「揺るぎない信仰」
Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書5章17節から26節
ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒瀆(ぼうとく)するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦(ゆる)すことができるだろうか。」イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れ(畏れ)に打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。
(注)
ファリサイ派の人々:律法を厳格に遵守するユダヤ教の一派です。学識の豊富さから民衆に尊敬されていました。しかし、イエス様は彼らを厳しく批判されたのです。その理由は彼らが偽善者だったからです。マタイ23:1-36を参照してください。一方、律法学者の多くはファイサイ派によるモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)(トーラ)の解釈を支持していました。イエス様と対立した律法学者たちはファイサイ派に属していました。
・律法学者たち:文書を記録する官僚であり、同時に学識を有する学者です。多くはイエス様に批判的でしたが、「先生,あなたがおいでになる所ならどこへでも従って参ります」と言った律法学者もいたのです(マタイ8:19)。
・主の力:天使はマリアに「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と明言したのです(ルカ1:35)。さらに、人々はイエス様の業に驚いて「一体、この言葉は何だ。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは」と言ったのです(ルカ4:36)。
・人の子:この呼称には三つの意味があります。第一は預言者です(エゼキエル書2:1-3)。第二は天の雲に乗って現れる終わりの時の審判者です(ダニエル書7:13-14)。今日の聖書の個所では、イエス様は預言された人の子であることを明らかにされたのです。他に「わたしとわたしの言葉を恥じる者(たち)は、人の子も自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときにその者(たち)を恥じる」(ルカ9:26)、「神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(ルカ18:8)などがあります。第三はこの世の人間を表しているのです(ルカ9:58)。
・災難、病気、心身の障害などが罪に由来するという伝統的なユダヤ人の考え方については申命記28-30章、エゼキエル書18章26-27節を参照して下さい。
(メッセージの要旨)
*ユダヤ教を代表するファリサイ派の人々や律法学者たちは祭司長や長老たちと共に宗教的権威(権力)を誇っていました。これらの人はイエス様を陥(おとしい)れる機会を虎視眈々(こしたんたん)と狙っていたのです。イエス様は多くの病人を癒(いや)しておられました。災難や病気は罪と深く結びつけられていました。生まれつき目の見えない人を見た弟子たちが、イエス様に「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですが。本人ですか。それとも両親ですか」と尋ねていることからも分かるのです。イエス様は「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業(わざ)が現れるためである」と答えられたのです(ヨハネ9:1-3)。心身の障害と罪との関連を完全に否定されたのです。イエス様は中風の人と運んできた男性たちをご覧になったのです。言葉のやり取りは一切ないのです。彼らの行動の中にご自身への信仰を確認されたのです。中風の人に「あなたの罪は赦された」と言われたのです。神様がご自身に「罪の赦し」の権限を委(ゆだ)ねておられることを明らかにされたのです(ヨハネ5:22)。ファリサイ派の人々や律法学者たちはイエス様のお言葉を神様への冒涜として非難したのです。罪の赦しや病気の癒しは神様しか出来ないからです。「癒しの業」が行われたのです。同時に、その事実は目に見えない罪の赦しを証明しているのです。一部始終を目撃した群衆は畏(おそ)れを覚えて、イエス様が「人の子」-終わりの時の審判者-であることを信じたのです。神様を賛美したのです。
*財産のある人が「神の国」に入ることはらくだが針のあなを通ることよりも難しいのです。しかし、イエス様は「人間にはできないことも、神にはできる」と言われたのです(ルカ8:18-27)。お言葉通り、不可能と思われた人々が「救い」に与っているのです。中風の人の罪は日本語訳では一つであるかのように表現されていますが、原文では「複数の罪」になっています。何か分かりませんが幾つかの罪を犯しているのです。しかし、イエス様は屋根の瓦を剥(は)がしてまでご自身に近づこうとした行動の中に「悔い改め」を認められたのです。「悔い改め」がなければ「救い」は訪れないのです。イエス様は徴税人や罪人たちと一緒に食事をされました。律法(慣習)は罪人との交際を禁じているのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちはイエス様を非難したのです。イエス様は「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と言われたのです。地上に遣わされた使命を目に見える形で実行されたのです(ルカ5:31-32)。徴税人はローマ帝国に協力して蓄財していたのです。同胞から裏切り者の烙印(らくいん)を押されていたのです。ところが、彼らの中にはレビ(マタイ)のように何もかも捨ててイエス様に従った人(ルカ5:27-28)、ザアカイのように自分の財産の半分を貧しい人々に施し、不正に得た利益を四倍にして返した人(ルカ19:1-10)もいたのです。「悔い改め」に相応しい行いよって「救い」を得たのです。
*罪人の中には犯した罪に苦しんでいる人々がいるのです。彼らに誇るものは何もないのです。身を低くして再出発するだけなのです。ローマ帝国軍の百人隊長(異邦人)はイエス様を信じていました。自分の奴隷が病気で死にかかっていたのです。イエス様に使いを送ったのです。彼の癒しを願い出たのです。一方、自分の罪の深さも自覚していました。「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるようなものではありません。・・ひと言おっしゃって下さい」と言ったのです。お言葉によって奴隷が癒されることを確信していたからです。イエス様は「ユダヤ人の中でもこれほどの信仰を見たことがない」と言われたのです。使いが家に戻ると奴隷はすでに元気になっていたのです(ルカ7:1-10)。ファリサイ派のシモンが願ったのでイエス様は食事をされることになったのです。イエス様が家に入ったときシモンは足を洗う水を出さなかったのです。ところが、町の中で評判の悪い一人の罪深い女性が香油の入った石膏(せっこう)の壺を持って来て、泣きながらイエス様の足を涙で濡らし、自分の髪の毛でぬぐい、接吻して香油を塗(ぬ)ったのです。シモンは彼女が罪人であることに焦点を当てるのです。イエス様はシモンに「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる」と言われたのです。女性は最後まで無言でした。しかし、「あなたの罪は赦された」と宣言されたのです(ルカ7:36-50)。放蕩息子も罪を心から悔いたのです。父親に「雇人の一人にしてください」と言って「救い」に与ったのです(ルカ15:11-32)。
*神様は自分が正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に全く異なる判断を下されるのです。ファリサイ派の人と徴税人が神殿で祈っていました。前者は心の中で「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と祈ったのです。ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と言ったのです。神様は徴税人の祈りを聞き入れられたのです(ルカ18:9-14)。ファリサイ派の人々や律法学者たちが姦通の現場で捕らえた女性を石打の刑で殺そうとしていました。イエス様はこれらの人に「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、先ず、この女(性)に石を投げなさい」と言われました。年長者から始まって、一人また一人その場から立ち去ったのです。イエス様は女性に「わたしもあなたを罪に定めない。これからは、もう罪を犯してはならない」と言われたのです(ヨハネ:1-11)。神様はイエス様に裁きの権限を委ねられたのです。ところが、自分たちにも裁く資格があるかのように誤解している敬虔(けいけん)な人々がいるのです。神様が赦された人々に再び有罪を宣告する教会があるのです。このような信仰理解や宣教姿勢は「神様の御心」に反しているのです。イエス様の「救いの業」を妨げているのです。傲慢は最も大きな罪です。死に至る病なのです。「悔い改め」がなければ赦されないのです。
*イエス様は連れて来た男たちの信仰をご覧になって、中風の人に「人(友)よ、あなたの罪は赦された」と言われたのです。この人は自分以外の人たちの信仰によって救いに与ったのです。これは「執り成しの祈り」と良く似ているのです。人々への奉仕には二つの意味があります。一つは現実の重荷を少しでも軽減することです。次に「行い」を通して証しされた「神様の愛」に触れて頂くことです。男たちは屋根に上って瓦(タイル)をはがし、中風の病人を寝台ごとつり降ろしたのです。彼らには必ず癒して下さるという確信があったのです。言葉によって信仰が告白されるとは限らないのです。「良い行い」によって表明されることがあるのです。中風の人が言葉や行いによって信仰を表明していないのです。ご自身の絶対的な権威に基づいてこの人の罪を赦し、病を癒されたのです。確かに「罪の赦し」と「病の癒し」が人々を驚かせたのです。もう一つ付け加えたいことがあるのです。無言であった中風の人が神様を賛美したことです。信仰から迷い出た人が再び神様の下に導かれたのです。イエス様の「力ある業」を見た群衆も憐れみ深い神様を賛美したのです。キリスト信仰において関心が「罪の赦し」に留まっているのです。信徒たちには果たすべき使命があるのです。「すべきことをしないこと」が安易に理解されているのです。「永遠の命」に関わる深刻な問題なのです。行いのない信仰は空しいからです。イエス様の権威を軽んじてはならないのです。命じられた最も大切な戒め-神様と隣人を愛すること-を実践するのです。審判は後に下されるのです。
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