Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書12章38節から13章2節
イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」
イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」
(注)
・律法学者たち:ユダヤ教の律法を専門的に解釈する学者であり、文書を書き記す官僚です。イエス様に敵対するグループの一つです。
・やもめ(寡婦):家父長社会にあって死別あるいは離婚されて一人となった彼女たちは窮乏生活を余儀なくされたのです。
■三年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、あなた(がた)のうちに嗣業の割り当てのないレビ人(たち)や、町の中にいる寄留者(たち)、孤児(たち)、寡婦(たち)がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。そうすれば、あなた(がた)の行うすべての手の業について、あなた(がた)の神、主はあなた(がた)を祝福するであろう。(申命記14:28-29)
■お前たち(指導者たち)が手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ
善を行うことを学び/裁きをどこまでも実行して/搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護せよ。・・支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり/皆、賄賂を喜び、贈り物を強要する。孤児の権利は守られず/やもめの訴えは取り上げられない。(イザヤ書1:15-23)
■災いだ、偽りの判決を下す者/労苦を負わせる宣告文を記す者は。 彼らは弱い者の訴えを退け/わたしの民の貧しい者から権利を奪い/やもめを餌食とし、みなしごを略奪する。(イザヤ書10:1-2)
■万軍の主はこう言われる。正義と真理に基づいて裁き/互いにいたわり合い、憐れみ深くあり やもめ、みなしご/寄留者、貧しい者らを虐げず/互いに災いを心にたくらんではならない。」ところが、彼らは耳を傾けることを拒み、かたくなに背を向け、耳を鈍くして聞こうとせず、心を石のように硬くして、万軍の主がその霊によって、先の預言者たちを通して与えられた律法と言葉を聞こうとしなかった。こうして万軍の主の怒りは激しく燃えた。(ゼカリヤ書7:9-11)
■裁きのために、わたしはあなたたちに近づき/直ちに告発する。呪術を行う者、姦淫する者、偽って誓う者/雇い人の賃金を不正に奪う者/寡婦、孤児、寄留者を苦しめる者/わたしを畏れぬ者らを、と万軍の主は言われる。(マラキ書3:5)
●詩篇94:1-7も併せてお読み下さい。
・ファリサイ派:律法を日常生活に厳格に適用した人々です。
・ヘロデ派:ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパス、あるいはヘロデ王朝の支持者たちです。
・サドカイ派:ユダヤ教の一派です。死者の復活を否定しました。
・レプトン銅貨:当時流通していた貨幣の中で最も小さい単位の通貨です。平均的労働者の一日分の賃金1デナリオンの128分の1です。仮に1デナリオンを今日の通貨で換算して6,400円とすれば、50円です。やもめは一日100円で生活していたことになるのです。
・薄荷(はっか)・いのんど・茴香(ういきょう):最も小さいハーブです。
(メッセージの要旨)
*少し前に、イエス様は神殿の境内で売り買いしていた人々を追い出し、両替人たちの台や鳩販売業者たちの腰掛をひっくり返されたのです。物を運ぶことも阻止されたのです。「祈りの家」であるべき神殿が「強盗の巣」と化していることを激しく非難されたのです。祭司長たちや律法学者たちは彼らの権威と既得権益を守るためにイエス様をどのようにして殺そうかと謀議したのです(マルコ12:15-18)。緊迫した状況においても、イエス様はファリサイ派、ヘロデ派、サドカイ派の人々と論争されたのです。ご自身の方から挑戦するかのように律法学者たちの偽善と腐敗を告発されたのです。大勢の群衆がイエス様の教えに喜んで耳を傾けていたのです。指導者たちは律法を厳格に守るように教えているのです。ところが、自分たちはそれらを実行しないのです。富に執着し、専門的知識を悪用しているのです。金持ちたちは多額の献金によって「神様の祝福」を得ようとするのです。律法学者たちが貧しいやもめたちに援助の手を差し出すことはないのです。「神様の名」によって食い物にしているのです。イエス様はやもめの信仰を高く評価されたのです。一方では、やもめの献金に隠された指導者たちの大罪を告発しておられるのです。キリスト信仰において「愛」が強調されるのです。ただ、聖書のどこにも正義と裁きのない「愛」は見られないのです。最も重要な戒め-正義、慈悲、誠実の実行-を軽んじる人々には天罰が下されるのです(マタイ23:23)。後に、エルサレムの町と神殿はローマ軍によって完全に破壊されるのです(紀元70年)。
*エルサレム神殿はユダヤ人にとって神様が臨在される神聖な場所です。異邦人の中にもこのように考えている人が多いのです。神殿はそれ以外にも重要な役割を果たしているのです。イスラエルの政治・経済・社会を統括する国家機関なのです。大祭司によって最高法院が招集され、国の命運を左右する意思決定が行われているのです。ローマ帝国の利益のために自国の民を犠牲にするという苦渋の決断がエルサレム神殿においてなされたのです。ここでは法廷も開かれているのです。神殿はイスラエルの経済をコントロールするセンターなのです。中央銀行としての業務を行い、蓄積された莫大な富を保管しているのです。ところが、指導者たちは本来の機能を私的に悪用しているのです。イエス様は「強盗の巣」と化した神殿を「祈りの家」に戻そうとされるのです。物理的な力を用いて彼らに警告されたのです。「神の国」-神様の支配-が到来していることを群衆の前で公然と宣言されたのです。イエス様による実力行使が指導者たちの不信仰、神殿の商業化に対する「霊的な潔め」として語られているのです。ただ、「神の国」の全容を説明したことにはならないのです。福音(良い知らせ)が個人的な罪の問題に縮小されているからです。神様はしかるべき時に「新しい天地」を創造されるのです。イエス様を遣わし、ご計画を前もって明らかにされたのです。神様は指導者たちの腐敗と不正を断じて赦されないのです。イエス様は「神様の怒り」を表現されたのです。直接支配される日が近いのです。「神の国」は人間の「全的な救い」として完成するのです。
*神様はアブラハムに「わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである」と言われたのです(創世記18:19)。イエス様は律法学者たちの腐敗と偽善を厳しく批判されたのです。彼らはモーセの律法を教えているのです。しかし、言うだけで実行しないのです。しかも、律法に数多くの細かい規定を加えて人々を苦しめているのです。これらの人を「救い」に導くために指一本貸さないのです。守ることが出来ない人々を裁くだけなのです。自分たちの都合に合わせて律法を解釈するのです。神様さえも欺くのです。「神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない」、「祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない」と言うのです。黄金、供え物を神聖化するのです。献金(献品)の対象ではない農産物(薄荷、いのんど、茴香)の十分の一を献げて信仰を誇っているのです。彼らは白く塗った墓に似ているのです。外側は美しく見えるのです。しかし、内側は死者の骨で汚れているのです。外側は人に正しいように見せながら、内側は不法で満ちているのです。神様が遣わされた預言者、知者、学者たちを会堂で鞭打ち、町から町へと追い回しているのです。十字架上で処刑された人々もいるのです(マタイ23)。やもめたちや貧しい人々を虐げているのです。あらゆる策を弄(ろう)してこれらの人を搾取しているのです。
*人々がそれぞれの信仰に基づいて献金をしているのです。イエス様は献金額を確認できる位置に座られました。神様の前で「神の子」としての権威を示されたのです。金持ちたちがたくさんの献金をしているのです。貧しいやもめはレプトン銅貨二枚を捧げたのです。弟子たちを含め多くの人は献金額から金持ちの方が信仰心篤く、やもめは信仰心の薄い人として評価しているのです。しかし、神様は心の内を御覧になられるのです。イエス様が注目されたのは献金額の多寡ではなかったのです。信仰心を比較されたのです。献金額の多寡と信仰心は必ずしも連動しないのです。金持ちたちは献金の額によって「永遠の命」に与れると思っているのです。「神の国」に入るためには隣人-貧しい人々や虐げられた人々-を愛することが必須の要件なのです。それを実行すれば「救いの道」は開かれるのです(マタイ25:31-40)。一方、指導者たちは貧しい人たちにも「十分の一献金」を強いるのです。相応の献金をしなければ神様に罰せられるかのように教えているのです。やもめはその指示を忠実に実行したのです。しかし、生活費のすべてを捧げるような献金のあり方は「神様の御心」に反しているのです。確かに、イエス様は「だれよりもたくさん献金した」と言われたのです。やもめの信仰を誉められたのです。ただ、イエス様の真意を正確に理解することが重要です。注目すべき点はやもめの信仰心の篤さだけではないのです。生活費の全部を献金させる指導者たちの罪が告発されているのです。神様を欺く人々が「永遠の命」に与ることはないのです。
*律法学者たちは人々の前で「先生(ラビ=偉大な指導者)と呼ばれることを好んでいました。イエス様は弟子たちに「あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ
。・・『教師』(学究的先生)と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである」と言われたのです(マタイ23:8-10)。イエス様が天に上られた後、信仰共同体は初代教会へと発展するのです。信徒の数が増え、階層化も進んだのです。組織の効率化が不可欠になったのです。祭司(牧師)のような指導者たちが信徒の群れを率いるようになるのです。献金が貧しい信徒たちに分配されなくなったのです。指導者たちの生計維持に充当されるのです。しかし、パウロは経済的自立を貫いたのです。設立した教会から得られる権利-経済的支援-を敢えて行使しなかったのです。テント職人として働き、生活費を得ていたのです(1コリント9:12-18)。それは誰からも束縛されずに「復活の主」を証しするためであったのです。キリスト信仰を説明するためにパウロの「言葉」が多く引用されるのです。しかし、「生き方」への関心度は極めて低いのです。「聖書に忠実である」と明言する教会があるのです。愛が強調されているのです。ところが、正義や平和の重要性にほとんど言及していないのです。重要な聖書の個所が恣意的(しいてき)に選別されているのです。イエス様は「何よりもまず、神の国(神様の主権)と神の義(正義)を求めなさい」と命じられたのです(マタイ6:33)。お言葉を肝に銘じるのです。