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洗礼者ヨハネが捕らえられた後、イエス様はガリラヤ地方へ行き、福音(良い知らせ)を宣べ伝えて「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたのです(マルコ1:14-15)。イエス様は復活された後も、使徒たちに「神の国」について話されたのです(使徒1:3)。キリスト信仰の中心メッセージは「神の国」-神様の支配-にあるのです。

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「平和への道」

Bible Reading (聖書の個所) ルカによる福音書19章37節から44節

イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分(たち)の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」

エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前(あなたのような罪深い者であって)も平和への道(備え)をわきまえていたなら・・・。しかし今は、それ(エルサレムの陥落)がお前(あなた)には見えない(それらがあなたの目から隠されている)。やがて時が来て、敵が周りに堡塁(ほうるい)を築き、お前(あなた)を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前(あなた)とそこにいるお前(あなた)の子らを地にたたきつけ、お前(あなた)の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである(イエス様が神様の訪れであったことを認めなかったからである)。」

(注)

・オリーブ山:エルサレムから東へ約3.2㎞のところにあります。

・ファリサイ派:律法を日常生活に厳格に適用したユダヤ教の一派です。ただ、彼らは言うだけでそれを実行しなかったのです。イエス様に律法学者たちと共に敵対したのです。

・石が叫びだす:預言的なお言葉です。「救い」(解放)を求める人々の声は止むことがないのです。ハバクク書2:11を併せてお読み下さい。

・平和への道をわきまえていたなら:キリスト信仰において「神様の愛」は強調されるのです。ところが、正義の重要性についてほとんど語られていないのです。正義を確立することは平和の実現にとって必須の要件なのです。

■主は言われた。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子(子供)たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」(創世記18:17-19)

●約束したこと:シナイ山における十戒などの契約のことを予期させるのです。出エジプト記20-24に記述されています。

■わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます/御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に/彼らが愚かなふるまいに戻らないように。主を畏れる人に救いは近く/栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。慈しみとまことは出会い/正義と平和は口づけし まことは地から萌えいで/正義は天から注がれます。主は必ず良いものをお与えになり/わたしたちの地は実りをもたらします。正義は御前を行き/主の進まれる道を備えます。(詩編85:9-14)

■それゆえ、主は恵みを与えようとして/あなたたちを待ち/それゆえ、主は憐れみを与えようとして/立ち上がられる。まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。(イザヤ書30:18)

・エレミヤの預言:神様は悪に満ちたエルサレムに裁きを下されるのです。

■主からエレミヤに臨んだ言葉。主の神殿の門に立ち、この言葉をもって呼びかけよ。そして、言え。「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たち(あなたがた)の道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たち(あなたがた)をこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。この所で、お前たち(あたなたが)の道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦(かふ)を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。そうすれば、わたしはお前たち(あなたがた)を先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。しかし見よ、お前たち(あなたがた)はこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。盗み、殺し、姦淫(かんいん)し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たち(あなたがた)はあらゆる忌(い)むべきことをしているではないか。わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たち(あなたがた)の目に強盗の巣窟(そうくつ)と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。シロのわたしの聖所に行ってみよ。かつてわたしはそこにわたしの名を置いたが、わが民イスラエルの悪のゆえに、わたしがそれをどのようにしたかを見るがよい。(エレミヤ書7:1-12)

●シロ:イスラエルは南北の王国に分裂していました。北王国(イスラエル)における信仰のセンターです。紀元前11世紀頃、ペリシテ人たちによって破壊されたのです。エレミヤ書26:6-9をお読み下さい。一方、南王国(ユダ)における信仰の中心地はエルサレムです。

・エルサレムの陥落:二回ありました。バビロニア王は紀元前587/586年にエルサレムを武力で制圧し、民の中でも特に技術者たちを大都市バビロン(現在のイラク)へ強制移住させたのです。いわゆる「バビロン捕囚」です。もう一つはイエス様が処刑され、三日目に天に昇られた後に起こりました。紀元後70年にローマ軍はエルサレム(神殿)を完全に破壊したのです。

・ミディアンの日:士師ギデオンが神様の託宣を受けて敵のミディアン人を打ち破ったことです。士師記7:15-25を参照して下さい。

・ホサナ:「今、お救い下さい」と言う意味です。


・UNICEF: 国際連合児童基金(United Nations Children's Fund)です。すべての子どもの権利、特に最も不利な立場にある子どもたちの権利を実現することを目指し、約190の国と地域で活動をしています。

(メッセージの要旨)

*平和への道とはこの世において正義を実現することです。神様はアブラハムを通して、預言者たちによって正義の重要性を語られたのです。平和を考える上で、預言者エレミヤの言葉は真に示唆(しさ)に富んでいます。エレミヤが召命を受けた時はイスラエルが南北に分裂している時代です。ヨシャが南王国ユダの王でした。人々は悪い道に走っていました。他の神々にひれ伏し、仕えていたのです。エレミヤは「北からの災い」が迫っていることを預言したのです。人々に「正義の神様」に立ち帰り、異教の神バアルに従うことを止めるように呼び掛けたのです。ところが、人々は悔い改めるどころかエレミヤに激しく反発したのです。エレミヤは命の危険に晒(さら)されたのです。エレミヤは神様に逆らう者たちの道が栄え、欺(あざむ)く者たちが安穏(あんのん)に暮らしている現実に苦悩したのです。一方、バビロニアの王ネブカドレツアルを「神様の僕」と呼んだのです。預言者としての資質を問われることになったのです。ところが、神様はエレミヤの預言通りこの異邦人の王を用いてエルサレムと神殿を破壊されたのです。「バビロン捕囚」という形でユダを罰せられたのです。「神様の御心」は明白なのです。権力者たちが民衆を抑圧し、搾取する所に平和はないのです。イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って宣教を開始されたのです(マルコ1:15)。神殿政治を担う人々は既得権益に執着し、エルサレム神殿を強盗の巣にしているのです。エレミヤの時代と同じ様な厳しい天罰が後に下されるのです。

*平和の内実を保証する正義はキリスト信仰の根本理念なのです。旧約聖書はその事実を伝えているのです。南王国(ユダ)は外国の勢力(アッシリア)に脅かされていました。預言者イザヤはユダを救う王(ヒゼキヤ)の誕生を預言して「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。・・彼らの負う軛(くびき)、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった」と言ったのです(イザヤ書9:1-3)。ヒゼキヤは紀元前715年に王の座に就(つ)いたのです。神様への信頼は篤(あつ)く、モーセの戒めを守り、何を計画しても成功したのです。神様はセンナケリブの軍18万5千人を撃たれたのです(列王記下18:5-8)イザヤの預言はローマの支配下にあったユダヤにおいても実現したのです。イエス様が「救い主」として誕生されたのです。人々はイエス様のエルサレム入城に歓喜して「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。我らの父ダビデの来(きた)るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ」と叫んだのです(マルコ11:9-10)。神様の主権は人間の生と死、社会の隅々に及ぶのです。イエス様によって正義と恵の業が行われているのです。平和の大切さが宣言されたのです。「神の国」が到来しているのです。人々は今来るべき世界を部分的に見ているのです。しかるべき時に完成するのです。キリスト信仰とは「神の国」-神様の支配-の到来を信じることです。キリストの信徒たちは「神様の御心」の実現に全力を注ぐのです。

*イエス様はエルサレム入城前に都が見えた時、将来起こるであろう筆舌に尽くし難い悲惨な出来事を予見して涙を流されたのです。短いご生涯の中で涙を流されたことが二回あります。愛する兄弟ラザロの死に際して「死が人間を支配していること」に憤(いきどお)られた時(ヨハネ11:28-37)と今回です。これまでも多くの預言者がエルサレムの不信仰と腐敗に警鐘(けいしょう)を鳴らしたのです。しかし、祭司長、律法学者、民の指導者たちと彼らに同調する人々は警告に耳を傾けなかったのです。神様は新しい天地創造を決断されたのです。終わりの時に先立って、御子イエス様を遣(つか)わされたのです。それでもこれらの人が悔い改めることはなかったのです。エレミヤの時代と変わらないのです(エレミヤ書6:6-14)。エルサレムには泉の水が湧くように悪が蔓延(はびこ)っているのです。身分の低い者から高い者に至るまで皆、不正な利益をむさぼっているのです。預言者から祭司に至るまで皆、相手を欺(あざむ)いて取引しているのです。幼子、若者、年寄り、長老たち、男も女にも苦難と死が近づいているのです。平和がないのに「平和、平和」と言っているのです。イエス様はエルサレムが罰せられることを確信されたのです。エルサレムの陥落を心から悲しまれたのです。入城した後には神殿の腐敗を実力行使によって告発されたのです。境内で売り買いしていた人々を追い出し、「あなたたちは、わたしの家を強盗の巣にした」と激しく非難されたのです(マルコ11:17)。イエス様は命を狙われることになったのです。

*今日8月9日は長崎原爆の日、15日は敗戦記念日です。先の大戦を振り返り、犠牲になられた人々を追悼(ついとう)し、深い反省の上に立ってこれらの日を迎えるのです。多くの人々の命を奪った戦争が終わったからだけではないのです。悲惨な戦争を引き起こした軍国主義者(権力者)たちが敗北した日だからです。平和を求めた人々が勝利し、正義のために迫害された無数の人々の正しさが証明された日なのです。自国の利益を最優先し、武力によって他国の領土を侵略し、人々を抑圧することは「神様の御心」に反しているのです。神様がアブラハムに言われたように、子々孫々に至るまで侵略戦争の誤りを伝えていかなければならないのです。戦争の悲劇は憎しみとなって後代にまで続くのです。キリストの信徒たちは平和に無関心であってはならないのです。二度と戦争を起こさないためにも過去の過ちと真剣に向き合うのです。不断の努力によって平和を実現するのです。これは個々人の選択の問題ではないのです。キリスト信仰に生きる人々が果たすべき使命なのです。すでに地球を何回も破壊するほどの核兵器が存在しているのです。紛争を解決する手段として相変わらず武力が用いられているのです。イエス様は「剣を取るものは皆、剣で滅びる」と言われたのです(マタイ26:52)。思想、信条に拘泥(こうでい)することなく平和を希求する人々と連帯するのです。非暴力的に核兵器廃絶を訴え、米軍基地の縮小を求めて行くのです。平和への道のりが果てしなく遠いことも事実なのです。イエス様が共にいて励まし、支えて下さるのです。

*キリストの信徒たちは神様が天と地の支配者であることを信じているのです。何よりも先ず「神の国」と「神の義」(神様の正義)を求めるのです(マタイ6:23)。イエス様が教えられた最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を日々実践しているのです。戦後81年を経ても世界のあちらこちら-特にアフリカ、中東、中米の貧しい国々-において内戦や紛争が頻発(ひんぱつ)しているのです。UNICEF のニュースレター(7月1日)によれば「中東地域で100日以上続いている軍事攻撃や暴力により、この地域に暮らす何百万もの子どもが身体的な危険や心理的な苦痛にさらされている」のです。子どもを含む最もぜい弱な人々に対し、水と衛生分野に重点を置いた緊急支援が行われているのです。平和は正義によって造り出されるのです(イザヤ書32:17)。正義がこの世に遍(あまね)く及ぶことによって世界に平和が確立されるのです。キリスト信仰において「神様の愛と赦し」が強調されるのです。「神様の正義」-真の平和-に言及されることが少ないのです。搾取・支配・権力などの政治的な言葉が恣意的(しいてき)に避けられているのです。旧・新約聖書が伝える信仰理解と明らかに異なっているのです。当時、ローマが武力によってイスラエルを支配していたのです。イエス様はこのような政治状況において「神の国」の到来を証しされたのです。今日においても指導者たちが傍若無人(ぼうじゃくぶじん)に権力を振るっているのです。偽善者たちを断じて許してはならないのです。神様が厳しく罰して下さることを切に祈るのです。

2026年08月09日

「キリスト信仰の真髄」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書5章1節から16節


イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。義(正義)に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。義(正義)のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」


「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」


(注)


・この群衆:イエス様に従った人々のことです。


■イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った(マタイ4:23-25)。聖書地図を参照して下さい。


・正義と平和:神様は預言者たちを通して歴代の王に正義と平和を実現するように命じられたのです。しかし、「神様の御心」に適(かな)った王はほとんどいなかったのです。ヒゼキヤは数少ない信仰の篤い王でした。


■ひとりのみどりご(ヒゼキヤ王)がわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。(イザヤ書9:6)


●「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」はエジプトの王が戴冠する時に唱えられた賛辞に似ているのです。


■万軍の主はこう言われる。「ぶどうの残りを摘むように/イスラエルの残りの者を摘み取れ。ぶどうを摘む者がするように/お前は、手をもう一度ぶどうの枝に伸ばせ。」誰に向かって語り、警告すれば/聞き入れるのだろうか。見よ、彼らの耳は無割礼で/耳を傾けることができない。見よ、主の言葉が彼らに臨んでも/それを侮(あなど)り、受け入れようとしない。主の怒りでわたしは満たされ/それに耐えることに疲れ果てた。「それを注ぎ出せ/通りにいる幼子、若者の集いに。男も女も、長老も年寄りも必ず捕らえられる。家も畑も妻もすべて他人の手に渡る。この国に住む者に対して/わたしが手を伸ばすからだ」と主は言われる。「身分の低い者から高い者に至るまで/皆、利をむさぼり/預言者から祭司に至るまで皆、欺(あざむ)く。彼らは、わが民の破滅(傷)を手軽に治療して/平和がないのに、『平和、平和』と言う。・・・・」と主は言われる。(エレミヤ書6:9-14)。


●神様は不信仰の町エルサレムを罰せられるのです。そのために他国の王と軍隊を用いられるのです。彼らがそこまで迫っているのです。預言者エレミヤが逃げるように警告するのです。しかし、耳を傾ける者がいないのです。結局、人々は苦難と死を経験し、捕囚の民となるのです。


・イエス様と平和:


■あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。(ルカ12:51-53)。

■イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」・・・エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」(ルカ19:37-44)

●平和への道:正義を実現することです。ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスはイエス様を殺そうとしていたのです。この話を聞いたイエス様は動揺されなかったのです。ご自身の強い意志(宣教活動の継続)をヘロデに間接的に伝えられたのです。(ルカ13:31-34)

・山上の説教と平地の説教(ルカ6:20-26)を比較して下さい。後者には「幸い」だけでなく「不幸」(天罰)が記述されているのです。

・士 師:部族の長の名称です。オトニエル、エフド、シャムガル、デボラ、ギデオン、トラ、ヤイル、エフタ、イブツアン、エロン、アブドン、サムソンの12人です。神様の導きによって敵対する勢力との戦いに勝利するのです。イスラエルは士師の下で神様の正義と憐れみ、罰と赦し(解放)を経験するのです。

■主は士師たちを立てて、彼らを略奪者の手から救い出された。しかし、彼らは士師たちにも耳を傾けず、他の神々を恋い慕って姦淫し、これにひれ伏した。彼らは、先祖が主の戒めに聞き従って歩んでいた道を早々に離れ、同じように歩もうとはしなかった。主は彼らのために士師たちを立て、士師と共にいて、その士師の存命中敵の手から救ってくださったが、それは圧迫し迫害する者を前にしてうめく彼らを、主が哀れに思われたからである(士師記2:16-18)。

・立派な行い:キリスト信仰とは信じて「救い」に与ることではないのです。キリストの信徒たちには「地の塩」、「世の光」として信仰を証しする使命があるのです。終わりの日にイエス様がそれぞれの行いによって「救い」の有無を判断されるのです(マタイ25:31-46)。

・UNHCR:

United Nation High Commissioner for Refugee の略称です。日本名は「国連高等難民弁務官事務所」です。1950年に設立された国連機関です。1945年、1981年にノーベル平和賞を受賞しています。国連UNHCR協会は日本における公式支援窓口です。

(メッセージの要旨)

*神様はエジプトの圧政から先祖の民を解放されたのです。イエス様はユダヤ人にとって信仰の原点となる「過越祭」には毎年エルサレムへ巡礼されたのです(ヨハネ5:1)。イエス様の時代にはローマがユダヤ人たちを支配していました。ローマ皇帝は反乱を企てた人々に厳罰を持って対処したのです。ユダヤ人歴史家ヨセフスによると、イエス様が誕生される数年前ナザレの近くの町セフォリスでローマ軍は帝国の支配に抵抗した人々およそ2000人に十字架刑を適用したのです(ユダヤ古代誌17)。イエス様の処刑を許可したローマの総督ポンティオ・ピラトは残虐な性質の持ち主でした。(処刑した)ガリラヤ人の血を彼らが捧げるいけにえに混ぜさせたのです(ルカ13:1)。福音書にも彼らの支配を示す具体的事実が記述されています。ローマ皇帝アウグストは人頭税の徴収のために全住民に住民登録を命じているのです(ルカ2:1-2)。ユダヤ人たちに対する「裁判権」をも行使していたのです(マタイ5:25)。ローマ軍は必要に応じてユダヤ人を徴用することが出来たのです(マタイ5:41)。ローマはユダヤ人たちを武力と重税によって抑圧したのです。一握りのユダヤ人特権階級-議員、土地所有者、祭司たち-はローマに協力して富を蓄積しているのです。民衆の95パーセントは貧しい生活を余儀なくされたのです。極貧の人も少なくなかったのです。律法はモーセを通して与えられたのです。恵みと真理はイエス・キリストによって現わされたのです(ヨハネ1:17)。山上の説教はキリスト信仰の真髄(しんずい)なのです。

*山上の説教はマタイの5章から始まり7章まで続きます。今日の引用個所はその冒頭部分です。イエス様の「幸い」は個々人が偶然に遭遇する苦難に対する慰めではないのです。イエス様のお言葉を正しく理解するために当時のユダヤ人たちが置かれていた社会的、経済的、政治的な背景を知っておくことは不可欠です。民衆はローマの支配下にあって窮乏生活を強いられていました。ユダヤ人指導たちはローマに協力して人々をさらに苦しめていたのです。山上の説教がすべて「心の問題」への慰めのお言葉であるかのように誤解されているのです。民衆の厳しい現実から目を逸(そ)らせてはならないのです。「心の貧しい人々・・」は心身ともに打ちのめされ、その日の食べ物を確保することに苦労している人々に福音が届けられているのです。「悲しむ人々・・」は罪を後悔するというような個人的なことではないのです。暴虐がはびこる社会の中で絶望する人々を励ましておられるのです。「義に飢え渇く人々・・」は「神様の正義」の実現を待ち続ける人々へのお約束なのです。これらの人の努力は報われるのです。「平和を実現する人々・・」は公正で平等な社会を建設するために闘っている人々に「神様の祝福」があるのです。キリスト信仰に生きる人々は地の塩、世の光となるのです。個人的な信仰心を深めるだけでなく、貧しい人々や虐げられた人々と共に歩むのです。社会に正義を実現するために奔走(ほんそう)するのです。富や権力に執着する人々との対立は避けられないのです。「義のために迫害される人々・・」は希望の光となったのです。

*旧約聖書に士師記があります。イスラエルの民が国家(政府)を持たない時代に、神様はご自身の民が正しい道から逸れないように士師(指導者)を起こされたのです。彼らはアブラハム、イサク、ヤコブの神のみを礼拝させることに腐心したのです。敵対する外国の勢力の抑圧から民を守るために先頭に立って戦ったのです。山上の説教は士師の考え方を継承しているのです。イエス様は個人の生活や行いにおいて「神様の御心」を実践することー柔和で、憐み深く、清い心を持つことーに加えて、社会において正義を確立し、隣人を愛するように命じられたのです。民衆にとって衣・食・住は最優先の課題なのです。しかし、イエス様はすべてのことをご承知の上で「何よりもまず、神の国と神の義(正義)を求めなさい」と言われるのです(マタイ6:33)。それだけではないのです。この世に同調する人々に「・・異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間ではそうであってはならない」と戒められたのです(マタイ20:25-26)。「神様の御心」に従って生きようとすればこの世との決別は不可避なのです。キリスト信仰においてこうした根本理念が忘れられているのです。イエス様は弟子たちに覚悟と犠牲を求められたのです。「救い」は安価な恵みではないのです。キリストの信徒の中には「信仰は信仰」、「この世はこの世」のようにダブルスタンダードを用いている人もいるのです。イエス様は覚悟のない人々が「永遠の命」に与ることはないと明言されたのです(ルカ9:23-26)。


*イエス様は山上の説教を締(し)め括(くく)るにあたって、一連の警告をされています。「滅びに通じる門は広く、その道も広々して、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出すものは少ない」と言われるのです(マタイ7:13-14)。「狭い門」から入る(山上の説教を日々実践する)人にしか「救い」は与えられないのです。「主よ、主よ」と言う人がすべて「天の国」に入るのではないのです。「神様の御心」を実行した人だけが招かれるのです(マタイ7:21)。人は信仰によって「救い」に与るのです。しかし、「行い」を伴っていなければそれは死んでいるのです(ヤコブ書2:17)。イエス様は「神様の御心」を実現するために腐敗した指導者たちに立ち向かわれたのです。既得権益に執着する人々はイエス様を迫害し、最終的に十字架上で処刑したのです。イエス様の御跡を辿(たど)る人も様々な形の迫害に遭遇しているのです。イエス様はご自身に従う人々に神の子となる資格を与え「天の国」に招き入れて下さるのです。山上の説教はキリスト信仰に生きる人々の道しるべなのです。福音が「罪からの救い」に限定して解釈されているのです。福音に与った人々には使命があるのです。このような大切なことが読み飛ばされているのです。キリストの信徒たちは山上の説教を心に刻むのです。悪がはびこる地上に正義の塩を蒔(ま)くのです。暗闇が支配するこの世に善い行いによって光を輝かせるのです。苦難は避けられないのです。イエス様が終わりの日に祝福して下さるのです。


*8月はキリスト信仰に生きる人々に戦争の悲惨さや平和の尊さを考え、信仰を問い直す良い機会となるのです。キリスト信仰が誤って解釈されているのです。信仰とは信じることではないのです。「天の国」の建設に参画(関与)することなのです。大切な基本理念が恣意的(しいてき)に捨象され、語られることが極めて少ないのです。神様は預言者イザヤを通して「正義が造り出すものは平和であり/正義が生み出すものは/とこしえに安らかな信頼である。わが民は平和の住みか、安らかな宿/憂いなき休息の場所に住まう」と言われるのです(イザヤ書32:17-18)。神様は「正義の神様」なのです。「神様の御心」が世界各地で踏みにじられているのです。悪業を告発し、非暴力的に闘うことはキリストの信徒たちの責務なのです。平和とは戦争がないことではないのです。対立する勢力の均衡状態のことでもないのです。「神様の正義」が地上に遍(あまね)く行き渡ることなのです。直近のUNHCRの報告書によると世界では紛争や暴力、迫害等で1億2千万人以上が故郷を追われ、支援を必要とする人々は増え続けているのです。ロシアによるウクライナへの侵略は続いており、アメリカ・イスラエルとイランの紛争は終息の兆しが見えないのです。毎年8月6日に広島、9日に長崎の「原爆の日」の式典、15日に全国戦没者追悼式が行われています。戦争で犠牲になられた人々を追悼し、平和な世界の実現を祈念するのです。「神様の愛」は観念的ではないのです。人々や国家に正義を求められるのです。腐敗した指導者たちは罰せられるのです。

2026年08月02日

「汚れた霊の正体」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書5章1節から20節

一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷(複数)や鎖(複数)で縛られたが、鎖(複数)は引きちぎり足枷(複数)は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山(山々)で叫んだり、石(複数)で自分を打ちたたいたりしていた。イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから(神によってあなたにお願いする)、苦しめないでほしい。」イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。

ところで、その辺りの山(丘の中腹)で豚の大群がえさをあさって(食べて)いた。汚れた霊どもはイエスに、「豚の(群れの)中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の(群れ)の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人(友人たち)に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。

(注)

・ゲラサ人の地方:デカポリスにあるゲラサはガリラヤ湖の南およそ48kmに位置しています。話の内容から湖の右岸にあるゲルグサではないかと推測されているのです(マタイ8:28)。詳細は不明です。聖書地図を参照して下さい。

●デカポリスはヨルダン川の東にある異邦人が多く住む地 域です。ギリシャ語のデカは数字の「10」です。ポリ スは「都市」を表す言葉です。「10の町」が一つのグ ループを構成していることからこのように呼ばれているのです。

・いと高き神:異邦人たちが「イスラエルの神」に用いた尊称です。

・レギオン:およそ六千人の歩兵と120人の騎兵によって編成されたローマ軍の一個連隊の呼称です。

・豚:ユダヤ人にとって汚れた動物として分類されています。レビ記11:7-8をお読み下さい。イエス様のたとえ話に登場する放蕩息子(弟)は父親からもらった財産を使い果たしたあと食べる物もなく、豚のエサで飢えを満たしたいと思うほど困窮したのです。この時、自分の行いを悔いて「救い」に与ったのです(ルカ15:11-16)。一方、豚飼いたちから知らせを受けた町や村の人々はイエス様を拒否したのです。

・二千匹ほどの豚の群れが・・湖の中で次々とおぼれ死んだ:

●モーセによってイスラエルの民がエジプトの圧政から解放された出来事を想起させるのです。神様はファラオ王が派遣した軍隊を紅海において海の藻屑とされたのです。出エジプト記14勝をお読みください。

・預言者:特徴は大きく分けて二つあります。一つは神様から直接の召命を受けていること、もう一つは権力者たちの偶像崇拝や政治的腐敗に対する神様の裁きの託宣者になっていることです。エレミヤについてはエレミヤ書22章、エリヤに関しては列王記上21章をお読み下さい。

・ローマ軍:イスラエルを占領し、人々にローマへの恭順と物資の供出を強制したのです。農家から食料としてパンやぶどう酒、家畜を調達し、必要な時には人々を徴用して働かせたのです。兵士たちの暴虐(ぼうぎゃく)はその地方の女性たちにも及んだのです。

・歴史家ヨセフス:エルサレムの祭司の家系に生まれました(西暦37-38年頃)。将軍でもあったのです。主な著作はユダヤ人の反乱と戦争を描いた「ユダヤ戦記」、世界の創造から反乱の時代に至るまでのユダヤ人の歴史を綴った「ユダヤの古代誌」です。

(メッセージの要旨)

*男性は昼も夜も墓場や山で叫び、石で自分を打ちたたいていました。自虐的な行為は心身を傷つけているイスラエルの現状そのものなのです。イエス様は社会の中で最も小さい人々-貧しい人々や心身に障害のある人々―と共に歩まれたのです。先祖の預言者たちのように外国の勢力によるイスラエルへの不当な支配とユダヤ人指導者たちの不信仰と腐敗を告発されたのです。苦難の原因はローマの過酷な収奪と特権的地位を享受する同胞-大土地所有者、祭祀、徴税人たち-による搾取にあるのです。人々の窮状(きゅうじょう)は犯した罪に対する「神様の罰」ではなく、支配者たちが「神様の正義」を軽んじている結果なのです。イエス様は悪名高いガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスを「あの狐(きつね)」-狐は民衆が彼に用いた蔑称(べっしょう)-と呼ばれたのです(ルカ13:32)。武力によって抑圧し、経済的にも収奪する支配者たちを名指しで非難されたのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちの偽善と不正を非難し、天罰を宣告されたのです(マタイ23)。これらの人は律法の中で最も大切な正義、慈悲、誠実をないがしろにしているのです。預言者エリヤによって「神様の名」を騙(かた)る偽預言者たちの本当の姿が暴露(ばくろ)されたのです(列王記上18)。預言者エレミヤによって「神様の罰」が神殿政治の中枢(ちゅうすう)を担う指導者たちに下ることが告げられたのです(エレミヤ書34)、イスラエルの悲惨な状況が男性の姿に凝縮されているのです。イエス様は御力によって汚れた霊の支配を打ち砕かれたのです。

*医学的知識が発達していない紀元1世紀においてイスラエルの民は様々な病に悩まされていたのです。夕方になって日が沈むと人々が病人や悪霊に取りつかれた人をイエス様のもとに連れて来たのです。日中ではなかったことに留意が必要です。人々のためらいが表れているからです。イエス様はいろいろな病気にかかっている人たちを癒(いや)されました。また、多くの悪霊を追い出されたのです(マルコ1:32-34)。マルコによる福音書には悪霊に取りつかれた人の癒しの物語が四回も登場します。多くの人が精神的に病んでいたことを窺(うかが)わせるのです。ユダヤ人歴史家ヨセフスは「強盗が地方に横行し、戦争がもたらす被害と同じほどの傷を住民に与えている」と述べています(ユダヤ戦記I:304)。心や体の病気だけでなく、社会的、経済的な要因による病理現象も顕著になっていたのです。イエス様が宣教の拠点とされたガリラヤにおいても犯罪率は極めて高かったのです。新約聖書に心身に障害がある人々や様々な病気に苦しんでいる人々の苦悩(マルコ3:1)、債務の不履行に陥(おちい)った農民たちや土地を持たない労働者たちの惨状(マタイ20:1)、各地における暴動(ルカ23:25)が記述されています。イスラエルの指導者たち-特に祭司たち-は神殿税を過酷に取り立て、ローマの徴税に協力して家庭経済を崩壊させていたのです。農民の中には奴隷となって債務を支払った人々もいたのです。絶望した民衆の中に武装蜂起に加わった人々もいたのです。非情にも彼らを待っていたのは拷問と処刑だったのです。


*イエス様は御力を持って汚れた霊を追い出し、錯乱していた男性を癒されたのです。出来事は悪魔祓いで終わらないのです。汚れた霊が自分の名前を「レギオン」と名乗ったことによって新たな展開を迎えるのです。イエス様はベールに包みながら「レギオン」に取り憑かれた男性をイスラエルの悲惨な現状に譬えられたのです。イエス様の戦略に思いを馳(は)せるのです。「レギオン」が持つ破壊力や残虐性はローマ軍の特徴と一致しているのです。イスラエルの人々への虐待は汚れた霊とローマ軍によって行われているのです。福音書に強盗に関する記述があります。十字架上におけるイエス様との対話(ルカ23:39-41)や善いサマリア人の物語(ヨハネ10:30)に登場するのです。近年の研究により強盗は単なる物取りではなく、社会性のある要求を実現する手段の一つになっていたことが分かっているのです。用いた方法(強盗)に問題があったとしても、これらの人がローマの地方政府やユダヤ人の裕福な土地所有者(その多くは祭司)たちの不当な支配に抗議していたことは間違いないのです。イスラエルの窮状は民衆が招いたものでも、罪を犯したからでもないのです。ローマによる執拗な搾取とユダヤ人指導者たちの無慈悲な政策に原因があるのです。イエス様は人々に問題に対応する力があることを教えておられるのです。イエス様を「救い主」として信じる人々は現状の中に希望を見出すのです。諦(あきら)めてはならないのです。責務を放棄してはならないのです。悪業には忍耐強く抵抗するのです。イエス様が導いて下さるのです。


*今日の聖書の個所は癒し(悪魔祓い)の物語として広く読まれています。男性の異常な行動の原因は汚れた霊(悪魔)に取り憑(つ)かれていることにあるのです。イエス様は神様の御力によってこの人から汚れた霊を追い出されたのです。正気に戻った男性はイエス様のご指示に従い、自分が経験した主の憐れみと力ある業を異邦人の町々で証ししたのです。神様が遣わされたイエス様は悪霊をも支配されていることが鮮明になったのです。イエス様と汚れた霊とのやり取りにはさらに重要な意味があるのです。「レギオン」は自分たちが取り憑いていた男性からではなく、この地方から追い出さないようにと願っているのです。男性は個人ではなく、多くの人々を表しているのです。イスラエルあるいは民衆のことなのです。「レギオン」は男性を錯乱させているようにイスラエルの民衆を支配しているのです。同じ名前の「レギオン」が世界の人々を悩ませ、苦しめているのです。神様はイスラエルの民の窮状をご存じです。異邦人の苦難にも心を留めておられるのです。イエス様による汚れた霊の追放はローマ軍からの解放を暗示しているのです。「神の国」が異邦人の町や村にも到来しているのです。豚飼いたちから報告を受けた人々はイエス様が「神様の子」であることを信じなかったのです。一方、癒された男性はキリストの信徒になったのです。福音が人間の「罪からの救い」に限定して理解されているのです。「全的な救い」-社会の福音化-がこの地において具体化しているのです。キリスト信仰とは「神の国」-神様の支配-を信じることなのです。

*福音とは天上と地上の隅々に「神様の支配」が及ぶことなのです。「神の国」がゲラサ人の地方にも到来しているのです。イエス様は汚れた霊に苦しめられている男性を悪魔の支配から解放されたのです。この事実こそ「神の国」がもたらした福音なのです。汚れた霊に取り憑かれた人が異邦人であったとしてもその本質に変わりはないのです。神様の主権(正義と憐み)を認めない勢力の罪が問題となっているのです。キリスト信仰とは人間の「全的な救い」を福音として信じることです。キリストの信徒たちは癒された男性のようにイエス様の御跡(みあと)を辿(たど)って生きるのです。人間に苦難をもたらす汚れた霊の正体を白日の下に晒(さら)すのです。裕福な人々であれ貧しい人々であれ、権力のある人々であれ一般的な人々であれ、終わりの日にはそれぞれの「行い」に応じて裁かれるのです。「裁きの基準」には使命を託(たく)された人々が相応しい働きをしたかどうかも含まれているのです。政治家たち、官僚たち、経営者たちは与えられた職務に誠実であったかどうかを問われるのです。自分に利益を誘導する政治家たち、特定の人々に有利に働く政策を決定する官僚たちは罰せられるのです。労働者たちの賃金を遥かに上回る企業家たちの収入が容認されてはならないのです。信徒たちを誤った方向に導く指導者たちは解任されるのです。社会的な罪は巧妙に隠蔽(いんぺい)されているのです。キリストの信徒たちには「神様の正義」を証しする責務があるのです。悪業の原因を特定するのです。組織や制度に潜む欠陥を改めさせるのです。

2026年07月26日

「完全な者となるために」

聖書の個所(Bible Reading) マタイによる福音書5章38節から48節 


「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かって(忍耐して)はならない。だれかがあなたの右の頬(ほほ)を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める(請い願う)者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」


(注)


・目には目を、歯には歯を:律法は被害に比例する報復を認めているのです。趣旨は怒りによる過度の報復を抑制することにあるのです。


■もし、その他の損傷があるならば、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。(出エジプト記21:23-25)

・ハンムラビ法典:

●バビロン(現在のイラク)王朝のハンムラビ王(紀元前18世紀ごろ)は国内の諸民族を統一的に支配するために「ハンムラビ法典」(全282条)を制定したのです。そこには「目には目を、歯には歯を」の原則、一般市民と奴隷の厳しい身分の区別などが定められています。さらに、犯罪の故意や過失によっても量刑に差が設けられているのです。


・隣人を愛し:


■復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。(レビ記19:18)


・敵を愛し:


■あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇(かわ)いているなら水を飲ませよ。こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる。(箴言25:21-22)

●「炭火を頭に積む」は人の親切心を表しています。炭の火が消えた時、人は近隣の誰かに「燃えた炭火」を借りることになります。鍋に入れ頭の上に載(の)せて持ち帰ったのです。

・敵を憎め:旧約聖書に該当する個所はないのです。以下が参考になります。


■どうか神よ、逆らう者を打ち滅ぼしてください。わたしを離れよ、流血を謀(はか)る者。たくらみをもって御名を唱え/あなたの町々をむなしくしてしまう者。主よ、あなたを憎む者をわたしも憎み/あなたに立ち向かう者を忌(い)むべきものとし 激しい憎しみをもって彼らを憎み/彼らをわたしの敵とします 。(詩篇139:19-22)


・1ミリオン:約1,480mです。


・イエス様と律法:


■わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国(神の国)で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義(正義)が律法学者やファリサイ派の人々の義(正義)にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。(マタイ5:17-20)


・イエス様と暴力(武力):


■イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。 (マタイ26:47-54)


●ローマ軍の一軍団(レギオン)は6000人の歩兵と120人の騎馬兵で編成されています。


・徴税人:ローマに協力して税金を取り立てていました。しかも、規定以上のものを徴税して私腹を肥やしていたのです。同胞のユダヤ人から裏切り者、罪人として軽蔑(けいべつ)されていました。


・完全な者:


■主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。(レビ記19:1-2)

■さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。(マタイ19:16-21)

(メッセージの要旨)


*神様は父祖アブラハムを選ばれた時「息子たちとその子孫に『主の道』を守らせ、主に従って『正義』を行わせること」を命じられました(創世記18:19)。イエス様も「何よりもまず、神の国(神様の支配)と神の義(神様の正義)を求めなさい」と言われたのです(マタイ6:33)。旧・新約聖書は信仰の原点が「正義の実行」にあることを伝えているのです。ところが、多くの人は「信仰とは信じることである」と言うのです。それ故に「左の頬を向けなさい」、「上着を取らせなさい」、「二ミリオン行きなさい」が非暴力によって悪と闘う方法ではなく、忍耐や善意の勧めであるかのように誤解されているのです。キリスト信仰の根本問題がここに見られるのです。ほとんどの人は日本語訳の聖書を読んでいるのです。しかし、訳された原語(原文)には複数の意味を有していることがあるのです。脚注がなければ一方の訳のみが固定化するのです。「義」という言葉があります。神様と人との関係における人間側の倫理観の高さや道徳心の篤さを表しているのです。ところが、この言葉には個人的な敬虔(けいけん)さだけではなく、社会の組織における公正と平等を基本とする「正義」の意味が含まれているのです。「山上の説教」(マタイ5-7章)に用いられている「義」を「正義」に読み替えるのです。福音は「罪からの救い」に留まらないのです。「全的な救い」-正義と平和の実現-に及ぶのです。キリストの信徒たちには「神の国」の建設に参画する責務があるのです。歪(ゆがめ)められた秩序や考え方を行動によって変革するのです。


*『目には目を、歯には歯を』が復讐の基準のように理解されているのです。この戒めの背景には神様の深い思いが込められているのです。目に損傷を受けた人が怒りのあまり傷つけた相手を殺してしまうこともあったのです。過度の復讐を抑制するために定められたのがこの戒めなのです。イエス様は「わたしが来たのは律法や預言者たちを廃止するためではなく、完成するためである」と言われました。律法を形式的に守るのではなく、「愛の観点」から再解釈することを宣言されたのです。一方、こうしたイエス様の律法解釈が誤解されているのです。「正義の視点」が捨象されているのです。今日の聖書の個所における解釈にも見られるのです。「悪人に手向かってはならない」を引用して「悪を赦すこと」、「悪と闘わないこと」が正当化されているのです。個人的な関係だけでなく、社会における関与の仕方の判断基準となっているのです。抑圧や不正に苦しむ人々の窮状に接しても関わる必要はないのです。神様が厳しい現実を取り除いて下さるからです。神様による介入を待つだけなのです。沈黙、無批判が「信仰の名」によって正当化されているのです。イエス様は「正義」の重要性を一貫して強調しておられるのです。正義感と行動力がなければ「天の国」に入れないのです。ヤコブもヨシュア記2:1-21に言及して「娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか」というのです(ヤコブ書2:25)。恣意的(しいてき)に聖書の内容を変容してはならないのです。


*旧・新約聖書が伝えているように、神様は「正義」と「愛」とを大切にされるお方なのです。キリスト信仰はこの根本理念に基づいているのです。イエス様は模範を示されたのです。「神様の御心」を実現するために貧しい人々や虐げられた人々の友となられたのです。これらの人を抑圧し、搾取する指導者(権力者)たちと激しく対峙(たいじ)されたのです。十字架の死に至るまでこの姿勢を貫かれたのです(マタイ23)。イエス様は圧倒的な力の差がある時に弱い者たちが相手側の理不尽性や非人間性を告発する方法を教えられたのです。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」は無限の赦しではないのです。強い者から受ける暴力や不当な扱いを容認することでもないのです。ユダヤ人たちの慣習を知ることが理解の助けになるのです。人々は決して左手を使わないのです。左手は「汚れている」からです。相手の右の頬を打つためには打つ方は右手の甲で打たなければならないのです。殴打するというよりも侮蔑的な意味合いが濃いのです。彼我の力関係に大きな差がある場合、弱い者は強い者の暴力や侮辱に黙って耐えるだけなのです。ところが、弱い者が左の頬を相手に向けているのです。抗議することを止めないという強い意思が表れているのです。同時に相手が気付いていない非人間性を指摘しているのです。悪の道を離れて「救い」に与(あずか)ることを真剣に望んでいるのです。キリスト信仰が「罪の赦し」-永遠の命の付与―で完結してはならないのです。信徒たちには「行い」によって信仰を証しする使命があるのです。


*聖書のどこにも「正義」のない愛や平和は見当たらないのです。ところが、キリスト信仰においてこの理念が軽んじられているのです。貧しいユダヤ人たちは二つの服しか持っていないのです。上着ともう一つは下着です。税金や負債が重くのしかかったのです。土地を担保に借金したのです。不作や自然災害によって返済不能になると土地は債権者たちに没収されたのです。金貸しは「あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない」に明確に違反しているのです(出エジプト記22:24)。下着を担保にしてお金を借りているとすれば貧しい人々には上着の他に担保となるものが何も残っていないのです。神様はこれらの人の窮状をご存じなのです。「もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである」と言われるのです(出エジプト記22:25-26)。「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」は愛の勧めではないのです。最低必要な物まで奪い取る金持ちたちの強欲に対する抗議の方法なのです。このような手段によって貧しい人々は自分たちを苦しめる金貸したちの不信仰と律法違反を告発するのです。創意工夫して、持っている人々にのみ有利に働いているこの世の経済システムの変革を迫るのです。


*「だれかが、一ミリオン行くように強(し)いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」も、歴史的背景を踏まえると寛容、善意、勤勉のことではないのです。イエス様はローマの支配下にあって苦役を強要されているユダヤ人たちに抵抗することを勧めておられるのです。兵士たちには自分の荷物をユダヤ人に1.5㎞運ばせることが認められているのです。内容が危険な仕事も多いのです。何よりも屈辱的なのは家族の前で徴用されることでした。「そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担(かつ)がせた」が証明しているのです(マルコ15:21)。イエス様は様々な機会に人間としての尊厳を守るために闘う方法を教えられたのです。暴力的な方法ではなく非暴力的な手段によって権力者たちと闘うのです。イエス様のお言葉は正しく伝えられるべきです。可能であればページの下部や余白に注が多い聖書を選んでお読み下さい。「悪人に手向かってはならない」、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」は悪人に屈服することではないのです。悪を容認することでもないのです。悪人たちが悔改め、神様の下に立ち帰ることを願っているのです。「正義」について語られることが少ないのです。「愛」と対立するかのように誤解されているからです。最も重要な戒めは「神様と隣人」を愛することです。「神様を愛する」とは戒めを全身全霊で実行することです。「神様の御心」に従って隣人に仕えるのです。イエス様の歩みが模範となるのです。

2026年07月19日

「傲慢な人々への警告」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書18章9節から17節


自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 

イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

(注)

・ファリサイ派の人々:律法(や昔の人の言い伝え)を厳格に日常生活に適用しているユダヤ人のグループです。例えば、食事の前には必ず手を洗うことです。一方、自分たちの都合に合わせて解釈を変更したのです(マルコ7:1-19)。イエス様は彼らの偽善と腐敗を厳しく非難されたのです(マタイ23章)。ファリサイ派の人々はイエス様に敵対していました。ところが、所属する議員の中にはニコデモのようにイエス様を信じている人もいたのです(ヨハネ19:38-42)。

・律法学者たち:文書を記録する官僚であり、学識を有していたのです。多くはイエス様に批判的でしたが、「先生,あなたがおいでになる所ならどこへでも従って参ります」と言った律法学者もいたのです(マタイ8:19)。

・罪人:ローマに協力する徴税人たち、身体や精神に障害のある人々、不道徳な女性たち、律法を順守しない人々(献金をしない貧しい人々)、サマリア人や異邦人と交際する人々のことです。

・徴税人:ユダヤの民衆は苛酷な税に苦しめられていたのです(ルカ3:13)。徴税人たちはローマに税を上納するだけでなく、規定以上の税を取り立てて私腹を肥やしていたのです。一方、イエス様は社会から排斥された徴税人や罪人たちと食事をされたのです(ルカ5:30-32)。

・断食:年に一度の「贖(あがな)いの日」に大祭司は神殿内にある至聖所に入り、全民衆の罪の懺悔(さんげ)のために断食をしました。

・献金:ユダヤ人には神殿と祭司たちを支えるために農産物の十分の一を捧げることが義務付けられていました(レビ記27:30-33)。ハーブ類の薄荷(はっか)、いのんど、ういきょうは除外されていました。ファリサイ派の人々はこれらの十分の一も捧げて信仰を誇るのです。しかし、イエス様は律法で最も重要な正義、慈悲、誠実をないがしろにするこれらの人を厳しく非難されたのです(マタイ23:23)。


・義:日本語訳では「義」と訳されていますが、元の言葉には「正義」という意味があるのです。「神様の御心」に適(かな)った心のあり方だけでなく、その人の生き方を表しているのです。個人的な倫理感、道徳心の高さとして用いられることが多いのです。しかし、この言葉には社会的な正義、公平に関する認識の深さも含まれているのです。

・子供たち:両親(保護者)の下に成長するのです。無力な人々(権力を持たない人々)を象徴(しょうちょう)しているのです。貧しい人々や虐げられた人々のことです。これらの人は「神の国」の到来を福音-良い知らせ-として素直に受け入れたのです。神様にすべてをお委(ゆだ)ねしたのです。最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を真剣に守っているのです。

・神の国:天の国とも呼ばれています。死後に行く「天国」のことではないのです。神様の主権、神様の支配を表す言葉です。イエス様の宣教の第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」です(マルコ1:15)。イエス様を通して「神の国」はこの世に具体化しているのです。病人や心身に障害のある人々が癒され、罪の赦しが行われているのです。この事実が福音なのです。

(メッセージの要旨)


*イエス様のたとえ話は2000年前のファリサイ派の人々への警告として語られたのです。内容は現代に生きるキリストの信徒たちにも通じるのです。「聖書に忠実である」と言う言葉が時々聞かれるのです。しかし、そのようなことは誰にも出来ないのです。「神の国」が知的に、神学的に理解されているのです。旧・新約聖書が伝える神様は一貫して言葉ではなく、行いによる信仰を求められるのです。イエス様によって「神様の主権」は天上と地上のすべてに及ぶことが宣言されたのです。終わりの日(最後の審判の時)に人間の「全的な救い」として完成するのです。光がある内に悔い改めてこれまでの「生き方」を根本的に変えるのです。一方、イエス様は二つの重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実践するように命じられたのです。「主の祈り」には「わたしたち、わたしたちの、わたしたちを」が用いられています。個人的な祈りではないのです。信仰共同体を構成する人々の均質性が強調されているのです(ルカ11:4)。キリストの信徒たちは貧しい人々や虐(しいた)げられた人々に奉仕することによって「神様への信仰」を証しするのです。すべての罪は神様を試みること、神様を軽んじること-人間の不信仰-から生じているのです。驕(おご)り、高ぶりを克服する有効な方法があるのです。誇りとなる物(富や才能など)を手放すことです。隣人のためにそれらを使うのです。社会の底辺で喘(あえ)ぐ人々の所へ降りて行くこと-子供のようになること-によって謙遜を学ぶのです。何よりもイエス様の生き方に倣(なら)うのです。


*神殿で祈っている二人は全く異なった信仰心を表しています。ファリサイ派の人は正直で、律法を順守する生活を送っています。しかも、律法が求める以上のことを実行しているのです。律法には一年に一度「贖(あがな)いの日」に断食をすることが定められています。ところが、一週間に二度-月曜日と木曜日-に断食をしているのです。献金についても求められていない分を含めて収入の十分の一を捧げているのです。この人は神殿の目立つ場所に立って、神様に赦しを乞うようなことが何もないかのように祈るのです。すべて「わたし」で始めて信仰心を誇り、律法を守らない人々を見下しているのです。一方、徴税人は神殿の聖所から遠く離れた場所で、目を天に向けることなく、神様に祈ったのです。罪を告白して、ただ「神様の憐れみ」を願い出たのです。神様に祈りを聞き入れられた人は徴税人でした。たとえ話は二人の信仰心を比較しているだけではないのです。もっと深い意味が隠されているのです。神様は社会から排斥された人々に優先的に福音を届けられるのです。ご自身を求めて来る罪人たちを受け入れられるのです。律法で規定された宗教儀式の順守や善行によって自分を誇る人々には耳を閉ざされるのです。善い行いが悪い分けではないのです。神様に栄光を帰すことだからです。自分を誇るためであればそれは偽善なのです。偽善者たちは「神の国」に入れないのです。「神の国」においてこの世の価値基準が逆転するのです。罪を犯さない人はいないのです。信仰を誇ることなど誰にも出来ないのです。悔い改めなければ皆滅ぶのです。

*キリストの信仰が「個人的な救い」の問題として限定的に理解されているのです。「神の国」の福音は「永遠の命」の付与に留まらないのです。政治、経済、社会を含む人間の「全的な救い」として実現するのです。ある律法の専門家が「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねました。イエス様は「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」と答えられたのです。そして「それを実行しなさい」と命じられたのです(マルコ10:25-28)。「行い」は「救い」にとって必須の要件となっているのです。「救い」に与った人々には使命(責務)があるのです。イエス様の御跡を辿(たど)って「神の国」の建設に参画することです。イエス様は山上の説教において「あなたがたの義(正義)が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と断言されたのです(マタイ5:17-20)。ヤコブも「『隣人を自分のように愛しなさい』という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔(へだ)てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです」と言っています(ヤコブ書2:8-10)。傲慢はその人の「救い」を左右する大きな罪です。信仰を自負する人々には思いがけない結末が待っているのです。

*律法の規定をすべて厳格に実行することは至難の業です。完全に履行しようとする熱心さの中にかえって偽善が生まれるのです。罪を犯したことのない人は誰もいないのです。イエス様はそのことをご存じなのです。律法学者たちやファリサイ派の人々が姦通の現場で捕らえられた女性を連れて来て「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」と尋ねました。イエス様は「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われたのです。これを聞いた人々は年長者から始まって、一人また一人と、その場を立ち去ったのです(ヨハネ8:3-9)。姦淫の罪は律法(十戒)の中で取り上げられています。犯した者は石打の刑に処せられるのです。ところが、イエス様は一方的に女性が犯した罪を赦されたのです。人々は軽微な罪は簡単に赦されるものと考えているのです。しかし、罪は罪なのです。罪には罰が伴うのです。信仰心の篤さを誇っても「救い」の保証にはならないのです。イエス様は「人を裁くな」と命じられました(マタイ7:1-5)。権限はご自身にあると言われるのです(ヨハネ(5:22)。パウロも「自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです」と明言しているのです(1コリント4:4)。「神様の憐れみ」は尽(つ)きないのです。それ故に、憐れみ深い人間になるのです。「裁き」をお待ちするのです。

*「神様の支配」が少しずつ人間の心と社会に浸透しているのです。人々に悔い改めが起こっているのです。キリスト信仰とは「神の国」の到来を福音として信じることです。「神の国」は死後の救い-人間の究極的な願い-に限定されるものではないのです。神様は政治、経済、社会の福音化にも深く関心を寄せておられるのです。イエス様は「神様の御心」を体現されるのです。社会から排斥された徴税人や罪人たちと共に食事をされたのです。パリサイ派の人々や律法学者たちは律法違反を指摘したのです。イエス様は「神の国」に対する無理解と律法主義への固執を厳しく非難されたのです。九十九ひきを残して迷い出た一匹の羊を必死で探し求める羊飼い(マタイ18:10-14)、10枚持っている銀貨の内1枚を無くしたので部屋中を掃いて見つけるまで探している女性(ルカ15:8-10)、分け与えた財産を放蕩(ほうとう)して使い果たした息子が帰って来ると喜んで迎える父親(ルカ15:11-24)のように、神様は罪人がご自身の下へ帰って来るのを忍耐して待っておられるのです。神様はそういうお方なのです。イエス様は律法の中にある最も大切な言葉-正義、慈悲、誠実-を基本にして「神様の御心」を証しされたのです(マタイ23:23)。「思いと行い」の判断基準を神様の戒めに求める生き方こそキリスト信仰の真髄(しんずい)なのです。「神様の憐れみ」に応えるのです。この世の真っ只(ただ)中に力を合わせて「神の国」を建設するのです。信仰の対極にあるのが傲慢です。最大の罪なのです。真剣に内省するのです。

2026年07月12日
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