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洗礼者ヨハネが捕らえられた後、イエス様はガリラヤ地方へ行き、福音(良い知らせ)を宣べ伝えて「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたのです(マルコ1:14-15)。イエス様は復活された後も、使徒たちに「神の国」について話されたのです(使徒1:3)。キリスト信仰の中心メッセージは「神の国」-神様の支配-にあるのです。

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「掟を守りなさい」

Bible Reading (聖書の個所) ヨハネによる福音書14章1節から15節


「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。・・」


(注)


・戒(いまし)めについて:旧約聖書から 


■あなた(がた)の神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼(主)を畏(おそ)れなさい。(申命記8:6)

■あなたの命令から英知を得たわたしは/どのような偽りの道をも憎みます。あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。わたしは誓ったことを果たします。あなたの正しい裁きを守ります。(詩編119:104-106)

・最も重要な掟(おきて)について:新約聖書から

■彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。(マルコ12:28-31)

・ペトロ、トマス、フィリポ:いずれも12使徒です。

・共観福音書:マタイ、マルコ、ルカによる福音書は、構成、考え方(観点)、内容に共通性を持っています。ヨハネによる福音書と区別してこのように呼ばれています。


・慰めに満ちたイエス様のお言葉:


■憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ(異教の神による神殿ぼうとくが行われている)のを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。このことが冬に起こらないように、祈りなさい。それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。(マルコ13:14-23)

(メッセージの要旨)


*イエス様はガリラヤで宣教を開始されました。洗礼者ヨハネの弟子であったペトロは、ヨハネの言葉「イエス様は神の小羊である」を聞いて、イエス様の弟子となったのです。フィリポはイエス様のお言葉「わたしに従いなさい」によって直ちに弟子となったのです(ヨハネ1:35-51)。彼らはイエス様と寝食を共にし、「道」(新しい教え)を学んだのです。最も重要な戒めを実践するのです。ところが、イエス様はこの世を去られるのです。弟子たちの足を洗われたのです(ヨハネ13:5)。イエス様の振る舞いやお言葉を理解できない使徒たちは質問したのです。先ず、ペトロが「主よ、どこへ行かれるのですか」と行く先を尋ねたのです。すると、イエス様は「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」と言われたのです。ペトロは「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」と決意を表明するのです。しかし、イエス様は「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言う」と予告されたのです(ヨハネ13:36-38)。トマスも同様の質問し、フィリポは「御父をお示しください」と願っているのです。イエス様は心を騒がせる使徒たちに理由を説明されたのです。天において住居を準備されるのです。そこで「救い」に与った人々と共に住むことを約束されたのです。キリスト信仰に生きる人々は「神様と隣人」を愛するのです。ただ、簡単なことではないのです。敵対する人々から迫害されるのです。「永遠の命」の希望が勇気を与えているのです。

*ヨハネによる福音書は三つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ)-共観福音書-から際立って異なっていると考えられているのです。その理由の一つに共観福音書が取り上げている記事や物語を欠いていることが挙げられます。あるいはそれらが言及していない人物や出来事を記述していることも一因になっているのです。それにも関わらず、神学的、霊的な福音書として高く評価されているのです。共観福音書との共通性も見られるのです。今日の聖書の個所がそのことを証明しているのです。イエス様を愛するとは命じられた「掟」を守ることなのです。キリスト信仰は「行い」を求めるのです。イエス様は愛するラザロの死に直面し「死の支配」に憤られ(心を騒がされ)たのです(ヨハネ11:33)。十字架の死を目前にし「今、わたしは心騒ぐ。『父よ、わたしをこの時から救ってください』」と言われたのです(ヨハネ12:27)。ユダの裏切りを知った時にも、心を騒がされたのです。しかし、神様の御力と約束に対する信頼が揺らぐことはなかったのです。今、弟子たちが同様の経験をしているのです。イエス様はこの世から父なる神様のもとへ移る時が来たことを悟り、食事の席で弟子たちの足を洗われました。どのように生きるべきかについて模範を示されたのです。互いに愛し合うように命じられたのです(ヨハネ13:1-35)。初代教会はすべての物を共有にし、心を一つにして祈っているのです。神様は彼らの信仰生活を祝福し、日々新しい仲間を加えられたのです(使徒2:43-47)。キリスト信仰は信じることで完結しないのです。


*神様はモーセに「わたしはある。わたしはあるという者だ」とご自身を紹介されたのです(出エジプト記3:14)。イエス様はユダヤ人たちに「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」と言われたのです(ヨハネ8:58)。「永遠の存在であること」を強調されたのです。「わたしと父は一つである」と言って「神様と一体であること」を公言されたのです(ヨハネ10:30)。神様を冒涜する言葉です。ユダヤ人たちは「あなたは、人間なのに自分を神としている」と激しく非難したのです。律法に従って、石打の刑で殺そうとしたのです。イエス様は彼らの手を逃れて去って行かれたのです。しかし、最終的には十字架上で処刑されるのです。その時も、イエス様は「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と言われたのです(ルカ23:34)。「神様の子」を受け入れることの難しさに言及されたお言葉なのです。神様はイスラエルの民の叫び声を聞かれるのです。中立の立場を取られることはないのです。抑圧された人々の側に立たれるのです。イエス様もイザヤの預言「・・貧しい人々に良い知らせを伝えるために。・・つながれている人々には解放を告知させるために。・・」に沿って使命を果たされるのです(イザヤ書61:1-2)。イエス様が「神性」を明確にすればするほどユダヤ人たちは反発したのです。「力ある業」(しるし)に接しても「この人は、大工ではないか。マリアの息子・・」と言って躓(つまず)いたのです(マルコ6:3)。弟子たちにとっても信じることは容易ではなかったのです。


*聖書が旧約聖書、新約聖書に分けられています。それは便宜上のことです。旧約聖書が伝える神様を語らないキリスト信仰は根のない草花に似ています。ひと時の感動を与えてもいずれ生命力が失われるのです。イエス様が神様とご自身を等しい者とされることには理由があるのです。キリスト信仰の本質がこの点にあるからです。復活されたイエス様も「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われたのです(マタイ28:18-20)。父と子と聖霊が並列されているのです。初代教会における典礼上の簡略された表現なのです。本来、神様をたたえるときは「栄光が、聖霊において、子を通して、父なる神に帰せられるように」、神様の祝福を求めるときは「父なる神の祝福が、子を通して、聖霊において、あなたがたの上にあるように」と表現するのが一般的だったのです。使徒たちはイエス様がどのようなお方であるかを理解していないのです。イエス様は「こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか」と叱責されたのです。「知る」というお言葉には信仰上の重要な意味があるのです。キリスト信仰とは「救い主」を認識することではないのです。神様が遣わされたイエス様の御跡を辿(たど)ることなのです。苦難が待っているのです。聖霊様がキリストの信徒たちを導いて下さるのです。


*キリスト信仰は信じることで始まるのです。信仰は抽象的な心の問題に留まらないのです。具体的な「行い」を求めるのです。四福音書は共通してこの点を明確にしているのです。共観福音書はイエス様が命じられた「最も重要な掟」を伝えているのです。律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいているからです。イエス様は自分を正当化しようとする律法の専門家に「善いサマリア人」のたとえ話を語って、言葉ではなく「行い」によって「永遠の命」に与りなさいと言われたのです(ルカ10:25-37)。ヨハネの福音書も実践を強調されたイエス様のお言葉「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。・・互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」を取り上げているのです(ヨハネ15:9-13)。イエス様はこの世を去って再び来られるまでの間、弟子たちがどのように生きるべきかについて教えられたのです。簡潔で、分かり易いのです。キリスト信仰において難しい神学は必要ないのです。イエス様の「生き方」がキリスト信仰の真髄を語っているからです。イエス様に倣(なら)って掟を実践することが「永遠の命」に至る道です。ただ、内容が正確に伝えられていないのです。キリスト信仰による「救い」が「罪からの解放」に縮小されているのです。イエス様の掟に戻るのです。

2024年09月01日

「悪霊との闘い」

Bible Reading (聖書の個所) マルコによる福音書9章14節から29節 

一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、 群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代(世代)なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」

イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。

(注)

・議論:イエス様の教えや力ある業と律法学者たちの律法主義が論争になったのです。

・群衆の驚き:出エジプト記34:30を参照して下さい。

・息子の症状:癲癇(てんかん)の病状を推測させるのです。

・霊、汚れた霊:悪霊のことです。

・神様の霊:

■そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した(マルコ1:9-12)。

・祈り:結果を信じる祈りには「力」があるのです。マルコ11:24をお読み下さい。


・ゲラサ人の地方:ガリラヤ湖に向かって右側のガダラ地方ではないかと言われています(マタイ8:28)。

・デカポリス:ヨルダン川の東側にある「10」の異邦人の町が一括してこのように呼ばれています。

・レギオン:約6000人の兵士で構成されるローマ軍の連隊のことです。

・豚:ユダヤ人は汚れた動物と見なしていました。レビ記11:7-8などに記されています。

・犬:ユダヤ人たちは異邦人たちを犬と呼んで蔑んでいたのです。サムエル記上17:43;24:14をお読み下さい。

・ベルゼブル:元々の意味は「家の主」あるいは「ハエたちの主」です。ここではサタン(悪魔)を表しています。

・カファルナウム、ティルスなどの位置については聖書地図を御覧下さい。

(メッセージの要旨)

*ユダヤ人たちは人に害を与える霊に悩まされていたのです。この霊は「悪霊」(使徒19:12-16))、「汚れた霊」(マルコ1:21-28)、「汚れた悪魔」(ルカ4:33-35)、単に「霊」(マタイ8:16)などと呼ばれていたのです。この霊は人を支配し、精神的、肉体的異常を引き起こしたのです。イエス様はペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて高い山に登られました。そこに預言者エリヤとモーセが現れてイエス様と語り合ったのです。雲がこれらの人を覆い、中から「これはわたしの愛する子。これに聞け」と言う声がしたのです(マルコ9:2-7)。神様はイエス様が「神の子」であることを再確認されたのです。一行が下山する前に、すでに山の麓(ふもと)では他の弟子たちが子供から霊を追い出そうと奮闘していたのです。しかし、彼らには出来なかったのです。父親は息子を癒していただくために連れて来たのですが、イエス様はそこにおられなかったのです。すべての弟子に悪魔払いの権能が与えられている訳ではないのです(マタイ10:1)。弟子たちはイエス様の帰りを待たずに実行したのです。しかし、彼らの力だけでは霊を追い出せなかったのです。弟子たちの質問に答えて、イエス様は「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできない」と言われたのです。霊には幾つかの種類があることを教えられたのです。医学の未発達な当時、特に精神的な病は悪霊の働きとされたのです。霊との闘いには周到な戦略と準備が必要です。イエス様への揺るぎない信仰と癒しの業への確信が不可欠なのです。
 
*四福音書の中でマルコの福音書が最も古いのです。しかし、他の福音書と比べると一番短いのです。それにも関わらず、イエス様の「力ある業」が多く取り上げられているのです。重い皮膚病を患っている人、中風の人、手の萎(な)えた人、ヤイロの娘と長血の止まらない女性、耳が聞こえず舌の回らない人、盲人のバルトロマイなど身体に障害のある人々、様々な病気を患っている人々が癒されたのです。霊に取りつかれた人々の癒しが四例も伝えられているのです。聖書の個所はその内の四番目です。第一の例はイエス様がガリラヤ宣教を開始された直後に起こりました(マルコ1:14)。イエス様の宣教の拠点は要衝の地であるカファルナウムにありました。安息日に会堂に入って教えられたのです。その時、男が「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と叫んだのです。イエス様は「黙れ。この人から出ていけ」とお叱りになったのです。「汚れた霊」はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行ったのです。イエス様の評判はガリラヤの隅々にまで広まったのです。たくさんの人が夜にイエス様を訪ねて来たのです。イエス様は多くの病人を癒されたのです。しかも、「汚れた霊」に物を言うことをお許しにならなかったのです。イエス様が「神様の子」であることを知っていたからです。「汚れた霊」はまるで人間のように話しているのです。弟子たちの中にはその力を恐れる人もいたのです。しかし、イエス様は「汚れた霊」を完全に支配されているのです(マルコ1:21-34)。

*第二の例はゲラサ地方で起こりました。「汚れた霊」に取りつかれている人は墓場を住まいとしていました。夜も昼も叫び、石で自分を打ちたたいていたのです。ところが、遠くにいるイエス様を見つけ、走り寄ってひれ伏したのです。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」と訴えたのです。イエス様が「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからです。イエス様は「汚れた霊」に名前を尋ねられたのです。「名はレギオン(大勢)」と答え、この地方から追い出さないように懇願したのです。さらに、自分たちを「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と申し出たのです。イエス様が彼らの願いを聞き入れると、「汚れた霊」が次々と豚の中に入ったのです。二千匹ほどの豚の群れが湖になだれ込んで死んだのです。豚飼いたちから知らせを受けた人々が現地に来たのです。これらの人は「汚れた霊」に取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て恐ろしくなったのです。一方、「汚れた霊」に取りつかれていた男性はキリスト信仰を証しするのです。自分の経験をデカポリス地方の人々に言い広めたのです。イエス様は「汚れた霊」にも名前があることを明らかにされたのです。「レギオン」には現実的な意味が含まれているのです。ユダヤ全土及び周辺地域はローマ帝国に支配されていたのです。民衆は圧政と重税に喘(あえ)いでいるのです。精神の錯乱は人々の苦難を表しているのです。「レギオン」は軍事力の象徴なのです。イエス様は部分的に打ち砕かれたのです(マルコ5:1-20)。

*ユダヤ人たちは神様から選ばれたことを自負しているのです。ところが、それに相応しい生き方をしていないのです。旧約聖書が伝える不信仰の歴史が証明しているのです。異邦人であってもユダヤ人以上の信仰に生きている人がいるのです。中風の僕(奴隷)の癒を願い出たローマ軍の百人隊長は「わたしはあなたを自宅にお迎えできるような者ではありません。ただ、一言おっしゃってください。わたしの僕は癒されます」と言ったのです。イエス様は「イスラエルの中でこれほどの信仰を見たことがない」と褒められたのです。その時、僕は癒されたのです(マタイ8:5-13)。第三の例は地中海沿岸のティルス地方で起こったのです。「汚れた霊」に取りつかれた娘を持つ異邦人の女性がイエス様のことを聞きつけたのです。足元にひれ伏して、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだのです。イエス様は民衆が口にしている諺(ことわざ)を引用して、「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」と言われたのです。神様の祝福(パン)はユダヤ人たちが優先して受け取ることを告げられたのです。しかし、女性は「主よ、食卓の下の小犬も子供のパン屑(くず)はいただきます」と答えたのです。イエス様は女性に「家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」と言われたのです。家に帰ってみると悪霊はすでに追い出されていたのです。母親の信仰が娘の病を癒したのです。イエス様は民族とか出自ではなく、人の心の内を御覧になられるのです(マルコ7:24-30)。

*イエス様はヨハネから洗礼を受けられました。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて「霊」が鳩のように御自分に降って来るのを御覧になったのです。神様はイエス様に聖霊様を注がれたのです。神様はイエス様と共におられるのです。イエス様は神様の霊の力によって「汚れた霊」に取りつかれた人々や子供たちを悪霊の支配から解放されたのです。一方、「あの男(イエス様)は気が変になっている」と嘲笑(ちょうしょう)する人々がいたのです。噂(うわさ)を信じてイエス様を取り押さえに来た家族(親戚)もいたのです。エルサレムから様子を見に来ていた敵対する律法学者たちは「あの男はベルゼブルに取りつかれている。悪霊の力で悪霊を追い出している」と誹謗・中傷したのです(マルコ3:20-30)。すべての罪は赦されるのです。しかし、聖霊様を冒涜する罪は赦されないのです。イエス様は彼らに「永遠の罰」を宣告されたのです。ユダヤ人の父親は悔い改めてイエス様の「力ある業」を信じたのです。息子は癒されたのです。イエス様は「汚れた霊」に取りつかれた二人の男性を憐れまれたのです。その内の一人はキリスト信仰を証ししたのです。異邦人の母親はイエス様への信頼を貫いたのです。イエス様は母親の切実な願いに応えられたのです。「汚れた霊」に取りつかれている状態は必ずしも個人や両親の責任ではないのです。政治的、経済的、社会的な影響も少なくないのです。害を与える霊がこれからも悩ますのです。イエス様は「勇気を出しなさい.わたしは既に世に勝っている」と励まして下さるのです(ヨハネ16:33)。

2024年08月25日

「イエス様と母マリアの信仰」

ヨハネによる福音書2章1節から12節

三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。

(注)

・カナ:ガリラヤの中央部にある小さな村です。カナとカファルナウムの間はおよそ26km、カナとナザレの間はおよそ14kmです。聖書地図を参照して下さい。イエス様はここで王の役人の死にかかっている息子の病も癒されたのです(ヨハネ4:46-54)。

・カファルナウム:ガリラヤ湖の北西に位置しています。経済的にも繁栄していた要衝の町です。

・ベトサイダ:ガリラヤ湖の北の端にある町です。アンデレとペトロ、フィリポはこの町の出身者です。いずれも12使徒に選ばれました。

・ナザレ:周辺地域から隔絶された小さな村です。イエス様は母マリア、父ヨセフと共にこの地に住まれました。それ故に「ナザレの人」と呼ばれたのです(マタイ2:23)。

・ナタナエル:故郷はカナです。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったのです。イエス様に出会って「あなたは神の子です」と信仰を告白したのです(ヨハネ1:43-51)。

・1メトレテス:約39リットルです。

・世話役:召使いたちの長です。招待されたお客の中の一人がその任に当たることもあったのです。

・過越祭:ユダヤ人たちがエジプトの圧政から解放されたことを記念する祭りです。出エジプト記12:1-27をお読み下さい。

・天使ガブリエルの言葉:

■あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。(ルカ1:31-33)

・マリアの賛歌:

■そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。 主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。 (ルカ1:46-55)

(メッセージの要旨)

*主催者側は何日も続く婚宴に備えて、食べ物や飲み物を十分に用意するのです。ところが、宴会の途中でぶどう酒が足りなくなったのです。これは単なる準備不足では済まないのです。花婿と花嫁、それぞれの家族や親族にとって極めて不名誉なことなのです。母マリアは世話役などにではなく、イエス様に対応を求めたのです。イエス様のお答えはマリアの意を汲んだものにはならなかったのです。ただ、母マリアに困惑は見られないのです。自分の願いが叶えられることを確信しているかのように、召し使いたちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言ったのです。カナの「しるし」(奇跡)については幾つかの疑問が残るのです。大きく分けて三つあります。第一は母マリアと結婚式を迎える人々との関係です。第二は母マリアになぜぶどう酒の管理責任があったのかです。第三はイエス様がなぜ母マリアにあのような非礼な言い方をされたのかです。第一、第二の疑問に答える記述は見当たらないのです。推測する以外に方法はないのです。第三の疑問を解決する視点はイエス様のお言葉「わたしの時はまだ来ていません」にあるのです。イエス様にとって「水をぶどう酒に変えること」は人々を驚かせることではないのです。「救い主」の到来を啓示する手段なのです。弟子たちは「しるし」によってイエス様を信じたのです。イエス様は「神様の御心」の実現のために全力を注がれるのです。一方、母マリアは天使ガブリエルの受胎告知以来、イエス様が「神の子」であることを心に刻んでいるのです。イエス様に問題解決を願い出たのです。

*イエス様が12歳になった時のことです。母マリアを驚かせた出来事がありました。母マリアと父ヨセフは慣例に従って毎年「過越際」にはエルサレムへ巡礼の旅をしたのです。祭りの期間が終わって帰路についた時、イエス様はまだ都に残っておられたのです。両親はイエス様が一団の中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまったのです。いない事に気づいて親類や知人の間を捜し回ったのですが見つからなかったのです。そこでエルサレムに引き返したのです。母マリアと父ヨセフはイエス様が神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを発見したのです。聞いている人は皆、イエス様の賢い受け答えに驚いていたのです。母マリアはイエス様に「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」と言ったのです、イエス様は「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と答えられたのです。母マリアはイエス様のお言葉の意味を理解できなかったのですが、これらのことをすべて心に納めたのです (ルカ2:41-52)。イエス様がヨハネから洗礼を受け、「神の国」の福音を宣教された年齢はおよそ30歳でした(ルカ3:23)。それまで、父ヨセフから大工の仕事を学び、父親の死後も一家の生計を支えられたのです。母マリアはイエス様と生活を共にしているのです。天使ガブリエルの言葉を想起する機会が何度もあるのです、息子が「神の子」であることを信じているのです。

*イエス様はガリラヤ湖の近郊にあるカファルナウムの町を宣教の拠点にされました。洗礼者ヨハネの弟子であったベトサイダ出身のアンデレとペトロを最初の弟子とされたのです。さらに、フィリポとナタナエルを弟子に加えられたのです。イエス様はナザレの北にあるカナと呼ばれる村で行われる結婚式に出席されたのです。母マリア、弟子たちも同席したのです。母マリアの行動を理解するためには当時の慣習を知っておくことが不可欠です。パレスティナにおいて婚姻は前もって全住民に告知されたのです。花婿が友人たちと共に行列を作って花嫁の家を訪問し、花嫁を迎えるのです。それから、花嫁と共に自分の家に戻り婚宴を始めるのです。伝統と慣習に従ってすべての事が順調に終われば、花婿と花嫁、家族と親戚に名誉がもたらされるのです。婚宴の途中に不都合が生じれば、非難と不名誉が待っているのです。それほど重要な出来事なのです。婚宴の席は一週間続いたのです(士師記14:12)。イエス様は「十人の乙女」のたとえ話において「救い」の厳しさを語っておられます(マタイ25:1-13)。花婿の到着が遅れて真夜中になったのです。予備の油を用意していなかった「五人の乙女」は油を店に買いに行ったのです。その間に花婿は到着し、婚宴の席の戸が閉められたのです。ぶどう酒を十分に用意していなかったことが明らかになれば、招待側の不手際が村や周辺地域に流布されるのです。世話係も責任を問われることになるのです。民族共同体において、不名誉は耐え難いことです。母マリアはイエス様に「特別な力」を期待したのです。

*母マリアは「ぶどう酒がなくなりました」と伝えたのです。イエス様は「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」と答えられたのです。「あなたが気にかけている『ぶどう酒の問題』がどうしてわたしたち相互の関心事になるのですか」と言い換えることが出来るのです。確かに、イエス様の「使命」と直接の関わりがないのです。言い方は母親のマリアに礼を失しているように見えるのです。「婦人よ」は男性から女性に対する一般的な呼びかけ方なのです。他に同様の言葉を使っておられるのです。サマリアの女性(ヨハネ4:21)、姦淫の罪で捕らえられた女性(ヨハネ8:10)、十字架の下にいた母マリア(ヨハネ19:26)、マグダラのマリア(ヨハネ20:15)です。それでも、母親に「婦人よ」は普通ではないのです。母マリアは「自分の息子」に対するように話しているのです。イエス様は母親の善意を承知の上で敢えて「神の子」として対応されたのです。「水をぶどう酒に変えること」は親子の関係を超越しているのです。母親の依頼で行動することではないのです。イエス様はもはや母親の下にはいないのです。「わたしの時はまだ来ていません」を加えられたのです。「救い主」であることを暗に告白しておられるのです。そこには苦難の道を歩む覚悟が表れているのです。イエス様は「神様の御心」の実現するために奔走(ほんそう)されるのです。最初に、母マリアの願いに応えられたのです。水をぶどう酒に変えられたのです。神様がイエス様と共におられるのです。その後も、数多くの「しるし」によって証しされたのです。

*乙女マリアはイエス様の誕生に関わる中心人物です。ところが、「マリアの賛歌」においてキリスト信仰の本質が明らかにされたこと、カナにおける母マリアの言葉「ぶどう酒がなくなりました」に隠されたイエス様への信仰について言及されることが少ないのです。マリアは最初のキリストの信徒です。生涯を通してキリストの信徒であり続けた人なのです。イエス様は母マリアの揺るぎない信仰を高く評価しておられるのです。個人的な母の願いに応えるということではなく、「しるし」-ユダヤ教の清めに用いる石の水がめに入れられた水を新しいぶどう酒に変えられたこと-を通して、キリスト信仰による「救い」を啓示されたのです。役人の息子を癒し、五千人に食べ物を与え、生まれつきの盲人を見えるようにするなど、数々の「しるし」を実行されたのです。最終的には、すべての人のためにご自身を捧げられるのです。イエス様は母マリアに「御覧なさい。あなたの子です」と言って感謝を表明されました。母親の行く末に深い配慮をされたのです。愛する弟子(ヨハネ?)に「見なさい。あなたの母です」と言って依頼をされたのです。この弟子は母マリアを自分の家に引き取ったのです(ヨハネ19:25-27)。母マリアはイエス様の十字架のそばに立って無言の別れを告げたのです。初代教会の信徒の数は百二十人ほどです。その中には母マリア、イエス様の兄弟たちもいたのです。イエス様の教えを守り、他の信徒と共に心を合わせて熱心に祈っていたのです(使徒1:13-15)。母マリアはキリスト信仰を誰よりも実践した人なのです。

2024年08月18日

「平地の説教の視点」

Bible Reading (聖書の個所) ルカによる福音書6章17節から36節

イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。

さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。


しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵(たち)を愛し、あなたがたを憎む者(たち)に親切にしなさい。悪口を言う者(ののしる者たち)に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者(たち)のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

(注)

・ ユダヤ全土:北のガリラヤ、中央のサマリア、南のユダヤに分かれていました。聖書地図を参照して下さい。


・ティルスとシドン:地中海沿岸の異邦人の町々です。シドンはティルスのさらに北にあります。


・不幸である:原文にはもっと厳しい言葉が使われているのです。本来「・・に災いあれ」と訳すべきなのです。日本語訳を通してイエス様が事実と異なる柔和なお方として紹介されるのです。複数の聖書によって訳を比較して下さい。


・偽預言者たち:神様の言葉の代わりに、人々の気に入ることだけを話した預言者たちです。人々は彼らを褒めるのです。

・神様の正義:


■災いだ、家に家を連ね、畑に畑を加える者は。お前たちは余地を残さぬまでに/この地を独り占めにしている。万軍の主はわたしの耳に言われた。この多くの家、大きな美しい家は/必ず荒れ果てて住む者がなくなる。十ツェメド(約25,000㎡)のぶどう畑に一バト(約23ℓ)の収穫/一ホメル(約230ℓ)の種に一エファ(約23ℓ)の実りしかない。


災いだ、朝早くから濃い酒をあおり/夜更けまで酒に身を焼かれる者は。酒宴には琴と竪琴、太鼓と笛をそろえている。だが、主の働きに目を留めず/御手の業を見ようともしない。それゆえ、わたしの民はなすすべも/知らぬまま捕らわれて行く。貴族らも飢え(で死に)、群衆は渇きで干上がる。それゆえ、陰府は喉を広げ/その口をどこまでも開く。高貴な者も群衆も/騒ぎの音も喜びの声も、そこに落ち込む。人間が卑しめられ、人はだれも低くされる。高ぶる者の目は低くされる。万軍の主は正義のゆえに高くされ/聖なる神は恵みの御業のゆえにあがめられる。小羊は牧場にいるように草をはみ/肥えた家畜は廃虚で餌を得る。


災いだ、むなしいものを手綱として/罪を車の綱として、咎を引き寄せる者は。彼らは言う。「イスラエルの聖なる方を急がせよ/早く事を起こさせよ、それを見せてもらおう。その方の計らいを近づかせ、実現させてみよ。そうすれば納得しよう。」


災いだ、悪を善と言い、善を悪と言う者は。彼らは闇を光とし、光を闇とし/苦いものを甘いとし、甘いものを苦いとする。災いだ、自分の目には知者であり/うぬぼれて、賢いと思う者は。


災いだ、酒を飲むことにかけては勇者/強い酒を調合することにかけては/豪傑である者は。これらの者は賄賂を取って悪人を弁護し/正しい人の正しさを退ける。それゆえ、火が舌のようにわらをなめ尽くし/炎が枯れ草を焼き尽くすように/彼らの根は腐り、花は塵のように舞い上がる。彼らが万軍の主の教えを拒み/イスラエルの聖なる方の言葉を侮ったからだ。(イザヤ書5:8-24)


■富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません。兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。(ヤコブ5:1-11)

・神様の愛:

■寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼(ら)を苦しめ、彼(ら)がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる。もし、あなた(たち)がわたしの民、あなた(たち)と共にいる貧しい者(たち)に金を貸す場合は、彼(ら)に対して高利貸しのようになってはならない。彼(ら)から利子を取ってはならない。もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。(出エジプト記22:20-26)

■穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者(たち)や寄留者(たち)のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは盗んではならない。うそをついてはならない。互いに欺いてはならない。わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなた(たち)の神の名を汚してはならない。わたしは主である。あなた(たち)は隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。・・心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。(レビ記19:9-18)

・仮現論:初期のキリスト教における異端理論の一つです。キリスト信仰をこの世-社会・経済・政治-から切り離して霊的な側面だけを強調する考え方のことです。この信仰理解によれば、イエス・キリストは地上におられた間、人間 の肉体を持っておられなかったのです。ただ肉体があるように見えていただけなのです。それ故、イエス様の復活を認めなかったのです。

(メッセージの要旨)

*イエス様は宣教の第一声において「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたのです(マルコ1:15)。特に、貧しい人々や虐げられた人々に「神の国」-神様の支配-の到来を「力ある業」によって証しされたのです。目の見えない人々は見え、足の不自由な人々は歩き、重い皮膚病を患っている人々は清くなり、耳の聞こえない人々は聞こえ、死者たちは生き返っているのです(マタイ11:5)。神様はしかるべき時にこの世を終わらせて「新しい天地」を創造されるのです。悔い改めてご自身の下に来る人々を「永遠の命」に与らせて下さるのです。これが福音(良い知らせ)なのです。一方、社会には指導者(金持ち)たちの腐敗と不正が蔓延(はびこ)っているのです。預言者たちは社会・経済・政治構造の歪(ゆが)みを告発したのです。イエス様は彼らを高く評価されたのです。富に対する姿勢はその人の「救い」を左右するのです。不正な手段-搾取、強欲、策略、暴力など-によって富を蓄積した金持ちたちに天罰が下るのです。イエス様は「敵を愛しなさい」と言われました。敵(悪)を無条件で受け入れることであるかのように誤解されているのです。神様は正義と愛を大切にされるのです。イエス様は「神様の御心」を実現するために地上に来られたのです。何よりもまず、神の国と神の義(正義)を求められたのです。弟子たちにもそれらの実行を命じられたのです(マタイ6:33)。同時に、敵対する人々が悔い改めて「救い」に与ることを願っておられるのです。キリスト信仰が要約されているのです。

*イエス様は山上から12弟子たちと共に下りて来られました。群衆は癒しを求めてイエス様に触れようとしたのです。すでに触れて癒された人々がいたことを知っていたからです。イエス様が町や村や里に入って行かれると、そこでは人々が病人たちを広場において、せめてその服の裾(すそ)にでも触れさせてほしいと願い出たのです。触れた者はみな癒されたのです(マルコ6:56)。12年間も長血を患っている女性が後ろからイエス様の服の房に触れたのです。服に触れさえすれば治してもらえると思っていたからです。イエス様はあなたの信仰があなたを救った(癒した)と言われたのです。その時、女性は病気から解放されたのです(マタイ9:20-23)。イエス様は福音を語るだけでなく、人々の悩みや苦しみを現実に取り除かれたのです。その際、人々の心の内を御覧になられるのです。見せかけの信仰は何の役にも立たないのです。一方、神様の子であることを信じられない人々には譲歩されたのです。「わたしが父の業おこなっていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくてもその業を信じなさい」と言われたのです(ヨハネ10:37-38)。「力ある業」によって神様が共におられることを証明されたのです。キリストの信徒たちは「隣人愛」によって信仰を証しするのです。貧しい人々や飢えている人々に衣服や食物を与え、旅人たちに宿を提供し、病人たちを見舞い、牢獄に不当に拘束されている人々を訪ねるのです。これらは「救いの要件」なのです(マタイ25:31-46)。

*「平地の説教」(ルカ6:17-49)と「山上の説教」(マタイ5-7)はよく比較されるのです。両方とも「幸い」で始まり「聞くだけでなく、行いなさい」で終わっているのです。マタイは9つの「幸い」を挙げています。ルカは4つの「幸い」の他に「山上の説教」にはない4つの「不幸(災い)」を加えているのです。金持ちに対する厳しい裁きが含まれている「平地の説教」よりも「山上の説教」が引用される理由の一つになっているのです。イエス様はガリラヤで宣教を始められたのです。安息日にはいつものように会堂に入られたのです。イザヤ書の「主の霊がわたしの上におられる、貧しい人々に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである」を朗読されたのです(ルカ4:18)。ご自身の立ち位置がイザヤの預言にあることを明言されたのです。「平地の説教」においても「神の国」が貧しい人々に属することを宣言されたのです。一方、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と記されているのです(ヨハネ3:16)。「救い」はすべての人に及ぶのです。ただ、神様と富とに仕えることは出来ないのです。イエス様は「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われたのです(マルコ10:25)。徴税人の頭ザアカイは「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたらそれを四倍にして返します」と言って「永遠の命」に与ったのです(ルカ19:8)。

*イエス様は「敵を愛しなさい」と言われました。この言葉を正しく理解することが重要です。聖書のどこを探しても正義と裁きのない愛は見つからないからです。迫害する人々の卑劣な行為を容認してはならないのです。悪と不正には毅然(きぜん)と対応するのです。これらの人が「救い」に与れるかどうかは別の問題なのです。ただ、非難や告発の方法には工夫を凝らすのです。抗議によって、呪う者たちや虐待する者たちに内省する機会を提供するのです。暴力を行使する者たちには非暴力で抵抗するのです。担保になっている上着を奪い取る者には下着を差し出して経済的暴力(高利貸し)の不当性に抗議するのです。貧しい人々が願い求めているものを拒んではならないのです。生きるために止むを得ず持ち物を奪った者から取り返そうとしてはならないのです。人に善いことをし、何も当てにしないで貸すのです。神様に倣(なら)って憐れみ深い者となるのです。神様の正義を強調すればイエス様の愛の教えと矛盾するかのように誤解されているのです。聖書が伝えるイエス様の実像が歪められているのです。イエス様は強盗の巣と化したエルサレム神殿の境内から商人たちを実力で追い出されたのです(マルコ11:15-18)。「平和ではなく分裂をもたらすために来た」と言われたのです(ルカ12:49-53)。ファリサイ派の人々や律法学者たちを偽善者と呼び、天罰を宣告されたのです(マタイ23)。病気や心身の障害、貧困や差別は当時の政治・経済・社会、宗教的慣習と深く関わっているのです。神様の正義と愛は表裏一体なのです。

*イエス様が出会った民衆はローマ帝国の支配下にあって重税に苦しみ、非人間的な取り扱いを受けていたのです。国内では金持ちたちによって搾取され、抑圧され、貧しい生活を強いられていたのです。医療が発達していない当時にあって、人々はいろいろな病気に罹ったのです。悪霊(精神的な病)に苦しめられていたのです。「平地の説教は」はこれらの人を大いに慰めたのです。一方、既得権に執着する指導者たちや金持ちたちにとっては苦々しい警告となったのです。贅沢な暮らしを取り上げられるだけでなく、それぞれに厳しい罰が下されるのです。ただ、悔い改めによって神様の下へ帰る道は残されているのです。キリスト信仰を標榜する人々は正義と愛を大切にするのです。イエス様の御跡を辿(たど)ればこの世との対立は避けられないのです。必ず迫害されるのです。迫害する人々のために善を行うことは簡単ではないのです。イエス様はそれを実践されたのです。十字架につけられた時には「父よ、彼らをお赦しください。自分(たち)が何をしているのか知らないのです」と言われたのです(ルカ23:34)。イエス様は「平地の説教」を語られたのです。ただ、内容が正確に伝えられていないのです。「神の国」の福音が「罪からの救い」に縮小されているのです。「天国」にのみ関心があるかのように変容されているのです。イエス様は血と肉の体でこの世に来られたのです。現代の仮現論に陥らないように最大の注意を払うのです。キリストの信徒たちはこれまでの生き方を変えるのです。正義を実践するのです。憐れみ深い人になるのです。

2024年08月11日

「正義と平和」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書5章1節から12節


イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。義(正義)に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。義(正義)のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

(注)

・群衆:

■イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。(マタイ4:23-25)

・心の貧しい:ローマ帝国の圧政とそれに協力するユダヤ人指導者たちの下で苦しむ人々の心の状態のことです。気力が打ち砕かれているのです。ルカでは「貧しい人々は、幸いである」となっているのです(ルカ6:21)。イエス様はイザヤ書61:1-2;58:6を引用し、ご自身の宣教の目的が貧しい人々や圧迫された人々を解放するためであることを宣言されたのです(ルカ4:16-21)。

・神の国(天の国):神様の主権、あるいは神様による支配のことです。私たちが死後に行く「天国」のことではありません。イエス様は「神の国」の宣教に生涯を捧げられました。既得権益に執着する権力者たちは「神の国」を受け入れることが出来ずに、イエス様を十字架上で処刑したのです。ところが、神様はイエス様を復活させられたのです。イエス様は復活された後も天に帰られるまでの間、弟子たちに「神の国」について教えられたのです(使徒1:3)。

・偽りの平和:


■万軍の主はこう言われる。「ぶどうの残りを摘むように/イスラエルの残りの者を摘み取れ。ぶどうを摘む者がするように/お前は、手をもう一度ぶどうの枝に伸ばせ。」誰に向かって語り、警告すれば/聞き入れるのだろうか。見よ、彼らの耳は無割礼で/耳を傾けることができない。見よ、主の言葉が彼らに臨んでも/それを侮り、受け入れようとしない。主の怒りでわたしは満たされ/それに耐えることに疲れ果てた。「それを注ぎ出せ/通りにいる幼子、若者の集いに。男も女も、長老も年寄りも必ず捕らえられる。家も畑も妻もすべて他人の手に渡る。この国に住む者に対して/わたしが手を伸ばすからだ」と主は言われる。「身分の低い者から高い者に至るまで/皆、利をむさぼり/預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らは、わが民の破滅(傷)を手軽に治療して/平和がないのに、『平和、平和』と言う。(エレミヤ書6:9-14)


■あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。(ルカ12:51-53)

・正義と平和と裁き:フランシスコ会司祭本田哲郎氏が著書「小さくされた者の側に立つ神」(新世社、2003年)の中で解説しています(p38)。

●正義とは、個人や家族、民族や国家、そこに含まれるさまざまな団体や自然環境などあらゆる被造物が、本来神から与えられている権利と義務を十分に果たせるような状態を築きあげる働きのことであり、そこに生み出されるものが平和です。裁きとは、その権利が奪われたり、義務がなおざりにされて誰かを苦しめたりしている場合に、それを奪われた人の側に立って取り戻すこと、平和と喜びと自由を回復することにほかなりません。

・UNHCR:

United Nation High Commissioner for Refugee の略称です。日本名は「国連高等難民弁務官事務所」です。1950年に設立された国連機関です。1945年、1981年にノーベル平和賞を受賞しています。国連UNHCR協会は日本における公式支援窓口です。

・日本国憲法第9条:

(1)日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又(また)は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

(2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

・非核三原則:「核兵器を持たず、造らず、持ち込ませず」のことです。

・回想録:「ALL THE GALLANT MEN 」(2016年)、著者はDonald Stratton (当時97歳)です。

(メッセージの要旨)

*「山上の説教」(マタイ5-7)はキリスト信仰を要約しています。今日の聖書の個所はその冒頭部分です。イエス様の重要な教えから正義と平和について 学びます。この二つはキリスト信仰の根本理念です。ところが、礼拝において言及されることが少ないのです。「救い」と関係がないかのように理解されているからです。日本語訳も影響を与えているのです。「心の貧しい」は個人的な心の問題ではないのです。ユダヤ民族としての苦悩や絶望感を表しているのです。「義」も個人的な倫理観を強調した訳になっているのです。原語は「正義」と訳されるべき言葉なのです。いずれにしても、誤解の原因は「神の国」の福音が「神様の支配」の実現ではなく「罪からの救い」に縮小されていることにあるのです。神様は父祖アブラハムに「息子たちとその子孫に主の道を守り、正義を行わせること」を命じられたのです(創世記18:19)。詩編の作者の口を通して「慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけし」と宣言されたのです(詩編85:11)。預言者イザヤは「正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものはとこしえに安らかな信頼である」と言うのです(イザヤ書32:17)。イエス様も「何よりもまず、神の国と神の義(正義)を求めなさい」(マタイ6:33)、「律法の中で最も大切な正義、慈悲、誠実をないがしろにしてはならない」(マタイ23:23)と言われたのです。キリスト信仰を標榜する人々には大切な使命があるのです。「神様と隣人」を全力で愛し、この世に正義と平和に満ちた「神の国」を建設するのです。


*「山上の説教」にはイスラエルの社会的、経済的、政治的状況が色濃く反映されているのです。ユダヤはローマ帝国の支配下にあり、人々は皇帝ではなく神様が真に崇められる日が来ることを待ち望んでいたのです。人々の生活は貧しく、困窮を極めたのです。日々の糧を確保することも簡単ではなかったのです。一方、ファリサイ派の人々や律法学者たちは不正な利益を得ていたのです。後に、イエス様はエルサレムに上り、「平和の都」と呼ばれていたその町が遠望できるところに立たれ、涙を流して「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである」と言われたのです(ルカ19:42-44)。「平和への道」とは「神様の御心」を実行することです。義(正義)に飢え渇く人々、平和を実現する人々、義(正義)のために迫害される人々は幸いなのです。行いによって「天の国」に招き入れられるのです。「聖書に忠実である」と言う言葉が聞かれます。多くの場合、聖書の言葉を恣意的に選別しているのです。正義や裁きの大切さが読み飛ばされているのです。キリスト信仰が変容される要因の一つなのです。これらの人はイエス様が愛と喜びと平和を説かれたのだと信じているのです。ただ、聖書のどこを探しても正義と裁きのない愛、喜び、平和は見つからないのです。


*イスラエルの民は幼いころから律法に関する書(出エジプト記、レビ記、申命記)、預言書(エレミア書など)、旧約聖書の詩編に親しんでいるのです。正義が「神様の御心」であることを知っているのです(イザヤ書42:1-5)。義(正義を)実現することはユダヤ人たちの使命なのです。キリストの信徒たちもその責務を負っているのです。「神の国」の建設-神様が神様として崇められること-に全力を注ぐのです。不正に利益を得ている人々は「神の国」の到来を拒否するのです。特権的地位と既得権益を守るために告発者たちを迫害するのです。イエス様は弟子たちに覚悟を求められたのです(ルカ9:57-62)。矛盾を内包する見せかけの平和ではなく、正義に貫かれた真の平和を希求する人々は幸いなのです。抑圧や搾取のない世界のために奮闘する人々は祝福されるのです。宗教的儀式、御言葉の暗記、毎週の礼拝出席ではないのです。イエス様が「救い」を判断される基準は明確です。貧困や飢えに喘ぐ人々を窮状から救うために、不当に拘束されている人々の解放のために何をしたかなのです。イエス様は貧しい人々や虐げられた人々の側に立たれたのです。それ故に「この最も小さな者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」と言われるのです(マタイ25:31-41)。キリスト信仰は「個人の救い」で完結しないのです。日本だけではなく、世界の抑圧と搾取に目を向けるのです。神様の子供たちがもっと豊かに暮らせるように「平和への道」を着実に前進するのです。「神の国」の福音を届けるのです。


*8月は戦争と平和について考える良い機会です。1945年8月6日(広島)、9日(長崎)に原子爆弾が投下されました。およそ20万人が犠牲となりました。その後、5年間に犠牲者の数は34万人へと膨らんだのです。15日には日本の軍国主義が敗北し、第二次世界大戦が終結したのです。日本の戦死者の数はおよそ310万人、世界全体では5000万人から8000万人とされています。あまりにも多くの尊い命が戦争によって失われたのです。アメリカハワイ州オアフ島にあるアリゾナ記念館を訪れたことがあります。大日本帝国海軍による1941年12月8日の奇襲攻撃で米兵2403人が命を落としました。湾内に停泊していた戦艦アリゾナの乗組員1177人のうち1102名が死亡しました。生き残った兵士もいたのです。この中の一人が回想録を出版しています。著者は負傷したけれども一命をとりとめ、再び太平洋戦争終結直前の沖縄戦にも従軍しているのです。自分の経験や大日本帝国陸軍のアジアにおける数々の残虐行為の情報に接して、理不尽な戦争を終わらせるために原爆投下はやむを得なかったと結論付けています。この考え方はアメリカ人に共通しています。一方、原爆投下に批判的なアメリカ人も少数ですがいるのです。著者は日本人にわだかまりはないが日本軍をいまも許せないと言うのです。戦争は偶然に起こるのではないのです。無謀な戦争を推し進めた人々がいるのです。彼らの責任が厳しく問わなければならないのです。それ以降も数次の中東戦争やシリア内戦、ロシアによるウクライナ侵攻などが起こっているのです。

*預言者イザヤは正義と平和を関連づけているのです。正義のない平和は偽りなのです。正義とは個人や家族、民族や国家、自然環境などのあらゆる被造物が、本来神様から与えられている権利と義務を十分に行使できるような状態を築き上げる働きのことです。そこに生み出されるものが平和なのです。平和は抑圧や搾取がなくなった時に訪れるのです。日本は平和憲法を高く掲げ、唯一の被爆国として、戦争の残酷さと悲惨さを発信しているのです。非核三原則を堅持し、原爆投下が人類に対する大罪であることを訴えているのです。同時に、日本の軍部が近隣のアジア諸国を侵略し、真珠湾を攻撃して人々の尊い命を奪い、多大な損害を与えた事実を忘れてはならないのです。世界の多くの国において政治的抑圧と経済的格差が顕著になっているのです。武力衝突も頻繁に起こっているのです。国家や地域間の争いは人々の生活に深刻な結果をもたらしているのです。UNHCRの報告書によると5月の時点で紛争や迫害により故郷を負われた人の数は1億2000万人を超えているのです。日本の総人口に匹敵する人数なのです。平和運動は思想・信条を越えて進められているのです。真の平和はただ待っているだけでは来ないのです。正義と公平を追求する人々の不断の努力によって実現するのです。ただ、平和への道は簡単ではないのです。茨の道でもあるのです。正義を追求すれば既得権益に執着する人々の抵抗も激しくなるのです。イエス様は「あなたがたは神の子と呼ばれる」と言われたのです。平和の実現のために奔走するすべての人に希望を与えられたのです。

2024年08月04日
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