Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書22章15節から22節
それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。
(注)
・ファリサイ派:律法を日常生活に厳格に適用したユダヤ教の一派です。しかし、イエス様は彼らの偽善を厳しく批判されました。具体例はマタイ15:1-20をお読みください。
・ヘロデ派:ガリラヤとペレアを統治した総督ヘロデ・アンティパス(ヘロデ大王の三人の息子の一人)あるいはヘロデ王朝の支持者たちのことです。このグループの行動についてはマルコ3:6;12:3にも記述されています。
・デナリオン:ローマ帝国内に流通する銀貨です。当時の平均的労働者の一日分の賃金に相当します。皇帝の「頭部の像」と「『ティベリウス・シーザー、神であるアウグストの息子』の文字」が刻印(こくい
ん)されています。
・十戒:基本となる戒めです。
■わたしは主、あなた(がた)の神、あなた(がた)をエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなた(がた)には、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなた(がた)はいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなた(がた)はそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否(いな)む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈(いつく)しみを与える。(創世記20:2-6)
・神の国(天の国):キリスト信仰の根本理念です。「神様の支配」、「神様の主権」を表す言葉です。誤解されているのですが、死後に行く「天国」のことではないのです。
(メッセージの要旨)
*イエス様はエルサレムに入城した後ご自身の方から神殿政治を担う指導者たちの不信仰と腐敗を公然と非難されたのです。一方、祭司長たちや律法学者たちは知恵を絞り、持てる権力を総動員してイエス様に反撃するのです。ファリサイ派の人々は対立するヘロデ派の人々と手を結び、共通の敵であるイエス様を殺そうと画策するのです。ただ、民衆の熱狂的な支持が計略を妨げているのです。そこで、「税の問題」を取り上げたのです。二つの大きな目的がありました。一つはイエス様を反逆罪でローマの当局者に引き渡すことです。もう一つは民衆を自分たちの側に取り戻すことです。イエス様が皇帝ティベリウス・シーザーに税金を納めるべきでないと言えば、ローマによって処刑されるのです。納税すべきであると答えれば重税に喘(あえ)ぐユダヤ人たちの支持を失うのです。イエス様は厳しい政治状況を踏まえて納税の是非に言及されなかったのです。信仰の観点から「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われたのです。「神様の名」によって不正が行われているのです。「税の在り方」を問う前に自らを正しなさいと命じられたのです。強大なローマの支配下にあって「神様の御心」-正義と隣人愛の実現-を具体化するために最も相応しいお答えをされたのです。キリスト信仰が誤解されているのです。キリスト信仰とはイエス様のご生涯に倣(なら)って生きることです。そのことを宣言した人がキリストの信徒と呼ばれるのです。人は信仰によって救われるのではないのです。「神の国」の建設に参画して「永遠の命」に与るのです。
*神殿が「強盗の巣」になっているのです。イエス様の実力行使(マルコ11:15-17)は神殿政治を一時的であっても機能停止させたのです。イエス様と指導者たちとの対立は決定的となったのです。祭司長たちや律法学者たちは激怒し、イエス様をどのようにして殺そうかと謀議(ぼうぎ)したのです。しかし、群衆がイエス様の教えに共感していたので手を下せなかったのです。この後、これらの人は神殿の境内でイエス様に出会い「何の権威であのようなことをしたのか」と尋(たず)ねたのです。イエス様も「(洗礼者)ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」と逆に質問されたのです。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。しかし、『人からのものだ』と言えば、群衆が怖(こわ)い・・」などと論じ合って、結局「分からない」と答えたのです(マタイ21:21-27)。権力者たちを恐れてはならないのです。神様こそ最も恐れるべきお方だからです(ルカ12:4-7)。洗礼者ヨハネは領主ヘロデ・アンティパスとその兄弟の妻ヘロデアとの結婚を律法違反げあると批判したのです(マルコ6:14-29)。イエス様も指導者たちの偽善と不正を敢然と告発されたのです。その後も「二人の息子のたとえ」(マタイ21:28-32)、「ぶどう園と農夫のたとえ」(マルコ12:1-12)、「律法学者たちへの非難」(ルカ14:15-24)を通して、これらの人の不信仰を批判されたのです。「神の国」に入れないことが明らかになったのです。
*犬猿(けんえん)の仲にあったファリサイ派とヘロデ派の人々が協力して共通の敵であるイエス様を抹殺しようとしているのです。周到な準備をして論争に臨んでいるのです。名誉欲を煽(あお)るために、見え透(す)いたお世辞によって褒(ほ)めているのです。イエス様が慢心(まんしん)し、ローマへの不服従を吐露(とろ)するように仕向けているのです。しかし、すでに「・・神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌(い)み嫌われるものだ」と反論しておられるのです(ルカ16:15)。人間による賞賛がイエス様のご判断に影響を及ぼすことなどないのです。さらに、謙虚さを装(よそお)いながら攻撃を先鋭化するのです。「お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適(かな)っているでしょうか、適っていないでしょうか」と政治的な質問によって罠(わな)に掛けようとしているのです。皇帝に税金を払わないように扇動(せんどう)すれば、ローマへ反旗を翻(ひるがえ)したことになるのです。「反乱罪」に問われるのです。律法に適っていると答えれば「・・同胞でない外国人をあなた(がた)の上に立てることはできない」の規定に違反するのです(申命記17:14-15)。神様を父と公言されるイエス様に「神の息子」と称するローマ皇帝への忠誠心が求められているのです。イエス様が宣教された「神の国」とこの世とは両立しないのです。しかも、イエス様は「何よりもまず、神の国と神の儀(正義)を求めなさい」と言われたのです(マタイ6:33)。お言葉を自ら実行されたのです。
*ファリサイ派の人々やヘロデ派の人々にとってイエス様がどのように答えられるかについて興味はなかったのです。所期の目的を必ず達成することが出来ると確信していたからです。イエス様は「十字架上の死」あるいは「福音宣教の挫折」という大きな代償を払うことになるのです。デナリオン銀貨には「皇帝の像」と「神であるアウグストの息子の文字」が刻(きざ)まれているのです。イエス様は「納税の是非」について返答する前に、指導者たちの内側が偽善と不法に満ちていることを暗に批判されたのです(マタイ23)。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われたのです。前半の「皇帝のものは皇帝に返しなさい」においてローマの法律が肯定されているのです。後半の「神のものは神に返しなさい」はユダヤ民族の問題であることからローマは介入しないのです。ユダヤ人にとってすべての判断基準は「十戒」にあるのです。偽善者であるとはいえ指導者たちもそれらを厳格に守っているのです。これらの人は銀貨に刻印されている「ローマ皇帝の像」や「神様を騙(かた)る言葉」が律法に違反していることを知っているのです(申命記5:8)。ローマによる「神様への冒涜(ぼうとく)の罪」を告発する義務があるのです。この点を曖昧(あいまい)にしているのです。「納税の是非」のみを議論することは出来ないのです。イエス様は最善のお答えによって反論されたのです。指導者たちの不信仰が明らかになり、彼らの権威は失墜することになったのです。民衆は権力者たちと対峙(たいじ)する方法と知恵を学び取ったのです。
*ユダヤ人たち(イスラエル)は外国の勢力に何度も抑圧され苦しめられて来ました。原因が不信仰にあったことは歴史的に証明されているのです。イエス様の時代においてもローマがユダヤの全土を支配していたのです。指導者たちは民族として生き延びるために不当な要求を甘んじて受け入れたのです。「大祭司の任命権」や「十字架刑の執行権」は取り上げられたのです。しかし、民族としての「自治権」はかなり認められたのです。貧しい人々は苛酷(かこく)な徴税によって窮乏生活を強いられているのです。ヨ洗礼者ハネの宣教の第一声は「悔い改めよ。天の国は近づいた」でした(マタイ3:2)。イエス様も「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って宣教を開始されたのです(マルコ1:15)。「神の国」の到来が福音(良い知らせ)として告げ知らされているのです。人々は憐み深い神様が地上に再び「正義」を確立して下さることに歓喜したのです。ファリサイ派の人々は対立していたヘロデ派の人々と手を結んだのです。これらの人は謀略によってイエス様を追い詰めるのです。イエス様は厳しい政治状況を踏まえて「納税の是非」に直接答えられなかったのです。信仰のあり方を内省させるために「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われたのです。ローマの支配下にあって「神様の御心」-社会正義と隣人愛-を追求することは容易ではないのです。イエス様のお答えは示唆(しさ)に富んでいるのです。キリストの信徒たちは慎重に行動するのです。何事も「信仰の観点」から始めるのです。
洗礼者ヨハネが捕らえられた後、イエス様はガリラヤ地方へ行き、福音(良い知らせ)を宣べ伝えて「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたのです(マルコ1:14-15)。イエス様は復活された後も、使徒たちに「神の国」について話されたのです(使徒1:3)。キリスト信仰の中心メッセージは「神の国」-神様の支配-にあるのです。