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洗礼者ヨハネが捕らえられた後、イエス様はガリラヤ地方へ行き、福音(良い知らせ)を宣べ伝えて「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたのです(マルコ1:14-15)。イエス様は復活された後も、使徒たちに「神の国」について話されたのです(使徒1:3)。キリスト信仰の中心メッセージは「神の国」-神様の支配-にあるのです。

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「イエス様の怒りと苦悩」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書1章40節から45節 

さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。

(注)

・原文(ギリシャ語)に即して翻訳すると以下のようになります。新共同訳と比較してお読み下さい。

さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが怒りを覚えて、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、怒りで鼻を鳴らしながら、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、祭司たちへの抗議の意思を表明しなさい。」しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。

・祭司:神殿政治の中枢を担う特権階級の一員です。イエス様は彼らの不信仰と腐敗を神殿境内の物流の阻止、強盗の巣という辛辣(しんらつ)な言葉によって非難されたのです(マルコ11:15-19)。祭司長たちや律法学者たちはイエス様を殺すために謀議したのです。祭司職の家系に生まれたユダヤ人歴史家ヨセフスは家族がエルサレムの郊外に土地を持っていたこと、他の祭司たちが財産を蓄積している実態を事実に即して報告しています(ヨセフスの生涯、63)。彼らは一般の人々より遥かに贅沢な暮らしをしていたのです。

・重い皮膚病:皮膚病の一種です。ハンセン病と必ずしも同じではないのです。ハンセン病と訳しているのですが、「注」を付記して説明している聖書もあります。旧約聖書のレビ記13-14章には皮膚病の種類、清めの儀式が書かれています。

・ハンセン病:

●「らい菌によって起きる慢性の感染症で、末梢神経のまひや皮膚のただれなどが出る。感染しても発病する可能性は極めて低く、戦後、特効薬が普及して完治する病気となったが、国は1996年のらい予防法廃止まで強制隔離政策を続けた」と説明されています(毎日新聞4月26日朝刊)。

●医学の知識が乏しい時代には強い感染性のある病気として考えられていました。この病気にかかった人は共同体から隔離されたのです。現代の医学では完治する病気であり回復者や治療中の患者から感染する可能性の低いことが確認されています。日本においては長い間法律によって隔離政策が続けられこれらの人に対する差別の固定化の原因となったのです。近年ようやく政府がこれまでの政策に対する責任を認め施設の入所者たち(患者団体)に謝罪し、新たに法律を作って補償することになったのです。

●2016年4月25日ハンセン病患者の裁判が裁判所以外の隔離施設などに設置された「特別法廷」で開かれていた問題で、最高裁は、「差別的な取り扱いが強く疑われ、違法だった」とする調査報告書を公表し、「偏見、差別を助長し、人格と尊厳を傷つけたことを深く反省し、おわび申し上げる」と謝罪しました。さらに、同じ日に裁判官15人で構成する最高裁判官会議も、「誤った差別的な姿勢は基本的人権と裁判のあり方を揺るがす性格のもので、患者の方々にここに至った時間の長さを含め、心からおわびを申し上げる」とする談話を発表しました。すでに、政府と国会は隔離政策を違憲とした熊本地裁判決を受けて2001年に謝罪しており、三権すべてが差別を認める結果となりました。一方、「全国ハンセン病療養所入所者協議会」など三団体は、「憲法違反を正面から認めなかったことは、隔離政策の実情を全く理解していない」と批判する声明を出しています。実態解明のために踏み込んだ調査の継続を求めています。ハンセン病患者は「司法」に限らず、様々な差別と偏見の中で苦難の人生を強いられました。そして、国民(キリストの信徒たち)の多くも、意図的かどうかは別にして加害者であり続けたのです。

・サマリア人:紀元前721年アッシリアがサマリアを支配下に置きました。サマリアでは混血が進み、独自の信仰が形成されたのです。ユダヤ人たちはサマリ人たちを蔑(さげす)み、交際を拒否したのです。

(メッセージの要旨)

*祭司たちには重い皮膚病の人々に関わる責務があるのです。それを軽んじたのです。多くの人も誤った知識の故にこれらの人を遠ざけたのです。イエス様は神様の愛と憐れみを示されたのです。長い間社会から隔絶された人に手を差し伸べられたのです。祭司たちから「汚れた者」として烙印(らくいん)を押された人に「癒しの業」を行われたのです。律法違反の罪で告発される可能性があるのです。イエス様は愛を説かれるだけでなく、それを実践されたのです。旧約聖書のレビ記には人が皮膚病に罹(かか)った場合、祭司は病気の軽重を判断しなければならないと記されているのです。ただ、重い皮膚病の定義は明確ではないのです。伝染性のないものも含まれていたのです。重い皮膚病と宣告されればその人の人生は一変するのです。共同体の外で生きることを強いられ、人々から差別され、非人間的な扱いを受けたのです。これらの人の生活は悲惨の極みです。裂けた衣服を着て、髪もばさばさなのです。事前に「重い皮膚病の人がやって来る・・」と叫んで、自分の存在を人々に知らせなければならなかったのです。祭司がこれらの人を「清い」と判断すれば、強制的隔離から解放され、元の共同体に復帰することが出来たのです。「癒しの業」に注目が集まるのですが、イエス様は重い皮膚病の人々を苦しめている「制度の不備」、「祭司の資質」について憤られたのです。一方、癒された人々の不信仰と思慮を欠いた行動が指導者たちに迫害の口実を与えるのです。「癒しの業」が宣教活動を危うくしているのです。イエス様の苦悩は尽きないのです。

*重い皮膚病かどうかを判断するのは祭司たちです。祭司たちに委(ゆだ)ねられた権限は人々の運命を決定するのです。重い皮膚病の人はイエス様に申し出る前に祭司たちの所へ行ったのです。自分の症状を再検診してくれるように訴えたのです。しかし、祭司たちは何らかの理由-職務の怠慢や人々の窮状への無関心、特別な見返りが期待出来ないこと-から取り合わなかったのです。この人はイエス様の「癒しの力」を疑っていた訳ではないのです。ただ、祭司たちが拒否したように、イエス様も同じことをされるのではないかという不安があったのです。イエス様に「御心ならば(ご意思があれば)、わたしを清くすることがおできになります」と言っています。イエス様は祭司たちの不信仰と貪欲(どんよく)に怒っておられるのです。「神様の御心」を実現するためにこの人を癒されたのです。二つのことを指示されたのです。第一は、だれにも、何も話さないように気をつけることでした。ところが、自分に起った出来事を大々的に宣伝したのです。イエス様が隔離政策を無視したこと、重い皮膚病の人に直接触れたことなどが明らかになったのです。イエス様は町に公然と入ることが出来なくなったのです。祭司たちはイエス様の罪を断じて許さないからです。第二は祭司たちの所へ行って体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて証言(抗議)することでした。ただ、この人が祭司から健康であることの証明書を受け取ったか、捧げ物をしたかどうかは不明です。病気を癒していただいたことが必ずしもイエス様への信仰として結実しないのです。

*他にいくつかの例を挙げることが出来ます。二人の盲人が「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだのです。イエス様は「わたしにできると信じるのか」と言われたのです。二人は「はい、主よ」と答えたのです。そこで、二人の目に触り「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになったのです。イエス様は「このことは、だれにも知らせてはいけない」と厳しくお命じになったのです。しかし、二人はその地方一帯にイエス様のことを言い広めたのです(マタイ9:27-31)。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願ったのです。イエス様はこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられたのです。天を仰いで深く息をつき、その人に向かって「エッファタ」と言われました。「開け」という意味です。たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになったのです。イエス様はだれにもこのことを話してはいけないと口止めをされたのです。人々はますます言い広めたのです(マルコ7:32-36)。重い皮膚病を患っている十人の人が声を張り上げて「わたしたちを憐れんでください」と言ったのです。イエス様は「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われたのです。彼らは、そこへ行く途中で清くされたのです。サマリア人だけが戻って来て感謝したのです。イエス様は「あなたの信仰があなたを救った」と言われたのです(ルカ17:12-19)。

*日本語訳からはイエス様の怒りを読み取ることは難しいのです。原文の意味を忠実に反映して翻訳されていないからです。「深く憐れんで」はイエス様のイメージを人間的な怒りで損なわないように配慮されているのです。「怒りを覚えて」と訳す方が原文の趣旨に合致するのです。マルコの福音書はイエス様の実像をありのままに伝えているのです。「怒って」(マルコ3:5)、「憤り」(マルコ10:14)という言葉を使っています。「厳しく注意して」の訳はイエス様の激しい怒りを薄めているのです。「怒りで鼻を鳴らして」と訳さなければならないのです。「人々に証明しなさい」の「人々」は原文にはないのです。「祭司たちへの抗議を表明しなさい」と言う意味です。イエス様は重い皮膚病の人々が町の外で非人間的な生活を強いられ、共同体が彼らの苦難を一顧さえしない現実に怒っておられるのです。重い皮膚病を患っている人が隔離される要件を備えている場合もあるのです。ただ、そのことを理由に人を 非人間的に扱うことは決して許されないのです。ご自身はユダヤ教の指導者たちから何度も迫害されたのです。時には悪魔と呼ばれ、命さえ脅かされたのです。しかし、怒りを表されることはなかったのです。何年も前のことですが、テレビのドキュメンタリー番組で「ハンセン病患者の療養所」が紹介されていました。ある人の部屋の本棚に聖書が見えました。福音が届けられているのです。キリストの信徒たちが加害者であり続けてはならないのです。悔い改めて、神様の子供たちに対する非人間的な扱いに怒りを表し、抗議するのです。

*癒しの出来事の中に幾つかの留意すべき問題があるのです。重い皮膚病の人がイエス様に癒しを願い出たのです。イエス様はこの人がご自身の下へ来た理由をご存じです。祭司たちに診(み)てもらえなかったのです。心の底から憐れまれたのです。登場人物はイエス様と重い皮膚病の人の二人のように見えるのです。そこには祭司たちがいるのです。物語はイエス様が重い皮膚病の人を癒された出来事で完結しないのです。職務を遂行しない不誠実な祭司たちへの激しい非難となっているのです。イエス様の怒りはご自身が不当に扱われていることへの感情表現ではないのです。重い皮膚病の人に個人的に同情されたということでもないのです。貧しい人々を抑圧し、私利私欲のために祭司制度を悪用する権力者たちに向けられているのです。新共同訳聖書の訳からはこうした視点が十分に読み取れないのです。翻訳(ほんやく)に関わった人々が恣意的(しいてき)に政治的な問題や祭司制度に関わる批判的な言葉を和らげ、変えたりしているのです。キリスト信仰が誤解されている大きな要因になっているのです。読者の視線が「神様の正義」から逸(そ)らされているのです。信徒たちの関心事が「罪の赦し」と死後に行く「天国」になっているのです。キリスト信仰とはイエス様の「生き方」に倣(なら)うことです。イエス様は最も重要な戒めとして正義、慈悲、誠実を挙げられたのです(マタイ23:23)。これらを実践することが信仰なのです。癒されたとしても救われるとは限らないのです(ルカ13:22-24)。キリスト信仰は真に厳しいのです。

2025年10月12日

「弟子の生き方」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書13章1節から20節

さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。

さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範(もはん)を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

(注)

・過越祭:ユダヤ教の三大祭の一つです。イスラエルの民がエジプトの圧政から解放されたことを記念しています。毎年、三月(四月)に行われていました。およそ10万人がエルサレムへ巡礼したのです。出エジプト記をお読み下さい(12:1-13:10)。他の二つ-七週祭と仮庵祭-については申命記に記述されています(16:1-8)。

・食事の席:最後の晩餐(ばんさん)のことです。

■一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」(マルコ14:22-25)マタイ26:26-29、ルカ22:15-20も併せてお読み下さい。

・すでに体を洗った者:ユダヤ教が定める「清めの儀式」を自宅で行った人のことです。それを済ませた人はすでに清くなっているので、夕食に招かれた家に到着した時には「足を洗う」だけでいいのです。

・わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった:旧約聖書の詩編41章10節からの引用です。

・わたしはある:神様は預言者モーセに「わたしはある。わたしはあるという者だ」、また「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」と言われました(出エジプト記3:14)。イエス様もご自身をこのように呼ばれるのです。神様とイエス様が一体であることを事前に説明されたのです。

(メッセージの要旨)

*父なる神様の下へ帰る時を悟られたイエス様は過越の食事の席で思いもよらない行動に出られたのです。(横になって食事をされていたので)立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとい、弟子たちの足を洗い、そして拭かれたのです。足を洗うことは卑しい仕事とされていました。身分の低い奴隷がその任に当たっていたのです。キリスト信仰の根本理念が示されているのです。一方、イエス様は裏切ろうとしている者が誰であるかを知っておられたのです。ユダは洗足によって清められたことになるのですが、心は依然として悪魔の影響を受けているのです。イエス様は弟子たちの足を洗われた後に再度ユダの裏切りを予告されたのです。「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と言われたのです。ユダがイエス様からパンを受け取るとサタンが彼の中に入ったのです(ヨハネ13:27)。イエス様を敵対する指導者たちへ引き渡すのです。ユダは12使徒の一人に選ばれ、会計を任(まか)されていたのです。食事の席でもイエス様の直ぐ近くにいたのです。イエス様から離れた理由の一つはお金への執着でした。「彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていた・・」と記述されているのです(ヨハネ12:6)。イエス様は「人の子を裏切るその者は不幸だ(に天罰あれ)。生まれなかった方が、その者のためによかった」と言われたのです(マタイ26:24)。弟子であることが「救いの保証」ではないのです。戒めを実行しなければ「永遠の命」に与れないのです。キリスト信仰とは「生き方」のことなのです。

*足を洗うことは相手に対する敬意を表しています。アブラハムは暑い真昼に天幕の入り口に立っていた主の御使い三人を見て地にひれ伏し「水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞ一休みなさってください」と言っています(創世記18:1-5)。客の足を洗うことは歓迎の意思表示の一つです。著名な人や金持ちたちの家では一般的に奴隷がその務めを果たしたのです。神様はモーセに「アロンとその子らは・・水で手足を洗い清める。・・死を招くことのないためである。・・」と命じられました。祭司たちに臨在の幕屋(神様との会見の場所)に入る前に手足を洗うことが義務付けられたのです(出エジプト記30:17-21)。ファリサイ派のシモンは食事に招いたたにもかかわらず、イエス様に足を洗う水を出さなかったのです。この人の振舞いは主人として礼を失しているのです。神様が遣わされた御子をも軽んじているのです。非礼の極みなのです。ところが、一人の罪深い女性が近づいてきてイエス様の足を涙でぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、香油を塗(ぬ)ったのです。イエス様に示した愛の深さによってこの人の罪は赦(ゆる)されたのです(ルカ7:36-50)。ユダヤ人やギリシャ人の多くは人に仕えるような生き方を軽蔑(けいべつ)したのです。弟子たちもこうした考え方の影響を受けていたのです。イエス様は「わたしに倣(なら)いなさい」と命じられたのです。「神の国」においてはこの世の基準が逆転するからです。「主よ、主よ」と言う人が「永遠の命」に与れるとは限らないのです(マタイ7:21)。

*イエス様は「人々の救い」のために命を捧げられたのです。旧約聖書の中にもそのような人物がいたのです。神様が「金の子牛」を造って礼拝する民を滅ぼそうとされた時、モーセは「この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば・・。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書(命の書)の中から消し去ってください」と執成(とりな)したのです(出エジプト記32:31-32)。一部の人に厳しい罰を下されたのですが、民全体を滅ぼされることはなかったのです。足を洗いなさいとは最も重要な戒め-自分を愛するように隣人を愛しなさい-を実行することなのです(レビ記19:18)。ただ、何らかの犠牲-時には命を失うこと-が必ず伴うのです。新約聖書にも具体例が数多く紹介されています。イエス様は「わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/皆赦しますから。わたしたちを(富などの)誘惑に遭わせないでください」と祈るように教えられたのです(ルカ11:4)。富や地位、知識や知恵は貧しい人々や虐(しいた)げられた人々のために用いるのです。悪霊を追い出していただいたマグダラのマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、スザンナなど女性の信徒たちは持ち物を出し合って一行に奉仕したのです(ルカ8:1-3)。初代教会の信徒たちの中には貧しい人が一人もいなかったのです。土地や家を持っている人皆がそれらを売って必要とする人に分配したからです(使徒言行録4:32-37)。

*イエス様が家の中で群衆に御言葉を語っておられると、四人の男性が屋根をはがしてイエス様の前に中風の病人を寝床と一緒に下へ降ろしたのです(マルコ2:1-11)。また、ユダヤ人たちのために会堂を建てたローマ軍の百人隊長(異邦人)は病気で死にかかっている自分の奴隷を助けて下さるように願い出たのです(ルカ7:1-7)。イエス様は彼らの信仰を見て二人の病人を癒されたのです。弟子であることを隠していた議員のアリマタヤのヨセフは引き取り手のないイエス様のご遺体を取り降ろしたいと総督に願い出たのです。ピラトは申し出を認めたのです。イエス様と面識があり、議会でもイエス様を擁護(ようご)した議員のニコデモと一緒に、ユダヤ人の埋葬(まいそう)の習慣に従ってご遺体を新しい墓に納めたのです(ヨハネ19:38-42)。二人は同僚の議員たちによる迫害-地位のはく奪や逮捕(死)-を覚悟して行動に出たのです。イエス様は山上の説教において「義(正義)のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである」と明言されました(マタイ5:10)。ヨセフとニコデモは信仰の確信を「行い」によって証ししたのです。イエス様は「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われました(ヨハネ15:13)。ご自身の「生き方」によって証明されたのです。キリスト信仰が知的、精神的に理解されているのです。足を洗いなさいが象徴的に捉(とら)えられているのです。イエス様は具体的な行動を指示されたのです。「行い」のない信仰は不信仰なのです。

*イエス様は群衆に「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」と言われたのです。これを聞いた弟子たちの多くがイエス様に躓(つまず)いたのです。すでに、イエス様は12使徒の中にご自身を裏切る者(イスカリオテのユダ)がいることを明言しておられるのです(ヨハネ6:52-71)。ユダはグループの会計を預かり、食事ではイエス様に最も近い席に着いていたのです。一方、密かに不正を働いていたのです。悪魔の支配に身を委ねたユダは裏切り者の道を選択したのです。イエス様は長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することを打ち明けられたのです。すると、ペトロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と諫(いさ)めたのです。イエス様は「サタン(悪魔)、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と厳しく叱責(しっせき)されたのです(マタイ16:21-23)。ペトロもイエス様の教えを十分に理解していなかったのです。イエス様は二人の足を洗われました。彼らは清められたのです。信仰を貫くことは簡単ではないのです。ユダは悪魔に従って滅びに至り、ペトロは立ち直って後の教会の礎(いしずえ)となったのです。二人の運命を分けたのは「悔い改め」だったのです。「足を洗いなさい」は謙遜の勧めに留まらないのです。イエス様の生き方に倣(なら)うことです。

2025年10月05日

「このように祈りなさい」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書11章1節から13節

イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇(あが)められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧(かて)を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦(ゆる)してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭(あ)わせないでください。』」

また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

(注)

・洗礼者ヨハネの教え:ヨハネの弟子たちは、度々断食をし、祈りをしていました(ルカ5:33)。

・マタイの福音書が伝える「主の祈り」は次の通りです。

■だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』(マタイ6:9-13)

・ユダヤ人の祈り:一日三回祈ることは義務でした。

■わたしは神を呼ぶ。主はわたしを救ってくださる。夕べも朝も、そして昼も、わたしは悩んで呻(うめ)く。神はわたしの声を聞いてくださる(詩編55:17-18)。旧約聖書の詩編は祈りと賛美の書と呼ばれています。

■今は朝の九時(祈りの時)ですから、この人たちは・・酒に酔っているのではありません(使徒言行録2:15)。

■ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った(使徒言行録3:1)。

・祈りの継続性:ルカ18:1-8をお読み下さい。

・神の国:神様の支配、働きのことです。天の国とも呼ばれています。誤解されているような死後に行く「天国」のことではありません。

・讃美歌312番:インターネットでも簡単に聞くことが出来ます。

(メッセージの要旨)

*ユダヤ人は幼い時から毎日祈っていました。祈りは神様とのコミュニケーションの大切な手段です。ところが、弟子の一人がイエス様に祈りを教えて下さいと申し出たのです。イエス様の先駆けである洗礼者ヨハネが自分の弟子たちに「あるべき祈り」を指示していたからです。イエス様の弟子たちも信仰の厳しさを経験しているのです。「主の祈り」は「父よ」で始まっています。これまでの祈りと違って神様に親しく近づけるのです。「御名が崇められますように」、「御国が来ますように」と続くのです。神様が主権を行使し、御力によってローマ帝国の圧政から解放して下さることを願うのです。税や借金の重荷に喘(あえ)ぎながら「日々の糧を与えて下さい」、富や権力への我欲がもたらした同胞への無慈悲を悔いて「罪を赦して下さい」、悪魔のささやきに抗することの難しさを知っているので「誘惑に遭わせないで下さい」と祈るのです。祈りの特徴は「わたしたち」が用いられていることです。共同体として心を一つにすることが求められているのです。ユダヤ教やキリスト教の様式も抑制的となっているのです。宗派を超えてこのように祈ることが出来るのです。一方、イエス様は「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(マタイ6:8)、「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。・・あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。・・」(ルカ12:22-34)と明言されたのです。「主の祈り」は信仰の原点です。聖霊様が共にいて下さるのです。

*洗礼者ヨハネは洗礼を授けてもらおうとしてやって来た群衆に「悔い改めに相応(ふさわ)しい実を結べ」と言っています。人々が「どうすればよいのですか」と質問したのです。「下着を二枚持っている者は一枚も持たない者に分けてやれ、食べ物を持っている者も同じようにせよ」と命じたのです。徴税人には「規定以上のものは取り立てるな」、兵士には「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言ったのです(ルカ3:1-14)。洗礼者ヨハネの弟子であったペトロとヨハネはすでに宣教の視点を学んでいたのです(ヨハネ1:35-42)。しかし、「イエス様のお考え」を確認したいと思っている弟子たちもいたのです。イエス様は抽象的な答えをされなかったのです。たとえ話も語られなかったのです。「主の祈り」を提示されたのです。内容は極めて実践的です。この世との安易な妥協を戒められたのです。神様への信頼は言葉ではなく、「行い」によって証明されるのです。「御名が崇められように」はローマ皇帝のみが崇められている現状を間接的に批判しているのです。「あなたの裁きをお持ちしています」、「神様の支配が天上と地上に遍く(あまね)く広がりますように」と願っているのです。イエス様は「何よりもまず神の国と神の儀(正義)を求めなさい」と言われたのです(マタイ6:33)。個人的な望みの実現は神様にお委(ゆだ)ねするのです。叶(かな)えられるからです。「神様の御心」に沿って、貧しい人々や虐(しいた)げられた人々の窮状(きゅうじょう)に心を砕くのです。

*「御国が来ますように」は「神の国」の到来によってローマ皇帝の圧政が終わり正義と公平が実現することを願うのです。イエス様は「二人の主人に仕えることは出来ない」と言われました(マタイ6:24)。しかし、ローマ皇帝は自分にのみ仕えることを人々に強いているのです。「必要な糧を毎日与えてください」はローマ帝国の支配下にあってすべての人に十分なパンが行き渡っていないことを暗に告発しているのです。人々は苛酷(かこく)な税と法外な利子に苦しんでいるのです。その日の糧を確保するために奔走(ほんそう)しているのです。罪人と非難されても十分の一献金を捧げるゆとりなどないのです。債権者は「罪を赦(ゆる)して下さい」、債務者は「負債の重圧から解放して下さい」と願うのです。「誘惑に遭わせないでください」にはローマ皇帝の権力に屈して貧しい同胞を犠牲にしている人々の苦悩が表れているのです。「神様の御心」に反して抑圧する側に立たされているからです。悪魔の誘惑に抵抗する力を与えて下さいと祈るのです(マタイ4:1-11)。イエス様の宣教姿勢は一貫しておられます。貧しい人々や虐げられた人々の側に立たれたのです。イエス様の教えに従う人は誰でも権力者たちから迫害されるのです。「主の祈り」には「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神・・」、「イエス様の御名によって・・」のような伝統的な言葉が見られないのです。イエス様は十字架の死に至るまで「神様の御心」を証しされたのです。「主の祈り」は労苦する人々を慰め、励ましているのです。希望の光となっているのです。

*イエス様は個人的な祈りの方法についても教えておられます。神様に直接語りかける祈りにおいては信仰の内実が問われるのです。祈りの中で信仰を誇っても空(むな)しいのです(ルカ18:9-14)。イエス様は「自分の部屋に入って戸を閉めて祈りなさい」と言って、謙虚さと誠実さを求められたのです。同時に「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と言って、慰めて下さるのです。ただ、それぞれの願いが直ちに成就(じょうじゅ)するとは限らないのです。祈りの継続が必要なのです。待っていても苦しさのあまり涙を流した人は少なくないのです。旧約聖書の詩編がそうであるように讃美歌も大いに慰めてくれるのです。312番は典型的な例です。歌詞の一番は「いつくしみ深き 友なるイエスは、罪とが憂(うれ)いをとり去りたもう。こころの嘆(なげ)きを 包まず述べて、などかは下ろさぬ、負える重荷を」、二番は「いつくしみ深き 友なるイエスは、われらの弱きを 知りて憐れむ。悩みかなしみに 沈(しず)めるときも、祈りにこたえて 慰めたまわん」、三番は「いつくしみ深き 友なるイエスは、かわらぬ愛もて 導きたもう。世の友われらを 棄(す)て去るときも祈りにこたえて、労わりたまわん」となっています。これらの歌詞に「アーメン」(その通りです)と言うのです。困難な状況にある人々は「主の祈り」を祈って下さい。すでに願いは聞き入れられているからです。それがイエス様のお約束です。恵まれている人々は感謝し、これらの人のために祈り、自分の責務を果たすのです。

*「主の祈り」は一般的にイメージする祈りとは大きく異なっているのです。内容が政治的な要求となっているからです。ユダヤ人たちはローマ帝国の支配下にあるのです。神様ではなく皇帝崇拝を強いられ、生活が立ち行かないほどの重税を課せられているのです。神様が外国の支配を打ち砕き、本来の礼拝に戻して下さること、日々の糧が十分に確保され、安心して暮らせることを切に願うのです。一方、それぞれにはもう一つの重要な戒め-隣人愛-を実践する責務があるのです。自分を愛するように、隣人を愛するのです。同胞の苦難を顧みることなく、外国の支配に加担することや一緒になって搾取することは大罪です。私欲のために、弱さの故に「神様の正義」を軽んじているのです。洗礼者ヨハネは「神様の御心」に適(かな)った生き方を教えたのです。「主の祈り」はその内容をさらに深めているのです。「神の国」の到来を信じる人々だけではなく、すべての人に受け入れられる観点を備えているのです。イエス様は地中海沿岸の異邦人の町ティルスとシドンに行かれました。この地方に生まれた女性が悪霊に苦しむ娘の癒しを願い出たのです。イエス様は「ユダヤ人たちを優先しなければならない」と答えられたのです。母親は諦(あきら)めることなく「その後で結構です」と言ったのです。信頼は揺らがないのです。娘の病気は直ちに治(なお)ったのです(マタイ15:21-28)。人は試練に遭遇するのです。様々な誘惑にも晒(さらさ)されているのです。祈りは生きる力と勇気を与えてくれるのです。聖霊様が必ず助けて下さるのです。

2025年09月28日

「神とわたしを信じなさい」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書14章1節から14節


「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

 

フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業(わざ)を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」


(注)


・トマス:12使徒の一人です。復活された主は彼に「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」と言われたのです(ヨハネ20:24-29)。


・フィリポ:12使徒の一人です。ガリラヤ湖の北にあるベトサイダの出身です。使徒アンデレとペトロも同郷です。


・ペトロ:使徒の中でも中心的な役割を担った人です。


・共観福音書:マタイ、マルコ、ルカによる福音書は、構成、考え方(観点)、内容に共通性を持っています。ヨハネによる福音書と区別してこのように呼ばれています。

・使徒言行録:ルカによる福音書の第二部です。

・わたしは道であり、真理であり、命である:他にも、イエス様はご自身について定義しておられます。

 

●「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢(う)えることがなく、わたしを信じる者は決して渇(かわ)くことがない」(ヨハネ6:35)、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇(くらやみ)の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)、「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」(ヨハネ10:9)、「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(ヨハネ10:14)、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11:25)、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。・・」(ヨハネ15:1-2)


・イエス様の業:「神の国」(天の国)-神様の支配-が到来していることを証明しているのです。キリスト信仰とは「神の国」の到来を福音(良い知らせ)として信じることなのです。


・神様の支配について:


●旧約聖書から


■わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者(厳しい親方たち)のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。 (出エジプト記3:6―10)


■あなた(がた)の神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼(主)を畏(おそ)れなさい。(申命記8:6)


●新約聖書の福音書から


■イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人(人々)に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人(人々)に解放を、/目の見えない人(人々)に視力の回復を告げ、/圧迫されている人(人々)を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(ルカ4:16-21)


●パウロの書簡(手紙)から


パウロの信仰の中心にあったのは罪と死後に行く天国のことでした。虐げられた貧しい人々、病にある人々等への福音が指導者たちによって個人的な信仰心の問題(敬虔の追求など)へと変容されているのです。天上と地上における正義の実現を約束されたイエス様の「神の国」の到来に関する記述が見られないのはこのためです。「神の国」に言及したとしても「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません」とあるように、個人的な罪の問題に限定しているのです(1コリント6:9-10)。


・カナ:ガリラヤの中央に位置しています。イエス様の弟子ナタナエル(使徒ではありません)の故郷です。


・ベタニヤ:イエス様の宣教の拠点の一つです。エルサレムから近く、キドロンの谷を越えたオリーブ山の麓(ふもと)にあります。

(メッセージの要旨)


*イエス様は愛するラザロの死に接して死そのものに憤られ(心を騒がせられ)たのです(ヨハネ11:33)。十字架の死を前にして「今、わたしは心騒ぐ。父よ、わたしをこの時から救ってください」と言われたのです(ヨハネ12:27)。ユダの裏切りを知った時にも心を騒がせられたのです(ヨハネ13:21)。ただ、神様の御力とお約束への信頼を揺らがされることはなかったのです。イエス様はこの世から父なる神様のもとへ移る時が来たことを悟(さと)り、食事の席で弟子たちの足を洗われたのです。彼らがどのように生きるべきかについて模範(もはん)を示されたのです。「お互いに愛し合うこと」を命じられたのです。使徒たちがイエス様と同様の経験をしているのです。信仰の確信を得ようと必死になっているのです。ヨハネの福音書は長い間他の三つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ)から際立って異なっていると考えられていました。共観福音書が取り上げている記事や物語を欠き、それらが言及していない人物や出来事を記述しているからです。歴史的というよりも神学的、霊的な側面を強調した福音書として評価されて来たのです。神様とイエス様を愛するとは心の有り様ではないのです。戒めを守ることなのです。この点において共観福音書との共通性が見られるのです。後に、初代教会の信徒たちはすべての物を共有にし、心を一つにして神様を賛美したのです。民衆全体から好意を得ていたのです。神様は初代教会を祝福し、日々新しい信徒を加えられたのです(使徒2:43-47)。神様とイエス様を信じ、掟を実践するのです。


*「神は、その独(ひと)り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」は真に正しいのです(ヨハネ3:16)。ヨハネは神様がどのようなお方であるかを簡潔に伝えているのです。イエス様は「神様の御心」を具体化されたのです。迷い出た羊たちを神様の下へ取り戻すために最後まで努力を惜(お)しまれなかったのです。イエス様は「神様を信じなさい。ご自身を信じなさい」と言われました。イエス様のお言葉と業をそのまま信じられる人は幸いなのです。しかし、多くの人がイエス様に躓(つまず)いたのです。一緒に歩んでいた弟子たちも大勢離れ去ったのです。ところが、イエス様はこれらの人の救いのために譲歩(じょうほ)して「・・わたしは人間による証(あか)しは受けない。・・父がわたしに成し遂(と)げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣(つか)わしになったことを証ししている」と言われたのです。人々の視点をご自身から目に見える業の方へ向けられたのです。神様はイエス様の中に働いておられるのです。神様が共におられなければイエス様の業は実現しなかったのです。この事実を明らかにして「わたしを信じて永遠の命に与(あずか)りなさい」と言われたのです(ヨハネ5:31-40)。ヨハネはイエス様によるたくさんのしるしや業を記述しています。これらの業(奇跡)によって多くの人がイエス様を信じたのです。人間の教義による解説ではなく、イエス様の業が人々を「救い」に導くのです。


*ガリラヤのカナで婚礼がありました。イエス様は母マリアと共に招かれていました。婚宴は一週間続きました。ぶどう酒が足りなくなったのです。イエス様は召し使いたちに「水がめに水を入れなさい」と言われました。彼らが六つの水がめに水を満たして世話役係に持っていくと水はすでにぶどう酒に変わっていたのです。イエス様はしるしを通して「神様の栄光」を現(あら)わされたのです。弟子たちは「イエス様が神の子であること」を信じたのです(ヨハネ2:1-11)。病人たちを癒(いや)されたイエス様を見て五千人以上の群衆が後を追って来ました。イエス様はこの人たちに食べ物を与えられるのです。大麦のパン五つと魚二匹を持っている少年がいました。イエス様は感謝の祈りを唱(とな)えてからそれらを人々に分け与えられたのです。すべての人が欲しいだけ食べて満腹したのです。人々はイエス様のなさったしるしを自らも体験したのです。「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言ったのです(ヨハネ6:1-14)。イエス様は通りすがりに生まれつき目の見えない人を見かけられました。弟子たちは「罪を犯したのは本人ですか、それとも両親ですか」と尋ねたのです。イエス様は「どちらでもない。神の業がこの人に現れるためである」と答えられたのです。生まれつきの盲人を見えるようにされたのです。後にイエス様はこの人に出会い「わたしが神の子であることを信じるか」と言われたのです。彼はこの時癒して下さった方を知ることになったのです。「主よ、信じます」と言ってひざまずいたのです(ヨハネ9)。


*マリアとマルタの姉妹は遠くにおられるイエス様に人をやって愛するラザロが病気であることを知らせました。イエス様はこれを聞いて「この病気は死んで終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と返答されたのです。イエス様がベタニヤの村に戻られた時ラザロは墓に葬(ほうむ)られて既に四日も経っていました。イエス様は墓に行かれたのです。そこで天を仰ぎ「父よ、わたしの願いを聞き入れて下さって感謝します。・・あなたがわたしをお遣わしになったことを群衆に信じさせるためです」と言われたのです。「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれたのです。死んでいたラザロが蘇(よみがえ)ったのです。ラザロのことを聞いた多くのユダヤ人がイエス様を「神の子」として信じるようになったのです(ヨハネ11:1-12:11)。ある日、イエス様は神殿の境内で羊や鳩を売っている商売人たちや両替人たちに気付き、彼らを追い出されたのです。「わたしの父の家を商売の家としてならない」と命じられたのです。指導者たちは「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言って、「権威の根拠」を求めたのです。イエス様は「この神殿を壊(こわ)して見よ。三日で建て直して見せる」と反論されたのです。イエス様が言われた神殿とはご自身の体のことだったのです。イエス様が復活された時、弟子たちはお言葉と御業を思い出したのです。イエス様が「救い主」であることを信じたのです(ヨハネ2:13-22)。事実には力があるのです。


*イエス様はイスカリオテのユダを除く11使徒に「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われました。このお言葉にキリスト信仰の本質が要約されているのです。イエス様は「人間による証しは受けない」と明言されたのです。その上で「神様の証しに勝る証しはない」と言われるのです。それがご自身の「力ある業」なのです。神様とイエス様が一つであることの証明なのです(ヨハネ10:30)。長い間一緒に行動した弟子たちでさえ「イエス様」について理解していないのです。イエス様は「神様の子」として遣わされたのです。もうすぐ神様の下へ帰ろうとされているのです。その後、聖霊様が来られるのです(ヨハネ。14:15-31)。これが神様のご計画なのです。トマスと同じようにペトロも「主よ、どこへ行かれるのですか」と質問しています(ヨハネ13:36)。フィリポは「御父をお示し下さい」と申し出ています。後のパウロも「神の国」の意味を誤解したのです。個人的な「罪の赦(ゆる)し」に限定しているのです。イエス様はキリスト信仰の真髄(しんずい)をご自身の業によって証明されたのです。キリストの信徒たちは伝統的な教義や神学理論によってではなく、イエス様の業から真理を学ぶのです。「神の子」であることを信じるのです。イエス様はご自身を「ぶどうの木」に例えられました。各枝(弟子たち)には「良い実を結びなさい」と命じられたのです。キリスト信仰はイエス様を信じることで完結しないのです。最も重要な二つの戒め-神様と隣人を愛すること-を実行することが必須の要件となっている。

2025年09月21日

「賢く振舞いなさい」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書16章1節から17節


イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。

ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」


金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。そこで、イエスは言われた。「あなたがたは、人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、誰もが激しく攻め入っている。しかし、律法の一画が落ちるよりは、天地の消えうせるほうが易しい。」

(注)

・弟子たちにも:直前の状況は次の通りです。

■徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。(ルカ15:1-2)

・金持ち:イエス様は「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われました。ここに、「福音の真理」が語られているのです。マタイ19:24、マルコ10:25、ルカ18:25を参照して下さい。

・管理人:良く訓練(教育)を受けた奴隷です。重要な仕事を任(まか)されていました。管財人のことです。

・無駄遣い:金持ちは管理人が不正を働いたかのように断定しています。しかし、管理人は横領するとか、盗むようなことをしていないのです。貪欲な金持ちの目から見た「職務怠慢」(しょくむたいまん)のことなのです。 

・パトス:約23ℓです。

・コロス:約230ℓです。

・永遠の住まい:「神の国」あるいは「永遠の命」を表しています。

・抜け目のない:「思慮ふかい」とも訳せる言葉です。管理人が悪い人物であるという前提に立った日本語訳になっています。

・光の子:イエス様の弟子のことです。ヨハネ12:35-36を参照して下さい。

・不正にまみれた富:原文に「まみれた」はないのです。訳者の先入観が反映されているのです。

・富:「マモン」から訳出された言葉です。マモンは金銭、お金のことなのです。マモンが「神」として崇められているのです。「偶像崇拝」が行われているのです。それ故に、イエス様は「神と富とに仕えることはできない」と言われたのです。

・ヨハネ:イエス様の先駆(さきが)けとして人々に激しく「悔い改め」を迫った洗礼者ヨハネのことです(マルコ1:1-11)。

・誰もが激しく攻め入っている:「神様によって入ることを強いられている」という意味です。

・ある金持ちの行く末:

■ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』(ルカ16:19:31)

・太宰治:小説家、本名は津島修治です。1909年に生まれ、1948年に没しています。「斜陽」、「走れメロス」、「津軽」、「人間失格」が有名です。

(メッセージの要旨)

*イエス様は貧しい人々や社会で蔑(さげす)まれている人々の「救い」に心を砕かれたのです。一方、富への執着や貪欲が人々を「永遠の命」から遠ざけているのです。この後、「金持ちとラザロ」の話が続くのです。富に対する姿勢がその人の「救い」を決定するのです。管理人の仕事は財産管理を適切に行い、資金を効率よく運用することです。金持ちは最大の収益を期待しているのです。ところが、信頼している管理人が職務を怠(おこた)っているのです。詳細は不明ですが、財産を無駄遣いしているのです。金持ちは「不正な管理人」と呼んでいます。多くの人がこの主張に同意するのです。安易な先入観が物事の本質を見誤らせるのです。管理人は財産の私的流用に手を染めている訳ではないのです。この点に留意することが必要です。金持ちの意向-利益第一主義-に沿って職務を遂行しなかっただけなのです。自らの職と引き換えに、債務者たちの証文を書き直させ、負担を軽減させたのです。結果として、不当な条件で貸し付ける金持ちの強欲が暗に批判されているのです。イエス様はこの管理人に「救い」を約束されたのです。光の子らがこの世の富に心を奪われているのです。イエス様は警鐘を鳴らされたのです。たとえ話を聞いていたのは弟子たちだけではないのです。ファリサイ派の人々もいたのです。イエス様は「神と富とに仕えることはできない」と言われたのです。「悔い改め」が求められているのです。すべての物は神様に属しているのです。基本的なことが忘れられているのです。キリストの信徒たちも富の問題を避けて通れないのです。

*生活の不安定の原因はーマ帝国の圧政と重税、同胞である金持たちへの負債にあるのです。人々は日々そのことを感じているのです。律法は経済活動について様々な規定を設けています。貧しい人々に対する金持ちたちの横暴を戒めているのです。「もし、あなた(がた)がわたしの民、あなた(がた)と共にいる貧しい者(たち)に金を貸す場合は、彼(ら)に対して高利貸しのようになってはならない。彼(ら)から利子を取ってはならない」と命じられているのです(出エジプト記22:24)。「貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。『七年目の負債免除の年が近づいた』と、よこしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい。その同胞があなたを主に訴えるならば、あなたは罪に問われよう。彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない」と記されているのです(申命記15:7-10)。必要とする人々に惜しみなく与えることは義務なのです。神様は御心を実践する人々を祝福されるのです。イエス様が宣教された「神の国」の根本理念は「神様と隣人」を愛することです。管理人は律法の精神を具体化しているのです。ところが、強欲な金持ちは自分の意に反する管理人を追放するのです。一方、光の子らの富への姿勢が曖昧(あいまい)なのです。イエス様は注意を喚起しておられるのです。弟子であっても富に執着すれば「救い」に与れないのです。

*金持ちには二つのグループがあります。富裕層を中心とする貴族階級です。もう一つは祭司制度の恩恵に浴している人々です。これらの人は通常の収入で生活していました。ところが、土地を所有している祭司たちはその一部または全部を貸し付けたのです。労働者たちを炎天下で長時間働かせるだけでなく、低賃金を強いたのです(マタイ20:1-16)。約束どおりの賃金すら支払わなかったのです(レビ記19:13)。干ばつや不作に遭遇(そうぐう)した小作人に返済能力を越える融資を勧めたのです。債務不履行になると担保の土地を没収したのです。富をさらに蓄(たくわ)えたのです。青森県五所川原市金木にある太宰治の生家-現在は斜陽館(記念館)-を訪れる機会がありました。広大な敷地に大邸宅が建っていました。建物の内部には当時としては珍しい洋風の部屋もありました。「銀行業務」が行われていました。土間にいる小作人たちが一段高い所に座っている地主に融資を申し込み、あるいは返済の猶予(ゆうよ)を願い出たのです。貧しい農民たちは凶作などで苦しんだのです。生きて行くために娘たちを「奉公」に出したのです。ユダヤにおいても多額の負債を抱えている人々は悲惨です。返済するために持ち物を処分するだけでなく、自分自身と妻や子供たちをも奴隷として売ったのです。国の内外を問わず、税金と借金は貧しい人々の生活を破壊しているのです。イエス様が教えられた「主の祈り」に「わたしたちの負債を赦してください」があります(マタイ6:12)。借り手の債権を放棄するのです。願いは実現されるのです。

*金持ちには管理人の職務能力に不満がありました。最大の関心事である利益最優先の方針に不熱心だったからです。そこで、解雇することを通告したのです。管理人は就職先を確保する手段として主人に負債のある人を順次呼んでそれぞれの債務を減額したのです。この人の当初の目的は債務者たちに恩を売ることでした。債務者たちの証文を書き換えさせたのです。主人と相談することなく自分の権限で実行したのです。すべてを任されていたからです。金持ちは通常の金利を越えた高利でお金を貸していたのです。管理人は契約内容を規定の範囲に戻しただけなのです。金持はその手法を賞賛しています。不正に蓄財しているのでこの件を公に出来ないのです。職を奪うことによって報復するのです。債務を軽減された人々は管理人に感謝したのです。イエス様は管理人の「行い」を誉(ほ)めておられるのです。不正な債務契約が債務者のために正常に戻されたのです。管理人は律法の規定に従って友だちを作ったのです。不正な富について正しい対応能力を備えていなければ、本当に価値のあるもの-神の国の福音-を任せていただけないのです。管理人は金持ちの悪業に疑問を呈することなく、黙々と働いていれば職を失うことはなかったのです。律法に反する金持ちのビジネス方法に心を痛めていたことが推測されるのです。無駄遣い-サボタージュと証書の書き換え-によって抵抗したのです。この話はファリサイ派や律法学者たちへの反論の延長線上で語られたのです。管理人のその後については分からないのです。神様が必ずこの人を守って下さるのです。

*イエス様はこの世の子ら(富に執着している人々)と光の子ら(「神の国」-神様の支配-の福音を信じている人々)を比較されたのです。この世の子らの方が自分の仲間に対して、光の子らよりも賢く振舞っているのです。弟子たちが「富の問題」を深刻に受け止めていないのです。イエス様の弟子になることによって「救い」が確定したかのように誤解しているのです。イエス様は安易な信仰理解を戒めておられるのです。「金持と管理人の話」は示唆に富んでいるのです。お金に執着すれば「救い」は危うくなるのです。例外はないのです。イエス様はこの点を強調しておられるのです。管理人の目的は自分の生活を安定させることにありました。しかし、自分の権限を用いて行ったことは「神様の御心」に適(かな)っていたのです。一方、「神様を愛している」と言いながら、この世の富を捨てられない弟子たちがいるのです。管理人は自分の職を捨てることによって「救い」を得ようとしているのです。弟子たちは怠惰(たいだ)よって「永遠の命」から遠ざかっているのです。キリスト信仰とは信じることではないのです。お預かりした富(権限や才能を含む)によって「神の国」を証しすることなのです。管理人として、貧しい人々や虐げられた人々のために奉仕するのです。イエス様は思慮深い管理人の「生き方」に学ぶように命じられたのです。神様と富との両方に仕えることを正当化するための試みが行われているのです。旧・新約聖書にその根拠を探しているのです。どこにも見当たらないのです。賢く振舞うとはイエス様のお言葉に従うことです。

2025年09月14日
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