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「最後の審判」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書25章31節から46節

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊(たち)と山羊(たち)を分けるように、彼らをより分け、羊(たち)を右に、山羊(たち)を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たち(あなたがた)のために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たち(あなたがた)は、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者(たち)の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たち(あなたがた)は、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。これらの最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者ども(これらの人々)は永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

(注)


・人の子:この場合は審判者です。預言者ダニエルがそのイメージを表現しています。


■夜の幻をなお見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」(神様)の前に来て、そのもとに進み 権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。(ダニエル書7:13-14)


・神の国:天の国とも呼ばれています。誤解されているような「天国」のことではないのです。神様の主権、神様の支配を表す言葉です。


・正義と公平:

■主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人(抑圧された人々)に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人(た人々)には自由を/つながれている(人たち)には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫(かし)の木と呼ばれる。彼らはとこしえの廃虚を建て直し/古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。(イザヤ書61:1-4)

■主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者(強奪されている人々)を虐げる者(抑圧者たち)の手から救え。寄留の外国人(たち)、孤児(たち)、寡婦(たち)を苦しめ(暴力を振るって)、虐げてはならない。またこの地で、無実(の人)の血を流してはならない。(エレミヤ書22:3)

■わたしは失われたもの(たち)を尋ね求め、追われたもの(たち)を連れ戻し、傷ついたもの(たち)を包み、弱ったもの(たち)を強くする。しかし、肥えたもの(たち)と強いもの(たち)を滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。お前たち(あなたがた)、わたしの群れよ。主なる神はこう言われる。わたしは羊(たち)と羊(たち)、雄羊(たち)と雄山羊(たち)との間を裁く。お前たち(あなたがた)は良い牧草地で養われていながら、牧草の残りを足で踏み荒らし、自分たちは澄んだ水を飲みながら、残りを足でかき回すことは、小さいことだろうか。わたしの群れは、お前たち(あなたがた)が足で踏み荒らした草を食べ、足でかき回した水を飲んでいる。それゆえ、主なる神は彼らにこう言われる。わたし自身が、肥えた羊(たち)とやせた羊(たち)の間を裁く。お前たち(あなたがた)は、脇腹と肩ですべての弱いものを押しのけ、角で突き飛ばし、ついには外へ追いやった。しかし、わたしはわが群れを救い、二度と略奪にさらされないようにする。そして、羊(たち)と羊(たち)との間を裁く。(エゼキエル書34:16-22)。

・ノアの洪水:洪水になる前は人々は食べたたり飲んだりしていました、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気が付かなかったのです。創世記6章-8章をお読み下さい。

・最も重要な掟:

■イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、 聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」 (マルコ12:29-3
1)

・ファリサイ派:ユダヤ教の一派です。彼らは律法(言い伝え)を生活のすべてにおいて厳格に適用したのです。


・サドカイ派:政治的な影響力を行使した祭司グループの一つです。ファリサイ派とは対立していましたが、共通の敵であるイエス様には結束して対応したのです。


・神の義:「義」は神様と人間との正しい関係(主に倫理的な関係)を表す言葉として用いられることが多いのです。しかし、元々の言葉(ギリシャ語)には「正義」という意味があるのです。神様は人間に「正義の実行」を求めておられるのです。(創世記18:19)


・百人隊長:100人のローマ兵を指揮、監督していました。


・アブラハム、イサク、ヤコブ:ユダヤ人たちの父祖です。神様はモーセを召命する時にこのお言葉を用いられたのです。


■神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆(おお)った。(出エジプト記3:6)


・御国の子(たち):ユダヤ人たち、あるいはファリサイ派の人々や律法学者たちのことです。


●律法学者は文書を司(つかさど)る官僚です。律法などに精通する学者でもありました。


・陰府(よみ):当初、すべての死者が住む暗闇の世界を表していました(イザヤ書38:10)。後に「神様の御心」に背いて永遠の罰を受けた人々が死後に滞在する場所となったのです。


ユニセフ:国際連合児童基金のことです。世界の子どもたちの状況などについて言及しています。


●世界が激しく揺れ動く今、子どもたちの栄養状況が悪化の兆しを見せていま5歳未満児の4人に1人は満足に食べることができず、1200万人以上が重度の急性栄養不良で命の危機に直面しています。そうした子どもたちに追い打ちをかけるかのように、国際社会からの援助資金が大きく減ったことで、支援の現場では物資や人材不足が深刻化しています。(2026年5月)

(メッセージの要旨)

*「最後の審判」の様子が描かれています。イエス様の裁きにおける判断基準が簡潔に明示されているのです。復活されたイエス様は40日にわたって使徒たちに「神の国」について話をされました。そして、彼らが見ている前で天に上げられたのです。その時、白い服を着た二人の人がそばに立って「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」と言ったのです(使徒1:11)。2000年を経過した今日においてもイエス様の再臨(「この世」の終わり)は来ていないのです。その時期については父なる神様がご自身の権威によって決定されるのです。再臨は「ノアの洪水」のように思いがけない時にやって来るのです(マタイ24:36―37)。イエス様はガリラヤ地方の町や村を残らず回って会堂で教え、悔い改めて福音を信じるように勧められたのです。また、飼い主のいない羊たちのように弱り果てている群衆を見て憤(いきどお)り、ご自身の「力ある業」によってありとあらゆる病気や患いを癒されたのです。「収穫は多いが、働き手が少ない」と言われたのです。使徒十二人を選び「失われた羊たち」のところへ派遣されたのです(マタイ9:35-10:15)。弟子たちには最も重要な二つの掟(おきて)-神様と隣人を愛すること-を実行するように命じられたのです(ルカ10:25-37)。キリストの信徒たちは目を覚ましてその日に備えるのです。それぞれの責務を誠実に遂行(すいこう)するのです。

*神様はイエス様の先駆けとして洗礼者ヨハネを遣わされたのです。イエス様の宣教の意味を前もって明らかにされたのです。ヨハネはユダヤの荒れ野で「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って宣教していたのです。ファリサイ派の人々やサドカイ派の人々が大勢洗礼を受けに来たのを見て「蝮(まむし)の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると,だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」と警告したのです(マタイ3:1-8)。一方、エルサレムとユダヤの全土、ヨルダン川沿いの地方から来た群衆は罪を告白し「わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねたのです。「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と「隣人愛」の重要性を説いたのです。徴税人たちも洗礼を受けるために来て同様の質問をしたのです。「規定以上のものは取り立てるな」、そして兵士たちの問いに「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と答えて不正を戒めたのです(ルカ3:1-9)。イエス様はヨハネが逮捕された後「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣教を開始されたのです。イエス様はヨハネと同一の視点に立たれたのです。イエス様は金持ちに貧しい人々に財産を施しなさい。そして、わたしに従いなさい」と命じられたのです(マルコ 10:21)。弟子たちには「物欲を克服し、相互に債権を放棄し、共に生きる力を与えて下さい」と祈るように教えられたのです(ルカ11:4)。「行い」によって「信仰」が証明されるのです。

*「神の国」の到来はキリスト信仰の中心メッセージです。イエス様から権能を与えられた十二人は福音を宣べ伝えたのです。ただで病人たちを癒し、死者たちを生き返らせ、重い皮膚病を患っている人々を清くし、悪霊たちを追い払ったのです。「信仰によって救われる」とは信じることによって「永遠の命」が得られることではないのです。イエス様は「先ず、神の国と神の義(正義)を求めなさい」と言われたのです(マタイ6:33)。しかし、キリスト信仰が「罪からの救い」の手段として限定的に理解されているのです。信仰の「根本理念」が忘れられているのです。往々にして、正義とか平和は政治的なニュアンスが強い考え方(思想)であるとして意図的に避けられているのです。しかし、これこそ「信仰の名」によって現状を無批判的に肯定する政治姿勢に他ならないのです。旧・新約聖書が伝える神様は正義を大切にし、平和を愛されるお方なのです。イエス様が生と死と復活を通して語られた「神の国」はすべての分野に届けられているのです。政治・経済・社会における秩序の変革として結実するのです。「悔い改めなさい」は福音を自分たちの都合に合わせて歪曲(わいきょく)している人々への警鐘なのです。信仰の有無は「神様の御心」を実現する善い行いによって明らかになるのです。「行い」を伴わない信仰はそれだけでは死んでいるのです(ヤコブ書2:14-17)。キリスト信仰とはイエス様に倣(なら)う生き方のことです。キリスト信仰を標榜(ひょうぼう)する人はイエス様が歩まれた苦難の道を全力で辿(たど)るのです。


*御国の子、キリストの信徒であることが「永遠の命」の保証にはならないのです。ユダヤ人のために会堂を建てた異邦人の百人隊長がいました。中風でひどく苦しんでいる僕(奴隷)の癒しを願い出たのです。イエス様は「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われました。ところが「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。わたしの僕はいやされます」と答えたのです。イエス様は「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される」と言われたのです。ちょうどそのとき、僕の病気はいやされたのです(マタイ8:5-13)。また、ある金持ちがぜいたくに遊び暮らしていました。門前にラザロという貧しい人が横たわり、空腹に耐えて日々を過ごしていたのです。やがて、貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのそばに連れて行かれました。金持ちも死んで葬られたのです。金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとラザロとがはるかかなたに見えたのです。「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。炎の中でもだえ苦しんでいます」と訴えたのです。アブラハムは「お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」と断罪したのです(ルカ16:19-31)。


*イエス様は「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」と言われました(ヨハネ5:21-24)。イエス様はすべての国の民(異邦人たち)を裁かれるのです。再び地上に来られる時に実行されるのです。人々の「救い」と「滅び」を分ける判断の基準は明白です。「信仰」があるかどうかではないのです。「信仰」に「行い」が伴っているかどうかなのです。「最も小さい者たち」とは何らかの困難な状況に置かれている人々のことです。これらの人に関心を持っているキリストの信徒は必ずしも多くないのです。その事実を「罪」として認識する人はさらに少ないのです。貧しい人々や虐げられた人々と共に歩まなければ「救い」は訪れないのです。世界の各地に貧困の故に飢えや渇きに苦しんでいる人々、迫害によって住むところを追われた人々、病気になっても十分な医療を受けられずに死を早めている人々、正義のために闘って投獄されている人々がいるのです。ユニセフが悲惨な現状とスタッフの苦悩を報告しています。これらの人に目を向けない生き方は「神様の御心」に反しているのです。「永遠の命」は安価な恵みではないことを真剣に心に刻むのです。

2026年06月28日

「視点の変更」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書14章7節から24節

イエスは、招待を受けた客(たち)が(何とかして)上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなた(がた)よりも身分の高い人が招かれており、あなた(がた)やその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなた(がた)は恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなた(がた)を招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人(たち)も、兄弟(たち)も、親類(たち)も、近所の金持ち(たち)も呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人(人々)、体の不自由な人(人々)、足の不自由な人(人々)、目の見えない人(人々)を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕(奴隷)を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。 僕(奴隷)は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕(奴隷)に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人(人々)、体の不自由な人(人々)、目の見えない人(人々)、足の不自由な人(人々)をここに連れて来なさい。』やがて、僕(奴隷)が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」

(注)

・イエス様はファリサイ派の議員から食事の招待を受けていました。その日は安息日でした。しかし、水腫を患っている人を癒されたのです(ルカ14:1-6)。今日の聖書の個所はその続きです。

・ファリサイ派:律法を厳格に守っていました。しかし、イエス様はこの派に属する人々の不信仰を厳しく非難されたのです。

■実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。ただ、器の中にある(様々な)物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ(に災いあれ)。薄荷(はっか)や芸香(うんこう)やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ(に災い荒れ)。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ。あなたたちは不幸だ(に災いあれ)。人目につかない(印のない)墓のようなものである。その上を歩く人(人々)は気づかない。(ルカ11:37-39)

●薄荷や芸香:はっかはしそ科の植物で香りがあり、うんこうはミカン科の植物で虫よけの効果があります。あらゆる野菜とはハーブ類のことです。献金の対象である農産物から除外されていました。ところが、ファリサイ派の人々は信仰心を誇るために敢(あ)えてこれら奉げたのです。

●人目につかない墓:人は知らないうちにファリサイ派の人々の影響を受けて汚れているのです。レビ記21:11を参照して下さい。

・神の国(天の国):誤解されているような死後に行く「天国」のことではないのです。天上と地上における「神様の支配」あるいは「神様の主権」を表す言葉です。神様が人間の心と社会の隅々において崇められ、すべてにおいて価値基準となることです。ここに属する人々は神様と隣人を愛し、正義と平和を実現するのです。

・神の国で食事をする:ユダヤ人の間では一般的に「救い」がイメージされているのです。

・町の広場や路地:「神の国」から排斥された人々が多く見られるのです。

・通りや小道:イスラエルの「外」のことです。ここには異邦人が住んでいるのです。

(メッセージの要旨)

*「神様の御心」は社会から排斥(はいせき)され、蔑視(べっし)されている貧しい人々や心身に障害のある人々をご自身の下に優先的に招くことにあるのです。イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って宣教を開始されたのです(マルコ1:14-15)。たとえ話によってファリサイ派の人たちに「悔い改め」を促(うなが)しておられるのです。イエス様はこれまでもファリサイ派の人と食事を共にしておられるのです(ルカ7:36-50、11:37-54)。今回、社会的に影響力のある議員がイエス様を招いているのです。この人がイエス様を貶(おとし)めるために策を弄(ろう)しているのか、イエス様の教えを純粋に聞こうとしているのかは分からないのです。しかし、イエス様はこのような機会を大切にし、具体的事実に言及して「神の国」の本質を明らかにされたのです。かつて洗礼者ヨハネは牢の中でイエス様のなさったことを聞いて弟子たちを送り「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねさせたのです。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人(人々)は見え、足の不自由な人(人々)は歩き、重い皮膚病を患っている人(人々)は清くなり、耳の聞こえない人(人々)は聞こえ、死者(たち)は生き返り、貧しい人(人々)は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」と答えられたのです(マタイ11:2-6)。キリストの信徒たちの理解にも「視点の変更」が求められているのです。

*「神の国」の到来はファリサイ派と呼ばれている人々に根本的な考え方の変更を迫るのです。これらの人は律法を厳格に守ることによって「救い」が得られると信じているのです。しかし、実際は偽善者なのです。この世の地位と権力に執着(しゅうちゃく)して正義と公平を歪(ゆが)め、自分の誉れのために信仰心を装(よそお)い、婚宴の席では上席に着こうとしているのです。神様はすべてをご存じです。この世の評価は通用しないのです。人間が尊ぶもの―名声や富など―を忌(い)み嫌われるのです(ルカ16:15)。偽善者たちは当然ですが、尊大に振舞う人々も「神の国」に相応しくないのです。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められるのです。心を入れ替えて子供のようにならなければ-社会の底辺で喘(あえ)いでいる人々の側に立たなければ-「神の国」に入ることは出来ないのです(マタイ18:1―5)。ファリサイ派の人々はこれまで友人、兄弟、親類、近所の金持ちたちとは親しく交際をしていたのです。しかし、指導者たちの視野には貧しい人々、心身に障害のある人々、目の見えない人々が入っていないのです。律法を知らない罪人として蔑(さげす)んでいたからです(ヨハネ7:49)。イエス様は「神の国」の本質について説明されたのです。福音(良い知らせ)は罪人と呼ばれている人々に優先的に届けられているのです。この事実にキリスト信仰における根本理念が反映されているのです。キリストの信徒たちも与えられた責務を果たすのです。イエス様の視点に立って「神様の御心」を実現するのです。

*ファリサイ派の人々は律法主義に固執するのです。結果、偽善に陥(おち)っているのです。これらの人こそ医者(救い主)を必要とする病人(罪人)なのです(マルコ2:17)。この世の基準で自分を高く評価しても無意味なのです。イエス様が神様から委(ゆだ)ねられた裁きの権限を執行されるからです(ヨハネ5:22)。傲慢(ごうまん)な態度がその人の「救い」を妨げているのです。「神の国」の福音に与(あずか)るためには最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実践することが必須の要件です。ファリサイ派の議員の中にはイエス様を信じる人も少なくなかったのです。しかし、イエス様への信仰を公にすれば会堂(信仰共同体)から追放されること-生活手段を奪われること-は必至なのです。社会的地位の高い人々が「神の国」の福音に生きることは簡単ではないのです。失うものが余りにも多いからです。そのような状況にあっても信仰を証しした人々がいたのです。律法に基づいてイエス様を弁護したファリサイ派の議員ニコデモ(ヨハネ7:45-52)と「神の国」を待ち望みイエス様のご遺体を埋葬(まいそう)した身分の高い議員アリマタヤのヨセフです(マルコ15:43-46)。もう一人挙げるとすればイエス様から「あなたは神の国から遠くない」と言われた律法学者です(マルコ12:28-34)。キリスト信仰は断じて安価な恵みではないのです。信仰のみによって「永遠の命」を得ることは出来ないのです。信仰を貫くために様々な犠牲が伴うのです。何かを捨てる覚悟のある人々が「救い」に与るのです。

*イエス様は一般民衆に焦点を当ててもう一つのたとえ話をされたのです。「神の国」に招かれた人々が「畑を買ったので、見に行かねばなりません」、「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです」、「妻を迎えたばかりなので、行くことができません」と言って招待を断ったのです。いずれも戦争への招集が免除される理由なのです(申命記20:5-8)。「神の国」よりもこの世を選んだ事実に変わりはないのです。これらの人に代わって貧しい人々、体の不自由な人々、目の見えない人々、足の不自由な人々が招かれることになったのです。社会から罪人として排斥された人々が「救い」に与るのです。しかも、「神様の恵み」は異邦人たちにも及ぶことになったのです。ただ、最初に招待された人々が後に「神の国」において食事を味わうことはなかったのです。福音の拒否が深刻な結末に至ることを警告しておられるのです。イエス様は「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」と言われました(マタイ7:13-14)。「神の国」の福音は高価な恵みなのです。キリストの信徒たちにそれに相応する生き方を求めるのです。簡単なことではないのです。食べたり飲んだりしたこと、教えを学んだことが「救いの保証」にはならないのです(ルカ13:22-30)。キリスト信仰とはイエス様の都跡を辿(たど)ることです。「永遠の命」はそれぞれの行いへの報酬(ほうしゅう)なのです。

*キリスト信仰が誤解されているのです。福音が「罪からの救い」に縮小されているのです。「神の国」はいずれ人間の「全的な救い」として完成するのです。キリストの信徒たちは「神様の御心」を「善い行い」によって証しするのです。イエス様は貧しい人々、体の不自由な人々、足の不自由な人々、目の見えない人々のために心を砕(くだ)かれたのです。援助を必要とする人々に無関心でいることは出来ないのです。イエス様に倣(なら)って社会の底辺で抑圧と貧しさに苦しんでいる人々と共に歩むのです。ファリサイ派の議員や同席の人々は信仰心の篤(あつ)さを誇っているのです。ところが、「神の国」に招かれるための要件はもっと厳しいのです。ある金持ちの議員は財産を売って貧しい人々に施さなかったために「神の国」に入れなかったのです(ルカ18:18-30)。一般のユダヤ人たちもこの世に心を奪われていれば「神の国」に招かれないのです。その人の生き方が「神様の御心」に適(かな)っていたかどうかが決定的に重要なのです。自己評価は「救い」にとって何の役にも立たないのです。終わりの日(最後の審判の日)に、イエス様は御子の権威に基づいて「あなたは最も小さい人々-貧しい人々や虐げられた人々-のために何をしたか」と尋ねられるのです(マタイ25:31-40)。「救い」の判断基準を事前に示されたのです。「行い」を伴わない信仰はそれだけでは死んだものなのです(ヤコブ書2:17)。キリストの信徒たちは正義の実行と神様への愛を全身全霊で具体化するのです。イエス様に審判をお委ねするのです。

2026年06月21日

「逆 転」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書20章1節から16節


「天の国(神の国)は次のようにたとえられる。ある家の主人(土地所有者)が、ぶどう園で働く労働者(たち)を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で(に合意した)、労働者(たち)をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中(労働者たち)は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中(彼ら)とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように(その結果)、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

(注)


・天の国:神の国とも言います。誤解されているような死後に行く「天国」のことではないのです。「神様の支配」あるいは「神様の主権」を表す言葉です。福音(良い知らせ)とは神様がこの世を終わらせて「新しい天地」を創造されることです。イエス様は教えと力ある業によって神様のご計画の一部を前もって証しされたのです。天の国はイエス様が再び来られる時-再臨-において完全なものになるのです。
・聖書を正しく理解するためには当時の社会・政治・経済状況を常に念頭に置くことが必要です。キリスト信仰の根本原理の一つに正義と公平の実現があるのです。

・神様の正義と愛

■わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。(創世記18:19)

■あなたたちは、不正な物差し、秤、升を用いてはならない。正しい天秤、正しい重り、正しい升、正しい容器を用いなさい。わたしは、あなたたちをエジプトの国から導き出したあなたたちの神、主である。わたしのすべての掟、すべての法を守り、それを行いなさい。わたしは主である。(レビ記19:35-37)

■寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなた(たち)が彼(ら)を苦しめ、彼(ら)がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる。もし、あなた(たち)がわたしの民、あなた(たち)と共にいる貧しい者(たち)に金を貸す場合は、彼(ら)に対して高利貸しのようになってはならない。彼(ら)から利子を取ってはならない。もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。(出エジプト記22:20-26)

・労働者たち:元々、多くは農民だったのです。借金を返済できずに担保の土地を失い労働者となった人々です。高利貸しには祭司たちもいたのです。彼らは毎日早朝から仕事を求めて「一定の場所」で雇い主たちが来るのを待ったのです。

・1デナリオン:ローマ帝国内に流通する銀貨です。当時の平均的労働者の1日分の賃金に相当します。

・友よ:親しい友達のように訳されていますが、実際には情愛のこもった言い方ではないのです。元々は仲間のような少し距離を置いたニュアンスの言葉です。イエス様がご自身を逮捕するために群衆(ローマ兵を含む)と共にやって来たイスカリオテのユダに対して用いられた言葉使いと同じです。マタイ26:50を参照して下さい。

・後にいる者が先になり、・・:「天の国」においてはこの世の評価基準が逆転するのです。

■心の貧しい(圧政に心を砕かれた)人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。・・義(正義)のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。(マタイ5:3、10)。

■イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた(神様に委ねた)者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(マルコ10:29-31)

■しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。(ルカ6:24-26)

■さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。(ヨハネ13:12-15)

(メッセージの要旨)

*イエス様に従った人の多くは貧しい農民でした。教育を受ける機会にも恵まれなかったのです、誰もが福音を理解出来るようにたとえ話をされたのです。伝統的な解釈によると家の主人は神様、最初に雇われた労働者はユダヤ人、その後順次採用された人はキリストの信徒です。神様は最初に召し出したユダヤ人たちの「特権意識」を戒められたのです。神様の恵みはすべての人に及ぶのです。これがたとえ話の一つの側面です。別の観点にも注目するのです。生産手段(土地)を失った農民たちが生きて行くために必死で仕事を求めているのです。仕事に就いても過酷な労働を強いられ、屈辱的な扱いを受けているのです。たとえ話を聞いている人々は自分たちの姿と重ね合わせたのです。生活困窮の根本原因がどこにあるかを知ったのです。主人は何度も労働者たちを雇って自分のぶどう園に送っていることから大農園主です。雇った労働者たちに労働時間に関係なく1デナリオンを支払ったのです。ぶどう園主は表面上公平に見える方法によって貧しい労働者たちを分断しているのです。不当に搾取していることを巧妙に隠蔽しているのです。福音が「神様の愛と憐れみ」の視点から語られることが多いのです。一方、神様は「あなた(がた)は隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇人の労賃の支払いを(自分の都合で)翌朝までのばしてはならない」と言われたのです(レビ記19:13)。労働は正当に評価され、賃金は時間に応じて支払わなければならないのです。イエス様は労働者たちの抗議を支持し、ぶどう園主の偽善を非難されたのです。

*イエス様の教えを理解するためにはたとえ話の前後を併せて読むことが不可欠です。直前にイエス様と金持ちの青年とのやり取りが記されています。金持ちは「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい」という戒めを厳格に守って来たのです。しかし、「永遠の命」の確信が得られないのです。イエス様に「何をすればいいのでしょうか」と尋ねたのです。「あなたの信仰はすでに立派だ」とは褒(ほ)められなかったのです。「持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。それから、わたしに従いなさい」と命じられたのです。青年は悲しみながら立ち去ったのです。イエス様は弟子たちに「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われたのです。直後には使徒ヤコブとヨハネの母がイエス様に「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」と願い出たのです。他の使徒はこれを聞いて腹を立てたのです。イエス様は「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」と言われたのです。富に執着する人、尊大な人は「天の国」に入れないのです。

*自然には引力の法則があるように、経済活動にも法則があるのです。土地や財産を持っている人々は、何も持たない人々よりも社会関係において優位に立っているのです。イエス様はたとえ話を通して両者の関係を明確にされたのです。「家の主人」はぶどう園で働く労働者たちを雇うために広場とぶどう園を何度も行き来しています。たくさんのぶどう園を所有していたからです。この人は大土地所有者であり、大変なお金持ちなのです。家族的な雰囲気を醸(かも)し出すような「家の主人」という日本語訳は農園主が強欲な地主であることを曖昧(あいまい)にしているのです。雇い主は広場で必至に仕事を求める労働者たちの中から、一日一デナリオンの賃金に納得した人々だけをぶどう園に送っているのです。「納得した」という表現は正確ではないのです。実際は労働者たちの希望は無視され、雇う側の圧倒的な優位の下で交渉が行われているのです。単身の男性は労働で得た一デナリオンの賃金を生活費に充当(じゅうとう)するのです。家族のある労働者が生計費を満たせないような賃金は経済的な暴力なのです。雇い主が低賃金を労働者たちに強いることは「神様の御心」に反しているのです。労働者は不当な賃金で働かないのです。しかし、他に選択肢がなければ提示された賃金を許容するのです。雇い主は労働者たちの弱点を熟知しているのです。自分の利益を最大限に追求するのです。その上で善意を装(よそお)っているのです。偽善が労働者の間に分裂をもたらしているのです。過酷な労働と極度の低賃金が生命と暮らしを破壊しているのです。

*最初の労働者たちはまる一日、暑い中を辛抱して働いたのです。雇い主はずっと少ない時間しか働かなかった労働者たちにも同じ賃金を支払ったのです。雇い主が愛に満ちた公平な人物であるかのように見えるのです。「同一労働同一賃金」の原則からすれば表面上の平等は不平等となるのです。夕方の五時から一時間働いた労働者の賃金が一デナリオンであれば、逆算して正午から働いた労働者に六デナリオン、早朝(午前六時)から働いた労働者には十二デナリオンを支払うことが当然なのです。雇い主は気前の良さを自慢しています。それは見せかけです。自分の貪欲さを隠すための手段なのです。そのことが愛のない言葉に如実に表れているのです。労働者たちの窮状(きゅうじょう)を承知の上で「あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか」と相手を責めているのです。雇い主が「神様の御心」に沿った人であるなら、自分の利益を減らしてでも労働者たちの賃金を労働時間に応じて支払うのです。時間ごとに労働者たちを雇うことなど断じてしないのです。早朝に一括して必要な労働者を雇い、すべてのぶどう園に送るのです。労働者たちから非難された雇い主が論点をすり替えて反論しているのです。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか」と言うのです。中には雇い主の主張に同意する人もいるのです。巧妙に搾取を隠ぺいする論法なのです。神様がアブラハムに命じられたように、キリストの信徒たちも正義と公平の実現にもっと関与するのです。

*農園主は労働者たちを経済力によって支配しているのです。広場に集まっている労働者たちに「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と尋ねているのです。仕事を求めていることを知りながら、侮蔑(ぶべつ)的な質問をしているのです。失業の原因が怠惰(たいだ)であるかのように労働者たちに罪悪感を植え付けているのです。雇い主や金持ちたちの貪欲に気づかせないように精神的に抑圧しているのです。キリストの信徒たちも経済法則に無関心であってはならないのです。イエス様も「何よりもまず、神の国(神様の主権)と神の義(神様の正義)を求めなさい」と命じられました(マタイ6:33)。農園主の言動は愛と慈(いつく)しみに満ちた「神様の御心」に合致しないのです。見せかけの善意によって自分の利益を最大限に追求しているだけなのです。低賃金の原因があたかも労働者たちにあるかのように錯覚(さっかく)させているのです。形式的な平等によって不平等を助長し、労働者たちが団結することを意図的に阻止しているのです。しかも、労働者たちの「不当な要求」が自分の善意の妨げになっていると言うのです。農園主の罪は真に大きいのです。イエス様は一貫して貧しい人々や虐げられた人々と共に歩まれたのです。たとえはなしにおいて雇い主の搾取と抑圧を非難しておられるのです。労働者たちは臆(おく)することなく、不当な賃金や不平等な扱いに抗議するのです。イエス様はこれらの人に「神の国」を約束されたのです(ルカ6:20)。終わりの日に「正しい裁き」が行われ、それぞれの地位が逆転するのです。

2026年06月14日

「偽善は死に至る病」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書6章1節から18節

「見てもらおうとして、人(人々)の前で善行をしない(敬虔さを表さない)ように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなた(がた)は施しをするときには、偽善者たちが人(人々)からほめられようと会堂や街角でするように、自分(たち)の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなた(がた)の施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなた(がた)に報いてくださる。」

「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人(人々)に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなた(がた)が祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなた(がた)の父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなた(がた)の父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人(たち)のようにくどくどと述べてはならない。異邦人(たち)は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧(かて)を今日与えてください。わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪(い者)から救ってください。』もし人(人々)の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがた(の過ち)をお赦しになる。しかし、もし人(人々)を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

「断食するときには、あなたがたは偽善者(たち)のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者(たち)は、断食しているのを人(人々)に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなた(がた)は、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなた(がた)の断食が人(人々)に気づかれず、隠れたところにおられるあなた(がた)の父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなた(がた)の父が報いてくださる。」

(注)

・最も重要な戒め:

■彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコ12:28-31)

第一は旧約聖書の申命記6:4-5、第二はレビ記19:18に記述されています。

・貧しい人々を支える義務:

■穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘(つ)み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者たちや寄留者たちのために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。(レビ記19:9-10 )

・施し:安息日にユダヤ教の会堂で慈善寄付も行われていました。

・偽善者たち:律法学たちやファリサイ派の人々のことです。イエス様はこれらの人の不信仰と腐敗を厳しく非難されたのです(マタイ23:1-36))。


・ファリサイ派の人々:律法を厳格に遵守するユダヤ教の一派です。学識の豊富さから民衆に尊敬されていました。イエス様と対立した律法学者の多くはファイサイ派に属しています。サウロ(パウロ)は誰よりも熱心なファリサイ派でした。


・律法学者たち:文書を記録する官僚であり、同時に学識を有する学者です。ファイサイ派によるモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)(トーラ)の解釈を支持していました。多くはイエス様に批判的でした。ただ、「先生,あなたがおいでになる所ならどこへでも従って参ります」と言った律法学者もいたのです(マタイ8:19)。

・祈り:ユダヤ人の成人男性はエルサレムに向かって毎日午前、午後、夕方の三回、そして食前と食後にも立ったまま、あるいは頭(こうべ)を垂れて祈ったのです。

・徴税人:ローマに協力して民衆から過酷な税を取り立てたのです。裏切り者と呼ばれ、罪人として社会から排斥されたのです。

・過ち:律法や慣習に違反することです。キリスト信仰においては個人の道徳的、倫理的な観点から説明されることが多いのです。しかし、返済期限を守らないことや返済不能なども含まれているのです。これらは社会的、経済的な要因が大きいのです。イエス様はローマの圧政に苦しんでいる貧しいユダヤ人キリスト者たちに、相互に負債を免除するように教えられたのです(マタイ18:21-35)。「主の祈り」においてもそれが反映されているのです。

・断食:

■以下は、あなたたちの守るべき不変の定めである。第七の月の十日にはあなたたちは苦行(断食)をする。何の仕事もしてはならない。土地に生まれた者たちも、あなたたちのもとに寄留している者たちも同様である。なぜなら、この日にあなたたちを清めるために贖(あがな)いの儀式が行われ、あなたたちのすべての罪責(罪)が主の御前に清められるからである。これは、あなたたちにとって最も厳(おごそ)かな安息日である。あなたたちは苦行をする。これは不変の定めである。(レビ記16:29-31)

●第七の月→太陰暦です。季節としては太陽暦の9月の終わりから10月の初めの頃です。

●苦痛を課して肉の欲を否定することです。食べ物や飲み物など体に必要なものを摂取しないだけでなく、体を清潔に保つことや楽しませたりすることも断つのです。

(メッセージの要旨)

*不純な動機を隠して信仰心を装(よそお)えばそれは偽善なのです。神様ではなく自分を褒(ほ)めたたえることは偶像礼拝に他ならないのです。「施し」、「祈り」、「断食」の規定を遵守(じゅんしゅ)することはユダヤ教の重要な教えです。イエス様は弟子たちにそれらの実践を命じられたのです。「神様の御心」に適(かな)った行いは信仰がもたらす豊かな果実なのです。ところが、心に潜(ひそ)む様々な欲が人間を誤らせるのです。偽善者たちはこの世の賞賛と引き換えに神様の信頼を損ねることも厭(いとわ)わないのです。本当に罪が深いのです。神様を欺(あざむ)くことは出来ないのです。イエス様はファリサイ派の人々に「あなたたちは人(人々)に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるもの-富、地位や権力、名声など-は、神には忌(い)み嫌われるものだ」と言われたのです(ルカ16:15)。「神様の御心」を実践する人々に人間の誉(ほま)れは無用なのです。神様が報(むく)いて下さるからです。賛辞を期待して人が集う会堂や街角で施さないのです。人に見られないように自分の部屋に入って祈るのです。人に気づかれないように顔を洗って断食するのです。キリストの信徒たちの使命は神様に栄光を帰すことにあるのです。これを肝(きも)に銘じるのです。偽善は死に至る病なのです。陥(おちい)らないように細心の注意を払うのです。最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を誠実に実行するのです。終わりの日に、イエス様がそれぞれの行いに応じて審判を下されるのです。

*神様は貧しい人々や虐げられた人々の窮状に心を砕かれたのです。モーセは神様のご命令とお約束-「三年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、あなたがたのうちに嗣業(しぎょう)の割り当てのないレビ人たちや、町の中にいる寄留者たち、孤児たち、寡婦たちがそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。そうすれば、あなたがたの行うすべての手の業について、あなたがたの神、主はあなたがたを祝福するであろう」(申命記14:28-29)-を民に伝えました。イスラエルの民はこの規定に則(のっと)って施しをしているのです。安息日には会堂で貧しい人々に施しが行われていました。これは「神様の御心」の具体化なのです。すでに施す側と施しを受ける側との間に上下の関係があるのです。金品の授受はその事実を一層明白にするのです。どれほど注意を払っても施しをする人々に優越感が生じるのです。施しを受ける人々には劣等感や屈辱感が植えつけられるのです。施し方によっては人間の尊厳を損なうことがあるのです。人間の罪深さに驚かされるのです。神様のご命令である施しをしても人間の方に誇る理由はないのです。なすべきことを行っただけなのです(ヨハネ13:14-15)。施しには人々を偽善と高慢に導く危険性が内包されているのです。善い行いがその人の「救い」を妨げることがあるのです。悪魔(サタン)は人間の最も弱い点を熟知しているのです。神様からキリストの信徒たちを引き離すために日夜奔走(ほんそう)しているのです。イエス様は対処方法を示されたのです。

*イエス様は祈りについてもキリストの信徒たちに注意を喚起しておられるのです。偽善者たちは個人的な祈りであっても、人に見てもらうために敢(あ)えて会堂や街角に立って祈るのです。見せかけの信仰心によって宗教的権威を強化し、人々を支配するために画策しているのです。神様に祈りを捧げるのではなく、名声や既得権益のためにその機会を利用しているのです。神殿においてもファリサイ派の人が心の中で「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通(かんつう)を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と祈ったのです。一方、徴税人は目を天に上げようともせず、胸を打ちながら「罪人のわたしを憐れんでください」と訴えたのです。神様は徴税人の祈りを聞き入れられたのです(ルカ18:9-14)。神様が求めておられるのは真実の祈りです。神様と対話するためには祈る側の誠実さが不可欠です。誰もいない部屋に閉じこもり謙虚に祈るのです。一方、イエス様は「主の祈り」を教えられたのです。そこに個人としての祈りは見られないのです。神様はすでに人々の願いをご存じだからです。「わたしたち・・」のようにすべて複数形が用いられているのです。信仰共同体として「神様と隣人」を愛するように命じられたのです。何よりも「神様の御名」が崇められることを願うのです。日々の糧が与えられるように祈るのです。相互に負債を免除するのです。「主の祈り」はキリストの信徒たちを導く道しるべなのです。

*悔い改めの真剣さを表しているのが断食です。神様は預言者ゼカリアを通して「国の民すべてに言いなさい。また祭司たちにも言いなさい。五月にも、七月にも/あなたたちは断食し、嘆き悲しんできた。こうして七十年にもなるが/果たして、真にわたしのために断食してきたか。あなたたちは食べるにしても飲むにしても、ただあなたたち自身のために食べたり飲んだりしてきただけではないか」と言われたのです(ゼカリア書7:5-6)。断食が悔い改めに相応しい内実を伴っていないのです。いつの間にか形骸化(けいがいか)しているのです。信仰心を誇るための手段にさえなっているのです。そのような断食は何の役にも立たないのです。神様が拒否されるからです。断食と訳されている元の言葉にはもっと深い意味があるのです。「自分を否定すること」なのです。言葉による悔い改めではなく肉体に苦痛を課すのです。食べ物や飲み物を断つこと、お風呂に入ること(水浴び)や肉体を喜ばせること、心の楽しみなどを避けることによって犯した罪を悔いているのです。名声などを求めることは断じて赦されないのです。イエス様はファリサイ派の人々や律法学者たちに「あなたがたは不幸だ(に天罰あれ)」と言われたのです(ルカ11:42-44)。キリストの信徒たちにも同様の警告をしておられるのです。断食によって人間の賞賛を得ようとすることは自己矛盾なのです。イエス様は使徒たちを厳しく叱責(しっせき)されたのです(マタイ18:1-9)。尊大な人は誰であっても「神の国」に招かれないのです。深刻に受け止めるのです。

*「施し」、「祈り」、「断食」はユダヤ教の中でも重要な信仰の証しなのです。イエス様の弟子たちもこれらの規定を実行したのです。ところが、知らない間に自分の名声が目的になっているのです。「主の祈り」における祈りの順序が想起されるのです。偽善は大きな罪です。偽りの信仰を積み重ねても「救い」の役には立たないのです。イエス様はファリサイ派の人々や律法学者たちに天罰を宣告されたのです。理由はこれらの人が神様を軽んじているからです。御心である「正義」、「慈悲」、「誠実」をないがしろにしているのです(マタイ23:23)。神様は「わたしが(父祖)アブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである」と言われたのです(創世記18:19)。正義を行う人々は祝福されるのです。神様は預言者ホセアを通して「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献(ささ)げ物ではない」と明言されたのです(ホセア書6:6)。すべての人が愛に満たされることを願われたのです。憐れみ深い人々は憐れみを受けるのです。悪魔はヨブをひどい皮膚病にかからせたのです。しかし、ヨブの信仰は決して揺らがなかったのです。「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と言ったのです(ヨブ記2:9―10)。神様はヨブを見捨てられなかったのです。その信仰を高く評価して報いられたのです。イエス様のご指示を心に刻んで歩むのです。

2026年06月07日

「三つの不信仰」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書1章40節から45節

さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで(怒りに満ち)、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし(祭司たちの下へ戻らせようとし)、厳しく注意して(怒りで鼻をならし)、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司(たち)に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい(祭司たちに証言しなさい)。」しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。

(注)

・新約聖書:原文はギリシャ語で書かれています。一つの単語が複数の意味を有している場合があるのです。どの意味を日本語に訳出するかについては翻訳(ほんやく)者の信仰理解によるところが大きいのです。時には原文の意味が全く変わるのです。

・重い皮膚病:レビ記13,14章をお読み下さい。様々な種類の皮膚病が記述されています。その中に「ハンセン病」も含まれているのです。祭司たちが皮膚病の有無・軽重について診断したのです。重い皮
膚病の人は周囲から目立つように衣服を裂き、髪をほどき、自分から「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわったのです。真に、非人間的な扱いを受けていたのです。

・ハンセン病:医学の知識が乏しい時代には強い感染性のある病気として考えられていました。罹患(りかん)した人は地域の共同体から隔離されたのです。現代では完治する病気であり回復者や治療中の人から感染する可能性は極めて低いことが確認されています。日本においては法律によって隔離政策が続けられて来ました。このため、患者は長い間差別と偏見に晒(さら)されたのです。近年ようやく政府が責任を認めて施設の入所者たち(患者団体)に謝罪し、新たな法律を作って補償することになったのです。

●全国13の国立療養所の入所者数がこの十年で半減し、5月1日現在1001人(平均年齢87.0歳)となっています。医療・介護水準の維持や、将来のあり方が課題となっているのです。ただ、コロナ禍で地域医療の拠点として再整備するなどの将来構想の実現に向けた議論は停滞しているとのことです。-2021年5月17日読売新聞オンラインから-

・祭司:律法学者たちやファリサイ派の人々と共に神殿政治の中枢を担(にな)う特権階級の一員でした。祭司職の家系に生まれたユダヤ人歴史家ヨセフスは著書の中で自分の家族がエルサレムの郊外に土地を持っていたこと、他の祭司たちが財産を蓄積している実態に言及しています(ヨセフスの生涯、63)。一般の人々より遥かに贅沢(ぜいたく)な暮らしをしていたのです。イエス様は一時的ですが神殿境内における商業活動を実力行使によって阻止されたのです。商売人たちと共にエルサレム神殿を「強盗の巣」にしている祭司たちを激しく非難されたのです(マルコ11:15-19)。既得権益と富に執着する指導者たちはイエス様を殺すために画策したのです。

・イエス様の癒しの業に与(あずか)っても、その後共に歩む人は少ないのです。

■イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った(癒した)。(ルカ17:11-19)

(メッセージの要旨)

*登場人物はイエス様と重い皮膚病を患った人の二人のように見えるのです。重要な人々が背後に存在しているのです。それが祭司たちです。物語はイエス様が重い皮膚病を患っている人を癒された出来事で完結しないのです。不誠実な祭司たちへの激しい非難となっているのです。重い皮膚病を患っている人は祭司たちが職務を果たさないことに絶望したのです。イエス様に最後の望みを託して状況を訴えたのです。多くの人は重い皮膚病を患っている人が直ちに癒された出来事に注目するのです。イエス様は病気の苦しみに加えて差別され、人格を否定されて生きている人の悩みや苦しみに共感されただけではないのです。律法の規定に従って「安全と安心」、「希望と将来」を与えるべき祭司たちが人々を追い詰めている現実に憤(いきどお)っておられるのです。癒した人に「祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、祭司たちに抗議しなさい」と命じられたのです。この意味は真に深いのです。清くなった体を祭司に見せ、生きている清い鳥二羽と杉の枝、緋糸、ヒソプの枝を捧げることは祭司たちの怠慢と腐敗への無言の告発になっているのです(レビ記14:4)。イエス様は「行って、示して、捧げなさい」のように行動を求められたのです。この人は実行しなかっただけではなく、イエス様を窮地に追い込むことになったのです。既得権益に執着する祭司たちが敵対しているのです。癒しの業が「救い」に結びついていないのです。日本語訳が「イエス様の実像」を歪(ゆが)めているのです。「神の国」の福音が妨げられているのです。

*重い皮膚病は必ずしも「ハンセン病」ではないのです。厳密に言えば「ハンセン病」を含む多くの皮膚病の一つです。重い皮膚病と診断されるとその人は他の人々との交際を禁じられたのです。(信仰)共同体の外で生活することを余儀なくされるのです。症状が与える恐怖と嫌悪感から、病気は罹患した人が犯した罪に対する「神様の罰」として考えられたのです。重い皮膚病の人はすでに祭司たちの所へ行って症状を診断してくれるように願い出ているのです。ところが、祭司たちは幾つかの理由-重い皮膚病の人の窮状への無関心、危険な職務に相応しい追加の報酬(わいろ)を期待出来ないことなど‐によって誠実に対応しなかったのです。イエス様はこの種の病気に深い理解を示しておられます。重い皮膚病の人シモンの家で弟子たちと共に食事をされたのです(マルコ14:3-9)。「神様の御心」を実現されたのです。「愛の観点」から律法では許されないことを行われたのです。イエス様の評判は各地に広まっていたのです。重い皮膚病の人はイエス様の特別な力(癒しの業)に期待したのです。イエス様はこの人の願いを聞くと直ちに行動されたのです。患部に手を触れて癒されたのです。「祭司たちに見せて、モーセの定めを実行しなさい」と言われたのです。祭司たちの怠慢を批判されているのです。本人が祭司たちの所に戻れば無言の抗議になるのです。ところが、祭司たちには体を見せなかったのです。必要性がなくなったからです。一方、自分に起こった「癒しの業」を大々的に宣伝したのです。癒された人の不信仰と非礼が際立つのです。

*重い皮膚病かどうかについて判断するのは祭司たちです。重い皮膚病に関する認定と取り消しの手続きが旧約聖書のレビ記13,14章に詳細に記述されています。数ある皮膚病の中で重い皮膚病と認定されればその人の将来は悲惨なものになるのです。祭司たちに委(ゆだ)ねられた権限は人々の運命を決定づけるに等しいのです。重い皮膚病の人がイエス様に「御心ならば(ご意思があれば)、わたしを清くすることがおできになります」と言っています。祭司たちがこの人の診断に関与しなかったのです。イエス様は祭司たちが職務を果たさなかったことを知って怒りを表されたのです。「神様の御心」に沿って癒しの業を即座に実行されたのです。イエス様は癒した人に二つのことを指示されたのです。第一は、誰かに事実を話して迫害されないように気を付けることでした。ところが、癒された人はイエス様のご指示に従わなかったのです。律法によれば重い皮膚病の人に触れた人は汚れているのです。イエス様は祭司たちに代わって職務を遂行されたのです。律法違反は明確です。祭司たちの反発は必至なのです。重い皮膚病を患った人々と同様にイエス様は村に入ることが出来なくなったのです。第二は律法に基づいて行動することです。しかし、この人は祭司たちと再び関わることを避けるのです。同じ状況にある人々のために癒された者が果たすべき役割を担わないのです。イエス様にひざまずいて癒しを願い出ているのです。しかし、癒された後は態度が一変するのです。サマリア人のようにイエス様の前にひれ伏して感謝することはなかったのです。

*多くの人にとってキリスト信仰は日本語訳を通して理解されるのです。聖書の翻訳が原文の意味を正確に表現していなければ読む人に誤解を与えることになるのです。今日の聖書の個所には翻訳上の問題点があるのです。翻訳者たちが自分の信仰理解や政治信条によって原文にある言葉や句を別の言葉に置き換えているからです。「深く憐れんで」はイエス様が祭司たちに怒っておられることを避ける言葉遣いになっているのです。「怒りを覚えて」と訳されるべきなのです。イエス様は食べたり飲んだりされる血と肉からなる社会的な存在なのです。キリストの信徒たちの中には「人間イエス様」に戸惑う方がおられるのです。マルコは「イエス様の実像」をありのままに記述しているのです。怒れるイエス様(マルコ3:5)、憤られるイエス様(マルコ10:14)として表現しているのです。「厳しく注意して」の原文の意味は馬が鼻息を鳴らすことです。人間の行為や感情に適用すると「怒りで鼻を鳴らして」になるのです。和らげて訳されているのです。イエス様は激しく怒っておられるのです。さらに、原文にはない言葉-人々に-が挿入されているのです。「祭司たちに証明しなさい」が「人々に証明しなさい」へと変更されているのです。イエス様の怒りが祭司たちに向かないように意図的に工夫しているのです。文章に整合性がなくなっただけでなく、イエス様の真意を歪(ゆが)めることになっているのです。イエス様は一貫して貧しい人々、虐げられた人々の側に立たれたのです。「イエス様の実像」を変容することは罪なのです。心に刻むのです。

*イエス様は癒しの業を行われただけではないのです。御業を通して重い皮膚病を患っている人々を苦しめている制度の不備や祭司たちの不信仰に憤っておられるのです。「イエス様の怒り」は個人的な感情から生じたものではないのです。祭司たちは重い皮膚病の人が自分の所に来ることを疎(うとん)んじるのです。イエス様はご自分の方からこれらの人に近づかれたのです。祭司たちから「汚れている」と宣告されることを承知の上で、しかも(信仰)共同体から追放される危険を冒(おか)して、その人に触れられたのです。レビ記13章に重い皮膚病の人を主に衛生上の理由から(信仰)共同体の外に強制的に住まわせることが定められています。ただ、これらの人を劣った人間として扱うべきであるとか、援助を提供してはならないというような規定はどこにもないのです。ところが、重い皮膚病に罹患していると診断された人は(信仰)共同体から隔離され、社会的地位をはく奪され、差別され、粗野に扱われているのです。一方、レビ記14章には重い皮膚病の人が(信仰)共同体に戻れる規定もあるのです。祭司たちの診断によって「汚れていないこと」が分かれば社会復帰することが出来るのです。神様によって任命された祭司たちが職務を遂行していないのです。地位と権威を悪用して富を増やしているのです。イエス様は断じて「穏やかなお方」ではないのです。「神様の子供たち」を苦しめている祭司たちに怒っておられるのです。翻訳者には「イエス様の実像」を伝える責務があるのです。何より癒した人が悔い改めることを待っておられるのです。

2026年05月31日

「永遠の命に与る条件」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書10章25節から37節

すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

(注)


・律法学者:モーセの律法を教える教師のことです。


・レビ人:祭司職を司(つかさど)るレビ族出身の神殿役人です。レビ人と祭司は半死の人に触れて汚れることを恐れていたのかも知れません。民数記19:10-13を参照して下さい。


・イエスを試す:イエス様が教師として実力を備えているかどうかについて判断することです。


・自分を正当化しようとして:自分の律法解釈-「隣人」とは律法を厳格に守っている人々のこと-を主張するために


・エリコ:エルサレムとエリコの高度差は約1000メートルあります。険しい道を下ってエリコに向かいます。途中には洞窟が多くあり、追いはぎが隠れていました。


・サマリア人:ソロモン王の死後、紀元前922年頃にイスラエルは南北に分裂したのです。北王国はイスラエルと呼ばれました。首都はシケムのちにサマリア)です。祖先はこの国に遡(さかのぼ)るのです。一方、南王国はダビデの系譜を受け継ぐユダ王国(首都はエルサレム)です。紀元前721年アッシリアがサマリアを支配下に置きました。サマリアでは混血が進み、ユダヤ教とは異なる独自の信仰が形成されたのです。混血を繰り返してきたサマリア人はユダヤ人でも異邦人でもなかったのです。ユダヤ人はサマリア人を敵視し、交際もしなかったのです(ヨハネ4:9)。


・デナリオン銀貨:1デナリオンは当時の平均的労働者の一日分の賃金に相当します。

 

(メッセージの要旨)


*キリスト信仰は当時の時代背景の中に位置づけて理解される必要があるのです。ガリラヤ、サマリア、ユダヤはローマの支配下にありました。民衆は圧政に苦しみ、日々の生活にも窮(きゅう)していたのです。こうした事情を反映していたこともあり、エルサレムからエリコへ下る街道に追いはぎが頻繁(ひんぱん)に出没していました。一方、律法学者たちのような社会の上層部に属する人々はローマ皇帝に恭順して「信仰の自由」を確保したのです。人々にユダヤ教の律法と慣習を厳格に守るように教えていたのです。しかし、貧しい人々は安息日にも働いたのです。献金をする余裕もなかったのです。律法学者は愛の教えと力ある業によって「神の国」-神様の支配-の到来を証ししておられるイエス様の実力を試そうとしているのです。公の場で律法主義の正しさ-律法を厳格に守って「永遠の命」に与ること-を再確認させるために「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と質問したのです。イエス様が旧約聖書を土台として「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、律法学者は「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と答えたのです。イエス様は「それを実行しなさい」と命じられたのです。キリスト信仰とは「信じること」ではなく、最も重要な戒めを「実践すること」なのです。「永遠の命」は信仰のみによって与(あずか)れない高価な恵みなのです。お言葉を肝に銘じるのです。

*当初、イエス様と律法学者との質疑応答を通して両者の信仰理解における相違は際立たなかったのです。ところが、律法主義に固執(こしつ)する律法学者は自分の優位性を証明するために「では、わたしの隣人とは誰ですか」と再度質問したのです。イエス様の「隣人の定義」に疑問を呈(てい)しているのです。預言者イザヤは「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人(人々)に福音を告げ知らせるために、/・・主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人(人々)に解放を、/目の見えない人(人々)に視力の回復を告げ、/圧迫されている人(人々)を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」と言うのです。イエス様はこの言葉を引用してご自分の使命を宣言されたのです(ルカ4:18-19)。貧しい人々、虐げられた人々、心や体に障害のある人々、徴税人たちや罪を犯した人々-この世で排斥されている人々(隣人)-を救うために地上に来られたのです。律法学者にとってこれらの人は律法を守らない罪人であり、「隣人」ではないのです。イエス様は律法主義を正すためにサマリア人の「善い行い」を例に挙げられたのです。律法学者には意外だったのです。ユダヤ人とサマリア人との対立が続いており、ユダヤ人はサマリア人を蔑(さげす)み、すべての関係を断絶しているからです。しかし「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になるのです」(マルコ10:31)。サマリア人が「神様の御心」を実行して「永遠の命」に与り、ユダヤ人の祭司、レビ人、律法学者たちの信仰のあり方が問われているのです。

*聖書の個所は抜粋(ばっすい)されて「善いサマリア人」の物語として紹介されることが多いのです。しかし、全体の文脈からすれば「永遠の命」がメインテーマになっているのです。「永遠の命」は「信じること」によって得られないのです。「神様と隣人への愛」を実践しなければ「救い」に与れないのです。ヤコブは「善い行い」が人々の「救い」に及ぼす影響について言及しています。「・・あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて『あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座(すわ)るかしていなさい」と言うなら、それは罪を犯したことになるのです」と明言しているのです。この世で許されている「行い」であっても「神様の正義と愛の戒め」に反していれば罪として認定されるのです。さらに「主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはならないのです、神様は世の貧しい人々をあえて選んで信仰に富ませ、御自身を愛する者(たち)に約束された国を、受け継ぐ者(たち)とされたのです」と言うのです。ヤコブは「救いの基準」を明確にするのです。旧約聖書から具体例を取り上げています。神様の指示に従ってアブラハムは息子イサクを献(ささ)げたのです。娼婦(しょうふ)ラハブは神様の使いの者たちを追っ手から逃がしたのです。神様は二人を「義」とされたのです(ヤコブ書2)。信仰には「善い行い」が不可欠なのです。

*律法学者はこれまでの「隣人」あるいは「罪人」の定義に拘(こだわ)っているのです。イエス様は「愛の観点」からそれらを再定義されたのです。民族、階層、性別、信条、宗教に関わりなく困難を覚える人々を「隣人」とされたのです。これらの人を愛するように命じられたのです(マタイ5:43-48)。ユダヤ人たちがエルサレムで礼拝するように、サマリア人たちはゲリジム山で 独自に礼拝をしているのです(ヨハネ4:20)。「善いサマリア人」も自分たちの信仰に基づいて「神様の御心」を実践しているのです。イエス様は律法学者たちやファリサイ派の人々に「・・あなたたち偽善者は不幸だ(に災いあれ)。・・律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。・・」と言って、彼らの不信仰と腐敗を厳しく非難されたのです(マタイ23:23)。指導者たちは人々に律法を教えしているのですが自分たちはそれを実行しないのです。軽蔑(けいべつ)しているサマリア人たちがこれらの人よりも「神様の御心」に適(かな)っているのです。「善いサマリア人」は見知らぬ人のために自分の時間とお金を使い、必要な傷の手当をしたのです。困っている人の「選別」も行わなかったのです。礼拝に出席していることや献金の多寡(たか)が「救い」を保証する訳ではないのです。イエス様はご自身の権威に基づいて最後の審判に臨(のぞ)まれるのです。「あなたがたは飢(う)えている人々に食べさせたか。・・」と質問して、その人の「救い」を判断されるのです(マタイ25:31-46)。

*「善いサマリア人」の話を社会的背景や文脈から切り離して「隣人愛の勧め」としてのみ理解するとすれば全体像を見誤ることになるのです。物語の核心は「永遠の命」に与るための条件なのです。律法(戒め)を熟知していることや教義を教えていることが「救い」の保証にはならないのです。「永遠の命」は安価な恵みではないのです。「最も重要な二つの戒め」を実践しているかどうかが決定的に重要となるのです。物語は知的信仰によって「救い」を確信している人々への警鐘(けいしょう)となっているのです。律法学者に悔い改めが求められているのです。ヤコブ書2章に「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです」と記述されています。「霊と真(まこと)」を持って礼拝するのです。イエス様の教えと生き方から学ぶのです。それらを実践するのです。キリスト信仰が誤解されているのです。断じて「行い」を求める信仰なのです。国の内外に助けを必要とする「隣人」が多数いるのです。自分の歩みが知的信仰に陥(おち)っていないかどうかを内省するのです。人々の窮状を傍観しているような信仰は死んでいるのです。キリスト信仰は厳しい信仰なのです。

2026年05月24日

「悪魔の誘惑」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書4章1節から13節


さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され(導かれ)、(そこで)四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ(命じなさい)。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』(申命記8:3)と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/(申命記6:13)と書いてある。」そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ(降りなさい)。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』また、/『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』(詩篇91:11-12)」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』(申命記6:10)と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。


(注)


・四十日間:象徴的な日数です。「モーセは主と共に四十日四十夜、そこにとどまった。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、十の戒めからなる契約の言葉を板に書き記した」を想起させるのです(出エジプト記34:28)。申命記9:9,18を併せてお読み下さい。預言者エリヤはイゼベルの追っ手から逃れるために四十日四十夜を歩き続けたのです(列王記上19:1-8)。


・悪魔:元々は天使でした。しかし、天上の戦いに敗れて地上に投げ落とされたのです。「蛇」、「竜」、「サタン」と呼ばれています。神様は悪魔に一定期間この世で活動することをお許しになられました。神様が造られた野の生き物のうちで最も賢いのは蛇でした。エバを巧みに誘惑したのです(創世記3:1-19)。神様は「ヨブの信仰心」についてサタンと話をされたのです(ヨブ記1:1-12)。


・ヨハネの黙示録:聖書は創世記から始まり、この書で終わるのです。


■わたしはまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖とを手にして、天から降って来るのを見た。この天使は、悪魔でも(であり)サタンでもある、年を経た(古代の)あの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。その後で、竜はしばらくの間、解放されるはずである。・・・この千年が終わると、サタンはその牢から解放され、地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都(エルサレム)とを囲んだ。すると、天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣(反キリストの専制君主)と偽預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。(黙示録20:1-3,7-10)


●サタン:さて、天で戦いが起こった。ミカエル(大天使)とその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。この巨大な竜、年を経た(古代の)蛇、悪魔とかサタンと呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。・・・今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。神のメシアの権威が現れた。我々の兄弟たちを告発する者(サタン)、昼も夜も我々の神の前で彼らを告発する者が投げ落とされたからである.(黙示録12:7-10)。

●ゴグとマゴグ:イスラエルに敵対する北の王ゴグと彼が支配する国マゴグのことです。エゼキエル書38-39に登場します。

●火と硫黄の池:神様の罰を表しています。ソドムとゴモラが典型的な例です(創世記19:24)


・時が来るまで:悪魔が12使徒の一人ユダを誘惑したことを指しています。


■しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。(ルカ22:3-6)


・イエス様は「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」と言われました(ルカ10:17-20)。

・サムソン、ダビデ、ソロモンの罪:それぞれ、士師記13-14章,サムエル記下11-12章、列王記上10-11章をお読み下さい。

(メッセージの要旨)


*神様はサタンが「ヨブの信仰心」を試すことを許されたのです。今、イエス様に同じことをしているのです。いずれにおいても悪魔の策略は失敗に終わったのです。イエス様はバプティスマのヨハネから洗礼を受けられた時「聖霊様」がご自身に降るのをご覧になられたのです。神様の「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適(かな)う者」というお声も聞かれたのです(マルコ1:10-11)。悪魔の誘惑はガリラヤで開始されるイエス様の宣教を阻止するかのように直前に行われたのです。イエス様が「神の子」であることを知っているからです。イエス様にとって悪魔との闘いはご自身が「神の子」としての地位を証明する試練の場となったのです。悪魔は「神の子」としての権威を失墜(しっつい)させようとしているのです。自分の支配下に置こうとしているのです。悪魔の試みは使徒たちにも及ぶのです。サタンはペトロの口を通してイエス様の苦しみと復活を否定したのです(マタイ16:21-27)。イスカリオテのユダに入って裏切らせたのです(ルカ22:1-6)。イエス様の逮捕と処刑に加担したのです。イエス様は弟子たちが様々な誘惑に遭遇することをご存じなのです。ペトロに「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われたのです(ルカ22:31-32)。誘惑に負けることが誰にもあるのです。信仰を取り戻して再び前進するのです。


*イエス様にサタンの誘惑が三度ありました。最初は「力ある業」によって空腹を満たすというものでした。イエス様はパンが命の糧であることをご存じです。その上で、信仰の「あり方」に言及されたのです。神様は必要なものを必ず備えて下さるのです(マタイ6:32)。思い悩むことはないのです。石をパンに変えることは神様への不信仰なのです。肉体は命を得たとしても魂が死んでいるからです。イエス様は信仰の原点に言及されたのです。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」のです。悪魔は世界のすべての国々を見せて「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。・・もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」と誘惑したのです。悪魔の提案は功を奏さなかったのです。イエス様は神様が天と地を支配されていることを知っておられたからです。神様の権威を軽んじるすべての試みが拒否されたのです。悪魔は人間を誘惑することに長(た)けているのです。「神様の許可」を得ているとか「神様の御心」を代弁しているかのように装うのです。蛇(悪魔)は人間の欲望を掻(か)き立てるのです。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と言って、神様への信頼に生きるエバを揺(ゆ)さぶったのです(創世記3:1-5)。結局、アダムと共に善悪を知る木の実を食べたのです。二人は楽園から追放されたのです。大きな代償を払うことになったのです。イエス様は悪魔の試みに旧約聖書を引用して的確に反論されたのです。悪魔と有効に闘う方法を示されたのです。


*悪魔は人間の弱点を熟知しているのです。人間の耳に心地よい言葉を真実であるかのように語るのです。信仰心をくすぐって油断させ、滅びへの道を選ばせるのです。悪魔の誘惑に負けた人はエバやアダムだけではないのです。神様に祝福された指導者たち-士師サムソン、ダビデ王、ソロモン王-も同じ轍(てつ)を踏むのです。いずれの人物も「肉の欲」に心を奪われたのです。「神様の御心」に適(かな)った人々でも長い信仰生活において様々な過ちを犯すのです。ただ、神様はこれらの人を滅ぼされることはなかったのです。悔い改めの機会を与えられたのです。旧約聖書は神様の呼びかけと人間との応答の歴史をありのままに伝えているのです。罪を犯した人々の信仰の変遷(へんせん)から学ぶことは多いのです。イエス様は逮捕される直前にペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴ってゲツセマネに行かれたのです。神様に悲痛な祈りを捧げておられたのですが、弟子たちは眠っていたのです。イエス様は「誘惑に陥(おちい)らぬよう(試練に負けないよう)に、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」と言われたのです(マルコ14:37-38)。お言葉は的(まと)を射(い)ているのです。心が神様に向いていなければ肉体を悪魔の誘惑から守れないのです。「神様の助け」がなければ闘いに勝てないのです。自分の弱さや欠点を自覚している人々は悪魔の誘惑に備えるのです。信仰心を誇っている人々はイエス様の警告に耳を傾けないのです。無防備な人々が優先的に狙(ねら)われているのです。謙虚になって信仰を振り返るのです。


*悪魔はイエス様をエルサレムへ連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、旧約聖書の詩編の一節を引用して「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」と言って、地位をみだりに誇示させようとするのです。そのようなことは無意味であり、「神様の戒め」(十戒)にも反しているのです(出エジプト記20:7)。悪魔は天使の一人であったことを忘れてはならないのです。神様のことを良く知っているのです。旧約聖書にも精通しているのです。人間よりも賢く、狡猾(こうかつ)なのです。イエス様は申命記、詩編を引用して反論されたのです。「神の子」イエス様と天使であった悪魔との激しい闘いが繰り広げられているのです。悪魔はあらゆる誘惑を試みましたが何の効果もなかったのです。イエス様が徹底して神様に服従されたからです。イエス様は悪魔との闘いを終えられた後、辺境の地ガリラヤへ向かわれたのです。そこで「時は満ち、神の国(天の国)は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って、宣教を開始されたのです(マルコ1:14-15)。誘惑を経験されたイエス様は悪魔の手法をご存じなのです。悪魔と闘っている人々が助けを求めれば支えて下さるのです。悪魔の罠に陥(おちい)り、罪の中に喘(あえ)ぐ人々を決して見捨てられないのです。キリストの信徒として再び歩む機会が与えられるのです。この世に生きている限り悪魔の誘惑は避けられないのです。イエス様は「何よりもまず、神の国(神様の支配)と神の義(神様の正義)を求めなさい」と命じられたのです(マタイ6:33)。優先順位を心に刻んで歩むのです。


*悪魔はあらゆる策を弄(ろう)して、福音-神の国(天の国)の到来-がすべての人に届けられることを妨げているのです。悪魔は先ずイエス様を誘惑したのです。しかし、その試みは完全に失敗したのです。イエス様が旧約聖書にある「神様のお言葉」に堅く立って誘惑を退けられたからです。そこで、キリストの信徒たちに手を伸ばすのです。使徒のペトロでさえ一時的に悪魔に支配されたのです。イスカリオテのユダは悪魔に導かれてイエス様を裏切ったのです。悪魔の常とう手段は御言葉を切り取ることです。「神様の御心」を人々に誤解させるのです。イエス様は模範を示されたのです。「教え」に耳を傾けるのです。「生き方」に倣(なら)うのです。神様と富との両方に仕えることは出来ないのです(マタイ6:24)。金持ちが「神の国」に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しいのです(ルカ18:25)。子供のように「神の国」を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることは出来ないのです(マルコ10:15)、最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実行しなければ「永遠の命」に与れないのです(マタイ25:41-46)。イエス様につながっていない人がいれば、枝のように集められ火に投げ入れられて焼かれてしまうのです(ヨハネ14:6)。これらはイエス様のお言葉です。悪魔は「本当にそのように厳しく言われたのか」とキリストの信徒たちに同情するのです。しかし、滅びに通じる門は広くその道も広々としているのです(マタイ7:13-14)。安価な恵みはないのです。誘惑と真剣に闘うのです。

2026年05月17日

「パウロの信仰と誤解」

Bible Reading (聖書の個所)ローマの信徒への手紙8章18節から39節

現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの(姿で)現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服して(支配されて)いますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた(支配を容認された)方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖(あがな)われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。

では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難(かんなん)か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠(ほふ)られる羊のように見られている」(詩篇44:23)と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使(たち)も、支配するもの(支配者たち)も、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

(注)

・ローマの信徒への手紙:

●パウロの手紙の多くは自分が建てた教会宛(あて)に書かれています。この書は自分が関与しなかった教会宛の手紙です。プロテスタントの教会はキリスト信仰の根本理念をこの書に置いたのです。パウロはイエス・キリストの再臨が近いと考えていました。しかも、神学や教義を体系的に語っているのではないのです。福音書が伝えるイエス様のお言葉と比較すると抽象的な内容になっているのです。


・現在の苦しみ:ローマの圧政のことです。パウロの言葉には具体的事実に対する共感が見られないのです。

■そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(ローマ書5:3-5)

・虚無:例えば「愚かな行為」のことです。創世記3:17-19をご一読下さい。

・天使:地上の権力者と対比した天上の権力者を意味しています。

・力あるもの:超自然的な存在を指しています。

・義:パウロは神様と個人との正しい関係のこととして解釈しています。一方、イエス様はご自身に洗礼を授けることに躊躇(ちゅうちょ)する洗礼者ヨハネに「わたしたちにとって、あらゆる正義を実現することは正しいことである」と表明されたのです(マタイ3:15)。「義」と訳されている言葉には特に注意が必要です。元の言葉には「正義」という意味があるからです。イエス様の「山上の説教」(マタイ6:33)において「義」と訳されている言葉は「正義」と訳すべきなのです。

・スエトニウス:古代ローマの歴史家です。「クラウディウスの生涯」を著(あらわ)しています。

・クラウディウス:第4代ローマ皇帝、在位は西暦41年から54年です。「キリストの名」によって騒動が起きていることに怒ってユダヤ人たちをローマから追放したのです。

・コリント:現在のギリシャの都市です。当時、経済的に発展した大都市でした。文化的、民族的、宗教的に多様な人々が住んでいました。

・神の国(天の国):旧・新約聖書を貫く信仰の基本理念です。誤解されているような死後に行く「天国」のことではないのです。

●神様の全き支配のことです。神様が人間の心と社会の隅々にまで真に神様として崇められ、あらゆる価値の基準とされること、それを通して正義と平和の秩序が実現されることです。旧約聖書は「神の国」の到来を待ち望むイスラエルの信仰を書き記したものです。神様は自分たちをエジプト人の支配から救い出し、砂漠を経て約束の地へ導かれたのです。ご自分に頼る者を決して見捨てられないのです。どのような地上の力にも勝っておられるのです。信頼するに値するお方なのです。イスラエルは異国の支配下で弾圧され、分断され、捕囚の地に連れていかれたのです。その時も、神様は常に自分たちと共におられ、民の身の上を思い,心を痛められたのです。イスラエルはこの神様がいつの日か、必ず自分たちを解放して下さることを信じたのです。イエス様はこの「神の国」の到来を福音(良い知らせ)として宣教されたのです。

・イエス様の「神の国」: 生と死を通して、復活された後も「神の国」について語られたのです。

■心の貧しい(圧政に苦しみ、心が打ち砕かれた)人々は、幸いである、/天の国(神の国)はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。義(正義)に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。義(正義)のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。(マタイ5:3-10)


●ルカ6:20-26を併せてお読み下さい。

・パウロの「神の国」: 言及は少ないのです。その中の一つです。

■正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。(Ⅰコリント書6:9-10)

●「啓示による信仰」を基本としているのです。神様は来るべき出来事(イエス様の再臨-最後の審判)によって助けて下さるのです。瞬時にこの世を「新しい世界」へと造り変えられるのです。キリストの信徒たちは何もする必要がないのです。ただ待つだけなのです。パウロは自分の存命中に再臨が起こると考えていました。それ故に、人々の苦悩の原因や社会の不正を取り除くことに関心がなかったのです。

(メッセージの要旨)

*パウロは「啓示による信仰」に基づいてイエス様の再臨が自分の存命中に起こると確信していました。歴史家スエトニウスは西暦49年に皇帝クラウディウスが「キリストの名」に関する様々な騒動の故にローマからユダヤ人たちを追放したことを記録しています。ローマの信徒たちは何らかの迫害を受けているのです。事実、パウロはコリントでローマから逃れて来たユダヤ人クリスチャンのアキラとプリスキラ夫妻に会っているのです(使徒18:1-3)。ところが、パウロは彼らの苦しみへの対応策に言及することなく、「現在の苦しみは神様から与えられる栄光に比べると取るに足りない」と結論付けているのです。キリストの信徒たちに全被造物と共に神様が完成して下さる「救いの業」をひたすら忍耐して待ちなさいと言うのです(Ⅰテサロニケ書5:1-11)。奴隷である信徒たちが社会的地位の変更を求めている時でさえ、奴隷としての身分に留まることを勧めているのです(Ⅰコリント書7:20-24)。パウロにとって社会の変革は人間の努力ではなく神様の直接介入によって起こるのです。再臨による「新しい世界」の到来が差し迫っているからです。パウロはイエス様が宣教された「神の国」の意味を誤解しているのです。イエス様は貧しい人々や虐げられた人々の側に立たれたのです。心身に障害のある人々の重荷を共に担われたのです。「神の国」の福音は人間の「全的な救い(解放)」として実現するのです(ルカ4:18-19)。パウロはイエス様の教えや力ある業に接したことがないのです。信仰理解も直感的、抽象的なのです。

*パウロは使徒たちのようにイエス様と寝食を共にしていないのです。困難な宣教活動にも従事していないのです。それにもかかわらず、イエス様の重要なメッセージ-「神の国」の福音-の解説者として用いられているのです。しかし、パウロの「神の国」の理解はイエス様のそれとは明らかに異なっているのです。パウロによって設立された各地の教会は「啓示による信仰」に堅く立って「主の再臨」を待っているのです。ローマの教会にも「イエス・キリストの再臨」の希望の内に生きるように勧めたのです。ところが、それはパウロの存命中に起らなかったのです。パウロの宣教活動はイエス様が処刑された年のおよそ十年後に始まりました。福音書が詳述しているように、イエス様の関心事は貧しい人々や病人たちの窮状にあったのです、パウロの中心テーマは「罪人」あるいは「罪からの救い」なのです。イエス様が生と死と復活を通して証しされた「神の国」の福音-神様による抑圧された社会・経済・政治からの解放を含む人間の「全的な救い」-を「個人的な救い」に縮小して理解したのです(Ⅰコリント書6:9-10)。「神の国」の到来を現在のことではなく近い将来における「霊的な救い」として捉えているのです。パウロの「啓示による信仰」はイエス様によって具体化された「神の国」の意味を誤解しているのです。また、御子の権威に属する「救いの判断」(ヨハネ5:21-22)に踏み込んで「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」と言っているのです(Ⅰコリント15:50)。

*「啓示による信仰」には地上における「苦難からの解放」という概念は見られないのです。現在の試練に耐えて与えられる「神様の栄光」-天国に入ること-が信徒たちの最大の関心事(希望)になっているからです。パウロの手紙には地上における正義と解放を約束した「神の国」の福音が取り上げられていないのです。キリスト信仰を正確に理解するためには「イエス様の実像」-信仰の原点-に戻ることが不可欠です。イエス様は人々の現実の問題に深く関与されたのです。「主の祈り」を例に挙げることが出来るのです。「御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と祈るように指示されたのです(マタイ6:10)。この世には「神様の御心」に反した不正が横行しているのです。「神の国」に属する人々が自分の「救い」のみに関心を寄せているのです。過去を悔い改めて「わたしたちの罪を赦して下さい。わたしたちも自分に負い目(負債)のある人(人々)を皆赦しますから」と祈るのです(ルカ11:4)。悪名高い経済システム(高利貸し制度など)によって貧しい人々に法外な利子を課すことをしないのです。同じような観点から、イエス様はぶどう園で働く労働者たちと尊大な雇い主のたとえ話をしておられます。「神の国」においては労使の関係が逆転するか対等になるのです(マタイ20:1-16)。「救い」は安価な恵みではないのです。キリストの信徒たちには使命があるのです。最も重要な戒めを実践するのです(マルコ12:31)。「神様と隣人」を愛した人々だけが「永遠の命」に与るのです。

*イエス様が貧しい人々や虐げられた人々を苦しめている社会・経済・政治の矛盾(むじゅん)に関わられた事実こそ「神の国」の福音なのです。パウロの信仰理解にはイエス様が「救い」における判断基準とされた抑圧と搾取の犠牲者たち‐最も小さい人々(マタイ25:45)-に対する実践への責務が欠落しているのです。「神の国」が死後に行く「天国」のように考えられているのです。「神の国」の到来とはイエス様を通して「新しい天地創造」が開始されたことです。天上と地上の支配者である神様がご自身の主権を取り戻されることなのです。イエス様は尋問の席でローマの総督ポンティオ・ピラトに「わたしの国は、この世に属していない」と言われたのです(ヨハネ18:36)。真の支配者は神様であって、皇帝に代表されるこの世の権力者たちではないことを公然と宣言されたのです。以前、ある方がインターネット上に「キリスト教は『イエス・キリスト』を信じているのではないのですか。教会のメッセージにパウロの言葉の引用が多すぎます。まるで『パウロ教』のようです」という意見を述べておられました。真に的を射ているのです。これはパウロ自身が懸念(けねん)を表明していることでもあるのです。コリントの教会に「わたしはパウロ、ある人はアポロ、別の人はケファ(ペトロ)につく」のように信徒間に争いがありました。「十字架につけられたキリストから目を逸(そ)らさないように」と警告したのです(Ⅰコリント書1:10-17)。「パウロの手紙」を正しく引用するのです。宣教するべきは「イエス様」なのです。

*「啓示による信仰」は神様が直接介入して完成される「新しい世界」に関心を寄せるのです。キリストの信徒たちは社会における矛盾の解消や正義の実現に取り組む必要がないのです。神様が実現して下さることを待つだけなのです。最も重要な戒めー神様と隣人を愛することーから目を逸(そ)らせているのです。パウロの手紙には奴隷制度や男尊女卑の容認(Ⅰコリント書14:34-35)、支配者への無批判的従順(ローマ書13;1-7)など福音の真理に反する信仰理解が見られるのです。パウロは「啓示による信仰」によって差し迫った神様の介入を確信したのですが、一方ではイエス様が証しされた「神の国」の到来の意味-社会・経済・政治の福音化-の重要性を見落としているのです。教会の多くがキリスト信仰を「パウロの神学」によって語っているのです。「神様の正義」を無視する抑圧者たちの「罪」に無関心になっているのです。結果として、貧しい人々を苦しめ、搾取(さくしゅ)する社会・経済・政治の固定化に加担しているのです。パウロがイエス様を超えることはないのです。「福音の真理」は正しく伝えられなければならないのです。「罪からの救い」に限定してはならないのです。世界では政治的抑圧、経済的搾取、侵略戦争、民族差別や性差別によって人々が苦しんでいるのです。キリストの信徒たちはイエス様が教えられた使命と責務を全力で果たすのです。「行いのない信仰」は空しいのです。その人の「救い」にとって役に立たないのです。神学や教義を学ぶだけではなく、イエス様の「生き方」を辿(たど)るのです。

2026年05月10日

「パウロの回心と異邦人宣教」

Bible Reading (聖書の個所)使徒言行録11章19節から30節

ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。

そのころ、預言する人々がエルサレムからアンティオキアに下って来た。その中の一人のアガボという者が立って、大飢饉が世界中に起こると“霊”によって予告したが、果たしてそれはクラウディウス帝の時に起こった。そこで、弟子たちはそれぞれの力に応じて、ユダヤに住む兄弟たちに援助の品を送ることに決めた。そして、それを実行し、バルナバとサウロに託して長老たちに届けた。

(注)

・ステファノの事件:使徒言行録7:54-8:2を参照して下さい。

・フェニキア:地中海沿岸の地方です。プトレマイス、ティルス、シドンなどの町があります。新共同訳聖書の巻末にある地図を参照して下さい。

・キプロス:地中海に浮かぶ島です。

・アンティオキア:シリアにあるローマの政庁所在地です。ここには大きなユダヤ人の共同体がありました。エルサレムの教会が貧しい人々を支えたように、アンティオキアの教会もユダヤ地方の信徒たちを助けたのです。聖書地図をご覧下さい。

・バルナバ:畑を売ったお金を教会に献金した人です。使徒言行録4:36-37に登場します。

 

・キレネ:現在のアフリカのリビア北東部の町です。

・キリスト者:クリスチャン(キリストに付ける者)と言う意味です。ユダヤ人たちはキリストの信徒たちを伝統的なユダヤ教の各派とは異なるグループと見なしていました。この呼び名には軽蔑の感情が込め
られているのです。

・アガボ:パウロが逮捕されることを預言しています。使徒言行録21:10-11をご一読下さい。

・クラウディウス帝:ローマ皇帝です。在位は西暦41年から54年です。ユダヤ人歴史家ヨセフスは紀元後45年から48年の間にローマ帝国内に食料不足があったことを記録しています(古代誌20:51-53,101)。

・パウロの手紙:直筆は「ローマの信徒への手紙」、「コリントの信徒への手紙Ⅰ.Ⅱ」、「ガラテヤの信徒への手紙」、「フィリピの信徒への手紙」、「テサロニケの信徒への手紙Ⅰ」、「フィレモンへの手紙」の七つと言われています。

・アレキサンドリア:現在のエジプト北部にある町です。

・キリキア州:シリアに隣接するトルコ南部にある地域です。

・家の教会:当時の教会は家に併設されていたのでこのように呼ばれました。

(メッセージの要旨)

*使徒言行録はアレキサンドリア、キリキアなどの地域から来たユダヤ人たちの働きについても記述しています。パウロはキリキア人が集まる会堂を拠点に活動していました。パウロはイエス様の宣教に従事したことがないのです。それにも関わらず、イエス様のメッセージの最も有力な解釈者になっているのです。ただ、パウロの信仰理解にはイエス様の教えと異なる点があることも事実なのです。パウロ(サウロ)はモーセの律法を厳格に順守するユダヤ人の家庭で育ちました。両親は彼らの部族ベニヤミン出身であるイスラエルの王サウルに因(ちな)んでサウロという名前を付けたのです(サムエル記上9-10)。若き日に過ごした小アジアのキリキア州にあるタルソスの町は商業で賑(にぎ)わい、教育と哲学で有名な学究都市です。パウロの手紙に哲学的な表現が多いことも頷(うなづ)けるのです(Ⅰコリント書9:24)。パウロはローマ帝国の市民権を持っていました。外国に住むユダヤ人(ディアスポラ)が市民権を得ていることから両親は裕福であったと推測されるのです。エルサレムへ移住した後に著名なラビ(ユダヤ教の教師)ガマリエルから薫陶(くんとう)を受けています。「先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹(てっ)しようとしていました」(ガラテヤ書1:14)、「わたしは生まれながらのファリサイ派です」と誇るのです(使徒23:6)。パウロがキリスト信仰へと回心したのです。アンティオキアなどでイエス・キリストを証しし、茨の道を歩むことになるのです。

*新約聖書にパウロが登場するのはステファノが石打ちの刑で殺される時でした。ユダヤ教の伝統や慣習を軽視し、十字架上で処刑されたイエス様を「メシア」(油注がれた者)として仰ぐキリスト者たち(特にギリシヤ語を話す人々)に反発していたのです。家(教会)に押し入っては荒らし、男女を問わず信徒たちを引き出して牢に送っていたのです(使徒8:3)。そこには容赦のない拷問が待っているのです。自ら告白しているように、これらの人を殺すことさえ厭(いと)わなかったのです(使徒22:4)。キリスト者たちへの迫害を自 分が果たすべき使命のように考えていたのです。エルサレムだけでなく、ダマスコにある教会を迫害するために大祭司の手紙(許可)を求めていることからも分かるのです。ところが、ダマスコへ向かう途中で「復活の主」から呼びかけられたのです。パウロは熱心なユダヤ教徒からキリスト者へ回心したのです。イエス様を「神の子」として信じたのです。「神の国」の福音はユダヤ人たちだけでなく異邦人たちにも及ぶことを理解したのです。イエス様に出会った人々は不思議な導きによって根本的に変えられるのです。パウロは典型的な例です。ユダヤ教の祭司も大勢この信仰に入ったのです。これらの人は地位や名誉よりもキリスト信仰に生きる道を選んだのです。パウロはエルサレムから故郷のタルソスへ戻ったのです。迫害は一時的に沈静化し、ユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方に平和が訪れたのです。初代教会は神様を畏(おそ)れ、聖霊様から慰めを受け、信徒を着実に増やしたのです(使徒9:1-31)。

*使徒言行録によればパウロは「自分の回心」を三回も語っているのです。コリントの信徒への手紙にも同様のことが書かれています(Ⅰコリント書15:1-11)。パウロにとって自分の人生を決定づける大きな出来事だったからです。それはパウロに想像を絶する試練をもたらすのです。「復活の主」に出会った後ダマスコのあちらこちらの会堂でイエス様が「神の子」であることを宣べ伝えたのです。人々は皆非常に驚き「あれは、エルサレムでイエスの名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男ではないか。また、ここへやって来たのも、彼らを縛り上げ、祭司長たちのところへ連行するためではなかったか」と言って警戒したのです。一方、キリスト者たちを共に迫害して来たユダヤ人たちは激しく怒ったのです。変節したパウロを裏切り者、神様への冒涜者(ぼうとくしゃ)として殺そうとしたのです。ダマスコでの危機を逃れてエルサレムに着いたパウロは初代教会の仲間に加えてもらおうとしたのですが、回心を信じてもらえなかったのです。信仰篤(あつ)いバルナバの仲介によってようやくキリスト者として認められたのです。パウロは「十字架につけられたキリストのみを宣べ伝えること」(Ⅰコリント書2:1-2)、「福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利(信徒たちが自分の生活を保障する義務)を用いないということ」(Ⅰコリント書9:1-27)によって、宣教者としての姿勢と生き方を明確にしたのです。パウロは言葉だけではなく「行い」によってキリスト信仰を証ししたのです。

*パウロの信仰理解には問題点もあるのです。「わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐みを受けました」と言っています(Ⅰテモテ書1:13)。理論家らしく自分の行ったことを不信仰のせいにして弁明しているのです。これらの言葉は迫害を受けた人々には響かないのです。心からの悔い改めが感じられないからです。「自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです」とも言っているのです(Ⅰコリント書4:3-4)。信仰心への自負が随所に表れているのです。パウロが何か良いことをしたから「神様の憐れみ」を受けたのではないのです。神様が与えられた一方的な恵みなのです。ダマスコに住む信心深いアナニアはエルサレムでキリスト者たちを迫害しているパウロへの按手(叙任の儀式)に反対したい旨を申し出ています。しかし、神様はパウロについて「ご自身が選んだ器(うつわ)である」と言われたのです。「パウロがわたしの名のために苦しむこと」も告げられたのです(使徒9:10-19)。パウロは「苦労したことはずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。・・」と言うのです。大変な試練を経験しているのです(Ⅱコリント書11:16-33)。誰よりも良く働いたのです(Ⅰコリント書15:9-10)。ただ、パウロに自分の労苦を誇る資格などないのです。多くの人に苦痛と悲しみを与えた事実は消えないのです。

*神様の恵みは安価ではないのです。パウロは神様の一方的な憐れみによって生かされているのです。異邦人宣教に生涯を捧げたのです。それは強いられたからではなく、そうすることが自分の喜びだったからです。福音を聞く人々の支えによって生活の糧を得ることを当然であるとしながらも、テント職人として働いたのです。経済的な自立が福音を大胆に語らせることを知っていたからです。ローマにおいても軟禁状態にありながら自費で借りた家に住んでイエス・キリストを宣べ伝えたのです(使徒28:30)。パウロは主に仕える者としての役割を全力で果たしているのです。設立した各地の教会宛てに手紙を書いています。そこに記された信仰理解が「パウロの神学」と呼ばれています。それらはあくまでも「手紙」なのです。パウロは「神の国」の福音を「個人的な救い」に縮小して理解しているのです。自分の存命中にイエス・キリストの再臨が起こると信じていたのです。人々が被(こうむ)っている現実の苦しみへの解決策に言及することなく「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。・・」(ローマ書13:1-3)、「召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。・・」(Ⅰコリント書7:21)と言っているのです。パウロの信仰理解には幾つかの誤解が見られるのです。手紙の内容等を無批判的に引用してはならないのです。一方、学ぶことも多いのです。パウロは「十字架のキリスト」を宣教したのです(Ⅰコリント書11:1)。キリストの信徒たちは聖書が伝えるイエス様のお言葉と力ある業に目を向けるのです。

2026年05月03日

「初代教会の試練と福音宣教」

Bible Reading (聖書の個所)使徒言行録6章1節から15節及び7章51節から60節

そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない(帳簿を付けるのは正しくない)。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。

さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる「解放された奴隷の会堂」に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した。しかし、彼が知恵と“霊”とによって語るので、歯が立たなかった。そこで、彼らは人々を唆(そそのか)して、「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」と言わせた。また、民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。そして、偽証人を立てて、次のように訴えさせた。「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。

・・・・・(ステファノの説教)

かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに(天使たちに任命された者のように律法を受けたのに)、それ(律法)を守りませんでした。」

人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。

(注)

・ギリシヤ語を話すユダヤ人:外国に住んでいたユダヤ人、すなわちディアスプラです。彼らはヘブライ語をほとんど話せなかったのです。文化や生活習慣の違いもあって、もともとエルサレムに住んでいるユダヤ人たちとの間に確執があったのです。

・評判の良い七人:ステファノ、フィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、二コラオはすべてギリシヤ名です。二コラオはアンティオキア出身の改宗者(異教徒からユダヤ教へ改宗者)として紹介されています。他の六人はユダヤ人の家に生まれたことを推測させるのです。以後、使徒言行録にステファノとフィリポ以外は登場しないのです。

・アンティオキア:シリアにある重要な都市です。現在はトルコ領です。

・手を置く:神様が命じられた職務に任じる儀式です。民数記27:18-20を参照して下さい。

・ステファノを告発する人々:アフリカにあるキレネ(リビア)とアレクサンドリア(エジプト)の出身者でいわゆる「解放された奴隷の会堂」に属する人々、また小アジア(トルコ)にあるキリキア州とアジア州の出身者たちです。彼らはエルサレムに移って来たディアスポラ(かつて外国に住んでいたユダヤ人)あるいはユダヤ教への改宗者です。律法と伝統を厳格に遵守(じゅんしゅ)しているのです。

 

・解放された奴隷の会堂:アフリカのキレネやアレクサンドリア出身の解放された奴隷たちが属するユダヤ教の会堂です。ただ、「奴隷の定義」については注意が必要です。

・ガザ:エルサレムから西へ77kmです。

・アゾト:地中海沿岸の町「ガザ」の北35kmにあります。

・カイサリア:ローマ帝国の総督府がありました。異邦人が多く住む要衝の地です。

・ガマリエルの言葉:キリスト信仰に関して指導者たちに次のように助言しています。「・・あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ」(使徒5:38-39)。

・ステファノの説教:ユダヤ人たちの反抗の歴史を旧約聖書によって証明しています。使徒言行録7:1-50です。機会がありましたらぜひお読み下さい。

(メッセージの要旨)

*聖霊様に導かれたステファノは旧約聖書に従ってイスラエルの歴史を振り返ったのです。歴代のユダヤ人たちは神様が召命されたモーセや他の預言者たちに反抗したのです。カイアファに代表される指導者たちも神様の独り子イエス様を処刑させたのです。エルサレムにおいて前代未聞のことが起こっているのです。使徒たちやステファノのような普通のユダヤ人が大祭司たちを罪人として告発しているのです。聖霊様はステファノに「力」を与えられたのです。この人は処刑されることを覚悟してイエス・キリストを証ししたのです。最初の殉教者(じゅんきょうしゃ)となったのです。エルサレムの教会への迫害は続くのです。しかし、激しい弾圧が宣教への新たな扉を開くことになるのです。使徒たちやステファノによる生命を賭(と)した宣教活動は受け継がれ、ユダヤ教の枠(わく)を越えてローマ帝国内に広がっているのです。キリスト信仰がすべての異邦人へ届けられることになるのです。フィリポがサマリアの町-ユダヤ人が交際を拒否した人々が住む町―に下って行き福音を告げ知らせたのです。ペトロとヨハネがそこに派遣されたのです。二人がサマリアの信徒たちに手を置くとこれらの人に聖霊様が降ったのです。フィリポはガザへ向かう途中でエチオピア(アフリカ)の高官に出会い、洗礼を授けたのです。地中海沿岸の町アゾトなどを巡りながらカイサリアまで宣教したのです。イエス様のお言葉「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」が実現しているのです(使徒1:8)。

*聖霊様の降臨(五旬祭=ペンテコステ)の後、神様は小さな群れを祝福されました。信徒の数は着実に増えたのです。信徒たちの中には一人も貧しい人がいなかったのです。土地や家を持っている人が皆、それらを売っては代金を持ち寄り使徒たちの足もとに置いたのです。集まったお金は必要に応じておのおのに分配されました(使徒4:34-35)。しかし、組織が拡大するにつれて様々な問題が起こったのです。アナニヤとサフィラの夫婦が献金の額を偽って申告したのです。ペトロは「売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売ってもその代金は自分の思いどおりになったのではないか。・・あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」と非難したのです。アナニヤは直ちに息が絶えたのです。すぐ後に、妻サフィラも死んで夫のそばに葬られたのです。ギリシヤ語を話すユダヤ人たちからヘブライ語を話すユダヤ人たちに苦情が出たのです。ヘブライ語を話すユダヤ人たちが日々の分配においてギリシヤ語を話すやもめたちを軽んじていたからです。女性の自立を認めないユダヤ教の伝統を順守するユダヤ人たちが彼女たちの受け取り分(金額)を少なくしていたのです。理想的な信仰共同体を構築することの難しさが明らかになったのです。使徒たちは決断したのです。自分たちは危険を伴う宣教活動に専念するのです。“霊”と知恵に満ちたギリシヤ語を話す七人に貧しい人々の世話をさせるのです。果たして、神様の言葉はますます広まったのです。弟子の数はエルサレムで非常に増え、ユダヤ教の祭司も大勢この信仰に入ったのです。

*大祭司や議員たちはイエス様を処刑させた後、使徒たちにも迫害の手を伸ばしたのです。彼らを捕らえ、最高法院で取り調べを行ったのです。使徒たちは逆にイエス様の処刑に関する指導者たちの責任を追及したのです。大祭司たちは使徒たちを殺そうとしたのですが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルの言葉を受け入れて鞭打ちのみで釈放したのです。ユダヤ教の影響下にあった祭司たちにもキリスト信仰が浸透しているのです。指導者たちは危機感を持ったのです。恵みと力に満ち、不思議な業としるしを行っていたステファノを標的にしたのです。民衆、長老たち、律法学者たちを扇動してステファノを逮捕させたのです。ところが、尋問の席でステファノは旧約聖書に基づいて指導者たちの罪を告発しているのです。例を挙げています。エジプトの国から解放された民は堕落し、金の子牛を造り礼拝したのです。神様は偶像礼拝に参加した三千人の民を打たれたのです。イスラエルの民を「かたくな民」と呼ばれたのです(出エジプト記33:3,5)。偉大な預言者イザヤは「イスラエルの民は背いて聖なる霊を悲しませたので、神様の敵となった」と明言しているのです(イザヤ書63:10)。預言者エレミヤは「彼ら(イスラエルの民)の耳は無割礼で・・主の言葉が彼らに臨んでもそれを侮(あなど)り、受け入れようとしない」と非難したのです(エレミヤ書6:10)。これらを聞いて人々は激しく怒ったのです。ステファノに向かって一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げて殺したのです。

*イエス様は最高法院で大祭司に「ご自身がメシアであること」、「人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来ること」を宣言されたのです(マルコ14:62)。使徒たちも「神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために,この方(イエス様)を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました」と証言したのです(使徒5:31)。聖霊様に満たされたステファノは「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言ったのです。キリスト信仰がユダヤ教との深刻な対立を招いているのです。指導者たちはイエス様を処刑させたのです。使徒たちをも迫害するのです。ペトロとヨハネは逮捕され最高法院で二回も取り調べを受けたのです。しかし、ステファノの過激な証しは指導者たちの怒りを増幅させたのです。処刑後に、エルサレムの教会に対して容赦のない迫害を実行したのです。使徒たちの他は皆ユダヤとサマリアの地方に逃げたのです。ヘブライ語を話す使徒たちはユダヤ教の慣習を守っていたこともあり迫害を免れたのです。ステファノの遺体を埋葬(まいそう)することは危険でした。犯罪人の埋葬は律法で禁じられていたからです。ステファノの死を悲しんだ信仰心の篤い人々が勇気を奮って遺体を埋葬したのです。イエス様のご遺体を埋葬した議員のアリマタヤのヨセフやニコデモを想起させるのです(ヨハネ19:38-42)。一方、ステファノの殺害に賛成していたサウロ(後のパウロ)は家から家へと押し入って教会を荒らしていたのです。男女を問わずキリストの信徒たちを牢に送っていたのです。

*初代教会は律法を厳格に守り寡婦(かふ)や孤児などの貧しい人々を大切にし、食べ物や日用品を必要に応じて分配していたのです(申命記27:19)。ところが、仲間が増えるに従って信徒たちの間に不満が生じたのです。公平を維持するためにギリシヤ語に堪能な世話役たちが新たに任命されたのです。ステファノはイエス様のメッセージがユダヤ教への挑戦となることを理解した弟子の一人です。律法と伝統に固執する人々との論争内容は記録されていませんが、ステファノへの非難の言葉から対立点を知ることが出来るのです。ステファノによればイエス様が生と死と復活を通して宣教された「神の国」-神様の支配-の到来は大祭司による神様への仲介や律法に定められた捧げ物と儀式を不必要にしたのです。「腐敗した神殿は崩壊する」と言われたイエス様のお言葉は旧約聖書によって証明されているのです。神殿政治の中枢を担う大祭司たちや律法を厳格に遵守するサウロ(パウロ)のような人々はステファノを神様とモーセへの冒涜者(ぼうとくしゃ)として断罪したのです。ステファノは指導者たちを説得することや自分を弁護することはしなかったのです。指導者たちの罪を徹底して告発したのです。使徒たちが聖霊様に導かれて大胆にキリスト信仰を語ったように、ステファノは聖霊様に満たされて証しして殉教したのです。しかし、迫害によっても人々からキリスト信仰を奪うことは出来なかったのです。フィリポは異邦人宣教の先駆けであり、回心したパウロが発展させるのです。「神の国」の福音は今日においても連綿と受け継がれているのです。

2026年04月26日

「初代教会の信徒たち」

Bible Reading (聖書の個所)使徒言行録4章1節から22節


ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである。しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。

次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。そして、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した。そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、/『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石』(詩編118:22)/です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」

議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった。そこで、二人に議場を去るように命じてから、相談して、言った。「あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレムに住むすべての人に知れ渡っており、それを否定することはできない。しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう。」そして、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した。しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」議員や他の者たちは、二人を更に脅してから釈放した。皆の者がこの出来事について神を賛美していたので、民衆を恐れて、どう処罰してよいか分からなかったからである。このしるしによっていやしていただいた人は、四十歳を過ぎていた。


(注)


・ペトロとヨハネ:12使徒の中でもイエス様が「最も愛された」三人の弟子の内の二人です。もう一人はヤコブです。


・神殿守衛長:神殿の境内の治安を守り、大祭司に次ぐ権力を持っていました。

・サドカイ派:死後の復活を信じていなかったのです。キリスト信仰に敵対していました。この宗派についてほとんど分かっていないのです。ただ、支配層に属し、神殿政治と深く関わっていました。


・大祭司アンナスとカイアファ:アンナスの在任期間は紀元後6年から15年です。カイアファはアンナスの義理の息子です。紀元後18年から36(37)年の間大祭司の職にありました。アンナスが卓越していたことからカイアファの時代になっても大祭司と呼ばれていたのです。


・ヨハネとアレクサンドロス:二人の詳細については不明です。


・男の数が五千人:数えられた人数は男性だけでした。女性を含めると信じた人はもっと多かったのです。当時は男性支配の社会でした。平等と公平を基本とする初代教会の信徒たちの生活は人々から好意を得ていたのです。

・四十歳を過ぎていた:ルカは癒しの出来事の信ぴょう性を強調しています。

・午後三時:神殿において定例の祈りが行われていました。犠牲(いけにえ)も捧げられたのです。ダニエル書9:21をご一読下さい。

・クリスチャン:初代教会の信徒たちは「新しい道の弟子たち」と呼ばれていました。後に、軽蔑の感情が込められたクリスチャン(キリストの弟子)と言う名称を付けられたのです。使徒11:26、1ペトロ4:16を参照して下さい。

(メッセージの要旨)


*ペテロはかつてイエス様に「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言ったのです(マタイ26:35)。他の弟子たちも同じ思いでした。しかし、彼らがその言葉を実行することはなかったのです。イエス様が逮捕された時は逃げ惑い、聞かれれば弟子であることを否定し、イエス様のご遺体を埋葬することもなく隠れていたのです。ところが「復活の主」に会った弟子たちは権力者たちをも恐れないキリストの信徒へと変わったのです。イエス様が「救い主」であること、宣教された「神の国」(天の国)の正しさを確信したからです。ペトロとヨハネは無学で普通の人でした。しかし、初代教会の発展に中心的な役割を果たしたのです。一方、大祭司を代表とする指導者たちは社会的地位や権威、律法についての豊かな知識が妨げとなり、イエス様が「神の子」であることを信じなかったのです。キリスト信仰は(旧約)聖書や神学(学問)によって得られないのです。神様はイエス様を遣わされました。イエス様は「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」と言われたのです(ヨハネ15:16)。聖霊様は終わりの日(再臨)まで導いて下さっているのです。ペトロとヨハネはこれらを経験したのです。見たことや聞いたことを証ししているのです。自分たちの使命を果たしているのです。


*神様は初代教会を祝福されました。救われる人々を日々仲間に加えられたのです。信徒たちは毎日心を一つにして神殿へ行き礼拝したのです。ペトロとヨハネも午後三時に神殿に上りました。そこで生まれながら足の不自由な人に出会いました。ペトロが「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言うと、彼は直ちに癒されたのです。「力ある業」は民衆を大いに驚かせたのです。同時に指導者たちを不安にさせたのです。ペトロは集まって来た人々に再び「癒しの力」は自分たちから出たものではなく、あなたがたが殺したイエス様によるものであることを説明したのです。彼らの罪を指摘し「悔い改めて立ち帰りなさい」と勧めたのです(使徒3:11―26)。二人の言葉を聞いて信じた人は男の数だけでおよそ五千人になったのです。使徒たちの宣教活動はユダヤ人たちを着実にイエス・キリストへと導いているのです。ところが、大祭司たちは彼らの影響力を看過できなくなりました。ペトロとヨハネを捕えたのです。二人に「お前たちは何の権威によって・・ああいうことをしたのか」と尋問しています。エルサレム神殿から不正な商人たちを追い出されたイエス様に対する問いかけと同じ内容なのです(マルコ11:27-28)。ペトロは「ナザレ人イエスの名」によって行ったことを明らかにしたのです。イエス様が十字架上で処刑された後三日目に復活された実在の人物であることを強調するのです。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか」と言って、不信仰の罪を厳しく批判したのです。


*「聖霊様に満たされる」とは神様から目的遂行のための力を得ることなのです(使徒1:8)。キリストの信徒たちは何かを犠牲にするのです。キリスト信仰を隠していた議員のアリマタヤのヨセフとニコデモはイエス様のご遺体を埋葬(まいそう)したのです(ヨハネ19:38-42)。二人はそのような行動が議員資格のはく奪や会堂からの追放などの不利益をもたらすことを知っていたのです。それにも関わらず自分たちの信仰を証ししたのです。信仰に基づく決断はこの世の常識では計ることが出来ないのです。使徒言行録には聖霊様の降臨を経験した初代教会の信徒たちの歩みが記録されています。迫害の中にあってもイエス様が教えられた最も重要な掟-神様と隣人を愛すること-を実践したのです(マルコ12:28-34)。病人たちや汚れた霊に悩まされている人を一人残らず癒していたのです。全身全霊で「神の国」の福音を宣教したのです。個人的な願いの実現よりも「主よ、・・あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」と祈ったのです。聖霊様は祈りに応えて信徒たちが集まっている場所を揺れ動かされたのです(使徒4:29-31)。キリスト信仰が誤解されているのです。信仰のみによって「永遠の命」を得ることは出来ないのです。「行いのない信仰」は空しいのです。初代教会の信徒たちは何よりも「戒め」を実行したのです。これが「救いに至る道」なのです。


*「復活の主」に会った人々が初代教会を発展させたのです。言葉で語るだけでなく「行い」によって証ししたのです。別の言い方をすれば「神様から遣わされたイエス様の戒め-神様と隣人を愛すること-を聖霊様の導きによって実践した」のです。信徒たちの「生き方」は民衆から共感を得たのです。神様は初代教会を祝福して救われる人々を日々仲間に加えられたのです。新しく信徒になった人々は使徒たちから熱心に学んだのです。「新しい道」(イエス様の教え)に生きる人々は心も思いも一つにし、お互いを兄弟姉妹と呼び、愛と尊敬をもって交際したのです。土地や家を持っている人々はそれらを売って代金を使徒たちの下へ持ち寄ったのです。お金はそれぞれの必要に応じて分配されたのです。初代教会に貧しい人が一人もいなかったのです。常に「御名が崇められますように・・」、「御国が来ますように・・」と祈っていたのです(マタイ6:9-10)。「神様の御心」を実現するために個人的な望みや必要以上の物欲を放棄したのです。イエス様のご指示に従い「神の国(神様の支配)」と「神の義(神様の正義)」を求めたのです。「神である」と自称するローマ皇帝の支配下にあっても心から恭順することはなかったのです。特筆すべきことです。キリスト信仰の原点はここにあるのです。信仰とは「信じること」ではないのです。イエス様の御跡を辿(たど)る「生き方」のことです。福音を日常生活において証しすることなのです。聖書を恣意的(しいてき)に変容してはならないのです。「永遠の命」は断じて安価な恵みではないのです。


*「神の国」の福音はこの世の価値基準を覆(くつがえ)すのです。イエス様のお言葉「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」が現実になるのです(マルコ10:31)。貧しい人々、心身に障害がある人々、社会から排斥された人々、罪人と言われた人々が優先的に「救い」に与るのです。初代教会の信徒たちは「主の復活」において自分たちが見たことや聞いたことが真実であることを確信したのです。ペトロとヨハネは漁師でした。律法を専門的に学んだこともないのです。ところが、聖霊様に満たされて民衆に創世記や申命記によって「イエス様が約束のメシアであること」を説明し、ユダヤ教の指導者たちには詩編を用いて不信仰を批判したのです。使徒たちはイエス様の御跡を辿(たど)っているのです。イエス様は「神の国」の福音を人々が理解しやすい出来事-種を蒔く人のたとえ(マタイ13)など-によって説明されたのです。弟子たちも「自分たちが経験したこと」を有りのままに証ししているのです。「イエス・キリスト」を証しすることにおいて権力者たちを恐れなかったのです。信仰は信仰、現実は現実のように曖昧(あいまい)に生きることをしなかったのです。人間ではなく神様に従う道を選んだのです。自分たちが苦難に遭遇することを承知の上で信仰を生き抜いたのです。キリスト信仰が誤解されているのです。真に厳しい信仰なのです。今日においても同じなのです。イエス様に倣(なら)って信仰を貫き、迫害されているのです。多くの信徒が涙を流しているのです。しかし、天には大きな報いがあるのです。

2026年04月19日

「聖霊様の降臨」

Bible Reading (聖書の個所)使徒言行録2章1節からから36節

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎(火)のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人(たち)が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。

・・(ヨエルの預言)・・

イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。ダビデは、イエスについてこう言っています。

・・(ダビデの言葉)・・

兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、/『彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない』/と語りました。神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで(詩編110:1)。」』だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

(注)

・ペトロ:使徒の中でも中心的役割を果たした人物です。ペトロは漁師でした。律法についての学識もありませんでした。しかし、聖霊様がペトロに勇気と力を与え、必要なことを語らせられたのです。旧約聖書(モーセ五書)が伝える神様のお言葉や油注がれたダビデの言葉はユダヤ人たちを緊張させたのです。ペトロは神様とイエス様と聖霊様の関係-神学的に言えば「三位一体」の関係-を丁寧(ていねい)に説明したのです。

●当初の12使徒は次の通りです。

■イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らは御もとに来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、宣教に遣わし、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。こうして十二人を任命された。シモンにはペトロ(岩)という名を付けられた。ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。(マルコ3:13-19)

・五旬祭(七週祭):ユダヤ教の三大祭り(過越祭、仮庵祭、七週祭)の一つです。過越祭から数えて50日目に祝う春の収穫祭です。レビ記23:15-21をご一読下さい。キリスト教では七週祭を聖霊降臨日「ペンテコステ(ギリシャ語の『五十』を表す言葉)」として記念しているのです。キリスト教がユダヤ教と深く関わっていることを示しています。

・風:神様の顕現(列王記上19:11、イザヤ書66:15、エゼキエル書37:9-14)を示す言葉です。

・炎(火):神様の臨在を表しています。出エジプト記19:18、イザヤ書5:24、66:15-16をお読み下さい。

・地域と現在の国:パルティア、メディア、エラムはイラン、メソポタミアはほぼイラクとシリアです。カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリアはトルコ、キレネはアフリカのリビア、クレタ島はギリシャです。


・ディアスポラ:外国に住んでいるユダヤ人のことです。主要な祭りにはエルサレムへ巡礼したのです。

 

・ヨエルの預言:旧約聖書のヨエル書は紀元前800年から紀元前300年の間に編纂(へんさん)されたと言われています。

■神は言われる。終わりの時に(ペトロが原文の「その後」を「終わりの時に」へと変更)、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。(ヨエル書3:1-5)

・ダビデの言葉:

■わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる(忠実なる)者を/朽ち果てるままにしておかれない。あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。(詩篇16:8-11)

●陰府(よみ):神様から遠ざかった死者たちの住まいのことです。

・使徒言行録:ルカによる福音書の続編(第二巻)です。

・テオフィロ:ルカを支えている人と推測されています。ルカ1:3を参照して下さい。

・初代教会の祈り:

●神様を讃える時は「栄光が、聖霊において、子を通して、父なる神に帰せられるように」、また、神様の祝福を求める時は「父なる神の祝福が、子を通して、聖霊において、あなたがたの上にあるように」と祈ったのです(百瀬文晃著「イエス・キリストを学ぶ」発行所サンパウロ、1993年p249)。キリスト信仰が日常生活を超越した「霊的な救い」として誤解されないための表現なのです。

・イエス様の誕生: 聖霊様が深く関わっています。

■すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。(ルカ1:30-35)

(メッセージの要旨)

*ペトロの説教はユダヤ人だけでなく、キリストの信徒たちにも分かり易い信仰の解説書となっています。聖霊様の降臨の背後にある「神様の御心」を知ることが大切なのです。使徒言行録は「テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました」で始まります。復活されたイエス様はご自身が生きていることを四十日にわたって示し、「神の国」について話されたのです。イエス様は弟子たちにも「神の国」の宣教を命じられたのです。「エルサレムを離れず、父の約束されたものを待ちなさい。(洗礼者)ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」、「あなたがたの上に聖霊が降ると力を受ける。エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と言われたのです。皆が見ている前で天に上げられたのです。キリストの信徒たちに使命が与えられたのです。百二十人ほどで構成される初代教会は母マリアやイエス様の兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていたのです(使徒1)。イエス様は再び地上に来られるのです。その時(新しい天地創造の完成)までは聖霊様が信徒たちを導かれるのです。便宜上、神様とイエス様と聖霊様が別々に表現されているのです。神様はイエス様を通して聖霊様と共に働いておられるのです。キリスト信仰はイエス様を通して、聖霊様に導かれ、神様に近づくことが出来る信仰なのです。

*初代教会は「復活の主」に会って信仰に燃えていました。「主の復活」を証しするために、イスカリオテのユダに代わってマティアを選出し組織を整えたのです。五旬祭の日に信徒たちが集まっていると、約束された聖霊様が一人一人の上に降(くだ)ったのです。巡礼に来ていた信仰篤いユダヤ人たち、ビジネスのために長期滞在しているぢディアスポラのユダヤ人たちは自国の言葉をエルサレムで聞いて驚いたのです。ユダヤ人たちはどこにいても日常生活の規範となる律法を厳格に守ったのです。旧約聖書にも精通していたのです。「激しい風のような音」や「炎(火)」の意味を直ちに理解したのです。意外なことが起こっているのです。神様がキリストの信徒たちと共におられることに戸惑ったのです。ガリラヤの人々は他のユダヤ人たちから律法を順守しない不信仰の民として蔑(さげす)まれていました。イエス様に信仰を褒(ほ)められたナタナエルも弟子として選ばれる前には「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ってイエス様を軽んじていたのです(ヨハネ1:43-51)。巡礼者の中には信徒たちを酒に酔った愚かなユダヤ人としてあざける人々もいたのです。イエス様の逮捕以来姿を隠していたペトロは「復活の主」に会い、聖霊様の降臨を経験し、「神の国」の福音の正しさを確信したのです。初代教会のリーダーとして人々を信仰へと導いたのです。ペトロは漁師でした。教育を受ける機会にも恵まれなかったのです。ところが、律法に精通している指導者たちにイエス・キリストを堂々と証ししたのです(使徒4:12-13)。

*ペトロはヨエル書を引用して聖霊様の降臨の意味を説明したのです。神様は不信仰なイスラエルを罰するためにいなごの大群を送られたのです。国土は荒廃し、民は深刻な飢饉に苦しんだのです。ヨエルはこのような時期に預言したのです。イスラエルの民が悔い改めて神様に立ち帰れば再び繁栄が訪れることを告げたのです。徴(しるし)として神様は大人だけでなく、息子や娘、若者、老人、奴隷にも聖霊様を注がれるのです。ヨエルは精霊様の降臨をイスラエルの民への恵みとして理解していました。後に、異邦人たちにも注がれることが明らかになるのです(使徒10:44-48)。「神の国」の福音はユダヤ人を含めてすべての民に届けられるのです。ペトロはヨエルの預言を「ペンテコステ」(ユダヤ教の七週祭)に適用したのです。しかも、ヨエル書にある「その後」を「終わりの時に」変更して引用しているのです。イエス様が再び来られる時(再臨)が近いことを強調するのです。ペトロの信仰理解によれば聖霊様の降臨はその「しるし」なのです。ユダヤ人たちは神様がダビデにされた約束「あなたの王国は・・とこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる」を信じていました(サムエル記下7:16)。ペトロはダビデの言葉 によって「イエス様の復活」を根拠づけるのです。「彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない」のです。神様は聖霊様によってイエス様を誕生させられたのです。死後三日目に復活された主は神様の右におられるのです。約束された聖霊様を御父から受けて注いで下さっているのです。

*重要な出来事には聖霊様が働いておられるのです。イエス様の先駆けとして遣わされた洗礼者ヨハネは母エリザベトの胎内にいる時から聖霊様に満たされていました(ルカ1:15)。イエス様の受胎に関して、天使はマリアに「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と告げています(ルカ1:35)。聖霊様はヨハネの母エリザベト(ルカ1:41-45)、父ザカリア(ルカ1:67-79)、信仰篤いシメオン(ルカ2:25-35)を導かれたのです。神様は宣教活動を準備するためにヨハネから洗礼を受けて祈っておられるイエス様に聖霊様を注がれたのです。天が開け聖霊様は鳩のように目に見える形で降られたのです(ルカ3:21)。イエス様はナザレで宣教を開始されました。預言者イザヤのメッセージに言及して「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人(人々)に福音を告げ知らせるためにわたしに油を注がれたからである。・・」が実現したと言われたのです(ルカ4:18)。後に「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがはなしたことをことごとく思い起こさせて下さる」と予告されたのです(ヨハネ14:25-26)。ペトロは聖霊様に導かれて旧約聖書が伝える「神様の約束」を取り上げたのです。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを神は主とし、またメシア(キリスト)となさったのです」と言ったのです。

*ユダヤ人たちはペトロやほかの使徒たちに「わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねています、ペトロはこれらの人に心からの「悔い改め」を求めたのです。「イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と言ったのです。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日だけでも三千人ほどが仲間に加わったのです。信徒たちは使徒の教えに従い、相互の交わりを大切にし、パンを裂くこと(聖餐式の実施)を順守し、祈ることに熱心でした。初代教会はその後も着実に信徒を増やし、発展して行くのです。ペトロは聖霊様に導かれて大胆にキリスト信仰を証ししたのです。ユダヤ教の伝統に固執するユダヤ人たちに旧約聖書(神様とイスラエル民族の歴史)に準拠して「新しい道」-キリスト信仰は当初このように呼ばれていたのです-について解説したのです。ペトロの宣教手法は受け継がれて行くのです。「信仰告白」としてまとめられたのです。今日においても礼拝や洗礼式で用いられているのです。ペトロの信仰理解によれば「この世の終わり」が差し迫っているのです。パウロは自分の存命中にイエス・キリストの再臨が起こると考えていたのです。ただ、このような信仰理解は往々にしてキリストの信徒たちを「知的信仰」に陥(おちいら)せるのです。ペトロは「神様の御心」を知る(神様の御業を追体験する)ことの大切さを教えているのです。神様はイエス様によって「神の国」の福音を語られたのです。聖霊様によって信徒たちを導き、「力」を与えられるのです。

2026年04月12日

「イエス様の復活」

Bible Reading (聖書の個所)使徒言行録1章3節から11節


イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」


さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」


(注)


・使徒言行録:著者はルカです。「ルカによる福音書」の第二部として位置づけられています。


・「神の国」(天の国):死後に行く「天国」のことではありません。神様の主権、神様の支配を表す言葉です。キリスト信仰において「神の国」の意味を正確に理解することは極めて重要です。神様はこの世の闇(個人の罪や社会の不正)を裁かれるのです。悔い改めて「神の子」を信じる人はイエス様の教えを実践するのです。そして「永遠の命」に与るのです。行いのない信仰によって「救い」を得ることは出来ないのです。


・食事を共にする:使徒言行録の著者ルカがイエス様の復活を否定する(霊的にのみ生きておられることを主張する)人々への反論として取り上げた出来事のように見えるのです。


・国を建て直す:イスラエルの政治的独立を回復することです。


・イエス様が再び地上に来られる時(再臨)にこの世は終わるのです。新しい天と地が完成するのです。パウロは自分の存命中に再臨が起ると信じていました。


・聖霊様はイエス様の復活の後50日目の日曜日―ユダヤ教の七週祭(麦の収穫を祝う祭り)―に降臨されたのです。ペンテコステとも呼ばれています。ペンテコステはギリシャ語で数字の50のことです。


・エマオ:エルサレムからおよそ1.1kmの所にある村です。


・べタニヤ:エルサレムの東キドロンの谷を越えたところにあります。イエス様はこの地をたびたび訪れておられます。


・平地の説教:山上の説教(マタイ5-7)と共に福音の原点を要約しています。


■・・さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。・・」(ルカ6:17-49)

・カイアファ:ユダヤ教の大祭司です。祭司職は本来世襲でした(民数記25:10-13)。ところが、紀元後1世紀にローマの総督の承認事項になったのです。在任期間は紀元後18年から36年です。宗教指導者であ.ると同時に政治的な指導者です。最高法院(サンヘドリン)を招集する権限を有していたのです。

・ポンティオ・ピラト:ローマから任命された総督です。在位は紀元後26年から36年です。新約聖書は意志の弱い人物として伝えています。しかし、古代の歴史家たちは圧政と不正で悪名をなした人物として紹介しています。本来の赴任地(ふにんち)は地中海沿岸の都市カエサリアです。ユダヤ人の過越祭には多くの人が集まるので治安を確保するためにエルサレムに滞在したのです。

・使徒信条:カトリック、プロテスタントに共通する信仰告白です。キリスト信仰の真髄(しんずい)を表現しています。ただ、問題点もあるのです。本来は教会における公の信仰告白です。We-我々-で始まるべきなのです。イエス様が教えられた「主の祈り」(マタイ6:9-13)と比較して下さい。信仰共同体の祈りとして「我々・・」が用いられているのです。もう一つはイエス様が指摘された大祭司カイアファの罪を不問にしていることです(ヨハネ19:11)。聖書が伝統や人間が作った教義によって変容されているのです。

APOSTLES’ CREED


I(We) believe in God, the Father almighty,
      creator of heaven and earth.

I (We) believe in Jesus Christ, his only Son, our Lord.
      He was conceived by the power of the Holy Spirit
          and born of the Virgin Mary.
      He suffered under (Caiaphas and)Pontius Pilate,
          was crucified, died, and was buried;
      He descended into hell.
On the third day he rose again.
He ascended into heaven,
and is seated at the right hand of the Father.
He will come again to judge the living and the dead.

I (We) believe in the Holy Spirit,
the holy catholic Church,
the communion of saints,
the forgiveness of sins,
the resurrection of the body,
and the life everlasting. Amen.

(使徒信条)

我(我ら)は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我(我ら)はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、(カイアファと)ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に降り、三日目に死人のうちより蘇り,天にのぼり全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審きたまわん。我(我ら)は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。 アーメン

(メッセージの要旨)


*今日はイースター礼拝です。キリスト信仰の根幹は「主の復活」にあるのです。イエス様は「神の国」の到来を認めないこの世の権力者たちによって政治犯として処刑されたのです。十字架刑は人間の尊厳を踏みにじる拷問です。犯罪人は衣服を剥(は)ぎ取られ、手足を釘付けにされ、何日も人目に晒(さら)されたのです。体の重みが苦痛を強め、いずれ失血死するのです。主にローマの支配に抵抗する人々への見せしめとして行われたのです。イエス様は屈辱(くつじょく)と激痛の中で死なれたのです。四福音書はイエス様が息を引き取られる直前の様子を伝えています。マタイは詩篇22のお言葉「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」を取り上げています(マタイ27:4 6)。イエス様はご自身の死と復活を三度も予告しておられます(マルコ10:32-34)。しかし、十字架の上では苦悩されていたのです。ルカによればイエス様は処刑人たちを赦し、隣にいる犯罪人の一人に楽園(パラダイス)を約束し、詩篇31の「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」を大声で叫ばれたのです(ルカ23:46)。神様への信頼が溢(あふ)れているのです。ヨハネによればイエス様は母マリアを愛する弟子に委ねた後に「成し遂げられた」と言われたのです(ヨハネ19:25-30)。地上の使命を果したという安堵(あんど)のお気持ちが表れているのです。神様は死んで三日も経ったイエス様を復活させられたのです。宣教された「神の国」の正しさを証明されたのです。イエス様は一貫して「神の国」について語られたのです。


*イエス様は「神の国」の宣教にご生涯を捧げられました。ご自身を通して「神の国」が到来していることを証しされたのです。山上の説教(マタイ5-7)や平地の説教、あるいは日常生活に生起する身近な現象を用いた分かり易い譬(たと)え話によって「神の国」の意味を語られたのです。力ある業(奇跡や癒し)によって「神の国」の福音を可視化されたのです。目の見えない人々は見え、足の不自由な人々は歩き、重い皮膚病を患っている人々は清くなり、耳の聞こえない人々は聞こえるようになり、死者たちは生き返ったのです(マタイ11:5)。一方、ご自身について「人の子は安息日の主でもある」(マルコ2;28)、「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10:30)と言われたのです。ユダヤ人にとって断じて認められない主張によって、「神の子」に対する絶対的な信仰を求められたのです。また、エルサレム神殿が両替人や商売人たちによって強盗の巣と化していること(ヨハネ2:13-22)、神殿政治の中枢(ちゅうすう)を担う律法学者たちやファリサイ派の人々がやもめたちの家を食い物にしていること(マルコ12:40)、ローマに恭順して既得権益を守り、貧しい人々や虐げられた人々を抑圧していることについて非難されたのです。大祭司カイアファたちは悔い改めることなく、イエス様を無実の罪で告発したのです。「神様を冒涜(ぼうとく)する者」、「皇帝に反逆する者」として総督ピラトに処刑させたのです。神様が遣わされた独り子を異邦人の手によって殺害させたのです。指導者たちの罪は真に大きいのです。


*この世の権力者たちが「神の国」の福音を拒否するのです。「神様の権威」が失墜(しっつい)しているのです。深刻な事態が起こっているのです。最大の首謀者は大祭司カイアファです。イエス様も尋問の席でピラトに「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者(カイアファ)の罪はもっと重い」と明言されたのです(ヨハネ11:9)。「使徒信条」はカイアファの罪を不問にしているのです。聖書の言葉が後の権力者たちによって変容されているのです。イエス様のご遺体を埋葬(まいそう)したのは寝食を共にしていた弟子たちではなかったのです。イエス様を密かに信じていた議員のアリマタヤのヨセフとニコデモだったのです(ヨハネ19:38-42)。使徒たちは指導者たちを恐れていました。家の戸に鍵をかけて身を潜(ひそ)めていたのです。復活されたイエス様はマグダラのマリアともう一人のマリアに「おはよう」と挨拶(あいさつ)をし、兄弟姉妹たちとはガリラヤで会うことを約束されたのです(マタイ28:1-10)。エマオでは二人の弟子に現れて(旧約)聖書を解説されたのです(ルカ24:13-35)。使徒11人が食事をしている時に「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と命令されたのです(マルコ16:14-18)。ペトロには何度も会って「わたしの羊を飼いなさい」と指示されたのです(ヨハネ21:1-19)。「復活の主」に会った弟子たちは新たに力を受けるのです。イエス・キリストを大胆に証ししたのです。


*イエス様の復活は人間の心の内に根源的に潜(ひそ)む死の恐怖を打ち砕(くだ)いたのです。以前、イエス様は洗礼者ヨハネの質問に「・・死者たちは生き返り、貧しい人々は福音を告げ知らされている。わたしに躓(つまず)かない人々は幸いである」と答えられたのです(マタイ11:2-6)。ガリラヤ湖畔にある会堂長ヤイロの家で死んで間もない娘を生き返らされたのです(マルコ5:21-43)。ナザレ近郊の町ナインに一人息子の死に嘆(なげ)く母親がいました。憐れんで彼女の息子に再び命を与えられたのです(ルカ7:11-16)。エルサレムに近いベタニアの村では「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と言われたのです。マルタはイエス様のお言葉を素直に信じたのです。兄弟ラザロは死んで四日も経っているのに蘇(よみがえ)ったのです(ヨハネ11:1-44)。イエス様は「御子の権威」によって命を与えられるのです(ヨハネ5:21)。「主の復活」はイエス様が各地で実行された「力ある業」が神様によってなされたことを証明する出来事なのです。イエス様は全世界の人々にとって「永遠の命」に与れる希望の光となったのです。「神の国」の到来は地上に「神様の正義と愛」を具体化しているのです。「罪と死の問題」は根本的に解決されることを予告しているのです。イエス様の復活は「神様の御心」を表しているのです。「神の国」の到来はすべての人にとって福音なのです。神様は決定的な根拠を示されたのです。


*神様は十字架の刑死に至るまで従順であられたイエス様を見捨てられることはなかったのです。イエス様の復活はキリスト信仰にとって極めて重要な出来事なのです。神様はイエス様が「独り子」であることを再確認されたのです。ご自身と等しいお方であることを宣言されたのです。イエス様の宣教の第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」でした(マルコ1:15)。キリスト信仰とは「神の国」の到来を福音として信じることなのです。イエス様は「神様の御心」を実現するために、ご自身の生と死を通して「神の国」を証しされたのです。復活された後もご自身が生きていることを示すために四十日にわたって多くの人に現れ「神の国」を語られたのです。キリスト信仰の中心メッセージは「神の国」なのです。ただ、部分的にしか明らかになっていないのです。神様がしかるべき時-この世の終わり(イエス様の再臨)-に完成して下さるのです。イエス様のお言葉「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える」が成就するのです。キリストの信徒たちはどのような状況にあっても希望を持って生きることが出来るのです。これが福音の本質なのです。「復活の主」に会った弟子たちは初代教会を設立し「神の国」の宣教に着手したのです。日本では「クリスマス」に関心を寄せている教会が多いのです。「イースター」はキリスト信仰の真髄(しんずい)なのです。イエス様は再び来られるのです。その時に備えるのです。ご生涯に倣(なら)い「神の国」の建設に取り組むのです。

2026年04月05日

「イエス様の処刑」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書19章1節から22節及び28節から30節


そこで、ピラトはイエスを捕らえ(連れて行き)、鞭で打たせた。兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」

ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者(大祭司カイアファ)の罪はもっと重い。」そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背(そむ)いています。」

ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石(しきいし)」という場所で、裁判の席に着かせた。それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼ら(兵士たち)に引き渡した。

こうして、彼らはイエスを引き取った。イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。

・・・・・

この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇(かわ)く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸(す)いぶどう酒を満たした器(うつわ)が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂(た)れて息を引き取られた。


(注)
・ポンティオ・ピラト:ユダヤを管轄(かんかつ)するローマの総督です。赴任地(ふにんち)はカエサリア(地中海沿岸の都市)です。ただ、過越祭の時期は巡礼者で溢(あふ)れるエルサレムの治安を守るためにこの地に滞在したのです。在位は西暦26年から36年です。抑圧的で不正な人物であったと伝えられています。


・イエス様の釈放:ローマの慣習では死刑判決の後に囚人に「むち打ち」が行われていました。ピラトはすでにイエス様を鞭で打たせています(ヨハネ19:1)。イエス様の死刑は確定しているのです。ピラトの姿勢「イエスを釈放しようと努めた」あるいは「この男に罪を見いだせない」(ヨハネ19:6)はイエス様を支持する民衆への単なる「リップ・サービス」のように見えるのです。

・敷石:厳密な意味は不明です。しかも、ヘブライ語の「ガバタ」は「敷石」を表す言葉ではないのです。


・過越祭の準備の日:木曜日です。


・カイアファ:ユダヤ教の大祭司です。同時に政治的指導者なのです。最高議決機関(サンヘドリン)を取り仕切り、西暦18年から36年までの18年間職務に就(つ)いていました。イエス様に「わたしをピラトに引き渡した者の罪はもっと重い」と言われたのです。


・ユダヤ人たちは異邦人の家に入ると「汚れる」と考えていました。指導者たちはイエス様を総督の官邸に連行したのですが、ピラトとは外で話したのです。

・「渇(かわ)く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。:詩編69の22をお読みください

・神の国(天の国):死後に行く天国のことではないのです。この世の真っ只(ただ)中にあって、神様が真に崇(あが)められることです。キリスト信仰とはイエス様によって証された「神の国」-神様の支配-の到来を福音(良い知らせ)として信じることです。そして「神の国」の建設に参画することなのです。「救い」はこの世において最も重要な戒め-神様 と隣人を愛することーを実践することによって得られるのです。


(メッセージの要旨)


*大祭司カイアファア、律法学者たちやファリサイ派の人々はイエス様を十字架上で処刑させるために画策するのです。「救い主」(政治的解放者)の到来に歓喜する人々を失望させるために「無力な王」として刑死させるのです。十字架刑はローマが見せしめとして反逆者たちや凶悪犯たちに科した最も残忍な刑罰なのです。ユダヤ人歴史家ヨセフスは紀元前4年に反乱を起こしたユダヤ人2000人がエルサレムの近くでローマ軍によって処刑されたことを記録しています(ユダヤ戦記)。イエス様の時代の人々に悲惨な出来事として記憶されているのです。指導者たちはイエス様を「反乱を企てた者」として訴えているのです。ところが、ピラトは宗教上の問題として自分たちで裁くように命じたのです。律法には神様を冒涜(ぼうとく)する者に対する刑罰が定められています。「主の御名を呪(のろ)う者は死刑に処せられる。共同体全体が彼を石で打ち殺す。・・」(レビ記24:16)、「・・その預言者がわたしの命じていないことを、勝手にわたしの名によって語り、あるいは、他の神々の名によって語るならば、その預言者は死なねばならない」(申命記18:20)があります。指導者たちはイエス様を神様への冒涜の罪で殺すことが出来たのです。ところが、ローマ皇帝に敵対する「ユダヤ人の王」として殺させるのです。イエス様の死を「贖(あがな)いの供え物」として理解することは一面的です。イエス様の中心メッセージは「神の国」の到来です。人々に激しく悔い改めを迫ったのです。死は「神の国」の宣教がもたらした当然の帰結なのです。


*イエス様がゲツセマネで話しておられると12使徒の一人ユダが進み寄って来ました。祭司長、律法学者、長老たちが遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来たのです。彼らはイエス様に手をかけて捕らえ、大祭司のところへ連れて行ったのです。カイアファがイエス様に「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と尋(たず)ねると、「あなたたちは、人の子(イエス様)が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」(ダニエル書7:13-14)と答えられたのです。出席者はイエス様を「神様への冒涜(ぼうとく)の罪」で死刑に処すべきであると決議したのです(マルコ14:43-64)。律法の規定に基づいて殺すことが出来るのです。ところが、夜が明けるとすぐ祭司長たちは長老や律法学者たちと共に最高法院で協議し、イエス様を縛(しば)って引いて行き、ピラトに渡したのです。彼ら自身は官邸に入らなかったのです。汚(けが)れないで過越の食事をするためでした。ピラトが出て来て「どういう罪でこの男を訴えるのか」、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、彼らは「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と反論したのです(ヨハネ18:28-31)。ピラトはイエス様にも「いったい何をしたのか」と尋問(じんもん)しています。「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と言われたのです。ローマへの反逆や強盗殺人のような罪は見つからなかったのです。イエス様を釈放しようとしたのです。


*大祭司たちは「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています」と非難してピラトを脅迫するのです。ピラトが「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と反論すると「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えたのです。ユダヤ教への背信行為です。指導者たちは自分たちの権威と既得権益を守るために「神様」さえも捨てるのです。謀略は成功したのです。イエス様は政治犯として処刑されるのです。「神の国」がこの世の権力者たちによって否定されたのです。犯罪人として処刑されるイエス様は余りにも惨(みじ)めでした。そこには生まれつき目が見えなかった者の目を開けた(ヨハネ9)、死んで四日も経ったザロを蘇らされた(ヨハネ11)時のような力強い「救い主」(解放者)としてのお姿はなかったのです。ローマ軍の兵士たちはイエス様を侮辱(ぶじょく)するのです。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ったのです(ルカ23:36-37)。イエス様は沈黙を貫かれるのです。すべてを神様に委(ゆだ)ねられたのです。自分を救えなかった「救い主」に失望した弟子たちが群れを去ったのです。熱狂的に支持した人々も離反したのです。パウロが言うように「十字架につけられたキリストはユダヤ人(たち)にとって『躓(つまず)きの石』となった・・」のです(1コリント1:23)。イエス様の宣教が挫折(ざせつ)したかのように見えるのです。神様は依り頼む者を見捨てられないのです。死後三日目にご自身の意思を明確にされるのです。


*イエス様の十字架の死を「罪の贖いの犠牲」として解釈することには飛躍(ひやく)があるのです。イエス様がご自身の生と死と復活を通して証された「神の国」-神様がすべての支配者であること-の福音(良い知らせ)はキリスト信仰の真髄です。人間の「全的な救い」として完成するのです。福音を「罪からの救い」に縮小してはならないのです。イエス様も十字架の死において初めて「救い」がもたらされるとは考えておられなかったのです。四福音書の記者が全精力を集中してこの事実を伝えているように、神様はイエス様を通して天上と地上において主権者(支配者)であることを宣言されたのです。新しい天地創造の完成―この世の終わり―に先立ってイエス様を遣わされたのです。すべての人に「悔い改め」の機会を与えられたのです。イエス様も「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」と明言しておられるのです(ヨハネ5:24)。「愛の観点」から律法を解釈し、人々の病を癒(いや)し、罪を赦(ゆる)されたのです。律法の厳格な順守を基本とする指導者たちとの間に対立が生じたのです。「神の国」-神様による正義と愛の実現-の到来は指導者たちの偽善と不正への告発となったのです。地位や既得権益に執着する権力者たちはイエス様をこの世から抹殺するのです。キリスト信仰を標榜(ひょうぼう)する人は社会の現実に無関心であってはならないのです。御跡を辿(たど)るのです。「神の国」の建設に参画して信仰を証しするのです。


*イエス様は罪状書きにあるように「ユダヤ人の王」(政治犯)として処刑されたのです(マルコ15:26)。政治的謀略によって殺されたのです。旧約聖書は神殿政治の中枢を担う指導者たちが民衆を抑圧し、搾取してきた歴史を伝えています(エゼキエル書34)。イエス様の時代においても強大なローマが弱小のユダヤ民族を武力で支配しているのです。イエス様が宣教された「神の国」の到来は貧しい人々や虐(しいた)げられた人々にとって福音となったのです。ところが、キリスト教各派の多くはイエス様の十字架上の刑死が神様の永遠の計画の中にあらかじめ定められた「救いの御業」であることを強調しているのです。キリスト信仰を歴史的事実の中に位置づけて解釈することがほとんど行われていないのです。福音が「霊的な救い(天の国籍の付与)」に限定されているのです。新約聖書において「神の国」の福音が具体的事実によって伝えられているのです。イエス様が「中風(ちゅうぶ)の人」を癒(いや)されたこと(マルコ2:1-12)、「罪深い女性」の罪を赦(ゆる)されたこと(ルカ7:36-50)、神殿政治の不正と腐敗を告発されたこと(マタイ21:12-14)などがその例です。イエス様は社会的、政治的、経済的な問題に深く関与されたのです。ご自身の立場を明確にされたのです。社会の中で最も小さい人々の側に立たれたのです。それ故に、権力者たちから迫害されたのです。「神様の御心」を実現するために十字架刑さえ回避されなかったのです(マルコ14:36)。イエス様は真に苦難の僕となられたのです。

2026年03月29日

「謀略の決行」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書14章1節から11節

さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。彼らは、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。

イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺(つぼ)を持って来て、それを壊(こわ)し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。そこにいた人の何人かが、憤慨(ふんがい)して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣(むだづか)いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬(まいそう)の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣(の)べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。

(注)

・過越祭(すぎこしさい):イスラエルの民がエジプトの奴隷から解放された出来事を記念する祭りです。出エジプト記12:1-13:16をお読み下さい。

・除酵祭(じょこうさい):過越祭の15日から21日までの7日間酵母(こうぼ)を入れないパンを食べたのです。出エジプト記12:1-27を参照して下さい。


・二日前:ニサンの月(現在の暦の3月から4月頃)の13日の水曜日と考えられています。元々、過越祭と除酵祭は別々の祭りでした。実際は一つのものとして執(と)り行われたのです。過越祭は15日(金)にお祝いされました。14日(木)の午後に神殿において「過越しの羊」が捧(ささ)げられたのです。日没と共に15日が始まるのです。一日の数え方が今日とは異なっているのです。安息日は16日の土曜日です。


・べタニヤ:イエス様の宣教の拠点の一つです。エルサレムから近く、キドロンの谷を越えたオリーブ山の麓(ふもと)にあります。


・1デナリオン:平均的労働者の1日分の賃金です。「300デナリオン以上」はほぼ年収に相当するのです。

・お金:銀貨30枚です(マタイ26:14-25)。この額は労働者のおよそ2~3か月分の賃金と同じです。傷を負った奴隷の価格です(出エジプト記21:32)。ゼカリヤ書11:4-17を併せてお読み下さい。

・ユダに関する記述:

■・・そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾(いく)らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。(マタイ26:6-16)

■さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた。祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。ユダは承諾(しょうだく)して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。(ルカ22:1-6)

■・・(死者の中からからよみがえったラザロの姉妹)マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。・・(ヨハネ12:1-8)

●一リトラ:約326gです。

・大祭司カイアファ:イエス様はこの人物を厳しく非難されています。裏切り者のユダに注目が集まるのです。しかし、大祭司が犯した罪はユダの比ではないのです。壮大な陰謀がイエス様を十字架の死に至らせたのです。

■再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」(ヨハネ19:9-11)

・バラバ:ローマの支配を打倒するために闘っていた人々のリーダ-であったと考えられています。総督ピラトはイエス様が死刑に当たるようなことをしていないと明言したのです。ところが、祭司長たちと議員たち、民衆はイエス様ではなく、バラバの釈放を求めたのです。ルカ23:13-19を参照して下さい。

(メッセージの要旨)

*イエス様は辺境のガリラヤ地方で安息日に片手の萎(な)えた人を癒(いや)すなど数多くの奇跡を行われたのです。大勢の群衆がイエス様に従ったのです。律法学者たちやファリサイ派の人々はイエス様の影響力の大きさに不安を抱いたのです(マタイ12:9-14)。エルサレム近郊のベタニアでも死んで四日も経っラザロを生き返らされたのです(ヨハネ11:1-38)。出来事に接したユダヤ人の多くがイエス様を信じたのです。この報告を聞いたエルサレムにいる大祭司や祭司長たちもイエス様を恐れたのです。イエス様はエルサレム神殿の境内から「実力行使」によって商人たちを追い出されたのです。神殿政治を担(にな)う指導者たちはイエス様を殺すために謀議(ぼうぎ)したのです(マルコ11:18)。イエス様を逮捕するための機運は熟しているのです。ただ、「祭りの間はやめておこう」と言っていたのです。結局、実行することになったのです。イエス様はかつて12使徒に「わたしがあなたがたを選らんのである」と言われました(ヨハネ6:70)。イスカリオテのユダに財産管理のような重要な任務を与えられたのです。最後の晩餐(ばんさん)ではイエス様の近くに座って(横たわって)食事をしているのです(ヨハネ13:26)。ところが、ユダが指導者たちの陰謀に加担するのです。一方、イエス様の死を確信した女性がいたのです。高価な香油で弔(とむら)いの準備をするのです。弟子たちは意味を理解出来なかったのです。イエス様はこの人の信仰を高く評価されたのです。ご自身は耐え難い試練に遭遇されるのです。

*イエス様は「わたしは復活であり命である」と言われたのです(ヨハネ11:25)。お言葉だけではなく、実際にも死者を蘇(よみがえ)らされたのです。イエス様は「死の支配」を打ち破られたのです。人間の最大の関心事である死の問題が解決されたのです。「力ある業」に接した人々はイエス様に従ったのです。噂(うわさ)を聞いた人々もイエス様を「神の子」として信じたのです。人々は「永遠の命」の希望に生きることが出来るのです。貧しさの原因を知り、それを取り除くために行動するのです。指導者たちは怒りの矛先(ほこさき)が自分たちとローマに向かうことを危惧(きぐ)したのです。人々の変化はエルサレムの指導者たちに決断させたのです。最高法院(サンヘドリン)において対応策が協議されたのです。ローマの介入を回避するのです。ユダヤ民族とエルサレム神殿を守ることに腐心するのです。総督の信任を得て18年間ローマに協力している大祭司カイアファは政情の安定を最優先するのです。「一人の人間(イエス様)が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だと考えないのか」と主張したのです。この日から指導者たちはイエス様を殺すために奔走(ほんそう)したのです(ヨハネ11:45-57)。ただ、密かにイエス様を逮捕しなければならなかったのです。民衆が騒ぎ出さないように細心の注意を払ったのです。指導者たちは焦っていたのです。そのような時、イエス様の動向に詳しい側近のイスカリオテのユダがお金と引き換えに協力を申し出たのです。逮捕は時間の問題になったのです。

*過越祭は神様がイスラエルの民をエジプトの圧政から救い出された(解放された)出来事に由来しています。神様が人々の篤(あつ)い信仰心に応えられたからではないのです。苦しみを御覧になり、人々に憐(あわ)れみを覚えられたのです。神様はそのようなお方なのです。ユダヤ人たちは毎年神殿で小羊を捧げて神様への感謝を表したのです(出エジプト記12:1-30)。過越祭(除酵祭)の時期、エルサレムの人口はディアスポラ(外国に住んでいるユダヤ人)や各地方から上って来た巡礼者たちによって10万人に膨(ふく)れ上がりました。イエス様も伝統に従い特別な祭りにはエルサレム神殿に巡礼されたのです。すでに、祭司長たちやファリサイ派の人々はイエス様の居所が分かれば届け出るようにと命令を出していました。イエス様を見つけて逮捕するための準備をしていたのです。これまで、イエス様を捕える機会は何度かあったのです。しかし、群衆の反発を恐れたのです(マタイ21:46)。人々はユダヤ人指導者たちやローマの支配者たちから解放してくれる預言者の登場を待ち望んでいたのです。イスラエルの民(ユダヤ人たち)は伝統的に「メシア」(油注がれた者)をそのように理解していたからです。イエス様に政治的指導者としての役割を期待したのです。イエス様はおよそ5000人に食事を提供されたことがありました。人々は満腹したのです。イエス様を王として仰ごうとしたのです。イエス様はそれを拒否されたのです(ヨハネ6:14-15)。イエス様への誤解がバラバの釈放を求める要因の一つになったのです。

*イエス様のエルサレム巡礼は祭司長たちや長老たちにとってイエス様を殺す絶好の機会となるのです。ただ、暴動を誘発しては本末転倒になるのです。過越祭のシーズンにはエルサレムの内外に膨大な巡礼者が集まるのです。イエス様の動向を把握することが不可欠です。イスカリオテのユダが情報提供者になることを引き受けたのです。寝食を共にして「神の国」の福音に携(たずさ)わった12使徒の一人がイエス様を裏切ったのです。なぜそのような行為に及んだのかについては様々に憶測されています。お金に執着していたことが記されています(ヨハネ12:5-6)。イエス様が反ローマ闘争に消極的であることに失望していたとも言われています。実際のところは分からないのです。サタン(悪魔)の誘惑に負けたことだけは確かです。ユダは祭司長たちに「あの男(イエス様)をあなたたちに引き渡せば幾(いく)らくれますか」と言っています。彼らは報酬として銀貨30枚を支払ったのです。イエス様は「人の子を裏切るその者(ユダ)は不幸だ(に災いあれ)。生まれなかった方が・・よかった」と言われたのです(マルコ14:21)。使徒ペトロもイエス様から「サタン、引き下がれ・・」と厳しく叱責(しっせき)されたことがありました(マルコ8:33)。サタンは信仰に自信のある人を標的にして罪に陥(おとしい)れようとするのです。イエス様が教えられた「主の祈り」に「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」があります(マタイ6:19)。誘惑は避けられないのです。祈りがその人を悪から守るのです。

*「神の国」は具体性を備えて到来しているのです。イエス様の「力ある業」を通して、目の見えない人々は見え、足の不自由な人々は歩き、重い皮膚病を患(わずら)っている人々は清くなり、耳の聞こえない人々は聞こえ、死者たちは生き返り、貧しい人々は福音を告げ知らされているのです(ルカ7:22)。ラザロの蘇りはイエス様が「命の主」であり、神様が遣(つか)わされた「神の子」であることを明らかにしたのです。イエス様は民衆の前で律法学者たちやファリサイ派の人々の偽善と不信仰を非難されたのです。エルサレム神殿の腐敗と不正を告発されたのです。搾取(さくしゅ)され、窮乏生活を強いられている群衆はイエス様を熱狂的に支持したのです。指導者たちは暴動化を恐れたのです。イエス様を殺さなければならないのです。イエス様が甦らされたラザロさえも殺そうとするのです(ヨハネ12:10)。「神の国」の到来は民衆にとって「良い知らせ」なのです。ある女性は「イエス様の時」が近づいていることを信仰によって理解したのです。高価な香油を売って貧しい人々に施すよりも、イエス様の埋葬の準備としてそれを用いたのです。この人は普通の信徒です。ただ、信仰心は使徒たちを凌(しの)いでいるのです。イエス様は女性を祝福されたのです。一方、「神の国」の到来は指導者たちに悔い改めを求めているのです。権威と地位を脅(おびや)かし、既得権益を奪い取る「悪い知らせ」となったのです。彼らは「偽りの平和」のためにイエス様を反逆者として処刑させるのです。イスカリオテのユダの罪は真に大きいのです。

2026年03月22日

「天罰の宣告」

Bible Reading (聖書の個所) マタイによる福音書23章13節から36節


・・・「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸(災いあれ)だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分(たち)が入らないばかりか、入ろうとする人(人々)をも入らせない。


† <底本に節が欠けている個所の異本による訳文>律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。やもめの家(家々)を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。だからあなたたちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。


律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡(めぐ)り歩くが、改宗者ができると、自分(たち)より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。

 

ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。あなたたちは、『(だれでも)神殿にかけて誓(ちか)えば、その誓いは無効である。だが、(だれでも)神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。愚(おろ)かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。また、『(だれでも)祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。ものの見えない者たち、供え物と、供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか。(だれでも)祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。(だれでも)神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ。(だれでも)天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。


律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷(はっか)、いのんど、茴香(ういきょう)の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉(こ)して除くが、(一頭の)らくだは飲み込んでいる。


律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲(ごうよく)と放縦(ほうじゅう)で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。


律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。


律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者(たち)の墓を建てたり、正しい人(人々)の記念碑を飾(かざ)ったりしているからだ。そして、『もし(我々が)先祖の時代に生きていても、預言者(たち)の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。こうして、自分(たち)が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ(しなさい)。蛇よ、蝮(まむし)の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免(まぬか)れることができようか。だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤ(ゼカリヤ)の血に至るまで、地上に流された正しい人(人々)の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代(世代)の者たちにふりかかってくる。」・・・


(注)


ファリサイ派の人々:律法を厳格に遵守するユダヤ教の一派です。学識の豊富さから民衆に尊敬されていました。しかし、イエス様は彼らを厳しく批判されたのです。その理由は彼らが偽善者だったからです。マタイ23:1-36を参照してください。一方、律法学者の多くはファイサイ派によるモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)(トーラ)の解釈を支持していました。イエス様と対立した律法学者たちはファイサイ派に属していました。


・律法学者たち:文書を記録する官僚であり、同時に学識を有する学者です。多くはイエス様に批判的でしたが、「先生,あなたがおいでになる所ならどこへでも従って参ります」と言った律法学者もいたのです(マタイ8:19)。

・指導者たちの腐敗:イスラエルの歴史において「良い羊飼い」は極めて少なかったのです。「・・主なる神はこう言われる。災(わざわ)いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者(たち)は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠(ほふ)るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷(かこく)に群れを支配した。・・」(エゼキエル書34)。


・バラキア(バラキヤ)の子ゼカルヤ(ゼカリヤ):


■神の霊が祭司ヨヤダの子ゼカルヤ(ゼカリヤ)を捕らえた。彼は民に向かって立ち、語った。「神はこう言われる。『なぜあなたたちは主の戒めを破るのか。あなたたちは栄えない。あなたたちが主を捨てたから、主もあなたたちを捨てる。』」ところが彼らは共謀し、王の命令により、主の神殿の庭でゼカルヤ(ゼカリヤ)を石で打ち殺した。ヨアシュ王も、彼(ゼカリヤ)の父ヨヤダから寄せられた慈しみを顧みず、その息子を殺した。ゼカルヤ(ゼカリヤ)は、死に際して言った。「主がこれを御覧になり、責任を追及してくださいますように。」(歴代誌下24:20-22)

●内容から祭司ヨヤダの子ゼカルヤ(ゼカリヤ)のことです。マタイはバラキア(バラキヤ)の子ゼカルヤ(ゼカリヤ)として紹介しているのです。ゼカリヤ書に登場するイドの孫でベレクヤ(バラキヤ)のゼカリア(ゼカリヤ)と混同しているのです(ゼカリヤ書1:1)。人物表記を統一することが必要です。

・薄荷(はっか)、いのんど、茴香(ういきょう):

●最も小さいハーブです。十分の一の捧げ物の対象にはなっていないのです。律法学者たちやファリサイ派の人々はこれらを捧げて信仰心を誇っているのです。

・ぶよ(蚋)、らくだ:ぶよは汚れた昆虫です(レビ記11:41-44)。らくだもまた汚れた動物です(レビ記11:4)。


・神の国:神様の支配、主権のことです。イエス様は「神の国」を宣教するためにご生涯を捧げられたのです。復活された後も40日間それを語られたのです。キリストの弟子たちもイエス様に倣(なら)うのです。困難に耐える覚悟がなければ「神の国」に招かれることはないのです。

 

■イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた(神様にお委ねした)者は誰でも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」(マルコ10:29-30)。

●イエス様のお言葉の中に夫や妻は含まれていないのです。二人は切り離すことが出来ないからです。

(メッセージの要旨)


*福音書にはイエス様に従わなかった(従えなかった)人々の歩みが記録されています。金持ちの男性にとっては財産がイエス様への信仰の妨げとなったのです(マルコ10:17-31)。しかし、イエス様は「神様に出来ないことは何もない」と言われるのです。重い皮膚病を患っている十人の人が全員癒(いや)されました。ところが、イエス様を信じた人はユダヤ人たちから蔑(さげす)まれていたサマリア人の一人だけだったのです(ルカ17:11-19)。それでも、イエス様は「・・これらの小さな者(迷い出た羊)が一人でも滅びることはあなたがたの天の父の御心ではない」と言って、「悔い改め」を待っておられるのです(マタイ18:14)。罪を犯さない人は誰もいないのです。しかし、イエス様は民衆の罪と律法学者たちやファリサイ派の人々の罪を明確に区別しておられるのです。誰も先生(権威ある者)と呼ばれてはならないのです。イエス様以外は皆兄弟姉妹なのです。誰も教師(学問の先生)と呼ばれてはいけないのです。教師はイエス様お一人だけだからです(マタイ23:8-10)。指導者たちはモーセの座について人々に律法の順守を語っているのです。ところが、自分たちはそれを実行しないのです。偽善者たちは「この男は多くのしるしを行っているが、・・このままにしておけば皆が彼を信じるようになる。・・」と言って、イエス様への反発を強めるのです(ヨハネ11:47-48)。イエス様はこれらの人に「天罰」を宣告されたのです。指導者たちは権威の維持と既得権のためにイエス様を殺そうと画策するのです。


*ローマの支配下にあって、ユダヤ人たちは社会的、経済的、政治的な行動において常に慎重さを求められたのです。イエス様の言動は律法学者たちやファリサイ派の人々の不安と反発を招いたのです。「安息日」に癒しの業を行い、ご自身を「神様の子」と主張し、民衆の面前で指導者たちを公然と非難したのです。イエス様は命の危険に晒(さら)されることになったのです。特に、洗礼者ヨハネが殺されたことを聞いて、ご自身の死が避けられないことを確信されたのです(マルコ6:14-29)。イエス様は「神の国」(天の国)―神様の支配―の到来を福音として宣教されたのです。ご自身への信仰が「救い」を決定するという絶対的な要求をされたのです、こうした主張は唯一の神様を信じているユダヤ人たちに戸惑いを与えたのです。イエス様は「神様の御心」を実現するために立場を曖昧(あいまい)にされることはなかったのです。むしろ、ご自身の方からこの世の権力者たちとの対立軸を鮮明にされたのです。社会から排斥された罪人たち、疎外(そがい)された貧しい人々や虐(しいた)げられた人々と共に歩まれたのです。神様の支配を拒絶する権力者たちは総力で抵抗するのです。伝統的な信仰理解を否定し、社会秩序を根底から覆(くつがえ)すイエス様はローマの介入を招く危険人物なのです。十字架上で処刑されたイエス様に「救いの意味」を求めるだけではキリスト信仰を理解したことにはならないのです。イエス様の死は「神の国」の宣教がもたらした当然の帰結(きけつ)なのです。キリストの信徒たちに覚悟が求められるのです。


*イエス様と律法学者たちやファリサイ派の人々との対立の要因は「信仰上の問題」だけではないのです。これらの人の偽善と腐敗にあったのです。することはすべて人々に自分たちの信仰心を見せるためなのです。神様に栄光を帰するより、人々から称賛を得るために行っているのです。モーセの律法を人々に教えているのですが、自分たちはそれらを実行しないのです。熱心に宣教活動を行うのですが、信仰を受け入れた人々は彼らに見倣(みなら)い何倍も悪い信徒になっているのです。恣意的(しいてき)な解釈によって律法を歪曲(わいきょく)しているのです。献金の対象ではない小さな農産物を捧げて信仰心の篤(あつ)さを誇るのですが、最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているのです。信仰心を装(よそお)うのですが、心の中は強欲、放縦、不法で満ちているのです。真実を語る預言者、長老、学者たちを十字架につけ、誠実に生きる人々に鞭を打って迫害するのです。イエス様は「・・あなたたち偽善者は不幸だ」と言われたのです。しかし、この訳はイエス様の本来の「激しい怒り」を和(やわ)らげているのです。「あなたたち偽善者に災いあれ(天罰が下れ)」と訳されるべき内容なのです。イエス様を優しく、穏やかなお方として表現したいという心情は理解出来るのです。ただ、実像を歪(ゆが)めてはならないのです。イエス様は彼らを蛇や蝮の子らと呼ばれたのです。断じて赦されないのです。「地獄の罰」を宣告されたのです。イエス様は「神様の御心」を実現しようとされているのです。命さえも惜しまれないのです。


*イエス様は律法学者たちやファリサイ派の人々に「あなたたちは(旧約)聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。・・聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」と言われました(ヨハネ5:39-40)。イエス様は「救い主(命の与え主)」なのです。「お言葉」と「力ある業」(癒しの業)が証明しているのです。「永遠の命」に与(あずか)るためにイエス様を信じることは始まりです。「神の国」の建設-神様と隣人を愛すること-に参画することは必須の要件なのです。指導者たちは地位と名声を求め、既得権益に執着(しゅうちゃく)し、「神様の御心」を軽んじ、自分たちの使命を放棄しているのです。福音書にはイエス様とこれらの人との激しい対立が記録されています。福音宣教を妨(さまた)げている人々には「神様の罰」が下されるのです。イエス様はこの事実を前もって明らかにされたのです。キリスト信仰を標榜(ひょうぼう)する教派のテキストやパンフレットに「この教会は聖書に忠実です」と書かれていることがあります。行動によって裏付ける責任が伴うのです。イエス様は明確にされました。キリスト信仰は「安価な恵み」ではないのです。エゼキエル書34章やマタイ23章などは警告です。大勢の群衆がイエス様の教えに喜んで耳を傾けていたこと(マルコ12:37)、民衆が皆夢中になってイエス様の話に聞き入ったこと(ルカ19:48)が伝えられています。人々はお言葉を選別しなかったのです。倣(なら)うのです。


*律法学者たちやファリサイ派の人々は「神様の名」によって自分たちの権威を正当化しているのです。イエス様は人々の誤解を正されるのです。イエス様以外は皆兄弟なのです。教師はキリストお一人だけなのです。ところが、多くの人が先生とか教師と呼ばれているのです。中には信徒たちを養わない指導者たちがいるのです。イエス様と指導者たちとの対立を念頭に置いて聖書を読むことが必要です。少数の例外を除いて、イエス様はこれらの人の罪を決して赦されなかったのです。聖書の大切さが謳われています。その通りなのです。問題はそれぞれの信仰理解によって聖書の個所が恣意的(しいてき)に選別されていることなのです。時には、聖書の内容を自分の都合に合わせて理解しているのです。主客が転倒しているのです。このような信仰を積み重ねても自己満足に過ぎないのです。「永遠の命」を得るためにイエス様を自分の「主」とするのです。イエス様が歩まれた道を自分も辿(たど)るのです。律法学者たちやファリサイ派の人々は聖書を熱心に研究しているのです。知識も豊かなのです。ところが、イエス様の弟子になることは拒否するのです。キリスト信仰に対する誤解があるのです。イエス様を「救い主」として信じたことによってその人に「救い」が訪れるのではないのです。キリストの弟子として生きた人が「救い」に与るのです。新約聖書に具体例が紹介されています。最後の審判において「神様と隣人への愛」を実行したかどうかが問われるのです。「行い」のない信仰は空しいのです。何の役にも立たないのです(ヤコブ書2:17)。

2026年03月15日

「イエス様の戦略」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書22章15節から22節

それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。

(注)

・ファリサイ派:律法を日常生活に厳格に適用したユダヤ教の一派です。しかし、イエス様は彼らの偽善を厳しく批判されました。具体例はマタイ15:1-20をお読みください。

・ヘロデ派:ガリラヤとペレアを統治した総督ヘロデ・アンティパス(ヘロデ大王の三人の息子の一人)あるいはヘロデ王朝の支持者たちのことです。このグループの行動についてはマルコ3:6;12:3にも記述されています。

・デナリオン:ローマ帝国内に流通する銀貨です。当時の平均的労働者の一日分の賃金に相当します。皇帝の「頭部の像」と「『ティベリウス・シーザー、神であるアウグストの息子』の文字」が刻印(こくい
ん)されています。

・十戒:基本となる戒めです。

■わたしは主、あなた(がた)の神、あなた(がた)をエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなた(がた)には、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなた(がた)はいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなた(がた)はそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否(いな)む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈(いつく)しみを与える。(創世記20:2-6)

・神の国(天の国):キリスト信仰の根本理念です。「神様の支配」、「神様の主権」を表す言葉です。誤解されているのですが、死後に行く「天国」のことではないのです。

(メッセージの要旨)

*イエス様はエルサレムに入城した後ご自身の方から神殿政治を担う指導者たちの不信仰と腐敗を公然と非難されたのです。一方、祭司長たちや律法学者たちは知恵を絞り、持てる権力を総動員してイエス様に反撃するのです。ファリサイ派の人々は対立するヘロデ派の人々と手を結び、共通の敵であるイエス様を殺そうと画策するのです。ただ、民衆の熱狂的な支持が計略を妨げているのです。そこで、「税の問題」を取り上げたのです。二つの大きな目的がありました。一つはイエス様を反逆罪でローマの当局者に引き渡すことです。もう一つは民衆を自分たちの側に取り戻すことです。イエス様が皇帝ティベリウス・シーザーに税金を納めるべきでないと言えば、ローマによって処刑されるのです。納税すべきであると答えれば重税に喘(あえ)ぐユダヤ人たちの支持を失うのです。イエス様は厳しい政治状況を踏まえて納税の是非に言及されなかったのです。信仰の観点から「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われたのです。「神様の名」によって不正が行われているのです。「税の在り方」を問う前に自らを正しなさいと命じられたのです。強大なローマの支配下にあって「神様の御心」-正義と隣人愛の実現-を具体化するために最も相応しいお答えをされたのです。キリスト信仰が誤解されているのです。キリスト信仰とはイエス様のご生涯に倣(なら)って生きることです。そのことを宣言した人がキリストの信徒と呼ばれるのです。人は信仰によって救われるのではないのです。「神の国」の建設に参画して「永遠の命」に与るのです。

*神殿が「強盗の巣」になっているのです。イエス様の実力行使(マルコ11:15-17)は神殿政治を一時的であっても機能停止させたのです。イエス様と指導者たちとの対立は決定的となったのです。祭司長たちや律法学者たちは激怒し、イエス様をどのようにして殺そうかと謀議(ぼうぎ)したのです。しかし、群衆がイエス様の教えに共感していたので手を下せなかったのです。この後、これらの人は神殿の境内でイエス様に出会い「何の権威であのようなことをしたのか」と尋(たず)ねたのです。イエス様も「(洗礼者)ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」と逆に質問されたのです。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。しかし、『人からのものだ』と言えば、群衆が怖(こわ)い・・」などと論じ合って、結局「分からない」と答えたのです(マタイ21:21-27)。権力者たちを恐れてはならないのです。神様こそ最も恐れるべきお方だからです(ルカ12:4-7)。洗礼者ヨハネは領主ヘロデ・アンティパスとその兄弟の妻ヘロデアとの結婚を律法違反げあると批判したのです(マルコ6:14-29)。イエス様も指導者たちの偽善と不正を敢然と告発されたのです。その後も「二人の息子のたとえ」(マタイ21:28-32)、「ぶどう園と農夫のたとえ」(マルコ12:1-12)、「律法学者たちへの非難」(ルカ14:15-24)を通して、これらの人の不信仰を批判されたのです。「神の国」に入れないことが明らかになったのです。

*犬猿(けんえん)の仲にあったファリサイ派とヘロデ派の人々が協力して共通の敵であるイエス様を抹殺しようとしているのです。周到な準備をして論争に臨んでいるのです。名誉欲を煽(あお)るために、見え透(す)いたお世辞によって褒(ほ)めているのです。イエス様が慢心(まんしん)し、ローマへの不服従を吐露(とろ)するように仕向けているのです。しかし、すでに「・・神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌(い)み嫌われるものだ」と反論しておられるのです(ルカ16:15)。人間による賞賛がイエス様のご判断に影響を及ぼすことなどないのです。さらに、謙虚さを装(よそお)いながら攻撃を先鋭化するのです。「お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適(かな)っているでしょうか、適っていないでしょうか」と政治的な質問によって罠(わな)に掛けようとしているのです。皇帝に税金を払わないように扇動(せんどう)すれば、ローマへ反旗を翻(ひるがえ)したことになるのです。「反乱罪」に問われるのです。律法に適っていると答えれば「・・同胞でない外国人をあなた(がた)の上に立てることはできない」の規定に違反するのです(申命記17:14-15)。神様を父と公言されるイエス様に「神の息子」と称するローマ皇帝への忠誠心が求められているのです。イエス様が宣教された「神の国」とこの世とは両立しないのです。しかも、イエス様は「何よりもまず、神の国と神の儀(正義)を求めなさい」と言われたのです(マタイ6:33)。お言葉を自ら実行されたのです。

*ファリサイ派の人々やヘロデ派の人々にとってイエス様がどのように答えられるかについて興味はなかったのです。所期の目的を必ず達成することが出来ると確信していたからです。イエス様は「十字架上の死」あるいは「福音宣教の挫折」という大きな代償を払うことになるのです。デナリオン銀貨には「皇帝の像」と「神であるアウグストの息子の文字」が刻(きざ)まれているのです。イエス様は「納税の是非」について返答する前に、指導者たちの内側が偽善と不法に満ちていることを暗に批判されたのです(マタイ23)。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われたのです。前半の「皇帝のものは皇帝に返しなさい」においてローマの法律が肯定されているのです。後半の「神のものは神に返しなさい」はユダヤ民族の問題であることからローマは介入しないのです。ユダヤ人にとってすべての判断基準は「十戒」にあるのです。偽善者であるとはいえ指導者たちもそれらを厳格に守っているのです。これらの人は銀貨に刻印されている「ローマ皇帝の像」や「神様を騙(かた)る言葉」が律法に違反していることを知っているのです(申命記5:8)。ローマによる「神様への冒涜(ぼうとく)の罪」を告発する義務があるのです。この点を曖昧(あいまい)にしているのです。「納税の是非」のみを議論することは出来ないのです。イエス様は最善のお答えによって反論されたのです。指導者たちの不信仰が明らかになり、彼らの権威は失墜することになったのです。民衆は権力者たちと対峙(たいじ)する方法と知恵を学び取ったのです。

*ユダヤ人たち(イスラエル)は外国の勢力に何度も抑圧され苦しめられて来ました。原因が不信仰にあったことは歴史的に証明されているのです。イエス様の時代においてもローマがユダヤの全土を支配していたのです。指導者たちは民族として生き延びるために不当な要求を甘んじて受け入れたのです。「大祭司の任命権」や「十字架刑の執行権」は取り上げられたのです。しかし、民族としての「自治権」はかなり認められたのです。貧しい人々は苛酷(かこく)な徴税によって窮乏生活を強いられているのです。ヨ洗礼者ハネの宣教の第一声は「悔い改めよ。天の国は近づいた」でした(マタイ3:2)。イエス様も「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って宣教を開始されたのです(マルコ1:15)。「神の国」の到来が福音(良い知らせ)として告げ知らされているのです。人々は憐み深い神様が地上に再び「正義」を確立して下さることに歓喜したのです。ファリサイ派の人々は対立していたヘロデ派の人々と手を結んだのです。これらの人は謀略によってイエス様を追い詰めるのです。イエス様は厳しい政治状況を踏まえて「納税の是非」に直接答えられなかったのです。信仰のあり方を内省させるために「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われたのです。ローマの支配下にあって「神様の御心」-社会正義と隣人愛-を追求することは容易ではないのです。イエス様のお答えは示唆(しさ)に富んでいるのです。キリストの信徒たちは慎重に行動するのです。何事も「信仰の観点」から始めるのです。

2026年03月08日

「最後の闘い」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書11章1節から20節


一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけるとイエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。


翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。


それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。


翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。

(注)

・受難週:今年のイースターは4月5日の日曜日です。イエス様のエルサレム入城、十字架上の処刑、三日目の復活は「神の国」-神様の支配-が到来していることを証明しているのです。

・オリーブ山:エルサレムの東にある高い丘のことです。

・ベトファゲ:場所については不明です。

・ベタニア:エルサレムの東南およそ3.2kmnに位置しています。

・ホサナ:「今救って下さい」という意味です。

・いちじくの木:旧約聖書では預言者たちが実を結ばない「イスラエル」に例えています。

■わたしは彼らを集めようとしたがと/主は言われる。ぶどうの木にぶどうはなく/いちじくの木にいちじくはない。葉はしおれ、わたしが与えたものは/彼らから失われていた。(エレミヤ書8:13)

■荒れ野でぶどうを見いだすように/わたしはイスラエルを見いだした。いちじくが初めてつけた実のように/お前たちの先祖をわたしは見た。ところが、彼らはバアル・ペオル(異教の神バアルを信じている所)に行った。それを愛するにつれて/ますます恥ずべきものに身をゆだね/忌(い)むべき者となっていった。(ホセア書9:10)

■悲しいかな/わたしは夏の果物を集める者のように/ぶどうの残りを摘む者のようになった。もはや、食べられるぶどうの実はなく/わたしの好む初なりのいちじくもない。(ミカ書7:1)

・祈りの家:イザヤの預言

■・・宦官(かんがん)が、わたしの安息日を常に守り/わたしの望むことを選び/わたしの契約を固く守るならわたしは彼らのために、とこしえの名を与え/息子、娘を持つにまさる記念の名を/わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない。また、主のもとに集って来た異邦人が/主に仕え、主の名を愛し、その僕となり/安息日を守り、それを汚すことなく/わたしの契約を固く守るならわたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。(イザヤ書56:4-7)


・強盗の巣:エレミヤの預言


■・・主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦(かふ)を虐(しいた)げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。・・しかし・・盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟(そうくつ)と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。(エレミヤ書7:1-15)

・仮庵祭:神様が圧政に喘(あえ)ぐスラエルの人々をエジプトの国から導き出したとき、彼らを仮庵(かりいお)に住まわせられたことを記念する祭りです。レビ記23:40―43を参照して下さい。

・シロ:エルサレムの北およそ32kmに位置しています。イスラエルの部族の集合場所です。そこに「臨在の幕屋」(神様がおられるテント)がありました。ヨシュア記18:1を参照して下さい。

・エルサレム神殿:イスラエルの信仰の中心地であるだけでなく、政治的機能を担っていたのです。ヘロデ大王(紀元前37年‐4年)によって再建されました。後にローマ軍によって徹底的に破壊されたのです(紀元後70年)。


・貨幣の両替:エルサレム神殿に献金するためには各国に流通している通貨をユダヤ人の「シェケル銀貨」に交換する必要がありました。両替人たちは不当な交換比率で利益を得ていたのです。

(メッセージの要旨)

*イエス様はエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人(たち)に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する」と言われました(マタイ20:17-19)。ご自身の死と復活を予告されたのです。イエス様は迫害を覚悟してエルサレムへ入られたのです。神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返されたのです。境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかったのです。イエス様の実力行使は一時的な気まぐれではないのです。前日に辺りの様子を見て回っておられることから十分に計画された行動なのです。イエス様は不正な商人たちを排除し、神殿政治を担う指導者たちの腐敗に激しく抗議されたのです。出来事がメッセージのテーマとして取り上げられることはほとんどないのです。言及したとしても、イエス様の振舞いを純粋に信仰の観点から解釈したのです。霊性の欠如や見せかけの信仰心、礼拝の商業化への非難として説明したのです。このような信仰理解は重要な視点を見落としているのです。イエス様は両替人たちやハトを売る商売人たちを単なる憤りによって追い出されたのではないのです。エルサレム神殿が「祈りの家」ではなくなったのです。しかも、「強盗の巣」と化しているのです。不信仰の極みなのです。「信仰のセンター」の使命を放棄したことに激怒されたのです。


*イエス様はエルサレムに入城されたのです。これまでも過越際(ヨハネ2:13)、ユダヤ人の祭り(ヨハネ5:1)、仮庵祭(ヨハネ7:10)、神殿奉献記念祭(ヨハネ10:22)に巡礼しておられるのです。今回は「娘シオンよ、大いに喜べ。/娘エルサレムよ、喜び叫べ。/あなたの王があなたのところに来る。/彼は正しき者であって、勝利を得る者。/へりくだって、ろばに乗って来る/雌ろばの子、子ろばに乗って」(ゼカリヤ書9:9)が実現したのです。威風堂々と馬でなく、ご自身を低くして子ろばに乗って入られたのです。人々は自分の上着、野原から持って来た葉の付いた枝を道に敷いたのです。これらの行動はイスラエルの古事に由来するのです。「彼らはおのおの急いで自分の上着を脱ぎ、階段の上にいたイエフの足元に敷いた。そして角笛を吹き鳴らし、『イエフが王となった』と宣言した」のように、イスラエルの王の戴冠式を想起させるのです(列王記下9:13)。人々は「ホサナ・・いと高き所にホサナ」と叫んだのです。ローマの支配下にあって苦しむユダヤ人たちはイエス様をいわゆる「救い主」としてだけでなく、社会的、政治的な解放者として理解したのです。外国の勢力から守り、イスラエルを繁栄させたダビデ王の再来に歓喜したのです。すでに、大祭司を自分たちで選出する権限が奪われているのです。指導者たちは政情不安に乗じてローマが介入することを恐れたのです。イエス様を殺すために謀議するのです。イエス様の過激な行動は国の 存亡に関わる出来事なのです。十字架刑を適用する根拠となったのです。


*イエス様の怒りは商人たちだけに向けられているように見えるのです。しかし、一連の行動の真の目的は指導者たちの不信仰と腐敗を告発することにあったのです。マルコはこの点を特に強調しているのです。イエス様は両替人たちや鳩の販売人たちを神殿の境内から追い出しただけでなく、弟子たちや他の人々の協力を得て広大な境内を封鎖されたのです。礼拝に必要な通貨交換や生贄(いけにえ)の購入が出来なくなったのです。平時としては前代未聞の事件が起こったのです。イエス様は「強盗の巣」という言葉によって境内にいたすべての人に過去の歴史を想起させられたのです。古代のイスラエルは神様を試み、反抗し、戒めを守らなかったのです。憤(いきどお)られた神様はシロの「臨在の幕屋」を敵の手に渡されたのです(詩篇78:56-60)。預言者エレミヤの時代にも、神様は「わたしの名によって呼ばれ、お前たちが依り頼んでいるこの(エルサレム)神殿・・に対して、わたしはシロにしたようにする」と言われたのです(エレミヤ書7:14)。イエス様も指導者たちが悔い改めなければ、いちじくの木が根元から枯れたよう神殿が崩壊(ほうかい)することを予告されたのです。別の個所では「もしこの日に、お前(エルサレム)も平和の道をわきまえていたなら(人々を抑圧して偽りの平和を作ろうとしなければ)神様の裁きを招かなかったであろう」と言って涙を流されたのです(ルカ19:41-44)。後に、イエス様の危惧(きぐ)は現実となるのです。西暦70年、強大なローマ軍はエルサレムと神殿を完全に破壊したのです。

*エルサレム神殿はイスラエル(ユダヤ人たち)にとって「信仰のセンター」です。しかし、その役割を果たしたことはほとんどなかったのです。イエス様は神殿政治の腐敗をこれまでのように言葉だけではなく実力行使によって非難されたのです。何世紀にもわたって、イエス様の過激な行動は純粋にユダヤ人たちの不信仰を告発する行為として語られ、神殿礼拝の商業化や形式的な捧げ物によって罪の赦しを得ようとする巡礼者たちの偽善性への批判として理解されて来たのです。いずれも、信仰の観点から評価されているのです。本質的な問題への言及を欠いているのです。エルサレム神殿は単なる「信仰のセンター」ではないのです。イスラエルの社会・政治・経済を支配する統治機関なのです。司法、立法、行政を管轄(かんかつ)しているのです。権力の中枢(ちゅうすう)を担う最高機関(サンヘドリン)があるのです。イエス様はここで大祭司による裁判を受けられたのです(マルコ14:53-65)。議員、長老、律法学者たちからなる議会が招集され、ペトロとヨハネは取り調べを受けたのです(使徒言行録4:5-18)。「中央銀行」として経済活動をコントロールし、莫大な富を保管する金庫の役割を果たしているのです。ここから、生活に直結する布告や命令が出されているのです。指導者たちは民衆を犠牲にしてローマのために働いているのです。「神様の名」によって圧政と搾取を正当化し、私腹をも肥やしているのです。エルサレム神殿は神聖を装(よそお)うのです。内側は偽善と放縦に満ちているのです。神様は厳しく罰せられるのです。

*イエス様は「神の国」の到来を福音として宣教されたのです。権力者たちには堂々と対峙(たいじ)されたのです。ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て「ヘロデ(ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパス)があなたを殺そうとしています」と警告したのです。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい」と言われたのです(ルカ13:32)。武力でローマ帝国に抵抗する熱心党(ゼーロータイ)が用いたあだ名(狐)によってヘロデに挑戦されたのです。エルサレムにおいては指導者たちの偽善と不正を公然と非難されたのです。「神様の罰」を恐れて声を上げられなかった「民衆の怒り」を代弁されたのです。神殿政治の告発は「神様の御心」に沿うことであり、「民衆の権利」であることを教えられたのです。民衆の多くはイエス様の教えと行動を支持したのです。一方、指導者たちは激しく反発したのです。民衆の熱烈な歓迎ムードが政治の不安定要因になることを鋭く感じ取ったのです。大祭司カイアファは最高法院を召集したのです。祭司長たちやファリサイ派の人々は状況を分析して「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」と結論づけたのです(ヨハネ11:48)。指導者たちはローマの介入を招き、ユダヤ人の自治権がこれ以上奪われることを危惧したのです。その後、民衆は悔い改めて「神の国」を受け入れる人々とイエス様の処刑に賛成する人々とに分かれて行くのです。

2026年03月01日

「思い出しなさい」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書18章15節から35節

「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟(教会のメンバー)がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国(神の国)は次のようにたとえられる。ある王が、家来(奴隷)たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐(あわ)れに思って、彼を赦(ゆる)し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間(同僚の奴隷)に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を(拷問をするために)牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟(あるいは姉妹)を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

(注)

・家来:日本語訳はたとえ話の意味を曖昧(あいまい)にするのです。「奴隷」と訳さなければなりません。物語は「王と家来」ではなく「王と奴隷」の関係として語られているのです。

・牢役人(ろうやくにん)に引き渡した:単に引き渡されたのではないのです。日本語訳では「拷問(ごうもん)をするために」という言葉が省略されているのです。赦さない人には厳しい罰が待っているのです。

・一万タラントン:1タラントンは平均的労働者の15年分以上の賃金に相当します。それの一万倍です。想像できないほどの金額なのです。

・百デナリオン:1デナリオンは平均的労働者の一日分の賃金です。


・赦し:この言葉には「解放する」という意味があるのです。

・天の国(神の国):死後に行く天国のことではないのです。この世の真っ只(ただ)中にあって、神様が神様として真に崇(あが)められることです。キリスト信仰とはイエス様によって具体化された「天の国」-神様の支配-を福音(良い知らせ)として信じることです。そして「神の国」の建設に参画することなのです。

・主の祈り:イエス様が弟子たちと群衆に教えられた祈り(山上の説教から)。

■・・だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧(かて)を今日与えてください。わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭(あ)わせず、/悪い者から救ってください。』もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。(マタイ6:9-14)

・神様の御心:

■寡婦(かふ)や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなた(たち)が彼(ら)を苦しめ、彼(ら)がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる。もし、あなた(たち)がわたしの民、あなた(たち)と共にいる貧しい者(たち)に金を貸す場合は、彼(ら)に対して高利貸し(債権者)のようになってはならない。彼(ら)から利子を取ってはならない。もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆(おお)う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。(出エジプト記22:21-26)

■あなた(がた)は隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。・・心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば(あなたがたが)彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。(レビ記19:13-18)


■七年目ごとに負債を免除しなさい。負債免除のしかたは次のとおりである。だれでも隣人に貸した者は皆、負債を免除しなければならない。同胞である隣人から取り立ててはならない。主が負債の免除の布告をされたからである。・・『七年目の負債免除の年が近づいた』と、よこしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい。その同胞があなたを主に訴えるならば、あなたは罪に問われよう(罰を受ける)。彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなた(たち)に命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者(たち)に手を大きく開きなさい。(申命記15:1-11)

■主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者(人々)を虐げる者(たち)の手から救え。寄留の外国人(たち)、孤児(たち)、寡婦(たち)を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人(たち)の血を流してはならない。(エレミヤ書22:3)

■もし、ある人が正しく、正義と恵みの業を行うなら、すなわち、山の上で偶像の供え物を食べず、イスラエルの家の偶像を仰ぎ見ず、隣人の妻を犯さず、生理中の女性に近づかず、人を抑圧せず、負債者の質物を返し、力ずくで奪わず、飢えた者(人々)に自分のパンを与え、裸の者(たち)に衣服を着せ、利息を天引きして金を貸さず、高利を取らず、不正から手を引き、人と人との間を真実に裁き、わたしの掟に従って歩み、わたしの裁きを忠実に守るなら、彼こそ正しい人で、彼は必ず生きる、と主なる神は言われる。(エゼキエル書18:5-9)

・ユダヤ戦争:ユダヤ人たちがローマ帝国の支配を打ち砕くために蜂起した闘いのことです(西暦66-70年)。ユダヤ人歴史家ヨセフスの「ユダヤ戦記」に詳しく書かれています。

(メッセージの要旨)

*「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。ここに「福音の真理」があるのです。わたしたちは多くの罪を赦されているのです。ところが、いつの間にか自分を信仰心の篤い人間の範疇(はんちゅう)に入れているのです。罪を犯したことがなかったかのように振舞っているのです。罪人の赦しを七回までに制限し、教会から追放することも容認しているのです。イエス様は見せかけの信仰心を誇る律法学者たち(ファリサイ派の人々)に厳しい天罰を宣告されたのです(マルコ12:38-40)。「いったいだれが、天の国で一番偉いのでしょうか」と質問する弟子たちに「心を入れ替えなければ天の国に入ることは出来ない」と明言されたのです(マタイ18:1-5)。信仰の傲慢は死に至る病なのです。徴税人たちは罪人として軽蔑され、社会から排斥されていました。しかし、神様は「罪人のわたしを憐れんで下さい」と祈った徴税人を「正しい人」として認められたのです(ルカ18:9-14)。罪人であることを自覚し、悔い改めを経験した人の言葉に説得力があるのです。謙虚さと同じ目線が相手に伝わるからです。ペトロの質問は兄弟(姉妹)を心情的に赦すことだけではないのです。債権を放棄することなのです。多額の負債を帳消しにしてもらった人は自分に負債のある人の返済義務を免除するのです。ペトロは自分の経験を思い出すべきです。「七の七十倍」によって赦されたのです。イエス様は不可能に見えることを可能にされるお方なのです。

*罪を犯した兄弟(姉妹)には配慮するのです。最初は二人だけのところで罪を指摘するのです。次に、一人または二人に加わってもらい悔い改めを促(うなが)すのです。聞き入れなければ教会の指導を仰ぐのです。それでも拒否するなら神様を知らない異邦人か徴税人のように見なして対応するのです。忠告する人(人々)と悔い改めを必要とする人が登場します。前者は二組に分けられるのです。自分を忠告するに相応しい人物として評価している人と自分も罪人の一人であることを認識している人です。イエス様のご指示に対する受け取り方は異なるのです。信仰に自信がある人は忠告に耳を傾けない罪人に罰を与えるのです。教会から追放することが容認されたものとして解釈するのです。一方、裁く資格がないことを自覚している人は罪人に憐れみ深いのです。忍耐して「福音の真理」について原点から教えることとして理解したのです。イエス様は兄弟が犯した罪の詳細について述べておられないのです。たとえ話から借金の返済に関係しているように推測されるのです。一定の手続き(七回)を終えた後に「救い」への道が閉ざされているのです。教会の不寛容と怠惰(たいだ)を非難されているのです。二人または三人が心を一つにして兄弟(姉妹)の「救い」を願うなら、イエス様が悔い改めへと導かれるのです。かつてご自身の死と復活を否定するペトロに「サタン、引き下がれ」と叱責(しっせき)されたのです(マタイ16:23)。後に、ペトロは立ち直って初代教会のリーダーになったのです。「神様の御心」を読み違えてはならないのです。

*たとえ話を理解するためには当時の社会的背景を知ることが不可欠です。ローマは税に関する不平の申し立てを一切拒否したのです。総督ポンティオ・ピラトなどは権力を笠に着てユダヤ人たちに貢物を献上させたのです。ユダヤ人の多くが窮乏生活に喘(あえ)いでいました。その中心に農民たちがいたのです。ローマの重税によって綱渡りの生活を強いられていたのです。その日の糧(かて)を確保するために奔走(ほんそう)したのです(マタイ6:25)。生きるために翌年の作付けに必要な種子までも食料にしたのです。民衆を苦しめたのは税金だけではないのです。負債(借金)でした。農民の多くは税金を支払うために、農業を継続するために金持ちたちから借金をしたのです。このパターンを毎年繰り返したのです。それ以外に選択肢はなかったからです。負債は累積したのです。返済期日は必ず来るのです。返済不能に陥(おちい)る人も少なくなかったのです。農民たちに過酷(かこく)な現実が待っているのです。金貸しには債権の回収のために債務者や家族を奴隷として売ることが許されていたのです。負債が比較的少額の場合は長男を奴隷として売らせたのです。男性の労働力には高い値が付いたのです。一家は借金から解放されたのです。債務者の中には奴隷になることを不名誉に思う人、牢役人に虐待(ぎゃくたい)されることに慄(おのの)いた人もいたのです。絶望した人は生きることよりも死を選んだのです、神様は富に執着する金持ちを罰せられるのです。通常よりも早く命を取り上げられた人もいたのです(ルカ12:13-21)。

*「ユダヤ戦争」における反乱軍には重要な戦略があったのです。その一つがエルサレム神殿に保管されている「借用証書」を発見して焼却することです。それほど借金が人々の生活を圧迫していたのです。イエス様が教えられた「主の祈り」に「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分(たち)に負い目のある人(人々)を赦しましたように」があります。「負い目」という日本語訳は問題の本質を曖昧(あいまい)にするのです。精神的な負担であるかのような誤解を与えるからです。借金あるいは負債として訳すべきなのです。「負い目」を罪と訳している個所もあるのです(ルカ11:4)。法的義務を表す言葉であり、罪という意味は本来ないのです。「天の国」-神様の支配-に属する人々は「主の祈り」を祈り、それを実行するのです。イエス様は福音を抽象的に語られなかったのです。民衆の生活を脅かしている深刻な経済状況に言及されたのです。一万タラントンという途方もない借金を免除されたのです。同じ人が百デナリオンの債務の返済を迫っているのです。人間の本性(罪深さ)がよく表れているのです。この人は「神様の恵み」を失い、厳しく罰せられたのです。貧しいラザロは金持ちの門前に横たわり、食卓から落ちる物で空腹を満たしたいと思うほどに飢(う)えていたのです。金持ちは援助の手を差し伸べなかったのです。死後、金持は陰府(よみ)で苦しみ、ラザロは憐れみを受けて父祖アブラハムと共にいるのです(ルカ16:19-31)。貧しい人々への関心の有無(うむ)は人の「救い」を左右するのです。

*イエス様はたとえ話によってペトロの信仰理解における問題点を指摘されたのです。「天の国」の及ぶ範囲が人間によって制限されているからです。「神様の御心」が軽んじられているのです。人々に警鐘(けいしょう)を鳴らしておられるのです。人は意識的に、あるいは無意識的に様々な罪を犯しているのです。イエス様は「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量(はか)る秤(はかり)で量り与えられる」と言われたのです(マタイ7:1-2)。ペトロは人が犯した罪に目を向けるのです。罪の背後にある重荷には関心を寄せていないのです。王は奴隷の窮状を憐れんだのです。借金の全額を免除したのです。弟子たちも借金のある人を債務から解放するのです。選択の問題ではないのです。キリスト信仰を標榜(ひょうぼう)する人々の義務なのです。「永遠の命」に与(あずか)るための必須の要件なのです。人は信仰によって「救い」を得るのです。ただ、善い行い-憐れみ(赦し)-を伴わない信仰は役に立たないのです(ヤコブ書2:17)。ペトロは高い所から他の人の「罪の赦し」について論じているのです。自分が犯した大きな罪(不信仰)のことは忘れているのです。今日においても同じことが言えるのです。最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実践しない人は「天の国」に入れないのです。「良い知らせ」がすべての人(罪人)に届けられているのです。罪を犯した人が再び生かされるのです。寛大な人々は憐れみと祝福を受けるのです。過去を振り返るのです。

2026年02月22日

「まことのぶどうの木」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書15章1節から17節

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝(複数)である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕(奴隷)とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

(注)

・わたしはまことのぶどうの木:イエス様はこの他にも六回「わたしは・・である」と言われました。
 
●「命のパン」(ヨハネ6:35)
「世の光」(ヨハネ8:12)
「門」(ヨハネ10:9)
「良い羊飼い」(ヨハネ10:11)
「復活であり、命」(ヨハネ11:25)
「道であり、真理であり、命」(ヨハネ14:6)

・ぶどうの木:イスラエルのことです。栽培者は神様です。良い実を結ばない木は焼き払われ、捨てられるのです。

■あなたはぶどうの木をエジプトから移し/多くの民を追い出して、これを植えられました。そのために場所を整え、根付かせ/この木は地に広がりました。その陰は山々を覆い/枝は神々しい杉をも覆いました。あなたは大枝を海にまで/若枝を大河にまで届かせられました。なぜ、あなたはその石垣を破られたのですか。通りかかる人は皆、摘(つ)み取って行きます。森の猪(いのしし)がこれを荒らし/野の獣が食い荒らしています。万軍の神よ、立ち帰ってください。天から目を注いで御覧ください。このぶどうの木を顧みてください あなたが右の御手で植えられた株を/御自分のために強くされた子を。それを切り、火に焼く者らは/御前に咎(とが)めを受けて滅ぼされますように(詩篇80:9-17)。

■わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに/なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。さあ、お前たちに告げよう/わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ/石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず/耕されることもなく/茨やおどろ(とげのある植物)が生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる(イザヤ書5:4-6)。

■主なる神の言葉がわたし(預言者エゼキエル)に臨んだ。「人の子よ、ぶどうの木は森の木々の中で、枝のあるどの木よりもすぐれているであろうか。ぶどうの木から、何か役に立つものを作るための木材がとれるだろうか。それで、何かの器物を掛ける釘を作ることができるだろうか。それが火に投げ込まれると、火はその両端を焼き、真ん中も焦がされてしまう。それでも何かの役に立つだろうか。完全なときでさえ何も作れないのに、まして火に焼かれて焦げてしまったら、もはや何の役にも立たないではないか。それゆえ、主なる神はこう言われる。わたしが薪(まき)として火に投げ込んだ、森の木の中のぶどうの木のように、わたしはエルサレムの住民を火に投げ入れる。わたしは顔を彼らに向ける。彼らが火から逃れても、火は彼らを食い尽くす。わたしが顔を彼らに向けるとき、彼らはわたしが主なる神であることを知るようになる。わたしはこの地を荒廃させる。彼らがわたしに不信を重ねたからである」と主なる神は言われる。(エゼキエル書15:1-8)

■イスラエルは伸びほうだいのぶどうの木。実もそれに等しい。実を結ぶにつれて、祭壇を増し/国が豊かになるにつれて、聖なる柱を飾(かざ)り立てた。彼らの偽(いつわ)る心は、今や罰せられる。主は彼らの祭壇を打ち砕き/聖なる柱を倒される。(ホセア書10:1-2)

・初代教会における信者たちの生活:

■信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。(使徒言行録2:44-47)


・豊かな実:「最後の審判」の判断基準にもなっています。

■人の子(イエス様)は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国(天の国=神様の支配)を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢(ろう)にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者(たち)の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイ25:31-40)。

(メッセージの要旨)

*イエス様はご自身を「命のパン」、「世の光」、「羊の門」、「良い羊飼い」などに譬(たと)えられました。「神の国」の福音宣教においてはファリサイ派の人々や律法学者たちのように難しい専門用語(神学理論)を使われませんでした。教育の機会に恵まれなかった貧しい人々-農民や漁師など-が内容を容易に理解出来るように配慮し、日常生活に生起する出来事や身近な物に譬えて語られたのです。神様とイスラエルとの関係に言及される時は預言者たちの言葉-栽培者とぶどうの木や万軍の主のぶどう畑-を引用されたのです。「ぶどう園と農夫」のたとえ話において、神殿政治を担(にな)う人々(指導者たち)の不信仰と腐敗を厳しく批判されたのです(マルコ12:1-11)。聖書は旧約聖書を土台とする壮大な建築物です。神様はヘブライ人たち(イスラエル民族)を選び契約(旧約)を結ばれたのです。そして「わたしを愛し、わたしの戒め(律法)を守る者(たち)には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」と約束されたのです(出エジプト記20:6)。イスラエルは神様が植えられた「ぶどうの木」なのです。ところが、豊かな実を結ぶことはほとんどなかったのです。神様が遣わされた預言者たちの警告を無視し、反抗を繰り返したのです。神様はそのたびにイスラエルの民を懲(こ)らしめられたのです。しかし、見捨てられることはなかったのです。終わりの日に先立って、地上に「まことのぶどうの木」を植えられたのです。新しい契約の時代が到来しているのです。イエス様につながって良い実を結び、「永遠の命」に与るのです。

*イスラエル民族(ユダヤ人たち)は期待されたぶどうの木としての使命を果たさなかったのです。神様は新しい天地創造を決断されたのです。「しるし」として新しいぶどうの木を植えられたのです。ご自身の御子を遣わされたのです。イエス様もまた「わたしは神の子である」と公言されたのです(ヨハネ10:36)。ユダヤ人たちは神様のぶどう園で育てられていたぶどうの木々ではなくなったのです。神様のぶどう園には「一本のぶどうの木」があるだけなのです。この「まことのぶどうの木」につながって成長する一本一本の枝となったのです。ユダヤ人としての特権的地位が「救い」の保証ではなくなったのです。豊かな実を結ぶこと-互いに愛し合うこと-が「永遠の命」を得るための絶対的要件となったのです。キリストの信徒(クリスチャン)は「キリストに忠実な者」に由来する呼び名です(使徒言行録11:23-26)。キリスト信仰はイエス様を「神の子」あるいは「救い主」として信じることで完結しないのです。イエス様のご生涯に倣(なら)う生き方のことなのです。イエス様が宣教された「神の国」はこの世と調和しないのです。神様は正義を重んじ、慈愛に満ちたお方です(創世記18:19-32)。イエス様は「神様の御心」を実現しようとされたのです。豊かな実を結ぼうとすれば対立が生まれるのです。争いを避けることには正当性があるように見えるのです。しかし、問題点を曖昧(あいまい)にするのです。結果、真の解決を遅らせているのです。神様はそれぞれの枝が豊かな実を結んでいるかどうかをご覧になられるのです。

*神様への応答は個人的ではなく、信仰共同体として行われたのです。ユダヤ教を理解するためにはこの視点が極めて重要です。イエス様は「わたしはまことのぶどうの木。あなたがたはわたしにつながる枝である」と言われました。一本一本の枝が木にしっかりとつながっていることは大切です。一方、つながった枝が全体として豊かな実を結ぶことが求められているのです。イエス様のご命令―互いに愛しなさい-は信仰共同体としての信仰のあり方なのです。ところが、今日、イエス様の教えが変容されているのです。ぶどうの木と枝の個々の関係に重点が置かれているのです。キリスト信仰における個人主義が主流となっているのです。イエス様のお言葉が「精神的な愛の勧め」として解釈されているのです。使徒言行録には初代教会の様子が詳細に記述されています。イエス様の母マリアを含めて信徒の数は120人位でした。信徒たちは日々熱心に祈っていました(1:14-15)。「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。・・信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。・・キプロス島生まれのヨセフ(バルナバ)も、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた」のです(4:32-37)。イエス様のお言葉を語るだけでなく、実践してその正しさを証明したのです。人々の共感を得たのです。

*「わたしはまことのぶどうの木」にはもう一つの意味があるのです。それは祭司たちへの厳しい批判となっていることです。イスラエルの歴史の中で受け継がれて来た重要な制度-信仰の基本となる祭司制度-の終焉(しゅうえん)が告げられたのです。祭司たちは特権的地位によって、一般民衆とは比較にならない高収入を得ていたのです。祭司の家系に属している歴史家ヨセフスは自伝(ヨセフスの生涯)の中で同僚の祭司たちが膨大(ぼうだい)な富を蓄積していたことを伝えています。知識と教養を駆使(くし)して、人々の信仰生活を支配するだけでなく、社会・経済・政治の方向性にも影響を与えているのです。これらの人はこの世に執着し、民衆の窮乏化に加担しているのです。神様は祭司たちから仲介者としての職務を取り上げ、イエス様をその任に据(す)えられたのです。イエス様は「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」と言われました。ご自身への信仰によって罪が清められることを明言されたのです。エルサレム神殿に巡礼して献金や捧げ物をすることや神様に近づくために大祭司の執(と)り成しは不要となったのです。神殿政治を担う指導者たちの権威が根底から否定されたのです。イエス様が「まことのぶどうの木」であるならば、大祭司に代表される祭司たち、ファリサイ派の人々、律法学者たちは「偽のぶどうの木々」なのです。イエス様はこれらの人を偽善者たちと呼ばれたのです。天罰を宣告されたのです(マタイ23章)。キリスト信仰とはまことのぶどうの木から教えを受け、共に歩むことなのです。

*ヨハネの福音書は「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった(父なる神に向かっていた)。言は神(父を啓示するもの)であった。・・」で始まります。哲学的、抽象的な表現が用いられているのです。その他にもイエス様の神性を「御子の権威」などの神学的な用語によって説明しているのです。内容を理解するためには忍耐と努力を要するのです。しかし、文章や言葉にはキリスト信仰の根本理念が要約されているのです。神様はご自身のお考えを伝えるためにイエス様をこの世に遣わされたのです。イエス様を通して語られたのです(5:10-30)。イエス様のご生涯は「神様の御心」を証しするために捧げられたのです。祭司たちが仲介者となってイスラエルの民を導くというこれまでの関係が変更されたのです。イエス様が「ぶどうの木」として各枝に栄養を注がれるのです。ご自身につながっている人々を祭司たちの仲介がなくても神様に近づく道を備えられたのです。祭司たちに苦しめられていた貧しい人々や虐げられた人々に福音(良い知らせ)が訪れたのです。キリスト信仰は「罪の赦し」をもたらすだけではないのです。生涯の使命として「神様と隣人への愛」を課しているのです。キリストの信徒たちには豊かな実を結ぶことが求められているのです。イエス様のお言葉を真剣に受け止めるのです。安易な信仰理解を戒めるのです(ルカ9:57-62)。覚悟と行いを伴わない信仰はそれだけでは死んでいるのです(ヤコブ書2:17)。初代教会の人々が模範を示しているのです。豊かな実によって「神の国」を証しするのです。

2026年02月15日

「求められているもの」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書12章1節から14節


そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘(つ)んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。」


イエスはそこを去って、(ファリサイ派の)会堂にお入りになった。すると、片手の萎(な)えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。

(注)

・安息日の規定:十戒(じっかい)から

■安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである(出エジプト記20:8-11)。

・麦の穂を摘むこと:隣人の麦畑から麦の穂を摘むことは許されています。しかし、そのことが「安息日」に可能かどうかについての規定はないのです。

■隣人の麦畑の中に入ったなら、手で穂を摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑で鎌を使ってはならない(申命記23:26)。

・ファリサイ派の人々:ユダヤ教の一派です。律法(言い伝え)を生活のすべてにおいて厳格に適用したのです。しかし、心の中は不信仰と貪欲に満ちていたのです。イエス様はこれらの人を偽善者たちと呼ばれたのです。

・ダビデの行動:イエス様は旧約聖書を機会あるごとに引用されています。

■ダビデは、ノブの祭司アヒメレクのところに行った。ダビデを不安げに迎えたアヒメレクは、彼に尋ねた。「なぜ、一人なのですか、供はいないのですか。」ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王(サウル)はわたしに一つの事を命じて、『お前を遣わす目的、お前に命じる事を、だれにも気づかれるな』と言われたのです。従者たちには、ある場所で落ち合うよう言いつけてあります。それよりも、何か、パン五個でも手もとにありませんか。ほかに何かあるなら、いただけますか。」祭司はダビデに答えた。「手もとに普通のパンはありません。聖別されたパンならあります。従者が女を遠ざけているなら差し上げます。」ダビデは祭司に答えて言った。「いつものことですが、わたしが出陣するときには女を遠ざけています。従者たちは身を清めています。常の遠征でもそうですから、まして今日は、身を清めています。」普通のパンがなかったので、祭司は聖別されたパンをダビデに与えた。パンを供え替える日で、焼きたてのパンに替えて主の御前から取り下げた、供えのパンしかなかった。(サムエル記上21:2-7)

●ノブ:祭司の町と呼ばれています。

●祭司アヒメレク:有名な祭司エリの曽孫です。ノブで祭司長を務めていました。ダビデにパン(と剣)を与え、サウル王の前でダビデを弁護したのです。王の命を受けたエドム人ドエグによって殺害されたのです。サムエル記上22章をお読み下さい。

●供えのパン:神殿に供えられた12の聖別されたパンは毎週取り替えられました。レビ記24:5-9を参照して下さい。

・祭司は安息日を破ってもよい:直接的には祭司が安息日に祭式を執り行っていることを表しています。

・神殿よりも偉大なもの:「イエス様」あるいは「神の国」-神様の支配-を指しています。


・人の子:この呼称には三つの意味があります。第一は預言者です(エゼキエル書2:1-3)。第二は天の雲に乗って現れる終わりの時の審判者です(ダニエル書7:13-14)。他に「わたしとわたしの言葉を恥じる者(たち)は、人の子も自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときにその者(たち)を恥じる」(ルカ9:26)、「神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(ルカ18:8)などがあります。第三はこの世の人間を表しているのです(ルカ9:58)。

・わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない:

ホセア書「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない」(6:6)からの引用です。マタイ9:13にも記述されています。後にユダヤ教の教えにおいても、命に関わる緊急性がある場合は律法の規定に従わなくても良いことになったのです。

(メッセージの要旨)

*ユダヤ人の生活の基本となるのが「十戒」です。安息日の順守はその一つです。安息日には仕事を休むだけでなく、様々な規定(613項目)によって行動が制限されていたのです。「刈り取り作業」や「癒しの業」なども含まれていました。民衆はその日の行動について「許されること」、「許されないこと」を厳密に判断しなければならなかったのです。迷った場合には律法の専門家たちに助言を求めたのです。弟子たちは安息日に麦の穂を摘(つ)んで食べたのです。イエス様も安息日に片手の萎(な)えた人を癒されたのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちはユダヤ教の律法や慣習を公然と無視し、自分たちの権威を貶(おとし)めるイエス様と激しく対立したのです。特権的地位を守り、民衆の支持を得るために画策したのです。最終的にはイエス様を抹殺しようとするのです。イエス様はご自身が「安息日の主」であることを公言されたのです。安息日が制定された意味を明確にするために「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と言われたのです(マルコ2:27)。「神様の愛」は律法に貫(つらぬ)かれているのです。憐(あわ)れみを欠いた解釈は「神様の御心」に反しているのです。祭司アヒメレクはダビデと部下たちの窮状(きゅうじょう)を考慮したのです。聖別されたパンであっても与えたのです。イエス様も困難に直面している人々や苦難に喘(あえ)ぐ人々から重荷を取り除かれたのです。キリストの信徒たちに律法主義が見られるのです。求められているものは知的信仰ではなく、隣人愛なのです。

*弟子たちが空腹のために麦の穂を摘んだ日は安息日です。イエス様が片手の萎えた人を癒された日も安息日です。安息日を巡(めぐ)ってイエス様とユダヤ教の指導者たちとの間に激しい神学論争が起こっているのです。論点は大きく分けて二つあります。一つは律法の解釈です。もう一つは信仰と行いの不一致です。律法には安息日の順守が定められているのです。しかし、弟子たちだけでなく、イエス様もその規定を守られなかったのです。イエス様はその理由を説明されたのです。動物を災難から救出するために(経済的損失を避けるために)例外規定が設けられているのです(申命記22:4)。イエス様はご自身の権威によって安息日を定義し、憐れみは安息日の趣旨に沿っていると言われるのです(レビ記19:18)。ファリサイ派の人々はそれを認めないのです。イエス様はこれらの人のダブルスタンダード(偽善)を激しく非難されたのです。別の聖書の個所でも同様の事例が挙げられています。ある会堂に十八年間もサタンに縛られ、腰が曲がったまま伸ばすことができない女性がいたのです。イエス様はこの人に「婦人よ、病気は治った」と言って、手を置かれたのです。直ちに腰がまっすぐになったのです。女性は神様を賛美したのです。ところが、会堂長は腹を立て「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」と言ったのです。イエス様は「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか」と言って、反論されたのです(ルカ13:10-14)。

*創世記から始まる旧約聖書はイスラエルの父祖たちの信仰の歴史を詳細に記述しています。新約聖書にも紹介されています。アベル、エノク、ノア、アブラハムなどの信仰を取り上げて「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」と書かれています(へブル書11:1-2)。これらの人は神様に喜ばれる行いによって信仰を証ししたのです。一方、出エジプト記にはヘブライ人たちがエジプトの王ファラオの圧政から逃れた経緯と信仰の変遷(へんせん)が記録されています。旧約聖書の視点が個人的な信仰のあり方から集団的な民族の導きへ移って行くのです。エジプト脱出には抑圧と搾取の下に労苦する人々を解放するという神様の強いご意志が表れているのです。神様はモーセを召命して「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しさをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降ってゆき、エジプト人の手から救い出し・・彼らを乳と蜜(みつ)の流れる土地・・へ導き上る」と言われたのです(出エジプト記3:7-8)。神様が心を動かされた理由は人々の篤い信仰心ではなく、彼らの悲惨な現状に対する深い憐れみによるものだったのです。エジプト王の執拗(しつよう)な妨害を退け、シナイ山に導かれたのです。お与になったものが「十戒」と律法だったのです。「永遠の命」が得られるように判断基準を示されたのです。神様のご指示に従い、イスラエルの民は毎年「過越祭」をお祝いしているのです。


*神様はカナンの地に住むご自身の民を異教の神々から守るために第一の戒めとして「あなた(がた)には、わたしをおいてほかに神があってはならない」と命じられたのです(出エジプト記20:9)。「寄留者を虐待(ぎゃくたい)したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦(かふ)や孤児はすべて苦しめてはならない。・・貧しい者(たち)に金を貸す場合は、彼(ら)に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない。・・隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない」と言われたのです(出エジプト記22:20-26)。ところが、イスラエルの民は金の子牛を鋳造(ちゅうぞう)したのです。その偶像を礼拝したのです。権力者たちは賄賂(わいろ)を取って裁判をし/祭司たちは代価を取って教え/預言者たちは金を取って託宣(たくせん)を告げているのです(ミカ書3:11)。これらの人は預言者ホセアの言葉にも耳を傾けないのです。地位を用いて民衆を搾取(さくしゅ)しているのです。律法や慣習を都合よく解釈して精神的にも支配しているのです。神様は「憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者」と言われるのです(出エジプト記34:6-7)。その後も反抗する民を厳しく罰せられたのです。悔い改めた人々には愛を示されたのです。忍耐して導いておられるのです。


*神様は寄留者たち、寡婦や孤児たち、貧しい人々、虐げられた人々の叫び声を聞かれるのです。ご自身がこれらの人を苦しめる権力者たちに報復されるのです(ルカ18:7)。悪人たちにも善人たちにも太陽を昇らせ、正しい者たちにも正しくない者たちにも雨を降らせられるのです(マタイ5:45)。神様は「救いのご計画」を実現するために、終の日に先立ってイエス様をこの世に遣わされたのです。イエス様は「わたしと父(神様)とは一つである」と言われたのです(ヨハネ10:30)。イエス様の教えと力ある業には「神様の御心」が現われているのです。神様は一貫して罪人たちを愛しておられるのです。正しい人々ではなく罪人たちを優先的に「神の国」(天の国)に招いておられるのです(マルコ2:17)。これが福音(良い知らせ)なのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちは律法に精通しているのです。ただ、律法の精神を理解していないのです。キリストの信徒たちの中に教条主義に陥(おちい)っている人もいるのです。イエス様は旧約聖書に言及して「わたしについて証しするもの」(ヨハネ5:39)、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言われたのです(マタイ5:17)。律法はモーセを通して与えられたのです。恵みと真理はイエス様によって現わされたのです(ヨハネ1:17)。求められているものは御心に適(かな)った生き方なのです。イエス様はそれを示されたのです。イエス様に倣(なら)い憐れみ深い信徒となるのです。

2026年02月08日

「良い知らせ」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書9章13節から18節及び24節から41節


人々は、前に(生まれつき)盲人であった人(男)をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。・・・


さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。


イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者(人々)は見えるようになり、見える者(人々)は見えないようになる。」イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」


(注)


・イエス様の使命:


■イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人(人々)に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人(人々)に解放を、/目の見えない人(人々)に視力の回復を告げ、/圧迫(弾圧)されている人(人々)を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(ルカ4:16-21)


・ファリサイ派の人々:律法学者たちの多くはこの派に属していました。共に宗教的、政治的権力の中枢を担っていたのです。


・預言者:紀元一世紀には神様がローマ帝国からイスラエルを解放するために遣わされた預言者、王(救い主)と自称する人がたくさんいました。


・ユダヤ人たち:ファリサイ派の人々のことです。彼らは会堂を管理・運営していました。


・神は罪人の言うことはお聞きにならない:旧約聖書の詩編に登場する言葉です。

■わたしが心に悪事を見ているなら/主は聞いてくださらないでしょう(詩編66:18)。

詩編34:16も参照して下さい。

・見えない者(人々)は見えるようになり、見える者(人々)は見えないようになる:ヨハネは別の個所でもイザヤの言葉を引用しています。

■「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。(ヨハネ12:40―41)

イザヤ書6:9-10を併せてお読み下さい。

・ハーメルンの笛吹き男:グリム兄弟が1284年にこの町で起こった「子供の失踪(しっそう)事件」をもとに作った物語です。消えた子供の数は130人です。グリム童話はどの話もそれぞれ真実を含んでいて面白いのです。この物語も昔から子供たちに人気のあるものの一つです。身勝手な人間の姿を抉(えぐ)り出しています。現在ドイツのハーメルンは人口およそ五万八千人の都市になっています。緯度は北海道の最北端稚内より上です。


(あらすじ)


町にネズミがやたらに増えて人々は困っていました。そのような時に不思議な身なりをした笛吹き男が現れたのです。男は町の偉い人たちに自分をネズミ捕りとして紹介したのです。町からネズミを追い出せば多額の謝礼を受け取る約束で、直ちにネズミの駆除に取り掛かったのです。笛を吹きながら町中のネズミを大きな川へ誘い出して一匹残らず溺(おぼ)れさせたのです。ところが、ネズミがいなくなると、町の人たちは急にお金を払うのが惜(お)しくなりました。何のかんのと言ってお金を払おうとしません。笛吹き男は怒って帰ってしまいました。次の日曜日、大人たちが教会でお祈りをしている時でした。笛吹き男がまた町に現れたのです。町角に立っていつかのように笛を吹き鳴らしました。子どもたちは不思議な笛の音に誘われて家から飛び出し、男の後をついて行きました。やがて山の洞穴の中へ消えてしまったのです。目の不自由な男の子と口の利けない男の子の二人を除いて、子供たちと笛吹き男は二度とハーメルンの町に戻って来なかったのです。

(メッセージの要旨)

*イエス様が目の不自由な人々を見えるようにされた「癒しの業」は福音書に幾つか記述されています。「神の国」が到来していることを証明しているのです。牢の中から「来るべき方(救い主)はあなたでしょうか」と質問する洗礼者ヨハネに、イエス様はご自身の様々な「力ある業」を例示して答えとされたのです(マタイ11:2-6)。ガリラヤ湖の北端にあるベトサイダの村では盲人の目に唾(つば)をつけ、両手をその目に当てて治されたのです(マルコ8:22-26)。ガリラヤ地方のある家では二人の盲人を癒されました(マタイ9:27-31)。悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人をものが言え目が見えるようにされたのです(マタイ12:22)。エルサレムから近い歴史的なエリコの町で盲人バルティマイを見えるようにされたのです(マルコ10:46-52)。エルサレムでは神殿の境内で売り買いをしていた人々を皆追い出されたのです。そばに寄って来た盲人たちの視力を回復させられたのです(マタイ21:14)。目の病気は日常的に起こっていました。不衛生が主な原因でした。特に、水に問題がありました。効果的な治療方法もなかったのです。目の不自由な人々が仕事を見つけ自立することは極めて困難でした。多くの人は物乞(ものご)いによって日々の糧(かて)を得ていたのです。ところが、イエス様の「癒しの業」はこれらの人の日常生活を一変させたのです。病気による苦難だけでなく、罪人としての重圧からも解放されたのです。「良い知らせ」は障害のある人々や貧しい人々に優先的に届けられるのです。

*心身の障害は罪と深く結びつけられていました。ある時、イエス様は通りすがりに生まれつき目の見えない人を見かけられたのです。弟子たちも含めてユダヤ人たちは盲人の目が見えなくなった原因を本人か両親が犯した罪にあると考えていました。ところが、イエス様は伝統的な教えである障害と罪の関連について明確に否定されたのです。「神様の愛」が現れるためであると明言されたのです。「癒しの業」によってそのことを証明されたのです(ヨハネ9:1-12)。しかし、ファリサイ派の人々など指導者たちは生まれつき目の見えなかった人が見えるようになったことを信じなかったのです。しかも、厳しい命令を出していたのです。イエス様をメシア(キリスト)-油注がれた者-と公言する者は会堂(共同体)から追放されるのです(ヨハネ11:57)。本人の両親からも真相を確かめようとしたのです。両親は生まれつき息子の目が見えなかったこと、そして見えるようになったこと以外は分からないと答えたのです。詳しくは本人に聞いて下さいと言ったのです。指導者たちはもう一度生まれつき盲人であった人を呼び出したのです。本人は「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ・・わたしが、今見えるということです」と説明したのです。自分に起こったことだけを伝えたのです。指導者たちは信じなかったのです。父祖アブラハムがそのことについて言及しています。不信仰な人々はたとえ死者の中から生き返る人があってもその人の言うことを信じないのです(ルカ16:31)。「癒しの業」は神様からのメッセージです。

*「神の国」-神様の支配-の福音がイエス様を通して到来しているのです。ところが、「罪の赦し」、「霊的な救い」として限定的に理解されているのです。イエス様は「神の国」の福音に対する誤解を正されるのです。それはしかるべき時に人間の「全的な救い」として完成するのです。生まれつき目の見えなかった人は自分に起こった出来事によって「永遠の命」に導かれることになるのです。この人は見えるようにして下さったお方がイエス様であることを知って「救い主」として信じたのです。イエス様は信じられない人々に譲歩してご自身の業によって信じなさいと言われたのです(ヨハネ10:37-38)。モーセの弟子であることを自負するユダヤ人たちは神様が「癒しの業」の中に働いておられることを信じなかったのです。自分たちを「永遠の命」から遠ざけているのです。罪人の烙印(らくいん)を押されていた人が「救い」を得、信仰を誇っていた人々が罪の中に留まっているのです。「神の国」においてこの世の評価は何の役にも立たないのです。人には他の人を裁く資格は与えられていないのです。罪を犯さない人は誰もいないからです(ルカ7:1-5)。神様は一切の権限を御子であるイエス様にお委(ゆだ)ねになられたのです(ヨハネ5:22)。イエス様は「裁き主」でもおありになるのです。終わりの日にそれぞれの「行い」を判断されるのです。イエス様の教えに対する真摯(しんし)な応答がその人の「救い」にとって決定的に重要となるのです。お言葉に耳を傾けるのです。ご生涯から学ぶのです。それらを実践するのです。

*「ハーメルンの笛吹き男」は世界中の子供たちに読まれています。作者のグリム兄弟はドイツの小さな町で実際に起こった出来事に基づいてこの物語を書いたのです。社会生活を営む上で大切な考え方が簡潔に語られているのです。内容については様々な観点から解説が行われています。キリストの信徒たちにとっても示唆(しさ)に富んでいるのです。町の偉い人たちは約束していたお金を払わなかったのです。笛吹き男は不誠実さに怒って帰って行ったのです。ところが、次の日曜日に再びこの町に現れたのです。一方、人々は何事もなかったかのように教会の礼拝に出席して神様にお祈りをしていたのです。笛吹き男は不思議な音色で子供たちを家々から誘い出し、やがて山にたどり着くとぽっかりと口を開けた洞穴の中へ消えて行ったのです。この様子を見ていた子守娘は町の人々に知らせたのです。大人たちは大急ぎで子供たちを探すために山へ向かったのです。しかし、他の子供たちは一人も見つからなかったのです。ただ、目の不自由な男の子と話すことが出来ない男の子の二人だけが町に戻ってきたのです。正義と信頼を損(そこ)なった大人たちは取り返しのつかない代償(だいしょう)を払うことになったのです。消えた子供たちのその後についは分からないのです。ドイツから少し離れたハンガリーのトランシルバ山に住む人たちがハンガリー語を使わずにドイツ語を話しているのです。笛吹き男が連れて行った子供たちの子孫だとも言われているのです。「行いを伴わない信仰の危うさ」(ヤコブ書2:14-17)が鋭く指摘されているのです。


*イエス様は「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る(あなたたちは罪の中にある)」と言われたのです。信仰を誇り、生まれつき目の見えない人を罪人として蔑(さげす)む指導者たちには「福音の真理」が見えないのです。これらの人の不信仰は深刻な結果をもたらすのです。ファリサイ派の人々に天罰が宣告されるのです(マタイ23)。一方、かつて目が見えなかった人はイエス様の「癒しの業」に神様が共に働いておられることを確信したのです。この人に「救い」が訪れたのです。イエス様は教義や知識を駆使(くし)して信仰を正当化しようとする人々に警鐘(けいしょう)を鳴らしておられるのです。モーセの律法を厳格に守っていたとしても、その人の「救い」はまだ確定してないのです。イエス様の教えを実践したかどうかによって最終的に判断されるからです。ある金持ちの男は「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」という戒めを子供の時から守っていました。イエス様はこの人に「持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。それから、わたしに従いなさい」と命じられたのです。金持ちは悲しみながらその場を去ったのです。誰もが認める信仰深い人でも「神の国」に入れないことがあるのです(マルコ10:17-31)。人間による「罪の定義」の是非が問われているのです。イエス様に従うのです。神様を崇め、「神様の御心」を実行するのです。最後の審判の時に「良い知らせ」を受け取るのです。

2026年02月01日

「対立は避けられない」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書6章1節から13節


イエスはそこ(ガリラヤ湖の西のほとり)を去って故郷(ナザレ)にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。 そして、人々の不信仰に驚かれた。


それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。


(注)


・イエス様の宣教の視点:


■イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人(人々)に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人(人々)に解放を、/目の見えない人(人々)に視力の回復を告げ、/圧迫されている人(人々)を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた(ルカ4:16-21)。


・ナザレ:イエス様の故郷です。ユダヤの北にある隔絶(かくぜつ)された小さな村です。聖書地図を参照して下さい。


・杖:旅において身を守るための必需品です。父祖ヤコブはヨルダン川を渡るために用いています(創世記32:11)。


・下着二枚:イエス様の先駆けとして遣わされた背礼者ヨハネも言及しています。


■・・斧(おの)は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。(ルカ3:9-11)

・油:古代社会では痛みの治療に用いられていました。ヤコブ書5:14を参照して下さい。


(メッセージの要旨)


*イエス様はガリラヤ湖の西側にある町カファルナウムを拠点に宣教されました。安息日にはいつものように会堂に入り教えられました。律法学者たちのように上から律法を教条的に語るのではなく、「神様の御心」に沿って一般民衆にも分かりやすく説明されたのです。伝統的な解釈に慣れ親しんできた人々は新しい視点に驚いたのです。イエス様は安息日に汚れた霊に取りつかれた男性を癒(いや)されました(マルコ1:21-28)。重い皮膚病を患(わずら)っている人を清くされたのです(マルコ1:40-45)。中風の人の罪を赦(ゆる)して歩けるようにされたのです。人々はこれらの「力ある業」に接して神様を賛美したのです(マルコ2:1-12)。イエス様は罪人として蔑(さげす)まれていた徴税人レビを弟子にし、彼の家で食事をされたのです。他の罪人たちも同席していました。ファリサイ派の律法学者たちは「律法違反であること」を指摘して非難したのです。イエス様は反論して「・・わたしが来たのは、正しい人たちを招くためではなく、罪人たちを招くためである」と言われたのです(マルコ2:13-17)。このお言葉こそ福音の真理なのです。律法主義に固執(こしつ)する指導者たちに「悔い改め」を求められたのです。一方、「神の国」の宣教に携わる人々に様々な権能を与えられたのです。民衆の窮状に配慮して宣教するように命じられたのです。イエス様が明らかにされた視点は極めて重要です。いつの時代においても、イエス様に従って歩めばこの世との対立は避けられないのです。これがキリスト信仰なのです。

*神様は「これ(イエス様)はわたしの愛する子。これに聞け」と言われました(マルコ9:7)。信仰の原点はここにあるのです。イエス様は「・・平和ではなく、剣をもたらすために・・わたしは敵対させるために来た・・」と言われたのです(マタイ10:34-35)、イエス様はガリラヤ地方の町や村を巡回された後、故郷のナザレに帰られました。ここでも安息日に会堂に入って宣教されたのです。イエス様の評判はすでに辺境の地にも届いていました。多くの人は様々な「力ある業」に驚きながらも、「神の国」(天の国)―神様の支配―が到来していることを信じなかったのです。「そのようなことはありえない」と言う常識が人々を福音から遠ざけているのです。「あの男(イエス様)は気が変になっている」と言うような噂(うわさ)、「あの男はベルゼブル(異教の神)に取りつかれている、悪霊の頭(かしら)の力で悪霊を追い出している」と非難するエルサレムから来た律法学者たちの権威ある説明も躓(つまず)きの大きな要因となっているのです(マルコ3:20-22)。身内の中にイエス様の宣教を妨害する者もいたのです。歪曲(わいきょく)された情報が人々の「救いの道」を閉ざしているのです。キリスト信仰を標榜(ひょうぼう)する人々の中にも似たようなことが起こっているのです。教師と呼ばれる人々が旧・新約聖書に基づいて教えているのです。ところが、「神様の戒め」をこの世に適応するように変容しているのです。イエス様の実像が正確に伝えられていないのです。福音が「安価な恵み」になっているのです。


*ユダヤ人の圧倒的多数は貧しい生活を強いられていました。その日の食べ物を得ることにも苦労していたのです。イエス様は思い悩む人々に「わたしたちに必要な糧を今日与えて下さい」と祈るように教えられたのです(マタイ6:11)。洗礼者ヨハネは群衆に悔い改めに相応しい行いを求めています。「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と命じています。イエス様は十二人を使徒として選ばれたのです。「旅には杖一本のほか何も持たず、・・下着は二枚着てはならない」と言われました。宣教に携(たずさ)わる者としての視点を示されたのです。福音宣教は上下の関係ではなく、対象となった町や村(地域)に住む人々の実態から学ぶことから始まるのです。それは使徒だけでなく信仰を受け継ぐキリストの信徒たちへのご指示でもあるのです。人々への共感があるところに「神様の御心」も届くのです。一方「・・あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、・・足の裏の埃(ほこり)を払い落としなさい」と言われました。住居は教会を兼ねているところが多いのです。敵対するファリサイ派の人々や律法学者たちに同調する人々もいたのです。宣教が拒否されることを予想されているのです。「彼らへの証しとして」は穏やかな表現になっています。原文に沿って訳せば「彼らと対抗する証しとして」となるのです。指導者たちへの激しい憤(いきどお)り」を表されているのです。誤った教えが「人々の救い」を妨げているのです。不幸なことです。


*ほとんどの人はキリスト信仰を日本語訳の聖書から学んでいます。日本語を通してその内容を理解しているのです。しかし、原文のギリシャ語から日本語への訳が正確でなければ、意味が誤って伝わることになるのです。旧・新約聖書には「義」という言葉が何度も登場します。信仰心の篤(あつさ)を表す言葉です。ただ、「高い道徳」として狭義に解釈されているのです。イエス様が証しされた「神の国」の福音が個人の「罪の赦し」に限定されているのです。このギリシャ語はもう一つ重要な内容を含んでいるのです。公正や平等を追求する正義です。「義」と訳されている言葉には内面の信仰心だけでなく、社会における正義の実現という意味があるのです。神様はアブラハムを召し出された時「わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて・・約束したことを成就(じょうじゅ)するためである」と言われたのです(創世記18:19)。正義を行う人々は祝福されるのです。イエス様も洗礼者ヨハネに「・・正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(マタイ3:15)、人々には「何よりもまず、神の国と神の義(正義)を求めなさい・・」(マタイ6:33)と言われたのです。「倫理的な教え」として理解されている「義に飢え渇く人々は、幸いである・・」(マタイ5:6)も社会、経済、政治における「正義の確立」に取り組んでいる人々への祝福なのです。逆説的に言えば、イエス様の教えが正しく宣教されれば、必然的に人々の間に対立が生じるのです。


*西洋の聖書翻訳者たちは権力者たちにとって不都合な言葉や文章の表現を和らげてきました。1560年に出版された英語訳の聖書(ジュネーブ版)は「専制君主」という言葉を何度も使っています。ところが1611年に出版されたイギリスの聖書(ジェームズ王版)ではこの言葉は一切使われていないのです。読者が王様ジェームズに批判的な目を向けることを避けたのです。「苦難」についても同様の目的で用いられているのです。偶然に起こる個人的な災難ではないのです。権力者たちが力によって民衆を従属させる、残酷な手段によって支配することを表す言葉です。「弾圧」と正確に訳すべきなのです。原語に忠実に訳すことによってイエス様に敵対する人々の政治的な意図が明確になるのです。イエス様は「神の国」の到来を証しするために対立を避けられなかったのです。ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスを「あの狐」と呼び、対峙(たいじ)されたのです(ルカ13:12)。神殿政治の腐敗を実力行使によって告発されたのです(マルコ11:15-18)。金持ち(マタイ19:21)や覚悟のない弟子に(ルカ9:57)に「わたしに従いなさい」と命じられたのです。ナザレの人の多くは常識や誤った情報によって躓いたのです。これらの人には福音が届かなかったのです、今日においても、聖書の言葉や文章の意味が恣意的(しいてき)に薄められているのです。果たして、キリストの信徒たちの関心が社会における「正義の実現」より「個人の救い」に向けられているのです。キリスト信仰とはイエス様の実像を心に刻んで歩むことです。

2026年01月25日

「神の国の到来」

Bible Reading (聖書の個所)マルコ福音書1章1節から15節

神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書(40:3)にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。


(注)


・洗礼者ヨハネの宣教:


■・・斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。(ルカ3:9-14)

・野獣と一緒におられた:意味は不明です。神様が新しく創造される天と地における様子がイメージされているのかも知れません。イザヤ書65:17-25をお読み下さい。


・十戒(じっかい): 神様がモーセを通してイスラエルの民に命じられた最も重要な戒めです。


■わたしは主、あなた(たち)の神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。・・わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否(いな)む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。・・あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。殺してはならない。姦淫(かんいん)してはならない。盗んではならない。隣人に関して偽証してはならない。隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。(出エジプト記20:1-17)


・隣人愛:


■穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘(つ)み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは盗んではならない。うそをついてはならない。互いに欺いてはならない。わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。あなたは隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。民の間で中傷をしたり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。わたしは主である。心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。(レビ記9:9-18)

■イスラエルよ。今、あなた(たち)の神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。主はあなたの先祖に心引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった。心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない。あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。(申命記10:12-19)

・神の国(天の国):神様の主権、あるいは神様による支配のことです。死後に行く「天国」のことではありません。キリスト信仰における福音の原点です。福音書記者マタイは「天の国」と表現しています。畏(おそ)れ多い言葉「神」を用いなかったのです。イエス様は「神の国」の宣教に生涯を捧げられました。既得権益に執着する権力者たちは「神の国」を受け入れることが出来ずに、イエス様を十字架上で処刑したのです。ところが、神様はイエス様を復活させられたのです。イエス様は復活された後も天に帰られるまでの間、弟子たちに「神の国」について教えられたのです(使徒1:3)。

・キング牧師:黒人の公民権運動の先頭に立ち、ノーベル平和賞を受賞したキング牧師はアメリカのジョージア州アトランタにあるエビニーザー・バプティスト教会の牧師の家に生まれました。イエス様の愛は社会正義と切り離すことが出来ないという確信の下に福音宣教と黒人の地位向上に39年の短い生涯を捧げたのです。功績を称えて1月の第三月曜日は祭日です。I HAVE A DREAM(私には夢がある)の演説が有名です。他にもあります。

“The ultimate tragedy is not the oppression and cruelty by the bad people but the silence over that by the good people.”

-究極の悲劇は悪人による抑圧や残酷さではなく、善人がそれらに沈黙していることです。-(私訳)

(メッセージの要旨)


*ユダヤの荒れ野でイエス様の先駆けとして、洗礼者ヨハネが「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言って宣教を開始しました(マタイ3:2)。罪を告白した人々に洗礼を授け、悔い改めに相応しい実を結ぶこと-善い行いをすること-を命じたのです。ヨハネは権力者に対しても一切妥協しなかったのです。ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパス(紀元前四年に亡くなった悪名高いヘロデ大王の三人の息子の一人)の結婚が律法違反であることに言及し、公然と非難したのです(マタイ14:3-5)。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、・・その方(イエス様)は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授(ざず)けになる。・・手に箕(み)を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」と言って、安易な信仰理解に警告しているのです(マタイ3:11-12)。一方、イエス様はヨハネを「預言者以上の者」、「女から生まれた者の中で最も偉大な人物」(ルカ7:26-28)、「燃えて輝くともし火」(ヨハネ5:35)と称賛されたのです。イエス様のイメージが誤って伝えられているのです。柔和で穏やかなお方ではないのです。「神の国」の福音を妨げる人々には厳しく対峙されたのです(マルコ11:15-18)。ヨハネが捕らえられたことを聞き、危険を承知でガリラヤへ向かわれたのです。およそ30歳の時に宣教を開始されたのです。しかし、イエス様は政治犯として十字架上で処刑されるのです。ところが、復活されたのです。天に帰られるまで「神の国」を語られたのです。


*旧約聖書はイスラエルの民の偶像崇拝と律法軽視-罪の歴史-を伝えているのです。神様はご自身のお考え明確にされたのです。モーセの十戒を通して異教の神々が支配するカナンの地(現在のイスラエル、レバノン、ヨルダン等)で生き抜くための「原点」を教えられたのです。十戒の冒頭に「わたしはあなたがたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。わたしをおいてほかに神があってはならない」と書かれています。神様はご自身がイスラエルの神であることを具体的な事実-エジプトの圧政からの解放-によって証明されたのです。レビ記や申命記によって先祖が経験したエジプト脱出の意味を想起させられたのです。イスラエルの民は「戒めを守ります」と言った後も、「神様の御心」に反して罪を犯し続けたのです。神様は「神の国」に属する人々が犯した罪を信仰共同体の不信仰として罰せられたのです。同時に、指導者(王)たちを起こし、預言者たちを遣わしてご自身の下へ導こうとされたのです。忍耐して人々が心から悔い改めることを待たれたのです。しかし、神様は「新たな天地創造」を決断されたのです。終わりの日に先立って、イエス様-ご自身のお言葉-を遣わされたのです。イエス様の宣教の第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」です。洗礼者ヨハネの言葉と同じです。これらの短い文言の中に福音の真理が凝縮(ぎょうしゅく)されているのです。イエス様のメッセージの核心は「神の国」にあるのです。「神の国」の到来こそ良い知らせなのです。悔い改めて福音を信じるのです。


*イエス様の時代のユダヤ人たちも祖先の歩みを踏襲(とうしゅう)するのです。神殿政治を担う指導者たちは腐敗し、神殿は強盗の巣と化しているのです(ルカ19:46)。神様は主権を地上の隅々に確立されるのです。この世の支配者たち-悪魔や権力者たち-に取って代わられるのです。「神の国」の到来は貧しい人々、様々な病や心身の障害に苦しむ人々にとって希望の光となったのです。「癒しの業」によって多くの人は苦難から解放された(救われた)のです。一方、イエス様は人々に「悔い改め」を求められたのです。律法に明記されている重要な戒め-神様と隣人(苦難を覚える人々)を愛すること-を実行して来たかどうかについて問われるのです(マルコ12:28-31)。それぞれの生き方における優先順位を示されたのです。「何よりもまず、神の国と神の儀(正義)を求めなさい」(マタイ6:33)、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と明言されたのです(ルカ16:13)。人々は「神の国」に招かれているのです。多くの人は信仰によって「救い」に与れると信じているのです。しかし、信仰の意味が「罪からの救い」として限定的に理解されているのです。キリスト信仰とはイエス様に従うことです。ご生涯に倣(なら)って「神の国」の建設に参画することなのです。福音はすべての人に届けられているのです。それは「安価な恵み」ではないのです。信じた人々には果たすべき「使命」が与えられているのです。大切なものを捨てる-神様に委ねる-時が訪れるのです。キリスト信仰は「行い」を求めるのです。


*新約聖書の中に「神の国」に関する記述が多いのも当然です。キリスト信仰の根本理念だからです。しかし、「神の国」の福音が伝統や慣習、教義や神学理論によって変容されているのです。福音が個人的な「罪の赦し」として定義されているのです。ここには、人間の「全的な救い」として完成するという認識が見られないのです。果たして、キリストの信徒の多くが「神の国」の建設-正義や平和の実現―に参画することなく、「神様の恵み」に与るだけの信仰に陥っているのです。イエス様はご自身の生と死と復活によって「神の国」を証しされたのです。「神の国」の福音を種子の中で最も小さい「からし種」に譬(たと)えられたのです。種は蒔(ま)かれた時は確かに小さいのです。ところが、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になるのです(マタイ13:31-32)。「神の国」が到来すれば必然的にこの世に分裂と対立が生じるのです(ルカ12:51)。神様の正義と公平は人間が生み出した社会の機構や組織によって歪(ゆが)められているのです。少数の人が富を独占し、圧倒的多数は貧しさを強いられているのです。権力者たちが既得権益を守るために必死で抵抗するのです。「神様の御心」を軽んじる人々に厳しい裁きが下されるのです(マタイ23)。「聖書に忠実である」と言う言葉がよく聞かれます。「大切な個所」を読み飛ばしていないでしょうか。キング牧師の言葉は真に示唆(しさ)に富んでいるのです。罪を赦(ゆる)された人々が社会の罪に無関心でいることは出来ないのです。


*ファリサイ派の人々が「神の国はいつ来るのか」と尋ねたのです。イエス様は「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と答えられたのです(ルカ17:20-21)。難解な神学的表現はどこにも見られないのです。神様が崇(あが)められているところ、「神様の戒め」が実行されているところが「神の国」なのです。キリスト信仰とはイエス様の御跡を辿(たど)って生きることです。神様が命じられた最も重要な戒めを具体化することなのです。「神の国」の到来を福音として信じる人々が「神様の恵(憐み)」に感謝することは当然です。同時に、これまでの生き方を振り返って、悔い改めに相応しい良い実を結ぶのです。持っている(預かっている)資源(能力や財産など)を捧げて「神の国」の建設に充当するのです。貧しい人々や虐(しいた)げられた人々の側に立って「声なき声」を代弁するのです。キリストの信徒を自称することとイエス様の弟子であることとは同じではないのです。キリスト信仰が誤解されているのです。「信仰の名」によって中立が正当化されているのです。争いのないことが平和ではないのです。「神の国」の到来を福音として信じる人々は「神様の主権」、「神様の支配」を認めない人々の側には立たないのです。「神の国」の福音は人間のすべての分野に及ぶのです。キリスト信仰は罪を赦されて「永遠の命」に与ることで完結しないのです。イエス様のご生涯を心に刻み、「神様の御心」を実現するために全力で奉仕するのです。

2026年01月18日

「ただ、信じなさい」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書5章19節から40節


そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている(移った)。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」


「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることをわたしは知っている。あなたたちは(洗礼者)ヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。あなたたちは(旧約)聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。


(注)

・イエス様の言動は律法に違反し、神様を冒涜(ぼうとく)するものでした。律法を厳格に遵守(じゅんしゅ)する指導者たちにとって許しがたいことでした。

■・・ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなこと(癒しの業=罪の赦し)をしておられたからである。イエスは(彼らに)お答えになった。『わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。』このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。」(ヨハネ5:16-18)

・彼ら:イエス様に敵対するファリサイ派の人々や律法学者たちなどです。

・死んだ者が神の子の声を聞く・・:死んで三日も経った(死後四日目に)ラザロを蘇(よみがえ)らされた出来事が想起されます(ヨハネ11:38-44)。金持ちの家の前にいた貧しいラザロとは別人です。

・死後四日目:ユダヤ人の慣習によれば可能な限り死の当日に埋葬することが義務付けられていました。また、ユダヤ人は死者の魂が三日間体の周りを徘徊すると信じていたのです。「四日目」は人が完全に死んだことを表しています。


・人の子:この呼称には三つの意味があります。第一は預言者です(エゼキエル書2:1-3)。第二は天の雲に乗って現れる終わりの時の審判者です(ダニエル書7:13-14)。今日の聖書の個所ではイエス様は預言された人の子であることを明らかにされたのです。他に「わたしとわたしの言葉を恥じる者(たち)は、人の子も自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときにその者(たち)を恥じる」(ルカ9:26)、「神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(ルカ18:8)などがあります。第三はこの世に生きる人間を表しています(ルカ9:58)。


・預言者エリヤ:紀元前865年から850年頃まで北王国イスラエルで活動しました。異教の神バールを信仰するアハブ王と鋭く対立したのです。

・シドン:バール信仰の中心地として有名です。

・預言者イザヤ:紀元前8世紀の後半のおよそ40年間、神様の言葉を南王国ユダの四人の王-ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ-に伝えました。

・ヒゼキヤ王:紀元前715年にアッシリアの支配下にあった南王国ユダの王に就任しました。在任中はほとんどの時間を国の独立と異教の神との闘いに費やしたのです。

・センナケリブ:紀元前704年から681年までの間アッシリアを統治した王です。701年にユダに侵攻したのです。ヒゼキヤ王は預言者イザヤに対応を相談しました。主の天使がアッシリア軍を打ち破ったのです。(列王記下18-19章)

・ナイン:ナザレに近い町です。聖書地図を参照して下さい。


・陰府(よみ):元々は死者の世界を表しています。イザヤ書38:10を参照して下さい。悪事を行った人々はここで永遠の罰を受けるのです。

(メッセージの要旨)

*神様は人間の最大の関心事である生と死を完全に支配されているのです(申命記32:39)。神様がついに決断をされたのです。罪深いこの世を終わらせ「新しい天と地」を創造されるのです。その際、すべての国の民が裁きの座に立たされるのです。「永遠の命」に与る人々と「永遠の罰」を受ける人々とに分けられるのです。裁きの基準は極めて単純です。その人が神様の戒めを守り、隣人を愛したかどうかなのです。具体的な事例が幾つか挙げられています(マタイ25:31-46)。一方、イエス様による「救いの道」を開かれたのです。「これはわたしの愛する子」と言って、イエス様が「神の子」であることを明言されたのです。そして「これに聞け」と命じられたのです(マルコ9:7)。イエス様は「神様の御心」を表すお言葉なのです。神様はご自身が有する様々な権能をイエス様に委(ゆだ)ねられたのです。その事実を証明する証拠(証人)を備えて下さったのです。洗礼者ヨハネはその一人です。イエス様の先駆けとして燃えて輝くともし火となっただけでなく、イエス様を「世の罪を取り除く神の小羊」として宣言したのです(ヨハネ1:29)。次はご自身による「力ある業」です。神様が共におられなければ奇跡やしるしは起こらなかったのです。後に起こるイエス様の復活は決定的な出来事となるのです。第三は(旧約)聖書です。ユダヤ人たちは聖書の研究に力を注いだのです。しかし、イエス様に関するメッセージを学ばなかったのです。素直に信じるのです。神様はイエス様と共におられるのです。イエス様は神様と一つなのです。

*神様は天地創造の初めから「命の付与者」なのです。異教の神を信じる悪名高いアハブ王の時代、神様は預言者エリヤに地中海沿岸にあるシドンの町サレプタに行き、信仰心の篤(あつ)いやもめの家に逗留(とうりゅう)することを命じられました。ところが、彼女の息子が病気のために亡くなったのです。エリヤは主に向かって「主よ、わが神よ、あなたは、わたしが身を寄せているこのやもめにさえ災いをもたらし、その息子の命をお取りになるのですか」と訴えたのです。子供の上に三度身を重ねてから、また主に向かって「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください」と祈ったのです。主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになり、子供は生き返ったのです(列王記上17:8-24)。死の病に罹(かか)った南王国ユダの王ヒゼキヤは顔を壁に向けて祈り「ああ、主よ、わたしがまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください」と言って、大いに泣いたのです。神様は預言者イザヤに「ヒゼキヤ王のもとに戻って言いなさい。『あなたの父祖ダビデの神、主はこう言われる。わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、わたしはあなたをいやし、三日目にあなたは主の神殿に上れるだろう。わたしはあなたの寿命(じゅみょう)を十五年延ばし、アッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出す」と言われたのです(列王記下20:1-7)。南北に分裂した王国に善良な王はほとんどいなかったのです。ヒゼキヤ王の祈りは叶(かな)えられたのです。

*イエス様は「力ある業」によって「神の国」-神様の支配-を先取りして見せて下さっているのです。ある時、ユダヤ教の会堂長の一人ヤイロがイエス様の足元にひれ伏して「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやって下さい」と願い出たのです。イエス様はこの人と一緒に家へ向かったのです。ところが、家の人々が来て「お嬢さんはなくなりました。もう、先生を煩(わずら)わすには及ばないでしょう」と伝えたのです。イエス様はその話を聞いて落胆する会堂長に「恐れることはない、ただ、信じなさい」と言って、家に行かれたのです。両親の前で子供の手を取って「少女よ、起きなさい」と言われたのです。すると、少女は起き上がって歩き出したのです。食べ物を少女に与えるように指示されたのです(マルコ5:21-43)。イエス様はナインという町へ行かれました。ある母親の一人息子が死んで棺が担(かつ)ぎだされるところでした。イエス様はこのやもめを見て憐(あわ)れに思い「もう泣かなくともよい」と声をかけられました。近づいて棺に手で触れて葬儀の一行を止め「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われました。死んでいた人は起き上がって物を言い始めたのです。イエス様は息子を母親にお返しになられたのです(ルカ7:11-17)。イエス様は母親と言葉を交わしていないのです。信仰の内実を問われた訳でもないのです。家父長社会にあって男性の働き手がいないやもめの生活は悲惨です。イエス様はすべてのことをご存じなのです。ご自身の方から「福音」を届けられたのです。

*イエス様を通して「神の国」が到来しているのです。貧しい人々や心身に障害がある人々など様々な苦難に喘(あえ)ぐ人々が優先的に慰められているのです。人類にとって永遠のテーマである「死の支配」が打ち砕かれているのです。病気で死んだラザロは墓に葬られて既に四日も経っていました。イエス様は迎えに来た姉のマルタに「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は、だれも決して死ぬことはない。このことを信じるか」と言われたのです。マルタは「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と答えたのです。墓に案内されたイエス様は人々が泣いているのを見てご自分のことのように受け止められたのです。「死」がなお人間を支配している現状に憤(いきどお)りを覚え、興奮して涙を流されたのです。イエス様が個人的な感情を露(あらわ)にされた数少ない例です。「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれたのです。死んでいた人が手と足を布で巻かれたまま出て来たのです。人々に「ほどいてやって、行かせなさい」と言われたのです(ヨハネ11:1-44)。マルタによって「永遠の命」に至る道が簡潔な言葉に表現されています。イエス様を「神の子」として心から信じることです。豊かな知恵や知識(神学理論)が「救い」を妨げているのです。イエス様は「信仰は善い行いとして結実しなければならない」と言われたのです。「永遠の命」に与っている人は「戒め」を実行するのです。隣人愛によって信仰を証しするのです。

*神様は貧しいやもめの窮状を心に留め、ヒゼキヤ王の涙の祈りを聞き入れられたのです。イエス様もまたヤイロの信仰を認め、絶望するやもめを憐れみ、ラザロの死に悲しむ人々を愛されたのです。願いを叶えられた人は信仰篤く、謙虚です。一方的に慰められた人もいるのです。イエス様は人々の置かれている状況をご存じなのです。「神様の御心」に沿って死者に再び命を与えられたのです。キリスト信仰は「信じること」で完結しないのです。信じて「善い行い」を実行することを求めるのです。行いを欠いた信仰は空しいのです。信仰そのものが死んでいるからです(ヤコブ2:17)。イエス様は生きている間に悔い改めることの重要性に言及されています(ルカ16:19-31)。贅沢に暮らしながら門前の貧しいラザロに目もくれなかった金持ちが死後陰府の炎の中でもだえ苦しんでいるのです。彼は遥か遠くに見えるアブラハムに「死んだ者の中からだれかを兄弟たちのところに行かせて、このような場所に来ないようによく言い聞かせて下さい」と願い出たのです。アブラハムは「モーセと預言者たちに耳を傾けないなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、彼らはその人の言うことに納得しないだろう」と答えたのです。イエス様は神様と共におられるのです。すべての人に「救いの手」を差し出しておられるのです。確信が得られなければ「力ある業」に目を向けるのです。キリストの信徒たちは憐れみ深い神様に感謝するのです。貧しい人々や虐げられた人々と共に歩むのです。「永遠の命」は「善い行い」によって与えられるのです。

2026年01月11日

「新しい生き方」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書3章1節から15節


さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに(上から)生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が(後に)、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内(たいない)に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに(上から)生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者(について)も皆そのとおりである。」するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。


(注)


・夜:イエス様は「・・しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである」と言われています(ヨハネ11:10)。ヨハネ13:30を併せてお読みください。


・神の国:天の国とも言います。死後に行く天国のことではありません。「神様の支配」あるいは「神様の主権」のことです。福音(良い知らせ)とは、神様がこの世を終わらせて「新しい天地」を創造されることです。イエス様はご自身の教えと力ある業によって「神様のご計画」の一部を示されたのです。いずれ、再臨される(再び来られる)時に完全なものとなるのです。


・水と霊:旧約聖書にも記述されています。「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。 」(エゼキエル書36:25-27)イザヤ書32:15-20、ヨエル書3:1-5も参照して下さい。


・人の子:この呼称には三つの意味があります。第一は預言者です(エゼキエル書2:1-3)。第二は天の雲に乗って現れる終わりの時の審判者です(ダニエル書7:13-14)。今日の聖書の個所では、イエス様は預言された人の子であることを明らかにされたのです。他に「わたしとわたしの言葉を恥じる者(たち)は、人の子も自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときにその者(たち)を恥じる」(ルカ9:26)、「神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(ルカ18:8)などがあります。第三はこの世の人間を表しているのです(ルカ9:58)。


●人の子も上げられねばならない:イエス様はご自身が十字架の死を遂げること、天に上げられることの両方について言及されたのです。

・荒れ野の蛇:エジプトから導き出されたイスラエルの民は荒れ野における厳しい生活に耐えきれず、神様に不平を漏らしたのです。主は猛毒の蛇を民に向かって送られたのです。多くの死者が出ました。民が悔い改めたので、神様の指示に従ってモーセは青銅の蛇を造り旗竿の先に掲げたのです。噛まれてもこの蛇を仰げば死ぬことはなくなったのです。旧約聖書の民数記21:4-9を参照して下さい。

・サンへドリン:新共同訳聖書では最高法院と訳されています。エルサレムにあり、もともと司法(律法)に関する最高意思決定機関としての役割を果たしていました。大祭司がこの評議会の議長を担当し、議員は主として祭司職の家系と律法学者のような宗教指導者から選ばれました。結果として、サドカイ派の祭司、ファリサイ派の律法学者たちで構成されたのです。また、いずれの派にも属さない律法や慣習を監督する長老もメンバーに含まれています。イエス様の時代にはローマの支配下にあり、制限を受けていましたが、エルサレムの司法、市民行政、宗教行政(神殿政治)の中枢を担っていたのです。

●ファリサイ派:厳格な律法解釈とその遵守、さらには慣習と伝統を大切にするユダヤ教の一つの派です。

●サドカイ派:祭司や上流階級を代表していました。霊や天使、復活を否定したのです。ファリサイ派と共にユダヤ教の二大勢力です。

●律法学者:文書を記録する官僚であり、同時に学識を有する学者です。多くはイエス様に批判的でしたが、「先生,あなたがおいでになる所ならどこへでも従って参ります」と言った人もいたのです。

・没薬(もつやく)と沈香(じんこう):防腐剤として用いられた樹脂です。

・百リトラ:1リトラは約326グラムです。33kgとなります。相当な量の香料です。

(メッセージの要旨)


*ニコデモは率直に信仰を告白しています。しかし、イエス様はこの人のご自身に対する誤解を指摘されたのです。「人は、新たに(上から)生まれなければ、神の国を見ることはできない」、「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と言われたのです。ニコデモの信仰理解には足りないものがあるのです。「知的認識」はあっても「信仰体験」がないのです。水と霊によって生まれた人には行いによって信仰を証しする力が与えられるのです。「神の国」に招き入れられている人はこの世の基準を無批判的に受け入れることは出来ないのです。イエス様はニコデモにキリスト信仰の本質を教えられたのです。「信仰による救い」は信仰のみによって救われるということではないのです。これまでの自己中心的な生き方を悔い改めて新しく生まれ変わることです。この世から距離を置いてキリスト・イエス(救い主)の御跡を辿(たど)って生きることなのです。心を神様に向けるだけでなく、「神様の御心」を具体化するのです。正義と平和を実現し、隣人を愛するのです。「永遠の命」を願いながら「神様と隣人」を愛することに怠惰(たいだ)であってはならないのです。イエス様の指摘はキリスト信仰を知的に(神学的に)理解しがちなキリストの信徒たちへの警鐘でもあるのです。新年礼拝では毎年「新しい年を迎えて」(讃美歌21)を歌っています。「過ぎ去った日々の悲しみ さまざまなうれいはすべて キリストのみ手にゆだねて、み恵みがあふれるような生きかたを今年はしょう」に励まされ、信仰の歩みを始めるのです。

*ニコデモはヨハネによる福音書だけに三回登場します。信仰に熱心なユダヤ人で、サンヘドリンのメンバーです。敵対するファリサイ派に属しているのですが、イエス様の教えと力ある業の意味を理解しようと努力していたのです。ニコデモは律法の厳格な順守を通して「救い」を得、人々にもそうするように教えて来たのです。イエス様への応答がその人の「救い」を決定するという「神の国」の福音に困惑しているのです。率直な話し合いを望んでいたことによるものなのか、議員の間に噂が広がること恐れていたためなのかは分からないのですが、イエス様を夜に訪問したのです。イエス様はニコデモが言うようなユダヤ教の教師(あるいは預言者)に留まらないのです。神様が遣わされたお方なのです。イエス様はニコデモのご自身に対する理解をさらに深めようとされるのです。「水と霊による洗礼を受けなければ神の国に入れない」と警告されたのです。後に、サマリア人の女性にも「神は霊である。 だから、神を礼拝する者は、霊と真理を持って礼拝しなければならない」と言われたのです(ヨハネ4:24)。ニコデモは神様がイエス様と共におられることを認めているのです。しかし、神様とイエス様が一つであることに考えが及ばなかったのです(ヨハネ10:30)。イエス様の母マリアは聖霊様によって身ごもったのです。イエス様がバプティスマのヨハネから洗礼を受けられた時、天が裂けて神様の霊が降ったのです(マルコ1:10)。旧約聖書に精通しているニコデモでも預言者たちが伝える「水と霊の重要性」を分かっていないのです。

*イエス様との会話を取り上げてニコデモの不信仰について語られることがあるのです。ヨハネの福音書の全体を読めば誰よりも信仰心の篤(あつ)い人であることが分かるのです。ニコデモは律法を熟知していました。イエス様がどのようなお方であるかについても理解しているのです。イエス様から「新たに生まれること」を求められたのです。葛藤(かっとう)の末、「神様の御心」に適(かな)う新しい生き方を決断するのです。「生まれ変わったこと」が後に明らかになるのです。祭司長たちやファリサイ派の人々がイエス様の逮捕について議論している時、ニコデモは「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」と反論したのです。同僚たちの律法違反と不信仰を公然と非難したのです。律法の原点である正義を貫(つらぬ)こうとしたのです。ニコデモの主張は他の指導者たちによって退けられたのです。ただ、このような政治的発言には大きな犠牲が伴うのです。イエス様の信奉者としての烙印を押され、イエス様と同じような迫害を受けることになるのです。「新しく生まれること」が内面における不信仰の克服であるかのように誤解されているのです。「神様の霊」に導かれて人は生まれ変わるのです。その人に生き方の転換が起こるのです。ニコデモはイエス様の教えに従ったのです。行いがその事実を証明するのです。「神の国」に生きる人々が無批判的にこの世と調和することはないのです。権力者たちに迎合(げいごう)することもないのです。


*ユダヤ人指導者たちの策略が功を奏して、イエス様はローマの総督ポンティオ・ピラトによって十字架上で処刑されたのです。11使徒は自分たちに及ぶ迫害から逃れるために身を隠していたのです。ところが、アリマタヤ出身の議員ヨセフがユダヤ人の習慣に従って埋葬(まいそう)するためにイエス様のご遺体を取り降ろしたいとピラトに願い出たのです。ピラトはサンヘドリンの中枢(ちゅうすう)を担い、金持ちでもあるヨセフの申し出に許可を与えたのです。埋葬の準備をしていたヨセフの所に、ニコデモが没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来て加わったのです。ニコデモは自分の信仰を貫くのです。二人はご遺体に香料を添えて亜麻布で包んだのです(ヨハネ19:38-40)。聖霊様はヨセフとニコデモを導かれたのです。「神様のご計画」を実現されたのです。イエス様の弟子であることが行いによって明らかになったのです。二人には会堂から追放されるという厳しい現実が待っているのです。サンヘドリンから排斥(はいせき)され、地位や名誉だけでなく生活手段さえも奪われるのです。「新しく生まれること」によって、想像を絶する試練に遭遇するのです。信仰を自負するキリストの信徒たちがヨセフやニコデモのような曖昧(あいまいな)な信仰者を非難するのです。ところが、イエス様への信仰を証ししたのはこれらの弟子ではないのです。紆余曲折(うよきょくせつ)を経て生まれ変わった信仰篤い二人の議員なのです。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないように・・」を肝(きも)に銘じるのです(マタイ7:1)。


*ニコデモはイエス様に出会って何が最も大切なことであるかを教えられたのです。イエス様のご生涯に倣って生きることを決心したのです。新しく生まれ変わった人々はこの世の常識の範疇(はんちゅう)-利害あるいは損得-で行動しないのです。イエス様が命じられた重要な戒め「まず、神の国と神の義(正義)を求めなさい」を実践するのです(マタイ6:33)。金持ちや社会的地位の高い人々が「神の国」に入るのは難しいのです。これらの人には執着する物があまりに多いからです。「水と霊によって生まれること」について様々な神学議論が行われています。「新しく生まれること」とは論争で解明されることではないのです。もっと単純なことなのです。これまでの生き方を「神様の御心」に沿うように変えることなのです。イエス様がキリストの信徒たちに求められることは悔い改めと新しい生き方なのです。国内においては寒空の中で年を越された方々がおられます。世界に目を向ければ難民や子供たちが困難な生活を余儀なくされているのです。正義と平和の実現を祈るのです。イエス様は「小さな群れ(キリストの信徒たち)よ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい」と言われるのです(ルカ12:32-33)。決断すれば「冷たい水一杯」を届けることが出来るのです(マタイ10:42)。「新たに生まれる」ために行いは不可欠です。今年も、信仰が「神様の御心」に適(かな)っているかをチェックするのです。判断基準は「神様と隣人」を愛して生きているかどうかなのです。

2026年01月04日

「狭い門から入りなさい」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書7章13節から29節


「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」


「偽預言者(たち)を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」


「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」


「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」


イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。 彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。

(注)

・道:古代において、二つの生き方から一つを選択するという教訓は一般的に見られました。例えば「完全な(誠実に)道を歩む人は救われる(安全である)。二筋の曲がった(不正な)道を歩む者は(誰でも)直ちに倒れる」を挙げることが出来ます(箴言28:18)。

・命に通じる門:天の国(神の国)-神様の支配-に入るための入り口のことです。しかし「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」のです(マタイ22:14)。

・天の国:「神の国」とも呼ばれています。旧・新約聖書を貫く信仰の基本理念です。誤解されているような死後に行く天国のことではないのです。

●神様の全き支配のことです。神様が人間の心と社会の隅々にまで真に神様として崇められ、あらゆる価値の基準とされることです。それを通して正義と平和の秩序が実現されることです。旧約聖書は天の国の到来を待ち望むイスラエルの信仰を書き記したものです。神様は自分たちをエジプト人の支配から救い出し、砂漠を経て約束の地へ導かれたのです。ご自分に頼る者を決して見捨てられないのです。どのような地上の力にも勝っておられるのです。信頼するに値するお方なのです。イスラエルは異国の支配下で弾圧され、分断され、捕囚の地に連れていかれたのです。その時も、神様は常に自分たちと共におられ、民の身の上を思い,心を痛められたのです。イスラエルはこの神様がいつの日か、必ず自分たちを解放して下さることを信じたのです。イエス様はこの「天の国」の到来を福音(良い知らせ)として宣教されたのです。

・最も重要な掟:キリスト信仰の真髄(しんずい)です。

■一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』(申命記6:4-5)第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』(レビ記19:18)この二つにまさる掟はほかにない。」律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。(マルコ12:28-34)

・かの日:「裁きの日」のことです。マタイ25:31-46を参照して下さい。

・不法を働く者ども:悪事を働き、法を無視する人々のことです。

■人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。(マタイ13:41-42)

■律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。(マタイ23:27-28)

■不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。(マタイ24:12-13)

・山上の説教の冒頭部分:

■イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい(圧政などによって心を打ちのめされた)人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。義(正義)に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。義(正義)のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:1-12)
    
・主の祈り:イエス様が弟子たちに教えられた祈りです。

■あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇(あが)められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧(かて)を今日与えてください。わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』 (マタイ6:8-13)

・パウロも次のように言っています。

■わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義(無罪)とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。(1コリント信徒への手紙4:3-5)

(メッセージの要旨)


*今年最後の礼拝です。キリストの信徒たちは一年の歩みが「神様の御心」に適(かな)っていたかどうかを振り返るのです。「狭い門から入りなさい」は安易な信仰理解に警鐘を鳴らされているのです。「救い」には苦難や自己犠牲が伴うのです。多くの弟子がファリサイ派の人々や律法学者たちの悪い行いに倣(なら)い、神様と隣人を愛することを軽んじているのです。神様の戒めの基準を緩和して-この世的に解釈して-「救い」から遠ざかっているのです。偽預言者たち-巡回クリスチャン宣教者たちを含む-が敬虔(けいけん)さを装っているのです。しかし、その内側は貪欲(どんよく)と放縦(ほうじゅう)で満ちているのです。信仰共同体(教会)は混乱し、破滅の道を歩んでいる信徒もいるのです。今日においてもその状況は変わらないのです。信徒たちは指導者たちが本物であるかどうかを見極めることに不慣れです。批判することがあたかも罪であるかのように教えられているからです。不信仰や腐敗が見られれば躊躇(ちゅうちょ)することなく告発するのです。イエス様は判断基準を示されたのです。指導者と呼ばれる人々の言葉ではなく行いによって見分けるのです。自分たちを犠牲にして群れ(教会)を養っているか、群れを犠牲にして私欲に腐心しているかを峻別(しゅんべつ)するのです(エゼキエル書34)。イエス様はファリサイ派の人々を非難して、「正義の実行と神への愛はおろそかにしている」と言われました(ルカ11)。御名によって預言し、悪霊を追い出し、奇跡を行ったことが「救い」の保証にはならないのです。


*キリスト信仰とは「神様の御心」-最も重要な戒めを守ること-に従って生きることです。「永遠の命」(救い)は終わりの日に受ける報酬なのです。引用箇所はイエス様の「山上の説教」(マタイ5章―7章)の結論部分です。キリスト信仰は確かに命に至る門です。しかし、信仰のみによって与えられる「安価な恵み」ではないのです。御言葉を聞くだけではなく、御跡を辿(たど)って良い実を結ぶことを求めるのです。「山上の説教」はキリスト信仰に生きる人々の指針なのです。機会がありましたら是非全体を通してお読み下さい。冒頭において、貧しい人々や虐げられた人々は優先的に祝福されることが明言されているのです。一方、「平地の説教」においては、富んでいる人々や満腹している人々に「天罰」が宣告されたのです(ルカ6:24-25)。イエス様のお言葉を恣意的(しいてき)に解釈し、真意を歪曲(わいきょく)してはならないのです。神様と隣人を愛することはキリスト信仰の根本理念です。神様を愛するとは戒めを守ることです。隣人とは貧しい人々や虐(しいた)げられた人々のことです。「天の国」と「この世」とは両立しないのです。裕福な人々は自分のために富を独占してはならないのです。貧しい人々にそれを施すのです。権力を持っている人々は自分たちのために用いるのではなく、社会の底辺で苦しむ人々のためにそれを行使するのです。イエス様が人々の「救い」を判断されるのです。行いのない信仰は空しいのです。「天の国」の到来を福音として信じる人々は何よりも「神様の御心」の実現に取り組むのです。

*「天の国」に至る道には二つの門があるのです。イエス様は「狭い門」の方から入りなさいと言われるのです。婚宴の席に譬(たとえ)えられた「天の国」に招かれる人は多いのです。ところが、実際に婚宴の席に座る人は少ないのです。イエス様が事前に説明された判断基準によって選別されるからです。信仰によって「永遠の命」が担保されている訳ではないのです。信仰には善い行いが伴わなければならないのです。「神様の御心」に相応しい人々だけが「天の国」に入るのです(マタイ22:1-14)。イエス様は「天の国」に入るための{必須の要件}を挙げておられます。ある議員が「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねたのです。イエス様は「『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」と言われたのです。すると議員は「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えたのです。これを聞いて「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と言われたのです。しかし、議員はこの言葉を聞いて非常に悲しんだのです。大変な金持ちだったからです。金持ちが「神の国」に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易(やさ)しいのです(ルカ18:18-25)。議員はイエス様(狭い門)-困難な道-よりも富(広い門)-快適な道-を選んだのです。パウロも自戒しているようにイエス様が「裁き主」なのです。

*弟子たちがイエス様のところに来て「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と尋ねたのです。イエス様は「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕えるものになりなさい」と答えられました(マルコ9:35)。そして、一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて「・・心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われたのです(マタイ18:1-5)。「自分を低くして子供のようになること」が「謙虚になること」として解釈されているのです。この意味は「自分の視点を社会的地位の低い人々に向けること」なのです。キリスト信仰を標榜(ひょうぼう)する人々には、貧しい人々や虐げられている人々に仕え、共に歩む責務があるのです。信仰の歩みが日曜礼拝への出席や心地よい信徒たちの交わりに留まっていないかどうかをチェックするのです。世界のあちらこちらに、紛争や迫害によって故郷を追われ、テントや簡素な小屋がひしめく難民居住地で厳しい冬を迎えようとしている人々がいるのです。日本においても、貧困や差別の解消、原子力発電や米軍基地の危険性を訴えている人々がいるのです。御言葉の意味が指導者たちの信仰理解によって変容されているのです。キリスト信仰が誤解される要因の一つです。正義と平和、貧困や迫害に視線を向けない信仰は「救い」の役に立たないのです。

*「永遠の命」はキリスト信仰によって得られるのです。この福音がすべての人に届けられているのです。ただ、「信仰による救い」が強調されているのです。「救いの要件」がほとんど語られていないのです。キリスト信仰は信じることで完結しないのです。イエス様が命じられた最も重要な戒めを具体化することです。全身全霊で「神様の御心」を実現し、隣人を自分のように愛して生きることなのです。この狭い門から入らなければ「永遠の命」に与れないのです。キリスト信仰における厳しさを曖昧(あいまい)にしてはならないのです。新共同訳聖書はカトリックとプロテスタントに関わる方々の不断の努力によって完成したのです。今年も、この聖書によって「イエス様」をお伝えして来ました。一方、限られた経験や信仰理解に頼る一人善(よ)がりのメッセージになっていなかったかどうか、知的信仰を批判しながら自分がそこに陥(おちい)っていなかっただろうか、御言葉を語りながら自分はそれを率先して実践したのだろうか、傲慢(ごうまん)になり集会では上座、教会では上席を選んでいなかっただろうかと自問するのです(マタイ23:1-12)。柔和と謙遜、憐れみと清い心を持って人々に接しただろうか、正義と平和を実現するために労苦している人々の重荷を共に担っただろうか、飢えている人々に食べさせ、のどが渇いている人々に飲ませ、旅をしている人々に宿を貸し、裸でいる人々に着せ、病気の人々を見舞い、牢にいる人々を訪ねただろうかと振り返るのです(マタイ25:31-46)。困難であっても狭い門から入るのです。

2025年12月28日

「イエス様の誕生とシメオンの預言」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書2章21節から35節及び3節から52節


八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」


親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。

(注)


・八日目の割礼:


■いつの時代でも、あなたたちの男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆、生まれてから八日目に割礼を受けなければならない。(創世記17:12)

・清めの儀式:


■主はモーセに仰せになった。・・妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚れの日数と同じ七日間汚れている。・・産婦は出血の汚れが清まるのに必要な三十三日の間、家にとどまる。その清めの期間が完了するまでは、聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない。・・男児もしくは女児を出産した産婦の清めの期間が完了したならば、産婦は一歳の雄羊一匹を焼き尽くす献げ物とし、家鳩または山鳩一羽を贖罪の献げ物として臨在の幕屋の入り口に携えて行き、祭司に渡す。・・なお産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合は、二羽の山鳩または二羽の家鳩を携えて行き、一羽を焼き尽くす献げ物とし、もう一羽を贖罪の献げ物とする。祭司が産婦のために贖いの儀式を行うと、彼女は清められる。(レビ記12:1-8)

・初めて生まれる子:

■主はモーセに仰せになった。「すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである。」(出エジプト記13:1-2)

・山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽:ヨセフとマリアに羊を捧げる経済的ゆとりがなかったことを表しています。


・イスラエルの慰め:約束されたイスラエルの独立のことです。具体例としてバビロン捕囚からの帰還を挙げることが出来ます(イザヤ書40:1-2)。イザヤ書49:5-6;61:1-2を併せてお読み下さい。

・あなた自身も剣で心を刺し貫かれます:人々は神様の「救いの業」を拒否するのです。分裂の剣はマリアと家族に苦痛をもたらすのです。ルカ8:19-21、11:27-28、12:51-53をご一読下さい。

・ナザレ:サマリアの北に位置するガリラヤ地方の小さな村です。周辺地域から孤立しており、要衝の地でもありませんでした。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言われていたのです(ヨハネ1:46)。聖書地図をご覧下さい。

・イエス様が宣教を開始された年齢はおよそ30歳です(ルカ3:23)。

(メッセージの要旨)


*11月30日(日)から待降節の期間、「ヨハネの誕生」、「マリアの賛歌」、「信仰の人ヨセフ」について学んできました。今日は「シメオンの預言」を通して、イエス様の誕生の意味とご生涯について考えます。イエス様はローマの支配下にあるユダヤのベツレヘムでお生まれになったのです。ヘロデ大王によって命の危険に晒(さら)されたのです。「神の国」(天の国)-神様の支配-の到来は貧しい人々や虐(しいた)げられた人々に「良い知らせ」(福音)となるのです。一方、権力者たちには既得権益の放棄を迫る「悪い知らせ」となったのです。キリスト信仰が誤解されているのです。イエス様は地上に分裂をもたらすために来られたのです(マタイ10:34-39)。人々に悔い改めを求めて「救い」に導かれただけではないのです。神様の正義と愛が社会の隅々に行き渡るように奔走(ほんそう)されたのです。ユダヤ人は異邦人を神様から離れた罪人として蔑(さげす)んでいました。聖霊様に導かれたシメオンは幼子を抱いて「・・これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです」と神様を讃(たた)えたのです。ユダヤ人にも異邦人にも「救い」が訪れるのです。ユダヤ教にとって重大な教義の変更が宣言されたのです。シメオンの詳細は不明です。ただ、信仰心が篤く、律法を守り、イスラエルに「救い主」が現れるのを待ち続けていた人として紹介されています。神様はこのような「普通の人」を用いられるのです。イエス様が果たされる使命についてあらかじめ語られたのです。


*幼子が誕生して八日が経ちました。イエス様と名付けられたのです。胎内に宿る前に天使から示された名前です。イエス様の幼年時代、青年時代、大人になった初めの頃についてはほとんど知られていないのです。ただ、分かっていることもいくつかあるのです。ヨセフとマリアは主の律法で定められたことをみな終えたので、ガリラヤのナザレに帰ったのです。イエス様はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれて成長されたのです。律法を守り、安息日には会堂へ行かれたのです。12歳の時(紀元後6年頃)、両親と共に過越際のためにエルサレムへ巡礼されたのです。ヨセフとマリアはナザレへの帰途に着いたのです。しかし、イエス様は群れの中におられなかったのです。神殿の境内で学者たちの真ん中に座って話を聞き、質問をしておられたからです。三日間も滞在されたのです。人々はイエス様の賢い受け答えに驚いたのです。イエス様は捜しに戻って来た両親に「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということ知らなかったのですか」と言われたのです。「神の子」であることを認識しておられたのです。この年、民族的にも、政治的にも大きな出来事がありました。多くの愛国的ユダヤ人は外国の支配者への納税を拒否するように呼びかけていたのです。代表団を派遣し、ユダヤ、サマリアを統治していたヘロデ・アルケラオ(紀元前4年に就任)の残虐性と統治能力の欠如をローマ皇帝アウグストに申し出たのです。皇帝は訴えを認めて彼の地位をはく奪したのです。ユダヤはローマの直轄領となり、総督のピラトが派遣されたのです。

*イエス様は両親と一緒に下って行き、ナザレに帰られたのです。そこで、両親に仕えてお暮らしになりました。イエス様は知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛されたのです。その後、イエス様が宣教を始められるまでの18年間はナザレの会堂で一般のユダヤ人としての教育を受けられたのです。父親のヨセフの下で職人としての腕を磨き、村の大工となられたのです。村人たちが「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」と言っていることからも明らかです(マルコ6:2-3)。イエス様は村人たちが必要とする様々な物を作られたのです。例えば、牛と牛を繋ぐくびき、木製のすき、脱穀用の板、もみ殻を分ける熊手、ベンチ、テーブル、ベッド、木箱、荷車などです。住居の一階は作業場で家族はその上に住んだのです。イエス様は大工としての仕事を通して人々の暮らしを身近に感じ取られたのです。こうした経験を機会あるごとに説教やたとえ話に用いられたのです。ユダヤは引き続きローマに直轄支配されていたのです。ガリラヤ地方はヘロデ・アンティパスが統治していました。イエス様はおよそ30歳の頃に「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って、宣教を開始されたのです(マルコ1:15)。「神の国」の福音が圧政下において具体化されているのです、今日、「罪の赦し」に縮小されているのです。神様はこの世のすべてを支配されるのです。キリスト信仰とはイエス様の宣言を信じることです。

*ヘブライ人への手紙には「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。・・」と書かれています(1:1-2)。イエス様は神様のお言葉なのです。シメオンはイエス様の誕生を知って、「救いの御業」が始まったことを確信したのです。同時に、イエス様の行く末について「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ・・」と預言したのです。果たして、シメオンの言葉は後に現実になるのです。人々の間にキリスト信仰を巡(めぐ)って激しい対立と分裂が生じるのです。神殿政治の中枢を担う律法学者たちやファリサイ派の人々、彼らに同調する人たちはイエス様を迫害し、「神様の支配」を拒絶するのです。一方、貧しい人々や虐(しいた)げられた人々は悔い改めてイエス様を信じたのです。シメオンはマリアが遭遇(そうぐう)する苦悩について言及しています。ある時、イエス様が群衆に語っておらました。母マリアと兄弟たちが会いに来たのです。イエス様は弟子たちに「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と言われたのです。マリアは複雑な気持ちでお言葉を理解したのです。この世の母と子の関係に別れを告げることになるのです(ルカ8:19-21)。さらに、「あの男は気が変になっている」という人々の言葉を聞いて、親戚のある者たちがイエス様を取り押さえに来たのです。マリアは身内の不信仰に心を深く痛めたのです(マルコ3:20-21)。

*イエス様の誕生に関わった人々は聖霊様、あるいは天使に導かれて、それぞれの役割を果たしたのです。洗礼者ヨハネの親となった祭司ザカリアと妻エリザベト、受胎告知に従ってイエス様の母になる決心をし、「神の国」の到来を宣言した乙女マリア、マリアを受け入れ、権力者たちの迫害からイエス様と妻を守ったヨセフ、いずれも信仰によって「神様のご計画」に参画したのです。聖霊様に導かれたシメオンも神様が万民のために「救い主」を誕生させられたこと、異邦人たちがこの啓示の光に照らされて正しい道を歩めることに感謝したのです。福音書記者ヨハネはイエス様の誕生の意味を説明しています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と言って、神様の天地創造の御業と関連付けているのです(ヨハネ1:1-4)。マタイやルカとは異なり、抽象的、哲学的です。多くの人が敬遠する聖書の個所になっているのです。しかし、内容的にはキリスト信仰の本質を示しているのです。イエス様は「神様のご計画」に基づいて誕生されたのです。新しい天地の創造が始まっいるのです。イエス様は「わたしを見たものは、父を見たのだ」と断言されたのです(ヨハネ14:9)。神様とイエス様は一体なのです。イエス様のお言葉に耳を傾けるのです。聞くだけではなく、御跡を辿(たど)るのです。

2025年12月21日

「信仰の人ヨセフ」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書2章1節から23節

イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者(支配者)たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者(一人の支配者)が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』(ミカ書5:1)」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」(ホセア書11:1)と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」(エレミヤ書31:15)

ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。


(注)


・ヘロデ大王:ローマ皇帝の承認を受け、ローマ人から「ユダヤ人の王」と呼ばれていました。猜疑心が強く自分の地位を脅かす人々(妻や息子たちを含めて)を容赦なく処刑しました。さらに、ユダヤ教の祭司たちも殺害したのです。これにより「最高法院」(ユダヤの最高議決機関)は弱体化したのです。幼子イエス様が成長して将来自分や後継者を脅かす存在になることを恐れたので、二歳以下の男の子をすべて殺したのです。在位は紀元前37年-紀元前4年です。


・占星術の学者:占星術や魔術を行う宮廷祭司です。彼らが持参した乳香は香りのする樹脂、没薬(もつやく)は「油を注ぐ」時、あるいは「防腐処置」を施す場合に用いられる樹脂です。東方はパルティア(現在のイランの北部)ではないかと言われています。


●星には政治的な意味が含まれています。「わたしには彼が見える。しかし、今はいない。彼を仰いでいる。しかし、間近にではない。ひとつの星(ダビデ)がヤコブから進み出る。ひとつの笏(王権を象徴する棒)がイスラエルから立ち上がり/モアブ(人たち)のこめかみ(ひたい)を打ち砕き/シェト(牧羊民族)のすべての子らの頭(の頂)を砕く 」(民数記24:17)。ローマ帝国と戦いわずか数年(紀元後132年-135年)ですが独立を勝ち取ったユダヤ人指導者バー・コクバは「星の子」と呼ばれています。 

・ユダヤ人の王:占星術の学者たちは幼子イエス様に敬意を表して「ユダヤ人の王」と呼んでいます。ところが、ローマの総督ポンティオ・ピラトはイエス様を侮蔑してこの称号を用いています(マタイ27:11)。そして、十字架の上に掛ける罪状書には「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いたのです。イエス様が十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読みました。ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていました。ユダヤ人の祭司長たちがピラトに「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と申し出たのですが、ピラトは「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と拒否しています(ヨハネ19:19―22)。


・ダビデの子ヨセフ:主の天使は、ヨセフがイスラエルにおける最も偉大な王ダビデ(サムエル記上16:1-列王記上2:12)の子孫であることを確認しています。マタイ(1:1-17)とルカ(3:23-38)はヨセフが「ダビデの子孫」であることを系図によって確認しています。

 

・エレミヤの預言:ダビデ王の子ソロモン王の死後、イスラエルは南北に分裂しました。北王国はイスラエル、南王国はユダと呼ばれていました。北王国はアッシリヤによって滅ぼされたのです(紀元前722/721年)。南王国はバビロン(現在のイラク)のネブカドレツアル王によって征服されました(紀元前587/586年)。多くの人が捕囚の民となったのです。ラマはエルサレムの北8kmにあり、捕囚地バビロンへ連れて行かれる時の中継地となりました(エレミヤ書40:1)。ラケルはヤコブ(父祖アブラハムの子であるイサクの子)の妻です。イスラエルの「民族の母」の一人です(創世記30:23-24)。マタイは殺された子供たちの母親の嘆きをラケルの悲しみとして表現しているのです。

・アルケラオ:ヘロデ大王には処刑した妻と三人の子の他に、別の妻との間に三人の息子がいました。ヘロデ・アルケラオはユダヤ、サマリア、イドマヤを統治しました(紀元前4年-紀元後6年)。ヘロデ・アンティパスはガリラヤとペレアを支配しました(紀元前4年-紀元後39年)。ヘロデ・フィリップはガリラヤ湖の北部地域を管轄しました(紀元前4年-紀元後33/34年)。アルケラオは三人の息子の中で最も残虐な人物でした。ローマ皇帝アウグストス(紀元前27年-紀元後14年)は統治能力に欠けるアルケラオを廃位し、管轄地をローマ帝国の直轄領としたのです。

・ナザレ:ガリラヤ湖の西約24㎞にある農業の村です。

・彼はナザレの人と呼ばれる:旧約聖書にこの表現に対応する特定の個所はありません。

・ベツレヘム:エルサレムの南10kmにあり、ダビデ王の生地です(サムエル記上17:12)。

(メッセージの要旨)

*マタイとルカはヨセフがイエス様の誕生とその後も重要な役割を果たしたことを伝えています。ところが、マルコにはヨセフの名前が登場しないのです。ヨハネはイエス様を「ヨセフの息子」として言及する場合にのみ名前を用いています(ヨハネ1:45,6:42)。ルカによれば、12歳の時イエス様は両 親と共にエルサレムへ過越祭(ユダヤ教の三大祭りの一つ)を祝うために巡礼に出かけています。これが新約聖書におけるヨセフに関する最後の記述となっています。ヨセフはマリアのようにイエス様の宣教グループに加わっていないのです。イエス様の青年時代に亡くなったのではないかと言われています。ヨセフはマリアと婚約していました。婚約は一緒に住んでいないだけで、既婚者に対する律法の規定が婚約者にも適用されるのです。ヨセフは二人が一緒になる前にマリアが身ごもっていることを知ったのです。「姦淫の罪」(石打ちによる残酷な処刑)で告発する義務が生じたのです。ヨセフは思い悩んだ末、ひそかに縁を切ろうと決心したのです。ところが、主の天使が夢(一度目)に現れて「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と言ったのです(マタイ1:20-21)。信仰心篤く、憐れみ深いヨセフは天使の言葉に従いマリアを受け入れたのです。神様によって約束された「救い主」が誕生されることになったのです。クリスマスにおいてヨセフの信仰を想起するのです。

*ヘロデ大王は東方から来た占星術の学者たちの言葉を聞いて不安になったのです。日本語訳の「不安を抱いた」は不正確です。原語に忠実に訳せばもっと強い驚きを表す「仰天した」となるのです。ヘロデは自分の意志が及ばないところで別の「ユダヤ人の王」がすでに決定されていることに驚愕(きょうがく)したのです。人々-特に祭司長たちや律法学者たち-も同じように動揺したのです。猜疑心(さいぎしん)の強いヘロデは自分の地位を危うくする者は誰でも殺して来たのです。新たな「ユダヤ人の王」を早い段階で抹殺しようと画策したのです。幼子の生まれた場所とおよその年齢が特定されたのです。占星術の学者たちはヘロデの要請に応じて幼子を捜しに出かけました。幼子を見つけると拝み、贈り物を献じたのです。しかし、新たな「ユダヤ人の王」の正統性を主張する占星術の学者たちに命の危険が迫っているのです。ヘロデが彼らを殺そうとしていたのです。不思議な事に東方の学者たちに「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったのです。彼らは自分たちの国へ無事に帰ることが出来たのです。神様は御心に適(かな)う人たちを助けられたのです。一方、ヘロデは東方の学者たちが約束を守らなかったことに激怒したのです。人を送り、自国の学者たちに確かめておいたベツレヘムとその周辺一帯に住む二歳以下の男の子を一人残らず殺させたのです。子供たちの親や家族、親戚は激しく泣いたのです。幼子の誕生に付随して起こった悲劇はイエス様の将来を予見させるのです。クリスマスを心静かにして迎える理由はここにあるのです。

*マタイによるとイエス様はヘロデ大王(紀元前4年に死亡)の統治下で誕生されました。二歳以下の男の子を皆殺しにしたことから誕生年は紀元前4年より以前ではないかと推測されています。ルカによればイエス様はローマ皇帝アウグストス(紀元前31年-紀元後14年)、ガリラヤとユダヤを含む地域を支配していたシリア州の総督キリニウスの時代、ヨセフとマリアが住民登録(紀元後6-7年頃)のためにベツレヘムに滞在していた時にお生まれになったのです(ルカ2:1-2)。歴史的事実を考慮すれば二人の福音書記者の説明に統一性を見出すことは不可能です。誕生時の状況についても異なる視点から取り上げられているのです。ルカによれば主の天使が羊飼いたちに「・・ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」と告げたのです。この天使に天の大軍が加わり「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ」と神様を賛美したのです(ルカ2:10-14)。誕生物語に言及する時、多くの人は牧歌的な雰囲気が漂(ただよ)うルカの記述を好んで用いているのです。しかし、イエス様は誕生の瞬間から権力者たちに命を狙(ねら)われたのです。「神の国」(天の国)-神様の支配-の到来を福音として証しされたイエス様のご生涯は真に苦難に満ちているのです。「神の国」とこの世は両立しないのです。イエス様の生き方を心に刻むのです。

*イエス様は最初の難を回避することが出来たのです。主の天使が夢でヨセフに現れて「子供とその母親を連れ、エジプトへ逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている」と言っていたからです。ヨセフは天使の言葉を信じたのです。イエス様と妻マリアを連れてエジプトへ逃げたのです。ヨセフが天使の指示に従ったのはこれで二度目です。ヘロデが死ぬまでそこに滞在したのです。ヨセフの信仰がイエス様と妻マリアを守ったのです。三度目に主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れたのです。「子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった」と告げたのです。今度も、ヨセフは天使の言葉に従ったのです。イエス様と妻マリアを連れてイスラエルの地へ帰って来たのです。ところが、残虐なアルケラオがユダヤを支配していると聞いたのです。そこに行くことを恐れたのです。四度目の夢で天使からお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだのです。イエス様は幼子の時から権力者たちに迫害されたのです。言い換えれば、これらの人は本能的にイエス様を恐れているのです。後のイエス様はご自身の方から彼らと対峙(たいじ)されたのです。イエス様が宣教された「神の国」の到来は地上の支配者たちに「神様の主権」に従うことを求めたのです。しかし、社会的地位や既得権益に執着する人々は「ユダヤ人の王」を拒絶したのです。政治犯として処刑したのですが、神様は復活させられたのです。


*イエス様の誕生物語においてはマリアが注目されています。ヨセフの果たした役割は極めて大きいのです。「聖霊様によって身ごもった」という天使の言葉を信じてマリアを妻として迎え入れたのです。イエス様の誕生に伴う迫害の事実について語られることがほとんどないのです。主の天使は四度にわたってヨセフに現れました。ヨセフはその都度天使の指示に従ったのです。イエス様の苦難の歴史から目を逸(そ)らしてはならないのです。当時の絶対的権力者ヘロデ大王は神様が遣わされた「ユダヤ人の王」の誕生に戦慄(せんりつ)を覚えたのです。二歳以下の男の子を皆犠牲にしてでも幼子イエス様を殺そうとしたのです。強い殺意が表れているのです。大祭司カイアファなどのユダヤ人指導者たちも恐れたのです(ヨハネ11:48)。ローマの総督ポンティオ・ピラトを脅(おど)して政治犯として十字架上で処刑させたのです。この世の支配者たちが「神の国」に勝利したように見えたのです。神様はイエス様を死者の中から初穂として甦(よみがえ)らされたのです。「復活」を通して権力者たちの罪が明らかになったのです。ヨセフの従順によってイエス様は誕生されたのです。その後も緊迫(きんぱく)した状況が続くのです。ヨセフは信仰によってイエス様と妻マリアを権力者たちから守ったのです。ヨセフは出来事の中で言葉を発していないのです。「行い」によって神様のご期待に応えたのです。ヨセフは「神様のご計画」を実現するために選ばれた器です。イエス様の誕生に関わった重要人物です。この人の信仰から学ぶ良い機会なのです。

2025年12月14日

「マリアの賛歌」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書1章26節から56節

(エリザベトが身ごもって)六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

・・エリザベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「・・主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者(たち)に及びます。主はその腕で力を振るい、/思い上がる者(たち)を打ち散らし、権力ある者(たち)をその座から引き降ろし、/身分の低い者(たち)を高く上げ、飢(う)えた人(たち)を(様々な)良い物で満たし、/富める者(たち)を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。


(注)


・天使ガブリエル:ダニエル書8:16,9:21にも登場します。


・ナザレ:エルサレムから直線でおよそ100㎞の所にあります。サマリアの北に位置するガリラヤの小さな村です。周辺地域から孤立しており要衝の地でもありませんでした。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言われていました(ヨハネ1:46)。聖書地図をご覧下さい。

・神にできないことは何一つない:

主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている」(創世記18:13-14)。マタイ19:26;マルコ14:36にも同様のお言葉が記述されています。

・マリアの賛歌:マリアは「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます・・」と賛美しています。サムエルの誕生に伴うエルカナの妻ハンナの賛歌(サムエル記上2:1-10)を併せてお読み下さい。

・神様とアブラハムとの契約:「これがあなたと結ぶわたしの契約である。・・わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。・・」(創世記17:4-6)


・神様とダビデとの約束:「わたしは、・・あなたを・・わたしの民イスラエルの指導者にした。・・敵をわたしがすべて退けて、あなたに安らぎを与える。・・わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。・・」(サムエル記下7:8-16)。


・イエス様の系図:ルカ3:23-38,マタイ1:1-17に記載されています。


・ベタニヤ:エルサレム近郊の村です。


・1デナリオン:当時の平均的労働者の一日分の賃金に相当します。300デナリオンは大金です。5千円であれば150万円です。

(メッセージの要旨)

*マリアはザカリアと同じように「どうして、そのようなことがあり得ましょうか‥」と天使の言葉を疑ったのです。天使は「神にできないことは何一つない」と明言し、全能の神様を信頼するように促(うなが)したのです。マリアは再び反論することもなく「お言葉通り、この身に成りますように」と受け入れたのです。マリアは真に信仰篤い女性です。イエス様の誕生物語に言及する時、多くの場合マリアの受胎告知のみが強調されて終わるのです。マリアの信仰告白は続いているのです。神様が「マリアの賛歌」という形で讃(たた)えられているのです。一連の言葉で、イエス様の誕生の意味が先取りされ、具体的に表現されているのです。身分の低い主のはしため(召使の女性)にも目を留めてくださったこと、主の憐れみは代々限りなく、主を畏(おそ)れる者たちに及ぶことに感謝しているのです。社会には少数の極めて裕福な人々と貧しさに喘(あえ)ぐ多くの人がいるのです。神様は不当な現実を容認されないのです。「救い主」の誕生を貧しいマリアによって実現された事実に「神様の御心」が表れているのです。既得権益やたくさんの富に執着し、貧しい人々を虐(しいた)げている指導者たちが厳しく非難されているのです。この世に「神の国」-神様の支配-が到来したのです。イエス様の誕生はその開始を告げているのです。福音(良い知らせ)は労苦する人々に優先的に届けられるのです。クリスマスには神様の深い愛に感謝するのです。マリアがイエス様の誕生に関わったことだけではなく、自らもイエス様の生き方を再確認するのです。

*マリアはヨセフと婚約していました。一緒に住んでいないというだけで二人には結婚している人たちと同様の律法の規定が適用されたのです。マリアは思春期を少し過ぎた頃と推測されています。洗礼者ヨハネの母エリザベトはマリアと親戚関係にありました。すでに、天使ガブリエルは祭司である夫ザカリアに「不妊の妻エリザベトが子を宿すこと」を告げています。生まれた子はヨハネと名付けられ、イエス様の先駆けとして「神の国」の宣教に生涯を捧げたのです。同じ天使がマリアにも「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」と言ったのです。イエス様の誕生物語を伝えているのはマタイとルカです。マルコとヨハネはそれを記していないのです。四福音書の記者がそろってイエス様に適用された政治犯に対する十字架刑の様子を詳細に記録していることに比べれば不思議です。マリアは「救い主」の誕生に大きな役割を果たしたのです。その後「この人(イエス様)は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」(マルコ6:3)、「彼ら(11使徒)は皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」(使徒1:14)のように、実名で二回登場しています。それ以外は「イエス様の母」として紹介されています。初代教会の一員として「神の国」を証ししたのです。「マリアの賛歌」がなぜか読み飛ばされているのです。この信仰告白はキリスト信仰の真髄(しんずい)なのです。

*イスラエルにおける金持ちは人口の5パーセント以下でした。ローマの官僚たち、特権階級としての祭司たち、一握りの大土地所有者たち、不正な取り立てによって蓄財している徴税人たちによって構成されています。一般民衆は貧しく、極貧状態にある人も少なくなかったのです。文献には地方を徘徊(はいかい)するホームレスが教会から給付されるわずかなお金を奪い合う様子が記述されています。福音書にも貧しい人々の様子が描かれています。多くの労働者が広場に集まり、支払われる賃金の額を雇い主に尋ねることもなく、必死でその日の仕事を求めているのです。雇い主は形式的平等によって労働者たちを分断するのです(マタイ20:1-16)。ラザロという名のできものだらけの貧しい人は金持ちの門前に横たわり、その家の食卓から落ちる物で空腹を満たしたいと思っていました。律法によって汚れた動物とされている犬がやって来てできものをなめたのです。この人には犬を追い払う力も残っていなかったのです(ルカ16:19-21)。ベタニヤに住む別のマリアはイエス様の足に高価なナルドの香油を塗(ぬ)ったのです。後にイエス様を裏切ったイスカリオテのユダが「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って貧しい人々に施さなかったのか」と非難したのです(ヨハネ12:4-5)。貧しい人々のことを心にかけて言ったのではないのですが、人々の窮状を知ることは出来るのです。「マリアの賛歌」は「救い主」を待望する人々にとって希望の光となったのです。キリストの信徒たちも「神の国」の到来を福音として信じるのです。

*貧しさは人々の精神と肉体を蝕(むしば)んでいるのです。マリアは「神様が飢えた人々を良い物で満たして下さる」、「主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし・・富める者を空腹のまま追い返されます」と預言しています。「マリアの賛歌」にはキリスト信仰の重要な理念が宣言されているのです。イエス様も「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである」(ルカ6:20)と明言されたのです。弟子たちが祈り方について質問した時、イエス様は「わたしたちに必要な糧(かて)を今日与えてください。わたしたちの負い目(負債)を赦してください、わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を赦しましたように」と祈るように教えられたのです(マタイ6:11―12)。「神の国」の正義と豊かさを示すために、「力ある業」(奇跡)によって空腹を覚えるおよそ五千人に食べ物を提供されたのです(マルコ6:30-44)。ある金持ちは畑が豊作だったので大きい倉を建てて穀物を収納し、これから何年も贅沢(ぜいたく)に暮らせることを喜んだのです。そのように思った日に神様はこの人の命を取り上げられたのです(ルカ12:13-21)。律法を厳格に守っていた金持ちも貧しい人々に施さなかったために「神の国」に入れなかったのです(マルコ10:17-27)。先述の金持ちとラザロは時が来て共に死んだのです。前者は陰府(よみ)で「永遠の罰」を受け、後者は「永遠の命」に与ったのです(ルカ16:22-31)。マリアの宣言は正しかったのです。

*マリアは起こるかも知れない様々な困難を恐れずに、天使ガブリエルの言葉を信じて「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と言ったのです。15歳前後の少女に真の信仰を見るのです。マリアのことを聞いたヨセフは密かに縁を切ろうとしたのです。ところが、主の天使が夢に現れて「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。・・イエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と説明したのです。ヨセフは天使の言葉を信じてマリアを迎え入れたのです(マタイ1:18-25)。イエス様は信仰篤いマリアとヨセフの間にお生まれになったのです。イエス様の誕生には神様のご計画があったのです。「マリアの賛歌」は信仰告白です。同時に、イエス様が生と死と復活を通して証しされる「神の国」の到来の事前予告でもあるのです。しかし、「マリアの賛歌」について語られることがほとんどないのです。イエス様は貧しい人々や虐げられた人々と共に歩まれたのです。正義、慈悲、誠実を軽んじる人々-権力者(偽善者)たち-に天罰を下されるのです(マタイ23:23)。マリアは聖霊様に導かれて神様がイエス様を通して新しい天地創造に着手されたことを高らかに宣言したのです。すでに、神様はアブラハムに祝福の要件として「正義の実行」を命じておられるのです(創世記18:19)。キリストの信徒たちは個人的な「救い」を願うだけでなく、「神様の正義」と「神様の愛」を基本とする「神の国」の建設に参画するのです。

2025年12月07日

「ヨハネの誕生」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書1章5節から25節

ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。 さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父(両親たち)の心を子(たち)に向けさせ、逆らう者(たち)に正しい人(たち)の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」

民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った。その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた(隔絶された)。そして、こう言った。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」

(注)


・待降節:教派によって呼び方は異なりますが、キリスト(メシア)-油注がれた者-のご降誕を待ち望む期間のことです。クリスマスの4週前の日曜日から始まります。今年は11月30日です。


・ヨハネが「悔い改め」の洗礼を授けていた当時の政治情勢:


●ティベリウス:ローマ皇帝です。在位は紀元後14年から37年です。


●ポンティオ・ピラト:ローマから派遣されたユダヤの総督です。在位は紀元後26年から36年です。


●ヘロデ:ヘロデ大王のことです。ローマ人からユダヤ人の王と呼ばれていました。在位は紀元前37年から紀元前4年です。洗礼者ヨハネが宣教を開始した頃のガリラヤの領主ヘロデは、三人の息子の一人ヘロデ・アンティパス(紀元前4年-紀元後39年)です。他の二人はヘロデ・フィリポ(紀元前4年-紀元後34)とヘロデ・アルケラオ(紀元前4年-紀元後6年)です。前者はガリラヤ湖の北とヨルダン川の北東(現在のシリア)などを支配し、後者は当初ユダヤ、サマリアなどを管轄しました。しかし、統治能力に問題がありました。ローマ皇帝は彼の職を廃止し、エルサレムを直轄領としたのです。


・アビヤ組:歴代誌上24:1―19をお読み下さい。祭司たちは人数が多いので24組に分けられていました。ユダヤ人歴史家ヨセフスは2万人の祭司がいたことを記録しています。それぞれ半年に一週間神殿で仕えたのです。それ以外の日はエルサレムを離れこの世の仕事に従事したのです。ザカリアのようにくじで選ばれて「聖所」で一日に二回香を焚(た)く祭司は極めて少ないのです。


・アロン:イスラエルの祭司職の祖先です(出エジプト記40:12-15)。モーセの三歳上の兄です。洗礼者ヨハネの父ザカリアと母エリザベトは共に祭司職の家系の出身です。


・不妊の女性:エリザベトのような不妊の女性に子供が授(さず)かった例として他にも記述されています。アブラハムとサラの息子イサク(創世記18:1-15)、マノアとその妻の息子サムソン(士師記13:1-5)、エルカナとハンナの息子サムエル(サムエル記上1-2)をご一読下さい。


・天使(ガブリエル):神様からの公的な使節です。ダニエル書8:16、9:21にも登場します。


・エリヤの霊と力:洗礼者ヨハネは預言者エリヤの再来なのです(マラキ書3:23-24)。イエス様の先駆けとして人々を「悔い改め」に導く任務を与えられたのです。


・救いの角:イエス様のことです。この表現はダビデの家系に連なる支配者であることを強調しています。「主は逆らう者を打ち砕き天から彼らに雷鳴をとどろかされる。主は地の果てまで裁きを及ぼし王に力を与え油注がれた者の角を高く上げられる」(1サムエル記2:10)。詩篇18:3;132:17を参照して下さい。

(メッセージの要旨)


*四福音書の記者はこぞって「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」(イザヤ書40:3)を引用して、ヨハネをイエス様の先駆けとして紹介しています。洗礼者ヨハネは「救い主」の到来を準備するために神様が選ばれた器なのです。エルサレム神殿で奉仕する24のグループの一つアビヤの組に属する祭司ザカリアと妻エリザベトの間に生まれました。二人は長い間子宝に恵まれませんでした。そのうち、年老いてしまったのです。ある日、ザカリアは神殿で香を焚(た)いていました。不思議な事が起ったのです。天使ガブリエルが現れてザカリアに挨拶をしたのです。エリザベトが子を産むこと、名前をヨハネとすること、その子によって主のために道が整えられることを告げたのです。ザカリアは天使の言葉を疑ったのでヨハネが生まれるまで口が利けなかったのです。エリザベトがヨハネを宿して6か月後同じ天使が乙女マリアの所に来て男の子(イエス様)が生まれることを告げたのです。親類のエリザベトが子を宿していることも知らせたのです。マリアは急いで彼女を訪れたのです。挨拶をするとエリザベトの胎内の子がおどったのです。ザカリアは話せるようになると聖霊様に導かれて「主は我らのために救いの角を、/僕ダビデの家から起こされた。・・幼子(ヨハネ)よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、・・救いを知らせる。・・」と預言したのです(ルカ1:67-80)。ヨハネはイエス様がどのようなお方であるかを証ししたのです。

*幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒野にいました。福音書記者ルカは洗礼者ヨハネが宣教を開始する時の政治状況について詳細に記述しています。ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデ・アンティパスがガリラヤの領主、その兄弟ヘロデ・フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、アンナスとカイアファとが大祭司でした。これらの権力者たちが「神様の正義」を踏みにじり、民衆を苦しめていたのです。ルカは福音宣教がこの世-政治・経済・社会-の真っ只中に開始されたことを強調しているのです。ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行き、人々に罪の赦しを得させるために「悔い改め」の洗礼を授けていました。洗礼を申し出た群衆に「蝮(まむし)の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。・・斧(おの)は既(すで)に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と言ったのです(ルカ3:1-9)。「最後の審判」が近づいているのです。「救い」には「悔い改め」(善い行い)が不可欠です。ただ、ヨハネが求める「悔い改め」は人々の信仰心の希薄さや宗教儀式の軽視ではなく、誰も気にしなかった隣人愛の欠如(けつじょ)や社会正義への無関心なのです。イエス様も正義と愛を何よりも大切にされたのです。キリスト信仰の原点だからです。心に深く留めるのです。教えによって覚醒(かくせい)した群衆はヨハネに「わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねたのです。

*洗礼者ヨハネの返答は具体的でした。一般民衆には「下着を二枚持っている者は(誰でも)、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も(誰でも)同じようにせよ」と言ったのです。徴税人(たち)も洗礼を受けるために来て「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と質問したのです。彼らに「規定以上のものは取り立てるな」と命じたのです。兵士たちも「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねたのです。「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と答えたのです。人々は「メシア」の到来を待ち望んでいました。もしかしたらヨハネが「メシア」ではないかと皆心の中で考えていたのです。ヨハネは自分の立ち位置を明確にするのです。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方(イエス様)が来られる。わたしは、その方の履物(はきもの)のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕(み)を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻(から)を消えることのない火で焼き払われる」と言って、本当の「救い主」が到来することを知らせたのです。同時に、権力者たちの様々な罪を公然と告発したのです。異母兄弟(ヘロデ・フィリップ)の妻ヘロディアとの結婚、さらに、数々の悪事を責められたヘロデ・アンティパスは洗礼者ヨハネを牢に閉じ込めたのです(ルカ3:10-20)。臣下に命じて首を切らせたのです。ヨハネはイエス様の宣教内容を前もって知らせたのです。

*イエス様の宣教はヨハネによる洗礼から始まりました。ヨハネの活動はイエス様が宣教を開始された後も続いたのです。教えや生き方に共通点も多いのです。両者は関連付けて評価されているのです。イエス様の名前が知れ渡ってくると、人々の中には「ヨハネが死者の中から生き返った」と言う者もいたのです(マルコ6:14)。ヨハネは人口が多い町(都会)ではなく、ユダヤの荒れ野を選んで、差し迫った「神様の裁き」と「悔い改め」の必要性を宣教したのです(マタイ3:1)。預言者エリヤの再来を想起させる毛衣を着、腰には皮の帯を締めていたのです(列王記下1:8)。質素な生き方を貫(つらぬ)いたのです。イエス様も「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子(ご自身)には枕する所もない」と言われたのです(ルカ9:58)。貧しい人々や虐げられた人々と歩み、これらの人の苦しみや悩みを担われたのです。ヨハネは権力者たちを恐れなかったのです。イエス様も強盗の巣と化したエルサレム神殿の境内から商人たちを追い出し、指導者たちの不信仰と腐敗を激しく非難されたのです(マルコ11:15-16)。ヨハネの弟子たちがイエス様に「わたしたちとファリサイ派の人々は断食しているのに、あなたの弟子たちはそれをしないのですか」と尋ねています(マタイ9:14)。イエス様の弟子たちもイエス様に「ヨハネが弟子たちに教えた祈りについて自分たちにも教えてほしい」と申し出たのです(ルカ11:1)。弟子たちは信仰への理解を深めて行くのです。ヨハネと同様に、イエス様も行いを重視されたのです。


*洗礼者ヨハネは「救い」における行いの重要性を軽んじる人々に警告しているのです。イエス様も「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。・・そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」と言われたのです(ヨハネ15:2-6)。ヨハネは「神の国」の福音を先取りして説明しているのです。行いを伴わない信仰によって「永遠の命」に与ることは出来ないのです。最も重要な戒め-神様と隣人を愛することーを実践することによって「神の国」に招き入れられるのです。ヨハネはイエス様について「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである」と宣言するのです(ヨハネ1:29-39)。イエス様もヨハネについて「預言者以上のものである。・・およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。・・」と言われたのです。お言葉通り、民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえも洗礼を受け、神様の下へ立ち帰ったのです(ルカ7:24-29)。ヨハネは抽象的な信仰を語らなかったのです。「神様の御心」に沿った社会秩序の確立に心を砕いたのです。権力者たちには社会的地位や既得権益を脅(おびや)かす危険な存在として映ったのです。ヨハネは与えられた使命を果たしたのです。イエス様はヨハネを遥かに超えるお方です。メッセージの内容が厳しいのは当然なのです。ヨハネもイエス様も「神の国」の福音を証しして命を奪われたのです。キリスト信仰をヨハネの教えから学ぶのです。

2025年11月30日

「問われる信仰」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書18章9節から30節

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。するとペトロが、「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた(神様に委ねた)者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」

(注)

ファリサイ派:律法を厳格に遵守するユダヤ教の一派です。学識の豊富さから民衆に尊敬されていました。しかし、イエス様は彼らを厳しく批判されたのです。その理由は彼らが偽善者だったからです。マタイ23:1-36を参照してください。一方、律法学者の多くはファイサイ派によるモーセ五書(旧約聖書の創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)-トーラーの解釈を支持していました。

徴税人:ローマ帝国のためにユダヤ人から税を徴収していました。他のユダヤ人からは裏切り者と呼ばれていました。さらに、民衆から集めた税金を当局に納めた後は自分のために追加の税を徴収することが許されていました。徴税人たちは強欲さと不正の故に罪人の一員として扱われ、社会の隅に追いやられたのです。ファリサイ派の人々から蔑(さげす)まれていましたが、イエス様は彼らの友となられたのです。徴税人マタイを12使徒の一人に選ばれたのです(マタイ9:10-13)。

・断食:年に一度の贖(あがな)いの日に大祭司は神殿内にある至聖所に入り、全民衆の罪の懺悔(さんげ)のために断食を行ったのです。

・献金:ユダヤ人には神殿と祭司たちを支えるために農産物の十分の一を捧げることが義務付けられていました(レビ記27:30-33)。ハーブ類の薄荷(はっか)、いのんど、ういきょうは除外されていました。ファリサイ派の人々はこれらも捧げて信仰を誇るのです。しかし、イエス様は律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実をないがしろにする彼らを厳しく非難されたのです(マタイ23:23)。

・罪人:一般的な定義よりも広いのです。民族を裏切る徴税人たち、身体や精神に障害を持つ人々、不道徳な女性たち、律法を順守しない人々(献金をしない貧しい人々)、サマリア人たちや異邦人たちと交際する人々も含まれているのです。

・義:日本語訳は一般的に個人の道徳心や信仰心の篤さとして理解されているのです。しかし、原語には社会的な正義という意味があるのです。イエス様は「義(正義)に飢え乾く人々は、幸いである」(マタイ5:6)、「何よりもまず、神の国と神の義(正義)を求めなさい」(6:33)と言われたのです。キリスト信仰において正義の重要性が語られない要因の一つになっているのです。

・子供のように:子供は無力な存在です。自分に誇るものがないことの例えです。ここでは、貧しい人々や虐げられた人々を指しています。これらの人は神様にすべてを委ねる以外に生きる術(すべ)がないのです。「神の国」の到来を福音-良い知らせ-として素直に受け入れたのです。

・神の国:天の国とも呼ばれています。死後に行く「天国」のことではないのです。神様の主権、神様の支配を表す言葉です。イエス様の宣教の第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」です。イエス様を通して「神の国」が到来しているのです。病人の癒し、罪の赦しなどがそれを証明しているのです。

(メッセージの要旨)

*キリスト信仰とは「神の国」の到来を福音として信じることです。神様が人間の支配に取って代わられる時-この世の終わり-が来ているのです。信仰の傲慢は本人が気づくことの少ない深刻な罪の一つです。「神様の恵み」を自ら遠ざけているのです。一方、神様は罪の大きさに絶望しながらも「憐れんで下さい」と願い出る人々を祝福されるのです。人々は重税に喘(あえ)ぎ、日々の糧を得ることにも苦労しているのです。病気や障害は罪と結び付けられていました。病人や心身に障害のある人々は罪人として社会の隅に追いやられたのです。神様はこれらの最も小さい人を優先的に「神の国」に招かれるのです(マタイ5:1-11)。金持ちは富に執着するのです。貧しい人々に施さないのです。ただ、神様と富の両方に仕えることは出来ないのです。イエス様の弟子であっても隣人の窮状に無関心な人々は「神の国」に入れないのです。「神の国」に招かれるためには「行い」が不可欠なのです。旧・新約聖書は一貫しているのです。正義と愛に満ちた神様のお姿を伝えているのです。イスラエルの民(人類)に対する忍耐と憐れみの歴史を記しているのです。キリストの信徒たちはその延長線上に生きているのです。福音の範囲が限定的に理解されているのです。「罪の赦し」に留まらないのです。人間の「全的な救い」として実現するのです。イエス様はファリサイ派の人々、徴税人たち、金持ちたちに等しく福音を語られたのです。子供のように「神の国」を受け入れる人々が「救い」に与るのです。イエス様への応答がその人の運命を決定するのです。

*ユダヤ人たちは毎日神殿で礼拝をしていました。神殿は犠牲の供え物を捧げるだけでなく祈りの場所でもありました。二人は神殿内部の至聖所近くのイスラエルの庭(ユダヤ人男性の礼拝場所)で祈ったのです。ファリサイ派の人は神様に「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と信仰心の篤さを誇示するのです。律法が定める断食は年に一度「贖いの日」に行えばいいのです(レビ記23:47)。ところが、この人は敢えて誰よりも多く断食をするのです。捧げる必要のない薄荷、いのんど、ういきょうなどの農産物(香辛料)の十分の一を捧げるのです。すべては人々に見せて賞賛を得るためなのです(マタイ23:5)。徴税人に対しても横柄に振舞うのです。一方、徴税人はファリサイ派の人が指摘したように自分が罪人であることを自覚しているのです。人々に祈る姿を見られることさえ躊躇(ちゅうちょ)しているのです。後悔の念と罪の意識は天の方に向かって祈ることを思いとどまらせたのです。胸を叩いてただ神様の憐れみと赦しを乞うたのです。罪を犯さない人間はいないのです。問題は罪を自覚し、心から悔い改めているかどうかなのです。神様は「・・わたしが顧みるのは/苦しむ人(謙遜な人々)、霊の砕かれた人(人々)/わたしの言葉におののく人(人々)」と言われるのです(イザヤ書66:2)。ファリサイ派の人は尊大にも神様のお言葉を軽んじているのです。徴税人は犯した罪を弁明していないのです。神様はすべてをご存知です。ファリサイ派の人を罪人とし、徴税人を義人(正しい人)とされたのです。


*イエス様は「神の国」の本質を明確にされるのです。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」のです。子供のように「神の国」を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできないのです。イエス様のお言葉を実行することは簡単ではないのです。立ち位置を変えて生きることだからです。最も小さい人々-貧しい人々や虐げられた人々-と共に歩む決断をするのです。道徳的、倫理的な罪のみが罪ではないのです。信仰の傲慢、お金への執着、正義や平和への無関心はより深刻な罪なのです。身近にいた弟子たちも誰が天の国で一番偉いかについて尋ねているのです。イエス様は「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国入ることはできない」と言われたのです(マタイ18:1-5)。信仰を自負する人の多くは尊大さに気づいていないのです。しかし、信仰の傲慢こそ死に至る罪なのです。ファリサイ派の人は自分の「救い」を確信しています。ところが、神様はこの人の信仰を認められないのです。徴税人は犯した罪の重大さに慄(おのの)いているのです。神様に「憐れんで下さい」と祈ったのです。神様は信仰に応えられたのです。権力を振るう人が後になり、彼らに蔑まれた人が先となったのです(マタイ20:16)。たとえ話は2000年前のことではないのです。今日のキリストの信徒たちへの警鐘になっているのです。パウロも自分を厳しく戒めています(1コリント書4:1-5)。終わりの日まで先走って信仰を評価してはならないのです。イエス様が権威によって正しい裁きを行われるのです。


*ある金持ちの議員は子供の時から「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」という掟を守ってきました。しかし、「永遠の命」の確信が得られないのです。「議員」と訳されている原語は「支配者」と訳されるべき言葉です。日本語訳は往々にして「信仰の妨げになる」として政治的言葉を避けているのです。恣意的(しいてき)な翻訳がイスラエルの民衆の窮状を曖昧(あいまい)にする要因の一つになっているのです。絶大な権力によって民衆を搾取している「支配者」が漠然とした不安に悩まされているのです。律法を守っているにも関わらず、「神様の罰」に怯(おび)えているのです。イエス様は信仰心を認めておられるのです。しかし、この人は「神様の御心」を自分中心に解釈しているのです。神様と富との両方に仕えることは出来ないのです(マタイ6:24)。イエス様は原点に戻って解決方法を示されたのです。「自分の財産を売って貧しい人々に施しなさい」、ご自身の「弟子になりなさい」と言われたのです。「支配者」は律法の規定を選別するのです。律法の中で最も重要な戒めである「隣人を自分のように愛しなさい」を実行する決心がつかなかったのです。神様よりも富を愛したことは明白です。キリスト信仰の説明においてに「救い」を左右する富への言及がほとんど見られないのです。人々が「それでは、だれが救われるのだろうか」と言っていることからも分かるのです。イエス様は「人間にはできないことも、神にはできる」と答えられたのです。「永遠の命」は安価な恵みではないのです。「犠牲」が伴うのです。

*キリスト信仰を標榜する人々は(旧・新約)聖書を学んでいます。しかし、現実の社会から遊離した知的信仰に陥(おちい)ることが多いのです。原因の一つはキリスト信仰が個人の「罪からの救い」に限定されていることにあるのです。キリストの信徒たちはイエス様が教えられた二つの重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実践することによって「救い」に与るのです。イエス様は「主の祈り」を教えられました。すべて複数なのです。「わたしたち」、「わたしたちの」、「わたしたちを」が用いられています。信仰共同体としての祈りだからです。キリスト信仰に生きる人々は神様の戒めを守るのです。貧しい人々や虐げられた人々に奉仕するのです。ファリサイ派の人の傲慢は個人的ではないのです。この派に属する人々に共通しているのです。信仰の驕(おご)りを克服する方法は社会の底辺に降りることです。徴税人は疎外され、蔑まれているのです。「神の国」の福音を聞いたザアカイは財産の2分の1を貧しい人々に施すことを表明して「救い」に与ったのです(ルカ19:1-19)。罪人の烙印(らくいん)を押された人々は大いに慰められたのです。金持ちで議員のニコデモはファリサイ派の議員の横暴を批判してイエス様を弁護したのです(ヨハネ7:50-51)。同僚の金持ちの議員アリマタヤのヨセフと共にイエス様のご遺体を埋葬したのです(ヨハネ19:38-42)。二人は行いによって信仰を証ししたのです。心からの「悔い改め」とそれに相応しい行いによって「救い」は訪れるのです。自分の信仰を日々内省するのです。

2025年11月23日

「イエス様の視点」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書12章38節から13章2節

イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、正装して歩くことや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望んでいる。また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

イエスは献金箱の向かいに座り、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。そこへ一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「よく言っておく。この貧しいやもめは、献金箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

(注)

・律法学者:律法の専門家です。多くはファリサイ派に属していました。律法主義に固執し、愛の観点から律法を解釈されるイエス様と鋭く対立したのです。

・レプトン銅貨:最小の貨幣単位です。1デナリオン(平均的労働者の1日の賃金に相当する価値)の128分の一です。仮に1デナリオンを今日の通貨で換算して6,400円とすれば、50円です。やもめは一日100円で生活していたことになります。

・クァドランス:ローマの青銅貨幣です。1デナリオンの64分の一です。

・律法学者たちやファリサイ派の人々の罪:イエス様は彼らの行いを厳しく非難されました。以下はマタイ23章の抜粋です。機会がありましたら全体を通してご一読下さい。


■律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない(2-4)。・・律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷(はっか)、いのんど、茴香(ういきょう)の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが(23)。・・律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている(27-28)。・・蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか(33)。

●ファリサイ派の人々:律法を日常生活に厳格に適用した人々です。ただ、言うだけで実行しなかったのです。彼らは偽善者なのです。

●薄荷(はっか)、いのんど、茴香(ういきょう):最も小さなハーブです。


・やもめ:家父長(男性中心の)社会にあって 死別あるいは離婚されて一人身となった彼女たちは窮乏生活を余儀なくされたのです。


■災いだ、偽りの判決を下す者/労苦を負わせる宣告文を記す者は。 彼らは弱い者の訴えを退け/わたしの民の貧しい者から権利を奪い/やもめを餌食とし、みなしごを略奪する(イザヤ書10:1-2)。


■万軍の主はこう言われる。正義と真理に基づいて裁き/互いにいたわり合い、憐れみ深くあり やもめ、みなしご/寄留者、貧しい者らを虐げず/互いに災いを心にたくらんではならない。」ところが、彼らは耳を傾けることを拒み、かたくなに背を向け、耳を鈍くして聞こうとせず、心を石のように硬くして、万軍の主がその霊によって、先の預言者たちを通して与えられた律法と言葉を聞こうとしなかった。こうして万軍の主の怒りは激しく燃えた(ゼカリヤ書7:9-11)。


■裁きのために、わたしはあなたたちに近づき/直ちに告発する。呪術を行う者、姦淫する者、偽って誓う者/雇い人の賃金を不正に奪う者/寡婦、孤児、寄留者を苦しめる者/わたしを畏れぬ者らを、と万軍の主は言われる(マラキ書3:5)。

●詩篇94:1-7も併せてお読み下さい。

・腐敗した神殿政治:イエス様は「神様の御心」に反する神殿を実力行使によって激しく非難されたのです。

■イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」(マルコ11:15-17)

・神殿の崩壊:西暦70年、ローマ軍はエルサレムに侵攻し、神殿を完全に破壊したのです。

(メッセージの要旨)

*エジプトの圧政から逃れるためにイスラエルの民を導いた預言者モーセは「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏(おそ)るべき神、人を偏(かたよ)り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる」と言っています(申命記10:17-18)。律法に精通し、遵守(じゅんしゅ)しているように見える律法学者たちが貧しいやもめたちを食い物にしているのです。マタイ23章は彼らの偽善を詳細に記述しています。イエス様は指導者たちに天罰を宣告されたのです。一方「この貧しいやもめは、献金箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」と言われたのです。多くの人は出来事を「信仰のあり方」への言及として理解しているのです。律法主義者たちの強欲に憤(いきどお)ることはないのです。生活費のすべてを捧げたやもめの行く末に心を砕(くだ)くこともないのです。イエス様が神殿政治の腐敗を告発し、社会の底辺で苦しんでいる人々と共に歩んでおられるのです。ところが、弟子たちの視線は神殿の壮大さに向けられているのです。内包する様々な矛盾に関心を寄せることはないのです。キリスト信仰の真髄(しんずい)は正義、慈悲、誠実を実行することにあるのです。キリストの信徒たちの使命は「声なき民」の声を代弁することなのです。いつの時代においても「神様の御心」を軽んじる神殿や教会はいずれ崩壊するのです。

*旧約聖書は搾取(さくしゅ)され、貧しさに喘(あえ)ぎ、公の援助に依存する寡婦の実態を伝えています。神様は「寄留者を虐待(ぎゃくたい)したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなた(がた)が彼(ら)を苦しめ、彼(ら)がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる」と言われたのです(出エジプト記22:20-23)。さらに「支配者らは無慈悲で、盗人(たち)の仲間となり/皆、賄賂(わいろ)を喜び、贈り物を強要する。孤児(たち)の権利は守られず/やもめ(たち)の訴えは取り上げられない」(イザヤ書1:23)、「・・他国人は虐げられ、孤児や寡婦は・・苦しめられている。・・おまえ(たち)の中には賄賂を取って流血の罪を犯す者、利息を天引きして金を貸したり、高利を取って隣人を抑圧する者がいる」(エゼキエル書22:7-12)と記されています。いずれも権力者たちや金持ちたちへの警告なのです、新約聖書においても「自分は信心深い者だと思っても・・(信仰心がないのにあるかのように)自分の心を欺(あざむ)くならば、そのような人の信心は無意味です。みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です」とあるように「信仰の本質」が明確にされているのです(ヤコブ書1:26-27)。


*イエス様はやもめの家を食い物にする律法学者たちを非難し、貧しいやもめの献金に焦点を当て、エルサレム神殿の崩壊を再び予告されたのです。中心テーマはやもめの信仰心の篤さではなく神殿政治の在り方なのです。指導者たちの不信仰と腐敗が問題になっているのです。大勢の金持ちがたくさんの献金を捧げていました。一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れたのです。イエス様は弟子たちの前でやもめの信仰心を高く評価されたのです。やもめが貧しくなった原因は律法学者たちの強欲にあるのです。彼女の家を食い物にしているのです。律法に関する豊富な知識や知恵をやもめのために使うのではなく、悪用して彼女の財産を奪い取っているのです。彼らの心は不信仰と放縦に満ちているのです。「神様の御名」によってやもめの生活が成り立たないような献金を要求するのです。イエス様はやもめの献金額を明らかにして、現状の献金制度を批判されたのです。神殿政治を担う人々が献金によって富を蓄積し、やもめのような貧しい人々は献金によって最低限の生活さえ維持出来なくなるのです。律法学者たちは貧しい人々の重荷を軽くするために指一本動かさないのです。彼らは貧しい人々に「神様の祝福」(永遠の命)から除外されないための要件として神殿への献金の必要性を教えているのです。指導者たちの罪は真に大きいのです。イエス様は彼らの偽善を断じて許されないのです。ご自身が再び来られる時にはやもめに代表される貧しい人々を苦しめた指導者たちと強盗の巣と化した神殿を罰せられるのです。


*キリスト信仰を理解する上でイエス様の時代のエルサレム神殿の性格を知っておくことはとても重要です。エルサレム神殿は神様が臨在される神聖な場所です。異邦人も含めて多くの人がこのような観点からエルサレム神殿を見ているのです。ところが、神殿はそれ以上の機能を果たしているのです。イスラエルの政治・経済・社会を統括する国家機関なのです。大祭司によって最高法院が招集され、国の命運を左右する意思決定が行われているのです。法廷が開かれるのもエルサレム神殿なのです。ローマ帝国の利益のために自国の民を犠牲にするという苦渋の決断はエルサレム神殿においてなされたのです。イスラエルの経済をコントロールするセンターです。今日の中央銀行の役割を果たし、蓄積された莫大な富を保管する金庫なのです。しかし、指導者たちによる神殿政治は「神様の御心」から遠く離れているのです。イエス様は強盗の巣と化したエルサレム神殿を「祈りの家」に戻すために実力行使をされたのです。ご自身を通して「神の国」-神様の支配-が目に見える形で到来していることを群衆の前で公然と宣言されたのです。イエス様の神殿批判が指導者たちの霊的欠如、神殿の商業化に対する神殿潔めとして説明されることがあります。こうした信仰理解は「神の国」への誤解から生じているのです。「救い」は罪の問題に留まらないのです。人間の「全的な救い」として具体化するのです。「神の国」の到来が受け継がれて来た神殿政治の終焉(しゅうえん)を告げているのです。イエス様は教会も役員制度も設けられなかったことを心に留めるのです。

*対照的な二人の姿が描かれています。一方は「神の国」を軽んじるのです。他方は貧しくても「神の国」を第一に求めて生きているのです。律法学者たち(ファリサイ派の人々)は権力や社会的地位、富をこよなく愛しているのです。見せかけの信仰心で人々をだまし、豊富な知識を用いてやもめのような貧しい人から財産をかすめ取っているのです。献金をしなければ「神様の恵み」(永遠の命)に与れないなどと脅(おど)しているのです。果たして、貧しいやもめは指導者たちの教えを守り、生活費のすべてを捧げているのです。孤児や寄留の民と共に、寡婦は社会の中で最も援助を必要とする人々です。これらの人の窮状に対応するために、モーセの律法は様々な条項を定めています。例えば「三年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、あなた(がた)のうちに嗣業の割り当てのないレビ人(たち)や、町の中にいる寄留者(たち)、孤児(たち)、寡婦(たち)がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。・・あなた(がた)の神、主はあなた(がた)を祝福するであろう」と記述されています(申命記14:28-29)。律法学者たちは律法の規定を知っているのです。その上で寡婦たちを食い物にしているのです。「神様の名」によって略奪が行われているのです。断じて許されないのです。利益を得ている人々は厳しく罰せられるのです。やもめの信仰心の篤さに注目されがちですが、神殿政治を担う指導者たちの偽善と不正が批判されているのです。キリストの信徒たちの「視点」が問われているのです。

2025年11月16日

「イエス様への誤解」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書6章1節から15節

その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。


(注)

・ヨハネの福音書は4章⇒6章⇒5章⇒7章と読むとつながりが良くなります。

・その後:イエス様が2回目のしるし(王の役人の息子の癒し)を行われた後(ヨハネ4:54)

・ガリラヤ湖(ティベリアス湖):聖書地図を参照して下さい。

・ティベリアス湖の向こう岸:ベトサイダ(イエス様のガリラヤ宣教における重要拠点)近郊のことです。

・過越祭:

■エジプトの国で、主はモーセとアロンに言われた。「・・その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない。・・」(出エジプト記12:1-14)
 
●ヘブライ人(イスラエルの民)がエジプトの圧政から解放され、荒れ野で天から降って来たマンナ(パンの一種)によって養われたことに感謝し(ヨハネ6:31-35)、酵母を入れないパンを七日間食べて当時の試練を想起するのです。ユダヤ教の三大祭りの一つです。およそ10万人がエルサレムに巡礼したのです。出エジプト記12:1-13:10、申命記16:1-8を参照して下さい。ヨセフとマリアは12歳のイエス様と一緒にエルサレムに巡礼しています(ルカ2:41-42)。イエス様の「最後の晩餐」は過越祭の直近あるいはその当日に行われました。

・ユダヤ教の三大祭り:過越祭(三月か四月)、七週祭(五月か六月)、仮庵祭(10月)です。

・フィリポ:12使徒の一人です。

・二百デナリオン:1デナリリオンは当時の平均的な労働者の1日分の賃金に相当します。例えば10,000円であれば200万円になります。


・大麦のパン:貧しい人々が主食にしていました。

・預言者:西暦1世紀には預言者を公言する多くの人がいたのです。「救い主」は神様から遣わされたことを証明するために、様々な「力ある業」を行うものと信じられていました。

・王(政治的指導者):当時多くのユダヤ人はモーセのような預言者が起こされること(申命記18:15)を願い、エリヤの再来(マラキ書3:23-24)を期待していました。一方、自分がその預言者であるとかローマ帝国から解放するために遣わされた「救世主」であると公言するリーダー(指導者)もいたのです。ローマの総督ポンティオ・ピラトは十字架に「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という罪状書きを掛けました(ヨハネ19:19)。「神の国」(天の国)の福音はこの世と相容れないのです。イエス様は権力者に政治犯として処刑されたのです。

・ティベリウス:洗礼者ヨハネとイエス様の宣教活動の間のローマ皇帝、在位は西暦14年から37年です。

・ヘロデ・アンティパス:紀元前4年に死去したヘロデ大王の息子、ガリラヤとペレアの領主です。イエス様はヘロデ大王の治世下で誕生されたのです。

(メッセージの要旨)

*四福音書が共通して取り上げているイエス様の奇跡物語の一つです。神様がすでに約束された出来事なのです。マリアはイエス様を胎内に宿している時、神様に賛美の歌を捧げています。「その憐れみは代々に限りなく、/主を畏(おそ)れる者(たち)に及びます。・・権力ある者(たち)をその座から引き降ろし、/身分の低い者(たち)を高く上げ、飢えた人(たち)を良い物で満たし、/富める者(たち)を空腹のまま追い返されます」と言っています(ルカ1:50-53)。神様は貧しい人々や虐げられた人々と共に歩まれるのです。イエス様は「神様の御心」を実現するためにこの世に遣わされたのです。四福音書の記述を比較すると「食べ物の提供」という点では同じように見えるのですが、ヨハネは他の福音書とは若干異なる視点から出来事を伝えているのです。民族の歴史にとって重要な意味を持つ過越祭には多くのユダヤ人がエルサレムへ巡礼し、神殿に捧げ物をしたのです。ところが、この大切な時期におよそ五千人の男が宗教的、政治的、経済的権力の中心地エルサレムではなく、イエス様が宣教の拠点とされた地方のガリラヤへ向かったのです。イエス様が「真の礼拝場所」であることを理解したからです。一方、ローマと闘う政治的指導者(王)として仰(あお)ごうとしたのです。イエス様は誤解を正されるのです。先ず「力ある業」によって空腹を満たされたのです。男たちは先祖がモーセによってエジプトの圧政から解放され、荒れ野でマナを食べたことを想起したのです。「神の国」が到来しているのです。福音が告げられているのです。

*イエス様はガリラヤを宣教の拠点としながらもユダヤ人の祭りにはエルサレムへ上られたのです(ヨハネ5:1)。イエス様がユダヤ教の記念日を遵守されていたことが分かります。ヨハネは「食べ物の提供」の奇跡がガリラヤ湖の北東周辺で起こったことを記述しています。この湖をティベリアス湖と呼んでいます。ティベリアスはローマ皇帝ティベリウスの名前に因(ちな)んで領主ヘロデ・アンティパスが西暦26年頃に建設した新しい町です。ティベリアス、カファルナウム、マグダラ、コラジン、ベトサイダの村々には良い港があり、漁業が盛んでした。一方、ガリラヤは貧しい農村地域でもありました。農民たちは重税に喘ぎ、ヘロデ王朝に仕えるエリート貴族、ローマ帝国に税金を納める役人、祭司たちによって土地を奪われることも頻繁にあったのです。イエス様の教えと貧しい人々への共感は民衆の中に「神の国」の到来への熱い期待を生じさせたのです。カナの婚礼において水をぶどう酒に変えられた奇跡(ヨハネ2;1-11)やカファルナウムで王の役人の息子の病を癒された業(ヨハネ4:46-53)は弟子たちや人々を信仰に導いたのです。これらはイエス様が祭司たちに替(か)わってその重要な役割を担われたということに留まらないのです。神殿政治や宗教的権威の正当性がイエス様へ移行したことを宣言しているのです。神様が再認識されるのです。人間はイエス様を通して神様を知るのです。神様は宗教的指導者たちが教えて来たような厳しく、恐ろしいお方ではないのです。正義を基本とし、慈悲に満ち、誠実なお方なのです。

*イエス様が群衆の気持ちを引き付けたのは神様と人間の間が負債ではなく贈り物の関係であることを宣言されたからです。従来イスラエルにおいて神様の恵みや憐れみが人間の側の負債として教えられて来ました。このため、神様との間を執り成す祭司たちへの負債にもなったのです。負債は計上され後に回収されるのです。「神様への捧げ物」、「祭司たちへの献品(献金)」によって返済されるのです。神殿政治を担う指導者たちは負債の論理によって民衆を搾取しただけでなく、社会的、政治的にも彼らを支配したのです。イエス様は新しい道を示されたのです。「神様の愛」は無償で与えられるのです。イエス様は彼らに「・・どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい」と言われるのです(申命記15:7-8)。「・・貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない」のです(出エジプト記22:25)。「・・産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合は、二羽の山鳩または二羽の家鳩を携えて行き、一羽を焼き尽くす献げ物とし、もう一羽を贖罪の献げ物とする」ことによって清められるのです(レビ記12:8)。神様を愛する人々は自分を愛するように隣人をも愛するのです。不可能に見えることも人間の方から一歩踏み出せば神様がそれを実現して下さるのです。イエス様は貧しい人々の窮状を嘆くのではなく、具体的な解決策を提示されたのです。

*「神の国」の福音は言葉ではなく「行い」によって現実となるのです。ここにキリストの信徒たちの新しい生き方があるのです。イエス様はキリスト信仰の真髄(しんずい)を語っておられるのです。これまでの一般的な考え方とご自身の新しい道の違いを示すために、フィリポにおよそ五千人に食べ物を与えるための必要な経費を尋(たず)ねられたのです。これを聞いたアンデレは即座に不可能ですと答えたのです。イエス様は発想の転換を求められました。問題解決を図るための唯一の方法が「隣人愛」-最も重要な戒めの一つ-の実行にあることを再確認されたのです。男たちはイエス様から贈り物(食べ物)を受け取ったのです。「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」という教えを学んだのです(ルカ6:38)。持っている人々は持っていない人々を、金持ちたちは貧しい人々を支えるのです。権力のある人々は保護を必要とする人々のニーズを叶(かな)えるために最善を尽くすのです。神様への信仰を告白している人々は困難に直面している人々から取り立てるのではなく、これらの人々に必要なものを与えることに全力を注ぐのです。人々の要求が正当であるならば、それらを満たす「行い」は神様への聖なる捧(ささ)げものとなるのです。イエス様は「神の国」を「力ある業」によって証しされたのです。キリストの信徒たちもイエス様に倣(なら)って「与えること」を実践するのです。

*神様が命じられた新しい道に生きるキリスト者たちは最も重要な二つの戒め-神様と隣人を愛すること-を具体的に実践するのです(マルコ12:29-31)。しかし、神様を愛することに熱心であっても貧しい人々に必要なものを届けることに無関心であれば「救い」に与れないのです。イエス様が生命を賭(と)して「食べ物の提供」を行われたのです。イエス様だけでなく参加者たちを極めて危険な状況に晒(さら)すのです。ローマの許可を得ていない集会の首謀者や仲間たちは反乱の罪で十字架刑に処せられたのです。ヨハネは参加者たちを「人々」ではなく「男たち」であることを明確にしています。集まりが政治的であったことを強調しているのです。およそ5000人はローマ軍の連隊の兵士の数(6千人)に近いのです。参加者はイエス様の教えと不思議な業に預言者としての力を認めたのです。自分たちの王(リーダー)にしてローマの圧政と闘おうとしたのです。マルコの福音書には「それ(食べ物の提供)からすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた」と書かれています。イエス様は群衆がご自身について誤解していること、迫害の危険に直面していることをご存知なのです。ヘロデ・アンティパスの弾圧を避けるために弟子たちと群衆を急いで解散させられたのです。深い愛が表れているのです。「食べ物の提供」はイエス様が「神の子」であることを証明しているのです。同時に、キリストの信徒たちが「神の国」の建設に参画することを求めているのです。

2025年11月09日

「揺るぎない信仰」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書5章17節から26節

ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒瀆(ぼうとく)するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦(ゆる)すことができるだろうか。」イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れ(畏れ)に打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。

(注)


ファリサイ派の人々:律法を厳格に遵守するユダヤ教の一派です。学識の豊富さから民衆に尊敬されていました。しかし、イエス様は彼らを厳しく批判されたのです。その理由は彼らが偽善者だったからです。マタイ23:1-36を参照してください。一方、律法学者の多くはファイサイ派によるモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)(トーラ)の解釈を支持していました。イエス様と対立した律法学者たちはファイサイ派に属していました。

・律法学者たち:文書を記録する官僚であり、同時に学識を有する学者です。多くはイエス様に批判的でしたが、「先生,あなたがおいでになる所ならどこへでも従って参ります」と言った律法学者もいたのです(マタイ8:19)。

・主の力:天使はマリアに「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と明言したのです(ルカ1:35)。さらに、人々はイエス様の業に驚いて「一体、この言葉は何だ。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは」と言ったのです(ルカ4:36)。


・人の子:この呼称には三つの意味があります。第一は預言者です(エゼキエル書2:1-3)。第二は天の雲に乗って現れる終わりの時の審判者です(ダニエル書7:13-14)。今日の聖書の個所では、イエス様は預言された人の子であることを明らかにされたのです。他に「わたしとわたしの言葉を恥じる者(たち)は、人の子も自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときにその者(たち)を恥じる」(ルカ9:26)、「神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(ルカ18:8)などがあります。第三はこの世の人間を表しているのです(ルカ9:58)。

・災難、病気、心身の障害などが罪に由来するという伝統的なユダヤ人の考え方については申命記28-30章、エゼキエル書18章26-27節を参照して下さい。

(メッセージの要旨)

*ユダヤ教を代表するファリサイ派の人々や律法学者たちは祭司長や長老たちと共に宗教的権威(権力)を誇っていました。これらの人はイエス様を陥(おとしい)れる機会を虎視眈々(こしたんたん)と狙っていたのです。イエス様は多くの病人を癒(いや)しておられました。災難や病気は罪と深く結びつけられていました。生まれつき目の見えない人を見た弟子たちが、イエス様に「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですが。本人ですか。それとも両親ですか」と尋ねていることからも分かるのです。イエス様は「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業(わざ)が現れるためである」と答えられたのです(ヨハネ9:1-3)。心身の障害と罪との関連を完全に否定されたのです。イエス様は中風の人と運んできた男性たちをご覧になったのです。言葉のやり取りは一切ないのです。彼らの行動の中にご自身への信仰を確認されたのです。中風の人に「あなたの罪は赦された」と言われたのです。神様がご自身に「罪の赦し」の権限を委(ゆだ)ねておられることを明らかにされたのです(ヨハネ5:22)。ファリサイ派の人々や律法学者たちはイエス様のお言葉を神様への冒涜として非難したのです。罪の赦しや病気の癒しは神様しか出来ないからです。「癒しの業」が行われたのです。同時に、その事実は目に見えない罪の赦しを証明しているのです。一部始終を目撃した群衆は畏(おそ)れを覚えて、イエス様が「人の子」-終わりの時の審判者-であることを信じたのです。神様を賛美したのです。

*財産のある人が「神の国」に入ることはらくだが針のあなを通ることよりも難しいのです。しかし、イエス様は「人間にはできないことも、神にはできる」と言われたのです(ルカ8:18-27)。お言葉通り、不可能と思われた人々が「救い」に与っているのです。中風の人の罪は日本語訳では一つであるかのように表現されていますが、原文では「複数の罪」になっています。何か分かりませんが幾つかの罪を犯しているのです。しかし、イエス様は屋根の瓦を剥(は)がしてまでご自身に近づこうとした行動の中に「悔い改め」を認められたのです。「悔い改め」がなければ「救い」は訪れないのです。イエス様は徴税人や罪人たちと一緒に食事をされました。律法(慣習)は罪人との交際を禁じているのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちはイエス様を非難したのです。イエス様は「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と言われたのです。地上に遣わされた使命を目に見える形で実行されたのです(ルカ5:31-32)。徴税人はローマ帝国に協力して蓄財していたのです。同胞から裏切り者の烙印(らくいん)を押されていたのです。ところが、彼らの中にはレビ(マタイ)のように何もかも捨ててイエス様に従った人(ルカ5:27-28)、ザアカイのように自分の財産の半分を貧しい人々に施し、不正に得た利益を四倍にして返した人(ルカ19:1-10)もいたのです。「悔い改め」に相応しい行いよって「救い」を得たのです。

*罪人の中には犯した罪に苦しんでいる人々がいるのです。彼らに誇るものは何もないのです。身を低くして再出発するだけなのです。ローマ帝国軍の百人隊長(異邦人)はイエス様を信じていました。自分の奴隷が病気で死にかかっていたのです。イエス様に使いを送ったのです。彼の癒しを願い出たのです。一方、自分の罪の深さも自覚していました。「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるようなものではありません。・・ひと言おっしゃって下さい」と言ったのです。お言葉によって奴隷が癒されることを確信していたからです。イエス様は「ユダヤ人の中でもこれほどの信仰を見たことがない」と言われたのです。使いが家に戻ると奴隷はすでに元気になっていたのです(ルカ7:1-10)。ファリサイ派のシモンが願ったのでイエス様は食事をされることになったのです。イエス様が家に入ったときシモンは足を洗う水を出さなかったのです。ところが、町の中で評判の悪い一人の罪深い女性が香油の入った石膏(せっこう)の壺を持って来て、泣きながらイエス様の足を涙で濡らし、自分の髪の毛でぬぐい、接吻して香油を塗(ぬ)ったのです。シモンは彼女が罪人であることに焦点を当てるのです。イエス様はシモンに「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる」と言われたのです。女性は最後まで無言でした。しかし、「あなたの罪は赦された」と宣言されたのです(ルカ7:36-50)。放蕩息子も罪を心から悔いたのです。父親に「雇人の一人にしてください」と言って「救い」に与ったのです(ルカ15:11-32)。

*神様は自分が正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に全く異なる判断を下されるのです。ファリサイ派の人と徴税人が神殿で祈っていました。前者は心の中で「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と祈ったのです。ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と言ったのです。神様は徴税人の祈りを聞き入れられたのです(ルカ18:9-14)。ファリサイ派の人々や律法学者たちが姦通の現場で捕らえた女性を石打の刑で殺そうとしていました。イエス様はこれらの人に「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、先ず、この女(性)に石を投げなさい」と言われました。年長者から始まって、一人また一人その場から立ち去ったのです。イエス様は女性に「わたしもあなたを罪に定めない。これからは、もう罪を犯してはならない」と言われたのです(ヨハネ:1-11)。神様はイエス様に裁きの権限を委ねられたのです。ところが、自分たちにも裁く資格があるかのように誤解している敬虔(けいけん)な人々がいるのです。神様が赦された人々に再び有罪を宣告する教会があるのです。このような信仰理解や宣教姿勢は「神様の御心」に反しているのです。イエス様の「救いの業」を妨げているのです。傲慢は最も大きな罪です。死に至る病なのです。「悔い改め」がなければ赦されないのです。

*イエス様は連れて来た男たちの信仰をご覧になって、中風の人に「人(友)よ、あなたの罪は赦された」と言われたのです。この人は自分以外の人たちの信仰によって救いに与ったのです。これは「執り成しの祈り」と良く似ているのです。人々への奉仕には二つの意味があります。一つは現実の重荷を少しでも軽減することです。次に「行い」を通して証しされた「神様の愛」に触れて頂くことです。男たちは屋根に上って瓦(タイル)をはがし、中風の病人を寝台ごとつり降ろしたのです。彼らには必ず癒して下さるという確信があったのです。言葉によって信仰が告白されるとは限らないのです。「良い行い」によって表明されることがあるのです。中風の人が言葉や行いによって信仰を表明していないのです。ご自身の絶対的な権威に基づいてこの人の罪を赦し、病を癒されたのです。確かに「罪の赦し」と「病の癒し」が人々を驚かせたのです。もう一つ付け加えたいことがあるのです。無言であった中風の人が神様を賛美したことです。信仰から迷い出た人が再び神様の下に導かれたのです。イエス様の「力ある業」を見た群衆も憐れみ深い神様を賛美したのです。キリスト信仰において関心が「罪の赦し」に留まっているのです。信徒たちには果たすべき使命があるのです。「すべきことをしないこと」が安易に理解されているのです。「永遠の命」に関わる深刻な問題なのです。行いのない信仰は空しいからです。イエス様の権威を軽んじてはならないのです。命じられた最も大切な戒め-神様と隣人を愛すること-を実践するのです。審判は後に下されるのです。

2025年11月02日

「結婚の意義」

Bible Reading (聖書の個所) マルコによる福音書10章1節から16節

イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

(注)

・そこ:ガリラヤ湖の西北に位置するカファルナウムの町です。漁業、農業、交易が盛んです。イエス様はこの町の不信仰を激しく非難されたのです。

・ファリサイ派:律法を日常生活に厳格に適用したユダヤ教の一派です。ただ、彼らは言うだけで実行しなかったのです。イエス様に律法学者たちと共に敵対したのです。

・離縁と再婚の制限:

■人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきこと(夫に対する不誠実)を見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。その女(彼女)が家を出て行き、別の人の妻となり、次の夫も彼女を嫌って離縁状を書き、それを手に渡して家を去らせるか、あるいは彼女をめとって妻とした次の夫が死んだならば、彼女は汚されているのだから、彼女を去らせた最初の夫は、彼女を再び妻にすることはできない。これは主の御前にいとうべきことである。あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を罪で汚してはならない(申命記24:1-4)。

●離縁状は女性への所有権を放棄したという文書です。これによって彼女は再婚できるのです。一般的に女性の方から離縁を宣言することはないのです。

●ヨセフが結婚前のマリアの懐妊について悩む姿を伝えるマタイ1:19を参照して下さい。

・ヒレル(Hillel):ユダヤ教の律法学者です。律法の解釈には比較的柔軟でした。

・シャンマイ(Shammai):西暦一世紀初頭のユダヤ教の著名な学者です。


・神の国:神様の支配、主権のことです。イエス様は「神の国」を宣教するためにご生涯を捧げられたのです。復活された後も40日間それを語られたのです。キリストの弟子たちもイエス様に倣(なら)うのです。困難に耐える覚悟がなければ「神の国」に招かれることはないのです。

■イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた(神様にお委ねした)者は誰でも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」(マルコ10:29-30)。

●イエス様のお言葉の中に夫や妻は含まれていないのです。二人は切り離すことが出来ないからです。

・不法な結婚の例:洗礼者ヨハネはヘロデ大王の三人の息子の一人でガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスとその兄弟フィリポの妻へロディアとの結婚について「律法では許されていない」と言ったのです。アンティパスは牢の中でヨハネの首をはねさせたのです。イエス様もこの人の結婚に反対しておられたことを窺(うかが)わせるのです(マタイ14:1-13)。アンティパスはイエス様を自分が殺させたヨハネの蘇(よみがえ)りであると思っていたのです。

(メッセージの要旨)

*ファリサイ派の人々は「神様の御心」に即してモーセの律法を理解しないだけでなく、イエス様を貶(おとし)めるために趣旨を歪曲(わいきょく)しているのです。律法学者たちはイエス様が離縁に反対していることをすでに知っているのです。モーセの律法に違反していることを暴露するために質問したのです。イスラエルは男性が圧倒的に優位な家父長社会です。女性と子供は人格さえ認められていないのです。妻は夫の所有物です。妻を奪うことは夫の財産を盗むことと同じなのです。姦淫は財産権の侵害なのです。姦淫の罪に対する刑罰が厳しいのはこのためです。ケースにもよるのですが、双方が石打の刑で処刑されるのです(申命記22:22-29)。一方、イエス様は姦淫の罪を律法よりも広義に解釈されるのです。「不法な結婚(貞節違反)でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる」と言われたのです(マタイ5:31-32)。恣意的(しいてき)な離縁には姦淫の罪が適用されるのです。律法の背景には「神様の祝福」があるのです。イエス様は「神は御自分にかたどって人を創造された。・・男と女に創造された」(創世記1:27)、「・・男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2:24)を引用し、「結婚の意義」を再確認されたのです。律法主義に陥(おちい)って人間が神様によって一緒にされた二人を引き離してはならないのです。離縁について論じる前に「天地創造」の原点に戻ることを命じられたのです。

*ファリサイ派の人々は「昔の人の言い伝え」(慣習)に従わず、不信仰と偽善を批判するイエス様に敵対していたのです。人々の前でイエス様を陥(おとしい)れようと常に画策しているのです。今回もよく練った方法でイエス様に論争を挑んでいるのです。ユダヤ人の間で離縁は定着しているのです。ただ、離縁に至る判断基準は二つに分かれていたのです。一つはヒレル学派の見解です。夫は妻を些細(ささい)な理由-人格や振る舞いが嫌いになったこと、女性としての魅力がなくなったこと、パンを焦(こ)がしたこと―であっても、離縁することが出来ると教えていたのです。モーセ五書にある申命記24:1を根拠としたのです。もう一つはシャンマイ学派の解釈です。彼らは申命記24:1にある妻の恥ずべき事を「姦淫の罪」に限定したのです。妻がその罪を犯した時に離縁が成立したのです。ファリサイ派の人々はこうした事情を承知の上でイエス様に「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と質問しているのです。イエス様の答え方によってはどちらからも反感を買うのです。イエス様は両派の定義に直接言及することなく、ユダヤ人の誰もが知っている創世記を引用して結婚の原点を示されたのです。イエス様は離縁という問題を「神様の御心」の観点から説明されたのです。「結婚の意義」を離縁から語ることは本末転倒なのです。神様に依り頼む人は結婚の束縛から逃れるために律法の中に抜け道を捜すようなことはしないのです。夫と妻の結びつきは親と子のそれよりも強いのです。男の不信仰と傲慢が離縁の原因なのです。

*「神の国」に入るためには覚悟が不可欠です。様々な犠牲が伴うのです。最も近しい関係にある結婚においても同じことが言えるのです。モーセは結婚における神様の目的を理解しようとしない人間の頑(かたく)なさの故に離縁を許したのです。申命記24:1-4は二つに分けられます。前半において、夫の一方的な意向によって妻を離縁することが認められているのです。妻には弁明し、拒否する権利もないのです。後半において、元の夫は再婚した妻をもう一度妻にしてはならないことが定められています。元々離縁状の目的は離縁された女性の「結婚の自由」を保障することにあったのです。ファリサイ派の人々は禁止条項に触れずに、論点を「夫の権利の否定」へとすり替えているのです。離縁の問題において「神の国」に属する人々の信仰が問われるのです。正当な理由がないのに夫が妻を離縁し、他の女性と再婚すれば姦淫の罪を犯したことになるのです。ユダヤ教の伝統に慣れ親しんだ弟子たちが「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言っているのです(マタイ19:10)。ローマ帝国の支配下にあって世俗化が進んでいるのです。倫理観も低下しているのです。イエス様のお言葉は弟子たちにとって厳格に映ったのです。イエス様は「不法な結婚」(マタイ19:9)、「何か恥ずべきこと」(申命記24:1)として日本語に訳された罪について言及しておられます。「姦淫の罪」を犯した夫、また妻は離縁されるのです。イエス様が2000年前ユダヤ人社会において妻の離縁する権利を明確にされたことに驚かされるのです。

*イエス様は「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。・・」と言われるのです。イエス様の姦淫の定義は広いのです。心の中に生じた不純な思いがすでに罪なのです。しかも、それだけで地獄に落ちるのです(マタイ5:27-30)。離婚の原因の多くが夫の側にあることを指摘されているのです。男性の不信仰を厳しく非難しておられるのです。一方、離婚によって様々な問題が生じているのです。イスラエルが男性中心の社会であったことを直視するのです。男性が女性を圧倒的に支配しているのです。妻は夫の奴隷なのです。子孫を残すための道具と言っても過言ではないのです。夫が妻を離縁すれば生活手段-家や農地などーを持たない女性が一人で生きて行くことは極めて困難です。父親の下に帰るか、別の男性と結婚するかです。選択肢は限られているのです。いずれの場合も簡単ではないのです。特定の職業(娼婦など)によって生計を立てることも多いのです。社会から軽蔑され、罪人の烙印(らくいん)を押されるのです。人為的に母親を奪われた子供たちも不幸です。イエス様は子供たちを妨げる弟子たちに憤られたのです。イエス様は子供たち-困難を覚える人々-の側に立たれるのです。「神の国」の福音は安価な恵みではないのです。キリストの信徒たちに行動が求められているのです。子供たちの窮状に心を砕くのです。援助の手を差し伸べるのです。神様は彼らと共に歩む人々を祝福されるのです。

*聖書の個所を理解するために「前後三章を併せて読みなさい」と教えられたことがあります。ペトロの信仰告白からイエス様のエルサレム入城までの間信徒たちの覚悟が主題になっているのです(マルコ8:31-10:45)。弟子たちは十字架を担(にな)うために(8:34)、すべての人に仕えるために(9:35)、犠牲を厭(いとわ)わず「永遠の命」に与るために(9:43-48)、子供たちのように自らを低くするために(10::15)、家族や持ち物を残して福音宣教に携(たずさ)わるために(10:29-30)召し出されたのです。覚悟、人に仕えること、苦難との遭遇が繰り返し強調されているのです。マルコは離縁についても弟子の覚悟の一つであると考えているのです。離縁の論議は「律法の規定」からではなく「神様の祝福」を原点とするのです。結婚には「神様の御心」を実現する覚悟が必須なのです。ファリサイ派の人々は「結婚の意義」を考慮することなく、律法主義に固執(こしつ)しているのです。イエス様は離縁が不信仰の産物であることを断言されたのです。「神様の御心」はすでに「天地創造」の時に表れているのです。弟子になるために別れを告げる家族の中には夫と妻が含まれていないことに注目するのです。夫婦は基本的に一体なのです。ただ、様々な事情によって離縁は増え続けているのです。イエス様が苦難に喘(あえ)ぐ女性と子供たちを見捨てられることはないのです(ヨハネ8:1-11)。離縁は結婚の在り方の結論です。神様が祝福された「天地創造」の観点から論じるべき大切なテーマなのです。

2025年10月26日

「ヤコブの信仰理解」

Bible Reading (聖書の個所) ヤコブの手紙2章1節から17節

わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。

わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。だが、あなたがたは、貧しい人を辱(はずかし)めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜(ぼうとく)しているではないですか。もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者(たち)と断定されます。律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなた(がた)は律法の違犯者になるのです。自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者(たち)として、語り、またふるまいなさい。人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。

わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

(注)

・ヤコブの手紙の著者:伝統的にイエス様の兄弟ヤコブであると言われています。

・隣人を自分のように愛しなさい:旧約聖書の レビ記19:1-18をお読み下さい。

・最も重要な戒め:「永遠の命」に与るためには戒め(律法)を実行することが不可欠です。キリスト信仰は「行い」によって証明されるのです。

●イエス様は「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことが出来るでしょうか」と質問する律法の専門家に「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人(困っている人々)を自分のように愛しなさい」と答えられたのです(ルカ10:25-37)。

・パウロの手紙:パウロは各教会宛(あ)てに手紙を書いたのです。神学理論ではないのです。この点に留意することが必要です。ローマの信徒への手紙、コリント信徒への手紙一、コリント信徒への手紙二、ガラテヤの信徒への手紙、フィリッピの信徒への手紙、テサロニケの信徒への手紙一、フィレモンへの手紙の七つはパウロの著作であることが確認されています。それ以外は弟子あるいは他の人が書いたものとされています。

・パウロの信仰理解:「神の国」の福音が個人的な信仰心の問題に限定されているのです。

■口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです(ローマ書10:9-10)。

■正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません(1コリント書6:9-10)。

・ルター:宗教改革(1517年ごろ)の先駆者です。ヤコブの手紙が「パウロの信仰義認」に矛盾するとして、新約聖書の正典であることに異を唱えたのです。藁(わら)の手紙と呼んだのです。根拠としてパウロの手紙を引用しているのです。

■イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。(1コリント書3:11-13)

しかし、今日までヤコブの手紙が正典から取り除かれることはなかったのです。一方、ルターはドイツ農民戦争(1524年-1525年)-貴族の圧政に対する農民の反乱-において当初の支持を翻(ひるがえ)し、貴族の側に立ったのです。反乱者たちを狂犬のように鎮圧することを求めたのです。10万人以上が亡くなったのです。


・アブラハムがイサクを捧げる話:創世記22章1節から19節を参照して下さい。


・娼婦ラハブ:ヨシュア記2章1節から21節、ヘブライ人への手紙11章31節に登場します。

(メッセージの要旨)

*自分の信仰を誇っても、困っているみなしご(孤児)ややもめ(寡婦)の窮状に無関心であれば、その人に「救い」は訪れないのです。ヤコブは金持ちを優遇し、貧しい人を差別している教会を批判して「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか」と言うのです。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」と言われたイエス様の教えに合致(がっち)しているのです(ルカ6:20)。神様が祝福された人々を分け隔てすることは大きな罪です。子供の時から律法を厳格に守っている金持ちが「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねています。イエス様は「持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と答えられたのです(マルコ10:17-31)。ヤコブも畑で働く労働者たちに賃金を支払わない、富んでいる人たちに「やがて来る不幸」を宣告するのです。手紙(1-5章)はイエス様の教えを簡潔に表現しているのです。「御言葉を聞くだけではなく、行う人になりなさい。律法を実行する人は幸せになります」と結論づけるのです。ヤコブの手紙は教会で評価されなかったのです。ルターはパウロの言葉を引用して「藁(わら)のような手紙」と呼んだのです。パウロの「恵みによる救い」、自身の「信仰のみによる救い」と対立するからです。キリスト信仰は神学理論を知的に学ぶことではないのです。イエス様の教えに従って生きることなのです。ヤコブの手紙はキリストの信徒たちに再確認させるのです。

*ヤコブと度々比較されるのがパウロです。パウロはイエス様から直接教えを受けていないのです。宣教活動に加わったこともないのです。それにも関わらず、イエス様のメッセージの有力な解釈者になっているのです。設立した教会宛に少なくとも七つの手紙を書いています。問題はイエス様の教えを正確に伝えているかどうかなのです。遣わされた者は遣わしたお方に優(まさ)らないのです(ヨハネ13;16)。両者の間には「神様の子」と「人間」という決定的な違いがあるのです。パウロを過大評価してはならないのです。パウロはローマの市民権を持っているのです。様々な権利を有しているのです。一方、「キリストの再臨」が近いことを信じていました。圧政に苦しむ人々に「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう」(ローマ書13:1-2)、また「召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです」(1コリント書7:21-22)と言っています。「信仰の名」によって外国の不当な支配と奴隷制度を正当化しているのです。イエス様の宣教姿勢は明確です。貧しい人々や虐げられた人々の側に立たれたのです。

*パウロには地上における人々の自由や解放という考えはなかったのです。関心を「罪の赦し」と「天国」に向けていたのです。このため、イエス様が天に戻られるまでの間(復活された後も)宣教された「神の国」の福音-天上と地上における正義と解放の約束-がパウロの手紙には見られないのです。パウロが「神の国」の福音に言及する時は個人的な信仰心のあり方に縮小されているのです。ヤコブは誤った信仰理解を正すために手紙を書いたのです。旧約聖書から二人の人物を取り上げ、「行い」の重要性を述べているのです。「神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。・・同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか」と言うのです。パウロは異邦人宣教に大きな役割を果たしたのです。テント職人として働き、生計を維持したのです。実践的で学ぶことが多いのです。ただ、パウロの信仰理解を無批判的に受け入れることは出来ないのです。「神の国」は社会における正義と公平の実現として完成するのです。ヤコブの手紙にはパウロのような難解な哲学的、神学的な用語が見られないのです。イエス様に倣(なら)って平易な言葉で語っているのです。アブラハムや娼婦ラハブの信仰が示すように「永遠の命」は安価な恵みではないのです。自分の生き方を振り返るのです。

*ヤコブが伝える教会の状況は今日においても見られるのです。ある教会の礼拝に出席した時のことです。少し早く礼拝堂のベンチに座っていました。年配の女性が来て「そこはわたしの席です」と言ったのです。ところが、そのように言った後、事の重大さに気づいて発言を撤回されたのです。教会のメンバーでない人が初めて礼拝に出席した時のことです。祭壇に向かって最前列の左端に座られたのです。しばらくして、男性役員が来て「その席はわたしの席です」と言ったのです。来会者は別の席へ移られたのです。このことが原因かどうかは分からないのですが、その方が再び教会を訪れることはなかったのです。教会は神様を礼拝する所です。信徒たちを含め関係者が物心両面にわたって協力して建設したことには間違いないのです。しかし、神様に捧げられた建物なのです。すべての人に開放されているのです。エルサレムの神殿が「祈りの家」(マルコ11:17)であるように、教会も「神様の家」です。公の施設なのです。ところが、恣意的(しいてき)に運営されているのです。自分の振舞に細心の注意を払うのです。イエス様は「永遠の命」を願う律法学者に、最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実行するように促されたのです(ルカ10:25-28)。キリストの信徒たちにも正義を重んじ、慈悲に満ち、誠実であることを命じられたのです(マタイ23:23)。イエス様は一貫して「行い」を求められたのです。キリスト信仰の真髄(しんずい)はここにあるのです。「行い」を欠いた信仰は死んでいるのです。胆に銘じるのです。

*キリスト信仰を標榜する人々が金持ちや有力者たちが大切にされ、貧しい人々が差別されている現状に無関心なのです。正義や公平を実現するために行動しないのです。「信仰の名」によって「神様の御心」に反する行いを正当化しているのです。罪を犯した人は「神様の愛と憐れみ」によって生かされていることに感謝しているのです。一方、罪の自覚がない人は信仰心の篤さを誇っているのです。「永遠の命」を確信しているのです。しかし、イエス様が御子の権威に基づいて最終的に裁かれるのです(ヨハネ5:21-22)。イエス様は「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。・・しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である(に天罰あれ)。・・飢えるようになる。・・悲しみ泣くようになる」と言われたのです(ルカ6:20-25)。神様は貧しい人々と共に歩まれるのです。金持ちたちは貧しい人々に施さなければ「救い」に与れないのです。神様と富の両方に仕えることは出来ないからです(マタイ6:24)。権力や富を有する人々が教会を支配しているのです。教会では「この世」の論理が横行しているのです。「神の国」の福音が歪(ゆが)められているのです。預言者イザヤが「主は恵みを与えようとして/あなたたちを待ち/主は憐れみを与えようとして/立ち上がられる。まことに、主は正義の神」と言っています(イザヤ書30:18)。キリスト信仰において 愛が強調されているのです。ところが、社会の悪や不公正に寛容なのです。聖書の中に正義を欠いた愛は見当たらないのです。ヤコブ書に注目するのです。

2025年10月19日

「弟子の生き方」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書13章1節から20節

さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。

さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範(もはん)を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

(注)

・過越祭:ユダヤ教の三大祭の一つです。イスラエルの民がエジプトの圧政から解放されたことを記念しています。毎年、三月(四月)に行われていました。およそ10万人がエルサレムへ巡礼したのです。出エジプト記をお読み下さい(12:1-13:10)。他の二つ-七週祭と仮庵祭-については申命記に記述されています(16:1-8)。

・食事の席:最後の晩餐(ばんさん)のことです。

■一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」(マルコ14:22-25)マタイ26:26-29、ルカ22:15-20も併せてお読み下さい。

・すでに体を洗った者:ユダヤ教が定める「清めの儀式」を自宅で行った人のことです。それを済ませた人はすでに清くなっているので、夕食に招かれた家に到着した時には「足を洗う」だけでいいのです。

・わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった:旧約聖書の詩編41章10節からの引用です。

・わたしはある:神様は預言者モーセに「わたしはある。わたしはあるという者だ」、また「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」と言われました(出エジプト記3:14)。イエス様もご自身をこのように呼ばれるのです。神様とイエス様が一体であることを事前に説明されたのです。

(メッセージの要旨)

*父なる神様の下へ帰る時を悟られたイエス様は過越の食事の席で思いもよらない行動に出られたのです。(横になって食事をされていたので)立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとい、弟子たちの足を洗い、そして拭かれたのです。足を洗うことは卑しい仕事とされていました。身分の低い奴隷がその任に当たっていたのです。キリスト信仰の根本理念が示されているのです。一方、イエス様は裏切ろうとしている者が誰であるかを知っておられたのです。ユダは洗足によって清められたことになるのですが、心は依然として悪魔の影響を受けているのです。イエス様は弟子たちの足を洗われた後に再度ユダの裏切りを予告されたのです。「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と言われたのです。ユダがイエス様からパンを受け取るとサタンが彼の中に入ったのです(ヨハネ13:27)。イエス様を敵対する指導者たちへ引き渡すのです。ユダは12使徒の一人に選ばれ、会計を任(まか)されていたのです。食事の席でもイエス様の直ぐ近くにいたのです。イエス様から離れた理由の一つはお金への執着でした。「彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていた・・」と記述されているのです(ヨハネ12:6)。イエス様は「人の子を裏切るその者は不幸だ(に天罰あれ)。生まれなかった方が、その者のためによかった」と言われたのです(マタイ26:24)。弟子であることが「救いの保証」ではないのです。戒めを実行しなければ「永遠の命」に与れないのです。キリスト信仰とは「生き方」のことなのです。

*足を洗うことは相手に対する敬意を表しています。アブラハムは暑い真昼に天幕の入り口に立っていた主の御使い三人を見て地にひれ伏し「水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞ一休みなさってください」と言っています(創世記18:1-5)。客の足を洗うことは歓迎の意思表示の一つです。著名な人や金持ちたちの家では一般的に奴隷がその務めを果たしたのです。神様はモーセに「アロンとその子らは・・水で手足を洗い清める。・・死を招くことのないためである。・・」と命じられました。祭司たちに臨在の幕屋(神様との会見の場所)に入る前に手足を洗うことが義務付けられたのです(出エジプト記30:17-21)。ファリサイ派のシモンは食事に招いたたにもかかわらず、イエス様に足を洗う水を出さなかったのです。この人の振舞いは主人として礼を失しているのです。神様が遣わされた御子をも軽んじているのです。非礼の極みなのです。ところが、一人の罪深い女性が近づいてきてイエス様の足を涙でぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、香油を塗(ぬ)ったのです。イエス様に示した愛の深さによってこの人の罪は赦(ゆる)されたのです(ルカ7:36-50)。ユダヤ人やギリシャ人の多くは人に仕えるような生き方を軽蔑(けいべつ)したのです。弟子たちもこうした考え方の影響を受けていたのです。イエス様は「わたしに倣(なら)いなさい」と命じられたのです。「神の国」においてはこの世の基準が逆転するからです。「主よ、主よ」と言う人が「永遠の命」に与れるとは限らないのです(マタイ7:21)。

*イエス様は「人々の救い」のために命を捧げられたのです。旧約聖書の中にもそのような人物がいたのです。神様が「金の子牛」を造って礼拝する民を滅ぼそうとされた時、モーセは「この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば・・。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書(命の書)の中から消し去ってください」と執成(とりな)したのです(出エジプト記32:31-32)。一部の人に厳しい罰を下されたのですが、民全体を滅ぼされることはなかったのです。足を洗いなさいとは最も重要な戒め-自分を愛するように隣人を愛しなさい-を実行することなのです(レビ記19:18)。ただ、何らかの犠牲-時には命を失うこと-が必ず伴うのです。新約聖書にも具体例が数多く紹介されています。イエス様は「わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/皆赦しますから。わたしたちを(富などの)誘惑に遭わせないでください」と祈るように教えられたのです(ルカ11:4)。富や地位、知識や知恵は貧しい人々や虐(しいた)げられた人々のために用いるのです。悪霊を追い出していただいたマグダラのマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、スザンナなど女性の信徒たちは持ち物を出し合って一行に奉仕したのです(ルカ8:1-3)。初代教会の信徒たちの中には貧しい人が一人もいなかったのです。土地や家を持っている人皆がそれらを売って必要とする人に分配したからです(使徒言行録4:32-37)。

*イエス様が家の中で群衆に御言葉を語っておられると、四人の男性が屋根をはがしてイエス様の前に中風の病人を寝床と一緒に下へ降ろしたのです(マルコ2:1-11)。また、ユダヤ人たちのために会堂を建てたローマ軍の百人隊長(異邦人)は病気で死にかかっている自分の奴隷を助けて下さるように願い出たのです(ルカ7:1-7)。イエス様は彼らの信仰を見て二人の病人を癒されたのです。弟子であることを隠していた議員のアリマタヤのヨセフは引き取り手のないイエス様のご遺体を取り降ろしたいと総督に願い出たのです。ピラトは申し出を認めたのです。イエス様と面識があり、議会でもイエス様を擁護(ようご)した議員のニコデモと一緒に、ユダヤ人の埋葬(まいそう)の習慣に従ってご遺体を新しい墓に納めたのです(ヨハネ19:38-42)。二人は同僚の議員たちによる迫害-地位のはく奪や逮捕(死)-を覚悟して行動に出たのです。イエス様は山上の説教において「義(正義)のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである」と明言されました(マタイ5:10)。ヨセフとニコデモは信仰の確信を「行い」によって証ししたのです。イエス様は「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われました(ヨハネ15:13)。ご自身の「生き方」によって証明されたのです。キリスト信仰が知的、精神的に理解されているのです。足を洗いなさいが象徴的に捉(とら)えられているのです。イエス様は具体的な行動を指示されたのです。「行い」のない信仰は不信仰なのです。

*イエス様は群衆に「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」と言われたのです。これを聞いた弟子たちの多くがイエス様に躓(つまず)いたのです。すでに、イエス様は12使徒の中にご自身を裏切る者(イスカリオテのユダ)がいることを明言しておられるのです(ヨハネ6:52-71)。ユダはグループの会計を預かり、食事ではイエス様に最も近い席に着いていたのです。一方、密かに不正を働いていたのです。悪魔の支配に身を委ねたユダは裏切り者の道を選択したのです。イエス様は長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することを打ち明けられたのです。すると、ペトロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と諫(いさ)めたのです。イエス様は「サタン(悪魔)、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と厳しく叱責(しっせき)されたのです(マタイ16:21-23)。ペトロもイエス様の教えを十分に理解していなかったのです。イエス様は二人の足を洗われました。彼らは清められたのです。信仰を貫くことは簡単ではないのです。ユダは悪魔に従って滅びに至り、ペトロは立ち直って後の教会の礎(いしずえ)となったのです。二人の運命を分けたのは「悔い改め」だったのです。「足を洗いなさい」は謙遜の勧めに留まらないのです。イエス様の生き方に倣(なら)うことです。

2025年10月05日

「神とわたしを信じなさい」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書14章1節から14節


「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

 

フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業(わざ)を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」


(注)


・トマス:12使徒の一人です。復活された主は彼に「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」と言われたのです(ヨハネ20:24-29)。


・フィリポ:12使徒の一人です。ガリラヤ湖の北にあるベトサイダの出身です。使徒アンデレとペトロも同郷です。


・ペトロ:使徒の中でも中心的な役割を担った人です。


・共観福音書:マタイ、マルコ、ルカによる福音書は、構成、考え方(観点)、内容に共通性を持っています。ヨハネによる福音書と区別してこのように呼ばれています。

・使徒言行録:ルカによる福音書の第二部です。

・わたしは道であり、真理であり、命である:他にも、イエス様はご自身について定義しておられます。

 

●「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢(う)えることがなく、わたしを信じる者は決して渇(かわ)くことがない」(ヨハネ6:35)、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇(くらやみ)の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)、「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」(ヨハネ10:9)、「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(ヨハネ10:14)、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11:25)、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。・・」(ヨハネ15:1-2)


・イエス様の業:「神の国」(天の国)-神様の支配-が到来していることを証明しているのです。キリスト信仰とは「神の国」の到来を福音(良い知らせ)として信じることなのです。


・神様の支配について:


●旧約聖書から


■わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者(厳しい親方たち)のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。 (出エジプト記3:6―10)


■あなた(がた)の神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼(主)を畏(おそ)れなさい。(申命記8:6)


●新約聖書の福音書から


■イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人(人々)に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人(人々)に解放を、/目の見えない人(人々)に視力の回復を告げ、/圧迫されている人(人々)を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(ルカ4:16-21)


●パウロの書簡(手紙)から


パウロの信仰の中心にあったのは罪と死後に行く天国のことでした。虐げられた貧しい人々、病にある人々等への福音が指導者たちによって個人的な信仰心の問題(敬虔の追求など)へと変容されているのです。天上と地上における正義の実現を約束されたイエス様の「神の国」の到来に関する記述が見られないのはこのためです。「神の国」に言及したとしても「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません」とあるように、個人的な罪の問題に限定しているのです(1コリント6:9-10)。


・カナ:ガリラヤの中央に位置しています。イエス様の弟子ナタナエル(使徒ではありません)の故郷です。


・ベタニヤ:イエス様の宣教の拠点の一つです。エルサレムから近く、キドロンの谷を越えたオリーブ山の麓(ふもと)にあります。

(メッセージの要旨)


*イエス様は愛するラザロの死に接して死そのものに憤られ(心を騒がせられ)たのです(ヨハネ11:33)。十字架の死を前にして「今、わたしは心騒ぐ。父よ、わたしをこの時から救ってください」と言われたのです(ヨハネ12:27)。ユダの裏切りを知った時にも心を騒がせられたのです(ヨハネ13:21)。ただ、神様の御力とお約束への信頼を揺らがされることはなかったのです。イエス様はこの世から父なる神様のもとへ移る時が来たことを悟(さと)り、食事の席で弟子たちの足を洗われたのです。彼らがどのように生きるべきかについて模範(もはん)を示されたのです。「お互いに愛し合うこと」を命じられたのです。使徒たちがイエス様と同様の経験をしているのです。信仰の確信を得ようと必死になっているのです。ヨハネの福音書は長い間他の三つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ)から際立って異なっていると考えられていました。共観福音書が取り上げている記事や物語を欠き、それらが言及していない人物や出来事を記述しているからです。歴史的というよりも神学的、霊的な側面を強調した福音書として評価されて来たのです。神様とイエス様を愛するとは心の有り様ではないのです。戒めを守ることなのです。この点において共観福音書との共通性が見られるのです。後に、初代教会の信徒たちはすべての物を共有にし、心を一つにして神様を賛美したのです。民衆全体から好意を得ていたのです。神様は初代教会を祝福し、日々新しい信徒を加えられたのです(使徒2:43-47)。神様とイエス様を信じ、掟を実践するのです。


*「神は、その独(ひと)り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」は真に正しいのです(ヨハネ3:16)。ヨハネは神様がどのようなお方であるかを簡潔に伝えているのです。イエス様は「神様の御心」を具体化されたのです。迷い出た羊たちを神様の下へ取り戻すために最後まで努力を惜(お)しまれなかったのです。イエス様は「神様を信じなさい。ご自身を信じなさい」と言われました。イエス様のお言葉と業をそのまま信じられる人は幸いなのです。しかし、多くの人がイエス様に躓(つまず)いたのです。一緒に歩んでいた弟子たちも大勢離れ去ったのです。ところが、イエス様はこれらの人の救いのために譲歩(じょうほ)して「・・わたしは人間による証(あか)しは受けない。・・父がわたしに成し遂(と)げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣(つか)わしになったことを証ししている」と言われたのです。人々の視点をご自身から目に見える業の方へ向けられたのです。神様はイエス様の中に働いておられるのです。神様が共におられなければイエス様の業は実現しなかったのです。この事実を明らかにして「わたしを信じて永遠の命に与(あずか)りなさい」と言われたのです(ヨハネ5:31-40)。ヨハネはイエス様によるたくさんのしるしや業を記述しています。これらの業(奇跡)によって多くの人がイエス様を信じたのです。人間の教義による解説ではなく、イエス様の業が人々を「救い」に導くのです。


*ガリラヤのカナで婚礼がありました。イエス様は母マリアと共に招かれていました。婚宴は一週間続きました。ぶどう酒が足りなくなったのです。イエス様は召し使いたちに「水がめに水を入れなさい」と言われました。彼らが六つの水がめに水を満たして世話役係に持っていくと水はすでにぶどう酒に変わっていたのです。イエス様はしるしを通して「神様の栄光」を現(あら)わされたのです。弟子たちは「イエス様が神の子であること」を信じたのです(ヨハネ2:1-11)。病人たちを癒(いや)されたイエス様を見て五千人以上の群衆が後を追って来ました。イエス様はこの人たちに食べ物を与えられるのです。大麦のパン五つと魚二匹を持っている少年がいました。イエス様は感謝の祈りを唱(とな)えてからそれらを人々に分け与えられたのです。すべての人が欲しいだけ食べて満腹したのです。人々はイエス様のなさったしるしを自らも体験したのです。「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言ったのです(ヨハネ6:1-14)。イエス様は通りすがりに生まれつき目の見えない人を見かけられました。弟子たちは「罪を犯したのは本人ですか、それとも両親ですか」と尋ねたのです。イエス様は「どちらでもない。神の業がこの人に現れるためである」と答えられたのです。生まれつきの盲人を見えるようにされたのです。後にイエス様はこの人に出会い「わたしが神の子であることを信じるか」と言われたのです。彼はこの時癒して下さった方を知ることになったのです。「主よ、信じます」と言ってひざまずいたのです(ヨハネ9)。


*マリアとマルタの姉妹は遠くにおられるイエス様に人をやって愛するラザロが病気であることを知らせました。イエス様はこれを聞いて「この病気は死んで終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と返答されたのです。イエス様がベタニヤの村に戻られた時ラザロは墓に葬(ほうむ)られて既に四日も経っていました。イエス様は墓に行かれたのです。そこで天を仰ぎ「父よ、わたしの願いを聞き入れて下さって感謝します。・・あなたがわたしをお遣わしになったことを群衆に信じさせるためです」と言われたのです。「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれたのです。死んでいたラザロが蘇(よみがえ)ったのです。ラザロのことを聞いた多くのユダヤ人がイエス様を「神の子」として信じるようになったのです(ヨハネ11:1-12:11)。ある日、イエス様は神殿の境内で羊や鳩を売っている商売人たちや両替人たちに気付き、彼らを追い出されたのです。「わたしの父の家を商売の家としてならない」と命じられたのです。指導者たちは「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言って、「権威の根拠」を求めたのです。イエス様は「この神殿を壊(こわ)して見よ。三日で建て直して見せる」と反論されたのです。イエス様が言われた神殿とはご自身の体のことだったのです。イエス様が復活された時、弟子たちはお言葉と御業を思い出したのです。イエス様が「救い主」であることを信じたのです(ヨハネ2:13-22)。事実には力があるのです。


*イエス様はイスカリオテのユダを除く11使徒に「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われました。このお言葉にキリスト信仰の本質が要約されているのです。イエス様は「人間による証しは受けない」と明言されたのです。その上で「神様の証しに勝る証しはない」と言われるのです。それがご自身の「力ある業」なのです。神様とイエス様が一つであることの証明なのです(ヨハネ10:30)。長い間一緒に行動した弟子たちでさえ「イエス様」について理解していないのです。イエス様は「神様の子」として遣わされたのです。もうすぐ神様の下へ帰ろうとされているのです。その後、聖霊様が来られるのです(ヨハネ。14:15-31)。これが神様のご計画なのです。トマスと同じようにペトロも「主よ、どこへ行かれるのですか」と質問しています(ヨハネ13:36)。フィリポは「御父をお示し下さい」と申し出ています。後のパウロも「神の国」の意味を誤解したのです。個人的な「罪の赦(ゆる)し」に限定しているのです。イエス様はキリスト信仰の真髄(しんずい)をご自身の業によって証明されたのです。キリストの信徒たちは伝統的な教義や神学理論によってではなく、イエス様の業から真理を学ぶのです。「神の子」であることを信じるのです。イエス様はご自身を「ぶどうの木」に例えられました。各枝(弟子たち)には「良い実を結びなさい」と命じられたのです。キリスト信仰はイエス様を信じることで完結しないのです。最も重要な二つの戒め-神様と隣人を愛すること-を実行することが必須の要件となっている。

2025年09月21日

「賢く振舞いなさい」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書16章1節から17節


イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。

ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」


金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。そこで、イエスは言われた。「あなたがたは、人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、誰もが激しく攻め入っている。しかし、律法の一画が落ちるよりは、天地の消えうせるほうが易しい。」

(注)

・弟子たちにも:直前の状況は次の通りです。

■徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。(ルカ15:1-2)

・金持ち:イエス様は「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われました。ここに、「福音の真理」が語られているのです。マタイ19:24、マルコ10:25、ルカ18:25を参照して下さい。

・管理人:良く訓練(教育)を受けた奴隷です。重要な仕事を任(まか)されていました。管財人のことです。

・無駄遣い:金持ちは管理人が不正を働いたかのように断定しています。しかし、管理人は横領するとか、盗むようなことをしていないのです。貪欲な金持ちの目から見た「職務怠慢」(しょくむたいまん)のことなのです。 

・パトス:約23ℓです。

・コロス:約230ℓです。

・永遠の住まい:「神の国」あるいは「永遠の命」を表しています。

・抜け目のない:「思慮ふかい」とも訳せる言葉です。管理人が悪い人物であるという前提に立った日本語訳になっています。

・光の子:イエス様の弟子のことです。ヨハネ12:35-36を参照して下さい。

・不正にまみれた富:原文に「まみれた」はないのです。訳者の先入観が反映されているのです。

・富:「マモン」から訳出された言葉です。マモンは金銭、お金のことなのです。マモンが「神」として崇められているのです。「偶像崇拝」が行われているのです。それ故に、イエス様は「神と富とに仕えることはできない」と言われたのです。

・ヨハネ:イエス様の先駆(さきが)けとして人々に激しく「悔い改め」を迫った洗礼者ヨハネのことです(マルコ1:1-11)。

・誰もが激しく攻め入っている:「神様によって入ることを強いられている」という意味です。

・ある金持ちの行く末:

■ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』(ルカ16:19:31)

・太宰治:小説家、本名は津島修治です。1909年に生まれ、1948年に没しています。「斜陽」、「走れメロス」、「津軽」、「人間失格」が有名です。

(メッセージの要旨)

*イエス様は貧しい人々や社会で蔑(さげす)まれている人々の「救い」に心を砕かれたのです。一方、富への執着や貪欲が人々を「永遠の命」から遠ざけているのです。この後、「金持ちとラザロ」の話が続くのです。富に対する姿勢がその人の「救い」を決定するのです。管理人の仕事は財産管理を適切に行い、資金を効率よく運用することです。金持ちは最大の収益を期待しているのです。ところが、信頼している管理人が職務を怠(おこた)っているのです。詳細は不明ですが、財産を無駄遣いしているのです。金持ちは「不正な管理人」と呼んでいます。多くの人がこの主張に同意するのです。安易な先入観が物事の本質を見誤らせるのです。管理人は財産の私的流用に手を染めている訳ではないのです。この点に留意することが必要です。金持ちの意向-利益第一主義-に沿って職務を遂行しなかっただけなのです。自らの職と引き換えに、債務者たちの証文を書き直させ、負担を軽減させたのです。結果として、不当な条件で貸し付ける金持ちの強欲が暗に批判されているのです。イエス様はこの管理人に「救い」を約束されたのです。光の子らがこの世の富に心を奪われているのです。イエス様は警鐘を鳴らされたのです。たとえ話を聞いていたのは弟子たちだけではないのです。ファリサイ派の人々もいたのです。イエス様は「神と富とに仕えることはできない」と言われたのです。「悔い改め」が求められているのです。すべての物は神様に属しているのです。基本的なことが忘れられているのです。キリストの信徒たちも富の問題を避けて通れないのです。

*生活の不安定の原因はーマ帝国の圧政と重税、同胞である金持たちへの負債にあるのです。人々は日々そのことを感じているのです。律法は経済活動について様々な規定を設けています。貧しい人々に対する金持ちたちの横暴を戒めているのです。「もし、あなた(がた)がわたしの民、あなた(がた)と共にいる貧しい者(たち)に金を貸す場合は、彼(ら)に対して高利貸しのようになってはならない。彼(ら)から利子を取ってはならない」と命じられているのです(出エジプト記22:24)。「貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。『七年目の負債免除の年が近づいた』と、よこしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい。その同胞があなたを主に訴えるならば、あなたは罪に問われよう。彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない」と記されているのです(申命記15:7-10)。必要とする人々に惜しみなく与えることは義務なのです。神様は御心を実践する人々を祝福されるのです。イエス様が宣教された「神の国」の根本理念は「神様と隣人」を愛することです。管理人は律法の精神を具体化しているのです。ところが、強欲な金持ちは自分の意に反する管理人を追放するのです。一方、光の子らの富への姿勢が曖昧(あいまい)なのです。イエス様は注意を喚起しておられるのです。弟子であっても富に執着すれば「救い」に与れないのです。

*金持ちには二つのグループがあります。富裕層を中心とする貴族階級です。もう一つは祭司制度の恩恵に浴している人々です。これらの人は通常の収入で生活していました。ところが、土地を所有している祭司たちはその一部または全部を貸し付けたのです。労働者たちを炎天下で長時間働かせるだけでなく、低賃金を強いたのです(マタイ20:1-16)。約束どおりの賃金すら支払わなかったのです(レビ記19:13)。干ばつや不作に遭遇(そうぐう)した小作人に返済能力を越える融資を勧めたのです。債務不履行になると担保の土地を没収したのです。富をさらに蓄(たくわ)えたのです。青森県五所川原市金木にある太宰治の生家-現在は斜陽館(記念館)-を訪れる機会がありました。広大な敷地に大邸宅が建っていました。建物の内部には当時としては珍しい洋風の部屋もありました。「銀行業務」が行われていました。土間にいる小作人たちが一段高い所に座っている地主に融資を申し込み、あるいは返済の猶予(ゆうよ)を願い出たのです。貧しい農民たちは凶作などで苦しんだのです。生きて行くために娘たちを「奉公」に出したのです。ユダヤにおいても多額の負債を抱えている人々は悲惨です。返済するために持ち物を処分するだけでなく、自分自身と妻や子供たちをも奴隷として売ったのです。国の内外を問わず、税金と借金は貧しい人々の生活を破壊しているのです。イエス様が教えられた「主の祈り」に「わたしたちの負債を赦してください」があります(マタイ6:12)。借り手の債権を放棄するのです。願いは実現されるのです。

*金持ちには管理人の職務能力に不満がありました。最大の関心事である利益最優先の方針に不熱心だったからです。そこで、解雇することを通告したのです。管理人は就職先を確保する手段として主人に負債のある人を順次呼んでそれぞれの債務を減額したのです。この人の当初の目的は債務者たちに恩を売ることでした。債務者たちの証文を書き換えさせたのです。主人と相談することなく自分の権限で実行したのです。すべてを任されていたからです。金持ちは通常の金利を越えた高利でお金を貸していたのです。管理人は契約内容を規定の範囲に戻しただけなのです。金持はその手法を賞賛しています。不正に蓄財しているのでこの件を公に出来ないのです。職を奪うことによって報復するのです。債務を軽減された人々は管理人に感謝したのです。イエス様は管理人の「行い」を誉(ほ)めておられるのです。不正な債務契約が債務者のために正常に戻されたのです。管理人は律法の規定に従って友だちを作ったのです。不正な富について正しい対応能力を備えていなければ、本当に価値のあるもの-神の国の福音-を任せていただけないのです。管理人は金持ちの悪業に疑問を呈することなく、黙々と働いていれば職を失うことはなかったのです。律法に反する金持ちのビジネス方法に心を痛めていたことが推測されるのです。無駄遣い-サボタージュと証書の書き換え-によって抵抗したのです。この話はファリサイ派や律法学者たちへの反論の延長線上で語られたのです。管理人のその後については分からないのです。神様が必ずこの人を守って下さるのです。

*イエス様はこの世の子ら(富に執着している人々)と光の子ら(「神の国」-神様の支配-の福音を信じている人々)を比較されたのです。この世の子らの方が自分の仲間に対して、光の子らよりも賢く振舞っているのです。弟子たちが「富の問題」を深刻に受け止めていないのです。イエス様の弟子になることによって「救い」が確定したかのように誤解しているのです。イエス様は安易な信仰理解を戒めておられるのです。「金持と管理人の話」は示唆に富んでいるのです。お金に執着すれば「救い」は危うくなるのです。例外はないのです。イエス様はこの点を強調しておられるのです。管理人の目的は自分の生活を安定させることにありました。しかし、自分の権限を用いて行ったことは「神様の御心」に適(かな)っていたのです。一方、「神様を愛している」と言いながら、この世の富を捨てられない弟子たちがいるのです。管理人は自分の職を捨てることによって「救い」を得ようとしているのです。弟子たちは怠惰(たいだ)よって「永遠の命」から遠ざかっているのです。キリスト信仰とは信じることではないのです。お預かりした富(権限や才能を含む)によって「神の国」を証しすることなのです。管理人として、貧しい人々や虐げられた人々のために奉仕するのです。イエス様は思慮深い管理人の「生き方」に学ぶように命じられたのです。神様と富との両方に仕えることを正当化するための試みが行われているのです。旧・新約聖書にその根拠を探しているのです。どこにも見当たらないのです。賢く振舞うとはイエス様のお言葉に従うことです。

2025年09月14日

「傲慢の罪」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書9章33節から41節


一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない(反対しない)者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

(注)


・カファルナウム:ガリラヤ湖の北西に位置する町です。イエス様の宣教の拠点です。

・子供:必ずしも、謙遜のことを意味しないのです。当時の子供は父親の所有物でした。それ故、無力な人(権力や財力を持たない人)を象徴(しょうちょう)しています。最も低い地位にある人々のことを指しているのです。

・ユダヤ人の祈祷師(きとうし):ユダヤ教やキリスト教の著名な指導者たちの名前を使って悪霊を追い出していました(使徒19:11-20)。

・キリストの弟子:12使徒、宣教師たち、最近改宗した信徒たち、社会的地位の低い人々、経済的困窮者たち、信仰の弱い人々などがいました。

・悪魔:サタン、誘惑する者、あるいは告発する者と呼ばれています。新約聖書には多く登場します。マタイ4:1-11、ルカ10:18、19、ヨハネ13:2、27、第1ペテロ5:8、ヨハネの黙示録12、13:1-4、20:1-3、7-10などです。ヨブ記1,2も参照してください。
           
・イエス様の憤(いきどお)り:他にも「イエスは怒って人々を見回し」があります(マルコ3:5)。日本語訳では「怒り」を和らげた表現になっている個所も見られるのです。原文に沿って訳せば「深く憐れんで」は「怒りに満ちて」(マルコ1:41)、「厳しく注意して」は「怒りで鼻を鳴らし」(マルコ1:43)となります。

(メッセージの要旨)


*聖書の個所は異なった話題にも関わらず意味するところが共通しているのです。12弟子はお互いに自分の信仰心の篤さを誇っていたのです。キリストの信徒としての生き方から完全に逸脱(いつだつ)しているのです。当時、子供や妻(女性)は父親や夫の所有物のように扱われていました。イエス様は使徒たちの不信仰を戒めるために、軽んじられている子供を例に挙げられたのです。キリスト信仰の根本理念は最も低い地位に置かれている人々に心を砕くことなのです。信仰の有無(うむ)は律法の認識ではなく、「行い」によって証明されるのです。「永遠の命」はイエス様を「救い主」として信じる信仰によって与えられるのです。ただ、「救い」に与った信徒たちには責務-人に仕えること-があるのです。使徒のヨハネには自分たちだけがキリスト信仰の本流に属しているという尊大さがあるのです。イエス様は傲慢(ごうまん)な態度を叱責(しっせき)されたのです。イエス様のお側で教えを受けていた12弟子すら福音の真理を理解していないのです。キリスト信仰を代表しているかのように自負する教派や信徒たちが見られるのです。自己に対する過大評価は大きな罪なのです。自分の組織や信仰を自負しても、他の人から賞賛を受けても、終わりの時における「祝福」や「救い」の保証にはならないのです。イエス様が神様から委(ゆだ)ねられた権威に基づいてそれぞれを裁かれるからです(ヨハネ5:22)。罪を自覚し悔い改めるのです。隣人に奉仕するのです。神様はこれらの人を憐れんで下さるのです。イエス様の教えを心に刻むのです。


*直前にイエス様は「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言われたのです。ところが、使徒たちは「だれがいちばん偉いか」について議論していたのです。グループに属する人々がこのテーマで論じることは一般的に行われていました。使徒たちはイエス様と寝食を共にしていました。イエス様が地上に遣わされた意味を誰よりも知っているのです。ところが、彼らの関心事は天上と地上の地位や名声のことなのです。イエス様の苦悩や悲しみへの無関心に驚かされるのです。今日のキリストの信徒たちも例外ではないのです。「自分の救い」に腐心しているのです。イエス様のお言葉を深刻に受け止めるのです。「神の国」(天の国)-神様の支配-において一番偉い人とは仕えられる人ではなく、仕える人なのです。律法を厳格に守っている人々から蔑(さげす)まれ、見捨てられた人々-貧しい人、心身に障害のある人、徴税人、娼婦、罪人たち-は社会の隅で生きているのです。これらの人は「救い」(解放と自由)を求めているのです。別の個所においてキリストの信徒たちの安易な信仰理解に警鐘が鳴らされています。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることは出来ない」のです(マタイ18:3)。正しい信仰と行いがなければ人は「救い」に与(あずか)れないのです。キリスト信仰を標榜(ひょうぼう)する人々は子供たち-社会の底辺で喘(あえ)ぎ苦しむ人々-に視線を注ぐのです。これらの人の重荷を取り除くために共に歩むのです。「行い」によって自分を低くするのです。


*イエス様の真のお姿が歪(ゆが)められているのです。日本語訳がそれを助長している場合があるのです。大切なことを伝えられる時には怒りの感情を表されたのです。ある時、イエス様に触(ふ)れていただくために、人々が子供たちを連れて来ました。弟子たちはこれらの人を叱(しか)ったのです。ところが、イエス様は憤(いきどお)られたのです。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨(さまた)げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。・・」と言われたのです(マルコ10:13-16)。安息日に手の萎(な)えた人を癒(いや)すことに反対する人々(マルコ3:1-6)に、死んで四日も経ったラザロを甦(よみがえ)らし、死が人間を支配していること(ヨハネ11:28-44)に怒られたのです。「神の国」の福音(良い知らせ)は虐(しいた)げられた人々に優先的に届けられるのです。道端に座っていた二人の盲人はイエス様が通られると聞いたのです。「わたしたちを憐れんで下さい」と叫(さけ)んだのです。イエス様に従う大勢の群衆が彼らを黙(だま)らせようとしたのです。イエス様は二人を見えるようにされたのです。御業によって反論されたのです。彼らはイエス様の群れに加わったのです(マタイ20:29-34)。「神の国」に招かれる人々とは信仰心を誇る人々、律法や神学理論に精通した人々ではないのです。イエス様の教えと力ある業に神様が共におられることを信じた人々です。「神様の御心」を実現する人々は祝福されるのです。これらの人に一杯の水を与えた人々も同じなのです。


*天使の中にも傲慢によって天上から追放された者がいたのです。それがサタンです。「さて、天で戦いが起こった。(大天使)ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、・・地上に投げ落とされたのである。・・」(ヨハネの黙示録12:7-9)。天使は神様に仕える天的な存在です。イエス様の誕生に関わって天使が遣わされました。「神様の御心」を伝える大きな役割を果たしたのです。ところが、天使も罪を犯すのです。堕落(だらく)した天使と呼ばれています。預言者イザヤが「かつて、お前は心に思った。・・雲の頂に登っていと高き者(全能の神)のようになろうと。・・」と表現しています(イザヤ書14:12-15)。神様と等しい者になろうとすること-神様を軽視する思いと振舞い-は最も大きな罪なのです。神様は傲慢の罪に厳しい罰を下されるのです。人は道徳的な罪に厳しいのです。傲慢の罪には寛大なのです。サタンのように自分を神様に等しい者としないまでも、神様に最も近い人間として振舞うことが「信仰の名」によって行われているのです。イエス様が警告されたように傲慢の罪は重大な結果をもたらすのです。サタンは赦されることなく天から追放されたのです。身近な弟子であっても悔い改めなければ「神の国」に入れないのです。キリスト信仰によって「救い」が確定した訳ではないのです。胆(きも)に銘じるのです。

*罪を犯さない人はいないのです。ところが、罪の自覚がなければその人にとって悔い改める理由はないのです。「神の国」における評価にこの世の基準は適用されないのです。「すべての人に仕える者になりなさい」を実行した人々だけがそれを得るのです。傲慢の罪は他の様々な罪よりもはるかに大きいのです。イエス様のご命令は使徒たちとって意外でした。彼らは指摘されて初めて「神の国」に入れないほどの大きな罪を犯していることに気づいたのです。人は信仰によって無条件で「神の国」に受け入れられるのではないのです。キリストの信徒たちには信仰の内実を証明する「行い」が求められるのです。キリスト信仰に生きることは簡単ではないのです。神様は人々が尊ぶもの-社会的地位や名声など-を忌み嫌われるのです(ルカ16:15)。神様の前に自らを低くすること、貧しい人々や虐げられた人々(隣人)に奉仕することを命じておられるのです(マタイ22:37-40)。神様と富の両方に仕えることは出来ないのです(ルカ16:13)。富を必要としている人々に施すことが義務付けられているのです。これらを実行することが「永遠の命」に至る道なのです。罪とは「神様の御心」から離れて生きていることです。特に、傲慢の罪は死に至る病です。キリストの信徒たちは日々自己を検証するのです。ただ、傲慢の罪の重大さに気づいている人は極めて少ないのです。イエス様のお言葉に耳を傾けるのです。克服する方法が示されているのです。視点を変えるのです。社会の底辺で苦しんでいる人々に目を向けるのです。全力で仕えるのです。

2025年08月31日

「声なき叫び」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書13章10節から21節 

安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている(ある霊によって手足を不自由にされている)女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった(体が前かがみになり、まっすぐに伸ばすことが出来なかった)。イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治(なお)った」と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治(なお)してもらうがよい。安息日はいけない。」しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日に(も)牛やろばを飼い葉桶(おけ)から解いて(小屋から出して)、水を飲ませに引いて行くではないか。この女(婦人)はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛(しば)られていたのだ。安息日であっても、その束縛(そくばく)から解いてやるべきではなかったのか。」こう言われると、反対者(敵対者たち)は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。そこで、イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔(ま)くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」また言われた。「神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨(ふく)れる。」


(注)


・日本語訳の問題点:


●「腰の曲がったまま・・」は意訳です。障害の詳細は不明です。


●「女」も「婦人」も原語は同じです。どちらかに統一すべきです。翻訳者の考え方が表れています。


・会堂長:礼拝を司(つかさど)り、建物や施設の管理を担(にな)っていました。


・安息日の規定:モーセの「十戒」にあります。


■安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなた(がた)の仕事をし、七日目は、あなた(がた)の神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなた(がた)も、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなた(がた)の町の門の中に寄留する人々も同様である(出エジプト記20:8-10)。これは人間のために設けられたのです。神様の深いご配慮なのです。


・アブラハムの娘:神様が選ばれた人々の一人であることを確認されたお言葉です。


■主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪(のろ)う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」(創世記12:1-3)


■イエス様は悔い改めた徴税人の頭ザアカイも「アブラハムの子」と呼ばれました(ルカ19:9)。


■悪霊と病気は深く関係しています。「癒しの業」はイエス様が悪魔の力に打ち勝っていることを証明しているのです。女性の弟子マグラダのマリアは「七つの悪霊」を追い出していただいた人です(ルカ8:4)。


・サタン:悪霊の頭です。悪魔と同じ意味を表しています。人間の罪を「告発する者」と呼ばれていました(ヨブ記1:6)。


■七十二人(弟子たち)は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻(いなずま)のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威(けんい)を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記(しる)されていることを喜びなさい。」(ルカ10:17-20)


・神の国(天の国):旧・新約聖書を貫く信仰の基本理念です。誤解されているような死後に行く「天国」のことではないのです。


●神様の全き支配のことです。神様が人間の心と社会の隅々において真に崇められ、あらゆる価値の基準とされることです。それらを通して正義と平和の秩序が実現されることなのです。旧約聖書は神の国の到来を待ち望むイスラエルの信仰を書き記したものです。神様はイスラエルの民をエジプト人の支配から救い出し、砂漠を経て約束の地へ導かれたのです。ご自分に頼る者を決して見捨てられないのです。どのような地上の力にも勝っておられるのです。信頼するに値するお方なのです。その後も、イスラエルの民は異国の支配下で弾圧され、分断され、捕囚の地に連れていかれたのです。しかし、神様はイスラエルと共におられたのです。民の身の上を思い,心を痛められたのです。イスラエルの民はこの神様がいつの日か、必ず自分たちを解放して下さることを信じたのです。イエス様は「神の国」の到来を目に見える形で福音(良い知らせ)として証しされたのです。


・パン種:パンの製造に使用する酵母(こうぼ)です。


・1サトン:約12.8リットルです。


(メッセージの要旨)


*イスラエルは歴史的に家父長社会です。男性が女性を圧倒的に支配しているのです。女性は男性(父親あるいは夫)の財産の一部として扱われたのです(出エジプト記22:15-16)。夫が妻に不満がある場合は簡単に離縁することが出来たのです(出エジプト記21:7-11)。女性は悪霊に取りつかれていました。手足も不自由な障害者だったのです。「生まれつきの盲人」を見て、弟子たちがイエス様に「誰が罪を犯したからですか」と尋(たず)ねているのです(ヨハネ9:1-2)。心身の障害は罪の結果であると考えられていたからです。女性の苦しみや悲しみは想像を絶するのです。会堂長や彼の信仰理解に同調する人々はイエス様を非難したのです。イエス様は彼らを偽善者たちと呼ばれたのです。人間よりも家畜の方を大切にしているからです。偽善は傲慢(ごうまん)から生まれるのです。イエス様は兄弟姉妹を裁く弟子たちにも「まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑(くず)を取り除くことができる」と言われたのです(マタイ7:5)。信仰を自負する人々が偽善に陥(おちい)っているのです。罪人を裁く資格があるかのように尊大になっているのです。罪の範囲を自分で決めているのです。してはならないことをすれば罪です。しかし、するべきことをしなければそれも罪なのです。イエス様に裁きが一切委(ゆだ)ねられていることを想起すべきです(ヨハネ5:22)。キリストの信徒たちは「声なき叫び」に耳を傾けるのです。「神の国」の建設に参画するのです。


*アメリカの西海岸にある都市シアトルでユダヤ教の礼拝に出席させていただいたことがありました。担当者の方によると、2000年前の礼拝様式と全く同じではないとのことでした。しかし、当時の状況を十分に追体験することが出来ました。印象に残ったことが幾つかあります。一部をご紹介します。会堂内の正面の壁の中に置かれたランプの両側に「十戒」が五戒に分けて掲示されていました。神様の戒めに忠実な人々はモーセの律法を大切にしておられることが分かるのです。礼拝のたびに「安息日を心に留め、これを聖別せよ」を確認されているのです(出エジプト記20:8)。イエス様はユダヤ人です。安息日に会堂で礼拝することを常とされていました。聖書(旧約聖書)を朗読されることもあったのです(ルカ4:16)。今回は教師として教えられたのです。この点はキリスト信仰を考える上とても重要です。18年間も手足の不自由な女性が礼拝に出席していました。彼女はイエス様に願い事を申し出た訳けではないのです。イエス様の方から「癒しの業」を施(ほどこ)されたのです。これが福音なのです。ところが、礼拝の責任者である会堂長は群衆に律法の規定を説明しながら、間接的にイエス様を非難しているのです。すでに、イエス様は「安息日は人のために定められたこと」、「ご自身が安息日の主であること」を明言しておらます(マルコ2:27-28)。「神の国」が到来しているのです。ただ、「からし種」や「パン種」のように小さいのです。イエス様はキリストの信徒たちにそれらを「大きくしなさい」と言われたのです。


*新約聖書のヤコブの手紙は示唆(しさ)に富んでいます。「あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来(き)、また、汚(きたな)らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたは、こちらの席にお掛けください』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座(すわ)るかしていなさい』と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし・・たことになるのではありませんか」と書かれています(ヤコブ書2:2-4)。18年間も病の霊に取りつかれ、体に障害がある女性が会堂に来ても、会堂長や律法主義に固執(こしつ)する人々は彼女を罪人として蔑(さげす)むだけなのです。女性の苦悩や悲しみに関心を示すことはなかったのです。軽蔑(けいべつ)の眼差(まなざ)しに耐(た)えながら、会堂の隅(すみ)に立って祈りを捧げたのです。女性は会衆と同じ空間にいながら孤独でした。イエス様はこの人に声をかけられたのです。ヤコブが「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継(つ)ぐ者となさったではありませんか」と言っています(ヤコブ書2:5)。イエス様は「力ある業」を通して「神様の御心」を伝えられたのです。パウロは「自分のことを正しい人であると自負しても救いの保証にはならない」と言うのです(1コリント4:4)。誰にも人を裁く資格はないのです。「神様の御心」を実践した人々だけが「神の国」に迎えられるのです(マタイ7:21)。


*イエス様はご自身を「神の子」と信じる人々に模範(もはん)を示されたのです。障害のある人々、悪霊に悩まされている人々、徴税人たち、遊女たち、サマリア人たち、貧しい人々、不当に弾圧されている人々、罪人として蔑(さげすまれている人々-社会の中で排斥されている人々-の友になるように命じられたのです。ところが、教会はイエス様の教えをこの世に順応させるために工夫を凝(こ)らして来たのです。キリスト信仰がイエス様の「生き方」ではなく、時代の寵児(ちょうじ)となった宗教指導者たちや神学者たちが作成した教義(神学理論)によって語られているのです。律法学者たちやファリサイ派の人々の解釈がユダヤ教を支配したように、これらの人の信仰理解がキリスト信仰を説明する根拠になっているのです。キリスト信仰とは名ばかりで、金持ちや権力者たちの主張を正当化するために「尊い御名」が用いられているのです。アメリカで見られる「繁栄の神学」などを例として挙げることが出来るのです。イエス様は「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」と言われたのです。ご自身の言葉を聞き、それらを行う人を「・・岩の上に土台を置いて家を建てた人」と呼ばれるのです(ルカ6:46-48)。イエス様は人々の「声なき叫び」に心を砕(くだ)かれたのです。自ら声をかけられたのです。それぞれの重荷を取り除かれたのです。キリストの信徒たちはイエス様の「生き方」に倣(なら)うのです。苦難に喘(あえ)ぐ人々が来るのを待つのではなく、これらの人の所へ出向くのです。


*イエス様は「神の国」の福音についてたとえ話を用いて語られたのです。イザヤの預言(イザヤ書6:9-10)を引用してその理由を説明しておられます。神様は「・・あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない」と言われたのです(マタイ13:14-15)。イザヤの預言はイエス様の時代においても真実なのです。会堂長や彼に同調する人々は「聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない」のです。イエス様はご自身を信じられない人々に譲歩して、「わたしの業」を信じなさいと言われたのです(ヨハネ10:38)。しかし、たとえ死者が生き返っても信じないのです。一方、群衆-ほとんどが貧しく、教育の機会に恵まれなかった人々‐は「癒しの業」に「神の国」の到来を確信したのです。イエス様は「神の国」の宣教方法について教えられました。キリスト信仰とは教義や神学理論を学ぶことではないのです。イエス様の苦難のご生涯に目を向けることです。生と死と復活の事実をありのままに伝えることなのです。キリストの信徒たちにとってからし種を大きな木に成長させることやパン種によって大きなパンを作ることは任意ではないのです。大切な使命なのです。「声なき叫び」に耳を傾けるのです。苦しみの中にある人々の重荷を少しでも軽くするのです。自分に出来ることから実行するのです。

2025年08月24日

「平和と正義の実現」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書5章9節から12節及びイザヤ書32章17節から18節

平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。義(正義)のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである(マタイによる福音書5章9節から12節)

正義が造り出すものは平和であり/正義が生み出すものは/とこしえに安らかな信頼である。わが民は平和の住みか、安らかな宿/憂いなき休息の場所に住まう(イザヤ書32章17節から18節)。

(注)

・イザヤの預言:平和について

■終わりの日に・・/主は国々の間を裁き/多くの民のために判決を下される。/彼らはその剣を鋤(すき)に/その槍を鎌(かま)に打ち直す。/国は国に向かって剣を上げず/もはや戦いを学ぶことはない(イザヤ書2:4)。

国連本部の前の道路を挟んで向かい側に「英文の碑」(日本語訳と同じ内容)があります。

THEY SHALL BEAT THEIR SWORDS INTO
PLOWSHARES. AND THEIR SPEARS INTO
PRUNING HOOKS. NATION SHALL NOT LIFT
UP SWORD AGAINST NATION. NEITHER
SHALL THEY LEARN WAR ANY MORE.

          ISAIAHA

・平和の君と正義について:


■万軍の主はこう言われる。「ぶどうの残りを摘むように/イスラエルの残りの者を摘み取れ。ぶどうを摘む者がするように/お前は、手をもう一度ぶどうの枝に伸ばせ。」誰に向かって語り、警告すれば/聞き入れるのだろうか。見よ、彼らの耳は無割礼で/耳を傾けることができない。見よ、主の言葉が彼らに臨んでも/それを侮り、受け入れようとしない。主の怒りでわたしは満たされ/それに耐えることに疲れ果てた。「それを注ぎ出せ/通りにいる幼子、若者の集いに。男も女も、長老も年寄りも必ず捕らえられる。家も畑も妻もすべて他人の手に渡る。この国に住む者に対して/わたしが手を伸ばすからだ」と主は言われる。「身分の低い者から高い者に至るまで/皆、利をむさぼり/預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らは、わが民の破滅(傷)を手軽に治療して/平和がないのに、『平和、平和』と言う。・・・(エレミヤ書6:9-14)

 

・裁きの判断基準:

■それから、王は左側にいる人たちにも言う。「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。」そこで、王は答える。「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。(マタイ25:41-46)。

・国連憲章:

国際連合の基本事項を規定した条約。第二次世界大戦中の連合国の協力を基盤とする戦後平和維持の理想を実現し、かつ国際連盟の失敗の教訓を生かした世界平和機構の設立を目的とするもので、1945年6月のサンフランシスコ平和会議で採択され、同年10月に発効した(日本大百科全書)

・UNHCR:

United Nation High Commissioner for Refugee の略称です。日本名は「国連高等難民弁務官事務所」です。1950年に設立された国連機関です。1945年、1981年にノーベル平和賞を受賞しています。国連UNHCR協会は日本における公式支援窓口です。

・日本国憲法第9条:

(1)日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又(また)は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

(2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

・非核三原則:「核兵器を持たず、造らず、持ち込ませず」のことです。

(メッセージの要旨)

*イエス様は「平和を実現する人々は神の子と呼ばれる」と言われたのです。キリスト信仰は行いを求めるのです。「神様の御心」に適(かな)った行いが人を「救い」に与らせるのです。平和を実現することはキリストの信徒たちの使命なのです。ただ、正義を欠いた平和は偽(いつわ)りなのです。この点は特に重要です。ユダヤ人たちの苦難の歴史が証明しているのです。イスラエルが南北の王国に分裂している時代がありました。預言者イザヤは南王国ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世において活動しました。期間は紀元前738年から688年の頃です。北王国イスラエルはホシェア王の時代、自分たちの神様を捨てて偶像に仕えたのです。中心都市サマリアはアッシリアによって陥落(かんらく)したのです(紀元前722/721年)。南のユダ王国もアッシリアの脅威(きょうい)に怯(おび)えていました。イザヤはヒゼキヤ王に先祖が行って失敗した政治的、軍事的な画策をやめて、神様により頼むことを助言したのです。ヒゼキヤ王は神様に祈ったのです。祈りは聞き入れられたのです。一夜にしてアッシリア軍18万五千人を撃(う)たれたのです。「・・主は平和を宣言されます/御自分の民に、主の慈(いつく)しみに生きる人々に・・慈しみとまことは出会い/正義と平和は口づけし、まことは地から萌(も)えいで/正義は天から注がれます」と明言するのです(詩編85:9-12)。今年は戦後80年です。キリストの信徒たちは最も重要な戒め‐神様と隣人を愛すること-を心に刻み、平和と正義の実現に取り組むのです。

*日本の8月は平和について考える良い機会です。6日は広島に、9日には長崎に原子爆弾が投下されました。両市でおよそ20万人の市民が犠牲になったのです。15日は戦争が終わった日ではないのです。侵略戦争を遂行した軍部と軍国主義が敗北した日です。敗戦の意味を考える日なのです。平和を実現する上でこれらの視点は決定的に重要です。戦争で約310万人の尊(とおと)い命が失われたのです。イエス様は「山上の説教」において群衆や弟子たちに平和の尊さを教えられました。平和は待っているだけでは訪れないのです。人々の不断の努力が不可欠なのです。平和とは現状を肯定することではないのです。争いがないことでもないのです。すべてにおいて正義と公平が貫かれていることに他ならないのです。イエス様は権力者たちの不信仰と腐敗を激しく非難されたのです。ご自身に倣(なら)って抑圧と搾取と闘っている人々を祝福されるのです。キリスト信仰を標榜(ひょうぼう)する信徒たちにも、飢(う)えに苦しむ人々、無一物の人々、不当に束縛されている人々の窮状(きゅうじょう)を救うために「何をしたか」と問われるのです。すべての人が大切にされ、豊かな生活を送れるように-戦争や紛争のない平和な社会を実現するために-自分に出来ることを実践することが求められているのです。イエス様は「この最も小さい者(たち)の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」と言われたのです。イエス様は再び地上に来られるのです。平和と正義を実現するための働きがその人の「救い」の保証となるのです。

*イエス様は神様の子供たちが「神様と隣人」を愛して生きるように教えられました。平和と正義を実現するという責務が与えられたのです。世界の多くの国において、信頼と公平が軽んじられ、国家間の争いが絶えないのです。政治的抑圧と富の偏在が顕著になっているのです。国内においても格差が拡大しているのです。近年、紛争を解決するためには武力行使も止むを得ないとする雰囲気が漂(ただよ)っているのです。日本は平和憲法を高く掲げ、唯一の被爆国として、戦争の残酷さと悲惨さを発信するのです。非核三原則を堅持し、原爆投下が人類に対する大罪であったことを訴えるのです。同時に、日本の軍部が近隣のアジア諸国を侵略し、真珠湾を攻撃し、人々の尊い命を奪い、多大な損害を与えたのです。これらの事実を曖昧(あいまい)にしてはならないのです。平和運動は思想・信条の垣根を越えて進められているのです。イエス様は平和の実現のために奔走(ほんそう)しているすべての人に希望を与えられたのです。平和は正義の裏付けを必要とするのです。簡単なことではないのです。正義を追求すれば既得権益に執着(しゅうちゃく)する人々と必然的に対立するのです。厳しい試練に遭遇(そうぐう)するのです。不断の闘い(意思表示)がなければ平和を勝ち取ることは出来ないのです。キリスト信仰が変容されているのです。多くの人が誤解しているのです。信仰には行いが伴わなければならないのです。行いのない信仰はそれだけでは死んでいるのです(ヤコブ書2:18)。「神様の御心」に適(かな)う人々が「神の子」になるのです。

*国連(国際連合)は数千万の人々が犠牲になった第二次世界大戦の深い反省の中から誕生しました(1945年10月24日)。国際間の平和と安全の推進、国際協力のために設立された機関です。日本は1956年に加盟しました。世界平和を具体化するために心血を注いだアメリカのルーズベルト大統領は自ら提案した「国連」という名称を見ることなく亡くなりました(1945年4月12日)。後を継いだトルーマン大統領は戦後処理に全力を傾注したのです。戦争終結後を見据えて国の力を誇示するため、映画「ひろしま」にあるように、広島、長崎を新兵器(原子爆弾)の実験場にすることを認めたのです。国連ビルの前にはイザヤの預言が刻(きざ)まれたモニュメントが建っています。世界に向けて信仰の観点から平和を訴え続けているのです。本部の中庭には日本が寄贈した平和の鐘(鐘楼)が置かれています。現実はイザヤの言葉通りになっていないのです。世界の至るところで戦争や紛争が起こっており、平和の要(かなめ)としての国連が大国の意向に振り回されているのです。UNHCRの「2024活動報告書」(2025年6月)によると、1億2260万人‐日本の総人口に匹敵する数の人々‐が止まない戦争や暴力行為による情勢の悪化、気候変動により、故郷を追われているのです。レバノンでの軍事攻撃、政情不安に苦しむシリア、戦争が始まってから3年目を迎えているウクライナでも厳しい状況は続き、ガザは人道危機に直面しています。これらの事態に無関心でいることは罪なのです。キリストの信徒たちは出来ることをするのです。

*平和と正義はキリスト信仰における根本理念です。ところが、「救い」と無関係であるかのように理解されているのです。イエス様の愛の教えに反しているとして、それらを実現するための闘いから距離を置いているのです。結果として原因である不公正や格差を容認する側に立っているのです。「愛の教え」を説かれたイエス様は「平和を実現する人々は幸いである」とも言われたのです。旧・新訳聖書を自分の都合に合わせて解釈してはならないのです。イエス様はご自身の権威に基づいて説明し、「生き方」を通して証されたのです。人は宗教的儀式への参加、聖句の暗唱力や礼拝出席の頻度(ひんど)によって「救い」に与るのではないのです。飢えや病気で苦しむ人々のために何を捧げたか、内戦や紛争で荒廃した地域や国において自由を奪われた人々のためにどのように取り組んだかによって、その人の「救い」が判断されるのです。平和を実現するためには正義の確立が不可欠です。正義を追求すれば抑圧者たちや不当な利益を得ている人々との対立は避けられないのです。不正や腐敗を告発すれば迫害されるのです。身に危険が及ぶことさえあるのです。「正義の闘い」なくして「真の平和」は訪れないのです。平和運動は盾(むじゅん)の中で行われているのです。イエス様が「中立の立場」を取られることはなかったのです。貧しい人々や虐(しいた)げられた人々の側に立たれたのです。イザヤと同様に「神様の御心」に反した現状を鋭く批判されたのです。キリストの信徒たちはイエス様の御跡を辿(たど)るのです。平和と正義を希求するのです。

2025年08月10日

「完全な者となりなさい」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書5章38節から48節

「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬(ほお)を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める(乞い願う)者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

(注)

・日本語訳:聖書を読む時、多くの場合日本語訳によってその内容を理解するのです。ところが、原語によっては複数の訳が可能なのです。典型的な例が日本語に訳された「義」という言葉です。主に倫理や道徳を表す言葉として用いられているのです。しかし、この言葉には「正義」という意味があるのです。キリスト信仰が誤解されている一つの要因に翻訳(ほんやく)の問題があるのです。神様とイエス様は正義と愛を大切にされるのです。イエス様が宣教された「神の国」の福音に「正義の視点」を加えるのです。


・『目には目を、歯には歯を』:申命記19:21を参照して下さい。律法は被害に比例する報復を認めています。その趣旨は怒りによる過度の報復を抑制することにあるのです。

■もし、その他の損傷があるならば、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。(出エジプト記21:23-25)


・1ミリオン:約1,480メートルです。

・隣人を愛し、敵を憎め:「敵を憎め」は旧約聖書に該当(がいとう)する箇所が見当たらないのです。詩編が参考になります。


■復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。(レビ記19:18)


■どうか神よ、逆らう者を打ち滅ぼしてください。わたしを離れよ、流血を謀(はか)る者。たくらみをもって御名を唱え/あなたの町々をむなしくしてしまう者。主よ、あなたを憎む者をわたしも憎み/あなたに立ち向かう者を忌むべきものとし 激しい憎しみをもって彼らを憎み/彼らをわたしの敵とします (詩篇139:19-22)

・敵を愛し:

■あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇(かわ)いているなら水を飲ませよ。こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる(箴言「しんげん」25:21-22)。


●「炭火を頭に積む」は人の親切心を表現しています。炭の火が消えた時、人は近隣の誰かに「燃えた炭火」を借りることになります。鍋に入れ頭の上に載(の)せて持ち帰ったのです。

 

・イエス様と律法:


■わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義(正義)が律法学者やファリサイ派の人々の義(正義)にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。(マタイ5:17-20)


・イエス様と暴力(武力):


■イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」 (マタイ26:47-54)


●十二軍団:ローマ軍の一軍団(レギオン)は6000人の歩兵と120人の騎馬兵で編成されています。相当大きな軍隊です。


・完全な者:神様を愛し、戒めを守り、隣人を愛し、道徳的に正しい生活を送る人です(レビ記19)。自分の持ち物に執着(しゅうちゃく)せず、貧しい人々に施し、イエス様と共に歩む人のことです(マタイ19:21)。行いのない信仰は空(むな)しいのです。


(メッセージの要旨)

*神様はアブラハムに「息子たちとその子孫に『主の道』を守らせ、主に従って『正義』を行わせること」を命じられました(創世記18:19)。イエス様も「何よりもまず、神の国(神様の支配)と神の義(神様の正義)を求めなさい」と言われたのです(マタイ6:33)。旧・新約聖書は信仰の原点が「正義の実現」にあることを伝えているのです。ところが、キリスト信仰が「赦しの信仰」としてのみ理解されているのです。根拠とされているのが今日の聖書の個所です。イエス様が福音を要約された「山上の説教」(マタイ5-7)の一説です。キリストの信徒の中には個人の倫理的、道徳的指針としてだけではなく、社会的な問題への対応方法-判断基準-としている方も多いのです。社会的、政治的、経済的な矛盾を究明し、現状の打破のために立ち上がることはないのです。ひたすら耐えるのです。イエス様は社会的地位や権力のない人々の側に立たれたのです。立ち位置を明確にしておられるのです。権力者たちや金持たちから不当な扱いを受けている貧しい人々や虐げられた人々に「抵抗する方法」を教えておられるのです。ある金持ちの青年は律法を厳格に守っていました。ところが、「永遠の命」の確信に至らなかったのです。「何か欠けているでしょうか」と質問したのです。イエス様は「完全になりたいなら、持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と答えられたのです(マタイ19:16-30)。「完全になる」とは「神様の御心」の実現のために行動することです。それぞれが正義を貫き、慈悲に満ち、誠実に生きることなのです。


*『目には目を、歯には歯を』が復讐を正当化する根拠として用いられているのです。「戒め」には神様の深い思いが込められているのです。目に損傷を受けた人が怒りのあまり傷つけた相手を殺してしまうこともあったのです。過度の復讐を抑制するために定められたのがこの「戒め」なのです。イエス様も「わたしが来たのは律法や預言者を・・・廃止するためではなく、完成するためである」と言われたのです。「愛」によって律法を解釈されたのです。しかし、イエス様のお言葉の意味が誤解されているのです。「愛すること」を「赦すこと」と同一視しているのです。「悪人に手向かってはならない」が「悪と闘わないこと」であるかのように解釈されているのです。沈黙、無批判、忍耐によって「神様の介入」を待つだけなのです。そこに「赦し」はあっても、悪人たちや迫害する者たちに抵抗し、抗議するという「正義」の観点が見られないのです。「無抵抗の赦し」のみが強調され、苦難に喘(あえ)ぐ人々の「無言の意思表示」が見落とされているのです。イエス様はご生涯を通して貧しい人々や虐げられた人々と共に歩まれ、これらの人の重荷を担(にな)われたのです。他方、権力者(信仰の指導者)たちの偽善や腐敗、富んでいる人たちの不信仰や不正を厳しく非難されたのです。弟子たちにはご自身に倣(なら)って生きることを求められたのです。敵や迫害する者たち、悪人たちの罪を無批判的に容認し、赦してはならないのです。抑圧や不正には断固抗議するのです。暴力に頼らす状況に応じた方法で抵抗するのです。イエス様の教えなのです。


*旧・新約聖書が伝えているように神様は「正義」と「愛」を大切にされるお方なのです。イエス様は「神様の御心」に沿って貧しい人々や虐げられた人々の友となられたのです。一方、これらの人を抑圧し、搾取する指導者(権力者)たちとは激しく対峙(たいじ)されたのです。この姿勢を十字架の死に至るまで貫かれたのです。迫害が予想される場合であっても律法違反や不当な扱いを告発されたのです。「・・左の頬をも向けなさい」は無限の赦しではないのです。不正や暴力を断じて許さないという意志表明なのです。ユダヤ人たちの慣習を知ればこのお言葉の意味が分かるのです。人々は決して左手を使わないのです。左手は「汚れている」からです。相手の右の頬を打つためには工夫がいるのです。右手の甲を用いるのです。目的は相手を物理的に傷つけるというよりは侮辱することにあったのです。双方の力に大きな差がある時は直接的な反撃は暴力をエスカレートさせ、致命的な事態を招くのです。打たれた人は屈辱的な扱いに耐えるのです。しかし、イエス様は左の頬を相手に向けなさいと言われるのです。左の頬を向けることによって静かに抵抗するのです。相手に非人間性を自覚させるのです。同時に自分の尊厳を取り戻すのです。南アフリカに有色人種を差別する人種隔離制度(アパルトヘイト)-1991年6月まで存続‐がありました。黒人女性が子供たちと歩いていました。白人の男が彼女の顔に唾(つば)を吐(は)いたのです。彼女は「ありがとう、子供たちにも同じようにして下さい」と言ったのです。男は恥じて逃げ去ったのです。


*貧しいユダヤ人たちは二つの服しか持っていないのです。上着ともう一つは下着です。人々は税金や負債を支払うために土地を担保にしてお金を借りたのです。支払いが不能になると土地は没収されたのです。神様は「もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない」と命じられたのです(出エジプト記22:24)。金貸しは律法に違反しているのです。下着を担保にしてお金を借りていれば、上着の他に担保となる物は残っていないのです。神様は貧しい人々の窮状をご存じです。「もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである」と言われるのです(出エジプト記22:25-26)。「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」は善意や好意の勧めではないのです。お言葉が金貸しに対する究極の非難であることは明白です。イエス様に従う人々のほとんどが貧しかったのです。教育の機会にも恵まれていなかったのです。金持たちの横暴と悪行から目を逸(そ)らせてはならないのです。イエス様は彼らの貪欲と不正を告発するために「裸(はだか)になりなさい」と言われるのです。持っている人々にとって有利に働く社会・政治・経済の仕組みを改めさせるのです。それぞれに覚悟が必要なのです。


*ローマ軍の兵士には自分の荷物を約1,5㎞ユダヤ人に運ばせることが認められていました。危険な仕事や作業も多かったのです。家族の前で徴用されることはその人にとって耐え難いことでした。「そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた」が当時の様子を伝えています(マルコ15:21)。イエス様は人間の尊厳を守るために力ある者たちとの闘い方について教えられたのです。暴力ではなく、「非暴力」によって闘うのです。「悪人に手向かってはならない」、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」が誤解されているのです。闘わず悪に屈服することではないのです。非暴力的な手段によって悪人や敵に「正義」や「良心」を想起させることなのです。キリストの信徒たちには「神様の御心」を実現する責務があるのです。敬虔(けいけん)さだけではないのです。社会・政治・経済の公平と平等を追求するのです。歪(ゆが)められた秩序を変革するのです。敵や迫害する者たち、悪人たちの不当性や非人間性に抵抗し、抗議することは当然なのです。同時に、彼らが悔い改めて神様の下へ導かれることを心から祈るのです。キリスト信仰の真髄(しんずい)は律法の中で最も重要な「神様と隣人への愛」を実践することです。「神の国」の福音が恣意的(しいてき)に変容されているのです。「赦し」のみに縮小されているのです。しかし、旧・新約聖書のどこにも「正義」を欠いた「赦し」はないのです。胆(きも)に銘じるのです。

 

2025年08月03日

「あなたがたを休ませてあげよう」

聖書の個所(Bible Reading)マタイによる福音書11章20節から30節 


それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布(あらぬの)をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。また、カファルナウム、お前は、/天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府(よみ)にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」


そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者(たち)には隠して、幼子のような者(たち)にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適(かな)うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者(子が示すために選んだ者たち)のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜(けんそん)な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」


(注)


・数多くの奇跡:イエス様は牢獄の洗礼者ヨハネが遣(つか)わした弟子たちに「目の見えない人(人々)は見え、足の不自由な人(人々)は歩き、重い皮膚病を患っている人(人々)は清くなり、耳の聞こえない人(人々)は聞こえ、死者(たち)は生き返り、貧しい人(人々)は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」と言われました(マタイ11:4-5)。


・コラジンとベトサイダ:ガリラヤのユダヤ人の町です。新共同訳聖書の巻末の地図を参照して下さい。


・ティルスとシドン:地中海沿岸の異邦人の町です。新共同訳聖書の巻末の地図を参照して下さい。

・カファルナウム:ガリラヤ湖の近くにある漁業、農業、貿易を中心とする町です。イエス様の宣教の拠点となりました。新共同訳聖書の巻末の地図を参照して下さい。


・ソドム:「裁きの火」で滅ぼされた悪に満ちた町です。創世記19:1-28をお読み下さい。場所は不明です。


・不幸だ:「災いあれ」と訳されるべき言葉です。イエス様のお怒りを薄めてはならないのです。


・粗布:山羊あるいはラクダの毛で作られた黒色の衣服のことです。創世記37:34をご一読下さい。


・陰府:「死者たちの世界」を表しています。


・これらのこと:福音の真理は人間の知識や知恵ではなく、信仰によって理解されるのです。「神の国」(天の国)-神様の支配-が到来しているので。福音は砂粒のように小さい「からし種」として蒔かれたのです。やがて鳥が止まるほどの大きな木に成長するのです。すなわち、イエス様が再び地上に来られる時には「新しい天地創造」(この世の終わり)として完成するのです。


・幼子のような者:イエス様の弟子たちのことです。指導者たちのように教育の機会に恵まれていないのです。信仰によってイエス様を「救い主」として受け入れたのです。


・謙遜な者:イエス様は謙遜であることを自慢(じまん)されたのではないのです。律法を人々の重荷にするファリサイ派の人々や律法学者たちとの違いを明確にされたのです。戒めを「愛」によって解釈されたのです。


・軛(くびき):元々牛(動物)を共同で作業をさせるために用いられた木製の横木のことです。歩調が合えば目的を容易に実現出来るのです。人々は神様の軛を拒否し、指導者たちは律法を利用して人々を支配するのです。

■主よ、御目は/真実を求めておられるではありませんか。彼ら(イスラエルとユダの家)を打たれても、彼らは痛みを覚えず/彼らを打ちのめされても/彼らは懲らしめを受け入れず/その顔を岩よりも固くして/立ち帰ることを拒みました。わたし(エレミヤ)は思った。「これは身分の低い人々で、彼らは無知なのだ。主の道、神の掟を知らない。身分の高い人々を訪れて語り合ってみよう。彼らなら/主の道、神の掟を知っているはずだ」と。だが、彼らも同様に軛を折り/綱を断ち切っていた(エレミヤ書5:3-5)。

■彼ら(律法学者たちやファリサイ派の人々)は背負いきれない重荷(ユダヤ教の律法)をまとめ、人(人々)の肩に載せるが、自分(たち)ではそれ(ら)を動かすために、指一本貸そうともしない(マタイ23:4)。

・人間の言い伝え:ファリサイ派の人々は神様がモーセを通してシナイ山で与えられた文字による律法と共に、口頭で受け継がれて来た長老たちの律法解釈を重視したのです。マタイ15:1-9をお読み下さい。

(メッセージの要旨)


*イエス様は安息日を軽んじ神様を父と呼ばれたのです。しかも、ご自身と神様とを等しい者とされたのです。イエス様の言動はユダヤ教の伝統に慣れ親しんだ人々にとって許しがたいことでした。指導者たちと彼らに同調する人々は律法の規定(レビ記24:16)に従って、イエス様を冒涜(ぼうとく)の罪で殺そうとするのです。両者の間に妥協点はないのです。イエス様の権威に対する応答がその人の「救い」を決定するのです。イエス様の証しは教育の機会に恵まれなかった人々の信仰の妨(さまた)げにはならなかったのです。「神様のお言葉」を素直に受け入れたのです(ヨハネ10:22-30。一方、「律法の解釈」が知恵ある者や賢い者たちによって変容されているのです。キリスト信仰がイエス様の「生き方」や「力ある業(奇跡)」からではなく、抽象的な神学理論や教義によって説明されているのです。キリスト信仰の本質が曖昧(あいまい)になり、誤解されることの原因になっているのです。イエス様は弟子になることを願う人々に「枕する(寝る)ところがない」、「父を葬(ほうむ)ることも出来ない」、「家族にいとまごいにすら行けない」と言われたのです(ルカ9:58-61)。キリスト信仰に生きる人々に苦難は避けられないのです。信仰を貫く覚悟が求められているのです。ユダヤはローマ帝国の支配下にありました。人々は圧政と重税に喘(あえい)いでいたのです。医学の未発達の故に心身の障害にも苦しんでいたのです。イエス様はこれらの人に休息を与えられるのです、勇気と力を得た人々は再び立ち上がるのです。


*イエス様はお育ちになったナザレを離れ、湖畔の町カファルナウムに来て住まわれたのです。「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣教を開始されたのです。近郊の町コラジンやベトサイダにも「福音の種」が蒔(ま)かれたのです。「重い皮膚病を患っている人」、「中風の人」、「長血を患っている女性」を癒(いや)されたのです。「二人の盲人」を見えるようにし、「口のきけない人」を話せるようにし、「会堂長の幼い娘」を生き返らされたのです。これらの「力ある業」に接してもユダヤ人の多くはイエス様を信じなかったのです。一方、イエス様は「イスラエルの中でさえこれほどの信仰を見たことがない」と言って、異邦人であるローマ軍の百人隊長の信仰を誉(ほ)められたのです(マタイ8-9)。「福音の種」はどのような土地(町)にも蒔かれるのです。ある人は御国の言葉を聞いても悟(さと)らなかったのです。悪魔が来て心の中に蒔かれたものを奪い取ったからです。ある人は御言葉を聞いて受け入れたのですが、根がないので艱難(かんなん)や迫害が起こるとすぐに躓(つまず)いたのです。ある人は御言葉を聞いても世の思い煩(わずら)いや富の誘惑が御言葉を覆(おお)い塞(ふさ)いだのです(マタイ13:18-22)。イエス様が教えられた「主の祈り」の中に「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」とあります(6:13)。自分の心と体を甘やかしてはならないのです。「祈り」によって弱さと闘うのです。恵みに感謝して豊かな実を結ぶのです。イエス様が共にいて支えて下さるのです。


*「神の国」の福音を理解するためにはこの世の知識や知恵は役に立たないのです。イエス様への確固とした信仰によって可能となるからです。指導者たちによって無知で無教養と蔑(さげす)まれた一般の民衆、律法や慣習(人間の言い伝え)を厳格に守ることの出来ない人々が信仰を通して「救い」に与るのです。この逆説が福音であり、真理なのです。しかも、「神様の御心」に適(かな)っているのです。「神の国」の到来は「神様の主権」がこの世に遍(あまね)く行き渡ることを宣言するのです。イエス様は「罪からの救い」に光を当てられただけではないのです。神様の御力によって人々の「現実の問題」を解決されたのです。最終的には人間の「全的な救い」を実現されるのです。健康な人たちではなく病気に苦しむ人々に、目や耳や身体の不自由な人々に、金持ちたちではなく貧しい人々に、自由な人たちではなく圧迫されている人々に福音を優先的に届けられているのです。「わたしと父とは一つである」と公言されたイエス様は疲れている人々や労苦している人々に心を砕(くだ)かれたのです。「わたしのもとに来なさい」と言ってこれらの人を招かれるのです。ただ、イエス様の呼びかけに応答することは簡単ではないのです。祭司たちの不信仰と偽善が社会に蔓延(まんえん)しているのです。エルサレム神殿が強盗の巣窟と化しているのです。家父長社会の伝統と慣習が連綿と受け継がれているのです。人々にキリスト信仰への一歩を躊躇(ちゅうちょ)させているのです。イエス様の憐れみは尽(つ)きないのです。待っておられるのです。


*疲れや重荷の原因は人それぞれです。多くの場合「個人的な問題」として理解されているのです。日本語訳聖書が「単数表記」されていることも影響しているのです。本文の「幼子のような者」がら「たち」が欠落しているのです。訳者の信仰理解が反映しているのです。ユダヤ人たちは強力な「信仰共同体」の中に生きているのです。聖書を正確に読むためにはこの視点に留意するのです。イエス様が家父長制度や奴隷制度の廃止に言及されたことはないのです。「隣人愛」に関する律法の規定によって実質的な平等を確保されたのです(マルコ12:29-31)。妻への離縁を罪とされたのです(マタイ5:32)。女性たちを弟子にし、福音教宣の一翼に加えられたのです(マタイ27:55-56)。ローマ帝国によるユダヤ人たちへの抑圧、神殿政治を担う指導者たちの不信仰、一握りの土地所有者や徴税人たちの強欲と無慈悲が人々を苦しめているのです。反逆罪で囚われた人々、借金で土地を奪われた農民たち、ぶどう園で働く貧しい賃金労働者たち、身体や精神に障害がある人々、家庭における労働力としてのみ評価された女性たち、主人に隷属する奴隷たちに様々な重荷を課しているのです。イエス様は人間の悲しみや憤りを直接経験されたのです(ヨハネ1:14)。再び地上に来る時(再臨)まで人々が遭遇する様々な困難についてご存じなのです。同じように十字架上で処刑される強盗(政治犯)に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われたのです(ルカ23:40-43)。イエス様はご自身の権威によって人々を裁かれるのです。


*キリスト信仰を標榜(ひょうぼう)する人々は何よりも「神の国」(神様の主権)と「神の義」(神様の正義)」を求めるのです(マタイ6:33)。これらの戒めをひたすら実践するのです。この世との摩擦(まさつ)や対立は避けられないのです。神様は人々の労苦をご存じです。解決策を示し、生きるために最低必要な物を用意して下さるのです。「平和」を実現する人々は戦争によって利益を得ている関係者たちから迫害されるのです。しかし、神の子たちと呼ばれるのです(マタイ5:9-10))。罪の重荷に耐えかねている人たちがいるのです。主の天使は母マリアに「(聖霊によって受胎する)この子は自分の民を罪から救う」と言ったのです(マタイ1:21)。イエス様は罪人たちを悔い改めさせ、「神の国」の福音に与らせるために来られたのです。疲れや重荷の原因を罪に求める人々がいるのです。イエス様は信仰理解の誤りを指摘して「神の業がこの人に現れるためである」と言われたのです(ヨハネ9:3)。イエス様はただご自身の下へ招かれたのです。しかも、来る人を選別しておられないのです。人を裁いてはならないのです。おごり高ぶりは「死に至る病」です。自分の「救い」を閉ざすだけなのです。イエス様は様々な重荷に喘(あえ)ぐ人々に「わたしのもとに来なさい」と言われるのです。共に軛を担って下さるのです。イエス様への絶対的な信頼によってその事実は確認されるのです。新たな力を得た人々はイエス様の御跡(みあと)を辿(たど)るのです。疲れている人々を支え、重荷を負っている人々に奉仕するのです。

2025年07月27日

「自分の十字架」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書10章26節から42節

(イエス様は12人の使徒を派遣するにあたり次のように命じられました。)

「人々を恐れてはならない。覆(おお)われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者(たち)が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担(にな)ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者(たち)は、それを失い、わたしのために命を失う者(たち)は、かえってそれを得るのである。」

「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報(むく)いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、こ(れら)の小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

(注)

・アサリオン:ローマの青銅貨幣です。1デナリオン銀貨の16分の1の価値です。1デナリオンは当時の平均的労働者の1日分の賃金に相当します。

・小さな者たち:貧しい人々や虐(しいた)げられた人々のことです。

・カナン:神様に仕える約束の見返りとして与えられた土地です。しかし、イスラエルは神様への反抗を繰り返したのです。創世記12-50をお読み下さい。新共同訳聖書の巻末の地図を参照して下さい。

・エリコ:ヨルダン渓谷の中にある町です。エルサレムから北東およそ32kmに位置しています。聖書地図を参照して下さい。

・娼婦ラハブ:「それ(エジプト脱出など)を聞いたとき、わたしたちの心は挫(くじ)け、もはやあなたたちに立ち向かおうとする者は一人もおりません。あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです」と信仰を告白しているのです(ヨシュア記2:11)。彼女の信仰が新約聖書においても賞賛されています(へブル書11:31)。福音書記者マタイはユダヤ人であるイエス・キリストの系図に異邦人である彼女の名前を挙(あ)げているのです(マタイ1:5)。

・士師:モーセの死後、従者であったヨシュアがイスラエルの民を導き、カナンの地に定住したのです。時代が下り、神様はイスラエルのために軍事的、政治的指導者を起こされました。これらの人は士師と呼ばれたのです。旧約聖書の士師記に12人の士師が登場します。サムソンはその中の一人です。二十年間イスラエルを裁いたのです。

・サムソンの祈り:

■わたしの神なる主よ。わたしを思い起こしてください。神よ、今一度だけわたしに力を与え、ペリシテ人に対してわたしの二つの目の復讐(ふくしゅう)を一気にさせてください。(士師記16:28)

・ファリサイ派の人々:ユダヤ教の律法を生活の隅々に適用し、厳格に守ったのです。しかし、それは偽善でした。人々に見せ、信仰を誇るために行っていたのです。

・律法学者:律法を専門的に研究し、解釈して民衆に教える教師です。優れた学者たちはたくさんの弟子を持ち、最高法院の議員など社会的に尊敬される地位を得ていたのです。学者の多くはファリサイ派に属していました。律法主義(教条主義)を貫いたのでイエス様と鋭く対立したのです。

・最高法院:ユダヤ人の統治機関です。大祭司を議長とする71人の議員で構成されています。行政と律法に関する権限を有していました。ローマ帝国による制限はありましたが法廷の役割も担(にな)っていたのです。

(メッセージの要旨)

*聖書の文言は短い章句ではなく、全体の文脈において理解することが重要です。イエス様は山上の説教において「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)と言われ、ご自身についても「わたしは柔和で、謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(マタイ11:29)と紹介しておられます。イエス様が平和、柔和、謙遜を大切にされるお方であることが良く分かるのです。洗礼者ヨハネはイエス様について「世の罪を取り除く神の小羊だ」と言っています(ヨハネ1:29)。「小羊」という表現はイエス様を屠(ほふ)り場に向かう穏やかで従順な羊として想像させるのです。一方、ご自身が地上に来られた理由について「平和ではなく、剣をもたらすために来た」と説明しておられるのです。このイエス様も同じイエス様なのです。教会はイエス様の真実のお姿を伝えて来なかったのです。恣意的(しいてき)に変容しているのです。イエス様はご自身の立場を明確にしておられるのです。「神様の御心」の実現に全力を注がれたのです。対立さえ避けられなかったのです。ファリサイ派に属する律法学者たちはイエス様が徴税人や罪人たちと食事していることを非難するのです。イエス様は「罪人たちを神様の下へ招くために来た」と言って反論されたのです(マルコ2:17)。イエス様の御跡を辿(たど)るキリストの信徒たちはこの世の制度や人々の考え方、家族と必ず衝突するのです。その覚悟を持って弟子になりなさいと言われるのです。

*「神の国」の福音を宣教するイエス様とユダヤ教の伝統に固執する人々の間に律法の解釈を巡って鋭い対立が生じているのです。イエス様はエルサレムへ上って行かれました。神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になったのです。イエス様は縄で鞭(むち)を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない」と言われたのです(ヨハネ2:13-16)。エルサレム神殿が「祈りの家」(イザヤ書56:7)ではなく「強盗の巣」(エレミヤ書7:11)と化していたのです。イエス様は「神様の主権」を侵し、「神の国」の福音-神様の支配-を妨げる人々と闘われたのです。絶望の淵にいる人々にも「神の国」の到来を信じて、抑圧者たちに立ち向かうことを促(うなが)されたのです。イエス様は民衆の社会的、経済的、政治的窮状に心を砕かれたのです。律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実を軽んじるァリサイ派の人々や律法学者たちには天罰を宣告されたのです(マタイ23:23)。初代教会の信徒たちの多くはガリラヤから来た貧しい農民たちです。これらの人はイエス様が十字架上で処刑された後も執拗(しつよう)に迫害されたのです(使徒1-8)。キリストの信徒たちは抑圧され、搾取された人々への共感と共苦を原点とするのです。身近な家族関係から問い直すのです。権力者たちの横暴と不正を大胆に告発するのです。「永遠の命」は後に付与されるのです。

*自分の十字架を担った人々がいるのです。エジプトの圧政から解放されたイスラエルの人々は40年にわたって荒れ野の生活を送ったのです。カナンの地の定住が始まろうとしているのです。モーセの後を継いだヨシュアは二人の斥候(せっこう)をエリコに派遣(はけん)しました。彼らは身を隠すのに都合が良い娼婦ラハブの家に滞在したのです。ところが、エリコの王に彼らの逗留(とうりゅう)を告げる者がいたのです。ラハブは命の危険を冒(おか)して、追ってたちに二人がすでに逃げたと嘘(うそ)をついたのです。彼女の助言に従い二人は無事に帰ることが出来たのです。二人の斥候は彼女の誠意に誠意をもって応えること約束していました。ヨシュアがエリコを攻撃した時「救出の目印」-真っ赤なひも-によってラハブの家族と親戚たちは難を逃れたのです(ヨシュア記1-2)。イスラエルの人々は相変わらず罪を重ねたのです。神様は彼らをペリシテ人の手に渡されました。母の胎内にいる時から聖別されていたサムソンの怪力はペリシテ人を大いに悩ませたのです。ところが、ペリシテ人のデリラを愛するようになったのです。領主たちは彼女をお金で買収しました。デリラはサムソンから怪力の源を巧妙に聞き出したのです。サムソンは捕らえられ、目を抉(えぐ)り出され、足枷(あしかせ)をはめられたのです。サムソンは罪を悔いて祈ったのです。再び力を得て建物の二本の柱を力強く押したのです。建物は領主たちと3千人以上に崩(くず)れ落ちました(士師記13-16)。 サムソンも死んだのです。最後に責務を果たしたのです。

*徴税人たちはローマ帝国に協力して富を蓄積しているのです。ユダヤ人たちは彼らに罪人の烙印(らくいん)を押したのです。ザアカイは徴税人たちの頭です。多くの財産を持っていました。主要な交易ルートの拠点であるエリコに住んでいました。イエス様はこの地を通っておられました。噂(うわさ)を聞いたザアカイはイエス様がどのようなお方であるかを確かめるために木に登ったのです。イエス様はザアカイに気づいて家に泊まりたいと言われたのです。ザアカイはイエス様を迎えたのです。悔い改めの証しとして「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、(律法の規定に従って)それを四倍にして返します」と公言したのです(ルカ19:1-10)。キリスト信仰によってさらに迫害を受けることになるのです。アリマタヤのヨセフは社会的地位と富を有する議員でした。善良で正しいこの人は同僚たちの決議や行動に同調しなかったのです。イエス様が十字架で処刑された後もローマの総督ピラトにイエス様のご遺体を渡してくれるように願い出たのです。かつて、イエス様を訪ねたことのある議員のニコデモと共にご遺体を埋葬(まいそう)したのです(ヨハネ19:38-42)。この行動によって、イエス様の弟子であることを鮮明にしたのです。大祭司や他の議員たちはヨハネとニコデモを許さないのです。最高法院から追放し、すべてを没収するのです。キリスト信仰とは「信じること」ではないのです。「行い」によって証しすることなのです。イエス様はこの点を再確認されたのです。

*「神の国」の意味が変容されているのです。「罪の赦し」に縮小されているのです。イエス様が宣教された「神の国」の福音は人間の「全的な救い」として実現するのです。イエス様は福音の享受者にそれに相応しい「行い」を求めておられるのです。ところが、信仰のみによって得られる「安価な恵み」になっているのです。イエス様のお言葉が正しく伝えられていないのです。キリスト信仰とはこの世に溶け込み、争うことなく、穏やかに生きることではないのです。「永遠の命」の希望に生きるキリストの信徒たちには「自分の十字架」を担う責務があるのです。「神の国」の建設に参画するのです。ただ、実行することは簡単ではないのです。会社や組織の不正を告発したために、職場の上司や同僚から疎(うと)んじられるのです。「神様と隣人」を愛することに心の底から疲れることがあるのです。このような時にイエス様の筆舌に尽くし難い労苦を想起するのです。「神様の御心」を実現するために奔走(ほんそう)されたのです。「神の国」の福音のために権力者たちと対決されたのです。最後に政治犯として処刑されたのです。イエス様は模範を示されたのです。キリストの信徒たちはイエス様の御跡を辿(たど)るのです。イエス様は眠れない夜を過ごしている人々の悩み、苦しみをご存知なのです。涙と共に種を蒔いた人々は喜びの歌と共に刈り入れるのです(詩編126:5)。神様のお約束なのです。しかし、「自分の十字架」を担わなければ「永遠の命」に与れないのです。イエス様は明言されたのです。お言葉を深刻に受け止めるのです。

2025年07月20日

「悪霊との闘い」

Bible Reading (聖書の個所)

「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊(たち)に対する権能(を支配する権限)をお授けになった。汚れた霊(たち)を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。・・イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人(たち)の道に行ってはならない。また、サマリア人(たち)の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊(たち)のところへ行きなさい。行って、『天の国(神の国)は近づいた』と(言って福音を)宣べ伝えなさい。病人(たち)をいやし、死者(たち)を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人(人々)を清くし、悪霊(たち)を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」(マタイ10:1-15)

イエスはそこ(ガリラヤ湖の西北岸)を立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑(くず)はいただきます。」そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。(マルコ7:24-30)

(注)

・汚れた霊:悪霊のことです。当時、あらゆる病気や患いの原因であると考えられていました。ファリサイ派の人々はイエス様の癒しの業を貶(おとし)めるために「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言ったのです。(マタイ9:32-34)

・サタン:元々は神様の命に従って活動する天使です。「告発する者」と呼ばれています。悪霊の頭です。ベルゼブルはサタンの別名です。

■ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢(むく)な正しい人で、神を畏(おそ)れ、悪を避けて生きている。」サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪(のろ)うにちがいありません。」主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。(ヨブ記1:6-12)

・サタンの誘惑:宣教を開始される前のイエス様に挑戦しています。

■すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。(マタイ4:3-11)

・サタンの追放:

■さて、天で戦いが起こった。ミカエル(大天使)とその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。(ヨハネの黙示録12:7-9)


・12使徒:ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネは漁師でした(マタイ4:18-22)。フィリポはイエス様から「わたしを見た者は、父を見たのだ」と叱責されました(ヨハネ14:8-9)。トマスはイエス様が「神様であること」を明言しました(ヨハネ20:24-29)。マタイはローマ帝国の税の取り立てに協力する徴税人でした(マタイ9:9-13)。もう一人のシモンはローマ帝国の支配に武力で抵抗する熱心党に属していました。イスカリオテのユダは祭司長たちからお金をもらってイエス様を裏切りました(マルコ14:10-11)。バルトロマイ、アルファイの子ヤコブとタダイの詳細は不明です。

 

・72人の派遣:その後、イエス様はご自分が行くつもりの町や村に二人ずつ先に遣わされました。

 

■七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ10:17-20)

・異邦人宣教:マタイ8:5-13,15:21-28,28:19-20に記述されています。

 

・サマリア宣教:ヨハネ4、ルカ9:51をお読みください。

 

・イスラエルの家の失われた羊:牧者と羊の関係を表しています。民数記27:16-17、イザヤ書40:11、エゼキエル書34:1-6を参照して下さい。

・天の国:神の国とも言います。神様の支配を表す言葉です。天上と地上において神様が神様として崇(あが)められることです。

・家:教会を兼ねている家もあったのです。イエス様は「家」を宣教の拠点とされていました(マルコ3:20)。

・足の埃を払い落とすこと:強い拒絶反応を表す行動です。

・ソドムとゴモラ:いずれも不信仰の町です。創世記18ー19に登場します。

・サマリア、シリア、ガリラヤ、ゲラサ、エルサレム、ユダヤについては聖書地図を参照して下さい。

・ティルス:ガリラヤの西北に位置しています。ほとんどの住民が異邦人です。ユダヤ人たちから蔑(さげす)まれていました。エゼキエル書26:1-28:19を参照して下さい。

・ひれ伏す:イエス様を「神の子」として認めていることです。

・ギリシア人:一般的には異邦人を指しています。この場合、民族(国籍)としてはシリア・フェニキア人を表しています。

・子供たち:イスラエルの人々(ユダヤ人たち)です。

・子犬たち:犬はユダヤ人たちにとって汚れた動物です。異邦人たちに対する極めて非礼な言葉です。

・サタンがペトロを一時的に支配することがあったのです。

■それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。(マルコ8:31-33)

■「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」(ルカ22:31-34)

(メッセージの要旨)

*イエス様は「わたしは、サタンが稲妻(いなずま)のように天から落ちるのを見(てい)た」と言われました。「神様の御心」が天上で実行されているのです。神様は地上においてもご意思を貫かれるのです。それが、イエス様を通して証しされた「神の国」の到来なのです。すでに、神様は天上と地上において勝利を宣言されたのです。ところが、汚れた霊たち(サタン)は人間を一時的にでも何とか支配しようとしているのです。汚れた霊たちはイエス様を見れば自分たちの方から話しかけるのです。彼らの中には自分の名前を持っている悪霊もいるのです。イエス様が悪霊を追い出しておられると、人々の中には「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者たちもいたのです。イエス様は彼らに「わたしは神の指で悪霊を追い出している」と反論されたのです(ルカ11:14-20)。後の話ですが、パウロがエフェソ(現在のトルコ)で宣教していた頃、悪霊がイエス様の名前によって自分を追い出そうとするユダヤ人祈祷師(きとうし)たちに「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ」と言って、彼らをひどい目に遭わせたこともあったのです(使徒19:11-16)。結果として、イエス様の名が大いに崇(あが)められるようになったのです。しばらくはこの世の支配者であるサタンとの闘いが続くのです。その際、キリストの信徒たちの信仰が常に問われることになるのです。ティルスの母親が示したようなイエス様への揺るぎない信頼が闘いを勝利に導くのです。

*イエス様は洗礼者ヨハネが捕らえられた後、ガリラヤへ行き「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って宣教を開始されました。いよいよ「神様の支配」が実現するのです。イエス様を通してその事実が人々に見えるようになるのです。先ず、シモン(ペトロ)、アンデレ、ヤコブ、ヨハネを弟子とし、ガリラヤ湖畔の町カファルナウムの会堂で安息日に教え始められたのです。人々は律法を引用するのではなく、ご自身を主語とする教え方に驚いたのです。そのとき、会堂にいた汚れた霊に取りつかれた男が叫んだのです。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエス様が「黙れ。この人から出て行け」とお叱(しか)りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行ったのです。人々は「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚(けが)れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエス様の評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々に広まったのです。夕方になって日が沈むと(安息日が終わると)、町中の人が病人たちや悪霊に取りつかれた人たちを連れて来ました。イエス様は彼らを癒されたのです(マルコ1:14-34)。最も古いマルコ福音書は16章です。他の福音書と比べても短いのです。イエス様の悪霊払いを四例も取り上げているのです。最初に「復活の主」に出会ったマグダラのマリアは七つの悪霊を追い出していただいた女性です(マルコ16:9)。人々は悪霊に苦しめられていたのです。

*イエス様は弟子たちの中から12人を選んで使徒として各地方に派遣されました。その際、汚れた霊に対する権能をお授(さず)けになられたのです。「神の国」の宣教活動の中には悪霊払いという重要な使命がありました。多くの人が悪霊に悩まされているという厳しい現実があったからです。イエス様の一行がガリラヤ湖の東側にあるゲラサ(ガダラ)地方に着きました。汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来てひれ伏したのです。イエス様がこの人から出て行けと言われると、汚れた霊は「いと高き神の子イエス・・苦しめないでほしい」と大声で叫んだのです。この霊には「レギオン」(大勢)という名前がありました。イエス様は彼らの希望通りに豚に乗り移らせました。豚の群れは崖(がけ)から落ちて湖の中でおぼれ死んだのです。汚れた霊に取りつかれていた人は正気に戻り、イエス様に従いたいと願い出たのです。しかし、イエス様は主があなたを憐れんで下さったことを身内の人々や地元の人たちに証ししなさいと言われたのです。この人は直ちにそれを実行したのです(マルコ5:1-20)。カファルナウムの会堂にいた汚れた霊もゲラサの「レギオン」もイエス様を見て自分たちの方から語りかけているのです。早かれ遅かれ滅ぼされることを承知しているのです。イエス様のお名前を使うと汚れた霊たちは屈服するのです。サタンはすでに天から追放されているのです。イエス様は「・・あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と励まして下さるのです(ヨハネ16:33)。

*一方、イエス様は悪霊に取りつかれた子供たちの癒しについては悪霊と直接言葉を交わされることはなかったのです。親の信仰を重視されるのです。地中海沿岸の町ティルスにも悪霊に苦しめられている異邦人の幼い女の子がいました。母親は幼い娘のことを心配していましたが、有効な治療方法は見つからなかったのです。ある時、母親はイエス様が近くに来られたことを聞きつけたのです。すでに、彼女はイエス様の評判を知っていました。藁(わら)をもつかむ思いでイエス様のもとへ駆けつけたのです。ところが、イエス様は母親の申し出をすぐには受け入れられませんでした。「悔い改め」が必要な同胞への宣教を優先されるのです。「神様の祝福は他の民族(異邦人たち)よりもユダヤ人たちに優先的に与えられるという祖先への約束」を表現した諺(ことわざ)を用いて、母親の信仰心を確かめられたのです。彼女はユダヤ人たちの優越性を認めた上で、恵みの極一部を異邦人の娘にも分けて下さるようにと懇願したのです。母親の言葉は謙虚とか遠慮と言うようなものではないのです。イエス様への絶対的な信頼を表明しているのです。彼女はイエス様が誰にでも癒しの業を実施して下さることを信仰によって確信していたからです。マタイの並行個所では、イエス様は「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように」と言われたのです(マタイ15:28)。その時、悪霊は幼い娘から追い出されたのです。母親は家に帰ってその事実を確認したのです。先ず、イエス様を信じることから始めるのです。そうすれば願いは叶えられるのです。

*汚れた霊に苦しめられている(恐らくてんかん症状のある)息子を持つユダヤ人の父親がイエス様に助けを求めてやって来ました。汚れた霊はイエス様を見るとすぐにその子をひきつけさせたのです。その子は地面に倒れ、転び回って泡(あわ)を吹いたのです。幼い時から今日に至るまで息子の病状は少しも改善しませんでした。汚れた霊が息子の命を危うくすることも度々あったのです。父親はイエス様の弟子たちに癒していただこうとしたのですが、彼らには出来なかったのです。イエス様に出会った父親はわずかな望みを抱いて「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助け下さい」と申し出たのです。イエス様は「おできになるなら・・」と言った父親の不信仰を叱責(しっせき)されたのです。「信じる者には何でもできること」を明言されたのです。父親は自分の不信仰を悔いたのです。「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい」と再度訴えたのです。イエス様は汚れた霊に「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな」と命じられたのです。すると、汚れた霊は叫び声をあげ、ひどくひきつけさせて息子から出て行ったのです(マルコ9:14-27)。イエス様から指示されると彼らは黙って従うのではないのです。人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行くのです。汚れた霊たちは抵抗するのです。しかし、最終的に人間に対する支配を放棄するのです。悪霊であれ、他の誰であれ「神の国」の福音を妨げることは出来ないのです。イエス様を信じて悪霊と闘うのです。

2025年06月15日

「わたしの言うことを行いなさい」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書6章37節から49節

「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量(はか)りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤(はかり)で量り返されるからである。」イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑(くず)は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」

「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺(ゆ)り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊(こわ)れ方がひどかった。」

(注)

・十戒:神様の深い愛が表れています。

■神はこれらすべての言葉を告げられた。「わたしは主、あなたたちの神、あなたたちをエジプトの国、奴隷(どれい)の家から導き出した神である。あなたたちには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたたちはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたたちはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたたちの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代(いくせんだい)にも及ぶ慈(いつく)しみを与える。あなたたちの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたたちの仕事をし、七日目は、あなたたちの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたたちも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたたちの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。あなたたちの父母を敬え。そうすればあなたたちは、あなたたちの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。殺してはならない。姦淫(かんいん)してはならない。盗んではならない 隣人に関して偽証してはならない。隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」

民全員は、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が煙に包まれる有様を見た。民は見て恐れ、遠く離れて立ち、モーセに言った。「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます。」モーセは民に答えた。「恐れることはない。神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたたちの前に神を畏(おそ)れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである」(出エジプト記20:1-20)

・最も重要な掟(おきて):主はモーセに次のように仰せになりました

■穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは盗んではならない。うそをついてはならない。互いに欺いてはならない。わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたたちの神の名を汚してはならない。わたしは主である。あなたたちは隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたたちの神を畏れなさい。わたしは主である。あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたたちは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。民の間で中傷をしたり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。わたしは主である。心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒(いまし)めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐(ふくしゅう)してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。(レビ記19:9-18)

■イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたたちの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。・・・あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏(おそれ)るべき神、人を偏(かたよ)り見ず、賄賂(わいろ)を取ることをせず、孤児と寡婦(かふ)の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。(申命記10:12-19)

●あなたは「あなたがた」と訳さなければなりません。共同体として信仰が求められているからです。

・イエス様の宣教の視点:

■イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人(人々)に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人(人々)に解放を、/目の見えない人(人々)に視力の回復を告げ、/圧迫されている人(人々)を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた(ルカ4:16-21)。

(メッセージの要旨)

*キリストの信徒たちはイエス様(キリスト・イエス)を「救い主」として信じているのです。「永遠の命」の希望の内に生きることが出来るのです。ただ、信仰の意味を誤解している方もおられるのです。キリスト信仰は信じることで完結しないのです。福音は信じれば救いに与(あずか)れるというような安価な恵みではないのです。「神様の戒め」を実行することが必須の要件になっているのです。信仰の有無はその人の「生き方」によって証明されるのです。再び来られたイエス様がそれぞれの「行い」によって「救い」を決定されるのです(ヨハネ5:22)。「無慈悲に裁いたこと」、「罪人を赦さなかったこと」、「升(ます)に緩やかに盛って量を多く見せたこと」が「永遠の命」に大きく影響するのです。傲慢(ごうまん)と貪欲(どんよく)が「救い」を危うくしているのです。イエス様は「誰が天の国(神の国)でいちばん偉いのでしょうか」と質問する弟子たちに「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入れない」と言われたのです(マタイ18:1-5)。何を食べようか、何を着ようかと思い悩む人々に「ただ、神の国を求めなさい。・・自分の持ち物を売り払って施しなさい。・・富を天に積みなさい」と命じられたのです(ルカ12:31-34)。キリスト信仰には「行い」が伴わなければならないのです。「主よ、主よ」と言うだけで「良い実」を結ばない信仰は空しいのです。ヤコブはさらに厳しく「行いのない信仰はそれだけでは死んだものなのです」と言うのです(ヤコブ書1:17)。胆に銘じるのです。

*イエス様は度々神殿の境内で民衆に(旧約)聖書について教えられました。その学識に驚いて、多くの人がイエス様を預言者あるいはメシアとして信じたのです。逮捕に向かっていた下役たちも「あの人のように話した人はいません」と報告したのです。祭司長たちやファリサイ派の人々はイエス様に好意的な発言をした下役たちを叱責したのです。イエス様に従う群衆を「律法を知らない人々は呪われている」と言って非難したのです。エルサレムで神殿政治を担っている指導者たちは信仰心の薄いガリラヤ地方(ガリラヤ出身の人々)を軽蔑していました。その地から優れた預言者が出ることなど想像もしなかったのです(ヨハネ7:45-52)。イエス様は指導者たちを偽善者と呼び、天罰が下ることを宣言されたのです(マタイ23)。ある時、二人の人が祈るために神殿に上(のぼ)りました。一人はファリサイ派の人、もう一人はローマ帝国の協力者として社会から排斥されていた徴税人でした。ファリサイ派の人は心の中で自信に満ちて「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と祈ったのです。一方、徴税人は遠くに立って目を天に上げようともせず、胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と訴えたのです。イエス様は「神様に義(正しい人)とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」と明言されたのです(ルカ18:9-14)。

*神様は「アブラハム(イスラエルの父祖)は大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主(わたし)の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである」と言われました(創世記18:18-19)。「神様の御心」は人々が正義を実行して祝福に与ることなのです。ご自身が先ず模範を示されたのです。エジプト王ファラオの圧政に苦しむイスラエルの民を哀れみ、モーセによって解放されたのです。基本となる戒め-十戒-と関連する律法を付与されたのです。目的は人々を罰するためではなく、生かすためなのです。イエス様は「神様の愛」の観点から律法を解釈されたのです。ところが、ユダヤ人たちには律法違反を助長しているように映ったのです。イエス様は誤解を払拭(ふっしょく)するために「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言われたのです(マタイ5:17)。ただ、イエス様は優先順位があることを明確にし「何よりもまず、神の国(神様の支配)と神の義(正義)を求めなさい。そうすれば、これらのもの(生活に最低必要なもの)はみな加えて与えられる」と言われたのです(マタイ6:33)。キリスト信仰において「神様の愛」は強調されるのです。一方、「神様の正義」が軽んじられているのです。旧・新約聖書を通して「正義」のない「愛」はどこにも見られないのです。順序を間違えてはならないのです。

*イエス様はある律法学者の「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」 という質問に「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」と答えられました。律法学者は「二つの戒めを実行することがどんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」と同調したのです。イエス様はこの人の信仰を褒(ほ)めて「あなたは神の国から遠くない」と言われたのです(マルコ12:28―34)。イエス様は律法学者たちの偽善を厳しく非難しておられます(マタイ23)。その中にあって「救い」に与る可能性を告げられた数少ない人となったのです。イエス様のお言葉-神の国から遠くない-は意味が深いのです。この時点では「行い」によって信仰が証明されていないからです。「救い」は「神様の御心」に沿って善い業を実践した人々に訪れるのです。神様は迷い出た一匹の羊を見つけ出すまで探し回られるお方です(ルカ15:1-7)。イエス様は罪人の烙印(らくいん)を押され、社会から排斥された徴税人や娼婦たちと共に歩まれたのです(マタイ21:28-32)。飢えている時に食べさせ、のどが渇いている時に飲ませ、旅をしている時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいる時に訪ねた人々を祝福されるのです(マタイ25:35-36)。キリスト信仰の真髄は「行い」なのです。

*神様は天地創造の始めからイエス様の再臨-終わりの日-に至るまで罪深い人間を忍耐して導いておられるのです。「神様の裁きと赦し」が繰り返されているのです。信仰のみによって「救い」に与(あずか)れると信じている人も多いのです。イエス様は具体的な「善い行い」を求められるのです。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」と言われたのです(マタイ7:21-23)。「天の国」にはイエス様の御名によって預言し、悪霊を追い出し、奇跡をいろいろ行ったとしても、やもめの家を食い物にするような人々は入れないのです(マルコ12:30)。商取引においても公正を貫くのです。量(はかり)り升を不正に用いてはならないのです。イエス様は最後の審判者として再び来られるのです。その時、すべての人が「行い」によって裁かれるのです。神様は「主の道」-正義と愛の実践-を歩む人々を祝福されるのです。イエス様は社会の底辺で苦しんでいる人々に寄り添い、出来ることを実行しなさいと命じられたのです。罪とは「神様の戒め」を軽んじることです。「行い」のない信仰がその人の「救い」に役に立つことなどないのです。

2025年06月08日

「光のあるうちに歩きなさい」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書12章20節から43節


さて、祭り(過越際)のとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え(いなさい)。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した(過去)。再び栄光を現そう(現在)。」そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者(サタン₋=権力者たち)が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。

このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせ(神様からのメッセージ)を信じましたか。主の御腕(主の御業)は、だれに示されましたか」(イザヤ書53:1)。彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟(さと)らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない」(イザヤ書6:10)。イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである(イザヤ書6:1-4)。とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉(ほま)れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。

(注)


・ギリシヤ人:異邦人を総称する言葉です。将来の異邦人宣教を象徴しています。


・フィリポとアンデレ:12使徒に選ばれています。


・人の子:


この呼称には三つの意味があります。第一は預言者です(エゼキエル書2:1-3)。第二は天の雲に乗って現れる終わりの時の審判者です(ダニエル書7:13-14)。他に「わたしとわたしの言葉を恥じる者(たち)は、人の子も自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときにその者(たち)を恥じる」があります(ルカ9:26)。イエス様はご自身が審判者であることを明らかにされたのです。第三はこの世の人間を表しているのです(ルカ9:58)。


・人の子が栄光を受ける時:イエス様の死と復活と昇天が起こること、神様の名が讃えられることを表しています。


・心が騒ぐ:「ゲツセマネの祈り」にも表しておられます。


■そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ14:33-36)

・メシア:「油注がれた者」という意味です。選ばれた王や祭司です。以下は一例です。

■(あなた(神様)は言いました。)「わたしが選んだ者とわたしは契約を結び/わたしの僕ダビデに誓った  あなたの子孫をとこしえに立て/あなたの王座を代々に備える、と。」(詩編89:4-5)

・天からの声:他にも記述があります。

■そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適(かな)う者」という声が、天から聞こえた。(マルコ1:9-11)

■ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆(おお)った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。(ルカ9:34-36)

光:ご自身に関する定義の一つです。

■イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ8:12)

・預言者イザヤ:当時イスラエルは南北に分裂していました。北王国は「イスラエル」、南王国は「ユダ」と呼ばれていました。イザヤの宣教はユダ王国を中心に行われました。ウジヤ王の死(紀元前738年頃)と共に始まり、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ王の治世にも及びました。

終末のしるし:

■イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」(マタイ24:3-14)

・キング牧師:アメリカの公民権運動の指導者の一人です。黒人の差別撤廃に短い生涯を捧げたのです。たくさんの名言を残しています。以下はその一例です。

The ultimate tragedy is not the oppression and cruelty by the bad people but the silence over that by the good people.

「悪人たちの抑圧と残虐行為は悲劇です。しかし、究極の悲劇は善人たちがそのことに沈黙していることです。」(私訳)
                       
(メッセージの要旨)


*イエス様はエルサレム入城後、ご自身の使命を実力行使によって遂行されたのです。神殿の境内から礼拝に必要な生贄(いけにえ)の羊や牛をすべて追い出し、献金のために外国の通貨をシェケル銀貨に交換する両替人の金をまき散らし、鳩を売る者たちに「わたしの父の家を商売の家としてはなららない」と言われたのです。神殿政治の機能が一時的に停止したのです。祭司長、律法学者、長老たちがやって来て「何の権威でこのようなことをするのか。誰が、そうする権威を与えたのか」と詰問したのです。イエス様は「この神殿を壊して見よ。三日で建て直してみせる」と明言されたのです。彼らは建設するのに四十六年も費やしたエルサレム神殿を「三日で建てる」と言われたイエス様を非難したのです(ヨハネ2:13-22)。指導者たちは神殿の威光を貶(おとし)めるイエス様に激怒したのです。しかし、群衆はイエス様の教えや力ある業(癒しの業など)に共感していたのです。神様を畏(おそ)れる数人のギリシャ人がイエス様を訪ねたのです。ユダヤ教への改宗者ではないのです。ユダヤ教の教えや伝統に敬意を表する人々です。病気の奴隷(使用人)のために奔走(ほんそう)し、ユダヤ人たちのために会堂を建てたローマ軍の百卒長もそのような人たちの一人です(ルカ7:1-10)。イエス様は世の光です。暗闇を照らす真の光なのです。「神の国」の福音が着実に広がっているのです。ただ、多くのユダヤ人にはこの光が見えないのです。イエス様を殺すために陰謀が巡(めぐ)らされているのです。弟子たちに覚悟が求められているのです。


*イエス様の評判を聞いてギリシヤ人が数人訪ねて来ました。しかし、この時期に彼らと会うことは極めて危険でした。後に、パウロに起こった事件がそのことを証明しています。ディアスポラのユダヤ人たちが神殿の境内でパウロを見つけ「この男は、民と律法とこの場所に背くことを、至るところで誰にでも教えている。その上、ギリシヤ人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった」と告発したのです。群衆がパウロを境内から引きずり出したのです(使徒21:27-30)。これは誤解に基づく出来事だったのですが、異邦人との接触は敵対する人々に迫害する口実を与える機会となるのです。しかし、イエス様は「その時」が来たことを悟られたのです。弟子たちに繰り返し「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」と言われたのです(マタイ10:37-39)。かつて、イエス様は地中海沿岸の町に住む異邦人の女性に出会われました。この人は悪霊にひどく苦しめられている娘の癒しを申し出たのです。イエス様は「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と答えられたのです。ところがが、女性の立派な信仰心がイエス様のお心を動かすことになるのです(マタイ15:21-28)。今、ギリシャ人たちにも覚悟を求められたのです。


*「終末のしるし」が現れているのです。四福音書はイエス様が政治犯として処刑される前後の出来事を詳細に記述しています。それぞれの記者は事実を見て(あるいは聞いて)記事を書いたのです。イエス様は敢然と十字架に向かわれたというような信仰理解は避けなければならないのです。「父よ、わたしをこの時から救ってください」と言って、心を騒がせられたのです。イエス様はエルサレムへ入城される前に、ベタニヤで死後四日も経ったラザロを甦(よみがえ)らされたのです。出来事を目撃したユダヤ人の多くがイエス様を信じたのです。大祭司カイアファを中心とする指導者たちは自分たちの権威と地位が脅(おびや)かされていることを敏感に感じ取ったのです。最高法院(サンヘドリン)を招集してイエス様の抹殺を決議したのです。しかも、生き証人であるラザロも殺そうとしているのです(ヨハネ11:45-12:9-10)。神様はイエス様と共におられたのです。数々の力ある業がそのことを証明しているのです。ご自身の栄光をイエス様によって現わされたのです。伝統的なメシア思想に慣れ親しんでいる人々はイエス様に権力者である王の姿を重ね合わせたのです。民族の解放者としての圧倒的な力を期待しているのです。イエス様は彼らのメシア理解を根底から覆(くつがえ)されるのです。イザヤの預言にあるように「苦難の僕」として最後まで歩まれるのです。ご自身の死によって「救い」が訪れることを宣言されたのです。多くの人はイエス様に失望したのです。しかし、神様はこれらの人のために再び栄光を現わされるのです。


*律法によれば、石打の刑は「霊媒や口寄せをする者」(レビ記20:27)、「他の神々を礼拝する者」(申命記13:10)、「安息日を犯した者」(民数記15:35)、「神様を冒涜する者」(レビ記24:14)に適用されるのです。以前、イエス様はご自身を石打の刑で殺そうとする祭司長たちやファリサイ派の人々に「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか」と質問されたのです。彼らは「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒瀆したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ」と言って罪状を明らかにしたのです(ヨハネ10:31-33)。今回も、イエス様は「天に上げられる」という言葉で「神様の独り子であること」を鮮明にされたのです。十字架上の死を経て復活し、神様の下へ帰られることを予告されたのです。ユダヤ教のメシアから全人類に「永遠の命」を与える「救い主」になられるのです。一方、群衆は従来のメシア像に固執するのです。イエス様は「神様のお約束」を信じるように促(うなが)されたのです。ご自身を闇に輝く光に例えて「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。・・光のあるうちに歩きなさい」と命じられたのです。ユダヤ人たちにも決断を迫られたのです。イエス様は終わりの日が来る前にこの世に遣わされたのです。神様にとって1000年は一日に等しいのです。一人でも救おうと忍耐されているのです。終わりの日がいつかは誰にも分らないのです。しかし、確実に突然起こるのです。


*イエス様はご自身を主語として語られました。「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」(ヨハネ8:58)、「わたしは彼ら(ご自身を信じる人々)に永遠の命を与える」、あるいは「わたしと父(神様)とは一つである」と言われたのです(ヨハネ10:28-30)。ご自身を「安息日の主」(マタイ12:8)、エルサレム神殿を「わたしの家」と呼ばれたのです(マルコ11:17)。罪深い女性に「罪の赦し」を一方的に宣言されたのです(ルカ7:48)。イエス様の言動はユダヤ教の伝統と律法を順守する人々にとって「神様への冒涜」なのです。イエス様が「神の国」の宣教において死を覚悟されていたことは十分に推測されるのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちはローマ帝国への恭順と協力によって「信仰の自由」を確保したのです。一方、「神様の名」によって貧しい農民や労働者たちを搾取し、私腹を肥やしたのです。イエス様は指導者たちの偽善と腐敗を激しく非難されたのです。彼らは悔い改めることなく既得権益に執着したのです。「神の国」の福音を拒否したのです。イエス様を「石打の刑」ではなく、ローマ帝国への反逆者に適用される十字架刑で殺そうとするのです。当初、民衆の多くはイエス様を支持していました。指導者たちはローマ帝国の脅威を訴えて巧妙に分断するのです。正義が歪(ゆが)められているのです。いつの時代においても、キング牧師の言葉は真実なのです。キリスト信仰を標榜する人々がダブル・スタンダードに陥(おちい)っているのです。「神の国」と「この世」とは両立しないのです。

2025年03月23日

「生ける神の子の教え」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書16章13節から28節

イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ(ヨナの子シモン)、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力(門)もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。


このとき(それ)から、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者(躓きの石)。神のこと(ご計画)を思わず、人間のことを思っている。」それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いる(裁く)のである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者(たち)がいる。」

(注)

・フィリポ・カイサリア:ガリラヤ湖の北32kmにある町です。聖書地図を参照して下さい。

12使徒:

■イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らは御もとに来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、宣教に遣わし、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。こうして十二人を任命された。シモンにはペトロ(岩)という名を付けられた。ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。(マルコ3:13-19)

・人の子:三つの異なった意味があります。「最後の審判者」、「苦難の僕」、そして、いわゆる「人間」です。

・洗礼者ヨハネ:イエス様は預言者以上の預言者と言われました(ルカ7:18-35)。イエス様との関係はマタイ14:1-2に記述されています。一般的に預言者の称号は奇跡、預言、裁きなどを行う人々に与えられていました。

・エリヤ:紀元前900年頃、北王国(イスラエル)の悪名高いアハブ王の治世に登場した預言者です。神様はエリヤを通して、死者を甦らせ、天から火を送られたのです。列王記上17-19をお読み下さい。「癒しの業」はイエス様の「力ある業」と似ているのです(列王記上17:17-24)。

・エレミヤ:紀元前627年頃に召命を受けた預言者です。南王国(ユダ)の王ヨシヤ、ヨヤキム、エルサレムの住民がバビロン捕囚となる時のゼデキヤの治世まで活動しました。エルサレム神殿が「強盗の巣窟」になっていることを厳しく批判しました(エレミヤ書7:11)。

・メシア(キリスト):油注がれた者-神様から聖別された者-という意味です。王や祭司の就任式において油が注がれたのです。その様子はレビ記21:10-12に記述されています。

・生ける神の子:「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という神様の御声が証明しています(マタイ17:5)。詩編2:7、イザヤ書42:1も参照して下さい。

・バルヨナ:ペトロはヨナの息子です。別の個所ではヨハネの息子と呼ばれています(ヨハネ1:42)。

・陰府の門:死の力、闇の支配を表しています。

・天の国(神の国):神様の主権・支配のことです。死後に行く「天国」のことではありません。

・天の国の鍵:神様の支配(信仰共同体)に受け入れる権限を象徴しています。悪霊の追い出し(マタイ12:29)、罪の赦し(マタイ26:28)、指示・命令(マタイ28:20)のことです。

・サタン:デビル、悪魔、誘惑する者と呼ばれています。

・人の子がその国と共に来るのを見るまでは・・:弟子たちの中には自分たちの存命中に人の子がすぐにやって来ると期待している人々がいたのです。

(メッセージの要旨)

*すべての預言者と律法が預言したのは(洗礼者)ヨハネの時までなのです(マタイ11:13)。終わりの時に、神様がこの世に直接介入されたのです。独り子イエス様によって御心を語られるのです。「神の国」が到来しているのです。民衆がイエス様を洗礼者ヨハネ、エリヤ、エレミヤ、預言者(たち)の一人と重ね合わせるのは当然です。イエス様の教えと御業が預言者たちの働きと一致しているからです。しかし、イエス様は弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われるのです。イエス様はご自身を定義して「人の子は安息日の主である」(マルコ2:28)、「アブラハムが生まれる前からわたしはある」(ヨハネ8:58)、「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10:30)と言われました。自己認識が神様の言葉を託された預言者たちと決定的に異なるのです。イエス様はユダヤ教の伝統の中で培われて来たメシア観を否定したのではなく、修正されたのです。偉大な預言者の一人であるだけでなく、「神様の御言葉」なのです。道であり、真理であり、命なのです(ヨハネ14:6)。ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えています。弟子の一人ナタナエルは悔い改めて「あなたは神の子です」と言ったのです(ヨハネ1:49)。後に「復活の主」に出会ったトマスは不信仰を恥じて「わたしの主、わたしの神よ」と告白しているのです(ヨハネ20:28)。イエス様は「神の国」を宣教するために生涯を捧げられたのです。「神の子」を信じるキリストの信徒たちも自分の十字架を背負って証しするのです。

*民衆はメシアを待ち望んでいて、もしかしたらヨハネがメシアではないかと心の中で考えていたのです(ルカ3:15)。イエス様が宣教を開始されるまでに、洗礼者ヨハネはすでに「最後の審判が近いこと」、「悔い改めがなければ救われないこと」を宣教していました。ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼(バプテスマ)を受けに来たのを見て「毒蛇(まむし)の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結べ・・」と警告したのです(マタイ3:7-10)。エリヤもイエス様と同じような「力ある業」を行っています。数年に及ぶ干ばつを預言し、貧しい寡婦の死んだ息子を蘇らせたのです(列王記上17)。天からの火によって、異教の神バアルに仕える預言者たちとの闘いに勝利したのです(列王記上18)。アハブ王と妻イゼベルの偶像崇拝を非難して命を狙われました。後に、火の車に引かれた戦車に乗ってそのままの姿で天に上げられたのです(列王記 下2:11)。エレミヤは「主はこう言われる。公正と正義を行い、搾取されている者(たち)を虐げる者(たち)の手から救いなさい。寄留者(たち)、孤児(たち)、寡婦(たち)を抑圧したり虐待したりしてはならない。また無実の人(たち)の血をこの場所で流してはならない」と言って、ユダの王たちに警鐘を鳴らしたのです(エレミヤ書22:3)。預言者たちが現状を容認することはなかったのです。御言葉によって偶像礼拝を非難し、社会的、政治的正義を確立させようとしたのです。それ故、徹底的に迫害されたのです。

*使徒たちはもとより、弟子たちは自分の十字架を背負ったのです。イエス様は、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられた時、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になったのです。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。二人はすぐに網を捨てて従ったのです。さらに、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが父ゼベダイと一緒に舟の中で網の手入れをしているのを御覧になったのです。二人をお呼びになったのです。彼らはすぐに舟と父を残してイエス様に従ったのです(マタイ4:18-22)。イエス様はマタイ(レビ)が収税所に座っているのを見て「わたしに従いなさい」と言われました。彼は何もかも捨ててイエス様に従ったのです(ルカ5:27-28)。イエス様はフィリポにも「わたしに従いなさい」と言われました。彼も直ちに従ったのです(ヨハネ1:43)。トマスはイエス様と共に死ぬ覚悟を表明し、仲間の弟子たちにもそれを求めています(ヨハネ11:15)。熱心党(信仰を貫くために武力でローマ帝国に抵抗しているグループ)に属するもう一人のシモンのような使徒もいました。バルトロマイ、アルファイの子ヤコブとタダイの詳細は不明です。異例のことですが、悪霊を追い出していただいたマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナなどの女性の弟子たちもいたのです。自分の持ち物を出し合って一行に奉仕していたのです(ルカ8:1-3)。町や村に派遣された72人の弟子たちがいました。「神の国」の宣教は敵視され困難を極めたのです(ルカ10:1-12)。

 

*神様は新しい天地創造を開始されたのです。預言者たちに代わって「神の子」を遣わされたのです。イエス様は弟子たちの認識を尋ねられたのです。ペトロが率先して「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたのです。的確な答えをしたので「この岩(ペトロ)の上にわたしの教会を建てる・・」と言われたのです。ところが、すぐ後にペトロは厳しいお言葉で叱責されているのです。ペトロはイエス様の重要な教え-山上の説教-を直接聞いたのです(マタイ5-7)。家に来られた時には姑の病を治していただいたのです。イエス様は多くの病人や体の不自由な人々を癒されたのです。ペトロはそれらの証人なのです(マタイ9)。五つのパンと二匹の魚で五千人に食べ物を与える時には手伝い、湖の上を少しですが歩いたのです(マタイ14)。イエス様に従ってヤコブ、ヨハネと共に高い山に上ったのです。イエス様がモーセとエリヤと語られているのを目撃したのです(マタイ17:1-8)。ペトロは「主よ、わたしたちがここにいるのは、素晴らしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ立てましょう」と言ったのです。偉大な預言者たちとの会話に割り込み、奇妙な提案さえしているのです。その時、光り輝く雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が聞こえたのです。神様はイエス様が独り子であることを認められたのです。ペトロは神様から直接ご指示を受けたのです。イエス様の教えと業(わざ)はすべての判断基準となるのです。ペトロは迫害を恐れずに大胆に証ししたのです。 


*キリストの信徒たちがペトロや他の弟子たちのようにイエス様から直接教えを受け、「力ある業」に接することはないのです。しかし、新約聖書-特に福音書-が伝える「生ける神の子」にお会いすることは出来るのです。聖霊様の働きにより、イエス様はベツレヘムの貧しいヨセフとマリアの家庭に生まれました。猜疑心の強いヘロデ大王に命を狙われ、エジプトへ逃れたのです。イスラエルに戻ってからもガリラヤ地方のナザレに住むことを余儀なくされたのです(マタイ2)。およそ30歳の時に宣教を開始されました。しかし、日々の活動は苦難の連続でした。「人の子には枕する所もない」と言われたのです(ルカ9:58)。「神様の御心」に沿って律法を解釈し、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが求めるのは憐れみであって、生贄(いけにえ)ではない」と宣言されたのです。徴税人たちや罪人たちの救いに心を砕かれたのです(マタイ9:12-13)。一方、ファリサイ派の人々や律法学者たちの不信仰と偽善を非難されたのです。指導者たちはローマの総督ピラトを脅して政治犯に適用される十字架刑で殺させたのです。主は復活されたのです。40日の間「神の国」を語られたのです(使徒1:3)。神と富とに仕えることは出来ないのです(マタイ6:24)。自分を低くすること(マタイ18:1-5)、自分の内に塩味(神様への忠誠心)を持つこと(マルコ9:42-50)がなければ「神の国」に入れないのです。キリストの信徒たちは自分の十字架を背負うのです。「神様と隣人」に奉仕するのです。

2025年03月02日