「完全な者となりなさい」
Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書5章38節から48節
「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬(ほお)を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める(乞い願う)者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
(注)
・日本語訳:聖書を読む時、多くの場合日本語訳によってその内容を理解するのです。ところが、原語によっては複数の訳が可能なのです。典型的な例が日本語に訳された「義」という言葉です。主に倫理や道徳を表す言葉として用いられているのです。しかし、この言葉には「正義」という意味があるのです。キリスト信仰が誤解されている一つの要因に翻訳(ほんやく)の問題があるのです。神様とイエス様は正義と愛を大切にされるのです。イエス様が宣教された「神の国」の福音に「正義の視点」を加えるのです。
・『目には目を、歯には歯を』:申命記19:21を参照して下さい。律法は被害に比例する報復を認めています。その趣旨は怒りによる過度の報復を抑制することにあるのです。
■もし、その他の損傷があるならば、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。(出エジプト記21:23-25)
・1ミリオン:約1,480メートルです。
・隣人を愛し、敵を憎め:「敵を憎め」は旧約聖書に該当(がいとう)する箇所が見当たらないのです。詩編が参考になります。
■復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。(レビ記19:18)
■どうか神よ、逆らう者を打ち滅ぼしてください。わたしを離れよ、流血を謀(はか)る者。たくらみをもって御名を唱え/あなたの町々をむなしくしてしまう者。主よ、あなたを憎む者をわたしも憎み/あなたに立ち向かう者を忌むべきものとし
激しい憎しみをもって彼らを憎み/彼らをわたしの敵とします (詩篇139:19-22)
・敵を愛し:
■あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇(かわ)いているなら水を飲ませよ。こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる(箴言「しんげん」25:21-22)。
●「炭火を頭に積む」は人の親切心を表現しています。炭の火が消えた時、人は近隣の誰かに「燃えた炭火」を借りることになります。鍋に入れ頭の上に載(の)せて持ち帰ったのです。
・イエス様と律法:
■わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない
だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義(正義)が律法学者やファリサイ派の人々の義(正義)にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。(マタイ5:17-20)
・イエス様と暴力(武力):
■イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」
(マタイ26:47-54)
●十二軍団:ローマ軍の一軍団(レギオン)は6000人の歩兵と120人の騎馬兵で編成されています。相当大きな軍隊です。
・完全な者:神様を愛し、戒めを守り、隣人を愛し、道徳的に正しい生活を送る人です(レビ記19)。自分の持ち物に執着(しゅうちゃく)せず、貧しい人々に施し、イエス様と共に歩む人のことです(マタイ19:21)。行いのない信仰は空(むな)しいのです。
(メッセージの要旨)
*神様はアブラハムに「息子たちとその子孫に『主の道』を守らせ、主に従って『正義』を行わせること」を命じられました(創世記18:19)。イエス様も「何よりもまず、神の国(神様の支配)と神の義(神様の正義)を求めなさい」と言われたのです(マタイ6:33)。旧・新約聖書は信仰の原点が「正義の実現」にあることを伝えているのです。ところが、キリスト信仰が「赦しの信仰」としてのみ理解されているのです。根拠とされているのが今日の聖書の個所です。イエス様が福音を要約された「山上の説教」(マタイ5-7)の一説です。キリストの信徒の中には個人の倫理的、道徳的指針としてだけではなく、社会的な問題への対応方法-判断基準-としている方も多いのです。社会的、政治的、経済的な矛盾を究明し、現状の打破のために立ち上がることはないのです。ひたすら耐えるのです。イエス様は社会的地位や権力のない人々の側に立たれたのです。立ち位置を明確にしておられるのです。権力者たちや金持たちから不当な扱いを受けている貧しい人々や虐げられた人々に「抵抗する方法」を教えておられるのです。ある金持ちの青年は律法を厳格に守っていました。ところが、「永遠の命」の確信に至らなかったのです。「何か欠けているでしょうか」と質問したのです。イエス様は「完全になりたいなら、持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と答えられたのです(マタイ19:16-30)。「完全になる」とは「神様の御心」の実現のために行動することです。それぞれが正義を貫き、慈悲に満ち、誠実に生きることなのです。
*『目には目を、歯には歯を』が復讐を正当化する根拠として用いられているのです。「戒め」には神様の深い思いが込められているのです。目に損傷を受けた人が怒りのあまり傷つけた相手を殺してしまうこともあったのです。過度の復讐を抑制するために定められたのがこの「戒め」なのです。イエス様も「わたしが来たのは律法や預言者を・・・廃止するためではなく、完成するためである」と言われたのです。「愛」によって律法を解釈されたのです。しかし、イエス様のお言葉の意味が誤解されているのです。「愛すること」を「赦すこと」と同一視しているのです。「悪人に手向かってはならない」が「悪と闘わないこと」であるかのように解釈されているのです。沈黙、無批判、忍耐によって「神様の介入」を待つだけなのです。そこに「赦し」はあっても、悪人たちや迫害する者たちに抵抗し、抗議するという「正義」の観点が見られないのです。「無抵抗の赦し」のみが強調され、苦難に喘(あえ)ぐ人々の「無言の意思表示」が見落とされているのです。イエス様はご生涯を通して貧しい人々や虐げられた人々と共に歩まれ、これらの人の重荷を担(にな)われたのです。他方、権力者(信仰の指導者)たちの偽善や腐敗、富んでいる人たちの不信仰や不正を厳しく非難されたのです。弟子たちにはご自身に倣(なら)って生きることを求められたのです。敵や迫害する者たち、悪人たちの罪を無批判的に容認し、赦してはならないのです。抑圧や不正には断固抗議するのです。暴力に頼らす状況に応じた方法で抵抗するのです。イエス様の教えなのです。
*旧・新約聖書が伝えているように神様は「正義」と「愛」を大切にされるお方なのです。イエス様は「神様の御心」に沿って貧しい人々や虐げられた人々の友となられたのです。一方、これらの人を抑圧し、搾取する指導者(権力者)たちとは激しく対峙(たいじ)されたのです。この姿勢を十字架の死に至るまで貫かれたのです。迫害が予想される場合であっても律法違反や不当な扱いを告発されたのです。「・・左の頬をも向けなさい」は無限の赦しではないのです。不正や暴力を断じて許さないという意志表明なのです。ユダヤ人たちの慣習を知ればこのお言葉の意味が分かるのです。人々は決して左手を使わないのです。左手は「汚れている」からです。相手の右の頬を打つためには工夫がいるのです。右手の甲を用いるのです。目的は相手を物理的に傷つけるというよりは侮辱することにあったのです。双方の力に大きな差がある時は直接的な反撃は暴力をエスカレートさせ、致命的な事態を招くのです。打たれた人は屈辱的な扱いに耐えるのです。しかし、イエス様は左の頬を相手に向けなさいと言われるのです。左の頬を向けることによって静かに抵抗するのです。相手に非人間性を自覚させるのです。同時に自分の尊厳を取り戻すのです。南アフリカに有色人種を差別する人種隔離制度(アパルトヘイト)-1991年6月まで存続‐がありました。黒人女性が子供たちと歩いていました。白人の男が彼女の顔に唾(つば)を吐(は)いたのです。彼女は「ありがとう、子供たちにも同じようにして下さい」と言ったのです。男は恥じて逃げ去ったのです。
*貧しいユダヤ人たちは二つの服しか持っていないのです。上着ともう一つは下着です。人々は税金や負債を支払うために土地を担保にしてお金を借りたのです。支払いが不能になると土地は没収されたのです。神様は「もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない」と命じられたのです(出エジプト記22:24)。金貸しは律法に違反しているのです。下着を担保にしてお金を借りていれば、上着の他に担保となる物は残っていないのです。神様は貧しい人々の窮状をご存じです。「もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである」と言われるのです(出エジプト記22:25-26)。「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」は善意や好意の勧めではないのです。お言葉が金貸しに対する究極の非難であることは明白です。イエス様に従う人々のほとんどが貧しかったのです。教育の機会にも恵まれていなかったのです。金持たちの横暴と悪行から目を逸(そ)らせてはならないのです。イエス様は彼らの貪欲と不正を告発するために「裸(はだか)になりなさい」と言われるのです。持っている人々にとって有利に働く社会・政治・経済の仕組みを改めさせるのです。それぞれに覚悟が必要なのです。
*ローマ軍の兵士には自分の荷物を約1,5㎞ユダヤ人に運ばせることが認められていました。危険な仕事や作業も多かったのです。家族の前で徴用されることはその人にとって耐え難いことでした。「そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた」が当時の様子を伝えています(マルコ15:21)。イエス様は人間の尊厳を守るために力ある者たちとの闘い方について教えられたのです。暴力ではなく、「非暴力」によって闘うのです。「悪人に手向かってはならない」、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」が誤解されているのです。闘わず悪に屈服することではないのです。非暴力的な手段によって悪人や敵に「正義」や「良心」を想起させることなのです。キリストの信徒たちには「神様の御心」を実現する責務があるのです。敬虔(けいけん)さだけではないのです。社会・政治・経済の公平と平等を追求するのです。歪(ゆが)められた秩序を変革するのです。敵や迫害する者たち、悪人たちの不当性や非人間性に抵抗し、抗議することは当然なのです。同時に、彼らが悔い改めて神様の下へ導かれることを心から祈るのです。キリスト信仰の真髄(しんずい)は律法の中で最も重要な「神様と隣人への愛」を実践することです。「神の国」の福音が恣意的(しいてき)に変容されているのです。「赦し」のみに縮小されているのです。しかし、旧・新約聖書のどこにも「正義」を欠いた「赦し」はないのです。胆(きも)に銘じるのです。