Bible Reading (聖書の個所)マルコ福音書1章1節から15節
神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書(40:3)にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
(注)
・洗礼者ヨハネの宣教:
■・・斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。(ルカ3:9-14)
・野獣と一緒におられた:意味は不明です。神様が新しく創造される天と地における様子がイメージされているのかも知れません。イザヤ書65:17-25をお読み下さい。
・十戒(じっかい): 神様がモーセを通してイスラエルの民に命じられた最も重要な戒めです。
■わたしは主、あなた(たち)の神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。・・わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否(いな)む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。・・あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。殺してはならない。姦淫(かんいん)してはならない。盗んではならない。隣人に関して偽証してはならない。隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。(出エジプト記20:1-17)
・隣人愛:
■穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘(つ)み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは盗んではならない。うそをついてはならない。互いに欺いてはならない。わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。あなたは隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。民の間で中傷をしたり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。わたしは主である。心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。(レビ記9:9-18)
■イスラエルよ。今、あなた(たち)の神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。主はあなたの先祖に心引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった。心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない。あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。(申命記10:12-19)
・神の国(天の国):神様の主権、あるいは神様による支配のことです。死後に行く「天国」のことではありません。キリスト信仰における福音の原点です。福音書記者マタイは「天の国」と表現しています。畏(おそ)れ多い言葉「神」を用いなかったのです。イエス様は「神の国」の宣教に生涯を捧げられました。既得権益に執着する権力者たちは「神の国」を受け入れることが出来ずに、イエス様を十字架上で処刑したのです。ところが、神様はイエス様を復活させられたのです。イエス様は復活された後も天に帰られるまでの間、弟子たちに「神の国」について教えられたのです(使徒1:3)。
・キング牧師:黒人の公民権運動の先頭に立ち、ノーベル平和賞を受賞したキング牧師はアメリカのジョージア州アトランタにあるエビニーザー・バプティスト教会の牧師の家に生まれました。イエス様の愛は社会正義と切り離すことが出来ないという確信の下に福音宣教と黒人の地位向上に39年の短い生涯を捧げたのです。功績を称えて1月の第三月曜日は祭日です。I
HAVE A DREAM(私には夢がある)の演説が有名です。他にもあります。
“The ultimate tragedy is not the oppression and cruelty by the bad people
but the silence over that by the good people.”
-究極の悲劇は悪人による抑圧や残酷さではなく、善人がそれらに沈黙していることです。-(私訳)
(メッセージの要旨)
*ユダヤの荒れ野でイエス様の先駆けとして、洗礼者ヨハネが「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言って宣教を開始しました(マタイ3:2)。罪を告白した人々に洗礼を授け、悔い改めに相応しい実を結ぶこと-善い行いをすること-を命じたのです。ヨハネは権力者に対しても一切妥協しなかったのです。ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパス(紀元前四年に亡くなった悪名高いヘロデ大王の三人の息子の一人)の結婚が律法違反であることに言及し、公然と非難したのです(マタイ14:3-5)。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、・・その方(イエス様)は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授(ざず)けになる。・・手に箕(み)を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」と言って、安易な信仰理解に警告しているのです(マタイ3:11-12)。一方、イエス様はヨハネを「預言者以上の者」、「女から生まれた者の中で最も偉大な人物」(ルカ7:26-28)、「燃えて輝くともし火」(ヨハネ5:35)と称賛されたのです。イエス様のイメージが誤って伝えられているのです。柔和で穏やかなお方ではないのです。「神の国」の福音を妨げる人々には厳しく対峙されたのです(マルコ11:15-18)。ヨハネが捕らえられたことを聞き、危険を承知でガリラヤへ向かわれたのです。およそ30歳の時に宣教を開始されたのです。しかし、イエス様は政治犯として十字架上で処刑されるのです。ところが、復活されたのです。天に帰られるまで「神の国」を語られたのです。
*旧約聖書はイスラエルの民の偶像崇拝と律法軽視-罪の歴史-を伝えているのです。神様はご自身のお考え明確にされたのです。モーセの十戒を通して異教の神々が支配するカナンの地(現在のイスラエル、レバノン、ヨルダン等)で生き抜くための「原点」を教えられたのです。十戒の冒頭に「わたしはあなたがたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。わたしをおいてほかに神があってはならない」と書かれています。神様はご自身がイスラエルの神であることを具体的な事実-エジプトの圧政からの解放-によって証明されたのです。レビ記や申命記によって先祖が経験したエジプト脱出の意味を想起させられたのです。イスラエルの民は「戒めを守ります」と言った後も、「神様の御心」に反して罪を犯し続けたのです。神様は「神の国」に属する人々が犯した罪を信仰共同体の不信仰として罰せられたのです。同時に、指導者(王)たちを起こし、預言者たちを遣わしてご自身の下へ導こうとされたのです。忍耐して人々が心から悔い改めることを待たれたのです。しかし、神様は「新たな天地創造」を決断されたのです。終わりの日に先立って、イエス様-ご自身のお言葉-を遣わされたのです。イエス様の宣教の第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」です。洗礼者ヨハネの言葉と同じです。これらの短い文言の中に福音の真理が凝縮(ぎょうしゅく)されているのです。イエス様のメッセージの核心は「神の国」にあるのです。「神の国」の到来こそ良い知らせなのです。悔い改めて福音を信じるのです。
*イエス様の時代のユダヤ人たちも祖先の歩みを踏襲(とうしゅう)するのです。神殿政治を担う指導者たちは腐敗し、神殿は強盗の巣と化しているのです(ルカ19:46)。神様は主権を地上の隅々に確立されるのです。この世の支配者たち-悪魔や権力者たち-に取って代わられるのです。「神の国」の到来は貧しい人々、様々な病や心身の障害に苦しむ人々にとって希望の光となったのです。「癒しの業」によって多くの人は苦難から解放された(救われた)のです。一方、イエス様は人々に「悔い改め」を求められたのです。律法に明記されている重要な戒め-神様と隣人(苦難を覚える人々)を愛すること-を実行して来たかどうかについて問われるのです(マルコ12:28-31)。それぞれの生き方における優先順位を示されたのです。「何よりもまず、神の国と神の儀(正義)を求めなさい」(マタイ6:33)、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と明言されたのです(ルカ16:13)。人々は「神の国」に招かれているのです。多くの人は信仰によって「救い」に与れると信じているのです。しかし、信仰の意味が「罪からの救い」として限定的に理解されているのです。キリスト信仰とはイエス様に従うことです。ご生涯に倣(なら)って「神の国」の建設に参画することなのです。福音はすべての人に届けられているのです。それは「安価な恵み」ではないのです。信じた人々には果たすべき「使命」が与えられているのです。大切なものを捨てる-神様に委ねる-時が訪れるのです。キリスト信仰は「行い」を求めるのです。
*新約聖書の中に「神の国」に関する記述が多いのも当然です。キリスト信仰の根本理念だからです。しかし、「神の国」の福音が伝統や慣習、教義や神学理論によって変容されているのです。福音が個人的な「罪の赦し」として定義されているのです。ここには、人間の「全的な救い」として完成するという認識が見られないのです。果たして、キリストの信徒の多くが「神の国」の建設-正義や平和の実現―に参画することなく、「神様の恵み」に与るだけの信仰に陥っているのです。イエス様はご自身の生と死と復活によって「神の国」を証しされたのです。「神の国」の福音を種子の中で最も小さい「からし種」に譬(たと)えられたのです。種は蒔(ま)かれた時は確かに小さいのです。ところが、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になるのです(マタイ13:31-32)。「神の国」が到来すれば必然的にこの世に分裂と対立が生じるのです(ルカ12:51)。神様の正義と公平は人間が生み出した社会の機構や組織によって歪(ゆが)められているのです。少数の人が富を独占し、圧倒的多数は貧しさを強いられているのです。権力者たちが既得権益を守るために必死で抵抗するのです。「神様の御心」を軽んじる人々に厳しい裁きが下されるのです(マタイ23)。「聖書に忠実である」と言う言葉がよく聞かれます。「大切な個所」を読み飛ばしていないでしょうか。キング牧師の言葉は真に示唆(しさ)に富んでいるのです。罪を赦(ゆる)された人々が社会の罪に無関心でいることは出来ないのです。
*ファリサイ派の人々が「神の国はいつ来るのか」と尋ねたのです。イエス様は「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と答えられたのです(ルカ17:20-21)。難解な神学的表現はどこにも見られないのです。神様が崇(あが)められているところ、「神様の戒め」が実行されているところが「神の国」なのです。キリスト信仰とはイエス様の御跡を辿(たど)って生きることです。神様が命じられた最も重要な戒めを具体化することなのです。「神の国」の到来を福音として信じる人々が「神様の恵(憐み)」に感謝することは当然です。同時に、これまでの生き方を振り返って、悔い改めに相応しい良い実を結ぶのです。持っている(預かっている)資源(能力や財産など)を捧げて「神の国」の建設に充当するのです。貧しい人々や虐(しいた)げられた人々の側に立って「声なき声」を代弁するのです。キリストの信徒を自称することとイエス様の弟子であることとは同じではないのです。キリスト信仰が誤解されているのです。「信仰の名」によって中立が正当化されているのです。争いのないことが平和ではないのです。「神の国」の到来を福音として信じる人々は「神様の主権」、「神様の支配」を認めない人々の側には立たないのです。「神の国」の福音は人間のすべての分野に及ぶのです。キリスト信仰は罪を赦されて「永遠の命」に与ることで完結しないのです。イエス様のご生涯を心に刻み、「神様の御心」を実現するために全力で奉仕するのです。