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「神様が報いて下さる」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書6章1節から18節

「見てもらおうとして、人(人々)の前で善行をしない(敬虔さを表さない)ように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなた(がた)は施しをするときには、偽善者たちが人(人々)からほめられようと会堂や街角でするように、自分(たち)の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなた(がた)の施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなた(がた)に報いてくださる。」

「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人(人々)に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなた(がた)が祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなた(がた)の父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなた(がた)の父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人(たち)のようにくどくどと述べてはならない。異邦人(たち)は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧(かて)を今日与えてください。わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』もし人(人々)の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがた(の過ち)をお赦しになる。しかし、もし人(人々)を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

「断食するときには、あなたがたは偽善者(たち)のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者(たち)は、断食しているのを人(人々)に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなた(がた)は、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなた(がた)の断食が人(人々)に気づかれず、隠れたところにおられるあなた(がた)の父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなた(がた)の父が報いてくださる。」

(注)

・最も重要な戒め:第一は「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなた(がた)は心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなた(がた)の神、主を愛しなさい」(申命記6:4-5)、第二は「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」です(レビ記19:18)。イエス様もこれら二つを最も重要な戒めとされたのです(マルコ12:29-31)。

・施し:安息日にユダヤ教の会堂で施しや慈善寄付が行われていました。

・偽善者たち:律法学者たちやファリサイ派の人々を指しています。彼らの悪行はマタイ23章に詳述されています。

・祈り:ユダヤ人の成人男性はエルサレムに向かって毎日三回午前、午後、夕方に行います。食前と食後にも立ったまま、あるいは頭(こうべ)を垂れて祈ります。

・過ち:律法や慣習に違反することです。個人的(道徳的、倫理的)な観点から説明されることが多いのですが、返済期限を守らないことや返済不能なども含まれています。これらは社会的な要因が大きいのです。イエス様はローマ帝国の圧政に苦しんでいる貧しいユダヤ人キリスト者たちに「主の祈り」を教えられたのです。マタイ18:21-35を参照して下さい。

・断食:肉体に苦痛を課して自己を否定することです。食べ物や飲み物など体に必要なものを摂取しないだけでなく、体を清潔に保つことや楽しませたりすることも断つのです。レビ記16:29-31をご一読下さい。

(メッセージの要旨)

*「施し」、「祈り」、「断食」の戒めを遵守することはユダヤ教の重要な教えでした。イエス様は弟子たちにもそれらの実践を求められたのです。「神様の御心」に合致した行いは篤い信仰心や敬虔さの表れです。しかし、人は往々にしてそれを通して自分を喜ばせようとするのです。神様に栄光を帰すためではなく、自分を誇っているのです。偽りの信仰に堕(だ)しているのです。神様は心の奥底を見られるのです。イエス様も信仰を自負するファリサイ派の人々に「あなたたちは人(人々)に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるもの(富、地位、名誉など)は、神には忌み嫌われるものだ」と言われました(ルカ16:15)。偽善者と真のキリストの信徒の違いを明確にされたのです。「神様の御心」を実践する人は人間の賞賛を求めないのです。神様が報いて下さることを知っているからです。施しをするときは会堂や街角でしないこと、会堂や大通りの角に立って祈らないこと、沈んだ顔つきをして断食しないことは偽善に陥らないための警鐘なのです。イエス様は直前に「・・あなたがたの義(正義)が律法学者やファリサイ派の人々の義(正義)にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と言われたのです(マタイ5:20)。高慢と不正は大きな罪です。「死に至る病」なのです。それらは神様を欺いているからです。神様はそのような信仰を拒否されるのです。「主の祈り」は真に的を射ているのです。神様に日々「わたしたちを誘惑から守って下さい」と祈るのです。

*「施し」をすることはユダヤ人たちの義務なのです。モーセは「三年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、あなた(がた)のうちに嗣業(しぎょう)の割り当てのないレビ人や、町の中にいる寄留者、孤児、寡婦(か)がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。そうすれば、あなた(がた)の行うすべての手の業について、あなた(がた)の神、主はあなた(がた)を祝福するであろう」と言っているからです(申命記14:28-29)。神様は戒めを守る人々に報いて下さるのです。イエス様も隣人愛-貧しい人々や虐げられた人々への支援-を最も重要な戒めとされたのです。「祈り」は神様との直接対話です。誠実さが不可欠です。イエス様は「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と言われるのです。神様は祈る前から願いの内容を知っておられるのです。先ず「神様と隣人」について祈ることを教えられたのです。「主の祈り」は短い文章です。しかし、キリスト信仰の本質を要約しているのです。「わたしたちの」、「わたしたちを」、「わたしたちが」のように複数形が用いられているのです。「個人的な祈り」ではないのです。神様が「あなたたちは聖なるわたしの名を汚してはならない。・・わたしは・・エジプトの国からあなたたちを導き出した者である」と言われたことを起させるのです(レビ記22:32-33)。信仰共同体の一員であることを自覚し、同胞の苦難を担うことを命じられたのです。イエス様の教えは旧約聖書と律法に基づいているのです。

*「御名が崇められますように」は神様が軽んじられていることを表しています。当時、ローマ帝国がイスラエルを支配していました。皇帝は「救い主」(解放者)という称号で呼ばれていました。ユダヤ人たちにもローマ皇帝の名前を崇めることが強制されたのです。このような政治状況にあって、イエス様のお言葉は極めて過激です。「神様、地上の権力者(支配者)を裁いてご自身の御力と正義をお示し下さい」と解釈出来るからです。「御国が来ますように。御心が行われますように・・」も、文脈において「御名が崇められますように」と同じです。非情で不正に満ちた皇帝の支配が打ち砕かれて「神様の正義」が地上の隅々に及ぶことを願う祈りになっているのです。ユダヤ人のほとんどが貧しい生活を余儀なくされたのです。高額な税負担(収入の約40%)が大きな要因です。イエス様が誕生された年(紀元前6年ごろ)に皇帝アウグストゥスは全領土の住民に住民登録を命じているのです(ルカ2:1-3)。「主の祈り」が複数形になっている理由はこの点にあるのです。ユダヤ人たちは神殿税(会堂税)を納めるだけで良かったのです。ところが、新たに人頭税が課せられたのです。しかも、徴税人たちには税を上納した後、自分たちの裁量で追加の税を徴収することが許されたのです。彼らは民族の裏切り者として非難されたのです。罪人として蔑(さげす)まれたのです。税を払えない農民たちは悲惨でした。祖先から受け継いた土地を手放したのです。生産手段を失った人々は農園で過酷な日雇い労働に従事したのです(マタイ21:33-41)。

*「必要な糧を今日与えてください」は貧しい人々や虐げられた人々の切実な願いなのです。ローマ皇帝とその支配に協力している指導者たちが民衆に十分なパンを与えていないのです。イエス様は「わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/赦しましたように」と祈ることを教えられたのです。民衆は率先して「愛の教え」(ホセア書6:6)に従って負債を相互に免除するのです。「わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください」には苦痛や艱難を回避するために権力者たちの不正を黙認し、富の誘惑に屈している現実が反映されているのです。民衆はローマ帝国に協力して平和を維持するという誘惑に晒(さら)されているのです。信仰に堅く立って歩めるように願っているのです。「断食」は神様の前に自分を低くすることです。古くから受け継がれた悔い改めの儀式なのです。イスラエルの民は主を離れて異教の神々(バール)やアシュトレト(女神)を拝んでいたのです。士師サムエルは罪を犯した民に「イスラエルを全員、ミツパに集めなさい。あなたたちのために主に祈ろう」と訴えたのです。人々はミツパに集まると、水をくみ上げて主の御前に注ぎ、その日は断食し「わたしたちは主に罪を犯しました」と言ったのです(サムエル記上7:5-6)。「断食」は悔い改めを見える形で表しているのです。偽りがあってはならないのです。ファリサイ派の人々は信仰心の篤さを自負しているのです。「断食」は見せびらかすための手段です。イエス様は偽善を厳しく批判されたのです。

*キリストの信徒たちは「施し」(隣人愛)、「祈り」(神様との対話)、「断食」(悔い改め)を実行するのです。そのような生き方によって神様に栄光を帰すのです。ところが、いつの間にか自分を誇る手段になっているのです。誘惑に陥らないように日々警戒するのです。「主の祈り」には当時の社会的背景が反映されているのです。神様は権力者たちの圧政に喘(あえ)ぎ、窮乏生活に苦しむ人々の悲痛な叫びに応えられるのです。ご自身に信頼する人々に勇気と希望を与えて下さるのです。ユダヤ教の伝統的な祈りにも合致(がっち)しているのです。「アブラハム、イサク、ヤコブの神」のような言葉使いが見られないのです。「イエス様の御名によって」、「救い主の御名を通して」のようなキリスト教的な表現もないのです。「主の祈り」はユダヤ教、キリスト教を超えた普遍的な祈りなのです。困難を覚えるすべての人の慰めになっているのです。イエス様はユダヤ人たちが交際しなかったサマリア人たちにも「神の国」の福音を届けられたのです(ヨハネ4:39-42)。ローマ帝国の力による支配の担い手である兵士(百卒長)の息子を癒されたのです(マタイ8:5-13)。神様はご自身の民を決して見捨てられないのです。「もし同胞が貧しく、自分で生計を立てることができないときは、寄留者ないし滞在者を助けるようにその人を助け、共に生活できるようにしなさい」と人々に命じられたのです(レビ記25:35)。最も重要な戒め-正義、慈悲、誠実-を実践して「神様の愛」にお応えするのです。神様は必ず報いて下さるのです。

2024年06月23日

「神様の評価」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書18章9節から30節

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。するとペトロが、「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた(神様に委ねた)者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」

(注)

・神の国:キリスト信仰における根本理念です。イエス様の宣教の第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」です(マルコ1:15)。「神の国」-神様の支配-の到来こそ福音(良い知らせ)なのです。イエス様を通して「神の国」は具体化しているのです。病人が癒され、人の罪が赦されているのです。

・永遠の命:「神の国」に入ること、「救い」に与(あずか)ることです。

ファリサイ派の人:律法を厳格に遵守するユダヤ教の一派です。学識の豊富さから民衆に尊敬されていました。しかし、イエス様は彼らを厳しく批判されたのです。その理由は彼らが偽善者だったからです。マタイ23:1-36を参照してください。一方、律法学者の多くはファイサイ派によるモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)(トーラ)の解釈を支持していました。イエス様と対立した律法学者たちはファイサイ派に属していました。


・サドカイ派:「復活」を認めなかったのです。この点において、ファリサイ派の人々とは対立していました。しかし、イエス様には一致して敵対したのです。


徴税人:ローマ帝国のためにユダヤ人から税を徴収していました。他のユダヤ人からは「裏切り者」と呼ばれていました。さらに、民衆から集めた税金を当局に納めた後は自分のために追加の税を徴収することが許されていました。徴税人たちは強欲さと不正の故に「罪人」の一員として扱われ、社会の隅に追いやられたのです。ファリサイ派の人々からは蔑まれていましたが、イエス様は彼らの友となられたのです。さらに、徴税人マタイを12使徒の一人に選ばれたのです(マタイ9:10-13)。


・義:日本語訳では個人の道徳性の高さや信仰心の篤さとして理解されています。この言葉には社会的な正義という意味もあるのです。イエス様は「義(正義)に飢え乾く人々は、幸いである」(マタイ5:6)、さらに「何よりもまず、神の国と神の義(正義)を求めなさい」(6:33)と言われたのです。福音とは「神の国」(天の国)-神様の支配(主権)-が地上に遍(あまね)く行き渡り、「神の義(正義)」が確立されることなのです。

・子供:子供は無力な存在です。自分が出来ることは限られているのです。両親に頼る以外に方法はないのです。絶望の淵に生きる貧しい人々や虐げられた人々は「神の国」の到来に希望の光を見たのです。キリストの信徒たちは信仰によって「救い」に与るのではないのです。「神の国」を建設する使命があるのです。神様の戒めを守り、隣人を愛することが「永遠の命」に至る道なのです。

(メッセージの要旨)

*神様に訴えても受け入れられない祈りがあるのです。神様が願いを聞き入れられるかどうかは人間による評価とは全く関係がないのです。ファリサイ派の人は自分にとって都合の良い所だけを報告するのです。神様に信仰心の篤さを認めさせようと画策しているのです。称賛を得るためには神様さえコントロールしようとするのです。傲慢の極みです。神様は「高ぶる者を低くされ、へりくだる者を高められるのです。人間の心の内だけではなく御心を実践しているかどうかをご覧になられるのです。イエス様は卓越した知識や能力を不正な蓄財の手段として用いるファリサイ派の人々や律法学者たちに「蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか」と言われるのです(マタイ23:33)。徴税人はファリサイ派の人のように自分の良い行いを自画自賛することはありませんでした。自分の生き方を心の底から後悔しているのです。それは胸を打ち叩く姿に表れています。譬(たと)え話はファリサイ派の人の尊大さと徴税人の謙虚さを比較しているのではないのです。事態はもっと深刻なのです。偽善と不法に身を染めるファリサイ派の人が「滅び」に至り、徴税人が憐れみによって「救い」に与ったのです。両者を分けたのは犯した罪に対する悔い改めの姿勢なのです。傲慢(ごうまん)は大きな罪の一つです。一方、金持ちの議員は信仰心の篤い人です。ただ、信仰を許容範囲に限定するのです。イエス様のご指示を拒否したのです。神様の前に正しい人はいないのです。イエス様は謙遜と隣人愛を「救いの要件」とされたのです。

*ユダヤ人たちは毎日神殿で礼拝をしていました。ファリサイ派の人々も徴税人たちもこのために神殿に来ていました。神殿は犠牲の供え物を捧げるだけでなく祈りの場所でもありました。二人は神殿内部の至聖所近くの「イスラエルの庭」(ユダヤ人男性の礼拝場所)で祈ったのです。それぞれはユダヤ人社会の中で対照的な存在でした。ファリサイ派はサドカイカイ派と並んでユダヤ教の宗派の一つです。ファリサイ派はイエス様が地上に来られるおよそ150年前に創設されました。元々これらの人は信仰心が篤かったのです。律法と伝統を厳格に遵守していたのです。ところが、時代を経るに従って、信仰は形式化し、自己義認によって偽善化していったのです。一方、徴税人たちはローマ帝国に協力してユダヤ人たちから過酷に徴税し、富を蓄えていたのです。ユダヤ人たちから裏切り者、罪人と呼ばれたのです。こうした二つの階層に属する人々が祈っているのです。譬え話は神様の前で自らを正しい者であると公言し、罪人たちを蔑んでいる人々に向けて語られているのです。ファリサイ派の人は自分が奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でないことを自負しています。尊大にも神様に自分の評価を認めさせようとするのです。一方、罪人たちや社会の隅に追いやられている人々を見下しているのです。この人にとって律法を知らない徴税人は呪われているからです(ヨハネ7:49)。ファリサイ派の人には神様への畏敬の念が見られないのです。徴税人に対しても横柄に振舞うのです。徴税人は自分の罪を率直に告白し、神様の憐れみと赦しを乞うたのです。

*イエス様は「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われました。このお言葉は「人は神様を信頼しなければ神の国に入れない」というように理解されているのです。何事においても信頼を欠いては大切な関係を維持できないのです。しかし、ここで言われていることは、子供たちが置かれている位置-父親の従属物になっていること-にまで降りて行くことなのです。最も小さい者たち-貧しい人々や虐(しいた)げられた人々-と共に歩むことなのです。律法には基本となる戒めが二つあります。一つは「イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏(おそ)れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか」です(申命記10:12-13)。もう一つは「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。・・貧しい者(たち)や寄留者(たち)のために残しておかねばならない。・・あなた(がた)は隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。・・自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。・・」です(レビ記19:9-18)。イエス様はこれらを最も重要な戒めとされたのです(マルコ12:29-31)。キリスト信仰とは信じることではないのです。信じたことを実行することなのです。神様と隣人を愛して「救い」に与るのです。

*ある金持ちの議員は子供の時から「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」という掟を守ってきました。ところが、なお「永遠の命」の確信が得られなかったのです。議員と訳されている言葉は支配者のことです。日本語訳は往々にしてキリスト信仰に相応しくないとして政治的言葉を避けているのです。恣意的な翻訳は当時のイスラエルの民衆が置かれていた政治状況を正確に伝えないのです。絶大な権力とたくさんの財産を持っている支配者の一人が信仰上の不安を覚えているのです。イエス様はこの人の信仰心を認めておられるのです。ただ、「救い」は安価な恵みではないのです。本人が理解していない点を指摘し、解決方法を示されたのです。この世の権力とそれから得た富が信仰の確信へ至る道を妨げているのです。イエス様は「自分の財産を売って貧しい人々に施しなさい」、「ご自身の弟子になりなさい」と言われたのです。しかし、この金持ちは様々な思い煩いからイエス様の招き-「神の国」の福音を拒否したのです。現在の位置から社会の底辺へ降りて行くことが出来なかったのです。社会的地位と既得権益に執着したのです。この議員は律法の規定を選別しているのです。守ることが出来た規定だけを誇らしげに取り上げているのです。「隣人を自分のように愛しなさい」を実践するまでには至らなかったのです。神様よりも富の方を愛したことは明白です。神様はすべてのことをご存です。金持ちが「神の国」に入るのはらくだが針の穴を通るよりも難しいのです。しかし、神様はこの人の「救い」を断念されることはないのです。


*イエス様は「神の国」の本質を明確にされるのです。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」のです。しかし、イエス様のお言葉を実行することは簡単ではないのです。子供のように「神の国」を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできないのです。キリスト信仰が「罪の赦し」に縮小されているのです。「神の国」は人間の「全的な救い」として完成するのです。イエス様はご自身の教えと力ある業によって「神の国」が到来していることを証しされたのです。イエス様の教えを実践しない人々は「永遠の命」に与れないのです。道徳的、倫理的な罪のみが罪ではないのです。信仰の傲慢、富への執着、正義や平和への無関心はより深刻な罪なのです。身近にいた弟子たちも誰が一番偉いかについて議論しているのです。イエス様は彼らの誤った信仰理解を正すために徹底して仕えることを命じられたのです(マルコ9:33-37)。信仰を自負する人々は多くの場合自分たちの傲慢に気づかないのです。信仰の傲慢はその人を死に至らせるのです。一方、金持ちの議員はイエス様に教えを願い出ているのです。ところが、イエス様が示された「救いの道」を受け入れられないのです。有り余る富を隣人のために施すことに消極的なのです。視点を最も小さい人々へ向けなければ「神の国」に入れないのです。神様はこの人の悔い改めを忍耐して待っておられるのです。信仰を自負する人々が後になり、蔑まれていた徴税人が先になったのです(マタイ20:16)。信仰を誇っても無意味なのです。神様が判断されるからです。

2024年06月16日

「神様の戒めを守りなさい」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書5章17節から20節

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成(成就)するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国(神の国)で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義(正義)が律法学者(たち)やファリサイ派の人々の義(正義)にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

(注)

・モーセ五書:旧約聖書の中にある創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のことです。

・律法:神様の戒めのことです。最も基本となるのが「十戒」です。以下は抜粋です。

神はこれらすべての言葉を(モーセに)告げられた。「わたしは主、あなた(がた)の神、あなた(がた)をエジプトの国、奴隷の家から導き出した神で
ある。

一あなた(がた)には、わたしをおいてほかに神があってはならない。
一あなた(がた)はいかなる像も造ってはならない。
一あなた(がた)の神、主の名をみだりに唱えてはならない。
一安息日を心に留め、これを聖別せよ。
一あなた(がた)の父母を敬え。
一殺してはならない。
一姦淫してはならない。
一盗んではならない。
一隣人に関して偽証してはならない。
一隣人のものを一切欲してはならない。」 (出エジプト記20:1-17)


・イエス様が教えられた最も重要な戒め:

■彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコ12:28-31)

・律法学者:文書を取り扱う官僚であり、律法に関する学者です。

・ファリサイ派:律法を日常生活に厳格に適用したユダヤ教の一派です。イエス様に律法学者と共に敵対しました。

・過越祭:ユダヤ教の三大祭りの一つです。イスラエルの民がエジプトから解放されたことを祝うのです。ユダヤ人の信仰の原点となっています。

・七週祭:ユダヤ教の三大祭りの一つです。春の麦の収穫祭でしたが、律法を授けられた記念として過越祭から数えて50日目に祝います。

・仮庵祭:ユダヤ教の三大祭りの一つです。イスラエルの民が荒れ野で天幕に住んだことを記念しています。秋の果実の収穫祭でもありました。

(メッセージの要旨)

*旧・新約聖書は神様がどのようなお方であるかを伝えています。律法は「神様の御心」を表しているのです。神様はアブラハムが九十九歳になった時に現れて「わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする」、さらに「わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子(子供)たちとその子孫(家族)に、主の道を守り、主に従って(アブラハムに倣って)正義(義)を行うように命じて、主(わたし)がアブラハムに約束したことを成就(実現)するためである」と言われました(創世記17:1-18:19)。アブラハムを通して世界のすべての国民に祝福が宣言されたのです。同時に、すべての人に主の道を守ること-正義(社会正義)の追求と義(倫理的高潔さ)の堅持-が義務となったのです。時代が下って、ヘブライ人たち(イスラエルの民)はエジプトの王ファラオの圧政の下で苦しんでいたのです。神様はご自身の民の窮状をつぶさに御覧になったのです。天から降って行ってエジプト人の手から解放されたのです(出エジプト記3:7-12)。シナイ山ではモーセを通して彼らに基本となる十戒と関連する個別の規定を授けられたのです。人々が罪を犯すことなく、生きながらえるためでした。その後も、預言者たちを通して歴代の王を導かれたのです。新しい天地創造に先立って遣わされたイエス様は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたのです(マルコ1:15)。先ず「神の国」(神様の支配)と「神の義」(正義)を求めるのです(マタイ6:33)。そうすれば必要な物は必ず与えられるのです。

*聖書の個所は「山上の説教」(マタイ5-7)の中の一部分です。イエス様は「律法や預言者たち(種々の預言書)を廃止するためではなく、完成するために来た」と言われました。「神の国」は到来しているのです。ただ、まだ完成していないのです。イエス様が再び地上に来られる時(再臨)までキリスト信徒たちは新しい解釈の下で律法や預言者たちの言葉を守って-神様と隣人を愛して-生きるのです。現実(律法)から遊離した霊的側面を過度に強調するような信仰理解は避けなければなりません。イエス様はユダヤ人であるだけでなく、ユダヤ人であることに徹(てっ)せられたのです。ユダヤ教の伝統や聖なる日を順守し、過越祭、七週祭、仮庵祭にはエルサレム神殿へ巡礼し、安息日には会堂の礼拝に出席されたのです。宣教活動においては律法(旧約聖書)に言及されたのです。一方、イエス様はご自身が「安息日の主」であることを公言されたのです。「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と言って「神様の御心」を明確にされたのです(マルコ2:27-28)。安息日に手の萎(な)えた人を癒されたのです。批判する人々には「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と反論されたのです。「救いの御業」の完成者であるイエス様は御言葉を語られただけではなく、人々の痛みを担われたのです。病気の人々、体の不自由な人々、悪霊に悩まされている人々、罪人の烙印(らくいん)を押された徴税人や娼婦たち、貧しい人々と共に歩まれたのです。

*律法の解釈を巡り、律法学者たちやファリサイ派の人々との間に鋭い対立があったのです(マルコ3:1-6)。イエス様は御子の権威を持って「あなたがたは聞いている通り、・・しかし、わたしは言っておく」という形式でモーセの律法を新たに解釈されたのです(マタイ5:21-48)。従来の解釈が厳格化されたのです。誰も信仰を誇ることが出来ないのです。幾つかの例を挙げおられます。「・・昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、・・兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」神様が定められた裁きの基準は厳しいのです。人間の常識を遥かに超えているのです。「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし・・不法な結婚-不貞の罪を犯すこと-でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」当時は家父長社会-男尊女卑の社会-です。夫が思いのままに妻に離縁状を出しているのです。人間は許しても、神様は夫の横暴を厳しく罰せられるのです。「・・『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし・・悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。・・」が誤解されているのです。「愛」によって不正を赦すことではないのです。正義を非暴力で貫くための手法なのです。神様は何よりも正義を大切にされるのです。

*律法学者たちやファリサイ派の人々は民衆にモーセの律法の完全履行を求めるのです。ところが、自分たちはそれを実行しないのです。施しをする時は人々から賞賛を得るために敢えて会堂や街角で行うのです。祈る時は人々に見てもらおうとして大通りの角に立って祈るのです。宴会では上座、会堂では上席に座ること、広場では挨拶され、先生と呼ばれることを好むのです。規定の十分の一以上の捧げものをして信仰を誇るのです。しかし、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実をないがしろにしているのです。人々に外側を正しいように見せながら、心は偽善と不法に満ちているのです。イエス様は指導者たちの不信仰と貪欲を激しく非難されたのです。これらの人に天罰が下ることを明言されたのです(マタイ23)。一方、弟子たちには「あなたがたの義(正義)が律法学者たちやファリサイ派の人々の義(正義)にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と言われたのです。信仰によって「天の国」に入れると信じている人々には真に厳しいお言葉となるのです。ヤコブも「行いのない信仰はそれだけでは死んだものです」と言うのです(ヤコブ2:14-17)。正義の希求と高潔さは「救いの要件」なのです。キリスト信仰による「救い」は安価な恵みではないのです。イエス様は最も重要な戒めとして「神様と隣人を愛すること」を挙げられました。「神の国」の建設のために働いた人々が「永遠の命」に与るのです。多くの人が御言葉を語っているのです。しかし、その正しさは「行い」によって証明されるのです。

*律法が恣意的(しいてきに)に解釈されているのです。イエス様のお言に従うのではなく、自分が許容できる教えだけに耳を傾けているのです。イエス様に敵対するファリサイ派の議員たちの中に回心したニコデモがいました。最高法院ではイエス様を弁護し、十字架上で処刑されたイエス様のご遺体を埋葬したのです。すべてをイエス様に捧げる覚悟がなければこのような行動には出られないのです。その後、同僚の議員や指導者たちから非難され、迫害を受けたことは容易に想像されるのです。手の萎えた人のように障害がある人は罪人と見なされ、社会の隅に追いやられたのです。仕事にもつけず、物乞いをするしか生きる道はなかったのです。イエス様はこのような人々に援助の手を差し伸べないことは「これらの人を殺すことである」と言われたのです。隣人愛によって「人を殺してはならない」の趣旨が深められているのです。「神様の御心」と人々の間に深刻な認識のずれがあるのです。イエス様は律法を都合よく解釈する人々に警鐘を鳴らしておられるのです。キリスト信仰が誤解されているのです。信仰とは「生き方」のことなのです。イエス様が模範を示されたように弱い立場にある人々の側に立つのです。社会正義の実現に取り組み、篤い信仰心を貫くのです。キリスト信仰を表明しただけでは「救い」に与れないのです。「行い」が伴わなければならないのです。「神様の戒め」を軽んじてはならないのです。「イエス様の教え」を変容してはならないのです。高慢は大きな罪です。「死に至る病」です。イエス様が「救い」を判断されるからです。

2024年06月09日

「すべての人に届けられる福音」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書4章1節から20節

イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。「よく聞きなさい。種を蒔(ま)く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。

イエスがひとりになられたとき、十二人と、イエスの周りにいた人たちとが、たとえについて尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外(そと)の人々には、すべてがたとえで示される。それは、/『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』(イザヤ書6:9-10)/ようになるためである。」

また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いてもすぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難(かんなん)や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」

(注)

・預言者イザヤ:当時イスラエルは南北に分裂していました。北王国は「イスラエル」、南王国は「ユダ」と呼ばれていました。イザヤの宣教はユダ王国を中心に行われました。ウジヤ王の死(紀元前738年頃)と共に始まり、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ王の治世にも及びました。

・神の国:神様の主権、実際の支配のことです。「天の国」とも言われています。

■・・だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。(マタイ6:31-34)

■イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人(人々)に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人(人々)に解放を、/目の見えない人(人々)に視力の回復を告げ、/圧迫されている人(人々)を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(ルカ4:16-21)

・サタン:神様の敵です。旧約聖書のヨブ記1章に神様とサタンの会話が記されています。

■ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来ました。主はサタンに「お前はどこから来た」と言われました。サタンは「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」と答えたのです。主はサタンに「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な(非の打ちどころのない)正しい人で、神を畏(おそ)れ、悪を避けて生きている」と言われました。サタンは「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません」と答えました。主はサタンに「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな」と言われました。サタンは主のもとから出て行きました。 ・・その後、ヨブは何度も耐え難い災難に遭遇しました。・・ところが、神様を非難することもなく、罪も犯さなかったのです。

・主の祈り:イエス様が弟子たちに教えられた祈り

■・・天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように、御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目(様々な負債)を赦して下さい、わたしたちも自分に負い目(様々な負債)のある人(人々)を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救って下さい。(マタイ6:9-13)

(メッセージの要旨)

*イエス様はヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた後ガリラヤへ行き神の福音を宣教されました。その第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」でした(マルコ1:15)。この短いお言葉の中に 福音の真理が凝縮されているのです。キリスト信仰は「神の国」-神様の支配-の到来を福音(良い知らせ)として信じることなのです。福音の種はすべての人に蒔かれるのです。イエス様が神様の独り子であることを認められない人々や福音に無関心な人々、御言葉を聞いてすぐに受け入れても艱難や迫害に遭遇するとすぐにそれを捨てる人々、御言葉を聞くけれども富や様々な欲望の誘惑に負けて中途半端な信仰に終始する人々、そして御言葉を聞いて福音を信じる人々に届けられるのです。神様は「イエス様を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得ること」を願っておられるからです(ヨハネ3:16)。しかし、キリスト信仰を生涯貫くことは簡単ではないのです。受け入れた人々が途中で挫折する場合があるのです。拒否していた人々が悔い改めて「救い」に与ることもあるのです。一方、キリスト信仰は恵みに与ったことで完結しないのです。悔い改めた人々には神様と隣人を愛して生きることが責務になるのです。「神の国」の福音が「罪からの救い」に縮小されているのです。「神の国」の到来とはこの世に正義と愛が遍(あまね)く行き渡ることなのです。キリスト信仰を標榜する人々は「神の国」の建設に参画するのです。種はその人の現在の状況において蒔かれるのです。イエス様への応答が運命を決定するのです。

*「神の国」の秘密について、イエス様は身近な弟子たちなどごく少数の人々には打ち明けるが、グループ以外の人々にはすべてをたとえで示すと言われました。その理由についてイザヤ書を引用して説明されたのです。イザヤの時代のイスラエルは聖なる方を侮り、異国の民と手を結んで戦争をし、国内には偶像が満ち溢(あふ)れていました。支配者たちは無慈悲で、まるで盗人のようでした。賄賂を喜び、民衆に贈り物を強要したのです。孤児の権利を守らず、やもめの訴えを取り上げなかったのです。それ故、神様はご自分の民に向かって激しく怒り、御手を伸ばして、彼らを撃(う)たれたのです(イザヤ書1-5)。一方、「ユダ」も罪を犯し続けたのです。ウジヤ王が死んだ年のことです。神様はイザヤを召命されたのです。そして「この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし・・悔い改めていやされることのないために」と言われたのです。イザヤが「いつまででしょうか」と質問すると、神様は「町々が崩れ去って、住む者もなく/家々には人影もなく/大地が荒廃して崩れ去るときまで」と答えられたのです。「ユダ」の支配者たちも神様からのメッセージを拒んだのです。後に、新バビロニアの王ネブカドネザルはエルサレムを征服したのです。人々の大半は「捕囚の民」としてバビロン(現在のイラク)へ連れて行かれたのです(紀元前587年)。神様は民を滅ぼされることはないのです。少数の人々を残されるのです。これらの人を用いて「ユダ」を救おうとされるのです。

*神様はイエス様を遣わしてご自身の御心をすべての人に語られたのです。神様の御言葉(種)はどのような人にも届けられるのです。聞いた人々はそれぞれ応答するのです。最初の例は御言葉を聞いてもすぐにサタンによって福音を奪い去られる人々のことです。ファリサイ派の人々や律法学者たちを挙げることが出来ます。これらの人は最初から「神の国」を拒絶しているのです。「神の国」は特権的地位や既得権益の放棄を求めるからです。これまで、長い衣をまとって歩き回ることや広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好み、見せかけの長い祈りをして信仰心の篤さを誇っていたのです。やもめ(寡婦)の家を食い物にし、貧しい人々や虐げられた人々を苦しめて来たのです。律法を厳格に守っているように見せながら、心は強欲と放縦で満ちているのです。律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実をないがしろにしているのです。イエス様はこのような偽善者たちに「神様の罰」が下ることを明言されたのです(マタイ23)。一方、イエス様に「神様と隣人への愛はどんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」と答えて、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた律法学者もいたのです(マルコ12:32-34)。アリマタヤ出身の議員ヨセフは総督ピラトに願い出てイエス様のご遺体を埋葬したのです(ヨハネ19:38-42)。仲間たちの迫害を恐れずにキリスト信仰を証ししたのです。誰でも悔い改めて神様の下へ帰ることが出来るのです。人を裁くことには慎重であるべきなのです(マタイ7:1-5)。

*「神の国」の到来に感謝するのですが、艱難(かんなん)や迫害が起こるとすぐに躓(つまず)いてしまう人々がいるのです。イエス様はご自身を「天から降って来たパンである。・・このパンを食べる者は永遠に生きる」と言われました。弟子たちの多くの者はこれを聞いて「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。・・」と言って、イエス様と共に歩まなくなったのです(ヨハネ6:35-71)。理由は明確ではありませんが、12使徒の一人であったイスカリオテのユダはイエス様を裏切ったのです(ルカ22:47-48)。権力の中枢にイエス様を信じる人々は少なくなかったのです。ただ、彼らはファリサイ派に属していたました。キリスト信仰を公にすればユダヤ教の会堂から追放されるのです。社会的地位や名声だけでなく、生活の糧さえ失うことになるのです。結局、これらの人々は神様からの誉れよりも人間からの賞賛を選んだのです(ヨハネ12:42-43)。富に執着し「神の国」から遠ざかった金持ちの男(マタイ10:17-25)や門前に横たわる貧しいラザロを気にかけることなく贅沢に暮らして「永遠の命」を失った金持ち(ルカ16:19-31)もいるのです。一方、財産の半分を貧しい人々に施すなどして「救い」に与った徴税人ザアカイがいました(ルカ19:1-10)。弟は父親から譲り受けた財産を放蕩生活の中で浪費し、信仰的にも死んでいたのです。ところが、悔い改めによって生き返ったのです(ルカ15:11-24)。神様はこれらの罪人がご自身の下へ帰って来たことを喜ばれたのです。

*譬え話はキリスト信仰から距離を置く人々に日常生活の出来事によって説明する手法なのです。イエス様は譬え話を通して人々のところへ降りて行かれるのです。イエス様は「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と言われたのです(ルカ5:31-32)。キリスト信仰の真髄はこのお言葉にあるのです。神様の御言葉は道端、石だらけの所、茨の中、良い土地など様々な場所に届けられるのです。イエス様は弟子たちに「子供のように神の国を受け入れる人でなければ決してそこに入ることは出来ない」と警告されたのです(ルカ18:15-17)。素直さの勧めであるかのように誤解されているのです。視点を移して貧しい人々や虐げられた人々の所に降りて行くことなのです。イエス様はご自身の弟子になることを願う人々に「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子(ご自身)には枕する所もない」と言われました(マタイ8:18-22)。弟子には覚悟が必要です。イエス様は「神の国」の福音のために生涯を捧げられたのです。「神の国」を地上に建設するためには召命された人々もまた迫害を受けるのです。イエス様に倣(なら)う生き方は必然的にこの世と対立するのです。サタンはこの世の富や権力などを用いてキリストの信徒たちを誘惑するのです。神様から切り離して滅ぼそうと日夜画策しているのです。キリスト信仰に生きる人々は「主の祈り」に支えられて誘惑を退けるのです。豊かな実を結ぶために奔走するのです。

2024年06月02日

「パウロの信仰理解と宣教姿勢」

Bible Reading (聖書の個所)コリントの信徒への手紙一9章1節から27節

わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか。他の人たちにとってわたしは使徒でないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです。あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです。

わたしを批判する人たちには、こう弁明します。わたしたちには、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか。わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資(し)を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。

そもそも、いったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか。わたしがこう言うのは、人間の思いからでしょうか。律法も言っているではないですか。モーセの律法に、「脱穀している牛に口籠(くつこ)をはめてはならない」と書いてあります。神が心にかけておられるのは、牛のことですか。それとも、わたしたちのために言っておられるのでしょうか。もちろん、わたしたちのためにそう書かれているのです。耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分け前にあずかることを期待して働くのは当然です。わたしたちがあなたがたに霊的なものを蒔(ま)いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。他の人たちが、あなたがたに対するこの権利を持っているとすれば、わたしたちはなおさらそうではありませんか。しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます。あなたがたは知らないのですか。神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかります。同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました(マタイ10:10)。

しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない。それくらいなら、死んだ方がましです……。だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない(奪ってはならないのです)。(もっとも、)わたしが福音を告げ知らせても(いるなら)、それはわたしの誇り(の根拠)にはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです(わたしに災いあれ)。自分から(の意志で)そうしているなら、報酬を得るでしょう(受け取ります)。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。

わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。

あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。

(注)

・コリント:現在のギリシャにある都市です。

・主の兄弟たち:イエス様の兄弟たちです。中でもヤコブが有名です。1コリント15:7を参照して下さい。

・「脱穀している牛に口籠(くつこ)-噛みついたり食べたりしないようにする籠(かご)-をはめてはならない」は申命記25:4からの引用です。働く雄牛の取り扱いを通して人間の社会的公平性が例示されているのです。

・バルナバ:パウロの協力者です(使徒9:27;11:19-30)。しかし、後に考え方の違いから別行動をすることになりました(使徒15:36-41)。

・ケファ:ペトロの別名です。結婚していました(マルコ1:30)。

・他の人たち:アポロとペトロのことです。

・アポロ:エジプトのアレクサンドリア出身です。聖書に詳しい雄弁家です。コリントの教会でも有名です。使徒18:24-19:1に登場します。

・朽ちる冠:二年ごとにコリントの近くのイストミア地方で行われる競技会では勝者の冠は「しおれたセロリ」で作られていました。

・朽ちない冠:「救い」(永遠の命)を意味しています。

・ポントス:現在のトルコの北にある州の名前です。

・クラウディウス:ローマ皇帝(在位は紀元後41-54年)です。

・七つの手紙:ローマの信徒への手紙、コリント信徒への手紙一、コリント信徒への手紙二、ガラテヤの信徒への手紙、フィリッピの信徒への手紙、テサロニケの信徒への手紙一、フィレモンへの手紙

・弱い人々:社会的地位の低い未信者たち、信仰の弱い人々のことです。1コリント1:26-28、8:1-13を参照して下さい。

・啓示による信仰:神様は来るべき出来事(イエス様の再臨-最後の審判)によって助けて下さる」という信仰理解に基づいています。神様が瞬時にこの世を「新しい世界」に造り変えられるので信徒たちは何もする必要がないのです。ただ待つだけなのです。結果、人々の苦悩の原因や社会の不正に無関心になるのです。

(メッセージの要旨)


*コリントの信徒への手紙第一は西暦54年ごろにパウロが中心になって創設した教会の信徒たち宛に書いた手紙です(使徒18:1-18)。当時のコリントは繁栄した大都市です。道徳的にも、文化的にも、宗教的にも、多様な人々が暮らしていたのです。コリントにはユダヤ人もいましたが、異邦人が中心の町です。(1コリント12:2)。多くの人は貧しく、社会的地位も高くなかったのです(Ⅰコリント1:26-28)。信徒たちはそれぞれグループを形成して住んでいたのです。聖日には礼拝と聖餐式を行うために教会に集まったのです(1コリント11:18)。しかし、コリントの教会は無秩序に近い状態でした。グループ間の争いが絶えなかったのです。信仰の一致が揺らいでいたのです。「わたしはパウロに」、「わたしはアポロに」、「わたしはケファに」につくと言い合っていたのです(1コリント1:10-17)。不道徳の問題も深刻でした。ある人は父の妻をわがものとしていたのです(1コリント5:1-13)。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」(出エジプト記32:6)とあるように偶像礼拝も蔓延しているのです(1コリント10:1-22)。敵対する人々はパウロの権威を失墜させるために画策していたのです(1コリント4:1-5)。コリントの信徒たちは「救いの意味」を誤解しているのです。何事に対しても自由奔放に生きているのです。教会はパウロの見解を質すのです。パウロは「弱い人々」のために自由の制限(節制)が必要であることを教えたのです。使徒の諸権利を放棄して例示したのです。


*パウロが去ってからコリントの教会は論争と混乱の中にありました。パウロの教えから逸脱した信仰理解が原因の一つだったのです。信徒の中には知恵や知識を誇る人々がいたのです。これらの人はキリスト信仰を知的(自分本位)に理解しているのです。パウロは「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らない」と批判したのです(1コリント8:1-2)。霊的な賜物(異言や預言)を誇る人々には、それは神様が与えられた賜物であって、教会全体の益のために用いるように指示したのです(1コリント12-14)。コリントの教会は栄光に輝くイエス様と共にいるのです。天上の支配者(王様)であるかのように振る舞っているのです。勝手に信仰を自負しているのです(1コリント4:8)。彼らにとってパウロたちの助けはもはや不要なのです。パウロは彼らが失格者にならないように「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。・・次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」と証しするのです(1コリント15:3-8)。神様の知恵であるキリスト・イエスに目を向けさせるのです。


*パウロは一人でも救うために何でもしたのです。このために、様々な迫害を受けたのです。「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。・・」と言っています(2コリント11:23-29)。福音宣教に全身全霊を捧げたのです。パウロはコリントの信徒への手紙―を含めて少なくても七つの手紙を書いています。いずれにおいても「啓示による信仰」が基調になっているのです。不正や不公平に満ちた社会の変革にほとんど言及していないのです。神様が直接介入して社会正義を実現して下さることを確信していたからです。信徒たちにも不安定な現実の生活に思い悩むことなく、罪から救われるために信仰心に溢(あふ)れた生活に努めることを勧めていたのです。しかし、このような信仰理解は貧しい人々や虐げられた人々の解放(救い)に心を砕かれたイエス様の視点とは明らかに異なっているのです。パウロはイエス様が宣教された「神の国」の到来を「個人の救い」に縮小しているのです。キリスト信仰をパウロの信仰理解によって説明する際はこの点に留意することが必要です。それにも関わらず、パウロの宣教姿勢から学ぶことが多いのです。大きく分けて二つ挙げることが出来ます。一つは、混乱したコリントの教会の信徒たちに福音の本質-キリスト・イエスに焦点を当てること-を再度示したことです。もう一つは、自分の労働によって生活の糧を確保したことです。教会から自由になることによって信徒たちを正しく導くことが出来るのです。

*経済的に依存する宣教者たちは往々にして教会の有力者たちに迎合するのです。彼らの要求に応じなければ、彼らの信仰理解を認めなければ生活の糧を失うかもしれないのです。日本では少ないのですが、欧米の牧師夫婦には共働きが多いのです。これによって、教会から自由になって大切な意思決定をすることが出来るのです。パウロは自分の信仰の確信について誰からも束縛されないと言っています。コリントでポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会っています。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、二人は最近イタリアから来たのです。パウロと職業が同じであったのです。パウロは彼らの家に住み込んで一緒にテント造りをしたのです。安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていたのです(使徒18:1-4)。パウロは仕事をしながらキリスト信仰を証ししたのです。様々な問題を抱える信徒たちには適切なアドバイスが求められるのです。時には意見も厳しくなるのです。その際、経済的に自立していることが不可欠なのです。「安価な恵み」に慣れた信徒たちは原則に忠実な宣教者を屈服させるか、排斥しようとするのです。パウロは教会の支配を断固として拒否するのです。福音を告げ知らせるときにはそれを無報酬で伝え、自分が持っている諸権利を行使しないのです。神様からの報酬のみを望んでいるのです。パウロは迫害していた自分を用いて下さった神様に心から感謝しているのです。与えられた使命を果たそうとする決意がひしひしと伝わって来るのです。

*信仰は理論や神学によって得られるものではないのです。神様の導きによって、人はキリストの信徒になるのです。キリスト信仰を標榜(ひょうぼう)する人がキリストの信徒ではないのです。イエス様の生き方に倣(なら)う人、御跡を辿(たど)る人がキリストの信徒なのです。イエス様が生と死と復活を通して宣教された「神の国」への応答の如何によってその人の「救い」は決定されるのです。パウロは確かに「復活の主」に出会ったのです。しかし、イエス様から直接教えを受けていないのです。「神の国」の福音を「啓示による信仰」によって理解したのです。社会的な視点-正義と公平に対する認識-がほとんど見られないのです。男尊女卑を肯定するかのように「女が男のために造られた」と言うのです(使徒11:1-16)。ローマ帝国の圧政と搾取に苦しむ人々に支配者への従順を説いているのです(ローマ13:1-7)。パウロにはキリスト信仰を哲学的、神学的に語る傾向があるのです。その際、イエス様の宣教姿勢に立ち帰ることが重要です。一方、パウロは「復活の主」を全身全霊で証しするのです。この世の誘惑に屈してキリスト信仰から遠ざかった人々に悔い改めを求めているのです。言葉だけではなく、生き方によって「永遠の命」に至る道を示したのです。労働によって経済的自立を確保するのです。自己を抑制し、節制するのです。対象者を徹底的に配慮するのです。一人でも救うために命さえも惜しまないのです。キリスト信仰とは「神の国」の到来を福音として信じることです。パウロがイエス様を超えることはないのです。

2024年05月26日

「パウロの召命」

Bible Reading (聖書の個所)使徒言行録22章1節から21節


「兄弟であり父である皆さん、これから申し上げる弁明を聞いてください。」パウロがヘブライ語で話すのを聞いて、人々はますます静かになった。パウロは言った。「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。このことについては、大祭司も長老会全体も、わたしのために証言してくれます。実は、この人たちからダマスコにいる同志にあてた手紙までもらい、その地にいる者たちを縛り上げ、エルサレムへ連行して処罰するために出かけて行ったのです。」

「旅を続けてダマスコに近づいたときのこと、真昼ごろ、突然、天から強い光がわたしの周りを照らしました。 わたしは地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と言う声を聞いたのです。『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』と答えがありました。一緒にいた人々は、その光は見たのですが、わたしに話しかけた方の声は聞きませんでした。『主よ、どうしたらよいでしょうか』と申しますと、主は、『立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる』と言われました。わたしは、その光の輝きのために目が見えなくなっていましたので、一緒にいた人たちに手を引かれて、ダマスコに入りました。ダマスコにはアナニアという人がいました。律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人でした。 この人がわたしのところに来て、そばに立ってこう言いました。『兄弟サウル、元どおり見えるようになりなさい。』するとそのとき、わたしはその人が見えるようになったのです。アナニアは言いました。『わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです。今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。』」

「さて、わたしはエルサレムに帰って来て、神殿で祈っていたとき、我を忘れた状態になり、主にお会いしたのです。主は言われました。『急げ。すぐエルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々が受け入れないからである。』わたしは申しました。『主よ、わたしが会堂から会堂へと回って、あなたを信じる者を投獄したり、鞭で打ちたたいたりしていたことを、この人々は知っています。また、あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのです。』すると、主は言われました。『行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。』」


(注)


・アナ二ア:ダマスカスに住む信仰篤いキリストの信徒です。神様はこの人に命じてパウロを導かれたのです。


・パウロの回心:使徒言行録9:1-19、26:12-18を併せてお読み下さい。


・タルソス:ローマ帝国キリキア州の州都、現在はトルコの都市です。


・ダマスコ:ガリラヤ湖の北東約100kmにある町、現在はシリアの首都(ダマスカス)です。歴史的にはエルサレムの大祭司にダマスコにある会堂に命令を下す権限はなかったのです。


・この道:「新しい教え」、すなわち、キリスト信仰のことです。


・ガマリエル:ルカが人物像について若干言及しています。しかし、詳細は不明です。


・バルナバ:精霊様と信仰とに満ちた立派な人物です。パウロを大いに助けています。使徒9:27、11:22-30を参照して下さい。

・パウロの手紙:パウロは各教会宛てに手紙を書いたのです。「神学」ではないのです。この点に留意することが必要です。ローマの信徒への手紙、コリント信徒への手紙一、コリント信徒への手紙二、ガラテヤの信徒への手紙、フィリッピの信徒への手紙、テサロニケの信徒への手紙一、フィレモンへの手紙の七つはパウロの著作であることが確認されています。それ以外は弟子あるいは他の人が書いたものとされています。

・パウロの信仰告白:

■わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。(1テモテ1:12-17)。

・パウロの「神の国」:イエス様が宣教された「神の国」が個人的な問題に縮小されているのです。

■正しくない者(たち)が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者(たち)、偶像を礼拝する者(たち)、姦通する者(たち)、男娼(たち)、男色をする者(たち)、泥棒(たち)、強欲な者(たち)、酒におぼれる者(たち)、人を悪く言う者(たち)、人の物を奪う者(たち)は、決して神の国を受け継ぐことができません。あなたがたの中にはそのような者(たち)もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者(たち)とされ、義(神様との正しい関係にある者たち)とされています(1コリント6:9-11)。

(メッセージの要旨)


*サウロはキリスト信仰の主要な迫害者の一人でした。召命後は異邦人宣教の中心的役割を担ったのです。サウロが新約聖書に登場するのはエルサレムにおけるギリシャ語を話す教会の指導者の一人、ステファノの処刑に立ち会ったことからです。ディアスポラ(外国に住んでいた信徒たち)を脅迫して信仰を断念させようとしたのです。迫害の手を伸ばすために大祭司にダマスコの諸会堂あての手紙(逮捕許可)を求めたのです。ダマスコに近づいたとき、イエス様から呼びかける声を聞いて回心したのです。当初、アナニアはサウロの回心を疑っていたのです。しかし、主は「あの者はわたしが選んだ器である」と言われたのです。アナニアは主の命に従い、サウロに手を置いて「神様の御心」を伝えたのです。サウロの回心は復活されたイエス様が言われたように、本人にとって二重の大きな苦しみとなったのです。律法に従い神様への冒涜者を取り締まっていたユダヤ人たちからは裏切り者として命を狙われたのです。一方、サウロに迫害されていた信徒たちからはその非情さと執拗さを恐れられたのです。信仰共同体(教会)は一員として加わることを拒否したのです。苦境にあったサウロを支え、励ましたのがバルナバでした(使徒9:27-28)。二人は第一次宣教(使徒13:1-14:28)に出かけたのです。第三次宣教旅行(18:23-21:16)を終えてエルサレムに戻ったのです。この間、自らの回心を告白し、イエス・キリストについて証しし、「天の国」を宣べ伝えたのです。しかし、神殿冒涜の罪で逮捕されローマへ護送されたのです。


*パウロは民衆全体から尊敬されているファリサイ派の教師ガマリエルの下で厳しい教育を受けたのです。ガマリエルは最高法院において「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。・・あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ」と理不尽な迫害に警鐘を鳴らしたのです(使徒5:33-40)。議員たちはガマリエルの勧告に従ったのです。ところが、パウロは他の誰よりも苛酷(かこく)にキリストの信徒たちを迫害したのです。男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。使徒言行録の著者ルカはパウロの回心について三回も言及しています。イエス様はご自身がパウロに現れた理由について「あなたを奉仕者、また証人にするためである・・」と言われたのです(使徒26:9-18)。パウロは繰り返しこの点を強調するのです。しかし、聖なる人々を苦しめたことや殺害したことに対する罪の意識や後悔の念は見られないのです。ギリシャ哲学を学んだ人らしく淡々と「以前、わたしは神を冒涜する者・・でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました」、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られたという言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です」と言うのです(1テモテ1:15)。これでは、人々の心に響かないのです。


*イエス様は愛するラザロが病気で死に、姉妹や村人たちが泣いているのをご覧になって死が人間を支配していることに憤りを覚えられたのです。ご自身も涙を流されたのです(ヨハネ11:28-35)。ペトロはイエス様が裁判を受けておられる時、近くにいた人が質問しても弟子であることを三度も否定したのです。「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう」と言われたイエス様のお言葉を思い出して激しく泣いたのです(マタイ26:69-75)。パウロは意図的ではないとしてもキリスト信仰を知的に表現しているのです。パウロは洗礼を受けた後、あちらこちらの会堂で「イエス様が神の子であること」を証ししたのです。これまでのパウロを知っているユダヤ人たちは皆非常に驚いたのです。彼らは裏切り者のパウロを殺そうと昼も夜も町の門で見張っていました。ところが、キリストの信徒たちが逃亡を助けたのです。パウロは無事にエルサレムに着くことが出来たのです。仲間に加えてもらおうとしたのですが信徒たちから拒否されたのです。バルナバが使徒たちにパウロの回心とダマスコでの活動を説明してようやく認められたのです。パウロはエルサレムでも大胆に「復活の主」を宣べ伝えたのです。ここでもギリシャ語を話す(キリスト信仰へ改宗していない)ユダヤ人たちはパウロを殺そうと狙っていたのです。結局、パウロは故郷のタルソスヘ戻ることになったのです。皮肉なことに、ユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方に平和が訪れたのです。教会は神様を礼拝し、聖霊様から慰めを受け、信者の数を増やしたのです。


*パウロの考え方を教理に採り入れている教会があります。ただ、パウロの信仰理解にはイエス様の教えや宣教内容と異なる点があることも指摘しておかなければなりません。パウロは自分が憐れみを受けたことや罪人の頭であることは述べているのですが、人々に与えた苦痛に対する謝罪は一言も表明していないのです。確かに、パウロは回心したのです。使徒として、各教会あてに手紙を書いています。ところが、それらの中には罪人であった過去を忘れたかのような、時には尊大とも言える律法主義的な言葉使いや表現がなお残っているのです。迫害を受けたキリストの信徒たちには家族や親戚がいるのです。ステファノの死を悲しんで遺体を埋葬したキリストの信徒たちもいるのです(使徒8:2)。パウロが犯した罪はなかったことにはならないのです。傷つき、愛する人を失った人々の苦しみや悲しみが完全に癒(い)えることはないのです。四福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)が記述しているように、イエス様の主要な関心事は「天の国」の到来です。今や、それはイエス様を通して実現しているのです。「目の見えない人々は見え、足の不自由な人々は歩き、・・耳の聞こえない人々は聞こえ、死者たちは生き返り、貧しい人々は福音を告げ知らされている」のです(ルカ7:22)。イエス様は「愛」によって律法を解釈し、「力ある業」を通して「天の国」を証しされたのです。しかし、パウロの中心テーマは「天の国」ではなく、罪あるいは罪人なのです。「天の国」に言及する時も、それを個人的な信仰心や敬虔さの観点から語ったのです。


*今日、パウロの手紙が人々をキリスト信仰へ導く有力な解説書になっているのです。ただ、パウロはキリスト信仰に関する無謬(誤りのない)の解釈者ではないのです。パウロはイエス様の宣教に従事していないのです。イエス様から直接教えを受けたこともないのです。これらがキリスト信仰を生活の場から切り離して神学的(哲学的)に理解する要因にもなっているのです。イエス様が宣教された「天の国」の福音が個人の「罪からの救い」に縮小されているのです。キリスト信仰とは「神様と隣人」を愛して生きることなのです。イエス様に倣(なら)って「天の国」の建設に参画することなのです。イエス様は最後の審判における判断基準を示しておられるのです(マタイ25:35-45)。行いを伴わない悔い改めは空しいのです。サウロがそうであったように、キリストの信徒たちも他の人々に苦しみや悲しみを与えているのです。回心は悔い改めで完結しないのです。犯した罪を生涯忘れないことなのです。神様が傷つかせた人々を癒して下さるように心から願うことなのです。「復活の主」は使徒たちや弟子たちを立ち直らせられたのです。迫害者サウロさえ回心させ異邦人宣教に用いられたのです。サウロは洗礼を受けた後ダマスコの弟子たちと一緒に諸会堂でイエス様が神の子であることを論証したのです。その後も、キリスト信仰の発展に大きな役割を果たすことになるのです。異邦人たちは闇を捨てて光に向かい、サタン(悪魔)の支配から解放されるのです。「罪の赦し」と「救い」の恵みに与れるようになったのです(使徒26:17-18)。

2024年05月19日

「天の国はあなたがたのもの」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書5章1節から16節

イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。柔和な(権力のない)人々は、幸いである、/その人たちは地(土地)を受け継ぐ。義(正義)に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。義(正義)のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

(注)

・ルカの「平地の説教」(6:20-26)と比較して下さい。「幸い」だけでなく「不幸」(天罰)が記述されています。

・群衆:直前の4:23-25にあるように、イエス様の奇跡(あらゆる病気を癒されたこと)を聞いて、ガリラヤ、デカポリス(主にガリラヤ湖の南東地域)、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から大勢の群衆が来て、イエス様に従ったのです。エルサレムの宗教指導者たちが民衆を掌握するまでは、人々はイエス様の教えに共感していたのです。聖書地図を参照して下さい。

・天の国:神様の支配、働きのことです。「神の国」と同じです。マタイは「神様」という表現を避けたのです。「天の国」を用いたのです。ただ、「神の国」(12:28;19:24;21:31、43)を使っている個所もあります。誤解されているのですが、死後に行く「天国」のことではないのです。

・心の貧しい人々は幸いである:ルカ6:21では「貧しい人々は幸いである」となっています。イエス様はご自身の宣教の視点を明確にされているのです(ルカ4:18-19)。

・正義の神様:

■それゆえ、主は恵みを与えようとして/あなたたちを待ち/それゆえ、主は憐れみを与えようとして/立ち上がられる。まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人(人々)は。(イザヤ書30:18)

■わが民の中には逆らう者がいる。網を張り/鳥を捕る者のように、潜んでうかがい/罠を仕掛け、人を捕らえる。籠を鳥で満たすように/彼らは欺き取った物で家を満たす。こうして、彼らは強大になり富を蓄える。彼らは太って、色つやもよく/その悪事には限りがない。みなしごの訴えを取り上げず、助けもせず/貧しい者を正しく裁くこともしない。これらのことを、わたしが罰せずに/いられようか、と主は言われる。このような民に対し、わたしは必ずその悪に報いる。恐ろしいこと、おぞましいことが/この国に起こっている。預言者は偽りの預言をし/祭司はその手に富をかき集め/わたしの民はそれを喜んでいる。その果てに、お前たちはどうするつもりか。」 (エレミヤ書5:26-31)

■・・主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。・・見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ。(エゼキエル書34:1-10)

(メッセージの要旨)

*聖書の個所は「山上の説教」(5章―7章)の冒頭部分です。新共同訳聖書では「幸い」の小見出しが付けられています。イエス様の宣教活動はガリラヤから始まりました。この地にある諸会堂で教え、「天の国」(神の国)の福音を宣べ伝えられたのです。また、人々の悩み、悲しみ、ありとあらゆる病気を癒されたのです。イエス様の教えや力ある業の評判を聞いてガリラヤはもとより、デカポリス、エルサレム、ユダヤの各地から大勢の群衆が来たのです。当時のユダヤはローマ帝国の支配下にありました。神殿政治を担う指導者たちは当局に協力して民衆を搾取したのです。一般民衆の生活は困窮を極めたのです。その日の糧を得るために奔走(ほんそう)する毎日だったのです。イエス様が教えられた「主の祈り」にその状況が反映されているのです(マタイ6:11)。イザヤが預言しているように、神様は貧しい人々に福音を告げ、捕らわれている人々を解放し、圧迫されている人々を自由にするために、イエス様を遣わされたのです(イザヤ書61:1-2)。イエス様に従う群衆は貧困と苦難の中で心身が疲弊していたのです。イエス様に倣(なら)って「天の国」の福音を宣教する弟子たちは迫害に遭遇しているのです。イエス様はこれらの人を深く憐れまれたのです。キリスト信仰の真髄(しんずい)を語られたのです。神様はご自身を信じる人々と共におられ、終わりの日にはそれぞれの労苦に報いて下さることを明言されたのです。「幸い」は群衆に生きる希望と勇気を与えたのです。キリスト信仰を標榜する人々には大いなる慰めとなったのです。


*日本語訳はイエス様のお言葉を正確に伝えないことがあるのです。特に政治的な言葉や文章の意味が和らげられているのです。完全に変更されたりしている個所も見られるのです。キリスト信仰が「罪からの救い」、「道徳の教え」として限定的に理解される要因にもなっているのです。「天の国」の福音はこの世の隅々に及ぶのです。社会・政治・経済の変革を求めるのです。日本(欧米)においてはキリスト信仰を神様との個人的な関係とし位置づける傾向があります。このような信仰理解はユダヤ教にもイエス様の時代にもなかったのです。イスラエルの民は信仰共同体として神様を礼拝したのです。神様は「わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである」と言われたのです(創世記18:19)。アブラハムを召命された理由は世界のすべての国民が彼によって祝福に入るためなのです。旧・新約聖書は「正義と愛の神様」を伝えているのです。キリスト信仰の本質もここにあるのです。イエス様に倣(なら)う人々は権力者たちの不正を告発するのです。迫害は避けられないのです。「心の貧しい人々」、「悲しむ人々」、「柔和な人々」、「義に飢え渇く人々」、「憐れみ深い人々」、「心の清い人々」、「平和を実現する人々」、「義のために迫害される人々」、「ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる人々」は幸いなのです。神様は戒めを心に刻み、正義を実行する人々を祝福されるのです。


*「心の貧しい」とは謙遜のことではないのです。貧困と迫害に苦しむ人々の心の状態を表しているのです。これらの人は「天の国」の福音を妨げる大きな力の前に心が萎(な)えているのです。ユダヤ人歴史家ヨセフスはローマ帝国による暴虐の例を挙げています。イエス様がお生まれになった頃、ローマ軍は抵抗するガリラヤの町に住むおよそ2000人を十字架上で処刑したのです。ローマの歴史家クインティリアヌスはその後も見せしめのために公の場所で十字架刑が執行されたことを伝えているのです。人々の心に恐怖が植え付けられたのです。神様は絶望の淵にある人々を立ち上がらせて下さるのです。「悲しむ人々は幸いである」も個人的な悲しみへの慰めというよりも、外国の勢力や権力者たちの下で屈辱的に生きるイスラエルの民の解放への約束なのです。イザヤは「・・わたしたちの神が報復される日を告知して、嘆いている人々を慰め、 シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。・・」と預言しているのです(61:2-3)。神様が信仰に生きる人々の涙を拭って下さるのです。「柔和な人々」も穏やかな人々のことではないのです。圧政下にあってなす術(すべ)もない無力感を覚える人々のことなのです。神様は逡巡(しゅんじゅん)する民に「・・わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得、あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、それを得ることができるであろう」と言われたのです(申命記4:1)。


*「義に飢え渇く」、「義のために迫害される」は個人的な信仰心の篤さを示しているだけではないのです。「義」(Righteousness)と訳されている言葉には、「正義」(Just)という意味があるのです。預言者ミカは「・・何が善であり、 主が何をお前に求めておられるかはお前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」と言っています(ミカ書6:8)。ゼカリアも同じ趣旨のことを預言しているのです(ゼカリア書7:9-10)。イエス様は神殿政治の腐敗を激しく非難されたのです。既得権益に執着する指導者たちはイエス様を十字架上で処刑させたのです。神様はイエス様の正しさを「復活」を持って証明されたのです。「正義」を貫く人の正しさが明らかになったのです。「平和を実現する」はローマ帝国の支配下にあったユダヤ人たちの現状が「平和」でないことを表しているのです。民衆は当局から過酷な税を課せられたのです。彼らの必要に応じて男性は労働に徴用されたのです。女性は凌辱(りょうじょく)の危険に晒(さら)されたのです。暴力的な手法を用いなかったとしても、独立の要求は反乱と同じなのです。厳罰に処せられたのです。その人たちは神様の子と呼ばれるのです。「憐れみ深い人々は幸いである」は憐れみ深くあることの難しさを語っているのです。裁くことより赦すことが出来る人たちは神様から憐れみを受けるのです。「心の清い人々は幸いである」はこの世の悪から遠ざかり、主の教えを愛し、昼も夜も口ずさむ人々のことです。これらの人はいつも神様を見ているのです。


*イエス様の教えは本質的にこの世と相容れないのです。「神様の御心」を実行すれば必ず犠牲が伴うのです。弟子たちには繰り返し覚悟が求められたのです。「地の塩」とはキリスト信仰を日々の生活において具体化することです。個人的な信仰心を深めるだけでなく、社会に正義を確立するために全力で奉仕することです。自らの立場を鮮明にして貧しい人々や虐げられた人々と共に歩むことなのです。この世はイエス様が「光」として来られたことを認めなかったのです(ヨハネ1:11)。ところが、イエス様を「救い主」と信じた人々には神様の子となる資格が付与されるのです。キリストの信徒たちには暗闇が支配するこの世において「光」をともし続ける使命があるのです。良い行いによって「天の国」の到来が福音(良い知らせ)となるのです。キリスト信仰は「罪の問題」を解決することで完結しないのです。「神様の正義」を光として輝かせるのです。終わりの日-イエス様の再臨の日-までこの世の支配者たちの罪を告発するのです。一方、イエス様は「山上の説教」を締め括(くく)るにあたって弟子たちに注意を促されたのです。「滅びに通じる門は広く、その道も広々して、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出すものは少ない」と言われるのです(マタイ7:13-14)。「主よ、主よ」と言う人が「天の国」に受け入れられるのではないのです。狭い門から入る人々だけに「救い」が訪れるのです。「神様の御心」を実行する人々だけが「永遠の命」を得るのです(マタイ7:21)。

2024年05月12日

「赦しなさい・・・あなたも赦される」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書18章15節から35節

「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

(注)

・兄弟:教会のメンバーのことです。

・二人または三人が集まる場所:法廷のことです。

・家来:この日本語訳は当時の厳しい現実を曖昧にするのです。「奴隷」と訳すべき言葉です。

・赦し:この言葉には「解放」という意味があります。

・七の七十倍:7は完全を表し、ここでは無限の赦しを意味します。創世記4:15、レビ記26:18、ルカ17:4、黙示録1:4、12、16を参照して下さい。

・1タラントン:労働者の賃金の15年分以上に相当する額です。例えば、労働者の一日の賃金が10,000円とし、休日を度外視して単純に計算すると、10.000円×365日×15年=54,750,000円となります。一万タラントンは5,475億円となります。

・1デナリオン:普通の労働者の一日の賃金に相当する額です。百デナリオンは100日分の賃金、すなわち上の例で換算しますと100万円となります。

・主の祈り:「・・『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」 (マタイ6:9-15)

・神の国:天の国とも言います。死後に行く「天国」のことではありません。神様の支配を表す言葉です。

・神様の御心:

■主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者(人々)を虐げる者(たち)の手から救え。寄留の外国人(たち)、孤児(たち)、寡婦(たち)を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人(たち)の血を流してはならない。(エレミヤ書22:3)

■もし、ある人が正しく、正義と恵みの業を行うなら、すなわち、山の上で偶像の供え物を食べず、イスラエルの家の偶像を仰ぎ見ず、隣人の妻を犯さず、生理中の女性に近づかず、人を抑圧せず、負債者の質物を返し、力ずくで奪わず、飢えた者(人々)に自分のパンを与え、裸の者(たち)に衣服を着せ、利息を天引きして金を貸さず、高利を取らず、不正から手を引き、人と人との間を真実に裁き、わたしの掟に従って歩み、わたしの裁きを忠実に守るなら、彼こそ正しい人で、彼は必ず生きる、と主なる神は言われる。(エゼキエル書18:5-9)

(メッセージの要旨)

*聖書の理解を深めるためには当時の社会的、経済的、政治的背景を念頭に置くことが重要です。一世紀のイスラエルにおける貧困の原因はローマ帝国の支配とそれに協力するユダヤ人指導者たちの過酷な搾取にあるのです。イエス様は「神様の御心」に沿って生きられるように、弟子たちに「わたしたちの罪を赦して下さい。わたしたちも自分の負い目(負債)のある人を赦しますから」と祈るように教えられたのです(ルカ11:4)。また、忠告を聞き入れない人に「異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と言われたのです。意味が誤解されているのです。悔い改めない兄弟(姉妹)を破門するとか追放することではないのです。イエス様は罪を犯した人を何とかして救おうとされているのです。律法を知らない異邦人や罪人として扱われている徴税人に対するように忍耐と憐れみを持って導きなさいということなのです。一方、憐れみのない人々には厳しい罰が下されるのです。罪を犯さない人は誰もいないからです。多額の借金を帳消しにしてもらったのに、それよりはるかに少額な負債-金額は少額ではありません-を取り立てる姿は人間の貪欲さと利己主義を浮き彫りにするのです。この世においては債権を回収することが認められているのです。人の罪を告発し,裁くことも許されているのです。しかし、「神の国」においては負債を免除しないことが罪なのです。人の罪を赦さなければ、自分の罪も赦されないのです。キリストの信徒たちは憐れみによって生かされたのです。隣人の痛みにも心を砕くのです。信仰と行いは切り離すことは出来ないのです。

*聖書をどのような立ち位置で読むかによって理解も異なるのです。忠告する人も罪を犯すのです。犯していても気づかないことがあるのです。自分も罪人の一人であることを肝に銘じるのです。イエス様は徴税人たちや罪人たちと一緒に食事をすることを非難するファリサイ派の律法学者たちに「医者を必要とするのは、丈夫な人(人々)ではなく病人(たち)である。わたしたが来たのは、正しい人(人々)を招くためではなく、罪人(たち)を招くためである」(マルコ2:13-17)、「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」と言われたのです(ルカ15:3-7)。福音書記者ヨハネは「神は、その独り子(イエス様)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」と記述しています(ヨハネ3:16-17)。百匹の羊を持っている人が群れから迷い出た一匹の羊を見つけるまで探し回るように、神様はご自身の下を離れた罪人が一人も滅びないように最善を尽くされるのです。イエス様は「神様の御心」を実現するためにこの世に来られたのです。イエス様のご指示が守られていないのです。罪を犯した兄弟(姉妹)が信仰の友ではなく、被告人として扱われているのです。赦しの広さと深さが数字で表現されているのです。キリスト信仰を標榜する人々は自分たちも福音の恵に与っていること忘れてはならないのです。

*罪を犯した兄弟(姉妹)の「救い」に怠惰(たいだ)であってはならないのです。手順を尽くして悔い改めに導くのです。イエス様は兄弟が犯した罪の内容について言及しておられないのです。譬え話から借金の返済に関係しているように推測されるのです。イエス様は「一定の手続き」の後に罪人の「救い」を断念している教会(信徒たちの)の誤りを指摘されたのです。二人または三人が心を一つにして兄弟(姉妹)の「救い」を願うなら、共にいて罪人を悔い改めへと導かれるのです。イエス様はペトロに七の七十倍まで赦しなさいと言われたのです。人間の判断で「神様の御心」を軽んじてはならないのです。弟子たちが「神の国」の福音を正しく理解出来るように厳しい現実に目を向けられたのです。人々にとって過酷な税と借金は深刻な問題だったのです。高利が民衆を苦しめているのです。譬え話に登場する人物は一万タラントンという途方もない借金を債権者の憐れみによって帳消しにしてもらったのです。ところが、自分に百デナリオンの負債がある人からは非情にも取り立てるのです。人間の本性(罪深さ)がよく表れているのです。結局、この人は借金の棒引きを取り消され、返済が終わるまで牢に閉じ込められたのです。イエス様は「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら-負債を免除しないなら-わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」と言われたのです。キリスト信仰とは「神様と隣人」を愛して生きることなのです(ルカ10:25-28)。正義と赦しを欠く信仰はその人の「救い」に役立たないのです。

*かつて、ペトロはイエス様から「サタン、引き下がれ」と厳しい言葉で叱責されたのです。しかし、後に初代教会の実質的なリーダーになったのです(マタイ16:23)。赦しは罪を犯した人々を生かすのです。神様は寛大な人々を祝福されるのです。イエス様の中心メッセージは「神の国」の到来にあるのです。「神様の主権」がこの世の隅々に行き渡ることが福音(良い知らせ)なのです。神様が共におられる所ではこの世の常識は通用しないのです。自分の権利と同じように隣人愛を大切にするのです。キリスト信仰は個人の「霊的な救い」として実を結ぶだけではないのです。人間の「全的な救い」として実現するのです。社会・経済・政治に関わる制度や人々の関係が「神様の御心」に相応しい形へ変更されるのです(ルカ4:18-19)。寝食を共にしてイエス様から教えを受け「力ある業」に直接触れたペトロでさえも「福音の真理」を誤解しているのです。弟子たちも同様なのです。王は家来の非情な振る舞いに激怒して「借金の免除」を無効にしたのです。「天の国」に招き入れた人々の「救い」は途上にあるのです。「終わりの日」-イエス様が再臨される日-に最終的に判断されるからです。「兄弟が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねたか」どうかが問われるのです(マタイ20:31:46)。信仰のみによって「永遠の命」が保証される訳ではないのです。キリストの信徒たちは感謝と共に「神の国」を証しするのです。

*神様の憐れみによって「救い」に与っているのです。イエス様の御跡を辿(たど)って「神の国」の建設に全力を注ぐのです。キリスト信仰とは信じることではないのです。信じて戒めを実践することなのです。キリストの信徒たちは多くの罪を赦されていながら、いつの間にか自分たちを信仰深い人間の範疇(はんちゅう)に入れているのです。悔い改めを求められている罪人の一人ではなく、忠告する側に立って罪人を裁いているのです。罪人の赦しを七回までとし、教会から追放することも容認するのです。イエス様は信仰心を装う律法学者たちやファリサイ派の人々に厳しい罰を宣告されました。「いったいだれが、天の国で一番偉いのでしょうか」と質問する弟子たちに「心を入れ替えなければ天の国に入ることは出来ない」と言われたのです(マタイ18:1-5)。信仰の傲慢は「死に至る病」なのです。徴税人たちは罪人として軽蔑され、社会から排斥されていました。ところが、神様は「罪人のわたしを憐れんで下さい」と祈った徴税人を正しい人とされたのです(ルカ18:9-14)。赦しを経験し、罪人であることを自覚した人々の言葉には力があるのです。信仰体験が相手の心に響くのです。しかし、兄弟(姉妹)を心情的に赦すことで完結しないのです。赦しには何らかの「犠牲」が伴うのです。相手の重荷を自分のものとして担うことなのです。七の七十回の赦しは不可能に見えるのです。神様は罪人たちが帰って来るのを忍耐強く待っておられるのです。イエス様は罪人たちの「救い」に奔走(ほんそう)する人々を支えて下さるのです。

2024年05月05日

「信徒の使命と覚悟」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書10章1節から23節

イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。

イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人(たち)の道に行ってはならない。また、サマリア人(たち)の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人(たち)をいやし、死者(たち)を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人(人々)を清くし、悪霊(たち)」を追い払いなさい。(あなたがたは)ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者(たち)が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」

「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々(狼たち)を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人(たち)に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。

(注)


・12使徒:ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネは漁師でした(マタイ4:18-22)。フィリポはイエス様から「わたしを見た者は、父を見たのだ」と叱責されました(ヨハネ14:8-9)。トマスはイエス様が「神様であること」を明言しました(ヨハネ20:24-29)。マタイはローマ帝国の税の取り立てに協力する徴税人でした(マタイ9:9-13)。もう一人のシモンはローマ帝国の支配に武力で抵抗する「熱心党」に属していました。イスカリオテのユダは祭司長たちからお金をもらってイエス様を裏切りました(マルコ14:10-11)。バルトロマイ、アルファイの子ヤコブとタダイの詳細は不明です。


・異邦人宣教:マタイ8:5-13,15:21-28,28:19-20に記述されています。


・サマリア宣教:ヨハネ4章、ルカ9:51をお読みください。


・イスラエルの家の失われた羊:牧者と羊の関係については民数記27:16-17、イザヤ書40:11、エゼキエル書34:1-6を参照して下さい。

・天の国:神の国と同じです。神様の支配を意味しています。天上と地上において神様が神様として崇められることです。

・家:当時、教会を兼ねている家もありました。

・足の埃を払い落とすこと:強い拒絶反応を表しているのです。

・ソドムとゴモラ:いずれも不信仰の町です。旧約聖書創世記18章、19章に登場します。

・エッセネ派:ユダヤ教の一派です。ユダヤ人歴史家ヨセフスが著書「ユダヤ戦記」において、彼らの特色を紹介しています。正義と公平を重んじ、禁欲的な生活を貫いたのです。

・シニク派:哲学の一派です。日本語では犬儒(けんじゅ)学派と訳されています。人間的な欲を捨てて犬のような生活を送ったことからこの名が付けられたのです。

・主の祈り:「天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人(人々)を/赦しましたように。わたしたちを誘惑(試練)に遭わせず、/悪い者から救ってください。」(マタイ6:9-13)

・人の子:この場合は「最後の審判者」のことです。

・ミッション(The Mission ):280年前の宣教活動をリアルに描いたイギリス映画です。1986年に製作されました。登場人物は架空です。しかし内容は史実に沿っているのです。

(メッセージの要旨)


*キリスト信仰における最も大きな問題は「神の国」の福音が「罪の赦し」に縮小されて理解されていることです。「永遠の命」は安価な恵みではないのです。「救い」に与るためにはそれに相応しい働きが求められるのです。イエス様は町や村を回り、会堂で教え、ありとあらゆる病気や患いを癒しておられました。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれたのです。そこで、弟子たちの中から12使徒を選び派遣したのです。福音宣教は御言葉を伝えるだけではないのです。人々が悩み苦しんでいる様々な問題を具体的に解決するために奉仕することなのです。「神の国」の福音は人間の「全的な救い」として具体化されるのです。福音が「罪の赦し」として語られているのですが、それは「神の国」の一部です。キリスト信仰は自分の救いだけを願う信仰ではないのです。観念的(神学的)な理解で完結する知的信仰でもないのです。全身全霊で「神様と隣人」を愛して生きる信仰なのです。イエス様は絶望の淵にある人々の生活の場へ下って行かれたのです。ご自身に倣(なら)って「神の国」の到来を伝え、病気や患いを癒し、希望を与えなさいと命じられたのです。キリスト信仰を標榜する人々はこの視点を大切にするのです。神様を愛する人は隣人の悩みや悲しみに心を砕くのです。重荷を取り除くための方策に直接的、間接的に参画するのです。使徒たちに与えられた命令はキリストの信徒たちへのご指示でもあるのです。実行することは容易ではないのです。しかし、イエス様が共にいて支えて下さるのです。


*今回の宣教は困難を覚えるユダヤ人たちに限定されているのです。ただ、別の機会にサマリア人たちや異邦人たちにも福音は届けられているのです。宣教内容は「天の国の到来」です。この点を心に刻むのです。旧・新約聖書には「イスラエルの家の失われた羊」の歴史が記述されています。「神様の御心」を軽視する指導者(祭司や議員)たちや彼らに同調する人々の罪が取り上げられているのです。神様は預言者エゼキエルを通して「・・災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者(王)たちは。牧者は群れ(イスラエルの民)を養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。・・彼らは飼う者がいないので散らされあらゆる野の獣(エジプトやバビロニアなどの外国)の餌食となり、ちりぢりになった」と言っておられます(34:1-6)。イエス様の時代においても状況は変わっていないのです。不正と腐敗が社会の隅々に蔓延しているのです。神様に選ばれたイスラエルが二極に分かれているのです。ローマ帝国の支配に協力する指導者たちが莫大な富を得ているのです。他方、彼らに搾取されている一般民衆は貧しい生活を余儀なくされているのです。「失われた羊」とは外敵から守るために設けられた囲いから出ている人々のことです。人々の苦難の原因を個人的な失敗や罪に求めることが多いのです。イエス様は指導者たちの不信仰と無責任、強欲と放縦を厳しく非難されたのです(マタイ23章)。人々の窮状を深く憐れまれたのです。「迷い出た羊」への宣教を最優先されたのです。


*イエス様は「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない」と言われました。使徒たちに神様への揺るぎない信仰を求められたのです(マタイ6:25-34)。ここに、使命を担う人々のあるべき姿が示されているのです。エッセネ派の人々は旅をしている時、擦り切れるまで服や履物を替えなかったのです。ただ、悪人たちを追い払うために杖は携行したのです。シニク学派の哲学者たちは思想を具体化するために「貧者の生活」に徹したのです。キリスト信仰の有無に関わらず、イエス様のお言葉-神と富とに仕えることはできない(ルカ16:13)-が実践されているのです。イスラエルの人々の約95パーセントは貧しいのです。多くは小作人か土地を持たない労働者です。自然災害に悩まされ、長時間労働に喘いでいるのです。税の取り立ては厳しく、生活の糧を確保するために奔走(ほんそう)したのです。「主の祈り」には人々の切実な願いが反映されているのです。イエス様は言葉を語られただけではないのです。人々の貧しさや労苦を自分のものとして担われたのです。ご自身の生き方によって「神の国」の福音を可視化されたのです。知識の教授や癒しの業から報酬を得てはならないのです。イエス様は貧しい人々や虐げられた人々の「救い」に心血を注がれたのです。宣教する人々もこれらの人に優先的に働きかけるのです。福音を「罪からの救い」に限定してはならないのです。「神の国」の本質を歪めてはならないのです。

*何十年も前に映画「ミッション」を観たことがあります。宣教に従事する人々の苦難と葛藤の歴史がリアルに描かれています。1740年代、イエズス会の宣教師たちはスペインの植民地であったジャングル(現在のアルゼンチンの北東とパラグアイの東)に暮らす先住民の開拓伝道に着手したのです。グアラニ―族の人々は彼らとの接触を断固拒否したのです。多くの宣教師が命を落としたのです。ガブリエル神父はグアラニ―の人々と対話するために「音楽」を用いたのです。オーボエの音に魅了された人々は神父を迎え入れたのです。一方、奴隷商人であったメンドーサは先住民たちを誘拐し、近くのプランテーションに売っていたのです。ある時、許嫁(いいなずけ)の気持ちが弟に傾いていることを知ったのです。決闘の末弟を殺したのです。ガブリエル神父はメンドーサを悔い改めに導き、宣教団の一員に加えたのです。メンドーサが先住民の地域に入った時、現地に緊張が走ったのです。しかし、涙する彼を見た人々は受け入れたのです。宣教は着実に成果を上げました。農産物の収益は平等に分配されたのです。ところが、この地域がポルトガル領になったのです。グアラニ―の人々に移住、宣教師たちには退去が命じられたのです。人々は政府の横暴に抗議し、徹底的に闘うことを決断したのです。力の差は明らかです。女性や子供たちを含めてほとんどの住民が殺されたのです。ガブリエル神父やメンドーサも住民の側に立って戦い、殉教したのです。イエズス会はこの地から追放されたのです。現在は伝道所跡の幾つかが世界遺産になっているのです。

*イエス様は「あなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と言われました。弟子たちにもイエス様に向けられた敵意が及ぶのです。すでに、イエス様は律法学者たちやファリサイ派の人々を辛らつな言葉で非難されていました。神殿政治を担う人々の偽善と貪欲に敢然と立ち向かわれたのです。イエス様の告発は律法学者たちやファリサイ派の人々の権威を失墜させ、既得権益を危うくしたのです。彼らが行いを悔い改めることはなかったのです。逆に、イエス様に激しい敵意を抱いたのです。イエス様は貧しい人々や虐げられた人々と共に歩まれたのです。権力者たちはイエス様と民衆を切り離すために画策するのです。使徒たちもイエス様の御跡を辿(たど)るのです。言葉だけでは人々を動かすことは出来ないのです。民衆は自分たちと運命を共にするかどうかを確認するのです。宣教者たちの言葉が行いによって証明された時に福音を信じるのです。ガブリエル神父やメンドーサたちはグアラニ―族の人々と共に生きたのです。イエス様に倣った彼らの生き方がこの地にキリスト信仰の種を蒔いたのです。宣教に従事する人々が対象となる町や村の状況や人々の暮らしぶりを事前に知っておくことはとても重要です。何よりも福音宣教への熱意と覚悟が不可欠です。「神の国」と「この世」との対立は不可避なのです。イエス様に従う人々は迫害されるのです。最後まで耐え忍ぶ人々が救われるのです。キリスト信仰が誤解されているのです。信仰によって救われるのではないのです。「神様の御心」に沿って生きた人々が「救い」に与るのです。

2024年04月28日

「ステファノの殉教」

Bible Reading (聖書の個所)使徒言行録6章1節から15節及び7章51節から60節

そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の(食べ物等の)分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじら(無視さ)れていたからである。そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。

さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる「解放された奴隷の会堂」に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した。しかし、彼が知恵と“霊”とによって語るので、歯が立たなかった。そこで、彼らは人々を唆して、「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」と言わせた。また、民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。そして、偽証人を立てて、次のように訴えさせた。「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。

・・「ステファノの説教」(使徒7:1-50)

かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。」

人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。

(注)

・ギリシャ語を話すユダヤ人:外国に住んでいたユダヤ人(ディアスプラ)です。彼らはヘブライ語をほとんど話せなかったのです。文化や生活習慣の違いもあって、もともとエルサレムに住んでいるユダヤ人たちとの間に確執があったのです。

・七人の選出:ステファノ、フィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、二コラオはすべてギリシャ語名です。二コラオはアンティオキア出身の改宗者(異教徒からユダヤ教への改宗者)として紹介されています。アンティオキアはシリアの重要な都市です。現在はトルコ領です。他の六人はユダヤ人の家に生まれたことを推測させるのです。以後、ステファノとフィリポ以外の人は登場しないのです。

・解放された奴隷の会堂:アフリカのキレネ(リビア)やエジプトのアレクサンドリア出身の解放された奴隷たちが属するユダヤ教の会堂です。

・キリキア州とアジア州:小アジア(現在のトルコ)にある州です。

・ステファノの説教:旧約聖書を用いてユダヤ人たちの反抗の歴史を想起させるのです。機会がありましたら、全体を通してお読み下さい。以下は要約です。

●人々が「だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか」と言って拒んだこのモーセを、神は柴の中に現れた天使の手を通して、指導者また解放者としてお遣わしになったのです。この人がエジプトの地でも紅海でも、また四十年の間、荒れ野でも、不思議な業としるしを行って人々を導き出したのです。

●この人が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです。先祖たちはこの人に従おうとせず、エジプトをなつかしく思い「わたしたちの先に立って導いてくれる神々を造ってください」と言ったのです。

●彼らが若い雄牛の像を造ったのはそのころで、この偶像にいけにえを献げ、自分たちの手で造ったものをまつって楽しんでいました。そこで神は顔を背け、彼らが天の星を拝むままにしておかれまたのです。しかし、預言者の言葉が実現するのです。人々はバビロンのかなたへ移住させられたのです。

●ダビデは神の御心に適い、ヤコブの家のために神の住まいが欲しいと願っていましたが、神のために家を建てたのはソロモンでした。けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。主は「天はわたしの王座、/地はわたしの足台。憩う場所はどこにあるのか」と言われるからです。

・ガザ:地中海沿岸の町です。エルサレムから西へ77kmです。

・アソド:地中海沿岸の町です。ガザの北35kmにあります。

・カイサリア:地中海沿岸の町です。ローマ帝国の総督府がありました。異邦人が多く住む要衝の地です。

(メッセージの要旨)

*初代教会は日々新しい信徒を加え着実に発展していました。一方、信徒が増えるに従って様々な問題が生じました。キリスト信仰を標榜する人々でも信仰理解が必ずしも同じではないのです。十二人の使徒は「信仰共同体」における効率的な組織運営の必要性を痛感したのです。すべての信徒を招集して「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」と言ったのです。全信徒はこの提案に賛成して七人を選出したのです。十二人は祈りと御言葉の奉仕に専念したのです。七人は日々の糧の分配などの日常的な業務に従事することになったのです。使徒たちの態度は尊大に見えるのです。これは指導者としての責任感から生まれた決断なのです。「復活の主」を宣教すれば逮捕され、議会で取り調べを受けるのです。投獄され鞭で打たれるのです。使徒たちは最も困難な任務を信徒たちに負わせるのではなく、自分たちが担ったのです。イエス様は「異邦人の間では、王(たち)が民を支配し、民の上に権力を振るう者(たち)が守護者(慈善を施す人々)と呼ばれている。・・あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」と言われたのです(ルカ22:25-26)。使徒たちはイエス様の教えを実践したのです。ステファノも「神の国」の福音を証しして殉教したのです。

*使徒たちは聖霊様から「力」を受けて大胆に御言葉を語りました。大祭司カイアファたちは厳しく命じたにも拘らずイエス様の名によってエルサレム中に宣教している彼らに激高したのです。イエス様の処刑の責任を自分たちに負わせようとしていることにも警戒したのです。使徒たちは「人間に従うよりも、神様に従うこと」を公言するだけでなく、指導者たちを罪人と呼び、悔い改めを迫ったのです(使徒5:27-32)。ユダヤ教の権威と律法主義が脅かされているのです。最高法院は偽証人を立ててでも初代教会の発展を阻止しようとするのです。まさに、彼らは先祖と同じ様に誤った道を歩んでいるのです。緊張した状況にあっても、揺るぎない宣教活動は着実に信徒の数を増やしたのです。ユダヤ教の祭司たちもキリストの信徒になったのです。一世紀のエルサレムは多くの国から移って来たユダヤ人たちが住む国際都市でした。外国に住んだことのあるユダヤ人たちはその国の文化や伝統から様々な影響を受けていました。ある人々はユダヤ教とギリシャ文化の融合を図ろうとしました。他のユダヤ人たちはこれまで通りモーセの律法と神殿礼拝を堅持したのです。ステファノはギリシャ語を話すユダヤ人です。イエス様を知っていたと思われるのです。五旬節(ペンテコステ)の日に集まっていた120人の信徒の中にいたかも知れないのです。この人は恵みと力に満ち、不思議な業としるしを民衆の間で行っていたからです。キリストの信徒であってもそれぞれの信仰理解が同じとは限らないのです。「信仰共同体」にとって克服すべき課題なのです。

*イエス様の教えを守り、初代教会は寡婦や孤児などの貧しい人々を大切にしたのです(申命記10:12-19)。食べ物や他の必需品は公平に分配されたのです。ところが、信徒が増えるに従って信仰理解の相違から混乱も生じたのです。信徒間の公平・平等を確保するためにギリシャ語を話す世話役が新たに任命されたのです。初代教会の試練は内部に留まらないのです。外部から激しい迫害に晒(さら)されているのです。ステファノはイエス様のメッセージがユダヤ教への挑戦であることを理解していました。ユダヤ教の伝統に固執する人々との論争内容は記録されていないのです。ステファノへの非難の内容から両者の対立点を知ることが出来るのです。イエス様が生と死と復活を通して宣教された「神の国」の福音は大祭司による神様への仲介、モーセの律法に定められた捧げ物と祭儀を不要にするのです。腐敗したエルサレム神殿は崩壊すると言われたイエス様のお言葉の意味は旧約聖書に基づいているのです。神殿政治の中枢を担う大祭司や長老たち、律法を遵守するサウロ(パウロ)のような人々はステファノの言動を放置することは出来ないのです。神様への冒涜(ぼうとく)として断罪したのです。ステファノに告発された罪に対する弁明の機会が与えられたのです。しかし、指導者たちを説得するとか自分を弁護することはしなかったのです。指導者たちの罪を非難する場として用いたのです。十二人の使徒が聖霊様に導かれて大胆に「復活の主」を語ったように、ステファノも権力者たちを恐れることなく、自分のキリスト信仰を貫いたのです。

*ステファノはイスラエルの歴史を振り返り先祖の不信仰に言及したのです。同時に、今日の権力者たちの罪を明らかにしたのです。エジプトの圧政から解放された民の中には神様を軽んじる人々もいたのです。「金の子牛」を造って礼拝したのです。神様は偶像礼拝に参加した三千人に厳しい罰を下されたのです。イスラエルを「かたくな民」と呼ばれたのです(出エジプト記33:3,5)。預言者エレミヤは「見よ、彼らの耳は無割礼で耳を傾けることができない。見よ、主の言葉が彼らに臨んでもそれを侮り、受け入れようとしない」と非難したのです(エレミヤ書6:10)。預言者イザヤは「イスラエルの民は背いて聖なる霊を悲しませたので、神様の敵となった」と明言したのです(イザヤ書63:10)。ステファノの言葉は辛辣(しんらつ)です。「あなたがたの先祖が神様に逆らったように、あなたがたも神様にそうしているのです」、「あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方(イエス様)が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となったのです」と言ったのです。人々は激しく怒り、ステファノに向かって一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げて殺したのです。しかし、迫害はステファノの処刑で終わらなかったのです。ステファノの「過激な証し」がユダヤ人たちの怒りを増幅させたからです。その日に、エルサレムの教会に対して大迫害が起こったのです。ギリシア語を話すユダヤ人たちはユダヤとサマリア地方に逃げたのです。

*イエス様は最高法院で大祭司たちに「ご自身がメシアである」、「あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」と言われたのです(マルコ14:62)。使徒たちも「神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために,この方(イエス様)を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました」と証ししたのです(使徒5:31)。聖霊様に導かれたステファノはありのままに「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言ったのです。いずれの言葉もユダヤ教との深刻な対立を招いたのです。指導者たちはイエス様に続いて初代教会の信徒たちを迫害したのです。一方、ステファノの殺害に賛成していたサウロは家から家へと押し入って教会を荒らしていたのです。男女を問わずキリストの信徒たちを牢に送っていたのです。ところが、激しい弾圧が異邦人宣教への新たな扉を開くことになったのです。七人の一人フィリポは異邦人宣教の先駆けになるのです。サマリアの町に下って「神の国」の福音を告げ知らせたのです。ペトロとヨハネがそこへ派遣されたのです。二人がサマリアの信徒たちに手を置くと聖霊様が降ったのです(使徒8:17)。フィリポはガザへ向かう途中でエチオピアの高官に出会い、洗礼を授けたのです。アゾトなどを巡りながらカイサリアまで行って宣教したのです。イエス様のお言葉「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」が実現したのです(使徒1:8)。ステファノは最初の殉教者になったのです。

2024年04月21日

「初代教会の実践」

Bible Reading (聖書の個所)使徒言行録4章32節から5章16節

信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。

ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。 すると、ペトロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた。若者たちが立ち上がって死体を包み、運び出して葬った。それから三時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事を知らずに入って来た。ペトロは彼女に話しかけた。「あなたたちは、あの土地をこれこれの値段で売ったのか。言いなさい。」彼女は、「はい、その値段です」と言った。ペトロは言った。「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。見なさい。あなたの夫を葬りに行った人たちが、もう入り口まで来ている。今度はあなたを担ぎ出すだろう。」すると、彼女はたちまちペトロの足もとに倒れ、息が絶えた。青年たちは入って来て、彼女の死んでいるのを見ると、運び出し、夫のそばに葬った。教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。

使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが、ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった。

(注)

・信じた人々の群れ:後に「教会」と呼ばれるのです。

・ヨセフ:バルナバと呼ばれています。ただ「バルナバ」という言葉が「慰めの子(励ましの子)」として表現されていることについては疑問視されています。バルナバは後にパウロの宣教活動への道を開くという大きな役割を果たしています。使徒9:27を参照して下さい。

・ペトロ:アラム語で「岩」を表しています。イエス様はペトロに「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府(よみ)の力もこれに対抗できない」と言われたのです(マタイ16:18)。陰府は死者の世界のことです。

・ソロモンの回廊:エルサレム神殿を囲む塀の東側に位置する柱廊です。

・ほかの者:レビ人、長老のようなユダヤ人の指導者たちを意味しているという説が有力です。

・女性の地位:家父長社会にあって女性は低い地位を強いられていました。人数に数えられることもなかったのです。

・負債の免除:ユダヤ教の律法においては貧しい同胞を見捨てることは罪なのです。初代教会の人々はこの戒めを実行したのです。

■「七年目ごとに負債を免除しなさい。負債免除のしかたは次のとおりである。だれでも隣人に貸した者は皆、負債を免除しなければならない。同胞である隣人から取り立ててはならない。・・あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。『七年目の負債免除の年が近づいた』と、よこしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい。その同胞があなたを主に訴えるならば、あなたは罪に問われよう(罰を受ける)。・・」(申命記15:1-11)。

・神の国:天の国とも言います。死後に行く天国のことではないのです。神様による完全な支配のことです。人間の心と社会の隅々において神様として崇められ、あらゆる価値の基準とされることです。正義と平和と愛に満ちた秩序が実現することです。イエス様は「神の国」の福音宣教を神様から与えられた使命として受け止められたのです。ご自身の生と死と復活を通して証しされたのです(使徒1:3)。「神の国」はキリスト信仰の中心メッセージなのです。


(メッセージの要旨)


*イエス様は「神と富とに仕えることはできない」と警告されたのです(ルカ16:13)。しかし、このお言葉の重要性が軽んじられているのです。アナニヤとサフィラはその典型的な例です。初代教会の信徒たちは富への対応が「永遠の命」に与る要件であることを理解していたのです。初代教会の実践は今日の実情に合わないという意見が聞かれます。この考え方に同調するキリストの信徒も少なくないのです。日頃の思い-イエス様の教えには実行不可能なものが多いことへの疑問-を代弁しているからです。キリスト信仰が誤解されているのです。「永遠の命」は決して安価な恵みではないのです。それぞれに覚悟を求めるのです。イエス様の厳しいご指示に弟子たちが「それでは、だれが救われるのだろうか」と相互に言ったのです。イエス様は「救いの基準」を緩和されることはなかったのです。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われたのです(マタイ19:23-26)。お言葉の意味は真に深いのです。信仰を誇れる人など誰もいないのです。神様の前に信仰の弱さを隠す必要はないのです。神様に依り頼む道がまだ残されているのです。ユダヤ人の圧倒的多数は困窮生活を余儀なくされでいるのです。イエス様は民衆を搾取し、苦しめている指導者たちの不信仰と不正を厳しく非難されたのです(マタイ23:1-38)。イエス様の教えに従って、土地や家、財産を持っている人はそれらを売ったのです。それぞれ代金を持ち寄ったのです。教会全体を経済的に支えたのです。神様は信徒たちの実践を祝福されたのです。


*使徒言行録はその名の通り使徒たちに導かれた「信徒の群れ」の歩みを具体的に記録しているのです。今日においても教会の行動指針として用いられているのです。モーセはイスラエルの会衆に「(あなたがた)不正を好む曲がった世代は・・神を離れその傷のゆえに、もはや神の子らではない」と言ったのです(申命記32:5)。ペトロもイエス様を処刑した指導者たちや彼らに協力したユダヤ人たちに悔い改めを求めたのです。「救い」(永遠の命)に与るためには悔い改めに相応しい実を結ぶことが不可欠なのです。「言葉」だけでなく「行い」によって証明する必要があるのです。罪を悔いた人々はイエス様が教えられた最も大切な戒め-神様と隣人を愛すること-を日常生活の中で実践するのです(マルコ12:29-31)。貧しい人々や虐げられた人々に奉仕するのです。「信徒の群れ」は霊的においてだけではなく、現実的にも一つになっているのです。すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれらを分け合ったのです。毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神様を賛美していたのです。当時「教会」は家に併設されていました。「家の教会」と呼ばれていたのです。民衆全体は信徒たちの「生き方」に好感を持っていました。神様は救われる人を加えられたのです(使徒2:40-47)。教会の礼拝に出席することは信仰生活の出発点です。しかし、「神の国」の福音はこの世の真っ只中において宣教されるのです。学ぶことが多いのです。

*イエス様は弟子になりたい人々に覚悟を求められました。ある律法学者が「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言ったのです。イエス様は「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と答えられたのです(マタイ8:19-20)。初代教会の信徒たちはイエス様の教えを肝に銘じたのです。「行い」によって「神の国」の福音を宣教したのです。その萌芽は女性の信徒たちの篤い信仰に見られるのです。イエス様は12使徒と共に「神の国」を宣べ伝え、福音を告げ知らせながら町や村を巡られたのです。当時としては考えられないことですが、弟子の中に女性がいたのです。七つの悪霊を追い出していただいたマグダラのマリア、ヘロデ・アンティパスの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナを含む多くの女性も一緒に旅をしていたのです。自分たちの持ち物を出し合って、一行に奉仕していたのです(ルカ8:1-3)。すでに、女性の信徒たちが模範を示しているのです。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」という掟を子供の時から守って来た金持ちが「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねたのです。イエス様は「持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。・・それから、わたしに従いなさい」と言われたのです。この人は財産に執着したのです。「永遠の命」を得られなかったのです(マルコ10:17-22)。人は信仰によってのみ救われるのではないのです。「神様の御心」に沿って生きたかどうかによるのです。

*イエス様は「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである」と明言されたのです(マタイ6:24)。イエス様は人間の根本的な弱点をご存じなのです。富には抗いがたい魅力があるのです。しかし、神様に従う人々は富-マモン(貪欲の神)-の誘惑と闘うのです。「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた(神様に委ねた)者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」からです(ルカ18:29-30)。律法を厳格に守って来た人であっても富に執着しては「永遠の命」に与れないのです。アナニアとサフィラは自分たちの財産の取り扱いを誤って命を失ったのです。二人に思いもよらない罰が下されたのです。ペトロは二人が「神様を欺いた」と言っているのです。神様が「罪の軽重」を判断されるのです。信徒たちは予想外の厳しい裁きに驚いたのです。神様を恐れたのです。使徒たちから距離を置く人々もいたのです。一方、多くの人が使徒たちの教えを信じてキリストの信徒になったのです。その後も「信徒の群れ」は日々仲間を増やしたのです。神様はイエス様の御跡を辿る人々を祝福されたのです。しかし、「神の国」の福音が変容されているのです。人間の「全的な救い」が「罪の赦し」に縮小されているのです。「信仰」と「行い」が分離されているのです。神様に属する富が個人的に浪費されているのです。キリスト信仰の真髄である正義や公平への関心が薄くなっているのです。「信仰の原点」に戻るのです。


*初代教会の信徒たちはキリスト信仰を観念的に、個人主義的に理解することはなかったのです。神様の愛と慈しみに全力で応えたのです。イエス様の教えを自分たちの「生き方」を通して実践したのです。イエス様が犠牲を払われたように、この世で得た富を「神様の御心」と「隣人愛」の実現のために捧げたのです。キリスト信仰は個人的な「罪からの救い」で完結しないのです。人間の「全的な救い」を目的としているのです。教会の中にも貧しい人々や虐げられた人々がいるのです。教会の外には同様の人がもっと多くいるのです。世界に目を向ければ、戦争や紛争、テロなどによって兵士だけでなく一般市民や子供たちの尊い命が奪われているのです。キリストの信徒たちは信仰によって「永遠の命」が得られると信じているのです。しかし、行いを伴わない信仰は「救い」の役に立たないのです。イエス様は「隣人が飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねなければ、永遠の罰を受ける」と言われたのです(マタイ25:31-46)。自分が認識する罪だけが罪ではないのです。困っている隣人のために何もしないことも大きな罪なのです。神様はすべてをご存じなのです。富に執着するキリストの弟子たちは「救い」に与れないのです。苦難に喘ぐ人々に手を差し伸べない信徒たちは罰せられるのです。キリスト信仰は安価な恵みではないのです。信仰に生きる覚悟が求められているのです。イエス様の教えを想起するのです。初代教会に倣(なら)うのです。

2024年04月14日

「聖霊様の降臨」

Bible Reading (聖書の個所)使徒言行録2章1節からから21節

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎(火)のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人(たち)が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時(祈りの時)ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者(イスラエルの人々)は皆、救われる。』・・」

(注)


・五旬祭(七週祭):ユダヤ教の三大祭り(過越祭、七週祭、仮庵祭)の一つです。過越祭から数えて50日目に祝う春の収穫祭です。レビ記23:15-21をご一読下さい。当時、キリストの信徒たちはユダヤ教からの改宗者です。彼らは改宗後もユダヤ教の祭日を遵守していたのです。キリスト教ではこの日を聖霊降臨日「ペンテコステ(ギリシャ語の『五十』を表す言葉)」として記念する教派もあります。

・風:神様の顕現を示しています。列王記上19:11、イザヤ書66:15、エゼキエル書37:9-14を参照して下さい。

・炎(火):神様の臨在を表しています。出エジプト記19:18、イザヤ書5:24;66:15-16をお読み下さい。

・使徒言行録:ルカによる福音書の続編(第二巻)です。支援者テオフィロへの感謝から始まっています。

・ディアスポラ:外国に住んでいるユダヤ人のことです。


・地域と現在の国:パルティア、メディア、エラムはイラン、メソポタミアはシリアとイラクの北部、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリアはトルコです。キレネに接するリビア地方はアフリカの北東部、クレタは地中海にあるギリシャの島、アラビアはサウジアラビアです。


・ヨエルの預言:ヨエル書は紀元前800年から300年の間に編纂されたと言われています。ヨエルの意図を明確にするために、ルカは原文の「その後」を「終わりの時に」に変更し、さらに「彼らは預言する」を加えています。

・ティベリアス湖:ガリラヤ湖のことです。聖書地図を参照して下さい。

・三位(さんみ)一体(いったい):新約聖書の記者たちは便宜上「神様」と「イエス様」と「聖霊様」を分けて取り上げています。しかし、神様はお一人なのです。神様は霊なるお方です(ヨハネ4:24)。イエス様と父なる神様とは一つなのです(ヨハネ10:30)。

(メッセージの要旨)

*復活されたイエス様は四十日にわたってご自身を現わし「神の国」について語られたのです。ティベリアス湖畔ではペトロなど七人の弟子に会い、朝の食事を共にされたのです。ペトロに「わたしを愛しているか」と三度質問されたのです。信仰を確認した後に「わたしの羊を飼いなさい。・・」と命じられたのです(ヨハネ21:1-19)。エルサレムでは使徒たちに「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりではなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と言われたのです(使徒1:8)。彼らは「復活の主」に会って再び信仰に燃えたのです。女性の信徒たちやイエス様の母マリア、イエス様の兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていたのです。初代教会の実質的リーダーはペトロです。信徒の数はおよそ120人です。イスカリオテのユダの後任にマティアを選出したのです。五旬祭が来てこの日も集まっていました。巡礼に来ていたユダヤ人たち、ビジネスのために長期に滞在しているユダヤ人たちは自国の言葉をエルサレムで聞いて驚いたのです。ユダヤ人たちはどこにいても律法を厳格に守ったのです。(旧約)聖書にも精通していました。多くの人は「激しい風のような音や炎」の意味を理解したのです。神様が信徒の群れと共におられることに戸惑ったのです。ガリラヤの人々はエルサレムの指導者たちから不信仰を非難されていたからです。ペトロが代表してキリスト信仰を証ししたのです。聖霊様の導きによって「神の国」の福音が受け継がれて行くのです。

*無学なペトロが(旧約)聖書から預言者ヨエルの言葉を引用し、聖霊様の降臨の意味を説明しているのです。ヨエルの時代、神様は不信仰なイスラエルを罰するためにいなごの大群を送られたのです。国土は荒廃し、民は深刻な飢饉に苦しんだのです。ヨエルはイスラエルの民が悔い改めて神様の下に立ち帰れば繁栄が回復することを告げたのです。その徴(しるし)として神様は大人だけではなく、息子や娘、若者、老人、奴隷にも聖霊様を注がれるのです。ヨエルは精霊様の降臨をイスラエルの民への恵みとして理解していたのです。「神の国」の福音はユダヤ人を含めすべての人に届けられるのです。ペトロはヨエルの預言をキリスト信仰による「救い」の根拠として用いたのです。ヨエル書の原文に記述されている「その後」を「終わりの時」に変更し、必要な言葉を加えて内容を深めているのです。聖霊様の降臨はイエス様が再び来られる日-最後の審判-が近いことを表しているのです。ユダヤ人たちは神様がダビデにされた約束「あなたの王国は・・とこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる」を信じていました(サムエル下7:16)。ペトロはダビデ自身の言葉-「彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない」など-によって、イエス様の復活を人々に確信させるのです(使徒2:25-35)。復活されたイエス様は神様の右におられるのです。聖霊様を御父から受けて注いで下さっているのです。ペトロの証しは人々の心を大いに打ったのです。彼らは「わたしたちはどうしたらよいのですか」と言ったのです。

*ペトロは人々に悔い改めを求めたのです。「イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と明言したのです。福音書記者ルカは重要な出来事には聖霊様が働いておられることを伝えているのです。洗礼者ヨハネは母エリザベトの胎内にいる時から聖霊様に満たされていました(ルカ1:15)。天使はマリアに「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と告知したのです(ルカ1:35)。聖霊様は洗礼者ヨハネの母エリザベト(ルカ1:41-45)、父ザカリア(ルカ1:67-79)、信仰篤いシメオン(ルカ2:25-35)を導いて証人にされたのです。イエス様は洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたのです。神様は祈っておられるイエス様に聖霊様を注がれたのです。天が開け聖霊様は鳩のような姿で降られたのです(ルカ3:21)。イエス様はお育ちになったナザレの会堂でイザヤ書を朗読されたのです。預言者イザヤのメッセージ-「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人(人々)に福音を告げ知らせるためにわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは・・」-が今日実現したと言われたのです(ルカ4:18)。聖霊様はペトロを導かれました。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを神は主とし、またメシア(キリスト)となさったのです」と言わせたのです(使徒2:22-36)。ユダヤ教の伝統に生きる人々に(旧約)聖書が伝える「神様の約束」を確認させるのです。

*ペトロの説教はユダヤ人だけでなく、今日のキリストの信徒たちにも分かり易い解説書になっているのです。聖霊様の降臨には「三位一体」(さんみいったい)の概念が内包されているのです。神様とイエス様と聖霊様は常に一つなのです。神様はご自身を「主、主、憐み深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし、罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者」として定義されたのです(出エジプト34:6-7)。イエス様は神様との関係に言及して「わたしは、彼らに永遠の命を与える。・・わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである」と言われたのです(ヨハネ10:28-30)。聖霊様との関係について「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがはなしたことをことごとく思い起こさせて下さる」と説明されたのです(ヨハネ14:25-26)。復活されたイエス様は使徒たちに「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け・・なさい」と指示されたのです(マタイ28:19)。ペトロはヨエルの預言やダビデの詩を引用し、神様が「三位一体」であることを強調しているのです。神様はイエス様を通して聖霊様と共に働いておられるのです。

*神様が便宜上「父」と「子」と「聖霊」のように別々に表現されているのです。このような用法には注意が必要です。キリスト信仰を「知的信仰」に陥(おちい)らせる危険性があるのです。ペトロはイエス様と共に歩んだのです。直接教えを受けたのです。不信仰を叱責されたのです。聖霊様の降臨の背景にあるユダヤ教の歴史と伝統、イエス様が寝食を忘れて証しされた「神の国」-神様の支配-に言及しているのです。イエス様の苦難に満ちたご生涯を知る(追体験する)ことの大切さを訴えているのです。神様はイスラエルの民をエジプトの圧政から解放されたのです。終わりの時に先立って、イエス様を遣わされたのです。イエス様は与えられた使命を果たされるのです。生と死と復活を通して「神の国」を証しされたのです。イエス様に代わって来られた聖霊様は「神様の御心」を実現するための勇気と力を与えて下さるのです。初代教会では神様を讃える時は「栄光が、聖霊において、子を通して、父なる神に帰せられるように」、神様の祝福を求める時は「父なる神の祝福が、子を通して、聖霊において、あなたがたの上にあるように」と祈ったのです。キリスト信仰が「霊的な救い」のみを目的としているかのように誤解されないための表現なのです。エルサレムの人や各国から来た巡礼者の多くは聖霊様の降臨が「神様の御心」であることを理解したのです。イエス様が預言された「メシア(救い主)」であることを信じたのです。「神の国」の到来こそ福音なのです。キリスト信仰はイエス様の地上の歩みに倣(なら)って生きることを求めるのです。

2024年04月07日

「イエス様の処刑と復活信仰」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書15:25-38及び16:9-20

イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。<底本に節が欠けている個所の異本による訳文>こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。†そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

・・・・・・・・・・・・・

〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。〕

(注)

・最後のお言葉の比較:

●「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46;マルコ15:34)は詩篇22:1の引用です。

・・わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻(うめ)きも言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。わたしたちの先祖はあなたに依り頼み/依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され/あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥(人々から嘲りを受け、軽蔑されている)。わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑(あざわら)い/唇を突き出し、頭を振る。「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」・・わたしを遠く離れないでください/苦難が近づき、助けてくれる者は(誰も)いないのです。雄牛が群がってわたしを囲み/バシャン(ガリラヤ湖の東側)の猛牛がわたしに迫る。餌食(えじき)を前にした獅子のようにうなり/牙をむいてわたしに襲いかかる者(たち)がいる。わたしは水となって注ぎ出され/骨はことごとくはずれ/心は胸の中で蝋(ろう)のように溶ける。口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎(うわあご)にはり付く。あなたはわたしを塵(ちり)と死の中に打ち捨てられる。犬(敵)どもがわたしを取り囲み/さいなむ者が群がってわたしを囲み/獅子のようにわたしの手足を砕く。骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺(なが)め わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。主よ、あなただけは/わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ/今すぐにわたしを助けてください。わたしの魂を剣から救い出し/わたしの身を犬どもから救い出してください。獅子の口、雄牛の角からわたしを救い/わたしに答えてください。・・わたしの魂は必ず命を得 子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。

●「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」(ルカ23:46)は詩篇31:5の引用です。

●「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)。

・神の国:天の国とも言います。死後に行く天国のことではないのです。神様による完全な支配のことです。人間の心と社会の隅々において神様として崇められ、あらゆる価値の基準とされることです。正義と平和と愛に満ちた秩序が実現することです。イエス様は「神の国」の福音宣教を神様から与えられた使命として受け止められたのです。ご自身の生と死と復活を通して証しされたのです(使徒1:3)。「神の国」の福音はキリスト信仰の真髄なのです。

・エリヤ:イスラエル(北王国)において紀元前865年から850年ごろに活動した偉大な預言者です。突然現れ、風のように消えたことで有名です。旧約聖書列王記上・下をお読み下さい。

・週の初めの日の朝早く:「安息日」は土曜日の午後6時に終わります。日曜日の朝のことです。

(メッセージの要旨)

*今日はイースターです。イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って宣教を開始されました(マルコ1:15)。神様の支配の到来を告げる「神の国」の福音はこの世の権力者たちとの間に鋭い対立を生み出したのです。大祭司やファリサイ派の人々は「安息日」を軽んじ、自分たちの不信仰と腐敗を告発するイエス様を何とかして殺そうとしたのです。ユダを裏切らせ、ピラトの権限を巧みに利用し「政治犯」として処刑することに成功したのです。イエス様がご生涯を通して宣教された「神の国」がこの世の権力たちによって否定されようとしているのです。ところが、神様はイエス様を三日後に復活させられたのです。イエス様は四十日にわたって使徒たちに現れ、ご自身が生きていることを多くの証拠によって示し、「神の国」について語られたのです。神様はイエス様を見捨てられなかったのです。切実な祈りに応えられたのです。「神の国」の到来が真実であることを証明されたのです。イエス様の教え-「山上の説教」(マタイ5-7)や「平地の説教」(ルカ6:17-49)、「最も重要な掟」(マルコ12:28-34)、「イザヤの預言」(ルカ4:16-21)、「御子の権威」(ヨハネ5:19-31)など-が人々を正しい道へ導くのです。イエス様は死者の中から復活された初穂なのです。死の支配が打ち砕かれたのです。復活信仰に生きる人々に「永遠の命」が約束されたのです。「新しい天地創造」が始まっているのです。イエス様に倣(なら)って「神の国」の建設に全力を尽くすのです。

*イエス様は弟子たちにご自身の死と復活について三度も予告されています(マルコ9:31)。エルサレムへは受難を覚悟して入城されたのです。ところがゲツセマネの祈りにおいて「御心に適うことが行われますように」という言葉で結ばれているとはいえ、神様に「この杯をわたしから取りのけて下さい」と訴えておられるのです(マルコ14:36)。十字架上では絶対的な信頼を表明しながらも、神様に「なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」と疑問を呈されたのです。マルコより後に書かれたルカは「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」、ヨハネは「成し遂げられた」と表現を和らげているのです。マルコ(マタイ)の記述の方が史実に近いように推測されるのです。イエス様の罪状書きには「ユダヤ人の王」と書かれています。イエス様はローマ帝国への反逆罪で処刑されたのです。両側の強盗も「政治犯」であることが考えられるのです。十字架刑は人間の尊厳を否定する屈辱的な刑罰でした。裸にされ、数日人目に晒(さら)されたのです。手首や足に釘が打たれているだけで体を支える物が下にはないのです。途方もない苦痛と出血を伴いながら窒息死するのです。イエス様がお心を騒がせられた理由は分からないのです。死に至る過程おいて筆舌に尽くしがたい試練を経験されたのです。惨めさや悲惨さを軽んじて死を美化するようなことがあってはならないのです。神殿の垂れ幕が上から下まで裂けたのです。重要な意味を暗示しているのです。信徒たちに祭司たちの仲介がなくても、イエス様を通して神様に近づける道が開かれたのです。

*イエス様の死を目撃した人々にも様々なことが起こっているのです。異邦人である百人隊長はイエス様が息を引き取られたのを見て「本当に、この人は神の子だった」と言ったのです。11人の使徒はイエス様が逮捕されて以来姿を隠しているのです。女性の信徒たちはイエス様の処刑の様子を遠くから見守っていたのです。マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、サロメもいたのです。イエス様がガリラヤにおられた時にお世話をしていた人々です。他にも、イエス様と共にエルサレムへ上って来た女性たちが大勢いたのです。十字架上のイエス様は母マリアと愛する弟子に言葉をかけておられます(ヨハネ19:26-27)。権力の中枢にいた議員の中にはイエス様を信じている人も多かったのです。しかし、会堂から追放されることを恐れていたので信仰を告白しなかったのです(ヨハネ12:42)。イエス様が処刑された日は安息日の前日の金曜日です。夕方にアリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが勇気を出して総督ピラトにイエス様の遺体を渡してくれるように願い出たのです。この人も密かに「神の国」を待ち望んでいたのです。同僚から非難され、議員の職を奪われ、社会から排斥されることが予想されるのです。それでも信仰を証ししたのです。ピラトはイエス様の死を確認してから下げ渡したのです。ヨセフは亜麻布を買い、イエス様を十字架から降ろして布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口を石で塞いだのです。以前、イエス様を訪ねたことがある議員のニコデモも埋葬に加わったのです(ヨハネ19:38-42)。

*イエス様は日曜日の朝早く復活して先ずマグダラのマリアにご自身を現わされたのです。マリアが他の弟子たちにこのことを知らせたのです。彼らは信じなかったのです。また、別の二人の弟子にもご自身を現わされました。彼らの言うことも他の弟子たちは信じなかったのです。弟子たちはイエス様からご自身が殺され三日後に復活されることを聞いていたのです。11人の使徒も含めてイエス様のお言葉を信じていなかったのです。イエス様は彼らの不信仰を叱責されたのです。譲歩して復活の事実を目に目る形で示されたのです。「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」と言われたのです(ルカ24:39)。「焼いた魚を一切れ 差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた」と記述されているのです(ルカ24:42-43)。イエス様は弟子たちに全世界に行って福音を宣教するように命じられたのです。地位の高い人、財産を持っている人、教育の機会に恵まれた人はほとんどいなかったのです。ところが、「復活の主」に出会って「神の国」の意味をようやく理解することが出来たのです。「永遠の命」の希望において生きるのです。大祭司や議員、長老や律法学者などの権力者たちを恐れることはなくなったのです。至る所で(旧約)聖書に基づいてイエス様の復活を証ししたのです。指導者たちは自信に満ち、大胆に「イエスの名による以外に救いの道はない」と語るペトロとヨハネに驚いたのです(使徒4:12-13)。

*イースターの日にキリストの信徒たちは「復活の主」に出会うのです。弟子たちのようにイエス様がご生涯を通して証しされた「神の国」の意味を再確認するのです。神様はナザレのイエス様を復活させることによって次の点を明らかにされたのです。第一は、ご自身がどのようなお方であるかを決定的な形で啓示されたことです。無から有を造り、不可能なことを可能にされるのです。依り頼む者を決して見捨てられないのです。第二は、イエス様が寝食を忘れて証しされた「神の国」の福音と律法解釈を御旨に適うものとして認められたことです。福音の範囲を「罪からの救い」に縮小してはならないのです。第三は、「永遠の命」の希望に生きる人々に保証を与えられたことです。「神の国」は人間の全的な救いとして完成するのです。イエス様の復活によって基礎づけられた「神の国」の到来を確信し、「復活信仰」に生きる人々は「神様の御心」の実現のために与えられた使命を果たすのです。キリスト信仰とは知的に理解することではないのです。イエス様が歩まれた道を辿(たど)ることなのです。ロシアのウクライナ侵攻が三年目を迎えているのです。中東・パレスチナのガザ地区では激化した紛争により、甚大な被害が子供たちにも広がっているのです(ユニセフ2024年3月)。神様の助けを待つのではなく、出来ることを実践するのです。「悪の力」と戦うのです。無意味に思われるような取り組みであっても愛によってなされた行為には価値があるのです。挫折と行き詰まりを前にして失望しないのです。イエス様もそのように生きられたのです。

2024年03月31日

「二度の死刑判決」

Bible Reading(聖書の個所)マルコによる福音書14章53節から65節及び15章1節から15節

人々は、イエスを大祭司のところへ連れて行った。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来た。ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていたからである。すると、数人の者が立ち上がって、イエスに不利な偽証をした。「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」しかし、この場合も、彼らの証言は食い違った。そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」 しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に囲まれて来るのを見る。」大祭司は、衣を引き裂きながら言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。」一同は、死刑にすべきだと決議した。それから、ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った。

・・・・

夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。


(注) 

・大祭司:カイアファのことです。在職は西暦18-36/7年です。最高法院(サンヘドリン)においてイエス様を尋問した中心人物です。

・最高法院:大祭司を中心に祭司たち、祭司の家系の長老たち、民の長老たち、律法学者たちの71人で構成されていました。後に、ペテロとヨハネを尋問し(使徒4:5-42)、ステファノを死刑にし(使徒6:8-7:60)、迫害のためにパウロを任命し(使徒9:1-2)たのはこの最高法院なのです。

・ポンティオ・ピラト:ユダヤにおけるローマの第五代総督で、在位は西暦26-36年です。イエス様を十字架刑で処刑する権限はローマの総督にありました。

・ユダヤ人の王:イエス様に対するローマ総督ピラトの皮肉を込めた呼び方です。

・暴動:ローマ帝国の支配に抵抗する闘争のことです。当時ユダヤ人の反乱は至る所に見られたのです。ユダヤ人歴史家ヨセフスもそのことを記述しています。

・囚人の釈放:福音書以外にこのような慣例を記述した文献などは見当たらないのです。

・銀貨三十枚:傷を負った奴隷の値打ちに相当します(出エジプト記21:32)。ゼカリヤ書11章をお読みください。

・十字架刑:ローマ帝国への反逆者や重大な罪を犯した奴隷に対して適用されたのです。見せしめのために用いられた最も残酷な死刑の執行方法です。

(メッセージの要旨)

*イエス様はヨハネから洗礼を受けられた後「神の国」(天の国)-神様の主権と神様の正義-について宣教されたのです。神殿政治を担う人々の不信仰と腐敗を厳しく批判されたのです。多くの人がイエス様を支持したのです。政治運動へ発展しかねないのです。一方、イエス様は「神様の愛」の観点からユダヤ人たちがこれまで順守してきた律法の解釈を変更されたのです。ある時、弟子たちは空腹になったのです。安息日に麦の穂を摘んで食べたのです。ファリサイ派の人々は弟子たちの行為を律法違反として非難したのです。イエス様は律法の厳格な適用よりも憐れみの大切さを指摘されたのです。姦通の現場で捕らえられた女性に「わたしはあなたを罪に定めない」と言われたのです(ヨハネ8:11)。「神の国」の福音はユダヤ教の指導者たちの権威と既得権益を危うくしたのです。さらに、ご自身を「安息日の主」と呼ばれたのです(マタイ12:1-8)。「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」と公言されたのです(ヨハネ5:21-22)。これらの言動は神様を冒涜(冒とく)しているのです。祭司長たちやファリサイ派の人々は最高法院を招集したのです。律法に従って死刑の判決を下したのです。ところが、刑を執行しないのです。イエス様を「政治犯」として断罪しようと画策するのです。ただ、十字架刑を適用する権限はなかったのです。ピラトに裁かせるのです。ローマ皇帝に反逆する「ユダヤ人の王」として処刑させるのです。

*イエス様は「その人は犯罪人の一人に数えられた」(イザヤ書53:12)を引用し、ご自身に起こる受難を予告されたのです(ルカ22:37)。イエス様は「神の子」としてご自分をモーセの律法の上に置かれたのです。最高法院-裁判所と議会を兼ねた機関-は神様を冒涜する者、偽預言者として認定したのです。しかし、律法に従って石打ちの刑で処刑しないのです。ローマ帝国の治安を脅かす政治犯などに適用される十字架刑で処刑させようとしているのです。「神の国」の本質が一層明らかになるのです。イエス様は政治的な観点から宣教されたのではないのです。ただ、「神の国」は人が人を支配するような社会秩序とは根本的に相容れないのです。イエス様はご自身への応答が裁きの基準になるという途方もない主張をされたのです。ユダヤ人たちに「神の国」かローマ皇帝かを選択させるのです。この世の権力者たちはイエス様を断じて許さないのです。殺さなければならないのです。新約聖書の記者たちはイエス様の死を神様のご計画の中に定められていたこと、世の罪を取り除くために捧げられた犠牲であったこと、神様のご意思を絶望の中において受け止められたこととして理解したのです。これらはイエス様の復活を通して形成された信仰理解なのです。現実の出来事をベースにして解釈されているのです。「知的信仰」への警戒を怠(おこた)ってはならないのです。イエス様は神様から与えられた使命の実現に生涯を奉げられたのです。弟子たちに倣(なら)うように命じられたのです。「神の国」を宣教する人々は試練に遭遇するのです。

*イエス様の予告が現実になったのです。暗闇と群衆の中でイエス様を逮捕することは至難の業です。ところが、考えられないことが起こったのです。サタンが十二弟子の一人イスカリオテのユダを支配しているのです(ルカ22:3)。ユダはグループの内情を熟知しているのです。サタンと共に歩むことを決断したのです。祭司長たちに「あの男」をあなたたちに引き渡せば幾らくれますかと申し出たのです。彼らは陰謀への加担の謝礼として銀貨三十枚を支払ったのです(マタイ26:14-15)。しかし、ユダはイエス様に有罪判決が下ったのを知って後悔したのです。銀貨を神殿に投げ込み首をつって死んだのです(マタイ27:3-5)。祭司長、長老、律法学者たちが集まりイエス様に対する裁判を開始したのです。大祭司は「お前はほむべき方(神様)の子、メシアなのか」と尋ねたのです。イエス様は「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に囲まれて来るのを見る」と答えられたのです。旧約聖書の「詩篇110:1」、「ダニエル書7:13-14」がご自身において成就することを明言されたのです。「神の子」であることを宣言されたのです。「神様のご意思」の解釈をめぐる審理が行われているのです。イエス様の断罪はピラトの言うような妬(ねた)みとか悪意ではないのです。最高法院の宗教的権威が「神様の名」によって決定したのです。「政治犯」として処刑させるために陰謀が実行されるのです。ピラトに十字架刑の判断を迫るのです。イエス様は大祭司カイアファの邸宅から総督の官邸へ連行されるのです。

*祭司長たちは汚れないで過越の食事をするために官邸に入らなかったのです。表面上は律法を順守しているのです。しかし、彼らの心はイエス様に対する敵意と憎しみで満ちているのです。ピラトが出て来て「どういう罪でこの男を訴えるのか」と問い質したのです。祭司長たちは「この男が悪いことをしていな
かったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と答えたのです。ピラトは関わりを避けるために「自分たちの律法に従って裁け」と言ったのです(ヨハネ18:31)。彼らは「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と答えたのです。イエス様をローマ帝国の支配に抵抗する「政治犯」として処刑させるための決意が表れているのです。ピラトは罪状を確かめるためにイエス様に「お前がユダヤ人の王(政治的指導者)なのか」と尋ねたのです。イエス様はピラトの質問に直接答えられなかったのです。ただ、「神の子」として「もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人(たち)に引き渡されないように、部下(弟子たち)が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない」、さら「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と言われたのです。ピラトはユダヤ教における信仰上の争いとして結論付けたのです。イエス様に反逆の意図がないことを確認したのです。「わたしはあの男に(政治犯として)何の罪も見いだせない」と見解を示したのです(ヨハネ18:38)。祭司長たちはイエス様の釈放に激しく抵抗したのです。代わりにバラバ(政治犯)を求めたのです。

*同じ政治犯ならば誰が釈放されてもいいはずなのです。祭司長たちは何としてもイエス様を処刑させたいのです。「イエスを釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称するものは皆、皇帝に背いています」と言って、ピラトを脅したのです(ヨハネ19:12)。ヘロデ大王の死後三人の息子の一人アルケラオがユダヤを統治したのです。この人は残酷で悪政を重ねたのです。ユダヤ人たちがアルケラオの不適格性をローマに上訴したのです。皇帝は職を解任したのです(紀元後6年)。ユダヤはローマの直轄領となり、総督が派遣されることになったのです。ピラトもユダヤ統治の難しさを知っているのです。祭司長たちはピラトに過去の歴史を想起させるのです。ピラトがイエス様を外に連れ出し「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、彼らは「殺せ。殺せ。十字架につけろ」と叫んだのです。ピラトは「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と反論したのです。祭司長たちは「わたしたちには皇帝のほかに王はありません」と答えたのです(ヨハネ19:14-17)。公然と皇帝崇拝を宣言しているのです。律法の基本である「十戒」の規定に違反しているのです。大罪を犯しているのです。信仰を捨てたとさえ言えるのです。ローマの総督の最大の任務は祭りの間エルサレムの治安を維持することです。エルサレムにおいて暴動が起きれば皇帝から責任を問われるのです。一方、ピラトは在任中に莫大な富を蓄えているのです。社会的地位と既得権益に執着するのです。不本意でも譲歩したのです。イエス様を執行人たちに引き渡したのです。

2024年03月24日

「最後のエルサレム」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書11章1節から19節

一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。


翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。


それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。

(注)

・ベトファゲ:場所は不明です。

・ベタニア:エルサレムの南東およそ3.2kmのところにあります。

・オリーブ山:エルサレムの東にある小高い丘です。

・子ろば:

■娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。(ゼカリア書9:9)。

・服を道に敷き、葉の付いた枝を道に敷いた:イスラエルの王室あるいは祭りの行列を想起させるのです。

■彼らはおのおの急いで上着を脱ぎ、階段の上にいた彼の足もとに敷き、角笛を吹いて、「イエフが王になった」と宣言した。(列王記下9:13)

・ホザナ:「今、救ってください」という意味です。詩編118:25-26を参照して下さい。

・父ダビデの来るべき国:神様から特別に選ばれたダビデは民を導き、初めてイスラエルを王国として統一した卓越した指導者です。民は苦難にある時、神様が預言者ナタンを通してダビデに告げられた約束の実現に期待したのです(サムエル記上7:9-14)。

いちじく:イスラエルは実を結ばないいちじくに例えられているのです(ホセア書9:10)。


・祈りの家:

■また、主のもとに集って来た異邦人(外国人たち)が/主に仕え、主の名を愛し、その僕となり/安息日を守り、それを汚すことなく/わたしの契約を固く守るなら わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。(イザヤ書:56:6-7)

・強盗の巣:

■主からエレミヤに臨んだ言葉。主の神殿の門に立ち、この言葉をもって呼びかけよ。そして、言え。「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。そうすれば、わたしはお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。しかし見よ、お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。(エレミヤ書:7:1-11)

シロ:エルサレムの北約29㎞にあった聖なる町です。士師の時代(紀元前12世紀の頃)に「信仰のセンター」としての役割を果たしていたのです。紀元前11世紀に不信仰の故に異教徒のペリシテ人によって滅ぼされたのです。

(メッセージの要旨)

*イエス様はエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人(たち)に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する」と言われました(マタイ20:17-19)。ご自身の死と復活を予告されたのです。イエス様は迫害を覚悟してエルサレムへ入られたのです。神殿の境内に入り、売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返されたのです。境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかったのです。このような激しい振る舞いは一時的な気まぐれではないのです。前日に辺りの様子を見て回っておられることからして、十分に計画された行動なのです。しかし、出来事があまりにも急進的であるとして、礼拝のテーマになることはほとんどないのです。言及されたとしても、実力行使は純粋に信仰の観点からの怒りの表現として解釈されたのです。神殿礼拝における霊性の欠如や見せかけの信仰、礼拝の商業化や不正な両替への非難として説明されたのです。しかし、このような信仰理解には重要な点が見落とされているのです。神様は預言者イザヤやエレミヤを通してエルサレム神殿の腐敗を非難されたのです。イエス様も「強盗の巣」になっているエルサレム神殿を告発されたのです。神殿政治の中枢にいる人々はイエス様の呼びかけを拒否したのです。神様から受けた使命の貫徹と人々への愛がイエス様を死へと導くのです。

*イエス様は「ユダヤ人の祭り」にはエルサレムに上っておられます。しかし、今回は最後のエルサレムになるのです。政治犯に適用される十字架刑、三日目に起こった復活の出来事を通して、福音の真理-神の国の到来-の意味について学びます。二人の弟子は子ろばの上に自分たちの服を掛けたのです。これは古代から王が即位する時に行われていた儀式です。イスラエル(北王国)のイエフ王の例が記録されています。イエス様は「ダビデの子」と呼ばれています(マタイ21:9)。ユダヤや民族を鼓舞する政治的、国粋主義的なこの尊称は当時の状況と密接に関わっているのです。イエス様がエルサレムに向かっておられるという噂は近隣地域にも広まり、多くの人が一行に加わって共に歩いたのです。民衆は城門の外に出てイエス様を歓迎したのです。「過越祭」と並ぶ三大祭りの一つ「仮庵祭」の時にも人々がなつめやしの葉や茂った木の枝を手にして「救いの歌」を唱えたのです(詩篇118:25-26)。イエス様は栄光のイスラエルを取り戻してくれる民族の解放者なのです。「ホサナ」にはメシア(油注がれた者)の到来を待ち続けていた人々の喜びが溢(あふれ)れているのです。ファリサイ派の人々は民衆の歓喜の叫びを黙らせようとするのです。イエス様は民衆を弾圧して平和を作ろうとすれば石が叫びだすと言われたのです(ルカ19:39-40)。神殿政治を担う指導者たちは激怒するのです。イエス様の殺害計画を巧妙に実行するのです。イエス様の関心事であった「神の国」の宣教はご自身の死を抜きに考えられなくなったのです。

*エルサレム神殿はイスラエルの民の信仰の中心地なのです。ところが、その役割を誠実に果たしていないのです。イエス様はエルサレム入城後直ちにこの神殿の境内から商人たちを追い出すことによって「神の国」の具体化に取り組まれたのです。何世紀にもわたって、イエス様の過激な行動は純粋にユダヤ人たちの不信仰への告発として語られたのです。神殿礼拝の商業化やそれに伴う商人たちの悪事に対する非難、形式的に捧げ物をすることによって罪の赦しを得ようとする巡礼者たちの霊性の欠如や偽善性への批判として説明されたのです。いずれも、出来事に目を奪われて本質的な問題への言及がなされていないのです。エルサレム神殿は「信仰のセンター」だけではないのです。それ以外にも重要な役割も担っているのです。イスラエルの社会・政治・経済を統治する機関なのです。律法機関と裁判所を兼ねた最高法院(サンヘドリン)-衆議会-が開催されているのです。特権階級の祭司たちがローマ帝国の支配に屈して彼らの利益のために協力しているのです。すべてのユダヤ人の生活に影響する布告や命令が出されているのです。大祭司による裁判が行われているのです。ほとんど紹介されていないのですが、イスラエルの経済を管轄する機関なのです。両替を行う中央銀行であり、莫大な富を保管する国庫なのです。貧しい人々にとって負債は深刻な問題の一つです。ユダヤ人歴史家ヨセフスは著書「ユダヤ戦記」において当時の様子を伝えています。ローマ帝国に抵抗するユダヤ人たちは先ずエルサレム神殿に保管されている「借用証書」を焼いたのです。

*すでにエルレム神殿はうわべだけの神聖さと宗教心の下に「神様の御心」である正義と隣人愛を軽んじ、貧しい人々を抑圧する機関に堕(だ)していたのです。神殿の境内における貪欲な商人たちに対するイエス様の怒りには目に見える現象以上の深い意味が込められていました。イスラエルの政治と経済を私物化する指導者たちへの激しい非難だったのです。公然の政治行動だったのです。他の三福音書の記述に比べるとマルコはこの点を強調しているのです。イエス様は両替人や鳩の販売人たちを追い出しただけでなく、弟子たちと共にエルサレム神殿の広大な境内を封鎖し、一時的とはいえ商業活動を停止させたのです。平時としては前代未聞の出来事なのです。イエス様が商人たちに使われた「強盗の巣」はエレミヤ書からの引用です。境内にいたすべての人に不信仰の歴史を思い起こさせるのです。古代においてもイスラエルは神様を試み、反抗し、戒めを守らなかったのです。憤られた神様はシロにある聖所-人によって張られた幕屋-を敵の手に渡されたのです(詩篇78:56,60)。エレミヤの時代にも、神様は「わたしの名によって呼ばれ、お前たちが依り頼んでいるこの(エルサレム)神殿・・に対して、わたしはシロにしたようにする」と言われたのです(エレミヤ書7:14)。イエス様はエルサレム入城の直前にユダヤ人たちが遭遇する悲劇と神殿崩壊に涙を流されたのです(ルカ19:41-44)。しかし、エルサレム神殿は「祈りの家」にならなかったのです。いちじくの木が根元から枯れたように完全に崩壊するのです(紀元後70年)。

*イエス様の時代においても、エルサレム神殿は「神様の御心」から遠く離れていたのです。単なる壮大な建造物と化していたのです。イエス様はエレミヤの預言「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない・・」によって非難されたのです。イエス様の行動は幾つかの目的を持っています。第一に、エルサレム神殿が「祈りの家」ではなくなったことを明確にされたのです。多くのユダヤ人が祭司たちと対峙(たいじ)することを逡巡していたのです。「神様の怒り」を恐れていたのです。第二は、ユダヤの民衆-特に貧しい人々や虐げられた人々-にも指導者たちの不信仰を批判し、貪欲と不正に抗議する権利と資格があることを教えられたのです。イエス様は神殿政治の腐敗を暴露し、人々を罪の恐怖-指導者たちを断罪することから生じる罪の意識-から解放し、告発することの正当性を証明されたのです。群衆はイエス様の教えに勇気づけられたのです。祭司長たちや律法学者たちは旧約聖書に精通していました。神様の裁きが自分たちに下ることに怯(おび)えたのです。しかし、神殿政治を改めることはないのです。イエス様の処刑によって問題を解決するのです。イエス様は誕生の瞬間から十字架上で贖(あがない)の死を遂げるために歩まれたというような信仰理解は歴史的事実に合致しないのです。「神の子」がこの世に来られたのです。イエス様は「神様の御心」に従って「神の国」の福音を証しされたのです。貧しい人々や虐げられた人々の側に立たれたのです。権力者たちの迫害に真正面から対決されたのです。

2024年03月17日

「イエス様への殺意と陰謀」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書11章45節から57節

(ベタニアの)マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので(無意識に)預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。

さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。

(注)

・イースター:イエス・キリストの復活をお祝いする日(日曜日)です。八世紀の早い時期に始まりました。西方教会では3月22日から4月25日の間を移動します。

・カイアファ:在任期間は紀元後18年から36年です。祭司職は本来世襲でした(民数記25:10-13)。ところが、紀元後1世紀にローマ帝国の総督の承認事項になったのです。宗教指導者であると同
時に政治的指導者です。最高法院を招集する権限を有していたのです。

・最高法院:サンヘドリン-衆議会-のことです。今日の最高裁判所と国会の機能を兼ねています。神殿の治安を維持する警察の役割も果たしていました。 

・エフライム:場所は不明です。ベタニア(エルサレムの東)の近くではないかと推測されています。聖書地図を参照して下さい。

・過越祭:三月か四月に行われました。およそ10万人がエルサレムへ巡礼したのです。歴史的経過については出エジプト記12:1-13:10をご一読ください。イエス様は三回エルサレムで過ごされました(ヨハネ2:13,6:4,11:55)。

・イエス様のエルサレム巡礼:福音書記者ヨハネによると四回です。2:13,5:1(ユダヤ人の祭り),7:10(仮庵祭),12:12です。


・イエス様の宣教活動:十字架の死によって終結するのです。イエス様の死はキリスト教以外の文献タキツスの「年代記」やヨセフスの「ユダヤ古代誌」によっても証明されています。

・ティベリウス:ローマ帝国の皇帝、在位は紀元後14年から37年です。

・ポンティオ・ピラト:ローマ帝国から任命されたユダヤの総督です。在位は紀元後26年から36年です。新約聖書は意志の弱い人物として伝えていますが、古代の歴史家たちは圧政と不正で悪名をなした人物として紹介しています。本来の赴任地は地中海沿岸の都市カエサリアです。ユダヤ人たちの「過越祭」には多くの人々が集まるので治安を確保するためにエルサレムに滞在したのです。

・ヘロデ・アンティパス:ヘロデ大王(ローマ人によって「ユダヤ人の王」と呼ばれていました)の三人の息子の一人です。在位は紀元前4年から紀元後39年です。

・ヘロデ・フィリポ:ヘロデ大王の三人の息子の一人、在位は紀元前4年から紀元後34年です。イトラヤとトラコンはそれぞれガリラヤ湖の北と東に位置しています。

・ヘロデ・アルケラオ:ヘロデ大王の三人の息子の一人です。ユダヤとサマリアの領主、在位は紀元前4年-紀元後6年です。三人の中で最も残虐な人物です(マタイ2:22)。ローマ皇帝アウグストス(紀元前27年-紀元後14年)は統治能力に欠けるアルケラオを廃位し、管轄地をローマ帝国の直轄領としたのです。総督が任命されたのです。

・リサニア:この人物については不明です。アビレネはダマスカスの北西にある町です。

・アンナス:紀元後6年から15年まで大祭司でした。職を退いた大祭司にも慣例として大祭司の称号が用いられたのです。イエス様の裁判、使徒ペトロとヨハネの裁判に関わっています。

・メシア:ヘブライ語です。ギリシャ語のキリストのことです。いずれも「油注がれた者」という意味です。神様から特別の使命を与えられたのです。政治的指導者でもありました。サムエル記上10:1-10を参照して下さい。イスラエルの民はメシアを待望していたのです。キリスト信仰とはイエス様を「キリストである」と信仰することなのです。


(メッセージの要旨)

*今年のイースターは3月31日(日)です。イエス様はヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた後、「神の国」の到来を福音として宣教されたのです。福音書記者ルカは当時の政治状況について「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき・・」と記述しています(3:1-2)。ガリラヤでの宣教活動は多くの人に感銘を与え、キリスト信仰へ導いたのです。一方、宗教的、政治的な民衆運動へと発展する機会にもなったのです。イエス様から食べ物を与えられた五千人の群衆はイエス様を自分たちの王とするために連れて行こうとしたのです(ヨハネ6:1-14)。イエス様は教えと力ある業を通して「神の国」を宣教されました。しかし、人々の間に意見の対立を生み出したのです。ラザロが墓から蘇った出来事を見たり、聞いたりした人の多くはイエス様が神様の子であることを信じたのです。エルサレムに近いベタニアの人々がイエス様を「メシア」として受け入れたのです。イエス様はガリラヤとエルサレムの間を何度も旅しておられます。ユダヤの中心に住む人々までがイエス様の影響を受ければ宗教的対立の枠内に留まらないのです。ユダヤ人による反ローマ帝国運動になりかねないのです。エルサレムの指導者たちは危機感を募(つの)らせたのです。カイアファの意向を受けた最高法院は重大な決定を行ったのです。イエス様を「政治犯」として処刑させるのです。

*イエス様は(旧約)聖書に基づいて宣教姿勢を明確にされるのです。「地上に平和ではなく、分裂をもたらすために来た」と言われたのです(ルカ12:49-53)。弟子たちや群衆の誤解を正されるのです。お育ちになったナザレでいつものとおり安息日に会堂に入り「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人(人々)に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人(人々)に解放を、/目の見えない人(人々)に視力の回復を告げ、/圧迫されている人(人々)を自由にし、主の恵みの年(50年目の年-ヨベルの年-におのおの所有地の返却を受けること)を告げるためである」(イザヤ書61:1-2及び58:6)を朗読されたのです。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき実現した」と言われたのです(ルカ4:16-19)。ところが、故郷の人々は信じなかったのです。イエス様は預言者エリヤの時代に三年六か月の間雨が降らずその地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたがエリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタ-異教の神バール信仰の中心地である地中海沿岸の町-の信仰深いやもめのもとにだけ遣わされたこと(列王記上17:1-16)を例に挙げて、彼らの不信仰を批判されたのです。会堂内の人々は皆憤慨し、イエス様を町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとしたのです。四福音書はイエス様のお言葉が真実であることを伝えているのです。

*イエス様はご自身を敵視するファリサイ派の人々の会堂にも入られました。そこに、片手の萎(な)えた人がいたのです。指導者たちがイエス様を陥れるために、律法主義の観点から「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねたのです。人々は安息日であっても穴に落ちた羊を手で引き上げているのです。人間は羊よりはるかに大切なのです。イエス様は「安息日に善いことをするのは許されている」と答えて、手の不自由な人の手を癒されたのです。ファリサイ派の人々はどのようにしてイエス様を殺そうかと相談したのです(マタイ12:9-14)。しかし、後代には教条主義的な律法解釈が現実に合わなくなったのです。命に関わる緊急の場合には例外が認められるようになったのです。敵対する人々が「わたしたちの父アブラハムよりもあなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。あなたは自分を何者だと思っているのか」と質問したのです。イエス様は「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」と答えられたのです。彼らは不遜な態度に激怒したのです。石を取り上げてイエス様に投げつけようとしたのです(ヨハネ8:48-59)。ユダヤ人たちは神殿の境内でイエス様を取り囲んで「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」と詰問したのです。イエス様は「わたしが父の名によって行う業がわたしについて証しをしている。わたしを信じる人々に永遠の命を与える。わたしと父とは一つである」と言われたのです。イエス様を打ち殺そうとして石を取り上げたのです(ヨハネ10:22-31)。

*イエス様は「神様の声」として語り、「神様の権威」を持って行動されたのです。ご自身の呼びかけに対する応答がその人の「救い」を決定すると公言されたのです。これらはユダヤ教の律法を根底から覆(くつがえ)しているのです。律法を無視し、神様を冒涜(ぼうとく)するイエス様の言動は万死に値するのです。旧約聖書に神様を冒涜する者に対する死刑の掟が記されています。「冒瀆した男を宿営の外に連れ出し、冒瀆の言葉を聞いた者全員が手を男の頭に置いてから、共同体全体が彼を石で打ち殺す」(レビ記24:14)、「その預言者がわたしの命じていないことを、勝手にわたしの名によって語り、あるいは、他の神々の名によって語るならば、その預言者は死なねばならない」(申命記18:20)が挙げられます。イエス様は律法の規定に従って断罪されているのです。「神様の御心」の解釈を巡る神学的な争いが起こっているのです。イエス様は「神の国」の宣教を神様から与えられた使命として理解されたのです。迫害と死の危険が迫っている時にあっても、恐れることなく寝食を忘れて目的の実現のために全力を尽くされたのです。貧しい人々や虐(しいた)げられた人々と共に歩まれたのです。権力者たちを公然と批判されたのです。ヘロデ・アンティパスを「あの狐」と呼ばれたのです(ルカ13:32)。これは民族を裏切ってローマ帝国に協力するヘロデに人々がつけた「あだ名」なのです。エルサレム神殿から不正な商人たちを追い出し、神殿政治を担う指導者たちの不信仰と腐敗を激しく非難されたのです(マルコ11:15-16)。

*イエス様はご自身の死において初めて人間の「救い」がもたらされるとは考えておられなかったのです。ただ、イスラエルの民が「神の国」の福音を拒否したことにより新しい状況が生まれたのです。イエス様の十字架上の死を神様のご計画に定められた贖(あがな)いの犠牲とするだけでは「福音の全体」を説明したことにはならないのです。「神の国」は正義と愛を基本理念としているからです。貧しい人々や虐げられた人々の側に立って社会秩序の変革を求めるのです。イエス様はご自身の方から権力者たちを挑発するような言動をされたのです。イエス様の宣教活動は急進的であり、宗教的、政治的な権力者たちから迫害されることは必然だったのです。「神の国」の福音は本質的にこの世の権力たちと相容れないのです。エジプトの王ファラオ、ローマ皇帝が「神様の支配」に服従することはないのです。「神の国」の福音はローマ帝国の支配とユダヤ教の律法と鋭く対立したのです。民衆の多くはイエス様を熱烈に支持したのです。「神の国」の宣教活動がローマ帝国の平和を損なう要因になりかねないのです。ローマ帝国は支配下にある国や地域の民族解放闘争を決して容認しなかったのです。(事実、紀元後70年にローマ軍はエルサレムの町と神殿を完全に破壊するのです。)今、神殿政治(民族の自治)の存立が危ぶまれているのです。カイアファはユダヤ(特にエルサレム)の政治的安定に腐心するのです。イエス様を十字架刑に処するために民衆が動員されるのです。彼らはローマの総督ポンティオ・ピラトを脅迫するのです(ヨハネ19:12)。

2024年03月10日

「優先順位」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書12章13節から34節

群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんな(神様にとって)ごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの(もっと小さい)事まで思い悩むのか。野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」


(注)


・遺産相続: 律法によると遺産の内3分の2は兄に、3分の1は弟に配分されるのです。(申命記21:17)

・お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか:

■土を盛るように銀を積み/粘土を備えるように衣服を備えても、その備えた衣服は正しい人が着/その銀は潔白な(無実の)人の所有となる。家を建てても、巣のよう/番人の作る仮小屋のようなものだ。寝るときには豊かであっても、それが最後/目を開けば、もう何ひとつない。(ヨブ記27:16-19)


・ソロモン:神様はソロモンに「・・あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命を求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。・・」と言われて、知恵に満ちた賢明な心を与えられたのです。さらに、ソロモンが求めなかった富と栄光を加えられたのです。旧約聖書の列王記上3章をお読み下さい。


・神の国:イエス様の宣教の目的は「神の国」(天の国)の到来を証しすることです。神様の支配が地上の隅々に及ぶのです。政治、経済、社会における新しい秩序-正義と愛を基本とする人間関係-が実現するのです。

・からす:マタイでは鳥(とり)となっています。

・人間の命:野の草花と同じように儚(はかな)いのです。旧約聖書のヨブ記8:12-14、イザヤ書40:6-8を参照して下さい。

・小さな群れ:虐げられている人々の様子が詳細に描かれています(エゼキエル書34:11-31)。

・持ち物を売ること:貧しい人々に施しをすることはユダヤ人の信仰にとって重要なことでした。初代教会の信徒たちもそれを実践したのです。使徒言行録2:44-45に記述されています。

・1レプトン:最小の銅貨です。1デナリオン(当時の平均的労働者の一日分の賃金に相当)の128分の1の価値です。やもめの生活費は2レプトンだったのです。人々の貧しさを象徴しているのです。

(メッセージの要旨)

*有り余る物を持っている人には心配事がないように見えるのです。しかし、これらの人にも財産管理という悩みがあるのです。たとえ話に登場する金持ちは悪事を働いて蓄財したのではないのです。所有する畑から正当に収穫物を得たのです。富に執着する金持ちは自分のために穀物や財産を蓄える大きな倉を建てようとしているのです。神様は金持ちを愚か者と呼ばれたのです。富と命の両方が金持ちから取り上げられたのです。富はご自身の所有物であり、命もご自身の主権に属するものであることを宣言されたのです。人口の95%は貧しかったのです。イエス様は富と「救い」の関係について金持ちの青年の生き方を通して語っておられるのです(マタイ19:16-22)。貧しい人々に富を施すことは「永遠の命」に与るための必須の要件です。富への対応を誤れば「永遠の命」を失うことになるのです。一方、ほとんどの人は労働によって最低限必要な生活の糧を確保しているのです。将来に備える余剰のお金などないのです。人々は日々の生活に不安を覚えているのです。イエス様は「恐れるな。神様が養って下さる」と言われるのです。その上に立って「何よりもまず、神の国(神様の支配)と神の義(神様の正義)を求めなさい」と命じられたのです(マタイ6:33)。しかし、この世に生きている限り悩みがなくなることはないのです。困難に直面した時イエス様のお言葉を想起するのです。神様にすべてを委ねる人の心に平安が与えられるのです。不思議な力が内側から湧いて来るのです。イエス様は「優先順位」の大切さを再確認されたのです。

*神様はご自分にかたどって人間を造られました。彼らを祝福されたのです(創世記1:27—28)。土地所有者に「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である」と言われたのです(レビ記19:9-10)。イエス様は最も重要な戒めとして「神様と隣人を愛すること」を挙げておられます(マルコ12:28-34)。「神様の御心」に沿って生きることが義務付けられているのです。からすはパレスティナの地に多く見られました。旧約聖書にもたびたび登場します。預言者エリヤを養った鳥としても有名です(列王記上17:4-6)。からすは蒔きも刈り取りもしないのです。食べ物を貯蔵する納屋などはないのです。日々エサを探して命をつなぎ、与えられた時期に巣を作って雛を育てているのです。神様が養っておられるのです。何種類かのユリがパレスティナの地に咲いています。野の花は働きも紡ぎもしないのです。自らを美しく着飾って良い香りを漂(ただよ)わせているのです。ただ、命は短いのです。雑草と共に刈り取られるのです。ユダヤ人たちは土か鉄の窯(かま)を持っていました。乾燥した花の茎と雑草は燃料として使われたのです。被造物はそれぞれの役割を果たしているのです。人間も使命を遂行するのです。神様を信頼するのです。命を維持するために必要な物は必ず満たされるのです。


*信仰による「救い」が語られているのです。ところが、イエス様が宣教された「神の国」の根本理念-人間の全的な救い-に言及されることが極めて少ないのです。福音の範囲が「罪の赦し」に縮小されているのです。キリスト信仰とは悔い改めて「神の国」の到来を福音として信じることです。「神の国」においてはすべてのものが神様の支配下に置かれているのです。権力や富は勿論のこと、人間の死さえも例外ではないのです。「神の国」を欠いた信仰理解は土台のない家を建てることに似ています。洪水(試練)が来ればその家は押し流されるのです(マタイ7:24-29)。現実を直視するのです。富が偏在しているのです。多くの人が食べ物を得るために日々奔走(ほんそう)しているのです。金持ち(指導者)たちが肥え太り、貧しい人々はやせ衰えているのです。社会・経済制度の不備と神殿政治を担う祭司たちの腐敗と偽善が格差と矛盾を拡大させているのです。イエス様は荒れ野でサタン(悪魔)の誘惑を退けられました。弟子たちにも富-別名マモン(悪魔)-の誘惑と闘うことが求められているのです。神様と富の両方に仕えることは出来ないからです(マタイ6:24)。イエス様は神様の「正義と愛」を地上に実現するために、町や村を残らず回られたのです。「神の国」には貧しい人々や虐げられた人々が優先的に招き入れられるのです。イエス様は人々が飼い主のいない羊のように弱り果てているのをご覧になったのです。キリスト信仰とは福音に与るだけではないのです。自らが福音の担い手になることです(マタイ9:35-38)。


*キリスト信仰を標榜(ひょうぼう)する人々が自分たちの生活や「救い」に関心を寄せることは当然です。同時に「神様の御心」の実現に向けて責務を果たすのです。「神様と隣人を愛すること」に怠惰(たいだ)であってはならないのです。一人の貧しいやもめが神殿の賽銭箱にレプトン銀貨二枚を献金したのです。イエス様は誰よりもたくさん入れたと言われたのです(マルコ12:41-44)。この人は乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからです。神様への信頼が揺るぎないのです。神様は人を見えるところで判断されないのです。イエス様はご自身を「良い羊飼い」と呼ばれたのです(ヨハネ10:14)。直接群れを導き養って下さるのです。初代教会は財産や持ち物が神様に属することを理解していたのです。土地や家屋を売ったお金は集められ必要とする人々(隣人)に配分されたのです。信徒たちの中には貧しい人が一人もいなかったのです(使徒4:34-35)。信徒たちは「神様の栄光」を表すために財産を用いたのです。天上に富を蓄えたのです。金持ちたちは富に執着するのです。貪欲に増やそうとするのです。神様に富を少しでも委ねることに躊躇(ちゅうちょ)するのです。自分で財産を管理するのです。貧しい人々が生活の糧を隣人に分け与えることも簡単ではないのです。金額の多寡(たか)ではないのです。「神様の御心」に沿って生きているか否かが問われているのです。「神の国」の建設に参画する人々に「永遠の命」が与えられるのです。キリスト信仰の真髄(しんずい)はここにあるのです。

*神様は自己中心的な金持ちを厳しく罰せられました。富を貧しい人々に施すことができない人々は「神の国」に入れないのです。神様の富に対する厳しさが曖昧(あいまい)にされてはならないのです。一方、貧しい人々や虐げられた人々、病気を患っている人々にも様々な苦悩があるのです。貧しさや負債から解放され、肉体や精神の障害が癒されることを切望しているのです。イエス様は信徒たちの思いをご存じなのです。その上で「信仰の薄い者たち」と言って、信仰理解の誤りを正されるのです。すべてを神様に委ねることが信仰だからです。イエス様は「御名が崇められますように。・・わたしたちに必要な糧(かて)を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように」と祈るように教えられたのです(マタイ6:9-12)。これが「主の祈り」です。「個人的な祈り」として誤解され易いのですが、「集団的な祈り」なのです。先ず神様の名が崇められることを願うのです。神様の前で相互に助け合うことを約束するのです。順風満帆(じゅんぷうまんぱん)の時ばかりではないのです。生きている限り悩みの種は尽きないのです。「優先順位」を間違えることがあるのです。その時は悔い改めて信仰の原点に戻るのです。「神の国」の福音に感謝するのです。イエス様の御跡を辿(たど)るのです。「神様と隣人」を愛して生きるのです。苦難に喘(あえ)いでいる人々のために持っている物-財産、地位、名誉など-を用いるのです。神様はこのような人々を必ず祝福して下さるのです。

2024年03月03日

「洗足の意味」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書13章1節から20節

さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。

さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

(注)

・過越祭:ユダヤ教の三大祭りの一つです。イスラエルの民がエジプトの奴隷から解放された出来事を記念する重要な祭りです。出エジプト記12:1-13:16をお読み下さい。他の二つは七週祭と仮庵祭です。

・最高法院:ユダヤ民族の宗教的、社会的意志を決定する最高の機関です。律法機関と裁判所を兼ねていました。大祭司を中心に、祭司たちと祭司の家系の長老たち、民の長老たち、律法学者たちの71人で構成されています。

・わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった:詩編41:10の引用です。

・わたしはある:神様の顕現(けんげん)を表現しています。出エジプト記3:14を参照して下さい。

・ユダヤ人の埋葬(まいそう):香油を体に塗(ぬ)ることが含まれています(ルカ23:56)。

・ベタニヤ:エルサレムからおよそ2.8kmのところにあります。

・1リトラ:約340グラムです。

・1デナリオン:当時の平均的労働者の一日分の賃金に相当しています。三百デナリオンはかなりの金額です。

・子供:貧しい人々、虐(しいた)げられた人々のことです。

(メッセージの要旨)

*イエス様は宣教活動の最終地としてエルサレムを選ばれたのです。その前に近くのベタニヤの村でラザロを墓から呼び出して、死者の中から蘇(よみがえ)らしておられるのです。これを聞いていた群衆は熱狂してイエス様を出迎えたのです。大祭司は対応するために最高法院を招集したのです。祭司長たちやファリサイ派の人々は「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」と不安を口にしたのです(ヨハネ11:48)。イエス様を殺すことが決定されたのです。逮捕するための命令が出されたのです。イエス様はご自身がこの世から神様の下へ帰る時が来たことを悟られたのです。イエス様はこれまでもキリスト信仰の真髄(しんずい)を語られました。言葉だけではなく「力ある業」によって証しされたのです。もうすぐこの世を去られるのです。最後に模範を示されたのです・それが「洗足」です。二つの意味があるのです。一つはイエス様に繋がっていることです。ぶどうの枝はぶどうの木に繋がっていなければ枯れるのです(ヨハネ15:1-6)。サタンに誘惑されたイスカリオテのユダはイエス様を裏切ろうとしているのです。不幸な死を遂(と)げることになるのです。二つ目は評価の低い仕事を担うことです。イエス様は「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われたのです(ヨハネ15:12-13)。十字架刑の死によって証明されたのです。

*「洗足」の慣習は古代から受け継がれているのです。招いた客が家に入る時に行われました。履物が擦り切れた場合に両足は土で汚れたからです。創世記に「目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、言った。『お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください』」と記述されています(18:2-4)。祭司たちには聖所に入る前に足を洗うことが義務付けられていたのです。「洗盤を臨在の幕屋と祭壇の間に据え、それに清めの水を入れた。その水でモーセ、アロンおよびその子らは、自分の手足を清めた。彼らが臨在の幕屋に入るとき、あるいは、祭壇に献げ物をささげるときは、水で清めるのを常とした。主がモーセに命じられたとおりであった」(出エジプト記40:30-32)。社会的地位のある人々の家では奴隷が来客の履物のひもを解いて足を洗うために入口で立っていたのです。洗礼者ヨハネはイエス様が「神の子」であることを強調するために、群衆に「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と言ったのです(ルカ3:16)。また、特別な客の「洗足」には水ではなく、高価な香油が用いられたのです。初代教会において「洗足」は謙遜の徴(しるし)として実行されたのです(1テモテ5:10)。

*イエス様は公然とユダヤ人たちの間を歩けなくなっていたのです。命の危険が迫っているのです。緊迫した状況の中で「洗足」は行われたのです。イエス様は模範を示されたのです。ところが、二人の女性がイエス様の教えをすでに実行しているのです。一人はイエス様と交流のあったマリア、もう一人は罪深い女性です。イエス様はベタニヤにあるマルタ、マリア、ラザロの家を訪問されたのです。三人はイエス様が逮捕されることを恐れていたのです。重苦しい雰囲気が漂(ただよ)っていたことが推測されるのです。イエス様のために夕食が用意されました。マルタが給仕をしていたのです。マリアは純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持ってきて、イエス様の足に塗り、自分の髪でその足をぬぐったのです。イスカリオテのユダが見せかけの信仰心から「香油を三百デナリオンで売って貧しい人々に施さなかったのか」とマリアを叱責(しっせき)したのです。イエス様はユダの悪業を見抜いておられました。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬(ほうむ)りのためにそれを取っておいたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」と言われたのです(ヨハネ12:1-8)。イエス様はご自身の死が近いことを暗示されたのです。特別な人の「洗足」には香油が用いられたのです。マリアたちも慣習に従ったのです。イエス様のラザロに対する「力ある業」に感謝していたからです。意図は別にして、後の十字架刑による死を見ればイエス様の埋葬を準備したことになったのです。

*もう一人イエス様の足を洗った女性がいたのです。その人は罪深い女性と呼ばれていました。イエス様は対立しているファリサイ派のシモンの家に行かれたのです。おそらく、会堂の礼拝が終わった後に食事に招かれたのです。招かれていない人々がその場に居合わせることは珍しいことではないのです。その内の一人が誰もが知っている罪深い女性だったのです。席に着いている人々は今日のように椅子に座らなかったのです。カウチ(簡易ベッド)の上に横たわり、足を延ばして食事をしたのです。女性は容易にイエス様に近づくことが出来たのです。信仰を誇る社会的地位の高い男性の中へ女性が一人で入って行くことなど考えられないことです。女性は香油を塗るために勇気を奮ってイエス様の足元に向かったのです。罪の重荷に苦しんで泣いていたのです。イエス様の足を涙で濡らし、自分の髪の毛でぬぐい、接吻して、高価な香油を塗ったのです。イエス様は罪深い女性の振る舞いを拒絶しなかったのです。シモンはイエス様の預言者としての資質に疑問を抱いたのです。イエス様はシモンに「わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかった」と言われたのです。ご自身に対する不信仰を指摘されたのです。「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」と言われたのです。罪深い女の人には「あなたの罪は赦された」と宣言されたのです(ルカ7:36-50)。男性中心の家父長社会において蔑まれていた女性が「行い」によって「救い」に与ったのです。

*イエス様の足を洗ったのはいずれも女性なのです。使徒たちはその事実をすでに見ているのです。ある時、弟子たちは誰が一番偉いかについて論じあっていたのです。イエス様は一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」と言われたのです(マタイ18:3-4)。仕えることこそ「神様の御心」に適(かな)っているのです。イエス様は最後の晩餐において弟子たちの足を洗われたのです。ご自身の死が及ぼす人間の罪の清めを象徴しているのです。同時に、隣人への愛は「救い」にとって不可欠な要素であることが明らかになったのです。使徒たちにとってもイエス様の命令を実行する時が来たのです。へりくだることの大切さを言葉で理解するだけではなく「行い」によって具体化するのです。イスカリオテのユダはイエス様に足を洗っていただいた後に引き返すことも出来たのです。しかし、サタンと共に歩むことを決断したのです。イエス様は何度もご自分の死と復活について予告しておられるのです(マルコ9:31)。弟子たちにも覚悟を求められたのです(マタイ8:18-22)。イエス様は残していく使徒たちに最も重要な戒めを教えられたのです。キリスト信仰とは「神様の御心」に沿って生きることです。イエス様はユダヤ教の慣習に反して罪人や女性たちを弟子にされたのです(ルカ8:1-3)。ご自身に倣(なら)うように命じられたのです。

2024年02月25日

「二人の金持ち」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書18章18節から30節及び19章1節から10節

ある議員(権力者)がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると議員(権力者)は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。イエスは、議員(権力者)が非常に悲しむのを見て、言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。するとペトロが、「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」

・・・・・・・・・・・

イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

(注)

・議員:支配者あるいは権力者と訳すべき言葉です。日本語訳はイエス様の真意を曖昧(あいまい)にしているのです。

・エリコ:エルサレムから高度差およそ1,000m下り、約28km離れた所にある町です。

・神の国(天の国):神様の主権、神様の支配のことです。死後に行く「天国」のことではありません。

・永遠の命:神様によって来たるべき時に新しく創造されることです。ダニエル書12:2を参照して下さい。

・捨てる:日本語訳では非情な響きを与えますが、「神様に委ねること」です。

・正義と愛:

■アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。(創世記18:18-19)

■あなた(たち)は寄留者を虐げてはならない。あなたたちは寄留者の気持を知っている。あなたたちは、エジプトの国で寄留者であったからである。あなた(たち)は六年の間、自分の土地に種を蒔き、産物を取り入れなさい。しかし、七年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない。あなた(たち)の民の乏しい者(たち)が食べ、残りを野の獣に食べさせるがよい。ぶどう畑、オリーブ畑の場合も同じようにしなければならない。(出エジプト記23:9-11)

■同胞であれ、あなた(たち)の国であなた(たち)の町に寄留している者(たち)であれ、貧しく乏しい雇い人(たち)を搾取してはならない。賃金はその日のうちに、日没前に支払わねばならない。彼(ら)は貧しく、その賃金を当てにしているからである。彼(ら)があなた(たち)を主に訴えて、罪を負うことがないようにしなさい。(申命記24:14-15)

■主は裁きに臨まれる/民の長老、支配者らに対して。「お前たちはわたしのぶどう畑を食い尽くし/貧しい者(たち)から奪って家を満たした。何故、お前たちはわたしの民を打ち砕き/貧しい者(たち)の顔を臼でひきつぶしたのか」と/主なる万軍の神は言われる。(イザヤ書3:14-15)

■災いだ、恵みの業を行わず自分の宮殿を/正義を行わずに高殿を建て/同胞をただで働かせ/賃金を払わない者は。・・あなたの目も心も不当な利益を追い求め/無実の人の血を流し、虐げと圧制を行っている。(エレミヤ書22:13,17)

■このことを聞け。貧しい者(たち)を踏みつけ/苦しむ農民(たち)を押さえつける者たちよ。お前たちは言う。「新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。(アモス書8:4-5)

■災いだ、寝床の上で悪をたくらみ/悪事を謀る者(たち)は。夜明けとともに、彼らはそれを行う。力をその手に持っているからだ。彼らは貪欲に畑を奪い、家々を取り上げる。住人(たち)から家(々)を、人々から(彼らの)嗣業を強奪する。(ミカ書2:1-2)

(メッセージの要旨)

*イエス様はメッセージの中心に正義と愛を据えられました。旧約聖書が伝える律法を大切にされたのです(マタイ5:17-20)。律法には三つの目的があります。第一は制度が生み出す様々な弊害を最小限にすること、第二は人々を対立させている貧富の差をこれ以上拡大させないこと、第三は金持ちや権力者たちの搾取から貧しい人々や虐げられている人々を守ることです。イエス様はそれらを再解釈されたのです。ユダヤ人たちの信仰の原点は「出エジプト」の出来事にありました。神様がヘブライ人たち(イスラエルの民)をエジプトの圧政と搾取から解放されたからです。人々はエジプトと同じような罪を犯せば、神様から厳しい罰が下ることを知っているのです(ルカ1:51-52)。議員 たちは既得権益を享受しているのです。貧しい人々を犠牲にして富を蓄積しているのです。すべての財産を自分のために使っているのです(ルカ12:16-21)。エルサレム神殿では有り余るほどの中から多額の献金をしているのです(マルコ12:41)。一方、貧しい人々は借金返済のために担保の土地を奪われ、長時間労働と低賃金によって健康を害し、最低生活を維持するために日々奔走(ほんそう)しているのです。人々の貧しさの主たる原因は議員たちの搾取と強欲にあるのです。同時に、社会・政治・経済システムが議員たちと貧しい人々を再生産しているのです。イエス様は信仰と行いの矛盾に苦しんでいるこの議員に律法を厳格に守るように指示されたのです。しかし、この世に執着したのです。徴税人ザアカイは悔い改めて「救い」に与ったのです。

*二人の対照的な金持ちが登場します。一人は神様の戒めを守り、信仰の篤い人として人々から尊敬されている議員です。もう一人は徴税人の頭です。ローマ帝国に協力する罪人として社会から排斥されていたのです。前者は社会的地位の高い権力者ですが、どうしても「永遠の命」の確信を得られないのです。死の恐怖に怯(おび)えているのです。評判を聞いていたイエス様に解決方法を尋ねたのです。イエス様は十戒(出エジプト記20:1-17)の一部を引用して、それらを実行しなさいと言われたのです。議員は誇らしげに「子供の時から守っています」と答えたのです。しかし、イエス様は「あなたにかけているものがまだ一つある」と言われたのです。律法の重要な規定を守っていないことが指摘されたのです。貧しい人々に財産の一部または全部を施すという義務を怠っていたのです。議員は律法に精通しているのです。それを実行しているのです。しかし、自分にとって不都合な個所を除外していることが明らかになったのです。イエス様は「永遠の命」に至る道を示されたのです。「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と言われたのです。議員に不信仰と偽善を悔い改めることが求められたのです。神様を信頼することから始めるのです。お預かりしている大切な物(富)をお返しするのです。議員は大きな決断を迫られたのです。しかし、イエス様と共に歩まなかったのです。この世に執着したからです。自ら「神の国」に入る道を閉ざしたのです。

*徴税人たちはローマ帝国に協力して自国の民から税金を徴収し上納していました。見返りとして自分たちのために追加の税を取り立てる権限が与えられていたのです。ユダヤ人たちは過酷な税に喘(あえ)いでいたのです。徴税人たちを裏切り者、罪人として軽蔑したのです。交際することもなかったのです。ザアカイは徴税人たちを束ねる頭です。民衆の犠牲の上に富を築いている代表的人物の一人です。イエス様の評判はこの人にも伝わっていたのです。心の中に信仰心が芽生えていたのです。興味を持っていたイエス様を一目見ようとして木に登ったのです。ところが、イエス様の方からザアカイに声をかけ、家に泊りたいと言われたのです。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)にイエス様が徴税人や罪人たちと食事をされている様子が記されています。マルコ2:13-17が一例です。しかし、初対面の人に宿泊を申し出られた記事はどこにも見当たらないのです。ザアカイは喜んでイエス様を迎えたのです。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と言ったのです。これまでの生き方を悔い改めたのです。自分の意志によって財産の半分を貧しい人々に施すことにするのです。不正な手段によって富を得ていた場合は律法の規定に従って償うことにするのです(出エジプト記21:37)。イエス様は「今日、救いがこの家を訪れた」と言われたのです。ザアカイは「神様の御心」に適(かな)った「行い」によって罪を赦されたのです。「永遠の命」に与ったのです。


*イエス様は弟子たちに「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と言われました(マタイ5:48)。ところが、信仰を自負する人々は遵守すべき戒めの範囲を恣意的に狭めるのです。貧しい人々や虐げられた人々への無関心は罪ではないのです。イエス様はこれらの人に心を砕かれたのです。山上の説教(マタイ5-7)や平地の説教(ルカ6:17-49)に詳述されているのです。隣人を自分のように愛することは「永遠の命」に与るための必須の要件なのです。聖書に依拠することを表明しながらイエス様のお言葉を軽んじてはならないのです。議員のようにイエス様の教えを実行しなければ「神の国」に入れないのです。人は誰でも罪を犯すのです。イエス様は姦淫の罪に怯(おび)える女性を憐れまれたのです。「わたしもあなたを罪に定めない。・・これからは、もう罪を犯してはならない」と言われたのです(ヨハネ8:1-11)。放蕩息子は罪を悔いて父親の下へ帰ったのです。父親は息子の過去を非難しなかったのです。「死んでいたのに生き返った」と喜んで祝宴を開いたのです(ルカ15:11-24)。徴税人は神殿に上ったのです。罪の重荷に苦しんでいたからです。目を天に向けることもなく「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈ったのです。イエス様はこの人の罪が赦されたことを明言されたのです(ルカ18:9-14)。神様は罪人たちがご自身の下へ返って来ることを待っておられるのです。キリスト信仰とは信じることではないのです。イエス様に従って生きることなのです。


*イエス様は山上の説教において「神の国と富とに仕えることは出来ない」と言われました(マタイ6:24)。お言葉は弟子であるかどうかの判断基準になっているのです。「永遠の命」の要件があまりにも厳しいので弟子たちは「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言ったのです。弟子たちの率直な気持ちが表れているのです。自分たちに議員と同じような弱さがあることを自覚しているのです。イエス様は彼らを見つめて「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」と言われたのです。イエス様は弟子たちに譲歩して基準を緩和されることはなかったのです。全能の神様がすべての困難を取り除いて下さるからです。信仰の先駆者の中には福音宣教のために愛する家族と別れた人、家や畑を残して来た人がおられるのです。命を捧げられた方も一人や二人ではないのです。これらの方は悩みに悩んで決断されたのです。神様は「捨てる勇気」を与えられたのです。適切な時期にその労苦に報いて下さるのです。イエス様のお言葉はまことに厳しいのです。今日のキリストの信徒たちの中に「それでは、だれが救われるのだろうか」と言う方がおられるかも知れません。キリスト信仰は安価な恵みではないのです。神様は逡巡する信徒たちに困難な道へ踏み出す決断と力を与えて下さのです。父親の言いつけを拒否した兄は後に考え直したのです(マタイ21:28-29)。「神様の御心」に相応しい生き方を始めたのです。イエス様はザアカイのような信徒たちを待っておられるのです。「神の国」に迎え入れて下さるのです。

2024年02月18日

「人間の全的な救い」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書11章17節から44節

さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

(注)

・十五スタディオン:1スタディオンは約185メートルです。およそ2.8kmの距離になります。

・イエス様の憤り: 「死」が人間を支配していることに怒られたのです。イエス様は温厚なお方として語られることが多いのです。恣意的に作られたイメ―ジは読者に「福音の本質」を誤って伝えることになるのです。イエス様は「祈りの家」と呼ばれる神殿を強盗の巣にした商人たちを実力で追い出されたのです(ルカ19:45-48)。他にも厳しい口調で語っておられるのです。マタイ9:30、マルコ1:43などが挙げられます。イエス様の実像を正確に理解することが大切です。

・ユダヤ人の葬儀:死んだ日に遺体の埋葬も行われたのです。葬儀は七日間続いたのです。

・ナイン:ナザレの近くにある村です。


・死について:

■死の縄がからみつき/奈落の激流がわたしをおののかせ  陰府の縄がめぐり/死の網が仕掛けられている。(詩編18:5-6)

■あなたの死者が命を得/わたしのしかばねが立ち上がりますように。塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光の露。あなたは死霊の地にそれを降らせられます。(イザヤ書26:19)

■神は・・彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。(ヨハネ黙示録21:4) 

・裁きについて:

■見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。(ヨハネの黙示録22:12-15)

・復活について:

イエス様は復活を否定するサドカイ派の人々に「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている」と言われまたのです(マルコ12:24-27)。モーセの書の『柴』の個所については出エジプト記3:6、15-16を参照して下さい。


(メッセージの要旨)

*イエス様は洗礼者ヨハネが捕らえられた後ガリラヤへ行き「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って、宣教を開始されたのです(マルコ1:15)。「神の国」(天の国)は誤解されているような死後に行く「天国」のことではないのです。「神様の支配」を表しているのです。地上の出来事に焦点を当てる言葉なのです。キリスト信仰とは「神の国」の到来を福音(良い知らせ)として信じることなのです。神様はこの世を終わらせ「新しい天地」を創造されるのです。「主権」がご自身に属することをイエス様によって語り、証明されたのです。「救い」はすべての被造物に届けられるのです。罪の重荷に苦しんでいる人々、権力者たちの腐敗や不公正が蔓延(はびこ)る政治・経済・社会の変革に取り組んでいる人々、死の恐怖に怯(おび)えている人々に及ぶのです。「神の国」の到来は罪と死の力に対する決定的な勝利を予告しているのです。神様はしかるべき時に人間の「全的な救い」を完成して下さるのです。マルタはイザヤの預言「主は・・死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。・・」(イザヤ書25:7-8)を死後に起こる出来事として理解していたのです。ところが、イエス様は最後の敵である「死」の支配をご自身の権能によって一時的に停止されたのです。「永遠の命」の希望に生きる人々に「復活の約束」が真実であることを示されたのです。イエス様は終わりの日に先立って遣わされた「命の与え主」なのです(ヨハネ5:21)。

*イエス様がマルタとマリアから知らせを受けてベタニヤに着いた時にはラザロは死んで既に四日経っていました(ヨハネ11:1-6)。これは単に経過した日数の問題ではないのです。重要な意味が隠されているのです。ユダヤ人の間に死んだ人の魂は三日間肉体に戻ろうとして周りを彷徨(さまよ)い、肉体の腐敗が始まると魂は離れて行くという信仰があったのです。福音書記者ヨハネはラザロが確実に死んだこと、イエス様の「力ある業」が心肺停止の状態から再び生命を取り戻す蘇生ではないことを知らせているのです。イエス様は他にも死者を生き返らせておられます。会堂長ヤイロの幼い娘(マルコ5:21-43)やナインのやもめの息子(ルカ7:11-17)です。イエス様はご自身が復活であり命であると言われるのです。それはイエス様の復活という出来事を通して基礎づけられるのですが事前に見せて下さったのです。「永遠の命」は神様に願い出て得られる贈り物ではないのです。イエス様との結びつきを通して「この世」において与ることなのです。イエス様の弟子たちが「肉体の死」を経験しないことではないのです。死を越えて約束されているということなのです。イエス様を「救い主」と信じる人々は「死の支配」から解放されているのです。「永遠の命」の確信において生きることが出来るのです。マルタの信仰理解のように「永遠の命」に与るために「この世」の終わりを待つ必要はないのです。イエス様は「神様は死んだ者の神様ではなく、生きている者の神様である」と言われるのです。神様は私たちと共におられるのです。

*信仰深いマルタやマリアであっても「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言っているのです。イエス様を非難しているようにも聞こえるのです。死が人々を深く悲しませていることの証左なのです。しかし、この言葉は「神様はイエス様を通して働いて下さる」という信頼に基づいているのです。むしろ、イエス様への信仰が揺るぎないことを語っているのです。死者が復活することを信じている人々であってもラザロの死に泣いているのです。これらの人はラザロが「永遠の命」に与っていることを喜ぶよりも、彼の「現在の死」を悲しんでいるのです。愛する人の死という現実が人々の信仰の確信を圧倒しているのです。イエス様はラザロを愛した人々がこれほどまでに苦しむ姿を見て、人間を支配している「死」に憤(いきどお)られたのです。ご自身も愛されたラザロの死に涙を流されたのです。福音書の中でも感情を露(あらわ)にされた数少ない例なのです。イエス様の涙はラザロへの同情に留まらないのです。心の底から湧き上がる「死」に対する怒りの表れなのです。人々の信仰を確かなものにするために「力ある業」を実行されたのです。イエス様は神様に祈られた後ラザロを大声で呼ばれたのです。死んでいた人が蘇って墓から出て来たのです。人々はラザロを巻いていた布や覆いをほどいてお互いに言葉も交わしたのです。ラザロの復活は終わりの日の復活の先取りなのです。「神の国」の福音を証明する出来事なのです。イエス様のなさったことを目撃したユダヤ人の多くはイエス様を信じたのです。

*イエス様は「救い」(癒し)を語られるだけでなく、可視化されたのです。ご自身を「光」であると言われただけではなく、生まれつきの盲人を見えるようにされたのです(ヨハネ9:1-12)。「わたしは復活であり、命である」と言われただけでなく、死んだラザロに再び「命」を与えられたのです。ラザロの復活は、後に起こるイエス様の十字架上の死からの復活を予想させる十分な根拠となっているのです。ところが、死者の復活がすべての人に「神様の御力」と出来事の信ぴょう性を納得させるとは限らないのです。ベタニアに来た弔問客の中には親戚や友人がたくさんいました。彼らは葬儀に参列してラザロの死を確認しているのです。一方、ラザロの復活にも遭遇しているのです。ところが、イエス様への信仰を拒否する人々がいるのです。イエス様は不信仰な人々を救うために譲歩して「わたしを信じなくても、その業を信じなさい」と言われたのです(ヨハネ10:38)。ご自身の復活を疑う12弟子の一人トマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人(人々)は、幸いである」と言われたのです(ヨハネ20:29)。父祖アブラハムも「もし、モーセと預言者(たち)に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があってもその言うことを聞き入れはしないだろう」と言うのです (ルカ16:19-31)。神様が召命されたモーセと預言者たち、神様が遣わされたイエス様への応答が運命を決定するのです。「永遠の命」に通じる門は狭く、その道も細いのです(マタイ7:14)。ただ、謙虚に探せば直ぐに見つかるのです。

*ラザロは病気で死んでいるのです。しかし、人が死ぬ理由は様々です。自然死があれば殺されることもあるのです。神様が与えられた大切な「命」が人間によって簡単に奪われているのです。日常茶飯事のように殺人事件が報道されているのです。親が虐待して子供の命を奪い、子供が親を殺しているのです。最も愛情に満ちた家族の関係が憎しみによって破壊されているのです。人間の死が人為的に起こされているのです。人間にとって殺人が特別のことではなくなっているのです。人の命を奪うことに対する罰への恐れが希薄になっているのです。「命」の与え主である神様が軽んじられているのです。国連の報告によると、変わりゆく世界情勢の中で日本の人口と同じ数の人が故郷を追われているのです。この瞬間も苦しい避難生活を強いられているのです。今年も無事に冬を乗り越えられるであろうかと危惧しているのです。戦争による攻撃や貧困、食料不足に必死に耐えているのです。過酷な冬は難民、国内難民を命の危険に晒(さら)しているのです。ロシアによるウクライナ侵攻は3年目を迎えようとしているのです。双方で何十万人の兵士や民間人が死傷しているのです。イスラエルとハマスの戦闘によって二万数千人の命が奪われているのです。多くの人が犠牲になっているのです。心から憤りを覚えるのです。ロシアのプ-チン大統領を厳しく罰して下さい、中東に平和を実現して下さいと切に祈るのです。イエス様は権力者たちから命を狙われているのです。ご自身の方から「神の国」の完成のために苦難が待っているエルサレムへ向かわれたのです。

2024年02月11日

「サマリア宣教を担った女性」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書4章1節から27節

 

さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった。それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。

サマリアの女(性)が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女(性)は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人(たち)はサマリア人(たち)とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女(性)は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者(たち)は決して渇かない。わたしが与える水はその人(彼ら)の内で泉となり、永遠の命に至る水が(水となって)わき出る。」女(性)は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」


イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、 女(性)は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女(性)は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女(性)が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」


ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人(女性)と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。


(注)

・サマリア人の歴史:

●ソロモン王の死後イスラエル王国は南北に分裂し、北王国は「イスラエル」、南王国は「ユダ」と呼ばれました。中心都市は北がサマリア、南はエルサレムでした。北王国は不信仰の故に主の御前から退けられ、紀元前721年、アッシリアによって滅ぼされたのです。アッシリアの王はイスラエルの人々を自国へ連れて行き、代わりにサマリアの地に様々な国の異邦人たちを住まわせたのです。これらの人は主を畏れ敬うのですが、同時に自分たちの神を造り、偶像にも仕えていたのです。列王記下17章をご一読下さい。

●その後、サマリア人たちの間に本来の信仰が戻ったのです。しかし、旧約聖書をモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)に限定したのです。知恵文学(詩篇など)や預言書(イザヤ書など)はユダヤとエルサレム(ダビデの系譜)に焦点を当てていたからです。エルサレムを巡礼地として認めなかったのです。シカルの町を見下ろすゲリジム山を礼拝場所としたのです(ヨシュア記8:30-35)。

●紀元前539年、バビロン捕囚から帰還したゼルバベルはエルサレム神殿の再建に着手しました。サマリアの人々は計画を知って援助を申し出たのです。ところが、ユダヤ人たちはこれを拒否したのです。両者の対立はさらに深まったのです(エズラ記4:2-3)。紀元前128年、ユダヤ人たちはサマリアを攻撃したのです。シカルの町を破壊し、ゲリジム山にある神殿を焼き尽くしたのです。

・当時の旅:サマリアはユダヤと北のガリラヤの間にあります。ユダヤ人たちは旅程を短縮できるサマリアのルート-例えばシカル経由-を利用しなかったのです。追いはぎも多かったのですが、エリコを通ってガリラヤへ向かったのです。今回、イエス様は迂回(うかい)せずに真っ直ぐ北上されたのです。以前、12弟子を福音宣教に派遣する際、サマリアの町を除かれていました(マタイ10:5)。

・シカル:旧約聖書に登場する「シケム」のことです。創世記33:18-19、ヨシュア記24:32を参照して下さい。

・ヤコブの井戸:旧約聖書にその名は記述されていないのです

・弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた:

歴史的経過からすれば、ユダヤ人たちがサマリア人たちから食料品を購入することはありえないのですが・・。

・女(Woman):日本語訳の「女」にはサマリア人女性が「ふしだらである」という軽蔑的なニュアンスが隠されているのです。五人の夫がいたことや現在の男性との関係が曖昧(あいまい)であることなどが根拠になっているのです。しかし、イエス様のお言葉には敬意を表す「婦人」(Woman) が用いられているのです。イエス様はサマリアにおける女性の苦悩と悲しみの原因をご存じなのです。「婦人」(女性)の日本語訳の方が「福音の真理」に適っているのです。

・主よ:この時点ではイエス様は一人の男性なのです。「救い主」(Lord)ではなく、見知らぬ男性への敬語(Sir)なのです。「あなたは」と訳されるべき言葉です。

・生ける水:一般的に湧き水のことですが、イエス様は「永遠の命」を意味されたのです。

・あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない:

律法には女性の権利を考慮しない規定があります。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。・・」は典型的な例です(申命記24:1-4)。男性が圧倒的に支配する家父長社会において、女性が自立して生きていくことは極めて困難なのです。サマリア人の女性を「罪深い女」として断定することは正しくないのです。イエス様はこの女性の不幸な過去と現在を憐れまれたのです。

・永遠の命:「神の国」と共にキリスト信仰の真髄(しんずい)を表す言葉です。

■上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。(ヨハネ3:31-36)

(メッセージの要旨)

*イエス様はファリサイ派の人々が監視していることを知り、北のガリラヤへ向かわれたのです。ところが、サマリアルートを選択されたのです。この道は旅に要する時間を短縮するのですが、信仰深いユダヤ人たちは利用しなかったのです。イエス様はこれまでサマリア宣教を控えておられました。しかし、時が満ちたのです。ユダヤ人たちやサマリア人たちの激しい反発が予想されるのですが、シカルの町に進まれたのです。もともと信仰を同じくするサマリア人にも「神の国」(天の国)の福音が届けられたのです。最初は、ユダヤ人から蔑まれ、サマリア人社会においても隅に追いやられていた一人の名もない女性に伝えられたのです。この人は「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます」と言ったのです。「救い主」が来られることを切望していたのです。イエス様は信仰に応えて「救い主」であることを明らかにされました。女性はイエス様が「メシア」であることを信じたのです。イエス様との出会いの後、町へ帰って人々に信仰体験を話したのです。証しによってサマリア人たちがイエス様のお言葉を直接聞くことになったのです。信仰へと導かれたサマリア人たちはイエス様にしばらくこの地に留まるように依頼したのです。イエス様は二日間滞在して「神の国」の福音を語られたのです。更に多くの人が「この方は本当に世の救い主である」と信仰を告白したのです。いつの時代においても女性が福音宣教の中心を担っているのです(ルカ8:1-3)。

*エルサレムからガリラヤへ旅する人々は通常サマリアを迂回してエリコに下り、ヨルダン川の西にあるユダヤとサマリアの丘陵に添いながら北へ向かったのです。ただ、このルートには追いはぎが頻繁(ひんぱん)に出没したのです(ヨハネ10:30)。それでも、ユダヤ人たちはサマリア経由の道を避けたのです。理由はサマリア人たちとユダヤ人たちの間にくすぶり続ける不幸な歴史にあるのです。イエス様の時代においても状況は変わらなかったのです。偶像礼拝から脱却したサマリア人たちは(旧約)聖書に立ち帰ったのです。「モーセ五書」のみを聖典としたのです。しかも、エルサレムへの巡礼を拒否したのです。シカルの町を見下ろすゲリジム山で礼拝を行ったのです。イエス様は「神様の御心」を実現するためにサマリア宣教を開始されたのです。サマリアの地で男性支配に苦しめられ、家庭的にも恵まれない一人の女性を宣教の担い手として選ばれたのです。サマリアもユダヤも家父長社会なのです。女性は子孫を残すための道具なのです。男性のために家事や雑事をこなし、飲み水を運ぶ大切な労働力なのです。夫の同席なしに他の男性と話をすることも出来なかったのです。妻に何か不都合なことがあるとか、気に入らないことがあれば、夫の申し立てによって離縁が成立するのです。女性が一人で生きてくことは不可能に近いのです。生活の糧を得るために男性と再婚するか、同棲するか、娼婦になる道しか残されていないのです。妻は心身共に夫に隷属しているのです。出来事の背景には女性が蔑(さげす)まれている厳しい現実があるのです。

*イエス様は旅に疲れて井戸のそばに座っておられました。正午ごろのことでした。その時刻は一日の内で最も暑い時間帯です。水汲みは女性の仕事ですが、彼女たちは涼しい朝か夕方にそれを行ったのです。しかし、この女性は人のいない昼頃に井戸に来ているのです。他の女性たちに会いたくない何か事情があったのかも知れないのです。イエス様は水を飲ませてくださいと言われました。ところが、女性は「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と逆に質問しているのです。彼女の驚きの原因は長年にわたりサマリア人たちを不信仰の民として軽蔑しているユダヤ人が水を求めたことではないのです。むしろ、男性がサマリア人の女性に話しか けたことにあるのです。結婚しているかどうかに関わらず、公の場所で男性が女性と話すことはほとんどなかったからです。イエス様のような教師はこうした慣習を厳格に守っていたのです。食べ物を買うために町に行っていた弟子たちが帰って来て、イエス様がサマリアの女性と話をしておられるのを見て驚いたことは当然なのです。彼らにとっても信じられないことが起こっているのです。今日においても同様の事例が報告されています。シカルから近い村を訪れたある聖書学者が女性に声をかけたのです。そこに住む人々を困惑させたのです。本人は不注意を深く反省したのです。サマリア人女性はユダヤ人との信仰理解における相違を明確にしているのです。イエス様は両者の亀裂を「神様の霊と真理」によって修復されるのです。今、その時が訪れているのです

*イスラエルが犯した数々の罪と憐れみ深い神様の赦しの歴史を想起させるのです。預言者イザヤは弱りはてた民に悔い改めを求めたのです。神様の招きのお言葉「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め/価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」を感謝して受け入れるように勧めたのです(イザヤ書55:1)。預言者エレミヤは反抗する不信仰の民に神様のお言葉「まことに、わが民は二つの悪(偶像崇拝とアッシリアやエジプトとの同盟)を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて/・・(自分たちのために)水溜めを掘った。水をためることのできない/こわれた水溜めを。・・」を伝えたのです(エレミヤ書2:13‐19)。預言者ゼカリアは「その日(主の勝利の日)、エルサレム(神様)から命の水が湧き出で/半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい/夏も冬も流れ続ける」と言って、「救い」が全世界に及ぶことを預言したのです(ゼカリア書14:8)。神様が「水」、「生ける水」として表現されているのです。サマリア人たちは「モーセ五書」以外を聖典として認めなかったのです。後に編纂された各巻がエルサレム神殿とダビデの系譜を中心にして書かれているからです。しかし、初めて会った男性がサマリア人である自分の過去を知っているのです。女性はこの人に特別な力があることを感じたのです。イエス様は神様が遣わされた預言者であることを確信したのです(申命記18:18)。イエス様を「メシア」(救い主)として信じたのです。

*神様は乾いたサマリアの地に「命の水」を注がれたのです。イエス様はご自身を「永遠の命に至る水」と言われました。サマリアの女性に神様のお言葉がご自身において成就し、新しい時代が到来していることを告げられたのです。信仰共同体における新しい礼拝のあり方が示されたのです。民は制限されていた礼拝の場所や礼拝様式から解放されるのです。神様をイエス様の名によって直接礼拝することが出来るようになるのです。神様と人間を仲介していた人々-大祭司や祭司-を必要としなくなるのです。イスラエルの民は外国勢力に苦しめられながらも神様が約束された「救い主」に望みを託したのです。サマリア人たちも「メシア」の出現を待ち続けていたのです。ユダヤの人々、サマリアの人々に限らず「永遠の命」へのあこがれはすべての人に共通しているのです。イエス様は「わたしが与える水は人々の中で永遠の命に至る泉となる」と言われたのです。サマリアの人々も「永遠の命」に与れることが宣言されたのです。サマリア人の女性はイエス様を信じたのです。非難や中傷を恐れずに自分の信仰体験を町の人々に語ったのです。多くのサマリア人がイエス様を信じたのです。イエス様の昇天後もサマリア宣教は行われるのです。使徒のフィリッポがサマリアで活動を続けたのです。人々は「神の国」の福音とイエス・キリストの名を信じて洗礼を受けたのです。さらに、ペトロとヨハネは聖霊を授けたのです(使徒8:4-25)。すべての始まりは、イエス様が福音の種を蒔かれたことにあるのです。名もない女性が信仰を証ししたことによるのです。

2024年02月04日

「最後に選んだ道」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書5章21節から43節

イエスが舟に乗って再び向こう岸(ガリラヤ湖の西側)に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。さて、ここに十二年間も出血の止まらない女(性)がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女(性)は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った(治した)。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい(そして、あなたの病気が癒されますように)。」


イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、(同席していた)人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

(注)

・サンドイッチ手法:福音書記者マルコ独特の表現方法です。一つの物語(ヤイロの娘の癒し)の中に別の物語(長血を患う女性の癒し)を挿入して主題を重厚にしているのです。

・会堂長:ユダヤ教の会堂を管理・運営する行政官のような役割を果たしていました。

・ユダヤ人の社会においては男性が女性を支配していました。しかも、律法によって女性の権利が極端に軽視されていたのです。女性は男性の持ち物同然のように非人間的な扱いを受けていました。この事実を念頭において聖書を読むことが不可欠です。

・出血を患っている女性は汚れており、社会的交際や聖なる物への接触などが制限されています。レビ記12:1-8を参照して下さい。

・出血の止まらない女性:

■女性の生理が始まったならば、七日間は月経期間であり、この期間に彼女に触れた人はすべて夕方まで汚れている。・・もし、生理期間中でないときに、何日も出血があるか、あるいはその期間を過ぎても出血がやまないならば、その期間中は汚れており、生理期間中と同じように汚れる。(レビ記15:19-25)

・医者:当時、医者と呼ばれた人々の誤った治療によって症状が悪くなったということが度々ありました。例えば「・・さて、わたしは気づかなかったが、医者たちが目薬を塗れば塗るほど、目はその白い膜のために見えなくなり、ついに失明してしまった。・・」です。(新共同訳聖書1987年版旧約聖書続編トビト記2:10)

・民衆の間には聖人に手を置いてもらうことや服に触れることによって病気が癒されるという信仰がありました。その人の影が病人にかかるように、担架や床に寝かせて移動することも行われたのです(使徒5:15)。

・フランツ・ファノン:精神科医です。著書「地に呪われたる者」(1961)の中で、肉体的な拷問を受けた人々には精神の荒廃が顕著に現れることを実証しています。その逆も真実なのです。精神的な圧迫と苦痛は、人々の肉体に変調をもたらすのです。

(メッセージの要旨)

*二つの癒しの業は、イエス様が「神の国」(天の国)―神様の支配―の到来を目に見える形で証明された出来事です。福音が言葉だけではなく、現実に病気を患う二人の女性に届けられたのです。これらの「力ある業」はローマ帝国の支配下にあって搾取されていたガリラヤ地方で行われたのです。しかも、この地方はエルサレムの神殿政治を担う指導者たちや都市に住む住民から律法の軽視など-特に十分の一税の納付義務を遵守しないこと-を理由に蔑まれていたのです。神様は困難を覚える人々、虐げられた人々の苦しみや悲しみをご存じなのです。イエス様は「神様の御心」に沿って、多くの病人を癒しておられた のです。ヤイロは指導者としての誇りを捨てて、無名のこの預言者に最後の望みを託したのです。敬意を表するために足元に平伏し、死に直面している娘を助けて下さるようにと訴えたのです。一方、十二年間も出血の止まらない女性がいたのです。医者と呼ばれる人々-多くは祭司や祈祷師-に診てもらったのです。しかし、病状は一向に良くならず、ますます悪くなるだけだったのです。医学知識の不足、医療技術の未熟さは否めないのです。詐欺まがいの処置によって全財産を使い果たしたのです。イエス様の評判を聞いて希望の光を見たのです。女性が公の場で男性と会話すること、ましてや直接触れることなど考えられなかったのです。ところが、この人は実行したのです。ヤイロはユダヤ教の枠を超えて、女性は社会の慣習に反してイエス様に近づいたのです。イエス様は二人の信仰を認められたのです。いずれの願いも叶えられたのです。

*ユダヤ人たちはローマ帝国の支配下に置かれていました。イエス様が宣教の拠点とされたガリラヤ地方にもローマ軍が駐屯していたのです。兵士たちは必要な時には住民からパン、ワイン、家畜などを強制的に調達したのです。そうした状況の中で、イエス様はガリラヤ中を回って諸会堂で教え、「神の国」の福音を宣べ伝えられたのです。安息日にも民衆のありとあらゆる病気や患いを癒されたのです(マタイ4:23)。多くの人から尊敬を受けられたのです。一方、ファリサイ派の人々や律法学者たちは彼らの権威を失墜させ、既得権益を脅かしているイエス様を殺そうとしたのです。イエス様は食べる物、着る物に思い悩む人々に「ただ、神の国を求めなさい」と言われたのです(ルカ12:31)。神様に信頼すれば必要なものは加えて与えられることを約束されたのです。ヤイロは万策尽きてようやくイエス様に目を向けたのです。その後に「力ある業」(癒し)は実現したのです。イエス様に従おうとする人々に求められることは優先順位なのです。しかし、現実の社会を生きる人間にとって神様を第一にすれば必ず犠牲が伴うのです。信仰は知識ではなく、生き方だからです。ヤイロはユダヤ教の拠点である会堂の責任者の一人です。その地方における著名人でもあるのです。この人がユダヤ教の律法と対立する新しい教えを宣教しているイエス様に平伏したのです。イエス様を「救い主」として信じていることが公になったのです。同僚の会堂長や祭司長たちの厳しい非難と迫害を受けることになるのです。ヤイロが支払う代償は極めて大きいのです。

*苛酷な占領政策はユダヤ人女性たちにも及んだのです。彼女らは常に兵士たちによる性暴力の危険に晒(さら)されていました。女性を暴力的に支配する手法は抵抗闘争を弱体化させる支配者たちの卑劣な手段として現在も用いられているのです。福音書は抑圧された人々の様々な病状を伝えています。自分の体を痛めつけているゲラサの人(マルコ5:1-20)、38年間も病気で横たわっている人(ヨハネ5:1-9)などです。ファノンは著書の中でフランスの植民地であったアルジェリアの人々の精神的荒廃を紹介しています。治療活動を通して、肉体的な拷問によって様々な精神障害が現れることを確認したのです。その中には、ヒステリーなどの症状と共に、女性の生理の極端な不順が含まれているのです。この女性の長血を女性特有の病気として簡単に結論付けてはならないのです。突然起こるかも知れない暴力に怯(おび)え、貧しい生活の中で労苦する女性たちの身体に現れた変調として理解することが出来るのです。女性はヤイロと同じようにイエス様の噂(うわさ)を聞いていたのです。イエス様と出会って「神の国」の到来を確信したのです。「この方の服にでも触れればいやしていただける」という思いには、イエス様への絶対的な信頼が表れているのです。絶望の淵(ふち)にいた女性は律法が禁止する行動に出たのです。彼女は二重の罪を犯しているのです。自分が違反しているだけではなく、触れた相手の人も汚れさせているからです。男性以上に厳しく罰せられるのです。しかし、イエス様は「安心して行きなさい」と言われたのです。

*ユダヤ人社会は律法を順守する信仰共同体なのです。一方、連綿と受け継がれてきた家父長社会でもあったのです。男性が女性を圧倒的に支配していたのです。しかも、女性に対する不平等な取り扱いが律法によって神聖化されていたのです。「人(男)がまだ婚約していない処女(若い女性)を誘惑し、彼女と寝たならば、必ず結納金を払って、自分の妻としなければならない。もし、彼女の父親が彼に与えることを強く拒む場合は、彼は処女のための結納金に相当するものを(銀で)支払わねばならない」(出エジプト記22:15-16)、「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」(申命記24:1-4)などは典型的な例です。新約聖書の中にも女性蔑視の考え方が見られるのです。「婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません。むしろ、善い業で身を飾るのが、神を敬うと公言する婦人にふさわしいことです。婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます」(1テモテ2:9-15)。

*女性への対応はイエス様がヤイロの家へ到着することを遅らせたのです。その間に、自宅から来た人々が娘の死を知らせたのです。ヤイロは深い悲しみに包まれました。ところが、イエス様は「眠っているだけである」と言われたのです。果たして、イエス様は少女を甦(よみがえ)らされたのです。親にとって子供が先に死ぬことは耐え難い悲しみです。イエス様はヤイロの娘以外にもナザレに近い村ナインのやもめの死んだ一人息子に命を与えられたのです(ルカ7:11-17)。子供たちの蘇生(そせい)は死が神様の支配下にあることを明確にしているのです。ヤイロは自分の地位や名誉を失う原因となるイエス様を信じて娘と家族の将来を託したのです。イエス様はヤイロの揺るぎない信仰をご覧になられたのです。娘を癒されたのです。一方、長血を患っていた女性は社会から12年間も隔絶されて生きてきたのです。心身ともに疲れ、経済的にも破たんしていました。四面楚歌(しめんそか)の彼女はイエス様にすべてを委(ゆだ)ねたのです。律法に違反して強い意志を示したのです。群衆の中を進み出てイエス様の衣の裾に触れたのです。長く続いた病気から解放されたのです。女性の信仰が自らを救ったのです。会堂長ヤイロも長血を患っていた女性もイエス様への信仰に大きな犠牲が伴うことを承知しているのです。信仰という山の向こう側で待ち構える厳しい現実に逡巡(しゅんじゅん)したことも十分に推測されるのです。二人は順序を間違えなかったのです。イエス様に従うことを先ず決断したのです。ヤイロの娘と女性は癒されたのです。 

2024年01月28日

「イエス様の家族」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書3章20節から35節

イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たち(家族)はイエスのことを聞いて取り押さえ(止めさせるため)に来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

(注)

・イエス様の兄弟姉妹:

マタイは「この人(イエス様)は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ(ヨセ)、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう」と記述しています(マタイ13:55-56)。ヤコブはエルサレムにおける初代教会の指導者の一人となったのです。

・神様の御心:

■主は言われた。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主(わたし)がアブラハムに約束したことを成就(じょうじゅ)するためである。」(創世記18:17-19)

■わたしは主、あなた(がた)の神、あなた(がた)をエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなた(がた)には、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなた(がた)はいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなた(がた)はそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなた(がた)の神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。(出エジプト記20:3-6)

■だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人(たち)が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国(神の支配)と神の義(神の正義)を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。(マタイ6:31-34)

■彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコ12:28-31)

■一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。(ルカ9:57-62)

■神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。(ヨハネ3:16-19)。

・ガリラヤ、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ペレア,ティルス、シドンの位置については聖書地図を参照して下さい。

(メッセージの要旨)

*イエス様は多くの病人を癒しておられました。評判を聞いてガリラヤをはじめ、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ペレア,ティルス、シドンからおびただしい群衆が集まって来ました。汚れた霊たちはイエス様を見るとひれ伏して「あなたは神の子だ」と叫んだのです。イエス様はご自分のことを言いふらさないようにと霊たちを厳しく戒められたのです(マルコ3:11)。一方、エルサレムから下って来た律法学者たちは「彼は汚れた霊に取りつかれている」や「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言って、イエス様を貶(おとし)めていたのです。そこで「あの男は気が変になっている」という噂を聞いた家族がイエス様の宣教活動を止めさせるために来たのです。マタイはイエス様の家族構成を伝えています。父親ヨセフの名前が出ていませんが、すでに亡くなったのではないかと推測されています。イエス様は家族の定義を変更されたのです。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」と言われたのです(マタイ10:37)。すでに、シメオンが神殿の境内で幼子イエス様に出会った時にこのお言葉を預言しているのです。今、母マリアの心は剣で刺し貫かれたのです(ルカ2:35)。「神様の御心」-神様と隣人を愛すること-を実践する人々がイエス様の家族なのです。イエス様は「御言葉」と「力ある業」を通して「神の国」の到来を証しされたのです。キリスト信仰の核心は「行い」にあるのです。キリストの信徒たちはイエス様の御跡を辿(たど)るのです。

*キリスト信仰が誤解されているのです。「神様の御心」を実行する人々がキリストの信徒なのです。イエス様はファリサイ派の人々や律法学者たちに「・・あなたたち偽善者は不幸だ(に災いあれ)。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない」(マタイ23:13)、「・・あなたたち偽善者は不幸だ(災いあれ)。薄荷(はっか)、いのんど、茴香(ういきょう)-各種の香辛料-の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。・・」と言って、指導者たちの激しく非難されたのです(マタイ23:23)。一方、12弟子を集めて「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」と言われたのです(マルコ10:43-45)。誰が一番偉いかを議論していたからです。信徒たちに戒めを教えながら自分たちはそれを軽んじ、人に見せるために長く祈り、豊富な知識をひけらかし、集会では上座を求め、教会では上席に座り、公の場所で挨拶され、先生と呼ばれることを好んでいるのです。イエス様は「(あなたがたは)教師と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである」と言われるのです(マタイ23:4-10)。偽善や高慢は「神の国」に招かれないほどの「大罪」なのです。イエス様の教えを心に刻むのです。

*キリスト信仰を標榜(ひょうぼう)する人々は自己中心的な生き方を捨てるのです。「隣人」を自分のように愛するのです(マルコ12:31)。社会の底辺で喘(あえ)ぎ、苦しんでいる人々と共に歩むのです。飢えている人々に食事を提供し、のどが渇いている人々に水を与え、旅をしている人々に宿を貸し、裸の人々に服を着せ、病気の人々を見舞い、牢にいる人々を訪ねるのです(マタイ25:35-36)。神様から「特別な能力」を授けられた人々は、病人たちを癒(いや)し、死者たちを生き返らせ、重い皮膚病を患っている人々を清くし、悪霊たちを追い払うのです。ただ、報酬を受け取ってはならないのです(マタイ10:8)。イエス様は返済不能な多額の借金を帳消しにしてもらった人が、自分に比較的少額の借金のある人に厳しく返済を迫り、彼が支払いを終えるまで牢に入れたたとえ話をされました。神様は憐れみのない強欲な人間を厳しく罰せられるのです(マタイ18:23-35)。利潤を追求する会社や利害の対立を調整する行政(組織)においてキリスト信仰を貫くことは簡単ではないのです。信仰は信仰、現実は現実というようなダブルスタンダード(二重基準)、あるいは「信仰は神様と人間との個人的な関係である」というような解釈によって、この難問題を解決しているのです。しかし、「神の国」の到来を福音として信じる人々は「神様の御心」に沿って生きるのです。不正な経済活動や行政機関の誤った意思決定に組みしないのです。ただ、キリスト信仰を貫けば犠牲も伴うのです。「神の国」とこの世は両立しないのです。

*「神の国」へ招かれる機会はすべての人に平等に与えられているのです。一方、「救い」はイエス様の呼びかけに対する応答の如何によって決定されるのです。イエス様は次のようなたとえ話をされました。ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、もう用意ができましたから、おいでくださいと言わせたのです。すると皆、次々に断ったのです。最初の人は、畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください、ほかの人は、牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください、また別の人は、妻を迎えたばかりなので、行くことができませんと言ったのです。いずれの人も「救い」に与ることはなかったのです(ルカ14:16-24)。キリスト信仰が「罪の赦し」を目的にしているかのように理解されているのです。徴税人ザアカイはローマ帝国に協力する罪人として蔑まれていました。ところが、イエス様に出会ってこれまでの生き方を改めたのです。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と明言したのです。イエス様は「今日、救いがこの家を訪れた。・・人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」と言って、ご自身の立場を鮮明にされたのです(ルカ19:1-10)。人は信仰だけで救われるのではないのです。悔い改めに相応しい良い実を結ぶこと(行い)によって「神の国」(永遠の命)に招き入れられるのです。


*新約聖書のヤコブの手紙の著者はキリスト信仰を告白する人々に「わたしの兄弟たち、栄光に満ちたわたしたちの主イエスを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」と言っています(ヤコブ2:1-13)。貧しい信徒たちが差別されている現状に警鐘を鳴らしているのです。信仰があってもキリスト信仰を正しく理解しているとは限らないのです。さらに「・・自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」と言うのです(ヤコブ2:14-17)。信仰によって人は救われるのです(ヨハネ3:16)。しかし「良い行い」を伴わない信仰は「救い」をもたらさないのです。イエス様は「神の国」を抽象的に語られませんでした。「神様の御心を実行しなさい」と具体的行動を求められたのです。「神の国」の到来を信じる人々は富を求めないのです。神様と富との両方に仕えることは出来ないからです(マタイ6:24)。信仰を誇らず、(貧しい)人々に仕え、正義と公平、慈悲と誠実を全力で実行するのです。キリスト信仰は安価な恵みではないのです。「神様と隣人」を愛して、イエス様の家族になるのです。

2024年01月21日

「御子の権威と人々の信仰」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書2章1節から12節

数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。

(注)

・カファルナウム:ガリラヤ湖の北西にある町です。漁業、農業、交易の中心地です。イエス様の宣教の拠点です(マタイ9:1)。しかし、イエス様はこの町の不信仰を厳しく非難して「・・カファルナウム、お前は、/天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府(よみ)にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである」と言われたのです。(マタイ11:23-24)

・パレスチナの家:屋根は藁(わら)と固めた泥で覆われた横桁(よこげた)で作られています。

・セフォリスの蜂起:ローマ帝国の圧政に対するユダヤ人たちの闘いの一つです。強大なローマ軍によって鎮圧されたのです。多くの人が見せしめとして処刑されたのです。セフォリスはイエス様がお育ちになったナザレから歩いて半日のところにあります。歴史を辿(たど)ることはキリスト信仰を理解する上で不可欠なのです。

・発掘調査:David Fiensy著「社会史」(1991)


・人の子:


この呼称には三つの意味があります。第一は預言者です(エゼキエル書2:1-3)。今日の聖書の個所では、イエス様は預言された人の子であることを明らかにされたのです。第二は天の雲に乗って現れる終わりの時の審判者です(ダニエル書7:13-14)。他に「わたしとわたしの言葉を恥じる者(たち)は、人の子も自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときにその者(たち)を恥じる」(ルカ9:26)、「神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(ルカ18:8)があります。第三はこの世に生きる普通の人間を表しているのです(ルカ9:58)。

・神様の主権:

■主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された。主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」(出エジプト記34:5-7)

・御子の権威:イエス様はモーセと預言者エリヤと三人で語られた時がありました。神様の御声が雲の中から聞こえたのです。「これはわたしの愛する子。これに聞け」と言われたのです(マルコ9:2-8)。イエス様は「神様のお言葉」なのです。

(メッセージの要旨)

*イエス様は洗礼者ヨハネがガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスによって逮捕されたことを聞かれました。故郷のナザレを離れ、湖畔の町カファルナウムに来て住まわれたのです。これは、イザヤの預言「・・暗闇に住む民は大きな光を、死の影の地に住む者(人々)に光が射(さ)し込んだ」が実現するためでした(マタイ4:15-16)。その時から、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣教を始められたのです。しかし、ファリサイ派の人々や律法学者たちは悔い改めることなく、イエス様と徹底的に対立したのです。ファリサイ派の律法学者は罪人や徴税人たちと一緒に食事をされているイエス様を非難したのです。イエス様は「医者を必要とするのは、丈夫な人(人々)ではなく病人(たち)である。わたしが来たのは、正しい人(人々)を招くためではなく、罪人(たち)を招くためである」と反論されたのです(マルコ2:16-17)。医学が発達していない当時にあって病人が多いことは理解できるのです。しかし、歴史的背景を踏まえることが重要です。ローマ帝国の支配が厳然と存在していたのです。彼らに同調する議員や祭司たちが民衆を苦しめているのです。ローマ帝国による重税と神殿政治を支える神殿税は最低限の生活さえ危うくしているのです。病気を医者に診てもらう経済的な余裕などないのです。しかも、ローマ軍兵士の蛮行(ばんこう)は人々を精神的に追い詰めているのです。律法学者たちは人々の罪を責めるだけなのです。イエス様は御子の権威によって「罪の赦し」と「病気の癒し」を同時に実行されたのです。

*イエス様はガリラヤ中の会堂を巡回して、人々に「神の国」-神様の支配-の到来について教えられたのです。「力ある業」によって福音を目に見える形で示されたのです。病気や心身の障害は罪の結果なのです。こうした考え方は弟子たちにも見られるのです。彼らが「生まれつき目の見えない人」に出会った時に、「この人が生まれつき目の見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも,両親ですか」と質問しています。イエス様は「(どちらかが)罪を犯したからではない。神の業がこの人に現れるためである」と答えられたのです(ヨハネ9:1-3)。イエス様が命じられると汚れた霊に取りつかれた男の人から汚れた霊が出て行ったのです。重い皮膚病を患っている人に触れて清くなれと言われると、重い皮膚病は去ってその人は清くなったのです。評判はガリラヤ地方の隅々にまで広まったのです。大勢の人が家にまで訪ねて来るようになったのです。その中にはイエス様がおられる家の屋根をはがして穴をあけ、病人が寝ている床をつり降ろした人々もいたのです。イエス様の「癒しの力」に対する強い期待がそのような行動に駆(か)り立てたのです。イエス様が「災い」(天罰)を宣告された不信仰の町カファルナウムにも信仰に堅く立った人々がいたのです。イエス様は篤(あつ)い信仰心をご覧になって中風の人に「あなたの罪は赦された」と言われたのです。病気も癒されたのです。人々が病気の治癒や心身の障害からの解放を願っているのです。問題はそこに信仰が見られるかどうかなのです(ルカ17:11-19)。

*他にも四福音書の記者が独自の視点からイエス様の「癒しの業」(力ある業)を記しています。マタイは「イエスは・・民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。・・人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者(たち)、悪霊に取りつかれた者(たち)、てんかんの者(たち)、中風の者(たち)など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた」(マタイ4:23-24)、マルコは「人々はイエスと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人(たち)を床に乗せて運び始めた。村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人(たち)を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた」(マルコ6:53-56)、ルカは「イエスは(洗礼者ヨハネの使いの弟子たちに言われた)。・・ヨハネに伝えなさい。目の見えない人(人々)は見え、足の不自由な人(人々)は歩き、重い皮膚病を患っている人(人々)は清くなり、耳の聞こえない人(人々)は聞こえ、死者(たち)は生き返り、貧しい人(人々)は福音を告げ知らされている」(ルカ7:21-22)、ヨハネは「エルサレムには羊の門の傍(かたわ)らに・・五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。・・そこに、38年も病気で苦しんでいる人がいた。(イエスの言葉によって)その人はすぐに良くなって、床を担いで歩き出した」(ヨハネ5:2-4)と、伝えているのです。

*病気や心身の障害と罪との間に因果応報の関係はないのです。しかし、ローマ帝国による圧政は人々の生活と健康に大きな影響を与えているのです。ローマ帝国への人頭税と神殿税(献金)を納めた後に、民衆には自分と家族がかろうじて生きていくだけの「お金(物)」しか残らなかったのです。農業は不安定です。不作の時には金持ちからお金を借りる人も少なくなかったのです。借金を返済できないために債務不履行となる人々もいたのです。担保の土地や所有物をすべて失ったのです。極端な例として、債務者とその家族が債権者の奴隷となったのです(マタイ18:23-35)。労働者たちの生活も悲惨でした。彼らは一日単位で雇われました。日の出から日没までおよそ10時間働いたのです。収穫期には労働時間が2時間以上も長くなったのです。「発掘調査」によると労働者たちの骨格が激しい労働によって変形していたことが報告されています。一般的な家族構成は六人です。単身労働者の平均賃金は一日1デナリオンです。家族手当などはないのです。このような賃金では一家を養えないのです。貧しい人々は常に飢えと病気の不安に悩まされたのです。イエス様は抽象的にではなく、現在形で「心の貧しい(絶望の中で心が折れている)人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる」(マタイ5:3-4)、「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる」(ルカ6:20-21)と、宣言されたのです。

*イエス様が語られた「神の国」の福音は民衆にとって希望の光となったのです。中風の人の「癒しの業」は「神の国」の到来が福音であることを人々に確信させたのです。罪の赦しはイエスの権威をさらに高めたのです。しかし、様々な病気や心身の障害の背後に経済的困窮があることも事実なのです。貧しさのゆえに十分な治療が受けられないのです。ユダヤ人歴史家ヨセフスはユダヤ人たちの暴動について記しています(ユダヤ古代誌17:295)。民衆の多くは日々の糧を確保するために労苦しているのです。家族の生活を破壊する高い税金やローマ軍の兵士たちによる傍若無人な振る舞い(女性への暴力)に抗議するために立ち上がったのです。しかし、圧倒的な武力によって鎮圧されたのです。イエス様が誕生される数年前に起こった「セフォリスの蜂起」は悲惨な結末を迎えたのです。参加者は拷問され、見せしめとしておよそ2000人が十字架上で処刑されたのです。ユダヤ人たちの間に生じた恐怖は窮乏生活の改善を求める抗議行動を委縮させ、彼らの精神をも破壊したのです。ローマ帝国の残忍さは近くのナザレにも伝わりました。そこでお育ちになったイエス様は悲惨な歴史を想起し、民衆の苦難を深く憐れまれたのです。聖書が伝える歴史的事実は今日にも当てはまるのです。至る所に飢えと病気で苦しんでいる人々がいるのです。ロシアのウクライナ侵略やパレスチナにおける紛争が顕著な例です。四人の男性のように、キリストの信徒たちも困難にある人々の重荷を少しでも軽くするのです。物心両面にわたって出来ることを実践するのです。

2024年01月14日

「キリスト信仰について」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書4章14節から30節

イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。

イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人(人々)に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣(つか)わされたのは、/捕らわれている人(人々)に解放を、/目の見えない人(人々)に視力の回復を告げ、/圧迫されている人(人々)を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(イザヤ書61:1-2)イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。 皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

(注)

・神の国(天の国):神様の主権、あるいは神様による支配のことです。私たちが死後に行く「天国」のことではありません。イエス様は「神の国」の宣教に生涯を捧げられました。既得権益に執着する権力者たちは「神の国」を受け入れることが出来ずに、イエス様を十字架上で処刑したのです。ところが、神様はイエス様を復活させられたのです。イエス様は復活された後も天に帰られるまでの間、弟子たちに「神の国」について教えられたのです(使徒1:3)。

・ナザレ:ガリラヤ湖の西約24㎞にある農業の村です。周辺地域から孤立しており要衝(ようしょう)の地でもありませんでした。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言われていました(ヨハネ1:46)。聖書地図をご覧下さい。

・「医者よ、自分自身を治せ」:ギリシャ人やユダヤ人たちの間に昔から伝えられている諺(ことわざ)です。言葉は事実によって証明されなければならないのです。

・カファルナウム:ガリラヤ湖の西北に位置しています。漁業、農業、交易の盛んな町です。イエス様はこの町の不信仰を激しく非難されたのです。

・シドン地方のサレプタ:ガリラヤの北にある地中海沿岸の町です。異教の神バール信仰の中心地です。

・預言者イザヤ:イスラエルは北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂していました。紀元前721年にアッシリア(現在のイラク)はイスラエル王国を滅ぼしたのです。その頃、ユダ(エルサレム)について預言したのです。福音書記者たちはイエス様を「苦難の僕」(イザヤ書52:13-53:12)として理解したのです。今日、そのような信仰理解が踏襲(とうしゅう)されているのです。しかし、聖書の個所を引用するだけでは福音を説明したことにはならないのです。イエス様はイザヤの預言を「力ある業」によって具体化されたのです。一方、「神の国」の到来を福音として宣教したことによって迫害されたのです。

・預言者エリヤ:北のイスラエル王国を統治するアハブ王(紀元前869年-859年頃)を支える偽預言者たちと命を賭(と)して闘ったのです。偽預言者たちは王の偶像礼拝を戒めるのではなく、王が聞きたいことを予言したのです。ヘブライ人たち(イスラエルの民)はエジプトの圧政から解放し、貧しい人々や虐げられた人々を愛された神様ではなく、異教の神バールに仕えたのです(列王記上18章)。

・預言者エリシャ:エリヤの弟子です。エリヤは紀元前850年頃に使命を終えたのです。その後、エリシャは独自の宣教活動を開始したのです。アハブ王を引き継いだヨラムも悪事を重ねたのです。打倒するために仲間の預言者を送ってイエフに油を注がせて新しい王としたのです。イエフ王はアハブの家を滅ぼしたのです(列王記下9章)。

(メッセージの要旨)

*今年も聖書が伝えるキリスト信仰の真髄(しんずい)-「神の国」(天の国)の福音-をお届けします。イエス様も「わたしは『神の国』の福音を告げ知らせるために遣わされた」と言っておられます(ルカ4:43)。キリスト信仰とは「神の国」の到来を信じることなのです。福音は個々人の「罪の赦し」に留まらないのです。人間の「全的な救い」として実現するのです。神様の正義と愛が地上の隅々に及ぶのです。イエス様はヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられました。その時、神様は「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適(かな)う者」と言われたのです。荒れ野に四十日間滞在し、悪魔の誘惑を退け、ガリラヤへ帰られたのです。ナザレでは安息日に会堂の礼拝に出席されたのです。イザヤ書を朗読されたことは偶然ではないのです。村人たちの不信仰は預言者イザヤの時代の人々と変わらないのです。当時も、神様は「お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ、善を行うことを学び/裁きをどこまでも実行して/搾取する者を懲らし(正義を求め、抑圧された人々を救い)、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護せよ」と言われたのです(イザヤ書1:15-17)。神様は貧しい人々や虐げられた人々の側に立たれるのです。イエス様は「神様の御心」を具体化されたのです。キリストの信徒たちも「神様の戒め」を守り、「神の国」の建設に参画するのです。

*10数年前、許可を得てユダヤ教の礼拝に出席させていただいたことがありました。会堂正面の壁の中央に「モーセの十戒」が書かれた銅板が掲示されていました。その下には棚があり、巻物-旧約聖書の各巻-が並べられていました。礼拝が始まると祭司(あるいは信徒)が演壇の上でその日の聖書の箇所を朗読したのです。その後、二人の信徒が大きな巻物-モーセ五書-を担いで会堂内を巡回したのです。出席者たちは巻物が近づくと触れたのです。今日の聖書の個所を読むたびに当時の様子を思い出すのです。神様は「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た」と言われたのです(出エジプト記3:9)。神様はご自分が選んだ民の苦悩に共感されたのです。イエス様も群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれたのです(マタイ9:36)。人々の苦しみや悲しみをご自分のものとして担(にな)われたのです。イエス様は宣教活動が旧約聖書に基づいていることを宣言されたのです。イザヤの預言がイエス様において成就(じょうじゅ)したのです。キリスト信 仰は「神様のご計画」の延長線上にあるのです。日本語訳においては苦しんでいる人々が個人のように表記されていることが多いのです。原文に沿って複数にされるべきです。集団的、階層的に被(こうむ)っている状況が曖昧(あいまい)になるからです。福音は貧しい人々や虐げられた人々に優先的に届けられるのです。「神の国」は社会制度や慣習の変革として結実するのです。

*民衆は労苦し、疲弊(ひへい)しているのです。捕らわれている人々-不当に投獄されている人々-に正義が実行されるのです。牢獄は政治犯たちや経済的搾取によって極貧となった人々で溢(あふ)れているのです。障害者であることを理由に蔑まれた人々に福音が訪れるのです。盲人のバルティマイは視力を回復したのです(マルコ10:46-52)。生まれつきの盲人も見えるようになったのです(ヨハネ9:1-41)。抑圧されている人々に自由が約束されたのです。主の恵みの年(ヨベルの年)-没収された土地や不正に取り上げられた土地が50年目ごとに元の所有者に返還される規定-に言及されたのです(レビ記25:8-10)。イエス様を通して「神様の救い」が始まっているのです。苦難に喘(あえ)ぐ人々への共感は人々を動かすのです。キリスト信仰とは「神様の御業」に参画することなのです。「主の祈り」に「天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも」があります(マタイ6:9-13)。イエス様はローマ帝国がユダヤ人たちを支配している厳しい現実の中で祈るように指示されたのです。神様の支配がローマ皇帝の統治に代わることを切実に願う「危険な祈り」になっているのです。また「山上の説教」において「平和を実現する人々は幸いである」と宣言されたのです(マタイ5:9)。平和を維持する人々が幸いなのではないのです。偽りの平和の問題点を指摘し、抑圧や搾取に満ちた社会を変革する人々が幸いなのです。

*ナザレの人々はイエス様-ヨセフの子-が「神の子」であることを信じないのです。カファルナウムで行われたような「力ある業」によって証明しなさいと言うのです。彼らも不信仰の歴史を受け継いでいるのです。イエス様は信仰心の篤い二人を例に挙げて批判されたのです。預言者エリヤの時代、飢饉がイスラエルはもとより地中海沿岸の町々にも広がっていました。寡婦たちの生活は特に悲惨でした。王(政府)や信仰共同体(教会)の援助がなければ物乞いをするか、ごみ箱を漁ることになったのです。エリヤは神様のご命令によりサレプタを訪れました。そこで、薪を拾っている一人の寡婦に出会い水とパンを求めたのです。「私に与えても神様があなた方を養って下さる」というエリヤの言葉を信じて、彼女は自分と息子の最後の食材をエリヤに提供したのです。しかし、主が彼らを養われたので食べ物に事欠くことはなかったのです(列王記上17:1-16)。ナアマンはシリア軍の司令官でした。神様はかつてこの人を用いてシリアに勝利をもたらされたのです。ナアマンは重い皮膚病を患っていました。捕虜として連れて来たイスラエルの少女から、病気を癒すことが出来る預言者がサマリアにいることを聞いたのです。エリシャを訪れて癒しを願ったのです。しかし、エリシャは直接会わずに使いの者によってヨルダン川で身を七回洗うようにと告げたのです。ナアマンは失礼な態度に立腹しながらも指示に従ったのです。果たして、体は清くなったのです(列王記下5:1-14)。選ばれた民でも「行い」が悪ければ「救い」に与れないのです。

*新年の冒頭にキリスト信仰の根本理念を再確認するのです。イエス様の宣教の第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」です(マルコ1:15)。イエス様は初めから「苦難の僕」であった分けではないのです。「神様の御心」に従って、権力者たちに悔い改めを求めたことにより十字架上で処刑されたのです。「神の国」の到来を拒否する人々の謀略の結果なのです。イエス様は十字架上で死ぬためにこの世に来られたというような非歴史的な信仰理解は避けなければなりません。イエス様を通して目に見えない人々の目は見え、足の不自由な人々は歩き、重い皮膚病を患っている人々は清くなり、耳の聞こえない人々は聞こえ、死者たちは生き返り、貧しい人々は福音を告げ知らされているのです(ルカ7:22)。ナザレの人々はヨセフの子イエス様が「神の子」のように振舞うことを理解できなかったのです。キリスト信仰を標榜する人々は何よりも「神の国」と「神の義(正義)」を求めるのです(マタイ6:33)。最も重要な二つの戒め-神様と隣人を愛すること-を肝(きも)に銘じるのです(マタイ22:34-40)。「知的信仰」に陥(おちい)ってはならないのです。イエス様は「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と命じられました(マルコ16:15)。信仰のあり方を問い直すのです。社会の隅々に出かけるのです。貧しさ、因習、病気、高齢などによって差別され、軽んじられている人々の苦しみや痛みを共に担うのです。今年も「神様の御心」の実現のために全力を注ぐのです。

2024年01月07日

「わたしがあなたがたを選んだ」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書15章1節から17節

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕(奴隷)とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

(注)

・旧約聖書におけるぶどうの木(畑)は神様の民(イスラエル)のことです:

■万軍の神よ、わたしたちを連れ帰り/御顔の光を輝かせ/わたしたちをお救いください。あなたはぶどうの木をエジプトから移し/多くの民を追い出して、これを植えられました。そのために場所を整え、根付かせ/この木は地に広がりました。(詩篇80:8-10)

■わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに/なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。さあ、お前たちに告げよう/わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ/石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず/耕されることもなく/茨やおどろ(とげのある植物)が生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。(イザヤ書5:4-6)


■イスラエルは伸びほうだいのぶどうの木。実もそれに等しい。実を結ぶにつれて、祭壇を増し/国が豊かになるにつれて、聖なる柱を飾り立てた。彼らの偽る心は、今や罰せられる。主は彼らの祭壇を打ち砕き/聖なる柱を倒される。(ホセア書10:1-2)


・福音書記者ヨハネは他にも「わたしが・・」で始まるイエス様のお言葉を記述しています。

■・・「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して乾くことがない。」(6:35)、・・「わたしは世の光りである。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光りを持つ。」(8:12)、「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。・・」(10:9)、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(10:11)、・・「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。・・」(11:25-26)、・・「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(14:6)と言われています。また「・・アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』。」(8:58)、そして「・・『わたしは神の子』である・・」(10:36)と宣言されたのです。

(メッセージの要旨)

*キリスト信仰を簡潔に表した個所の一つです。キリスト信仰とは信じることではないのです。「良い実」を結んで奉仕することなのです。祭司たちは特権的地位を悪用し、私腹を肥やしているのです。イエス様は彼らの不信仰と腐敗を公然と非難されたのです。イエス様が「まことのぶどうの木」なら、祭司たちは「偽のぶどうの木々」なのです。神様はかつてイスラエルの祭司たちに期待した仲介者としての職務を解任し、イエス様を代わってその任に着かされたのです。イエス様の厳しい批判は祭司たちの権威を失墜させ、生活基盤さえも危うくしているのです。イエス様は「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」と言われました。イエス様への信仰が人々の罪を清めるのです。これまでのようにエルサレム神殿へ巡礼する必要がないのです。神様に近づくために大祭司の執(と)り成しさえも不要となったのです。祭司たちにとって最も重要な神殿政治の正当性や清めの儀式が否定されたのです。ユダヤ教の宗教制度が根底から覆(くつがえ)されたのです。イスラエルの歴史において、神様と選ばれた民との関係が大きな転換点を迎えているのです。キリスト信仰が歴史を超越した霊的な関係として理解されているのです。しかし、イエス様が宣教された「神の国」の福音は個々人の「霊的な救い」に留まらないのです。人々の精神と肉体のすべてに及ぶ「全的な救い」として実現するのです。まことのぶどうの木に繋がる枝には「良い実」を結ぶ使命が与えられているのです。いつの時代においても「行い」のない信仰は空しいのです。

*これはイエス様がイスカリオテのユダに裏切られ、ローマ軍の兵士たちと祭司長たちやファリサイ派の人々が遣わした下役(警察官)たちに逮捕される直前に語られたお言葉なのです。緊迫した状況の中で「まことのぶどうの木」が遣わされたことを宣言されたのです。旧約聖書においてはたびたびイスラエルがぶどうの木やぶどう畑に譬えられています。神様はイスラエルの民を選び出し、肥沃(ひよく)な土地に住まわせ、その周りに石垣を築いて外敵から守られたのです。愛する民がご自身の愛に応えて「良い実」を結ぶのを待たれたのです。ところが、主の戒めを守らず、異邦人の神々を礼拝したのです。社会に不正と悪がはびこり、正義を求める人々の叫び声が絶えなかったのです。預言者エレミヤが「わたしはあなたを、甘いぶどうを実らせる/確かな種として植えたのに/どうして、わたしに背いて/悪い野ぶどうに変わり果てたのか」と伝えているのです(エレミヤ書2:21)。神様の怒りは頂点に達し、民に御手を伸ばして撃(う)たれたのです。神様に選ばれたイスラエルの指導者たちが役割を果たさなかったのです。イエス様の時代においても状況は変わらなかったのです。イエス様 はご自身をぶどうの木ではなく, 「まことのぶどうの木」と呼ばれたのです。「まこと」という言葉には連綿と続いた大祭司を中心とする神殿政治に対する批判が表れているのです。民衆の多くは祭司たちの偽善と不正を鋭く見抜いていたのです。イエス様の主張を支持したのです。「神の国」が到来しているのです。歴史的背景を踏まえて理解することが不可欠です。

*イエス様は何かを教えられる時、ファリサイ派の人々や律法学者たちのように難しい言葉(神学)を用いられなかったのです。教育の機会を奪われた貧しい人々(農民や労働者たち)に配慮されたのです。日常生活に生起する物事を例に挙げて語られたのです。「イエス様につながる」とは霊的な関係だけではないのです。イエス様の生き方を自分の生き方とすることなのです。イエス様は荒野で誘惑を受けられました。サタンに「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」、「あなたの神である主を試してはならない」、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と言われたのです(マタイ4:1-11)。また、イエス様の教えを心に刻(きざ)んで歩むことであると言えるのです。イエス様は律法の中で最も重要な戒めを二つ挙げられました。一つ目は「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」、二つ目は「隣人を自分の様に愛しなさい。」です(マルコ12:29-31)。イエス様は命を賭(と)して戒めを実行されたのです。「良い実」の例にも言及しておられます。「わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた(神様に委ねた)者はだれでも・・後の世では永遠の命を受ける。」(マルコ10:29-30)、「異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし・・あなたがたの中で・・いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」(マタイ20:25-27)と言われたのです。

*福音書記者ヨハネは人々の貧困の事実をほとんど伝えていないのです。理由として他の福音書が取り上げていることが考えられるのです。「主の祈り」(マタイ6:9-13)、「律法学者たちへの非難」(マルコ12:38-40)、「平地の説教」(ルカ6:20-26)は人々の窮状を鮮明に伝えているのです。ヨハネはユダヤ人たちの貧しさを前提として福音書を書いたのです。「わたしはまことのぶどうの木」は富を蓄積する祭司たちへの告発なのです。イスラエルの中で受け継がれてきた祭司制度の終焉(しゅうえん)を暗に知らせているのです。神様に奉仕していると考える指導者たちはイエス様と激しく対立したのです。ただ、こうした事実に言及されることが少ないのです。イエス様は真空の中で語られたのではないのです。祭司の重要な職務は神様とイスラエルの民を仲介することなのです。しかし、祭司職の報酬だけでは満足しなかったのです。貪欲に富を追い求めたのです。不正に得たお金で土地を購入したのです。それを農民たちに貸し付けたのです。利子収入などによって、一般民衆とは比較にならないほど蓄財したのです。祭司の家系の出身である歴史家ヨセフスは「ヨセフスの生涯」を著しました。その中で、同僚の祭司たちが膨大な財産を蓄積していることに言及しています。祭司たちは神様に選ばれた者であることを自負したのです。一方、豊富な知識と教養を駆使して信仰生活、さらには社会・経済・政治を支配したのです。自分たちの利益のために権威と権力を用いたのです。神様はこれらの実を結ばない枝を取り除かれるのです。

*イスラエルの指導者たちは「ぶどうの木」としての使命を果たさなかったのです。神様はイエス様を大祭司の地位に据えられたのです。イエス様は「まことのぶどうの木」であることを宣言されたのです。新しい契約によれば神様のぶどう園には「一本のぶどうの木」だけがあるのです。イスラエルの民はこれまでのように自動的に神様のぶどう園で育てられるぶどうの木々ではなくなったのです。男性も女性もイエス様に繋がって生きる枝となったのです。神様は愛情をもって手入れをしたぶどうの木々が「良い実」を結んでいるかに注目されるのです。イエス様もユダヤ人たちがご自身に繋がって「良い行い」に励んでいるかどうかを確認されるのです。いずれにしても、「良い実」を結ぶことが「永遠の命」(救い)に与(あずか)る道なのです。キリスト信仰が誤解されているのです。人は信仰によって救われるのではないのです。キリスト信仰と はイエス様を「神様の子」あるいは「救い主」として信じる(認める)ことではないのです。信じた後に、イエス様のご生涯に倣(なら)って「良い実」を結ぶことなのです。「神様の御心」を実現するためには犠牲が伴うのです。自分を捨て(神様に委ね)ることが求められるのです。隣人-貧しい人々や虐げられた人々-を愛するように促(うなが)されるのです。それらを実行することは簡単ではないのです。イエス様は「神様の戒め」を死に至るまで順守されたのです。キリストの信徒たちも「良い行い」によって信仰の信憑性(しんぴょうせい)を証明するのです。イエス様のご命令に従って生きるのです。

一年を振り返り、神様のお恵みに感謝します。来年も信仰に堅く立って共に歩みたいと思います。

2023年12月31日

「イエス様の誕生とシメオンの預言」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書2章21節から40節


八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。


そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」


また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。


親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。

(注)


・八日目の割礼:創世記17:12を参照して下さい。


・清めの儀式:レビ記12章をご一読下さい。


・イスラエルの慰め:約束されたイスラエルの独立のことです。過去の具体例としてバビロン捕囚からの帰還を挙げることが出来ます(イザヤ書40:1-2)。イザヤ書49:5-6;61:1-2を併せてお読み下さい。


・あなた自身も剣で心を刺し貫かれます:


■さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。そこでイエスに、「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」との知らせがあった。するとイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。(ルカ8:19-21)


具体例はルカ11:27-29にも見られます。


・アンナ:祖先は申命記33:24-25に記述されています。預言者としての正当性を証明しています。アンナの言葉はシメオンの預言的宣言に呼応しているのです。

 

(メッセージの要旨)


*イエス様の誕生を共にお喜びしたいと思います。同時にイエス様の苦難に満ちたご生涯の始まりであることを覚えたいのです。12月3日(日)から待降節の期間、これまで「ザカリアの預言」、「マリアの賛歌」、「ヨセフの信仰」について学んできました。今日は「シメオンの預言」を通してイエス様のご生涯について考えます。ユダヤはローマ帝国に支配されていたのです。ヘロデ大王は徹底的に恭順することによって地位を確保したのです。「救い主」はそのような時代にベツレヘムでお生まれになったのです。これらの歴史的事実はキリスト信仰を理解する上で不可欠な要素なのです。イエス様の誕生は当時の社会情勢や政治状況に大きな影響を与えたのです。ヘロデは自分の地位を脅かすかも知れない幼子を抹殺しようとするのです。将来に起こる律法学者たちやファリサイ派の人々との対立を予見させるのです。「神の国」(天の国)-神様の支配-の到来は貧しい人々や虐げられた人々に「良い知らせ」となるのです。ところが、支配者たちには既得権益の放棄を迫る「悪い知らせ」になるのです。イエス様は個々の人に悔い改めを求めて「救い」に導かれただけではないのです。「神様の正義と愛」が社会の隅々に行き渡るように奔走(ほんそう)されたのです。「神の国」の到来が地上に分裂をもたらすことになるのです(マタイ10:34-39)。シメオンは信仰心が篤く律法を守り「救い主」が現れるのを待ち続けていた人として紹介されています。神様はこのような名もない預言者を用いてキリスト信仰の「根本理念」を前もって語られたのです。


*イエス様の誕生物語についてはマタイとルカが記述しています。なぜか、マルコとヨハネは言及していないのです。マタイは幼子の誕生と共にヘロデの殺害行動を伝えているのです。イエス様は誕生以来常に命を狙われたのです(マタイ2:1-23)。一方、ルカの物語は人々が親しみやすい牧歌的なタッチで描かれているのです(ルカ2:1-20)。メッセージとしてルカの記事が取り上げられることが多いのです。しかし、「神の国」の到来こそ福音なのです。正義と愛の神様が御力を行使して下さるのです。ローマ皇帝アウグストゥスから全領土の住民に登録することを命じる勅令(ちょくれい)が出されたのです。キリニウスがシリア州(ガリラヤとユダヤを含む)の総督であった時です。徴税と徴兵を目的として最初の住民登録(国勢調査)が行われたのです。政策は貧しいユダヤの民衆をさらに苦しめたのです。人々は「メシア」(油注がれた者)を待望していたのです。ユダヤ人の中にはローマ帝国の圧政に暴力を用いて抵抗した人も少なくなかったのです。散発的な蜂起はローマ軍の圧倒的な武力によって鎮圧されたのです。加わった人々は殺され、方々に散らされたのです(使徒5:36-42)。多くの人は指示に従って自分の町へ旅立ったのです。ヨセフもダビデの家に属していました。すでに身ごもっていたいいなずけのマリアと共にガリラヤの町ナザレからユダヤのベツレヘム(ダビデの町)へ上ったのです。そこに滞在中マリアは月が満ちて、初めての子を産んだのです。イエス様はこのような激動の時代と約束の地において誕生されたのです。


*シメオンは幼子イエス様が誕生された事実を知らなかったのです。ところが、聖霊様の不思議な導きによって神殿内で「メシア」-キリスト-に会うことが出来たのです。マリアは「イスラエル人の広場」(ユダヤ人の男性のみが礼拝することを認められた場所)には入れなかったのです。シメオンはユダヤ人であれば男女が共に礼拝することを許された「女性の広場」に行ったのです。そこで、マリアとヨセフの幼子イエス様が約束の「救い主」であることを確認したのです。ユダヤ人たちは異邦人を神様から離れた罪人として蔑んでいました。しかし、シメオンは幼子を抱いて「・・これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです」と神 様を讃えたのです。神様が選ばれた無名のシメオンによって、ユダヤ教の重要な教義の変更が宣言されたのです。後に、イエス様を通してユダヤ人にも異邦人にも「救い」が訪れることになるのです。「救い主」が貧しいヨセフとマリアの間に誕生されたように、神様は富や社会的地位、知恵や知識の有無ではなく、その人の信仰を御覧になって用いられるのです。旧・新約聖書にはこのような人々が多数登場します。イエス様の誕生はヘロデ大王に不安と脅威を与えたのです。その後についてはほとんど知られていないのです。12歳の時ヨセフとマリアに連れられてエルサレムへ巡礼の旅をされたのです。イエス様は神殿の境内で学者たちの真ん中に座って議論をされたのです。さらに、エルサレム神殿をご自身の「父の家」と言われたのです(ルカ2:41-49)。


*シメオンは幼子の30年後を予告しているのです。イエス様はヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられたのです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って、ガリラヤで宣教を開始されたのです(マルコ1:15)。既得権益に執着する指導者たちは「神の国」の福音を拒否するのです。イエス様を神様への冒涜(ぼうとく)の罪で殺そうとしたのです。しかし、民衆はイエス様の教えを支持していたのです。そこで、総督ポンテオ・ピラトの権力を利用することにしたのです。ピラトが逡巡(しゅんじゅん)していると「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない」と脅したのです(ヨハネ19:12)。十字架刑はローマ帝国への反逆者、捕虜となった兵士、凶悪犯たちに適用されたのです。果たして、イエス様は政治犯として処刑されたのです。ところが、神様は三日目に死者の中から復活させられたのです。イエス様は生と死と復活を通して「神の国」を語られたのです(使徒言行録1:3)。「神の国」への応答がその人の「救い」を決定するのです。キリスト信仰とは「神の国」の到来を感謝して受け入れることなのです。幼子の誕生は新しい「天地創造」が始まったことを告げているのです。人々は「永遠の命」の希望に生きることが出来るのです。同時に、「救い」を安価な恵みにしてはならないのです。イエス様の命を狙った大虐殺が起こったこと、指導者たちの謀略によって十字架上で処刑されたことを想起するのです。自己中心的な生き方を悔い改めるのです。「神様と隣人」への愛を実践するのです。


*町中にクリスマスソングが溢(あふ)れています。教会でも「メリー・クリスマス」と挨拶を交わすのです。祝会も楽しく和やかな雰囲気に包まれるのです。ただ、開拓時代のアメリカにはニューイングランドから来た清教徒たちが異教徒の習慣に由来するクリスマスを拒否した歴史もあるのです。誕生間もない幼子イエス様は現在の認識とは全く違った状況に置かれていたのです。イエス様の誕生には1820年代の英語圏で商業化したクリスマスが醸(かも)し出す牧歌的、ロマンティックな雰囲気はなかったのです。クリスマスを誕生劇や愛餐会などでお祝いするだけではなく、イエス様の苦難に満ちたご生涯を共有する機会にしたいのです。イエス様の誕生に関わって激しい迫害があったこと、キリスト信仰の真髄(しんずい)は「神の国」にあることを確認するのです。聖霊様に導かれたシメオンは「救い」が個人ではなく、民族に及ぶことを宣言しているのです。神様はファラオの圧政に苦しむイスラエルの民をエジプトから解放されたのです。一方、ご自身の忠告に耳を傾けない民には「バビロン捕囚」という厳しい試練が課せられたのです。神様はこの世を新しく造り変えられるのです。イエス様を遣わされたことが徴(しるし)になっているのです。イエス様はイスラエルの民を導く指導者、牧者なのです(ミカ書5:1)。「神様の御心」を実現するために権力者たちと対峙(たいじ)されたのです。キリストの信徒たちはイエス様の「生き方」に倣(なら)うのです。怠惰(たいだ)であってはならないのです。「神の国」の到来を証しするのです。

2023年12月24日

「ヨセフの信仰から学ぶ」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書1章18節から2章23節


イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(イザヤ書7:14)。この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた(1:18-25)。


・・・【占星術の学者たちの訪問】(2:1-12)・・・


占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」(ホセア書11:1)と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった(2:13――15)。


・・・【二歳以下の男の子の虐殺】(2:16-18)・・・


ヘロデが死ぬと、主の天使が(突然)エジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」 そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり(行き)、ナザレという町に(行って)住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった(2:19-23)。


(注)


・ダビデの子ヨセフ:主の天使はヨセフがイスラエルの最も偉大な王ダビデ(サムエル記上16:1-列王記上2:12)の子孫であることを確認しています。


・アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図から抜粋:


■アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを、・・サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、・・エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、ソロモンはレハブアムを、・・ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。バビロンへ移住させられた後、・・ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である(マタイ1:1-17)。


●系図の中に異邦人女性のタマル(創世記38)、ラハブ(ヨシュア記2:1-21)、ルツ(ルツ記2-4)、ウリヤの妻(バト・シェバ-サムエル記下11-12)が掲載されています。彼女たちは神様のご計画の中で重要人物と考えられているのです。


●メシア(キリスト)とは油注がれた者のことです。イスラエルでは王や祭司たちは油で聖別されました。レビ記21:10-12をご覧ください。


・イエス:当時の一般的な名前で「神様は救う」と言う意味があります。


・占星術の学者:占星術や魔術を行う宮廷祭司です。彼らが持参した乳香は香りのする樹脂、没薬(もつやく)は油を注ぐ時、あるいは防腐処置を施す場合に用いられる樹脂です。東方はパルティア(現在のイランの北部)ではないかと言われています。


●星には政治的な意味が含まれています。「わたしには彼(ダビデ)が見える。しかし、今はいない。彼を仰いでいる。しかし、間近にではない。ひとつの星がヤコブから進み出る。ひとつの笏(しゃく=王権を象徴する杖)がイスラエルから立ち上がり/モアブ(民族)のこめかみを打ち砕(くだ)き/シェト(民族)のすべての子らの頭の頂(いただき)を砕く」(民数記24:17)。ローマ帝国と戦いわずか数年(紀元後132年-135年)ですが独立を勝ち取ったユダヤ人の指導者バー・コクバは「星の子」と呼ばれています。 

・ユダヤ人の王;占星術の学者たちは幼子イエス様に敬意を表して「ユダヤ人の王」と呼んでいます。ところが、ローマの総督ポンティオ・ピラトはイエス様を侮蔑してこの称号を用いているのです(マタイ27:11)。そして、十字架の上に掛ける罪状書には「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いたのです。イエス様が十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読みました。ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていました。祭司長たちがピラトに「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と申し出たのですが、ピラトは「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と拒否しています(ヨハネ19:19―22)。

・ヘロデ大王:ローマ皇帝の承認を受け、ローマ人から「ユダヤ人の王」と呼ばれていました。猜疑心が強く自分の地位を脅かす人々(妻や息子たちを含めて)を容赦なく処刑しました。さらに、ユダヤ教の祭司たちも殺害したのです。これにより最高法院(ユダヤの最高議決機関)は弱体化したのです。幼子が成長して将来自分や後継者を脅かす存在になることを恐れたのです。二歳以下の男の子をすべて殺したのです。

・アルケラオ:ヘロデ大王には処刑した妻と三人の子の他に、別の妻との間に三人の息子がいました。ヘロデ・アルケラオはユダヤ、サマリア、イドマヤを統治しました(紀元前4―紀元後6)。ヘロデ・アンティパスはガリラヤとペレアを支配しました(紀元前4年-紀元後39年)。ヘロデ・フィリップはガリラヤ湖の北部地域を管轄しました(紀元前4年―紀元後33/34年)。アルケラオは三人の息子の中で最も残虐な人物でした。ローマ皇帝アウグストス(紀元前27年―紀元後14年)は統治能力に欠けるアルケラオを廃位し、管轄地をローマ帝国の直轄領としたのです。

・ナザレ:ガリラヤ湖の西約24㎞にある農業の村です。聖書地図を参照して下さい。

・彼はナザレの人と呼ばれる:旧約聖書にこの表現に対応する特定の個所はありません。

 
(メッセージの要旨)


*イエス様の誕生に関してマリアに焦点を当てて語られることが多いのです。しかし、ヨセフの信仰と働きがなければ幼子が命を長らえることは不可能だったのです。神様から遣わされた天使はマリアと同じようにヨセフにもマリアの胎の子は聖霊様によって宿ったことを告げたのです。ヨセフは主の天使と言葉を交わしていないのです。「・・この子は自分の民を(彼らの)罪から救うからである」と言われたことを信じたのです。キリスト信仰を神様との個人的な関わりとして理解されている方も多いのです。聖書の日本語訳において集合的表記(複数)」が必ずしも行われていないことが影響しているのかも知れません。聖書はイスラエル(ユダヤ民族)あるいは「信仰共同体」を念頭に置いて読むことが必要不可欠です。天使は信仰の篤いヨセフに「ダビデの子」と呼びかけているのです。「救い主」の誕生と保護という特別な使命を与えるためなのです。同時に、民族の罪の歴史-繰り返された神様への反抗-を想起させているのです。ヨセフは天使の指示を考慮することなく、自分の考えを貫くことも出来たのです。しかし、そのようにはしなかったのです。神様にすべてを委(ゆさ)ねたのです。クリスマスにおいて幼子の誕生が牧歌的に語られているのです。それだけでは「誕生の意味」を説明したことにはならないのです。この世の権力者たちは「救い主」の誕生-神の国の到来-に怯(おび)えているのです。信仰の人ヨセフはさらに三度も夢を見たのです。その都度、天使の指示に従って行動したのです。幼子と両親は危機を逃れることが出来たのです。


*最初の段落はイエス様の誕生物語です。ところが、イエス様の誕生が直接語られている分けではないのです。旧約聖書の中で預言された「神様のご計画」が成就(成就)しようとしていることを強調しているのです。婚約は結婚していることと同じように見なされたのです。婚約の解消は離婚によって成立するのです。ヨセフは夫として紹介されています。妻マリアは姦淫(かんいん)の罪を犯したのです。律法の規定に従って石で打ち殺されるのです(申命記22:23-24)。ヨセフは正しい人です。律法を厳格に守っていたのです。マリアの罪を明らかにして「神様の正義」を実現しなければならないのです。しかし、ヨセフは憐み深い人でもありました。妻の罪を公にすることなく密かに離縁しようと考えたのです。マリアが助かる道を選んだのです。ただ、家父長社会にあって離縁された女性が生きて行くことは悲惨の極(きわ)みです(エレミヤ書22:3)。生産手段(土地や財産)を持たない若いマリアは幼子といばらの道を歩むことになるのです。ところが、天使がヨセフに夢で現れて妻マリアを受け入れるように命令したのです。マリアは天使ガブリエルの受胎告知に「わたしは男の人を知りませんのに」と反論しています。ヨセフもマリアの胎内にいる子が自分と無関係であることを確信しているのです。当然、マリアに不信感を抱いたのです。ヨセフは天使に質問や疑問を投げかけていないのです。語られた言葉を信仰によって受け入れたのです。ありのままのマリアを妻として迎え入れたのです。ヨセフは「神様のご計画」に参画したのです。


*マタイは第1章で系図を示してヨセフがダビデの子孫であることを明らかにしているのです。天使の言葉「ダビデの子ヨセフ」はユダヤ教とキリスト信仰との密接な関係を表しているのです。イエス様はダビデの家系に連なるヨセフの妻マリアからお生まれになるのです。神様が預言者を通して言われていたことが実現するのです。幼子は自分の民を罪から救うためにこの世に来られるのです。ただ「神様のご計画」は人間を媒介にして具体化されるのです。人間の側から参画することが求められているのです。ヨセフにも自由意思があるのです。しかし、自分の思いよりも「神様の御心」を尊重したのです。ヨセフの神様への揺るぎない信頼がそうさせたのです。東方(パルティア=現在のイラン)から旅をして来た占星術の学者たちはベツレヘムでお生まれになった幼子を礼拝した後「ヘロデのところに帰るな」と夢でお告げを受けたのです。彼らは指示に従ったのです。自分たちの国へ無事に帰ることが出来たのです(マタイ2:12)。神様はご計画に協力した占星術の学者たちを守られたのです。ヨセフにも二回目の夢で天使からヘロデの陰謀について知らされたのです。直ちにマリアと幼子を連れて遠いエジプトへ逃れたのです。神様は特定の時代と約束の地において「救いの業」を始められたのです。「救い主」はローマ帝国とヘロデが支配するユダヤのベツレヘムでお生まれになったのです。「神の国」が到来したのです。後に、イエス様は宣教の第一声で「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われるのです(マルコ1:15)。


*ヘロデ大王は占星術の学者たちの「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか、わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」という言葉を聞いて不安になったのです(マタイ2:1-3)。ヘロデのような絶対的な権力者が名もなく貧しいヨセフとマリアから生まれた幼子を恐れているのです。不思議なことです。しかし、ヘロデの性格や行いを知れば納得出来るのです。猜疑心が強く自分の地位を脅かす可能性のある人々-妻や息子たちを含む-を容赦なく殺害したのです。ヘロデは紀元前4年に亡くなっています。イエス様は紀元前6年ごろに誕生されたのではないかと推測されているのです。ヘロデにとって後継者の問題は喫緊(きっきん)の課題だったのです。祭司長たちや律法学者たちを密かに集めて「メシアはどこに生まれることになっているのか」と質問しているのです。彼らは「ユダヤのベツレヘムです」と答えたのです。預言者ミカの「ユダの地、ベツレヘムよ、・・お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである」(ミカ書5:1)や占星術の学者たちの訪問はヘロデを疑心暗鬼にさせたのです。人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させたのです(マタイ2:16)。残虐性においてイスラエルの男児をすべて殺すように命じたエジプトの王ファラアオと同じです(出エジプト記1:15-16)。イエス様は誕生後命の危険に晒(さら)されたのです。それは十字架の死に至るまで続くのです。


*天使の指示に従いヨセフは幼子とマリアと共にエジプトに滞在したのです。親子三人は寄留の地で落ち着かない日々を過ごしたのです。ヘロデが死ぬと、天使はヨセフに第三の夢でイスラエルの地に戻れることを告げたのです。ただ、ヨセフはヘロデの息子のアルケラオがユダヤを統治していることを知ったのです。故郷へ帰ることを恐れたのです。第四の夢で指示があったのでガリラヤ地方のナザレに住むことにしたのです。ヨセフは神様のお導きを疑わなかったのです。そのことによって迫害から逃れることが出来たのです。一方、別の判断をすることも可能だったのです。しかし、そのような道を選ばなかったのです。苦悩しながらも夢で現れた天使の言葉を受け入れたのです。ヨセフは村の大工でした(マタイ13:55-56)。少なくとも12歳の時までは父親としてイエス様を育てたのです。後継者にするために訓練もしたのです。宣教を開始される前に数年間は大工として働かれたのです。イエス様はヨセフとマリアの下で知恵が増し、背丈も伸び、神様と人とに愛されたのです(ルカ2:52)。ヨセフは聖霊様に導かれたのです。信仰に堅く立って自分の使命を果たしたのです。キリスト信仰が誤解されているのです。「信仰によって救われる」と理解されている方も多いのです。しかし、神様が導いて下さるから何もしなくても良いということではないのです。キリストの信徒たちも現実の社会の中でヨセフのように信仰を問われ続けるのです。クリスマスにおいてヨセフの信仰を想起するのです。「神様のご計画」-神の国の建設-に参画するのです。

2023年12月17日

「救い主の誕生予告とマリアの賛歌」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書1章26節から56節


六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしため(僕)です。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。


そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、 わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、 その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

(注)


・六か月目:祭司ザカリアの妻エリザベトの妊娠期間のことです。後にイエス様の先駆けとなる洗礼者ヨハネが生まれるのです。


・ナザレ:サマリアの北に位置するガリラヤの小さな村です。周辺地域から孤立しており要衝の地でもありませんでした。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言われていたのです(ヨハネ1:46)。聖書地図をご覧下さい。

・イエス様の系図:ルカ3:23-38にあります。マタイ1:1-17も併せてお読み下さい。

・神にできないことは何一つない:創世記18:14;マタイ19:26;マルコ14:36;ルカ1:37を参照して下さい。


・神様のダビデへの約束:「わたしは、・・あなたを・・わたしの民イスラエルの指導者にした。・・敵をわたしがすべて退けて、あなたに安らぎを与える。・・わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。・・」(サムエル記下7:8-16)。


・ハンナの祈り:イスラエルの指導者サムエルの誕生に伴うエルカナの妻ハンナの賛歌です。「マリアの賛歌」と比較して下さい。

■主にあってわたしの心は喜び/主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き/御救いを喜び祝う。聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。岩と頼むのはわたしたちの神のみ。驕(おご)り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。主は何事も知っておられる神/人の行いが正されずに済むであろうか。勇士の弓は折られるが/よろめく者は力を帯びる。食べ飽きている者はパンのために雇われ/飢えている者は再び飢えることがない。子のない女は七人の子を産み/多くの子をもつ女は衰える。主は命を絶ち、また命を与え/陰府に下し、また引き上げてくださる。主は貧しくし、また富ませ/低くし、また高めてくださる。弱い者を塵(ちり)の中から立ち上がらせ/貧しい者を芥(あくた)の中から高く上げ/高貴な者と共に座に着かせ/栄光の座を嗣業としてお与えになる。大地のもろもろの柱は主のもの/主は世界をそれらの上に据えられた。主の慈しみに生きる者の足を主は守り/主に逆らう者を闇の沈黙に落とされる。人は力によって勝つのではない。主は逆らう者を打ち砕き/天から彼らに雷鳴をとどろかされる。主は地の果てまで裁きを及ぼし/王に力を与え/油注がれた者の角を高く上げられる。(サムエル記上2:1-10)

・神様とアブラハムの契約:「これがあなたと結ぶわたしの契約である。・・わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。・・」(創世記17:4-6)。併せて、創世記18:18-19を参照して下さい。

(メッセージの要旨)


*マリアはイエス様の誕生に関わって重要な役割を果たしているのです。同時に、キリスト信仰の真髄(しんずい)を証ししているのです。ヨセフと婚約していたマリアはまだ一緒に暮らしていませんでした。マリアの年齢は十代の半ばだと推測されています。祖先についても詳しくは分からないのです。祭司職の家系(アロン家)の出身である洗礼者ヨハネの母エリザベトと親戚でした。エリザベトは「神の前で正しい人」です(ルカ1:5-6)。マリアも信仰の篤い女性でした。天使ガブリエルが現れて受胎を告知した時も「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と神様への絶対的な信頼を示したのです。マリアの信仰はキリストの信徒たちの模範になっているのです。さらに、マリアは聖霊様に満たされて語るエリザベトの言葉「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」に応えて主を賛美しているのです。ところが「マリアの賛歌」に言及されることはほとんどないのです。政治的であり、伝統的な教義に相応しくないと考えられているのです。しかし、聖書には忠実であるべきです。マリアは前もって福音を語っているのです。「神の国」(天の国)-神様の支配-の到来が予告されたのです。イエス様の生と死と復活がその正しさを証明することになるのです。イエス様は貧しい人々や虐(しいた)げられた人々の側に立たれたのです。イエス様の御跡を辿(たど)るのです。「永遠の命」は最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実行した人々に与えられるのです(ルカ10:25-37)。


*天使に祝福されたマリアの「賛歌」はキリスト信仰の本質を簡潔に語っているのです。ほとんどの教会ではマリアの個人としての篤い信仰心は紹介されているのです。ところが、公的(普遍的)な信仰理念が恣意的(しいてき)に読み飛ばされているのです。ここに、キリスト信仰が個人の「罪からの救い」としてのみ理解される原因の一つがあるのです。マリアは聖霊様に満たされたエリザベトの言葉に応えて主を賛美したのです。「マリアの賛歌」は古来「マグニフィカ―ト」と呼ばれています。これはサムエルの誕生に感謝する「ハンナの祈り」を想起させるのです。二つは神様への絶対的な信頼において共通しているのです。神様は権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げ、この世に正義と公平を実現されるのです。キリスト信仰はユダヤ教の歴史(慣習)や当時の社会、経済、政治状況と密接に関わっているのです。「マリアの賛歌」には神様の勝利を祝う「詩篇のモチーフ」が引用されているのです。「その御名は尊く・・」は受け継がれた「賛美の歌」なのです(詩篇111:9)。「主はその腕で力を振るい・・」は詩篇89:11を彷彿(ほうふつ)とさせるのです。「わたしたちの先祖におっしゃったとおり・・」は神様とアブラハムとの契約、さらには神様のダビデへの約束の成就(じょうじゅ)に感謝しているのです。マリアは「主のはしため」と言っています。「救い主」は貧しいヨセフとマリアの家に誕生されたのです(ルカ2:24)。十字架の死に至るまで全身全霊で「神様の御心」-正義と愛-を証しされたのです。

*洗礼者ヨハネが捕らえられた後、イエス様はガリラヤへ行き「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って宣教を開始されたのです(マルコ1:14-15)。キリスト信仰は個人の罪の赦しを信じることで完結しないのです。「神様の支配」が天上と地上の隅々に及ぶことを信じる信仰なのです。イエス様の教えに真摯(しんし)に向き合う律法学者が「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と質問しています。イエス様は「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。・・」と答えられたのです(マルコ12:28-34)。キリストの信徒たちも最も重要な戒めを心に刻んで生きるのです。聖書の言葉を全体の文脈から切り離してはならないのです。「神様の御心」を誤って伝えることになるからです。「神様の主権」が専制君主たち、外国の諸勢力、あるいは悪魔によって軽んじられているのです。神様は「メシア」(救い主)を遣わしてご自身のあるべき位置を要求されるのです。応じない主権の侵害者たちを打倒されるのです。イエス様は「神の国」を宣教されたのです。「神の国」の到来こそ福音(良い知らせ)なのです。現在の支配者が誰であれ、神様がイスラエルとすべての被造物の真の王なのです。古代イスラエルから受け継がれてきたこの信仰を証しされたのです。


*マリアは聖霊様に導かれているのです。「救い主」がどのようなお方であるかを前もって語ったのです。イエス様は御力を用いて「神様の御心」を実現して下さるのです。人々は「マリアの賛歌」によって大いに慰められたのです。マリアは幼子の誕生に関わっただけではないのです。ガリラヤ地方のカナで結婚式がありました。ぶどう酒が足りなくなったので、イエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と言ったのです。イエス様は水がめの水をぶどう酒に変えられたのです。イエス様による最初の「力ある業」(奇跡)の証人になったのです(ヨハネ2:1-11)。ヨセフとマリアがエルサレム巡礼の途中で迷子になった12歳の少年イエス様を神殿の境内で発見したのです。マリアは「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」とイエス様を叱責(しっせき)したのです。マリアはイエス様を生み、夫ヨセフと共に愛情をもって育んだのです。イエス様は知恵に恵まれ、背丈も伸び、神様と人に愛される子供として成長されたのです(ルカ2:41-52)。使徒言行録(ルカによる福音書第2部)はイエス様が天に上げられた後の使徒たちの様子を記しています。彼らはイエス様の教えを守り宣教に取り組んだのです。日々、婦人たちやイエス様の母マリア、またイエス様の兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていたのです(使徒1:14)。信徒の数はおよそ120人です。すべての物を共有にしていたのです。民衆全体から好意を寄せられたのです。マリアは初代教会の発展に多大な貢献をしたのです。


*マリアはイエス様の母となっただけではないのです。「神の国」を共に宣教したのです。「マリアの賛歌」においては福音が具体的に表現されているのです。マリアとヨセフは幼子を主に献上する儀式で山鳩一つがい(家鳩の雛二羽)を捧げています(ルカ3:22-24)。羊ではなかったのです。二人に経済的余裕がなかったのです。マリアは胎内の子が「身分の低い者(人々)を高く上げ、飢えた人(人々)を良い物で満たして下さること」を確信しているのです。後に、イエス様は多くの人が貧困に喘(あえ)でいる姿をご覧になって「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今、飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる」と言われたのです(ルカ6:20-21)。「祈り方」を尋ねる弟子たちには、自分のことだけでなく貧しい人々の窮状を心に留め「わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/赦しましたように」と祈るように命じられたのです(マタイ6:12)。教えを聞くために集まった5千人(男性)に食べ物を提供されたのです(マルコ6:30―44)。出来事の意味は大きいのです。「神の国」の到来を信じる人々が「神様の御力」に直接触れることが出来たからです。マリアは若い女性です。しかし「マリアの賛歌」は彼女の年齢や経験を超えた「神様の啓示」なのです。新約聖書が伝えているように、イエス様は「神の国」の宣教において「マリアの賛歌」を具体化されたのです。マリアはキリスト信仰の礎(いしずえ)を築いた人なのです。

2023年12月10日

「ヨハネの誕生とザカリアの預言」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書1章57節から80節


さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ 近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。


父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、/僕ダビデの家から起こされた。昔から聖なる預言者たちの口を通して/語られたとおりに。それは、我らの敵、/すべて我らを憎む者の手からの救い。主は我らの先祖を憐れみ、/その聖なる契約を覚えていてくださる。これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、敵の手から救われ、/恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく。


幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである。これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、/高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、/我らの歩みを平和の道に導く。」幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。


(注)


・待降節:教派によって呼び方は異なりますが、イエス・キリスト(救い主)のご降誕を待ち望む期間のことです。クリスマスの日から数えて4回前の日曜日から始まります。


・アロン:イスラエルの祭司職の祖先です(出エジプト40:12-15)。洗礼者ヨハネの父ザカリアと母エリザベトは共に祭司職の家系の出身です。


・アビヤ組:祭司は数千人いました。人数が多いので24組に分けられていたのです。それぞれが半年に一週間神殿で奉仕をしたのです。組が当番であった時でも、くじで選ばれて聖所で一日に二回香を焚(た)く職務に就くことは極めて稀なのです。神様はゼカリアを召命されたのです。


・救いの角:「救い主」イエス様のことです。この表現はダビデの家系に連なる支配者であることを強調しています。「主は逆らう者を打ち砕き天から彼らに雷鳴をとどろかされる。主は地の果てまで裁きを及ぼし王に力を与え油注がれた者の角を高く上げられる」(サムエル記上2:10)。詩篇18:3;132:17を参照して下さい。


・天使ガブリエル:神様からの公的な使者です。ダニエル書8:16;9:21にも登場します。


・不妊の女性:エリザベトのような不妊の女性に子供が授かった例は他にもあります。アブラハムとサラの息子イサク(創世記18:1-15)、マノアとその妻の息子サムソン(士師記13:1-5)、エルカナとハンナの息子サムエル(サムエル記上1-2章)をご一読下さい。


・エリヤの霊と力:イエス様は洗礼者ヨハネを最後の預言者と呼び、権力者たちと闘った預言者エリヤの再来であると言われたのです(マタイ11:13-14)。ヨハネはイエス様に先立って人々に「救いの道」を宣教したのです。


・イエス様の闘い:偽善と不正に満ちた指導者たちの不信仰を白日の下に晒(さら)されたのです(マタイ17:12-13)。ファリサイ派の人々や律法学者たちに災い(天罰)を宣告されたのです(マタイ23)。エルサレム神殿の境内から実力行使によって両替人や商売人たちを追い出されたのです。預言者エレミヤの言葉によって神殿が強盗の巣になっていることを明らかにされたのです(マルコ11:15-17)。ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスに人々の間で蔑称となっている「あの狐」を公然と用いられたのです(ルカ13:32)。最高の権力者ローマの総督ポンティオ・ピラトに「神の子」として堂々と対峙(たいじ)されたのです(ヨハネ18:33-37)。


・洗礼者ヨハネとイエス様の誕生は紀元前6年ごろと推測されています。当時の政治状況は次の通りです。


●ローマ皇帝オクタヴィアヌスの在位は紀元前27年から紀元後14年です。


●ヘロデはローマ人からユダヤ人の王と呼ばれたのです。在位は紀元前37年から4年です。洗礼者ヨハネとイエス様が宣教を開始した頃のガリラヤの領主ヘロデは三人の息子の一人であるヘロデ・アンティパス(在位は紀元前4年から紀元後39年)です。

(メッセージの要旨)


*待降節が始まります。イエス様の誕生に関わった人物の信仰から学びます。洗礼者ヨハネの両親はエルサレム神殿で奉仕する祭司ザカリアとアロンの家系に連なるエリザベトです。二人は神様の前に正しい人でした。主の掟と定めを守り、非のうちどころがなかったのです。ところが、長い間子供が生まれなかったのです。ある日、ザカリアは神殿で香を焚(た)いていました。天使ガブリエルが現れてエリザベトに子供が生まれることを知らせたのです。名前をヨハネと名付けなさいと命じたのです。胎内にいる時から聖霊様に導かれていること、成長して主の前に偉大な人になること、イエス様に先立ってイスラエルの子らに「救いの道」を整えることも告げられたのです。しかし、ザカリアは天使の言葉を疑ったのです。このため、ヨハネが生まれるまで口を利けなくなったのです(ルカ1:5-24)。エリザベトがヨハネを生むと天使が指示した通りに板に「この子の名はヨハネ」と書いたのです。ザカリアは話すことができるようになったのです。ヨハネの物語は旧約聖書に登場するイサク、サムソン、サムエルの誕生に関わる状況と似ているのです。これらの子も不妊に苦悩する妻から生まれたのです。神様は母親たちの願いに応えられたのです。イスラエルを導く偉大な指導者たちが起こされたのです。ヨハネは「悔い改めよ。 天の国(神の国)は近づいた」と警告したのです(マタイ3:1)。イエス様の宣教の第一声と同じ言葉です(マタイ4:17)。イエス様はヨハネを高く評価されたのです。預言者以上の者と言われたのです(ルカ7:26)。


*ザカリアは聖霊様に導かれて神様がイスラエル(ユダヤ人たち)のために僕ダビデの家から「救い主」(イエス様)を誕生させられること、息子のヨハネが将来担うであろう重要な使命について預言したのです。ヨハネの一挙手一投足がキリスト信仰の本質を証しするのです。イエス様に先立って「救いの道」を具体的に教え、いと高き方の預言者と呼ばれるのです。ルカはヨハネの誕生物語を通してヨハネとイエス様には深いつながりがあることを伝えています。エリザベトは妊娠六か月の時、すでに受胎しているマリアの訪問を受けたのです。彼女の挨拶を聞いて胎内の子が躍(おど)ったのです。エリザベトは聖霊様に導かれて「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています」と讃美したのです(ルカ1:39-42)。ヨハネは身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいたのです。イエス様は知恵が増し、背丈が伸び、神様と人とに愛されたのです(ルカ2:52)。ヨハネは洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に「蝮(まむし)の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。・・斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と言ったのです(ルカ3:7-9)。祭司による清めが悔い改めの証明にはならないのです。「神様の御心」に適った生き方によって示すことが必要なのです。行いのない信仰が「救い」をもたらすことはないのです。


*群衆はヨハネの教えに心を動かされたのです。「わたしたちはどうすればよいのですか」と質問するのです。ヨハネは「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と具体的に答えたのです。ローマ帝国の過酷な税に協力する徴税人には「規定以上のものは取り立てるな」、兵士には「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言ったのです(ルカ3:11-14)。ガリラヤの領主ヘロデにも恐れることなく「兄弟の妻ヘロディアとのこと、また、行ったあらゆる悪事のこと」で非難したのです。ヨハネは厳しい言葉を語るだけではないのです。自らもその言葉を実行したのです。宣教の地は交通が便利で比較的過ごしやすい町や村ではなく、困難と危険に満ちた荒れ野を選んだのです(マタイ3:1)。質素を旨(むね)とし、らくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としたのです。預言者エリヤを彷彿(ほうふつ)とさせるのです(列王記下1:1-8)。ユダヤ人歴史家ヨセフスによると洗礼者ヨハネ以外にも正義の実現を目指した宣教者がいるのです。これらの人は「神様の御心」に沿って行動し、抑圧と貧困からの解放を求めたのです。ただ、問題の解決を急ぐあまり暴力に訴えたのです。ヨハネは悔い改めを勧めて社会の秩序を変えようとしたのです。支配者たちにとってはいずれも自分たちの既得権益を脅かす危険人物なのです。ヨハネのような非暴力を貫く宣教者であっても権力者の暴力の犠牲になったのです(マルコ6:27)。


*イエス様はヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられたのです。神様はイエス様について「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言われたのです(マタイ3:17)。その後、ガリラヤに戻られたのです。イエス様はヨハネの弟子であったペトロとアンデレなどと共に宣教をされたのです(ヨハネ1:35-42)。ヨハネはこれまで通り独自の活動を続けたのです。それぞれ異なった側面から「神の国」の福音を証ししたのです。二人には共通点が多いのです。ヨハネとイエス様はたびたび比較されています。民衆の中にはヨハネをメシア(油注がれた者-救い主)ではないかと考える人がいました(ルカ3:15)。イエス様はヘロデ・アンティパスによって首を斬られたヨハネの復活であるという人もいたのです(マタイ16:14)。ヨハネ自身はイエス様について「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」と言っているのです(マルコ1:7-8)。イエス様はヨハネについて「『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』(マラキ書3:1)/と書いてあるのは、この人のことだ。言っておくが、およそ女(女性)から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。・・」と言われたのです(ルカ7:27-28)。ヨハネは「救いの道」を準備したのです。しかし、殉教(じゅんきょう)したのです。イエス様も「神の国」を証しして処刑されたのです。


*ローマ皇帝や総督、各地方の領主、ユダヤ教の指導者たちは「神様に主権があること」を認めないのです。「神様の御心」に反して民衆を支配しているのです。洗礼者ヨハネとイエス様はこのような時代に誕生したのです。洗礼者ヨハネには妥協を許さない厳しさがあるのです。悔い改めを言葉ではなく「行い」によって示すことを求めたのです。イエス様は「神の国」の福音のために、洗礼者ヨハネ以上に権力者たちと闘われたのです。ザカリアはヨハネの誕生に感謝するだけでなく、イスラエルの民のために約束の「救いの角」をこの世に遣わされた神様を讃えているのです。イスラエルの神である主は民を訪れ、彼らを『敵の手』から解放され(救われ)るのです。反抗を繰り返す民を憐れんでダビデの系譜から「救い主」イエス様を誕生させられたのです。すべての民は罪を悔い改めて清さと正しさをもって「救い主」を仰げば、恐れなく神様に仕えることが出来るようになったのです。イエス様はご自身の使命についてイザヤ書(61:1-2など)を引用して「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人(人々)に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人(人々)に解放を、目の見えない人(人々)に視力の回復を告げ、圧迫されている人(人々)を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」と言われたのです(ルカ4:16-30)。イエス様の誕生や十字架上の死にのみ「救いの意義」を求めてはならないのです。先ず「神の国」の福音はヨハネによって宣教されたのです。

2023年12月03日

「イエス様の戦略」

Bible Reading (聖書の個所) マルコによる福音書5章1節から20節

一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷(複数)や鎖(複数)で縛られたが、鎖(複数)は引きちぎり足枷(複数)は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山(山々)で叫んだり、石(複数)で自分を打ちたたいたりしていた。イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから(神によってあなたにお願いする)、苦しめないでほしい。」イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。

ところで、その辺りの山(丘の中腹)で豚の大群がえさをあさって(食べて)いた。汚れた霊どもはイエスに、「豚の(群れの)中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の(群れ)の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖(海辺)になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人(友人たち)に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。

(注)

・ゲラサ人の地方:マルコとルカは「ゲラサ人の地方」と表現しています。この町はガリラヤ湖から南へおよそ48キロ離れたところにあります。一方、マタイは「ガダラ人の地方」と記述しています(8:28-34)。ガリラヤ湖の東南約10キロに位置する町です。「ガダラ」の方が記述内容に近いとされています。しかし、正確な場所は不明です。

・デカポリス:ヨルダン川の東にある異邦人が多く住む地域です。「10の町」が一つのグループを構成していることからこのように呼ばれています。

・いと高き神:異邦人たちが「イスラエルの神」に用いた尊称です。

・レギオン:およそ6千人からなるローマ軍の連隊もこのように呼ばれていました。「二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ」は、エジプトのファラオ王がイスラエルの民を追跡するために派遣した軍隊が紅海において溺(おぼ)れた姿を想起させるのです。(出エジプト記14章)

◎イエス様もこの言葉を使っておられます。

■わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団(レギオン)以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。(マタイ26:53)

・豚:墓や悪霊と同じように、豚はユダヤ人にとって汚れていたのです。レビ記11:7-8をお読み下さい。
  
・神の国(天の国):イエス様の宣教の中心テーマは「神の国」-神様の支配-の到来です。福音(良い知らせ)はイエス様の宣教と力ある業、十字架の死と復活を通して明らかにされたのです。牢にいた洗礼者ヨハネは、自分の弟子たちを送って「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねさせたのです。イエス様は「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人(人々)は見え、足の不自由な人(人々)は歩き、重い皮膚病を患っている人(人々)は清くなり、耳の聞こえない人(人々)は聞こえ、死者(たち)は生き返り、貧しい人(人々)は福音を告げ知らされている」と答えられたのです。(マタイ11:2-5)

・ヨセフス:エルサレムの祭司の家系に生まれました(西暦37-38年頃)。将軍であり、歴史家でもありました。主な著作はユダヤ人の反乱と戦争を描いた「ユダヤ戦記」、世界の創造から反乱の時代に至るまでのユダヤ人の歴史を綴(つづ)った「ユダヤの古代誌」です。

・預言者:特徴は大きく分けて二つあります。神様から直接の召命を受けていること、権力者たちの偶像礼拝や政治的腐敗に対する神様の裁きの託宣者になっていることです。エレミヤについてはエレミヤ書22章、エリヤに関しては列王記上21章をお読み下さい。

・ローマ軍:イスラエルを占領し、人々に帝国への恭順と物資の供出を求めました。農家から直接パンやぶどう酒、家畜を調達したのです。必要な時には人々を徴用して働かせたのです。残虐的、非人間的行為は女性や子供たちにも及んだのです。


「イエス様の戦略」 November25, 2023

(メッセージの要旨)

*一世紀のイスラエルにおいては多くの人が様々な病気に苦しんでいました。マルコは「夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。・・イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人をいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである」と記述しているのです(マルコ1:32-34)。悪霊に取り憑(つ)かれた人の癒しの物語を四回も取り上げているのです。異常な振る舞いは男性が汚れた霊に支配されていることに起因しているのです。今回、イエス様は悪霊と対話しておられます。悪霊には意志があるのです。注意深く読むと汚れた霊はこの人から追い出さないようにとは言っていないのです。この地方(国)から追放しないようにと願っているのです。この違いには大きな意味があるのです。汚れた霊に取り憑かれた男性は常軌を逸しているのです。それはイスラエルの国あるいはイスラエルの民衆の苦悩を表しているのです。汚れた霊は自らを「レギオン」と呼んでいます。彼らは単独ではなく大集団です。破壊的な力を有しているのです。一方、ローマ帝国がイスラエルを支配しているのです。歴史が証明しているように、野蛮なローマ軍は残虐、非道を極めたのです。民衆は圧政に耐えているのです。イエス様は御力によって「レギオン」の一部を滅ぼされたのです。悪霊に取り憑かれていた男性に正気が戻ったのです。自分の経験をその地方で証ししているのです。まさに「神の国」が事実として到来しているのです。


*神様が遣わされた独り子イエス様は悪霊を支配されているのです。汚れた霊に取り憑かれていた男性は正気に返ったのです。「力ある業」によって励まされる人も多いのです。さらに、イエス様と汚れた霊とのやり取りに注目すると重要な意味が隠されていることに気づかされるのです。出来事は「神の国」の到来が人間の「全的な救い」として実現することを証明しているのです。「レギオン」は残虐性において悪名の高いローマ軍団(連隊)の呼び名と同じなのです。無数の汚れた霊が個人だけではなく、イスラエル全体を支配しているのです。男性は昼も夜も墓場や山で叫び、石で自分を打ちたたいているのです。自虐的行為は圧政と重税に苦しむ人々の絶望感を表しているのです。イエス様は「弱り果て打ちひしがれた人々」、「精神を病んでいる人々」、「体の不自由な人々」、「病気の物乞い」、「出血が止まらない女性」、「土地を奪われて労働者となった農夫たち」に希望の光を注がれたのです。「追いはぎや強盗に遭った人々」、「暴動や殺人の罪で投獄されている人々」の支援や訪問の必要性にも言及しておられるのです。治安の悪い地方では犯罪率は特に高いのです。これらの現象は極度の不安と緊張がもたらす社会問題なのです。個人に取り憑いたように見える「レギオン」はイスラエル全体を抑圧しているのです。悪魔祓(ばら)いはイスラエルに頻発(ひんぱつ)する暴動の鎮圧に関わるローマ軍の非情な振る舞いへの告発なのです。イエス様は「レギオン」を追放されたのです。イスラエルの民が圧政から解放されることを暗示されたのです。


*イスラエルの指導者たちは神殿政治の一環として民衆に税(神殿税)を課していました。また、ローマ帝国による過酷な税の徴収に協力しているのです。民衆は窮乏生活を強いられたのです。不当な支配と神様への冒涜に反発する人々は暴力に訴えて抵抗したのです。しかし、決死の行動もローマ軍の圧倒的な力の前に鎮圧されたのです。指導者たちは民衆を抑圧する外国勢力と共に歩むことで自分たちの安寧(あんねい)と社会の秩序を維持したのです。ユダヤ人歴史家ヨセフスは「強盗が地方に横行し、戦争がもたらす被害と同じほどの傷を住民に与えている」と述べています(ユダヤ戦記I:304)。もっとも、近年の研究によると強盗は単なる物取りではないのです。社会的な要求の具体化を求める行動であったのです。用いた方法に問題があったとしても、ローマ帝国の総督(地方政府)や裕福なユダヤ人土地所有者たち-その多くは祭司-の圧政と搾取に抵抗する以外に生きる道はなかったのです。支配者側の弾圧も厳しく暴動(反乱)を企てた者たちには拷問と処刑が待っていたのです。「レギオン」による人格破壊はローマ軍の残虐性と非人間性と酷似(こくじ)しているのです。民衆の中には抵抗闘争の行き詰まりが信仰と道徳心の欠如に対する神様の罰として考える人も少なくなかったのです。自分たちの罪を厳しく責めたのです。無力感に打ちひしがれていたのです。イエス様はベールに包みながらも「レギオン」に取り憑かれた男性とイスラエルの現状を重ね合わされたのです。落胆せずに「神の国」の建設に参画するように励まされたのです。


*イエス様は社会の中で最も小さい人々-貧しい人々や虐げられた人々-に視線を向けられたのです。民衆は苦難の原因を誤解して(誤解させられて)いるのです。昔の預言者たちは王たちが「神様の御心」に反して外国の勢力と共謀したことを非難したのです。イエス様もローマ帝国によるイスラエルへの過酷な支配とユダヤ人指導者たちの不信仰を告発されたのです。人々の窮状が犯した罪に対する神様の罰ではないのです。「神様の正義」を軽んじる権力者たちがもたらした結果なのです。イエス様は権力者に対する厳しい姿勢を死に至るまで貫かれたのです。四福音書が詳細に伝えているのです。イエス様は預言者エリヤを引用して「神様の名」を騙(かた)る指導者たちの真の姿を暴露されたのです(マタイ17:12-13)。ファリサイ派の人々や律法学者たちの偽善と腐敗が鮮明になったのです。律法の中で最も大切な正義、慈悲、誠実がないがしろにしているのです。これらの人に「災い」(天罰)を宣告されたのです(マタイ23)。エルサレム神殿の境内から実力によって両替人や商売人たちを追い出されたのです。預言者エレミヤの言葉によって神殿が強盗の巣になっていることを激しく非難されたのです(マルコ11:15-17)。ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスを恐れずに「あの狐」(蔑称)と呼ばれたのです(ルカ13:32)。最高の権力者であるローマの総督ポンティオ・ピラトに「神の子」として堂々と対峙(たいじ)されたのです(ヨハネ18:33-37)。「神様の御心」に沿って生き、十字架上で処刑されたのです。

*イエス様の悪魔払いには用意周到な戦略が隠されているのです。男性は汚れた霊「レギオン」に支配されていたのです。イスラエルは当時ローマ帝国が派遣した軍(レギオン)の統制下にあったのです。この厳然とした事実が忘れられているのです。今日においても状況は変わらないのです。「知的信仰」の大きな要因になっているのです。「神の国」の福音が限定されてはならないのです。「罪からの救い」に留まらないのです。「全的な救い」として実現するのです。汚れた霊の追放を通して民衆を苦しめているのは神様ではなく、人々を支配しているローマ帝国と当局に恭順するユダヤ人指導者たちであることが明らかにされたのです。民衆は悲惨な現状の背景にある真の原因を知ることによって罪の意識の呪縛(じゅばく)から解放されるのです。生活の窮状は支配者たちが主張するように民衆の怠惰(たいだ)や無責任、無能に起因しているのではないのです。権力者たちの果てしない欲と不信仰が生み出したものなのです。汚れた霊に取りつかれた人が異邦人であっても本質は同じなのです。「神の国」の定義が歪(ゆが)められているのです。罪の範囲が恣意的(しいてき)に縮小されているのです。「神様の御心」から離れていることが罪なのです。正義と公平の実現に無関心なこと、隣人愛の実践を怠(おこた)っていることが罪なのです。イエス様は言葉と行いによって模範を示し、ご自身に倣(なら)うように命じられたのです。「神の国」の福音は「個人の救い」で完了しないのです。立ち直った人々にはそれぞれの経験を証しする責務があるのです。

2023年11月26日

「完全な者となりなさい」

聖書の個所(Bible Reading) マタイによる福音書5章38節から48節 


「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」


(注)


・『目には目を、歯には歯を』:


■「もし、その他の損傷があるならば、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。 」(出エジプト記21:23-25)


・『隣人を愛し、敵を憎め』:


■「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」(レビ記19:18)


■「どうか神よ、逆らう者を打ち滅ぼしてください。わたしを離れよ、流血を謀る者。たくらみをもって御名を唱え/あなたの町々をむなしくしてしまう者。主よ、あなたを憎む者をわたしも憎み/あなたに立ち向かう者を忌むべきものとし 激しい憎しみをもって彼らを憎み/彼らをわたしの敵とします。 (詩篇139:19-22)

・完全な者:神様の戒めを守り、主を愛し、隣人を愛し、道徳的にも正しい生活をするのです(レビ記19)。また、自分の持ち物を売り払い、貧しい人々に施し、イエス様に従うのです(マタイ19:21)。


・ミリオン:約1,480mです。


・イエス様と律法:


■わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義(正義)が律法学者やファリサイ派の人々の義(正義)にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。(マタイ5:17-20)


・イエス様と暴力(武力):


■イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団(レギオン)以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」 (マタイ26:47-54)


●十二軍団:ローマ軍の一軍団(レギオン)は6000人の歩兵と120人の騎馬兵で編成されています。

(メッセージの要旨)


*ファリサイ派の人々や律法学者たちは律法を厳格に守っているのです。人々にもそうするように教えているのです。ところが、言うだけで実行しないのです。しかも、恣意的(しいてき)に解釈を変更しているのです。イエス様は彼らを偽善者と呼ばれたのです。群衆や弟子たちの中にも律法の規定や預言者の言葉を軽んじている人々がいるのです。これらの人に警告されたのです。一方、誤解している人々には「神様の御心」を正しく理解するように促(うなが)されたのです。日本語訳聖書を通して福音が伝えられているのです。しかし、原語が正確に訳されていない例も見られるのです。イエス様の使命が曖昧(あいまい)になっているのです。「義」と訳されている言葉があります。倫理や道徳的側面が強調されているのです。「義」とは個人的な敬虔(けいけん)さだけではないのです。社会・政治・経済活動の基本となる「正義」のことなのです。「義」を「正義」に読み替えると聖書の意味が一層明確になるのです。「神の国」の福音は個人の「罪からの救い」に留まらないのです。社会の「全的な解放」として実現するのです。信仰理解の不一致が見られるのです。イエス様は「完全な者となりなさい」と言われました。原点に戻って「神様の御心」を確認するのです。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19:18)、「あなたは袋に大小二つの重りを入れておいてはならない」(申命記25:13)などを実行するのです。また「過って人を殺したものは誰でも逃れの町に逃げることが出来る」の規定に従うのです(民数記35:15)。


*イエス様は「神様の御心」に沿って律法の解釈を変更されるのです。「目には目を、歯には歯を」が復讐の正当性の根拠になっているのです。しかし、制定の趣旨を忘れてはならないのです。目や歯に損傷を受けた人は当然怒るのです。激高して傷つけた相手を殺すことがあったのです。過度の復讐を抑制するように命じられたのです。戒めの背景には神様の深い配慮があるのです。イエス様は「わたしが来たのは律法や預言者を・・廃止するためではなく、完成するためである」と言われました。ファリサイ派の人々や律法学者たちは律法を教条主義的に人々の日常生活に適用したのです。イエス様は律法を通して「神様の愛」を語られたのです。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のあるのではない」と明言されたのです(マルコ2:27)。神様は人間を徹底的に愛されたのです。一方「正義の順守」を一人も滅びないための要件とされたのです。「悪人に手向かってはならない」は「悪と闘わないこと」ではないのです。個人の行動基準であるかのように誤解されているのです。政治・経済・社会への関わり方の指針になっているのです。「信仰の名」によって抑圧や不正の下で喘(あえ)いでいる人々に現状容認を強いているのです。ただ忍耐して「神様の介入」を待つだけなのです。しかし、神様はアブラハムに「正義の実行」を命じておられます(創世記18:19)。イエス様は「義(正義)に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる」と言われたのです(マタイ5:6)。これらのお言葉にキリスト信仰の真髄があるのです。


*キリスト信仰が誤って伝えられているのです。最大の原因は御言葉が当時の社会状況と無関係に解釈されていることにあるのです。「正義」の重要性に言及しない「愛の勧め」として語られているのです。民衆はローマ帝国とその支配に協力するユダヤ人指導者たちによって苦しめられているのです。人間の尊厳さえも奪われているのです。イエス様は「神様の御心」を実現するために貧しい人々や虐げられた人々の友となられたのです。一方では、これらの人を抑圧し、搾取する権力者(指導者)たちと激しく対峙(たいじ)されたのです(ルカ13:31-32)。この姿勢を十字架の死に至るまで貫かれたのです。いずれのご指示も「無限の赦し」ではないのです。力が圧倒的に上回る相手の不当性を告発していることに変わりはないのです。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」は暴力や不正に耐えて愛を示すことではないのです。当時の慣習を知れば本当の意味が分かるのです。ユダヤ人たちは決して左手を使わないのです。左手は汚(けが)れているからです。相手の右の頬を打つためには打つ方は右手の甲で打たなければならないのです。打つ力は平手打ちよりも弱いのです。力で圧倒するというよりも屈辱を与えて精神的に支配しようとしているのです。打たれた人は頭を垂れ、無言で耐えるだけなのです。ところが、左の頬を向ければ状況は一変するのです。打たれた人は自分にも意志があることを示したのです。打った人に自分の非人間性に気づかせる機会を与えたのです。両者の間にこれまでにない緊張が生まれるのです。


*「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」も「善意の勧め」ではないのです。貧しい人たちからすべての物を奪い取ろうとする金持ちたちの貪欲への非難なのです。裸になる覚悟を持って律法違反に抗議しているのです。貧しいユダヤ人たちは二つの服しか持っていないのです。上着と下着です。これらの人はローマ帝国が強いる過酷な税やイスラエルの神殿税によって困窮を極めているのです。生活費を補うために借金したのです。債務不履行になる人も少なくなかったのです。担保の土地や家屋は没収されたのです。神様の戒め「もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない」が守られていないのです(出エジプト記22:24)。下着を担保にしてお金を借りているとすれば、この人には担保となるものが他にないのです。神様は貧しい人々の窮状をご存じなのです。「もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである」と言われるのです(出エジプト記22:25-26)。富や権力を持っている人々は自分たちの利益を優先するのです。目的のために社会・経済・政治組織を総動員するのです。神様はそのような手法を決して容認されないのです。「正義」を軽んじる人々は厳しく罰せられるのです。

*歴史的背景を踏まえて「だれかが、1ミリオン行くように強いるなら、一緒に2ミリオン行きなさい」も理解する必要があるのです。イエス様はローマ帝国の支配下にあって苦役を強いられているユダヤ人たちに寛容、善意、勤勉を勧めておられるのではないのです。屈辱的な徴用命令に非暴力で抵抗するのです。ローマ軍の兵士にはユダヤ人たちに荷物を約1.5㎞運ばせることが認められているのです。重労働や極めて危険な仕事もあったのです。「そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた」という記述があります(マルコ15:21)。ユダヤ人にとって家族の前で異邦人から徴用されることは耐えがたい苦しみなのです。人間としての尊厳を守るために抗議するのです。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」が誤って解釈されているのです。悪人や不正を断じて容認しないのです。これらの人が悔い改めて神様の下に立ち帰ることを願う祈りなのです。すべての人を救おうとされる「神様の御心」にも適っているのです(ヨハネ3:16)。イエス様は安息日に会堂で礼拝し、祭りの時にはエルサレム神殿へ巡礼されたのです。律法と預言者たちの言葉を大切にされたのです。最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実行されたのです。弟子たちにもそうするように命じられたのです。キリスト信仰とは教義ではなく、イエス様の御跡を辿(たど)ることなのです。簡単な道ではないのです。完全な者となれるように全力を尽くすのです。

2023年11月19日

「最後の審判」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書25章31節から46節

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊(たち)と山羊(たち)を分けるように、彼らをより分け、羊(たち)を右に、山羊(たち)を左に置く。そこで、王(人の子)は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たち(あなたがた)のために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たち(あなたがた)は、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王(人の子)は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこ(れら)の最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

それから、王(人の子)は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下(後援者)のために用意してある永遠の火に入れ。お前たち(あなたがた)は、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王(人の子)は答える。『はっきり言っておく。これらの最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者ども(これらの人々)は永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

(注)

・人の子:イエス様のことです。

・正しい人たち:ユダヤ人であれ、異邦人であれ「神様の御心」-正義、愛、平和の実現-に沿って生きている人々のことです。

・最も小さい者たち:イエス様を救い主として信じ「神の国」の建設に取り組んでいる人々、あるいは社会の底辺に追いやられて苦しんでいる人々のことです。

■あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、こ(れら)の小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。(マタイ10:40-42)

・正義と公平:イエス様も「神様の御心」を貫かれたのです。

■主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人(抑圧された人々)に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人(た人々)には自由を/つながれている(人たち)には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫(かし)の木と呼ばれる。彼らはとこしえの廃虚を建て直し/古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。(イザヤ書61:1-4)

■主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者(強奪されている人々)を虐げる者(抑圧者たち)の手から救え。寄留の外国人(たち)、孤児(たち)、寡婦(たち)を苦しめ(暴力を振るって)、虐げてはならない。またこの地で、無実(の人)の血を流してはならない。(エレミヤ書22:3)


■わたしは失われたもの(たち)を尋ね求め、追われたもの(たち)を連れ戻し、傷ついたもの(たち)を包み、弱ったもの(たち)を強くする。しかし、肥えたもの(たち)と強いもの(たち)を滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。お前たち(あなたがた)、わたしの群れよ。主なる神はこう言われる。わたしは羊(たち)と羊(たち)、雄羊(たち)と雄山羊(たち)との間を裁く。お前たち(あなたがた)は良い牧草地で養われていながら、牧草の残りを足で踏み荒らし、自分たちは澄んだ水を飲みながら、残りを足でかき回すことは、小さいことだろうか。わたしの群れは、お前たち(あなたがた)が足で踏み荒らした草を食べ、足でかき回した水を飲んでいる。それゆえ、主なる神は彼らにこう言われる。わたし自身が、肥えた羊(たち)とやせた羊(たち)の間を裁く。お前たち(あなたがた)は、脇腹と肩ですべての弱いものを押しのけ、角で突き飛ばし、ついには外へ追いやった。しかし、わたしはわが群れを救い、二度と略奪にさらされないようにする。そして、羊(たち)と羊(たち)との間を裁く(エゼキエル書34:16-22)。

・ノアの洪水:人々は洪水になる前食べたたり飲んだりしていました、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気が付かなかったのです。創世記6章-8章をお読み下さい。

 

「最後の審判」November10, 2023


(メッセージの要旨)

*イエス様は直前に終末の徴(しるし)、大きな苦難、様々な「たとえ」によって再臨の日の備えの必要性を語られたのです。将来に起こる出来事を弟子たちに前もって教えられたのです。すべての国の民が裁かれることを宣言されたのです。初代教会の信徒たちは再臨が自分たちの時代に起こるものと考えていました。しかし、2000年の時を経た現在においてもイエス様の再臨は起こっていないのです。再臨が遅いのは神様の深い愛と憐れみの表れなのです。神様はすべての人が救いに与れるように「最後の審判」を遅らせておられるのです。イエス様は再臨の出来事をノアの時代にたとえておられます。人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。洪水が襲って来て一人残らず取り去るまで洪水に気づかなかったのです。誰にもその時は知らされていないのです。父なる神様だけがご存じなのです。イエス様は再臨に備えて「目を覚ましていなさい」と言われるのです(マタイ24:42)。イエス様を信じることは「永遠の命」に至る道なのです(ヨハネ3:16)。それと共に「神様の御心の実現」という責務を担うことなのです。イエス様は最も大切な戒めを挙げられました。第一は「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」、第二は「隣人を自分のように愛しなさい」です(マルコ12:29-31)。しかし、時代を経るに従って信仰理解が不正確になるのです。キリスト信仰が「罪からの救い」に変容されているのです。確かなことは「神の国」の建設に取り組んだ人々が「救い」に与るのです。

*イエス様が再臨し栄光の座に着かれる時、すべての人がそれぞれの「行い」に従って裁かれるのです。「神様の御心」に沿って生きたかどうかが問われるのです。判断基準は明確です。最も重要な戒めを実行したかどうかによるのです。最も小さい者たち-貧しい人々や虐げられた人々-が様々な困難に遭遇している時、これらの人を励まし、支え、助けた人々に「永遠の命」は与えられるのです。一方、隣人を愛することのなかった人々には「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」と言われるのです。「信仰による救い」や「愛と赦し」に慣れ親しんでいるキリストの信徒たちはイエス様の厳しいお言葉に驚くのです。キリスト信仰が「罪からの救い」として語られているのです。しかし、それだけでは「神の国」の福音の全体を説明したことにはならないのです。「信仰による救い」は「行い」を必要としないということではないのです。信仰と「行い」は表裏一体なのです。隣人愛-善い行い-を欠いた信仰には力がないのです。兄弟・姉妹が着る物もなく、食べ物にも困っている時、慰めの言葉だけで体に必要な物を与えないような人の信仰は死んでいるのです(ヤコブ2:15-17)。イエス様は宣教の第一声で「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたのです(マルコ1:15)。ユダヤ人たちに「救いの道」を示されたのです。信仰を誇るキリストの信徒たちに「悔い改め」が求められているのです。イエス様のお言葉を軽んじてはならないのです。原点に戻るのです。

*「神の国」の福音と「行い」のない信仰は相容れないのです。神様から頂いた「救い」は安価な恵みではないのです。イエス様は「たとえ」を用いて説明されるのです(マタイ25章)。「十人のおとめ(従者)」においては、賢い五人のおとめだけが備えの油を用意したのです。真夜中に到着した花婿を迎えることが出来たのです。「タラントン」においては、三人の内二人の忠実な良い僕は主人から預かったお金をそれぞれの能力に応じて増やしたのです。キリストの信徒たちには使命が与えられているのです。怠惰(たいだ)な信徒たちに警鐘を鳴らしておられるのです。イエス様は復活された後11人の弟子たちに 「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言われました(マタイ28:19)。イエス様から権能を与えられた十二人は「神の国」の福音を宣べ伝え、ただで病人たちを癒し、死者たちを生き返らせ、重い皮膚病を患っている人々を清くし、悪霊たちを追い払ったのです。「信仰による救い」は「信じること」によって完結しないのです。信じて「終わりの日」を待っていれば必然的に「神の国」に迎えられるということではないのです。キリスト信仰とはイエス様に倣(なら)う「生き方」のことなのです。キリスト信仰を標榜(ひょうぼう)する人々はイエス様が歩まれた道を辿(たど)るのです。弟子たちのように「神の国」の建設と福音宣教に全力を注ぐのです。それは決して平坦な道ではないのです。様々な困難と迫害に遭遇するのです。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われるのです。イエス様のお約束なのです。

*「神の国」の福音が「愛と赦し」に縮小されているのです。旧・新約聖書が伝えているように、神様はイスラエルの民に「祝福の条件」として正義の道を歩むように命じられたのです(創世記18:19)。イエス様も「何よりもまず、神の国(神様の支配と)と神の義(神様の正義)を求めなさい」と言われたのです(マタイ6:33)。ところが、これらの根本理念は曖昧(あいまい)にされているのです。政治的なニュアンスの強い正義や平和の教えが恣意的(しいてき)に変更されているのです。しかし、このような信仰理解は現状を無批判的に肯定する政治姿勢に他ならないのです。キリスト信仰が「心の在り方」として語られているのです。イエス様が生と死と復活を通して証しされた「神の国」のメッセージ-人間の全的な救い-に明らかに反しているのです。「神の国」の福音はこの世の政治や経済、社会秩序の変革と深く関わっているのです。今日の聖書の個所は「神の国」の福音を自分の都合に合わせて歪曲(わいきょく)している人々への警告なのです。「最も小さい者たち」とは何らかの困難な状況に直面している人々のことです。ところが、これらの人に関心を持っているキリストの信徒たちは必ずしも多くないのです。しかも、その事実を罪として認識している人はさらに少ないのです。罪が個人の道徳的、倫理的な範疇(はんちゅう)に限定されているからです。「聖書に忠実である」という言葉がよく聞かれるのです。その人の「行い」もいずれ検証されるのです。社会の底辺で苦しんでいる人々に仕えなければ「救い」は訪れないのです。

*「最後の審判」の様子が描かれています。イエス様は神様から委ねられた権威によってすべての人を裁かれるのです。これまでにも「判断基準」が示されているのです。不正に憤(いきどお)ってエルサレム神殿の境内で両替人の台や鳩業者の腰掛をひっくり返されたのです(マルコ11:15)。神殿政治の中枢にいる指導者たちの不信仰と偽善を厳しく非難されたのです(マタイ23:1-36)。肝に銘じるのです。一方、人が人を裁くことは許されないのです。イエス様は姦淫の罪を犯した女性を石打ちの刑から解放されたのです(ヨハネ8:3-11)。十字架上では犯罪人の一人の罪を赦して「今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われたのです(ルカ23:43)。真剣に受け止めるのです。NHCR(国連難民高等弁務官事務所)協会のニュースレター10月号によるとロシアがウクライナに侵攻した2022年の末で紛争や迫害により避難を強いられた人は1億840万人に達しているのです。10月7日にはパレスティナ暫定自治区のカザを実行支配するイスラム組織ハマスが突如イスラエルへの攻撃を開始したのです。イスラエル側も激しい空爆で応酬し双方の死者は1万人を超えているのです。キリストの信徒たちはイエス様の教えを想起するのです。これらの人のために自分に出来ることを実行するのです。旧・新約聖書の巻末にあるヨハネの黙示録は「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報い(褒美)を携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる 」で締め括(くく)られています(22:12)。「神様と隣人」を愛して生きるのです。

2023年11月12日

「視点を移しなさい」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書14章7節から24節

イエスは、招待を受けた客(たち)が(何とかして)上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなた(がた)よりも身分の高い人が招かれており、あなた(がた)やその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなた(がた)は恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなた(がた)を招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人(たち)も、兄弟(たち)も、親類(たち)も、近所の金持ち(たち)も呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人(人々)、体の不自由な人(人々)、足の不自由な人(人々)、目の見えない人(人々)を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕(奴隷)を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。 僕(奴隷)は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕(奴隷)に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人(人々)、体の不自由な人(人々)、目の見えない人(人々)、足の不自由な人(人々)をここに連れて来なさい。』やがて、僕(奴隷)が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」


(注)

・ファリサイ派:律法や昔の人の言い伝えを厳格に日常生活に適用しているユダヤ人のグループです。例えば、衛生の観点よりも宗教上の理由-汚(けが)れを取り除くこと-から食事の前に必ず手を洗ったのです。自分たちの都合に合わせて諸規定の解釈を変更したのです。マタイ15:1-20を参照して下さい。イエス様は彼らの不信仰を厳しく非難されたのです。

・律法学者:文書を司(つかさど)る官僚です。律法に精通する学者でもありま
した。

・謙遜(けんそん)の勧め:旧約聖書の言葉から

■王の前でうぬぼれるな。身分の高い人々の場に立とうとするな。高貴な人の前で下座に落とされるよりも/上座に着くようにと言われる方がよい。(箴言25:6-7)

・宴会:天上における「祝いの席」です。

・罪人の定義:ローマ帝国に協力する徴税人たち、身体や精神に障害を持つ人々、不道徳な女性たち、律法を順守しない人々(献金をしない貧しい人々)、サマリア人たちや異邦人たちと交際する人々などが挙げられます。

・通りや小道:イエスラエルの外を表しています。そこに住む人々は異邦人と呼ばれたのです。

・正義と愛の神様:

■アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。(創世記18:18-19)

■律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ(災いあれ)。薄荷(はっか)、いのんど、茴香(ういきょう)の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉(こ)して除くが、らくだは飲み込んでいる。(マタイ23:23-24)

●薄荷、いのんど、茴香は最も小さなハーブです。ぶよは汚れた昆虫です。らくだも汚れた動物なのです。

・神の国(天の国):死後に行く天国のことではありません。神様の支配、神様の主権のことです。神様が人間の心と社会の隅々において崇められ、すべての価値基準になることです。キリスト信仰を標榜(ひょうぼう)する人々は「神の国」の建設に参画するのです。「神様と隣人」を愛し、正義と平和を実現するのです。

(メッセージの要旨)

*イエス様はファリサイ派に属する有力な議員(指導者)の一人から食事に招かれたのです。これまでも敵対するファリサイ派の人々から招待を受けておられるのです。いずれも断られなかったのです。罪の赦し(ルカ7:36-50)や正義の実行と神様への愛(ルカ11:37-54)を教える機会にしようと思われたのです。宴席で招待を受けた人々が上席を選ぶ様子を見て謙遜について話をされたのです。神様を信じる人々にとって大切な属性(性質)であるからです。ただ、謙遜が「心のあり方」として理解されているのです。イエス様が語られた意味はもっと広く、深いのです。しかも、具体的です。「神様の御心」を実現することなのです。イエス様を通して「神の国」が到来しているのです。罪人の烙印を押されて社会から排斥(はいせき)された人々に福音が告げ知らされているのです。「神の国」に貧しい人々や心身に障害のある人々が優先的に招かれているのです。ファリサイ派の議員や律法学者たちは「永遠の命」に与るために律法を厳格に守っているのです。イエス様は招待者や同席の人々に「視点を移すこと」を促(うなが)されたのです。キリストの信徒たちも信仰によって「救い」を確信しているのです。しかし、イエス様は悔い改めを求められたのです。「救い」は安価な恵みではないのです。人は信仰だけでは「救い」を得られないのです。良い行いが伴わなければならないのです(ヤコブ2:17)。「生き方」が「神様の御心」に適(かな)っていることが決定的に重要なのです。謙遜とは自分を捨てて神様に従うことなのです。

*指導者たちは律法を厳格に守ることによって「救い」が得られると信じているのです。人々にもそれを守るように教えているのです。ところが、自分たちは神様への愛をおろそかにし、正義を軽んじているのです。見せるために信仰心を装うのです。食事の席ではあたかもそれに相応しい人物のように上席に着こうとするのです。人間の評価を最大の価値基準としているのです。神様は人の心を御覧になるのです。「神の国」においては正義、慈悲、誠実が最も重要なのです。人間が尊ぶもの-地位や富など-を忌(い)み嫌われるのです(ルカ16:15)。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められるのです。心を入れ替えて子供のようにならなければ-貧しい人々や虐げられた人々の側に立たなければ-「神の国」に入ることは出来ないのです(マタイ18:1-5)。最終的には裁きを委ねられたイエス様が判断されるのです(ヨハネ5:21-22)。招待者は親戚、同僚の議員や金持ちの友人たちとは親しく交際しているのです。ところが、貧しい人々、体の不自由な人々、目の見えない人々などは視野の外においているのです。律法を知らない罪人として排斥しているからです(ヨハネ7:49)。イエス様は指導者たちに「福音の真理」を示して警告されたのです。心からの悔い改めを求められたのです。ファリサイ派の議員や同席している人々がイエス様のお言葉をどのように受け止めたかについては分からないのです。イエス様は何とかして一人でも救おうとされているのです。キリストの信徒たちもイエス様の宣教姿勢から学ぶのです。

*「神の国」の本質を理解していないファリサイ派の人々や律法学者たちこそ医者を必要とする病人(罪人)なのです(マルコ2:17)。傲慢な人々や偽善者たちは「神の国」に入れないのです。まだ、間に合うのです。悔い改めて神様と隣人への愛を実行するのです。人の上に立つのではなく、人に仕えるのです。蔑(さげす)んできた罪人たちと共に歩むのです。視点を移すことは自己否定でもあるのです。勇気と決断がいるのです。キリスト信仰が誤解されているのです。「神の国」に招かれた人々がすべて「永遠の命」に与るとは限らないのです。終わりの日‐イエス様の再臨の日‐まで正しい信仰を保ち続けることが不可欠なのです。ユダヤ人にとって「天上の祝いの席」に座ることは当然です。それは神様のお約束だからです。宴会の招待に応じるか否かは深刻な問題ではないのです。最初の人の辞退の理由は「畑を買ったので、見に行かねばなりません」でした。農民にとって土地は自分の命に匹敵する貴重な財産です。購入した土地を適切に管理しなければたちまち生活に影響するのです。次の人も「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです」と言ったのです。牛の組み合わせやそれぞれの耐久力を試すことは重要な仕事です。いずれの人も作業と宴会の日程を調整することは可能なのです。しかし、その努力を惜(お)しんだのです。別の人は「妻を迎えたばかりなので、行くことが出来ません」と断ったのです。申し出は律法に適っているのです(申命記24:5)。楽しみを譲ってまで主人の招待に応じる忠誠心はなかったのです。

*イエス様は狭い戸口から入るようにと言われました。「神の国」に迎えられるためには「神様の御心」に沿って生きた証しが必要です。神様の正義と愛を実践しなければならないのです。一緒に食べたり飲んだりしたこと、広場で教えを受けたことは何の保証にもならないのです(ルカ13:22-30)。意外なことにファリサイ派の議員の中にはイエス様を信じている人も多かったのです。ただ、ほとんどの人は信仰を公にしなかったのです。イエス様に敵対するファリサイ派に属していることも理由の一つです。何よりも、信仰を告白して会堂(信仰共同体)から追放されること-議員資格の剥奪(はくだつ)や財産の没収など-を恐れていたのです。結局、神様からの誉れよりも人間からの誉れの方を選んだのです(ヨハネ12:42-43)。このファリサイ派の議員は大胆にもイエス様を食事に招いているのです。同席の一人もイエス様に好意的に応答しています。しかし、社会的地位の高い人が「神の国」の到来を認めることは容易ではないのです。一方、信仰を明確にした人々もいるのです。ファリサイ派の議員ニコデモは公の席でイエス様を弁護して「・・本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ判決を下してはならない・・」と言ったのです(ヨハネ7:50-51)。「神の国」を待ち望んでいた議員のアリマタヤのヨセフはニコデモと共にイエス様を埋葬(まいそう)したのです(ヨハネ19:38-42)。イエス様は律法学者の信仰心を認めて「あなたは神の国から遠くない」と言われたのです(マルコ12:28-34)。

*ファリサイ派の人々や律法学者たちの多くはイエス様に激しく敵対しているのです。ところが、イエス様のお言葉に耳を傾ける人たちも少なからずいるのです。イエス様は食事の席で「天上の祝いの席」に例えて警鐘を鳴らされたのです。社会的地位、財産の有無、律法の厳格な順守が宴会に招待される要件にはならないのです。預言者イザヤの言葉にあるように、先ず「神の国」の福音は貧しい人々、絶望している人々、捕らわれている人々、抑圧されている人々に告げられるのです(イザヤ書61:1)。ユダヤ人たちから蔑(さげす)まれた異邦人たちにも届けられるのです。指導者たちを含むすべての人に招待状は送られたのです。そこには「悔い改めて宴会に出席する人に永遠の命が与えられる」と書いてあるのです。信仰を自負する人々は興味を示さなかったのです。貧しさと抑圧、差別と排斥に苦しむ人々に招待を断る理由はないのです。これらの人は福音をそのまま受け入れたのです。神様はイスラエルの民に正義と公平を実行するように命じられました(創世記18:19)。イエス様も弟子たちに「・・主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と言われたのです(ヨハネ13:14)。「神の国」においては神様が崇められ、すべての基準になられるのです。神様の戒めとイエス様の教えを再確認するのです。「自分の救い」にのみ心を砕くのではなく「神様の御心」を実現するために全力で奉仕するのです。イエス様がお約束通り「天上の祝いの席」に招いて下さるのです。

2023年11月05日

「ぶどう園主の強欲と偽善」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書20章1節から16節


「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者(たち)を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で(に合意した)、労働者(たち)をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中(労働者たち)は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中(彼ら)とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

(注)


・「家の主人」は土地所有者あるいは地主、「この連中」は労働者たちと訳されるべき言葉です。雇い主が正しく、労働者たちが間違っているという訳者の先入観を反映しているのです。他の聖書の訳と比較して下さい。

・労働者たち:元々、多くは農民でしたが借金を返済できずに担保の土地を失い労働者となった人々です。高利貸しには祭司たちもいたのです。彼らは毎日早朝から仕事を求めて一定の場所で雇い主たちが来るのを待ったのです。

・友よ:友達のように訳されていますが、実際は情愛のこもった表現ではありません。仲間のような少し距離を置いたニュアンスの言葉です。イエス様がご自身を逮捕するために群衆(ローマ兵を含む)と共にやって来たイスカリオテのユダに対して使われた言葉と同じです。マタイ26:50を参照して下さい。

・一デナリオン:ローマ帝国内に流通する銀貨です。当時の平均的労働者の一日分の賃金に相当します。家族を養うためには十分な賃金ではないのです。

・聖書を正しく理解するためには当時の社会・政治・経済状況を常に念頭に置くことが不可欠です。キリスト信仰の根本理念は正義と愛にあるのです。「神の国」の福音として宣教されているのです。ところが、「最大の悲劇は善良な人々が悪に沈黙していること」(キング牧師の言葉)なのです。

■寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。・・貧しい者(たち)に金を貸す場合は・・高利貸しのように・・利子を取ってはならない。・・隣人の上着を質に取る場合には、日没までに返さねばならない。(出エジプト記22:20-26)


■あなた(がた)は隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを(自分の都合で)翌朝まで延ばしてはならない。(レビ記19:13)


■あなたたちは、不正な物差し、秤、升を用いてはならない。正しい天秤、正しい重り、正しい升、正しい容器を用いなさい。わたしは、あなたたちをエジプトの国から導き出したあなたたちの神、主である。わたしのすべての掟、すべての法を守り、それを行いなさい。わたしは主である。(レビ記19:35-37)

・後にいる者が先になり、先にいる者が後になる:

「神の国」(天の国)においてはこの世の地位が逆転するのです。イエス様は次のように言われました。

■貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。-「平地の説教」からの抜粋-(ルカ6:20-26)

■自分を低くして、この子供のようになる人が天の国ではいちばん偉いのだ(マタイ18:4)。

■わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。(マタイ19:29)

(メッセージの要旨)

*当該聖書の個所を正確に理解するためには前後の章を併せて読むことが不可欠です。直前にイエス様と金持ちの青年とのやり取りが記されています。青年は戒め「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、さらに、隣人を自分のように愛しなさい」を守って来たのです。ところが「永遠の命」の確信が得られなかったのです。「何をすればいいのでしょうか」と尋ねたのです。イエス様は「持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。それから、わたしに従いなさい」と命じられたのです。直後にはヤコブとヨハネの母がイエス様に「玉座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人をあなたの右にもう一人を左に座れるとおっしゃってください」と願い出たのです。イエス様は「異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人(専制君主)たち権力を振るっている。しかし、あなたがたの間ではそうであってはならない。・・あなたがたは皆の僕になりなさい」と言われたのです。こうした文脈の中でたとえ話は語られたのです。イエス様の教えを聞くために集まって来た群衆の中には土地を失った(奪われた)農夫や何も持たない小作人たちが多くいました。毎日仕事を求めて広場に出かけ、見つかるまでそこに立っていたのです。運よく仕事に就(つ)いたとしても、賃金の額まで交渉することはないのです。労働者たちは一方的に提示された労働条件を受け入れるだけなのです。イエス様はぶどう園主の強欲と偽善を非難し、労働者たちの抗議の正当性を認められたのです。貧しい人々や苦難に喘(あえ)ぐ人々に勇気と希望を与えられたのです。

*イエス様は弟子たちに「先ず、神の国(神様の支配)と神の義(神様の正義)を求めなさい」と言われました(マタイ6:33)。地主は必要な労働者を確保するために奔走(ほんそう)するのです。広場とぶどう園を何度も行き来したのです。たくさんのぶどう園を所有していたことが推測されるのです。「家の主人」のように家族的な雰囲気を醸(かも)し出す日本語訳は貪欲な地主であることを曖昧(あいまい)にするのです。イエス様は「天の国」の本質を説明するためにたとえ話を語られたのです。金持ちの地主は広場に集まっている労働者たちと交渉しています。一日一デナリオンの賃金を支払うことに合意した労働者たちをぶどう園に送ったのです。「合意した」という言葉も誤解を招くのです。両者が対等であるかのような印象を与えるからです。実際は地主の圧倒的な優位の下で決定されているからです。一デナリオンはかろうじて成人男性の必要を満たすのです。しかし、自分と家族を養うための賃金としては不十分なのです。理由が何であれそのような賃金は不当なのです。それは経済的な暴力なのです。本来、労働者は不当な賃金で働くことなどに同意しないのです。他に選択肢がないので地主の意向を無条件で受け入れるのです。採用されることを優先しなければならないからです。地主は労働者が持っている弱さを熟知しているのです。利益を損なわない範囲では善意さえ示すのです。用いた手法は巧妙です。労働者の間を分断し、相互に対立させ、真実を見えなくさせているのです。イエス様は平地の説教の視点を再確認させられたのです。

*労働者に生産手段が残っていれば広場に仕事を求めて行くこともなかったのです。借金の担保になっていた土地の所有権はすでに債権者へ移っているのです。生きて行くためには働かなければならないのです。必死でその日の仕事を探したのです。同じような状況にある労働者間の競争も激しいのです。賃金のことまで考える余裕はなかったのです。雇い主と労働者の間には明白な力の差があるのです。一方には「ぶどう園」があり、他方には「労働力」しかないのです。雇い主は利益を最大限に追求するのです。労働者は「労働力」を高く売りつけようとするのです。ぶどう園主は労働者が団結することを最も嫌うのです。個別に交渉して賃金を値切ろうとするのです。意思統一させないように様々な方策を講じるのです。その一つが事実を歪曲(わいきょく)することです。仕事を求めて広場にいる労働者たちに「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と尋ねているのです。仕事探しの原因があたかも労働者の側にあるかのように断定するのです。怠(なま)けて土地を失ったかのように自己責任を強調しているのです。ぶどう園主のような金持ちの強欲と偽善の犠牲者であることに気づかせないようにしているのです。労働者たちの視線が見えるところの背後にある真実に向かうことを恐れているのです。自然界には万有引力の法則があるのです。社会の経済活動にも法則があるのです。富は土地やお金(資本)を持っている資本家たちに集まるのです。「労働力」しか持たない労働者は団結して蓄積された富の再分配を求めるのです。これは正しいのです。

*労働者たちの最初のグループはまる一日、暑い中を辛抱して働きました。雇い主はずっと少ない時間しか働かなかった労働者たちにも同じ賃金を支払ったのです。不公平を訴える労働者の一人に「あなたに不当なことをしていない」と言うのです。労働者の切実な声に耳を傾け、待遇の改善に取り組む姿勢は見られないのです。「同一労働同一賃金」が平等の原則なのです。内実を伴わない平等は不平等なのです。夕方の五時から一時間働いた労働者の賃金が1デナリオンであれば、逆算して正午から働いた労働者には6デナリオン、早朝(午前六時)から働いた労働者には12デナリオンを支払うことが正しいのです。雇い主は気前の良さを自慢しているのです。それは見せかけなのです。自分の利益に一切手を付けていないからです。しかも、仕事を選べない労働者の窮状を考慮することなく「あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか」と非難するのです。「神様の御心」に沿った人物であるかどうかはその人の言動によって判断されるのです。雇い主はぶどう園に必要な労働者を早朝に一括して雇うことが出来たのです。しかし、そうはしていないのです。時間ごとに雇ってそれぞれの労働者に恩を着せているのです。「自分のものを自分のしたいようにしてはいけないか」において優位な立場を誇示するのです。傲慢の極(きわ)みです。労働者たちのために自分の利益を削減することはないのです。善意を装(よそお)っているだけなのです。すべて労働者を効率よく搾取するための方策の一つなのです。イエス様の教えとは全く相容れないのです。

*イエス様は貧しい人々と共に歩まれたのです。雇い主の言動が「神様の御心」に反していると言われるのです。ある労働者のグループを苛酷(かこく)に働かせるのです。反抗する者たちを力で押さえつけるのです。一方、見せかけの善意を施すのです。ある労働者たちの労働時間を短縮するのです。それぞれの時刻に雇われた労働者の人数は分からないのです。一般的に、早朝六時にぶどう園に送られた労働者の数が最も多いのです。これらの人は暑い中を辛抱して12時間働いたのです。雇い主はすでに十分な収益を確保しているのです。しかし、労働者たちの訴えに真摯(しんし)に応えるために自分を犠牲にすることはなかったのです。隣人に対する姿勢がその人の「救い」を決定するのです(マタイ25:41-46)。雇い主の言動は正義と愛を大切にされる「神様の御心」に合致しないのです。富と権力によって労働者たちを支配しているのです。形式的な平等によって不平等を助長しているのです。労働者たちは恣意的(しいてき)に対立させられているのです。自分の利益を最大限に追求するためには手段を選ばないのです。キリスト信仰において「愛と赦し」が強調されるのです。ところが「正義と公平」に言及されることは極めて少ないのです。たとえ話は「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」で終わるのです。意味するところは明白です。信仰を誇っても空(むな)しいのです。イエス様が最終的に判断されるからです。最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実践するのです。評価は後に下されるのです。謙虚にお待ちするのです。

2023年10月29日

「空しくわたしを崇めている」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書7章1節から23節

ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』(イザヤ書29:13) あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、『父と母を敬え』(出エジプト記20:12)と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』(レビ記20:9)とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」

それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」<底本に節が欠けている個所の異本による訳文> 聞く耳のある者は聞きなさい。イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

(注)

・ファリサイ派:律法を日常生活に厳格に適用したユダヤ教の一派です。イエス様に敵対していました。

・律法学者:文書を管理する官僚です。律法に精通していました。イエス様と鋭く対立したのです。

・昔の人の言い伝え:長老たちが口述した慣習のことです。ファリサイ派の人々は律法と同等あるいはそれ以上に扱ったのです。

・預言者イザヤ:イザヤは南王国ユダ(エルサレム)の王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に預言者として登場しました(イザヤ書1:1)。神様は、イザヤを通して「むなしい捧げものを持ってくるな」、「・・悪を行うことをやめ、・・搾取する者を懲らしめ、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ。」と警告されたのです(イザヤ書1:10-17)。併せてアモス書5:21-24を参照して下さい。

・イエス様の使命:

■イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人(人々)に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣(つか)わされたのは、/捕らわれている人(人々)に解放を、/目の見えない人(人々)に視力の回復を告げ、/圧迫されている人(人々)を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(イザヤ書61:1-2) イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた(ルカ4:16-21)。

●主の恵みの年:あなた(たち)は安息の年を七回、すなわち七年を七度数えなさい。七を七倍した年は四十九年である。その年の第七の月の十日の贖罪日に、雄羊の角笛を鳴り響かせる。あなたたちは国中に角笛を吹き鳴らして、この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。・・・ヨベルの年には、おのおのその所有地の返却を受ける。(レビ記25:8-13)

*ヒトラー演説集I「私の新しい秩序」の英訳版(1941年)871-872

The national government will maintain and defend the foundations on which the power of our nation rests. It will offer strong protection to Christianity as the very basis of our collective morality. Today Christians stand at the head of our country. We want to fill our culture again with the Christian spirit. We want to burn out all the recent immoral developments in literature, in the theater, and in the press-in short, we want to burn out the poison of immorality which has entered into our whole life and culture as a result of liberal excess during recent years.

政府は我が国の力の原点を大切にし、その保持に努めます。我々の道徳性の土台であるキリスト教の普及に全力を注ぎます。今日、クリスチャンたちが先頭に立って我が国を導いています。我々の文化をキリスト教の精神で再び満たしたいのです。近年見られる文学や演劇、さらに出版物における倫理性の欠如という風潮を終わらせたいのです。要するに、ここ数年の行き過ぎた自由の結果として健全な生活と文化に入り込んだ不道徳という害毒を根絶したいのです。(私訳)

(メッセージの要旨)

*預言者イザヤの時代の後もイスラエルの指導者たちの不信仰と腐敗は連綿と続いたのです。神様は預言者エゼキエルを通して「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した」と言われたのです(エゼキエル書34:2-4)。ファリサイ派の人々や律法学者たちはモーセをユダヤ民族の偉大な指導者として認めているのです。モーセの座に着いて律法を人々に教えているのです。ところが、言うだけで実行しないのです。しかも、口述の規定を律法の上に置いているのです。自分たちの都合に合うように独自の解釈をして神様を軽んじているのです。「神様の御名」によって両親の世話をする義務からも免除するのです。実際は私腹を肥やしているのです。食事の前に手を洗うという規定はないのです。ただ、例外はあるのです(レビ記15:11)。清潔を保つことは衛生上必要です。指導者たちはイエス様の権威を貶(おとし)めるためにこの問題を取り上げているのです。当時、高齢者や両親の困窮に対する家族の無関心が顕著になっているのです。子どもや孫たちが寡婦(かふ)となった母親や祖母を大切にするように促(うなが)されているのです(1テモテ5:4)。口先で神様を敬う指導者たちの偽善が非難されているのです。

*ファリサイ派の人々や律法学者たちは昔から受け継いだ戒めを固く守っているのです。市場から帰ったときには異邦人‐律法を知らない罪人-たちと接触した可能性を恐れたのです。念入りに手から肘(ひじ)まで洗ってからでないと食事をしなかったのです。また、様々な器や寝台を丁寧(ていねい)に洗ったのです。彼らは外側を徹底的にきれいにしているのです。罪は人間の悪い思いから生まれるのです。道徳的、倫理的な範疇(はんちゅう)に留まらないのです。政治的、経済的分野などにも及んでいるのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちは律法が定める十分の一以上を捧げて信仰心の篤(あつ)さを誇るのです。ところが、律法の中で最も重要な正義の実行と神様への愛はおろそかにしているのです(ルカ11:42)。律法に関する豊富な知識や指導者としての権威と地位を悪用して、貧しいやもめたちを食い物にしているのです(マルコ12:40)。ユダヤ人歴史家ヨセフスは祭司たちが捧げ物(献金など)によって莫大な富を築いていることを記しています(ヨセフスの生涯63)。人間は見えるところによってしか判断できないのです。しかし、神様はすべてをご存じです。その人の心をご覧になられるからです(エレミヤ書32:39-40)。イエス様はファリサイ派の人々と律法学者たちに「あなたたち偽善者は不幸だ(に災いあれ)。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。・・まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる」と天罰を宣告されたのです(マタイ23:25-26)。

*名前を知らずに注にある演説を聞きますと、キリスト教の精神を社会に広めようとする演説者の熱い息吹が伝わって来るのです。クリスチャンの誰もが、ドイツにおいてキリスト教を最も重要な宗教として位置づけ、擁護する一人の政治家の信仰心に感銘するのです。しかし、また誰もが演説者の名前を聞いて驚くのです。演説者はユダヤ人などの虐殺を命じて民族浄化を進めたあのヒトラーなのです。本物と偽物のクリスチャンをどのようにして見分けることが出来るのでしょうか。イエス様は「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。・・」と言われたのです(ルカ6:43-44)。ファリサイ派の人々や律法学者たちのうわべだけの信仰心やキリスト信仰を支持するヒトラーの美辞麗句はそれぞれの果実によって偽善であることが明らかになるのです。いつの時代においても指導者たちの信仰心や政治信条は巧妙に脚色されているのです。本当の姿が見えにくいのです。日々の活動を絶えず検証してその人の実像に迫ることが必要なのです。人の心にある悪い思いは宗教的儀式によって清められるのではないのです。良い行いはその人が悔い改めたことを証明するのです。キリスト信仰が誤解されているのです。信仰とはイエス様を「信じること」ではないのです。信じてイエス様の御跡を「(たど)ること」なのです。イエス様は律法を要約して「神様を全身全霊で愛し、隣人を自分のように愛しなさい」と言われたのです(マルコ12:29-31)。お言葉を肝に銘じて実行するのです。

*アメリカの日曜日の朝のテレビ番組ではキリスト教各派の礼拝が生中継されています。伝統的な神学に依拠する教派もあれば独自の神学に基づく単立の教会(信徒数は数万人)もあります。いずれもキリスト信仰を標榜(ひょうぼう)しているのです。ただ、イエス・キリストの理解(神学)は様々です。イエス様が宣教された福音(良い知らせ)を歪(ゆが)めている教派もあるのです。その中に「繁栄の福音」(Prosperity Gospel)を教義としている教会(メガチャーチ)があります。パンフレットに「神様の子供たちが豊かな生活を得るために、不公平な富の分配様式を変える必要はないのです。あなたがたは自分たちを豊かにするするためにただ努力すればいいのです」(私訳)と書かれているのです。大邸宅の居間でインタビューに答えるこの派の説教者がTVに映し出されていました。この人もイエス様を霊的(個人的)に崇めているのです。しかし、イエス様がこの世の何に賛成し、何に反対されたのかについては無関心なのです。イエス様の生き方に倣(なら)うこともないのです。洋の東西を問わず指導者と呼ばれた人々がイエス様の教えや力ある業‐神の国の到来-の意味を変容しているのです。旧・新約聖書の大切な個所が恣意的(しいてき)に読み飛ばされているのです。憂(うれ)うべき時代を迎えているのです。このような時だからこそキリスト信仰の原点に戻るのです。イエス様はイザヤ書を引用してご自身の使命を宣言されたのです。貧しい人々や虐(しいた)げられた人々の側に立たれるのです。キリストの信徒たちはイエス様から学ぶのです。

*イエス様のご生涯を意図的に変更することや旧・新約聖書が伝える事実を曖昧(あいまい)にすることは罪です。社会正義のために何もしないことも罪です。社会の不正に加担することはもっと大きな罪なのです。イエス様はこれらの人に「その心は、わたしから遠く離れている」と言って、悔い改めを求められたのです。群衆が「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と尋ねたのです。イエス様は「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と答えられたのです(ヨハネ6:28-29)。「救い」の基準は明確です。イエス様が命じられたことに従うだけなのです。貧しい人々に食事を提供し、裸の人々に服を着せ、弱い人々を助け、抑圧や搾取に苦しむ人々と共に歩むことなのです(マタイ25:31-40)。そこには預言者たちや初代キリスト教会の信徒たちが経験したような苦難と労苦が待っているのです。富や権力の誘惑、迫害も尽きないのです。「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と祈るのです(マタイ6:13)。アメリカにおける福音派の中心的伝道者ビリーグラハムが晩年に「もし、自分にそのような時が再び与えられるとすれば、社会の不正に対してもっと強くありたい」(私訳)と言っています。キリストの信徒たちが忘れている重要な視点を想起させるのです。イエス様は神殿政治の中枢を担うファリサイ派の人々や律法学者たちの偽善と腐敗を告発されたのです。「神の国」の福音が「罪からの救い」に縮小されてはならないのです。社会の矛盾と真摯(しんし)に向き合うのです。

2023年10月22日

「求めなさい。・・与えられる」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書11章1節から13節

イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇(あが)められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧(かて)を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦(ゆる)してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭(あ)わせないでください。』」

また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

(注)

・ユダヤ人の祈り:ユダヤ人の成人男性はエルサレムに向かって毎日三回午前、午後、夕方に祈ったのです。食前と食後にも立ったまま、あるいは頭(こうべ)を垂れて祈るのです。

■ダニエルは・・家に帰るといつものとおり二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた。(ダニエル書6:11)

■今は朝の九時(祈りの時)ですから、この人たちは・・酒に酔っているのではありません。(使徒言行録2:15)

■ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。(使徒言行録3:1)

・旧約聖書の詩編:祈りと賛美の書と呼ばれています。

■立ち上がってください、主よ。神よ、御手を上げてください。貧しい人(抑圧されている人々)を忘れないでください。なぜ、逆らう者(邪悪な者たち)は神を侮り/罰などはない、と心に思うのでしょう。あなたは必ず御覧になって/御手に労苦と悩み(悲しみ)をゆだねる人(人々)を/顧みてくださいます。不運な人(抑圧された人々)はあなたにすべてをおまかせします。あなたはみなしごをお助けになります。逆らう者(邪悪な者たち)、悪事を働く者(たち)の腕を挫(くじ)き/彼(ら)の反逆(邪悪さ)を余すところなく罰し(探し)てください。(詩編10:12-15)

■わたしは神を呼ぶ。主はわたしを救ってくださる。夕べも朝も、そして昼も、わたしは悩んで呻(うめ)く。神はわたしの声を聞いてくださる。(詩編55:17-18)。

・主の祈り:「神の国」の真髄(しんずい)です。

アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神のようなユダヤ教の特色がみられないのです。キリスト信仰を特徴づける「(救い主)イエス様の御名」のような表現もないのです。「主の祈り」はユダヤ人たちにもキリストの信徒たちにも受け入れられるのです。宗派や民族を超えて誰もが祈れる普遍的な祈りになっているのです。

(メッセージの要旨)

*イエス様は「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と言われました。神様がわたしたちの生活に必要なものを備えて下さるのです。わたしたちの関心を「神様と隣人」に向けるように促(うなが)されたのです。「主の祈り」の視点はここにあるのです。イエス様はペトロとアンデレに「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。二人はすぐに網を捨てて従ったのです。ヤコブとヨハネも同様に船と父を残して従ったのです(マタイ4:18-22)。収税所に座っている徴税人レビ(マタイ)にも「わたしに従いなさい」と命じられたのです。彼は立ち上がって従ったのです(マルコ2:13-14)。フィリポにも出会い「わたしに従いなさい」と言われたのです。この人もイエス様に従ったのです(ヨハネ1:43-45)。後に、これらの人は使徒に選ばれたのです。イエス様は召命した時に理由を告げられませんでした。弟子になった人々も尋(たず)ねなかったのです。ただ、イエス様の圧倒的な力(霊的エネルギー)を感じて従ったのです。寝食を共にし、「山上の説教」(マタイ5-7)に耳を傾ける中で、ユダヤ教の教えや慣習とは異なる「何か」に触れたのです。弟子の一人が申し出た目的は「祈り方」のことではないのです。「宣教の意味」、「自分の立ち位置」のことだったのです。ユダヤ人(弟子)たちはローマ帝国の支配下にあって喘(あえ)いでいたのです。イエス様は真空の中で語られたのではないのです。「主の祈り」を通して神様により頼むことを教えられたのです。

*旧約聖書の詩編は名もない無数の著者によって何世紀にもわたって編纂(へんさん)されたのです。歴史はダビデ王とソロモン王の時代に遡(さかのぼ)るのです。期間の長さと著者の多様性にもかかわらず、自由と正義の確立、抑圧からの解放で貫かれているのです。経済的搾取が野獣の攻撃に例えられています。「村はずれの物陰に待ち伏せし/不運な人(無力な人々)に目を付け、罪もない人(人々)をひそかに殺す。茂みの陰の獅子のように隠れ、待ち伏せ/貧しい人(人々)を捕えようと待ち伏せ/貧しい人(人々)を網に捕えて引いて行く。不運な人(無力な人々)はその手に陥(おちい)り/倒れ、うずくまり・・」(詩編10:8-10)。詩編94は抑圧と搾取の結果を殺人に等しいものとして描いています。「主よ、彼らはあなたの民を砕き/あなたの嗣業(相続人)を苦しめています。やもめや寄留の民を殺し/みなしごを虐殺します」(5-6)。律法、預言書、詩編において正義の重要性が強調されているのです。イエス様の先駆けとして遣わされた洗礼者ヨハネは「悔い改めに相応(ふさわ)しい実を結べ」と言ったのです。「どうすればよいのですか」と質問する人には「下着を二枚持っている者は一枚も持たない者に分けてやれ、食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えたのです。徴税人に「規定以上のものは取り立てるな」、兵士には「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と命じているのです(ルカ3:1-14)。イエス様も「山上の説教」の中で詩編を引用されているのです。

*洗礼者ヨハネの弟子であったペトロとヨハネは宣教の視点をすでに学んでいたのです(ヨハネ1:35-42)。ところが、弟子の中にはイエス様のお考えを確認したいと思っている人もいたのです。イエス様は抽象的に答えられませんでした。たとえ話を用いて語ることもされなかったのです。キリスト信仰を簡潔に要約した「主の祈り」を教えられたのです。それは「(わたしたちの)父よ、」で始まります。すべて複数形(わたしたちに・・など)が用いられているのです。誤解されているような個人的な祈りではないのです。信仰共同体に属している人々の窮状(きゅうじょう)に焦点を当てた祈りになっているのです。「御名が崇められますように」は神様が軽んじられていることを表しているのです。ユダヤ(イスラエル)はローマ帝国の支配下にありました。皇帝は「救い主」(解放者)という称号で呼ばれていたのです。唯一の神様を信じるユダヤ人たちにも試練が訪れるのです。ローマ皇帝の名前を崇めることが強いられたからです。このような政治状況にあって「主の祈り」は極めて過激です。「神様、地上の権力者たちを裁いて御力と正義をお示し下さい」と祈るのです。圧政下にあってなす術(すべ)のない人々の切実な願いが込められているのです。しかも、ローマ皇帝が神格化されていることへの間接的な批判になっているのです。イエス様は弟子たちに「あなたたちは聖なるわたしの名を汚してはならない。・・わたしは・・エジプトの国からあなたたちを導き出した者である。・・」を想起させられたのです(レビ記22:32-33)。

*「御国が来ますように。御心が行われますように・・」も、文脈において「御名が崇められますように」と同じです。抑圧的で非情なローマ皇帝の支配とそれに協力するユダヤ人指導者たちの不正が打ち砕かれて「神様の正義」が地上に確立されることを願う祈りになっているのです。民衆のほとんど(95パーセント以上)が貧しいのです。最も大きな要因として高額な税負担を挙げることが出来るのです。イエス様が誕生された頃に皇帝アウグストゥスは全領土の住民に住民登録を命じているのです(ルカ2:1-3)。福音書記者ルカは単に歴史的事実を紹介しているのではないのです。ローマ帝国の支配下にある国の人々から徴収する「人頭税」のための人口調査であることを際立たせているのです。キリストの信徒たちも厳しい政治・経済・社会の中で生きているのです。イエス様は人々の苦難と労苦を心に留められたのです。ユダヤ人たちはこれまで「神殿税」(会堂税)を納めるだけでした。ところが、「人頭税」が新たに課せられたのです。税の徴収を担っていたのが徴税人たちでした。彼らには徴収した税をローマ帝国に収めれば自分たちのために追加の税を徴収することが認められていたのです。同胞のユダヤ人たちから民族の裏切り者、罪人として軽蔑されていたのです。税を払えない農民たちの運命は過酷なものでした。祖先から代々受け継いできた土地を手放したのです。唯一の生産手段を失った人々は農園などを所有する金持ちの下で日雇い労働者として働いたのです(マタイ21:33-41)。多額の借金返済のために自分を売ったのです。

*「必要な糧を今日与えてください」はその日の食べ物にも事欠くユダヤ人たちの悲惨な状況を表しているのです。ローマ皇帝とその協力者たちがユダヤ人たちから日々必要なパンを奪っているのです。イエス様は「わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/赦しましたように」と祈るように教えられたのです。ローマ皇帝は苛酷(かこく)な徴税によって帝国を維持しているのです。ユダヤにおいても同様のことが行われているのです。イエス様は「愛の教え」に従って負債を相互に免除するように命じられたのです(ホセア書6:6)。「わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください」は誘惑に抵抗する力を与えて下さるように願う祈りなのです。道徳的、倫理的な誘惑のことではないのです。むしろ、社会的、政治的、経済的関係において生じる誘惑に言及されているのです。神様と共にローマ皇帝にも仕えることは止むを得ないという思いが人々の間に広がっているのです。神殿政治の中枢を担(にな)う祭司長たちがローマの総督ピラトに「わたしたちには、皇帝のほかには王はありません」と言っているのです(ヨハネ19:15)。驚くべきことです。一般民衆も不正や腐敗への抵抗を諦(あきら)め、支配者や指導者たちの理不尽な要求をやむを得ず受け入れているのです。信仰の闘いが激しくなれば、心身の疲弊(ひへい)も必然的に起こるのです。緊張から逃れたいという思いも日に日に増してくるのです。「主の祈り」は不当な支配と偶像礼拝に悩む人々に希望と勇気を与えているのです。

2023年10月15日

「神の国の完成は近い」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書17章20節から37節


ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない(見えるものを伴って来ていない)。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」それから、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代(世代)の者たちから排斥されることになっている。ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。人の子が現れる日にも、同じことが起こる。その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。言っておくが、その夜一つの寝室に二人が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」<底本に節が欠けている個所の異本による訳文> 畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。† そこで弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言った。イエスは言われた。「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ。」

(注)

・ファリサイ派の人々:律法を日常生活に厳格に適用していました。しかし、それはすべて見せかけなのです。イエス様は彼らの偽善に天罰を宣告されたのです。マタイ23章に詳細が記述されています。

・ノアの時代:創世記6:5-8:22をお読み下さい。

・ロトの時代と妻のこと:創世記19:1-29をご一読下さい。

・神の国はあなたがたの間にある:キリスト信仰の根本理念です。神の国(天の国)-神様の支配-の到来こそ福音なのです。イエス様を通して部分的に先取りされているのです。しかるべき時に完成するのです。キリストの信徒たちは希望の内に生きることが出来るのです。正義と愛に満ちた神様の戒めを実践するのです。

・新しい天と地:

■わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』(ヨハネの黙示録21:1-4)

―神様はすでに「神の国」について語っておられるのです。


■復讐してはならない。民の人々に恨(うら)みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。(レビ記19:18)


■心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。(申命記6:5)


■・・見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなた(たち)の前に置く。わたしが今日命じるとおり、あなた(たち)の神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなた(たち)は命を得、かつ増える。あなた(たち)の神、主は、あなた(たち)が入って行って得る土地で、あなた(たち)を祝福される。もしあなた(たち)が心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕えるならば、わたしは今日、あなたたちに宣言する。あなたたちは必ず滅びる。ヨルダン川を渡り、入って行って得る土地で、長く生きることはない。(申命記30:11-20)

・人の子:


この呼称には三つの意味があります。第一は預言者です(エゼキエル書2:1-3)。第二は天の雲に乗って現れる終わりの時の審判者です(ダニエル書7:13-14)。今日の聖書の個所では、イエス様は預言された人の子であることを明らかにされたのです。他に「わたしとわたしの言葉を恥じる者(たち)は、人の子も自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときにその者(たち)を恥じる」(ルカ9:26)、「神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(ルカ18:8)などがあります。第三はこの世の人間を表しているのです(ルカ9:58)。

・死体のある所には、はげ鷹も集まる:諺(ことわざ)です。

旋回するはげ鷹を探せば死体もそこにあるという意味です。多くの人にとって「神の国」の到来が明るい未来への約束にはならないのです。地上に残された人々は死んでいるのです。

■災いあれ、主の日を待ち望む者に。/主の日があなたがたにとって一体何になるのか。/それは闇であって、光ではない。人が獅子の前から逃れても熊に遭い/家にたどりついて、手で壁に寄りかかると/蛇にかみつかれるようなものだ。確かに、主の日は闇であって、光ではなく/暗闇であって、そこに輝きはない。(アモス書5:18-20)

・サドカイ派の人々:死者の復活を信じていなかったのです。イエス様の教えと対立したのです。他のことについてはほとんど分かっていないのです。支配層に属し、神殿政治と深く関わっていました。

・ヨナのしるし:旧約聖書のヨナ書を参照して下さい。

・仮現論:

 

イエス・キリストは地上におられた間、人間の肉体を持っておられなかった。ただ、肉体があるように見えていただけであると説明するのです。このような観点からイエス様の復活を認めなかったのです。社会・経済・政治から切り離して霊的な側面だけを強調する考え方のことです。

・神の国の宣言:

■預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人(人々)に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣(つか)わされたのは、/捕らわれている人(人々)に解放を、/目の見えない人(人々)に視力の回復を告げ、/圧迫されている人(人々)を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(ルカ4:17-21)

メッセージの要旨)

*キリスト信仰とは「神の国」の到来を福音(良い知らせ)として信じることなのです。それは個人的な「罪の赦し」に留まらず、人間の「全的な救い」として実現するのです。イエス様の先駆けとして遣わされた洗礼者ヨハネはユダヤの荒れ野で「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣言したのです(マタイ3:1-2)。洗礼者ヨハネが捕らえられた後、イエス様はガリラヤへ行き「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って、宣教を開始されたのです(マルコ1:14-15)。様々な試練に遭遇し、十字架上で政治犯(罪状書きはユダヤ人の王)として処刑されたのです。しかし、神様は三日目にイエス様を復活させられたのです。イエス様はご自身が生きていることを数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ「神の国」について話をされたのです(使徒1:3)。イエス様はご自身の生と死と復活を通して「神の国」の福音を証しされたのです。イエス様が悪霊を追い出しておられる時、群衆の中には「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う人々がいたのです。イエス様は「・・わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と言って、反論されたのです(ルカ11:20‐)。「神の国」の到来にはキリスト信仰にとって決定的に重要な意味があるのです。神様が人間の歴史に介入して、「新しい天と地」の創造に着手されたのです。しかるべき時期に完成するのです。キリストの信徒たちは信仰に堅く立って備えるのです。

*敵対するファリサイ派の人々がイエス様に「神の国」の到来の時期について質問しているのです。「神の国」がイエス様の教えと力ある業を通してすでに到来していること、「終わりの日」(神様の裁き)が近づいていることを理解していないのです。しかも、そこには悪意があるのです。イエス様の言葉尻を捕らえて、権威を失墜(しっつい)させようと画策しているのです。「神の国」について尋ねたのはファリサイ派の人々だけではありませんでした。ある時はファリサイ派の人々とサドカイ派の人々が一緒に来て、イエス様を試そうとして、天からの徴(しるし)を見せてほしいと願ったのです。「復活」について見解を異にしているだけでなく、何かと対立する両派がイエス様に対しては共通の敵として結束しているのです。「神の国」を認めれば、この世における権力を失うことになるからです。イエス様は「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。よこしまで神に背いた時代(世代)の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と答えられたのです(マタイ16:1-4)。ただ、イエス様がエルサレム神殿の崩壊を予告された時、「そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか」と質問した人々には天変地異を例示し、忍耐によって命を勝ち取りなさいと言われたのです(ルカ21:7-19)。

*一方、「神の国」の意味が誤解されているのです。死後に行く「天国」のことではないのです。天上と地上における神様の主権を表しているのです。その視点は現在に向けられているのです。神様は圧政に苦しむヘブライ人たち(イスラエルの民)の叫び声を聞いて、エジプトから脱出させられたのです。その後も、ローマ皇帝とその支配に協力する指導者たちがユダヤの民衆を虐げているのです。神様はこうした状況に心を痛められたのです。新しい天地の創造を決断されたのです。イエス様はその徴(しるし)としてこの世に遣わされたのです。この世の権力者たちに支配者が神様であることを宣言されたのです。彼らに悔い改めを求め、与えられた権限を「神様の御心」に沿って用いるように命じられたのです(ヨハネ18:36)。イエス様は「神の国」を誰もが理解できるように、からし種、パン種、宝、高価な真珠などに譬(たと)えられたのです(マタイ13:31-50)。こうした手法によって、民衆にもこれまでの信仰のあり方を問い直すように指示されたのです。イエス様はご自身の力ある業(癒しや奇跡)によって「神の国」が到来していることを証明されたのです。神様の正義と愛が地上の隅々に及ぶことは貧しい人々や虐げられた人々にとって福音なのです。ところが、支配者たちにとって権威と既得権益を脅(おびや)かす悪い知らせなのです。この世の富や地位に執着して福音を拒否しているのです。「神の国」に対する応答の如何(いかん)が「救い」を決定するのです。悔い改めて神様の下へ帰る機会はわずかに残されているのです。

*イエス様はファリサイ派の人々の質問に「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と答えられたのです。「神の国」はイエス様を信じる人々の間ではすでに到来しているのです。現実から目を逸(そ)らせているあなたがたに問題があるのだと言われたのです。今日においても、福音書が伝えるイエス様の実像を歪(ゆが)める「仮現論」が見られるのです。代表的な主張に「イエス様は霊的な指導者であって、社会的、経済的、政治的な問題に関心がなく、個人的な信仰心や道徳心の向上にのみ力を注がれたのである」があります。パウロの信仰理解-後代の人々が「パウロの神学」と呼んでいるもの-が大きく影響しているのです。イエス様の関心は貧しい人々や虐げられた人々の窮状にあるのです。しかし、パウロはイエス様から教えを受けていないのです。使徒たちのように宣教活動にも従事していないのです。しかも、ユダヤ人がほとんど持つことのないローマの市民権を有しているのです。パウロは「神の国」の意味を誤解したのです。ユダヤ人が苦しんでいる悲惨な現実よりも、将来における「罪の赦し」あるいは「天国」に関心を寄せたのです。イエス様による正義の実現と圧政からの解放の約束(例えばルカ4;18-19)の視点がパウロの手紙にはないのです。言及したとしても「・・みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません」のように個人的な信仰心に縮小しているのです(1コリント6:9-10)。

*「神の国」はイエス様を通して部分的に到来しているのです。弟子たちは「行い」によってその事実を証明しているのです。「神の国」は当初からし種のように極めて小さかったのです。ところが、先人たちの苦難に満ちた働きによって着実に成長しているのです。「神の国」の到来が福音として宣教されてからおよそ2000年が経ちました。しかし、この世はまだ権力者たちによって支配されているのです。新しい天地の創造は完成していないのです。苦難に喘ぐ人々は神様にイエス様の再臨の日を早めて下さるように祈るのです。一方、時期が遅れているのは神様の深いご配慮でもあるのです。一人でも多くの人がご自身の下へ帰って来るのを待っておられるのです(2ペトロ3:9)。神様は最も相応しい時期にこれら二つの課題を解決して下さるのです。イエス様は再臨の日が盗人のように訪れると言われるのです。その時には、洪水が世界を飲み込んだように,火と硫黄がソドムの町を焼き尽くしたように、同様のことが起こるのです。この世に執着している人々は「永遠の命」を失うのです。キリストの信徒たちは目を覚ましてイエス様の再臨の日に備えるのです。いつの時代においても「神の国」の福音が正しく理解されていないのです。安価な恵みではないのです。キリストの信徒たちに「善い行い」を求めるのです。「神の国」とこの世は相容れないのです。神様の正義と愛を実践する人々は試練に遭遇するのです。覚悟を持って「神の国」の建設に参画するのです。最後まで耐え抜いた人々に「救い」が与えられるのです(ルカ22:28-30)。

2023年10月08日

「キリスト信仰の厳しさ」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書7章13節から29節


「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」


「偽預言者(たち)を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」


「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」


「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」


イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。 彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。

(注)

・道:二つの「生き方」から一つを選択するという教訓は古代において一般的でした。例えば「完全な(誠実に)道を歩む人は救われる(安全である)。(二筋の)曲がった道を歩む者は(誰でも)直ちに倒れる」を挙げることが出来ます(箴言28:18)。

・命に通じる:「天の国」(神の国)-神様の支配-に入ることです。招かれる人は多いのです。ところが、選ばれる人は少ないのです(マタイ22:14)。

・山上の説教の冒頭部分:イエス様の視点

■イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい(心が打ちひしがれた)人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。義(正義)に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。義(正義)のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:1-12)
    
・神様の御心:イザヤの預言

■・・「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人(人々)に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人(人々)に解放を、/目の見えない人(人々)に視力の回復を告げ、/圧迫されている人(人々)を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物(イザヤ書61:1-2)を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた(ルカ4:18-21)。

・最も重要な掟:

■彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』(申命記6:4-5)第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』(レビ記19:18)この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコ12:28-31)

・主の祈り:イエス様が弟子たちに教えられた祈り

■・・あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』(マタイ6:8-13)

(メッセージの要旨)

*今日の聖書の個所は「山上の説教」(マタイ5章―7章)の結論部分に当たります。山上の説教はキリスト信仰の本質を簡潔に表しています。キリスト信仰に生きる人々の指針になっているのです。機会があれば全体を通してお読み下さい。イエス様は冒頭で貧しい人々や虐(しいた)げられた人々が優先的に祝福され、これらの人の苦しみや悲しみが取り除かれることを明言されたのです。同時に「狭い門から入りなさい」と言って、最も重要な戒めを実行するように命じられたのです。安易な信仰理解に警鐘を鳴らされたのです。福音(良い知らせ)は信じて「救い」に与れるというような「安価な恵み」ではないのです。イエス様のお言葉を聞いた人々に「神様の御心」を具体化する責務が生じるのです。「行い」のない信仰はそれだけでは死んでいるのです(ヤコブ2:14-17)。群衆はローマ帝国の圧政とそれに協力するユダヤ人指導者たちの不正と腐敗に苦しめられているのです。「主の祈り」はこれらの人の心の支えになったのです。さらに、イエス様は「平地の説教」(ルカ6:17-49)において「富んでいる人々、満腹している人々、笑っている人々は不幸だ(に災いあれ)」と言われたのです。キリスト信仰を標榜(ひょうぼう)する人々は地上に富を積んではならないのです。富のあるところに心があるからです。神様と富を調和させようとする試みが見られるのです。イエス様のお言葉を恣意的(しいてき)に変容してはならないのです。キリスト信仰とはイエス様の教えに従って生きることなのです。狭い門から入って「救い」に与るのです。


*イエス様は偽預言者(信仰深さを装う巡回クリスチャン宣教者)を警戒しなさいと言われるのです。彼らは表向き敬虔(けいけん)に振舞うのですが、その内側は貪欲と放縦に満ちているのです。誤った教えによって、外部から信仰共同体(教会)を混乱させ、時には内部から崩壊させているのです。信徒たちにとって、指導者たちが本物であるかを見極めることは極めて重要です。これらの人の言葉ではなく「行い」を注視するのです。全身全霊で群れ(教会)のために働いているか、私利私欲のために群れを犠牲にしていないかについて判断するのです(エゼキエル書34)。偽善や背任行為が確認されれば躊躇(ちゅうちょ)することなく告発するのです。イエス様は強欲と悪意に満ちたファリサイ派の人々と律法の専門家たちを激しく非難されたのです(ルカ11:37-52)。正義と公平を実現することは指導者たちの使命だからです。「神様の御名」によって預言し、悪霊を追い出し、奇跡を行ったことが「救い」の保証にはならないのです。パウロは「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」と言っています(ローマ10:9)。一方、「自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです」とも言うのです(1コリント4:4)。人間の全的な救い-正義の実現と永遠の命-を約束する「神の国」の福音が個人の問題に限定され、「安価な恵み」であるかのように誤解されてはならないのです。


*イエス様は狭い門からに入りなさいと言われるのです。「神様の御心」を実践した人々だけが「天の国」に迎え入れられるのです。すでに、最後の審判の基準が示されているのです(マタイ25:31-46)。ところが、「救い」に至る道の厳しさとそこを歩む人々の苦難に言及することが極めて少ないのです。しかも、「救い」が信仰のみによって得られるかのように語られているのです。イエス様は「天の国」に招かれるための「要件」(行い)を挙げておられるのです。ある議員が「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねたのです。イエス様は「『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」と答えられたのです。すると議員は「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と説明したのです。これを聞いて、イエス様は「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と命じられたのです。議員はこのお言葉を聞いて非常に悲しんだのです。大変な金持ちだったからです。金持ちが「神の国」に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易(やさ)しいのです(ルカ18:18-25)。富への姿勢がその人の「救い」を決定するのです。神様と隣人を愛することの大切さが軽んじられているのです。多くの人が指導者たちの悪い行いに倣(なら)っているのです。悔い改めて、イエス様に従わなければ「救い」に与れないのです。

*ある律法の専門家が「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねたのです。イエス様は「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と逆に問われたのです。この人は「最も重要な掟を守ることです」と答えたのです。イエス様は「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と言われたのです。しかし、自分を正当化しようとして「わたしの隣人とはだれですか」と再度質問したのです。イエス様はたとえ話をされたのです。ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われたのです。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去ったのです。ある祭司がたまたまその道を下って来たのですが、その人を見ると道の向こう側を通って行ったのです。祭司職の家系を受け継ぐレビ人も同様でした。ところが、旅をしていたあるサマリア人-ユダヤ人たちから不信仰の民として軽蔑されて人々-は、そばに来るとその人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ包帯をして、自分のろばに乗せ宿屋に連れて行って介抱したのです。翌日になると、デナリオン銀貨二枚(平均的労働者の二日分の賃金に相当)を取り出し、宿屋の主人に渡して、この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払いますと言ったのです。イエス様は「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われたのです(ルカ10:25-37)。指導者と呼ばれる人々が同胞を見捨てているのです。サマリア人は歴史的立を乗り越えてユダヤ人を助けたのです。

*弟子たちがイエス様のところに来て「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と尋ねたのです。イエス様は「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕えるものになりなさい」と答えられたのです(マルコ9:35)。一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われたのです(マタイ18:1-5)。自分を低くして子供のようになることが謙遜(けんそん)することであるかのように誤解されているのです。視点を社会的地位の低い人々に移すことなのです。キリストの信徒たちはこれらの人に仕え、共に歩む責務があるのです。キリスト信仰における関心が日曜礼拝への出席や信徒たちの交わりに留まっているのです。世界のあちらこちらに、激しい戦闘や迫害、突然の災害のような想像を絶する困難の中で喘(あえ)いでいる人々がいるのです(国連UNHCRニュースレター9月号)。日本においても、貧困や差別に苦しみ、原発や基地の危険に晒(さらさ)されている人々がいるのです。正義や平和に目を向けない信仰が「救い」の力にはならないのです。「行い」のない信仰は空しいのです。狭い門から入ろうとすれば苦難や犠牲が伴うのです。イエス様は「神様の御心」に沿うために十字架への道を選ばれたのです。イエス様が辿(たど)られた道を歩むのです。

2023年10月01日

「御言葉を悟りなさい」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書13章1節から23節


その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」


弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。 持っている人(人々)は更に与えられて豊かになるが、持っていない人(人々)は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」


「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」

(注)

・たとえ話:自然や日常生活から導き出された簡単な物語です。イマジネーションによって、既存の価値を問い直し、問題の本質に迫るのです。

・群衆:エルサレムの指導者たちに扇動されるまではイエス様に対して中立的か好意的でした。

■イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。(マタイ7:28-29)

■そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。(マタイ12:22-24)

・御国の秘密:イエス様の教えと力ある業を通して「天の国」(神の国)-神様の支配-が具体化しているのです。

■イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。(マタイ10:1)

■そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。(マタイ11:25-26)


・持っている人(人々)、持っていない人(人々):持っている物はお金や物ではないのです。「天の国」についての知識のことです。

・洗礼者ヨハネ:神様がイエス様の先駆けとして遣わされた最後の預言者です。マタイ3章をお読み下さい。
     
・エリヤ:紀元前865年から850年の間に活動した預言者です。北王国イスラエルの悪名高いアハブ王との対決は圧巻です(列王記上17:1)。洗礼者ヨハネの生き方と質素な服装はエリヤを想起させるのです。主の日(イエス様が再び来られる日)の前に戻って来ると期待されていました。旧約聖書の巻末にあるマラキ書3:23-24を参照して下さい。

・預言者イザヤ:南王国ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世において活動しました(列王記下15-29)。期間は紀元前738年から688年頃までと推測されています。南王国がアハズ王の時、北王国イスラエルはアッシリヤ帝国によって滅ぼされたのです(紀元前722/721年)。

(イザヤの召命)

■そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」主は言われた。「行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟(さと)るな、と。この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」わたしは言った。「主よ、いつまででしょうか。」主は答えられた。「町々が崩れ去って、住む者もなく/家々には人影もなく/大地が荒廃して崩れ去るときまで。」主は人を遠くへ移される。国の中央にすら見捨てられたところが多くなる。なお、そこに十分の一が残るが/それも焼き尽くされる。切り倒されたテレビンの木、樫の木のように。しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である(イザヤ書6:8-13)。

・バビロン捕囚:紀元前597年にバビロニア帝国が南王国ユダを侵略したのです。数年をかけてユダヤ人の中から選んだ経済、政治、宗教に精通している専門家たち-約4600人(男性)-を自国に連れ帰ったのです(エレミヤ書52章)。実際は18000人以上とも言われています。ソロモン王が建てたエルサレム神殿も破壊されたのです(紀元前587/586年)。バビロニアが滅び、ペルシャ帝国のキュロス王によって帰還が許されたのは紀元前539年です。

・あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ:

「天の国」が到来しているのです。イエス様は「目の見えない人(人々)は見え、足の不自由な人(人々)は歩き、重い皮膚病を患っている人(人々は清くなり、耳の聞こえない人(人々)は聞こえ、死者(たち)は生き返り、貧しい人(人々)は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」と言われたのです。(マタイ11:4-6)

(メッセージの要旨)

*聖書の特定の個所を読む時には注意が必要です。前後の章と密接に関係していることがあるからです。13章のたとえ話の背景が11章、12章に記述されているのです。洗礼者ヨハネが食べることも飲むこともしないで「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣教しているのです。群衆は「あれは霊に取りつかれている」と言って軽んじたのです。イエス様は「あなたがたが認めようとすれば分かることだが、彼は現れるはずのエリヤだ。耳のある人は聞きなさい」と擁護されたのです。イエス様が飲み食いすると今度は「見ろ、大食漢で大酒のみだ。徴税人や罪人の仲間だ」と非難するのです。群衆の中には指導者たちもいたのです。ファリサイ派の人々は安息日に空腹を覚えた弟子たちが麦の穂を摘んで食べているのを見て告発するのです。イエス様は「わたしが求めるのは憐みであって、生贄(いけにえ)ではない」と反論されたのです。イエス様はガリラヤ湖の北にある町コラジン、ベトサイダ、カファルナウムで様々な奇跡を行われたのです。ユダヤ人たちは悔い改めなかったのです。地中海沿岸にある異邦人の町ティルスやシドン、罪深い町ソドムよりも厳しい罰を受けることになるのです。イエス様は安息日に片手の萎(な)えた人を元通りに良くし、ご自身が安息日の主であることを公言されたのです。言動は伝統的なユダヤ教への挑戦となったのです。人々は洗礼者ヨハネとイエス様によって「天の国」が到来していること-新しい天地創造が始まっていること-を信じなかったのです。イエス様はたとえ話によって悔い改めの必要性を教えられたのです。

*預言者イザヤは不信仰の南王国ユダに悔い改めを求めたのです。しかし、王たちは聞く耳を持たなかったのです。エルサレムと神殿は破壊され、特定の人々が「捕囚の民」としてバビロン(現在のイラク)へ連行されたのです。イエス様の十字架の死と復活の後にも同じことが起こったのです。ローマ軍がすべてのものを破壊し、略奪したのです(紀元後70年)。ユダヤ人たちは世界の各地に離散することになったのです。真に歴史は繰り返すのです。イエス様の時代の人々も先祖の轍(てつ)を踏もうとしているのです。イエス様は権力者たちを恐れることなく「天の国」の福音を証ししたのです。しかし、ユダヤ人の多くが悔い改めなかったのです。それでも忍耐強く不信仰な群衆を導こうとされているのです。たとえ話として身近な自然や日常生活に生起する出来事が取り上げられているのです。教育の機会に恵まれなかった人々が理解しやすいように配慮されたのです。「天の国」の秘密は知恵ある人々や賢い人々には理解できないのです。心から素直に信じる人々に示されるのです。イエス様は「種を蒔く人のたとえ」の後にも、「迷い出た羊のたとえ」(18:10-14)、「ぶどう園の労働者のたとえ」(20:1-16)、「タラントンのたとえ」(25:14-30)などを語られたのです。そこにはキリスト信仰の本質が要約されているのです。元々群衆はイエス様に中立的か友好的でした。しかし、導者たちから影響を受けて離れて行くのです。敵対して彼らに協力する人々も現れたのです。イエス様に従うか否かがその人の運命を決定するのです。

*イエス様は「・・わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している」と言われたのです(ヨハネ8:26)。たとえ話だけを抜きだして抽象的にまた観念的に論じるだけでは正しい理解は得られないのです。蒔かれた種とは「天の国」の福音のことです。どのような人にも届けられるのです。しかし、聞いた人々の応答は異なっているのです。新約聖書の福音書からそれぞれの具体例を挙げることが出来ます。先ず「道端に蒔かれた種子」です。イエス様は故郷のナザレの会堂で教えられました。人々は「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」と言って、イエス様が「救い主」であることを信じなかったのです。イエス様はごくわずかな病人に手を置いて癒されただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかったのです(マルコ6:1-6)。一方、ファリサイ派の人々や律法学者たちは長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをしていたのです。イエス様は彼らを偽善者と呼び、人一倍厳しい裁きが宣告されたのです(マルコ12:38-40)。大祭司カイアファたちはローマ帝国と一緒になってイエス様を殺そうとしているのです(ヨハネ11:50)。悪魔が彼らを支配しているのです。極めて少数の人を除き悔い改めの機会が摘(つ)み取られているのです。

*石ころの多い土壌にたとえられた人々は御言葉に接して喜ぶのです。しかし、確固たる信仰が内部に形成されていないのです。しばらくは続いても艱難(かんなん)や迫害が起こると躓(つまず)いて信仰を捨てるのです。イエス様は「わたしが命のパンである。・・先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる」と言われたのです。弟子たちの多くはこれを聞いて「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と不平を漏らしたのです。イエス様から離れ去ったのです(ヨハネ6:22-71)。キリスト信仰とは信じることで完結しないのです。イエス様の教えと歩みを自分の生き方にすることなのです。茨(いばら)が茂る畑地に例えられた人々は御言葉を受け入れたのです。ところが、この世の富や楽しみに心を奪われるのです。やがて、最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実践しなくなるのです。イエス様は「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」と警告されたのです。畑が豊作だった金持ちは倉を大きくしたのです。そこに穀物や財産を皆入れたのです。これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたので、ひと休みして食べたり飲んだりして楽しもうとしたのです。神様はこの人に「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」と言われたのです。自分のために富を積んでも、神様の前には豊かにならないのです(ルカ12:13-21)。お言葉を肝(きも)に銘じるのです。

*良い土地に例えられた人々は御言葉を聞いて悟るのです。彼らの内に御力が働いて百倍、六十倍、三十倍の良い実を結ぶのです。御言葉を聞いた人々が初めから良い土地であったということではないのです。イエス様の弟子でありながらユダヤ人たちを恐れてそのことを隠していたアリマタヤ出身の議員ヨセフが、イエス様のご遺体を取り降ろしたいとローマの総督ポンティオ・ピラトに願い出たのです。許可されました。ヨセフは十字架からご遺体を取り降ろしたのです。かつて夜にイエス様のもとに来たことのある議員のニコデモも没薬(もつやく)と沈香(じんこう)を混ぜた物を百リトラ(約34kg)持って来て協力したのです。彼らはユダヤ人の習慣に従いイエス様を墓に埋葬(まいそう)したのです(ヨハネ19:38-42)。11使徒も出来なかったことを実行したのです。社会的地位の高いヨセフとニコデモは大きな犠牲を払って信仰を証したのです。指導者たちが後に裏切り者として彼らを迫害したことは想像に難くないのです。福音の種はすべての人に蒔かれるのです。豊かな実を結ぶかどうかは別の問題なのです。信仰があってもそれを奪い取ろうとする悪魔の力が働いているのです(マタイ11:12)。自分の信仰を振り返ることはとても大切です。誰にも人を裁く資格がないことが分かるからです。裁きはイエス様に委(ゆだ)ねられているのです。思いがけないことが起こるのです。不信仰を批判された人々が「救い」に与り、批判した人々が裁かれるのです。悔い改めて良い実を結ぶのです。神様が「天の国」に迎え入れて下さるのです。

2023年09月17日

「つまずかない人は幸いである」

聖書朗読(Bible Reading)ルカによる福音書7章18節から35節


(洗礼者)ヨハネの弟子たちが、これらすべてのことについてヨハネに知らせた。そこで、ヨハネは弟子の中から二人を呼んで、主のもとに送り、こう言わせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」二人はイエスのもとに来て言った。「わたしたちは洗礼者ヨハネからの使いの者ですが、『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』とお尋ねするようにとのことです。」そのとき、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた。それで、二人にこうお答えになった。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」ヨハネの使いが去ってから、イエスは群衆に向かってヨハネについて話し始められた。「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。華やかな衣を着て、ぜいたくに暮らす人なら宮殿にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ、言っておく。預言者以上の者である。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』/と書いてあるのは、この人のことだ。 言っておくが、およそ女(女性)から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国(天の国)で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼を受け、神の正しさを認めた。しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼を受けないで、自分(たち)に対する神の御心を拒んだ。


「では、今の時代(世代)の人たちは何にたとえたらよいか。彼らは何に似ているか。広場に座って、互いに呼びかけ、こう言っている子供たちに似ている。『(わたしたちが結婚式で)笛を吹いたのに、/(あなたがたは)踊ってくれなかった。(わたしたちが)葬式の歌をうたったのに、/(あなたがたは)泣いてくれなかった。』洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子(イエス様)が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、(神様の)知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」

(注)

・これらすべてのこと:イエス様は百人隊長の僕を癒し、やもめの息子を生き返らされたのです。「神の国」が到来しているのです。ルカ7:1-17をお読み下さい。

・イエス様の宣教の視点:ご自身を通してイザヤの預言が具体化しているのです。併せて、ルカ4:18-19を参照して下さい。


■主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人(人々)に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人(人々)には自由を/つながれている人(人々)には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め シオンのゆえに(シオンにおいて)嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。(イザヤ書61:1-3)。


●シオン:エルサレムのことです。


●正義の樫の木:貧しい人々が憐みの対象ではないのです。これらの人は正義を実現する大きな力になるのです。


●主が恵みをお与えになる年:50年目の年のことです。この年はヨベルの年として聖別されています。全住民に「解放」が宣言されるのです。各々は(担保になっている)土地の返却を受けるのです。レビ記
25章に記述されています。

・ファリサイ派の人々や律法学者たち:イエス様は偽善者たちと呼ばれたのです。厳しい裁きが宣告されたのです。マタイ23章には彼らの様々な罪が挙げられています。


・ヘロデ・アンティパス:ヘロデ大王(ローマ人によって「ユダヤ人の王」と呼ばれていました)の三人の息子の一人です。在位は紀元前4年‐紀元後39年です。

・へロディア:ヘロデ大王の孫です。最初(?)はヘロデ・フィリポの妻でした。ヘロデ・アンティパスは異母兄弟の妻と結婚したのです。結婚を非難した洗礼者ヨハネに反発していたのです。

(メッセージの要旨)

*神様はイエス様の先駆けとして洗礼者ヨハネを遣わされたのです。この最後の預言者は「救い主」の到来を告げ、人々に悔い改めを迫ったのです。ヨハネに対する人々の反応は様々でした。民衆は皆その教えに耳を傾け、徴税人たちも洗礼を受け、神様の正しさを認めたのです。しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは「神様の憐れみ」を理解しなかったのです。イエス様はガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられたのです。その時、天から神様の霊が鳩のようにイエス様の上に降り「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適(かな)う者」という声が聞こえたのです。ヨハネのメッセージは「悔い改めよ。天の国(神の国)は近づいた」です(マタイ3:2)。イエス様の第一声も「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を 信じなさい」でした(マルコ1:15)。福音(良い知らせ)とは「神の国」-神様の支配(秩序)、あるいは神様の主権(働き)-が社会の隅々に及ぶことなのです。悔い改めは心のあり方に留まらないのです。「神様の御心」を実現するために自らを奉げることなのです。ヨハネはイエス様の先駆けであることを自覚していました。ファリサイ派の祭司やレビ人たちの「あなたはどなたですか」という質問に「わたしはメシアではない」と答えているのです(ヨハネ1:20)。イエス様については「わたしよりも優れた方、・・かがんでその方の履物のひもを解く値打もない。わたしは水で洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」と言っているのです(マルコ1:7-8)。

*福音書記者マタイは預言者イザヤの言葉「荒れ野で叫び者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』(イザヤ書40:3)」を引用してヨハネを紹介しています(マタイ3:3)。ヨハネはローマ帝国の支配とそれに同調する人々の偽善と不正を批判したのです。激しい言葉で悔い改めを迫ったのです。父祖アブラハムの子孫であることが「救い」の保証にはならないのです。悔い改めにふさわしい実を結ぶこと-善い行い-こそが「永遠の命」に至る道なのです。持っている物を困っている隣人に分け与えるのです。徴税人に規定以上の税を取り立てる裁量権がローマ帝国から与えられていました。同胞からさらに利益を得ることを断念するのです。兵士の賃金の一部は肉、穀物、果物などの現物で支給されていました。収入の不足分について他の人から暴力によって奪い取ることを止めるのです(ルカ3:10-14)。ヨハネが権力者たちに媚(こ)び諂(へつら)うことはなかったのです。彼らの腐敗を真正面から告発したのです。権力の中枢にいる領主ヘロデの罪や悪事にも言及したのです。へロディアはヘロデとの婚姻を批判したヨハネに復讐しようと画策していました。娘のサロメを使ってヘロデに殺させたのです(マルコ6:19-28)。ヨハネは使命を遂行するためには死さえも恐れなかったのです。神様と隣人を愛して処刑されたイエス様の生き方が先取りされているのです。人々の関心が徐々にイエス様に向けられているのです。しかし、ヨハネは「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と言うのです(ヨハネ3:30)。

*イエス様の宣教の中心メッセージは「神の国」の到来なのです。神様はいずれこの世を終わらせ、新しい天地を創造されるのです。その時期は神様のみがご存知なのです(マタイ24:36)。イエス様は新しい天地の内容を部分的に前もって目に見える形で示して下さったのです。福音が社会から排斥された貧しい人々や罪人たちに届けられているのです。これらの人は罪を赦されて「救い」に与っているのです。一方、イエス様の宣教活動はファリサイ派の人々や律法学者たちの権威(社旗的地位)と既得権益を危うくしているのです。「神の国」の到来がユダヤ人の間に平和ではなく対立(分裂)をもたらしているのです(ルカ12:49-53)。イエス様は「わたしにつまずかない人は(誰でも)幸いである」と言われるのです。ご自身の生き方に倣(なら)う人々に「永遠の命」を与えられるのです。指導者たちの律法解釈を根底から揺るがしているのです。キリスト信仰が社会と無関係な個人的なことであるかのように理解されているのです。それは「神の国-福音の本質-に対する誤解なのです。ユダヤ人たちにとって信仰は共同体に受け入れられるための必須の要件なのです。イエス様への信仰は内心の問題なのです。しかし、イエス様は繰り返し教えを実行するように命じられたのです。キリストの信徒たちは指導者たちが隅に追いやった罪人たちを非難しないのです。共に食事をして交流しているのです。指導者たちにとっては許しがたいことです。「新しい運動」を妨害するのです。イエス様だけではなく「救い主」を信じた人々も迫害するのです。

*イエス様は罪の問題の解決としてのみ「神の国」を証しされたのではないのです。「救い」に与るために、すべての人に神様の支配と主権を認めるように促(うなが)されたのです。「わたしよりも父や母を愛する者は(誰でも)わたしにふさわしくない。・・また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は(誰でも)わたしにふさわしくない。・・」と言って、覚悟を求められたのです(マタイ10:37-39)。教えを聞いた人の多くがイエス様に躓(つまず)いたのです。イエス様は「神様の御心」を貫かれたのです。「神の国」-神様の正義と愛-を妨げる指導者たちとは徹底的に対立されたのです。彼らは「神様の御名」よって民衆を搾取し、社会の底辺に押しやって苦しめているのです。イエス様は貧しい人々や虐げられた人々を優先的にご自身の下へ招かれるのです。様々な病気、身体の障害、悪霊に悩んでいる人々が癒され、大勢の盲人が見えるようになっているのです。福音がこのような「力ある業」によって具体化しているのです。弟子たちもイエス様が歩まれた道を辿(たど)るのです。自分の十字架を負って「神の国」の建設に参画するのです。権力者たちの側に立たないのです。指導者たちの不正や腐敗と闘うのです。貧しさをなくし、不当な差別を撤廃するのです。キリスト信仰は抽象的、観念的ではないのです。「善い行い」を求める信仰なのです。「個人的な救い」に関心を持つことは当然です。ただ、「神の国」は人間の「全的な救い」として実現するのです。イエス様の教えと生き方を心に刻み「神様と隣人」を愛するのです。

*キリスト信仰に生きれば既得権益に執着する人々から物心両面にわたって迫害を受けるのです。自分の財産、社会的地位を失うこともあるのです。イエス様は弟子たちに確固とした信仰を求められたのです。試練に耐えて信仰を守り抜いた人々だけが「神の国」に迎え入れられるのです。2000年前のような迫害はないという人々がおられるのです。キリスト信仰を標榜する人々の関心が個人的な罪と悔い改めに留まっているのです。社会の構造的な欠陥は人間の罪の結果であり、終わりの日まで忍耐することも止むを得ないと結論づけるのです。洗礼者ヨハネやイエス様から目を逸(そ)らせてはならないのです。苦しんでいる人々の思いに無関心であってはならないのです。イエス様は社会の悪に憤(いきどお)られたのです。キリストの信徒たちも社会の不合理に立ち向かうのです。金持ちが悔い改めればその人に「救い」は訪れるのです。ところが、資本主義経済の矛盾は解消されないのです。改革しなければ金持ちに富が蓄積することに変わりはないのです。貧しい人々の不安定な生活は続くのです。これは経済の法則なのです。イエス様は貧しい人々や虐げられた人々と共に歩まれたのです。反体制派のリーダーのように映ったのです(ヨハネ11:48-50)。権力者に同調していれば、ローマ帝国の支配や神殿政治を危うくする人物として処刑されなかったかも知れないのです。正義と公平を守る人々は祝福されるのです(創世記18:19)。イエス様は「神様の御心」を実行されたのです。キリストの信徒たちも責務を全(まっと)うするのです。

2023年09月10日

「あなたがたの罪は重い」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書15章11節から32節

また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せた(で雇ってもらった)ところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
 
(注)

・神の国:神様の支配、神様の主権のことです。イエス様の宣教の第一声は次の通りです。

■ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国(天の国)は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。(マルコ1:14-15)

・ファリサイ派:律法を日常生活に厳格に適用したユダヤ教の一派です。この派に属する人々は律法学者たちと共にイエス様に敵対したのです。

・律法学者:文書を取り扱う官僚であり、律法に関する専門家です。


・弟の放蕩:詳細は不明です。兄は弟が「娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶした」と言っています。


・豚:ユダヤ教の律法によると豚は汚れた動物です。「いのしし(豚)はひづめが分かれ、完全に割れているが、全く反すうしないから、汚れたものである。」(レビ記11:7) 申命記14:8にも同様の記述があります。


・指輪:正式な息子として認知されたことの印(しるし)です。創世記4:42を参照して下さい。


・1ドラクメ:ギリシャの銀貨です。ローマの銀貨デナリオンと等価です。平均的労働者の一日分の賃金に相当します。

(メッセージの要旨)


*神様が罪人への深い愛を表された物語として有名です。新共同訳聖書の小見出しは「放蕩息子のたとえ」になっています。しかし、直前の出来事から判断すれば正確さを欠いているのです(ルカ15:1-7)。全体の内容から「放蕩息子とその兄のたとえ」とする方が適切です。律法学者たちやファリサイ派の人々はイエス様が徴税人や罪人たちと一緒に食事していることを非難するのです。たとえ話は彼らへの反論として語られたのです。罪の中に死んでいた弟が悔い改めたのです。父親は過去に言及することなく再び息子として迎え入れたのです。神様とは登場する父親のようなお方なのです。「神の国」の到来が福音(良い知らせ)として告げられているのです。一方、既得権益に執着して罪人の「救い」を妨げている人々がいるのです。イエス様は機会あるごとに「神の国」に関する人々の誤解を正されたのです。神様の前に自分を低くしなければ「永遠の命」に与れないのです(マルコ10:15)。兄の父親への不平は信仰を自負する指導者たちのイエス様への非難に似ているのです。「わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません」と言って、信仰心の篤い息子であることを強調するのです。ところが、父親は兄の誤りを厳しく指摘したのです。「福音の真理」を理解していないからです。誰にも人を裁く資格はないのです。人は祝福されて生まれたのです。それぞれには使命が与えられているのです。無駄に時を過ごしてはならないのです。罪を自覚することによって「神様の御心」への理解は一層深まるのです。


*ファリサイ派の人々や律法学者たちは「神の国」の到来を認めないのです。悔い改めることもなく、依然として律法主義に固執しているのです。イエス様は「医者を必要とするのは、健康な人(人々)ではなく病人(たち)である。わたしが来たのは、正しい人(人々)を招くためではなく、罪人(たち)を招いて悔い改めさせるためである」と言われたのです。ご自身の立場を明確にされたのです(ルカ5:31-32) 。「神の国」に関する解釈を巡(めぐ)って、両者の間に鋭い対立が起こっているのです。「放蕩息子その兄のたとえ」において、指導者たちの偽善と不信仰が告発されているのです。すでに同様の趣旨から幾つかの例えを語られているのです。神様とは百匹の羊の内、一匹が群れから迷い出たとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回られるお方なのです。ドラクメ銀貨十枚の内一枚をなくしたら、その一枚を見つけるまで捜されるのです。弟は信仰篤い父親の下で神様を仰いで暮らしていました。ところが、ある日、遠い国(この世)の魅力に憧れて旅に出たのです。そこで、財産を使い果たしただけでなく、幼いころから育(はぐく)んで来た大切な信仰も失ったのです。「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである」の通り、弟は暗闇を空しく彷徨(ほうこう)したのです(ヨハネ3:20)。しかし、不思議なことが起こるのです。聖霊様のお導きによって、罪の中に死んでいた弟が突然我に返ったのです。心から悔いて神様の下へ帰ることを決心したのです。

*たとえ話の中で注目すべき点は放蕩していた弟が我に返ったことです。弟は肉体的には生きているのです。しかし、霊的には死んでいるのです。人が罪を犯している時は神様に背を向けているのです。神様はご自身の方から罪人たちに近づいて立ち直る機会を与えて下さるのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」は真実なのです(ヨハネ3:16)。弟は放蕩に身を持ち崩したのです。同時に、自分の罪深さに苦しんでいたことを伺わせるのです。神様を忘れていなかったのです。どん底の生活は神様の下へ帰ることを決断させたのです。神様は迷い出た弟を憐れまれたのです。悔い改めにはそれに相応しい実を結ぶことが必要なのです。弟は新しい生き方を表明したのです。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と言ったのです。父親はそのことに一切言及していないのです。財産分与に関する不遜(ふそん)な申し出や放蕩生活について非難することもなかったのです。ただ、「息子が死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と言って、息子が悔い改めたことを心から喜んだのです。しかも、以前と同じように自分の息子の印として手に指輪をはめてやったのです。神様とは罪人がご自身の下へ帰って来ることを日々待っておられるお方なのです。悔い改めた人に再び「永遠の命」を与えられるのです。これが「神の国」の福音なのです。


*ファリサイ派の人々や律法学者たちはモーセの律法に精通していました。しかし、彼らは説教するだけなのです。戒めを実行しないのです。しかも、罪人たちに用意された「神の国」の門を閉ざしているのです。自分たちがそこに入らないばかりか、入ろうとする人々をも誤った信仰理解によって入らせないのです(マタイ23:13)。指導者たちの罪は真に大きいのです。イエス様は彼らを偽善者と呼び、「不幸だ(災いあれ)」と言われたのです。神様はイエス様を通してご自身が天と地の支配者であることを鮮明にされるのです。人間の裁きによって社会の隅に追いやられた弟のような罪人たちが以前の生活に戻ることが出来るようになったのです。罪人の烙印を押されて絶望の淵(ふち)に 生きる人々は「神の国」の到来に希望の光を見たのです。これらの人々は「永遠の命」に与れることに感謝するのです。一方、イエス様は「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤(はかり)で量り与えられる。・・」と言われたのです(マタイ7:1-5)。信仰の傲慢が批判されているのです。信仰を自負する人々が思いもよらない罪を犯すのです。しかも、罪に陥(おちい)った原因さえ分からないことがあるのです。弟は神様から離反して「死に至る病」に罹(かか)ったのです。神様の憐れみによって生き返ることが出来たのです。イエス様の「力ある業」(癒しや奇跡)には神様が共に働いておられるのです。キリストの信徒たちも過去を振り返るのです。数々の罪が赦されていることを知るのです。その経験を「神の国」の建設に生かすのです。


*たとえ話は罪人に対する神様の深い憐れみと慈しみの物語として愛されているのです。しかし、もう一つの重要な視点を見落としてはならないのです。神様に代わって罪人たちを裁いているファリサイ派の人々や律法学者たちが非難されていることです。神様の権威を軽んじている人々が高慢の罪によって厳しい罰を受けることになるのです。父親が諫(いさ)めた兄の弟に対する態度は指導者たちが蔑(さげす)んでいる徴税人たちや罪人たちへの姿勢と同じなのです。イエス様は誤った信仰理解に対する反論としてたとえ話を語られたのです。批判の対象は福音を妨げている人々なのです。父親に叱責された兄の悔い改めについては何も記述されていないのです。父親の説明に納得できずに弟の帰宅を祝う宴会に出席しなかった可能性もあるのです。信仰を自負する人々は「神の国」に入れないのです(マタイ18:1-5)。大切な聖書の個所が恣意的(しいてき)に避けられているのです。教会が「罪人たち」ではなく、「罪を犯したことのない人々」の集まりであるかのように紹介されているのです。兄のように罪人たちを「神様の愛」から遠ざけているのです。イエス様が宣教された福音の本質を歪(ゆが)めてはならないのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちは他の人々の罪に厳格なのです。しかし、自分たちの罪には寛容なのです。神様が赦された罪人を再び罪に定めることは大きな罪です。神様を軽んじているからです。偽善者たちの罪は決して赦されないのです。「神の国」に入れないのです。信仰を自負する人々こそ悔い改めるべきなのです。

2023年08月27日

「あなたを罪に定めない」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書8章1節から11節


イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女(婦人)に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

(注)

・オリーブ山:エルサレムの東にある丘です。イエス様はこの山の麓の町ベタニアに住んでいる三人の友人-マリア、マルタ、ラザロ-の所に滞在されたのです(ヨハネ11)。

・十戒:

あなた(がた)には、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなた(がた)はいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなた(がた)はそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなた(がた)の神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者(たち)には、父祖(たち)の罪を子孫(たち)に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者(たち)には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。あなた(がた)の神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者(たち)を主は罰せずにはおかれない。安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなた(がた)の仕事をし、七日目は、あなた(がた)の神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなた(がた)も、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなた(がた)の町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。あなた(がた)の父母を敬え。そうすればあなた(がた)は、あなた(がた)の神、主が与えられる土地に長く生きることができる。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。隣人に関して偽証してはならない。隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」(出エジプト記20:3-17)

・同胞を正しく裁きなさい:

あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなた(たち)は弱い者(貧しい人々)を偏ってかばったり、力ある者(たち)におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。民の間で中傷をしたり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない(隣人の血によって利益を得てはならない)。わたしは主である。心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。(レビ記19:15-18)

・姦淫の罪に対する刑罰:

■人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。(レビ記20:10)

■男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない。(申命記22:22)

■ある男と婚約している処女の娘がいて、別の男が町で彼女と出会い、床を共にしたならば、その二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さねばならない。(申命記22:23-24)

・証人としての責任:


■誘惑する者に同調して耳を貸したり、憐れみの目を注いで同情したり、かばったりしてはならない。(申命記13:9)


■死刑の執行に当たっては、まず証人が手を下し、次に民が全員手を下す。あなた(がた)はこうして、あなた(がた)の中から悪を取り除かねばならない。(申命記17:7)


・イエス様の権威:

 

「わたしもあなたを罪に定めない」の他に、十字架上の犯罪人の一人にも「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。(ルカ23:43)


・人を裁くな:イエス様の山上の説教(マタイ7:1-5)から


■人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。

(メッセージの要旨)

*律法制定の趣旨が歪(ゆが)められているのです。イスラエルの人々はエジプトの国を出て三月目にシナイの荒れ野に到着したのです。神様は「今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである」と言われたのです(出エジプト記19:5)。モーセを通して十戒(律法)が授けられたのです。神様を恐れる民に、モーセは「恐れることはない。神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたたちの前に神を畏(恐)れる畏(恐)れをおいて、罪を犯させないようにするためである」と言ったのです(出エジプト記20:20)。律法は神様が示されたご自身の民への愛なのです。「神の国」の到来を福音として宣教されるイエス様と律法学者たちやファリサイ派の人々の間に律法の解釈について対立が生じているのです。イエス様は「あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。・・外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている」と非難されたのです(マタイ23:27-28)。律法に基づいて裁いていると主張する人々が罪を犯しているのです。彼らに人を裁く資格はないのです。出来事はキリスト信仰の本質を考える上で示唆(しさ)に富んでいるのです。罪を犯した女性は弁明していないのです。ところが、彼女の罪は赦されたのです。信仰を自負する人々も罪人なのです。彼らに信仰を問い直す機会が与えられたのです。

*指導者たちは証人たちから女性の罪について報告を受けているのです。彼らは律法に精通しているのです。律法の規定によって女性を処刑する方法はすでに決定されているのです。ところが、敢(あ)えてイエス様に質問しているのです。お答えがどちらになっても、イエス様から民衆の尊敬と信頼を奪うことが出来ると考えているのです。石打の刑を支持すれば「神様の愛」を証して来たイエス様の宣教姿勢は偽りだったことになるのです。十戒に示された姦淫の罪を赦(ゆる)せば「神様の正義」を無視することになるのです。一方、指導者たちの告発には幾つかの問題があるのです。女性が捕らえられているのであれば、男性も捕らえられているはずなのです。姦淫の罪を犯したもう一人の当事者がこの場にいないのです。その理由が説明されていないのです。女性が婚約しているか結婚しているかによって刑の執行方法に違いがあるのです。婚約者に不誠実な女性は姦淫の相手と共に石打の刑で処刑されるのです。他の男性と親しくなった妻も処刑されるのですが、律法に処刑方法についての指示はないのです。「口述の言い伝え」(律法と同等の効力)によると、不倫の妻は絞殺されるのです。この女性は婚約していたであろうと推測されるのです。指導者たちは女性に口述規定を厳格に適用するのです。ところが、同じ罪を犯した相手はどこかに隠れているのです。女性への裁きが終われば男性の罪は不問にさるのです。そこには律法が求める正義が見られないのです。指導者たちは恣意的(しいてき)に律法を解釈しているのです。彼らは偽善者なのです。

*指導者たちは女性を群衆に囲まれたイエス様の前に連れて来て、公衆の面前で処刑しようしているのです。イエス様を片隅に呼んで密かに尋ねることも出来たのです。彼らは狡猾(こうかつ)です。イエス様を罠(わな)にかけようと画策するのです。女性(の罪)がイエス様の権威を失墜(しっつい)させるための手段として用いられているのです。指導者たちにとって、イエス様に刑の執行の可否を判断させることが重要なのです。律法の順守には何の関心もなかったのです。しかし、イエス様は全く別の次元で彼らの罪を非難されるのです。イエス様は刑の執行人の要件として「罪を犯していないこと」、「道徳的に完全であること」を挙げておられるのではないのです。彼らの告発には初めから不正があるのです。申命記の規定を順守していないのです。正当な手続きを経ていない告発は無効であると言われているのです。姦淫の現場を目撃して証人となった人々には最初に石を投げることが義務付けられているのです。証人たちは律法違反がないかどうかを吟味するのです。指導者たちも律法の解釈において大きな責任を負っているのです。一方、ユダヤが家父長(男性中心の)社会であることも認識する必要があるのです。性に関する諸規定に違反した男性の罪が寛大に取り扱われているのです。イエス様は社会に偽善と不法が横行していることを指摘されたのです。証人や指導者たちだけではなく、集まっていた人々も黙ってその場を去ったのです。イエス様はご自身の権威によって彼らの罪を問われなかったのです。女性にも罪の赦しを宣告されたのです。

*神様はだれも裁かず、裁きは一切御子に任(まか)せておられるのです(ヨハネ5:22)。イエス様は「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われるのです(マルコ2:17)。罪人が罪を悔いて神様の下に帰り、新しい道を歩めるように導かれるのです。罪に死んでいる人々に再び命を与えられるのです。指導者たちは律法の解釈を歪曲(わいきょく)することによって「神の国」から遠ざかったのです。しかも、そこに入ろうとする人々に誤解を与えて「救い」を妨げているのです。彼らは「神様の御心」の実現とキリスト信仰の普及に大きな障害となっているのです(マタイ23:13)。女性が悔い改めを表明したかどうかについて分からないのです。しかし、イエス様は女性の苦難と深い悲しみをご存じなのです。すべてを承知の上で「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言われたのです。罪の原因は女性にもあるのです。しかし、社会的な要因が小さくないことは事実なのです。今日とは比較にならないほど男尊女卑の社会です。女性は子供を産む道具だったのです。実質的に物として扱われたのです。姦淫の罪を犯した女性が社会で生きることは極めて困難です。イエス様は男性支配の下で苦しむ女性を憐れまれたのです。共にいて彼女を支えられるのです。キリスト信仰とは「神様の御心」に沿って生きることです。人を裁く権限は誰にも付与されていないのです。律法は罪人を生かすためにあるのです。

*イエス様によって姦淫の罪を犯した女性が赦されたのです。罪を犯した人々に生きる希望を与えるのです。しかし、ユダヤ人の信仰共同体が男性中心の社会であったこと、婚約や結婚は両親によって決められていたこと、律法学者たちやファリサイ派の人々とイエス様との間に鋭い対立があったことを考慮して読み直すと別の視点が浮かび上がって来るのです。イエス様は律法を厳格に守っているように見せかけながら、不法を謀議する律法学者たちやファリサイ派の人々と同調者たちのダブルスタンダードを厳しく非難されたのです。イエス様のお言葉を聞いた後、姦淫の罪を犯した女性に石を投げた人は一人もいなかったのです。律法によれば証人(たち)は最初に石を投げなければならないのです。ところが、これらの人は石を投げることが出来なかったのです。指導者たちも当然石を投げなかったのです。罪を自覚していたからです。イエス様を陥れるために、指導者たちや複数の証人、相手の男性が共謀していた可能性もあるのです。いずれにしても「神様の正義」が軽んじられているのです。キリスト信仰を表明する人々は個人的な道徳心や倫理観を大切にするのです。ところが、正義や公平への関心は極めて希薄なのです。神様はアブラハムに正義を実行するように命じられたのです(創世記18:19)。社会悪に沈黙することもまた罪なのです。イエス様にのみ人を裁く権限が委ねられているのです。教会(人間)は罪人たちが立ち直る機会を奪ってはならないのです。罪人を裁く資格があるかのように誤解している人々こそ悔い改めるべきなのです。

2023年08月06日

「打ち砕かれた悪霊の支配」

Bible Reading (聖書の個所) マルコによる福音書3章20節から30節


イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。はっきり言っておく。人の子ら(人々)が犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜(ぼうとく)する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

(注)

・身内の人たち:イエス様の母と兄弟たちのことです(マルコ3:31)。

・律法学者たち:ユダヤ教の律法を専門的に解釈していた人々です。イエス様の主要な敵対的グループの一つです。

・ベルゼブル:「住まいの主」(マタイ10:25)、「ハエ(蝶やトンボ)たちの主」(列王記下1:2)を意味する言葉が語源です。人間を支配する闇の力です。イエス様と悪魔の最初の闘いは荒れ野で行われたのです(ルカ4:1-13)。「人はパンだけで生きるものではない」、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」、「あなたの神である主を試してはならない」のお言葉で誘惑を退けられたのです。

・サタン:元は天使の一人です。告発する者と呼ばれています。

■七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇 やさそり(悪の象徴)を踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」 (ルカ10:17-20)。

■さて、天で戦いが起こった。ミカエル(大天使の一人)とその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、年を経た(古代の)蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた(黙示12:7-9)。

・三位一体:イエス様は11弟子に「・・あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け・・なさい」と言われました(マタイ28:19)。神様(父)とイエス様(子)と聖霊様(霊)の関係性を神学的に説明するお言葉です。初代キリスト教会の信徒たちは、礼拝において神様を讃える時「栄光が、聖霊において、子を通して、父なる神に帰せられるように」、神様の祝福を求める時「父なる神の祝福が、子を通して、聖霊において、あなたがたの上にあるように」と表現していたのです。神様とイエス様と聖霊様は一体なのです。「イエス・キリストを学ぶ」(百瀬文晃著)から。

・レギオン:およそ6千人からなるローマ軍の連隊もこのように呼ばれていました。「二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。」は、エジプトのファラオ王がイスラエルの民を追跡するために派遣した軍隊が紅海において敗北した姿を想起させるのです。

・神の国:天の国とも呼ばれています。イエス様の宣教の中心テーマは「神の国」-神様の主権-の実現にありました。福音(良い知らせ)はご自身の「力ある業」(奇跡)、「十字架の死と復活」によって明らかにされたのです。牢にいた洗礼者ヨハネは、自分の弟子たちを送って「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」と尋ねさせました。イエス様は、「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人(人々)は見え、足の不自由な人(人々)は歩き、重い皮膚病を患っている人(人々)は清くなり、耳の聞こえない人(人々)は聞こえ、死者(たち)は生き返り、貧しい人(人々)は福音を告げ知らされている」と答えられたのです(マタイ11:2-5)。

・イザヤの預言:「わたしたちの患いや病」はバビロンへの捕囚の民となったイスラエルの苦難のことです。紀元前587年に起こった歴史的大事件です。


(メッセージの要旨)


*イエス様は「神の国」の到来を言葉で語るだけではなく、具体的事実-癒しの業や奇跡-によって証明されたのです。不信仰なユダヤ人たちに「わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているならば・・その業を信じなさい」と言われたのです。神様がイエス様の中におられ、イエス様は神様の内におられるのです(ヨハネ10:37-38)。イエス様が中風の人の罪を赦された時、律法学者たちは「この人は・・神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と心の中で呟(つぶや)いたのです。イエス様は「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言って、中風の人の病も癒されたのです。当時、病は罪を犯した結果であると考えられていたからです。彼らはイエス様が罪人や徴税人たちと一緒に食事をされるのを見て非難したのです。イエス様は「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われたのです(マルコ2:1-17)。イエス様が安息日に会堂に入られると、そこに汚れた霊に取りつかれた男性がいたのです。悪霊に「この人から出ていけ」と命じられると大声を上げて出て行ったのです。イエス様の評判はガリラヤ地方の隅々に広がったのです(マルコ1:21-28)。既得権益に執着する律法学者たちは「御子の権威」を認めないのです。イエス様を貶(おとし)めるために三位一体の神様を冒涜するのです。その罪は赦されないのです。

*イエス様は悪霊の頭をサタンと呼ばれたのです。ガリラヤ地方で宣教を始める前に荒野でこのサタンから誘惑を受けられたのです。悪魔はイエス様を非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言ったのです。イエス様は「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』(申命記6:13)と書いてある」などと反論して誘惑を退けられたのです。イエス様は徹底して神様の戒めに準拠されたのです。ご自身の経験から、苦難に遭遇している人々に「勇気を出しなさい。わたしは既(すで)に世(悪魔の支配)に勝っている」と言われるのです(ヨハネ16:33)。サタンは「神の子」さえも誘惑するのです。信仰深い人を神様に敵対させるために機会を窺(うかが)っているのです。ヨブは無垢(むく)な正しい人で、神様を畏れ、悪を避けて生きていました。ところが、サタンはヨブの信仰を試みるために想像を絶する苦難を与えたのです。ヨブは悲しみの中にあっても「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と言ったのです(ヨブ記1:1-2:10)。ヨブは試練に遭遇しても神様を非難する罪を犯さなかったのです。12使徒の一人であるイスカリオテのユダはサタンの声に耳を傾け、イエス様を裏切ったのです(ヨハネ13:2)。最も近くにいたユダが「神の子」を捨てたのです。思いがけないことが起こるのです。信仰が篤い人でも、油断をすれば一瞬にしてサタンの罠(わな)に陥るのです。


*悪霊の頭に名前があるように「レギオン」(大勢)という名前の汚れた霊がいるのです(マルコ5:1-20)。この悪霊に取りつかれた人がイエス様を見ると走り寄って平伏し「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」と叫んだのです。自分たちをこの地方から追い出さないでほしいと願ったのです。結局、2千匹ほどの豚の中に入って崖から下り、湖の中でおぼれて死んだのです。「神の国」の福音が人間の「全的な救い」として実現することを予見させるのです。「レギオン」は戦闘に長け、残虐なローマ軍の連隊を表す言葉だったからです。「レギオン」はイスラエルに取り憑いて(占領して)いたのです。イスラエルを力で押さえつけて支配しているのです。イエス様の「悪魔祓(ばら)い」はローマ軍の傍若無人な行動に対するユダヤ人たちによる反乱を象徴する出来事なのです。この男性は昼も夜も墓場や山で叫び、石で自分を打ちたたいていました。自らを傷つける行為にイスラエルの悲惨な姿が現れているのです。福音書には「弱り果て打ちひしがれた人々」、「精神を病んでいる人々」、「体の不自由な人々」、「物乞いをする病人」、「出血が止まらない女性」、「土地を奪われた農夫たち」の様子が記述されています。これらは個人的な問題というよりも、社会不安や極度の緊張がもたらした結果なのです。追いはぎや強盗に襲われた人々、暴動や殺人の罪で投獄されている人々もいるのです。イエス様が宣教された地方の犯罪率は極めて高いのです、まさに、人々は汚れた霊に苦しめられているのです。


*安息日に病人を癒しておられるイエス様を非難しているのはガリラヤ地方の律法学者たちだけではないのです。エルサレムから下って来た律法学者たちも「神殿政治」を揺るがすイエス様を社会から抹殺するために画策するのです。彼らの目的はイエス様を「神様を冒涜する者」として処刑することなのです。しかし、民衆がそれを許さないのです。そこで、ローマ帝国の当局者に「政治犯」として引き渡し処刑させようとしたのです(マルコ10:32-34)。古代イスラエルにおいて「気が変になっている」とは悪霊に取り付かれていることです。悪霊に取りつかれている人は悪霊に支配されているのです。律法学者たちはイエス様の「癒しの業」をサタンの働きであるかのように強弁するのです。イエス様の権威を失墜させるために「あの男はベルゼブルに取りつかれている」、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と非難するのです。イエス様は「神の子」ではなく、「神の子」を騙(かた)るサタンの子分にするのです。イエス様が神様の独り子であることを否定する誹謗(ひぼう)なのです。エルサレムでもユダヤ人たちがイエス様について何度も「悪霊に取りつかれている」と言っているのです(ヨハネ7:20;8:48;10:19)。神様とイエス様と聖霊様が並列的に説明されているのです。父と子と聖霊のように簡略化されて語られているのです。しかし、三位(三人のお方)は天地創造以前から一体なのです。イエス様は聖霊様によって「神様の御心」を証しされたのです。律法学者たちは犯した罪によって永遠の罰を招くことになったのです。


*人々は悪霊に取りつかれた者を大勢イエス様の所に連れて来たのです。イエス様は言葉で悪霊を追い出し、病人たちを癒されたのです。それは預言者イザヤを通して言われていたこと-彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った(イザヤ書53:4)-が実現するためだったのです(マタイ8:16-17。イエス様を否定しようとしてもイエス様の「力ある業」が人々を信仰に導くのです。多くのユダヤ人が「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている」と言ったのですが、中には「悪霊に取りつかれた者が神様について語ることはないし、悪霊は盲人の目を開けることは出来ない」という人もいたのです(ヨハネ10:20-21)。イエス様の「癒しの業」の中に神様が働いておられることを信じたのです。イエス様はベールに包みながら「レギオン」に取り憑かれた男性をイスラエルの現状に譬えられるのです。「レギオン」が持つ破壊力や残虐性はローマ軍の特徴と一致するのです。イスラエルの人々への虐待はローマ軍(汚れた霊)の仕業なのです。ローマ帝国に協力するユダヤ人指導者たちの過酷な搾取と不誠実な政策にも原因があるのです。民衆の窮状は個々人が招いたものでも罪を犯したからでもないのです。イエス様は今日の信徒たちにも問題に対処する力があることを教えられるのです。イエス様がすでに汚れた霊の鎖(くさり)を打ち砕いて下さっているのです。「救い主」を信じる人々は自分たちを責めるのではなく、勇気を持って堂々と汚れた霊たちの名前(例えばレギオン)を明らかにし、彼らの悪業を告発するのです。

2023年07月30日

「異邦人たちの信仰」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書7章1節から10節 

イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。ところで、ある百人隊長に重んじられている部下(奴隷)が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下(奴隷)を助けに来てくださるように頼んだ。長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下(奴隷)に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下(奴隷)は元気になっていた。

(注)


・日本語訳では部下、僕が混在して誰が病気なのか分かりにくいのです。病気にかかっているのは百人隊長の部下の兵士ではなく、僕(奴隷)の一人なのです。


・これらの言葉:有名な「平地の説教」のことです(ルカ6:17-49)。

・カファルナウム:ガリラヤ湖の西北に位置しています。漁業、交易の中心地です。


・百人隊長:100人以上の兵士を指揮するローマ軍の下級士官です。ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの配下にあり、カファルナウムとその近郊の治安を守っていました。


・シドン:ガリラヤ地方の北にある地中海沿岸の町です。異教の神バール信仰が
盛んでした。

・サレプタのやもめ:シドンの南に位置するサレプタにおいても異教の神バールが崇められていました。この町に住む信仰心の篤(あつ)いやもめは偶像礼拝を拒否したのです。列王記上17:1-16をお読み下さい。


・ナアマン:アラム(シリア)軍の勇猛な司令官です。神様はこの異邦人を用いて罪を犯し続けるイスラエルの王を罰し、アラムの王に勝利を与えられたのです(列王記上22:1-40)。この人は重い皮膚病を患っていました。しかし、神の人エリシャの言葉に従ってヨルダン川で体を洗ったのです。すると、元どおりになったのです(列王記下5:1-14)。

・カイサリア:エルサレムの北にある地中海沿岸の町です。ここにはユダヤを管轄するローマ帝国の行政府が置かれていました。

・ヤッファ:エルサレムの北西にある地中海沿岸の町です。

・昔の人の言い伝え:長老たちによる口述伝承のことです。ファリサイ派の人々によって律法と同等の戒めとして扱われたのです。かつてこの教えに従っていたパウロは自らの誤りを認めています(ガラテヤ1:14)。

(メッセージの要旨)

*ユダヤ人たちは神様から選ばれた民であることを自負していました。一方、異邦人たちを罪人として蔑(さげす)んでいたのです。ところが、イエス様を通して「神の国」(天の国)-神様の支配-が到来しているのです。新しい天地創造が始まっているのです。彼らはこの事実を受け入れなかったのです。イスラエルの不信仰は時代を経ても変わらないのです。イエス様はナザレの会堂で「預言者エリヤの時代に三年六か月の間雨が降らず、その地方一体に大飢饉が起った時、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中の誰の下にも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめの下にだけ遣わされた」、「預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった」と非難されたのです。出席者は憤慨してイエス様を崖(がけ)から突き落として殺そうとしたのです(ルカ4:25-27)。ローマ帝国の支配下にあったカファルナウムに百人隊長がいました。異邦人でありながらユダヤ教の神様を畏(おそ)れていたのです。ユダヤ教の会堂の建設に大きな貢献をし、奴隷の病気を治すために東奔西走しているのです。治安維持を担う権力者のようにではなく、ユダヤ教の信奉者-改宗者ではない-として、イエス様に召し使いの癒しを申し出たのです。奴隷は直ちに回復したのです。百人隊長は「行い」によって信仰を表しているのです。イエス様はこの人の「信仰」を高く評価されたのです。悔い改めに相応しい「生き方」を示した人の願いは聞き入れられるのです。

*新約聖書はこの他にも三人の百人隊長を好意的に取り上げています。最初の人はイエス様の処刑に立ち会った百人隊長です。既に昼の十二時ごろです。全地は暗くなり、それが午後三時まで続いたのです。太陽はその光を失っていました。エルサレム神殿の垂れ幕が真ん中から裂けたのです。イエス様は大声で叫ばれました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言って、息を引き取られたのです。百人隊長はこの出来事を見て「本当に、この人は正しい人だった」と神様を賛美したのです(ルカ23:44-47)。次の人はカイサリアに駐屯していた「イタリア隊」のコルネリウスです。信仰心あつく、一家そろって神様を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず祈っていたのです。彼は天使の指示を受けてヤッファにいたペトロを自宅に招いたのです。ペトロはコルネリウスの親類や親しい友人の前でイエス・キリストを証ししたのです。御言葉を聞いている人々の上に聖霊様が降ったのです。この出来事は「異邦人のペンテコステ」と呼ばれています(使徒10:1-48)。異邦人のクリスチャンたちが初めて誕生したのです。三番目の人はパウロをローマへ護送していた皇帝直属部隊のユリウスです。彼はパウロを親切に扱い、友人たちの所へ行くことを許したのです。船が難破した時、兵士たちは囚人たちが泳いで逃げないように殺そうとしたのですが、百人隊長はパウロを助けるために彼らの行動を制止したのです(使徒27:1-44)。異邦人であり、権力者側に立つ百人隊長であっても、それぞれの置かれている場所において「信仰」を証明したのです。

*ユダヤ人たちは異邦人たちを軽蔑していました。使徒の中の使徒であるペトロもそのような考え方の影響下にあったのです。百人隊長コルネリウスに招かれた時「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています」と言っています。ペトロは異邦人との交際禁止の根拠を律法に求めています。ところが、神様はペトロを戒めて「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と言われたのです(使徒10:11-15)。律法に「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏れるべき神、人を偏り見ず、賄賂(わいろ)を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる」と記述されているからです(申命記10:17-18)。しかし、ユダヤ人たちにはもう一つの「律法」-昔の人の言い伝え-があるのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちはそれを恣意的(しいてき)に解釈しているのです。自分たちの利益のために「神様の掟」を軽んじているのです。イエス様は預言者イザヤの言葉「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている」(イザヤ書29:13)を引用して、彼らの不信仰と腐敗を非難されたのです(マルコ7:1-13)。ペトロも「昔の人の言い伝え」を厳格に守っていたのです。回心した元ファリサイ派のパウロもかつては同じだったのです。信徒への手紙の中で過ちを告白しているのです。

*イエス様はある律法学者の質問に「神様と隣人を愛しなさい」(マルコ12:28-31)、ユダヤ人たちが交際を頑(かたく)なに拒否するサマリア人の善い行いを例に挙げて「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ10:25-37)と答えられたのです。「知的信仰」に陥(おちい)っている人々に警鐘(けいしょう)を鳴らしておられるのです。イエス様が再び地上に来られる時、すべての民族は御前に集められるのです。一人一人の「行い」に応じて裁か行われるのです。すでに、イエス様は「裁きの基準」について明らかにしておられるのです。最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実践したかどうかがその人の「救い」を決定するのです。人々が左右のグループに分けられています。右側にいる人々を祝福して「あなたがたは、わたしが飢(う)えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢(ろう)にいたときに訪ねてくれたからだ」と言われたのです。正しい人たちが「主よ、いつわたしたちは、それらのことをしたでしょうか」と質問しています。「わたしの兄弟であるこの(これらの)最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と説明されたのです。一方、左側には貧しい人々や虐(しいた)げられた人々に援助の手を差し伸べなかった人々がいるのです。これらの人には「永遠の罰」が宣告されたのです(マタイ25:31-40)。「神様の愛」を具体化しない信仰は空(むな)しいのです(ヤコブ2:17)。


*イエス様はユダヤ人たちに「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」と言われました(ルカ6:46)。異邦人の百人隊長の「行い」は「神様の御心」に適(かな)っているのです。ユダヤ人たちから罪人として蔑まれた一人の異邦人が「救い」に与っているのです。キリスト信仰とはイエス様の教えを理解することだけではないのです。イエス様の「生き方」に倣(なら)って信仰を具体化することなのです。イエス様が高く評価された百人隊長の信仰には「罪の自覚と悔い改め」、「会堂建設の支援」、「奴隷への思いやり」が見られるのです。信仰は告白するだけではなく「行い」によって本物になるのです。「神様の御心」が百人隊長の「行い」を通して人々に伝えられているのです。信仰が唯一の「救いへの道」であると言われています。しかし、ファリサイ派の人々がそうであったようにキリスト信仰を標榜する人々も意味を誤解しているのです。イエス様は機会あるごとに信仰における「行い」の重要性を強調されたのです。キリスト信仰とは「神の国」の福音を信じ、「行い」によって証しすることなのです。教派に属していることや教義を理解していることが「救い」の保障にはならないのです。「神様と隣人」を愛したかどうかがその人の「救い」を決定するのです。この重要な教えに言及されることが少ないのです。他の宗派-仏教や神道など-に属している人々がそれぞれの教義に基づいて隣人愛を実践しておられるのです。キリスト信仰においても、先ず、傲慢(ごうまん)を悔い改めるべきなのです。

2023年07月16日

「あなたも悔い改めなさい」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書7章36節から50節


さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。


(注)


・イエス様がファリサイ派の人から食事に招待された例は他にもあります。ある食事の席ではファリサイ派の人々や律法学者たちの偽善と腐敗を厳しく非難されました(ルカ11:37-54)。別の席では安息日に病気を癒すことが律法に適っていること論証し、彼らを黙らせられたのです(ルカ14:1-6)。

・女性がイエス様に香油を注いだ例が他の福音書にも伝えられています。マタイ26:6-13、マルコ14:3-9、ヨハネ12:1-8 を参照して下さい。四福音書が共通して取り上げている数少ない出来事の一つです。


・金貸し:祭司たちの中にはお金を貸している人もいました。金貸しの寛大な振る舞いだけではなく、律法に反して農民たちを苦しめる金貸したちの強欲さにも注目すべきなのです(出エジプト記22:14)。五十年目に担保の土地を無条件で元の所有者に返す規定-ヨベルの年-についてはレビ記25章に記述されています。


・50と500デナリオン:1デナリオンは当時の平均的労働者の一日の賃金に相当します。現代に当てはめると、8000円であれば40万円と400万円になります。


・ファリサイ派:ユダヤ教の律法を生活のあらゆる分野で形式的に適応した宗教グループです。マタイ15:1-20に具体例が挙げられています。「ファリサイ」は「分離する」と言う意味です。自分たちが罪人ではないことを宣言しているのです。イエス様に敵対する主要な勢力の一つです。


・やもめの生活:彼女たちの生活は大変厳しいものでした。そこで、神様は「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる」(申命10:17-18)、「主は寄留の民を守り/みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる」(詩篇146:9)とあるように、孤児ややもめを養われるのです。旧約聖書ルツ記、列王記上17章、列王記下4章、新約聖書ルカによる福音書20章45-47節を併せてお読みください。

(メッセージの要旨)


*イエス様とシモンのやり取りは人がどのような信仰によって「神の国」(天の国)に迎え入れられるかについて明らかにしているのです。この物語は一般的にイエス様が罪深い女性の罪を赦された話として読まれています。しかし、もう一つの重要な観点から目を逸(そ)らしてはならないのです。女性を罪人として蔑み、信仰心を誇るシモンの信仰理解が問われているのです。シモンはファリサイ派の一員として律法を厳格に守り、「救い」に確信を持っていました。伝統的に招待者は招待客の顔にキスをし、足を洗い、頭に油を注ぐのが礼儀なのです。ところが、シモンは自分から願い出て食事に来て頂いたイエス様にそのどれをも行わなかったのです。非礼の極みなのです。男性支配の社会にあって女性は奴隷のように扱われていました。しかも、この女性は罪人としての重荷を負っていたのです。苦しみや悲しみは想像を絶するのです。一条の光を求めて、軽蔑の眼差しの中にあってイエス様に近づき、汚れた足を涙で濡らし、自分の髪の毛で拭い、キスをして高価な香油を塗ったのです。彼女の罪は赦されたのです。シモンはイエス様の新しい教えや様々な力ある業に興味を持っていました。イエス様が神様から召命を受けた預言者なのか、約束の「救い主」なのかを確認しようとしたのです。ファリサイの人がイエス様の預言者としての資質を確かめるために自宅に招いた例が他にもあります。いずれにおいても、イエス様が彼らの不信仰と律法解釈の誤りを厳しく非難される機会となったのです。物語は現代のファリサイ派の人々への警告になっているのです。


*この出来事は信仰を自負するシモンや同席の人々が自らの「救い」を閉ざしていることへの警鐘なのです。人々は律法が定める「道徳的な罪」には敏感に反応するのですが、自分の信仰に潜む「高慢の罪」には寛容であるか無関心なのです。人は信仰-厳密に言えば「行い」を伴う信仰-によって「救い」に与るのです。ところが、信仰における「尊大さ」は警戒を怠ればその人の内で「死に至る病」となるのです。イエス様は弟子たちに繰り返し「自らを低くすること」の重要性について教えられたのです。心を入れ替えて子供のようにならなければ-社会から排斥された人々と共に歩まなければ-「天の国」(神の国)に入れないと言われたのです(マタイ18:1-5)。心身共に弱っている隣人を自分のように愛することは「救い」の要件なのです。イエス様はシモンの誤った信仰理解を正すために分かり易い例で説明されました。キリスト信仰は社会・経済・政治と深く関わっているのです。信仰とは信じることではないのです。戒めを忠実に実践する「生き方」のことなのです(マルコ12:29-31)。農業は現在よりももっと自然に左右されていました。農夫たちは不作や凶作の時に土地を担保に金貸しからお金を借りたのです。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンです。金貸しは返すお金がなかった二人の借金を帳消しにしたのです。この人は律法に従って両方の負債を免除したのです(申命15:1-11)。イエス様は女性に援助の手を差し伸べなかったシモンに神様の前に正しい人とはこのような人であると言われたのです。


*神様からイエス様に「救い」を決定する権限が委ねられているのです(ヨハネ5:22)。イエス様はシモンに「神様の戒め」を守っているかと問われているのです。彼も罪を犯しているからです。神様の目にはすべての人が罪人なのです。あなたに人を裁く資格はないと言われているのです。ただ、極めてまれに神様が認められた非の打ちどころのない人もいるのです(ルカ1:5-6)。神様の前で自分が義人であると主張する人は偽り者なのです。女性はだれもが認める罪人です。しかし、どのような罪を犯したかについては記述されていないのです。ところが、シモンのような人々は彼女の罪の原因に同情することなく、様々な罪を当てはめて罪人の仕上げをするのです。例えば彼女が売春婦であったかのように断定するのです。高価な香油はその仕事で得たお金を貯めて購入したかのように言うのです。イエス様は罪深い女性の置かれている状況を憐れまれたのです。男性が支配する家父長社会にあって妻は夫の従属物なのです。子供は父親の所有物なのです。生産手段(土地)を持たない女性や子供は男性に依存しなければ生きて行けないのです。旧・新約聖書は彼らの生活がどれほど悲惨であったかを伝えています。確かに女性は多くの罪を犯したのです。しかし、その原因は個人に由来するというよりも社会制度や慣習が彼女を追い詰めた結果なのです。罪深い女性を赦されたイエス様の愛の広さ、深さから学ぶのです。人を裁いてはならないのです。大切なことは自分の信仰を吟味することなのです。「悔い改め」のない信仰に「救い」はないからです。


*キリスト信仰においては、イエス様への応答の如何がその人の運命を決定づけるのです。シモンはイエス様を食事に招待したのですが神様から遣わされた預言者としては認めなかったのです。もちろん自分が罪人の一人であることなど夢にも考えていなかったのです。ところが、罪深い女性は犯した罪に苦しんでいました。律法主義は罪を罰するだけで罪人に「救い」への道を示さないのです。この女性は中風の人の罪が赦された話を聞いていたのかも知れません(ルカ5:20)。イエス様が「救い主」であることを信じたのです。イエス様に近づく機会が与えられたのです。「行い」によって「罪の赦し」に感謝したのです。女性は終始無言でした。信仰は言葉ではないのです。「行い」を通して初めて信仰が本物であることを証明するのです。神様は人を偏り見ず、孤児と寡婦の権利を守られるお方なのです。イエス様は女性が悔い改めていることをすでにご存知でした。それ故に「この人が多くの罪を赦されたことはわたしに示した愛の大きさで分かる」と言われたのです。人々から蔑まれた罪深い女性は信仰と「行い」によって罪を赦されたのです。神様に守られて「新しい道」を歩むことになったのです。「神様の愛」は尽きることがないのです。シモンはイエス様を信じていなかったのです。イエス様を軽んじていることは非礼な態度に如実に表れているのです。罪深い女性を非難するだけで、彼女を支えるために何かを申し出ることはなかったのです。信仰の驕(おご)りと隣人愛の欠如はシモンと同席者たちを「永遠の命」から遠ざけているのです。


*キリスト信仰とは信じることではなく、信じたことを「行い」によって証しすることなのです。信仰と「行い」を切り離すことは出来ないのです。ファリサイ派のシモンは律法を守ることによって信仰心を誇っていたのです。罪深い女性を蔑み、もちろん交際することもなかったのです。罪人と関わることは罪を犯すことであると認識していたからです。ところが、イエス様はシモンの信仰理解の誤りを正されたのです。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われたのです(マルコ2:17)。「神の国」の福音はこのお言葉に要約されているのです。イエス様は人々の前で「神様の御心」を実行されるのです。罪深い女性がご自身の足を涙でぬらし、髪の毛でぬぐい、接吻して香油を塗ることを許されたのです。「行い」に表れた「悔い改め」をご覧になって「罪の赦し」を宣言されたのです。一方、律法主義によって信仰を自負するシモンや同席の人々の不信仰が裁かれるのです。人を裁く行為は「神様の主権」を軽んじる重大な罪なのです(ルカ18:9-14)。シモンには罪を犯しているという自覚がないのです。しかし、そのことによって彼の重大な罪が不問にされる分けではないのです。神様は一貫して真実で公平なお方です。罪を赦されたのは社会的評価の高いシモンではなく、社会から排斥された罪深い女性なのです。イエス様はシモンの罪を指摘し「救い」へ導こうとされているのです。悔い改めて「永遠の命」に与りなさいと言われているのです。

2023年07月09日

「このお方に目を向けなさい」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書6章1節から15節


その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。 大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。 イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。


(注)


・ティベリアス湖の向こう岸:ベトサイダ近郊のことです。聖書地図を参照して下さい。

・ティベリウス:ローマ帝国の皇帝、在位は西暦14年から37年です。イエス様はこの間に宣教されたのです。イエス様の先駆けとして遣わされた洗礼者ヨハネも同様です。

・ヘロデ・アンティパス:ガリラヤとペレアの領主です。紀元前4年に死去したヘロデ大王の三人の息子の一人です。イエス様はヘロデ大王の治世下で誕生されたのです。

・過越祭:ユダヤ教の三大祭の一つです。イスラエルの民がエジプトの圧政から解放されたことを記念しています。毎年、三月(四月)に行われていました。およそ10万人がエルサレムへ巡礼したのです。出エジプト記をお読み下さい(12:1-13:10)。他の二つ-七週祭と仮庵祭-については申命記に記述されています(16:1-8)。

・フィリポ:12使徒の一人です。

・アンデレ:最初の弟子であり、使徒にも選ばれています。

・1デナリオン:平均的労働者の一日分の賃金に相当します。二百デナリオンは多額です。

・大麦のパン:主に貧しい人々が食べていました。

・王(政治的指導者):当時多くのユダヤ人は預言者エリヤの再来(マラキ書3:23-24)を期待し、モーセのような預言者が起こされることを願っていたのです(申命記18:15)。一方、自分がその預言者であるとかローマ帝国から解放するために遣わされた「救世主」であると公言する人々もいたのです。ローマの総督ポンティオ・ピラトは、十字架に「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という罪状書きを掛けました(ヨハネ19:19)。「神の国」(天の国)の福音はこの世と相容れないのです。イエス様は権力者に「政治犯」として処刑されたのです。

・まぶねの中に:日本基督教団讃美歌委員会編集の讃美歌121番です。キリスト信仰とはイエス様に目を向けることなのです。

1) まぶねのなかに     うぶごえあげ
   木工(たくみ)の家に 人となりて
   貧しきうれい   生くるなやみ
   つぶさになめし   この人を見よ


2) 食するひまも   うちわすれて
   しいたげられし  ひとをたずね
   友なきものの   友となりて
   こころくだきし  この人を見よ

3) すべてのものを  あたえしすえ
    死のほかなにも  むくいられで
   十字架のうえに  あげられつつ
   敵をゆるしし   この人を見よ

4) この人を見よ  この人にぞ
   こよなき愛は   あらわれたる  
   この人を見よ   この人こそ
   人となりたる   活ける神なれ

・UNHCR: 国連難民高等弁務官事務所(The office of the United Nations High Commissioner for Refugees)の略称です。1950年に設立された国連の難民支援機関です。難民を守り、難民を支えているのです。

(メッセージの要旨)

*すべての福音書が取り上げている数少ない出来事の一つです。イエス様はわずかなパンと魚で貧しい人々の空腹を満たされたのです。5千人に食べ物を与えられた奇跡として有名です。その上に、神学的意味は深いのです。「何よりもまず、神の国(神様の支配)と神の義(神様の正義)を求めなさい。そうすれば、これらのもの(生活に最低必要な物)はみな加えて与えられる。」の正しさを事実によって証明されたのです(マタイ6:33)。これは神様の独り子イエス様を通して実現された「神様の御業」なのです。物語にはほとんど言及されることのない注目すべき点があるのです。ユダヤ人たちにとって最も大切な「過越祭」が近づいているのです。ところが、多くの人がエルサレム神殿ではなく、名もない一人の預言者の下に集まっているのです。ユダヤはローマ帝国の支配下にありました。民衆の一部は各地で散発的に蜂起して抵抗を試みているのです。しかし、ローマ軍の圧倒的な力の前に鎮圧されているのです。参加者たちは反乱の罪で拷問を受け、見せしめのために十字架上で処刑されたのです。こうした緊迫した政治状況において5千人の男性がローマの総督の許可を得ないで結集しているのです。群衆はイエス様がローマ帝国の支配から解放してくれる指導者になって下さることを切実に願っているのです。イエス様は彼らの悲痛な思いに共感しながらも、この世の王になることは「神様の御心」ではないことを表明されたのです。キリスト信仰とはイエス様の御跡を辿(たど)ることです。イエス様を自分のために利用することではないのです。

*イエス様はガリラヤを宣教の拠点にされたのです。ただ、祭りの時期にはエルサレムへ上られたのです(ヨハネ5:1)。ユダヤ教の伝統を厳格に守っておられたからです。福音書記者ヨハネは「食べ物の提供」の奇跡がガリラヤ湖の北東周辺で起こったことを記述しています。この湖はティベリアス湖と呼ばれています。ティベリアスはガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスがローマ皇帝ティベリウスの名前に因(ちな)んで西暦26年頃に建設した比較的新しい町です。ティベリアス、カファルナウム、マグダラ、コラジン、ベトサイダには良い港があり、漁業が盛んでした。一方、ガリラヤの内陸部は貧しい農村地域でした。農民たちは重税に喘いでいました。債務の不履行などが原因でヘロデ王朝に仕えるエリート貴族、ローマ帝国のために税金を上納する役人、祭司たちに土地を奪われたのです。すでに、カナの結婚式で水をぶどう酒に変えられた奇跡(ヨハネ2;1-11)やカファルナウムで王の役人の息子を癒された出来事(ヨハネ4:46-53)が人々をキリスト信仰へと導いていたのです。パンと魚で空腹を満たした群衆は先祖が預言者モーセによってエジプトの圧政から解放され、荒れ野でマナを食べたことを想起したのです。イエス様の「力ある業」は貧しい民衆に「神の国」-神様の支配-の到来を予感させたのです。このお方が約束された預言者であることを確信したのです。キリスト信仰はユダヤ教の歴史と密接に関わっているのです。イエス様が「神の国」の福音を伝えるために旧約聖書を数多く引用されていることからも分かるのです。

*「食べ物の提供」は神様がイエス様を通して働いておられることの証左なのです。イエス様が言われたように「力ある業」にはキリスト信仰の本質が現れているのです(ヨハネ10:37-38)。同時に、弟子になった人々には「神の国」の建設に参画することが求められているのです。ユダヤ人にとって最も重要な祭りの一つである「過越祭」が近づいているのです。ところが、開催場所と大祭司の権威がイエス様ご自身へと移行しているのです。人々は聖地エルサレムで捧げ物をする必要はないのです。辺境の地ガリラヤ近郊でイエス様から贈り物(食事)を賜(たまわ)っているのです。イエス様はご自身を「命のパン」(ヨハネ6:35)、「良い羊飼い」(ヨハネ10:11)、「まことのぶどうの木」(ヨハネ15:1)に例えられました。神様の権威がイエス様に委ねられているのです。フィリポは二百デナリオン分のパンでは足りないと言っているのです。神様は人間にとって不可能なことでも御心に適った願いであれば実現して下さるのです。イエス様は貧しい人々の窮状をご存じなのです。人々が求める前に必要な糧(かて)を与えられたのです。「神様の御心」が具体化しているのです。「神の国」の福音は言葉ではないのです。「行い」によって現実のものになるのです。キリストの信徒たちに新しい「生き方」が示さたのです。「神様の恵み」を受けた人々は感謝するだけではないのです。最も重要な戒めを実践して「神様の憐れみ」にお応えするのです。持っている人は持たない人に分け与えるのです。多寡(たか)の問題ではないのです。

*イエス様が模範を示された「新しい道」に生きるキリストの信徒たちは二つの戒めを実践する責務が生じるのです(マルコ12:29-31)。ただ、神様を愛することに熱心であっても貧しい人々に必要なものを届けることには無関心か消極的なのです。イエス様が命を賭(と)して「食べ物の提供」を行われたことを覚えたいのです。大きな集まりは参加者たちを極めて危険な状況に晒(さら)すのです。ローマの当局者たちの目に留まり易いからです。福音書記者ヨハネは参加者たちが一般的な人々ではなく「男たち」であることを明確にしているのです。「政治的な集会」であったことを強調しているのです。実際、5000人の男性の参加者数は侮(あなど)れないのです。反乱者として見なされる可能性は十分にあるのです。ローマ軍の連隊を構成する兵士の数はおよそ6千人であったからです。参加者たちはイエス様の預言者としての資質を認めたのです。自分たちの王にしてローマ帝国と闘おうとしたのです。ところが、「それ(食べ物の提供)からすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。」と書かれているのです(マルコ6:45)。イエス様は迫り来る弾圧から群衆を守ろうとされたのです。イエス様の深い愛が表れているのです。キリスト信仰はこの世の政治や経済と無関係ではないのです。「神の国」が到来していることは部分的に証明されたのです。しかるべき時に、人間の「全的な救い」として実現するのです。ただ、それには「悔い改め」が不可欠なのです。


*讃美歌121番にはキリスト信仰の真髄が表現されています。イエス様は「神の国」の福音を抽象的な言葉で語られなかったのです。「神の国」が到来していることを「力ある業」を通して証明されたのです。一方、神様と人間の関係を再定義されたのです。イエス様は神様と人間の仲介者になることを宣言されたのです。指導者たちが言うように「神様の憐れみ」は後で清算するべき負債ではなくなるのです。一方的な贈り物になったのです。神様はご自身の愛を無償で注がれるお方なのです。キリストの信徒たちに新しい「生き方」が提示されたのです。群衆は「食事の提供」を通してモーセの律法「・・貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、・・彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい(申命記15:7-8)、金を貸す場合貧しい借り手から利子を取ってはならない(出エジプト22:25)を実行するのです。「神の国」の到来を信じる人々によってこの世に正義と愛の秩序が回復するのです。UNHCRの6月号が「昨年は、ロシアによるウクライナへの侵攻が戦争へと発展し、多くの市民が国内外で避難生活を強いられる状況が続きました。他方、シリアの紛争は13年目に、イエメンの内戦は9年目に入り・・アフリカではコンゴ民主共和国などで暴力が続き、ソマリアなどでは干ばつと食料不足が深刻で、新たに多くの人が避難を強いられています。」と世界の人道危機を伝えています。イエス様に倣(なら)って、キリストの信徒たちは空腹を覚える人々に必要な物を届けるのです。

2023年07月02日

「聞くだけではなく、行いなさい」

Bible Reading (聖書の個所) ルカによる福音書6章17節から36節

おびただしい病人をいやす

イエスは彼ら(12使徒)と一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。(6:17-19)

幸いと不幸

さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」(6:20-26)

敵を愛しなさい

「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵(たち)を愛し、あなたがたを憎む者(たち)に親切にしなさい。悪口を言う者(ののしる者たち)に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者(たち)のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」 (6:27-36)


(注)

・ユダヤ:北のガリラヤ、中央のサマリア、南のユダヤに分かれていました。聖書地図を参照して下さい。


・ティルスとシドン:地中海沿岸の都市です。


・不幸である:原文にはもっと厳しい言葉が使われています。本来「・・に災いあれ」と訳されるべき言葉です。イエス様は必ずしも柔和なお方ではないのです。複数の聖書訳を比較して下さい。

・神様の祝福:


■主は言われた。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」(創世記18:17-19)

・隣人を愛しなさい:

■寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなた(たち)が彼(ら)を苦しめ、彼(ら)がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる。もし、あなた(たち)がわたしの民、あなた(たち)と共にいる貧しい者(たち)に金を貸す場合は、彼(ら)に対して高利貸しのようになってはならない。彼(ら)から利子を取ってはならない。もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。(出エジプト記22:20-26)

■穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者(たち)や寄留者(たち)のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは盗んではならない。うそをついてはならない。互いに欺いてはならない。わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなた(たち)の神の名を汚してはならない。わたしは主である。あなた(たち)は隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。・・心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。(レビ記19:9-18)

・神の国:天の国とも呼ばれています。神様の主権・支配を表す言葉です。死後に行く「天国」のことではありません。イエス様を通して「神の国」の到来が部分的に示されたのです。目の見えない人々は見え、足の不自由な人々は歩き、重い皮膚病を患っている人々は清くなり、耳の聞こえない人々は聞こえ、死者たちは生き返り、貧しい人々は福音を告げ知らされているのです(マタイ11:5-6)。いずれ、新しい天地創造として完成するのです。

・仮現論:初期のキリスト信仰における異端理論の一つです。イエス・キリストは地上におられた間、人間の肉体を持っておられなかった。ただ肉体があるように見えていただけであると説明するのです。このような観点から復活を認めなかったのです。この世-社会・経済・政治-から切り離して「霊的な側面」だけを強調するのです。

(メッセージの要旨)

*イエス様は宣教の第一声において「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と言われました(マルコ1:15)。イエス様の使命は人々に「神の国」の到来を告げることでした。神様がしかるべき時にこの世を終わらせて新しい天地を創造し、悔い改めてご自身の下に来る人は誰でも「神の国」に迎え入れられること(永遠の命に与ること)を福音(良い知らせ)として宣教されたのです。イエス様は敵対するファリサイ派の人々や律法学者たちを除いて、民衆の間で教師あるいは預言者として大きな支持を得ていたのです。福音を言葉だけでなく、力ある業(行い)によって証しておられたからです。イエス様の評判を聞いてユダヤ全土だけでなく、地中海沿岸の異邦人の町々からもおびただしい人が集まったのです。彼らの願いはイエス様の教えを聞くだけでなく「癒しの業」によって自分や家族を苦しめている様々な悩みや病気から解放されることにあったのです。便宜的に聖書をまとまりがある段落(小見出し)ごとに読むことがあります。今日の個所は「山上の説教」(マタイ5-7章)と対比される「平地の説教」(ルカ6章17-49節)からの抜粋です。イエス様は20-26節で「神様と人」との関係を、27-36節では「人と人」とのあり方を語っておられます。後者が日々との行動規範として取り上げられることが多いのです。一方、貧しい人々への慰めやお金に執着する人々への厳しい裁きについて言及されることがほとんどないのです。イエス様のメッセージを全体の文脈から切り離して恣意的に変容してはならないのです。

*ユダヤ人たちが経験した苦難の歴史を知っておくことは重要です。イエス様が宣教された「神の国」の福音をより正確に理解することが出来るからです。四福音書の記者たちはイエス様の両親(ヨセフとマリア)の経済状態(ルカ2:24)はもとより、イエス様がご生涯を通して出会った一般民衆の多くが指導者たちによって搾取され、抑圧され、貧しい生活を余儀なくされている現実をありのままに記述しているのです。ローマ帝国の重税と非人間的な取り扱いがこれらの人をさらに苦しめているのです。イエス様が虐げられている人々と共に歩まれたことは厳然とした事実なのです。ところが、伝統的な教会の多くはイエス様の時代における人々の深刻な状況に無関心なのです。それだけではなく、イエス様が社会的・経済的・政治的な腐敗や不正に関心がなかったかのように、人々の苦難や労苦に共感していたけれども問題解決に直接関与することを望んでおられなかったかのように歪曲(わいきょく)しているのです。このような信仰理解は血と肉の体で来られたイエス様の使命を曖昧(あいまい)にする現代の仮現論なのです。キリスト信仰が死後に行く「天国」にのみ関心があるかのように誤解されているのです。「神の国」の福音が「霊的な救い」に縮小されているのです。イエス様が30数年間この世で生活をし、貧しい人々の苦悩や悲しみを取り除くために奔走し、指導者たちを激しく非難された現実から目を逸(そ)らすことは福音を誤って伝えることになるのです。キリストの信徒たちには「神の国」の到来を正確に証しする責務があるのです。

*「平地の説教」と「山上の説教」には共通性があるのです。両方とも「幸い」で始まり「聞くだけでなく、行いなさい」で終わっているのです。マタイは9つの「幸い」を挙げています。ルカは4つの「幸い」の他に「山上の説教」にない4つの「不幸(災い)」を加えているのです。金持ちへの厳しい裁きが含まれている「平地の説教」よりも「山上の説教」が多く読まれる要因の一つになっているのです。しかし、大切な個所を恣意的(しいてき)に読み飛ばしてはならないのです。イエス様はガリラヤの会堂でイザヤ書を朗読されたのです。イザヤの言葉「主の霊がわたしの上におられる、貧しい人々に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである」を引用して、ご自身の使命を公に宣言されたのです(ルカ4:18)。その後の「平地の説教」においても「神の国」が貧しい人々のものであることを確認されたのです。一方「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)に「神様の御心」が表れているのです。すべての人に「救い」が及ぶのです。しかし、金持ちが「救い」に与ることは簡単ではないのです。「金持ちが神の国に入る よりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易(やさ)しい」からです(マルコ10:25)。徴税人の頭で金持ちのザアカイは、イエス様に「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたらそれを四倍にして返します」と言って「救い」を得たのです(ルカ19:8)。

*イエス様は悪意を持って尋ねる律法の専門家に「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」と言われました(マタイ22:37-40)。イエス様はファリサイ派の人々や律法学者たちに伝統的な教えの真髄(しんずい)を再定義されたのです。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。敵を愛しなさい。憐れみ深い者となりなさいと言われたのです。「平地の説教」において隣人-困難を覚える人々-への愛について具体的に指示されたのです。「山上の説教」にある「心の貧しい」が誤解されているのです(マタイ5:3)。「心のあり方」のことではないのです。人々の心を荒廃させている原因が圧政や貧困にあることが強調されているのです。「天の国」は苦難に喘(あえ)ぐ人々のものなのです。「富んでいるあなたがたは不幸である(災いあれ)」はお金に執着している人々への警告なのです。イエス様のお言葉を深刻に受け止めるべきなのです。富に対する姿勢はその人の「救い」を決定づけるからです。キリスト信仰の目的が「個人の罪からの救い」に限定されてはならないのです。イエス様が生と死と復活を通して証しされた「神の国」は人々の生き方を変えるのです(使徒1:3)。旧・新約聖書は一貫して「人間の全的な救い」として伝えているのです。ユダヤ教に個人主義的な考え方はないのです。キリスト信仰も同様なのです。

*イエス様は「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」と言われました。迫害する人々であっても、彼らの「救い」の有無をあらかじめ判断してはならないのです。イエス様が最終的に「救い」を判断されるからです(ヨハネ5:22)。物理的な暴力を行使する者たちには「非暴力」で抵抗するのです。担保になっている上着を奪い取る者には、下着を差し出して「経済的暴力(高利貸し)」の不当性に抗議するのです。貧しい人々が求めているものを拒んではならないのです。生きるために止むを得ず持ち物を奪った者から取り返そうとしてはならないのです。人に善いことをし、何も当てにしないで貸すのです。神様に倣(なら)って憐れみ深い者となるのです。一方、イエス様は「何よりもまず、神の国(神様の支配)と神の義(神様の正義)を求めなさい。そうすれば、これらのもの(最低限必要な衣食住)はみな加えて与えられる。」(マタイ6:33-34)と言われました。キリスト信仰において正義と愛が矛盾するかのような説明が行われているのです。「敵を愛しなさい」は彼らの不正や腐敗を容認することではないのです。病気や心身の障害、貧困や差別の主要な原因が社会・経済・政治制度にあることも事実なのです。伝統や慣習と密接に結びついていることもあるのです。隣人愛は個人的な善意に留まらないのです。社会の正義や公平の実現に取り組むことなのです。キリスト信仰とは信じることではないのです。「神様の御心」に沿って生きることなのです。

2023年06月18日

[The Widow's Offering]

Bible Reading Mark 12:38-13:2

Jesus Denounces the Scribes


As he taught, he said, ‘Beware of the scribes, who like to walk around in long robes, and to be greeted with respect in the market-places, and to have the best seats in the synagogues and places of honour at banquets! They devour widows’ houses and for the sake of appearance say long prayers. They will receive the greater condemnation.’


The Widow’s Offering


He sat down opposite the treasury, and watched the crowd putting money into the treasury. Many rich people put in large sums. A poor widow came and put in two small copper coins, which are worth a penny. Then he called his disciples and said to them, ‘Truly I tell you, this poor widow has put in more than all those who are contributing to the treasury. For all of them have contributed out of their abundance; but she out of her poverty has put in everything she had, all she had to live on.’

The Destruction of the Temple Foretold


As he came out of the temple, one of his disciples said to him, ‘Look, Teacher, what large stones and what large buildings!’ Then Jesus asked him, ‘Do you see these great buildings? Not one stone will be left here upon another; all will be thrown down.’


(Notes)

・A poor widow : she was, in truth, the only type of widow, because they were often counted among the poorest, most vulnerable, and voiceless in first-century Palestinian society- they have no security, no claim on property, no protection, and little resources.

・Small Copper Coins: the smallest in circulation at that time; A penny or a Roman quadrans was one sixty-fourth of a laborer’s daily wage.

・The oppression of economically vulnerable widows is castigated in Isa10:1-2 (Others in the Old Testament are Ps 94:1-7, Zech 7:10, Mal 3:5)

Ah, you who make iniquitous decrees,
who write oppressive statutes,
to turn aside the needy from justice
and to rob the poor of my people of their right,
that widows may be your spoil,
and that you may make the orphans your prey!

(A few comments)


-quoting some passages from “The politics of Jesus” wrote by Obery Hendricks-

・Today’s passage from Mark is a bit more complicated than most people might initially think. A classic reading of this remark has rendered the widow a heroin, someone worth emulating, a selfless giver who gives until it hurts, and so on. However, this may not be what Jesus is really getting at in this passage. We cannot read the story about the widow’s offering without taking into consideration the few verses that immediately precede this text.

・Prior to witnessing the widow’s offering, Jesus had been teaching his disciples about some systems of social inequity, of imbalance in the religious, political, and social structures of his day. This is not simply to contrast the wealthy with the poor, those who have a “surplus of wealth” from which they offer their gifts at the Temple versus those who have only their subsistence from which to draw. No, Jesus is painting a much starker picture that is, in effect, more about the wealthy scribes than it is about the poor, destitute widow.

・These scribes about which Jesus warns the disciples to be wary use their social location, power, and wealth only for themselves. Surely, as Jesus points out, they “give to the church” (to use a modern phrase), but they do so only in the most superficial and painless way. Their real concern is themselves, maintaining their wealth, and shoring up their hegemony at the expense of the poorest and most vulnerable of their time. Jesus clearly condemns this.

・If you think that this passage is about the widow or about how honorable the poor are for being generous, you are missing the point. We see a religious and political system that is run by a few wealthy and powerful individuals in those days. These are the entrepreneurs of the religious establishments, who “as a pretext” to fleecing the poor and the vulnerable “contribute out of their abundance and recite lengthy prayers” in show of their religious commitments and to paint the financial exchange “of God.”

・This is not an opportunity to praise the widow, but a chance to denounce the disgusting injustice that creates the condition for this scene. The widow’s offering is an illustration of what Jesus was just talking about- the religious, political, and social establishment has systematically corrupted her way of thinking such that she apparently feels compelled to give far beyond what likely hurts her and anyone, say children, who might depend on her.・

・A reading of Jesus’ comments that appears to hold the widow up on a pedestal is a perpetuation of this injustice that inflicted the widow of Jesus’ time and continues to affect the poor and vulnerable in our day. Hopefully we don’t miss the point of the widow’s offering, but instead follow Jesus’ line of thinking which makes a difference in our world. We should remember that the Lord said to His own people. Namely, “Act with justice and righteousness, and deliver from the hand of oppressor anyone who has been robbed.” (Jeremiah 22:3)

・The religious leaders did not repent their behavior. Jerusalem Temple was destroyed by the Roman Army in 70.

マルコによる福音書12章38節から13章2節

律法学者を非難する

イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で(尊敬を持って)挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」


やもめの献金

イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

神殿の崩壊を予告する


イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」


(注)

・貧しいやもめ:やもめの典型的な実態を表しています。1世紀のパレスチナ社会において多くの人々の生活は窮乏を強いられていましたが、その中でも、やもめの生活は最も貧しく、顧みられることはほとんどなかったのです。彼らには、身の安全の保障、財産の請求権、生活上の保護がなく、わずかな生活の糧しか残されていませんでした。

・レプトン銅貨:当時流通していた最も小さな通貨です。2レプトン銅貨は1クァドランス。1クァドランスは労働者の1日分の賃金の64分の1、例えば10,000円であれば約157円に相当します。

・経済的に脆弱なやもめへの抑圧行為は、イザヤ書10章1節から2節で厳しく非難されています。(詩編94章1-7節、ゼカリア書7-10節、マラキ書3章5節も参照して下さい。)

■災いだ、偽りの(不正な)判決を下す者/労苦を負わせる宣告文(抑圧を強いる法令)を記す者は。彼らは弱い(正義を必要とする)者の訴えを退け/わたしの民の貧しい者から権利を奪い/やもめを餌食とし(略奪し)、みなしごを略奪(餌食と)する。

・エルサレムと神殿の崩壊は、エレミア書26:6,18;ミカ書3:12を参照して下さい。

(メッセージの要旨)


*イエス様は律法学者をこのように批判しています。「・・彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で(尊敬を持って)挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。」この中で注目すべき点は、律法学者たちがやもめの家を食い物にしていることです。彼らは、神様と隣人を愛することの大切さを知りながら、やもめやその家族から必要な生活手段を奪っているのです。律法学者たちは律法に精通し、資産の運用に関する知識にも長けているのです。やもめの相談に応じる振りをして金銭や財産(例えば土地)をだまし取っているのです。彼らは経済状態に関わらず十分の一の献金を要求したのです。そうしなければ「救いに与れない」とやもめを信仰の名によって脅したのです。やもめが生活を無視して献金した理由はここにあるのです。イエス様は律法学者たちに「十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。・・」 、「杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。・・」と言って、彼らを激しく非難されたのです(マタイ23:23-25)。


*やもめの献金の話は、前後の話と切り離して単独の物語として語られることが多いのです。しかし、前の律法学者たちへの非難、後の神殿の崩壊予告と密接に関連しているのです。それぞれは別の話ですがテーマは共通しているのです。律法学者たちの偽善と不正がもたらす結果なのです。大勢の金持ちがたくさんお金入れていました。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨2枚、すなわち1クァドランスを入れたのです。みんなが献金額の多寡を比較することが出来る状況の中で、1クァドランスを入れるためには強い信仰と勇気が必要だったのです。やもめの献金額は一般的には少額です。しかし、本人にとっては生活を左右する大きな額だったのです。イエス様はやもめの状況をすべてご存知なのです。弟子たちを呼びよせて「・・この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」と言われたのです。神の国(天の国)はこの世とは全く別の基準が適用されるのです。神様は目に見える献金額の大きさではなく、ご自身への信仰心をご覧になってその人を判断されるのです。


*やもめの献金の話は伝統的に信仰篤い人々の生き方の模範として紹介されて来たのです。しかし、前後の流れから判断するとそのような理解は問題の本質から逸(そ)れているのです。弟子たちは献金の額の大きさに関心を寄せているのです。ところが、イエス様はやもめの献金のあり方(生活費のすべてを捧げたこと)に注目されているのです。信仰心の表れであったとしても、貧しいやもめが生活に必要なお金をすべて献金することは余りにも現実を無視しているからです。律法学者たちは豊富な律法に関する知識によってやもめを食い物にしているのです。神様の名によってやもめを精神的にも追い詰めているのです。例えば「生活費の十分の一を献金しなければ律法に違反している・・」、あるいは「献金額が少なければ、神様からの恵みも少ない・・」などのように、神様の恵みと献金額があたかも比例しているかのように説明しているのです。彼らの罪は計り知れないのです。イエス様は神殿崩壊を予告されたのです。献金の話は貧しいやもめの信仰を褒(ほ)めるというよりも、律法の知識や社会・経済状況に疎(うと)い人々からわずかな財産でも搾(しぼ)り取ろうとする律法学者たちの偽善と腐敗を非難する物語の一つなのです。


*エルサレム神殿は宗教、政治、経済の中心地であり、富と権力を持った少数の人々によって運営されていました。彼らは人々の貧しさの原因が自分たちにあることをを隠すために篤い信仰心の持ち主であることを装い、神殿政治や経済行為があたかも神様の御旨に基づいて行われているかのように振る舞うのです。見せかけの長い祈りをし、有り余る中から多額の献金をするのです。彼らの関心事は神様ではなく自分自身なのです。やもめのような貧しい人々を犠牲にして不正な富を蓄えるだけでないのです。これらの人を信仰の名によって支配するのです。イエス様が引用された旧約聖書の言葉「『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」は正にこの事実を言っておられるのです(マルコ11:17)。イエス様は、信仰の指導者たちの不信仰、その偽善性を一貫して非難されたのです。祭司長たちや律法学者たちもまた、イエス様をどのようにして殺そうかと謀(はか)ったのです。イエス様は命を賭(と)して「神の国」(天の国)の福音を証しされたのです。偽善者たちに天罰が下されるのです(マタイ23)。本質を見誤ってはならないのです。

*聖書は便宜上区切って読まれているのです。ただ、マルコの場合は特に前後のつながりに十分気を付けなければならないのです。別々に語られた話がその内容に置いて一貫性を保つ個所が幾つか見られるからです。イエス様が話をされた律法学者たちへの非難、やもめの献金、神殿崩壊の予告には共通していることがあるのです。それは信仰の指導者たちの偽善と貪欲に対する痛烈な非難なのです。彼らの罪は個人的な範疇(はんちゅう)を越えているのです。神様の名と偽善によってやもめの生活が破壊されているからです。神殿政治の中枢を担う指導者たちが公然と不正を行っているのです。彼らは人一倍厳しい裁きを受けることになるのです。イエス様は神殿の外見の素晴らしさに圧倒された弟子に対して神殿がいずれ崩壊することを予告されたのです。イエス様のお言葉はご自身が昇天された後(西暦70年)に現実になったのです。ローマ軍がエルサレム神殿を完全に破壊したのです。信仰心を装い、強欲に支配された人々が運営する神殿が崩壊した出来事は今日の教会に警鐘となっているのです。神様が「正義と恵みの業を行い、搾取されている者(たち)を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦(たち)を苦しめ、虐げてはならない。」と言われたことを想起したいのです(エレミヤ書22:3)。

2023年06月11日

「この世の子らから学ぶ」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書16章1節から17節

イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口(非難)をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』

また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正(不忠実)な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた(不誠実な取引によって得た)富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ(神の子であるという観点から不誠実な取引によって得た富に対応しなければ)、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのもの(あなたがたに属するもの)を与えてくれるだろうか。どんな召し使い(奴隷)も二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。そこで、イエスは言われた。「あなたがたは、人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるもの(富)は、神には忌み嫌われるものだ。律法と預言者(たち)は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、誰もが激しく攻め入っている。しかし、律法の一画が落ちるよりは、天地の消えうせるほうが易しい。」

(注)

・金持ち:イエス様は「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われました。ここに、イエス様のお考えが表れています。マタイ19:24;マルコ10:25;ルカ18:25を参照して下さい。

・不誠実な取引の禁止:

■あなたたちは、不正な物差し、秤、升を用いてはならない。正しい天秤、正しい重り、正しい升、正しい容器を用いなさい。わたしは、あなたたちをエジプトの国から導き出したあなたたちの神、主である。わたしのすべての掟、すべての法を守り、それを行いなさい。わたしは主である。(レビ記19:35-37)

・陰府(よみ)でもだえ苦しむ金持ちの姿についてはルカ16:19-31をご一読下さい。

・管理人:重要な仕事を任された管財人です。一般的に、良く訓練(教育)を受けた奴隷が担っていました、

・不正:不誠実と訳すべき言葉です。

・無駄遣い:管理人が財産を横領したとか、何かを盗んだということではないのです。貪欲な金持ちの立場から見た評価なのです。利益を追求しない職務怠慢のことなのです。

・不正にまみれた富:原文に「まみれた」という言葉はないのです。不誠実な取引によって得られた富のことです。

・富:「マモン」から訳出された言葉です。「マモン」は金銭、お金のことですが、軽蔑的な意味が込められています。異教の神(富崇拝)を象徴しているからです。

・永遠の住まい:「神の国」あるいは「永遠の命」を表しています。

・1パトスは約23リットル、1コロスは約230リットルです。

・抜け目のない:「思慮ふかい」とも訳せる言葉です。管理人が悪い人物であるという観点からの日本語訳になっています。

・光の子:神様の子、あるいはイエス様の弟子のことです。ヨハネ12:35-36を参照して下さい。

・ヨハネ:イエス様の先駆(さきが)けとして人々に激しく「悔い改め」を迫った洗礼者ヨハネのことです(マルコ1:1-11)。

・神の国:神様の支配・主権のことです。死後に行く「天国」のことではありません。

・誰もが激しく攻め入っている:「神様によって入ることを強いられている」という意味です。

・太宰治:小説家、本名は津島修治です。1909年に生まれ1948年に没しています。斜陽、「走れ、メロス」、津軽、人間失格が有名です。

(メッセージの要旨)

*幾つかの解釈が可能です。しかし、イエス様はこの後に金持ちと貧しいラザロの死後の様子を語られているのです。富に対する姿勢がその人の「救い」に大きな影響を与えているのです。管理人には財産管理を適切に行い、資金を効率よく運用して、最大限の利益をもたらしてくれることが期待されているのです。ところが、金持ちは管理人が財産を無駄遣いしている-金持ちの利益を損なっている-という報告を受けたのです。金持ちは管理人を「不正な管理人」と呼んでいます。しかし、イエス様の全体の論調を踏まえて理解する必要があるのです。管理人が主人の財産を盗んだとか、流用したということではないのです。金持ちの意向-利益第一主義-に沿って運用管理しなかっただけなのです。今、職を失おうとしているのです。しかし、自分のことだけではなく、貧しい人々のために不誠実な取引によって得た富を用いているのです。不誠実な取引によって不利益を被(こうむ)っている人々の負債が軽減されたのです。イエス様は証文を書き換えさせた管理人に「永遠の命」を約束されたのです。たとえ話を聞いたのは弟子たちだけではないのです。そこには信仰を自負するファリサイ派の人々もいたのです。イエス様は山上の説教で「神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)、「何よりもまず、神の国(神様の支配)と神の義(神様の正義)を求めなさい」(マタイ6:33)と言われたのです。光の子らであっても富の誘惑に晒(さら)されているのです。警戒を怠(おこた)っているのです。この世の子らから学びなさいと命じられたのです。


*たとえ話を理解するためには当時の社会・経済状況を知っておくことが必要です。イスラエルの人々の困窮の大きな要因はローマ帝国の人頭税や自国の神殿税にありました。もう一つは負債でした。農民たちは先ず収入から税と利息などを支払ったのです。一家はおよそ半分の収入で暮らすことを余儀なくされているのです。自然災害も多く、不作で翌年に備える種子を確保できない年もあるのです。新しく作付けをするために、あるいは税を納めるために金持ちから借金しなければならなかったのです。同じような状況は日本の東北地方でも見られたのです。青森県五所川原市金木に太宰治(津島修治)の生家-斜陽館-があります。津島家は大地主でした。広大な敷地に大邸宅が建っていました。建物の内部には当時としては珍しい洋風の部屋もありました。一階で「銀行業務」が行われていました。そこには土間があり、小作人たちが一段高いところに座っている地主に融資を申し込み、あるいは返済の猶予(ゆうよ)を願い出たのです。貧しい農民たちの中には生きて行くために娘を身売りする人もいたのです。記念館となっている生家は民衆の悲しい歴史を想起させるのです。イスラエルの人々は生活破壊に常に怯(おび)えていたのです。債務不履行は悲惨でした。債務者は負債を返済するために持ち物を全部売ったのです。それでも返済できない人は自分だけでなく、妻や子供たちを奴隷として売りに出したのです。「主の祈り」に「わたしたちの負債を赦してください」があります(マタイ6:12)。借金地獄からの解放を願う人々の叫び声なのです。 

*金持ちには管理人の職務態度に不満がありました。最大の関心事である利益最優先の実行に不熱心だったからです。そこで、管理人に解雇通告を行ったのです。管理人は後の就職先を確保するために思案したのです。主人に負債のある人を順次呼んでそれぞれの債務を確認したのです。彼の目的は債務者たちに「恩を売ること」でしたが、選んだ手法が「神様の御心」に適っていたのです。借金に苦しむ人々の債務を減額したのです。管理人は主人と相談することなく債務者たちの証文を書き換えました。しかし、金持ちは管理人の行為を責めることは出来なかったのです。借り手の弱みに付け込んで不当な利益を得ていたからです。管理人は正しく計り直しただけなのです。主人は管理人の「抜け目のないやり方」に驚いたのです。自分自身は実害を被(こうむ)っていないからです。債務を軽減された人々は管理人に感謝したのです。イエス様は管財人の手法を誉(ほ)められました。彼は金持ちが不誠実な取引によって得た富を用いて、自分の活路を開こうとしたのです。この世の富について正しい対応能力を備えていなければ、本当に価値のあるもの-神の国の福音-を任(まか)せていただけないのです。管理人は唯々諾々(いいだくだく)と働いていれば職を失うことはなかったのです。しかし、金持ちのビジネス手法に隠然と抵抗したのです。無駄遣い-債務者たちや貧しい人々への配慮-は管理人の良心の表れなのです。光の子であっても「神様の御心」を実現しているとは限らないのです。富に対する姿勢がその人の運命を決定づけることは明白なのです。

*イスラエルの人々は生活の不安定の原因がローマ帝国の圧政と同胞である金持ちへの負債にあることを知っていました。しかし、自分たちだけでこの問題を解決することは困難でした。律法は経済活動について様々な規定を設けているのです。貧しい人々に対する金持ちたちの横暴を厳しく戒めています。神様の命令は必要とする人々に必要なものを惜しみなく与えることです。「もし、あなた(がた)がわたしの民、あなた(がた)と共にいる貧しい者(たち)に金を貸す場合は、彼(ら)に対して高利貸しのようになってはならない。彼(ら)から利子を取ってはならない。」(出エジプト記22:24)、「貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。『七年目の負債免除の年が近づいた』と、よこしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい。その同胞があなたを主に訴えるならば、あなたは罪に問われよう。彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。」(申命記15:7-10)と言われるのです。イエス様が宣教された「神の国」の根本理念は「神様と隣人を愛すること」です。神様は御心を実践する人々を祝福されるのです。この世の常識を前提にして金持ちと管理人の姿勢を比較すればたとえ話の意味を読み違えるのです。富に執着する強欲な金持ちは自分の意に反する管理人を追放したのです。しかし、管理人は律法を守って「救い」に与ったのです。

*信仰の有無に関わらず「神様の御心」を実現している人々がいるのです。管理人は「不正な富」を用いて貧しい人々を助けたのです。光の子らは「永遠の命」に心を砕くのですが、この世の問題には無関心なのです。人は信仰によって救われるのではないのです。「行い」-隣人への愛-の有無(うむ)によって「救い」が判断されるからです(マタイ25:31-46)。こうした大切な個所を読み飛ばしてはならないのです。お金を儲けることに執着する金持ちの立場からすれば、必要な支出を抑えてでも最大限の利益を追求することは当然なのです。管理人の様々な配慮はすべて無駄遣いとして映るのです。金持ちは律法に反して、債務者たちに不当な条件を押し付けて儲(もう)けているのです。管理人は「神様の御心」に適った仕事をしているかどうかを吟味したのです。律法に基づいて正しい契約に戻そうと努力したのです。その結果、管理人は職を失ったのです。その後、別の仕事に就(つ)けたかどうかは分からないのです。ただ、永遠の住まいに招き入れられたことだけは確かなのです。今日においても、キリスト信仰を標榜(ひょうぼう)する人々の「生き方」が問われているのです。ビジネスに従事する人々は不誠実な取引に加担させられているのです。公正を旨とする行政に携わる人々も特定の人々-権力者たち-に協力することを強いられているのです。悩みながら信仰と現実を切り離して問題を処理している人も少なくないのです。管理人は律法に従って生きる道を選んだのです。この人の「生き方」は示唆(しさ)に富んでいるのです。

2023年05月28日

「究極の罠(わな)」

・Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書20章9節から26節

イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』(詩編118:22)その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。

そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者(たち)を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。回し者らはイエスに尋ねた。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」彼らが「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは民衆の前でイエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった。

(注)

・ぶどう園:預言者イザヤがイスラエルに神様のお言葉を伝えています。

■わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り(切り出して酒だるを作り)/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ/わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに/なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。さあ、お前たちに告げよう/わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ/石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ、わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず/耕されることもなく/茨やおどろ(とげのある植物)が生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑/主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)-御心に適った生き方-を待っておられたのに/見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに/見よ、叫喚(ツェアカ)-さけび-。(イザヤ書5:1-7)

・農夫:律法学者たちや祭司たち

・僕:預言者たちや使徒たち

・愛する息子:イエス様のことです。

・十戒:イスラエルの人々にとって信仰の原点です。エジプト王ファラオの支配から解放されて三月目に、神様はシナイの荒れ野でモーセを通して「あなた(がた)には、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなた(がた)はいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなた(がた)はそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。・・わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。・・」と告げられたのです(出エジプト記20:3-6)。

・イエス様の時代:キリスト信仰を理解するためには時代背景を考慮することが不可欠です。一世紀におけるイスラエルの貧困の主要な原因はローマ帝国の税制度にありました。当局は収穫物の四分の一を税として徴収したのです。その他にも祭司制度を維持するための神殿税がありました。人々は重税に苦しみ、困窮を極めたのです。一方、祭司などのユダヤ人指導者たちは民衆のために働くのではなく、ローマ帝国に協力して自分たちの既得権益の保持に腐心したのです。

・洗礼者ヨハネの召命:イエス様はこの人から洗礼を受けられました。福音書記者ルカは当時の政治状況を記しています。

■皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。(ルカ3:1-2)

・外国人の王の禁止:

■あなた(がた)が、あなた(がた)の神、主の与えられる土地に入って、それを得て、そこに住むようになり、「周囲のすべての国々と同様、わたしを治める王を立てよう」と言うならば、必ず、あなた(がた)の神、主が選ばれる者を王としなさい。同胞の中からあなた(がた)を治める王を立て、同胞でない外国人をあなた(がた)の上に立てることはできない。(申命記17:14-15)

・正しい人を装う回し者(たち):スパイ-情報収集者-たちのことです。

・徴税(徴用)について:福音書にはローマ帝国の支配下にあったユダヤ人たちの様子が記述されています。

「その頃、皇帝アウグストゥス(紀元前31年から紀元後14年)から全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録であった。人々は皆、登録するために、それぞれ自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家系であり、またその血筋であったので、ガリラヤの町ナザレからユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身重になっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。」(ルカ2:1-5)しかし、紀元後6年頃、ガリラヤのユダヤ人たちがキリニウスの命令による住民登録に抗議して暴動を起こしているのです。(使徒5:37)

・デナリオン銀貨:この時期の銀貨にはローマ皇帝ティベリウス・シーザー(紀元14年から37年)の「頭部の像」が描かれています。そして「ティベリウス・シーザー、神のアウグスト、アウグストの息子」という文字が刻印されています。愛国的ユダヤ人たちは偶像崇拝に陥(おちい)らないためにこのコインを携行しなかったのです。指導者たちは「納税の是非」を質問しても「偶像崇拝」やローマ皇帝による「神様への冒涜(ぼうとく)」の問題には言及しないのです。彼らは偽善者なのです。

(メッセージの要旨)

*イエス様は「神の国」の福音を妨げる律法学者たち(やファリサイ派の人々)、祭司長たちと鋭く対峙(たいじ)されたのです。「ぶどう園と農夫のたとえ」、「二人の息子のたとえ」(マタイ21:28-32)、「大宴会のたとえ」(ルカ14:15-24)において、神様を軽んじる彼らは厳しく罰せられることが明言されたのです。指導者たちは何とかしてイエス様を捕えようとしたのですが、群衆の反発を恐れて思い止まっていたのです。しかし、イエス様への迫害を強めるのです。神様を父と公言するイエス様に「神の息子」と自称するローマ皇帝への忠誠心を迫るのです。信仰篤いユダヤ人にとって「納税の是非」の答えは簡単です。「否(いな)」なのです。しかし、そのように言えば反逆者の烙印(らくいん)を押されるのです。「然(しか)り」と答えれば民族への裏切り者として社会から排斥されるのです。歴史を振り返れば、イスラエルは外国の勢力によって何度も蹂躙(じゅうりん)されたのです。原因の多くは指導者たちの不信仰にあったのです。旧約聖書にはその経緯が記されているのです。イエス様の時代においてもローマ帝国が支配したのです。彼らは神様を礼拝することには寛大でしたが、大祭司の任命権や十字架刑の執行権を剥奪(はくだつ)したのです。指導者たちは不当な要求を受け入れたのです。過酷な税の負担や様々な徴用制度は民衆を疲弊(ひへい)させたのです。イエス様は質問者たちの不信仰とたくらみを見抜いて「先ず、神の国(神様の支配)と神の義(正義)を求めなさい」と言われたのです(マタイ6:33)。

*律法学者たちや祭司長たちはイエス様を殺すためにあらゆる機会を利用するのです。ところが、民衆の多くはイエス様を支持していたのです。指導者たちは民衆の反発を恐れていたのです。そこで、民衆を失望させるためにイエス様に巧妙な「罠(わな)」を仕掛けるのです。それは「・・あなたが・・真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」という問いに隠されているのです。彼らはこれまでユダヤ教の律法の範囲内でイエス様と論争して来たのです。今回は次元が異なるのです。イエス様を全く違った土俵-政治-へ引き込もうとしているのです。ローマ帝国は支配下にある国々の反乱を強大な軍事力によって弾圧したのです。抵抗闘争に加わった人々には見せしめとして最も残酷な十字架刑を適用したのです。いつの時代においても、税制度は国家を維持する上で重要です。納税拒否は国家の根幹を揺るがす行為なのです。権力者たちは絶対に容認しないのです。一方、十戒の冒頭には「あなた(がた)には、わたしをおいてほかに神があってはならない。」が記述されているのです。ユダヤ人たちにとって自らを神様と称するローマ皇帝は大罪人です。銀貨によって税金を納めることなど考えられないのです。イエス様が戒めに従えば反逆罪で処刑されるのです。神様を冒涜(ぼうとく)する皇帝に屈すれば偽預言者として断罪されるのです。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」は真に的を射たお答えなのです。

*イエス様の時代におけるイスラエルの貧困の最大の原因はローマ帝国による税制度にありました。ユダヤ人の歴史学者サロ-・バロンもそのことについて言及しています。農民たちから二年ごとに収穫物の四分の一を税として徴収し、さらに当局の役人や兵士たちの生活を支えるために経費を支出させ、また人頭税や関税を課したのです。人々は経済的にも精神的にも貧しかったのです。ローマ帝国に任命された総督たちは赴任地(ふにんち)を短期間で財産を生みだす「打ち出の小づち」のように考えていたのです。イエス様を処刑したポンティオ・ピラト(紀元26年から36年)などはユダヤ人たちに貢物(みつぎもの)を求め、徹底的に搾取したのです。また、人々はエルサレムの神殿に仕える祭司たちを支えるために神殿税(宗教税)を納めなければならなかったのです。これまで、祭司たちを支えるための定額献金や随時献金の習慣はなかったのです。彼らは巡礼者たちが捧げる供え物の一部を受け取っていただけなのです。ところが、バビロン捕囚から帰還(紀元前538年)後に自分たちの収入を増やすために、新たに12種類の献金を設けたのです。毎年、担当者たちは神殿税未納の家を訪問して納めるように督促(とくそく)したのです。ローマ帝国への税と神殿税の合計は民衆の生活費の40%にも達していたのです。ユダヤ人歴史家ヨセフスはおよそ2万人の祭司がいたことを記しています。1年に2週間エルサレム神殿に奉仕しただけで一般民衆の平均を上回る収入を得ていたのです。「神様の名」によって人々が苦しめられているのです。

*福音書はイスラエルに貧困が広まっていることを様々な形で伝えています。マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油1リトラ(約326g)を持って来て、イエス様の足に塗り、自分の髪でその足を拭い、家は香油の香りでいっぱいになったのです。12弟子の一人でイエス様を裏切ろうとしていたイスカリオテのユダも「なぜ、この香油を三百デナリオン(平均的労働者の賃金の300日分に相当する価値)で売って、貧しい人々に施さなかったのか」と非難しているのです(ヨハネ12:3-5)。ある金持ちがいました。紫の布や上質の亜麻布を着て、毎日、派手な生活を楽しんでいました。この金持ちの門前に、ラザロと呼ばれる出来物だらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていたのです。犬もやって来ては、彼の出来物をなめていたのです(ルカ16:19-21)。イエス様は貧困に喘(あえ)ぐ人々に「貧しい人々は、幸いである/神の国はあなたがたのものである」と明言されたのです(ルカ6:20)。さらに「わたしたちに必要な糧を今日与えください」と祈るように教えられたのです(マタイ6:11)。また、集まった四千人の群衆に食べ物を与えて「神の国」の到来を具体的に証明されたのです(マルコ8:1-9)。そして、律法が定める最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を日々実践するように命じられたのです(マルコ12:28-31)。イエス様の教えと「力ある業」に接した人々は人間の知識では理解出来ない不思議な力を得るのです。絶望の淵から脱出することが出来るのです。

*イエス様が宣教された「神の国」は地上の権力者たちに悔い改めを求めたのです。ところが、彼らは先祖の指導者たちと同じように預言者たちや使徒たちを迫害したのです。そして、神様が遣わされた「独り子」イエス様を殺そうとしているのです。たとえ話においてその事実が語られているのです。民衆の強い支持を受けているイエス様を律法違反で殺すことは困難でした。そこで、彼らは信仰心を装う人々を送ってイエスを陥(おとしい)れようとしているのです。イエス様の言葉尻を捕らえてローマ帝国への反逆者に仕立て上げるのです。総督に引き渡して十字架上で処刑させようとしているのです。指導者たちから派遣された人々の質問内容は巧妙です。イエス様への「究極の罠」となったのです。「税金を納めてはならない」と言えば反逆罪でローマ帝国が処刑するのです。「税金を納めるべきである」と言えば信仰心の篤い人々や貧しい人々から支持を失うのです。指導者たちにとってどちらの答えでもいいのです。イエス様の影響力を取り除けることに変わりはないからです。ところが、イエス様は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えられたのです。民衆はイエス様のお答えに納得したのです。その通りだからです。ローマ帝国から恩恵を受けている人々には税金を納める義務が生じるのです。神様に属する物を奪っている皇帝と総督、律法学者たちと祭司長たちはそれらを返還しなければならないのです。「神様の御心」に反する人々には厳しい罰が下されるのです。「神の国」を信じる人々には生きる希望が与えられるのです。

2023年03月26日

「あなたがたは分かっていない」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書10章32節から45節


一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」


ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

(注)

・人の子:イエス様のことです。大祭司に「あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」と言われました(マルコ14:62)。ご自身の天と地をつなぐ役割が強調されているのです。旧約聖書のダニエル書7:13-14をお読み下さい。


・ヤコブとヨハネ:「また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。」(マルコ1:19-20)


・栄光:「神に背(そむ)いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、(彼の)父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。・・ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者(たち)がいる。」(マルコ8:38-9:1)


・杯:旧約聖書において、杯は「喜びと救い」、あるいは「災いと苦難」を表しています。ここでは後者のことです。詩篇11:6、イザヤ書51:17,22を参照して下さい。


・洗礼:イエス様や弟子たちの死を意味しています。


・偉い人:専制君主のことです。正確に訳すべき言葉です。


・身代金:元々何かを解放する-贖(あがな)う-ための補償金のことです。神様の民の解放の例えとして用いられています。出エジプト記21:8、30を参照して下さい。


・ゲツセマネ:エルサレムの城外にあるオリーブ山の西側のあたりと言われています。

・「神の国」の福音:旧約の伝統に従いイエス様の十字架の死を「罪の贖(あがない)の犠牲」として理解することには細心の注意が必要です。イエス様は生と死と復活によって「神の国」(天の国)-神様の主権・支配-の到来を福音として証しされたのです。キリスト信仰とは「神の国」の到来-人間の全的な救い-を信じることです。福音を「罪からの解放」に縮小してはならないのです。

・悪魔(サタン):「試みる者」、「告発する者」と呼ばれています。ルカ4:1-13、22:31をお読み下さい。

(メッセージの要旨)

*イエス様が宣教された「神の国」の福音は、神様がすべてにおいて主権者であることを宣言するのです。「この世」の支配者たちと彼らに同調する人々に悔い改めを迫り、神様の下へ帰ることを促(うなが)されたのです。しかし、権力の維持と既得権益に執着する指導者たちはイエス様の教えを徹底的に拒否するのです。イエス様が異邦人たちによって侮辱され、唾をかけられ、鞭打たれて殺された原因は「神の国」を宣教したことにあるのです。「神の国」と「この世」の権力者たちの間に闘いが起こっているのです。イエス様はローマ帝国から派遣された総督によって政治犯-反乱の首謀者-として処刑されたのです(ヨハネ19:19)。イエス様の死を「贖いの供え物」として理解するだけでは「神の国」の福音-人間の全的な救い-の本質を見失うことになるのです。イエス様は群衆と弟子たちに「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。・・わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」と言われました(マルコ8:34-35)。信徒になろうとする人々には覚悟が必要なのです。大切な教えが読み飛ばされているのです。キリスト信仰が誤って伝えられているのです。「救い」は教義の習得によって得られるのではないのです。イエス様に倣(なら)って自分を捨てた人に与えられるのです。キリスト信仰とは信じることではないのです。最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実行することなのです。福音書を虚心坦懐(きょしんたんかい)に読めば分かるのです。


*ヤコブとヨハネはイエス様に召命された最初の弟子たちです。イエス様は十二使徒の中でも特にペトロとこの二人を選んで特別な機会-会堂長ヤイロの娘の蘇生(ルカ8:40-56)、イエス様のお姿の変容(マルコ9:2-13)、ゲツセマネにおけるイエス様の祈り(マタイ26:36-46)-に立ち会わせられたのです。イエス様が十字架上で処刑される直前に過越しの食事-最後の晩餐-を準備したのもペトロとヨハネでした(ヨハネ22:7-13)。ヤコブとヨハネはイエス様を歓迎しないサマリア人たちに報復しようとするのです。天から火を降らせて村ごと滅ぼそうとしたのです。イエス様は高慢な彼らを戒められたのです(ルカ9:51-55)。一方、サマリア地方に派遣されたペトロとヨハネによって神様の言葉を受け入れた人々に聖霊様が降ったのです(使徒8:14-17)。ヤコブはヘロデ・アグリッパ王の剣によって殺されました。殉教した最初の使徒となったのです(使徒12:1-2)。ヨハネは初代教会の指導者の一人として使命を果たしたのです。ペトロはイエス様が死と復活を予告された時に「主よ、・・そんなことがあってはなりません。」と諫(いさ)めたのです。イエス様は「サタン、引き下がれ。」と言われたのです(マタイ16:21-23)。「神の国」と「この世」とは両立しないのです。中枢にいた使徒たちでも気づかない内に「この世」に支配されているのです。「この世」の考え方を払拭(ふっしょく)出来ないだけでなく、「神の国」を理解しようとする人々の躓(つまず)きの石になっていることがあるのです。


*イエス様はお金に執着するファリサイ派の人々に「あなたたちは人(人々)に自分たちの正しさを見せびらかすが、神はあなたがたの心をご存じである。人(人々)に尊ばれるものは、神に忌(い)み嫌われるものだ。」と言われました(ルカ16:14-15)。ヤコブやヨハネ、他の使徒たちはイエス様と共に苦難を担(にな)いながら、なお権力者としての地位に心を奪われているのです。ファリサイ派の人々と使徒たちとの間に違いはないのです。いずれも「この世」の人々が熱心に望んでいるものを求めているのです。神様に喜ばれるためには、イエス様の教え「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」を実践しなければならないのです。ファリサイ派の人々にとっては最も困難な戒めとなるのです。使徒たちにとっても決して簡単なことではないのです。日本語訳は往々にして権力者たちの悪を曖昧(あいまい)に表現しています。イエス様の激しいお言葉を恣意的(しいてき)に弱めているのです。政治的ニュアンスの強い支配者とか権力者という表現も極力避けているのです。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、・・」についても、個人の謙遜な態度として解釈されることが多いのです。しかし、お言葉の意味はキリスト者たちが支配者や専制君主にならないだけでなく、貧しい人々や虐(しいた)げられた人々の側に立って共に歩む社会的連帯のことを指しているのです。イエス様は「神の国」の到来こそ福音であると言われたのです(マルコ1:15)。


*「神の国」の福音に対する誤解は使徒や弟子たちだけではないのです。今日においても同様のことが見られるのです。キリスト信仰において、イエス様の死が「定められた神様のご計画」、「罪の贖いのための犠牲」として伝えられているのです。このような信仰理解はイエス様の復活を通して形成され、時代を経て受け継がれて来たものです。ただ、イエス様が誕生以来「十字架の死」を目指して生涯を歩まれたと結論付けることは歴史的事実を過小に評価することになり、「神の国」の福音を変容することになるのです。イエス様が十字架上で処刑された理由は「神の国」の福音がユダヤ教の律法と鋭く対立したことにあるのです。イエス様がご自身を「神の子」と称し、神様から裁きを委ねられていると宣言されたことにあるのです。ユダヤ教の伝統-神様は唯一のお方-を否定するイエス様の主張は神様への冒涜(ぼうとく)なのです。指導者たちは律法を無視するイエス様を「律法の規定」に則って裁いたのです。ところが、イエス様は「石打の刑」で処刑されたのではないのです。ローマ帝国によって域内の治安を脅かす政治犯として「十字架刑」で処刑されたのです。イエス様の罪状書きにも「ユダヤ人の王」と記されています(マルコ15:26)。「神の国」の到来は神様が主権者であることを鮮明にするのです。権力者たちが支配する「この世」との対立は避けられないのです。ローマ帝国に協力するユダヤ人指導者たちはイエス様を殺すために画策するのです。イエス様の死はご自身が宣教された「神の国」の本質によってもたらされた結果なのです。


*「皆に仕える者になること」や「子供のように『神の国』を受け入れること」(マタイ18:3)が誤解されているのです。個人的な「心の在り方」ではないのです。イエス様が言われている主旨は権力者たちの対極にある人々-貧しい人々や虐げられた人々の側に立つことなのです。彼らを貧しさの中に閉じ込め、抑圧している支配者や専制君主たちに政治・経済・社会の仕組みを改めさせることなのです。「すべての人の僕になりなさい」は自分を捨てることなのです。命を失うかも知れないのです。ヤコブとヨハネはイエス様のために苦難の盃を飲むことが出来るのです。ただ、動機は「神様の御心」に反しているのです。「権力の座」に着くためにそうするのです。イエス様は彼らに「分かっていない」と叱責(しっせき)されたのです。ところが、イエス様の復活の出来事に接した二人は新たな信仰の歩みを始めるのです。ヤコブはイエス様の御跡を辿(たど)って殺されたのです。ヨハネは迫害を恐れず初代教会の礎(いしずえ)を築いたのです。キリスト信仰を標榜(ひょうぼう)する人々であっても、気づかないで思いも寄らない過ちを犯すことがあるのです。「神の国」と「この世」とは調和しないのです。神様は「この世」の人々の称賛を嫌われるのです。神様を軽んじて天から追放された天使がサタンなのです(ヨハネの黙示録9:12)。高慢は「死に至る病」なのです。その人の「救い」を左右する大きな罪なのです。それを克服する道はただ一つです。イエス様が証しされた「神の国」の福音に日々感謝し、「生き方」を内省することです。

2023年03月19日