「賢く振舞いなさい」
Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書16章1節から17節
イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。
ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。そこで、イエスは言われた。「あなたがたは、人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、誰もが激しく攻め入っている。しかし、律法の一画が落ちるよりは、天地の消えうせるほうが易しい。」
(注)
・弟子たちにも:直前の状況は次の通りです。
■徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。(ルカ15:1-2)
・金持ち:イエス様は「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われました。ここに、「福音の真理」が語られているのです。マタイ19:24、マルコ10:25、ルカ18:25を参照して下さい。
・管理人:良く訓練(教育)を受けた奴隷です。重要な仕事を任(まか)されていました。管財人のことです。
・無駄遣い:金持ちは管理人が不正を働いたかのように断定しています。しかし、管理人は横領するとか、盗むようなことをしていないのです。貪欲な金持ちの目から見た「職務怠慢」(しょくむたいまん)のことなのです。
・パトス:約23ℓです。
・コロス:約230ℓです。
・永遠の住まい:「神の国」あるいは「永遠の命」を表しています。
・抜け目のない:「思慮ふかい」とも訳せる言葉です。管理人が悪い人物であるという前提に立った日本語訳になっています。
・光の子:イエス様の弟子のことです。ヨハネ12:35-36を参照して下さい。
・不正にまみれた富:原文に「まみれた」はないのです。訳者の先入観が反映されているのです。
・富:「マモン」から訳出された言葉です。マモンは金銭、お金のことなのです。マモンが「神」として崇められているのです。「偶像崇拝」が行われているのです。それ故に、イエス様は「神と富とに仕えることはできない」と言われたのです。
・ヨハネ:イエス様の先駆(さきが)けとして人々に激しく「悔い改め」を迫った洗礼者ヨハネのことです(マルコ1:1-11)。
・誰もが激しく攻め入っている:「神様によって入ることを強いられている」という意味です。
・ある金持ちの行く末:
■ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』(ルカ16:19:31)
・太宰治:小説家、本名は津島修治です。1909年に生まれ、1948年に没しています。「斜陽」、「走れメロス」、「津軽」、「人間失格」が有名です。
(メッセージの要旨)
*イエス様は貧しい人々や社会で蔑(さげす)まれている人々の「救い」に心を砕かれたのです。一方、富への執着や貪欲が人々を「永遠の命」から遠ざけているのです。この後、「金持ちとラザロ」の話が続くのです。富に対する姿勢がその人の「救い」を決定するのです。管理人の仕事は財産管理を適切に行い、資金を効率よく運用することです。金持ちは最大の収益を期待しているのです。ところが、信頼している管理人が職務を怠(おこた)っているのです。詳細は不明ですが、財産を無駄遣いしているのです。金持ちは「不正な管理人」と呼んでいます。多くの人がこの主張に同意するのです。安易な先入観が物事の本質を見誤らせるのです。管理人は財産の私的流用に手を染めている訳ではないのです。この点に留意することが必要です。金持ちの意向-利益第一主義-に沿って職務を遂行しなかっただけなのです。自らの職と引き換えに、債務者たちの証文を書き直させ、負担を軽減させたのです。結果として、不当な条件で貸し付ける金持ちの強欲が暗に批判されているのです。イエス様はこの管理人に「救い」を約束されたのです。光の子らがこの世の富に心を奪われているのです。イエス様は警鐘を鳴らされたのです。たとえ話を聞いていたのは弟子たちだけではないのです。ファリサイ派の人々もいたのです。イエス様は「神と富とに仕えることはできない」と言われたのです。「悔い改め」が求められているのです。すべての物は神様に属しているのです。基本的なことが忘れられているのです。キリストの信徒たちも富の問題を避けて通れないのです。
*生活の不安定の原因はーマ帝国の圧政と重税、同胞である金持たちへの負債にあるのです。人々は日々そのことを感じているのです。律法は経済活動について様々な規定を設けています。貧しい人々に対する金持ちたちの横暴を戒めているのです。「もし、あなた(がた)がわたしの民、あなた(がた)と共にいる貧しい者(たち)に金を貸す場合は、彼(ら)に対して高利貸しのようになってはならない。彼(ら)から利子を取ってはならない」と命じられているのです(出エジプト記22:24)。「貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。『七年目の負債免除の年が近づいた』と、よこしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい。その同胞があなたを主に訴えるならば、あなたは罪に問われよう。彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない」と記されているのです(申命記15:7-10)。必要とする人々に惜しみなく与えることは義務なのです。神様は御心を実践する人々を祝福されるのです。イエス様が宣教された「神の国」の根本理念は「神様と隣人」を愛することです。管理人は律法の精神を具体化しているのです。ところが、強欲な金持ちは自分の意に反する管理人を追放するのです。一方、光の子らの富への姿勢が曖昧(あいまい)なのです。イエス様は注意を喚起しておられるのです。弟子であっても富に執着すれば「救い」に与れないのです。
*金持ちには二つのグループがあります。富裕層を中心とする貴族階級です。もう一つは祭司制度の恩恵に浴している人々です。これらの人は通常の収入で生活していました。ところが、土地を所有している祭司たちはその一部または全部を貸し付けたのです。労働者たちを炎天下で長時間働かせるだけでなく、低賃金を強いたのです(マタイ20:1-16)。約束どおりの賃金すら支払わなかったのです(レビ記19:13)。干ばつや不作に遭遇(そうぐう)した小作人に返済能力を越える融資を勧めたのです。債務不履行になると担保の土地を没収したのです。富をさらに蓄(たくわ)えたのです。青森県五所川原市金木にある太宰治の生家-現在は斜陽館(記念館)-を訪れる機会がありました。広大な敷地に大邸宅が建っていました。建物の内部には当時としては珍しい洋風の部屋もありました。「銀行業務」が行われていました。土間にいる小作人たちが一段高い所に座っている地主に融資を申し込み、あるいは返済の猶予(ゆうよ)を願い出たのです。貧しい農民たちは凶作などで苦しんだのです。生きて行くために娘たちを「奉公」に出したのです。ユダヤにおいても多額の負債を抱えている人々は悲惨です。返済するために持ち物を処分するだけでなく、自分自身と妻や子供たちをも奴隷として売ったのです。国の内外を問わず、税金と借金は貧しい人々の生活を破壊しているのです。イエス様が教えられた「主の祈り」に「わたしたちの負債を赦してください」があります(マタイ6:12)。借り手の債権を放棄するのです。願いは実現されるのです。
*金持ちには管理人の職務能力に不満がありました。最大の関心事である利益最優先の方針に不熱心だったからです。そこで、解雇することを通告したのです。管理人は就職先を確保する手段として主人に負債のある人を順次呼んでそれぞれの債務を減額したのです。この人の当初の目的は債務者たちに恩を売ることでした。債務者たちの証文を書き換えさせたのです。主人と相談することなく自分の権限で実行したのです。すべてを任されていたからです。金持ちは通常の金利を越えた高利でお金を貸していたのです。管理人は契約内容を規定の範囲に戻しただけなのです。金持はその手法を賞賛しています。不正に蓄財しているのでこの件を公に出来ないのです。職を奪うことによって報復するのです。債務を軽減された人々は管理人に感謝したのです。イエス様は管理人の「行い」を誉(ほ)めておられるのです。不正な債務契約が債務者のために正常に戻されたのです。管理人は律法の規定に従って友だちを作ったのです。不正な富について正しい対応能力を備えていなければ、本当に価値のあるもの-神の国の福音-を任せていただけないのです。管理人は金持ちの悪業に疑問を呈することなく、黙々と働いていれば職を失うことはなかったのです。律法に反する金持ちのビジネス方法に心を痛めていたことが推測されるのです。無駄遣い-サボタージュと証書の書き換え-によって抵抗したのです。この話はファリサイ派や律法学者たちへの反論の延長線上で語られたのです。管理人のその後については分からないのです。神様が必ずこの人を守って下さるのです。
*イエス様はこの世の子ら(富に執着している人々)と光の子ら(「神の国」-神様の支配-の福音を信じている人々)を比較されたのです。この世の子らの方が自分の仲間に対して、光の子らよりも賢く振舞っているのです。弟子たちが「富の問題」を深刻に受け止めていないのです。イエス様の弟子になることによって「救い」が確定したかのように誤解しているのです。イエス様は安易な信仰理解を戒めておられるのです。「金持と管理人の話」は示唆に富んでいるのです。お金に執着すれば「救い」は危うくなるのです。例外はないのです。イエス様はこの点を強調しておられるのです。管理人の目的は自分の生活を安定させることにありました。しかし、自分の権限を用いて行ったことは「神様の御心」に適(かな)っていたのです。一方、「神様を愛している」と言いながら、この世の富を捨てられない弟子たちがいるのです。管理人は自分の職を捨てることによって「救い」を得ようとしているのです。弟子たちは怠惰(たいだ)よって「永遠の命」から遠ざかっているのです。キリスト信仰とは信じることではないのです。お預かりした富(権限や才能を含む)によって「神の国」を証しすることなのです。管理人として、貧しい人々や虐げられた人々のために奉仕するのです。イエス様は思慮深い管理人の「生き方」に学ぶように命じられたのです。神様と富との両方に仕えることを正当化するための試みが行われているのです。旧・新約聖書にその根拠を探しているのです。どこにも見当たらないのです。賢く振舞うとはイエス様のお言葉に従うことです。