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洗礼者ヨハネが捕らえられた後、イエス様はガリラヤ地方へ行き、福音(良い知らせ)を宣べ伝えて「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたのです(マルコ1:14-15)。イエス様は復活された後も、使徒たちに「神の国」について話されたのです(使徒1:3)。キリスト信仰の中心メッセージは「神の国」-神様の支配-にあるのです。

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「ヨハネの誕生」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書1章5節から25節

ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。 さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父(両親たち)の心を子(たち)に向けさせ、逆らう者(たち)に正しい人(たち)の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」

民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った。その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた(隔絶された)。そして、こう言った。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」

(注)


・待降節:教派によって呼び方は異なりますが、キリスト(メシア)-油注がれた者-のご降誕を待ち望む期間のことです。クリスマスの4週前の日曜日から始まります。今年は11月30日です。


・ヨハネが「悔い改め」の洗礼を授けていた当時の政治情勢:


●ティベリウス:ローマ皇帝です。在位は紀元後14年から37年です。


●ポンティオ・ピラト:ローマから派遣されたユダヤの総督です。在位は紀元後26年から36年です。


●ヘロデ:ヘロデ大王のことです。ローマ人からユダヤ人の王と呼ばれていました。在位は紀元前37年から紀元前4年です。洗礼者ヨハネが宣教を開始した頃のガリラヤの領主ヘロデは、三人の息子の一人ヘロデ・アンティパス(紀元前4年-紀元後39年)です。他の二人はヘロデ・フィリポ(紀元前4年-紀元後34)とヘロデ・アルケラオ(紀元前4年-紀元後6年)です。前者はガリラヤ湖の北とヨルダン川の北東(現在のシリア)などを支配し、後者は当初ユダヤ、サマリアなどを管轄しました。しかし、統治能力に問題がありました。ローマ皇帝は彼の職を廃止し、エルサレムを直轄領としたのです。


・アビヤ組:歴代誌上24:1―19をお読み下さい。祭司たちは人数が多いので24組に分けられていました。ユダヤ人歴史家ヨセフスは2万人の祭司がいたことを記録しています。それぞれ半年に一週間神殿で仕えたのです。それ以外の日はエルサレムを離れこの世の仕事に従事したのです。ザカリアのようにくじで選ばれて「聖所」で一日に二回香を焚(た)く祭司は極めて少ないのです。


・アロン:イスラエルの祭司職の祖先です(出エジプト記40:12-15)。モーセの三歳上の兄です。洗礼者ヨハネの父ザカリアと母エリザベトは共に祭司職の家系の出身です。


・不妊の女性:エリザベトのような不妊の女性に子供が授(さず)かった例として他にも記述されています。アブラハムとサラの息子イサク(創世記18:1-15)、マノアとその妻の息子サムソン(士師記13:1-5)、エルカナとハンナの息子サムエル(サムエル記上1-2)をご一読下さい。


・天使(ガブリエル):神様からの公的な使節です。ダニエル書8:16、9:21にも登場します。


・エリヤの霊と力:洗礼者ヨハネは預言者エリヤの再来なのです(マラキ書3:23-24)。イエス様の先駆けとして人々を「悔い改め」に導く任務を与えられたのです。


・救いの角:イエス様のことです。この表現はダビデの家系に連なる支配者であることを強調しています。「主は逆らう者を打ち砕き天から彼らに雷鳴をとどろかされる。主は地の果てまで裁きを及ぼし王に力を与え油注がれた者の角を高く上げられる」(1サムエル記2:10)。詩篇18:3;132:17を参照して下さい。

(メッセージの要旨)


*四福音書の記者はこぞって「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」(イザヤ書40:3)を引用して、ヨハネをイエス様の先駆けとして紹介しています。洗礼者ヨハネは「救い主」の到来を準備するために神様が選ばれた器なのです。エルサレム神殿で奉仕する24のグループの一つアビヤの組に属する祭司ザカリアと妻エリザベトの間に生まれました。二人は長い間子宝に恵まれませんでした。そのうち、年老いてしまったのです。ある日、ザカリアは神殿で香を焚(た)いていました。不思議な事が起ったのです。天使ガブリエルが現れてザカリアに挨拶をしたのです。エリザベトが子を産むこと、名前をヨハネとすること、その子によって主のために道が整えられることを告げたのです。ザカリアは天使の言葉を疑ったのでヨハネが生まれるまで口が利けなかったのです。エリザベトがヨハネを宿して6か月後同じ天使が乙女マリアの所に来て男の子(イエス様)が生まれることを告げたのです。親類のエリザベトが子を宿していることも知らせたのです。マリアは急いで彼女を訪れたのです。挨拶をするとエリザベトの胎内の子がおどったのです。ザカリアは話せるようになると聖霊様に導かれて「主は我らのために救いの角を、/僕ダビデの家から起こされた。・・幼子(ヨハネ)よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、・・救いを知らせる。・・」と預言したのです(ルカ1:67-80)。ヨハネはイエス様がどのようなお方であるかを証ししたのです。

*幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒野にいました。福音書記者ルカは洗礼者ヨハネが宣教を開始する時の政治状況について詳細に記述しています。ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデ・アンティパスがガリラヤの領主、その兄弟ヘロデ・フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、アンナスとカイアファとが大祭司でした。これらの権力者たちが「神様の正義」を踏みにじり、民衆を苦しめていたのです。ルカは福音宣教がこの世-政治・経済・社会-の真っ只中に開始されたことを強調しているのです。ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行き、人々に罪の赦しを得させるために「悔い改め」の洗礼を授けていました。洗礼を申し出た群衆に「蝮(まむし)の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。・・斧(おの)は既(すで)に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と言ったのです(ルカ3:1-9)。「最後の審判」が近づいているのです。「救い」には「悔い改め」(善い行い)が不可欠です。ただ、ヨハネが求める「悔い改め」は人々の信仰心の希薄さや宗教儀式の軽視ではなく、誰も気にしなかった隣人愛の欠如(けつじょ)や社会正義への無関心なのです。イエス様も正義と愛を何よりも大切にされたのです。キリスト信仰の原点だからです。心に深く留めるのです。教えによって覚醒(かくせい)した群衆はヨハネに「わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねたのです。

*洗礼者ヨハネの返答は具体的でした。一般民衆には「下着を二枚持っている者は(誰でも)、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も(誰でも)同じようにせよ」と言ったのです。徴税人(たち)も洗礼を受けるために来て「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と質問したのです。彼らに「規定以上のものは取り立てるな」と命じたのです。兵士たちも「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねたのです。「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と答えたのです。人々は「メシア」の到来を待ち望んでいました。もしかしたらヨハネが「メシア」ではないかと皆心の中で考えていたのです。ヨハネは自分の立ち位置を明確にするのです。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方(イエス様)が来られる。わたしは、その方の履物(はきもの)のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕(み)を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻(から)を消えることのない火で焼き払われる」と言って、本当の「救い主」が到来することを知らせたのです。同時に、権力者たちの様々な罪を公然と告発したのです。異母兄弟(ヘロデ・フィリップ)の妻ヘロディアとの結婚、さらに、数々の悪事を責められたヘロデ・アンティパスは洗礼者ヨハネを牢に閉じ込めたのです(ルカ3:10-20)。臣下に命じて首を切らせたのです。ヨハネはイエス様の宣教内容を前もって知らせたのです。

*イエス様の宣教はヨハネによる洗礼から始まりました。ヨハネの活動はイエス様が宣教を開始された後も続いたのです。教えや生き方に共通点も多いのです。両者は関連付けて評価されているのです。イエス様の名前が知れ渡ってくると、人々の中には「ヨハネが死者の中から生き返った」と言う者もいたのです(マルコ6:14)。ヨハネは人口が多い町(都会)ではなく、ユダヤの荒れ野を選んで、差し迫った「神様の裁き」と「悔い改め」の必要性を宣教したのです(マタイ3:1)。預言者エリヤの再来を想起させる毛衣を着、腰には皮の帯を締めていたのです(列王記下1:8)。質素な生き方を貫(つらぬ)いたのです。イエス様も「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子(ご自身)には枕する所もない」と言われたのです(ルカ9:58)。貧しい人々や虐げられた人々と歩み、これらの人の苦しみや悩みを担われたのです。ヨハネは権力者たちを恐れなかったのです。イエス様も強盗の巣と化したエルサレム神殿の境内から商人たちを追い出し、指導者たちの不信仰と腐敗を激しく非難されたのです(マルコ11:15-16)。ヨハネの弟子たちがイエス様に「わたしたちとファリサイ派の人々は断食しているのに、あなたの弟子たちはそれをしないのですか」と尋ねています(マタイ9:14)。イエス様の弟子たちもイエス様に「ヨハネが弟子たちに教えた祈りについて自分たちにも教えてほしい」と申し出たのです(ルカ11:1)。弟子たちは信仰への理解を深めて行くのです。ヨハネと同様に、イエス様も行いを重視されたのです。


*洗礼者ヨハネは「救い」における行いの重要性を軽んじる人々に警告しているのです。イエス様も「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。・・そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」と言われたのです(ヨハネ15:2-6)。ヨハネは「神の国」の福音を先取りして説明しているのです。行いを伴わない信仰によって「永遠の命」に与ることは出来ないのです。最も重要な戒め-神様と隣人を愛することーを実践することによって「神の国」に招き入れられるのです。ヨハネはイエス様について「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである」と宣言するのです(ヨハネ1:29-39)。イエス様もヨハネについて「預言者以上のものである。・・およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。・・」と言われたのです。お言葉通り、民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえも洗礼を受け、神様の下へ立ち帰ったのです(ルカ7:24-29)。ヨハネは抽象的な信仰を語らなかったのです。「神様の御心」に沿った社会秩序の確立に心を砕いたのです。権力者たちには社会的地位や既得権益を脅(おびや)かす危険な存在として映ったのです。ヨハネは与えられた使命を果たしたのです。イエス様はヨハネを遥かに超えるお方です。メッセージの内容が厳しいのは当然なのです。ヨハネもイエス様も「神の国」の福音を証しして命を奪われたのです。キリスト信仰をヨハネの教えから学ぶのです。

2025年11月30日

「問われる信仰」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書18章9節から30節

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。するとペトロが、「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた(神様に委ねた)者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」

(注)

ファリサイ派:律法を厳格に遵守するユダヤ教の一派です。学識の豊富さから民衆に尊敬されていました。しかし、イエス様は彼らを厳しく批判されたのです。その理由は彼らが偽善者だったからです。マタイ23:1-36を参照してください。一方、律法学者の多くはファイサイ派によるモーセ五書(旧約聖書の創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)-トーラーの解釈を支持していました。

徴税人:ローマ帝国のためにユダヤ人から税を徴収していました。他のユダヤ人からは裏切り者と呼ばれていました。さらに、民衆から集めた税金を当局に納めた後は自分のために追加の税を徴収することが許されていました。徴税人たちは強欲さと不正の故に罪人の一員として扱われ、社会の隅に追いやられたのです。ファリサイ派の人々から蔑(さげす)まれていましたが、イエス様は彼らの友となられたのです。徴税人マタイを12使徒の一人に選ばれたのです(マタイ9:10-13)。

・断食:年に一度の贖(あがな)いの日に大祭司は神殿内にある至聖所に入り、全民衆の罪の懺悔(さんげ)のために断食を行ったのです。

・献金:ユダヤ人には神殿と祭司たちを支えるために農産物の十分の一を捧げることが義務付けられていました(レビ記27:30-33)。ハーブ類の薄荷(はっか)、いのんど、ういきょうは除外されていました。ファリサイ派の人々はこれらも捧げて信仰を誇るのです。しかし、イエス様は律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実をないがしろにする彼らを厳しく非難されたのです(マタイ23:23)。

・罪人:一般的な定義よりも広いのです。民族を裏切る徴税人たち、身体や精神に障害を持つ人々、不道徳な女性たち、律法を順守しない人々(献金をしない貧しい人々)、サマリア人たちや異邦人たちと交際する人々も含まれているのです。

・義:日本語訳は一般的に個人の道徳心や信仰心の篤さとして理解されているのです。しかし、原語には社会的な正義という意味があるのです。イエス様は「義(正義)に飢え乾く人々は、幸いである」(マタイ5:6)、「何よりもまず、神の国と神の義(正義)を求めなさい」(6:33)と言われたのです。キリスト信仰において正義の重要性が語られない要因の一つになっているのです。

・子供のように:子供は無力な存在です。自分に誇るものがないことの例えです。ここでは、貧しい人々や虐げられた人々を指しています。これらの人は神様にすべてを委ねる以外に生きる術(すべ)がないのです。「神の国」の到来を福音-良い知らせ-として素直に受け入れたのです。

・神の国:天の国とも呼ばれています。死後に行く「天国」のことではないのです。神様の主権、神様の支配を表す言葉です。イエス様の宣教の第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」です。イエス様を通して「神の国」が到来しているのです。病人の癒し、罪の赦しなどがそれを証明しているのです。

(メッセージの要旨)

*キリスト信仰とは「神の国」の到来を福音として信じることです。神様が人間の支配に取って代わられる時-この世の終わり-が来ているのです。信仰の傲慢は本人が気づくことの少ない深刻な罪の一つです。「神様の恵み」を自ら遠ざけているのです。一方、神様は罪の大きさに絶望しながらも「憐れんで下さい」と願い出る人々を祝福されるのです。人々は重税に喘(あえ)ぎ、日々の糧を得ることにも苦労しているのです。病気や障害は罪と結び付けられていました。病人や心身に障害のある人々は罪人として社会の隅に追いやられたのです。神様はこれらの最も小さい人を優先的に「神の国」に招かれるのです(マタイ5:1-11)。金持ちは富に執着するのです。貧しい人々に施さないのです。ただ、神様と富の両方に仕えることは出来ないのです。イエス様の弟子であっても隣人の窮状に無関心な人々は「神の国」に入れないのです。「神の国」に招かれるためには「行い」が不可欠なのです。旧・新約聖書は一貫しているのです。正義と愛に満ちた神様のお姿を伝えているのです。イスラエルの民(人類)に対する忍耐と憐れみの歴史を記しているのです。キリストの信徒たちはその延長線上に生きているのです。福音の範囲が限定的に理解されているのです。「罪の赦し」に留まらないのです。人間の「全的な救い」として実現するのです。イエス様はファリサイ派の人々、徴税人たち、金持ちたちに等しく福音を語られたのです。子供のように「神の国」を受け入れる人々が「救い」に与るのです。イエス様への応答がその人の運命を決定するのです。

*ユダヤ人たちは毎日神殿で礼拝をしていました。神殿は犠牲の供え物を捧げるだけでなく祈りの場所でもありました。二人は神殿内部の至聖所近くのイスラエルの庭(ユダヤ人男性の礼拝場所)で祈ったのです。ファリサイ派の人は神様に「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と信仰心の篤さを誇示するのです。律法が定める断食は年に一度「贖いの日」に行えばいいのです(レビ記23:47)。ところが、この人は敢えて誰よりも多く断食をするのです。捧げる必要のない薄荷、いのんど、ういきょうなどの農産物(香辛料)の十分の一を捧げるのです。すべては人々に見せて賞賛を得るためなのです(マタイ23:5)。徴税人に対しても横柄に振舞うのです。一方、徴税人はファリサイ派の人が指摘したように自分が罪人であることを自覚しているのです。人々に祈る姿を見られることさえ躊躇(ちゅうちょ)しているのです。後悔の念と罪の意識は天の方に向かって祈ることを思いとどまらせたのです。胸を叩いてただ神様の憐れみと赦しを乞うたのです。罪を犯さない人間はいないのです。問題は罪を自覚し、心から悔い改めているかどうかなのです。神様は「・・わたしが顧みるのは/苦しむ人(謙遜な人々)、霊の砕かれた人(人々)/わたしの言葉におののく人(人々)」と言われるのです(イザヤ書66:2)。ファリサイ派の人は尊大にも神様のお言葉を軽んじているのです。徴税人は犯した罪を弁明していないのです。神様はすべてをご存知です。ファリサイ派の人を罪人とし、徴税人を義人(正しい人)とされたのです。


*イエス様は「神の国」の本質を明確にされるのです。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」のです。子供のように「神の国」を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできないのです。イエス様のお言葉を実行することは簡単ではないのです。立ち位置を変えて生きることだからです。最も小さい人々-貧しい人々や虐げられた人々-と共に歩む決断をするのです。道徳的、倫理的な罪のみが罪ではないのです。信仰の傲慢、お金への執着、正義や平和への無関心はより深刻な罪なのです。身近にいた弟子たちも誰が天の国で一番偉いかについて尋ねているのです。イエス様は「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国入ることはできない」と言われたのです(マタイ18:1-5)。信仰を自負する人の多くは尊大さに気づいていないのです。しかし、信仰の傲慢こそ死に至る罪なのです。ファリサイ派の人は自分の「救い」を確信しています。ところが、神様はこの人の信仰を認められないのです。徴税人は犯した罪の重大さに慄(おのの)いているのです。神様に「憐れんで下さい」と祈ったのです。神様は信仰に応えられたのです。権力を振るう人が後になり、彼らに蔑まれた人が先となったのです(マタイ20:16)。たとえ話は2000年前のことではないのです。今日のキリストの信徒たちへの警鐘になっているのです。パウロも自分を厳しく戒めています(1コリント書4:1-5)。終わりの日まで先走って信仰を評価してはならないのです。イエス様が権威によって正しい裁きを行われるのです。


*ある金持ちの議員は子供の時から「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」という掟を守ってきました。しかし、「永遠の命」の確信が得られないのです。「議員」と訳されている原語は「支配者」と訳されるべき言葉です。日本語訳は往々にして「信仰の妨げになる」として政治的言葉を避けているのです。恣意的(しいてき)な翻訳がイスラエルの民衆の窮状を曖昧(あいまい)にする要因の一つになっているのです。絶大な権力によって民衆を搾取している「支配者」が漠然とした不安に悩まされているのです。律法を守っているにも関わらず、「神様の罰」に怯(おび)えているのです。イエス様は信仰心を認めておられるのです。しかし、この人は「神様の御心」を自分中心に解釈しているのです。神様と富との両方に仕えることは出来ないのです(マタイ6:24)。イエス様は原点に戻って解決方法を示されたのです。「自分の財産を売って貧しい人々に施しなさい」、ご自身の「弟子になりなさい」と言われたのです。「支配者」は律法の規定を選別するのです。律法の中で最も重要な戒めである「隣人を自分のように愛しなさい」を実行する決心がつかなかったのです。神様よりも富を愛したことは明白です。キリスト信仰の説明においてに「救い」を左右する富への言及がほとんど見られないのです。人々が「それでは、だれが救われるのだろうか」と言っていることからも分かるのです。イエス様は「人間にはできないことも、神にはできる」と答えられたのです。「永遠の命」は安価な恵みではないのです。「犠牲」が伴うのです。

*キリスト信仰を標榜する人々は(旧・新約)聖書を学んでいます。しかし、現実の社会から遊離した知的信仰に陥(おちい)ることが多いのです。原因の一つはキリスト信仰が個人の「罪からの救い」に限定されていることにあるのです。キリストの信徒たちはイエス様が教えられた二つの重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実践することによって「救い」に与るのです。イエス様は「主の祈り」を教えられました。すべて複数なのです。「わたしたち」、「わたしたちの」、「わたしたちを」が用いられています。信仰共同体としての祈りだからです。キリスト信仰に生きる人々は神様の戒めを守るのです。貧しい人々や虐げられた人々に奉仕するのです。ファリサイ派の人の傲慢は個人的ではないのです。この派に属する人々に共通しているのです。信仰の驕(おご)りを克服する方法は社会の底辺に降りることです。徴税人は疎外され、蔑まれているのです。「神の国」の福音を聞いたザアカイは財産の2分の1を貧しい人々に施すことを表明して「救い」に与ったのです(ルカ19:1-19)。罪人の烙印(らくいん)を押された人々は大いに慰められたのです。金持ちで議員のニコデモはファリサイ派の議員の横暴を批判してイエス様を弁護したのです(ヨハネ7:50-51)。同僚の金持ちの議員アリマタヤのヨセフと共にイエス様のご遺体を埋葬したのです(ヨハネ19:38-42)。二人は行いによって信仰を証ししたのです。心からの「悔い改め」とそれに相応しい行いによって「救い」は訪れるのです。自分の信仰を日々内省するのです。

2025年11月23日

「イエス様の視点」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書12章38節から13章2節

イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、正装して歩くことや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望んでいる。また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

イエスは献金箱の向かいに座り、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。そこへ一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「よく言っておく。この貧しいやもめは、献金箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

(注)

・律法学者:律法の専門家です。多くはファリサイ派に属していました。律法主義に固執し、愛の観点から律法を解釈されるイエス様と鋭く対立したのです。

・レプトン銅貨:最小の貨幣単位です。1デナリオン(平均的労働者の1日の賃金に相当する価値)の128分の一です。仮に1デナリオンを今日の通貨で換算して6,400円とすれば、50円です。やもめは一日100円で生活していたことになります。

・クァドランス:ローマの青銅貨幣です。1デナリオンの64分の一です。

・律法学者たちやファリサイ派の人々の罪:イエス様は彼らの行いを厳しく非難されました。以下はマタイ23章の抜粋です。機会がありましたら全体を通してご一読下さい。


■律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない(2-4)。・・律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷(はっか)、いのんど、茴香(ういきょう)の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが(23)。・・律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている(27-28)。・・蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか(33)。

●ファリサイ派の人々:律法を日常生活に厳格に適用した人々です。ただ、言うだけで実行しなかったのです。彼らは偽善者なのです。

●薄荷(はっか)、いのんど、茴香(ういきょう):最も小さなハーブです。


・やもめ:家父長(男性中心の)社会にあって 死別あるいは離婚されて一人身となった彼女たちは窮乏生活を余儀なくされたのです。


■災いだ、偽りの判決を下す者/労苦を負わせる宣告文を記す者は。 彼らは弱い者の訴えを退け/わたしの民の貧しい者から権利を奪い/やもめを餌食とし、みなしごを略奪する(イザヤ書10:1-2)。


■万軍の主はこう言われる。正義と真理に基づいて裁き/互いにいたわり合い、憐れみ深くあり やもめ、みなしご/寄留者、貧しい者らを虐げず/互いに災いを心にたくらんではならない。」ところが、彼らは耳を傾けることを拒み、かたくなに背を向け、耳を鈍くして聞こうとせず、心を石のように硬くして、万軍の主がその霊によって、先の預言者たちを通して与えられた律法と言葉を聞こうとしなかった。こうして万軍の主の怒りは激しく燃えた(ゼカリヤ書7:9-11)。


■裁きのために、わたしはあなたたちに近づき/直ちに告発する。呪術を行う者、姦淫する者、偽って誓う者/雇い人の賃金を不正に奪う者/寡婦、孤児、寄留者を苦しめる者/わたしを畏れぬ者らを、と万軍の主は言われる(マラキ書3:5)。

●詩篇94:1-7も併せてお読み下さい。

・腐敗した神殿政治:イエス様は「神様の御心」に反する神殿を実力行使によって激しく非難されたのです。

■イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」(マルコ11:15-17)

・神殿の崩壊:西暦70年、ローマ軍はエルサレムに侵攻し、神殿を完全に破壊したのです。

(メッセージの要旨)

*エジプトの圧政から逃れるためにイスラエルの民を導いた預言者モーセは「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏(おそ)るべき神、人を偏(かたよ)り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる」と言っています(申命記10:17-18)。律法に精通し、遵守(じゅんしゅ)しているように見える律法学者たちが貧しいやもめたちを食い物にしているのです。マタイ23章は彼らの偽善を詳細に記述しています。イエス様は指導者たちに天罰を宣告されたのです。一方「この貧しいやもめは、献金箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」と言われたのです。多くの人は出来事を「信仰のあり方」への言及として理解しているのです。律法主義者たちの強欲に憤(いきどお)ることはないのです。生活費のすべてを捧げたやもめの行く末に心を砕(くだ)くこともないのです。イエス様が神殿政治の腐敗を告発し、社会の底辺で苦しんでいる人々と共に歩んでおられるのです。ところが、弟子たちの視線は神殿の壮大さに向けられているのです。内包する様々な矛盾に関心を寄せることはないのです。キリスト信仰の真髄(しんずい)は正義、慈悲、誠実を実行することにあるのです。キリストの信徒たちの使命は「声なき民」の声を代弁することなのです。いつの時代においても「神様の御心」を軽んじる神殿や教会はいずれ崩壊するのです。

*旧約聖書は搾取(さくしゅ)され、貧しさに喘(あえ)ぎ、公の援助に依存する寡婦の実態を伝えています。神様は「寄留者を虐待(ぎゃくたい)したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなた(がた)が彼(ら)を苦しめ、彼(ら)がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる」と言われたのです(出エジプト記22:20-23)。さらに「支配者らは無慈悲で、盗人(たち)の仲間となり/皆、賄賂(わいろ)を喜び、贈り物を強要する。孤児(たち)の権利は守られず/やもめ(たち)の訴えは取り上げられない」(イザヤ書1:23)、「・・他国人は虐げられ、孤児や寡婦は・・苦しめられている。・・おまえ(たち)の中には賄賂を取って流血の罪を犯す者、利息を天引きして金を貸したり、高利を取って隣人を抑圧する者がいる」(エゼキエル書22:7-12)と記されています。いずれも権力者たちや金持ちたちへの警告なのです、新約聖書においても「自分は信心深い者だと思っても・・(信仰心がないのにあるかのように)自分の心を欺(あざむ)くならば、そのような人の信心は無意味です。みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です」とあるように「信仰の本質」が明確にされているのです(ヤコブ書1:26-27)。


*イエス様はやもめの家を食い物にする律法学者たちを非難し、貧しいやもめの献金に焦点を当て、エルサレム神殿の崩壊を再び予告されたのです。中心テーマはやもめの信仰心の篤さではなく神殿政治の在り方なのです。指導者たちの不信仰と腐敗が問題になっているのです。大勢の金持ちがたくさんの献金を捧げていました。一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れたのです。イエス様は弟子たちの前でやもめの信仰心を高く評価されたのです。やもめが貧しくなった原因は律法学者たちの強欲にあるのです。彼女の家を食い物にしているのです。律法に関する豊富な知識や知恵をやもめのために使うのではなく、悪用して彼女の財産を奪い取っているのです。彼らの心は不信仰と放縦に満ちているのです。「神様の御名」によってやもめの生活が成り立たないような献金を要求するのです。イエス様はやもめの献金額を明らかにして、現状の献金制度を批判されたのです。神殿政治を担う人々が献金によって富を蓄積し、やもめのような貧しい人々は献金によって最低限の生活さえ維持出来なくなるのです。律法学者たちは貧しい人々の重荷を軽くするために指一本動かさないのです。彼らは貧しい人々に「神様の祝福」(永遠の命)から除外されないための要件として神殿への献金の必要性を教えているのです。指導者たちの罪は真に大きいのです。イエス様は彼らの偽善を断じて許されないのです。ご自身が再び来られる時にはやもめに代表される貧しい人々を苦しめた指導者たちと強盗の巣と化した神殿を罰せられるのです。


*キリスト信仰を理解する上でイエス様の時代のエルサレム神殿の性格を知っておくことはとても重要です。エルサレム神殿は神様が臨在される神聖な場所です。異邦人も含めて多くの人がこのような観点からエルサレム神殿を見ているのです。ところが、神殿はそれ以上の機能を果たしているのです。イスラエルの政治・経済・社会を統括する国家機関なのです。大祭司によって最高法院が招集され、国の命運を左右する意思決定が行われているのです。法廷が開かれるのもエルサレム神殿なのです。ローマ帝国の利益のために自国の民を犠牲にするという苦渋の決断はエルサレム神殿においてなされたのです。イスラエルの経済をコントロールするセンターです。今日の中央銀行の役割を果たし、蓄積された莫大な富を保管する金庫なのです。しかし、指導者たちによる神殿政治は「神様の御心」から遠く離れているのです。イエス様は強盗の巣と化したエルサレム神殿を「祈りの家」に戻すために実力行使をされたのです。ご自身を通して「神の国」-神様の支配-が目に見える形で到来していることを群衆の前で公然と宣言されたのです。イエス様の神殿批判が指導者たちの霊的欠如、神殿の商業化に対する神殿潔めとして説明されることがあります。こうした信仰理解は「神の国」への誤解から生じているのです。「救い」は罪の問題に留まらないのです。人間の「全的な救い」として具体化するのです。「神の国」の到来が受け継がれて来た神殿政治の終焉(しゅうえん)を告げているのです。イエス様は教会も役員制度も設けられなかったことを心に留めるのです。

*対照的な二人の姿が描かれています。一方は「神の国」を軽んじるのです。他方は貧しくても「神の国」を第一に求めて生きているのです。律法学者たち(ファリサイ派の人々)は権力や社会的地位、富をこよなく愛しているのです。見せかけの信仰心で人々をだまし、豊富な知識を用いてやもめのような貧しい人から財産をかすめ取っているのです。献金をしなければ「神様の恵み」(永遠の命)に与れないなどと脅(おど)しているのです。果たして、貧しいやもめは指導者たちの教えを守り、生活費のすべてを捧げているのです。孤児や寄留の民と共に、寡婦は社会の中で最も援助を必要とする人々です。これらの人の窮状に対応するために、モーセの律法は様々な条項を定めています。例えば「三年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、あなた(がた)のうちに嗣業の割り当てのないレビ人(たち)や、町の中にいる寄留者(たち)、孤児(たち)、寡婦(たち)がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。・・あなた(がた)の神、主はあなた(がた)を祝福するであろう」と記述されています(申命記14:28-29)。律法学者たちは律法の規定を知っているのです。その上で寡婦たちを食い物にしているのです。「神様の名」によって略奪が行われているのです。断じて許されないのです。利益を得ている人々は厳しく罰せられるのです。やもめの信仰心の篤さに注目されがちですが、神殿政治を担う指導者たちの偽善と不正が批判されているのです。キリストの信徒たちの「視点」が問われているのです。

2025年11月16日

「イエス様への誤解」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書6章1節から15節

その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。


(注)

・ヨハネの福音書は4章⇒6章⇒5章⇒7章と読むとつながりが良くなります。

・その後:イエス様が2回目のしるし(王の役人の息子の癒し)を行われた後(ヨハネ4:54)

・ガリラヤ湖(ティベリアス湖):聖書地図を参照して下さい。

・ティベリアス湖の向こう岸:ベトサイダ(イエス様のガリラヤ宣教における重要拠点)近郊のことです。

・過越祭:

■エジプトの国で、主はモーセとアロンに言われた。「・・その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない。・・」(出エジプト記12:1-14)
 
●ヘブライ人(イスラエルの民)がエジプトの圧政から解放され、荒れ野で天から降って来たマンナ(パンの一種)によって養われたことに感謝し(ヨハネ6:31-35)、酵母を入れないパンを七日間食べて当時の試練を想起するのです。ユダヤ教の三大祭りの一つです。およそ10万人がエルサレムに巡礼したのです。出エジプト記12:1-13:10、申命記16:1-8を参照して下さい。ヨセフとマリアは12歳のイエス様と一緒にエルサレムに巡礼しています(ルカ2:41-42)。イエス様の「最後の晩餐」は過越祭の直近あるいはその当日に行われました。

・ユダヤ教の三大祭り:過越祭(三月か四月)、七週祭(五月か六月)、仮庵祭(10月)です。

・フィリポ:12使徒の一人です。

・二百デナリオン:1デナリリオンは当時の平均的な労働者の1日分の賃金に相当します。例えば10,000円であれば200万円になります。


・大麦のパン:貧しい人々が主食にしていました。

・預言者:西暦1世紀には預言者を公言する多くの人がいたのです。「救い主」は神様から遣わされたことを証明するために、様々な「力ある業」を行うものと信じられていました。

・王(政治的指導者):当時多くのユダヤ人はモーセのような預言者が起こされること(申命記18:15)を願い、エリヤの再来(マラキ書3:23-24)を期待していました。一方、自分がその預言者であるとかローマ帝国から解放するために遣わされた「救世主」であると公言するリーダー(指導者)もいたのです。ローマの総督ポンティオ・ピラトは十字架に「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という罪状書きを掛けました(ヨハネ19:19)。「神の国」(天の国)の福音はこの世と相容れないのです。イエス様は権力者に政治犯として処刑されたのです。

・ティベリウス:洗礼者ヨハネとイエス様の宣教活動の間のローマ皇帝、在位は西暦14年から37年です。

・ヘロデ・アンティパス:紀元前4年に死去したヘロデ大王の息子、ガリラヤとペレアの領主です。イエス様はヘロデ大王の治世下で誕生されたのです。

(メッセージの要旨)

*四福音書が共通して取り上げているイエス様の奇跡物語の一つです。神様がすでに約束された出来事なのです。マリアはイエス様を胎内に宿している時、神様に賛美の歌を捧げています。「その憐れみは代々に限りなく、/主を畏(おそ)れる者(たち)に及びます。・・権力ある者(たち)をその座から引き降ろし、/身分の低い者(たち)を高く上げ、飢えた人(たち)を良い物で満たし、/富める者(たち)を空腹のまま追い返されます」と言っています(ルカ1:50-53)。神様は貧しい人々や虐げられた人々と共に歩まれるのです。イエス様は「神様の御心」を実現するためにこの世に遣わされたのです。四福音書の記述を比較すると「食べ物の提供」という点では同じように見えるのですが、ヨハネは他の福音書とは若干異なる視点から出来事を伝えているのです。民族の歴史にとって重要な意味を持つ過越祭には多くのユダヤ人がエルサレムへ巡礼し、神殿に捧げ物をしたのです。ところが、この大切な時期におよそ五千人の男が宗教的、政治的、経済的権力の中心地エルサレムではなく、イエス様が宣教の拠点とされた地方のガリラヤへ向かったのです。イエス様が「真の礼拝場所」であることを理解したからです。一方、ローマと闘う政治的指導者(王)として仰(あお)ごうとしたのです。イエス様は誤解を正されるのです。先ず「力ある業」によって空腹を満たされたのです。男たちは先祖がモーセによってエジプトの圧政から解放され、荒れ野でマナを食べたことを想起したのです。「神の国」が到来しているのです。福音が告げられているのです。

*イエス様はガリラヤを宣教の拠点としながらもユダヤ人の祭りにはエルサレムへ上られたのです(ヨハネ5:1)。イエス様がユダヤ教の記念日を遵守されていたことが分かります。ヨハネは「食べ物の提供」の奇跡がガリラヤ湖の北東周辺で起こったことを記述しています。この湖をティベリアス湖と呼んでいます。ティベリアスはローマ皇帝ティベリウスの名前に因(ちな)んで領主ヘロデ・アンティパスが西暦26年頃に建設した新しい町です。ティベリアス、カファルナウム、マグダラ、コラジン、ベトサイダの村々には良い港があり、漁業が盛んでした。一方、ガリラヤは貧しい農村地域でもありました。農民たちは重税に喘ぎ、ヘロデ王朝に仕えるエリート貴族、ローマ帝国に税金を納める役人、祭司たちによって土地を奪われることも頻繁にあったのです。イエス様の教えと貧しい人々への共感は民衆の中に「神の国」の到来への熱い期待を生じさせたのです。カナの婚礼において水をぶどう酒に変えられた奇跡(ヨハネ2;1-11)やカファルナウムで王の役人の息子の病を癒された業(ヨハネ4:46-53)は弟子たちや人々を信仰に導いたのです。これらはイエス様が祭司たちに替(か)わってその重要な役割を担われたということに留まらないのです。神殿政治や宗教的権威の正当性がイエス様へ移行したことを宣言しているのです。神様が再認識されるのです。人間はイエス様を通して神様を知るのです。神様は宗教的指導者たちが教えて来たような厳しく、恐ろしいお方ではないのです。正義を基本とし、慈悲に満ち、誠実なお方なのです。

*イエス様が群衆の気持ちを引き付けたのは神様と人間の間が負債ではなく贈り物の関係であることを宣言されたからです。従来イスラエルにおいて神様の恵みや憐れみが人間の側の負債として教えられて来ました。このため、神様との間を執り成す祭司たちへの負債にもなったのです。負債は計上され後に回収されるのです。「神様への捧げ物」、「祭司たちへの献品(献金)」によって返済されるのです。神殿政治を担う指導者たちは負債の論理によって民衆を搾取しただけでなく、社会的、政治的にも彼らを支配したのです。イエス様は新しい道を示されたのです。「神様の愛」は無償で与えられるのです。イエス様は彼らに「・・どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい」と言われるのです(申命記15:7-8)。「・・貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない」のです(出エジプト記22:25)。「・・産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合は、二羽の山鳩または二羽の家鳩を携えて行き、一羽を焼き尽くす献げ物とし、もう一羽を贖罪の献げ物とする」ことによって清められるのです(レビ記12:8)。神様を愛する人々は自分を愛するように隣人をも愛するのです。不可能に見えることも人間の方から一歩踏み出せば神様がそれを実現して下さるのです。イエス様は貧しい人々の窮状を嘆くのではなく、具体的な解決策を提示されたのです。

*「神の国」の福音は言葉ではなく「行い」によって現実となるのです。ここにキリストの信徒たちの新しい生き方があるのです。イエス様はキリスト信仰の真髄(しんずい)を語っておられるのです。これまでの一般的な考え方とご自身の新しい道の違いを示すために、フィリポにおよそ五千人に食べ物を与えるための必要な経費を尋(たず)ねられたのです。これを聞いたアンデレは即座に不可能ですと答えたのです。イエス様は発想の転換を求められました。問題解決を図るための唯一の方法が「隣人愛」-最も重要な戒めの一つ-の実行にあることを再確認されたのです。男たちはイエス様から贈り物(食べ物)を受け取ったのです。「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」という教えを学んだのです(ルカ6:38)。持っている人々は持っていない人々を、金持ちたちは貧しい人々を支えるのです。権力のある人々は保護を必要とする人々のニーズを叶(かな)えるために最善を尽くすのです。神様への信仰を告白している人々は困難に直面している人々から取り立てるのではなく、これらの人々に必要なものを与えることに全力を注ぐのです。人々の要求が正当であるならば、それらを満たす「行い」は神様への聖なる捧(ささ)げものとなるのです。イエス様は「神の国」を「力ある業」によって証しされたのです。キリストの信徒たちもイエス様に倣(なら)って「与えること」を実践するのです。

*神様が命じられた新しい道に生きるキリスト者たちは最も重要な二つの戒め-神様と隣人を愛すること-を具体的に実践するのです(マルコ12:29-31)。しかし、神様を愛することに熱心であっても貧しい人々に必要なものを届けることに無関心であれば「救い」に与れないのです。イエス様が生命を賭(と)して「食べ物の提供」を行われたのです。イエス様だけでなく参加者たちを極めて危険な状況に晒(さら)すのです。ローマの許可を得ていない集会の首謀者や仲間たちは反乱の罪で十字架刑に処せられたのです。ヨハネは参加者たちを「人々」ではなく「男たち」であることを明確にしています。集まりが政治的であったことを強調しているのです。およそ5000人はローマ軍の連隊の兵士の数(6千人)に近いのです。参加者はイエス様の教えと不思議な業に預言者としての力を認めたのです。自分たちの王(リーダー)にしてローマの圧政と闘おうとしたのです。マルコの福音書には「それ(食べ物の提供)からすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた」と書かれています。イエス様は群衆がご自身について誤解していること、迫害の危険に直面していることをご存知なのです。ヘロデ・アンティパスの弾圧を避けるために弟子たちと群衆を急いで解散させられたのです。深い愛が表れているのです。「食べ物の提供」はイエス様が「神の子」であることを証明しているのです。同時に、キリストの信徒たちが「神の国」の建設に参画することを求めているのです。

2025年11月09日

「揺るぎない信仰」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書5章17節から26節

ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒瀆(ぼうとく)するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦(ゆる)すことができるだろうか。」イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れ(畏れ)に打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。

(注)


ファリサイ派の人々:律法を厳格に遵守するユダヤ教の一派です。学識の豊富さから民衆に尊敬されていました。しかし、イエス様は彼らを厳しく批判されたのです。その理由は彼らが偽善者だったからです。マタイ23:1-36を参照してください。一方、律法学者の多くはファイサイ派によるモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)(トーラ)の解釈を支持していました。イエス様と対立した律法学者たちはファイサイ派に属していました。

・律法学者たち:文書を記録する官僚であり、同時に学識を有する学者です。多くはイエス様に批判的でしたが、「先生,あなたがおいでになる所ならどこへでも従って参ります」と言った律法学者もいたのです(マタイ8:19)。

・主の力:天使はマリアに「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と明言したのです(ルカ1:35)。さらに、人々はイエス様の業に驚いて「一体、この言葉は何だ。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは」と言ったのです(ルカ4:36)。


・人の子:この呼称には三つの意味があります。第一は預言者です(エゼキエル書2:1-3)。第二は天の雲に乗って現れる終わりの時の審判者です(ダニエル書7:13-14)。今日の聖書の個所では、イエス様は預言された人の子であることを明らかにされたのです。他に「わたしとわたしの言葉を恥じる者(たち)は、人の子も自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときにその者(たち)を恥じる」(ルカ9:26)、「神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(ルカ18:8)などがあります。第三はこの世の人間を表しているのです(ルカ9:58)。

・災難、病気、心身の障害などが罪に由来するという伝統的なユダヤ人の考え方については申命記28-30章、エゼキエル書18章26-27節を参照して下さい。

(メッセージの要旨)

*ユダヤ教を代表するファリサイ派の人々や律法学者たちは祭司長や長老たちと共に宗教的権威(権力)を誇っていました。これらの人はイエス様を陥(おとしい)れる機会を虎視眈々(こしたんたん)と狙っていたのです。イエス様は多くの病人を癒(いや)しておられました。災難や病気は罪と深く結びつけられていました。生まれつき目の見えない人を見た弟子たちが、イエス様に「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですが。本人ですか。それとも両親ですか」と尋ねていることからも分かるのです。イエス様は「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業(わざ)が現れるためである」と答えられたのです(ヨハネ9:1-3)。心身の障害と罪との関連を完全に否定されたのです。イエス様は中風の人と運んできた男性たちをご覧になったのです。言葉のやり取りは一切ないのです。彼らの行動の中にご自身への信仰を確認されたのです。中風の人に「あなたの罪は赦された」と言われたのです。神様がご自身に「罪の赦し」の権限を委(ゆだ)ねておられることを明らかにされたのです(ヨハネ5:22)。ファリサイ派の人々や律法学者たちはイエス様のお言葉を神様への冒涜として非難したのです。罪の赦しや病気の癒しは神様しか出来ないからです。「癒しの業」が行われたのです。同時に、その事実は目に見えない罪の赦しを証明しているのです。一部始終を目撃した群衆は畏(おそ)れを覚えて、イエス様が「人の子」-終わりの時の審判者-であることを信じたのです。神様を賛美したのです。

*財産のある人が「神の国」に入ることはらくだが針のあなを通ることよりも難しいのです。しかし、イエス様は「人間にはできないことも、神にはできる」と言われたのです(ルカ8:18-27)。お言葉通り、不可能と思われた人々が「救い」に与っているのです。中風の人の罪は日本語訳では一つであるかのように表現されていますが、原文では「複数の罪」になっています。何か分かりませんが幾つかの罪を犯しているのです。しかし、イエス様は屋根の瓦を剥(は)がしてまでご自身に近づこうとした行動の中に「悔い改め」を認められたのです。「悔い改め」がなければ「救い」は訪れないのです。イエス様は徴税人や罪人たちと一緒に食事をされました。律法(慣習)は罪人との交際を禁じているのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちはイエス様を非難したのです。イエス様は「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と言われたのです。地上に遣わされた使命を目に見える形で実行されたのです(ルカ5:31-32)。徴税人はローマ帝国に協力して蓄財していたのです。同胞から裏切り者の烙印(らくいん)を押されていたのです。ところが、彼らの中にはレビ(マタイ)のように何もかも捨ててイエス様に従った人(ルカ5:27-28)、ザアカイのように自分の財産の半分を貧しい人々に施し、不正に得た利益を四倍にして返した人(ルカ19:1-10)もいたのです。「悔い改め」に相応しい行いよって「救い」を得たのです。

*罪人の中には犯した罪に苦しんでいる人々がいるのです。彼らに誇るものは何もないのです。身を低くして再出発するだけなのです。ローマ帝国軍の百人隊長(異邦人)はイエス様を信じていました。自分の奴隷が病気で死にかかっていたのです。イエス様に使いを送ったのです。彼の癒しを願い出たのです。一方、自分の罪の深さも自覚していました。「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるようなものではありません。・・ひと言おっしゃって下さい」と言ったのです。お言葉によって奴隷が癒されることを確信していたからです。イエス様は「ユダヤ人の中でもこれほどの信仰を見たことがない」と言われたのです。使いが家に戻ると奴隷はすでに元気になっていたのです(ルカ7:1-10)。ファリサイ派のシモンが願ったのでイエス様は食事をされることになったのです。イエス様が家に入ったときシモンは足を洗う水を出さなかったのです。ところが、町の中で評判の悪い一人の罪深い女性が香油の入った石膏(せっこう)の壺を持って来て、泣きながらイエス様の足を涙で濡らし、自分の髪の毛でぬぐい、接吻して香油を塗(ぬ)ったのです。シモンは彼女が罪人であることに焦点を当てるのです。イエス様はシモンに「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる」と言われたのです。女性は最後まで無言でした。しかし、「あなたの罪は赦された」と宣言されたのです(ルカ7:36-50)。放蕩息子も罪を心から悔いたのです。父親に「雇人の一人にしてください」と言って「救い」に与ったのです(ルカ15:11-32)。

*神様は自分が正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に全く異なる判断を下されるのです。ファリサイ派の人と徴税人が神殿で祈っていました。前者は心の中で「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と祈ったのです。ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と言ったのです。神様は徴税人の祈りを聞き入れられたのです(ルカ18:9-14)。ファリサイ派の人々や律法学者たちが姦通の現場で捕らえた女性を石打の刑で殺そうとしていました。イエス様はこれらの人に「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、先ず、この女(性)に石を投げなさい」と言われました。年長者から始まって、一人また一人その場から立ち去ったのです。イエス様は女性に「わたしもあなたを罪に定めない。これからは、もう罪を犯してはならない」と言われたのです(ヨハネ:1-11)。神様はイエス様に裁きの権限を委ねられたのです。ところが、自分たちにも裁く資格があるかのように誤解している敬虔(けいけん)な人々がいるのです。神様が赦された人々に再び有罪を宣告する教会があるのです。このような信仰理解や宣教姿勢は「神様の御心」に反しているのです。イエス様の「救いの業」を妨げているのです。傲慢は最も大きな罪です。死に至る病なのです。「悔い改め」がなければ赦されないのです。

*イエス様は連れて来た男たちの信仰をご覧になって、中風の人に「人(友)よ、あなたの罪は赦された」と言われたのです。この人は自分以外の人たちの信仰によって救いに与ったのです。これは「執り成しの祈り」と良く似ているのです。人々への奉仕には二つの意味があります。一つは現実の重荷を少しでも軽減することです。次に「行い」を通して証しされた「神様の愛」に触れて頂くことです。男たちは屋根に上って瓦(タイル)をはがし、中風の病人を寝台ごとつり降ろしたのです。彼らには必ず癒して下さるという確信があったのです。言葉によって信仰が告白されるとは限らないのです。「良い行い」によって表明されることがあるのです。中風の人が言葉や行いによって信仰を表明していないのです。ご自身の絶対的な権威に基づいてこの人の罪を赦し、病を癒されたのです。確かに「罪の赦し」と「病の癒し」が人々を驚かせたのです。もう一つ付け加えたいことがあるのです。無言であった中風の人が神様を賛美したことです。信仰から迷い出た人が再び神様の下に導かれたのです。イエス様の「力ある業」を見た群衆も憐れみ深い神様を賛美したのです。キリスト信仰において関心が「罪の赦し」に留まっているのです。信徒たちには果たすべき使命があるのです。「すべきことをしないこと」が安易に理解されているのです。「永遠の命」に関わる深刻な問題なのです。行いのない信仰は空しいからです。イエス様の権威を軽んじてはならないのです。命じられた最も大切な戒め-神様と隣人を愛すること-を実践するのです。審判は後に下されるのです。

2025年11月02日
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