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洗礼者ヨハネが捕らえられた後、イエス様はガリラヤ地方へ行き、福音(良い知らせ)を宣べ伝えて「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたのです(マルコ1:14-15)。イエス様は復活された後も、使徒たちに「神の国」について話されたのです(使徒1:3)。キリスト信仰の中心メッセージは「神の国」-神様の支配-にあるのです。

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「傲慢の罪」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書9章33節から41節


一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない(反対しない)者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

(注)


・カファルナウム:ガリラヤ湖の北西に位置する町です。イエス様の宣教の拠点です。

・子供:必ずしも、謙遜のことを意味しないのです。当時の子供は父親の所有物でした。それ故、無力な人(権力や財力を持たない人)を象徴(しょうちょう)しています。最も低い地位にある人々のことを指しているのです。

・ユダヤ人の祈祷師(きとうし):ユダヤ教やキリスト教の著名な指導者たちの名前を使って悪霊を追い出していました(使徒19:11-20)。

・キリストの弟子:12使徒、宣教師たち、最近改宗した信徒たち、社会的地位の低い人々、経済的困窮者たち、信仰の弱い人々などがいました。

・悪魔:サタン、誘惑する者、あるいは告発する者と呼ばれています。新約聖書には多く登場します。マタイ4:1-11、ルカ10:18、19、ヨハネ13:2、27、第1ペテロ5:8、ヨハネの黙示録12、13:1-4、20:1-3、7-10などです。ヨブ記1,2も参照してください。
           
・イエス様の憤(いきどお)り:他にも「イエスは怒って人々を見回し」があります(マルコ3:5)。日本語訳では「怒り」を和らげた表現になっている個所も見られるのです。原文に沿って訳せば「深く憐れんで」は「怒りに満ちて」(マルコ1:41)、「厳しく注意して」は「怒りで鼻を鳴らし」(マルコ1:43)となります。

(メッセージの要旨)


*聖書の個所は異なった話題にも関わらず意味するところが共通しているのです。12弟子はお互いに自分の信仰心の篤さを誇っていたのです。キリストの信徒としての生き方から完全に逸脱(いつだつ)しているのです。当時、子供や妻(女性)は父親や夫の所有物のように扱われていました。イエス様は使徒たちの不信仰を戒めるために、軽んじられている子供を例に挙げられたのです。キリスト信仰の根本理念は最も低い地位に置かれている人々に心を砕くことなのです。信仰の有無(うむ)は律法の認識ではなく、「行い」によって証明されるのです。「永遠の命」はイエス様を「救い主」として信じる信仰によって与えられるのです。ただ、「救い」に与った信徒たちには責務-人に仕えること-があるのです。使徒のヨハネには自分たちだけがキリスト信仰の本流に属しているという尊大さがあるのです。イエス様は傲慢(ごうまん)な態度を叱責(しっせき)されたのです。イエス様のお側で教えを受けていた12弟子すら福音の真理を理解していないのです。キリスト信仰を代表しているかのように自負する教派や信徒たちが見られるのです。自己に対する過大評価は大きな罪なのです。自分の組織や信仰を自負しても、他の人から賞賛を受けても、終わりの時における「祝福」や「救い」の保証にはならないのです。イエス様が神様から委(ゆだ)ねられた権威に基づいてそれぞれを裁かれるからです(ヨハネ5:22)。罪を自覚し悔い改めるのです。隣人に奉仕するのです。神様はこれらの人を憐れんで下さるのです。イエス様の教えを心に刻むのです。


*直前にイエス様は「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言われたのです。ところが、使徒たちは「だれがいちばん偉いか」について議論していたのです。グループに属する人々がこのテーマで論じることは一般的に行われていました。使徒たちはイエス様と寝食を共にしていました。イエス様が地上に遣わされた意味を誰よりも知っているのです。ところが、彼らの関心事は天上と地上の地位や名声のことなのです。イエス様の苦悩や悲しみへの無関心に驚かされるのです。今日のキリストの信徒たちも例外ではないのです。「自分の救い」に腐心しているのです。イエス様のお言葉を深刻に受け止めるのです。「神の国」(天の国)-神様の支配-において一番偉い人とは仕えられる人ではなく、仕える人なのです。律法を厳格に守っている人々から蔑(さげす)まれ、見捨てられた人々-貧しい人、心身に障害のある人、徴税人、娼婦、罪人たち-は社会の隅で生きているのです。これらの人は「救い」(解放と自由)を求めているのです。別の個所においてキリストの信徒たちの安易な信仰理解に警鐘が鳴らされています。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることは出来ない」のです(マタイ18:3)。正しい信仰と行いがなければ人は「救い」に与(あずか)れないのです。キリスト信仰を標榜(ひょうぼう)する人々は子供たち-社会の底辺で喘(あえ)ぎ苦しむ人々-に視線を注ぐのです。これらの人の重荷を取り除くために共に歩むのです。「行い」によって自分を低くするのです。


*イエス様の真のお姿が歪(ゆが)められているのです。日本語訳がそれを助長している場合があるのです。大切なことを伝えられる時には怒りの感情を表されたのです。ある時、イエス様に触(ふ)れていただくために、人々が子供たちを連れて来ました。弟子たちはこれらの人を叱(しか)ったのです。ところが、イエス様は憤(いきどお)られたのです。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨(さまた)げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。・・」と言われたのです(マルコ10:13-16)。安息日に手の萎(な)えた人を癒(いや)すことに反対する人々(マルコ3:1-6)に、死んで四日も経ったラザロを甦(よみがえ)らし、死が人間を支配していること(ヨハネ11:28-44)に怒られたのです。「神の国」の福音(良い知らせ)は虐(しいた)げられた人々に優先的に届けられるのです。道端に座っていた二人の盲人はイエス様が通られると聞いたのです。「わたしたちを憐れんで下さい」と叫(さけ)んだのです。イエス様に従う大勢の群衆が彼らを黙(だま)らせようとしたのです。イエス様は二人を見えるようにされたのです。御業によって反論されたのです。彼らはイエス様の群れに加わったのです(マタイ20:29-34)。「神の国」に招かれる人々とは信仰心を誇る人々、律法や神学理論に精通した人々ではないのです。イエス様の教えと力ある業に神様が共におられることを信じた人々です。「神様の御心」を実現する人々は祝福されるのです。これらの人に一杯の水を与えた人々も同じなのです。


*天使の中にも傲慢によって天上から追放された者がいたのです。それがサタンです。「さて、天で戦いが起こった。(大天使)ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、・・地上に投げ落とされたのである。・・」(ヨハネの黙示録12:7-9)。天使は神様に仕える天的な存在です。イエス様の誕生に関わって天使が遣わされました。「神様の御心」を伝える大きな役割を果たしたのです。ところが、天使も罪を犯すのです。堕落(だらく)した天使と呼ばれています。預言者イザヤが「かつて、お前は心に思った。・・雲の頂に登っていと高き者(全能の神)のようになろうと。・・」と表現しています(イザヤ書14:12-15)。神様と等しい者になろうとすること-神様を軽視する思いと振舞い-は最も大きな罪なのです。神様は傲慢の罪に厳しい罰を下されるのです。人は道徳的な罪に厳しいのです。傲慢の罪には寛大なのです。サタンのように自分を神様に等しい者としないまでも、神様に最も近い人間として振舞うことが「信仰の名」によって行われているのです。イエス様が警告されたように傲慢の罪は重大な結果をもたらすのです。サタンは赦されることなく天から追放されたのです。身近な弟子であっても悔い改めなければ「神の国」に入れないのです。キリスト信仰によって「救い」が確定した訳ではないのです。胆(きも)に銘じるのです。

*罪を犯さない人はいないのです。ところが、罪の自覚がなければその人にとって悔い改める理由はないのです。「神の国」における評価にこの世の基準は適用されないのです。「すべての人に仕える者になりなさい」を実行した人々だけがそれを得るのです。傲慢の罪は他の様々な罪よりもはるかに大きいのです。イエス様のご命令は使徒たちとって意外でした。彼らは指摘されて初めて「神の国」に入れないほどの大きな罪を犯していることに気づいたのです。人は信仰によって無条件で「神の国」に受け入れられるのではないのです。キリストの信徒たちには信仰の内実を証明する「行い」が求められるのです。キリスト信仰に生きることは簡単ではないのです。神様は人々が尊ぶもの-社会的地位や名声など-を忌み嫌われるのです(ルカ16:15)。神様の前に自らを低くすること、貧しい人々や虐げられた人々(隣人)に奉仕することを命じておられるのです(マタイ22:37-40)。神様と富の両方に仕えることは出来ないのです(ルカ16:13)。富を必要としている人々に施すことが義務付けられているのです。これらを実行することが「永遠の命」に至る道なのです。罪とは「神様の御心」から離れて生きていることです。特に、傲慢の罪は死に至る病です。キリストの信徒たちは日々自己を検証するのです。ただ、傲慢の罪の重大さに気づいている人は極めて少ないのです。イエス様のお言葉に耳を傾けるのです。克服する方法が示されているのです。視点を変えるのです。社会の底辺で苦しんでいる人々に目を向けるのです。全力で仕えるのです。

2025年08月31日

「声なき叫び」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書13章10節から21節 

安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている(ある霊によって手足を不自由にされている)女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった(体が前かがみになり、まっすぐに伸ばすことが出来なかった)。イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治(なお)った」と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治(なお)してもらうがよい。安息日はいけない。」しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日に(も)牛やろばを飼い葉桶(おけ)から解いて(小屋から出して)、水を飲ませに引いて行くではないか。この女(婦人)はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛(しば)られていたのだ。安息日であっても、その束縛(そくばく)から解いてやるべきではなかったのか。」こう言われると、反対者(敵対者たち)は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。そこで、イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔(ま)くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」また言われた。「神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨(ふく)れる。」


(注)


・日本語訳の問題点:


●「腰の曲がったまま・・」は意訳です。障害の詳細は不明です。


●「女」も「婦人」も原語は同じです。どちらかに統一すべきです。翻訳者の考え方が表れています。


・会堂長:礼拝を司(つかさど)り、建物や施設の管理を担(にな)っていました。


・安息日の規定:モーセの「十戒」にあります。


■安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなた(がた)の仕事をし、七日目は、あなた(がた)の神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなた(がた)も、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなた(がた)の町の門の中に寄留する人々も同様である(出エジプト記20:8-10)。これは人間のために設けられたのです。神様の深いご配慮なのです。


・アブラハムの娘:神様が選ばれた人々の一人であることを確認されたお言葉です。


■主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪(のろ)う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」(創世記12:1-3)


■イエス様は悔い改めた徴税人の頭ザアカイも「アブラハムの子」と呼ばれました(ルカ19:9)。


■悪霊と病気は深く関係しています。「癒しの業」はイエス様が悪魔の力に打ち勝っていることを証明しているのです。女性の弟子マグラダのマリアは「七つの悪霊」を追い出していただいた人です(ルカ8:4)。


・サタン:悪霊の頭です。悪魔と同じ意味を表しています。人間の罪を「告発する者」と呼ばれていました(ヨブ記1:6)。


■七十二人(弟子たち)は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻(いなずま)のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威(けんい)を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記(しる)されていることを喜びなさい。」(ルカ10:17-20)


・神の国(天の国):旧・新約聖書を貫く信仰の基本理念です。誤解されているような死後に行く「天国」のことではないのです。


●神様の全き支配のことです。神様が人間の心と社会の隅々において真に崇められ、あらゆる価値の基準とされることです。それらを通して正義と平和の秩序が実現されることなのです。旧約聖書は神の国の到来を待ち望むイスラエルの信仰を書き記したものです。神様はイスラエルの民をエジプト人の支配から救い出し、砂漠を経て約束の地へ導かれたのです。ご自分に頼る者を決して見捨てられないのです。どのような地上の力にも勝っておられるのです。信頼するに値するお方なのです。その後も、イスラエルの民は異国の支配下で弾圧され、分断され、捕囚の地に連れていかれたのです。しかし、神様はイスラエルと共におられたのです。民の身の上を思い,心を痛められたのです。イスラエルの民はこの神様がいつの日か、必ず自分たちを解放して下さることを信じたのです。イエス様は「神の国」の到来を目に見える形で福音(良い知らせ)として証しされたのです。


・パン種:パンの製造に使用する酵母(こうぼ)です。


・1サトン:約12.8リットルです。


(メッセージの要旨)


*イスラエルは歴史的に家父長社会です。男性が女性を圧倒的に支配しているのです。女性は男性(父親あるいは夫)の財産の一部として扱われたのです(出エジプト記22:15-16)。夫が妻に不満がある場合は簡単に離縁することが出来たのです(出エジプト記21:7-11)。女性は悪霊に取りつかれていました。手足も不自由な障害者だったのです。「生まれつきの盲人」を見て、弟子たちがイエス様に「誰が罪を犯したからですか」と尋(たず)ねているのです(ヨハネ9:1-2)。心身の障害は罪の結果であると考えられていたからです。女性の苦しみや悲しみは想像を絶するのです。会堂長や彼の信仰理解に同調する人々はイエス様を非難したのです。イエス様は彼らを偽善者たちと呼ばれたのです。人間よりも家畜の方を大切にしているからです。偽善は傲慢(ごうまん)から生まれるのです。イエス様は兄弟姉妹を裁く弟子たちにも「まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑(くず)を取り除くことができる」と言われたのです(マタイ7:5)。信仰を自負する人々が偽善に陥(おちい)っているのです。罪人を裁く資格があるかのように尊大になっているのです。罪の範囲を自分で決めているのです。してはならないことをすれば罪です。しかし、するべきことをしなければそれも罪なのです。イエス様に裁きが一切委(ゆだ)ねられていることを想起すべきです(ヨハネ5:22)。キリストの信徒たちは「声なき叫び」に耳を傾けるのです。「神の国」の建設に参画するのです。


*アメリカの西海岸にある都市シアトルでユダヤ教の礼拝に出席させていただいたことがありました。担当者の方によると、2000年前の礼拝様式と全く同じではないとのことでした。しかし、当時の状況を十分に追体験することが出来ました。印象に残ったことが幾つかあります。一部をご紹介します。会堂内の正面の壁の中に置かれたランプの両側に「十戒」が五戒に分けて掲示されていました。神様の戒めに忠実な人々はモーセの律法を大切にしておられることが分かるのです。礼拝のたびに「安息日を心に留め、これを聖別せよ」を確認されているのです(出エジプト記20:8)。イエス様はユダヤ人です。安息日に会堂で礼拝することを常とされていました。聖書(旧約聖書)を朗読されることもあったのです(ルカ4:16)。今回は教師として教えられたのです。この点はキリスト信仰を考える上とても重要です。18年間も手足の不自由な女性が礼拝に出席していました。彼女はイエス様に願い事を申し出た訳けではないのです。イエス様の方から「癒しの業」を施(ほどこ)されたのです。これが福音なのです。ところが、礼拝の責任者である会堂長は群衆に律法の規定を説明しながら、間接的にイエス様を非難しているのです。すでに、イエス様は「安息日は人のために定められたこと」、「ご自身が安息日の主であること」を明言しておらます(マルコ2:27-28)。「神の国」が到来しているのです。ただ、「からし種」や「パン種」のように小さいのです。イエス様はキリストの信徒たちにそれらを「大きくしなさい」と言われたのです。


*新約聖書のヤコブの手紙は示唆(しさ)に富んでいます。「あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来(き)、また、汚(きたな)らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたは、こちらの席にお掛けください』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座(すわ)るかしていなさい』と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし・・たことになるのではありませんか」と書かれています(ヤコブ書2:2-4)。18年間も病の霊に取りつかれ、体に障害がある女性が会堂に来ても、会堂長や律法主義に固執(こしつ)する人々は彼女を罪人として蔑(さげす)むだけなのです。女性の苦悩や悲しみに関心を示すことはなかったのです。軽蔑(けいべつ)の眼差(まなざ)しに耐(た)えながら、会堂の隅(すみ)に立って祈りを捧げたのです。女性は会衆と同じ空間にいながら孤独でした。イエス様はこの人に声をかけられたのです。ヤコブが「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継(つ)ぐ者となさったではありませんか」と言っています(ヤコブ書2:5)。イエス様は「力ある業」を通して「神様の御心」を伝えられたのです。パウロは「自分のことを正しい人であると自負しても救いの保証にはならない」と言うのです(1コリント4:4)。誰にも人を裁く資格はないのです。「神様の御心」を実践した人々だけが「神の国」に迎えられるのです(マタイ7:21)。


*イエス様はご自身を「神の子」と信じる人々に模範(もはん)を示されたのです。障害のある人々、悪霊に悩まされている人々、徴税人たち、遊女たち、サマリア人たち、貧しい人々、不当に弾圧されている人々、罪人として蔑(さげすまれている人々-社会の中で排斥されている人々-の友になるように命じられたのです。ところが、教会はイエス様の教えをこの世に順応させるために工夫を凝(こ)らして来たのです。キリスト信仰がイエス様の「生き方」ではなく、時代の寵児(ちょうじ)となった宗教指導者たちや神学者たちが作成した教義(神学理論)によって語られているのです。律法学者たちやファリサイ派の人々の解釈がユダヤ教を支配したように、これらの人の信仰理解がキリスト信仰を説明する根拠になっているのです。キリスト信仰とは名ばかりで、金持ちや権力者たちの主張を正当化するために「尊い御名」が用いられているのです。アメリカで見られる「繁栄の神学」などを例として挙げることが出来るのです。イエス様は「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」と言われたのです。ご自身の言葉を聞き、それらを行う人を「・・岩の上に土台を置いて家を建てた人」と呼ばれるのです(ルカ6:46-48)。イエス様は人々の「声なき叫び」に心を砕(くだ)かれたのです。自ら声をかけられたのです。それぞれの重荷を取り除かれたのです。キリストの信徒たちはイエス様の「生き方」に倣(なら)うのです。苦難に喘(あえ)ぐ人々が来るのを待つのではなく、これらの人の所へ出向くのです。


*イエス様は「神の国」の福音についてたとえ話を用いて語られたのです。イザヤの預言(イザヤ書6:9-10)を引用してその理由を説明しておられます。神様は「・・あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない」と言われたのです(マタイ13:14-15)。イザヤの預言はイエス様の時代においても真実なのです。会堂長や彼に同調する人々は「聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない」のです。イエス様はご自身を信じられない人々に譲歩して、「わたしの業」を信じなさいと言われたのです(ヨハネ10:38)。しかし、たとえ死者が生き返っても信じないのです。一方、群衆-ほとんどが貧しく、教育の機会に恵まれなかった人々‐は「癒しの業」に「神の国」の到来を確信したのです。イエス様は「神の国」の宣教方法について教えられました。キリスト信仰とは教義や神学理論を学ぶことではないのです。イエス様の苦難のご生涯に目を向けることです。生と死と復活の事実をありのままに伝えることなのです。キリストの信徒たちにとってからし種を大きな木に成長させることやパン種によって大きなパンを作ることは任意ではないのです。大切な使命なのです。「声なき叫び」に耳を傾けるのです。苦しみの中にある人々の重荷を少しでも軽くするのです。自分に出来ることから実行するのです。

2025年08月24日

「それを実行しなさい」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書10章25節から37節

すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

(注)

・律法の専門家:「モーセの律法」を教える教師のことです。

■最も重要な第一の掟(おきて)

イスラエルよ。今、あなた(たち)の神、主があなた(たち)に求めておられることは何か。ただ、あなた(たち)の神、主を畏(おそ)れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽(つ)くし、魂(たましい)を尽くしてあなた(たち)の神、主に仕え、わたしが今日あなた(たち)に命じる主の戒(いまし)めと掟を守って、あなた(たち)が幸いを得ることではないか。・・・あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者(たち)の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏(かたよ)り見ず、賄賂(わいろ)を取ることをせず、孤児(たち)と寡婦(かふたち)の権利を守り、寄留者(たち)を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者(たち)を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。(申命記10:12-18)

■最も重要な第二の掟

(あなたたちが)穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘(つ)み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者(たち)や寄留者(たち)のために残しておかねばならない。・・・あなた(たち)は隣人を虐(しいた)げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。耳の聞こえぬ者(たち)を悪く言ったり、目の見えぬ者(たち)の前に障害物を置いてはならない。・・・あなたたちは不正な裁判をしてはならない。・・・隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。・・・自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。(レビ記19:9-18)


・エリコ:エルサレムとエリコの間はおよそ26kmです。標高差は1,000mあります。険しい道を下ってエリコに向かいます。途中には洞窟が多くあり、追いはぎが隠れていました。


・祭司;人々のために、人々に代わって神様に礼拝と供え物を捧げ、祭儀を司る人です。旧約聖書の時代はレビ人がその任を担っていました。イエス様の時代にはエルサレム神殿の宗教儀式を執行していました。


・レビ人:祭司職を受け継いで来たレビ族出身の神殿役人のことです。


・サマリア人:歴史的にはユダヤ人です。祖先は南北に分裂していたイスラエル王国の北王国(イスラエル)に溯(さかのぼ)ります。南王国はユダと呼ばれていました。紀元前721年アッシリアがサマリアを支配下に置いたのです。サマリアでは混血が進み、ユダヤ教とは異なる独自の信仰が形成されたのです。ユダ人たちとの間に激しい対立が続いているのです。サマリア人たちとの交際は断絶したのです。

・1デナリオン銀貨:当時の平均的労働者の1日分の賃金に相当します。

(メッセージの要旨)

*律法の専門家はイエス様の評判を聞いていたのです。傲慢(ごうまん)にも学識の程度を確かめようとして「永遠の命」について質問したのです。イエス様は「永遠の命」に与(あずか)るために最も重要な二つの戒めを実行することが要件であると答えられたのです。イエス様を貶(おとし)めるどころか、かえってイエス様の権威を高める結果となったのです。そこで「隣人の定義」について再度質問したのです。律法学者の理解によれば「隣人」とは律法を厳格に順守している人々のことです。徴税人や娼婦、心身に障害のある人々などは「隣人の範囲」に入らないのです。「孤児」、「寡婦(かふ)」、「寄留者」たちには社会的地位や保障もなく、生きていくために親類の支援に頼るか、劣悪な労働条件で働いてわずかな収入を得るしかなかったのです。心身に障害のある人々は罪人とされ、汚れているのです。社会から排斥されたのです。律法学者は律法を熟知しているのです。しかし、「認識の範囲」に留まっているのです。イエス様は「愛の観点」から解釈の誤りを鋭く指摘されたのです。律法は忠実に実行されなければならないのです。ユダヤ人たちが蔑(さげす)んでいたサマリア人の善行を敢(あ)えて例に挙げられたのです。祭司やレビ人ではなく、サマリア人が「行い」によって隣人になったのです。聖書の個所を抜粋して「善いサマリア人の話」として紹介されることが多いのです。文脈から「永遠の命」がテーマなのです。「永遠の命」は「信じること」によってもたらされないのです。「善い行い」がなければ「救い」に与れないのです。

*預言者イザヤは「永遠の命」に言及して「(主)は死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである」(イザヤ書25:8)、「あなたの死者が命を得/わたし(彼ら)のしかばねが立ち上がります(ように)。塵(ちり)の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光の露。あなたは死霊の地にそれを降らせられます」(イザヤ書26:19)と言うのです。すでに、神様は死者に「復活の命」を与えることを約束しておられるのです。律法学者は旧約聖書が伝える「永遠の命」について認識しているのです。先生(ラビ)として評判の高いイエス様について聞いているのです。専門家としての自負心から「永遠の命」について質問したのです。学者があるテーマについて議論をすることは一般的に行われていました。ただ、この人の意図は不純なのです。イエス様は旧約聖書に精通されています。律法学者も律法を熟知しているのです。二つの戒め-神様と隣人を愛すること-の重要性について両者の見解は一致しているのです。イエス様は律法学者の知識を誉(ほ)めた後「それらの規定を実行しなさい。そうすれば、永遠の命に与れる」と言われたのです。イエス様のお言葉は律法を厳格に順守して来たこの人にとって意外でした。「あなたはまだ『永遠の命』に与っていない」と明言されたからです。一般論ではなくなったのです。律法学者は自分の正しさを証明しようとして「わたしの隣人とはだれですか」と再度挑戦するのです。

*イエス様は有名な「善いサマリア人」のたとえ話をされました。サマリア人たちとユダヤ人たちとの永い対立の歴史を知ればたとえ話の深い意味に気付かされるのです。ユダヤ人たちが罪人として蔑むサマリア人が「神様の御心」を実践しているのです。指導者たちは律法を順守しているのです。しかし、「律法主義」に陥(おちい)っているのです。しかも、「知的信仰」に留まっているのです。律法学者が定義する「隣人」は律法を厳格に順守する人々のことです。イエス様が心を砕かれた「隣人」は貧しい人々や虐げられた人々など困難を覚える人々なのです。エルサレムとエリコの間の街道には強盗や追い剝(は)ぎが頻繁に出没したのです。イエス様の物語は「たとえ話」ではないのです。現実に起こった出来事を話しておられるのです。ある人が追い剥ぎに襲われたのです。祭司やレビ人は半殺しにされた人を助けるよりも、瀕死(ひんし)の人に触れて律法違反になることを避けたのです(民数記19:10-13)。介抱のために滞在が長くなれば自分自身が同様の標的になることを恐れたのです。ところが、サマリア人は自分の命の危険さえ顧(かえり)見ずに追い剥ぎに襲われた人を助けたのです。イエス様は律法学者に「あなたも同じようにしなさい」と言われたのです。「隣人を愛する」とはこのような「行い」のことを言うのです。強盗に襲われた人がユダヤ人かサマリア人かそれ以外の国の人かは分からないのです。確かなことはこの人が瀕死の状態に放置されていたことです。サマリア人はこの人を憐れに思って自分に出来ることをしたのです。

*「隣人」とは近所に住む人々でも、自分が恣意的(しいてき)に選べる人々でもないのです。自分の畑もなく日々の賃金で生活している人々、心身に障害のある人々、不正な裁判を強いられている人々のことなのです。神様はご自身を愛し、掟を守ることとは、社会の最も弱い立場に置かれている人々の権利を守り、社会正義の実現に参画することであると言っておられるのです。イエス様は群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれたのです。律法を厳格に遵守し、敬虔(けいけん)な生活を送る人々から軽蔑される人々の悩みや苦しみを共に担われたのです。虐げられた人々のへの共感は福音宣教の原動力なのです。弟子たちに「イスラエルの失われた羊のところへ行きなさい」と命じられたのです(マタイ10:6)。律法学者たちは律法を正確に知っているのです。ところが、それを実行していないのです(マタイ23:2-4)。律法学者たちだけではないのです。教会や信徒たちが同じような状況にあるのです。貧しい人々や虐げられた人々の窮状が見えているのに「冷たい水一杯」を届けないのです。イエス様が社会の底辺にまで下られたのに、自分たちは居心地の良い場所から一歩も出ていないのです。「教会の門は誰にでも開かれていますよ」と言って、苦難に喘(あえ)ぐ人々が来るのを待っているのです。神様とイエス様が「救いの業(わざ)」を開始されたのに「御心の実現」に協力をしないのです。信仰の世界から地上の世界を見下ろしているのです。キリスト信仰の在り方が問われているのです。

*イエス様のたとえ話を社会的背景や文脈から切り離して「隣人愛」の勧めとしてのみ理解するとすれば本質を見誤ることになるのです。問題になっているのは「永遠の命」に至るための要件です。律法(戒め)を知識として持っていることとか教義として教えていることが「救い」の保証ではないのです。「永遠の命」に与るためには信仰を実践することが決定的に重要なのです。「善いサマリア人」のたとえ話は律法主義に固執(こしつ)する人々に悔い改めの指針となるのです。「知的信仰」で完結しているキリストの信徒たちへの警鐘(けいしょう)でもあるのです。ヤコブも「・・自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。・・」と言っています(ヤコブ書2:14-17)。霊と真(まこと)を持って神様に近づくのです。正義、慈悲、誠実を旨(むね)として生きるのです。いずれも「隣人愛」を実践することによって真実となるのです。国内はもとより世界の各地に支援を必要としている「隣人」がたくさんいるのです。これらの人の苦難や苦悩を傍観してはならないのです。無関心はその人の「救い」を妨げるのです。「隣人愛」を欠いた信仰は死んでいるのです。

2025年08月17日

「平和と正義の実現」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書5章9節から12節及びイザヤ書32章17節から18節

平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。義(正義)のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである(マタイによる福音書5章9節から12節)

正義が造り出すものは平和であり/正義が生み出すものは/とこしえに安らかな信頼である。わが民は平和の住みか、安らかな宿/憂いなき休息の場所に住まう(イザヤ書32章17節から18節)。

(注)

・イザヤの預言:平和について

■終わりの日に・・/主は国々の間を裁き/多くの民のために判決を下される。/彼らはその剣を鋤(すき)に/その槍を鎌(かま)に打ち直す。/国は国に向かって剣を上げず/もはや戦いを学ぶことはない(イザヤ書2:4)。

国連本部の前の道路を挟んで向かい側に「英文の碑」(日本語訳と同じ内容)があります。

THEY SHALL BEAT THEIR SWORDS INTO
PLOWSHARES. AND THEIR SPEARS INTO
PRUNING HOOKS. NATION SHALL NOT LIFT
UP SWORD AGAINST NATION. NEITHER
SHALL THEY LEARN WAR ANY MORE.

          ISAIAHA

・平和の君と正義について:


■万軍の主はこう言われる。「ぶどうの残りを摘むように/イスラエルの残りの者を摘み取れ。ぶどうを摘む者がするように/お前は、手をもう一度ぶどうの枝に伸ばせ。」誰に向かって語り、警告すれば/聞き入れるのだろうか。見よ、彼らの耳は無割礼で/耳を傾けることができない。見よ、主の言葉が彼らに臨んでも/それを侮り、受け入れようとしない。主の怒りでわたしは満たされ/それに耐えることに疲れ果てた。「それを注ぎ出せ/通りにいる幼子、若者の集いに。男も女も、長老も年寄りも必ず捕らえられる。家も畑も妻もすべて他人の手に渡る。この国に住む者に対して/わたしが手を伸ばすからだ」と主は言われる。「身分の低い者から高い者に至るまで/皆、利をむさぼり/預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らは、わが民の破滅(傷)を手軽に治療して/平和がないのに、『平和、平和』と言う。・・・(エレミヤ書6:9-14)

 

・裁きの判断基準:

■それから、王は左側にいる人たちにも言う。「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。」そこで、王は答える。「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。(マタイ25:41-46)。

・国連憲章:

国際連合の基本事項を規定した条約。第二次世界大戦中の連合国の協力を基盤とする戦後平和維持の理想を実現し、かつ国際連盟の失敗の教訓を生かした世界平和機構の設立を目的とするもので、1945年6月のサンフランシスコ平和会議で採択され、同年10月に発効した(日本大百科全書)

・UNHCR:

United Nation High Commissioner for Refugee の略称です。日本名は「国連高等難民弁務官事務所」です。1950年に設立された国連機関です。1945年、1981年にノーベル平和賞を受賞しています。国連UNHCR協会は日本における公式支援窓口です。

・日本国憲法第9条:

(1)日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又(また)は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

(2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

・非核三原則:「核兵器を持たず、造らず、持ち込ませず」のことです。

(メッセージの要旨)

*イエス様は「平和を実現する人々は神の子と呼ばれる」と言われたのです。キリスト信仰は行いを求めるのです。「神様の御心」に適(かな)った行いが人を「救い」に与らせるのです。平和を実現することはキリストの信徒たちの使命なのです。ただ、正義を欠いた平和は偽(いつわ)りなのです。この点は特に重要です。ユダヤ人たちの苦難の歴史が証明しているのです。イスラエルが南北の王国に分裂している時代がありました。預言者イザヤは南王国ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世において活動しました。期間は紀元前738年から688年の頃です。北王国イスラエルはホシェア王の時代、自分たちの神様を捨てて偶像に仕えたのです。中心都市サマリアはアッシリアによって陥落(かんらく)したのです(紀元前722/721年)。南のユダ王国もアッシリアの脅威(きょうい)に怯(おび)えていました。イザヤはヒゼキヤ王に先祖が行って失敗した政治的、軍事的な画策をやめて、神様により頼むことを助言したのです。ヒゼキヤ王は神様に祈ったのです。祈りは聞き入れられたのです。一夜にしてアッシリア軍18万五千人を撃(う)たれたのです。「・・主は平和を宣言されます/御自分の民に、主の慈(いつく)しみに生きる人々に・・慈しみとまことは出会い/正義と平和は口づけし、まことは地から萌(も)えいで/正義は天から注がれます」と明言するのです(詩編85:9-12)。今年は戦後80年です。キリストの信徒たちは最も重要な戒め‐神様と隣人を愛すること-を心に刻み、平和と正義の実現に取り組むのです。

*日本の8月は平和について考える良い機会です。6日は広島に、9日には長崎に原子爆弾が投下されました。両市でおよそ20万人の市民が犠牲になったのです。15日は戦争が終わった日ではないのです。侵略戦争を遂行した軍部と軍国主義が敗北した日です。敗戦の意味を考える日なのです。平和を実現する上でこれらの視点は決定的に重要です。戦争で約310万人の尊(とおと)い命が失われたのです。イエス様は「山上の説教」において群衆や弟子たちに平和の尊さを教えられました。平和は待っているだけでは訪れないのです。人々の不断の努力が不可欠なのです。平和とは現状を肯定することではないのです。争いがないことでもないのです。すべてにおいて正義と公平が貫かれていることに他ならないのです。イエス様は権力者たちの不信仰と腐敗を激しく非難されたのです。ご自身に倣(なら)って抑圧と搾取と闘っている人々を祝福されるのです。キリスト信仰を標榜(ひょうぼう)する信徒たちにも、飢(う)えに苦しむ人々、無一物の人々、不当に束縛されている人々の窮状(きゅうじょう)を救うために「何をしたか」と問われるのです。すべての人が大切にされ、豊かな生活を送れるように-戦争や紛争のない平和な社会を実現するために-自分に出来ることを実践することが求められているのです。イエス様は「この最も小さい者(たち)の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」と言われたのです。イエス様は再び地上に来られるのです。平和と正義を実現するための働きがその人の「救い」の保証となるのです。

*イエス様は神様の子供たちが「神様と隣人」を愛して生きるように教えられました。平和と正義を実現するという責務が与えられたのです。世界の多くの国において、信頼と公平が軽んじられ、国家間の争いが絶えないのです。政治的抑圧と富の偏在が顕著になっているのです。国内においても格差が拡大しているのです。近年、紛争を解決するためには武力行使も止むを得ないとする雰囲気が漂(ただよ)っているのです。日本は平和憲法を高く掲げ、唯一の被爆国として、戦争の残酷さと悲惨さを発信するのです。非核三原則を堅持し、原爆投下が人類に対する大罪であったことを訴えるのです。同時に、日本の軍部が近隣のアジア諸国を侵略し、真珠湾を攻撃し、人々の尊い命を奪い、多大な損害を与えたのです。これらの事実を曖昧(あいまい)にしてはならないのです。平和運動は思想・信条の垣根を越えて進められているのです。イエス様は平和の実現のために奔走(ほんそう)しているすべての人に希望を与えられたのです。平和は正義の裏付けを必要とするのです。簡単なことではないのです。正義を追求すれば既得権益に執着(しゅうちゃく)する人々と必然的に対立するのです。厳しい試練に遭遇(そうぐう)するのです。不断の闘い(意思表示)がなければ平和を勝ち取ることは出来ないのです。キリスト信仰が変容されているのです。多くの人が誤解しているのです。信仰には行いが伴わなければならないのです。行いのない信仰はそれだけでは死んでいるのです(ヤコブ書2:18)。「神様の御心」に適(かな)う人々が「神の子」になるのです。

*国連(国際連合)は数千万の人々が犠牲になった第二次世界大戦の深い反省の中から誕生しました(1945年10月24日)。国際間の平和と安全の推進、国際協力のために設立された機関です。日本は1956年に加盟しました。世界平和を具体化するために心血を注いだアメリカのルーズベルト大統領は自ら提案した「国連」という名称を見ることなく亡くなりました(1945年4月12日)。後を継いだトルーマン大統領は戦後処理に全力を傾注したのです。戦争終結後を見据えて国の力を誇示するため、映画「ひろしま」にあるように、広島、長崎を新兵器(原子爆弾)の実験場にすることを認めたのです。国連ビルの前にはイザヤの預言が刻(きざ)まれたモニュメントが建っています。世界に向けて信仰の観点から平和を訴え続けているのです。本部の中庭には日本が寄贈した平和の鐘(鐘楼)が置かれています。現実はイザヤの言葉通りになっていないのです。世界の至るところで戦争や紛争が起こっており、平和の要(かなめ)としての国連が大国の意向に振り回されているのです。UNHCRの「2024活動報告書」(2025年6月)によると、1億2260万人‐日本の総人口に匹敵する数の人々‐が止まない戦争や暴力行為による情勢の悪化、気候変動により、故郷を追われているのです。レバノンでの軍事攻撃、政情不安に苦しむシリア、戦争が始まってから3年目を迎えているウクライナでも厳しい状況は続き、ガザは人道危機に直面しています。これらの事態に無関心でいることは罪なのです。キリストの信徒たちは出来ることをするのです。

*平和と正義はキリスト信仰における根本理念です。ところが、「救い」と無関係であるかのように理解されているのです。イエス様の愛の教えに反しているとして、それらを実現するための闘いから距離を置いているのです。結果として原因である不公正や格差を容認する側に立っているのです。「愛の教え」を説かれたイエス様は「平和を実現する人々は幸いである」とも言われたのです。旧・新訳聖書を自分の都合に合わせて解釈してはならないのです。イエス様はご自身の権威に基づいて説明し、「生き方」を通して証されたのです。人は宗教的儀式への参加、聖句の暗唱力や礼拝出席の頻度(ひんど)によって「救い」に与るのではないのです。飢えや病気で苦しむ人々のために何を捧げたか、内戦や紛争で荒廃した地域や国において自由を奪われた人々のためにどのように取り組んだかによって、その人の「救い」が判断されるのです。平和を実現するためには正義の確立が不可欠です。正義を追求すれば抑圧者たちや不当な利益を得ている人々との対立は避けられないのです。不正や腐敗を告発すれば迫害されるのです。身に危険が及ぶことさえあるのです。「正義の闘い」なくして「真の平和」は訪れないのです。平和運動は盾(むじゅん)の中で行われているのです。イエス様が「中立の立場」を取られることはなかったのです。貧しい人々や虐(しいた)げられた人々の側に立たれたのです。イザヤと同様に「神様の御心」に反した現状を鋭く批判されたのです。キリストの信徒たちはイエス様の御跡を辿(たど)るのです。平和と正義を希求するのです。

2025年08月10日

「完全な者となりなさい」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書5章38節から48節

「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬(ほお)を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める(乞い願う)者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

(注)

・日本語訳:聖書を読む時、多くの場合日本語訳によってその内容を理解するのです。ところが、原語によっては複数の訳が可能なのです。典型的な例が日本語に訳された「義」という言葉です。主に倫理や道徳を表す言葉として用いられているのです。しかし、この言葉には「正義」という意味があるのです。キリスト信仰が誤解されている一つの要因に翻訳(ほんやく)の問題があるのです。神様とイエス様は正義と愛を大切にされるのです。イエス様が宣教された「神の国」の福音に「正義の視点」を加えるのです。


・『目には目を、歯には歯を』:申命記19:21を参照して下さい。律法は被害に比例する報復を認めています。その趣旨は怒りによる過度の報復を抑制することにあるのです。

■もし、その他の損傷があるならば、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。(出エジプト記21:23-25)


・1ミリオン:約1,480メートルです。

・隣人を愛し、敵を憎め:「敵を憎め」は旧約聖書に該当(がいとう)する箇所が見当たらないのです。詩編が参考になります。


■復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。(レビ記19:18)


■どうか神よ、逆らう者を打ち滅ぼしてください。わたしを離れよ、流血を謀(はか)る者。たくらみをもって御名を唱え/あなたの町々をむなしくしてしまう者。主よ、あなたを憎む者をわたしも憎み/あなたに立ち向かう者を忌むべきものとし 激しい憎しみをもって彼らを憎み/彼らをわたしの敵とします (詩篇139:19-22)

・敵を愛し:

■あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇(かわ)いているなら水を飲ませよ。こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる(箴言「しんげん」25:21-22)。


●「炭火を頭に積む」は人の親切心を表現しています。炭の火が消えた時、人は近隣の誰かに「燃えた炭火」を借りることになります。鍋に入れ頭の上に載(の)せて持ち帰ったのです。

 

・イエス様と律法:


■わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義(正義)が律法学者やファリサイ派の人々の義(正義)にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。(マタイ5:17-20)


・イエス様と暴力(武力):


■イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」 (マタイ26:47-54)


●十二軍団:ローマ軍の一軍団(レギオン)は6000人の歩兵と120人の騎馬兵で編成されています。相当大きな軍隊です。


・完全な者:神様を愛し、戒めを守り、隣人を愛し、道徳的に正しい生活を送る人です(レビ記19)。自分の持ち物に執着(しゅうちゃく)せず、貧しい人々に施し、イエス様と共に歩む人のことです(マタイ19:21)。行いのない信仰は空(むな)しいのです。


(メッセージの要旨)

*神様はアブラハムに「息子たちとその子孫に『主の道』を守らせ、主に従って『正義』を行わせること」を命じられました(創世記18:19)。イエス様も「何よりもまず、神の国(神様の支配)と神の義(神様の正義)を求めなさい」と言われたのです(マタイ6:33)。旧・新約聖書は信仰の原点が「正義の実現」にあることを伝えているのです。ところが、キリスト信仰が「赦しの信仰」としてのみ理解されているのです。根拠とされているのが今日の聖書の個所です。イエス様が福音を要約された「山上の説教」(マタイ5-7)の一説です。キリストの信徒の中には個人の倫理的、道徳的指針としてだけではなく、社会的な問題への対応方法-判断基準-としている方も多いのです。社会的、政治的、経済的な矛盾を究明し、現状の打破のために立ち上がることはないのです。ひたすら耐えるのです。イエス様は社会的地位や権力のない人々の側に立たれたのです。立ち位置を明確にしておられるのです。権力者たちや金持たちから不当な扱いを受けている貧しい人々や虐げられた人々に「抵抗する方法」を教えておられるのです。ある金持ちの青年は律法を厳格に守っていました。ところが、「永遠の命」の確信に至らなかったのです。「何か欠けているでしょうか」と質問したのです。イエス様は「完全になりたいなら、持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と答えられたのです(マタイ19:16-30)。「完全になる」とは「神様の御心」の実現のために行動することです。それぞれが正義を貫き、慈悲に満ち、誠実に生きることなのです。


*『目には目を、歯には歯を』が復讐を正当化する根拠として用いられているのです。「戒め」には神様の深い思いが込められているのです。目に損傷を受けた人が怒りのあまり傷つけた相手を殺してしまうこともあったのです。過度の復讐を抑制するために定められたのがこの「戒め」なのです。イエス様も「わたしが来たのは律法や預言者を・・・廃止するためではなく、完成するためである」と言われたのです。「愛」によって律法を解釈されたのです。しかし、イエス様のお言葉の意味が誤解されているのです。「愛すること」を「赦すこと」と同一視しているのです。「悪人に手向かってはならない」が「悪と闘わないこと」であるかのように解釈されているのです。沈黙、無批判、忍耐によって「神様の介入」を待つだけなのです。そこに「赦し」はあっても、悪人たちや迫害する者たちに抵抗し、抗議するという「正義」の観点が見られないのです。「無抵抗の赦し」のみが強調され、苦難に喘(あえ)ぐ人々の「無言の意思表示」が見落とされているのです。イエス様はご生涯を通して貧しい人々や虐げられた人々と共に歩まれ、これらの人の重荷を担(にな)われたのです。他方、権力者(信仰の指導者)たちの偽善や腐敗、富んでいる人たちの不信仰や不正を厳しく非難されたのです。弟子たちにはご自身に倣(なら)って生きることを求められたのです。敵や迫害する者たち、悪人たちの罪を無批判的に容認し、赦してはならないのです。抑圧や不正には断固抗議するのです。暴力に頼らす状況に応じた方法で抵抗するのです。イエス様の教えなのです。


*旧・新約聖書が伝えているように神様は「正義」と「愛」を大切にされるお方なのです。イエス様は「神様の御心」に沿って貧しい人々や虐げられた人々の友となられたのです。一方、これらの人を抑圧し、搾取する指導者(権力者)たちとは激しく対峙(たいじ)されたのです。この姿勢を十字架の死に至るまで貫かれたのです。迫害が予想される場合であっても律法違反や不当な扱いを告発されたのです。「・・左の頬をも向けなさい」は無限の赦しではないのです。不正や暴力を断じて許さないという意志表明なのです。ユダヤ人たちの慣習を知ればこのお言葉の意味が分かるのです。人々は決して左手を使わないのです。左手は「汚れている」からです。相手の右の頬を打つためには工夫がいるのです。右手の甲を用いるのです。目的は相手を物理的に傷つけるというよりは侮辱することにあったのです。双方の力に大きな差がある時は直接的な反撃は暴力をエスカレートさせ、致命的な事態を招くのです。打たれた人は屈辱的な扱いに耐えるのです。しかし、イエス様は左の頬を相手に向けなさいと言われるのです。左の頬を向けることによって静かに抵抗するのです。相手に非人間性を自覚させるのです。同時に自分の尊厳を取り戻すのです。南アフリカに有色人種を差別する人種隔離制度(アパルトヘイト)-1991年6月まで存続‐がありました。黒人女性が子供たちと歩いていました。白人の男が彼女の顔に唾(つば)を吐(は)いたのです。彼女は「ありがとう、子供たちにも同じようにして下さい」と言ったのです。男は恥じて逃げ去ったのです。


*貧しいユダヤ人たちは二つの服しか持っていないのです。上着ともう一つは下着です。人々は税金や負債を支払うために土地を担保にしてお金を借りたのです。支払いが不能になると土地は没収されたのです。神様は「もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない」と命じられたのです(出エジプト記22:24)。金貸しは律法に違反しているのです。下着を担保にしてお金を借りていれば、上着の他に担保となる物は残っていないのです。神様は貧しい人々の窮状をご存じです。「もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである」と言われるのです(出エジプト記22:25-26)。「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」は善意や好意の勧めではないのです。お言葉が金貸しに対する究極の非難であることは明白です。イエス様に従う人々のほとんどが貧しかったのです。教育の機会にも恵まれていなかったのです。金持たちの横暴と悪行から目を逸(そ)らせてはならないのです。イエス様は彼らの貪欲と不正を告発するために「裸(はだか)になりなさい」と言われるのです。持っている人々にとって有利に働く社会・政治・経済の仕組みを改めさせるのです。それぞれに覚悟が必要なのです。


*ローマ軍の兵士には自分の荷物を約1,5㎞ユダヤ人に運ばせることが認められていました。危険な仕事や作業も多かったのです。家族の前で徴用されることはその人にとって耐え難いことでした。「そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた」が当時の様子を伝えています(マルコ15:21)。イエス様は人間の尊厳を守るために力ある者たちとの闘い方について教えられたのです。暴力ではなく、「非暴力」によって闘うのです。「悪人に手向かってはならない」、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」が誤解されているのです。闘わず悪に屈服することではないのです。非暴力的な手段によって悪人や敵に「正義」や「良心」を想起させることなのです。キリストの信徒たちには「神様の御心」を実現する責務があるのです。敬虔(けいけん)さだけではないのです。社会・政治・経済の公平と平等を追求するのです。歪(ゆが)められた秩序を変革するのです。敵や迫害する者たち、悪人たちの不当性や非人間性に抵抗し、抗議することは当然なのです。同時に、彼らが悔い改めて神様の下へ導かれることを心から祈るのです。キリスト信仰の真髄(しんずい)は律法の中で最も重要な「神様と隣人への愛」を実践することです。「神の国」の福音が恣意的(しいてき)に変容されているのです。「赦し」のみに縮小されているのです。しかし、旧・新約聖書のどこにも「正義」を欠いた「赦し」はないのです。胆(きも)に銘じるのです。

 

2025年08月03日
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