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洗礼者ヨハネが捕らえられた後、イエス様はガリラヤ地方へ行き、福音(良い知らせ)を宣べ伝えて「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたのです(マルコ1:14-15)。イエス様は復活された後も、使徒たちに「神の国」について話されたのです(使徒1:3)。キリスト信仰の中心メッセージは「神の国」-神様の支配-にあるのです。

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「イエス様の戦略」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書22章15節から22節

それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。

(注)

・ファリサイ派:律法を日常生活に厳格に適用したユダヤ教の一派です。しかし、イエス様は彼らの偽善を厳しく批判されました。具体例はマタイ15:1-20をお読みください。

・ヘロデ派:ガリラヤとペレアを統治した総督ヘロデ・アンティパス(ヘロデ大王の三人の息子の一人)あるいはヘロデ王朝の支持者たちのことです。このグループの行動についてはマルコ3:6;12:3にも記述されています。

・デナリオン:ローマ帝国内に流通する銀貨です。当時の平均的労働者の一日分の賃金に相当します。皇帝の「頭部の像」と「『ティベリウス・シーザー、神であるアウグストの息子』の文字」が刻印(こくい
ん)されています。

・十戒:基本となる戒めです。

■わたしは主、あなた(がた)の神、あなた(がた)をエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなた(がた)には、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなた(がた)はいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなた(がた)はそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否(いな)む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈(いつく)しみを与える。(創世記20:2-6)

・神の国(天の国):キリスト信仰の根本理念です。「神様の支配」、「神様の主権」を表す言葉です。誤解されているのですが、死後に行く「天国」のことではないのです。

(メッセージの要旨)

*イエス様はエルサレムに入城した後ご自身の方から神殿政治を担う指導者たちの不信仰と腐敗を公然と非難されたのです。一方、祭司長たちや律法学者たちは知恵を絞り、持てる権力を総動員してイエス様に反撃するのです。ファリサイ派の人々は対立するヘロデ派の人々と手を結び、共通の敵であるイエス様を殺そうと画策するのです。ただ、民衆の熱狂的な支持が計略を妨げているのです。そこで、「税の問題」を取り上げたのです。二つの大きな目的がありました。一つはイエス様を反逆罪でローマの当局者に引き渡すことです。もう一つは民衆を自分たちの側に取り戻すことです。イエス様が皇帝ティベリウス・シーザーに税金を納めるべきでないと言えば、ローマによって処刑されるのです。納税すべきであると答えれば重税に喘(あえ)ぐユダヤ人たちの支持を失うのです。イエス様は厳しい政治状況を踏まえて納税の是非に言及されなかったのです。信仰の観点から「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われたのです。「神様の名」によって不正が行われているのです。「税の在り方」を問う前に自らを正しなさいと命じられたのです。強大なローマの支配下にあって「神様の御心」-正義と隣人愛の実現-を具体化するために最も相応しいお答えをされたのです。キリスト信仰が誤解されているのです。キリスト信仰とはイエス様のご生涯に倣(なら)って生きることです。そのことを宣言した人がキリストの信徒と呼ばれるのです。人は信仰によって救われるのではないのです。「神の国」の建設に参画して「永遠の命」に与るのです。

*神殿が「強盗の巣」になっているのです。イエス様の実力行使(マルコ11:15-17)は神殿政治を一時的であっても機能停止させたのです。イエス様と指導者たちとの対立は決定的となったのです。祭司長たちや律法学者たちは激怒し、イエス様をどのようにして殺そうかと謀議(ぼうぎ)したのです。しかし、群衆がイエス様の教えに共感していたので手を下せなかったのです。この後、これらの人は神殿の境内でイエス様に出会い「何の権威であのようなことをしたのか」と尋(たず)ねたのです。イエス様も「(洗礼者)ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」と逆に質問されたのです。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。しかし、『人からのものだ』と言えば、群衆が怖(こわ)い・・」などと論じ合って、結局「分からない」と答えたのです(マタイ21:21-27)。権力者たちを恐れてはならないのです。神様こそ最も恐れるべきお方だからです(ルカ12:4-7)。洗礼者ヨハネは領主ヘロデ・アンティパスとその兄弟の妻ヘロデアとの結婚を律法違反げあると批判したのです(マルコ6:14-29)。イエス様も指導者たちの偽善と不正を敢然と告発されたのです。その後も「二人の息子のたとえ」(マタイ21:28-32)、「ぶどう園と農夫のたとえ」(マルコ12:1-12)、「律法学者たちへの非難」(ルカ14:15-24)を通して、これらの人の不信仰を批判されたのです。「神の国」に入れないことが明らかになったのです。

*犬猿(けんえん)の仲にあったファリサイ派とヘロデ派の人々が協力して共通の敵であるイエス様を抹殺しようとしているのです。周到な準備をして論争に臨んでいるのです。名誉欲を煽(あお)るために、見え透(す)いたお世辞によって褒(ほ)めているのです。イエス様が慢心(まんしん)し、ローマへの不服従を吐露(とろ)するように仕向けているのです。しかし、すでに「・・神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌(い)み嫌われるものだ」と反論しておられるのです(ルカ16:15)。人間による賞賛がイエス様のご判断に影響を及ぼすことなどないのです。さらに、謙虚さを装(よそお)いながら攻撃を先鋭化するのです。「お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適(かな)っているでしょうか、適っていないでしょうか」と政治的な質問によって罠(わな)に掛けようとしているのです。皇帝に税金を払わないように扇動(せんどう)すれば、ローマへ反旗を翻(ひるがえ)したことになるのです。「反乱罪」に問われるのです。律法に適っていると答えれば「・・同胞でない外国人をあなた(がた)の上に立てることはできない」の規定に違反するのです(申命記17:14-15)。神様を父と公言されるイエス様に「神の息子」と称するローマ皇帝への忠誠心が求められているのです。イエス様が宣教された「神の国」とこの世とは両立しないのです。しかも、イエス様は「何よりもまず、神の国と神の儀(正義)を求めなさい」と言われたのです(マタイ6:33)。お言葉を自ら実行されたのです。

*ファリサイ派の人々やヘロデ派の人々にとってイエス様がどのように答えられるかについて興味はなかったのです。所期の目的を必ず達成することが出来ると確信していたからです。イエス様は「十字架上の死」あるいは「福音宣教の挫折」という大きな代償を払うことになるのです。デナリオン銀貨には「皇帝の像」と「神であるアウグストの息子の文字」が刻(きざ)まれているのです。イエス様は「納税の是非」について返答する前に、指導者たちの内側が偽善と不法に満ちていることを暗に批判されたのです(マタイ23)。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われたのです。前半の「皇帝のものは皇帝に返しなさい」においてローマの法律が肯定されているのです。後半の「神のものは神に返しなさい」はユダヤ民族の問題であることからローマは介入しないのです。ユダヤ人にとってすべての判断基準は「十戒」にあるのです。偽善者であるとはいえ指導者たちもそれらを厳格に守っているのです。これらの人は銀貨に刻印されている「ローマ皇帝の像」や「神様を騙(かた)る言葉」が律法に違反していることを知っているのです(申命記5:8)。ローマによる「神様への冒涜(ぼうとく)の罪」を告発する義務があるのです。この点を曖昧(あいまい)にしているのです。「納税の是非」のみを議論することは出来ないのです。イエス様は最善のお答えによって反論されたのです。指導者たちの不信仰が明らかになり、彼らの権威は失墜することになったのです。民衆は権力者たちと対峙(たいじ)する方法と知恵を学び取ったのです。

*ユダヤ人たち(イスラエル)は外国の勢力に何度も抑圧され苦しめられて来ました。原因が不信仰にあったことは歴史的に証明されているのです。イエス様の時代においてもローマがユダヤの全土を支配していたのです。指導者たちは民族として生き延びるために不当な要求を甘んじて受け入れたのです。「大祭司の任命権」や「十字架刑の執行権」は取り上げられたのです。しかし、民族としての「自治権」はかなり認められたのです。貧しい人々は苛酷(かこく)な徴税によって窮乏生活を強いられているのです。ヨ洗礼者ハネの宣教の第一声は「悔い改めよ。天の国は近づいた」でした(マタイ3:2)。イエス様も「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って宣教を開始されたのです(マルコ1:15)。「神の国」の到来が福音(良い知らせ)として告げ知らされているのです。人々は憐み深い神様が地上に再び「正義」を確立して下さることに歓喜したのです。ファリサイ派の人々は対立していたヘロデ派の人々と手を結んだのです。これらの人は謀略によってイエス様を追い詰めるのです。イエス様は厳しい政治状況を踏まえて「納税の是非」に直接答えられなかったのです。信仰のあり方を内省させるために「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われたのです。ローマの支配下にあって「神様の御心」-社会正義と隣人愛-を追求することは容易ではないのです。イエス様のお答えは示唆(しさ)に富んでいるのです。キリストの信徒たちは慎重に行動するのです。何事も「信仰の観点」から始めるのです。

2026年03月08日

「最後の闘い」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書11章1節から20節


一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけるとイエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。


翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。


それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。


翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。

(注)

・受難週:今年のイースターは4月5日の日曜日です。イエス様のエルサレム入城、十字架上の処刑、三日目の復活は「神の国」-神様の支配-が到来していることを証明しているのです。

・オリーブ山:エルサレムの東にある高い丘のことです。

・ベトファゲ:場所については不明です。

・ベタニア:エルサレムの東南およそ3.2kmnに位置しています。

・ホサナ:「今救って下さい」という意味です。

・いちじくの木:旧約聖書では預言者たちが実を結ばない「イスラエル」に例えています。

■わたしは彼らを集めようとしたがと/主は言われる。ぶどうの木にぶどうはなく/いちじくの木にいちじくはない。葉はしおれ、わたしが与えたものは/彼らから失われていた。(エレミヤ書8:13)

■荒れ野でぶどうを見いだすように/わたしはイスラエルを見いだした。いちじくが初めてつけた実のように/お前たちの先祖をわたしは見た。ところが、彼らはバアル・ペオル(異教の神バアルを信じている所)に行った。それを愛するにつれて/ますます恥ずべきものに身をゆだね/忌(い)むべき者となっていった。(ホセア書9:10)

■悲しいかな/わたしは夏の果物を集める者のように/ぶどうの残りを摘む者のようになった。もはや、食べられるぶどうの実はなく/わたしの好む初なりのいちじくもない。(ミカ書7:1)

・祈りの家:イザヤの預言

■・・宦官(かんがん)が、わたしの安息日を常に守り/わたしの望むことを選び/わたしの契約を固く守るならわたしは彼らのために、とこしえの名を与え/息子、娘を持つにまさる記念の名を/わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない。また、主のもとに集って来た異邦人が/主に仕え、主の名を愛し、その僕となり/安息日を守り、それを汚すことなく/わたしの契約を固く守るならわたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。(イザヤ書56:4-7)


・強盗の巣:エレミヤの預言


■・・主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦(かふ)を虐(しいた)げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。・・しかし・・盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟(そうくつ)と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。(エレミヤ書7:1-15)

・仮庵祭:神様が圧政に喘(あえ)ぐスラエルの人々をエジプトの国から導き出したとき、彼らを仮庵(かりいお)に住まわせられたことを記念する祭りです。レビ記23:40―43を参照して下さい。

・シロ:エルサレムの北およそ32kmに位置しています。イスラエルの部族の集合場所です。そこに「臨在の幕屋」(神様がおられるテント)がありました。ヨシュア記18:1を参照して下さい。

・エルサレム神殿:イスラエルの信仰の中心地であるだけでなく、政治的機能を担っていたのです。ヘロデ大王(紀元前37年‐4年)によって再建されました。後にローマ軍によって徹底的に破壊されたのです(紀元後70年)。


・貨幣の両替:エルサレム神殿に献金するためには各国に流通している通貨をユダヤ人の「シェケル銀貨」に交換する必要がありました。両替人たちは不当な交換比率で利益を得ていたのです。

(メッセージの要旨)

*イエス様はエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人(たち)に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する」と言われました(マタイ20:17-19)。ご自身の死と復活を予告されたのです。イエス様は迫害を覚悟してエルサレムへ入られたのです。神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返されたのです。境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかったのです。イエス様の実力行使は一時的な気まぐれではないのです。前日に辺りの様子を見て回っておられることから十分に計画された行動なのです。イエス様は不正な商人たちを排除し、神殿政治を担う指導者たちの腐敗に激しく抗議されたのです。出来事がメッセージのテーマとして取り上げられることはほとんどないのです。言及したとしても、イエス様の振舞いを純粋に信仰の観点から解釈したのです。霊性の欠如や見せかけの信仰心、礼拝の商業化への非難として説明したのです。このような信仰理解は重要な視点を見落としているのです。イエス様は両替人たちやハトを売る商売人たちを単なる憤りによって追い出されたのではないのです。エルサレム神殿が「祈りの家」ではなくなったのです。しかも、「強盗の巣」と化しているのです。不信仰の極みなのです。「信仰のセンター」の使命を放棄したことに激怒されたのです。


*イエス様はエルサレムに入城されたのです。これまでも過越際(ヨハネ2:13)、ユダヤ人の祭り(ヨハネ5:1)、仮庵祭(ヨハネ7:10)、神殿奉献記念祭(ヨハネ10:22)に巡礼しておられるのです。今回は「娘シオンよ、大いに喜べ。/娘エルサレムよ、喜び叫べ。/あなたの王があなたのところに来る。/彼は正しき者であって、勝利を得る者。/へりくだって、ろばに乗って来る/雌ろばの子、子ろばに乗って」(ゼカリヤ書9:9)が実現したのです。威風堂々と馬でなく、ご自身を低くして子ろばに乗って入られたのです。人々は自分の上着、野原から持って来た葉の付いた枝を道に敷いたのです。これらの行動はイスラエルの古事に由来するのです。「彼らはおのおの急いで自分の上着を脱ぎ、階段の上にいたイエフの足元に敷いた。そして角笛を吹き鳴らし、『イエフが王となった』と宣言した」のように、イスラエルの王の戴冠式を想起させるのです(列王記下9:13)。人々は「ホサナ・・いと高き所にホサナ」と叫んだのです。ローマの支配下にあって苦しむユダヤ人たちはイエス様をいわゆる「救い主」としてだけでなく、社会的、政治的な解放者として理解したのです。外国の勢力から守り、イスラエルを繁栄させたダビデ王の再来に歓喜したのです。すでに、大祭司を自分たちで選出する権限が奪われているのです。指導者たちは政情不安に乗じてローマが介入することを恐れたのです。イエス様を殺すために謀議するのです。イエス様の過激な行動は国の 存亡に関わる出来事なのです。十字架刑を適用する根拠となったのです。


*イエス様の怒りは商人たちだけに向けられているように見えるのです。しかし、一連の行動の真の目的は指導者たちの不信仰と腐敗を告発することにあったのです。マルコはこの点を特に強調しているのです。イエス様は両替人たちや鳩の販売人たちを神殿の境内から追い出しただけでなく、弟子たちや他の人々の協力を得て広大な境内を封鎖されたのです。礼拝に必要な通貨交換や生贄(いけにえ)の購入が出来なくなったのです。平時としては前代未聞の事件が起こったのです。イエス様は「強盗の巣」という言葉によって境内にいたすべての人に過去の歴史を想起させられたのです。古代のイスラエルは神様を試み、反抗し、戒めを守らなかったのです。憤(いきどお)られた神様はシロの「臨在の幕屋」を敵の手に渡されたのです(詩篇78:56-60)。預言者エレミヤの時代にも、神様は「わたしの名によって呼ばれ、お前たちが依り頼んでいるこの(エルサレム)神殿・・に対して、わたしはシロにしたようにする」と言われたのです(エレミヤ書7:14)。イエス様も指導者たちが悔い改めなければ、いちじくの木が根元から枯れたよう神殿が崩壊(ほうかい)することを予告されたのです。別の個所では「もしこの日に、お前(エルサレム)も平和の道をわきまえていたなら(人々を抑圧して偽りの平和を作ろうとしなければ)神様の裁きを招かなかったであろう」と言って涙を流されたのです(ルカ19:41-44)。後に、イエス様の危惧(きぐ)は現実となるのです。西暦70年、強大なローマ軍はエルサレムと神殿を完全に破壊したのです。

*エルサレム神殿はイスラエル(ユダヤ人たち)にとって「信仰のセンター」です。しかし、その役割を果たしたことはほとんどなかったのです。イエス様は神殿政治の腐敗をこれまでのように言葉だけではなく実力行使によって非難されたのです。何世紀にもわたって、イエス様の過激な行動は純粋にユダヤ人たちの不信仰を告発する行為として語られ、神殿礼拝の商業化や形式的な捧げ物によって罪の赦しを得ようとする巡礼者たちの偽善性への批判として理解されて来たのです。いずれも、信仰の観点から評価されているのです。本質的な問題への言及を欠いているのです。エルサレム神殿は単なる「信仰のセンター」ではないのです。イスラエルの社会・政治・経済を支配する統治機関なのです。司法、立法、行政を管轄(かんかつ)しているのです。権力の中枢(ちゅうすう)を担う最高機関(サンヘドリン)があるのです。イエス様はここで大祭司による裁判を受けられたのです(マルコ14:53-65)。議員、長老、律法学者たちからなる議会が招集され、ペトロとヨハネは取り調べを受けたのです(使徒言行録4:5-18)。「中央銀行」として経済活動をコントロールし、莫大な富を保管する金庫の役割を果たしているのです。ここから、生活に直結する布告や命令が出されているのです。指導者たちは民衆を犠牲にしてローマのために働いているのです。「神様の名」によって圧政と搾取を正当化し、私腹をも肥やしているのです。エルサレム神殿は神聖を装(よそお)うのです。内側は偽善と放縦に満ちているのです。神様は厳しく罰せられるのです。

*イエス様は「神の国」の到来を福音として宣教されたのです。権力者たちには堂々と対峙(たいじ)されたのです。ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て「ヘロデ(ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパス)があなたを殺そうとしています」と警告したのです。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい」と言われたのです(ルカ13:32)。武力でローマ帝国に抵抗する熱心党(ゼーロータイ)が用いたあだ名(狐)によってヘロデに挑戦されたのです。エルサレムにおいては指導者たちの偽善と不正を公然と非難されたのです。「神様の罰」を恐れて声を上げられなかった「民衆の怒り」を代弁されたのです。神殿政治の告発は「神様の御心」に沿うことであり、「民衆の権利」であることを教えられたのです。民衆の多くはイエス様の教えと行動を支持したのです。一方、指導者たちは激しく反発したのです。民衆の熱烈な歓迎ムードが政治の不安定要因になることを鋭く感じ取ったのです。大祭司カイアファは最高法院を召集したのです。祭司長たちやファリサイ派の人々は状況を分析して「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」と結論づけたのです(ヨハネ11:48)。指導者たちはローマの介入を招き、ユダヤ人の自治権がこれ以上奪われることを危惧したのです。その後、民衆は悔い改めて「神の国」を受け入れる人々とイエス様の処刑に賛成する人々とに分かれて行くのです。

2026年03月01日

「思い出しなさい」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書18章15節から35節

「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟(教会のメンバー)がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国(神の国)は次のようにたとえられる。ある王が、家来(奴隷)たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐(あわ)れに思って、彼を赦(ゆる)し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間(同僚の奴隷)に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を(拷問をするために)牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟(あるいは姉妹)を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

(注)

・家来:日本語訳はたとえ話の意味を曖昧(あいまい)にするのです。「奴隷」と訳さなければなりません。物語は「王と家来」ではなく「王と奴隷」の関係として語られているのです。

・牢役人(ろうやくにん)に引き渡した:単に引き渡されたのではないのです。日本語訳では「拷問(ごうもん)をするために」という言葉が省略されているのです。赦さない人には厳しい罰が待っているのです。

・一万タラントン:1タラントンは平均的労働者の15年分以上の賃金に相当します。それの一万倍です。想像できないほどの金額なのです。

・百デナリオン:1デナリオンは平均的労働者の一日分の賃金です。


・赦し:この言葉には「解放する」という意味があるのです。

・天の国(神の国):死後に行く天国のことではないのです。この世の真っ只(ただ)中にあって、神様が神様として真に崇(あが)められることです。キリスト信仰とはイエス様によって具体化された「天の国」-神様の支配-を福音(良い知らせ)として信じることです。そして「神の国」の建設に参画することなのです。

・主の祈り:イエス様が弟子たちと群衆に教えられた祈り(山上の説教から)。

■・・だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧(かて)を今日与えてください。わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭(あ)わせず、/悪い者から救ってください。』もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。(マタイ6:9-14)

・神様の御心:

■寡婦(かふ)や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなた(たち)が彼(ら)を苦しめ、彼(ら)がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる。もし、あなた(たち)がわたしの民、あなた(たち)と共にいる貧しい者(たち)に金を貸す場合は、彼(ら)に対して高利貸し(債権者)のようになってはならない。彼(ら)から利子を取ってはならない。もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆(おお)う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。(出エジプト記22:21-26)

■あなた(がた)は隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。・・心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば(あなたがたが)彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。(レビ記19:13-18)


■七年目ごとに負債を免除しなさい。負債免除のしかたは次のとおりである。だれでも隣人に貸した者は皆、負債を免除しなければならない。同胞である隣人から取り立ててはならない。主が負債の免除の布告をされたからである。・・『七年目の負債免除の年が近づいた』と、よこしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい。その同胞があなたを主に訴えるならば、あなたは罪に問われよう(罰を受ける)。彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなた(たち)に命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者(たち)に手を大きく開きなさい。(申命記15:1-11)

■主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者(人々)を虐げる者(たち)の手から救え。寄留の外国人(たち)、孤児(たち)、寡婦(たち)を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人(たち)の血を流してはならない。(エレミヤ書22:3)

■もし、ある人が正しく、正義と恵みの業を行うなら、すなわち、山の上で偶像の供え物を食べず、イスラエルの家の偶像を仰ぎ見ず、隣人の妻を犯さず、生理中の女性に近づかず、人を抑圧せず、負債者の質物を返し、力ずくで奪わず、飢えた者(人々)に自分のパンを与え、裸の者(たち)に衣服を着せ、利息を天引きして金を貸さず、高利を取らず、不正から手を引き、人と人との間を真実に裁き、わたしの掟に従って歩み、わたしの裁きを忠実に守るなら、彼こそ正しい人で、彼は必ず生きる、と主なる神は言われる。(エゼキエル書18:5-9)

・ユダヤ戦争:ユダヤ人たちがローマ帝国の支配を打ち砕くために蜂起した闘いのことです(西暦66-70年)。ユダヤ人歴史家ヨセフスの「ユダヤ戦記」に詳しく書かれています。

(メッセージの要旨)

*「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。ここに「福音の真理」があるのです。わたしたちは多くの罪を赦されているのです。ところが、いつの間にか自分を信仰心の篤い人間の範疇(はんちゅう)に入れているのです。罪を犯したことがなかったかのように振舞っているのです。罪人の赦しを七回までに制限し、教会から追放することも容認しているのです。イエス様は見せかけの信仰心を誇る律法学者たち(ファリサイ派の人々)に厳しい天罰を宣告されたのです(マルコ12:38-40)。「いったいだれが、天の国で一番偉いのでしょうか」と質問する弟子たちに「心を入れ替えなければ天の国に入ることは出来ない」と明言されたのです(マタイ18:1-5)。信仰の傲慢は死に至る病なのです。徴税人たちは罪人として軽蔑され、社会から排斥されていました。しかし、神様は「罪人のわたしを憐れんで下さい」と祈った徴税人を「正しい人」として認められたのです(ルカ18:9-14)。罪人であることを自覚し、悔い改めを経験した人の言葉に説得力があるのです。謙虚さと同じ目線が相手に伝わるからです。ペトロの質問は兄弟(姉妹)を心情的に赦すことだけではないのです。債権を放棄することなのです。多額の負債を帳消しにしてもらった人は自分に負債のある人の返済義務を免除するのです。ペトロは自分の経験を思い出すべきです。「七の七十倍」によって赦されたのです。イエス様は不可能に見えることを可能にされるお方なのです。

*罪を犯した兄弟(姉妹)には配慮するのです。最初は二人だけのところで罪を指摘するのです。次に、一人または二人に加わってもらい悔い改めを促(うなが)すのです。聞き入れなければ教会の指導を仰ぐのです。それでも拒否するなら神様を知らない異邦人か徴税人のように見なして対応するのです。忠告する人(人々)と悔い改めを必要とする人が登場します。前者は二組に分けられるのです。自分を忠告するに相応しい人物として評価している人と自分も罪人の一人であることを認識している人です。イエス様のご指示に対する受け取り方は異なるのです。信仰に自信がある人は忠告に耳を傾けない罪人に罰を与えるのです。教会から追放することが容認されたものとして解釈するのです。一方、裁く資格がないことを自覚している人は罪人に憐れみ深いのです。忍耐して「福音の真理」について原点から教えることとして理解したのです。イエス様は兄弟が犯した罪の詳細について述べておられないのです。たとえ話から借金の返済に関係しているように推測されるのです。一定の手続き(七回)を終えた後に「救い」への道が閉ざされているのです。教会の不寛容と怠惰(たいだ)を非難されているのです。二人または三人が心を一つにして兄弟(姉妹)の「救い」を願うなら、イエス様が悔い改めへと導かれるのです。かつてご自身の死と復活を否定するペトロに「サタン、引き下がれ」と叱責(しっせき)されたのです(マタイ16:23)。後に、ペトロは立ち直って初代教会のリーダーになったのです。「神様の御心」を読み違えてはならないのです。

*たとえ話を理解するためには当時の社会的背景を知ることが不可欠です。ローマは税に関する不平の申し立てを一切拒否したのです。総督ポンティオ・ピラトなどは権力を笠に着てユダヤ人たちに貢物を献上させたのです。ユダヤ人の多くが窮乏生活に喘(あえ)いでいました。その中心に農民たちがいたのです。ローマの重税によって綱渡りの生活を強いられていたのです。その日の糧(かて)を確保するために奔走(ほんそう)したのです(マタイ6:25)。生きるために翌年の作付けに必要な種子までも食料にしたのです。民衆を苦しめたのは税金だけではないのです。負債(借金)でした。農民の多くは税金を支払うために、農業を継続するために金持ちたちから借金をしたのです。このパターンを毎年繰り返したのです。それ以外に選択肢はなかったからです。負債は累積したのです。返済期日は必ず来るのです。返済不能に陥(おちい)る人も少なくなかったのです。農民たちに過酷(かこく)な現実が待っているのです。金貸しには債権の回収のために債務者や家族を奴隷として売ることが許されていたのです。負債が比較的少額の場合は長男を奴隷として売らせたのです。男性の労働力には高い値が付いたのです。一家は借金から解放されたのです。債務者の中には奴隷になることを不名誉に思う人、牢役人に虐待(ぎゃくたい)されることに慄(おのの)いた人もいたのです。絶望した人は生きることよりも死を選んだのです、神様は富に執着する金持ちを罰せられるのです。通常よりも早く命を取り上げられた人もいたのです(ルカ12:13-21)。

*「ユダヤ戦争」における反乱軍には重要な戦略があったのです。その一つがエルサレム神殿に保管されている「借用証書」を発見して焼却することです。それほど借金が人々の生活を圧迫していたのです。イエス様が教えられた「主の祈り」に「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分(たち)に負い目のある人(人々)を赦しましたように」があります。「負い目」という日本語訳は問題の本質を曖昧(あいまい)にするのです。精神的な負担であるかのような誤解を与えるからです。借金あるいは負債として訳すべきなのです。「負い目」を罪と訳している個所もあるのです(ルカ11:4)。法的義務を表す言葉であり、罪という意味は本来ないのです。「天の国」-神様の支配-に属する人々は「主の祈り」を祈り、それを実行するのです。イエス様は福音を抽象的に語られなかったのです。民衆の生活を脅かしている深刻な経済状況に言及されたのです。一万タラントンという途方もない借金を免除されたのです。同じ人が百デナリオンの債務の返済を迫っているのです。人間の本性(罪深さ)がよく表れているのです。この人は「神様の恵み」を失い、厳しく罰せられたのです。貧しいラザロは金持ちの門前に横たわり、食卓から落ちる物で空腹を満たしたいと思うほどに飢(う)えていたのです。金持ちは援助の手を差し伸べなかったのです。死後、金持は陰府(よみ)で苦しみ、ラザロは憐れみを受けて父祖アブラハムと共にいるのです(ルカ16:19-31)。貧しい人々への関心の有無(うむ)は人の「救い」を左右するのです。

*イエス様はたとえ話によってペトロの信仰理解における問題点を指摘されたのです。「天の国」の及ぶ範囲が人間によって制限されているからです。「神様の御心」が軽んじられているのです。人々に警鐘(けいしょう)を鳴らしておられるのです。人は意識的に、あるいは無意識的に様々な罪を犯しているのです。イエス様は「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量(はか)る秤(はかり)で量り与えられる」と言われたのです(マタイ7:1-2)。ペトロは人が犯した罪に目を向けるのです。罪の背後にある重荷には関心を寄せていないのです。王は奴隷の窮状を憐れんだのです。借金の全額を免除したのです。弟子たちも借金のある人を債務から解放するのです。選択の問題ではないのです。キリスト信仰を標榜(ひょうぼう)する人々の義務なのです。「永遠の命」に与(あずか)るための必須の要件なのです。人は信仰によって「救い」を得るのです。ただ、善い行い-憐れみ(赦し)-を伴わない信仰は役に立たないのです(ヤコブ書2:17)。ペトロは高い所から他の人の「罪の赦し」について論じているのです。自分が犯した大きな罪(不信仰)のことは忘れているのです。今日においても同じことが言えるのです。最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実践しない人は「天の国」に入れないのです。「良い知らせ」がすべての人(罪人)に届けられているのです。罪を犯した人が再び生かされるのです。寛大な人々は憐れみと祝福を受けるのです。過去を振り返るのです。

2026年02月22日

「まことのぶどうの木」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書15章1節から17節

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝(複数)である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕(奴隷)とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

(注)

・わたしはまことのぶどうの木:イエス様はこの他にも六回「わたしは・・である」と言われました。
 
●「命のパン」(ヨハネ6:35)
「世の光」(ヨハネ8:12)
「門」(ヨハネ10:9)
「良い羊飼い」(ヨハネ10:11)
「復活であり、命」(ヨハネ11:25)
「道であり、真理であり、命」(ヨハネ14:6)

・ぶどうの木:イスラエルのことです。栽培者は神様です。良い実を結ばない木は焼き払われ、捨てられるのです。

■あなたはぶどうの木をエジプトから移し/多くの民を追い出して、これを植えられました。そのために場所を整え、根付かせ/この木は地に広がりました。その陰は山々を覆い/枝は神々しい杉をも覆いました。あなたは大枝を海にまで/若枝を大河にまで届かせられました。なぜ、あなたはその石垣を破られたのですか。通りかかる人は皆、摘(つ)み取って行きます。森の猪(いのしし)がこれを荒らし/野の獣が食い荒らしています。万軍の神よ、立ち帰ってください。天から目を注いで御覧ください。このぶどうの木を顧みてください あなたが右の御手で植えられた株を/御自分のために強くされた子を。それを切り、火に焼く者らは/御前に咎(とが)めを受けて滅ぼされますように(詩篇80:9-17)。

■わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに/なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。さあ、お前たちに告げよう/わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ/石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず/耕されることもなく/茨やおどろ(とげのある植物)が生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる(イザヤ書5:4-6)。

■主なる神の言葉がわたし(預言者エゼキエル)に臨んだ。「人の子よ、ぶどうの木は森の木々の中で、枝のあるどの木よりもすぐれているであろうか。ぶどうの木から、何か役に立つものを作るための木材がとれるだろうか。それで、何かの器物を掛ける釘を作ることができるだろうか。それが火に投げ込まれると、火はその両端を焼き、真ん中も焦がされてしまう。それでも何かの役に立つだろうか。完全なときでさえ何も作れないのに、まして火に焼かれて焦げてしまったら、もはや何の役にも立たないではないか。それゆえ、主なる神はこう言われる。わたしが薪(まき)として火に投げ込んだ、森の木の中のぶどうの木のように、わたしはエルサレムの住民を火に投げ入れる。わたしは顔を彼らに向ける。彼らが火から逃れても、火は彼らを食い尽くす。わたしが顔を彼らに向けるとき、彼らはわたしが主なる神であることを知るようになる。わたしはこの地を荒廃させる。彼らがわたしに不信を重ねたからである」と主なる神は言われる。(エゼキエル書15:1-8)

■イスラエルは伸びほうだいのぶどうの木。実もそれに等しい。実を結ぶにつれて、祭壇を増し/国が豊かになるにつれて、聖なる柱を飾(かざ)り立てた。彼らの偽(いつわ)る心は、今や罰せられる。主は彼らの祭壇を打ち砕き/聖なる柱を倒される。(ホセア書10:1-2)

・初代教会における信者たちの生活:

■信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。(使徒言行録2:44-47)


・豊かな実:「最後の審判」の判断基準にもなっています。

■人の子(イエス様)は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国(天の国=神様の支配)を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢(ろう)にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者(たち)の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイ25:31-40)。

(メッセージの要旨)

*イエス様はご自身を「命のパン」、「世の光」、「羊の門」、「良い羊飼い」などに譬(たと)えられました。「神の国」の福音宣教においてはファリサイ派の人々や律法学者たちのように難しい専門用語(神学理論)を使われませんでした。教育の機会に恵まれなかった貧しい人々-農民や漁師など-が内容を容易に理解出来るように配慮し、日常生活に生起する出来事や身近な物に譬えて語られたのです。神様とイスラエルとの関係に言及される時は預言者たちの言葉-栽培者とぶどうの木や万軍の主のぶどう畑-を引用されたのです。「ぶどう園と農夫」のたとえ話において、神殿政治を担(にな)う人々(指導者たち)の不信仰と腐敗を厳しく批判されたのです(マルコ12:1-11)。聖書は旧約聖書を土台とする壮大な建築物です。神様はヘブライ人たち(イスラエル民族)を選び契約(旧約)を結ばれたのです。そして「わたしを愛し、わたしの戒め(律法)を守る者(たち)には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」と約束されたのです(出エジプト記20:6)。イスラエルは神様が植えられた「ぶどうの木」なのです。ところが、豊かな実を結ぶことはほとんどなかったのです。神様が遣わされた預言者たちの警告を無視し、反抗を繰り返したのです。神様はそのたびにイスラエルの民を懲(こ)らしめられたのです。しかし、見捨てられることはなかったのです。終わりの日に先立って、地上に「まことのぶどうの木」を植えられたのです。新しい契約の時代が到来しているのです。イエス様につながって良い実を結び、「永遠の命」に与るのです。

*イスラエル民族(ユダヤ人たち)は期待されたぶどうの木としての使命を果たさなかったのです。神様は新しい天地創造を決断されたのです。「しるし」として新しいぶどうの木を植えられたのです。ご自身の御子を遣わされたのです。イエス様もまた「わたしは神の子である」と公言されたのです(ヨハネ10:36)。ユダヤ人たちは神様のぶどう園で育てられていたぶどうの木々ではなくなったのです。神様のぶどう園には「一本のぶどうの木」があるだけなのです。この「まことのぶどうの木」につながって成長する一本一本の枝となったのです。ユダヤ人としての特権的地位が「救い」の保証ではなくなったのです。豊かな実を結ぶこと-互いに愛し合うこと-が「永遠の命」を得るための絶対的要件となったのです。キリストの信徒(クリスチャン)は「キリストに忠実な者」に由来する呼び名です(使徒言行録11:23-26)。キリスト信仰はイエス様を「神の子」あるいは「救い主」として信じることで完結しないのです。イエス様のご生涯に倣(なら)う生き方のことなのです。イエス様が宣教された「神の国」はこの世と調和しないのです。神様は正義を重んじ、慈愛に満ちたお方です(創世記18:19-32)。イエス様は「神様の御心」を実現しようとされたのです。豊かな実を結ぼうとすれば対立が生まれるのです。争いを避けることには正当性があるように見えるのです。しかし、問題点を曖昧(あいまい)にするのです。結果、真の解決を遅らせているのです。神様はそれぞれの枝が豊かな実を結んでいるかどうかをご覧になられるのです。

*神様への応答は個人的ではなく、信仰共同体として行われたのです。ユダヤ教を理解するためにはこの視点が極めて重要です。イエス様は「わたしはまことのぶどうの木。あなたがたはわたしにつながる枝である」と言われました。一本一本の枝が木にしっかりとつながっていることは大切です。一方、つながった枝が全体として豊かな実を結ぶことが求められているのです。イエス様のご命令―互いに愛しなさい-は信仰共同体としての信仰のあり方なのです。ところが、今日、イエス様の教えが変容されているのです。ぶどうの木と枝の個々の関係に重点が置かれているのです。キリスト信仰における個人主義が主流となっているのです。イエス様のお言葉が「精神的な愛の勧め」として解釈されているのです。使徒言行録には初代教会の様子が詳細に記述されています。イエス様の母マリアを含めて信徒の数は120人位でした。信徒たちは日々熱心に祈っていました(1:14-15)。「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。・・信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。・・キプロス島生まれのヨセフ(バルナバ)も、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた」のです(4:32-37)。イエス様のお言葉を語るだけでなく、実践してその正しさを証明したのです。人々の共感を得たのです。

*「わたしはまことのぶどうの木」にはもう一つの意味があるのです。それは祭司たちへの厳しい批判となっていることです。イスラエルの歴史の中で受け継がれて来た重要な制度-信仰の基本となる祭司制度-の終焉(しゅうえん)が告げられたのです。祭司たちは特権的地位によって、一般民衆とは比較にならない高収入を得ていたのです。祭司の家系に属している歴史家ヨセフスは自伝(ヨセフスの生涯)の中で同僚の祭司たちが膨大(ぼうだい)な富を蓄積していたことを伝えています。知識と教養を駆使(くし)して、人々の信仰生活を支配するだけでなく、社会・経済・政治の方向性にも影響を与えているのです。これらの人はこの世に執着し、民衆の窮乏化に加担しているのです。神様は祭司たちから仲介者としての職務を取り上げ、イエス様をその任に据(す)えられたのです。イエス様は「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」と言われました。ご自身への信仰によって罪が清められることを明言されたのです。エルサレム神殿に巡礼して献金や捧げ物をすることや神様に近づくために大祭司の執(と)り成しは不要となったのです。神殿政治を担う指導者たちの権威が根底から否定されたのです。イエス様が「まことのぶどうの木」であるならば、大祭司に代表される祭司たち、ファリサイ派の人々、律法学者たちは「偽のぶどうの木々」なのです。イエス様はこれらの人を偽善者たちと呼ばれたのです。天罰を宣告されたのです(マタイ23章)。キリスト信仰とはまことのぶどうの木から教えを受け、共に歩むことなのです。

*ヨハネの福音書は「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった(父なる神に向かっていた)。言は神(父を啓示するもの)であった。・・」で始まります。哲学的、抽象的な表現が用いられているのです。その他にもイエス様の神性を「御子の権威」などの神学的な用語によって説明しているのです。内容を理解するためには忍耐と努力を要するのです。しかし、文章や言葉にはキリスト信仰の根本理念が要約されているのです。神様はご自身のお考えを伝えるためにイエス様をこの世に遣わされたのです。イエス様を通して語られたのです(5:10-30)。イエス様のご生涯は「神様の御心」を証しするために捧げられたのです。祭司たちが仲介者となってイスラエルの民を導くというこれまでの関係が変更されたのです。イエス様が「ぶどうの木」として各枝に栄養を注がれるのです。ご自身につながっている人々を祭司たちの仲介がなくても神様に近づく道を備えられたのです。祭司たちに苦しめられていた貧しい人々や虐げられた人々に福音(良い知らせ)が訪れたのです。キリスト信仰は「罪の赦し」をもたらすだけではないのです。生涯の使命として「神様と隣人への愛」を課しているのです。キリストの信徒たちには豊かな実を結ぶことが求められているのです。イエス様のお言葉を真剣に受け止めるのです。安易な信仰理解を戒めるのです(ルカ9:57-62)。覚悟と行いを伴わない信仰はそれだけでは死んでいるのです(ヤコブ書2:17)。初代教会の人々が模範を示しているのです。豊かな実によって「神の国」を証しするのです。

2026年02月15日

「求められているもの」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書12章1節から14節


そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘(つ)んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。」


イエスはそこを去って、(ファリサイ派の)会堂にお入りになった。すると、片手の萎(な)えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。

(注)

・安息日の規定:十戒(じっかい)から

■安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである(出エジプト記20:8-11)。

・麦の穂を摘むこと:隣人の麦畑から麦の穂を摘むことは許されています。しかし、そのことが「安息日」に可能かどうかについての規定はないのです。

■隣人の麦畑の中に入ったなら、手で穂を摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑で鎌を使ってはならない(申命記23:26)。

・ファリサイ派の人々:ユダヤ教の一派です。律法(言い伝え)を生活のすべてにおいて厳格に適用したのです。しかし、心の中は不信仰と貪欲に満ちていたのです。イエス様はこれらの人を偽善者たちと呼ばれたのです。

・ダビデの行動:イエス様は旧約聖書を機会あるごとに引用されています。

■ダビデは、ノブの祭司アヒメレクのところに行った。ダビデを不安げに迎えたアヒメレクは、彼に尋ねた。「なぜ、一人なのですか、供はいないのですか。」ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王(サウル)はわたしに一つの事を命じて、『お前を遣わす目的、お前に命じる事を、だれにも気づかれるな』と言われたのです。従者たちには、ある場所で落ち合うよう言いつけてあります。それよりも、何か、パン五個でも手もとにありませんか。ほかに何かあるなら、いただけますか。」祭司はダビデに答えた。「手もとに普通のパンはありません。聖別されたパンならあります。従者が女を遠ざけているなら差し上げます。」ダビデは祭司に答えて言った。「いつものことですが、わたしが出陣するときには女を遠ざけています。従者たちは身を清めています。常の遠征でもそうですから、まして今日は、身を清めています。」普通のパンがなかったので、祭司は聖別されたパンをダビデに与えた。パンを供え替える日で、焼きたてのパンに替えて主の御前から取り下げた、供えのパンしかなかった。(サムエル記上21:2-7)

●ノブ:祭司の町と呼ばれています。

●祭司アヒメレク:有名な祭司エリの曽孫です。ノブで祭司長を務めていました。ダビデにパン(と剣)を与え、サウル王の前でダビデを弁護したのです。王の命を受けたエドム人ドエグによって殺害されたのです。サムエル記上22章をお読み下さい。

●供えのパン:神殿に供えられた12の聖別されたパンは毎週取り替えられました。レビ記24:5-9を参照して下さい。

・祭司は安息日を破ってもよい:直接的には祭司が安息日に祭式を執り行っていることを表しています。

・神殿よりも偉大なもの:「イエス様」あるいは「神の国」-神様の支配-を指しています。


・人の子:この呼称には三つの意味があります。第一は預言者です(エゼキエル書2:1-3)。第二は天の雲に乗って現れる終わりの時の審判者です(ダニエル書7:13-14)。他に「わたしとわたしの言葉を恥じる者(たち)は、人の子も自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときにその者(たち)を恥じる」(ルカ9:26)、「神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(ルカ18:8)などがあります。第三はこの世の人間を表しているのです(ルカ9:58)。

・わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない:

ホセア書「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない」(6:6)からの引用です。マタイ9:13にも記述されています。後にユダヤ教の教えにおいても、命に関わる緊急性がある場合は律法の規定に従わなくても良いことになったのです。

(メッセージの要旨)

*ユダヤ人の生活の基本となるのが「十戒」です。安息日の順守はその一つです。安息日には仕事を休むだけでなく、様々な規定(613項目)によって行動が制限されていたのです。「刈り取り作業」や「癒しの業」なども含まれていました。民衆はその日の行動について「許されること」、「許されないこと」を厳密に判断しなければならなかったのです。迷った場合には律法の専門家たちに助言を求めたのです。弟子たちは安息日に麦の穂を摘(つ)んで食べたのです。イエス様も安息日に片手の萎(な)えた人を癒されたのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちはユダヤ教の律法や慣習を公然と無視し、自分たちの権威を貶(おとし)めるイエス様と激しく対立したのです。特権的地位を守り、民衆の支持を得るために画策したのです。最終的にはイエス様を抹殺しようとするのです。イエス様はご自身が「安息日の主」であることを公言されたのです。安息日が制定された意味を明確にするために「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と言われたのです(マルコ2:27)。「神様の愛」は律法に貫(つらぬ)かれているのです。憐(あわ)れみを欠いた解釈は「神様の御心」に反しているのです。祭司アヒメレクはダビデと部下たちの窮状(きゅうじょう)を考慮したのです。聖別されたパンであっても与えたのです。イエス様も困難に直面している人々や苦難に喘(あえ)ぐ人々から重荷を取り除かれたのです。キリストの信徒たちに律法主義が見られるのです。求められているものは知的信仰ではなく、隣人愛なのです。

*弟子たちが空腹のために麦の穂を摘んだ日は安息日です。イエス様が片手の萎えた人を癒された日も安息日です。安息日を巡(めぐ)ってイエス様とユダヤ教の指導者たちとの間に激しい神学論争が起こっているのです。論点は大きく分けて二つあります。一つは律法の解釈です。もう一つは信仰と行いの不一致です。律法には安息日の順守が定められているのです。しかし、弟子たちだけでなく、イエス様もその規定を守られなかったのです。イエス様はその理由を説明されたのです。動物を災難から救出するために(経済的損失を避けるために)例外規定が設けられているのです(申命記22:4)。イエス様はご自身の権威によって安息日を定義し、憐れみは安息日の趣旨に沿っていると言われるのです(レビ記19:18)。ファリサイ派の人々はそれを認めないのです。イエス様はこれらの人のダブルスタンダード(偽善)を激しく非難されたのです。別の聖書の個所でも同様の事例が挙げられています。ある会堂に十八年間もサタンに縛られ、腰が曲がったまま伸ばすことができない女性がいたのです。イエス様はこの人に「婦人よ、病気は治った」と言って、手を置かれたのです。直ちに腰がまっすぐになったのです。女性は神様を賛美したのです。ところが、会堂長は腹を立て「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」と言ったのです。イエス様は「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか」と言って、反論されたのです(ルカ13:10-14)。

*創世記から始まる旧約聖書はイスラエルの父祖たちの信仰の歴史を詳細に記述しています。新約聖書にも紹介されています。アベル、エノク、ノア、アブラハムなどの信仰を取り上げて「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」と書かれています(へブル書11:1-2)。これらの人は神様に喜ばれる行いによって信仰を証ししたのです。一方、出エジプト記にはヘブライ人たちがエジプトの王ファラオの圧政から逃れた経緯と信仰の変遷(へんせん)が記録されています。旧約聖書の視点が個人的な信仰のあり方から集団的な民族の導きへ移って行くのです。エジプト脱出には抑圧と搾取の下に労苦する人々を解放するという神様の強いご意志が表れているのです。神様はモーセを召命して「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しさをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降ってゆき、エジプト人の手から救い出し・・彼らを乳と蜜(みつ)の流れる土地・・へ導き上る」と言われたのです(出エジプト記3:7-8)。神様が心を動かされた理由は人々の篤い信仰心ではなく、彼らの悲惨な現状に対する深い憐れみによるものだったのです。エジプト王の執拗(しつよう)な妨害を退け、シナイ山に導かれたのです。お与になったものが「十戒」と律法だったのです。「永遠の命」が得られるように判断基準を示されたのです。神様のご指示に従い、イスラエルの民は毎年「過越祭」をお祝いしているのです。


*神様はカナンの地に住むご自身の民を異教の神々から守るために第一の戒めとして「あなた(がた)には、わたしをおいてほかに神があってはならない」と命じられたのです(出エジプト記20:9)。「寄留者を虐待(ぎゃくたい)したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦(かふ)や孤児はすべて苦しめてはならない。・・貧しい者(たち)に金を貸す場合は、彼(ら)に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない。・・隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない」と言われたのです(出エジプト記22:20-26)。ところが、イスラエルの民は金の子牛を鋳造(ちゅうぞう)したのです。その偶像を礼拝したのです。権力者たちは賄賂(わいろ)を取って裁判をし/祭司たちは代価を取って教え/預言者たちは金を取って託宣(たくせん)を告げているのです(ミカ書3:11)。これらの人は預言者ホセアの言葉にも耳を傾けないのです。地位を用いて民衆を搾取(さくしゅ)しているのです。律法や慣習を都合よく解釈して精神的にも支配しているのです。神様は「憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者」と言われるのです(出エジプト記34:6-7)。その後も反抗する民を厳しく罰せられたのです。悔い改めた人々には愛を示されたのです。忍耐して導いておられるのです。


*神様は寄留者たち、寡婦や孤児たち、貧しい人々、虐げられた人々の叫び声を聞かれるのです。ご自身がこれらの人を苦しめる権力者たちに報復されるのです(ルカ18:7)。悪人たちにも善人たちにも太陽を昇らせ、正しい者たちにも正しくない者たちにも雨を降らせられるのです(マタイ5:45)。神様は「救いのご計画」を実現するために、終の日に先立ってイエス様をこの世に遣わされたのです。イエス様は「わたしと父(神様)とは一つである」と言われたのです(ヨハネ10:30)。イエス様の教えと力ある業には「神様の御心」が現われているのです。神様は一貫して罪人たちを愛しておられるのです。正しい人々ではなく罪人たちを優先的に「神の国」(天の国)に招いておられるのです(マルコ2:17)。これが福音(良い知らせ)なのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちは律法に精通しているのです。ただ、律法の精神を理解していないのです。キリストの信徒たちの中に教条主義に陥(おちい)っている人もいるのです。イエス様は旧約聖書に言及して「わたしについて証しするもの」(ヨハネ5:39)、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言われたのです(マタイ5:17)。律法はモーセを通して与えられたのです。恵みと真理はイエス様によって現わされたのです(ヨハネ1:17)。求められているものは御心に適(かな)った生き方なのです。イエス様はそれを示されたのです。イエス様に倣(なら)い憐れみ深い信徒となるのです。

2026年02月08日
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