Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書1章40節から45節
さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。
(注)
・原文(ギリシャ語)に即して翻訳すると以下のようになります。新共同訳と比較してお読み下さい。
さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが怒りを覚えて、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、怒りで鼻を鳴らしながら、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、祭司たちへの抗議の意思を表明しなさい。」しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。
・祭司:神殿政治の中枢を担う特権階級の一員です。イエス様は彼らの不信仰と腐敗を神殿境内の物流の阻止、強盗の巣という辛辣(しんらつ)な言葉によって非難されたのです(マルコ11:15-19)。祭司長たちや律法学者たちはイエス様を殺すために謀議したのです。祭司職の家系に生まれたユダヤ人歴史家ヨセフスは家族がエルサレムの郊外に土地を持っていたこと、他の祭司たちが財産を蓄積している実態を事実に即して報告しています(ヨセフスの生涯、63)。彼らは一般の人々より遥かに贅沢な暮らしをしていたのです。
・重い皮膚病:皮膚病の一種です。ハンセン病と必ずしも同じではないのです。ハンセン病と訳しているのですが、「注」を付記して説明している聖書もあります。旧約聖書のレビ記13-14章には皮膚病の種類、清めの儀式が書かれています。
・ハンセン病:
●「らい菌によって起きる慢性の感染症で、末梢神経のまひや皮膚のただれなどが出る。感染しても発病する可能性は極めて低く、戦後、特効薬が普及して完治する病気となったが、国は1996年のらい予防法廃止まで強制隔離政策を続けた」と説明されています(毎日新聞4月26日朝刊)。
●医学の知識が乏しい時代には強い感染性のある病気として考えられていました。この病気にかかった人は共同体から隔離されたのです。現代の医学では完治する病気であり回復者や治療中の患者から感染する可能性の低いことが確認されています。日本においては長い間法律によって隔離政策が続けられこれらの人に対する差別の固定化の原因となったのです。近年ようやく政府がこれまでの政策に対する責任を認め施設の入所者たち(患者団体)に謝罪し、新たに法律を作って補償することになったのです。
●2016年4月25日ハンセン病患者の裁判が裁判所以外の隔離施設などに設置された「特別法廷」で開かれていた問題で、最高裁は、「差別的な取り扱いが強く疑われ、違法だった」とする調査報告書を公表し、「偏見、差別を助長し、人格と尊厳を傷つけたことを深く反省し、おわび申し上げる」と謝罪しました。さらに、同じ日に裁判官15人で構成する最高裁判官会議も、「誤った差別的な姿勢は基本的人権と裁判のあり方を揺るがす性格のもので、患者の方々にここに至った時間の長さを含め、心からおわびを申し上げる」とする談話を発表しました。すでに、政府と国会は隔離政策を違憲とした熊本地裁判決を受けて2001年に謝罪しており、三権すべてが差別を認める結果となりました。一方、「全国ハンセン病療養所入所者協議会」など三団体は、「憲法違反を正面から認めなかったことは、隔離政策の実情を全く理解していない」と批判する声明を出しています。実態解明のために踏み込んだ調査の継続を求めています。ハンセン病患者は「司法」に限らず、様々な差別と偏見の中で苦難の人生を強いられました。そして、国民(キリストの信徒たち)の多くも、意図的かどうかは別にして加害者であり続けたのです。
・サマリア人:紀元前721年アッシリアがサマリアを支配下に置きました。サマリアでは混血が進み、独自の信仰が形成されたのです。ユダヤ人たちはサマリ人たちを蔑(さげす)み、交際を拒否したのです。
(メッセージの要旨)
*祭司たちには重い皮膚病の人々に関わる責務があるのです。それを軽んじたのです。多くの人も誤った知識の故にこれらの人を遠ざけたのです。イエス様は神様の愛と憐れみを示されたのです。長い間社会から隔絶された人に手を差し伸べられたのです。祭司たちから「汚れた者」として烙印(らくいん)を押された人に「癒しの業」を行われたのです。律法違反の罪で告発される可能性があるのです。イエス様は愛を説かれるだけでなく、それを実践されたのです。旧約聖書のレビ記には人が皮膚病に罹(かか)った場合、祭司は病気の軽重を判断しなければならないと記されているのです。ただ、重い皮膚病の定義は明確ではないのです。伝染性のないものも含まれていたのです。重い皮膚病と宣告されればその人の人生は一変するのです。共同体の外で生きることを強いられ、人々から差別され、非人間的な扱いを受けたのです。これらの人の生活は悲惨の極みです。裂けた衣服を着て、髪もばさばさなのです。事前に「重い皮膚病の人がやって来る・・」と叫んで、自分の存在を人々に知らせなければならなかったのです。祭司がこれらの人を「清い」と判断すれば、強制的隔離から解放され、元の共同体に復帰することが出来たのです。「癒しの業」に注目が集まるのですが、イエス様は重い皮膚病の人々を苦しめている「制度の不備」、「祭司の資質」について憤られたのです。一方、癒された人々の不信仰と思慮を欠いた行動が指導者たちに迫害の口実を与えるのです。「癒しの業」が宣教活動を危うくしているのです。イエス様の苦悩は尽きないのです。
*重い皮膚病かどうかを判断するのは祭司たちです。祭司たちに委(ゆだ)ねられた権限は人々の運命を決定するのです。重い皮膚病の人はイエス様に申し出る前に祭司たちの所へ行ったのです。自分の症状を再検診してくれるように訴えたのです。しかし、祭司たちは何らかの理由-職務の怠慢や人々の窮状への無関心、特別な見返りが期待出来ないこと-から取り合わなかったのです。この人はイエス様の「癒しの力」を疑っていた訳ではないのです。ただ、祭司たちが拒否したように、イエス様も同じことをされるのではないかという不安があったのです。イエス様に「御心ならば(ご意思があれば)、わたしを清くすることがおできになります」と言っています。イエス様は祭司たちの不信仰と貪欲(どんよく)に怒っておられるのです。「神様の御心」を実現するためにこの人を癒されたのです。二つのことを指示されたのです。第一は、だれにも、何も話さないように気をつけることでした。ところが、自分に起った出来事を大々的に宣伝したのです。イエス様が隔離政策を無視したこと、重い皮膚病の人に直接触れたことなどが明らかになったのです。イエス様は町に公然と入ることが出来なくなったのです。祭司たちはイエス様の罪を断じて許さないからです。第二は祭司たちの所へ行って体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて証言(抗議)することでした。ただ、この人が祭司から健康であることの証明書を受け取ったか、捧げ物をしたかどうかは不明です。病気を癒していただいたことが必ずしもイエス様への信仰として結実しないのです。
*他にいくつかの例を挙げることが出来ます。二人の盲人が「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだのです。イエス様は「わたしにできると信じるのか」と言われたのです。二人は「はい、主よ」と答えたのです。そこで、二人の目に触り「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになったのです。イエス様は「このことは、だれにも知らせてはいけない」と厳しくお命じになったのです。しかし、二人はその地方一帯にイエス様のことを言い広めたのです(マタイ9:27-31)。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願ったのです。イエス様はこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられたのです。天を仰いで深く息をつき、その人に向かって「エッファタ」と言われました。「開け」という意味です。たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになったのです。イエス様はだれにもこのことを話してはいけないと口止めをされたのです。人々はますます言い広めたのです(マルコ7:32-36)。重い皮膚病を患っている十人の人が声を張り上げて「わたしたちを憐れんでください」と言ったのです。イエス様は「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われたのです。彼らは、そこへ行く途中で清くされたのです。サマリア人だけが戻って来て感謝したのです。イエス様は「あなたの信仰があなたを救った」と言われたのです(ルカ17:12-19)。
*日本語訳からはイエス様の怒りを読み取ることは難しいのです。原文の意味を忠実に反映して翻訳されていないからです。「深く憐れんで」はイエス様のイメージを人間的な怒りで損なわないように配慮されているのです。「怒りを覚えて」と訳す方が原文の趣旨に合致するのです。マルコの福音書はイエス様の実像をありのままに伝えているのです。「怒って」(マルコ3:5)、「憤り」(マルコ10:14)という言葉を使っています。「厳しく注意して」の訳はイエス様の激しい怒りを薄めているのです。「怒りで鼻を鳴らして」と訳さなければならないのです。「人々に証明しなさい」の「人々」は原文にはないのです。「祭司たちへの抗議を表明しなさい」と言う意味です。イエス様は重い皮膚病の人々が町の外で非人間的な生活を強いられ、共同体が彼らの苦難を一顧さえしない現実に怒っておられるのです。重い皮膚病を患っている人が隔離される要件を備えている場合もあるのです。ただ、そのことを理由に人を 非人間的に扱うことは決して許されないのです。ご自身はユダヤ教の指導者たちから何度も迫害されたのです。時には悪魔と呼ばれ、命さえ脅かされたのです。しかし、怒りを表されることはなかったのです。何年も前のことですが、テレビのドキュメンタリー番組で「ハンセン病患者の療養所」が紹介されていました。ある人の部屋の本棚に聖書が見えました。福音が届けられているのです。キリストの信徒たちが加害者であり続けてはならないのです。悔い改めて、神様の子供たちに対する非人間的な扱いに怒りを表し、抗議するのです。
*癒しの出来事の中に幾つかの留意すべき問題があるのです。重い皮膚病の人がイエス様に癒しを願い出たのです。イエス様はこの人がご自身の下へ来た理由をご存じです。祭司たちに診(み)てもらえなかったのです。心の底から憐れまれたのです。登場人物はイエス様と重い皮膚病の人の二人のように見えるのです。そこには祭司たちがいるのです。物語はイエス様が重い皮膚病の人を癒された出来事で完結しないのです。職務を遂行しない不誠実な祭司たちへの激しい非難となっているのです。イエス様の怒りはご自身が不当に扱われていることへの感情表現ではないのです。重い皮膚病の人に個人的に同情されたということでもないのです。貧しい人々を抑圧し、私利私欲のために祭司制度を悪用する権力者たちに向けられているのです。新共同訳聖書の訳からはこうした視点が十分に読み取れないのです。翻訳(ほんやく)に関わった人々が恣意的(しいてき)に政治的な問題や祭司制度に関わる批判的な言葉を和らげ、変えたりしているのです。キリスト信仰が誤解されている大きな要因になっているのです。読者の視線が「神様の正義」から逸(そ)らされているのです。信徒たちの関心事が「罪の赦し」と死後に行く「天国」になっているのです。キリスト信仰とはイエス様の「生き方」に倣(なら)うことです。イエス様は最も重要な戒めとして正義、慈悲、誠実を挙げられたのです(マタイ23:23)。これらを実践することが信仰なのです。癒されたとしても救われるとは限らないのです(ルカ13:22-24)。キリスト信仰は真に厳しいのです。
洗礼者ヨハネが捕らえられた後、イエス様はガリラヤ地方へ行き、福音(良い知らせ)を宣べ伝えて「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたのです(マルコ1:14-15)。イエス様は復活された後も、使徒たちに「神の国」について話されたのです(使徒1:3)。キリスト信仰の中心メッセージは「神の国」-神様の支配-にあるのです。