日 時 2026年09月27日(日)午前10時30分~
礼 拝 式 次 第
前奏 (Prelude)
讃美歌4番
よろずのくにびと わが主にむかいて
こころのかぎりに よろこびたたえよ
主こそはかみなれ、 主はわがかいぬし、
われらはその民、 みまきのひつじぞ。
もろごえあわせて 大御名ほめつつ、
みかどに入りゆき、 みまえに近づかん
めぐみはゆたかに、 あわれみつきせず、
こよなきまことは ときわにかわらじ。
BRIEF ORDER FOR CONFESSION AND FORGIVENESS
(P) In the name of the Father, and of the + Son, and of the Holy Spirit.
(C) Amen
(P) God, whose love is everlasting, welcomes sinners to the table of mercy.
Let us confess our sin, confident in God’s forgiveness.
Silence for reflection and self-examination.
(P) Gracious God,
(C) Have mercy on us.
In your gracious compassion forgive us our sins, both known and unknown,
things done and left undone.
Uphold us by your Spirit so that we may serve you in newness of life, to
the honor and glory of your holy name, through Jesus Christ our Lord. Amen.
(P) Since we are justified by God’s grace through faith,
We have peace with God through our Lord Jesus Christ.
Almighty God has mercy on you, forgives you all your sins,
And bring you to life everlasting.
Amen
Prayer of the Day(今日の祈り)
Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書6章34節から59節
そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』(イザヤ書54:13)と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった(民数記14:26-35)。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かす(この世に命を与える)ためのわたしの肉のことである。」
それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。
(注)
・彼 ら:パンによって空腹を満たされた五千人の群衆の中にはイエス様の後を追い続けた人々もいたのです。
■群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナ(マナ)を食べました。『(モーセが)天からのパンを彼らに与えて食べさせた』(出エジプト記16:4)と書いてあるとおりです。」すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、(わたしの父が)天からのまことのパンをお与えになる(わたしの父である)。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」(ヨハネ6:24-33)
・モーセの言葉:
■あなた(がた)の神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。・・主はあなた(がた)を苦しめ、飢えさせ、あなた(がた)も先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなた(がた)に知らせるためであった。(申命記8:2-3)
●マナについては出エジプト記16章をお読み下さい。
・神様がご自身について宣言された言葉:
■主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。(出エジプト記34:6-7)
■わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。(ホセア書6:6)
・貧しい(抑圧された)人々への福音:
■主はわたし(預言者イザヤ)に油を注ぎ、主なる神の霊がわたしを捕えた。(主が)わたしを遣わして、貧しい(抑圧された)人々に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心(人々)を包み、捕らわれ人(た人々)には自由を、つながれている人(囚人たち)には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年(を)、わたしたちの神が報復される日を告知して(するために)、嘆いている人々を慰め(るために)」(イザヤ書61:1-2)。
・パンを求める切実さ:イエス様が人々に教えられた「主の祈り」(マタイ6:9-13)の中に表われています。隣人愛や経済活動に関する律法の規定(利子の免除、土地の返還)が守られていないのです。
■わたしたちに必要な糧(パン)を今日与えてください(6:11)。
■わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人(負債者たち)を/赦しましたように(6:12)。
・預言者の書:エレミヤ書31:34も参照して下さい。
・キリストの信徒たちの使命:イエス様が命じられた最も重要な二つの戒め-神様と隣人を愛すること-を実践して生きることです(マルコ12:28-31)。
・カファルナウム:ガリラヤ湖の北の端にある町です。聖書地図をご覧下さい。
・福音書記者ヨハネは「わたしは命のパンである」以外にもイエス様がご自身を定義されたお言葉を伝えています。
■わたしは世の光である。わたしに従う者は(だれでも)暗闇の中を歩まず、命の光を持つ。(8:12)
■わたしは羊の門である。・・わたしを通って入る者は(だれでも)救われる。・・門を出入りして牧草を見つける。(10:7-9)
■わたしは良い羊飼いである。・・羊のために命を捨てる。・・わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。(10:11-14)
■わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者(人々)は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。(11:25)
■わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことが出来ない。(14:6)
■わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫(ぶどう栽培者)である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。(15:1-2)
(メッセージの要旨)
*イエス様はすでに神様への絶対的信頼を表明しておられます。宣教を開始する直前に四十日間荒れ野で断食されたのです。その時、空腹を覚えられたのです。悪魔が来て「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と誘惑したのです。イエス様は「モーセの言葉」を引用して反論されたのです(ルカ4:1-4)。イエス様はご自身の後を追って来た5千人に食べ物を与えるという不思議な業を行われたのです。満腹した人々はイエス様を自分たちの王として戴(いただ)こうとしたのです。イエス様はご自身に対する誤解を正されるのです。身近な食べ物-主食であるパン-にたとえて「神様の子」であることを語られたのです。民衆はローマの支配下にあって貧しい暮らしを余儀なくされているのです。日々の糧(かて)を確保するために労苦しているのです。人々が朽ちる食べ物に関心を向けることは当然のことです。イエス様は「主の祈り」を通して神様に日々お願いするように教えられたのです。神様は人間が生きて行くために必要な物を必ず与えて下さるからです。一方、「わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」(ヨハネ5:24)、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子(救い主)があなたがたに与える食べ物である」(ヨハネ6:27)と言われたのです。信仰と行いは表裏一体なのです。最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実行して「永遠の命」に与るのです。
*ユダヤ人の信仰の根底にあるものは祖先が経験したエジプトの圧政からの解放なのです。神様は「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、・・彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」と言って、モーセを遣(つか)わされたのです(出エジプト記3:1-21)。ヘブライ人たち(イスラエルの民)の信仰心が篤(あつ)いからではなく、圧政に苦しんでいるご自身の民を憐れまれたからです。キリスト信仰を理解するためにはこの歴史的事実を常に念頭に置く必要があるのです。エジプト脱出はイエス様のメッセージの原点になっているのです。宣教活動において繰り返しモーセの名前を挙げておられます。ユダヤ人たちに神様の深い愛を想起させられたのです。神様はエジプトの王ファラオによるヘブライ人の抑圧をご自身が介入する動機とされたのです。イエス様も預言者イザヤの言葉を引用して、貧しい人々や虐げられた人々の「救い」を宣言されたのです(ルカ4:18―19)。民衆の圧倒的多数は貧しい生活の中で喘(あえ)いでいるのです。生活に不可欠な物-衣・食・住-のために奔走(ほんそう)しているのです。神様はイエス様を通して労苦する人々の切実な祈りに応えられたのです。「神の国」-神様の支配-の福音がこの世において具体化しているのです。ただ、終わりの日(最後の審判)に先立って遣わされた神様の御子が正しく理解されていないのです。イエス様はキリスト信仰の真髄(しんずい)を難解な理論ではなく、人々の生活体験に則して明らかにされたのです。イエス様の苦難に満ちたご生涯から学ぶのです。
*空腹を満たされた群衆の中にはローマの不当な支配と闘っている人々もいたのです。これらの人はイエス様をユダヤ人の王(政治的指導者)にしようとしたのです。イエス様は企(くわだ)てから逃れて身を隠されたのです。しかし、群衆はイエス様を捜し続けたのです(ヨハネ6:1-15)。イエス様は人々の窮状(きゅうじょう)を良くご存じなのです。ただ、「永遠の命」に至る食べ物-神様の御子-に真剣に向き合わないことに警鐘(けいしょう)を鳴らしておられるのです。ユダヤ人たちは先祖が荒野でマンナ(パンの一種)を食べたことは知っているのです。しかし、イエス様が天から降って来たパンであることを信じられないのです。マルコは「イエスはパンを取り・・弟子たちに与えて言われた。『これはわたしの体である。』また、杯を取り・・彼らにお渡しになった。・・『これは多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である』」と記述しています(マルコ14:22-26)。ヨハネによればイエス様は「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」と言われたのです。ユダヤ人たちはお言葉に躓(つまず)いたのです。人間の肉を食べることは人々への敵意を表し(詩篇27:2)、血を飲むことは律法で明確に禁じられているからです(レビ記3:17)。イエス様はご自身の「生き方」に倣(なら)うように命じられました。キリストの信徒たちはイエス様の教えを心に刻み、御跡を辿(たど)るのです。
*朽ちるパンを提供されたイエス様は同時に「永遠の命」を与えられるお方なのです。弟子になろうとする人々にはご自身の肉を食べ、血を飲むことが必須の要件となっているのです。イエス様は「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われたのです(ルカ9;23)。ご自身に従いご自身と運命を共にする人々だけが弟子となるのです。「わたしは命のパンである」は「霊的なものが肉的なものよりも優れていることの証明である」と主張する人々がいるのです。イエス様のお言葉の意味が誤解されているのです。イエス様は「わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」と明言されたのです(マルコ10:29-30)。「イエス様が命のパンであること」は「神の国」の将来像を予見させるのです。人間の「全的な救い」として完成するのです。イエス様は「神様の御心」-神様と隣人への愛-を実現するためにご生涯を捧げられたのです。ご自身の生と死と復活によって「神の国」の福音をこの世に届けられたのです。「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」にあるように、イエス様は「行い」の重要性を強調されているのです。弟子たちに「正義を重んじ、慈悲深く、誠実でありなさい」と命じられたのです(マタイ23:23)。キリスト信仰とは「信じること」で完結しないのです。終わりの日に、「生き方」が問われる信仰なのです。
*「救い」を説明するためにパウロの信仰理解―「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら救われる・・」(ローマ書10:9-10)―が用いられているのです。この「救いの定義」は往々にして人々に誤解を与えるのです。「救い」は知的信仰ではなく、命のパンを「食べること」によって得られるのです。イエス様「わたしよりも父や母を愛する者は(だれでも)、わたしにふさわしくない。・・自分の十字架を担(にな)ってわたしに従わない者は(だれでも)、わたしにふさわしくない」と言われたのです(マタイ10:37-39)。ご自身が「永遠の命」に至る唯一の道であることを明確にされたのです。「救い」は安価な恵みではないのです。「永遠の命」に与ろうとする人々には物心両面にわたる犠牲が伴うのです。キリスト信仰において「救い」は強調されるのです。ところが、弟子としての覚悟や責務についてあまり語られていないのです。キリスト信仰に関する神学的な解説は却(かえ)って人々を躓(つまず)かせる原因となっているのです。キリスト信仰とは「イエス様の肉を食べ、イエス様の血を飲むこと」です。イエス様の「生き方」を自分自身の「生き方」とすることなのです。イエス様が「神の国」の福音を宣教されたように、キリスト信仰を標榜(ひょうぼう)する人々は「神の国」の建設に全力を注ぐのです。「わたしは命のパンである」は教義や理念ではないのです。「信仰と行い」が一体であることを再確認させるお言葉なのです。「行い」によって信仰を証しするのです。
讃美歌6番
1
われら主を たたえまし
きよき御名 あがめばや
来る日ごと ほめうたわん
神にまし 王にます
主のみいつ たぐいなし
2
世は世へとうたいつぎ
よろこびとおそれもて
主のくしき わざを告げ
いつくしみ 知れるもの
みさかえを ほめたたう
3
みめぐみは かぎりなく
主にたよる 子らにあり
みいかりを しのびつつ
あわれみを たれたもう
主をあいし 主につかえん
アーメン
APOSTLES’ CREED
I believe in God, the Father almighty, creator of heaven and earth.
I believe in Jesus Christ, his only Son, our Lord.
He was conceived by the power of the Holy Spirit and born of the Virgin
Mary.
He suffered under (Caiaphas and) Pontius Pilate, was crucified, died, and
was buried;
He descended into hell.
On the third day he rose again.
He ascended into heaven, and is seated at the right hand of the Father.
He will come again to judge the living and the dead.
I believe in the Holy Spirit,
the holy catholic Church,
the communion of saints,
the forgiveness of sins,
the resurrection of the body,
and the life everlasting. Amen.
(使徒信条)
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、(カイアファと)ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に降り、三日目に死人のうちより蘇り,天にのぼり全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。 アーメン
Benediction(祝福の祈り)
The Grace of the Lord Jesus Christ, the love of God, and the communion
of the Holy Spirit be with all of you.
(P) Go in peace. Serve the Lord.
(C) Thanks be to God.
Postlude(後奏)
「Here I am」
I, the Lord of sea and sky,
I have heard My people cry.
All who dwell in dark and sin,
My hand will save.
I who made the stars of night,
I will make their darkness bright.
Who will bear My light to them?
Whom shall I send?
Here I am Lord, Is it I, Lord?
I have heard You calling in the night.
I will go Lord, if You lead me.
I will hold Your people in my heart.
I, the Lord of snow and rain,
I have borne my people’s pain.
I have wept for love of them, They turn away.
I will break their hearts of stone,
Give them hearts for love alone.
I will speak My word to them
Whom shall I send?
Here I am Lord, Is it I, Lord?
I have heard You calling in the night.
I will go Lord, if You lead me.
I will hold Your people in my heart.
I, the Lord of wind and flame
I will tend the poor and lame.
I will set a feast for them,
My hand will save
Finest bread I will provide,
Till their hearts be satisfied.
I will give My life to them,
Whom shall I send?
Here I am Lord, Is it I, Lord?
I have heard You calling in the night.
I will go Lord, if You lead me.
I will hold Your people in my heart.
いずれの曲もインターネットで曲名を入力すれば簡単に聴くことが出来ます。