Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書12章35節から56節
(イエスは弟子たちに言われた。)「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕(奴隷)たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、主は言われた。「主人が召し使い(奴隷)たちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し(同僚たちから切り離し)、不忠実な者たち(不信仰な人々)と同じ目に遭わせる。主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」
イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。偽善者(たち)よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」
(注)
・腰に帯を締め:真剣に、緊張感を持ってという意味が込められています。出エジプト記12:11をお読み下さい。
・灯をともしていなさい:「十人の乙女のたとえ」(マタイ25:1-13)を参照して下さい。
・主人の給仕:弟子たちの足を洗われたイエス様のお姿を想起させます(ヨハネ13:4-8)。
・管理人:重要な職務を任された有能な奴隷(捕虜など)のことです。主人の信頼が厚いことの証明です。そして、それに相応しい結果を求められるのです。他にも類似した「ムナのたとえ話」があります(ルカ19:11-27)。
・人の子:呼称には三つの意味があります。第一は預言者です(エゼキエル書2:1-3)。第二は天の雲に乗って現れる終わりの時の審判者です(ダニエル書7:13-14)。他に「わたしとわたしの言葉を恥じる者(たち)は、人の子も自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときにその者(たち)を恥じる」があります(ルカ9:26)。イエス様はご自身が審判者であることを明らかにされたのです。第三はこの世の人間を表しているのです(ルカ9:58)。
・火:「神様のメッセージ」、あるいは「神様の御力」の広がりを表す言葉です。「清め」(民数記31:23)、「裁き」(列王記下1:10-14)のために用いられます。
・洗礼:イエス様の死-死と復活と昇天-を意味しています。イエス様は神様に銘じられた使命を全身全霊で果たされたのです。以前の預言者たちも経験したのです。エレミヤ書20:9、アモス書3:8を参照して下さい。
・平和:福音の核心部分です。日本語訳では「安らか」(ルカ2:29)、「安心」(7:50)となっている個所があります。「救い主」が拒絶された時には分裂が待っているのです。
・平和の君:イエス様の尊称の一つです。
■ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。(イザヤ書9:5-6)
・一ムナ:ギリシャの銀貨です。一般的労働者の約3か月分の賃金に相当します。
・神の国(天の国):誤解されることも多いのですが、死後に行く天国のことではありません。イエス様の中心メッセージです。神様の全き支配のことです。神様が人間の心と社会の隅々にまで真に神様として崇められ、あらゆる価値の基準とされること、それを通して正義と平和の秩序が実現されることです。旧約聖書は神の国の到来を待ち望むイスラエルの信仰を書き記したものです。神様はイスラエルの民をエジプト人の支配から救い出し、砂漠を経て約束の地へ導かれたのです。ご自分に頼る者を決して見捨てられないのです。どのような地上の力にも勝っておられるのです。信頼するに値するお方なのです。イスラエルは異国の支配下で弾圧され、分断され、捕囚の地に連れていかれたのです。その時も、神様は常に自分たちと共におられ、民の身の上を思い,心を痛められたのです。イスラエルの民はこの神様がいつの日か、必ず自分たちを解放して下さることを信じたのです。
(メッセージの要旨)
*「聖書に忠実である」という言葉がよく聞かれます。ところが、大切な御言葉が読み飛ばされていることも事実なのです。その結果、イエス様の実像が変容されているのです。気付く人は必ずしも多くないのです。イエス様はある人に「従いなさい」と言われました。その人は「主よ。あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」と言ったのです。「鋤(すき)に手をかけてから後ろを顧(かえり)みる者は神の国にふさわしくない」と言われたのです(ルカ9:61-62)。弟子には覚悟がいるのです。人は信仰のみによって「救い」に与るのではないのです。「決断と行い」が不可欠なのです。「神の国」に招き入れられるために、イエス様の御跡を辿(たど)るのです。イエス様は分裂をもたらすために来られたのです。寝食を共にし、直接教えを受けた弟子たちさえ理解していないのです。ご自身の死と復活を否定するペトロに「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と厳しく叱責(しっせき)されたのです(マルコ8:31-33)。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と質問する弟子たちには「心を入れ替えなければ天の国に入れない」と警告されたのです(マタイ18:1-5)。復活を信じられないトマスに「手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われたのです(ヨハネ20:24-29)。イエス様が穏やかなお方、従順な小羊であるかのように誤解されているのです。与えられた責務を全力で果たすのです。
*イエス様は日常生活に生起する普通の事柄を取り上げて語られるのです。その目的はご自身の教え-神の国の福音-を人々に分かりやすく伝えることにありました。当時の生活を経験していない今日のキリストの信徒たちに理解することが出来ない内容も少なからずあるのです。他の聖書の個所が大いに助けとなるのです。イエス様はご自身の死と復活を三度も予告しておられます(マタイ20:17-19)。しかも、それが現実に起こったのです。十字架上で処刑されたイエス様は復活されました。四十日にわたって弟子たちに現れて「神の国」について話しをされたのです。その後天に上げられるのですが、二人の天使が「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたイエスは、天に昇って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またお出でになる」と言ったのです(使徒1:6-11)。イエス様の再臨は新しい天地創造の完成の時でもあるのです。人の子(イエス様)は思いがけない時に来られるのです。すべての人がそれぞれの「行い」によって裁かれるのです。主人が帰って来たとき、目を覚ましている僕たち、主人から命じられた職務を忠実に実行している僕たちは幸いなのです。ところが、キリスト信仰の厳しさが曖昧(あいまい)にされているのです。「信じること」で完結しているのです。イエス様は弟子たちに機会あるごとに覚悟を求められたのです。ご自身に従って歩む弟子たちは必ず迫害されるからです。キリスト信仰は厳しいのです。「神様の御心」に沿って生きたかを問う信仰なのです。
*イエス様は主人を軽んじる僕について言及しておられます。主人の帰りが遅いことを利用して、男女の召し使いに暴力を振るい、大切なお金を浪費している僕は主人の思いを知りながら信頼に応えなかったのです。職務を解かれただけでなく、厳しく罰せられたのです。「救い」に与った群れから切り離され、不信仰な人々と同様に扱われることになったのです。主人は僕たちの能力を知っているのです。相互に比較することはないのです。ただ、多くを任した者にはそれに相当する結果を求めるだけなのです。イエス様は別の角度から同じようなたとえ話をされています。ある身分の高い人が十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し「これで商売をしなさい」と言って遠い国に旅立ったのです。その人は帰って来ると、それぞれに取り組み状況を報告させたのです。ある僕は一ムナで十ムナ、別の僕は一ムナで五ムナを儲けたのです。主人は彼らの忠実さを誉め、さらに責任ある仕事を任せたのです。ところが、一ムナを布に包んでしまっておいた僕がいたのです。理由について「失敗を厳しく責めるご主人が恐ろしくて何もしなかったのです」と説明したのです。僕は自分の怠惰を正当化するために責任を主人に転嫁したのです。主人は僕の悪賢さを非難し、一ムナを取り上げたのです。キリストの信徒たちにも様々な資質が与えられているのです。「神様の御心」を実現するために用いるのです。イエス様に倣(なら)って生きることは簡単ではないのです。イエス様の教えの厳しさが原因ではないのです。先ず、キリスト信仰への理解度と覚悟の有無を内省するのです。
*イエス様は「知的信仰」を厳しく批判されたのです。「行い」を伴わない信仰はその人の「救い」に役に立たないのです。「善いサマリア人のたとえ話」はその一例です。追いはぎに襲われて半殺しの状態にあった見知らぬ人を介抱したのは、宗教儀式を司(つかさど)るユダヤ人祭司でも、祭司職の家系を誇るレビ人でもなかったのです。これらの人が蔑(さげす)んでいたサマリア人だったのです。「永遠の命を得るために何をしたら良いでしょうか」と質問する律法の専門家に、イエス様は「あなたも、サマリア人同じようにしなさい」と答えられたのです(ルカ10:25-37)。「行い」が何よりも重要なのです。ところが、この視点が真剣に語られていないのです。ある教会のパンフレットに「信仰とは戒めを守ることや、善い行いを積むことではありません。人が罪の赦しを得るためには、神様の恵みによるしか方法がないのです」と書かれているのです。キリスト信仰と「行い」が分離されているのです。イエス様のご生涯が「十字架の死」にのみ捧げられたかのような誤解を生む要因の一つになっているのです。イエス様のお言葉と旧・新約聖書に忠実であるべきなのです。預言者たちはイスラエルの指導者たちの不信仰と腐敗を非難したのです。イエス様もファリサイ派の人々や律法学者たちの偽善と不正を告発されたのです。悔い改めなければ天罰が下るのです。人間の支配の終わりを告げる「神の国」が到来しているのです。「永遠の命」は「行い」のない信仰-死んでいる信仰(ヤコブ2:17)-によって得られる安価な恵みではないのです。
*神様は預言者イザヤを通して「正義が造り出すものは平和であり/正義が生み出すものは/とこしえに安らかな信頼である。わが民は平和の住みか、安らかな宿/憂いなき休息の場所に住まう」と言われたのです(イザヤ書32:17-18)。イエス様は当時の平和が欺瞞(ぎまん)であることを非難されたのです。ご自身に従う人々に神様を中心とする真の平和の実現に参画するように促されたのです。信仰共同体や家族の中に、イエス様の教えに従った人々とそうでない人々の対立が生まれるのです。「神の国」とこの世は決して調和しないのです。キリスト信仰はその人の「救い」を事前に保証するものではないのです。イエス様は裁き主として再び来られるのです。人々を左右に分けられるのです。右側にいる人々は飢えている人々を食べさせ、のどが渇いている人々に飲ませ、旅人たちに宿を貸し、着る物のない人々に衣服を着せ、病気の人々を見舞い、牢獄にいる人々を訪ねたのです。これらの人に「永遠の命」が与えられたのです(マタイ25:31-46)。イエス様は律法の中で最も重要な掟として「神様と隣人を愛すること」を挙げられました(マルコ12:29-31)。主人が帰って来て全財産を任せる前に管理人の信頼は失墜していたのです。キリストの信徒たちも周到な準備を怠(おこた)れば同様の結果を招くことになるのです。イエス様の再臨に備えて日々自分たちの「行い」を検証するのです。「救い」に至る道は狭くて険(けわ)しいのです。この事実を再確認するのです。終わりの日まで灯を高く掲げて忍耐強く前進するのです。