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洗礼者ヨハネが捕らえられた後、イエス様はガリラヤ地方へ行き、福音(良い知らせ)を宣べ伝えて「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたのです(マルコ1:14-15)。イエス様は復活された後も、使徒たちに「神の国」について話されたのです(使徒1:3)。キリスト信仰の中心メッセージは「神の国」-神様の支配-にあるのです。

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「傲慢な人々への警告」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書18章9節から17節


自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 

イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

(注)

・ファリサイ派の人々:律法(や昔の人の言い伝え)を厳格に日常生活に適用しているユダヤ人のグループです。例えば、食事の前には必ず手を洗うことです。一方、自分たちの都合に合わせて解釈を変更したのです(マルコ7:1-19)。イエス様は彼らの偽善と腐敗を厳しく非難されたのです(マタイ23章)。ファリサイ派の人々はイエス様に敵対していました。ところが、所属する議員の中にはニコデモのようにイエス様を信じている人もいたのです(ヨハネ19:38-42)。

・律法学者たち:文書を記録する官僚であり、学識を有していたのです。多くはイエス様に批判的でしたが、「先生,あなたがおいでになる所ならどこへでも従って参ります」と言った律法学者もいたのです(マタイ8:19)。

・罪人:ローマに協力する徴税人たち、身体や精神に障害のある人々、不道徳な女性たち、律法を順守しない人々(献金をしない貧しい人々)、サマリア人や異邦人と交際する人々のことです。

・徴税人:ユダヤの民衆は苛酷な税に苦しめられていたのです(ルカ3:13)。徴税人たちはローマに税を上納するだけでなく、規定以上の税を取り立てて私腹を肥やしていたのです。一方、イエス様は社会から排斥された徴税人や罪人たちと食事をされたのです(ルカ5:30-32)。

・断食:年に一度の「贖(あがな)いの日」に大祭司は神殿内にある至聖所に入り、全民衆の罪の懺悔(さんげ)のために断食をしました。

・献金:ユダヤ人には神殿と祭司たちを支えるために農産物の十分の一を捧げることが義務付けられていました(レビ記27:30-33)。ハーブ類の薄荷(はっか)、いのんど、ういきょうは除外されていました。ファリサイ派の人々はこれらの十分の一も捧げて信仰を誇るのです。しかし、イエス様は律法で最も重要な正義、慈悲、誠実をないがしろにするこれらの人を厳しく非難されたのです(マタイ23:23)。


・義:日本語訳では「義」と訳されていますが、元の言葉には「正義」という意味があるのです。「神様の御心」に適(かな)った心のあり方だけでなく、その人の生き方を表しているのです。個人的な倫理感、道徳心の高さとして用いられることが多いのです。しかし、この言葉には社会的な正義、公平に関する認識の深さも含まれているのです。

・子供たち:両親(保護者)の下に成長するのです。無力な人々(権力を持たない人々)を象徴(しょうちょう)しているのです。貧しい人々や虐げられた人々のことです。これらの人は「神の国」の到来を福音-良い知らせ-として素直に受け入れたのです。神様にすべてをお委(ゆだ)ねしたのです。最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を真剣に守っているのです。

・神の国:天の国とも呼ばれています。死後に行く「天国」のことではないのです。神様の主権、神様の支配を表す言葉です。イエス様の宣教の第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」です(マルコ1:15)。イエス様を通して「神の国」はこの世に具体化しているのです。病人や心身に障害のある人々が癒され、罪の赦しが行われているのです。この事実が福音なのです。

(メッセージの要旨)


*イエス様のたとえ話は2000年前のファリサイ派の人々への警告として語られたのです。内容は現代に生きるキリストの信徒たちにも通じるのです。「聖書に忠実である」と言う言葉が時々聞かれるのです。しかし、そのようなことは誰にも出来ないのです。「神の国」が知的に、神学的に理解されているのです。旧・新約聖書が伝える神様は一貫して言葉ではなく、行いによる信仰を求められるのです。イエス様によって「神様の主権」は天上と地上のすべてに及ぶことが宣言されたのです。終わりの日(最後の審判の時)に人間の「全的な救い」として完成するのです。光がある内に悔い改めてこれまでの「生き方」を根本的に変えるのです。一方、イエス様は二つの重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実践するように命じられたのです。「主の祈り」には「わたしたち、わたしたちの、わたしたちを」が用いられています。個人的な祈りではないのです。信仰共同体を構成する人々の均質性が強調されているのです(ルカ11:4)。キリストの信徒たちは貧しい人々や虐(しいた)げられた人々に奉仕することによって「神様への信仰」を証しするのです。すべての罪は神様を試みること、神様を軽んじること-人間の不信仰-から生じているのです。驕(おご)り、高ぶりを克服する有効な方法があるのです。誇りとなる物(富や才能など)を手放すことです。隣人のためにそれらを使うのです。社会の底辺で喘(あえ)ぐ人々の所へ降りて行くこと-子供のようになること-によって謙遜を学ぶのです。何よりもイエス様の生き方に倣(なら)うのです。


*神殿で祈っている二人は全く異なった信仰心を表しています。ファリサイ派の人は正直で、律法を順守する生活を送っています。しかも、律法が求める以上のことを実行しているのです。律法には一年に一度「贖(あがな)いの日」に断食をすることが定められています。ところが、一週間に二度-月曜日と木曜日-に断食をしているのです。献金についても求められていない分を含めて収入の十分の一を捧げているのです。この人は神殿の目立つ場所に立って、神様に赦しを乞うようなことが何もないかのように祈るのです。すべて「わたし」で始めて信仰心を誇り、律法を守らない人々を見下しているのです。一方、徴税人は神殿の聖所から遠く離れた場所で、目を天に向けることなく、神様に祈ったのです。罪を告白して、ただ「神様の憐れみ」を願い出たのです。神様に祈りを聞き入れられた人は徴税人でした。たとえ話は二人の信仰心を比較しているだけではないのです。もっと深い意味が隠されているのです。神様は社会から排斥された人々に優先的に福音を届けられるのです。ご自身を求めて来る罪人たちを受け入れられるのです。律法で規定された宗教儀式の順守や善行によって自分を誇る人々には耳を閉ざされるのです。善い行いが悪い分けではないのです。神様に栄光を帰すことだからです。自分を誇るためであればそれは偽善なのです。偽善者たちは「神の国」に入れないのです。「神の国」においてこの世の価値基準が逆転するのです。罪を犯さない人はいないのです。信仰を誇ることなど誰にも出来ないのです。悔い改めなければ皆滅ぶのです。

*キリストの信仰が「個人的な救い」の問題として限定的に理解されているのです。「神の国」の福音は「永遠の命」の付与に留まらないのです。政治、経済、社会を含む人間の「全的な救い」として実現するのです。ある律法の専門家が「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねました。イエス様は「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」と答えられたのです。そして「それを実行しなさい」と命じられたのです(マルコ10:25-28)。「行い」は「救い」にとって必須の要件となっているのです。「救い」に与った人々には使命(責務)があるのです。イエス様の御跡を辿(たど)って「神の国」の建設に参画することです。イエス様は山上の説教において「あなたがたの義(正義)が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と断言されたのです(マタイ5:17-20)。ヤコブも「『隣人を自分のように愛しなさい』という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔(へだ)てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです」と言っています(ヤコブ書2:8-10)。傲慢はその人の「救い」を左右する大きな罪です。信仰を自負する人々には思いがけない結末が待っているのです。

*律法の規定をすべて厳格に実行することは至難の業です。完全に履行しようとする熱心さの中にかえって偽善が生まれるのです。罪を犯したことのない人は誰もいないのです。イエス様はそのことをご存じなのです。律法学者たちやファリサイ派の人々が姦通の現場で捕らえられた女性を連れて来て「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」と尋ねました。イエス様は「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われたのです。これを聞いた人々は年長者から始まって、一人また一人と、その場を立ち去ったのです(ヨハネ8:3-9)。姦淫の罪は律法(十戒)の中で取り上げられています。犯した者は石打の刑に処せられるのです。ところが、イエス様は一方的に女性が犯した罪を赦されたのです。人々は軽微な罪は簡単に赦されるものと考えているのです。しかし、罪は罪なのです。罪には罰が伴うのです。信仰心の篤さを誇っても「救い」の保証にはならないのです。イエス様は「人を裁くな」と命じられました(マタイ7:1-5)。権限はご自身にあると言われるのです(ヨハネ(5:22)。パウロも「自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです」と明言しているのです(1コリント4:4)。「神様の憐れみ」は尽(つ)きないのです。それ故に、憐れみ深い人間になるのです。「裁き」をお待ちするのです。

*「神様の支配」が少しずつ人間の心と社会に浸透しているのです。人々に悔い改めが起こっているのです。キリスト信仰とは「神の国」の到来を福音として信じることです。「神の国」は死後の救い-人間の究極的な願い-に限定されるものではないのです。神様は政治、経済、社会の福音化にも深く関心を寄せておられるのです。イエス様は「神様の御心」を体現されるのです。社会から排斥された徴税人や罪人たちと共に食事をされたのです。パリサイ派の人々や律法学者たちは律法違反を指摘したのです。イエス様は「神の国」に対する無理解と律法主義への固執を厳しく非難されたのです。九十九ひきを残して迷い出た一匹の羊を必死で探し求める羊飼い(マタイ18:10-14)、10枚持っている銀貨の内1枚を無くしたので部屋中を掃いて見つけるまで探している女性(ルカ15:8-10)、分け与えた財産を放蕩(ほうとう)して使い果たした息子が帰って来ると喜んで迎える父親(ルカ15:11-24)のように、神様は罪人がご自身の下へ帰って来るのを忍耐して待っておられるのです。神様はそういうお方なのです。イエス様は律法の中にある最も大切な言葉-正義、慈悲、誠実-を基本にして「神様の御心」を証しされたのです(マタイ23:23)。「思いと行い」の判断基準を神様の戒めに求める生き方こそキリスト信仰の真髄(しんずい)なのです。「神様の憐れみ」に応えるのです。この世の真っ只(ただ)中に力を合わせて「神の国」を建設するのです。信仰の対極にあるのが傲慢です。最大の罪なのです。真剣に内省するのです。

2026年07月12日

「力ある業と誤解」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書6章1節から15節

その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。 イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。

さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑(くず)を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

(注)

・その後:ヨハネ4章-6章-5章の順で読むと出来事の推移が良く分かります。イエス様はまだガリラヤにおられるのです。なぜ、現在のように4章-5章-6章になったのかは不明です。

・ティベリアス湖の向こう側:ガリラヤ湖の北端の東側です。聖書地図を参照して下さい。ティベリアス湖の名称はローマ皇帝ティベリウス(在位は西暦14年から37年)に由来します。洗礼者ヨハネとイエス様の宣教活動はこの皇帝の治世下で行われました。

・過越祭:ユダヤ教の三大祭り(他の二つは七週祭、仮庵祭)の一つです。イスラエルの民がエジプトの圧政から解放された出来事を記念する祭りです。出エジプト記12:1-13:16をお読み下さい。

●七週祭(五旬祭)は過越祭から数えて50日目に祝う春の収穫祭です。レビ記23:15-21をご一読下さい。キリスト教ではこの日を聖霊降臨日「ペンテコステ(ギリシャ語の『五十』を表す言葉)」として記念する教派もあります。

●仮庵祭は神様が圧政に喘(あえ)ぐスラエルの人々をエジプトの国から導き出したとき、彼らを仮庵(かりいお)に住まわせられたことを記念する祭りです。秋の収穫祭でもありました。レビ記23:40―43を参照して下さい。


・フィリポ、ペトロ、アンデレ:いずれも、12使徒に選ばれています。


・1デナリオン:当時の平均的労働者の一日分の賃金に相当します。

・大麦のパン:主に貧しい人々が食べていました。

・約束の預言者:西暦1世紀には「預言者」あるいは「救い主」を公言する人が多くいたのです。彼らは神様がイスラエルをローマから解放するために遣わされたと主張したのです。様々な奇跡によって言葉の信ぴょう性を証明しようとしたのです。

・ヘロデ・アンティパス:紀元前4年に死去したヘロデ大王の三人の息子の一人です。イエス様の宣教の拠点であるガリラヤとペレアの領主です。聖書地図を参照して下さい。在位は紀元前4年から紀元後39年です。

●ヘロデ大王はローマ皇帝の承認を受け、ローマ人から「ユダヤ人の王」と呼ばれていました。猜疑心(さいぎしん)が強く自分の地位を脅かす人々(妻や息子たちを含めて)を容赦なく処刑したのです。ユダヤ教の祭司たちも殺害したので最高法院(ユダヤの最高議決機関)は弱体化したのです。幼子イエス様が成長して将来自分や後継者を脅かす存在になることを恐れて二歳以下の男の子をすべて殺したのです。在位は紀元前37年-紀元前4年です。イエス様はヘロデ大王の治世紀元前6年頃に誕生されたと言われています。

・王(政治的指導者):イエス様の時代においてもユダヤ人たちはモーセのような預言者(申命記18:15)が起こされることを願い、エリヤの再来(マラキ書3:23-24)を期待していたのです。ローマの総督ポンティオ・ピラトは十字架に「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という罪状書きを掛けました(ヨハネ19:19)。「神の国」(天の国)の福音はこの世と相容れないのです。イエス様は権力者たちによって「政治犯」として処刑されたのです。

(メッセージの要旨)

*イエス様はガリラヤを宣教の拠点としながらもユダヤ人の祭りにはエルサレムへ上られたのです(ヨハネ5:1)。イエス様がユダヤ教の記念日-過越祭など-を遵守(じゅんしゅ)されていたことが分かります。福音書記者ヨハネは「食べ物の提供」の奇跡がガリラヤ湖の北東周辺で起こったことを記述しています。この湖をティベリアス湖と呼んでいるのです。ティベリアスは領主ヘロデ・アンティパスが西暦26年頃にローマの皇帝ティベリウスの名前に因(ちな)んで建設した新しい町です。ティベリアス、カファルナウム、ベトサイダなどの村には良い港があり、漁業が盛んでした。イエス様が最初に弟子として選ばれたシモンと兄弟アンデレ、ゼベタイの子ヤコブとヨハネは漁師です。ガリラヤは農村地域でもありました。貧しい農民たちは重税に喘(あえ)いでいました。不作の時に借りたお金が累積して返済不能になった人々もいたのです。債権者であるエリート貴族、ローマに税金を上納する役人、祭司たちによって、担保の土地を奪われたのです。「カナの婚礼」で水をぶどう酒に変えられた出来事(ヨハネ2;1-11)やカファルナウムで役人の息子を癒された力ある業(ヨハネ4:46-53)の評判は各地に広まっていました。民衆は「神の国」―神様の支配―の到来に熱狂したのです。パンと魚で満腹した5000人の男たちは先祖がモーセによってエジプトの圧政から解放され、荒れ野でマナを食べたことを想起したのです。本当の「約束の預言者」の出現を確信したのです。一方、イエス様は「神様の子」の正しい理解を求められたのです。

*「食べ物の提供」という力ある業によって「神の国」の本質が明らかにされたのです。一般的に、イエス様が「神様の子」であることを証明する出来事として理解されているのです。しかし、これにはもう一つの重要な意味があるのです。5千人に及ぶ群衆は過越祭が近づいているにも関わらず、神殿のあるエルサレムではなく、辺境の地ガリラヤへ向かったのです。そこで、イエス様の教えを聞き、不思議な出来事を直接経験したのです。エルサレム神殿で捧げ物をする代わりに、イエス様から贈り物をいただいたのです。ユダヤ教の原点である過越祭を祝う場所と大祭司の権威がイエス様へ移行したことを知ったのです。イエス様はご自身について「命のパン」(ヨハネ6:35)、「良い羊飼い」(10:11)、「まことのぶどうの木」(15:1)と表現しておられます。フィリポは二百デナリオン分のパンでは足りないと常識的な答えをしています。イエス様は問題解決の困難さに直面しても諦(あきら)めてはならないことを教えられたのです。「神様の御心」を具体化するためには感謝の祈りが不可欠です。先ず、神様にお祈りをされたのです。模範(もはん)を示されたのです。「神の国」の福音は言葉ではなく「行い」によって結実するのです。不可能に見えることも、それぞれが一歩踏み出せば神様が実現して下さるのです。持っている人は持たない人に分け与えるのです。パン五つと魚二匹-は多寡(たか)の問題ではないのです。信仰を問うておられるのです。恵みを受けた人々に「神の国」の建設に参画することを促(うなが)しておられるのです。

*イスラエルにおいては信仰と政治が一体となっているのです。神殿政治が行われているのです。神様との間を執(と)り成す祭司たちが「神様の権威」によって民衆を抑圧しているのです。民衆に神様の恵みや憐れみ-罪の赦しなど-を人間の側の負債として認識させているのです。債権者は負債の返済を求めるのです。人々から神様への捧げ物あるいは祭司たちへの献品(献金)として回収するのです。指導者たちは「負債の論理」によって民衆を精神的に支配しただけでなく、経済的にも搾取(さくしゅ)したのです。イエス様が群衆の心を引き付けたのは神様と人間との間が債務の関係ではなく、神様からの一方的な贈り物であることを宣言されたからです。律法によれば「産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合は、二羽の山鳩または二羽の家鳩を携えて行き、一羽を焼き尽くす献げ物とし、もう一羽を贖罪の献げ物とすること」によって清められるのです(レビ記12:8)。神様は人間を愛しておられるのです。イエス様は「神様の御心」を再確認されるのです。旧約聖書を引用して「どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい」(申命記15:7-8)、「貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない」(出エジプト記22:25)と言われるのです。こうした聖書の個所が恣意的(しいてき)読み飛ばされているのです。「御言葉」に堅く立つのです。

*新しい道に生きるキリストの信徒たちは神様を全身全霊で愛するのです。最も重要な二つの戒めを実践するのです(マルコ12:29-31)。貧しい人々や虐(しいた)げられた人々の窮状に無関心であることは罪なのです。これほど大きな人々の集まりはイエス様だけでなく参加者たちを危険に晒(さら)しているのです。許可を得ていない集会はローマ皇帝への反逆を疑われたのです。首謀者や参加者たちは厳しく罰せられたのです。最も残酷な十字架刑に処せられたのです。イエス様は生命を賭(と)して「食べ物の提供」を行われたのです。福音書記者ヨハネは参加者たちが「人々」ではなく「男たち」であることを強調しているのです。集会が「政治的」であったことを十分に推測させるのです。およそ5千人の男性からなる集団は6千人の兵士で構成するローマ軍の一個連隊に匹敵(ひってき)するのです。男たちはイエス様の中に神様が遣わされた約束の預言者としての「力」を認めたのです。自分たちの「王」として頂きローマの圧政と闘おうとしたのです。ただ、マルコによる福音書には「それ(食べ物の提供)からすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた」と記されています。ヘロデ・アンティパスの弾圧を避けるために群衆をそれぞれの地に帰らされたのです。イエス様は社会の底辺で苦しんでいる民衆と共に歩まれたのです。ご自身を誤解している人々もいるのです。忍耐を持って導いておられるのです。憐れみ深い神様がイエス様を通して働いておられるのです

*母マリアはイエス様を胎内に宿している時、神様に賛美の歌を捧げて「その憐れみは代々に限りなく、/主を畏(おそ)れる者(たち)に及びます。・・権力ある者(たち)をその座から引き降ろし、/身分の低い者(たち)を高く上げ、飢えた人(たち)を良い物で満たし、/富める者(たち)を空腹のまま追い返されます」と言っています(ルカ1:50-53)。神様は貧しい人々や虐げられた人々を大切にされるのです。これらの人のために律法には様々な規定が設けられています。イエス様は「神様の御心」を実現するためにこの世に遣わされたのです。これまでの考え方と「新しい道」の違いを示すためにフィリポに五千人に食べ物を与えるための必要な経費を尋(たず)ねられたのです。これを聞いたアンデレは即座に「不可能です」と答えたのです。イエス様は彼らに発想の転換を求められたのです。問題の解決にとって「隣人愛」が不可欠であることを示されたのです。「食べ物の提供」はキリストの信徒たちへの教訓となったのです。初代教会に属している人々は後にクリスチャンと呼ばれるのです(1ペトロ4:16)。イエス様の御跡を忠実に辿(たど)るのです。新しく造られた者としてイエス様の教えを語るだけでなく、それを実行したのです。お互いを兄弟姉妹と呼び、愛と尊敬を持って交際したのです。社会生活や経済活動においても利己主義や貪欲から距離を置いたのです。生き方を通してキリスト信仰を証したのです。キリスト信仰が誤解されているのです。知識に留まっていることも少なくないのです。「行い」の重要性を学ぶのです。

2026年07月05日

「最後の審判」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書25章31節から46節

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊(たち)と山羊(たち)を分けるように、彼らをより分け、羊(たち)を右に、山羊(たち)を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たち(あなたがた)のために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たち(あなたがた)は、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者(たち)の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たち(あなたがた)は、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。これらの最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者ども(これらの人々)は永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

(注)


・人の子:この場合は審判者です。預言者ダニエルがそのイメージを表現しています。


■夜の幻をなお見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」(神様)の前に来て、そのもとに進み 権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。(ダニエル書7:13-14)


・神の国:天の国とも呼ばれています。誤解されているような「天国」のことではないのです。神様の主権、神様の支配を表す言葉です。


・正義と公平:

■主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人(抑圧された人々)に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人(た人々)には自由を/つながれている(人たち)には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫(かし)の木と呼ばれる。彼らはとこしえの廃虚を建て直し/古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。(イザヤ書61:1-4)

■主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者(強奪されている人々)を虐げる者(抑圧者たち)の手から救え。寄留の外国人(たち)、孤児(たち)、寡婦(たち)を苦しめ(暴力を振るって)、虐げてはならない。またこの地で、無実(の人)の血を流してはならない。(エレミヤ書22:3)

■わたしは失われたもの(たち)を尋ね求め、追われたもの(たち)を連れ戻し、傷ついたもの(たち)を包み、弱ったもの(たち)を強くする。しかし、肥えたもの(たち)と強いもの(たち)を滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。お前たち(あなたがた)、わたしの群れよ。主なる神はこう言われる。わたしは羊(たち)と羊(たち)、雄羊(たち)と雄山羊(たち)との間を裁く。お前たち(あなたがた)は良い牧草地で養われていながら、牧草の残りを足で踏み荒らし、自分たちは澄んだ水を飲みながら、残りを足でかき回すことは、小さいことだろうか。わたしの群れは、お前たち(あなたがた)が足で踏み荒らした草を食べ、足でかき回した水を飲んでいる。それゆえ、主なる神は彼らにこう言われる。わたし自身が、肥えた羊(たち)とやせた羊(たち)の間を裁く。お前たち(あなたがた)は、脇腹と肩ですべての弱いものを押しのけ、角で突き飛ばし、ついには外へ追いやった。しかし、わたしはわが群れを救い、二度と略奪にさらされないようにする。そして、羊(たち)と羊(たち)との間を裁く。(エゼキエル書34:16-22)。

・ノアの洪水:洪水になる前は人々は食べたたり飲んだりしていました、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気が付かなかったのです。創世記6章-8章をお読み下さい。

・最も重要な掟:

■イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、 聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」 (マルコ12:29-3
1)

・ファリサイ派:ユダヤ教の一派です。彼らは律法(言い伝え)を生活のすべてにおいて厳格に適用したのです。


・サドカイ派:政治的な影響力を行使した祭司グループの一つです。ファリサイ派とは対立していましたが、共通の敵であるイエス様には結束して対応したのです。


・神の義:「義」は神様と人間との正しい関係(主に倫理的な関係)を表す言葉として用いられることが多いのです。しかし、元々の言葉(ギリシャ語)には「正義」という意味があるのです。神様は人間に「正義の実行」を求めておられるのです。(創世記18:19)


・百人隊長:100人のローマ兵を指揮、監督していました。


・アブラハム、イサク、ヤコブ:ユダヤ人たちの父祖です。神様はモーセを召命する時にこのお言葉を用いられたのです。


■神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆(おお)った。(出エジプト記3:6)


・御国の子(たち):ユダヤ人たち、あるいはファリサイ派の人々や律法学者たちのことです。


●律法学者は文書を司(つかさど)る官僚です。律法などに精通する学者でもありました。


・陰府(よみ):当初、すべての死者が住む暗闇の世界を表していました(イザヤ書38:10)。後に「神様の御心」に背いて永遠の罰を受けた人々が死後に滞在する場所となったのです。


ユニセフ:国際連合児童基金のことです。世界の子どもたちの状況などについて言及しています。


●世界が激しく揺れ動く今、子どもたちの栄養状況が悪化の兆しを見せていま5歳未満児の4人に1人は満足に食べることができず、1200万人以上が重度の急性栄養不良で命の危機に直面しています。そうした子どもたちに追い打ちをかけるかのように、国際社会からの援助資金が大きく減ったことで、支援の現場では物資や人材不足が深刻化しています。(2026年5月)

(メッセージの要旨)

*「最後の審判」の様子が描かれています。イエス様の裁きにおける判断基準が簡潔に明示されているのです。復活されたイエス様は40日にわたって使徒たちに「神の国」について話をされました。そして、彼らが見ている前で天に上げられたのです。その時、白い服を着た二人の人がそばに立って「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」と言ったのです(使徒1:11)。2000年を経過した今日においてもイエス様の再臨(「この世」の終わり)は来ていないのです。その時期については父なる神様がご自身の権威によって決定されるのです。再臨は「ノアの洪水」のように思いがけない時にやって来るのです(マタイ24:36―37)。イエス様はガリラヤ地方の町や村を残らず回って会堂で教え、悔い改めて福音を信じるように勧められたのです。また、飼い主のいない羊たちのように弱り果てている群衆を見て憤(いきどお)り、ご自身の「力ある業」によってありとあらゆる病気や患いを癒されたのです。「収穫は多いが、働き手が少ない」と言われたのです。使徒十二人を選び「失われた羊たち」のところへ派遣されたのです(マタイ9:35-10:15)。弟子たちには最も重要な二つの掟(おきて)-神様と隣人を愛すること-を実行するように命じられたのです(ルカ10:25-37)。キリストの信徒たちは目を覚ましてその日に備えるのです。それぞれの責務を誠実に遂行(すいこう)するのです。

*神様はイエス様の先駆けとして洗礼者ヨハネを遣わされたのです。イエス様の宣教の意味を前もって明らかにされたのです。ヨハネはユダヤの荒れ野で「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って宣教していたのです。ファリサイ派の人々やサドカイ派の人々が大勢洗礼を受けに来たのを見て「蝮(まむし)の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると,だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」と警告したのです(マタイ3:1-8)。一方、エルサレムとユダヤの全土、ヨルダン川沿いの地方から来た群衆は罪を告白し「わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねたのです。「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と「隣人愛」の重要性を説いたのです。徴税人たちも洗礼を受けるために来て同様の質問をしたのです。「規定以上のものは取り立てるな」、そして兵士たちの問いに「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と答えて不正を戒めたのです(ルカ3:1-9)。イエス様はヨハネが逮捕された後「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣教を開始されたのです。イエス様はヨハネと同一の視点に立たれたのです。イエス様は金持ちに貧しい人々に財産を施しなさい。そして、わたしに従いなさい」と命じられたのです(マルコ 10:21)。弟子たちには「物欲を克服し、相互に債権を放棄し、共に生きる力を与えて下さい」と祈るように教えられたのです(ルカ11:4)。「行い」によって「信仰」が証明されるのです。

*「神の国」の到来はキリスト信仰の中心メッセージです。イエス様から権能を与えられた十二人は福音を宣べ伝えたのです。ただで病人たちを癒し、死者たちを生き返らせ、重い皮膚病を患っている人々を清くし、悪霊たちを追い払ったのです。「信仰によって救われる」とは信じることによって「永遠の命」が得られることではないのです。イエス様は「先ず、神の国と神の義(正義)を求めなさい」と言われたのです(マタイ6:33)。しかし、キリスト信仰が「罪からの救い」の手段として限定的に理解されているのです。信仰の「根本理念」が忘れられているのです。往々にして、正義とか平和は政治的なニュアンスが強い考え方(思想)であるとして意図的に避けられているのです。しかし、これこそ「信仰の名」によって現状を無批判的に肯定する政治姿勢に他ならないのです。旧・新約聖書が伝える神様は正義を大切にし、平和を愛されるお方なのです。イエス様が生と死と復活を通して語られた「神の国」はすべての分野に届けられているのです。政治・経済・社会における秩序の変革として結実するのです。「悔い改めなさい」は福音を自分たちの都合に合わせて歪曲(わいきょく)している人々への警鐘なのです。信仰の有無は「神様の御心」を実現する善い行いによって明らかになるのです。「行い」を伴わない信仰はそれだけでは死んでいるのです(ヤコブ書2:14-17)。キリスト信仰とはイエス様に倣(なら)う生き方のことです。キリスト信仰を標榜(ひょうぼう)する人はイエス様が歩まれた苦難の道を全力で辿(たど)るのです。


*御国の子、キリストの信徒であることが「永遠の命」の保証にはならないのです。ユダヤ人のために会堂を建てた異邦人の百人隊長がいました。中風でひどく苦しんでいる僕(奴隷)の癒しを願い出たのです。イエス様は「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われました。ところが「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。わたしの僕はいやされます」と答えたのです。イエス様は「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される」と言われたのです。ちょうどそのとき、僕の病気はいやされたのです(マタイ8:5-13)。また、ある金持ちがぜいたくに遊び暮らしていました。門前にラザロという貧しい人が横たわり、空腹に耐えて日々を過ごしていたのです。やがて、貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのそばに連れて行かれました。金持ちも死んで葬られたのです。金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとラザロとがはるかかなたに見えたのです。「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。炎の中でもだえ苦しんでいます」と訴えたのです。アブラハムは「お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」と断罪したのです(ルカ16:19-31)。


*イエス様は「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」と言われました(ヨハネ5:21-24)。イエス様はすべての国の民(異邦人たち)を裁かれるのです。再び地上に来られる時に実行されるのです。人々の「救い」と「滅び」を分ける判断の基準は明白です。「信仰」があるかどうかではないのです。「信仰」に「行い」が伴っているかどうかなのです。「最も小さい者たち」とは何らかの困難な状況に置かれている人々のことです。これらの人に関心を持っているキリストの信徒は必ずしも多くないのです。その事実を「罪」として認識する人はさらに少ないのです。貧しい人々や虐げられた人々と共に歩まなければ「救い」は訪れないのです。世界の各地に貧困の故に飢えや渇きに苦しんでいる人々、迫害によって住むところを追われた人々、病気になっても十分な医療を受けられずに死を早めている人々、正義のために闘って投獄されている人々がいるのです。ユニセフが悲惨な現状とスタッフの苦悩を報告しています。これらの人に目を向けない生き方は「神様の御心」に反しているのです。「永遠の命」は安価な恵みではないことを真剣に心に刻むのです。

2026年06月28日

「視点の変更」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書14章7節から24節

イエスは、招待を受けた客(たち)が(何とかして)上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなた(がた)よりも身分の高い人が招かれており、あなた(がた)やその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなた(がた)は恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなた(がた)を招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人(たち)も、兄弟(たち)も、親類(たち)も、近所の金持ち(たち)も呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人(人々)、体の不自由な人(人々)、足の不自由な人(人々)、目の見えない人(人々)を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕(奴隷)を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。 僕(奴隷)は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕(奴隷)に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人(人々)、体の不自由な人(人々)、目の見えない人(人々)、足の不自由な人(人々)をここに連れて来なさい。』やがて、僕(奴隷)が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」

(注)

・イエス様はファリサイ派の議員から食事の招待を受けていました。その日は安息日でした。しかし、水腫を患っている人を癒されたのです(ルカ14:1-6)。今日の聖書の個所はその続きです。

・ファリサイ派:律法を厳格に守っていました。しかし、イエス様はこの派に属する人々の不信仰を厳しく非難されたのです。

■実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。ただ、器の中にある(様々な)物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ(に災いあれ)。薄荷(はっか)や芸香(うんこう)やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ(に災い荒れ)。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ。あなたたちは不幸だ(に災いあれ)。人目につかない(印のない)墓のようなものである。その上を歩く人(人々)は気づかない。(ルカ11:37-39)

●薄荷や芸香:はっかはしそ科の植物で香りがあり、うんこうはミカン科の植物で虫よけの効果があります。あらゆる野菜とはハーブ類のことです。献金の対象である農産物から除外されていました。ところが、ファリサイ派の人々は信仰心を誇るために敢(あ)えてこれら奉げたのです。

●人目につかない墓:人は知らないうちにファリサイ派の人々の影響を受けて汚れているのです。レビ記21:11を参照して下さい。

・神の国(天の国):誤解されているような死後に行く「天国」のことではないのです。天上と地上における「神様の支配」あるいは「神様の主権」を表す言葉です。神様が人間の心と社会の隅々において崇められ、すべてにおいて価値基準となることです。ここに属する人々は神様と隣人を愛し、正義と平和を実現するのです。

・神の国で食事をする:ユダヤ人の間では一般的に「救い」がイメージされているのです。

・町の広場や路地:「神の国」から排斥された人々が多く見られるのです。

・通りや小道:イスラエルの「外」のことです。ここには異邦人が住んでいるのです。

(メッセージの要旨)

*「神様の御心」は社会から排斥(はいせき)され、蔑視(べっし)されている貧しい人々や心身に障害のある人々をご自身の下に優先的に招くことにあるのです。イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って宣教を開始されたのです(マルコ1:14-15)。たとえ話によってファリサイ派の人たちに「悔い改め」を促(うなが)しておられるのです。イエス様はこれまでもファリサイ派の人と食事を共にしておられるのです(ルカ7:36-50、11:37-54)。今回、社会的に影響力のある議員がイエス様を招いているのです。この人がイエス様を貶(おとし)めるために策を弄(ろう)しているのか、イエス様の教えを純粋に聞こうとしているのかは分からないのです。しかし、イエス様はこのような機会を大切にし、具体的事実に言及して「神の国」の本質を明らかにされたのです。かつて洗礼者ヨハネは牢の中でイエス様のなさったことを聞いて弟子たちを送り「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねさせたのです。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人(人々)は見え、足の不自由な人(人々)は歩き、重い皮膚病を患っている人(人々)は清くなり、耳の聞こえない人(人々)は聞こえ、死者(たち)は生き返り、貧しい人(人々)は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」と答えられたのです(マタイ11:2-6)。キリストの信徒たちの理解にも「視点の変更」が求められているのです。

*「神の国」の到来はファリサイ派と呼ばれている人々に根本的な考え方の変更を迫るのです。これらの人は律法を厳格に守ることによって「救い」が得られると信じているのです。しかし、実際は偽善者なのです。この世の地位と権力に執着(しゅうちゃく)して正義と公平を歪(ゆが)め、自分の誉れのために信仰心を装(よそお)い、婚宴の席では上席に着こうとしているのです。神様はすべてをご存じです。この世の評価は通用しないのです。人間が尊ぶもの―名声や富など―を忌(い)み嫌われるのです(ルカ16:15)。偽善者たちは当然ですが、尊大に振舞う人々も「神の国」に相応しくないのです。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められるのです。心を入れ替えて子供のようにならなければ-社会の底辺で喘(あえ)いでいる人々の側に立たなければ-「神の国」に入ることは出来ないのです(マタイ18:1―5)。ファリサイ派の人々はこれまで友人、兄弟、親類、近所の金持ちたちとは親しく交際をしていたのです。しかし、指導者たちの視野には貧しい人々、心身に障害のある人々、目の見えない人々が入っていないのです。律法を知らない罪人として蔑(さげす)んでいたからです(ヨハネ7:49)。イエス様は「神の国」の本質について説明されたのです。福音(良い知らせ)は罪人と呼ばれている人々に優先的に届けられているのです。この事実にキリスト信仰における根本理念が反映されているのです。キリストの信徒たちも与えられた責務を果たすのです。イエス様の視点に立って「神様の御心」を実現するのです。

*ファリサイ派の人々は律法主義に固執するのです。結果、偽善に陥(おち)っているのです。これらの人こそ医者(救い主)を必要とする病人(罪人)なのです(マルコ2:17)。この世の基準で自分を高く評価しても無意味なのです。イエス様が神様から委(ゆだ)ねられた裁きの権限を執行されるからです(ヨハネ5:22)。傲慢(ごうまん)な態度がその人の「救い」を妨げているのです。「神の国」の福音に与(あずか)るためには最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実践することが必須の要件です。ファリサイ派の議員の中にはイエス様を信じる人も少なくなかったのです。しかし、イエス様への信仰を公にすれば会堂(信仰共同体)から追放されること-生活手段を奪われること-は必至なのです。社会的地位の高い人々が「神の国」の福音に生きることは簡単ではないのです。失うものが余りにも多いからです。そのような状況にあっても信仰を証しした人々がいたのです。律法に基づいてイエス様を弁護したファリサイ派の議員ニコデモ(ヨハネ7:45-52)と「神の国」を待ち望みイエス様のご遺体を埋葬(まいそう)した身分の高い議員アリマタヤのヨセフです(マルコ15:43-46)。もう一人挙げるとすればイエス様から「あなたは神の国から遠くない」と言われた律法学者です(マルコ12:28-34)。キリスト信仰は断じて安価な恵みではないのです。信仰のみによって「永遠の命」を得ることは出来ないのです。信仰を貫くために様々な犠牲が伴うのです。何かを捨てる覚悟のある人々が「救い」に与るのです。

*イエス様は一般民衆に焦点を当ててもう一つのたとえ話をされたのです。「神の国」に招かれた人々が「畑を買ったので、見に行かねばなりません」、「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです」、「妻を迎えたばかりなので、行くことができません」と言って招待を断ったのです。いずれも戦争への招集が免除される理由なのです(申命記20:5-8)。「神の国」よりもこの世を選んだ事実に変わりはないのです。これらの人に代わって貧しい人々、体の不自由な人々、目の見えない人々、足の不自由な人々が招かれることになったのです。社会から罪人として排斥された人々が「救い」に与るのです。しかも、「神様の恵み」は異邦人たちにも及ぶことになったのです。ただ、最初に招待された人々が後に「神の国」において食事を味わうことはなかったのです。福音の拒否が深刻な結末に至ることを警告しておられるのです。イエス様は「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」と言われました(マタイ7:13-14)。「神の国」の福音は高価な恵みなのです。キリストの信徒たちにそれに相応する生き方を求めるのです。簡単なことではないのです。食べたり飲んだりしたこと、教えを学んだことが「救いの保証」にはならないのです(ルカ13:22-30)。キリスト信仰とはイエス様の都跡を辿(たど)ることです。「永遠の命」はそれぞれの行いへの報酬(ほうしゅう)なのです。

*キリスト信仰が誤解されているのです。福音が「罪からの救い」に縮小されているのです。「神の国」はいずれ人間の「全的な救い」として完成するのです。キリストの信徒たちは「神様の御心」を「善い行い」によって証しするのです。イエス様は貧しい人々、体の不自由な人々、足の不自由な人々、目の見えない人々のために心を砕(くだ)かれたのです。援助を必要とする人々に無関心でいることは出来ないのです。イエス様に倣(なら)って社会の底辺で抑圧と貧しさに苦しんでいる人々と共に歩むのです。ファリサイ派の議員や同席の人々は信仰心の篤(あつ)さを誇っているのです。ところが、「神の国」に招かれるための要件はもっと厳しいのです。ある金持ちの議員は財産を売って貧しい人々に施さなかったために「神の国」に入れなかったのです(ルカ18:18-30)。一般のユダヤ人たちもこの世に心を奪われていれば「神の国」に招かれないのです。その人の生き方が「神様の御心」に適(かな)っていたかどうかが決定的に重要なのです。自己評価は「救い」にとって何の役にも立たないのです。終わりの日(最後の審判の日)に、イエス様は御子の権威に基づいて「あなたは最も小さい人々-貧しい人々や虐げられた人々-のために何をしたか」と尋ねられるのです(マタイ25:31-40)。「救い」の判断基準を事前に示されたのです。「行い」を伴わない信仰はそれだけでは死んだものなのです(ヤコブ書2:17)。キリストの信徒たちは正義の実行と神様への愛を全身全霊で具体化するのです。イエス様に審判をお委ねするのです。

2026年06月21日

「逆 転」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書20章1節から16節


「天の国(神の国)は次のようにたとえられる。ある家の主人(土地所有者)が、ぶどう園で働く労働者(たち)を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で(に合意した)、労働者(たち)をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中(労働者たち)は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中(彼ら)とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように(その結果)、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

(注)


・天の国:神の国とも言います。誤解されているような死後に行く「天国」のことではないのです。「神様の支配」あるいは「神様の主権」を表す言葉です。福音(良い知らせ)とは神様がこの世を終わらせて「新しい天地」を創造されることです。イエス様は教えと力ある業によって神様のご計画の一部を前もって証しされたのです。天の国はイエス様が再び来られる時-再臨-において完全なものになるのです。
・聖書を正しく理解するためには当時の社会・政治・経済状況を常に念頭に置くことが必要です。キリスト信仰の根本原理の一つに正義と公平の実現があるのです。

・神様の正義と愛

■わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。(創世記18:19)

■あなたたちは、不正な物差し、秤、升を用いてはならない。正しい天秤、正しい重り、正しい升、正しい容器を用いなさい。わたしは、あなたたちをエジプトの国から導き出したあなたたちの神、主である。わたしのすべての掟、すべての法を守り、それを行いなさい。わたしは主である。(レビ記19:35-37)

■寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなた(たち)が彼(ら)を苦しめ、彼(ら)がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる。もし、あなた(たち)がわたしの民、あなた(たち)と共にいる貧しい者(たち)に金を貸す場合は、彼(ら)に対して高利貸しのようになってはならない。彼(ら)から利子を取ってはならない。もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。(出エジプト記22:20-26)

・労働者たち:元々、多くは農民だったのです。借金を返済できずに担保の土地を失い労働者となった人々です。高利貸しには祭司たちもいたのです。彼らは毎日早朝から仕事を求めて「一定の場所」で雇い主たちが来るのを待ったのです。

・1デナリオン:ローマ帝国内に流通する銀貨です。当時の平均的労働者の1日分の賃金に相当します。

・友よ:親しい友達のように訳されていますが、実際には情愛のこもった言い方ではないのです。元々は仲間のような少し距離を置いたニュアンスの言葉です。イエス様がご自身を逮捕するために群衆(ローマ兵を含む)と共にやって来たイスカリオテのユダに対して用いられた言葉使いと同じです。マタイ26:50を参照して下さい。

・後にいる者が先になり、・・:「天の国」においてはこの世の評価基準が逆転するのです。

■心の貧しい(圧政に心を砕かれた)人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。・・義(正義)のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。(マタイ5:3、10)。

■イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた(神様に委ねた)者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(マルコ10:29-31)

■しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。(ルカ6:24-26)

■さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。(ヨハネ13:12-15)

(メッセージの要旨)

*イエス様に従った人の多くは貧しい農民でした。教育を受ける機会にも恵まれなかったのです、誰もが福音を理解出来るようにたとえ話をされたのです。伝統的な解釈によると家の主人は神様、最初に雇われた労働者はユダヤ人、その後順次採用された人はキリストの信徒です。神様は最初に召し出したユダヤ人たちの「特権意識」を戒められたのです。神様の恵みはすべての人に及ぶのです。これがたとえ話の一つの側面です。別の観点にも注目するのです。生産手段(土地)を失った農民たちが生きて行くために必死で仕事を求めているのです。仕事に就いても過酷な労働を強いられ、屈辱的な扱いを受けているのです。たとえ話を聞いている人々は自分たちの姿と重ね合わせたのです。生活困窮の根本原因がどこにあるかを知ったのです。主人は何度も労働者たちを雇って自分のぶどう園に送っていることから大農園主です。雇った労働者たちに労働時間に関係なく1デナリオンを支払ったのです。ぶどう園主は表面上公平に見える方法によって貧しい労働者たちを分断しているのです。不当に搾取していることを巧妙に隠蔽しているのです。福音が「神様の愛と憐れみ」の視点から語られることが多いのです。一方、神様は「あなた(がた)は隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇人の労賃の支払いを(自分の都合で)翌朝までのばしてはならない」と言われたのです(レビ記19:13)。労働は正当に評価され、賃金は時間に応じて支払わなければならないのです。イエス様は労働者たちの抗議を支持し、ぶどう園主の偽善を非難されたのです。

*イエス様の教えを理解するためにはたとえ話の前後を併せて読むことが不可欠です。直前にイエス様と金持ちの青年とのやり取りが記されています。金持ちは「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい」という戒めを厳格に守って来たのです。しかし、「永遠の命」の確信が得られないのです。イエス様に「何をすればいいのでしょうか」と尋ねたのです。「あなたの信仰はすでに立派だ」とは褒(ほ)められなかったのです。「持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。それから、わたしに従いなさい」と命じられたのです。青年は悲しみながら立ち去ったのです。イエス様は弟子たちに「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われたのです。直後には使徒ヤコブとヨハネの母がイエス様に「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」と願い出たのです。他の使徒はこれを聞いて腹を立てたのです。イエス様は「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」と言われたのです。富に執着する人、尊大な人は「天の国」に入れないのです。

*自然には引力の法則があるように、経済活動にも法則があるのです。土地や財産を持っている人々は、何も持たない人々よりも社会関係において優位に立っているのです。イエス様はたとえ話を通して両者の関係を明確にされたのです。「家の主人」はぶどう園で働く労働者たちを雇うために広場とぶどう園を何度も行き来しています。たくさんのぶどう園を所有していたからです。この人は大土地所有者であり、大変なお金持ちなのです。家族的な雰囲気を醸(かも)し出すような「家の主人」という日本語訳は農園主が強欲な地主であることを曖昧(あいまい)にしているのです。雇い主は広場で必至に仕事を求める労働者たちの中から、一日一デナリオンの賃金に納得した人々だけをぶどう園に送っているのです。「納得した」という表現は正確ではないのです。実際は労働者たちの希望は無視され、雇う側の圧倒的な優位の下で交渉が行われているのです。単身の男性は労働で得た一デナリオンの賃金を生活費に充当(じゅうとう)するのです。家族のある労働者が生計費を満たせないような賃金は経済的な暴力なのです。雇い主が低賃金を労働者たちに強いることは「神様の御心」に反しているのです。労働者は不当な賃金で働かないのです。しかし、他に選択肢がなければ提示された賃金を許容するのです。雇い主は労働者たちの弱点を熟知しているのです。自分の利益を最大限に追求するのです。その上で善意を装(よそお)っているのです。偽善が労働者の間に分裂をもたらしているのです。過酷な労働と極度の低賃金が生命と暮らしを破壊しているのです。

*最初の労働者たちはまる一日、暑い中を辛抱して働いたのです。雇い主はずっと少ない時間しか働かなかった労働者たちにも同じ賃金を支払ったのです。雇い主が愛に満ちた公平な人物であるかのように見えるのです。「同一労働同一賃金」の原則からすれば表面上の平等は不平等となるのです。夕方の五時から一時間働いた労働者の賃金が一デナリオンであれば、逆算して正午から働いた労働者に六デナリオン、早朝(午前六時)から働いた労働者には十二デナリオンを支払うことが当然なのです。雇い主は気前の良さを自慢しています。それは見せかけです。自分の貪欲さを隠すための手段なのです。そのことが愛のない言葉に如実に表れているのです。労働者たちの窮状(きゅうじょう)を承知の上で「あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか」と相手を責めているのです。雇い主が「神様の御心」に沿った人であるなら、自分の利益を減らしてでも労働者たちの賃金を労働時間に応じて支払うのです。時間ごとに労働者たちを雇うことなど断じてしないのです。早朝に一括して必要な労働者を雇い、すべてのぶどう園に送るのです。労働者たちから非難された雇い主が論点をすり替えて反論しているのです。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか」と言うのです。中には雇い主の主張に同意する人もいるのです。巧妙に搾取を隠ぺいする論法なのです。神様がアブラハムに命じられたように、キリストの信徒たちも正義と公平の実現にもっと関与するのです。

*農園主は労働者たちを経済力によって支配しているのです。広場に集まっている労働者たちに「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と尋ねているのです。仕事を求めていることを知りながら、侮蔑(ぶべつ)的な質問をしているのです。失業の原因が怠惰(たいだ)であるかのように労働者たちに罪悪感を植え付けているのです。雇い主や金持ちたちの貪欲に気づかせないように精神的に抑圧しているのです。キリストの信徒たちも経済法則に無関心であってはならないのです。イエス様も「何よりもまず、神の国(神様の主権)と神の義(神様の正義)を求めなさい」と命じられました(マタイ6:33)。農園主の言動は愛と慈(いつく)しみに満ちた「神様の御心」に合致しないのです。見せかけの善意によって自分の利益を最大限に追求しているだけなのです。低賃金の原因があたかも労働者たちにあるかのように錯覚(さっかく)させているのです。形式的な平等によって不平等を助長し、労働者たちが団結することを意図的に阻止しているのです。しかも、労働者たちの「不当な要求」が自分の善意の妨げになっていると言うのです。農園主の罪は真に大きいのです。イエス様は一貫して貧しい人々や虐げられた人々と共に歩まれたのです。たとえはなしにおいて雇い主の搾取と抑圧を非難しておられるのです。労働者たちは臆(おく)することなく、不当な賃金や不平等な扱いに抗議するのです。イエス様はこれらの人に「神の国」を約束されたのです(ルカ6:20)。終わりの日に「正しい裁き」が行われ、それぞれの地位が逆転するのです。

2026年06月14日
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