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洗礼者ヨハネが捕らえられた後、イエス様はガリラヤ地方へ行き、福音(良い知らせ)を宣べ伝えて「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたのです(マルコ1:14-15)。イエス様は復活された後も、使徒たちに「神の国」について話されたのです(使徒1:3)。キリスト信仰の中心メッセージは「神の国」-神様の支配-にあるのです。

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「神の国の到来」

Bible Reading (聖書の個所)マルコ福音書1章1節から15節

神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書(40:3)にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。


(注)


・洗礼者ヨハネの宣教:


■・・斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。(ルカ3:9-14)

・野獣と一緒におられた:意味は不明です。神様が新しく創造される天と地における様子がイメージされているのかも知れません。イザヤ書65:17-25をお読み下さい。


・十戒(じっかい): 神様がモーセを通してイスラエルの民に命じられた最も重要な戒めです。


■わたしは主、あなた(たち)の神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。・・わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否(いな)む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。・・あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。殺してはならない。姦淫(かんいん)してはならない。盗んではならない。隣人に関して偽証してはならない。隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。(出エジプト記20:1-17)


・隣人愛:


■穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘(つ)み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは盗んではならない。うそをついてはならない。互いに欺いてはならない。わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。あなたは隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。民の間で中傷をしたり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。わたしは主である。心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。(レビ記9:9-18)

■イスラエルよ。今、あなた(たち)の神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。主はあなたの先祖に心引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった。心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない。あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。(申命記10:12-19)

・神の国(天の国):神様の主権、あるいは神様による支配のことです。死後に行く「天国」のことではありません。キリスト信仰における福音の原点です。福音書記者マタイは「天の国」と表現しています。畏(おそ)れ多い言葉「神」を用いなかったのです。イエス様は「神の国」の宣教に生涯を捧げられました。既得権益に執着する権力者たちは「神の国」を受け入れることが出来ずに、イエス様を十字架上で処刑したのです。ところが、神様はイエス様を復活させられたのです。イエス様は復活された後も天に帰られるまでの間、弟子たちに「神の国」について教えられたのです(使徒1:3)。

・キング牧師:黒人の公民権運動の先頭に立ち、ノーベル平和賞を受賞したキング牧師はアメリカのジョージア州アトランタにあるエビニーザー・バプティスト教会の牧師の家に生まれました。イエス様の愛は社会正義と切り離すことが出来ないという確信の下に福音宣教と黒人の地位向上に39年の短い生涯を捧げたのです。功績を称えて1月の第三月曜日は祭日です。I HAVE A DREAM(私には夢がある)の演説が有名です。他にもあります。

“The ultimate tragedy is not the oppression and cruelty by the bad people but the silence over that by the good people.”

-究極の悲劇は悪人による抑圧や残酷さではなく、善人がそれらに沈黙していることです。-(私訳)

(メッセージの要旨)


*ユダヤの荒れ野でイエス様の先駆けとして、洗礼者ヨハネが「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言って宣教を開始しました(マタイ3:2)。罪を告白した人々に洗礼を授け、悔い改めに相応しい実を結ぶこと-善い行いをすること-を命じたのです。ヨハネは権力者に対しても一切妥協しなかったのです。ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパス(紀元前四年に亡くなった悪名高いヘロデ大王の三人の息子の一人)の結婚が律法違反であることに言及し、公然と非難したのです(マタイ14:3-5)。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、・・その方(イエス様)は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授(ざず)けになる。・・手に箕(み)を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」と言って、安易な信仰理解に警告しているのです(マタイ3:11-12)。一方、イエス様はヨハネを「預言者以上の者」、「女から生まれた者の中で最も偉大な人物」(ルカ7:26-28)、「燃えて輝くともし火」(ヨハネ5:35)と称賛されたのです。イエス様のイメージが誤って伝えられているのです。柔和で穏やかなお方ではないのです。「神の国」の福音を妨げる人々には厳しく対峙されたのです(マルコ11:15-18)。ヨハネが捕らえられたことを聞き、危険を承知でガリラヤへ向かわれたのです。およそ30歳の時に宣教を開始されたのです。しかし、イエス様は政治犯として十字架上で処刑されるのです。ところが、復活されたのです。天に帰られるまで「神の国」を語られたのです。


*旧約聖書はイスラエルの民の偶像崇拝と律法軽視-罪の歴史-を伝えているのです。神様はご自身のお考え明確にされたのです。モーセの十戒を通して異教の神々が支配するカナンの地(現在のイスラエル、レバノン、ヨルダン等)で生き抜くための「原点」を教えられたのです。十戒の冒頭に「わたしはあなたがたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。わたしをおいてほかに神があってはならない」と書かれています。神様はご自身がイスラエルの神であることを具体的な事実-エジプトの圧政からの解放-によって証明されたのです。レビ記や申命記によって先祖が経験したエジプト脱出の意味を想起させられたのです。イスラエルの民は「戒めを守ります」と言った後も、「神様の御心」に反して罪を犯し続けたのです。神様は「神の国」に属する人々が犯した罪を信仰共同体の不信仰として罰せられたのです。同時に、指導者(王)たちを起こし、預言者たちを遣わしてご自身の下へ導こうとされたのです。忍耐して人々が心から悔い改めることを待たれたのです。しかし、神様は「新たな天地創造」を決断されたのです。終わりの日に先立って、イエス様-ご自身のお言葉-を遣わされたのです。イエス様の宣教の第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」です。洗礼者ヨハネの言葉と同じです。これらの短い文言の中に福音の真理が凝縮(ぎょうしゅく)されているのです。イエス様のメッセージの核心は「神の国」にあるのです。「神の国」の到来こそ良い知らせなのです。悔い改めて福音を信じるのです。


*イエス様の時代のユダヤ人たちも祖先の歩みを踏襲(とうしゅう)するのです。神殿政治を担う指導者たちは腐敗し、神殿は強盗の巣と化しているのです(ルカ19:46)。神様は主権を地上の隅々に確立されるのです。この世の支配者たち-悪魔や権力者たち-に取って代わられるのです。「神の国」の到来は貧しい人々、様々な病や心身の障害に苦しむ人々にとって希望の光となったのです。「癒しの業」によって多くの人は苦難から解放された(救われた)のです。一方、イエス様は人々に「悔い改め」を求められたのです。律法に明記されている重要な戒め-神様と隣人(苦難を覚える人々)を愛すること-を実行して来たかどうかについて問われるのです(マルコ12:28-31)。それぞれの生き方における優先順位を示されたのです。「何よりもまず、神の国と神の儀(正義)を求めなさい」(マタイ6:33)、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と明言されたのです(ルカ16:13)。人々は「神の国」に招かれているのです。多くの人は信仰によって「救い」に与れると信じているのです。しかし、信仰の意味が「罪からの救い」として限定的に理解されているのです。キリスト信仰とはイエス様に従うことです。ご生涯に倣(なら)って「神の国」の建設に参画することなのです。福音はすべての人に届けられているのです。それは「安価な恵み」ではないのです。信じた人々には果たすべき「使命」が与えられているのです。大切なものを捨てる-神様に委ねる-時が訪れるのです。キリスト信仰は「行い」を求めるのです。


*新約聖書の中に「神の国」に関する記述が多いのも当然です。キリスト信仰の根本理念だからです。しかし、「神の国」の福音が伝統や慣習、教義や神学理論によって変容されているのです。福音が個人的な「罪の赦し」として定義されているのです。ここには、人間の「全的な救い」として完成するという認識が見られないのです。果たして、キリストの信徒の多くが「神の国」の建設-正義や平和の実現―に参画することなく、「神様の恵み」に与るだけの信仰に陥っているのです。イエス様はご自身の生と死と復活によって「神の国」を証しされたのです。「神の国」の福音を種子の中で最も小さい「からし種」に譬(たと)えられたのです。種は蒔(ま)かれた時は確かに小さいのです。ところが、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になるのです(マタイ13:31-32)。「神の国」が到来すれば必然的にこの世に分裂と対立が生じるのです(ルカ12:51)。神様の正義と公平は人間が生み出した社会の機構や組織によって歪(ゆが)められているのです。少数の人が富を独占し、圧倒的多数は貧しさを強いられているのです。権力者たちが既得権益を守るために必死で抵抗するのです。「神様の御心」を軽んじる人々に厳しい裁きが下されるのです(マタイ23)。「聖書に忠実である」と言う言葉がよく聞かれます。「大切な個所」を読み飛ばしていないでしょうか。キング牧師の言葉は真に示唆(しさ)に富んでいるのです。罪を赦(ゆる)された人々が社会の罪に無関心でいることは出来ないのです。


*ファリサイ派の人々が「神の国はいつ来るのか」と尋ねたのです。イエス様は「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と答えられたのです(ルカ17:20-21)。難解な神学的表現はどこにも見られないのです。神様が崇(あが)められているところ、「神様の戒め」が実行されているところが「神の国」なのです。キリスト信仰とはイエス様の御跡を辿(たど)って生きることです。神様が命じられた最も重要な戒めを具体化することなのです。「神の国」の到来を福音として信じる人々が「神様の恵(憐み)」に感謝することは当然です。同時に、これまでの生き方を振り返って、悔い改めに相応しい良い実を結ぶのです。持っている(預かっている)資源(能力や財産など)を捧げて「神の国」の建設に充当するのです。貧しい人々や虐(しいた)げられた人々の側に立って「声なき声」を代弁するのです。キリストの信徒を自称することとイエス様の弟子であることとは同じではないのです。キリスト信仰が誤解されているのです。「信仰の名」によって中立が正当化されているのです。争いのないことが平和ではないのです。「神の国」の到来を福音として信じる人々は「神様の主権」、「神様の支配」を認めない人々の側には立たないのです。「神の国」の福音は人間のすべての分野に及ぶのです。キリスト信仰は罪を赦されて「永遠の命」に与ることで完結しないのです。イエス様のご生涯を心に刻み、「神様の御心」を実現するために全力で奉仕するのです。

2026年01月18日

「ただ、信じなさい」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書5章19節から40節


そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている(移った)。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」


「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることをわたしは知っている。あなたたちは(洗礼者)ヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。あなたたちは(旧約)聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。


(注)

・イエス様の言動は律法に違反し、神様を冒涜(ぼうとく)するものでした。律法を厳格に遵守(じゅんしゅ)する指導者たちにとって許しがたいことでした。

■・・ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなこと(癒しの業=罪の赦し)をしておられたからである。イエスは(彼らに)お答えになった。『わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。』このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。」(ヨハネ5:16-18)

・彼ら:イエス様に敵対するファリサイ派の人々や律法学者たちなどです。

・死んだ者が神の子の声を聞く・・:死んで三日も経った(死後四日目に)ラザロを蘇(よみがえ)らされた出来事が想起されます(ヨハネ11:38-44)。金持ちの家の前にいた貧しいラザロとは別人です。

・死後四日目:ユダヤ人の慣習によれば可能な限り死の当日に埋葬することが義務付けられていました。また、ユダヤ人は死者の魂が三日間体の周りを徘徊すると信じていたのです。「四日目」は人が完全に死んだことを表しています。


・人の子:この呼称には三つの意味があります。第一は預言者です(エゼキエル書2:1-3)。第二は天の雲に乗って現れる終わりの時の審判者です(ダニエル書7:13-14)。今日の聖書の個所ではイエス様は預言された人の子であることを明らかにされたのです。他に「わたしとわたしの言葉を恥じる者(たち)は、人の子も自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときにその者(たち)を恥じる」(ルカ9:26)、「神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(ルカ18:8)などがあります。第三はこの世に生きる人間を表しています(ルカ9:58)。


・預言者エリヤ:紀元前865年から850年頃まで北王国イスラエルで活動しました。異教の神バールを信仰するアハブ王と鋭く対立したのです。

・シドン:バール信仰の中心地として有名です。

・預言者イザヤ:紀元前8世紀の後半のおよそ40年間、神様の言葉を南王国ユダの四人の王-ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ-に伝えました。

・ヒゼキヤ王:紀元前715年にアッシリアの支配下にあった南王国ユダの王に就任しました。在任中はほとんどの時間を国の独立と異教の神との闘いに費やしたのです。

・センナケリブ:紀元前704年から681年までの間アッシリアを統治した王です。701年にユダに侵攻したのです。ヒゼキヤ王は預言者イザヤに対応を相談しました。主の天使がアッシリア軍を打ち破ったのです。(列王記下18-19章)

・ナイン:ナザレに近い町です。聖書地図を参照して下さい。


・陰府(よみ):元々は死者の世界を表しています。イザヤ書38:10を参照して下さい。悪事を行った人々はここで永遠の罰を受けるのです。

(メッセージの要旨)

*神様は人間の最大の関心事である生と死を完全に支配されているのです(申命記32:39)。神様がついに決断をされたのです。罪深いこの世を終わらせ「新しい天と地」を創造されるのです。その際、すべての国の民が裁きの座に立たされるのです。「永遠の命」に与る人々と「永遠の罰」を受ける人々とに分けられるのです。裁きの基準は極めて単純です。その人が神様の戒めを守り、隣人を愛したかどうかなのです。具体的な事例が幾つか挙げられています(マタイ25:31-46)。一方、イエス様による「救いの道」を開かれたのです。「これはわたしの愛する子」と言って、イエス様が「神の子」であることを明言されたのです。そして「これに聞け」と命じられたのです(マルコ9:7)。イエス様は「神様の御心」を表すお言葉なのです。神様はご自身が有する様々な権能をイエス様に委(ゆだ)ねられたのです。その事実を証明する証拠(証人)を備えて下さったのです。洗礼者ヨハネはその一人です。イエス様の先駆けとして燃えて輝くともし火となっただけでなく、イエス様を「世の罪を取り除く神の小羊」として宣言したのです(ヨハネ1:29)。次はご自身による「力ある業」です。神様が共におられなければ奇跡やしるしは起こらなかったのです。後に起こるイエス様の復活は決定的な出来事となるのです。第三は(旧約)聖書です。ユダヤ人たちは聖書の研究に力を注いだのです。しかし、イエス様に関するメッセージを学ばなかったのです。素直に信じるのです。神様はイエス様と共におられるのです。イエス様は神様と一つなのです。

*神様は天地創造の初めから「命の付与者」なのです。異教の神を信じる悪名高いアハブ王の時代、神様は預言者エリヤに地中海沿岸にあるシドンの町サレプタに行き、信仰心の篤(あつ)いやもめの家に逗留(とうりゅう)することを命じられました。ところが、彼女の息子が病気のために亡くなったのです。エリヤは主に向かって「主よ、わが神よ、あなたは、わたしが身を寄せているこのやもめにさえ災いをもたらし、その息子の命をお取りになるのですか」と訴えたのです。子供の上に三度身を重ねてから、また主に向かって「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください」と祈ったのです。主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになり、子供は生き返ったのです(列王記上17:8-24)。死の病に罹(かか)った南王国ユダの王ヒゼキヤは顔を壁に向けて祈り「ああ、主よ、わたしがまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください」と言って、大いに泣いたのです。神様は預言者イザヤに「ヒゼキヤ王のもとに戻って言いなさい。『あなたの父祖ダビデの神、主はこう言われる。わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、わたしはあなたをいやし、三日目にあなたは主の神殿に上れるだろう。わたしはあなたの寿命(じゅみょう)を十五年延ばし、アッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出す」と言われたのです(列王記下20:1-7)。南北に分裂した王国に善良な王はほとんどいなかったのです。ヒゼキヤ王の祈りは叶(かな)えられたのです。

*イエス様は「力ある業」によって「神の国」-神様の支配-を先取りして見せて下さっているのです。ある時、ユダヤ教の会堂長の一人ヤイロがイエス様の足元にひれ伏して「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやって下さい」と願い出たのです。イエス様はこの人と一緒に家へ向かったのです。ところが、家の人々が来て「お嬢さんはなくなりました。もう、先生を煩(わずら)わすには及ばないでしょう」と伝えたのです。イエス様はその話を聞いて落胆する会堂長に「恐れることはない、ただ、信じなさい」と言って、家に行かれたのです。両親の前で子供の手を取って「少女よ、起きなさい」と言われたのです。すると、少女は起き上がって歩き出したのです。食べ物を少女に与えるように指示されたのです(マルコ5:21-43)。イエス様はナインという町へ行かれました。ある母親の一人息子が死んで棺が担(かつ)ぎだされるところでした。イエス様はこのやもめを見て憐(あわ)れに思い「もう泣かなくともよい」と声をかけられました。近づいて棺に手で触れて葬儀の一行を止め「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われました。死んでいた人は起き上がって物を言い始めたのです。イエス様は息子を母親にお返しになられたのです(ルカ7:11-17)。イエス様は母親と言葉を交わしていないのです。信仰の内実を問われた訳でもないのです。家父長社会にあって男性の働き手がいないやもめの生活は悲惨です。イエス様はすべてのことをご存じなのです。ご自身の方から「福音」を届けられたのです。

*イエス様を通して「神の国」が到来しているのです。貧しい人々や心身に障害がある人々など様々な苦難に喘(あえ)ぐ人々が優先的に慰められているのです。人類にとって永遠のテーマである「死の支配」が打ち砕かれているのです。病気で死んだラザロは墓に葬られて既に四日も経っていました。イエス様は迎えに来た姉のマルタに「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は、だれも決して死ぬことはない。このことを信じるか」と言われたのです。マルタは「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と答えたのです。墓に案内されたイエス様は人々が泣いているのを見てご自分のことのように受け止められたのです。「死」がなお人間を支配している現状に憤(いきどお)りを覚え、興奮して涙を流されたのです。イエス様が個人的な感情を露(あらわ)にされた数少ない例です。「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれたのです。死んでいた人が手と足を布で巻かれたまま出て来たのです。人々に「ほどいてやって、行かせなさい」と言われたのです(ヨハネ11:1-44)。マルタによって「永遠の命」に至る道が簡潔な言葉に表現されています。イエス様を「神の子」として心から信じることです。豊かな知恵や知識(神学理論)が「救い」を妨げているのです。イエス様は「信仰は善い行いとして結実しなければならない」と言われたのです。「永遠の命」に与っている人は「戒め」を実行するのです。隣人愛によって信仰を証しするのです。

*神様は貧しいやもめの窮状を心に留め、ヒゼキヤ王の涙の祈りを聞き入れられたのです。イエス様もまたヤイロの信仰を認め、絶望するやもめを憐れみ、ラザロの死に悲しむ人々を愛されたのです。願いを叶えられた人は信仰篤く、謙虚です。一方的に慰められた人もいるのです。イエス様は人々の置かれている状況をご存じなのです。「神様の御心」に沿って死者に再び命を与えられたのです。キリスト信仰は「信じること」で完結しないのです。信じて「善い行い」を実行することを求めるのです。行いを欠いた信仰は空しいのです。信仰そのものが死んでいるからです(ヤコブ2:17)。イエス様は生きている間に悔い改めることの重要性に言及されています(ルカ16:19-31)。贅沢に暮らしながら門前の貧しいラザロに目もくれなかった金持ちが死後陰府の炎の中でもだえ苦しんでいるのです。彼は遥か遠くに見えるアブラハムに「死んだ者の中からだれかを兄弟たちのところに行かせて、このような場所に来ないようによく言い聞かせて下さい」と願い出たのです。アブラハムは「モーセと預言者たちに耳を傾けないなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、彼らはその人の言うことに納得しないだろう」と答えたのです。イエス様は神様と共におられるのです。すべての人に「救いの手」を差し出しておられるのです。確信が得られなければ「力ある業」に目を向けるのです。キリストの信徒たちは憐れみ深い神様に感謝するのです。貧しい人々や虐げられた人々と共に歩むのです。「永遠の命」は「善い行い」によって与えられるのです。

2026年01月11日

「新しい生き方」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書3章1節から15節


さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに(上から)生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が(後に)、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内(たいない)に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに(上から)生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者(について)も皆そのとおりである。」するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。


(注)


・夜:イエス様は「・・しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである」と言われています(ヨハネ11:10)。ヨハネ13:30を併せてお読みください。


・神の国:天の国とも言います。死後に行く天国のことではありません。「神様の支配」あるいは「神様の主権」のことです。福音(良い知らせ)とは、神様がこの世を終わらせて「新しい天地」を創造されることです。イエス様はご自身の教えと力ある業によって「神様のご計画」の一部を示されたのです。いずれ、再臨される(再び来られる)時に完全なものとなるのです。


・水と霊:旧約聖書にも記述されています。「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。 」(エゼキエル書36:25-27)イザヤ書32:15-20、ヨエル書3:1-5も参照して下さい。


・人の子:この呼称には三つの意味があります。第一は預言者です(エゼキエル書2:1-3)。第二は天の雲に乗って現れる終わりの時の審判者です(ダニエル書7:13-14)。今日の聖書の個所では、イエス様は預言された人の子であることを明らかにされたのです。他に「わたしとわたしの言葉を恥じる者(たち)は、人の子も自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときにその者(たち)を恥じる」(ルカ9:26)、「神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(ルカ18:8)などがあります。第三はこの世の人間を表しているのです(ルカ9:58)。


●人の子も上げられねばならない:イエス様はご自身が十字架の死を遂げること、天に上げられることの両方について言及されたのです。

・荒れ野の蛇:エジプトから導き出されたイスラエルの民は荒れ野における厳しい生活に耐えきれず、神様に不平を漏らしたのです。主は猛毒の蛇を民に向かって送られたのです。多くの死者が出ました。民が悔い改めたので、神様の指示に従ってモーセは青銅の蛇を造り旗竿の先に掲げたのです。噛まれてもこの蛇を仰げば死ぬことはなくなったのです。旧約聖書の民数記21:4-9を参照して下さい。

・サンへドリン:新共同訳聖書では最高法院と訳されています。エルサレムにあり、もともと司法(律法)に関する最高意思決定機関としての役割を果たしていました。大祭司がこの評議会の議長を担当し、議員は主として祭司職の家系と律法学者のような宗教指導者から選ばれました。結果として、サドカイ派の祭司、ファリサイ派の律法学者たちで構成されたのです。また、いずれの派にも属さない律法や慣習を監督する長老もメンバーに含まれています。イエス様の時代にはローマの支配下にあり、制限を受けていましたが、エルサレムの司法、市民行政、宗教行政(神殿政治)の中枢を担っていたのです。

●ファリサイ派:厳格な律法解釈とその遵守、さらには慣習と伝統を大切にするユダヤ教の一つの派です。

●サドカイ派:祭司や上流階級を代表していました。霊や天使、復活を否定したのです。ファリサイ派と共にユダヤ教の二大勢力です。

●律法学者:文書を記録する官僚であり、同時に学識を有する学者です。多くはイエス様に批判的でしたが、「先生,あなたがおいでになる所ならどこへでも従って参ります」と言った人もいたのです。

・没薬(もつやく)と沈香(じんこう):防腐剤として用いられた樹脂です。

・百リトラ:1リトラは約326グラムです。33kgとなります。相当な量の香料です。

(メッセージの要旨)


*ニコデモは率直に信仰を告白しています。しかし、イエス様はこの人のご自身に対する誤解を指摘されたのです。「人は、新たに(上から)生まれなければ、神の国を見ることはできない」、「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と言われたのです。ニコデモの信仰理解には足りないものがあるのです。「知的認識」はあっても「信仰体験」がないのです。水と霊によって生まれた人には行いによって信仰を証しする力が与えられるのです。「神の国」に招き入れられている人はこの世の基準を無批判的に受け入れることは出来ないのです。イエス様はニコデモにキリスト信仰の本質を教えられたのです。「信仰による救い」は信仰のみによって救われるということではないのです。これまでの自己中心的な生き方を悔い改めて新しく生まれ変わることです。この世から距離を置いてキリスト・イエス(救い主)の御跡を辿(たど)って生きることなのです。心を神様に向けるだけでなく、「神様の御心」を具体化するのです。正義と平和を実現し、隣人を愛するのです。「永遠の命」を願いながら「神様と隣人」を愛することに怠惰(たいだ)であってはならないのです。イエス様の指摘はキリスト信仰を知的に(神学的に)理解しがちなキリストの信徒たちへの警鐘でもあるのです。新年礼拝では毎年「新しい年を迎えて」(讃美歌21)を歌っています。「過ぎ去った日々の悲しみ さまざまなうれいはすべて キリストのみ手にゆだねて、み恵みがあふれるような生きかたを今年はしょう」に励まされ、信仰の歩みを始めるのです。

*ニコデモはヨハネによる福音書だけに三回登場します。信仰に熱心なユダヤ人で、サンヘドリンのメンバーです。敵対するファリサイ派に属しているのですが、イエス様の教えと力ある業の意味を理解しようと努力していたのです。ニコデモは律法の厳格な順守を通して「救い」を得、人々にもそうするように教えて来たのです。イエス様への応答がその人の「救い」を決定するという「神の国」の福音に困惑しているのです。率直な話し合いを望んでいたことによるものなのか、議員の間に噂が広がること恐れていたためなのかは分からないのですが、イエス様を夜に訪問したのです。イエス様はニコデモが言うようなユダヤ教の教師(あるいは預言者)に留まらないのです。神様が遣わされたお方なのです。イエス様はニコデモのご自身に対する理解をさらに深めようとされるのです。「水と霊による洗礼を受けなければ神の国に入れない」と警告されたのです。後に、サマリア人の女性にも「神は霊である。 だから、神を礼拝する者は、霊と真理を持って礼拝しなければならない」と言われたのです(ヨハネ4:24)。ニコデモは神様がイエス様と共におられることを認めているのです。しかし、神様とイエス様が一つであることに考えが及ばなかったのです(ヨハネ10:30)。イエス様の母マリアは聖霊様によって身ごもったのです。イエス様がバプティスマのヨハネから洗礼を受けられた時、天が裂けて神様の霊が降ったのです(マルコ1:10)。旧約聖書に精通しているニコデモでも預言者たちが伝える「水と霊の重要性」を分かっていないのです。

*イエス様との会話を取り上げてニコデモの不信仰について語られることがあるのです。ヨハネの福音書の全体を読めば誰よりも信仰心の篤(あつ)い人であることが分かるのです。ニコデモは律法を熟知していました。イエス様がどのようなお方であるかについても理解しているのです。イエス様から「新たに生まれること」を求められたのです。葛藤(かっとう)の末、「神様の御心」に適(かな)う新しい生き方を決断するのです。「生まれ変わったこと」が後に明らかになるのです。祭司長たちやファリサイ派の人々がイエス様の逮捕について議論している時、ニコデモは「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」と反論したのです。同僚たちの律法違反と不信仰を公然と非難したのです。律法の原点である正義を貫(つらぬ)こうとしたのです。ニコデモの主張は他の指導者たちによって退けられたのです。ただ、このような政治的発言には大きな犠牲が伴うのです。イエス様の信奉者としての烙印を押され、イエス様と同じような迫害を受けることになるのです。「新しく生まれること」が内面における不信仰の克服であるかのように誤解されているのです。「神様の霊」に導かれて人は生まれ変わるのです。その人に生き方の転換が起こるのです。ニコデモはイエス様の教えに従ったのです。行いがその事実を証明するのです。「神の国」に生きる人々が無批判的にこの世と調和することはないのです。権力者たちに迎合(げいごう)することもないのです。


*ユダヤ人指導者たちの策略が功を奏して、イエス様はローマの総督ポンティオ・ピラトによって十字架上で処刑されたのです。11使徒は自分たちに及ぶ迫害から逃れるために身を隠していたのです。ところが、アリマタヤ出身の議員ヨセフがユダヤ人の習慣に従って埋葬(まいそう)するためにイエス様のご遺体を取り降ろしたいとピラトに願い出たのです。ピラトはサンヘドリンの中枢(ちゅうすう)を担い、金持ちでもあるヨセフの申し出に許可を与えたのです。埋葬の準備をしていたヨセフの所に、ニコデモが没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来て加わったのです。ニコデモは自分の信仰を貫くのです。二人はご遺体に香料を添えて亜麻布で包んだのです(ヨハネ19:38-40)。聖霊様はヨセフとニコデモを導かれたのです。「神様のご計画」を実現されたのです。イエス様の弟子であることが行いによって明らかになったのです。二人には会堂から追放されるという厳しい現実が待っているのです。サンヘドリンから排斥(はいせき)され、地位や名誉だけでなく生活手段さえも奪われるのです。「新しく生まれること」によって、想像を絶する試練に遭遇するのです。信仰を自負するキリストの信徒たちがヨセフやニコデモのような曖昧(あいまいな)な信仰者を非難するのです。ところが、イエス様への信仰を証ししたのはこれらの弟子ではないのです。紆余曲折(うよきょくせつ)を経て生まれ変わった信仰篤い二人の議員なのです。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないように・・」を肝(きも)に銘じるのです(マタイ7:1)。


*ニコデモはイエス様に出会って何が最も大切なことであるかを教えられたのです。イエス様のご生涯に倣って生きることを決心したのです。新しく生まれ変わった人々はこの世の常識の範疇(はんちゅう)-利害あるいは損得-で行動しないのです。イエス様が命じられた重要な戒め「まず、神の国と神の義(正義)を求めなさい」を実践するのです(マタイ6:33)。金持ちや社会的地位の高い人々が「神の国」に入るのは難しいのです。これらの人には執着する物があまりに多いからです。「水と霊によって生まれること」について様々な神学議論が行われています。「新しく生まれること」とは論争で解明されることではないのです。もっと単純なことなのです。これまでの生き方を「神様の御心」に沿うように変えることなのです。イエス様がキリストの信徒たちに求められることは悔い改めと新しい生き方なのです。国内においては寒空の中で年を越された方々がおられます。世界に目を向ければ難民や子供たちが困難な生活を余儀なくされているのです。正義と平和の実現を祈るのです。イエス様は「小さな群れ(キリストの信徒たち)よ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい」と言われるのです(ルカ12:32-33)。決断すれば「冷たい水一杯」を届けることが出来るのです(マタイ10:42)。「新たに生まれる」ために行いは不可欠です。今年も、信仰が「神様の御心」に適(かな)っているかをチェックするのです。判断基準は「神様と隣人」を愛して生きているかどうかなのです。

2026年01月04日

「狭い門から入りなさい」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書7章13節から29節


「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」


「偽預言者(たち)を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」


「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」


「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」


イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。 彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。

(注)

・道:古代において、二つの生き方から一つを選択するという教訓は一般的に見られました。例えば「完全な(誠実に)道を歩む人は救われる(安全である)。二筋の曲がった(不正な)道を歩む者は(誰でも)直ちに倒れる」を挙げることが出来ます(箴言28:18)。

・命に通じる門:天の国(神の国)-神様の支配-に入るための入り口のことです。しかし「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」のです(マタイ22:14)。

・天の国:「神の国」とも呼ばれています。旧・新約聖書を貫く信仰の基本理念です。誤解されているような死後に行く天国のことではないのです。

●神様の全き支配のことです。神様が人間の心と社会の隅々にまで真に神様として崇められ、あらゆる価値の基準とされることです。それを通して正義と平和の秩序が実現されることです。旧約聖書は天の国の到来を待ち望むイスラエルの信仰を書き記したものです。神様は自分たちをエジプト人の支配から救い出し、砂漠を経て約束の地へ導かれたのです。ご自分に頼る者を決して見捨てられないのです。どのような地上の力にも勝っておられるのです。信頼するに値するお方なのです。イスラエルは異国の支配下で弾圧され、分断され、捕囚の地に連れていかれたのです。その時も、神様は常に自分たちと共におられ、民の身の上を思い,心を痛められたのです。イスラエルはこの神様がいつの日か、必ず自分たちを解放して下さることを信じたのです。イエス様はこの「天の国」の到来を福音(良い知らせ)として宣教されたのです。

・最も重要な掟:キリスト信仰の真髄(しんずい)です。

■一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』(申命記6:4-5)第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』(レビ記19:18)この二つにまさる掟はほかにない。」律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。(マルコ12:28-34)

・かの日:「裁きの日」のことです。マタイ25:31-46を参照して下さい。

・不法を働く者ども:悪事を働き、法を無視する人々のことです。

■人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。(マタイ13:41-42)

■律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。(マタイ23:27-28)

■不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。(マタイ24:12-13)

・山上の説教の冒頭部分:

■イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい(圧政などによって心を打ちのめされた)人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。義(正義)に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。義(正義)のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:1-12)
    
・主の祈り:イエス様が弟子たちに教えられた祈りです。

■あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇(あが)められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧(かて)を今日与えてください。わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』 (マタイ6:8-13)

・パウロも次のように言っています。

■わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義(無罪)とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。(1コリント信徒への手紙4:3-5)

(メッセージの要旨)


*今年最後の礼拝です。キリストの信徒たちは一年の歩みが「神様の御心」に適(かな)っていたかどうかを振り返るのです。「狭い門から入りなさい」は安易な信仰理解に警鐘を鳴らされているのです。「救い」には苦難や自己犠牲が伴うのです。多くの弟子がファリサイ派の人々や律法学者たちの悪い行いに倣(なら)い、神様と隣人を愛することを軽んじているのです。神様の戒めの基準を緩和して-この世的に解釈して-「救い」から遠ざかっているのです。偽預言者たち-巡回クリスチャン宣教者たちを含む-が敬虔(けいけん)さを装っているのです。しかし、その内側は貪欲(どんよく)と放縦(ほうじゅう)で満ちているのです。信仰共同体(教会)は混乱し、破滅の道を歩んでいる信徒もいるのです。今日においてもその状況は変わらないのです。信徒たちは指導者たちが本物であるかどうかを見極めることに不慣れです。批判することがあたかも罪であるかのように教えられているからです。不信仰や腐敗が見られれば躊躇(ちゅうちょ)することなく告発するのです。イエス様は判断基準を示されたのです。指導者と呼ばれる人々の言葉ではなく行いによって見分けるのです。自分たちを犠牲にして群れ(教会)を養っているか、群れを犠牲にして私欲に腐心しているかを峻別(しゅんべつ)するのです(エゼキエル書34)。イエス様はファリサイ派の人々を非難して、「正義の実行と神への愛はおろそかにしている」と言われました(ルカ11)。御名によって預言し、悪霊を追い出し、奇跡を行ったことが「救い」の保証にはならないのです。


*キリスト信仰とは「神様の御心」-最も重要な戒めを守ること-に従って生きることです。「永遠の命」(救い)は終わりの日に受ける報酬なのです。引用箇所はイエス様の「山上の説教」(マタイ5章―7章)の結論部分です。キリスト信仰は確かに命に至る門です。しかし、信仰のみによって与えられる「安価な恵み」ではないのです。御言葉を聞くだけではなく、御跡を辿(たど)って良い実を結ぶことを求めるのです。「山上の説教」はキリスト信仰に生きる人々の指針なのです。機会がありましたら是非全体を通してお読み下さい。冒頭において、貧しい人々や虐げられた人々は優先的に祝福されることが明言されているのです。一方、「平地の説教」においては、富んでいる人々や満腹している人々に「天罰」が宣告されたのです(ルカ6:24-25)。イエス様のお言葉を恣意的(しいてき)に解釈し、真意を歪曲(わいきょく)してはならないのです。神様と隣人を愛することはキリスト信仰の根本理念です。神様を愛するとは戒めを守ることです。隣人とは貧しい人々や虐(しいた)げられた人々のことです。「天の国」と「この世」とは両立しないのです。裕福な人々は自分のために富を独占してはならないのです。貧しい人々にそれを施すのです。権力を持っている人々は自分たちのために用いるのではなく、社会の底辺で苦しむ人々のためにそれを行使するのです。イエス様が人々の「救い」を判断されるのです。行いのない信仰は空しいのです。「天の国」の到来を福音として信じる人々は何よりも「神様の御心」の実現に取り組むのです。

*「天の国」に至る道には二つの門があるのです。イエス様は「狭い門」の方から入りなさいと言われるのです。婚宴の席に譬(たとえ)えられた「天の国」に招かれる人は多いのです。ところが、実際に婚宴の席に座る人は少ないのです。イエス様が事前に説明された判断基準によって選別されるからです。信仰によって「永遠の命」が担保されている訳ではないのです。信仰には善い行いが伴わなければならないのです。「神様の御心」に相応しい人々だけが「天の国」に入るのです(マタイ22:1-14)。イエス様は「天の国」に入るための{必須の要件}を挙げておられます。ある議員が「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねたのです。イエス様は「『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」と言われたのです。すると議員は「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えたのです。これを聞いて「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と言われたのです。しかし、議員はこの言葉を聞いて非常に悲しんだのです。大変な金持ちだったからです。金持ちが「神の国」に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易(やさ)しいのです(ルカ18:18-25)。議員はイエス様(狭い門)-困難な道-よりも富(広い門)-快適な道-を選んだのです。パウロも自戒しているようにイエス様が「裁き主」なのです。

*弟子たちがイエス様のところに来て「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と尋ねたのです。イエス様は「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕えるものになりなさい」と答えられました(マルコ9:35)。そして、一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて「・・心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われたのです(マタイ18:1-5)。「自分を低くして子供のようになること」が「謙虚になること」として解釈されているのです。この意味は「自分の視点を社会的地位の低い人々に向けること」なのです。キリスト信仰を標榜(ひょうぼう)する人々には、貧しい人々や虐げられている人々に仕え、共に歩む責務があるのです。信仰の歩みが日曜礼拝への出席や心地よい信徒たちの交わりに留まっていないかどうかをチェックするのです。世界のあちらこちらに、紛争や迫害によって故郷を追われ、テントや簡素な小屋がひしめく難民居住地で厳しい冬を迎えようとしている人々がいるのです。日本においても、貧困や差別の解消、原子力発電や米軍基地の危険性を訴えている人々がいるのです。御言葉の意味が指導者たちの信仰理解によって変容されているのです。キリスト信仰が誤解される要因の一つです。正義と平和、貧困や迫害に視線を向けない信仰は「救い」の役に立たないのです。

*「永遠の命」はキリスト信仰によって得られるのです。この福音がすべての人に届けられているのです。ただ、「信仰による救い」が強調されているのです。「救いの要件」がほとんど語られていないのです。キリスト信仰は信じることで完結しないのです。イエス様が命じられた最も重要な戒めを具体化することです。全身全霊で「神様の御心」を実現し、隣人を自分のように愛して生きることなのです。この狭い門から入らなければ「永遠の命」に与れないのです。キリスト信仰における厳しさを曖昧(あいまい)にしてはならないのです。新共同訳聖書はカトリックとプロテスタントに関わる方々の不断の努力によって完成したのです。今年も、この聖書によって「イエス様」をお伝えして来ました。一方、限られた経験や信仰理解に頼る一人善(よ)がりのメッセージになっていなかったかどうか、知的信仰を批判しながら自分がそこに陥(おちい)っていなかっただろうか、御言葉を語りながら自分はそれを率先して実践したのだろうか、傲慢(ごうまん)になり集会では上座、教会では上席を選んでいなかっただろうかと自問するのです(マタイ23:1-12)。柔和と謙遜、憐れみと清い心を持って人々に接しただろうか、正義と平和を実現するために労苦している人々の重荷を共に担っただろうか、飢えている人々に食べさせ、のどが渇いている人々に飲ませ、旅をしている人々に宿を貸し、裸でいる人々に着せ、病気の人々を見舞い、牢にいる人々を訪ねただろうかと振り返るのです(マタイ25:31-46)。困難であっても狭い門から入るのです。

2025年12月28日

「イエス様の誕生とシメオンの預言」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書2章21節から35節及び3節から52節


八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」


親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。

(注)


・八日目の割礼:


■いつの時代でも、あなたたちの男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆、生まれてから八日目に割礼を受けなければならない。(創世記17:12)

・清めの儀式:


■主はモーセに仰せになった。・・妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚れの日数と同じ七日間汚れている。・・産婦は出血の汚れが清まるのに必要な三十三日の間、家にとどまる。その清めの期間が完了するまでは、聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない。・・男児もしくは女児を出産した産婦の清めの期間が完了したならば、産婦は一歳の雄羊一匹を焼き尽くす献げ物とし、家鳩または山鳩一羽を贖罪の献げ物として臨在の幕屋の入り口に携えて行き、祭司に渡す。・・なお産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合は、二羽の山鳩または二羽の家鳩を携えて行き、一羽を焼き尽くす献げ物とし、もう一羽を贖罪の献げ物とする。祭司が産婦のために贖いの儀式を行うと、彼女は清められる。(レビ記12:1-8)

・初めて生まれる子:

■主はモーセに仰せになった。「すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである。」(出エジプト記13:1-2)

・山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽:ヨセフとマリアに羊を捧げる経済的ゆとりがなかったことを表しています。


・イスラエルの慰め:約束されたイスラエルの独立のことです。具体例としてバビロン捕囚からの帰還を挙げることが出来ます(イザヤ書40:1-2)。イザヤ書49:5-6;61:1-2を併せてお読み下さい。

・あなた自身も剣で心を刺し貫かれます:人々は神様の「救いの業」を拒否するのです。分裂の剣はマリアと家族に苦痛をもたらすのです。ルカ8:19-21、11:27-28、12:51-53をご一読下さい。

・ナザレ:サマリアの北に位置するガリラヤ地方の小さな村です。周辺地域から孤立しており、要衝の地でもありませんでした。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言われていたのです(ヨハネ1:46)。聖書地図をご覧下さい。

・イエス様が宣教を開始された年齢はおよそ30歳です(ルカ3:23)。

(メッセージの要旨)


*11月30日(日)から待降節の期間、「ヨハネの誕生」、「マリアの賛歌」、「信仰の人ヨセフ」について学んできました。今日は「シメオンの預言」を通して、イエス様の誕生の意味とご生涯について考えます。イエス様はローマの支配下にあるユダヤのベツレヘムでお生まれになったのです。ヘロデ大王によって命の危険に晒(さら)されたのです。「神の国」(天の国)-神様の支配-の到来は貧しい人々や虐(しいた)げられた人々に「良い知らせ」(福音)となるのです。一方、権力者たちには既得権益の放棄を迫る「悪い知らせ」となったのです。キリスト信仰が誤解されているのです。イエス様は地上に分裂をもたらすために来られたのです(マタイ10:34-39)。人々に悔い改めを求めて「救い」に導かれただけではないのです。神様の正義と愛が社会の隅々に行き渡るように奔走(ほんそう)されたのです。ユダヤ人は異邦人を神様から離れた罪人として蔑(さげす)んでいました。聖霊様に導かれたシメオンは幼子を抱いて「・・これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです」と神様を讃(たた)えたのです。ユダヤ人にも異邦人にも「救い」が訪れるのです。ユダヤ教にとって重大な教義の変更が宣言されたのです。シメオンの詳細は不明です。ただ、信仰心が篤く、律法を守り、イスラエルに「救い主」が現れるのを待ち続けていた人として紹介されています。神様はこのような「普通の人」を用いられるのです。イエス様が果たされる使命についてあらかじめ語られたのです。


*幼子が誕生して八日が経ちました。イエス様と名付けられたのです。胎内に宿る前に天使から示された名前です。イエス様の幼年時代、青年時代、大人になった初めの頃についてはほとんど知られていないのです。ただ、分かっていることもいくつかあるのです。ヨセフとマリアは主の律法で定められたことをみな終えたので、ガリラヤのナザレに帰ったのです。イエス様はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれて成長されたのです。律法を守り、安息日には会堂へ行かれたのです。12歳の時(紀元後6年頃)、両親と共に過越際のためにエルサレムへ巡礼されたのです。ヨセフとマリアはナザレへの帰途に着いたのです。しかし、イエス様は群れの中におられなかったのです。神殿の境内で学者たちの真ん中に座って話を聞き、質問をしておられたからです。三日間も滞在されたのです。人々はイエス様の賢い受け答えに驚いたのです。イエス様は捜しに戻って来た両親に「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということ知らなかったのですか」と言われたのです。「神の子」であることを認識しておられたのです。この年、民族的にも、政治的にも大きな出来事がありました。多くの愛国的ユダヤ人は外国の支配者への納税を拒否するように呼びかけていたのです。代表団を派遣し、ユダヤ、サマリアを統治していたヘロデ・アルケラオ(紀元前4年に就任)の残虐性と統治能力の欠如をローマ皇帝アウグストに申し出たのです。皇帝は訴えを認めて彼の地位をはく奪したのです。ユダヤはローマの直轄領となり、総督のピラトが派遣されたのです。

*イエス様は両親と一緒に下って行き、ナザレに帰られたのです。そこで、両親に仕えてお暮らしになりました。イエス様は知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛されたのです。その後、イエス様が宣教を始められるまでの18年間はナザレの会堂で一般のユダヤ人としての教育を受けられたのです。父親のヨセフの下で職人としての腕を磨き、村の大工となられたのです。村人たちが「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」と言っていることからも明らかです(マルコ6:2-3)。イエス様は村人たちが必要とする様々な物を作られたのです。例えば、牛と牛を繋ぐくびき、木製のすき、脱穀用の板、もみ殻を分ける熊手、ベンチ、テーブル、ベッド、木箱、荷車などです。住居の一階は作業場で家族はその上に住んだのです。イエス様は大工としての仕事を通して人々の暮らしを身近に感じ取られたのです。こうした経験を機会あるごとに説教やたとえ話に用いられたのです。ユダヤは引き続きローマに直轄支配されていたのです。ガリラヤ地方はヘロデ・アンティパスが統治していました。イエス様はおよそ30歳の頃に「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って、宣教を開始されたのです(マルコ1:15)。「神の国」の福音が圧政下において具体化されているのです、今日、「罪の赦し」に縮小されているのです。神様はこの世のすべてを支配されるのです。キリスト信仰とはイエス様の宣言を信じることです。

*ヘブライ人への手紙には「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。・・」と書かれています(1:1-2)。イエス様は神様のお言葉なのです。シメオンはイエス様の誕生を知って、「救いの御業」が始まったことを確信したのです。同時に、イエス様の行く末について「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ・・」と預言したのです。果たして、シメオンの言葉は後に現実になるのです。人々の間にキリスト信仰を巡(めぐ)って激しい対立と分裂が生じるのです。神殿政治の中枢を担う律法学者たちやファリサイ派の人々、彼らに同調する人たちはイエス様を迫害し、「神様の支配」を拒絶するのです。一方、貧しい人々や虐(しいた)げられた人々は悔い改めてイエス様を信じたのです。シメオンはマリアが遭遇(そうぐう)する苦悩について言及しています。ある時、イエス様が群衆に語っておらました。母マリアと兄弟たちが会いに来たのです。イエス様は弟子たちに「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と言われたのです。マリアは複雑な気持ちでお言葉を理解したのです。この世の母と子の関係に別れを告げることになるのです(ルカ8:19-21)。さらに、「あの男は気が変になっている」という人々の言葉を聞いて、親戚のある者たちがイエス様を取り押さえに来たのです。マリアは身内の不信仰に心を深く痛めたのです(マルコ3:20-21)。

*イエス様の誕生に関わった人々は聖霊様、あるいは天使に導かれて、それぞれの役割を果たしたのです。洗礼者ヨハネの親となった祭司ザカリアと妻エリザベト、受胎告知に従ってイエス様の母になる決心をし、「神の国」の到来を宣言した乙女マリア、マリアを受け入れ、権力者たちの迫害からイエス様と妻を守ったヨセフ、いずれも信仰によって「神様のご計画」に参画したのです。聖霊様に導かれたシメオンも神様が万民のために「救い主」を誕生させられたこと、異邦人たちがこの啓示の光に照らされて正しい道を歩めることに感謝したのです。福音書記者ヨハネはイエス様の誕生の意味を説明しています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と言って、神様の天地創造の御業と関連付けているのです(ヨハネ1:1-4)。マタイやルカとは異なり、抽象的、哲学的です。多くの人が敬遠する聖書の個所になっているのです。しかし、内容的にはキリスト信仰の本質を示しているのです。イエス様は「神様のご計画」に基づいて誕生されたのです。新しい天地の創造が始まっいるのです。イエス様は「わたしを見たものは、父を見たのだ」と断言されたのです(ヨハネ14:9)。神様とイエス様は一体なのです。イエス様のお言葉に耳を傾けるのです。聞くだけではなく、御跡を辿(たど)るのです。

2025年12月21日
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