「聞くだけではなく、行いなさい」

Bible Reading (聖書の個所) ルカによる福音書6章17節から36節

おびただしい病人をいやす

イエスは彼ら(12使徒)と一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。(6:17-19)

幸いと不幸

さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」(6:20-26)

敵を愛しなさい

「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵(たち)を愛し、あなたがたを憎む者(たち)に親切にしなさい。悪口を言う者(ののしる者たち)に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者(たち)のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」 (6:27-36)


(注)

・ユダヤ:北のガリラヤ、中央のサマリア、南のユダヤに分かれていました。聖書地図を参照して下さい。


・ティルスとシドン:地中海沿岸の都市です。


・不幸である:原文にはもっと厳しい言葉が使われています。本来「・・に災いあれ」と訳されるべき言葉です。イエス様は必ずしも柔和なお方ではないのです。複数の聖書訳を比較して下さい。

・神様の祝福:


■主は言われた。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」(創世記18:17-19)

・隣人を愛しなさい:

■寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなた(たち)が彼(ら)を苦しめ、彼(ら)がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる。もし、あなた(たち)がわたしの民、あなた(たち)と共にいる貧しい者(たち)に金を貸す場合は、彼(ら)に対して高利貸しのようになってはならない。彼(ら)から利子を取ってはならない。もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。(出エジプト記22:20-26)

■穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者(たち)や寄留者(たち)のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは盗んではならない。うそをついてはならない。互いに欺いてはならない。わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなた(たち)の神の名を汚してはならない。わたしは主である。あなた(たち)は隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。・・心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。(レビ記19:9-18)

・神の国:天の国とも呼ばれています。神様の主権・支配を表す言葉です。死後に行く「天国」のことではありません。イエス様を通して「神の国」の到来が部分的に示されたのです。目の見えない人々は見え、足の不自由な人々は歩き、重い皮膚病を患っている人々は清くなり、耳の聞こえない人々は聞こえ、死者たちは生き返り、貧しい人々は福音を告げ知らされているのです(マタイ11:5-6)。いずれ、新しい天地創造として完成するのです。

・仮現論:初期のキリスト信仰における異端理論の一つです。イエス・キリストは地上におられた間、人間の肉体を持っておられなかった。ただ肉体があるように見えていただけであると説明するのです。このような観点から復活を認めなかったのです。この世-社会・経済・政治-から切り離して「霊的な側面」だけを強調するのです。

(メッセージの要旨)

*イエス様は宣教の第一声において「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と言われました(マルコ1:15)。イエス様の使命は人々に「神の国」の到来を告げることでした。神様がしかるべき時にこの世を終わらせて新しい天地を創造し、悔い改めてご自身の下に来る人は誰でも「神の国」に迎え入れられること(永遠の命に与ること)を福音(良い知らせ)として宣教されたのです。イエス様は敵対するファリサイ派の人々や律法学者たちを除いて、民衆の間で教師あるいは預言者として大きな支持を得ていたのです。福音を言葉だけでなく、力ある業(行い)によって証しておられたからです。イエス様の評判を聞いてユダヤ全土だけでなく、地中海沿岸の異邦人の町々からもおびただしい人が集まったのです。彼らの願いはイエス様の教えを聞くだけでなく「癒しの業」によって自分や家族を苦しめている様々な悩みや病気から解放されることにあったのです。便宜的に聖書をまとまりがある段落(小見出し)ごとに読むことがあります。今日の個所は「山上の説教」(マタイ5-7章)と対比される「平地の説教」(ルカ6章17-49節)からの抜粋です。イエス様は20-26節で「神様と人」との関係を、27-36節では「人と人」とのあり方を語っておられます。後者が日々との行動規範として取り上げられることが多いのです。一方、貧しい人々への慰めやお金に執着する人々への厳しい裁きについて言及されることがほとんどないのです。イエス様のメッセージを全体の文脈から切り離して恣意的に変容してはならないのです。

*ユダヤ人たちが経験した苦難の歴史を知っておくことは重要です。イエス様が宣教された「神の国」の福音をより正確に理解することが出来るからです。四福音書の記者たちはイエス様の両親(ヨセフとマリア)の経済状態(ルカ2:24)はもとより、イエス様がご生涯を通して出会った一般民衆の多くが指導者たちによって搾取され、抑圧され、貧しい生活を余儀なくされている現実をありのままに記述しているのです。ローマ帝国の重税と非人間的な取り扱いがこれらの人をさらに苦しめているのです。イエス様が虐げられている人々と共に歩まれたことは厳然とした事実なのです。ところが、伝統的な教会の多くはイエス様の時代における人々の深刻な状況に無関心なのです。それだけではなく、イエス様が社会的・経済的・政治的な腐敗や不正に関心がなかったかのように、人々の苦難や労苦に共感していたけれども問題解決に直接関与することを望んでおられなかったかのように歪曲(わいきょく)しているのです。このような信仰理解は血と肉の体で来られたイエス様の使命を曖昧(あいまい)にする現代の仮現論なのです。キリスト信仰が死後に行く「天国」にのみ関心があるかのように誤解されているのです。「神の国」の福音が「霊的な救い」に縮小されているのです。イエス様が30数年間この世で生活をし、貧しい人々の苦悩や悲しみを取り除くために奔走し、指導者たちを激しく非難された現実から目を逸(そ)らすことは福音を誤って伝えることになるのです。キリストの信徒たちには「神の国」の到来を正確に証しする責務があるのです。

*「平地の説教」と「山上の説教」には共通性があるのです。両方とも「幸い」で始まり「聞くだけでなく、行いなさい」で終わっているのです。マタイは9つの「幸い」を挙げています。ルカは4つの「幸い」の他に「山上の説教」にない4つの「不幸(災い)」を加えているのです。金持ちへの厳しい裁きが含まれている「平地の説教」よりも「山上の説教」が多く読まれる要因の一つになっているのです。しかし、大切な個所を恣意的(しいてき)に読み飛ばしてはならないのです。イエス様はガリラヤの会堂でイザヤ書を朗読されたのです。イザヤの言葉「主の霊がわたしの上におられる、貧しい人々に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである」を引用して、ご自身の使命を公に宣言されたのです(ルカ4:18)。その後の「平地の説教」においても「神の国」が貧しい人々のものであることを確認されたのです。一方「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)に「神様の御心」が表れているのです。すべての人に「救い」が及ぶのです。しかし、金持ちが「救い」に与ることは簡単ではないのです。「金持ちが神の国に入る よりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易(やさ)しい」からです(マルコ10:25)。徴税人の頭で金持ちのザアカイは、イエス様に「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたらそれを四倍にして返します」と言って「救い」を得たのです(ルカ19:8)。

*イエス様は悪意を持って尋ねる律法の専門家に「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」と言われました(マタイ22:37-40)。イエス様はファリサイ派の人々や律法学者たちに伝統的な教えの真髄(しんずい)を再定義されたのです。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。敵を愛しなさい。憐れみ深い者となりなさいと言われたのです。「平地の説教」において隣人-困難を覚える人々-への愛について具体的に指示されたのです。「山上の説教」にある「心の貧しい」が誤解されているのです(マタイ5:3)。「心のあり方」のことではないのです。人々の心を荒廃させている原因が圧政や貧困にあることが強調されているのです。「天の国」は苦難に喘(あえ)ぐ人々のものなのです。「富んでいるあなたがたは不幸である(災いあれ)」はお金に執着している人々への警告なのです。イエス様のお言葉を深刻に受け止めるべきなのです。富に対する姿勢はその人の「救い」を決定づけるからです。キリスト信仰の目的が「個人の罪からの救い」に限定されてはならないのです。イエス様が生と死と復活を通して証しされた「神の国」は人々の生き方を変えるのです(使徒1:3)。旧・新約聖書は一貫して「人間の全的な救い」として伝えているのです。ユダヤ教に個人主義的な考え方はないのです。キリスト信仰も同様なのです。

*イエス様は「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」と言われました。迫害する人々であっても、彼らの「救い」の有無をあらかじめ判断してはならないのです。イエス様が最終的に「救い」を判断されるからです(ヨハネ5:22)。物理的な暴力を行使する者たちには「非暴力」で抵抗するのです。担保になっている上着を奪い取る者には、下着を差し出して「経済的暴力(高利貸し)」の不当性に抗議するのです。貧しい人々が求めているものを拒んではならないのです。生きるために止むを得ず持ち物を奪った者から取り返そうとしてはならないのです。人に善いことをし、何も当てにしないで貸すのです。神様に倣(なら)って憐れみ深い者となるのです。一方、イエス様は「何よりもまず、神の国(神様の支配)と神の義(神様の正義)を求めなさい。そうすれば、これらのもの(最低限必要な衣食住)はみな加えて与えられる。」(マタイ6:33-34)と言われました。キリスト信仰において正義と愛が矛盾するかのような説明が行われているのです。「敵を愛しなさい」は彼らの不正や腐敗を容認することではないのです。病気や心身の障害、貧困や差別の主要な原因が社会・経済・政治制度にあることも事実なのです。伝統や慣習と密接に結びついていることもあるのです。隣人愛は個人的な善意に留まらないのです。社会の正義や公平の実現に取り組むことなのです。キリスト信仰とは信じることではないのです。「神様の御心」に沿って生きることなのです。

2023年06月18日