです。心を入れ替えなければ「天の国」(神の国)に入れないのです(マタイ18:1-5)。信仰の高慢は「死に至る病」です。シモンも悔い改めなければ「永遠の命」に与れないのです。罪深い女性は言葉を交わしていないのです。ただ「行い」によって信仰を表わしたのです。

*イスラエルの歴史を知っておくことは不可欠です。伝統的に男性中心の家父長社会です。イエス様の時代においても女性が財産の一部であるという考え方は変わっていないのです。「人がまだ婚約していない処女を誘惑し、彼女と寝たならば、必ず結納金を払って、自分の妻としなければならない。もし、彼女の父親が彼に与えることを強く拒む場合は、彼は処女のための結納金に相当するものを銀で支払わねばならない」(出エジプト記22:15-16)。父親の財産権が担保されているのです。「人(夫)が・・妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。その女が家を出て行き、別の人の妻となり、次の夫も彼女を嫌って離縁状を書き、それを手に渡して家を去らせるか、あるいは彼女をめとって妻とした次の夫が死んだならば、彼女は汚されているのだから、彼女を去らせた最初の夫は、彼女を再び妻にすることはできない」と定められているのです(申命記24:1-4)。夫は妻を簡単に離婚出来るのです。妻は夫に離婚を通告出来ないだけでなく再婚も制限されているのです。他にも女性の低い地位を証明する規定や表現があるのです。ロトは御使いを守るためにソドムの暴徒たちに二人の娘を差し出したのです(創世記19:8)。十戒は「隣人の妻を欲してはならない」と命じているのです(出エジプト記20:17)、ボアズは出会ったルツに本人の名前ではなく、「誰の娘か」と聞いているのです(ルツ記2:5)。女性の涙には筆舌に尽くしがたい苦悩が隠されているのです。

*イエス様は「あなた(がた)は、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中にある丸太に気づかないのか」と言われたのです(マタイ7:1-4)。シモンには女性の罪が見えているのです。しかし、自分が罪人であることには思いが及ばないのです。律法順守の確信から生まれた尊大さが正しい認識を妨げているのです。イエス様が真の預言者であることに疑問を呈(てい)しているのです。罪深い女性の深い悲しみや苦悩を一顧(いっこ)だにしないのです。非難するだけなのです。シモンはイエス様と対立している訳ではないのです。イエス様を正しく理解していないのです。イエス様は「医者を必要とするのは、丈夫な人(人々)ではなく病人(たち)である。わたしが来たのは、正しい人(人々)を招くためではなく、罪人(たち)を招くためである」と言われたのです(マルコ2:17)。シモンも含まれているのです。イエス様はご自身の宣教目的を明確にしておられるのです。ところが、弟子の中には「救い」に与った経緯を忘れている人がいるのです。優れているから選ばれたかのように誤解しているのです。この信仰姿勢が人々の「躓(つまづ)きの石」になっているのです。物語は罪深い女性の罪が赦された話として語られているのです。女性の罪が分析の対象にされているのです。苦悩する女性に寄り添うよりも罪の内容をあれこれと詮索(せんさく)するのです。根拠もないのに「遊女」、「姦淫の罪を犯した女性」として結論付けているのです。シモンのような信仰理解が問われているのです。信仰を吟味する機会にしたいのです。

*イエス様は罪そのものよりも罪に至った経緯を重視されるのです。女性はただ、泣きながらイエス様の足を涙でぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、接吻して香油を塗ったのです。イエス様はご自身に対する心からの信頼に応えられたのです。「罪の赦し」が宣言されたのです。「あなたの信仰があなたを救った。安心して(平和のうちに)行きなさい」と言われたのです。イエス様は山上の説教で「人を裁いてはならない」と命じられたのです。キリスト信仰を標榜する人々はイエス様のご指示に従うのです。ところが、多くの人が裁きの座に着いているのです。イエス様が「罪人を招くため来た」と言われているのに、罪深い女性のような人を人間の教義によって排斥しているのです。人の罪に言及する場合は自分が罪人である(あった)ことを想起するのです。罪の重荷から解放されることを願い、立ち直れるように支えることが「隣人愛」なのです。日本語訳には翻訳者の信仰理解が如実に表れているのです。サマリア人の女性(ヨハネ4:7)、姦通の現場で捕らえられた女性(ヨハネ8:3)、長血を患った女性(マルコ5:25)がそれぞれ「~の女」のように軽蔑的に訳されているのです。イエス様に随行する女性たちには「婦人たち」が用いられているのです(ルカ8:1-3)。福音の真理を翻訳によって歪(ゆが)めてはならないのです。イエス様は罪深い女性の信仰を認めて「永遠の命」を与えられたのです。一方、信仰の傲慢に気づかないで罪人を裁くシモンに警告しておられるのです。罪人であることを自覚しなければ人は「救い」に与れないのです。

2024年07月28日

「真理が見えない人々」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書9章24節から41節


さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方(預言者)が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。


イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者(人々)は見えるようになり、見える者(人々)は見えないようになる。」イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る(あなたたちが罪人であることに変わりはない)。」


(注)


・神様の業:この人が盲目になった原因が問題ではないのです。神様の癒しの業が現れる機会である点が重要なのです。

・預言者:一世紀には神様がローマ帝国からイスラエルを解放するために遣わされた預言者、王(救い主)と自称する人がたくさんいたのです。

・安息日:厳格に順守することが求められました。ところが、イエス様は「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」、さらに、ご自身を「安息日の主」と言われたのです(マルコ2:23-28)。ユダヤ教の指導者たちとの決定的な対立の要因となったのです。


・ユダヤ人たち:ファリサイ派の人々のことです。


・ファリサイ派の人々:会堂を実質的に管理・運営していました。社会的地位の高い議員の中にはイエス様を信じる人も多かったのです。しかし、会堂から追放されることを恐れて、自分たちの信仰を公にしなかったのです(ヨハネ12:42)。

・神は罪人の言うことはお聞きにならない:旧約聖書の詩篇34:16;66:18を参照して下さい。

・神様の御心:

■主は彼(モーセ)の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」(出エジプト記34:6-7)

■それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。(エゼキエル書18:30-31)

・人の子:


この呼称には三つの意味があります。第一は預言者です(エゼキエル書2:1-3)。第二は天の雲に乗って現れる終わりの時の審判者です(ダニエル書7:13-14)。今日の聖書の個所では、イエス様は預言された人の子であることを明らかにされたのです。他に「わたしとわたしの言葉を恥じる者(たち)は、人の子も自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときにその者(たち)を恥じる」(ルカ9:26)、「神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(ルカ18:8)などがあります。第三はこの世の人間を表しているのです(ルカ9:58)。

・見えない者(人々)は見えるようになり、見える者(人々)は見えないようになる:イザヤ書6:9-10からの引用です。イザヤ書35:5-6を併せてお読み下さい。

・ハーメルンの笛吹き男:物語の要旨は次の通りです。

ドイツのハーメルンという町にネズミがやたらに増えて人々は困っていました。そのような時に不思議な身なりをした笛吹き男が現れたのです。男は町の偉い人たちに自分をネズミ捕りとして紹介したのです。町に大金の報酬を約束させて、ネズミの駆除に取り掛かったのです。男の笛の音は町中のネズミを大きな川へ誘い出し一匹残らず溺れさせたのです。ところが、町の人たちはネズミがいなくなった途端、急にお金を払うのが惜しくなったのです。何のかんのと言ってお金を払おうとしないのです。とうとう笛吹き男は怒って帰ったのです。次の日曜日ハーメルンの町にまた笛吹き男が現れたのです。町角に立っていつかのように笛を吹き鳴らしたのです。町の子どもたちは不思議な笛の音につられて笛吹き男の後をついて行き山の洞穴に消えてしまったのです。子供たち(目の不自由な男の子と口の利けない男の子の二人を除く)と笛吹き男は二度とハーメルンの町に戻って来なかったのです。

●ハーメルン:中世の街並みが残るドイツの市です。現在の人口はおよそ57,000人です。緯度は北海道の最北端稚内よりもさらに北です。「ハーメルンの笛吹き男」は笛吹き男と共に130人の子どもたちがこの町から姿を消した事件です。1284年6月28日に起こっています。一般的に、この事件は東ヨーロッパに集団移住させられたことと、当時人気の職業だった「ネズミ捕り屋」が合体した話だとされています。その他にも諸説あります。

(メッセージの要旨)

*イエス様は通りすがりに生まれつき目の見えない人を見かけられました。ユダヤ人たちは-イエス様の弟子たちも同様に-この人の目が見えなくなった原因を本人か両親の罪の結果と考えていたのです。しかし、イエス様はユダヤ教の伝統的な教えである障害と罪の関連を明確に否定されたのです。「神様の愛が現れるためである」と新たな解釈を示されたのです。「力ある業」を用いてその事実を証明されたのです。ところが、ファリサイ派に属する指導者の中には生まれつき目の見えなかった人が見えるようになったことを信じない人々がいたのです。不信仰な人々はたとえ死者の中から生き返った人があってもその人の言うことを信じないのです(ルカ16:31)。しかも、イエス様をメシア(油注がれた者―キリスト(救い主)―であると公言する者がいれば会堂から追放すると決めていたのです。両親を呼び出して真相を確かめようとしたのです。両親は子が生まれつき目の見えなかったこと、今見えるようになったこと以外は分からないと説明したのです。詳しくは本人に聞いて下さいと言ったのです。ファリサイ派の人々は生まれつき盲人であった人を再び呼び出したのです。暗闇から解放されたことを喜ぶのではなく、癒しの業が「安息日」に行われたことを非難しているのです。癒された本人は「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今見えるということです」と反論したのです。モーセの座に着いている人々が罰せられ、イエス様を神の子と信じる人が「永遠の命」に与ったのです。

*「神の国」(天の国)-神様の支配-が到来しているのです。イエス様は見える形で証しされたのです(ルカ7:20-23)。すべての人に福音(良い知らせ)が届けられているのです。エリコの町で盲人バルティマイを見えるようにされたのです。この人は見えるようになるとイエス様に従ったのです(マルコ10:46-52)。ガリラヤ地方では二人の盲人を癒されたのです(マタイ9:27-31)、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人を、ものが言え目も見えるようにされたのです(マタイ12:22)。ベトサイダの村では盲人の目に唾(つば)をつけ、両手をその目に当てて癒されたのです(マルコ8:22-26)、エルサレムでは神殿の境内で売り買いをしていた人々を皆追い出した後、そばに寄って来た盲人たちを見えるようにされたのです(マタイ21:14)。目の病気は日常的に起こっていました。不衛生が大きな原因だったのです。特に、きれいな水が不足していたのです。しかも、治療方法がほとんど確立されていなかったのです。目が不自由な人々も生きて行かなくてはならないのです。しかし、これらの人が適切な仕事を見つけ自立することは極めて困難でした。多くの人は路上で物乞いをしたのです(ルカ18:35)。幸いなことに、生まれつき目の見えない人は両親の庇護の下にいたのです。癒された人々は「神の国」の福音を聞いただけではないのです。実際に目が見えるようになったのです。イエス様の教えが真実であることを経験したのです。イエス様の癒しの業は苦難に喘ぐ人々を信仰へと導いたのです。

*キリスト信仰が「霊的な救い」のみを目的にしているかのように誤解されているのです。「神の国」は人間の「全的な救い」としてしかるべき時に完成するのです。イエス様はそのことを部分的に先取りしておられるのです。生まれつきの盲人はイエス様の癒しの業を通して「救い」に与ったのです。一方、モーセの弟子を自負するユダヤ人たちは不信仰の故に「永遠の命」から遠ざかったのです。イエス様は信じられない人々に業を信じなさいと言われました(ヨハネ10:37-38)。神様がイエス様と共におられなければそのような「力ある業」は実現しないからです。イエス様の業と信仰を切り離すことは不信仰なのです。信仰と行いは表裏一体なのです。行いの伴わない信仰はそれだけでは死んだものなのです(ヤコブ2:17)。グリム兄弟の「ハーメルンの笛吹き男」は世界中の子供たちに親しまれています。物語については様々な解釈が行われています。キリスト信仰のあり方が問われていることに注目したいのです。町の偉い人たちはネズミが駆除された後に笛吹き男に約束したお金を払わなかったのです。ところが、次の日曜日には神様の祝福を求めて礼拝に出席しているのです。人々にとって信仰は魂の救いであって、正義や誠実さと関りがないのです。行いのない信仰を非難するかのように、子供たちの失踪事件は大人たちが皆教会でお祈りをしている時に起こったのです。ただ、目の不自由な男の子と口の利けない男の子の二人は他の子どもたちから遅れたので助かったのです。グリム兄弟の作品はいずれも何らかの真実を語っているのです。


*イエス様は「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」と言われたのです。イエス様に対する応答の如何(いかん)が既に裁きになっているのです。イエス様を信じた生まれつきの盲人は「神の国の本質」が見えるようになったのです。信仰を自負するユダヤ人たちは「福音の真理」を受け入れられないのです。誰でも謙虚にならなければ「神の子」に近づくことは出来ないのです。ファリサイ派の人々はモーセの律法を熟知しているのです。しかし、それらを実行しないのです。真に偽善者なのです。「見える」と言う人々は神様の位置に自分たちを置いているのです。人間が作った教義(神学)に基づいて「救い」を確信しているのです。ある人を義人、別の人を罪人として選別しているのです。イエス様は山上の説教で「人を裁いてはならない」と言われたのです(マタイ7:1-5)。パウロも自分を戒めて「・・主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。・・」と言うのです(1コリント4:5)。人間に人の「救い」の有無(うむ)を決定する権限はないのです。神様はイエス様に裁きを一切任せておられるからです(ヨハネ5:22)。キリストの信徒たちはこのことを肝に銘じるのです。尊大な人々には真理が見えないのです。「永遠の命」を得られないのです。謙虚な人々には物事が正しく見えるのです。罪人として蔑まれた人が信仰によって救われるのです。


*生まれつきの盲人は見えるようになったのです。イエス様を「救い主」として信じたのです。この人は「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません」と言っています。神様が共におられなければ起りえなかった出来事なのです。イエス様が神様のもとから来られたお方であることを確信しているのです。しかし、誤解を恐れずに言うならば信仰は決して「救い」の保証ではないのです。信仰を貫くためには絶え間ない努力と良い行いが必要なのです。キリスト信仰を告白していないけれども、隣人-貧しい人々や体の不自由な人々-を愛している人々がいるのです。これらの人は「神様の御心」を具体化しているのです。一方、あなたの良い行いは認めるがキリスト信仰を表明していないから「救い」に与れない、信仰があるから良い行いは必要ではないという人々もいるのです。信仰と行いが分離されているのです。キリスト信仰とは「神の国」の福音に与り、それを建設することなのです。分離して論じること自体が誤っているのです。人間の罪は神様への畏れ(恐れ)を無くしたことから始まるのです。「神様の御心」が人間の教義によって恣意的に変容されているのです。イエス様は弟子たちに徹底して謙虚になることを教えられたのです。そうしなければ「永遠の命」に与れないからです(マタイ18:1-5)。キリストの信徒たちはイエス様の生き方に倣(なら)うのです。最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実践するのです。選択の問題ではないのです。「救い」の要件なのです。

2024年07月07日

「財産の使い方」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書16章1節から14節

イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口(非難)をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』

また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富(この世の富)で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ(神の子であるという観点から対応しなければ)、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのもの(あなたがに属するもの)を与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。

(注)

・金持ち:イエス様は「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われました。ここに、イエス様のお考えが表れています。ただ、神様はこれらの人の「救い」を断念された訳ではないのです。マタイ19:24;マルコ10:25;ルカ18:25を参照して下さい。

・富:「マモン」から訳出された言葉です。「マモン」はお金のことです。そこには軽蔑的な意味が込められているのです。貪欲の「神」を表しているからです。

・不正な富:金持ちの多くは律法の規定に反して蓄財しているのです。

■もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない。(出エジプト記22:24)

■あなたたちは、不正な物差し、秤、升を用いてはならない。正しい天秤、正しい重り、正しい升、正しい容器を用いなさい。わたしは、あなたたちをエジプトの国から導き出したあなたたちの神、主である。わたしのすべての掟、すべての法を守り、それを行いなさい。わたしは主である。(レビ記19:35-37)

・管理人:一般的に良く訓練(教育)を受けた奴隷のことです。重要な仕事-管財-を任されていたのです。この世の子を代表しているのです。

・無駄遣い:金持ちが不正な管理人と呼んでいます。しかし、管理人が財産を横領したとか、何かを盗んだということではないのです。金持ちの貪欲な目的-利益優先―を遂行しないことです。お金に執着する人々にとっては職務怠慢なのです。

・パトス:約23リットルです。

・コロス:約230リットルです。


・抜け目のない:金持ちの立場から発せられた言葉です。「思慮ふかい」、「的確な」とも訳せる言葉です。管理人が「悪い人物である」という前提に立って翻訳されているのです。

・光の子:神様の子のことです。ヨハネ12:35-36を参照して下さい。しかし、富の誘惑に晒(さら)されているのです。

・太宰治:小説家、本名は津島修治です。1909年に生まれ1948年に没しています。「斜陽」、「走れメロス」、「津軽」、「人間失格」が有名です。

・永遠の住まい:「神の国」あるいは「永遠の命」を表しています。

(メッセージの要旨)

*管理人には財産管理を適切に行い、資金を効率よく運用し、最大限の利益をもたらすことが期待されているのです。ところが、金持ちは管理人が財産を無駄遣いしている-金持ちの利益を損なっている-という知らせを受け取ったのです。金持ちはこの人を不正な管理人と呼んでいます。しかし、私的に流用するなどの犯罪に手を染めた分けではないのです。金持ちの意向-利益第一主義-に沿った働きをしなかっただけなのです。お金の使い方がその人の「救い」を決定するのです。解雇通告を受けた管理人は就職先を模索するのです。債務者たちの証文を書き直させるのです。発想は「神様の御心」に適っているのです。イエス様は自らの職と引き換えに、不当な条件で貸し付ける金持ちを批判した管理人に「救い」を約束されたのです。マタイ16章は人間の貪欲に対する警告で貫かれているのです。この話の後に金に執着するファリサイ派の人々が厳しく批判されたのです。家の門前で横たわる貧しいラザロに援助の手を差し伸べなかった金持ちが死後に厳しく罰せられたのです。陰府(よみ)で炎にもだえ苦しんでいるのです。富に対する姿勢がその人の「救い」を左右するのです。イエス様は神様と富との両方に仕えることは出来ないと言われたのです。キリスト信仰の本質に関わるお言葉が恣意的に解釈されているのです。キリストの信徒たちが富との決別に逡巡しているのです。一方、この世の子が「神様の御心」を実践しているのです。「信仰告白」ではなく「行い」によって神の子であることが証明されるのです。立場を明確にしない信仰は空しいのです。

*この話を聞いたのは弟子たちだけではないのです。金に執着するファリサイ派の人々もいたのです。彼らに「悔い改め」を求められたのです。キリスト信仰において「富の問題」が曖昧にされてはならないのです。金持ちが不正に蓄財しているのです。管理人も不正に加担し(させられ)ているのです。管理人は財産を無駄遣いしているのです。金持ちの意向に沿った使い方をしていないのです。金持ちは職務怠慢を許さないのです。解雇するのです。管理人は債務者たちからだまし取った金額を返還して新しい就職先を確保しようとするのです。イスラエルの人々の困窮生活の原因は高額な税にありました。もう一つは負債です。農民たちの収入のおよそ半分はこれらの支払いに充当されたのです。生活は苦しかったのです。来年に備える農産物(種子など)は残らなかったのです。新しく作付けをするために、再び借金しなければなかったのです。青森県五所川原市金木にある太宰治(ペンネーム)の生家「斜陽館」(記念館)を訪れる機会がありました。津島家は大地主でした。一階の土間で銀行業務が行われたのです。小作人たちが地主に融資を申し込み、あるいは返済の猶予を願い出たのです。貧しい農民たちは凶作で苦しみ、生きて行くために娘を「奉公」に出したのです。税と借金はイスラエルの人々にとって深刻な問題でした。多額の負債を返済できなかった人々は土地、財産を処分したのです。労働力として貴重な本人や長男を奴隷として売りに出したのです。妻や他の子どもたちを売ることもあったのです。管理人の行為はこれらの人々を助けたのです。

*「神の国」の福音が誤解されているのです。「罪からの救い」に縮小されているのです。キリスト信仰とは「神の国」の建設に参画することなのです。ところが、神の子がそれを実践していないのです。イエス様は管理人を例に挙げてキリストの信徒たちに警告しておられるのです。管理人は就職先を確保する手段として主人の負債を用いたのです。目的は債務者たちに「恩を売ること」でした。ただ、手法は「神様の御心」に適っているのです。管理人は債務者たちの債務状況を的確に把握しているのです。負債のある人を順次呼んで律法の規定に従って金利分を減額したのです。金持ちは管理人の「抜け目のないやり方」を苦々しく思っているのです。律法に反して蓄財している金持ちは管理人を公然と非難できないのです。債務を軽減された人々は管理人に心から感謝したのです。イエス様は管理人の「隣人愛」を誉(ほ)められたのです。金持ちが不正に得た富を用いて-正しい経済活動を通して-友だちを作っているのです。この世の子が不正な富に正しく対応しているのです。ところが、神の子らは「富の問題」に真剣に取り組んでいないのです。神の子らの姿勢が曖昧である限り、本当に価値のあるもの-神の国の福音-を任せていただけないのです。管理人は金持ちの悪業に疑問を呈することなく、黙々と働いていれば現在の職を失うことはなかったのです。しかし、律法に反する金持ちのビジネス方針に心を痛めていたことは確かなのです。無駄遣いの内容は語られていないのです。債務者たちや貧しい人々への配慮であったことなどが推測されるのです。

*イエス様は「律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消え失せる方が易しい」と言われたのです(ルカ16:17)。律法を大切にしておられるのです。しかし、人々が律法を軽んじているのです。律法は経済活動について様々な規定を設けています。貧しい人々に対する横暴を厳しく戒めているのです。神様の命令は必要とする人々に必要なものを惜しみなく与えることです。「・・貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。『七年目の負債免除の年が近づいた』と、よこしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい。その同胞があなたを主に訴えるならば、あなたは罪に問われよう。彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない」と言われたのです(申命記15:7-10)。ところが、金持ちたちは人々の弱さに乗じて高利で貸し付けているのです。不正な物差し、秤、升を用いて暴利をむさぼっているのです。彼らには天罰が必ず下るのです。イエス様が宣教された「神の国」の根本理念は「神様と隣人」を愛することです。神様は戒めを実行する人々を祝福されるのです。イエス様は「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」と言われたのです。言い換えれば、光の子らが自分の仲間に無関心になっているのです。この世の富に執着しているからです。キリストの信徒たちが律法の中で最も重要な戒めを順守していないのです。

*金持ちの立場からすれば必要な支出を抑えてでも最大限の利益を追求することは当然なのです。管理人の様々な配慮はすべて無駄遣いとして映るのです。金持ちは律法の規定に反して不当な利息を課して儲(もう)けているのです。あるいは計量をごまかして利益を得ているのです。イエス様は金持ちが不正に蓄財していることをご存じなのです。不正な商取引に携わっている管理人は「神様の御心」に適った生き方をしたいのです。解雇という人生の転機が管理人を神様の下へ立ち帰らせるのです。律法に基づいて不正に得た利益を債務者たちに返したのです。管理人は「無駄遣い」によって職を失うことになったのです。後に、別の家に迎えられたかどうか分からないのです。「永遠の住まい」に招き入れられたことだけは確かなのです。今日においても、イエス様の時代と同じようにキリスト信仰に生きる人々の信仰が問われているのです。ビジネスに従事する人々が不正な取引に加担させられているのです。行政に携わる人々が特定の人々(政治勢力)に協力することを強いられているのです。悩みながら信仰と現実を切り離して解決する人々もいるのです。徴税人の頭で金持ちのザアカイは「主よ、・・だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と言ったのです。律法の規定(レビ記5:15-16)を上回る額で罪を償うのです。イエス様は「今日、救いがこの家を訪れた・・」 と言われたのです(ルカ19:1-10)。管理人の手法は律法に合致しているのです。光の子たちも信仰に堅く立って「神の国」の福音を証しするのです。

2024年06月30日

「神様が報いて下さる」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書6章1節から18節

「見てもらおうとして、人(人々)の前で善行をしない(敬虔さを表さない)ように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなた(がた)は施しをするときには、偽善者たちが人(人々)からほめられようと会堂や街角でするように、自分(たち)の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなた(がた)の施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなた(がた)に報いてくださる。」

「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人(人々)に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなた(がた)が祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなた(がた)の父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなた(がた)の父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人(たち)のようにくどくどと述べてはならない。異邦人(たち)は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧(かて)を今日与えてください。わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』もし人(人々)の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがた(の過ち)をお赦しになる。しかし、もし人(人々)を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

「断食するときには、あなたがたは偽善者(たち)のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者(たち)は、断食しているのを人(人々)に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなた(がた)は、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなた(がた)の断食が人(人々)に気づかれず、隠れたところにおられるあなた(がた)の父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなた(がた)の父が報いてくださる。」

(注)

・最も重要な戒め:第一は「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなた(がた)は心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなた(がた)の神、主を愛しなさい」(申命記6:4-5)、第二は「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」です(レビ記19:18)。イエス様もこれら二つを最も重要な戒めとされたのです(マルコ12:29-31)。

・施し:安息日にユダヤ教の会堂で施しや慈善寄付が行われていました。

・偽善者たち:律法学者たちやファリサイ派の人々を指しています。彼らの悪行はマタイ23章に詳述されています。

・祈り:ユダヤ人の成人男性はエルサレムに向かって毎日三回午前、午後、夕方に行います。食前と食後にも立ったまま、あるいは頭(こうべ)を垂れて祈ります。

・過ち:律法や慣習に違反することです。個人的(道徳的、倫理的)な観点から説明されることが多いのですが、返済期限を守らないことや返済不能なども含まれています。これらは社会的な要因が大きいのです。イエス様はローマ帝国の圧政に苦しんでいる貧しいユダヤ人キリスト者たちに「主の祈り」を教えられたのです。マタイ18:21-35を参照して下さい。

・断食:肉体に苦痛を課して自己を否定することです。食べ物や飲み物など体に必要なものを摂取しないだけでなく、体を清潔に保つことや楽しませたりすることも断つのです。レビ記16:29-31をご一読下さい。

(メッセージの要旨)

*「施し」、「祈り」、「断食」の戒めを遵守することはユダヤ教の重要な教えでした。イエス様は弟子たちにもそれらの実践を求められたのです。「神様の御心」に合致した行いは篤い信仰心や敬虔さの表れです。しかし、人は往々にしてそれを通して自分を喜ばせようとするのです。神様に栄光を帰すためではなく、自分を誇っているのです。偽りの信仰に堕(だ)しているのです。神様は心の奥底を見られるのです。イエス様も信仰を自負するファリサイ派の人々に「あなたたちは人(人々)に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるもの(富、地位、名誉など)は、神には忌み嫌われるものだ」と言われました(ルカ16:15)。偽善者と真のキリストの信徒の違いを明確にされたのです。「神様の御心」を実践する人は人間の賞賛を求めないのです。神様が報いて下さることを知っているからです。施しをするときは会堂や街角でしないこと、会堂や大通りの角に立って祈らないこと、沈んだ顔つきをして断食しないことは偽善に陥らないための警鐘なのです。イエス様は直前に「・・あなたがたの義(正義)が律法学者やファリサイ派の人々の義(正義)にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と言われたのです(マタイ5:20)。高慢と不正は大きな罪です。「死に至る病」なのです。それらは神様を欺いているからです。神様はそのような信仰を拒否されるのです。「主の祈り」は真に的を射ているのです。神様に日々「わたしたちを誘惑から守って下さい」と祈るのです。

*「施し」をすることはユダヤ人たちの義務なのです。モーセは「三年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、あなた(がた)のうちに嗣業(しぎょう)の割り当てのないレビ人や、町の中にいる寄留者、孤児、寡婦(か)がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。そうすれば、あなた(がた)の行うすべての手の業について、あなた(がた)の神、主はあなた(がた)を祝福するであろう」と言っているからです(申命記14:28-29)。神様は戒めを守る人々に報いて下さるのです。イエス様も隣人愛-貧しい人々や虐げられた人々への支援-を最も重要な戒めとされたのです。「祈り」は神様との直接対話です。誠実さが不可欠です。イエス様は「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と言われるのです。神様は祈る前から願いの内容を知っておられるのです。先ず「神様と隣人」について祈ることを教えられたのです。「主の祈り」は短い文章です。しかし、キリスト信仰の本質を要約しているのです。「わたしたちの」、「わたしたちを」、「わたしたちが」のように複数形が用いられているのです。「個人的な祈り」ではないのです。神様が「あなたたちは聖なるわたしの名を汚してはならない。・・わたしは・・エジプトの国からあなたたちを導き出した者である」と言われたことを起させるのです(レビ記22:32-33)。信仰共同体の一員であることを自覚し、同胞の苦難を担うことを命じられたのです。イエス様の教えは旧約聖書と律法に基づいているのです。

*「御名が崇められますように」は神様が軽んじられていることを表しています。当時、ローマ帝国がイスラエルを支配していました。皇帝は「救い主」(解放者)という称号で呼ばれていました。ユダヤ人たちにもローマ皇帝の名前を崇めることが強制されたのです。このような政治状況にあって、イエス様のお言葉は極めて過激です。「神様、地上の権力者(支配者)を裁いてご自身の御力と正義をお示し下さい」と解釈出来るからです。「御国が来ますように。御心が行われますように・・」も、文脈において「御名が崇められますように」と同じです。非情で不正に満ちた皇帝の支配が打ち砕かれて「神様の正義」が地上の隅々に及ぶことを願う祈りになっているのです。ユダヤ人のほとんどが貧しい生活を余儀なくされたのです。高額な税負担(収入の約40%)が大きな要因です。イエス様が誕生された年(紀元前6年ごろ)に皇帝アウグストゥスは全領土の住民に住民登録を命じているのです(ルカ2:1-3)。「主の祈り」が複数形になっている理由はこの点にあるのです。ユダヤ人たちは神殿税(会堂税)を納めるだけで良かったのです。ところが、新たに人頭税が課せられたのです。しかも、徴税人たちには税を上納した後、自分たちの裁量で追加の税を徴収することが許されたのです。彼らは民族の裏切り者として非難されたのです。罪人として蔑(さげす)まれたのです。税を払えない農民たちは悲惨でした。祖先から受け継いた土地を手放したのです。生産手段を失った人々は農園で過酷な日雇い労働に従事したのです(マタイ21:33-41)。

*「必要な糧を今日与えてください」は貧しい人々や虐げられた人々の切実な願いなのです。ローマ皇帝とその支配に協力している指導者たちが民衆に十分なパンを与えていないのです。イエス様は「わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/赦しましたように」と祈ることを教えられたのです。民衆は率先して「愛の教え」(ホセア書6:6)に従って負債を相互に免除するのです。「わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください」には苦痛や艱難を回避するために権力者たちの不正を黙認し、富の誘惑に屈している現実が反映されているのです。民衆はローマ帝国に協力して平和を維持するという誘惑に晒(さら)されているのです。信仰に堅く立って歩めるように願っているのです。「断食」は神様の前に自分を低くすることです。古くから受け継がれた悔い改めの儀式なのです。イスラエルの民は主を離れて異教の神々(バール)やアシュトレト(女神)を拝んでいたのです。士師サムエルは罪を犯した民に「イスラエルを全員、ミツパに集めなさい。あなたたちのために主に祈ろう」と訴えたのです。人々はミツパに集まると、水をくみ上げて主の御前に注ぎ、その日は断食し「わたしたちは主に罪を犯しました」と言ったのです(サムエル記上7:5-6)。「断食」は悔い改めを見える形で表しているのです。偽りがあってはならないのです。ファリサイ派の人々は信仰心の篤さを自負しているのです。「断食」は見せびらかすための手段です。イエス様は偽善を厳しく批判されたのです。

*キリストの信徒たちは「施し」(隣人愛)、「祈り」(神様との対話)、「断食」(悔い改め)を実行するのです。そのような生き方によって神様に栄光を帰すのです。ところが、いつの間にか自分を誇る手段になっているのです。誘惑に陥らないように日々警戒するのです。「主の祈り」には当時の社会的背景が反映されているのです。神様は権力者たちの圧政に喘(あえ)ぎ、窮乏生活に苦しむ人々の悲痛な叫びに応えられるのです。ご自身に信頼する人々に勇気と希望を与えて下さるのです。ユダヤ教の伝統的な祈りにも合致(がっち)しているのです。「アブラハム、イサク、ヤコブの神」のような言葉使いが見られないのです。「イエス様の御名によって」、「救い主の御名を通して」のようなキリスト教的な表現もないのです。「主の祈り」はユダヤ教、キリスト教を超えた普遍的な祈りなのです。困難を覚えるすべての人の慰めになっているのです。イエス様はユダヤ人たちが交際しなかったサマリア人たちにも「神の国」の福音を届けられたのです(ヨハネ4:39-42)。ローマ帝国の力による支配の担い手である兵士(百卒長)の息子を癒されたのです(マタイ8:5-13)。神様はご自身の民を決して見捨てられないのです。「もし同胞が貧しく、自分で生計を立てることができないときは、寄留者ないし滞在者を助けるようにその人を助け、共に生活できるようにしなさい」と人々に命じられたのです(レビ記25:35)。最も重要な戒め-正義、慈悲、誠実-を実践して「神様の愛」にお応えするのです。神様は必ず報いて下さるのです。

2024年06月23日

「神様の評価」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書18章9節から30節

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。するとペトロが、「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた(神様に委ねた)者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」

(注)

・神の国:キリスト信仰における根本理念です。イエス様の宣教の第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」です(マルコ1:15)。「神の国」-神様の支配-の到来こそ福音(良い知らせ)なのです。イエス様を通して「神の国」は具体化しているのです。病人が癒され、人の罪が赦されているのです。

・永遠の命:「神の国」に入ること、「救い」に与(あずか)ることです。

ファリサイ派の人:律法を厳格に遵守するユダヤ教の一派です。学識の豊富さから民衆に尊敬されていました。しかし、イエス様は彼らを厳しく批判されたのです。その理由は彼らが偽善者だったからです。マタイ23:1-36を参照してください。一方、律法学者の多くはファイサイ派によるモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)(トーラ)の解釈を支持していました。イエス様と対立した律法学者たちはファイサイ派に属していました。


・サドカイ派:「復活」を認めなかったのです。この点において、ファリサイ派の人々とは対立していました。しかし、イエス様には一致して敵対したのです。


徴税人:ローマ帝国のためにユダヤ人から税を徴収していました。他のユダヤ人からは「裏切り者」と呼ばれていました。さらに、民衆から集めた税金を当局に納めた後は自分のために追加の税を徴収することが許されていました。徴税人たちは強欲さと不正の故に「罪人」の一員として扱われ、社会の隅に追いやられたのです。ファリサイ派の人々からは蔑まれていましたが、イエス様は彼らの友となられたのです。さらに、徴税人マタイを12使徒の一人に選ばれたのです(マタイ9:10-13)。


・義:日本語訳では個人の道徳性の高さや信仰心の篤さとして理解されています。この言葉には社会的な正義という意味もあるのです。イエス様は「義(正義)に飢え乾く人々は、幸いである」(マタイ5:6)、さらに「何よりもまず、神の国と神の義(正義)を求めなさい」(6:33)と言われたのです。福音とは「神の国」(天の国)-神様の支配(主権)-が地上に遍(あまね)く行き渡り、「神の義(正義)」が確立されることなのです。

・子供:子供は無力な存在です。自分が出来ることは限られているのです。両親に頼る以外に方法はないのです。絶望の淵に生きる貧しい人々や虐げられた人々は「神の国」の到来に希望の光を見たのです。キリストの信徒たちは信仰によって「救い」に与るのではないのです。「神の国」を建設する使命があるのです。神様の戒めを守り、隣人を愛することが「永遠の命」に至る道なのです。

(メッセージの要旨)

*神様に訴えても受け入れられない祈りがあるのです。神様が願いを聞き入れられるかどうかは人間による評価とは全く関係がないのです。ファリサイ派の人は自分にとって都合の良い所だけを報告するのです。神様に信仰心の篤さを認めさせようと画策しているのです。称賛を得るためには神様さえコントロールしようとするのです。傲慢の極みです。神様は「高ぶる者を低くされ、へりくだる者を高められるのです。人間の心の内だけではなく御心を実践しているかどうかをご覧になられるのです。イエス様は卓越した知識や能力を不正な蓄財の手段として用いるファリサイ派の人々や律法学者たちに「蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか」と言われるのです(マタイ23:33)。徴税人はファリサイ派の人のように自分の良い行いを自画自賛することはありませんでした。自分の生き方を心の底から後悔しているのです。それは胸を打ち叩く姿に表れています。譬(たと)え話はファリサイ派の人の尊大さと徴税人の謙虚さを比較しているのではないのです。事態はもっと深刻なのです。偽善と不法に身を染めるファリサイ派の人が「滅び」に至り、徴税人が憐れみによって「救い」に与ったのです。両者を分けたのは犯した罪に対する悔い改めの姿勢なのです。傲慢(ごうまん)は大きな罪の一つです。一方、金持ちの議員は信仰心の篤い人です。ただ、信仰を許容範囲に限定するのです。イエス様のご指示を拒否したのです。神様の前に正しい人はいないのです。イエス様は謙遜と隣人愛を「救いの要件」とされたのです。

*ユダヤ人たちは毎日神殿で礼拝をしていました。ファリサイ派の人々も徴税人たちもこのために神殿に来ていました。神殿は犠牲の供え物を捧げるだけでなく祈りの場所でもありました。二人は神殿内部の至聖所近くの「イスラエルの庭」(ユダヤ人男性の礼拝場所)で祈ったのです。それぞれはユダヤ人社会の中で対照的な存在でした。ファリサイ派はサドカイカイ派と並んでユダヤ教の宗派の一つです。ファリサイ派はイエス様が地上に来られるおよそ150年前に創設されました。元々これらの人は信仰心が篤かったのです。律法と伝統を厳格に遵守していたのです。ところが、時代を経るに従って、信仰は形式化し、自己義認によって偽善化していったのです。一方、徴税人たちはローマ帝国に協力してユダヤ人たちから過酷に徴税し、富を蓄えていたのです。ユダヤ人たちから裏切り者、罪人と呼ばれたのです。こうした二つの階層に属する人々が祈っているのです。譬え話は神様の前で自らを正しい者であると公言し、罪人たちを蔑んでいる人々に向けて語られているのです。ファリサイ派の人は自分が奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でないことを自負しています。尊大にも神様に自分の評価を認めさせようとするのです。一方、罪人たちや社会の隅に追いやられている人々を見下しているのです。この人にとって律法を知らない徴税人は呪われているからです(ヨハネ7:49)。ファリサイ派の人には神様への畏敬の念が見られないのです。徴税人に対しても横柄に振舞うのです。徴税人は自分の罪を率直に告白し、神様の憐れみと赦しを乞うたのです。

*イエス様は「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われました。このお言葉は「人は神様を信頼しなければ神の国に入れない」というように理解されているのです。何事においても信頼を欠いては大切な関係を維持できないのです。しかし、ここで言われていることは、子供たちが置かれている位置-父親の従属物になっていること-にまで降りて行くことなのです。最も小さい者たち-貧しい人々や虐(しいた)げられた人々-と共に歩むことなのです。律法には基本となる戒めが二つあります。一つは「イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏(おそ)れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか」です(申命記10:12-13)。もう一つは「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。・・貧しい者(たち)や寄留者(たち)のために残しておかねばならない。・・あなた(がた)は隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。・・自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。・・」です(レビ記19:9-18)。イエス様はこれらを最も重要な戒めとされたのです(マルコ12:29-31)。キリスト信仰とは信じることではないのです。信じたことを実行することなのです。神様と隣人を愛して「救い」に与るのです。

*ある金持ちの議員は子供の時から「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」という掟を守ってきました。ところが、なお「永遠の命」の確信が得られなかったのです。議員と訳されている言葉は支配者のことです。日本語訳は往々にしてキリスト信仰に相応しくないとして政治的言葉を避けているのです。恣意的な翻訳は当時のイスラエルの民衆が置かれていた政治状況を正確に伝えないのです。絶大な権力とたくさんの財産を持っている支配者の一人が信仰上の不安を覚えているのです。イエス様はこの人の信仰心を認めておられるのです。ただ、「救い」は安価な恵みではないのです。本人が理解していない点を指摘し、解決方法を示されたのです。この世の権力とそれから得た富が信仰の確信へ至る道を妨げているのです。イエス様は「自分の財産を売って貧しい人々に施しなさい」、「ご自身の弟子になりなさい」と言われたのです。しかし、この金持ちは様々な思い煩いからイエス様の招き-「神の国」の福音を拒否したのです。現在の位置から社会の底辺へ降りて行くことが出来なかったのです。社会的地位と既得権益に執着したのです。この議員は律法の規定を選別しているのです。守ることが出来た規定だけを誇らしげに取り上げているのです。「隣人を自分のように愛しなさい」を実践するまでには至らなかったのです。神様よりも富の方を愛したことは明白です。神様はすべてのことをご存です。金持ちが「神の国」に入るのはらくだが針の穴を通るよりも難しいのです。しかし、神様はこの人の「救い」を断念されることはないのです。


*イエス様は「神の国」の本質を明確にされるのです。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」のです。しかし、イエス様のお言葉を実行することは簡単ではないのです。子供のように「神の国」を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできないのです。キリスト信仰が「罪の赦し」に縮小されているのです。「神の国」は人間の「全的な救い」として完成するのです。イエス様はご自身の教えと力ある業によって「神の国」が到来していることを証しされたのです。イエス様の教えを実践しない人々は「永遠の命」に与れないのです。道徳的、倫理的な罪のみが罪ではないのです。信仰の傲慢、富への執着、正義や平和への無関心はより深刻な罪なのです。身近にいた弟子たちも誰が一番偉いかについて議論しているのです。イエス様は彼らの誤った信仰理解を正すために徹底して仕えることを命じられたのです(マルコ9:33-37)。信仰を自負する人々は多くの場合自分たちの傲慢に気づかないのです。信仰の傲慢はその人を死に至らせるのです。一方、金持ちの議員はイエス様に教えを願い出ているのです。ところが、イエス様が示された「救いの道」を受け入れられないのです。有り余る富を隣人のために施すことに消極的なのです。視点を最も小さい人々へ向けなければ「神の国」に入れないのです。神様はこの人の悔い改めを忍耐して待っておられるのです。信仰を自負する人々が後になり、蔑まれていた徴税人が先になったのです(マタイ20:16)。信仰を誇っても無意味なのです。神様が判断されるからです。

2024年06月16日

「すべての人に届けられる福音」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書4章1節から20節

イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。「よく聞きなさい。種を蒔(ま)く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。

イエスがひとりになられたとき、十二人と、イエスの周りにいた人たちとが、たとえについて尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外(そと)の人々には、すべてがたとえで示される。それは、/『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』(イザヤ書6:9-10)/ようになるためである。」

また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いてもすぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難(かんなん)や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」

(注)

・預言者イザヤ:当時イスラエルは南北に分裂していました。北王国は「イスラエル」、南王国は「ユダ」と呼ばれていました。イザヤの宣教はユダ王国を中心に行われました。ウジヤ王の死(紀元前738年頃)と共に始まり、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ王の治世にも及びました。

・神の国:神様の主権、実際の支配のことです。「天の国」とも言われています。

■・・だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。(マタイ6:31-34)

■イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人(人々)に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人(人々)に解放を、/目の見えない人(人々)に視力の回復を告げ、/圧迫されている人(人々)を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(ルカ4:16-21)

・サタン:神様の敵です。旧約聖書のヨブ記1章に神様とサタンの会話が記されています。

■ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来ました。主はサタンに「お前はどこから来た」と言われました。サタンは「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」と答えたのです。主はサタンに「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な(非の打ちどころのない)正しい人で、神を畏(おそ)れ、悪を避けて生きている」と言われました。サタンは「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません」と答えました。主はサタンに「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな」と言われました。サタンは主のもとから出て行きました。 ・・その後、ヨブは何度も耐え難い災難に遭遇しました。・・ところが、神様を非難することもなく、罪も犯さなかったのです。

・主の祈り:イエス様が弟子たちに教えられた祈り

■・・天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように、御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目(様々な負債)を赦して下さい、わたしたちも自分に負い目(様々な負債)のある人(人々)を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救って下さい。(マタイ6:9-13)

(メッセージの要旨)

*イエス様はヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた後ガリラヤへ行き神の福音を宣教されました。その第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」でした(マルコ1:15)。この短いお言葉の中に 福音の真理が凝縮されているのです。キリスト信仰は「神の国」-神様の支配-の到来を福音(良い知らせ)として信じることなのです。福音の種はすべての人に蒔かれるのです。イエス様が神様の独り子であることを認められない人々や福音に無関心な人々、御言葉を聞いてすぐに受け入れても艱難や迫害に遭遇するとすぐにそれを捨てる人々、御言葉を聞くけれども富や様々な欲望の誘惑に負けて中途半端な信仰に終始する人々、そして御言葉を聞いて福音を信じる人々に届けられるのです。神様は「イエス様を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得ること」を願っておられるからです(ヨハネ3:16)。しかし、キリスト信仰を生涯貫くことは簡単ではないのです。受け入れた人々が途中で挫折する場合があるのです。拒否していた人々が悔い改めて「救い」に与ることもあるのです。一方、キリスト信仰は恵みに与ったことで完結しないのです。悔い改めた人々には神様と隣人を愛して生きることが責務になるのです。「神の国」の福音が「罪からの救い」に縮小されているのです。「神の国」の到来とはこの世に正義と愛が遍(あまね)く行き渡ることなのです。キリスト信仰を標榜する人々は「神の国」の建設に参画するのです。種はその人の現在の状況において蒔かれるのです。イエス様への応答が運命を決定するのです。

*「神の国」の秘密について、イエス様は身近な弟子たちなどごく少数の人々には打ち明けるが、グループ以外の人々にはすべてをたとえで示すと言われました。その理由についてイザヤ書を引用して説明されたのです。イザヤの時代のイスラエルは聖なる方を侮り、異国の民と手を結んで戦争をし、国内には偶像が満ち溢(あふ)れていました。支配者たちは無慈悲で、まるで盗人のようでした。賄賂を喜び、民衆に贈り物を強要したのです。孤児の権利を守らず、やもめの訴えを取り上げなかったのです。それ故、神様はご自分の民に向かって激しく怒り、御手を伸ばして、彼らを撃(う)たれたのです(イザヤ書1-5)。一方、「ユダ」も罪を犯し続けたのです。ウジヤ王が死んだ年のことです。神様はイザヤを召命されたのです。そして「この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし・・悔い改めていやされることのないために」と言われたのです。イザヤが「いつまででしょうか」と質問すると、神様は「町々が崩れ去って、住む者もなく/家々には人影もなく/大地が荒廃して崩れ去るときまで」と答えられたのです。「ユダ」の支配者たちも神様からのメッセージを拒んだのです。後に、新バビロニアの王ネブカドネザルはエルサレムを征服したのです。人々の大半は「捕囚の民」としてバビロン(現在のイラク)へ連れて行かれたのです(紀元前587年)。神様は民を滅ぼされることはないのです。少数の人々を残されるのです。これらの人を用いて「ユダ」を救おうとされるのです。

*神様はイエス様を遣わしてご自身の御心をすべての人に語られたのです。神様の御言葉(種)はどのような人にも届けられるのです。聞いた人々はそれぞれ応答するのです。最初の例は御言葉を聞いてもすぐにサタンによって福音を奪い去られる人々のことです。ファリサイ派の人々や律法学者たちを挙げることが出来ます。これらの人は最初から「神の国」を拒絶しているのです。「神の国」は特権的地位や既得権益の放棄を求めるからです。これまで、長い衣をまとって歩き回ることや広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好み、見せかけの長い祈りをして信仰心の篤さを誇っていたのです。やもめ(寡婦)の家を食い物にし、貧しい人々や虐げられた人々を苦しめて来たのです。律法を厳格に守っているように見せながら、心は強欲と放縦で満ちているのです。律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実をないがしろにしているのです。イエス様はこのような偽善者たちに「神様の罰」が下ることを明言されたのです(マタイ23)。一方、イエス様に「神様と隣人への愛はどんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」と答えて、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた律法学者もいたのです(マルコ12:32-34)。アリマタヤ出身の議員ヨセフは総督ピラトに願い出てイエス様のご遺体を埋葬したのです(ヨハネ19:38-42)。仲間たちの迫害を恐れずにキリスト信仰を証ししたのです。誰でも悔い改めて神様の下へ帰ることが出来るのです。人を裁くことには慎重であるべきなのです(マタイ7:1-5)。

*「神の国」の到来に感謝するのですが、艱難(かんなん)や迫害が起こるとすぐに躓(つまず)いてしまう人々がいるのです。イエス様はご自身を「天から降って来たパンである。・・このパンを食べる者は永遠に生きる」と言われました。弟子たちの多くの者はこれを聞いて「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。・・」と言って、イエス様と共に歩まなくなったのです(ヨハネ6:35-71)。理由は明確ではありませんが、12使徒の一人であったイスカリオテのユダはイエス様を裏切ったのです(ルカ22:47-48)。権力の中枢にイエス様を信じる人々は少なくなかったのです。ただ、彼らはファリサイ派に属していたました。キリスト信仰を公にすればユダヤ教の会堂から追放されるのです。社会的地位や名声だけでなく、生活の糧さえ失うことになるのです。結局、これらの人々は神様からの誉れよりも人間からの賞賛を選んだのです(ヨハネ12:42-43)。富に執着し「神の国」から遠ざかった金持ちの男(マタイ10:17-25)や門前に横たわる貧しいラザロを気にかけることなく贅沢に暮らして「永遠の命」を失った金持ち(ルカ16:19-31)もいるのです。一方、財産の半分を貧しい人々に施すなどして「救い」に与った徴税人ザアカイがいました(ルカ19:1-10)。弟は父親から譲り受けた財産を放蕩生活の中で浪費し、信仰的にも死んでいたのです。ところが、悔い改めによって生き返ったのです(ルカ15:11-24)。神様はこれらの罪人がご自身の下へ帰って来たことを喜ばれたのです。

*譬え話はキリスト信仰から距離を置く人々に日常生活の出来事によって説明する手法なのです。イエス様は譬え話を通して人々のところへ降りて行かれるのです。イエス様は「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と言われたのです(ルカ5:31-32)。キリスト信仰の真髄はこのお言葉にあるのです。神様の御言葉は道端、石だらけの所、茨の中、良い土地など様々な場所に届けられるのです。イエス様は弟子たちに「子供のように神の国を受け入れる人でなければ決してそこに入ることは出来ない」と警告されたのです(ルカ18:15-17)。素直さの勧めであるかのように誤解されているのです。視点を移して貧しい人々や虐げられた人々の所に降りて行くことなのです。イエス様はご自身の弟子になることを願う人々に「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子(ご自身)には枕する所もない」と言われました(マタイ8:18-22)。弟子には覚悟が必要です。イエス様は「神の国」の福音のために生涯を捧げられたのです。「神の国」を地上に建設するためには召命された人々もまた迫害を受けるのです。イエス様に倣(なら)う生き方は必然的にこの世と対立するのです。サタンはこの世の富や権力などを用いてキリストの信徒たちを誘惑するのです。神様から切り離して滅ぼそうと日夜画策しているのです。キリスト信仰に生きる人々は「主の祈り」に支えられて誘惑を退けるのです。豊かな実を結ぶために奔走するのです。

2024年06月02日

「赦しなさい・・・あなたも赦される」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書18章15節から35節

「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

(注)

・兄弟:教会のメンバーのことです。

・二人または三人が集まる場所:法廷のことです。

・家来:この日本語訳は当時の厳しい現実を曖昧にするのです。「奴隷」と訳すべき言葉です。

・赦し:この言葉には「解放」という意味があります。

・七の七十倍:7は完全を表し、ここでは無限の赦しを意味します。創世記4:15、レビ記26:18、ルカ17:4、黙示録1:4、12、16を参照して下さい。

・1タラントン:労働者の賃金の15年分以上に相当する額です。例えば、労働者の一日の賃金が10,000円とし、休日を度外視して単純に計算すると、10.000円×365日×15年=54,750,000円となります。一万タラントンは5,475億円となります。

・1デナリオン:普通の労働者の一日の賃金に相当する額です。百デナリオンは100日分の賃金、すなわち上の例で換算しますと100万円となります。

・主の祈り:「・・『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」 (マタイ6:9-15)

・神の国:天の国とも言います。死後に行く「天国」のことではありません。神様の支配を表す言葉です。

・神様の御心:

■主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者(人々)を虐げる者(たち)の手から救え。寄留の外国人(たち)、孤児(たち)、寡婦(たち)を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人(たち)の血を流してはならない。(エレミヤ書22:3)

■もし、ある人が正しく、正義と恵みの業を行うなら、すなわち、山の上で偶像の供え物を食べず、イスラエルの家の偶像を仰ぎ見ず、隣人の妻を犯さず、生理中の女性に近づかず、人を抑圧せず、負債者の質物を返し、力ずくで奪わず、飢えた者(人々)に自分のパンを与え、裸の者(たち)に衣服を着せ、利息を天引きして金を貸さず、高利を取らず、不正から手を引き、人と人との間を真実に裁き、わたしの掟に従って歩み、わたしの裁きを忠実に守るなら、彼こそ正しい人で、彼は必ず生きる、と主なる神は言われる。(エゼキエル書18:5-9)

(メッセージの要旨)

*聖書の理解を深めるためには当時の社会的、経済的、政治的背景を念頭に置くことが重要です。一世紀のイスラエルにおける貧困の原因はローマ帝国の支配とそれに協力するユダヤ人指導者たちの過酷な搾取にあるのです。イエス様は「神様の御心」に沿って生きられるように、弟子たちに「わたしたちの罪を赦して下さい。わたしたちも自分の負い目(負債)のある人を赦しますから」と祈るように教えられたのです(ルカ11:4)。また、忠告を聞き入れない人に「異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と言われたのです。意味が誤解されているのです。悔い改めない兄弟(姉妹)を破門するとか追放することではないのです。イエス様は罪を犯した人を何とかして救おうとされているのです。律法を知らない異邦人や罪人として扱われている徴税人に対するように忍耐と憐れみを持って導きなさいということなのです。一方、憐れみのない人々には厳しい罰が下されるのです。罪を犯さない人は誰もいないからです。多額の借金を帳消しにしてもらったのに、それよりはるかに少額な負債-金額は少額ではありません-を取り立てる姿は人間の貪欲さと利己主義を浮き彫りにするのです。この世においては債権を回収することが認められているのです。人の罪を告発し,裁くことも許されているのです。しかし、「神の国」においては負債を免除しないことが罪なのです。人の罪を赦さなければ、自分の罪も赦されないのです。キリストの信徒たちは憐れみによって生かされたのです。隣人の痛みにも心を砕くのです。信仰と行いは切り離すことは出来ないのです。

*聖書をどのような立ち位置で読むかによって理解も異なるのです。忠告する人も罪を犯すのです。犯していても気づかないことがあるのです。自分も罪人の一人であることを肝に銘じるのです。イエス様は徴税人たちや罪人たちと一緒に食事をすることを非難するファリサイ派の律法学者たちに「医者を必要とするのは、丈夫な人(人々)ではなく病人(たち)である。わたしたが来たのは、正しい人(人々)を招くためではなく、罪人(たち)を招くためである」(マルコ2:13-17)、「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」と言われたのです(ルカ15:3-7)。福音書記者ヨハネは「神は、その独り子(イエス様)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」と記述しています(ヨハネ3:16-17)。百匹の羊を持っている人が群れから迷い出た一匹の羊を見つけるまで探し回るように、神様はご自身の下を離れた罪人が一人も滅びないように最善を尽くされるのです。イエス様は「神様の御心」を実現するためにこの世に来られたのです。イエス様のご指示が守られていないのです。罪を犯した兄弟(姉妹)が信仰の友ではなく、被告人として扱われているのです。赦しの広さと深さが数字で表現されているのです。キリスト信仰を標榜する人々は自分たちも福音の恵に与っていること忘れてはならないのです。

*罪を犯した兄弟(姉妹)の「救い」に怠惰(たいだ)であってはならないのです。手順を尽くして悔い改めに導くのです。イエス様は兄弟が犯した罪の内容について言及しておられないのです。譬え話から借金の返済に関係しているように推測されるのです。イエス様は「一定の手続き」の後に罪人の「救い」を断念している教会(信徒たちの)の誤りを指摘されたのです。二人または三人が心を一つにして兄弟(姉妹)の「救い」を願うなら、共にいて罪人を悔い改めへと導かれるのです。イエス様はペトロに七の七十倍まで赦しなさいと言われたのです。人間の判断で「神様の御心」を軽んじてはならないのです。弟子たちが「神の国」の福音を正しく理解出来るように厳しい現実に目を向けられたのです。人々にとって過酷な税と借金は深刻な問題だったのです。高利が民衆を苦しめているのです。譬え話に登場する人物は一万タラントンという途方もない借金を債権者の憐れみによって帳消しにしてもらったのです。ところが、自分に百デナリオンの負債がある人からは非情にも取り立てるのです。人間の本性(罪深さ)がよく表れているのです。結局、この人は借金の棒引きを取り消され、返済が終わるまで牢に閉じ込められたのです。イエス様は「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら-負債を免除しないなら-わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」と言われたのです。キリスト信仰とは「神様と隣人」を愛して生きることなのです(ルカ10:25-28)。正義と赦しを欠く信仰はその人の「救い」に役立たないのです。

*かつて、ペトロはイエス様から「サタン、引き下がれ」と厳しい言葉で叱責されたのです。しかし、後に初代教会の実質的なリーダーになったのです(マタイ16:23)。赦しは罪を犯した人々を生かすのです。神様は寛大な人々を祝福されるのです。イエス様の中心メッセージは「神の国」の到来にあるのです。「神様の主権」がこの世の隅々に行き渡ることが福音(良い知らせ)なのです。神様が共におられる所ではこの世の常識は通用しないのです。自分の権利と同じように隣人愛を大切にするのです。キリスト信仰は個人の「霊的な救い」として実を結ぶだけではないのです。人間の「全的な救い」として実現するのです。社会・経済・政治に関わる制度や人々の関係が「神様の御心」に相応しい形へ変更されるのです(ルカ4:18-19)。寝食を共にしてイエス様から教えを受け「力ある業」に直接触れたペトロでさえも「福音の真理」を誤解しているのです。弟子たちも同様なのです。王は家来の非情な振る舞いに激怒して「借金の免除」を無効にしたのです。「天の国」に招き入れた人々の「救い」は途上にあるのです。「終わりの日」-イエス様が再臨される日-に最終的に判断されるからです。「兄弟が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねたか」どうかが問われるのです(マタイ20:31:46)。信仰のみによって「永遠の命」が保証される訳ではないのです。キリストの信徒たちは感謝と共に「神の国」を証しするのです。

*神様の憐れみによって「救い」に与っているのです。イエス様の御跡を辿(たど)って「神の国」の建設に全力を注ぐのです。キリスト信仰とは信じることではないのです。信じて戒めを実践することなのです。キリストの信徒たちは多くの罪を赦されていながら、いつの間にか自分たちを信仰深い人間の範疇(はんちゅう)に入れているのです。悔い改めを求められている罪人の一人ではなく、忠告する側に立って罪人を裁いているのです。罪人の赦しを七回までとし、教会から追放することも容認するのです。イエス様は信仰心を装う律法学者たちやファリサイ派の人々に厳しい罰を宣告されました。「いったいだれが、天の国で一番偉いのでしょうか」と質問する弟子たちに「心を入れ替えなければ天の国に入ることは出来ない」と言われたのです(マタイ18:1-5)。信仰の傲慢は「死に至る病」なのです。徴税人たちは罪人として軽蔑され、社会から排斥されていました。ところが、神様は「罪人のわたしを憐れんで下さい」と祈った徴税人を正しい人とされたのです(ルカ18:9-14)。赦しを経験し、罪人であることを自覚した人々の言葉には力があるのです。信仰体験が相手の心に響くのです。しかし、兄弟(姉妹)を心情的に赦すことで完結しないのです。赦しには何らかの「犠牲」が伴うのです。相手の重荷を自分のものとして担うことなのです。七の七十回の赦しは不可能に見えるのです。神様は罪人たちが帰って来るのを忍耐強く待っておられるのです。イエス様は罪人たちの「救い」に奔走(ほんそう)する人々を支えて下さるのです。

2024年05月05日