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洗礼者ヨハネが捕らえられた後、イエス様はガリラヤ地方へ行き、福音(良い知らせ)を宣べ伝えて「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたのです(マルコ1:14-15)。イエス様は復活された後も、使徒たちに「神の国」について話されたのです(使徒1:3)。キリスト信仰の中心メッセージは「神の国」-神様の支配-にあるのです。

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「わたしは命のパン」

日   時  2026年09月27日(日)午前10時30分~

礼 拝 式 次 第

前奏 (Prelude)

讃美歌4番

よろずのくにびと   わが主にむかいて
こころのかぎりに   よろこびたたえよ

主こそはかみなれ、  主はわがかいぬし、
われらはその民、   みまきのひつじぞ。

もろごえあわせて   大御名ほめつつ、
みかどに入りゆき、  みまえに近づかん

めぐみはゆたかに、  あわれみつきせず、
こよなきまことは   ときわにかわらじ。

BRIEF ORDER FOR CONFESSION AND FORGIVENESS

(P) In the name of the Father, and of the + Son, and of the Holy Spirit.

(C) Amen

(P) God, whose love is everlasting, welcomes sinners to the table of mercy.
Let us confess our sin, confident in God’s forgiveness.

Silence for reflection and self-examination.

(P) Gracious God,

(C) Have mercy on us.
In your gracious compassion forgive us our sins, both known and unknown, things done and left undone.
Uphold us by your Spirit so that we may serve you in newness of life, to the honor and glory of your holy name, through Jesus Christ our Lord. Amen.

(P) Since we are justified by God’s grace through faith,
We have peace with God through our Lord Jesus Christ.
Almighty God has mercy on you, forgives you all your sins,
And bring you to life everlasting.
Amen

Prayer of the Day(今日の祈り)

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書6章34節から59節

そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』(イザヤ書54:13)と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった(民数記14:26-35)。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かす(この世に命を与える)ためのわたしの肉のことである。」

それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。

(注)

・彼 ら:パンによって空腹を満たされた五千人の群衆の中にはイエス様の後を追い続けた人々もいたのです。

■群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナ(マナ)を食べました。『(モーセが)天からのパンを彼らに与えて食べさせた』(出エジプト記16:4)と書いてあるとおりです。」すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、(わたしの父が)天からのまことのパンをお与えになる(わたしの父である)。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」(ヨハネ6:24-33)


・モーセの言葉:

■あなた(がた)の神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。・・主はあなた(がた)を苦しめ、飢えさせ、あなた(がた)も先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなた(がた)に知らせるためであった。(申命記8:2-3)

●マナについては出エジプト記16章をお読み下さい。

・神様がご自身について宣言された言葉:

■主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。(出エジプト記34:6-7)

■わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。(ホセア書6:6)

・貧しい(抑圧された)人々への福音:

■主はわたし(預言者イザヤ)に油を注ぎ、主なる神の霊がわたしを捕えた。(主が)わたしを遣わして、貧しい(抑圧された)人々に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心(人々)を包み、捕らわれ人(た人々)には自由を、つながれている人(囚人たち)には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年(を)、わたしたちの神が報復される日を告知して(するために)、嘆いている人々を慰め(るために)」(イザヤ書61:1-2)。

・パンを求める切実さ:イエス様が人々に教えられた「主の祈り」(マタイ6:9-13)の中に表われています。隣人愛や経済活動に関する律法の規定(利子の免除、土地の返還)が守られていないのです。

■わたしたちに必要な糧(パン)を今日与えてください(6:11)。

■わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人(負債者たち)を/赦しましたように(6:12)。

・預言者の書:エレミヤ書31:34も参照して下さい。

・キリストの信徒たちの使命:イエス様が命じられた最も重要な二つの戒め-神様と隣人を愛すること-を実践して生きることです(マルコ12:28-31)。

・カファルナウム:ガリラヤ湖の北の端にある町です。聖書地図をご覧下さい。

・福音書記者ヨハネは「わたしは命のパンである」以外にもイエス様がご自身を定義されたお言葉を伝えています。

■わたしは世の光である。わたしに従う者は(だれでも)暗闇の中を歩まず、命の光を持つ。(8:12)

■わたしは羊の門である。・・わたしを通って入る者は(だれでも)救われる。・・門を出入りして牧草を見つける。(10:7-9)

■わたしは良い羊飼いである。・・羊のために命を捨てる。・・わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。(10:11-14)

■わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者(人々)は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。(11:25)

■わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことが出来ない。(14:6)

■わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫(ぶどう栽培者)である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。(15:1-2)

(メッセージの要旨)

*イエス様はすでに神様への絶対的信頼を表明しておられます。宣教を開始する直前に四十日間荒れ野で断食されたのです。その時、空腹を覚えられたのです。悪魔が来て「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と誘惑したのです。イエス様は「モーセの言葉」を引用して反論されたのです(ルカ4:1-4)。イエス様はご自身の後を追って来た5千人に食べ物を与えるという不思議な業を行われたのです。満腹した人々はイエス様を自分たちの王として戴(いただ)こうとしたのです。イエス様はご自身に対する誤解を正されるのです。身近な食べ物-主食であるパン-にたとえて「神様の子」であることを語られたのです。民衆はローマの支配下にあって貧しい暮らしを余儀なくされているのです。日々の糧(かて)を確保するために労苦しているのです。人々が朽ちる食べ物に関心を向けることは当然のことです。イエス様は「主の祈り」を通して神様に日々お願いするように教えられたのです。神様は人間が生きて行くために必要な物を必ず与えて下さるからです。一方、「わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」(ヨハネ5:24)、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子(救い主)があなたがたに与える食べ物である」(ヨハネ6:27)と言われたのです。信仰と行いは表裏一体なのです。最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実行して「永遠の命」に与るのです。

*ユダヤ人の信仰の根底にあるものは祖先が経験したエジプトの圧政からの解放なのです。神様は「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、・・彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」と言って、モーセを遣(つか)わされたのです(出エジプト記3:1-21)。ヘブライ人たち(イスラエルの民)の信仰心が篤(あつ)いからではなく、圧政に苦しんでいるご自身の民を憐れまれたからです。キリスト信仰を理解するためにはこの歴史的事実を常に念頭に置く必要があるのです。エジプト脱出はイエス様のメッセージの原点になっているのです。宣教活動において繰り返しモーセの名前を挙げておられます。ユダヤ人たちに神様の深い愛を想起させられたのです。神様はエジプトの王ファラオによるヘブライ人の抑圧をご自身が介入する動機とされたのです。イエス様も預言者イザヤの言葉を引用して、貧しい人々や虐げられた人々の「救い」を宣言されたのです(ルカ4:18―19)。民衆の圧倒的多数は貧しい生活の中で喘(あえ)いでいるのです。生活に不可欠な物-衣・食・住-のために奔走(ほんそう)しているのです。神様はイエス様を通して労苦する人々の切実な祈りに応えられたのです。「神の国」-神様の支配-の福音がこの世において具体化しているのです。ただ、終わりの日(最後の審判)に先立って遣わされた神様の御子が正しく理解されていないのです。イエス様はキリスト信仰の真髄(しんずい)を難解な理論ではなく、人々の生活体験に則して明らかにされたのです。イエス様の苦難に満ちたご生涯から学ぶのです。

*空腹を満たされた群衆の中にはローマの不当な支配と闘っている人々もいたのです。これらの人はイエス様をユダヤ人の王(政治的指導者)にしようとしたのです。イエス様は企(くわだ)てから逃れて身を隠されたのです。しかし、群衆はイエス様を捜し続けたのです(ヨハネ6:1-15)。イエス様は人々の窮状(きゅうじょう)を良くご存じなのです。ただ、「永遠の命」に至る食べ物-神様の御子-に真剣に向き合わないことに警鐘(けいしょう)を鳴らしておられるのです。ユダヤ人たちは先祖が荒野でマンナ(パンの一種)を食べたことは知っているのです。しかし、イエス様が天から降って来たパンであることを信じられないのです。マルコは「イエスはパンを取り・・弟子たちに与えて言われた。『これはわたしの体である。』また、杯を取り・・彼らにお渡しになった。・・『これは多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である』」と記述しています(マルコ14:22-26)。ヨハネによればイエス様は「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」と言われたのです。ユダヤ人たちはお言葉に躓(つまず)いたのです。人間の肉を食べることは人々への敵意を表し(詩篇27:2)、血を飲むことは律法で明確に禁じられているからです(レビ記3:17)。イエス様はご自身の「生き方」に倣(なら)うように命じられました。キリストの信徒たちはイエス様の教えを心に刻み、御跡を辿(たど)るのです。

*朽ちるパンを提供されたイエス様は同時に「永遠の命」を与えられるお方なのです。弟子になろうとする人々にはご自身の肉を食べ、血を飲むことが必須の要件となっているのです。イエス様は「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われたのです(ルカ9;23)。ご自身に従いご自身と運命を共にする人々だけが弟子となるのです。「わたしは命のパンである」は「霊的なものが肉的なものよりも優れていることの証明である」と主張する人々がいるのです。イエス様のお言葉の意味が誤解されているのです。イエス様は「わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」と明言されたのです(マルコ10:29-30)。「イエス様が命のパンであること」は「神の国」の将来像を予見させるのです。人間の「全的な救い」として完成するのです。イエス様は「神様の御心」-神様と隣人への愛-を実現するためにご生涯を捧げられたのです。ご自身の生と死と復活によって「神の国」の福音をこの世に届けられたのです。「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」にあるように、イエス様は「行い」の重要性を強調されているのです。弟子たちに「正義を重んじ、慈悲深く、誠実でありなさい」と命じられたのです(マタイ23:23)。キリスト信仰とは「信じること」で完結しないのです。終わりの日に、「生き方」が問われる信仰なのです。

*「救い」を説明するためにパウロの信仰理解―「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら救われる・・」(ローマ書10:9-10)―が用いられているのです。この「救いの定義」は往々にして人々に誤解を与えるのです。「救い」は知的信仰ではなく、命のパンを「食べること」によって得られるのです。イエス様「わたしよりも父や母を愛する者は(だれでも)、わたしにふさわしくない。・・自分の十字架を担(にな)ってわたしに従わない者は(だれでも)、わたしにふさわしくない」と言われたのです(マタイ10:37-39)。ご自身が「永遠の命」に至る唯一の道であることを明確にされたのです。「救い」は安価な恵みではないのです。「永遠の命」に与ろうとする人々には物心両面にわたる犠牲が伴うのです。キリスト信仰において「救い」は強調されるのです。ところが、弟子としての覚悟や責務についてあまり語られていないのです。キリスト信仰に関する神学的な解説は却(かえ)って人々を躓(つまず)かせる原因となっているのです。キリスト信仰とは「イエス様の肉を食べ、イエス様の血を飲むこと」です。イエス様の「生き方」を自分自身の「生き方」とすることなのです。イエス様が「神の国」の福音を宣教されたように、キリスト信仰を標榜(ひょうぼう)する人々は「神の国」の建設に全力を注ぐのです。「わたしは命のパンである」は教義や理念ではないのです。「信仰と行い」が一体であることを再確認させるお言葉なのです。「行い」によって信仰を証しするのです。

讃美歌6番

1
われら主を たたえまし
きよき御名 あがめばや
来る日ごと ほめうたわん
神にまし 王にます
主のみいつ たぐいなし

2
世は世へとうたいつぎ
よろこびとおそれもて
主のくしき わざを告げ
いつくしみ 知れるもの
みさかえを ほめたたう

3
みめぐみは かぎりなく
主にたよる 子らにあり
みいかりを しのびつつ
あわれみを たれたもう
主をあいし 主につかえん

アーメン

APOSTLES’ CREED


I believe in God, the Father almighty, creator of heaven and earth.

I believe in Jesus Christ, his only Son, our Lord.
He was conceived by the power of the Holy Spirit and born of the Virgin Mary.
He suffered under (Caiaphas and) Pontius Pilate, was crucified, died, and was buried;
He descended into hell.
On the third day he rose again.
He ascended into heaven, and is seated at the right hand of the Father.
He will come again to judge the living and the dead.

I believe in the Holy Spirit,
the holy catholic Church,
the communion of saints,
the forgiveness of sins,
the resurrection of the body,
and the life everlasting. Amen.

(使徒信条)

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、(カイアファと)ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に降り、三日目に死人のうちより蘇り,天にのぼり全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。 アーメン

Benediction(祝福の祈り)

The Grace of the Lord Jesus Christ, the love of God, and the communion of the Holy Spirit be with all of you.

(P) Go in peace. Serve the Lord.

(C) Thanks be to God.

Postlude(後奏)

「Here I am」

I, the Lord of sea and sky,
I have heard My people cry.
All who dwell in dark and sin,
My hand will save.
I who made the stars of night,
I will make their darkness bright.
Who will bear My light to them?
Whom shall I send?
Here I am Lord, Is it I, Lord?
I have heard You calling in the night.
I will go Lord, if You lead me.
I will hold Your people in my heart.

I, the Lord of snow and rain,
I have borne my people’s pain.
I have wept for love of them, They turn away.
I will break their hearts of stone,
Give them hearts for love alone.
I will speak My word to them
Whom shall I send?
Here I am Lord, Is it I, Lord?
I have heard You calling in the night.
I will go Lord, if You lead me.
I will hold Your people in my heart.

I, the Lord of wind and flame
I will tend the poor and lame.
I will set a feast for them,
My hand will save
Finest bread I will provide,
Till their hearts be satisfied.
I will give My life to them,
Whom shall I send?
Here I am Lord, Is it I, Lord?
I have heard You calling in the night.
I will go Lord, if You lead me.
I will hold Your people in my heart.

 

いずれの曲もインターネットで曲名を入力すれば簡単に聴くことが出来ます。

2026年09月27日

「我に返ること」

日   時  2026年09月20日(日)午前10時30分~

礼 拝 式 次 第

前奏 (Prelude)


讃美歌2番


(1)いざや共に 声うち上げて
くしき御業 ほめ歌わまし
造りましし 天地(あめつち)みな
神によりて 喜びあり


(2)母の胸に ありし時より
わが踏む道 さきわい給う
今も後(のち)も 仇(あだ)を防ぎ
世の災い 除き給わん


(3)迷いを去り 安きを与え
常に恵み 慰め給う
父なる神 御子 御霊に
代々(よよ)みいつと 御栄えあれ

BRIEF ORDER FOR CONFESSION AND FORGIVENESS

(P) In the name of the Father, and of the + Son, and of the Holy Spirit.

(C) Amen

(P) God, whose love is everlasting, welcomes sinners to the table of mercy.
Let us confess our sin, confident in God’s forgiveness.

Silence for reflection and self-examination.

(P) Gracious God,

(C) Have mercy on us.
In your gracious compassion forgive us our sins, both known and unknown, things done and left undone.
Uphold us by your Spirit so that we may serve you in newness of life, to the honor and glory of your holy name, through Jesus Christ our Lord. Amen.

(P) Since we are justified by God’s grace through faith,
We have peace with God through our Lord Jesus Christ.
Almighty God has mercy on you, forgives you all your sins,
And bring you to life everlasting. Amen

Prayer of the Day(今日の祈り)

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書15章11節から32節

また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換(か)えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩(ほうとう)の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉(ききん)が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せた(で雇ってもらった)ところ、その人は彼を畑にやって豚(ぶた)の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物(はきもの)を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠(ほふ)られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

(注)


・放蕩の内容:詳細は不明です。兄が「娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶした」と言っているのです。また、「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません」と自分を評価しています。父親はこれらについて同意していないのです。


・豚:律法によると豚は汚れた動物です。レビ記11:7を参照して下さい。ユダヤ人にとって豚の世話をすることは恥です。それらのエサを食べることはさらに屈辱(くつじょく)だったのです。

・我に返る:神様のお導きを暗示しています。

・良い服・・指輪:弟の地位と正当性表しています。創世記41:42を併せてお読み下さいさい。

・肥えた子牛:肉が食されることはほとんどないのです。特別なお祝いの席に出されるのです。

・兄の弟に対する態度:ファリサイ派の人々や律法学者たちのそれと酷似(こくじ)しているのです。

・神の国:「天の国」とも呼ばれています。神様の支配、神様の主権を表す言葉です。神様が神様として崇(あが)められることです。誤解されているような死後に行く「天国」のことではないのです。

・徴税人:ローマに協力して民衆から過酷な税を徴収していました。人々は彼らを罪人として蔑(さげす)んだのです。

・1ドラクメ銀貨:ギリシャの通貨です。価値は平均的労働者の一日分の賃金に相当します。


・士師:神様はイスラエルを敵から解放するために軍事的、政治的指導者を選ばれたのです。士師記には12人の名前が登場します。サムソンはその一人です。

・ダビデ:三十歳で王となり、四十年間王位にありました(サムエル記下5:4)。イスラエルの歴史において最も重要な人物の一人です。

・新共同訳聖書の小見出しは「『放蕩息子』のたとえ」になっています。日本語訳がキリスト信仰を誤解させる要因の一つになっているのです。全体の文脈から「『放蕩息子とその兄』のたとえ」とすべきです。神様は放蕩息子が悔い改めてご自身の下へ帰って来たことを喜び、兄にたとえられた傲慢(ごうまん)なファリサイ派の人々や律法学者たちを厳しく非難されているのです。

(メッセージの要旨)

*「放蕩息子のたとえ」は身を持ち崩(くず)した息子が神様の深い憐れみによって再び命を得た話として語られることが多いのです。しかし、それだけに焦点を当てるとすれば「木を見て森を見ない」ことになるのです。他の二つの視点にも注目する必要があるのです。一つは、たとえ話がイエス様を非難したファリサイ派の人々や律法学者たちに対する反論であったことです。もう一つは、家族の一員として再び迎えられた弟の処遇に反発する兄が叱責(しっせき)されていることです。ファリサイ派の人々や律法学者たちは律法や慣習(言い伝え)を日常生活の中で厳格に守っているのです。兄も「わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません」と言っています。これらの人の信仰理解には共通性があるのです。律法や戒めを遵守(じゅんしゅ)した人々だけが「救い」に与(あずか)るのです。律法主義こそ「永遠の命」に至る道なのです。徴税人たちはローマの手先になって同胞から税を過酷(かこく)に取り立てているのです。しかも、私腹を肥やしているのです。律法を守らない人々は健全な社会から排斥すべき存在なのです。これらの罪人は赦されてはならないのです。イエス様を通して「神の国」が到来しているのです。福音が社会の隅に追いやられた人々に届けられているのです。罪が赦され「救い」に与(あずか)っているのです。神様は弟のように罪の中に死んでいた人がご自身の下に帰って来ることを何よりも喜ばれるのです。兄のように「神様の御心」を軽んじている人々に悔い改めが求められているのです。

*ファリサイ派の人々や律法学者たちが「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と質問したのです。イエス様は「医者を必要とするのは、健康な人(人々)ではなく病人(たち)である。わたしが来たのは、正しい人(人々)を招くためではなく、罪人(たち)を招いて悔い改めさせるためである」と答えられたのです(ルカ5:31-32) 。福音の真理を語られたのです。お言葉には神様の愛と憐れみが表れているのです。神様は罪に苦しんでいる人々をもう一度生かされるのです。百匹の羊の内一匹を見失ったとすれば九十九匹を野原に残して見失った一匹を見つけ出すまで捜し回り、ドラクメ銀貨十枚の内一枚をなくしたらその一枚を見つけるまで捜(さが)されるお方なのです(ルカ15:1-10)。「放蕩息子のたとえ」も同様の趣旨に基づいているのです。弟は父親の下で神様を仰いで暮らしていました。ある日、遠い国-この世の誘惑が溢(あふ)れている所-に憧)あこが)れて旅に出たのです。財産を使い果たし、辛酸(しんさん)を舐(な)めることになったのです。神様への信仰まで無くしたのです。「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである」の通り、暗闇を彷徨(さまよ)ったのです(ヨハネ3:20)。弟は「神様の戒め」を知っているのです。ところが、この世の誘惑から抜け出せなかったのです。神様はご自身の方から近づいて悔い改める機会を与えられたのです。弟は不思議な導きによって我に返ったのです。父親の下へ帰ることを決心したのです。

*我に返った弟は「雇い人の一人にしてください」と言ったのです。特権を放棄(ほうき)するのです。悔い改めには痛みが伴うのです。旧約聖書にも具体例が記述されています。士師サムソンには生まれる前からイスラエルをペリシテ人から救うことが定められていました。神様は成長したサムソンを祝福し、特別な力を与えられたのです。サムソンの怪力はペリシテ人を大いに苦しめたのです。ところが、ペリシテ人に買収された恋人デリラの誘惑に負けて「力の秘密」を洩らし、捕らえられて両目を失ったのです。見世物となったサムソンは「わたしの神なる主よ。わたしを思い起こしてください。神よ、今一度だけわたしに力を与え・・てください」と祈ったのです。再び力を得て柱を倒したので建物は崩れ、サムソンは宴席にいた3000人のペリシテ人と共に死んだのです(士師記13-16)。神様はダビデを祝福しイスラエルの王とされたのです。しかし、家臣であるヘト人ウリヤの妻バト・シェバを妻にするために画策するのです。ウリヤを激戦地に送って戦死させたのです。神様は預言者ナタンによって罰することを告げられたのです。ただ、犯した罪を深く悔いたので死だけは免(まぬか)れたのです。ダビデの家に骨肉の争いが絶えなかったのです(サムエル記下11-12)。バト・シェバとの間に生まれた息子のソロモンに「・・主の掟と戒めと法と定めを守れ。そうすれば、あなたは何を行っても、どこに向かっても、良い成果を上げることができる」と言って眠りについたのです(列王記上2―3)。罪の赦しは安価な恵みではないのです。


*イエス様のたとえ話を引用する時「神様の愛」を強調して終わることが多いのです。それでは全体を語ったことにはならないのです。憐れみ深い神様と罪を赦された弟の物語として完結していないのです。兄は悔い改めて帰ってきた弟の過去の罪を赦さないのです。「あなたのあの息子」と呼んで突き放すのです。弟に対する父親の対応についても激しく反発しているのです。父親は「神様の御心」を理解しない兄を厳しく叱責(しっせき)したのです。イエス様は間接的にファリサイ派の人々や律法学者たちの自己義認(自分を正しい人間とすること)と律法主義を非難しておられるのです。兄のその後について記述されていないのです。父親の説明に納得できずに祝宴に出席しなかった(悔い改めなかった)可能性もあるのです。信仰の傲慢は「神の国」に入れないほどの大きな罪なのです。イエス様の弟子であるということで免罪される訳ではないのです(マタイ18:1-5)。「神の国」の福音が「罪の赦し」にのみ向けられているのです。根本理念が恣意的(しいてき)に変容されているのです。「神の国」の到来はすべての人にこれまでの歩みを深く内省させるのです。悔い改めを迫るのです。兄の父親に対する不満に共感する人々もいるのです。神様が赦された罪人を再び裁くことほど大きな罪はないのです。たとえ話は自分を正しい者とし、神様に代わって人を裁くファリサイ派の人々や律法学者たちへの警告なのです。キリスト信仰とは最も重要な戒め-正義を重んじ、慈悲に満ち、誠実であること-を実行して生きることなのです(マタイ23:23)。


*弟は悔い改めと決意を伝えたのです。ところが、父親は息子の放蕩生活に一切言及することなく、ただ、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったことを心から喜んだのです。以前と同じように自分の息子の印として手に指輪をはめてやったのです。神様は悔い改めた罪人を再び「神の国」に招き入れられるのです。これが福音なのです。理由は様々ですが、長い信仰生活の中で「神の国」から迷い出ることがあるのです。神様から離れた生き方をすれば、肉体は生きていても魂が死んでいるのです。弟のように我に返って罪を悔やんで涙を流すことがあるのです。一方、兄のように信仰を自負して罪人を蔑(さげす)んでいる人々がいるのです。自分で自分を正しい者と認定しても「永遠の命」の付与にとって何の役にも立たないのです。神様が最終的にその人の「救い」を判断されるからです。神様の位置に自分を置くことや隣人愛をおろそかにすることは深刻な罪なのです。しかし、道徳的、倫理的な罪ほどに罪として認識されていないのです。キリスト信仰における根本問題がここにあるのです。罪としての自覚がなければ罪を犯していないということではないのです。罪を犯さない人は誰もいないのです。神様の下へ帰る方法があるのです。それは「我に返ること」によって可能となるのです。悔い改めが真実であれば「神様の子」として認められるのです。弟のように悔い改めに相応(ふさわ)しい実を結んで「永遠の命」に与るのです。兄のような人は先ず自分を低くするのです。神様が共にいて下さることに感謝して「救い」を待つのです。

讃美歌3番

1
あめつちの御神をば
ほめまつれ、人の子よ。
われらが主のみとのこそ
照りかがやけ、いや栄(は)えて。

2
ひかりをばころもとし、
くろくもをくるまとし、
いかずちしてさき駆(お)わせ、
よろず治(し)らすかしこさよ。

3
いとくすし主の律法(おきて)、
雪と敷き雨とふり、
谷をはしり野にながれ、
風とそよぎ花と咲く。

4
ちりひじに生(な)りし身は、
主にたよるほかぞなき。
代々かわらぬみめぐみや、
わが御神よ、わが父よ。

APOSTLES’ CREED


I believe in God, the Father almighty, creator of heaven and earth.

I believe in Jesus Christ, his only Son, our Lord.
He was conceived by the power of the Holy Spirit and born of the Virgin Mary.
He suffered under (Caiaphas and) Pontius Pilate, was crucified, died, and was buried;
He descended into hell.
On the third day he rose again.
He ascended into heaven, and is seated at the right hand of the Father.
He will come again to judge the living and the dead.

I believe in the Holy Spirit, the holy catholic Church, the communion of saints, the forgiveness of sins, the resurrection of the body, and the life everlasting. Amen.

(使徒信条)


我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、(カイアファと)ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に降り、三日目に死人のうちより蘇り,天にのぼり全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。 アーメン

Benediction(祝福の祈り)

The Grace of the Lord Jesus Christ, the love of God, and the communion of the Holy Spirit be with all of you.

(P) Go in peace. Serve the Lord.

(C) Thanks be to God.

Postlude(後奏)

「Here I am」

I, the Lord of sea and sky,
I have heard My people cry.
All who dwell in dark and sin,
My hand will save.
I who made the stars of night,
I will make their darkness bright.
Who will bear My light to them?
Whom shall I send?
Here I am Lord, Is it I, Lord?
I have heard You calling in the night.
I will go Lord, if You lead me.
I will hold Your people in my heart.

I, the Lord of snow and rain,
I have borne my people’s pain.
I have wept for love of them, They turn away.
I will break their hearts of stone,
Give them hearts for love alone.
I will speak My word to them
Whom shall I send?
Here I am Lord, Is it I, Lord?
I have heard You calling in the night.
I will go Lord, if You lead me.
I will hold Your people in my heart.


I, the Lord of wind and flame
I will tend the poor and lame.
I will set a feast for them,
My hand will save
Finest bread I will provide,
Till their hearts be satisfied.
I will give My life to them,
Whom shall I send?
Here I am Lord, Is it I, Lord?
I have heard You calling in the night.
I will go Lord, if You lead me.
I will hold Your people in my heart.

 

それぞれの曲はインターネットで題名を入力すれば簡単に聴くことが出来ます。

2026年09月20日

「良い実を結びなさい」

日   時  2026年09月13日(日)午前10時30分~

礼 拝 式 次 第

前奏 (Prelude)

 

讃美歌533番


1
くしき主の光 こころに満つ
み空わたる日の かげにまさる
ああ主よ わが主よ 輝く御姿を
胸にうつすとは わが主の恵み

2
くしき物の音は こころにみつ
口に言い得ねど 主はききたもう
ああ主よ わが主よ 輝く御姿を
胸にうつすとは わが主の恵み

3
春ののどけさは こころにみつ
鳥は声きよく 花はかおる
ああ主よ わが主よ 輝く御姿を
胸にうつすとは わが主の恵み

4
愛のよろこびは こころにみつ
かくてわが歌は ついに成りぬ
ああ主よ わが主よ 輝く御姿を
胸にうつすとは わが主の恵み

BRIEF ORDER FOR CONFESSION AND FORGIVENESS

(P) In the name of the Father, and of the + Son, and of the Holy Spirit.

(C) Amen

(P) God, whose love is everlasting, welcomes sinners to the table of mercy.
Let us confess our sin, confident in God’s forgiveness.

Silence for reflection and self-examination.

(P) Gracious God,

(C) Have mercy on us.
In your gracious compassion forgive us our sins, both known and unknown, things done and left undone.
Uphold us by your Spirit so that we may serve you in newness of life, to the honor and glory of your holy name, through Jesus Christ our Lord. Amen.

(P) Since we are justified by God’s grace through faith,
We have peace with God through our Lord Jesus Christ.
Almighty God has mercy on you, forgives you all your sins,
And bring you to life everlasting. Amen

Prayer of the Day(今日の祈り)

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書13章1節から23節


その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔(ま)く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨(いばら)の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」


弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。 持っている人(人々)は更に与えられて豊かになるが、持っていない人(人々)は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』(イザヤ書6:9-10)しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」


「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟(さと)らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」

(注)

・たとえ話:自然や日常生活から導き出された簡単な比較物語です。イマジネーションを掻(か)き立て、既存の価値を問い直し、ポイントを考えさせるのです。

・群衆:エルサレムの指導者たちに扇動されるまではイエス様に対して中立的か好意的でした。マタイ7:28、9:33、12:23、14:13、21:46を参照して下さい。

・耳のある者は聞きなさい:中には聞く耳を持っている人々がいるのです。

・天の国の秘密:イエス様が御言葉と力ある業を通して証しされた「神の国」(天の国)‐神様の支配・神様の主権-のことです。マタイ4:17、10:1、11:25、16:17に記述されています。ダニエル書2:27-28を併せてお読み下さい。

・持っている人(人々)、持っていない人(人々):お金や物品のことではなく、「神の国」についての理解の有無(うむ)です(マタイ25:29)。

・エリヤ:旧約聖書に登場する預言者です。火の馬に引かれた火の戦車に乗って嵐の中を天に上って行った人物です(列王記下2:11)。イエス様の先駆けとして遣わされた洗礼者ヨハネはこのエリヤの再来なのです。「主の日」(再臨の日)の前に戻って来ることが約束されていたのです(マラキ書3:23-24)。


・福 音:


■主の霊がわたし(預言者イザヤ)の上におられる。貧しい人(人々)に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人(人々)に解放を、/目の見えない人(人々)に視力の回復を告げ、/圧迫されている人(人々)を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。(ルカ4:18-19)

●主の恵みの年:土地は50年後に元の所有者に返却されるのです(レビ記25)。

■神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(ヨハネ3:16)。


●神様は信仰の指導者たち(祭司や律法学者たち)の仲介がなくても、イエス様を救い主と信じるすべての人に「永遠の命」を与えられるのです。


■そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。(ヨハネの黙示録21:3-4)

●神様は、相応しい時期にこの世を終わらせ、新しい天地を創造されるのです。

・あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ:イエス様を通して「神の国」が到来しているのです。

■イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることを(洗礼者)ヨハネに伝えなさい。目の見えない人(人々)は見え、足の不自由な人(人々)は歩き、重い皮膚病を患っている人(人々)は清くなり、耳の聞こえない人(人々)は聞こえ、死者(たち)は生き返り、貧しい人(人々)は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。(マタイ11:4-6)

・神様と富との関係:キリスト信仰において曖昧(あいまい)にされているのです。イエス様は「山上の説教」において明確にされたのです。

■神と富とに仕えることはできない。(マタイ6:24)。

■何よりもまず、神の国(神様の支配)と神の義(神様の正義)を求めなさい。そうすれば、これらのもの(生活に必要な物)はみな加えて与えられる。(マタイ6:33)

・良い実を結ぶ:最も重要な戒めを実践することです。キリスト信仰は「行い」を求めるのです。

■イエスはお答えになった。「第一の掟(おきて)は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコ12:29-31)

■神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。(ヨハネの手紙㈠5:3)

(メッセージの要旨)

*特定の個所の意味を理解するためには注意が必要です。誤解しないように前後を併せて読むのです。11章、12章にたとえ話を用いられた背景が記述されています。洗礼者ヨハネは指導者たちの不信仰を激しく非難したのです。群衆はヨハネが食べも飲みもしないでいると「あれは悪霊に取りつかれている」と貶(おとし)めるのです。イエス様は「あなたがたが認めようとすれば分かることだが、彼は現れるはずのエリヤだ。耳のある人は聞きなさい」と擁護されたのです。イエス様が飲み食いすると今度は「見ろ、大食漢で大酒のみだ。徴税人や罪人の仲間だ」と非難したのです。イエス様はガリラヤ湖の北に位置する町コラジン、ベトサイダ、カファルナウムで様々な奇跡を行われたのです。人々は悔い改めなかったのです。異邦人の町ティルスやシドン、あの悪名高いソドムの町より厳しい罰を宣告されたのです(創世記19:1-29)。弟子たちは空腹を覚えたのです。麦の穂を摘(つ)んで食べたのです。その日は安息日だったのです。ファリサイ派の人々はこのことを咎(とが)めたのです。イエス様は「わたしが求めるのは憐みであって、生贄(いけにえ)ではない」と反論されたのです。安息日に片手の萎(な)えた人を元通りに良くし、ご自身が「安息日の主であること」を公言されたのです。ユダヤ教の教えと鋭く対立されたのです。福音がすべての人に届けられているのです。ただ、躓(つまずき)の石‐傲慢(ごうまん)、覚悟の欠如、この世の思い煩い、誘惑-が成長を妨げているのです。イエス様のお言葉とご生涯に目を向けるのです。

*イエス様は「・・わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している」と言われたのです(ヨハネ8:26)。ファリサイ派の人々や律法学者たちはイエス様をどのようにして殺そうかと相談したのです。このような緊迫した状況の中でイエス様はたとえ話を語られたのです。たとえ話は自然や人々の日常生活に生起する出来事を題材として取り上げていることに特徴があるのです。十分な教育を受けていなくても、耳を傾ける人々には理解できるように工夫されているのです。「天の国」の秘密は知恵ある人々や賢い人々には隠されているのです。幼子のような人々(素直に信じる人々)に明らかにされるのです。イエス様は「種を蒔く人」の後に、「迷い出た羊」(18:10-14)、「ぶどう園の労働者」(20:1-16)、「タラントン」(25:14-30)などのたとえ話を語られたのです。いずれも「天の国」の意味を説明するために用いられたのです。憐れみ深い神様が新しい天地の創造に着手されたのです。人間の営み(歴史)に介入されたのです。イエス様を通して正義と愛、平和と自由に関する基本理念が示されたのです。悔い改めて「天の国」を受け入れるのか、拒否するのかがその人の運命を決定づけるのです。群衆はエルサレムの指導者たちから影響を受けるまでイエス様に対して中立的でした。共感を覚える人も少なくなかったのです。しかし、多くのユダヤ人はイエス様から離れて行ったのです。イエス様は神様がイザヤを召命する時に言われた言葉を引用して厳しく非難されたのです。

*たとえ話だけを抜きだして抽象的、観念的にキリスト信仰が論じられているのです。しかし、内容は極めて具体的です。蒔かれた種とは福音のことです。果実-信仰のあり方‐が問われているのです。道端とは信仰心を誇り、罪人であることを認めない人々の頑(かたく)なな心の状態なのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちは長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好むのです。人前で見せかけの長い祈りをするのです。イエス様はこれらの人を偽善者と呼び、人一倍厳しい裁きを宣告されたのです(マルコ12:38-40)。指導者たちはイエス様を誉(ほ)めそやすのです。罠にはめて捕らえるためです。悪魔がこれらの人を支配しているのです。悔い改めることがないのです。石ころの多い土地にたとえられた人々は御言葉に接して喜ぶのです。しばらくは信仰に燃えているのです。しかし、確固とした信念が心の内に形成されていないのです。艱難(かんなん)や迫害が起こると信仰を捨てるのです。イエス様は「わたしが命のパンである。・・先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる」と言われたのです。弟子たちの多くはこれを聞いて「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と不平を漏(も)らして離れ去ったのです(ヨハネ6:22-71)。キリスト信仰とは教えを理解することではないのです。イエス様は「わたしに従いなさい」と言われたのです(マタイ19:21)。全力で御跡を辿(たど)るのです。

*茨が茂る土地にたとえられた人々は御言葉を受け入れたのです。一方、お金や富、楽しみや快楽にも心を奪われているのです。この世の事に時間を費やし、やがて「永遠の命」に至る道を閉ざすのです。イエス様は「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」と警告されたのです。ある人は畑が豊作だったので倉を大きくしたのです。穀物や財産をみなしまい「これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたので、ひと休みして食べたり飲んだりして楽しもうと思ったのです。ところが、神様は「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」と言われたのです。自分のために富を積んでも、神様の前に豊かにならないのです(ルカ12:13-21)。良い土地にたとえられた人々は御言葉を聞いて悟ったのです。「神様の御心」を実現するために働いたのです。能力に応じて百倍、六十倍、三十倍の良い実を結んだのです。御言葉を聞いた人々がすべて初めから良い土地であった訳ではないのです。イエス様の教えを聞いた人々はユダヤ教の土壌の中で育ったのです。大きな決断がいるのです。ある金持ちは律法が定める「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」を幼いころから守って来たのです。信仰の篤い人なのです。しかし、イエス様のご指示‐貧しい人々に財産を施しなさい-には従わなかったのです。神様よりも富を選んだのです。富への執着によって「救い」から遠ざかることになったのです(マルコ10:17-31)。

*ザアカイは徴税人の頭で金持ちでした。一方、ローマに協力して自国の民を苦しめる罪人として蔑(さげす)まれていたのです。ある日イエス様はザアカイに「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われたのです。ザアカイは喜んでイエス様を迎え入れたのです。これを見た人たちは「イエス様が罪深い男のところに行って宿をとった」と呟(つぶや)いたのです。すると、ザアカイは突然「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と明言したのです。イエス様は「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」と言われたのです(ルカ19:1-10)。ザアカイは悔い改めて「救い」に与ったのです。アリマタヤ出身の議員ヨセフはイエス様の弟子であることを隠していたのです。この人がローマの総督ポンティオ・ピラトにイエス様を埋葬(まいそう)したいと申し出たのです。ピラトはこれを許可したのです。ヨセフは十字架からご遺体を取り降ろしたのです。そこへ、かつて夜にイエス様のもとに来たことのある議員のニコデモが没薬(もつやく)と沈香(じんこう)を混ぜた香料を百リトラ(約34kg)持って来ました。ユダヤ人の習慣に従ってイエス様を墓に埋葬したのです(ヨハネ19:38-42)。二人は11使徒も行わなかったことを実行したのです。大祭司や同僚の議員たちから迫害されることは必至なのです。ヨセフとニコデモは大きな犠牲を払って信仰を証ししたのです。

讃美歌1番 

1
神の力を とこよにたたえん
すべてのものを つくりたまいて
目には見えねど 高きみくらに
世をすべたもう 神の力を

2
われをも恵み みもとにひきて
かそけき望み はげましたもう
ものみな神に よりて生くれば
いかなる時も 離れまつらじ

3
み恵み いよよ 増し加われば
うえなき宝 ついにはたまわん
みくらのほかに 隠れ家あらじ
神よ この身を 受け入れたまえ
アーメン

APOSTLES’ CREED


I believe in God, the Father almighty, creator of heaven and earth.

I believe in Jesus Christ, his only Son, our Lord.
He was conceived by the power of the Holy Spirit and born of the Virgin Mary.
He suffered under (Caiaphas and) Pontius Pilate, was crucified, died, and was buried;
He descended into hell.
On the third day he rose again.
He ascended into heaven, and is seated at the right hand of the Father.
He will come again to judge the living and the dead.

I believe in the Holy Spirit, the holy catholic Church, the communion of saints, the forgiveness of sins, the resurrection of the body, and the life everlasting. Amen.

(使徒信条)

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、(カイアファと)ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に降り、三日目に死人のうちより蘇り,天にのぼり全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。 アーメン

Benediction(祝福の祈り)

The Grace of the Lord Jesus Christ, the love of God, and the communion of the Holy Spirit be with all of you.

(P) Go in peace. Serve the Lord.

(C) Thanks be to God.


Postlude(後奏)

「Here I am」

I, the Lord of sea and sky,
I have heard My people cry.
All who dwell in dark and sin,
My hand will save.
I who made the stars of night,
I will make their darkness bright.
Who will bear My light to them?
Whom shall I send?
Here I am Lord, Is it I, Lord?
I have heard You calling in the night.
I will go Lord, if You lead me.
I will hold Your people in my heart.

I, the Lord of snow and rain,
I have borne my people’s pain.
I have wept for love of them, They turn away.
I will break their hearts of stone,
Give them hearts for love alone.
I will speak My word to them
Whom shall I send?
Here I am Lord, Is it I, Lord?
I have heard You calling in the night.
I will go Lord, if You lead me.
I will hold Your people in my heart.


I, the Lord of wind and flame
I will tend the poor and lame.
I will set a feast for them,
My hand will save
Finest bread I will provide,
Till their hearts be satisfied.
I will give My life to them,
Whom shall I send?
Here I am Lord, Is it I, Lord?
I have heard You calling in the night.
I will go Lord, if You lead me.
I will hold Your people in my heart.

 

いずれの曲もインターネットで題名を入力すれば簡単に聴くことが出来ます。

2026年09月13日

「偽善者たちの悪業」

The Order of Worship
   am. 10:30~ 09/06/2026

前奏 (Prelude)

讃美歌531番

1.こころの緒琴に  み歌のかよえば、
  しらべに合せて  いざほめ歌わん。

 (おりかえし)
  あぁ平和よ、   くしき平和よ、
  み神のたまえる  くしき平和よ。

2.天よりくだれる  きよけき平和は
  まどえる心の   固きいしずえ。

3.主イェスを君とし かしこみ仰げば、
  こころに溢るる  天つみめぐみ。

4.みそばにはべれば 平和は絶えせず、
  なみかぜさわがじ こころの海に。

BRIEF ORDER FOR CONFESSION AND FORGIVENESS


(P) In the name of the Father, and of the + Son, and of the Holy Spirit.

(c) Amen

(P) God, whose love is everlasting, welcomes sinners to the table of mercy.
Let us confess our sin, confident in God’s forgiveness.

Silence for reflection and self-examination.

(P) Gracious God,

(C) Have mercy on us.
In your gracious compassion forgive us our sins, both known and unknown, things done and left undone.
Uphold us by your Spirit so that we may serve you in newness of life, to the honor and glory of your holy name, through Jesus Christ our Lord. Amen.

(P) Since we are justified by God’s grace through faith,
We have peace with God through our Lord Jesus Christ.
Almighty God has mercy on you, forgives you all your sins,
And bring you to life everlasting.      Amen

Prayer of the Day(今日の祈り)

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書7章1節から23節

ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人(長老たち)の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』

あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分(たち)の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」

それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」<底本に節が欠けている個所の異本による訳文> 聞く耳のある者は聞きなさい。イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、 姦淫(かんいん)、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢(ごうまん)、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

(注)


・ファリサイ派の人々:律法を厳格に遵守するユダヤ教の一派です。学識の豊富さから民衆に尊敬されていました。イエス様と対立した律法学者の多くはファイサイ派に属しています。サウロ(パウロ)は誰よりも熱心なファリサイ派でした。


・律法学者たち:文書を記録する官僚であり、同時に学識を有する学者です。ファイサイ派によるモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)(トーラ)の解釈を支持していました。多くはイエス様に批判的でした。ただ、「先生,あなたがおいでになる所ならどこへでも従って参ります」と言った律法学者もいたのです(マタイ8:19)。

・言い伝え:長老たちが口述した慣習のことです。ファリサイ派の人々は、口述であっても律法と同じように日常生活に厳格に適用したのです。

・この民は口先ではわたしを敬うが、・・・:

●イザヤ書29:13からの引用です。イザヤは南王国ユダ(エルサレム)の王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に預言者として登場しました(イザヤ書1:1)。

■むなしい捧げものを持ってくるな。・・お前(あなた)たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆(おお)う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ善を行うことを学び/裁き(正義)をどこまでも実行して/搾取する者を懲(こ)らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護せよ。(イザヤ書1:10-17)


■わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛(そくばく)を断ち、軛(くびき)の結び目をほどいて/虐(しいた)げられた人(人々)を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢(う)えた人(人々)にあなた(たち)のパンを裂(さ)き与え/さまよう貧しい人(人々)を家に招き入れ/裸の人(人々)に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなた(たち)の光は曙(あけぼの)のように射(さ)し出(い)で/あなた(たち)の傷は速やかにいやされる。あなた(たち)の正義があなた(たち)を先導し/主の栄光があなた(たち)のしんがりを守る。(イザヤ書58:6-8)

・神の掟(おきて):神様の戒め、律法のことです。

・父と母を敬え:十戒における第五番目の戒めです(出エジプト記20:12)。「父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである」は出エジプト記21:17からの引用です。

・みだらな行いと姦淫の違い:一般的に前者が結婚前、後者が結婚後のことを表しています。

・指導者たちの腐敗と天罰:

■わたしは失われたもの(たち)を尋ね求め、追われたもの(たち)を連れ戻し、傷ついたもの(たち)を包み、弱ったもの(たち)を強くする。しかし、肥えたもの(たち)と強いもの(たち)を滅ぼす。わたしは公平(正義)をもって彼らを養う。お前たち(あなたがた)、わたしの群れよ。主なる神はこう言われる。わたしは羊(たち)と羊(たち)、雄羊(たち)と雄山羊(山羊たち)との間を裁く。お前たち(あなたがた)は良い牧草地で養われていながら、牧草の残りを足で踏み荒らし、自分たちは澄んだ水を飲みながら、残りを足でかき回すことは、小さいことだろうか。わたしの群れは、お前たち(あなたがた)が足で踏み荒らした草を食べ、足でかき回した水を飲んでいる。それゆえ、主なる神は彼らにこう言われる。わたし自身が、肥えた羊(たち)とやせた羊(たち)の間を裁く。お前たち(あなたがた)は、脇腹と肩ですべての弱いものを押しのけ、角で突き飛ばし、ついには外へ追いやった。しかし、わたしはわが群れを救い、二度と略奪にさらされないようにする。そして、羊(たち)と羊(たち)との間を裁く。(エゼキエル書34:16-22)。

●群れには多様な動物がいるのです。

●それぞれの「行動」が裁きの判断基準になっているのです。


■ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ(に災いあれ)。あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。また、『祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。ものの見えない者たち、供え物と、供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか。祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ。天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。(マタイ23:16-22)

*ヒットラーの演説:

The national government will maintain and defend the foundations on which the power of our nation rests. It will offer strong protection to Christianity as the very basis of our collective morality. Today Christians stand at the head of our country. We want to fill our culture again with the Christian spirit. We want to burn out all the recent immoral developments in literature, in the theater, and in the press-in short, we want to burn out the poison of immorality which has entered into our whole life and culture as a result of liberal excess during recent years. ( ヒットラー演説集I「私の新しい秩序」の英訳版(1941年)871-872)

政府は我が国の力の原点を大切にし、その保持に努めます。そして、我々の道徳性の土台であるキリスト教の普及に全力を注ぎます。今日、クリスチャンたちが先頭に立って我が国を導いています。我々の文化をキリスト教の精神で再び満たしたいのです。近年見られる文学や演劇、さらに報道機関における倫理性の欠如という風潮を終わらせたいのです。要するに、ここ数年の行き過ぎた自由の結果として健全な生活と文化に入り込んだ不道徳という害毒を根絶したいのです。(私訳)

(メッセージの要旨)

*ファリサイ派の人々や律法学者たちがイエス様に「なぜ、あなたの弟子たちは・・汚れた手で食事をするのですか」と尋ねたのです。これは衛生上の問題を取り上げているのではないのです。弟子たちが通りで異邦人たちと偶然に接触したことなどを清めないことに対する宗教的批判なのです。イエス様はこれを人間の言い伝えに過ぎないとして反論されたのです。手を洗うことに信仰的意義はないのです。指導者と呼ばれる人々は人間の言い伝えを厳格に遵守(じゅんしゅ)しているのです。ところが、神様の戒めを軽んじているのです。両親のために蓄えたお金であっても神殿に献金すると言えば両親への義務は免除されるのです。神殿収入を増やす(彼らの私腹を肥やす)ために人々の信仰心を利用しているのです。神様はその人の心をご覧になられるのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちは信仰心が篤いように装(よそお)っているのです。神様を欺(あざむ)いているのです。「むなしくわたしを崇めている」と言われたのです。イエス様も「あなたたち偽善者は不幸だ(に災いあれ)。盃や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。・・まず、盃の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる」と言って非難されたのです(マタイ23:25-26)。人の汚れは悪い思いから生じるのです。宗教的儀式のみによって清められるのではないのです。真摯(しんし)な悔い改めが不可欠なのです。民衆を心身共に抑圧する指導者たちの不信仰と偽善に天罰が下されるのです。イエス様は弟子たちにも警告されたのです。

*神殿政治の中枢を担うファリサイ派の人々や律法学者たちはユダヤ教の教義に精通しているのです。これらの人がイエス様の権威を貶(おとし)め、告発するためにエルサレムの本部から派遣されたのです。その機会が早速訪れたのです。弟子たちの中に洗わない手で食事をする者がいたのです。そこで師であるイエス様を非難したのです。ユダヤ教の戒めは大きく二つに分けられるのです。一つは旧約聖書に書かれているモーセの律法です。もう一つはモーセに始まり、祭司アロンと彼の息子たち、長老たち、民族の指導者ヨシュア、預言者たちに連綿と受け継がれている言い伝えです。律法には手を洗うことに関する規定が明記されていないのです。彼らは口述の慣習に照らして弟子たちの違反を問題にしたのです。イエス様は手洗いの必要性を否定されていないのです。それには衛生上の効力があるからです。一方、指導者たちは「神様の御名」を自分の強欲のために用いているのです。イエス様はこれらの人を偽善者と呼ばれたのです。山上の説教において「・・人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。・・偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑(くず)を取り除くことができる」と言われたのです(マタイ7:1-5)。罪を犯さない人は誰もいないのです。神様の前に誇れる人などいないのです。指導者たちは様々な罪を隠しているのです。偽りの信仰心を自負しているのです。他の人の罪を赦さないのです。神様はすべてをご存じです。正しい裁きを行われるのです。

*イエス様はファリサイ派の人々や律法学者たちが犯している様々な罪の中から例を挙げられました。神様はエジプトの圧政からイスラエルの民を解放されたのです。モーセによって基本となる戒め(十戒)を与えられたのです。その中に「父と母を敬え」があるのです。律法には「父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである」という規定を設けられたのです。神様に捧げ物をする場合の手続きも詳述されているのです(レビ記27:2-33)。彼らはモーセを偉大な指導者として認めているのです。十戒や律法を厳格に守って「救い」に与(あずか)ろうとしているのです。一方、「神様の戒め」に細々(こまごま)とした規定を付け加えているのです。人々にそれらを順守するように強いているのです。ところが、言うだけで実行しないのです。指導者としての地位を強固にし、既得権益を享受(きょうじゅ)するために「神様の戒め」を悪用しているのです。神様を確信的に侮(あなど)っているのです。牛や羊などを「コルバン」として宣言すれば神様への献(ささ)げ物になるのです(レビ記1:2)。しかし、実際は生贄(いけにえ)として献げられていないのです。相変わらず家畜として私的に使用されているのです。献げた人から両親の世話をする義務まで免除されているのです。「神様の戒め」を恣意的(しいてき)に変更するのです。神様の前で公然と大罪を犯しているのです。イエス様は指導者たちの不遜(ふそん)と不信仰を白日の下に晒(さら)されたのです。信仰の信ぴょう性は言葉ではなく「行い」によって明らかになるのです。

*ファリサイ派の人々や律法学者たちは昔から受け継がれてきた慣習を固く守っているのです。念入りに手から肘(ひじ)までを洗ってからでないと食事をしないのです。市場から帰った時も異邦人(罪人)と接触した可能性があることを恐れて、身を清めてからでないと食事をしなかったのです。杯、鉢、銅の器や寝台も丁寧(ていねい)に洗ったのです。彼らは外側をきれいにしているのです。一方、十戒や律法に関する豊富な知識や社会的地位を用いて悪事を働いているのです。やもめ-寡婦(かふ)-たちを食い物にしているのです(マルコ12:40)。ユダヤ人歴史家ヨセフスが伝えています。指導者たちは人々の義務となっている献げ物(献金)などから得た収入によって莫大な資産を築いているのです(ヨセフスの生涯63)。そのお金の中から律法の規定(十分の一)を超える多額の献金を行っているのです。信仰心を見せびらかすためなのです。最も大切な戒め-正義、慈悲、誠実-をおろそかにしているのです(ルカ11:42)。イエス様は「あなたたち偽善者は不幸だ(に災いあれ)。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている」と言われたのです(マタイ23:27)。指導者たちの心が偽善と不法に支配されているのです。神様を冒涜(ぼうとく)しているのです。天罰を宣告されたのです。人間の心から出て来る様々な悪い思いが個人の道徳的、倫理的な罪に留まっていないのです。社会の制度や組織を腐敗させている大きな要因となっているのです。これらの点に注目するのです。

*キリスト信仰において寛容と無批判が混同されているのです。両者は全く異なっているのです。厳密に使い分けるべきです。ユダヤ人の大虐殺で悪名高いヒットラーは演説の中でキリスト教を擁護しています。クリスチャンを味方につけるためでした。天才的な雄弁が功を奏し、世界的な不況に喘(あえ)ぐドイツ人の多くが立派な指導者の登場に歓喜したのです。ところが、後のヒットラーの行動はそれが単なるリップサービスあったことを証明するのです。言葉だけでその人を判断してはならないのです。正しさはその人の行いが「神様の御心」に適っているかどうかによって明らかになるのです。イエス様は「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。・・」と断言されたのです(ルカ6:43-44)。ファリサイ派の人々や律法学者たちの信仰心の篤(あつ)さやヒットラーの護教精神は偽善なのです。いつの時代においても指導者たちの信仰心や政治信条は巧妙に脚色されているのです。本当の姿が隠されて見えにくいのです。言説や行動を絶えず検証して実像に迫るのです。十戒や律法を都合に合わせて解釈しているのはファリサイ派の人々や律法学者たちだけではないのです。似たようなことが現在においても行われているのです。信仰の指導者たちが時の権力者と癒着(ゆちゃく)しているのです。キリスト信仰を歪(ゆが)めているのです。政治的指導者が教派の力を借りているのです。他国の侵略と殺戮(さつりく)を正当化しているのです。これらの人は厳しく罰せられるのです。

讃美歌532番

1
ひとたびは死にし身も
主によりて いま生きぬ。
みさかえの かがやきに
つみの雲 きえにけり。

(おりかえし)
ひるとなく、よるとなく、
主の愛に まもられて。
いつか主にむすばれつ、
世にはなき まじわりよ。

2
主のうけぬこころみも、
主の知らぬ かなしみも
うつし世に あらじかし、
いずこにも みあと見ゆ。
(おりかえし)

3
ひるとなく、よるとなく、
主はともに ましませば、
いやされぬ やまいなく、
さちならぬ 禍(まが)もなし。
(おりかえし)


MEAL

PEACE

(P) The Peace of the Lord be with you always.

(C) And also with you.

SHARING OF THE PEACE(平和のあいさつ)

 

聖餐式(HOLY COMMUNION)
   
(P) The Lord be with you. 
(C) And also with you.
(P)  Lift up your hearts.
(C) We lift them to the Lord.
(P) Let us give thanks to the Lord our God.
(C) It is right to give our thanks and praise.
(P) It is indeed right and salutary that we should at all times and in all places offer thanks…….(Here the minister continues with the proper preface, concluding: ) we praise your name and join their unending hymn: 

WORDS OF INSTITUTION

In the night in which he was betrayed, our Lord Jesus took bread, and gave thanks; broke it, and gave it to his disciples, saying:
Take and eat; this is my body, given for you.
Do this for the remembrance of me.

Again, after supper, he took the cup, gave thanks, and gave it for all to drink, saying:
This cup is the new covenant in my blood, shed for you and for all people for the forgiveness of sin.
Do this for the remembrance of me.

(制定の言葉)           


わたしがあなたがたに伝えたことは、私自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りを捧げてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は,わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの 記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。(コリントの信徒への第一の手紙11:23-26)

LORD’S PRAYER

Our Father, who art in heaven,
hallowed be thy name,
thy kingdom come,
thy will be done,
on earth as it is in heaven.
Give us this day our daily bread;
and forgive us our trespasses,
as we forgive those who trespass against us;
and lead us not into temptation,
but deliver us from evil.
For thine is the kingdom, and the power, and the glory,
forever and ever. Amen

主の祈り
  

天にまします我らの父よ
願わくはみ名を崇めさせたまえ
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日もあたえたまえ
我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく
我らの罪をも赦したまえ
我らをこころみに遭わせず、
悪より救い出したまえ
国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり アーメン                     

 

(Communion)

The sacrament of Holy Communion is a Means of Grace from God to his people through which the crucified and risen Christ is present and active to forgive, to save, to unite, to give life, to comfort, and to strengthen for the work to which He calls his people in all the world. All baptized and believing Christians are welcome to share in the Lord’s table. Children who have not received their first communion are welcome to come for a blessing.

聖歌(CANTICLE)

A post-communion canticle or an appropriate hymn or song may be sung.

[Jesus Remember Me]

Jesus remember me,
when you come into your Kingdom.

Jesus remember me,
when you come into your Kingdom.

祈り(PRAYER)
   
(P) God our creator, at this table you have satisfied us with the good things of your grace. Fix our hearts on your mercy and truth, that our lives may reflect your love for all creation; through Jesus Christ our Lord.

(C) Amen

祝祷 (Benediction)
   
The Grace of the Lord Jesus Christ, the love of God, and the communion of the Holy Spirit be with all of you.

(P) Go in peace. Serve the Lord.

(C) Thanks be to God.

祝祷 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊(せいれい)の交わりが, あなたがた一同と共にあるように。(コリントの信徒への第二の手紙13:13)

後奏 (Postlude) 

「Here I am」

I, the Lord of sea and sky,
I have heard My people cry.
All who dwell in dark and sin,
My hand will save.
I who made the stars of night,
I will make their darkness bright.
Who will bear My light to them?
Whom shall I send?
Here I am Lord, Is it I, Lord?
I have heard You calling in the night.
I will go Lord, if You lead me.
I will hold Your people in my heart.

I, the Lord of snow and rain,
I have borne my people’s pain.
I have wept for love of them,
They turn away.
I will break their hearts of stone,
Give them hearts for love alone.
I will speak My word to them
Whom shall I send?
Here I am Lord, Is it I, Lord?
I have heard You calling in the night.
I will go Lord, if You lead me.
I will hold Your people in my heart.

I, the Lord of wind and flame
I will tend the poor and lame.
I will set a feast for them,
My hand will save
Finest bread I will provide,
Till their hearts be satisfied.
I will give My life to them,
Whom shall I send?
Here I am Lord, Is it I, Lord?
I have heard You calling in the night.
I will go Lord, if You lead me.
I will hold Your people in my heart.

(いずれの曲もインターネットで題名を入力すれば簡単に聴くことが出来ます)

2026年09月06日

「神の国の建設」

日  時  2026年08月30日  午前10時30分~

礼 拝 式 次 第 

Prelude(前奏)

讃美歌527番

1
わがよろこび、わがのぞみ、
わがいのちの主よ、
ひるたたえ、よるうたいて
なお足らぬをおもう。

2
したいまつるかいぬしよ、
いずこの牧場に、
その群れを主はみちびき、
やしないたまえる。

3
シオンの娘、たれかし、
わがいのちの主に、
野辺にてか、幕屋にてか、
会いまつらざりし。

4
主のみかおのやさしさに、
みつかいよろこび、
みことばのうるわしさに
あめつちうたえり。

5
ならびもなき愛の主の
みこえぞうれしき。
わがのぞみ、わがいのちは
とわに主にあれや。


Brief Order for Confession and Forgiveness

(P) In the name of the Father, and of the + Son, and of the Holy Spirit.

(C) Amen

(P) God, whose love is everlasting, welcomes sinners to the table of mercy.
Let us confess our sin, confident in God’s forgiveness.

Silence for reflection and self-examination.

(P) Gracious God,

(C) Have mercy on us.
In your gracious compassion forgive us our sins, both known and unknown, things done and left undone.
Uphold us by your Spirit so that we may serve you in newness of life, to the honor and glory of your holy name, through Jesus Christ our Lord. Amen.

(P) Since we are justified by God’s grace through faith,
We have peace with God through our Lord Jesus Christ.
Almighty God has mercy on you, forgives you all your sins,
And bring you to life everlasting. Amen

Prayer of the Day(今日の祈り)


Bible Reading (聖書の個所) ルカによる福音書10章1節から20節


その後、主はほかに七十二(七十)人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物(はきもの)も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子(平和を共有する人)がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」

「コラジン、お前は不幸だ(あなたに災いあれ)。ベトサイダ、お前は不幸だ(あなたに災いあれ)。お前たち(あなたたち)のところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない。しかし、裁きの時には、お前たち(あなたたち)よりまだティルスやシドンの方が軽い罰で済む。また、カファルナウム、お前(あなた)は、/天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府(よみ)にまで落とされるのだ。あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」

七十二(七十)人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」


(注)


・七十二人:ヘブライ語から翻訳された現存する最古のギリシア語の聖書「七十人訳聖書」に基づいています。ヘブライ語の聖書によれば七十人です。出エジプト記24:1が根拠とされています。なぜ、七十二人になったのかは不明です。

■主はモーセに言われた。「あなたは、アロン、ナダブ、アビフ、およびイスラエルの七十人の長老と一緒に主のもとに登りなさい。あなたたちは遠く離れて、ひれ伏さねばならない。


・家(教会): 個人の家が宣教の拠点となっていました。初代教会も個々の家を訪問して宣教していたのです。(使徒言行録10:22)


・財布も袋も履物も持って行くな:宣教への覚悟のことです。人々による歓迎への期待でもあるのです。


・途中でだれにも挨拶をするな:緊急を要する宣教活動であったことが推測されるのです。不信仰の町に住む人々を一人でも救おうとされたのです。


■そこで(預言者)エリシャはゲハジ(従者)に命じた。「腰に帯を締め、わたしの杖を手に持って行きなさい。だれかに会っても挨拶してはならない。まただれかが挨拶しても答えてはならない。お前はわたしの杖をその(死んだ)子供の顔の上に置きなさい。(列王記下4:29)


・平和:イスラエルにおける伝統的な挨拶の言葉ですが、ここでは「救い」を表しています。「神の国」の到来が告げられているのです。


・「神の国」(天の国):誤解されているような死後に行く「天国」のことではないのです。神様の主権、神様の支配を表す言葉です。神様が神様として崇(あが)められるところです。イエス様はご自身の生と死と復活を通して「神の国」を証しされたのです。イエス様の第一の関心事は貧しい人々の窮状にあったのです。一方的に「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである」と宣言されたのです。(ルカ6:20)

■ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。(マルコ1:14-15)


■イエスは苦難を受けた(十字架上で処刑された)後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。(使徒言行録1:3)


・パウロの「神の国」:パウロの手紙に「神の国」への言及はほとんど見られないのです。あったとしても、個人の信仰心に限定されているのです。「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません」(1コリント書6:9-10)。

・パウロの手紙:ローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙一、コリントの信徒への手紙二、ガラテヤの信徒への手紙、フィリッピの信徒への手紙、テサロニケの信徒への手紙一、フィレモンへの手紙の七つは直筆であることが確認されています。これら以外は弟子あるいは他の人が書いたものとされています。


・ソドムの運命:旧約聖書の創世記19:24-28をお読み下さい。


・コラジン、ベトサイダ、カファルナウム:ガリラヤ湖北部の町々です。


・ティルス、シドン:地中海沿岸のフェニキアの異邦人の町々です。イエス様はこれらの町を訪問されたことがないのです。聖書地図を参照して下さい。

・陰府(よみ):死者の住まいを指しています。「永遠の罰」のことです。

・名が天に書き記されている:神様は悪魔と闘っておられるのです。神様の軍隊の一員に加えられていることです。


・失われた羊たち:貧しい人々や虐(しいた)げられた人々のことです。


■主の言葉がわたし(預言者エゼキエル)に臨んだ。「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ(天罰あれ)、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠(ほふ)るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷(かこく)に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食(えじき)となり、ちりぢりになった。わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。(エゼキエル書34:1-6)

(メッセージの要旨)


*イエス様はすでに十二人の使徒を選んで派遣するにあたり「・・イスラエルの家の失われた羊(たち)のところへ行きなさい。行って、『天の国(神の国)は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人(たち)をいやし、死者(たち)を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人(人々)を清くし、悪霊(たち)を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と言っておられます(マタイ10:6-8)。イエス様のお言葉はキリスト信仰の真髄(しんずい)なのです。「神の国」が到来しているのです。福音が失われた羊たちに届けられているのです。「神様の支配 (主権)」が地上に徐々に広がっているのです。伝統的な教義や社会のあり方に大きな変革が求められているのです。既得権益に執着している人々は「神の国」を拒否するだけでなく、使徒たちを迫害しているのです。今回、イエス様は七十二人を派遣するにあたって「狼の群れの中に小羊(たち)」を送るようなものだと言われたのです。イエス様ご自身も「神の国」を証しして敵対勢力‐主に律法学者たちやファリサイ派の人々‐に命を狙われているのです。「神の国」とこの世との間に調和はないのです。両者は常に緊張状態にあるのです。イエス様は指導者たちに「神の国」を受け入れること―神様に主権を返すこと―を迫られたのです。これらの人が悔い改めることはなかったのです。後に、ローマと協力してイエス様を十字架上で処刑するのです。イエス様は「神の国」を宣教する人々の労苦に報いられたのです。神様が共におられること-永遠の命に与っていることーを告げられたのです。


*イエス様は十二使徒に続いて、七十二人の弟子を派遣されました。「神の国」の到来を証ししたのです。狼の群れが彼らを虎視眈々(こしたんたん)と狙っているのです。「神の国」はそれを受け入れる人々に福音(良い知らせ)となるのです。拒否する人々には天罰(災い)が下されるのです。ユダヤ人たちは長い歴史の中で連綿と受け継がれて来たモーセの律法と慣習を大切にしているのです。イエス様を「救い主」として信じるキリスト信仰は新興宗教の一つに過ぎないのです。指導者たちはイエス様の教えを「道」と呼んで軽んじたのです。イエス様は「神の国」の宣教にご生涯を捧げられました。権力者たちから迫害され、政治犯として十字架上で処刑されたのです。復活された後も弟子たちに「神の国」について語られたのです。イエス様が天に帰られた後、およそ120人からなる初代教会が誕生したのです。対立する人々が弟子たちを軽蔑(けいべつ)するために用いた名称がクリスチャン-キリストに従う者-なのです(使徒言行録11:26)。信徒たちは「キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい」を肝に銘じ、苦難に耐えているのです(1ペトロ書4:16)。イエス様が証しされた「神の国」の福音を恐れることなく宣教したのです。最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を日々実践しているのです。この世に順応し、偽りの平和を享受(きょうじゅ)している人々に悔い改めが求められているのです。「永遠の命」への道は狭く険しいのです。


*「神の国」の到来を信じる人々は知識として理解するだけでなく、イエス様が歩まれた道を辿(たど)るのです。貧しい人々や虐げられた人々の側に立つのです。これらの人を苦しめている指導者たちの不信仰や腐敗を告発し、社会組織が内包する様々な問題点を改善させるのです。ただ、簡単なことではないのです。苦難が伴うのです。「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいたのです。イエス様は「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子(ご自身)には枕(まくら)する所もない」と言って、弟子であることの厳しさを事前に教えられたのです。別の人に「わたしに従いなさい」と言われたのですが、その人は「主よ、まず、父を葬(ほうむ)りに行かせてください」と答えたのです。イエス様は「死者の埋葬(まいそう)を他の人々に任(まか)せて、あなたは神の国を宣教しなさい」と命じられたのです。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」と申し出た人に「鋤(すき)に手をかけてから後ろを顧(かえり)みる者は神の国にふさわしくない」と言われたのです(ルカ9:57-62)。基準は厳しいのです。「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これ(ら)を憎まない(ご自身への忠誠を優先しない)なら、・・自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、・・自分の持ち物を一切捨てないならば(神様にお委(ゆだ)ねする覚悟がなければ、・・わたしの弟子ではありえない」と明言されたのです(ルカ14:26-27、33)。


*「名前が天に書き記(しる)されること」は決して安価な恵みではないのです。「救い」にとって「行い」は必須の要件なのです。「神の国」の建設に参画しないキリストの信徒たちは「永遠の命」に与(あずか)れないのです(ヤコブ書2:17)。イエス様が宣教された「神の国」とパウロの信仰理解が同じであるかのように誤解されているのです。パウロは設立した各地の教会あてに直筆の手紙(1コリントの信徒への手紙など)を七通書いています。それらの手紙にはキリスト信仰の本質である「神の国」に関する記述がほとんど見られないのです。言及されたとしても「罪の問題」に限定されているのです。人間の「全的な救い」が個人的な「罪からの救い」に縮小されているのです。パウロの解釈が恣意的(しいてき)に変容されているのです。注意すべき点は「信仰と行い」が分離されていることです。信仰のみが強調され、キリストの信徒たちの使命である「神の国」の宣教が軽視されているのです。パウロは復活の主に出会って罪を悔いているのです。教会の援助を受けなかったのです。テント職人として働きながら「十字架につけられたキリスト」を独自に宣教したのです(使徒言行録9-28)。信徒たちにはキリスト・イエスにのみ目を向けるように指示しているのです(1コリント書1:12-13)。パウロの信仰理解を正確に評価するのです。正しく引用するのです。キリスト信仰とは最も重要な戒め-正義・慈悲・誠実‐を実行して生きることです(マタイ23:23)。終わりの日に「神様の御心」に適っていたかどうかが判断されるのです。

*「神の国」の到来は必然的にこの世の権力者たちと彼らに同調する人々に悔い改めを迫るのです。現代においても「神の国」を宣教するキリストの信徒たちはこの世に属する人々から疎(うと)まれているのです。「神様の戒め」を心に刻(きざ)み、社会に正義と公平を実現するために取り組んでいるからです。これらの人は貧しい人々や虐げられた人々と共に歩み、権力者たちの不正や腐敗を厳しく批判しているのです。多くの人はキリスト信仰を「罪からの救い」、「永遠の命の付与」に至る道として理解しているのです。そのことは正しいのです。ただ、福音に与った人々には「神様の支配」が天上と地上のすべての被造物に及ぶことを知らせる責務があるのです。イエス様が再び来られる時(再臨)には人々を悲しませ、苦しめて来た死が滅ぼされるのです。イエス様は危険を承知の上で宣教に励んだ七十二人が戻って来るとその働きを労(ねぎら)われたのです。「神の国」の建設に参画した人々は祝福されるのです。権力者たちは支配の強化に役立つか利益を損なわないかという観点から何事も評価するのです。個人的な「罪からの救い」を宣教する限りキリストの信徒たちが迫害されることはないのです。しかし、「神の国」の本質‐人間の全的な救い-を追求すれば必ず敵対する人々が現れるのです。「神の国」の到来がこの世の権力者たちや既得権益に執着している人々を脅(おびやか)かしているのです。イエス様がご自身の苦難を語られたように、キリスト信仰に生きる人々に試練は尽(つ)きないのです。「永遠の命」の希望において前進するのです。

賛美歌529番

1
ああうれし わが身も
主のものと なりけり
うき世だに さながら
あまつ世の ここちす

歌わでや あるべき
救われし 身のさち
たたえでや あるべき
みすくいの かしこさ

2
残りなく みむねに
まかせたる 心に
えもいえず たえなる
まぼろしを 見るかな

歌わでや あるべき
救われし 身のさち
たたえでや あるべき
みすくいの かしこさ

3
胸の波 おさまり
心いと 静けし
われもなく 世もなく
ただ主のみ いませり

歌わでや あるべき
救われし 身のさち
たたえでや あるべき
みすくいの かしこさ

APOSTLES’ CREED


I believe in God, the Father almighty,
creator of heaven and earth.

I believe in Jesus Christ, his only Son, our Lord.
He was conceived by the power of the Holy Spirit
and born of the Virgin Mary.
He suffered under (Caiaphas and) Pontius Pilate,
was crucified, died, and was buried;
He descended into hell.
On the third day he rose again.
He ascended into heaven,
and is seated at the right hand of the Father.
He will come again to judge the living and the dead.

I believe in the Holy Spirit,
the holy catholic Church,
the communion of saints,
the forgiveness of sins,
the resurrection of the body,
and the life everlasting. Amen.


(使徒信条)

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、(カイアファと)ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に降り、三日目に死人のうちより蘇り,天にのぼり全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。 アーメン

Benediction(祝福の祈り)

The Grace of the L ord Jesus Christ, the love of God,
and the communion of the Holy Spirit be with all of you.

(P) Go in peace. Serve the Lord.

(C) Thanks be to God.


Postlude(後奏)


「Go now in peace」


Go now in peace, never be afraid
God will go with you each hour of ev’ry day
Go now in faith, steadfast, strong and true
Know God will guide you in all you do.
Go now in love, and show you believe.
Reach out to others so all the world can see.
God will be there watching from above.
Go now in peace, in faith and in love.
Amen,  Amen, Amen.

(いずれの曲もインターネットで簡単に聴くことが出来ます)

2026年08月30日
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