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洗礼者ヨハネが捕らえられた後、イエス様はガリラヤ地方へ行き、福音(良い知らせ)を宣べ伝えて「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたのです(マルコ1:14-15)。イエス様は復活された後も、使徒たちに「神の国」について話されたのです(使徒1:3)。キリスト信仰の中心メッセージは「神の国」-神様の支配-にあるのです。

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「逆 転」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書20章1節から16節


「天の国(神の国)は次のようにたとえられる。ある家の主人(土地所有者)が、ぶどう園で働く労働者(たち)を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で(に合意した)、労働者(たち)をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中(労働者たち)は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中(彼ら)とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように(その結果)、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

(注)


・天の国:神の国とも言います。誤解されているような死後に行く「天国」のことではないのです。「神様の支配」あるいは「神様の主権」を表す言葉です。福音(良い知らせ)とは神様がこの世を終わらせて「新しい天地」を創造されることです。イエス様は教えと力ある業によって神様のご計画の一部を前もって証しされたのです。天の国はイエス様が再び来られる時-再臨-において完全なものになるのです。
・聖書を正しく理解するためには当時の社会・政治・経済状況を常に念頭に置くことが必要です。キリスト信仰の根本原理の一つに正義と公平の実現があるのです。

・神様の正義と愛

■わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。(創世記18:19)

■あなたたちは、不正な物差し、秤、升を用いてはならない。正しい天秤、正しい重り、正しい升、正しい容器を用いなさい。わたしは、あなたたちをエジプトの国から導き出したあなたたちの神、主である。わたしのすべての掟、すべての法を守り、それを行いなさい。わたしは主である。(レビ記19:35-37)

■寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなた(たち)が彼(ら)を苦しめ、彼(ら)がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる。もし、あなた(たち)がわたしの民、あなた(たち)と共にいる貧しい者(たち)に金を貸す場合は、彼(ら)に対して高利貸しのようになってはならない。彼(ら)から利子を取ってはならない。もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。(出エジプト記22:20-26)

・労働者たち:元々、多くは農民だったのです。借金を返済できずに担保の土地を失い労働者となった人々です。高利貸しには祭司たちもいたのです。彼らは毎日早朝から仕事を求めて「一定の場所」で雇い主たちが来るのを待ったのです。

・1デナリオン:ローマ帝国内に流通する銀貨です。当時の平均的労働者の1日分の賃金に相当します。

・友よ:親しい友達のように訳されていますが、実際には情愛のこもった言い方ではないのです。元々は仲間のような少し距離を置いたニュアンスの言葉です。イエス様がご自身を逮捕するために群衆(ローマ兵を含む)と共にやって来たイスカリオテのユダに対して用いられた言葉使いと同じです。マタイ26:50を参照して下さい。

・後にいる者が先になり、・・:「天の国」においてはこの世の評価基準が逆転するのです。

■心の貧しい(圧政に心を砕かれた)人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。・・義(正義)のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。(マタイ5:3、10)。

■イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた(神様に委ねた)者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(マルコ10:29-31)

■しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。(ルカ6:24-26)

■さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。(ヨハネ13:12-15)

(メッセージの要旨)

*イエス様に従った人の多くは貧しい農民でした。教育を受ける機会にも恵まれなかったのです、誰もが福音を理解出来るようにたとえ話をされたのです。伝統的な解釈によると家の主人は神様、最初に雇われた労働者はユダヤ人、その後順次採用された人はキリストの信徒です。神様は最初に召し出したユダヤ人たちの「特権意識」を戒められたのです。神様の恵みはすべての人に及ぶのです。これがたとえ話の一つの側面です。別の観点にも注目するのです。生産手段(土地)を失った農民たちが生きて行くために必死で仕事を求めているのです。仕事に就いても過酷な労働を強いられ、屈辱的な扱いを受けているのです。たとえ話を聞いている人々は自分たちの姿と重ね合わせたのです。生活困窮の根本原因がどこにあるかを知ったのです。主人は何度も労働者たちを雇って自分のぶどう園に送っていることから大農園主です。雇った労働者たちに労働時間に関係なく1デナリオンを支払ったのです。ぶどう園主は表面上公平に見える方法によって貧しい労働者たちを分断しているのです。不当に搾取していることを巧妙に隠蔽しているのです。福音が「神様の愛と憐れみ」の視点から語られることが多いのです。一方、神様は「あなた(がた)は隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇人の労賃の支払いを(自分の都合で)翌朝までのばしてはならない」と言われたのです(レビ記19:13)。労働は正当に評価され、賃金は時間に応じて支払わなければならないのです。イエス様は労働者たちの抗議を支持し、ぶどう園主の偽善を非難されたのです。

*イエス様の教えを理解するためにはたとえ話の前後を併せて読むことが不可欠です。直前にイエス様と金持ちの青年とのやり取りが記されています。金持ちは「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい」という戒めを厳格に守って来たのです。しかし、「永遠の命」の確信が得られないのです。イエス様に「何をすればいいのでしょうか」と尋ねたのです。「あなたの信仰はすでに立派だ」とは褒(ほ)められなかったのです。「持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。それから、わたしに従いなさい」と命じられたのです。青年は悲しみながら立ち去ったのです。イエス様は弟子たちに「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われたのです。直後には使徒ヤコブとヨハネの母がイエス様に「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」と願い出たのです。他の使徒はこれを聞いて腹を立てたのです。イエス様は「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」と言われたのです。富に執着する人、尊大な人は「天の国」に入れないのです。

*自然には引力の法則があるように、経済活動にも法則があるのです。土地や財産を持っている人々は、何も持たない人々よりも社会関係において優位に立っているのです。イエス様はたとえ話を通して両者の関係を明確にされたのです。「家の主人」はぶどう園で働く労働者たちを雇うために広場とぶどう園を何度も行き来しています。たくさんのぶどう園を所有していたからです。この人は大土地所有者であり、大変なお金持ちなのです。家族的な雰囲気を醸(かも)し出すような「家の主人」という日本語訳は農園主が強欲な地主であることを曖昧(あいまい)にしているのです。雇い主は広場で必至に仕事を求める労働者たちの中から、一日一デナリオンの賃金に納得した人々だけをぶどう園に送っているのです。「納得した」という表現は正確ではないのです。実際は労働者たちの希望は無視され、雇う側の圧倒的な優位の下で交渉が行われているのです。単身の男性は労働で得た一デナリオンの賃金を生活費に充当(じゅうとう)するのです。家族のある労働者が生計費を満たせないような賃金は経済的な暴力なのです。雇い主が低賃金を労働者たちに強いることは「神様の御心」に反しているのです。労働者は不当な賃金で働かないのです。しかし、他に選択肢がなければ提示された賃金を許容するのです。雇い主は労働者たちの弱点を熟知しているのです。自分の利益を最大限に追求するのです。その上で善意を装(よそお)っているのです。偽善が労働者の間に分裂をもたらしているのです。過酷な労働と極度の低賃金が生命と暮らしを破壊しているのです。

*最初の労働者たちはまる一日、暑い中を辛抱して働いたのです。雇い主はずっと少ない時間しか働かなかった労働者たちにも同じ賃金を支払ったのです。雇い主が愛に満ちた公平な人物であるかのように見えるのです。「同一労働同一賃金」の原則からすれば表面上の平等は不平等となるのです。夕方の五時から一時間働いた労働者の賃金が一デナリオンであれば、逆算して正午から働いた労働者に六デナリオン、早朝(午前六時)から働いた労働者には十二デナリオンを支払うことが当然なのです。雇い主は気前の良さを自慢しています。それは見せかけです。自分の貪欲さを隠すための手段なのです。そのことが愛のない言葉に如実に表れているのです。労働者たちの窮状(きゅうじょう)を承知の上で「あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか」と相手を責めているのです。雇い主が「神様の御心」に沿った人であるなら、自分の利益を減らしてでも労働者たちの賃金を労働時間に応じて支払うのです。時間ごとに労働者たちを雇うことなど断じてしないのです。早朝に一括して必要な労働者を雇い、すべてのぶどう園に送るのです。労働者たちから非難された雇い主が論点をすり替えて反論しているのです。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか」と言うのです。中には雇い主の主張に同意する人もいるのです。巧妙に搾取を隠ぺいする論法なのです。神様がアブラハムに命じられたように、キリストの信徒たちも正義と公平の実現にもっと関与するのです。

*農園主は労働者たちを経済力によって支配しているのです。広場に集まっている労働者たちに「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と尋ねているのです。仕事を求めていることを知りながら、侮蔑(ぶべつ)的な質問をしているのです。失業の原因が怠惰(たいだ)であるかのように労働者たちに罪悪感を植え付けているのです。雇い主や金持ちたちの貪欲に気づかせないように精神的に抑圧しているのです。キリストの信徒たちも経済法則に無関心であってはならないのです。イエス様も「何よりもまず、神の国(神様の主権)と神の義(神様の正義)を求めなさい」と命じられました(マタイ6:33)。農園主の言動は愛と慈(いつく)しみに満ちた「神様の御心」に合致しないのです。見せかけの善意によって自分の利益を最大限に追求しているだけなのです。低賃金の原因があたかも労働者たちにあるかのように錯覚(さっかく)させているのです。形式的な平等によって不平等を助長し、労働者たちが団結することを意図的に阻止しているのです。しかも、労働者たちの「不当な要求」が自分の善意の妨げになっていると言うのです。農園主の罪は真に大きいのです。イエス様は一貫して貧しい人々や虐げられた人々と共に歩まれたのです。たとえはなしにおいて雇い主の搾取と抑圧を非難しておられるのです。労働者たちは臆(おく)することなく、不当な賃金や不平等な扱いに抗議するのです。イエス様はこれらの人に「神の国」を約束されたのです(ルカ6:20)。終わりの日に「正しい裁き」が行われ、それぞれの地位が逆転するのです。

2026年06月14日

「偽善は死に至る病」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書6章1節から18節

「見てもらおうとして、人(人々)の前で善行をしない(敬虔さを表さない)ように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなた(がた)は施しをするときには、偽善者たちが人(人々)からほめられようと会堂や街角でするように、自分(たち)の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなた(がた)の施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなた(がた)に報いてくださる。」

「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人(人々)に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなた(がた)が祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなた(がた)の父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなた(がた)の父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人(たち)のようにくどくどと述べてはならない。異邦人(たち)は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧(かて)を今日与えてください。わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪(い者)から救ってください。』もし人(人々)の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがた(の過ち)をお赦しになる。しかし、もし人(人々)を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

「断食するときには、あなたがたは偽善者(たち)のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者(たち)は、断食しているのを人(人々)に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなた(がた)は、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなた(がた)の断食が人(人々)に気づかれず、隠れたところにおられるあなた(がた)の父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなた(がた)の父が報いてくださる。」

(注)

・最も重要な戒め:

■彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコ12:28-31)

第一は旧約聖書の申命記6:4-5、第二はレビ記19:18に記述されています。

・貧しい人々を支える義務:

■穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘(つ)み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者たちや寄留者たちのために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。(レビ記19:9-10 )

・施し:安息日にユダヤ教の会堂で慈善寄付も行われていました。

・偽善者たち:律法学たちやファリサイ派の人々のことです。イエス様はこれらの人の不信仰と腐敗を厳しく非難されたのです(マタイ23:1-36))。


・ファリサイ派の人々:律法を厳格に遵守するユダヤ教の一派です。学識の豊富さから民衆に尊敬されていました。イエス様と対立した律法学者の多くはファイサイ派に属しています。サウロ(パウロ)は誰よりも熱心なファリサイ派でした。


・律法学者たち:文書を記録する官僚であり、同時に学識を有する学者です。ファイサイ派によるモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)(トーラ)の解釈を支持していました。多くはイエス様に批判的でした。ただ、「先生,あなたがおいでになる所ならどこへでも従って参ります」と言った律法学者もいたのです(マタイ8:19)。

・祈り:ユダヤ人の成人男性はエルサレムに向かって毎日午前、午後、夕方の三回、そして食前と食後にも立ったまま、あるいは頭(こうべ)を垂れて祈ったのです。

・徴税人:ローマに協力して民衆から過酷な税を取り立てたのです。裏切り者と呼ばれ、罪人として社会から排斥されたのです。

・過ち:律法や慣習に違反することです。キリスト信仰においては個人の道徳的、倫理的な観点から説明されることが多いのです。しかし、返済期限を守らないことや返済不能なども含まれているのです。これらは社会的、経済的な要因が大きいのです。イエス様はローマの圧政に苦しんでいる貧しいユダヤ人キリスト者たちに、相互に負債を免除するように教えられたのです(マタイ18:21-35)。「主の祈り」においてもそれが反映されているのです。

・断食:

■以下は、あなたたちの守るべき不変の定めである。第七の月の十日にはあなたたちは苦行(断食)をする。何の仕事もしてはならない。土地に生まれた者たちも、あなたたちのもとに寄留している者たちも同様である。なぜなら、この日にあなたたちを清めるために贖(あがな)いの儀式が行われ、あなたたちのすべての罪責(罪)が主の御前に清められるからである。これは、あなたたちにとって最も厳(おごそ)かな安息日である。あなたたちは苦行をする。これは不変の定めである。(レビ記16:29-31)

●第七の月→太陰暦です。季節としては太陽暦の9月の終わりから10月の初めの頃です。

●苦痛を課して肉の欲を否定することです。食べ物や飲み物など体に必要なものを摂取しないだけでなく、体を清潔に保つことや楽しませたりすることも断つのです。

(メッセージの要旨)

*不純な動機を隠して信仰心を装(よそお)えばそれは偽善なのです。神様ではなく自分を褒(ほ)めたたえることは偶像礼拝に他ならないのです。「施し」、「祈り」、「断食」の規定を遵守(じゅんしゅ)することはユダヤ教の重要な教えです。イエス様は弟子たちにそれらの実践を命じられたのです。「神様の御心」に適(かな)った行いは信仰がもたらす豊かな果実なのです。ところが、心に潜(ひそ)む様々な欲が人間を誤らせるのです。偽善者たちはこの世の賞賛と引き換えに神様の信頼を損ねることも厭(いとわ)わないのです。本当に罪が深いのです。神様を欺(あざむ)くことは出来ないのです。イエス様はファリサイ派の人々に「あなたたちは人(人々)に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるもの-富、地位や権力、名声など-は、神には忌(い)み嫌われるものだ」と言われたのです(ルカ16:15)。「神様の御心」を実践する人々に人間の誉(ほま)れは無用なのです。神様が報(むく)いて下さるからです。賛辞を期待して人が集う会堂や街角で施さないのです。人に見られないように自分の部屋に入って祈るのです。人に気づかれないように顔を洗って断食するのです。キリストの信徒たちの使命は神様に栄光を帰すことにあるのです。これを肝(きも)に銘じるのです。偽善は死に至る病なのです。陥(おちい)らないように細心の注意を払うのです。最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を誠実に実行するのです。終わりの日に、イエス様がそれぞれの行いに応じて審判を下されるのです。

*神様は貧しい人々や虐げられた人々の窮状に心を砕かれたのです。モーセは神様のご命令とお約束-「三年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、あなたがたのうちに嗣業(しぎょう)の割り当てのないレビ人たちや、町の中にいる寄留者たち、孤児たち、寡婦たちがそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。そうすれば、あなたがたの行うすべての手の業について、あなたがたの神、主はあなたがたを祝福するであろう」(申命記14:28-29)-を民に伝えました。イスラエルの民はこの規定に則(のっと)って施しをしているのです。安息日には会堂で貧しい人々に施しが行われていました。これは「神様の御心」の具体化なのです。すでに施す側と施しを受ける側との間に上下の関係があるのです。金品の授受はその事実を一層明白にするのです。どれほど注意を払っても施しをする人々に優越感が生じるのです。施しを受ける人々には劣等感や屈辱感が植えつけられるのです。施し方によっては人間の尊厳を損なうことがあるのです。人間の罪深さに驚かされるのです。神様のご命令である施しをしても人間の方に誇る理由はないのです。なすべきことを行っただけなのです(ヨハネ13:14-15)。施しには人々を偽善と高慢に導く危険性が内包されているのです。善い行いがその人の「救い」を妨げることがあるのです。悪魔(サタン)は人間の最も弱い点を熟知しているのです。神様からキリストの信徒たちを引き離すために日夜奔走(ほんそう)しているのです。イエス様は対処方法を示されたのです。

*イエス様は祈りについてもキリストの信徒たちに注意を喚起しておられるのです。偽善者たちは個人的な祈りであっても、人に見てもらうために敢(あ)えて会堂や街角に立って祈るのです。見せかけの信仰心によって宗教的権威を強化し、人々を支配するために画策しているのです。神様に祈りを捧げるのではなく、名声や既得権益のためにその機会を利用しているのです。神殿においてもファリサイ派の人が心の中で「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通(かんつう)を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と祈ったのです。一方、徴税人は目を天に上げようともせず、胸を打ちながら「罪人のわたしを憐れんでください」と訴えたのです。神様は徴税人の祈りを聞き入れられたのです(ルカ18:9-14)。神様が求めておられるのは真実の祈りです。神様と対話するためには祈る側の誠実さが不可欠です。誰もいない部屋に閉じこもり謙虚に祈るのです。一方、イエス様は「主の祈り」を教えられたのです。そこに個人としての祈りは見られないのです。神様はすでに人々の願いをご存じだからです。「わたしたち・・」のようにすべて複数形が用いられているのです。信仰共同体として「神様と隣人」を愛するように命じられたのです。何よりも「神様の御名」が崇められることを願うのです。日々の糧が与えられるように祈るのです。相互に負債を免除するのです。「主の祈り」はキリストの信徒たちを導く道しるべなのです。

*悔い改めの真剣さを表しているのが断食です。神様は預言者ゼカリアを通して「国の民すべてに言いなさい。また祭司たちにも言いなさい。五月にも、七月にも/あなたたちは断食し、嘆き悲しんできた。こうして七十年にもなるが/果たして、真にわたしのために断食してきたか。あなたたちは食べるにしても飲むにしても、ただあなたたち自身のために食べたり飲んだりしてきただけではないか」と言われたのです(ゼカリア書7:5-6)。断食が悔い改めに相応しい内実を伴っていないのです。いつの間にか形骸化(けいがいか)しているのです。信仰心を誇るための手段にさえなっているのです。そのような断食は何の役にも立たないのです。神様が拒否されるからです。断食と訳されている元の言葉にはもっと深い意味があるのです。「自分を否定すること」なのです。言葉による悔い改めではなく肉体に苦痛を課すのです。食べ物や飲み物を断つこと、お風呂に入ること(水浴び)や肉体を喜ばせること、心の楽しみなどを避けることによって犯した罪を悔いているのです。名声などを求めることは断じて赦されないのです。イエス様はファリサイ派の人々や律法学者たちに「あなたがたは不幸だ(に天罰あれ)」と言われたのです(ルカ11:42-44)。キリストの信徒たちにも同様の警告をしておられるのです。断食によって人間の賞賛を得ようとすることは自己矛盾なのです。イエス様は使徒たちを厳しく叱責(しっせき)されたのです(マタイ18:1-9)。尊大な人は誰であっても「神の国」に招かれないのです。深刻に受け止めるのです。

*「施し」、「祈り」、「断食」はユダヤ教の中でも重要な信仰の証しなのです。イエス様の弟子たちもこれらの規定を実行したのです。ところが、知らない間に自分の名声が目的になっているのです。「主の祈り」における祈りの順序が想起されるのです。偽善は大きな罪です。偽りの信仰を積み重ねても「救い」の役には立たないのです。イエス様はファリサイ派の人々や律法学者たちに天罰を宣告されたのです。理由はこれらの人が神様を軽んじているからです。御心である「正義」、「慈悲」、「誠実」をないがしろにしているのです(マタイ23:23)。神様は「わたしが(父祖)アブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである」と言われたのです(創世記18:19)。正義を行う人々は祝福されるのです。神様は預言者ホセアを通して「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献(ささ)げ物ではない」と明言されたのです(ホセア書6:6)。すべての人が愛に満たされることを願われたのです。憐れみ深い人々は憐れみを受けるのです。悪魔はヨブをひどい皮膚病にかからせたのです。しかし、ヨブの信仰は決して揺らがなかったのです。「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と言ったのです(ヨブ記2:9―10)。神様はヨブを見捨てられなかったのです。その信仰を高く評価して報いられたのです。イエス様のご指示を心に刻んで歩むのです。

2026年06月07日

「三つの不信仰」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書1章40節から45節

さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで(怒りに満ち)、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし(祭司たちの下へ戻らせようとし)、厳しく注意して(怒りで鼻をならし)、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司(たち)に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい(祭司たちに証言しなさい)。」しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。

(注)

・新約聖書:原文はギリシャ語で書かれています。一つの単語が複数の意味を有している場合があるのです。どの意味を日本語に訳出するかについては翻訳(ほんやく)者の信仰理解によるところが大きいのです。時には原文の意味が全く変わるのです。

・重い皮膚病:レビ記13,14章をお読み下さい。様々な種類の皮膚病が記述されています。その中に「ハンセン病」も含まれているのです。祭司たちが皮膚病の有無・軽重について診断したのです。重い皮
膚病の人は周囲から目立つように衣服を裂き、髪をほどき、自分から「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわったのです。真に、非人間的な扱いを受けていたのです。

・ハンセン病:医学の知識が乏しい時代には強い感染性のある病気として考えられていました。罹患(りかん)した人は地域の共同体から隔離されたのです。現代では完治する病気であり回復者や治療中の人から感染する可能性は極めて低いことが確認されています。日本においては法律によって隔離政策が続けられて来ました。このため、患者は長い間差別と偏見に晒(さら)されたのです。近年ようやく政府が責任を認めて施設の入所者たち(患者団体)に謝罪し、新たな法律を作って補償することになったのです。

●全国13の国立療養所の入所者数がこの十年で半減し、5月1日現在1001人(平均年齢87.0歳)となっています。医療・介護水準の維持や、将来のあり方が課題となっているのです。ただ、コロナ禍で地域医療の拠点として再整備するなどの将来構想の実現に向けた議論は停滞しているとのことです。-2021年5月17日読売新聞オンラインから-

・祭司:律法学者たちやファリサイ派の人々と共に神殿政治の中枢を担(にな)う特権階級の一員でした。祭司職の家系に生まれたユダヤ人歴史家ヨセフスは著書の中で自分の家族がエルサレムの郊外に土地を持っていたこと、他の祭司たちが財産を蓄積している実態に言及しています(ヨセフスの生涯、63)。一般の人々より遥かに贅沢(ぜいたく)な暮らしをしていたのです。イエス様は一時的ですが神殿境内における商業活動を実力行使によって阻止されたのです。商売人たちと共にエルサレム神殿を「強盗の巣」にしている祭司たちを激しく非難されたのです(マルコ11:15-19)。既得権益と富に執着する指導者たちはイエス様を殺すために画策したのです。

・イエス様の癒しの業に与(あずか)っても、その後共に歩む人は少ないのです。

■イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った(癒した)。(ルカ17:11-19)

(メッセージの要旨)

*登場人物はイエス様と重い皮膚病を患った人の二人のように見えるのです。重要な人々が背後に存在しているのです。それが祭司たちです。物語はイエス様が重い皮膚病を患っている人を癒された出来事で完結しないのです。不誠実な祭司たちへの激しい非難となっているのです。重い皮膚病を患っている人は祭司たちが職務を果たさないことに絶望したのです。イエス様に最後の望みを託して状況を訴えたのです。多くの人は重い皮膚病を患っている人が直ちに癒された出来事に注目するのです。イエス様は病気の苦しみに加えて差別され、人格を否定されて生きている人の悩みや苦しみに共感されただけではないのです。律法の規定に従って「安全と安心」、「希望と将来」を与えるべき祭司たちが人々を追い詰めている現実に憤(いきどお)っておられるのです。癒した人に「祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、祭司たちに抗議しなさい」と命じられたのです。この意味は真に深いのです。清くなった体を祭司に見せ、生きている清い鳥二羽と杉の枝、緋糸、ヒソプの枝を捧げることは祭司たちの怠慢と腐敗への無言の告発になっているのです(レビ記14:4)。イエス様は「行って、示して、捧げなさい」のように行動を求められたのです。この人は実行しなかっただけではなく、イエス様を窮地に追い込むことになったのです。既得権益に執着する祭司たちが敵対しているのです。癒しの業が「救い」に結びついていないのです。日本語訳が「イエス様の実像」を歪(ゆが)めているのです。「神の国」の福音が妨げられているのです。

*重い皮膚病は必ずしも「ハンセン病」ではないのです。厳密に言えば「ハンセン病」を含む多くの皮膚病の一つです。重い皮膚病と診断されるとその人は他の人々との交際を禁じられたのです。(信仰)共同体の外で生活することを余儀なくされるのです。症状が与える恐怖と嫌悪感から、病気は罹患した人が犯した罪に対する「神様の罰」として考えられたのです。重い皮膚病の人はすでに祭司たちの所へ行って症状を診断してくれるように願い出ているのです。ところが、祭司たちは幾つかの理由-重い皮膚病の人の窮状への無関心、危険な職務に相応しい追加の報酬(わいろ)を期待出来ないことなど‐によって誠実に対応しなかったのです。イエス様はこの種の病気に深い理解を示しておられます。重い皮膚病の人シモンの家で弟子たちと共に食事をされたのです(マルコ14:3-9)。「神様の御心」を実現されたのです。「愛の観点」から律法では許されないことを行われたのです。イエス様の評判は各地に広まっていたのです。重い皮膚病の人はイエス様の特別な力(癒しの業)に期待したのです。イエス様はこの人の願いを聞くと直ちに行動されたのです。患部に手を触れて癒されたのです。「祭司たちに見せて、モーセの定めを実行しなさい」と言われたのです。祭司たちの怠慢を批判されているのです。本人が祭司たちの所に戻れば無言の抗議になるのです。ところが、祭司たちには体を見せなかったのです。必要性がなくなったからです。一方、自分に起こった「癒しの業」を大々的に宣伝したのです。癒された人の不信仰と非礼が際立つのです。

*重い皮膚病かどうかについて判断するのは祭司たちです。重い皮膚病に関する認定と取り消しの手続きが旧約聖書のレビ記13,14章に詳細に記述されています。数ある皮膚病の中で重い皮膚病と認定されればその人の将来は悲惨なものになるのです。祭司たちに委(ゆだ)ねられた権限は人々の運命を決定づけるに等しいのです。重い皮膚病の人がイエス様に「御心ならば(ご意思があれば)、わたしを清くすることがおできになります」と言っています。祭司たちがこの人の診断に関与しなかったのです。イエス様は祭司たちが職務を果たさなかったことを知って怒りを表されたのです。「神様の御心」に沿って癒しの業を即座に実行されたのです。イエス様は癒した人に二つのことを指示されたのです。第一は、誰かに事実を話して迫害されないように気を付けることでした。ところが、癒された人はイエス様のご指示に従わなかったのです。律法によれば重い皮膚病の人に触れた人は汚れているのです。イエス様は祭司たちに代わって職務を遂行されたのです。律法違反は明確です。祭司たちの反発は必至なのです。重い皮膚病を患った人々と同様にイエス様は村に入ることが出来なくなったのです。第二は律法に基づいて行動することです。しかし、この人は祭司たちと再び関わることを避けるのです。同じ状況にある人々のために癒された者が果たすべき役割を担わないのです。イエス様にひざまずいて癒しを願い出ているのです。しかし、癒された後は態度が一変するのです。サマリア人のようにイエス様の前にひれ伏して感謝することはなかったのです。

*多くの人にとってキリスト信仰は日本語訳を通して理解されるのです。聖書の翻訳が原文の意味を正確に表現していなければ読む人に誤解を与えることになるのです。今日の聖書の個所には翻訳上の問題点があるのです。翻訳者たちが自分の信仰理解や政治信条によって原文にある言葉や句を別の言葉に置き換えているからです。「深く憐れんで」はイエス様が祭司たちに怒っておられることを避ける言葉遣いになっているのです。「怒りを覚えて」と訳されるべきなのです。イエス様は食べたり飲んだりされる血と肉からなる社会的な存在なのです。キリストの信徒たちの中には「人間イエス様」に戸惑う方がおられるのです。マルコは「イエス様の実像」をありのままに記述しているのです。怒れるイエス様(マルコ3:5)、憤られるイエス様(マルコ10:14)として表現しているのです。「厳しく注意して」の原文の意味は馬が鼻息を鳴らすことです。人間の行為や感情に適用すると「怒りで鼻を鳴らして」になるのです。和らげて訳されているのです。イエス様は激しく怒っておられるのです。さらに、原文にはない言葉-人々に-が挿入されているのです。「祭司たちに証明しなさい」が「人々に証明しなさい」へと変更されているのです。イエス様の怒りが祭司たちに向かないように意図的に工夫しているのです。文章に整合性がなくなっただけでなく、イエス様の真意を歪(ゆが)めることになっているのです。イエス様は一貫して貧しい人々、虐げられた人々の側に立たれたのです。「イエス様の実像」を変容することは罪なのです。心に刻むのです。

*イエス様は癒しの業を行われただけではないのです。御業を通して重い皮膚病を患っている人々を苦しめている制度の不備や祭司たちの不信仰に憤っておられるのです。「イエス様の怒り」は個人的な感情から生じたものではないのです。祭司たちは重い皮膚病の人が自分の所に来ることを疎(うとん)んじるのです。イエス様はご自分の方からこれらの人に近づかれたのです。祭司たちから「汚れている」と宣告されることを承知の上で、しかも(信仰)共同体から追放される危険を冒(おか)して、その人に触れられたのです。レビ記13章に重い皮膚病の人を主に衛生上の理由から(信仰)共同体の外に強制的に住まわせることが定められています。ただ、これらの人を劣った人間として扱うべきであるとか、援助を提供してはならないというような規定はどこにもないのです。ところが、重い皮膚病に罹患していると診断された人は(信仰)共同体から隔離され、社会的地位をはく奪され、差別され、粗野に扱われているのです。一方、レビ記14章には重い皮膚病の人が(信仰)共同体に戻れる規定もあるのです。祭司たちの診断によって「汚れていないこと」が分かれば社会復帰することが出来るのです。神様によって任命された祭司たちが職務を遂行していないのです。地位と権威を悪用して富を増やしているのです。イエス様は断じて「穏やかなお方」ではないのです。「神様の子供たち」を苦しめている祭司たちに怒っておられるのです。翻訳者には「イエス様の実像」を伝える責務があるのです。何より癒した人が悔い改めることを待っておられるのです。

2026年05月31日

「永遠の命に与る条件」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書10章25節から37節

すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

(注)


・律法学者:モーセの律法を教える教師のことです。


・レビ人:祭司職を司(つかさど)るレビ族出身の神殿役人です。レビ人と祭司は半死の人に触れて汚れることを恐れていたのかも知れません。民数記19:10-13を参照して下さい。


・イエスを試す:イエス様が教師として実力を備えているかどうかについて判断することです。


・自分を正当化しようとして:自分の律法解釈-「隣人」とは律法を厳格に守っている人々のこと-を主張するために


・エリコ:エルサレムとエリコの高度差は約1000メートルあります。険しい道を下ってエリコに向かいます。途中には洞窟が多くあり、追いはぎが隠れていました。


・サマリア人:ソロモン王の死後、紀元前922年頃にイスラエルは南北に分裂したのです。北王国はイスラエルと呼ばれました。首都はシケムのちにサマリア)です。祖先はこの国に遡(さかのぼ)るのです。一方、南王国はダビデの系譜を受け継ぐユダ王国(首都はエルサレム)です。紀元前721年アッシリアがサマリアを支配下に置きました。サマリアでは混血が進み、ユダヤ教とは異なる独自の信仰が形成されたのです。混血を繰り返してきたサマリア人はユダヤ人でも異邦人でもなかったのです。ユダヤ人はサマリア人を敵視し、交際もしなかったのです(ヨハネ4:9)。


・デナリオン銀貨:1デナリオンは当時の平均的労働者の一日分の賃金に相当します。

 

(メッセージの要旨)


*キリスト信仰は当時の時代背景の中に位置づけて理解される必要があるのです。ガリラヤ、サマリア、ユダヤはローマの支配下にありました。民衆は圧政に苦しみ、日々の生活にも窮(きゅう)していたのです。こうした事情を反映していたこともあり、エルサレムからエリコへ下る街道に追いはぎが頻繁(ひんぱん)に出没していました。一方、律法学者たちのような社会の上層部に属する人々はローマ皇帝に恭順して「信仰の自由」を確保したのです。人々にユダヤ教の律法と慣習を厳格に守るように教えていたのです。しかし、貧しい人々は安息日にも働いたのです。献金をする余裕もなかったのです。律法学者は愛の教えと力ある業によって「神の国」-神様の支配-の到来を証ししておられるイエス様の実力を試そうとしているのです。公の場で律法主義の正しさ-律法を厳格に守って「永遠の命」に与ること-を再確認させるために「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と質問したのです。イエス様が旧約聖書を土台として「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、律法学者は「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と答えたのです。イエス様は「それを実行しなさい」と命じられたのです。キリスト信仰とは「信じること」ではなく、最も重要な戒めを「実践すること」なのです。「永遠の命」は信仰のみによって与(あずか)れない高価な恵みなのです。お言葉を肝に銘じるのです。

*当初、イエス様と律法学者との質疑応答を通して両者の信仰理解における相違は際立たなかったのです。ところが、律法主義に固執(こしつ)する律法学者は自分の優位性を証明するために「では、わたしの隣人とは誰ですか」と再度質問したのです。イエス様の「隣人の定義」に疑問を呈(てい)しているのです。預言者イザヤは「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人(人々)に福音を告げ知らせるために、/・・主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人(人々)に解放を、/目の見えない人(人々)に視力の回復を告げ、/圧迫されている人(人々)を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」と言うのです。イエス様はこの言葉を引用してご自分の使命を宣言されたのです(ルカ4:18-19)。貧しい人々、虐げられた人々、心や体に障害のある人々、徴税人たちや罪を犯した人々-この世で排斥されている人々(隣人)-を救うために地上に来られたのです。律法学者にとってこれらの人は律法を守らない罪人であり、「隣人」ではないのです。イエス様は律法主義を正すためにサマリア人の「善い行い」を例に挙げられたのです。律法学者には意外だったのです。ユダヤ人とサマリア人との対立が続いており、ユダヤ人はサマリア人を蔑(さげす)み、すべての関係を断絶しているからです。しかし「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になるのです」(マルコ10:31)。サマリア人が「神様の御心」を実行して「永遠の命」に与り、ユダヤ人の祭司、レビ人、律法学者たちの信仰のあり方が問われているのです。

*聖書の個所は抜粋(ばっすい)されて「善いサマリア人」の物語として紹介されることが多いのです。しかし、全体の文脈からすれば「永遠の命」がメインテーマになっているのです。「永遠の命」は「信じること」によって得られないのです。「神様と隣人への愛」を実践しなければ「救い」に与れないのです。ヤコブは「善い行い」が人々の「救い」に及ぼす影響について言及しています。「・・あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて『あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座(すわ)るかしていなさい」と言うなら、それは罪を犯したことになるのです」と明言しているのです。この世で許されている「行い」であっても「神様の正義と愛の戒め」に反していれば罪として認定されるのです。さらに「主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはならないのです、神様は世の貧しい人々をあえて選んで信仰に富ませ、御自身を愛する者(たち)に約束された国を、受け継ぐ者(たち)とされたのです」と言うのです。ヤコブは「救いの基準」を明確にするのです。旧約聖書から具体例を取り上げています。神様の指示に従ってアブラハムは息子イサクを献(ささ)げたのです。娼婦(しょうふ)ラハブは神様の使いの者たちを追っ手から逃がしたのです。神様は二人を「義」とされたのです(ヤコブ書2)。信仰には「善い行い」が不可欠なのです。

*律法学者はこれまでの「隣人」あるいは「罪人」の定義に拘(こだわ)っているのです。イエス様は「愛の観点」からそれらを再定義されたのです。民族、階層、性別、信条、宗教に関わりなく困難を覚える人々を「隣人」とされたのです。これらの人を愛するように命じられたのです(マタイ5:43-48)。ユダヤ人たちがエルサレムで礼拝するように、サマリア人たちはゲリジム山で 独自に礼拝をしているのです(ヨハネ4:20)。「善いサマリア人」も自分たちの信仰に基づいて「神様の御心」を実践しているのです。イエス様は律法学者たちやファリサイ派の人々に「・・あなたたち偽善者は不幸だ(に災いあれ)。・・律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。・・」と言って、彼らの不信仰と腐敗を厳しく非難されたのです(マタイ23:23)。指導者たちは人々に律法を教えしているのですが自分たちはそれを実行しないのです。軽蔑(けいべつ)しているサマリア人たちがこれらの人よりも「神様の御心」に適(かな)っているのです。「善いサマリア人」は見知らぬ人のために自分の時間とお金を使い、必要な傷の手当をしたのです。困っている人の「選別」も行わなかったのです。礼拝に出席していることや献金の多寡(たか)が「救い」を保証する訳ではないのです。イエス様はご自身の権威に基づいて最後の審判に臨(のぞ)まれるのです。「あなたがたは飢(う)えている人々に食べさせたか。・・」と質問して、その人の「救い」を判断されるのです(マタイ25:31-46)。

*「善いサマリア人」の話を社会的背景や文脈から切り離して「隣人愛の勧め」としてのみ理解するとすれば全体像を見誤ることになるのです。物語の核心は「永遠の命」に与るための条件なのです。律法(戒め)を熟知していることや教義を教えていることが「救い」の保証にはならないのです。「永遠の命」は安価な恵みではないのです。「最も重要な二つの戒め」を実践しているかどうかが決定的に重要となるのです。物語は知的信仰によって「救い」を確信している人々への警鐘(けいしょう)となっているのです。律法学者に悔い改めが求められているのです。ヤコブ書2章に「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです」と記述されています。「霊と真(まこと)」を持って礼拝するのです。イエス様の教えと生き方から学ぶのです。それらを実践するのです。キリスト信仰が誤解されているのです。断じて「行い」を求める信仰なのです。国の内外に助けを必要とする「隣人」が多数いるのです。自分の歩みが知的信仰に陥(おち)っていないかどうかを内省するのです。人々の窮状を傍観しているような信仰は死んでいるのです。キリスト信仰は厳しい信仰なのです。

2026年05月24日

「悪魔の誘惑」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書4章1節から13節


さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され(導かれ)、(そこで)四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ(命じなさい)。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』(申命記8:3)と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/(申命記6:13)と書いてある。」そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ(降りなさい)。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』また、/『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』(詩篇91:11-12)」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』(申命記6:10)と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。


(注)


・四十日間:象徴的な日数です。「モーセは主と共に四十日四十夜、そこにとどまった。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、十の戒めからなる契約の言葉を板に書き記した」を想起させるのです(出エジプト記34:28)。申命記9:9,18を併せてお読み下さい。預言者エリヤはイゼベルの追っ手から逃れるために四十日四十夜を歩き続けたのです(列王記上19:1-8)。


・悪魔:元々は天使でした。しかし、天上の戦いに敗れて地上に投げ落とされたのです。「蛇」、「竜」、「サタン」と呼ばれています。神様は悪魔に一定期間この世で活動することをお許しになられました。神様が造られた野の生き物のうちで最も賢いのは蛇でした。エバを巧みに誘惑したのです(創世記3:1-19)。神様は「ヨブの信仰心」についてサタンと話をされたのです(ヨブ記1:1-12)。


・ヨハネの黙示録:聖書は創世記から始まり、この書で終わるのです。


■わたしはまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖とを手にして、天から降って来るのを見た。この天使は、悪魔でも(であり)サタンでもある、年を経た(古代の)あの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。その後で、竜はしばらくの間、解放されるはずである。・・・この千年が終わると、サタンはその牢から解放され、地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都(エルサレム)とを囲んだ。すると、天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣(反キリストの専制君主)と偽預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。(黙示録20:1-3,7-10)


●サタン:さて、天で戦いが起こった。ミカエル(大天使)とその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。この巨大な竜、年を経た(古代の)蛇、悪魔とかサタンと呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。・・・今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。神のメシアの権威が現れた。我々の兄弟たちを告発する者(サタン)、昼も夜も我々の神の前で彼らを告発する者が投げ落とされたからである.(黙示録12:7-10)。

●ゴグとマゴグ:イスラエルに敵対する北の王ゴグと彼が支配する国マゴグのことです。エゼキエル書38-39に登場します。

●火と硫黄の池:神様の罰を表しています。ソドムとゴモラが典型的な例です(創世記19:24)


・時が来るまで:悪魔が12使徒の一人ユダを誘惑したことを指しています。


■しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。(ルカ22:3-6)


・イエス様は「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」と言われました(ルカ10:17-20)。

・サムソン、ダビデ、ソロモンの罪:それぞれ、士師記13-14章,サムエル記下11-12章、列王記上10-11章をお読み下さい。

(メッセージの要旨)


*神様はサタンが「ヨブの信仰心」を試すことを許されたのです。今、イエス様に同じことをしているのです。いずれにおいても悪魔の策略は失敗に終わったのです。イエス様はバプティスマのヨハネから洗礼を受けられた時「聖霊様」がご自身に降るのをご覧になられたのです。神様の「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適(かな)う者」というお声も聞かれたのです(マルコ1:10-11)。悪魔の誘惑はガリラヤで開始されるイエス様の宣教を阻止するかのように直前に行われたのです。イエス様が「神の子」であることを知っているからです。イエス様にとって悪魔との闘いはご自身が「神の子」としての地位を証明する試練の場となったのです。悪魔は「神の子」としての権威を失墜(しっつい)させようとしているのです。自分の支配下に置こうとしているのです。悪魔の試みは使徒たちにも及ぶのです。サタンはペトロの口を通してイエス様の苦しみと復活を否定したのです(マタイ16:21-27)。イスカリオテのユダに入って裏切らせたのです(ルカ22:1-6)。イエス様の逮捕と処刑に加担したのです。イエス様は弟子たちが様々な誘惑に遭遇することをご存じなのです。ペトロに「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われたのです(ルカ22:31-32)。誘惑に負けることが誰にもあるのです。信仰を取り戻して再び前進するのです。


*イエス様にサタンの誘惑が三度ありました。最初は「力ある業」によって空腹を満たすというものでした。イエス様はパンが命の糧であることをご存じです。その上で、信仰の「あり方」に言及されたのです。神様は必要なものを必ず備えて下さるのです(マタイ6:32)。思い悩むことはないのです。石をパンに変えることは神様への不信仰なのです。肉体は命を得たとしても魂が死んでいるからです。イエス様は信仰の原点に言及されたのです。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」のです。悪魔は世界のすべての国々を見せて「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。・・もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」と誘惑したのです。悪魔の提案は功を奏さなかったのです。イエス様は神様が天と地を支配されていることを知っておられたからです。神様の権威を軽んじるすべての試みが拒否されたのです。悪魔は人間を誘惑することに長(た)けているのです。「神様の許可」を得ているとか「神様の御心」を代弁しているかのように装うのです。蛇(悪魔)は人間の欲望を掻(か)き立てるのです。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と言って、神様への信頼に生きるエバを揺(ゆ)さぶったのです(創世記3:1-5)。結局、アダムと共に善悪を知る木の実を食べたのです。二人は楽園から追放されたのです。大きな代償を払うことになったのです。イエス様は悪魔の試みに旧約聖書を引用して的確に反論されたのです。悪魔と有効に闘う方法を示されたのです。


*悪魔は人間の弱点を熟知しているのです。人間の耳に心地よい言葉を真実であるかのように語るのです。信仰心をくすぐって油断させ、滅びへの道を選ばせるのです。悪魔の誘惑に負けた人はエバやアダムだけではないのです。神様に祝福された指導者たち-士師サムソン、ダビデ王、ソロモン王-も同じ轍(てつ)を踏むのです。いずれの人物も「肉の欲」に心を奪われたのです。「神様の御心」に適(かな)った人々でも長い信仰生活において様々な過ちを犯すのです。ただ、神様はこれらの人を滅ぼされることはなかったのです。悔い改めの機会を与えられたのです。旧約聖書は神様の呼びかけと人間との応答の歴史をありのままに伝えているのです。罪を犯した人々の信仰の変遷(へんせん)から学ぶことは多いのです。イエス様は逮捕される直前にペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴ってゲツセマネに行かれたのです。神様に悲痛な祈りを捧げておられたのですが、弟子たちは眠っていたのです。イエス様は「誘惑に陥(おちい)らぬよう(試練に負けないよう)に、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」と言われたのです(マルコ14:37-38)。お言葉は的(まと)を射(い)ているのです。心が神様に向いていなければ肉体を悪魔の誘惑から守れないのです。「神様の助け」がなければ闘いに勝てないのです。自分の弱さや欠点を自覚している人々は悪魔の誘惑に備えるのです。信仰心を誇っている人々はイエス様の警告に耳を傾けないのです。無防備な人々が優先的に狙(ねら)われているのです。謙虚になって信仰を振り返るのです。


*悪魔はイエス様をエルサレムへ連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、旧約聖書の詩編の一節を引用して「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」と言って、地位をみだりに誇示させようとするのです。そのようなことは無意味であり、「神様の戒め」(十戒)にも反しているのです(出エジプト記20:7)。悪魔は天使の一人であったことを忘れてはならないのです。神様のことを良く知っているのです。旧約聖書にも精通しているのです。人間よりも賢く、狡猾(こうかつ)なのです。イエス様は申命記、詩編を引用して反論されたのです。「神の子」イエス様と天使であった悪魔との激しい闘いが繰り広げられているのです。悪魔はあらゆる誘惑を試みましたが何の効果もなかったのです。イエス様が徹底して神様に服従されたからです。イエス様は悪魔との闘いを終えられた後、辺境の地ガリラヤへ向かわれたのです。そこで「時は満ち、神の国(天の国)は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って、宣教を開始されたのです(マルコ1:14-15)。誘惑を経験されたイエス様は悪魔の手法をご存じなのです。悪魔と闘っている人々が助けを求めれば支えて下さるのです。悪魔の罠に陥(おちい)り、罪の中に喘(あえ)ぐ人々を決して見捨てられないのです。キリストの信徒として再び歩む機会が与えられるのです。この世に生きている限り悪魔の誘惑は避けられないのです。イエス様は「何よりもまず、神の国(神様の支配)と神の義(神様の正義)を求めなさい」と命じられたのです(マタイ6:33)。優先順位を心に刻んで歩むのです。


*悪魔はあらゆる策を弄(ろう)して、福音-神の国(天の国)の到来-がすべての人に届けられることを妨げているのです。悪魔は先ずイエス様を誘惑したのです。しかし、その試みは完全に失敗したのです。イエス様が旧約聖書にある「神様のお言葉」に堅く立って誘惑を退けられたからです。そこで、キリストの信徒たちに手を伸ばすのです。使徒のペトロでさえ一時的に悪魔に支配されたのです。イスカリオテのユダは悪魔に導かれてイエス様を裏切ったのです。悪魔の常とう手段は御言葉を切り取ることです。「神様の御心」を人々に誤解させるのです。イエス様は模範を示されたのです。「教え」に耳を傾けるのです。「生き方」に倣(なら)うのです。神様と富との両方に仕えることは出来ないのです(マタイ6:24)。金持ちが「神の国」に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しいのです(ルカ18:25)。子供のように「神の国」を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることは出来ないのです(マルコ10:15)、最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実行しなければ「永遠の命」に与れないのです(マタイ25:41-46)。イエス様につながっていない人がいれば、枝のように集められ火に投げ入れられて焼かれてしまうのです(ヨハネ14:6)。これらはイエス様のお言葉です。悪魔は「本当にそのように厳しく言われたのか」とキリストの信徒たちに同情するのです。しかし、滅びに通じる門は広くその道も広々としているのです(マタイ7:13-14)。安価な恵みはないのです。誘惑と真剣に闘うのです。

2026年05月17日
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