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洗礼者ヨハネが捕らえられた後、イエス様はガリラヤ地方へ行き、福音(良い知らせ)を宣べ伝えて「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたのです(マルコ1:14-15)。イエス様は復活された後も、使徒たちに「神の国」について話されたのです(使徒1:3)。キリスト信仰の中心メッセージは「神の国」-神様の支配-にあるのです。

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「復活信仰」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書15章25節から41節及び16章9節から20節

イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。<底本に節が欠けている個所の異本による訳文>こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。†そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや(なるほど)、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。

昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦(あし)の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。

・・・

〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。〕

(注)

・最後のお言葉の比較:

■「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46、マルコ15:34)。詩篇22:1からの引用です。

■「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」(ルカ23:46)。詩篇31:5か らの引用です。

■「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)。

・詩篇22編:イエス様が引用されたお言葉の全体は以下の通りです。

・・わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻(うめ)きも言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。わたしたちの先祖はあなたに依り頼み/依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され/あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥(人々から嘲りを受け、軽蔑されている)。わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑(あざわら)い/唇を突き出し、頭を振る。「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」・・わたしを遠く離れないでください/苦難が近づき、助けてくれる者は(誰も)いないのです。雄牛が群がってわたしを囲み/バシャン(ガリラヤ湖の東側)の猛牛がわたしに迫る。餌食(えじき)を前にした獅子のようにうなり/牙をむいてわたしに襲いかかる者(たち)がいる。わたしは水となって注ぎ出され/骨はことごとくはずれ/心は胸の中で蝋(ろう)のように溶ける。口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎(うわあご)にはり付く。あなたはわたしを塵(ちり)と死の中に打ち捨てられる。犬(敵)どもがわたしを取り囲み/さいなむ者が群がってわたしを囲み/獅子のようにわたしの手足を砕く。骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺(なが)め わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。主よ、あなただけは/わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ/今すぐにわたしを助けてください。わたしの魂を剣から救い出し/わたしの身を犬どもから救い出してください。獅子の口、雄牛の角からわたしを救い/わたしに答えてください。・・わたしの魂は必ず命を得 子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。

・エリヤ:イスラエル(北王国)において紀元前865年から850年ごろに活動した偉大な預言者です。突然現れ、風のように消えたことで有名です。ユダヤ人の中には「エリヤは困難にある人を救い出す預言者」として期待する人もいたのです。列王記上・下をお読み下さい。

・神の子:イエス様に対する特別な称号です。神様の救いの歴史における忠実な僕を意味しています。預言者ナタンがダビデ王に神様のお言葉「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫(ソロモン)に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据(す)える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が過ちを犯すときは、人間の杖、人の子らの(人間が用いる)鞭をもって彼を懲らしめよう」を告げています(サムエル記下7:12-14)。

・婦人(女性)たち:イエス様の弟子たちの中に多くの女性がいました。家父長社会(男性中心の社会)にあった当時としては考えられないことでした。


・週の初めの日の朝早く:安息日は土曜日の午後6時に終わります。日曜日の朝のことです。

・しるし:イエス様が「水をぶどう酒に変えられたこと」(ヨハネ2:1-11),「死にかかっている役人の息子の病気を癒されたこと」(ヨハネ4:43-53)などは多くの人々を信仰に導いたのです。

・新しい言語:他の国々の言葉、あるいは「異言」のことです。使徒言行録2:4-11;10:46をお読み下さい。

・神の右:

■【ダビデの詩。賛歌。】わが主に賜った主の御言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」(詩篇110:1)

・神の国:天の国とも言います。場所のことではなく「神様の支配」を表す言葉です。来るべき日に、正義と愛に満ちた秩序として完成するのです。

 

「復活信仰」

April20,2025

 

(メッセージの要旨)

*今日はキリスト信仰の原点イースターです。「復活の主」に感謝し、新たな一歩を踏み出すのです。イエス様の十字架刑による死は「神の国」の福音を貫かれたことが招いた当然の帰結なのです。「神の国」-神様の主権・支配-がこの世の権力者たちによって拒否されたことなのです。イエス様の心の内を推測することは真に畏(おそ)れ多いことです。キリスト信仰を正確にお伝えするためにこの作業を進める必要があるのです。イエス様は弟子たちに三度もご自身の身に起ころうとしていることについて「人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人(たち)に引き渡す。異邦人(たち)は人の子を嘲(あざけ)り、唾をかけ、鞭打ち、殺す。そして、人の子は三日後に復活する」と予告されたのです(マルコ10:33-34)。ところが、十字架上では「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言われたのです。神様に絶対的な信頼を寄せていたイエス様が「見捨てられている」と思われたのです。福音書記者たちはその理由を記述していないのです。十字架刑は人間の尊厳を徹底的に奪う残酷な処罰です。イエス様は屈辱と悲惨の極みを経験されたのです。しかし、神様は決して沈黙しておられなかったのです。イエス様と共に人間の宿命である死の苦しみを担われたのです。死者からの初穂として復活させられたのです。罪と死の影に怯(おび)えている人々に「永遠の命」への希望を与えられたのです。同時に、イエス様の復活は神様が「神の国」の福音の正しさを証明された出来事なのです。

*イエス様の罪状書きには「ユダヤ人の王」と書かれていました。イエス様はローマ帝国への反逆罪で処刑されたのです。両側の強盗も政治犯であることが推測されるのです。イエス様の最後のお言葉は弟子たちに戸惑いを与えたのです。余りにも惨めに映ったからです。他の福音書の記者たちもそのように感じたのです。ルカは「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」という言葉に置き換えています。イエス様の穏やかな死を表現しているのです。ヨハネはイエス様の荘厳な死を描くために「成し遂げられた」と記述しています。しかし、イエス様は大声を出して息を引き取られたのです。十字架刑はよく知られた過酷な拷問の一種です。裸のまま手足を十字架に釘付けにされたのです。通行人たちに晒(さら)され、耐え難い苦痛と出血がおよそ36時間も続いたのです。福音書にはそのような残酷さと恐怖が記述されていないのです。むしろ、見物人や通行人たち、ローマ帝国の兵士や百人隊長、家族や弟子たちの様子が伝えられているのです。おそらく、福音書記者たちの深い配慮があったのです。最も古いマルコの表現が史実に近いのではないかと言われています。イエス様は神様から委ねられた「神の国」の福音のために、この世に正義と平和を実現するためにご生涯を捧げられたのです。ところが「神様の御心」を踏みにじる権力者たちは、イエス様を十字架刑-政治犯-で処罰したのです。キリスト信仰はユダヤがローマ帝国の支配下にあった時に生まれたのです。イエス様が自ら進んで死を選ばれたというような信仰理解は非歴史的であり、一面的なのです。

*イエス様の処刑後に幾つかの特筆すべき出来事が起こっています。エルサレム神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたのです。至聖所と聖所を分ける垂れ幕が取り払われたのです(出エジプト記26:31-37)。神殿の役割が終わったこと、大祭司のような仲介者が不要になったことを象徴しているのです。イエス様を通して神様に近づくことが出来るようになったのです。百人隊長がイエス様について、「本当に、この人は神の子だった」と言っています。異邦人が初めてイエス様を「神の子」として認めたのです。また、議員であるアリマタのヨセフとニコデモがイエス様のご遺体を埋葬したのです。彼らは同僚の議員やファリサイ派の人々を恐れていたのですが「行い」によって自分たちの信仰を証ししたのです(ヨハネ19:38-42)。一方、イエス様の刑死によって「神の国」の福音が終焉(しゅうえん)したかのように見えたのです。多くの弟子たちが群れから離れて行ったのです。しかし、神様は三日目に死んで葬(ほうむ)られたイエス様を復活させられたのです。福音書は様々な事例を挙げてイエス様の復活が現実に起こったことを証明するのです。「復活の主」はまずマグダラのマリアにご自身を現されました。男性の弟子ではではなかったのです。その後、二人の弟子にもご自身を現されたのです。名もない信徒たちです。ところが、イエス様の身近にいた使徒たちがこれらの人の証言を信じなかったのです。「復活の主」は使徒たちの不信仰を厳しく叱責されたのです。キリスト信仰の正当性は「復活」を信じることにあるからです。

*神様は決定的な方法-イエス様を復活させること-によって「神の国」の正しさを確認されたのです。イエス様は「何よりもまず、神の国(神様の支配)と神の義(神様の正義)を求めなさい。そうすれば、これらのもの(最低限必要な物)はみな加えて与えられる」(山上の説教)(マタイ5-7)、「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」(平地の説教)と明言されたのです(ルカ6:17-49)。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と言われたのです(ルカ5:31-32)。姦淫(かんいん)の現場で捕らえられた女性に石打ちの刑が執行される直前に、一方的に彼女の罪を赦されたのです(ヨハネ8:3-11)。中風(ちゅうぶ)の人の罪を赦すだけでなく、この人の病気も癒されたのです(マルコ2:1-12)。「父(神様)が死者を復活させて命をお与えになるように、子(イエス様)も、与えたいと思う者に命を与える」と言われたのです(ヨハネ5:21)。会堂長ヤイロの娘を死から蘇生(そせい)されたのです(マルコ5:35-43)。埋葬に向かおうとしているやもめの息子を生き返らされたのです(ルカ7:11-17)。死後四日も経っているラザロに再び命を与えられたのです(ヨハネ11:38-44)。「神様と隣人」を愛して「永遠の命」に与りなさいと言われたのです(ルカ10:21-37)。イエス様の復活によって、すべては神様のご意志であることが明らかになったのです。

*「神の国」を認めない権力者たちは、イエス様をローマ帝国への反逆者-ユダヤ人の王-として十字架刑で処罰したのです。しかし、神様はイエス様を復活させられたのです。イエス様の祈りに応えられたのです。ご自身により頼む者を決して見捨てられないのです。イエス様を「救い主」として信じる人々と共におられるお方なのです。イエス様の復活はキリスト信仰の本質を要約しているのです。イエス様の生と死を通して宣教された「神の国」の福音は「神様の御心」であったことが証明された出来事だったのです。神様は死が滅ぼされたことを宣言し、約束の「永遠の命」を先取りして見せて下さったのです。ところが、弟子たちの多くはイエス様の復活を信じられなかったのです。イエス様はご自身に出会って復活を信じた12弟子の一人トマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われたのです(ヨハネ20:29)。今日のキリストの信徒たちもトマスと大きな違いはないのです。具体的証拠によって確認しなければ事実を信じないのです。イエス様は不信仰な信徒たちに「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい」と譲歩して下さるのです(ヨハネ10:37-38)。聖書が伝える神様はイエス様の「しるし」や「癒しの業」の中で共に働いておられるのです。「復活信仰」はキリスト信仰の根幹なのです。キリストの信徒たちはイエス様が歩まれた道を辿り、「神の国」の建設に参画するのです。

2025年04月23日

「政治的裁判」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書14:53-65及び15:1-15

人々は、イエスを大祭司のところへ連れて行った。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来た。ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていたからである。すると、数人の者が立ち上がって、イエスに不利な偽証をした。「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」しかし、この場合も、彼らの証言は食い違った。そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」 しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に囲まれて来るのを見る。」大祭司は、衣を引き裂きながら言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒涜(ぼうとく)の言葉を聞いた。どう考えるか。」一同は、死刑にすべきだと決議した。それから、ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った。

・・・・

夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。


(注) 


・過越祭:七週祭、仮庵祭と共に、ユダヤ教の三大祭りの一つです。神様がイスラエルの民をエジプトから解放されたことを記念しています。七週祭は過越祭から数えて7週目、すなわち50日目に祝われた収穫祭のことです。仮庵祭はイスラエルの民が荒れ野で天幕に住んだことを記念する祭りです。秋の収穫祭でもありました。レビ記23章をご一読下さい。後代になって、七日間の除酵祭と結合されたのです。歴代誌下35:17,エゼキエル書45:21-24に記述されています。


・除酵祭:過越祭に続いて7日間行われます。歴史的経過については出エジプト記12:14-20を参照して下さい。


・大祭司:最高の権力者カイアファのことです。在職は西暦18-36/7年です。イエス様の主要な告発者となっています。

・長老:専門家ではありませんが、大土地所有者です。

・律法学者:律法を専門的に解釈する人です。

・最高法院:最高議決機関です。法廷であり、国会のような機能も有しています。

・ポンティオ・ピラト:ローマからユダヤに派遣された第五代総督です。在位は西暦26-36年です。イエス様を十字架刑で処罰する権限はローマの総督にありました。

・銀貨三十枚:イスカリオテのユダが裏切りの報酬(ほうしゅう)として受け取った金額です(マタイ27:3-5)。傷を負った奴隷の値打ちに相当します(出エジプト記21:32)。ゼカリヤ書11章を併せてお読みください。

・囚人の釈放:このような慣例を証明する文献や資料は福音書以外に見当たらないのです。

・ユダヤ人の王:イエス様に対する皮肉を込めた称号です。「政治犯」の意味が込められています。

・バラバ:ローマ帝国の支配に抵抗していた人々の一人です。強盗という訳は正確ではありません。

・十字架刑:最も残酷な処刑です。特に凶悪犯に適用されました。反逆者(政治犯)に対する見せしめとしても行われました。イエス様について書かれた「ユダヤ人の王」のように、犯罪人の罪状書きも掲示されました。

・暴動:ローマ帝国の支配に抵抗する闘争のことです。当時ユダヤ人の反乱は至る所に見られたのです。ユダヤ人歴史家ヨセフスもそのことを記述しています。

(メッセージの要旨)

*過越祭と除酵祭の二日前(水曜日)になった頃、祭司長たちや律法学者たちはなんとかイエス様を捕らえて殺そうと考えていました。イスカリオテのユダとの共謀が功を奏し、イエス様を大祭司の所へ連行することが出来たのです。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まりイエス様に対する裁判を開始したのです。大祭司は「お前はほむべき方(神様)の子、メシアなのか」と尋ねました。イエス様は「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に囲まれて来るのを見る」と答えられたのです。旧約聖書の詩篇110:1、ダニエル書7:13-14がご自身において成就することを明らかにされたのです。律法は「神を冒涜する者はだれでも、その罪を負う。主の御名を呪うものは死刑に処せられる。共同体全体が彼を石で打ち殺す」と規定しています(レビ記15-16)。イエス様は神様の名を呪い、汚したりしている訳ではないのです。しかし、最高法院の全員が死刑にすべきであると決議したのです。ところが、イエス様に石打の刑を執行しなかったのです。政治的策略が働いているのです。ローマの総督の官邸に連れて行ったのです。ピラトはイエス様を釈放しようとするのです。しかし、指導者たちは群衆を巧みに扇動し、強盗のバラバの釈放を求めさせたのです。ヨハネの福音書は彼らの脅しの言葉「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称するものは皆、皇帝に背いています」を伝えています(ヨハネ19:12)。イエス様は皇帝への反逆者として告発されているのです。十字架刑が適用されるのです。

*キリスト信仰において「神様の救い」が往々にして「罪の赦し」に限定されているのです。しかし「神の国」は人々の「全的な救い」として実現するのです。この点を肝に銘じるのです。「救いの原点」はエジプトからの解放にあるのです。イエス様の時代においても、神様はローマ帝国の圧政と腐敗した神殿政治の下で苦しむユダヤ人たちの窮状をつぶさにご覧になったのです。ご自身の独り子イエス様を遣わされたのです。イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って宣教を開始されたのです(マルコ1:15)。町や村を残らず回り、ユダヤ教の諸会堂で教えられました。また、群衆が羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれたのです(マタイ9:35-36)。病気の人々、心身に障害のある人々、悪霊に悩まされている人々を癒し、罪人として蔑(さげす)まれた徴税人たち、遊女たち、サマリア人たちと共に歩まれたのです。イエス様は「神様の御心」に反して職務を遂行するファリサイ派の人々や律法学者たちに厳しい罰が下ることを予告されたのです(マタイ23)。律法を「愛の観点」から修正しされたのです。指導者たちは自分たちの偽善と貪欲を告発するイエス様に激しい敵意を抱いたのです。この世の権威と既得権益を脅かすイエス様を殺そうとしているのです。一方、貧しい人々や虐げられた人々に「まず神の国と神の義(正義)とを求めなさい」(マタイ6:33)、「『神様と隣人』を愛して『永遠の命』を得なさい」と言われたのです(ルカ10:25-37)。

*大祭司、祭司長、長老、律法学者たちは律法に精通しているのです。ところが、人々に厳格に順守するように教えながら、自分たちはそれを実行しないのです。イエス様は「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。・・薄荷(はっか)や芸香(うんこう)-ハーブ類-やあらゆる野菜の十分の一は献(ささ)げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。・・あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ」と非難されたのです(ルカ11:37-52)。ファリサイ派の人々や律法学者たちは群衆の前で自分たちの権威を失墜させるイエス様を断じて許さなかったのです。最高法院の結論は決まっていたのです。殺すための正当な理由を見つけるだけだったのです。イエス様を神様への冒涜の罪で死刑にすることに成功したのです。彼らの憎しみは深いのです。律法の規定に従って石打の刑で殺さないのです。政治犯としてローマ帝国の法律で処刑させるのです。反逆者に適用される十字架刑で処罰させるのです。指導者たちはイエス様を釈放しようとする総督ピラトさえ脅すのです。皇帝に反旗を翻(ひるがえ)す政治犯に寛大な総督として批判するのです。ピラトの「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」に対して、祭司長たちは「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と反論しているのです(ヨハネ19:12-15)。ピラトの最大の任務は過越祭における治安維持だからです。指導者たちはピラトの弱点を突いたのです。

*神様は「アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである」と言われました(創世記18:18-19)。ご自身の戒め(律法)を実行するすべての人を祝福されるのです。ところが、歴代の王や彼らに同調する権力者たちは「神様の御心」を軽んじたのです。心の内は不信仰と放縦(ほうじゅう)に満ちているのです。偶像崇拝と悪事を止めなかったのです。神様は繰り返し預言者を遣わされたのです。彼らが悔い改めることはなかったのです。最後に、イエス様を遣わして新しい天地創造―この世を終わらせること-に着手されたのです。「神の国」-神様の支配-が適切な時期に完成することを宣言されたのです。イエス様は「神の国」の到来-神様の御心-を具体的に、目に見える形で証しされたのです。この世の権威や既得権益に執着する指導者たちは神様に主権を返すことを拒否したのです。しかも、神様が遣わされたイエス様を殺そうとしているのです。彼らの罪は真に深いのです。イエス様の十字架上の死の意味について旧約聖書に登場する表現-贖(あがな)いや契約の血など-によって説明されることがあります。しかし、イエス様を死に導いた主な原因は「神の国」と「この世」との対立にあったのです。イエス様は十字架の死に至るまでご自身の使命を貫かれたのです。「救いの御業」は生と死と復活の全体を通して理解されるべきことなのです。

*イエス様は「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。・・ わたしは彼らに永遠の命を与える。・・わたしと父とは一つである」と言われました(ヨハネ10:27-30)。ご自身を神様と同等の位置に置かれたのです。唯一の神を信じる律法学者たちやファリサイ派の人々にとって、イエス様の主張は「神様への冒涜」以外の何物でもなかったのです。万死に値する罪だったのです。律法に従いイエス様を石で撃ち殺そうとしたのです。一方、民衆はイエス様の教えと力ある業に「メシア」の姿を見たのです。指導者たちは社会が不安定になることを最も恐れたのです。「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」に良く表れています(ヨハネ11:48)。イエス様の宣教活動がローマ帝国への反乱と見なされ、軍事介入に結びつくことを危惧しているのです。大祭司カイアファは「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」と言って解決策を示したのです。イエス様が宣べ伝えた「神の国」の福音は、ユダヤ教の指導者たちの権威や既得権益と根本的に相容れないのです。指導者たちは自分たちの信仰を捨ててでも、総督ピラトの力を借りるのです。ローマ皇帝に背くユダヤ人の王として死刑判決を下し、十字架の上で処刑させるのです。イエス様の十字架の死はユダヤ教の伝統にある「罪の贖い」というよりは、「神の国」の福音を拒否し、律法と伝統に固執するこの世の権力者たちとの対立の必然的結果なのです。

2025年04月13日

「偽りの断食」

Bible Reading (聖書の個所)イザヤ書58章1節から8節


喉をからして叫べ、黙すな/声をあげよ、角笛のように。わたしの民に、その背きを/ヤコブの家に、その罪を告げよ。彼ら(イスラエルの人々)が日々わたしを尋ね求め/わたしの道を知ろうと望むように。恵みの業を行い、神の裁きを捨てない民として/彼らがわたしの正しい裁きを尋ね/神に近くあることを望むように。何故あなたはわたしたちの断食を顧みず/苦行しても認めてくださらなかったのか。見よ、断食の日にお前たちはしたい事をし/お前たちのために労する人々を追い使う。見よ/お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし/神に逆らって、こぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては/お前たちの声が天で聞かれることはない。そのようなものがわたしの選ぶ断食/苦行の日であろうか。葦(あし)のように頭を垂れ、粗布(あらぬの)を敷き、灰をまくこと/それを、お前は断食と呼び/主に喜ばれる日と呼ぶのか。わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛(くびき)の結び目をほどいて/虐げられた人(人々)を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人(人々)にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人(人々)を家に招き入れ/裸の人(人々)に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなた(がた)の光は曙(あけぼの)のように射(さ)し出で/あなた(がた)の傷は速やかにいやされる。あなた(がた)の正義があなた(がた)を先導し/主の栄光があなた(がた)のしんがりを守る。

(注)

・預言者イザヤ:当時イスラエルは南北に分裂していました。北王国は「イスラエル」、南王国は「ユダ」と呼ばれていました。イザヤの宣教はユダ王国を中心に行われました。ウジヤ王の死(紀元前738年頃)と共に始まり、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ王の治世にも及びました。

・大祭司:新約時代には同時に最高法院の長でもありました。一年に一度贖罪日に自分自身とイスラエルの民全体のために、いけにえとして捧げられた雄牛の血を皿に入れて神殿の至聖所に入り、そこでその血を注いだのです(レビ記16:11-34)。祭司の家系から選ばれ、終身制でした。ヘロデ時代以降この制度は歪(ゆが)められ、任免が権力者の意のままに行われたのです。

・イエス様の警告:イエス様も宣教を開始するにあたり、40日間の断食を荒野でされたのです(マタイ4:2)。

■断食(だんじき)するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなた(がた)は、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなた(がた)の断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなた(がた)の父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなた(がた)の父が報いてくださる。 (マタイ6:16-18)

・聖句の入った小箱:皮で作られた四角の小さな箱のことです。そこに聖句が入っています。ユダヤ人の男性は額(ひたい)と左腕に箱を巻いて祈るのです(出エジプト記:13:9)。

・衣服の房(ふさ):

■主はモーセに言われた。イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。代々にわたって、衣服の四隅に房を縫(ぬ)い付け、その房に青いひもを付けさせなさい。それはあなたたちの房となり、あなたたちがそれを見るとき、主のすべての命令を思い起こして守り、あなたたちが自分の心と目の欲に従って、みだらな行いをしないためである。(民数記15:37-39)

・貧しい人々を支える義務:

■穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘(つ)み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者たちや寄留者たちのために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。(レビ記19:9-10)

・「主の祈り」:

■だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭(あ)わせず、/悪い者から救ってください。』(マタイ6:9-13)

・贖罪日:

■以下は、あなたたちの守るべき不変の定めである。第七の月の十日にはあなたたちは苦行(断食)をする。何の仕事もしてはならない。土地に生まれた者たちも、あなたたちのもとに寄留している者たちも同様である。なぜなら、この日にあなたたちを清めるために贖(あがな)いの儀式が行われ、あなたたちのすべての罪責(罪)が主の御前に清められるからである。これは、あなたたちにとって最も厳(おごそ)かな安息日である。あなたたちは苦行(断食)をする。これは不変の定めである。(レビ記16:29-31)

●第七の月→太陰暦です。季節としては太陽暦の9月の終わりから10月の初めの頃です。

(メッセージの要旨)


*旧約の時代、宗教的な動機から一定期間食事を断つこと-断食-が実践されていました。モーセは「主の目に悪と見なされることを行って罪を犯し、主を憤らせた、あなたたちのすべての罪のゆえに、わたしは前と同じように、四十日四十夜、パンも食べず水も飲まず主の前にひれ伏した」と言っています(申命記9:18)。新約の時代も順守されていました(使徒13:2-3)。大祭司は贖罪の日に至聖所に入り、全国民の罪の懺悔(ざんげ)のために断食したのです。断食とは「神様の御心」に沿った生き方に立ち帰ることなのです。ところが、儀式だけに終わっているのです。神様は抑圧されている人々の苦しみと痛みへの共感に促されて、「救いの御業」を始められました(出エジプト記3:7-10)。「全人類の救い」の協力者として、最も貧弱な民を選ばれたのです(申命記7:6-8)。神様は民に律法を与えられました。イエス様は律法を要約して「神様と隣人を愛すること」を最も重要な戒めとされたのです。神様を愛するとは孤児、やもめ、寄留者などの権利を守ことです(申命記:10:12-19)。隣人を愛するとは雇い人たち、体の不自由な人々、虐げられている人々の側に立って行動することです(レビ記19:9-18)。断食は行われているのです。預言者イザヤは本来の目的を教えているのです。社会正義の妨げとなる事柄を断ち切ることなのです。神様は抑圧と差別を容認している人々に悔い改めを求めておられるのです。イエス様も指導者たちの内側が強欲と放縦に満ちていることを告発されたのです(マタイ23:25)。

*神殿で、ファリサイ派の人が心の中で「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通(かんつう)を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と祈ったのです。一方、徴税人は目を天に上げようともせず、胸を打ちながら「罪人のわたしを憐れんでください」と言ったのです。徴税人の祈りの方が聞き入れられたのです(ルカ18:9-14)。イエス様は律法学者たちやファリサイ派の人々の偽善を告発して「彼らはモーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣(なら)ってはならない。言うだけで、実行しないからである。・・そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。・・あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言われました(マタイ23:1-12)。不純な動機を隠して信仰心を装(よそお)えば、それは偽善なのです。神様ではなく自分を褒(ほ)めたたえることは偶像礼拝に他ならないのです。断食は施し、祈りと共にユダヤ教の中でも重要な信仰の証しなのです。しかし、人間は名声や富の誘惑に陥(おちい)りやすいのです。人間の評価を求めるいかなる行いも神様には喜ばれないのです。イエス様は「すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である(に災いあれ)」と言われたのです(ルカ6:26)。

*モーセは神様のご命令とお約束「三年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、あなたがたのうちに嗣業(しぎょう)の割り当てのないレビ人たちや、町の中にいる寄留者たち、孤児たち、寡婦たちがそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。そうすれば、あなたがたの行うすべての手の業について、あなたがたの神、主はあなたがたを祝福するであろう」をイスラエルの民に伝えました(申命記14:28-29)。人々はこの規定に則(のっと)って施しをするのです。安息日に会堂で貧しい人々に施しが行われていました。これは「神様の御心」に適っているのです。ところが施し方によっては人間の尊厳を損なうことがあるのです。元々施す側と施しを受ける側との間には貧富の差あるいは上下の関係があるのです。施しという現実はその関係を一層明白にするのです。どれほど注意を払っても施しをする人々は優越感を持ち施しを受ける人々に劣等感を植え付けるのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちのように人々の賞賛を得るために施しをすることは偽善なのです。ところが、兄弟姉妹に施しをして信仰心を誇ることもまた結果として偽善となるのです。本来、神様の命令である施しをしても誇る理由などないのです。イエス様が示された模範(もはん)に従って当然すべきことをしただけだからです(ヨハネ13:14-15)。施しには人を偽善と高慢に至らせる危険があるのです。貧しい人々に施すのです。同時に、自分を低くするのです。「救い」に与るための要件なのです(マタイ18:1-5)。

*確かに「神様の御心」に合致した行いはその人の篤い信仰心や敬虔さの表れです。一方、神様は人の心の奥を見られるのです。イエス様も信仰を自負するファリサイ派の人々に「あなたたちは人(人々)に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。施しをするときは人々からの誉れを期待して会堂や街角でしないこと、人々に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈らないこと、人々に見てもらおうと沈んだ顔つきをして断食しないこと」を助言されたのです。いずれも、人々を誤った信仰に陥(おちい)らせているからです。信仰心は神様に捧げるものであって、自分の誉(ほまれ)」を得るためのものではないのです。見せるための敬虔さや行いは空しいのです。神様はそのような信仰心を拒否されるのです。イエス様は「主の祈り」を教えられました。真空の中で語られたのではないのです。ローマ帝国の支配下にあって喘ぐユダヤ人たちに希望の光を示されたのです。「御名が崇められますように」にはローマ皇帝(シーザー)への偶像崇拝から解放して下さることへの願いが込められているのです。ローマ帝国はユダヤ人たちに信仰の自由を認める一方、皇帝を「神」として崇めることを強いていたからです。イエス様は同胞への債権を相互に放棄するように命じられました。神様と富との両方に仕えることは出来ないのです(マタイ6:24)。エルサレム神殿は強盗の巣窟なのです。地下の金庫にはたくさんの借用証書が保管されているのです。イエス様は神殿政治を担う指導者たちの偽善と腐敗を激しく非難されたのです。

*時代は下って紀元前520年頃、神様は預言者ゼカリアを通して「国の民すべてに言いなさい。また祭司たちにも言いなさい。五月にも、七月にも/あなたたちは断食し、嘆き悲しんできた。こうして七十年にもなるが/果たして、真にわたしのために断食してきたか。あなたたちは食べるにしても飲むにしても、ただあなたたち自身のために食べたり飲んだりしてきただけではないか」と言われたのです(ゼカリア書7:5-6)。イザヤの時代と変わっていないのです。断食が悔い改めの証しとして豊かな実を結んでいないのです。いつの間にか形だけのものになっているのです。イエス様も断食について言及されました。自分の信仰を誇るために断食しても何の役にも立たないのです。神様はそのような偽善を見抜いておられるのです。断食と訳されている言葉はもっと深刻なのです。自分を否定するという意味があるのです。食べ物や飲み物を断つだけでなく、お風呂に入ること(水浴び)や肉体を喜ばせること、心の楽しみなどを避けることなのです。断食をすることは施しをすること、祈ることと密接に関係しているのです。イエス様はファリサイ派の人々や律法学者たちに「あなたがたは不幸だ」と言われたのです。天罰が下ることを宣告されたのです(ルカ11:42-44)。大祭司たちはモーセの律法を熟知しているのです。ところが、本当の意味を理解していないのです。儀式として実行しているだけなのです。イエス様は「神様の御心」に従って職務を遂行しなさいと警告されたのです。権力者たちはイエス様を拒否し、殺すために全力を注ぐのです。

2025年04月06日

「神のものは神に返しなさい」

・Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書20章9節から26節

イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』(詩編118:22)その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。

そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者(スパイ・情報収集者たち)を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督(ポンティオ・ピラト)の支配と権力にイエスを渡そうとした。回し者らはイエスに尋ねた。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」彼らが「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは民衆の前でイエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった。

(注)

・律法学者:律法の書き写しを職業としていた人々です。旧約聖書に精通していたので教師、学者と呼ばれていました。多くはファリサイ派に属していました。

・祭司:神様と人との仲介者です。エルサレム神殿の宗教儀式を司(つかさど)る聖職者とその家系のことです。祭司長は祭司の頭(かしら)です。

・ファリサイ派:モーセの律法を守ることが「永遠の命」に至る道であると信じていました。ローマ帝国から「信仰の自由」を認められたことにより、納税への表立った抵抗はしなかったのです。イエス様はこれらの人の偽善と不信仰を激しく非難されたのです(マタイ23)。

・サドカイ派:祭司、長老(土地を所有している貴族)、上流階級の人々からなるグループです。モーセ五書だけを聖書と見なしたのです。霊、天使、復活を認めなかったのです。ローマの支配に協力的でした。ファリサイ派と対立していましたのでが、イエス様には共同で対抗したのです(マタイ16:1)。

・ヘロデ派:ヘロデ王家をパレスチナ支配の中心に据(す)えることを目論んでいました。信仰の問題に関心はなかったのです。ローマとの友好関係の維持に腐心していました。納税は当然のことでした。イエス様はこれらの人の不正と腐敗に警戒するように教えられたのです(マルコ8:15)

・ぶどう園:預言者イザヤがイスラエルに神様のお言葉を伝えています。

■わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ/わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに/なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。さあ、お前たちに告げよう/わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ/石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず/耕されることもなく/茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑/主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は(正しい)裁き(ミシュパト)を待っておられたのに/見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに/見よ、叫喚(ツェアカ)。(イザヤ書5:1-7)

・徴税(徴用)について:福音書にはローマ帝国の支配下にあったユダヤ人たちの様子が記述されています。対象人数を確認するために人口調査が行われたのです。

■そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。(ルカ2:1-5)

ただ、紀元後6年頃、ガリラヤのユダヤ人たちがキリニウスの命令による住民登録に抗議して暴動を起こしています(使徒5:37)。

・デナリオン銀貨:この時期の銀貨にはローマ皇帝ティベリウス・シーザー(紀元14年から37年)の肖像が描かれています。「ティベリウス・シーザー、神のアウグスト、アウグストの息子」という文字も刻印されているのです。

(メッセージの要旨)

*福音書はイスラエルに貧困が広まっていることを様々な形で詳細に伝えています。イエス様の教えと力ある業は貧しい人々や虐げられた人々の共感を得ていたのです。律法学者たちや祭司長たちはイエス様を殺すために手段を選ばないのです。巧妙な罠(わな)を仕掛けるのです。これらの人はこれまでユダヤ教の律法の範囲内でイエス様と論争したのです。今回の問いにはイエス様を全く違った土俵-政治-へ巻き込む意図があるのです。当時のユダヤはローマ帝国の支配下にありました。いつの時代においても税金は国家にとって重要な財源です。納税拒否は国家の根幹を揺るがす反逆行為なのです。ローマ帝国の支配に抵抗する人々は厳罰に処せられたのです。反乱者には十字架刑が適用されたのです。一方、ユダヤ教では十戒の冒頭に「あなた(がた)には、わたしをおいてほかに神があってはならない」と規定されています(出エジプト記20:3)。ユダヤ人たちにとって自らを神様と称するローマ皇帝に納税することは耐え難いのです。イエス様が神様を選べば反逆罪で政治犯として処刑されるのです。皇帝を選べば偽預言者として同胞から断罪されるのです。イエス様のお答えは短く、鋭く、力あるものでした。すべてのことは「神様のものは神様に返す」という根本理念に立ち返って判断されるのです。質問者たちに「皇帝のものは何か」を問いかけられたのです。「神様のもの」を自分のものにしている人々に「神様に返しなさい」と言われたのです。先ず、「神様の御心」-正義・慈悲・誠実-に沿って生きるのです。その後、税金を納めるのです。

*ユダヤ教の最高法院はイエス様を陥れるために罠を仕掛けるのです。ローマの総督の力を借りようとしているのです。派遣された人々は信仰を装っているのです。納税制度を熟知しているのです。ファリサイ派、サドカイ派、ヘロデ派の人々であることが推測されるのです。納税についての考え方は異なっていました。ところが、イエス様との対決においては一致して行動するのです。宗教的、政治的団体はお互いに牽制(けんせい)し、せめぎあっていたのです。民衆は大いに戸惑い、不安に揺れ動いていました。人々は信仰について指針を求めていたのです。質問は税金一般についてではないのです。ローマ皇帝への納税です。イスラエルの最大の関心事なのです。政治的な問題がユダヤ教の律法と絡(から)められているのです。ファリサイ派の背後にはこれらの人の指導に従順な民衆と伝統を重んじる正統派のユダヤ人たちがいるのです。サドカイ派とヘロデ派の後ろには強力なローマ軍が控(ひか)えているのです。権力者たちは立場の違いを超えて結束しているのです。イエス様がどのようなお答えをしても結論は同じなのです。処刑の口実を探しているからです。イエス様は「貧しい人々」、「捕らわれている人々」、「体の不自由な人々」、「抑圧されている人々」に解放を告げるために地上に来られたのです(ルカ4:18-19)。教えと力ある業は圧政に苦しむ人々に神様の臨在を感じさせたのです。権力者たちの権威と既得権益を脅かしているのです。社会の秩序と平穏を乱す危険思想なのです。イエス様をこのまま放置することは出来ないのです。

*イスラエルの貧困の最大の原因はローマ帝国による重税なのです。二年ごとに収穫物の四分の一を税として徴収し、当局の役人や兵士たちの生活を支えるために経費を支出させ、人頭税や関税を課しているのです。農民たちは経済的、精神的に疲弊しているのです。ローマの総督たちは赴任地を短期間で財を生みだす「打ち出の小づち」のように考えていました。イエス様を処刑したポンティオ・ピラト(紀元26年から36年)などはユダヤ人たちに貢物(みつぎもの)を求めたのです。在職中は徹底的に搾取したのです。さらに、民衆はエルサレムの神殿に仕える祭司たちを支えるために神殿税(宗教税)を納めなければならないのです。以前、祭司たちを支えるための定額献金や随時献金の習慣はなかったのです。巡礼者たちが捧げる供え物の一部を受け取っていただけなのです。ところが、バビロン捕囚からの帰還(紀元前538年)後に自分たちの収入を増やすために新たに12種類の献金を設けたのです。ローマ帝国への税と神殿税の合計は生活費のおよそ40%にも達したのです。それでも、毎年担当者たちが未納の農民たちの家を訪問し、定額献金を取り立てているのです。ユダヤ人歴史家ヨセフスは当時2万人の祭司がいたことを記録しています。これらの人は1年に2週間神殿に奉仕するのです。民衆の平均以上の報酬を得ているのです。イエス様は神殿政治の腐敗と不正を告発し、指導者たちを厳しく非難されたのです。社会の底辺に追いやられた貧しく、抑圧されている人々には正義の核となる力があるのです。「神の国」の建設に取り組むのです。

*イエス様の十字架上の死をあらかじめ神様が定められた出来事として、あるいは罪の贖(あがな)いの犠牲として理解している人も多いのです。イエス様は始めからご自身の命を捧げるために生きられたのではないのです。イエス様が生涯を捧げて宣教された「神の国」の福音は歪(ゆが)められてはならないのです。イエス様はご自身の死において初めて人間の救いがもたらされるとは考えておられなかったのです。特別の使命-神様への従順と隣人愛-を果たそうとする強い意志が結果として死を招いたのです。当時の歴史的背景を理解することはとても重要です。イエス様は真空の中で生きて来られたのではないからです。イエス様の教えと力ある業は「神の国」の到来を告げる具体的事実なのです。神様は終わりの時にこの世の権力者たちにご自身による直接統治を宣言されたのです。イエス様はご自身の生と死と復活を通して「神の国」-「神様の御心」-を証しされたのです(使徒1:3)。パウロの信仰理解を用いて福音を「罪の赦しの問題」に縮小してはならないのです。キリスト信仰の真髄は「神の国」の到来にあるのです。イエス様は人々に悔い改めて神様の下に立ち帰ることを促(うなが)されたのです。しかし、ユダヤ教の伝統に固執し、既得権益に執着するファリサイ派の人々や律法学者たちは「神の国」を受け入れなかったのです。大祭司たちの決意は揺るがないのです。世俗の力-ローマ皇帝の権力-を用いてイエス様を殺すのです。この時点から死は避けられなくなったのです。イエス様は十字架に向かって歩むことを決断されたのです。

*イエス様の結びのお言葉は様々に解釈されています。キリスト信仰を純粋に内的なもの、個人の魂の救いとして解釈し、政治と宗教の分離の根拠とされたのです。しかし、神様は「(アブラハムが)息子たちとその子孫に主の道(戒め)を守り、主に従って正義を行うように命じること」を祝福の要件とされたのです(創世記18:19)。イエス様は「神の国」-神様が支配者であること-を宣言されたのです。福音が「罪の赦し」に限定されてはならないのです。「神様の正義」はこの世のすべて-政治、経済、社会-に及ぶのです。地上の権力者たちに悔い改めが求められているのです。ところが、先祖の指導者たちと同じように預言者たちや使徒たちを迫害しているのです。神様が遣わされた「神の子」イエス様を殺そうとしているのです。たとえ話においてその事実が語られているのです。イエス様は民衆から強い支持を得ているのです。律法違反で殺すことは困難だったからです。そこで、もっと大きな力を得るために画策するのです。政治状況を巧みに利用するのです。イエス様の言葉尻を捕らえてローマ帝国に対する反逆者に仕立て上げるのです。ローマの総督に引き渡して処刑させようとしたのです。イエス様は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えられたのです。質問者たちは黙ってしまったのです。納税に苦しんでいる民衆はお言葉に納得したのです。指導者たちが神様のものを奪っていることを知っているのです。神様のものは神様に返すのです。信仰の原点はここにあるのです。拒否した人々に厳しい罰が下されるのです。

2025年03月30日

「光のあるうちに歩きなさい」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書12章20節から43節


さて、祭り(過越際)のとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え(いなさい)。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した(過去)。再び栄光を現そう(現在)。」そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者(サタン₋=権力者たち)が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。

このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせ(神様からのメッセージ)を信じましたか。主の御腕(主の御業)は、だれに示されましたか」(イザヤ書53:1)。彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟(さと)らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない」(イザヤ書6:10)。イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである(イザヤ書6:1-4)。とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉(ほま)れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。

(注)


・ギリシヤ人:異邦人を総称する言葉です。将来の異邦人宣教を象徴しています。


・フィリポとアンデレ:12使徒に選ばれています。


・人の子:


この呼称には三つの意味があります。第一は預言者です(エゼキエル書2:1-3)。第二は天の雲に乗って現れる終わりの時の審判者です(ダニエル書7:13-14)。他に「わたしとわたしの言葉を恥じる者(たち)は、人の子も自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときにその者(たち)を恥じる」があります(ルカ9:26)。イエス様はご自身が審判者であることを明らかにされたのです。第三はこの世の人間を表しているのです(ルカ9:58)。


・人の子が栄光を受ける時:イエス様の死と復活と昇天が起こること、神様の名が讃えられることを表しています。


・心が騒ぐ:「ゲツセマネの祈り」にも表しておられます。


■そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ14:33-36)

・メシア:「油注がれた者」という意味です。選ばれた王や祭司です。以下は一例です。

■(あなた(神様)は言いました。)「わたしが選んだ者とわたしは契約を結び/わたしの僕ダビデに誓った  あなたの子孫をとこしえに立て/あなたの王座を代々に備える、と。」(詩編89:4-5)

・天からの声:他にも記述があります。

■そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適(かな)う者」という声が、天から聞こえた。(マルコ1:9-11)

■ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆(おお)った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。(ルカ9:34-36)

光:ご自身に関する定義の一つです。

■イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ8:12)

・預言者イザヤ:当時イスラエルは南北に分裂していました。北王国は「イスラエル」、南王国は「ユダ」と呼ばれていました。イザヤの宣教はユダ王国を中心に行われました。ウジヤ王の死(紀元前738年頃)と共に始まり、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ王の治世にも及びました。

終末のしるし:

■イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」(マタイ24:3-14)

・キング牧師:アメリカの公民権運動の指導者の一人です。黒人の差別撤廃に短い生涯を捧げたのです。たくさんの名言を残しています。以下はその一例です。

The ultimate tragedy is not the oppression and cruelty by the bad people but the silence over that by the good people.

「悪人たちの抑圧と残虐行為は悲劇です。しかし、究極の悲劇は善人たちがそのことに沈黙していることです。」(私訳)
                       
(メッセージの要旨)


*イエス様はエルサレム入城後、ご自身の使命を実力行使によって遂行されたのです。神殿の境内から礼拝に必要な生贄(いけにえ)の羊や牛をすべて追い出し、献金のために外国の通貨をシェケル銀貨に交換する両替人の金をまき散らし、鳩を売る者たちに「わたしの父の家を商売の家としてはなららない」と言われたのです。神殿政治の機能が一時的に停止したのです。祭司長、律法学者、長老たちがやって来て「何の権威でこのようなことをするのか。誰が、そうする権威を与えたのか」と詰問したのです。イエス様は「この神殿を壊して見よ。三日で建て直してみせる」と明言されたのです。彼らは建設するのに四十六年も費やしたエルサレム神殿を「三日で建てる」と言われたイエス様を非難したのです(ヨハネ2:13-22)。指導者たちは神殿の威光を貶(おとし)めるイエス様に激怒したのです。しかし、群衆はイエス様の教えや力ある業(癒しの業など)に共感していたのです。神様を畏(おそ)れる数人のギリシャ人がイエス様を訪ねたのです。ユダヤ教への改宗者ではないのです。ユダヤ教の教えや伝統に敬意を表する人々です。病気の奴隷(使用人)のために奔走(ほんそう)し、ユダヤ人たちのために会堂を建てたローマ軍の百卒長もそのような人たちの一人です(ルカ7:1-10)。イエス様は世の光です。暗闇を照らす真の光なのです。「神の国」の福音が着実に広がっているのです。ただ、多くのユダヤ人にはこの光が見えないのです。イエス様を殺すために陰謀が巡(めぐ)らされているのです。弟子たちに覚悟が求められているのです。


*イエス様の評判を聞いてギリシヤ人が数人訪ねて来ました。しかし、この時期に彼らと会うことは極めて危険でした。後に、パウロに起こった事件がそのことを証明しています。ディアスポラのユダヤ人たちが神殿の境内でパウロを見つけ「この男は、民と律法とこの場所に背くことを、至るところで誰にでも教えている。その上、ギリシヤ人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった」と告発したのです。群衆がパウロを境内から引きずり出したのです(使徒21:27-30)。これは誤解に基づく出来事だったのですが、異邦人との接触は敵対する人々に迫害する口実を与える機会となるのです。しかし、イエス様は「その時」が来たことを悟られたのです。弟子たちに繰り返し「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」と言われたのです(マタイ10:37-39)。かつて、イエス様は地中海沿岸の町に住む異邦人の女性に出会われました。この人は悪霊にひどく苦しめられている娘の癒しを申し出たのです。イエス様は「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と答えられたのです。ところがが、女性の立派な信仰心がイエス様のお心を動かすことになるのです(マタイ15:21-28)。今、ギリシャ人たちにも覚悟を求められたのです。


*「終末のしるし」が現れているのです。四福音書はイエス様が政治犯として処刑される前後の出来事を詳細に記述しています。それぞれの記者は事実を見て(あるいは聞いて)記事を書いたのです。イエス様は敢然と十字架に向かわれたというような信仰理解は避けなければならないのです。「父よ、わたしをこの時から救ってください」と言って、心を騒がせられたのです。イエス様はエルサレムへ入城される前に、ベタニヤで死後四日も経ったラザロを甦(よみがえ)らされたのです。出来事を目撃したユダヤ人の多くがイエス様を信じたのです。大祭司カイアファを中心とする指導者たちは自分たちの権威と地位が脅(おびや)かされていることを敏感に感じ取ったのです。最高法院(サンヘドリン)を招集してイエス様の抹殺を決議したのです。しかも、生き証人であるラザロも殺そうとしているのです(ヨハネ11:45-12:9-10)。神様はイエス様と共におられたのです。数々の力ある業がそのことを証明しているのです。ご自身の栄光をイエス様によって現わされたのです。伝統的なメシア思想に慣れ親しんでいる人々はイエス様に権力者である王の姿を重ね合わせたのです。民族の解放者としての圧倒的な力を期待しているのです。イエス様は彼らのメシア理解を根底から覆(くつがえ)されるのです。イザヤの預言にあるように「苦難の僕」として最後まで歩まれるのです。ご自身の死によって「救い」が訪れることを宣言されたのです。多くの人はイエス様に失望したのです。しかし、神様はこれらの人のために再び栄光を現わされるのです。


*律法によれば、石打の刑は「霊媒や口寄せをする者」(レビ記20:27)、「他の神々を礼拝する者」(申命記13:10)、「安息日を犯した者」(民数記15:35)、「神様を冒涜する者」(レビ記24:14)に適用されるのです。以前、イエス様はご自身を石打の刑で殺そうとする祭司長たちやファリサイ派の人々に「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか」と質問されたのです。彼らは「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒瀆したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ」と言って罪状を明らかにしたのです(ヨハネ10:31-33)。今回も、イエス様は「天に上げられる」という言葉で「神様の独り子であること」を鮮明にされたのです。十字架上の死を経て復活し、神様の下へ帰られることを予告されたのです。ユダヤ教のメシアから全人類に「永遠の命」を与える「救い主」になられるのです。一方、群衆は従来のメシア像に固執するのです。イエス様は「神様のお約束」を信じるように促(うなが)されたのです。ご自身を闇に輝く光に例えて「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。・・光のあるうちに歩きなさい」と命じられたのです。ユダヤ人たちにも決断を迫られたのです。イエス様は終わりの日が来る前にこの世に遣わされたのです。神様にとって1000年は一日に等しいのです。一人でも救おうと忍耐されているのです。終わりの日がいつかは誰にも分らないのです。しかし、確実に突然起こるのです。


*イエス様はご自身を主語として語られました。「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」(ヨハネ8:58)、「わたしは彼ら(ご自身を信じる人々)に永遠の命を与える」、あるいは「わたしと父(神様)とは一つである」と言われたのです(ヨハネ10:28-30)。ご自身を「安息日の主」(マタイ12:8)、エルサレム神殿を「わたしの家」と呼ばれたのです(マルコ11:17)。罪深い女性に「罪の赦し」を一方的に宣言されたのです(ルカ7:48)。イエス様の言動はユダヤ教の伝統と律法を順守する人々にとって「神様への冒涜」なのです。イエス様が「神の国」の宣教において死を覚悟されていたことは十分に推測されるのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちはローマ帝国への恭順と協力によって「信仰の自由」を確保したのです。一方、「神様の名」によって貧しい農民や労働者たちを搾取し、私腹を肥やしたのです。イエス様は指導者たちの偽善と腐敗を激しく非難されたのです。彼らは悔い改めることなく既得権益に執着したのです。「神の国」の福音を拒否したのです。イエス様を「石打の刑」ではなく、ローマ帝国への反逆者に適用される十字架刑で殺そうとするのです。当初、民衆の多くはイエス様を支持していました。指導者たちはローマ帝国の脅威を訴えて巧妙に分断するのです。正義が歪(ゆが)められているのです。いつの時代においても、キング牧師の言葉は真実なのです。キリスト信仰を標榜する人々がダブル・スタンダードに陥(おちい)っているのです。「神の国」と「この世」とは両立しないのです。

2025年03月23日
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