ブログ

洗礼者ヨハネが捕らえられた後、イエス様はガリラヤ地方へ行き、福音(良い知らせ)を宣べ伝えて「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたのです(マルコ1:14-15)。イエス様は復活された後も、使徒たちに「神の国」について話されたのです(使徒1:3)。キリスト信仰の中心メッセージは「神の国」-神様の支配-にあるのです。

ブログ一覧

「神様が報いて下さる」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書6章1節から18節

「見てもらおうとして、人(人々)の前で善行をしない(敬虔さを表さない)ように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなた(がた)は施しをするときには、偽善者たちが人(人々)からほめられようと会堂や街角でするように、自分(たち)の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなた(がた)の施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなた(がた)に報いてくださる。」

「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人(人々)に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなた(がた)が祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなた(がた)の父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなた(がた)の父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人(たち)のようにくどくどと述べてはならない。異邦人(たち)は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧(かて)を今日与えてください。わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』もし人(人々)の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがた(の過ち)をお赦しになる。しかし、もし人(人々)を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

「断食するときには、あなたがたは偽善者(たち)のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者(たち)は、断食しているのを人(人々)に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなた(がた)は、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなた(がた)の断食が人(人々)に気づかれず、隠れたところにおられるあなた(がた)の父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなた(がた)の父が報いてくださる。」

(注)

・最も重要な戒め:第一は「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなた(がた)は心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなた(がた)の神、主を愛しなさい」(申命記6:4-5)、第二は「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」です(レビ記19:18)。イエス様もこれら二つを最も重要な戒めとされたのです(マルコ12:29-31)。

・施し:安息日にユダヤ教の会堂で施しや慈善寄付が行われていました。

・偽善者たち:律法学者たちやファリサイ派の人々を指しています。彼らの悪行はマタイ23章に詳述されています。

・祈り:ユダヤ人の成人男性はエルサレムに向かって毎日三回午前、午後、夕方に行います。食前と食後にも立ったまま、あるいは頭(こうべ)を垂れて祈ります。

・過ち:律法や慣習に違反することです。個人的(道徳的、倫理的)な観点から説明されることが多いのですが、返済期限を守らないことや返済不能なども含まれています。これらは社会的な要因が大きいのです。イエス様はローマ帝国の圧政に苦しんでいる貧しいユダヤ人キリスト者たちに「主の祈り」を教えられたのです。マタイ18:21-35を参照して下さい。

・断食:肉体に苦痛を課して自己を否定することです。食べ物や飲み物など体に必要なものを摂取しないだけでなく、体を清潔に保つことや楽しませたりすることも断つのです。レビ記16:29-31をご一読下さい。

(メッセージの要旨)

*「施し」、「祈り」、「断食」の戒めを遵守することはユダヤ教の重要な教えでした。イエス様は弟子たちにもそれらの実践を求められたのです。「神様の御心」に合致した行いは篤い信仰心や敬虔さの表れです。しかし、人は往々にしてそれを通して自分を喜ばせようとするのです。神様に栄光を帰すためではなく、自分を誇っているのです。偽りの信仰に堕(だ)しているのです。神様は心の奥底を見られるのです。イエス様も信仰を自負するファリサイ派の人々に「あなたたちは人(人々)に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるもの(富、地位、名誉など)は、神には忌み嫌われるものだ」と言われました(ルカ16:15)。偽善者と真のキリストの信徒の違いを明確にされたのです。「神様の御心」を実践する人は人間の賞賛を求めないのです。神様が報いて下さることを知っているからです。施しをするときは会堂や街角でしないこと、会堂や大通りの角に立って祈らないこと、沈んだ顔つきをして断食しないことは偽善に陥らないための警鐘なのです。イエス様は直前に「・・あなたがたの義(正義)が律法学者やファリサイ派の人々の義(正義)にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と言われたのです(マタイ5:20)。高慢と不正は大きな罪です。「死に至る病」なのです。それらは神様を欺いているからです。神様はそのような信仰を拒否されるのです。「主の祈り」は真に的を射ているのです。神様に日々「わたしたちを誘惑から守って下さい」と祈るのです。

*「施し」をすることはユダヤ人たちの義務なのです。モーセは「三年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、あなた(がた)のうちに嗣業(しぎょう)の割り当てのないレビ人や、町の中にいる寄留者、孤児、寡婦(か)がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。そうすれば、あなた(がた)の行うすべての手の業について、あなた(がた)の神、主はあなた(がた)を祝福するであろう」と言っているからです(申命記14:28-29)。神様は戒めを守る人々に報いて下さるのです。イエス様も隣人愛-貧しい人々や虐げられた人々への支援-を最も重要な戒めとされたのです。「祈り」は神様との直接対話です。誠実さが不可欠です。イエス様は「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と言われるのです。神様は祈る前から願いの内容を知っておられるのです。先ず「神様と隣人」について祈ることを教えられたのです。「主の祈り」は短い文章です。しかし、キリスト信仰の本質を要約しているのです。「わたしたちの」、「わたしたちを」、「わたしたちが」のように複数形が用いられているのです。「個人的な祈り」ではないのです。神様が「あなたたちは聖なるわたしの名を汚してはならない。・・わたしは・・エジプトの国からあなたたちを導き出した者である」と言われたことを起させるのです(レビ記22:32-33)。信仰共同体の一員であることを自覚し、同胞の苦難を担うことを命じられたのです。イエス様の教えは旧約聖書と律法に基づいているのです。

*「御名が崇められますように」は神様が軽んじられていることを表しています。当時、ローマ帝国がイスラエルを支配していました。皇帝は「救い主」(解放者)という称号で呼ばれていました。ユダヤ人たちにもローマ皇帝の名前を崇めることが強制されたのです。このような政治状況にあって、イエス様のお言葉は極めて過激です。「神様、地上の権力者(支配者)を裁いてご自身の御力と正義をお示し下さい」と解釈出来るからです。「御国が来ますように。御心が行われますように・・」も、文脈において「御名が崇められますように」と同じです。非情で不正に満ちた皇帝の支配が打ち砕かれて「神様の正義」が地上の隅々に及ぶことを願う祈りになっているのです。ユダヤ人のほとんどが貧しい生活を余儀なくされたのです。高額な税負担(収入の約40%)が大きな要因です。イエス様が誕生された年(紀元前6年ごろ)に皇帝アウグストゥスは全領土の住民に住民登録を命じているのです(ルカ2:1-3)。「主の祈り」が複数形になっている理由はこの点にあるのです。ユダヤ人たちは神殿税(会堂税)を納めるだけで良かったのです。ところが、新たに人頭税が課せられたのです。しかも、徴税人たちには税を上納した後、自分たちの裁量で追加の税を徴収することが許されたのです。彼らは民族の裏切り者として非難されたのです。罪人として蔑(さげす)まれたのです。税を払えない農民たちは悲惨でした。祖先から受け継いた土地を手放したのです。生産手段を失った人々は農園で過酷な日雇い労働に従事したのです(マタイ21:33-41)。

*「必要な糧を今日与えてください」は貧しい人々や虐げられた人々の切実な願いなのです。ローマ皇帝とその支配に協力している指導者たちが民衆に十分なパンを与えていないのです。イエス様は「わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/赦しましたように」と祈ることを教えられたのです。民衆は率先して「愛の教え」(ホセア書6:6)に従って負債を相互に免除するのです。「わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください」には苦痛や艱難を回避するために権力者たちの不正を黙認し、富の誘惑に屈している現実が反映されているのです。民衆はローマ帝国に協力して平和を維持するという誘惑に晒(さら)されているのです。信仰に堅く立って歩めるように願っているのです。「断食」は神様の前に自分を低くすることです。古くから受け継がれた悔い改めの儀式なのです。イスラエルの民は主を離れて異教の神々(バール)やアシュトレト(女神)を拝んでいたのです。士師サムエルは罪を犯した民に「イスラエルを全員、ミツパに集めなさい。あなたたちのために主に祈ろう」と訴えたのです。人々はミツパに集まると、水をくみ上げて主の御前に注ぎ、その日は断食し「わたしたちは主に罪を犯しました」と言ったのです(サムエル記上7:5-6)。「断食」は悔い改めを見える形で表しているのです。偽りがあってはならないのです。ファリサイ派の人々は信仰心の篤さを自負しているのです。「断食」は見せびらかすための手段です。イエス様は偽善を厳しく批判されたのです。

*キリストの信徒たちは「施し」(隣人愛)、「祈り」(神様との対話)、「断食」(悔い改め)を実行するのです。そのような生き方によって神様に栄光を帰すのです。ところが、いつの間にか自分を誇る手段になっているのです。誘惑に陥らないように日々警戒するのです。「主の祈り」には当時の社会的背景が反映されているのです。神様は権力者たちの圧政に喘(あえ)ぎ、窮乏生活に苦しむ人々の悲痛な叫びに応えられるのです。ご自身に信頼する人々に勇気と希望を与えて下さるのです。ユダヤ教の伝統的な祈りにも合致(がっち)しているのです。「アブラハム、イサク、ヤコブの神」のような言葉使いが見られないのです。「イエス様の御名によって」、「救い主の御名を通して」のようなキリスト教的な表現もないのです。「主の祈り」はユダヤ教、キリスト教を超えた普遍的な祈りなのです。困難を覚えるすべての人の慰めになっているのです。イエス様はユダヤ人たちが交際しなかったサマリア人たちにも「神の国」の福音を届けられたのです(ヨハネ4:39-42)。ローマ帝国の力による支配の担い手である兵士(百卒長)の息子を癒されたのです(マタイ8:5-13)。神様はご自身の民を決して見捨てられないのです。「もし同胞が貧しく、自分で生計を立てることができないときは、寄留者ないし滞在者を助けるようにその人を助け、共に生活できるようにしなさい」と人々に命じられたのです(レビ記25:35)。最も重要な戒め-正義、慈悲、誠実-を実践して「神様の愛」にお応えするのです。神様は必ず報いて下さるのです。

2024年06月23日

「神様の評価」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書18章9節から30節

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。するとペトロが、「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた(神様に委ねた)者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」

(注)

・神の国:キリスト信仰における根本理念です。イエス様の宣教の第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」です(マルコ1:15)。「神の国」-神様の支配-の到来こそ福音(良い知らせ)なのです。イエス様を通して「神の国」は具体化しているのです。病人が癒され、人の罪が赦されているのです。

・永遠の命:「神の国」に入ること、「救い」に与(あずか)ることです。

ファリサイ派の人:律法を厳格に遵守するユダヤ教の一派です。学識の豊富さから民衆に尊敬されていました。しかし、イエス様は彼らを厳しく批判されたのです。その理由は彼らが偽善者だったからです。マタイ23:1-36を参照してください。一方、律法学者の多くはファイサイ派によるモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)(トーラ)の解釈を支持していました。イエス様と対立した律法学者たちはファイサイ派に属していました。


・サドカイ派:「復活」を認めなかったのです。この点において、ファリサイ派の人々とは対立していました。しかし、イエス様には一致して敵対したのです。


徴税人:ローマ帝国のためにユダヤ人から税を徴収していました。他のユダヤ人からは「裏切り者」と呼ばれていました。さらに、民衆から集めた税金を当局に納めた後は自分のために追加の税を徴収することが許されていました。徴税人たちは強欲さと不正の故に「罪人」の一員として扱われ、社会の隅に追いやられたのです。ファリサイ派の人々からは蔑まれていましたが、イエス様は彼らの友となられたのです。さらに、徴税人マタイを12使徒の一人に選ばれたのです(マタイ9:10-13)。


・義:日本語訳では個人の道徳性の高さや信仰心の篤さとして理解されています。この言葉には社会的な正義という意味もあるのです。イエス様は「義(正義)に飢え乾く人々は、幸いである」(マタイ5:6)、さらに「何よりもまず、神の国と神の義(正義)を求めなさい」(6:33)と言われたのです。福音とは「神の国」(天の国)-神様の支配(主権)-が地上に遍(あまね)く行き渡り、「神の義(正義)」が確立されることなのです。

・子供:子供は無力な存在です。自分が出来ることは限られているのです。両親に頼る以外に方法はないのです。絶望の淵に生きる貧しい人々や虐げられた人々は「神の国」の到来に希望の光を見たのです。キリストの信徒たちは信仰によって「救い」に与るのではないのです。「神の国」を建設する使命があるのです。神様の戒めを守り、隣人を愛することが「永遠の命」に至る道なのです。

(メッセージの要旨)

*神様に訴えても受け入れられない祈りがあるのです。神様が願いを聞き入れられるかどうかは人間による評価とは全く関係がないのです。ファリサイ派の人は自分にとって都合の良い所だけを報告するのです。神様に信仰心の篤さを認めさせようと画策しているのです。称賛を得るためには神様さえコントロールしようとするのです。傲慢の極みです。神様は「高ぶる者を低くされ、へりくだる者を高められるのです。人間の心の内だけではなく御心を実践しているかどうかをご覧になられるのです。イエス様は卓越した知識や能力を不正な蓄財の手段として用いるファリサイ派の人々や律法学者たちに「蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか」と言われるのです(マタイ23:33)。徴税人はファリサイ派の人のように自分の良い行いを自画自賛することはありませんでした。自分の生き方を心の底から後悔しているのです。それは胸を打ち叩く姿に表れています。譬(たと)え話はファリサイ派の人の尊大さと徴税人の謙虚さを比較しているのではないのです。事態はもっと深刻なのです。偽善と不法に身を染めるファリサイ派の人が「滅び」に至り、徴税人が憐れみによって「救い」に与ったのです。両者を分けたのは犯した罪に対する悔い改めの姿勢なのです。傲慢(ごうまん)は大きな罪の一つです。一方、金持ちの議員は信仰心の篤い人です。ただ、信仰を許容範囲に限定するのです。イエス様のご指示を拒否したのです。神様の前に正しい人はいないのです。イエス様は謙遜と隣人愛を「救いの要件」とされたのです。

*ユダヤ人たちは毎日神殿で礼拝をしていました。ファリサイ派の人々も徴税人たちもこのために神殿に来ていました。神殿は犠牲の供え物を捧げるだけでなく祈りの場所でもありました。二人は神殿内部の至聖所近くの「イスラエルの庭」(ユダヤ人男性の礼拝場所)で祈ったのです。それぞれはユダヤ人社会の中で対照的な存在でした。ファリサイ派はサドカイカイ派と並んでユダヤ教の宗派の一つです。ファリサイ派はイエス様が地上に来られるおよそ150年前に創設されました。元々これらの人は信仰心が篤かったのです。律法と伝統を厳格に遵守していたのです。ところが、時代を経るに従って、信仰は形式化し、自己義認によって偽善化していったのです。一方、徴税人たちはローマ帝国に協力してユダヤ人たちから過酷に徴税し、富を蓄えていたのです。ユダヤ人たちから裏切り者、罪人と呼ばれたのです。こうした二つの階層に属する人々が祈っているのです。譬え話は神様の前で自らを正しい者であると公言し、罪人たちを蔑んでいる人々に向けて語られているのです。ファリサイ派の人は自分が奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でないことを自負しています。尊大にも神様に自分の評価を認めさせようとするのです。一方、罪人たちや社会の隅に追いやられている人々を見下しているのです。この人にとって律法を知らない徴税人は呪われているからです(ヨハネ7:49)。ファリサイ派の人には神様への畏敬の念が見られないのです。徴税人に対しても横柄に振舞うのです。徴税人は自分の罪を率直に告白し、神様の憐れみと赦しを乞うたのです。

*イエス様は「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われました。このお言葉は「人は神様を信頼しなければ神の国に入れない」というように理解されているのです。何事においても信頼を欠いては大切な関係を維持できないのです。しかし、ここで言われていることは、子供たちが置かれている位置-父親の従属物になっていること-にまで降りて行くことなのです。最も小さい者たち-貧しい人々や虐(しいた)げられた人々-と共に歩むことなのです。律法には基本となる戒めが二つあります。一つは「イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏(おそ)れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか」です(申命記10:12-13)。もう一つは「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。・・貧しい者(たち)や寄留者(たち)のために残しておかねばならない。・・あなた(がた)は隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。・・自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。・・」です(レビ記19:9-18)。イエス様はこれらを最も重要な戒めとされたのです(マルコ12:29-31)。キリスト信仰とは信じることではないのです。信じたことを実行することなのです。神様と隣人を愛して「救い」に与るのです。

*ある金持ちの議員は子供の時から「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」という掟を守ってきました。ところが、なお「永遠の命」の確信が得られなかったのです。議員と訳されている言葉は支配者のことです。日本語訳は往々にしてキリスト信仰に相応しくないとして政治的言葉を避けているのです。恣意的な翻訳は当時のイスラエルの民衆が置かれていた政治状況を正確に伝えないのです。絶大な権力とたくさんの財産を持っている支配者の一人が信仰上の不安を覚えているのです。イエス様はこの人の信仰心を認めておられるのです。ただ、「救い」は安価な恵みではないのです。本人が理解していない点を指摘し、解決方法を示されたのです。この世の権力とそれから得た富が信仰の確信へ至る道を妨げているのです。イエス様は「自分の財産を売って貧しい人々に施しなさい」、「ご自身の弟子になりなさい」と言われたのです。しかし、この金持ちは様々な思い煩いからイエス様の招き-「神の国」の福音を拒否したのです。現在の位置から社会の底辺へ降りて行くことが出来なかったのです。社会的地位と既得権益に執着したのです。この議員は律法の規定を選別しているのです。守ることが出来た規定だけを誇らしげに取り上げているのです。「隣人を自分のように愛しなさい」を実践するまでには至らなかったのです。神様よりも富の方を愛したことは明白です。神様はすべてのことをご存です。金持ちが「神の国」に入るのはらくだが針の穴を通るよりも難しいのです。しかし、神様はこの人の「救い」を断念されることはないのです。


*イエス様は「神の国」の本質を明確にされるのです。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」のです。しかし、イエス様のお言葉を実行することは簡単ではないのです。子供のように「神の国」を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできないのです。キリスト信仰が「罪の赦し」に縮小されているのです。「神の国」は人間の「全的な救い」として完成するのです。イエス様はご自身の教えと力ある業によって「神の国」が到来していることを証しされたのです。イエス様の教えを実践しない人々は「永遠の命」に与れないのです。道徳的、倫理的な罪のみが罪ではないのです。信仰の傲慢、富への執着、正義や平和への無関心はより深刻な罪なのです。身近にいた弟子たちも誰が一番偉いかについて議論しているのです。イエス様は彼らの誤った信仰理解を正すために徹底して仕えることを命じられたのです(マルコ9:33-37)。信仰を自負する人々は多くの場合自分たちの傲慢に気づかないのです。信仰の傲慢はその人を死に至らせるのです。一方、金持ちの議員はイエス様に教えを願い出ているのです。ところが、イエス様が示された「救いの道」を受け入れられないのです。有り余る富を隣人のために施すことに消極的なのです。視点を最も小さい人々へ向けなければ「神の国」に入れないのです。神様はこの人の悔い改めを忍耐して待っておられるのです。信仰を自負する人々が後になり、蔑まれていた徴税人が先になったのです(マタイ20:16)。信仰を誇っても無意味なのです。神様が判断されるからです。

2024年06月16日

「神様の戒めを守りなさい」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書5章17節から20節

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成(成就)するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国(神の国)で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義(正義)が律法学者(たち)やファリサイ派の人々の義(正義)にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

(注)

・モーセ五書:旧約聖書の中にある創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のことです。

・律法:神様の戒めのことです。最も基本となるのが「十戒」です。以下は抜粋です。

神はこれらすべての言葉を(モーセに)告げられた。「わたしは主、あなた(がた)の神、あなた(がた)をエジプトの国、奴隷の家から導き出した神で
ある。

一あなた(がた)には、わたしをおいてほかに神があってはならない。
一あなた(がた)はいかなる像も造ってはならない。
一あなた(がた)の神、主の名をみだりに唱えてはならない。
一安息日を心に留め、これを聖別せよ。
一あなた(がた)の父母を敬え。
一殺してはならない。
一姦淫してはならない。
一盗んではならない。
一隣人に関して偽証してはならない。
一隣人のものを一切欲してはならない。」 (出エジプト記20:1-17)


・イエス様が教えられた最も重要な戒め:

■彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコ12:28-31)

・律法学者:文書を取り扱う官僚であり、律法に関する学者です。

・ファリサイ派:律法を日常生活に厳格に適用したユダヤ教の一派です。イエス様に律法学者と共に敵対しました。

・過越祭:ユダヤ教の三大祭りの一つです。イスラエルの民がエジプトから解放されたことを祝うのです。ユダヤ人の信仰の原点となっています。

・七週祭:ユダヤ教の三大祭りの一つです。春の麦の収穫祭でしたが、律法を授けられた記念として過越祭から数えて50日目に祝います。

・仮庵祭:ユダヤ教の三大祭りの一つです。イスラエルの民が荒れ野で天幕に住んだことを記念しています。秋の果実の収穫祭でもありました。

(メッセージの要旨)

*旧・新約聖書は神様がどのようなお方であるかを伝えています。律法は「神様の御心」を表しているのです。神様はアブラハムが九十九歳になった時に現れて「わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする」、さらに「わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子(子供)たちとその子孫(家族)に、主の道を守り、主に従って(アブラハムに倣って)正義(義)を行うように命じて、主(わたし)がアブラハムに約束したことを成就(実現)するためである」と言われました(創世記17:1-18:19)。アブラハムを通して世界のすべての国民に祝福が宣言されたのです。同時に、すべての人に主の道を守ること-正義(社会正義)の追求と義(倫理的高潔さ)の堅持-が義務となったのです。時代が下って、ヘブライ人たち(イスラエルの民)はエジプトの王ファラオの圧政の下で苦しんでいたのです。神様はご自身の民の窮状をつぶさに御覧になったのです。天から降って行ってエジプト人の手から解放されたのです(出エジプト記3:7-12)。シナイ山ではモーセを通して彼らに基本となる十戒と関連する個別の規定を授けられたのです。人々が罪を犯すことなく、生きながらえるためでした。その後も、預言者たちを通して歴代の王を導かれたのです。新しい天地創造に先立って遣わされたイエス様は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたのです(マルコ1:15)。先ず「神の国」(神様の支配)と「神の義」(正義)を求めるのです(マタイ6:33)。そうすれば必要な物は必ず与えられるのです。

*聖書の個所は「山上の説教」(マタイ5-7)の中の一部分です。イエス様は「律法や預言者たち(種々の預言書)を廃止するためではなく、完成するために来た」と言われました。「神の国」は到来しているのです。ただ、まだ完成していないのです。イエス様が再び地上に来られる時(再臨)までキリスト信徒たちは新しい解釈の下で律法や預言者たちの言葉を守って-神様と隣人を愛して-生きるのです。現実(律法)から遊離した霊的側面を過度に強調するような信仰理解は避けなければなりません。イエス様はユダヤ人であるだけでなく、ユダヤ人であることに徹(てっ)せられたのです。ユダヤ教の伝統や聖なる日を順守し、過越祭、七週祭、仮庵祭にはエルサレム神殿へ巡礼し、安息日には会堂の礼拝に出席されたのです。宣教活動においては律法(旧約聖書)に言及されたのです。一方、イエス様はご自身が「安息日の主」であることを公言されたのです。「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と言って「神様の御心」を明確にされたのです(マルコ2:27-28)。安息日に手の萎(な)えた人を癒されたのです。批判する人々には「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と反論されたのです。「救いの御業」の完成者であるイエス様は御言葉を語られただけではなく、人々の痛みを担われたのです。病気の人々、体の不自由な人々、悪霊に悩まされている人々、罪人の烙印(らくいん)を押された徴税人や娼婦たち、貧しい人々と共に歩まれたのです。

*律法の解釈を巡り、律法学者たちやファリサイ派の人々との間に鋭い対立があったのです(マルコ3:1-6)。イエス様は御子の権威を持って「あなたがたは聞いている通り、・・しかし、わたしは言っておく」という形式でモーセの律法を新たに解釈されたのです(マタイ5:21-48)。従来の解釈が厳格化されたのです。誰も信仰を誇ることが出来ないのです。幾つかの例を挙げおられます。「・・昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、・・兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」神様が定められた裁きの基準は厳しいのです。人間の常識を遥かに超えているのです。「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし・・不法な結婚-不貞の罪を犯すこと-でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」当時は家父長社会-男尊女卑の社会-です。夫が思いのままに妻に離縁状を出しているのです。人間は許しても、神様は夫の横暴を厳しく罰せられるのです。「・・『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし・・悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。・・」が誤解されているのです。「愛」によって不正を赦すことではないのです。正義を非暴力で貫くための手法なのです。神様は何よりも正義を大切にされるのです。

*律法学者たちやファリサイ派の人々は民衆にモーセの律法の完全履行を求めるのです。ところが、自分たちはそれを実行しないのです。施しをする時は人々から賞賛を得るために敢えて会堂や街角で行うのです。祈る時は人々に見てもらおうとして大通りの角に立って祈るのです。宴会では上座、会堂では上席に座ること、広場では挨拶され、先生と呼ばれることを好むのです。規定の十分の一以上の捧げものをして信仰を誇るのです。しかし、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実をないがしろにしているのです。人々に外側を正しいように見せながら、心は偽善と不法に満ちているのです。イエス様は指導者たちの不信仰と貪欲を激しく非難されたのです。これらの人に天罰が下ることを明言されたのです(マタイ23)。一方、弟子たちには「あなたがたの義(正義)が律法学者たちやファリサイ派の人々の義(正義)にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と言われたのです。信仰によって「天の国」に入れると信じている人々には真に厳しいお言葉となるのです。ヤコブも「行いのない信仰はそれだけでは死んだものです」と言うのです(ヤコブ2:14-17)。正義の希求と高潔さは「救いの要件」なのです。キリスト信仰による「救い」は安価な恵みではないのです。イエス様は最も重要な戒めとして「神様と隣人を愛すること」を挙げられました。「神の国」の建設のために働いた人々が「永遠の命」に与るのです。多くの人が御言葉を語っているのです。しかし、その正しさは「行い」によって証明されるのです。

*律法が恣意的(しいてきに)に解釈されているのです。イエス様のお言に従うのではなく、自分が許容できる教えだけに耳を傾けているのです。イエス様に敵対するファリサイ派の議員たちの中に回心したニコデモがいました。最高法院ではイエス様を弁護し、十字架上で処刑されたイエス様のご遺体を埋葬したのです。すべてをイエス様に捧げる覚悟がなければこのような行動には出られないのです。その後、同僚の議員や指導者たちから非難され、迫害を受けたことは容易に想像されるのです。手の萎えた人のように障害がある人は罪人と見なされ、社会の隅に追いやられたのです。仕事にもつけず、物乞いをするしか生きる道はなかったのです。イエス様はこのような人々に援助の手を差し伸べないことは「これらの人を殺すことである」と言われたのです。隣人愛によって「人を殺してはならない」の趣旨が深められているのです。「神様の御心」と人々の間に深刻な認識のずれがあるのです。イエス様は律法を都合よく解釈する人々に警鐘を鳴らしておられるのです。キリスト信仰が誤解されているのです。信仰とは「生き方」のことなのです。イエス様が模範を示されたように弱い立場にある人々の側に立つのです。社会正義の実現に取り組み、篤い信仰心を貫くのです。キリスト信仰を表明しただけでは「救い」に与れないのです。「行い」が伴わなければならないのです。「神様の戒め」を軽んじてはならないのです。「イエス様の教え」を変容してはならないのです。高慢は大きな罪です。「死に至る病」です。イエス様が「救い」を判断されるからです。

2024年06月09日

「すべての人に届けられる福音」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書4章1節から20節

イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。「よく聞きなさい。種を蒔(ま)く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。

イエスがひとりになられたとき、十二人と、イエスの周りにいた人たちとが、たとえについて尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外(そと)の人々には、すべてがたとえで示される。それは、/『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』(イザヤ書6:9-10)/ようになるためである。」

また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いてもすぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難(かんなん)や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」

(注)

・預言者イザヤ:当時イスラエルは南北に分裂していました。北王国は「イスラエル」、南王国は「ユダ」と呼ばれていました。イザヤの宣教はユダ王国を中心に行われました。ウジヤ王の死(紀元前738年頃)と共に始まり、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ王の治世にも及びました。

・神の国:神様の主権、実際の支配のことです。「天の国」とも言われています。

■・・だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。(マタイ6:31-34)

■イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人(人々)に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人(人々)に解放を、/目の見えない人(人々)に視力の回復を告げ、/圧迫されている人(人々)を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(ルカ4:16-21)

・サタン:神様の敵です。旧約聖書のヨブ記1章に神様とサタンの会話が記されています。

■ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来ました。主はサタンに「お前はどこから来た」と言われました。サタンは「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」と答えたのです。主はサタンに「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な(非の打ちどころのない)正しい人で、神を畏(おそ)れ、悪を避けて生きている」と言われました。サタンは「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません」と答えました。主はサタンに「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな」と言われました。サタンは主のもとから出て行きました。 ・・その後、ヨブは何度も耐え難い災難に遭遇しました。・・ところが、神様を非難することもなく、罪も犯さなかったのです。

・主の祈り:イエス様が弟子たちに教えられた祈り

■・・天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように、御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目(様々な負債)を赦して下さい、わたしたちも自分に負い目(様々な負債)のある人(人々)を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救って下さい。(マタイ6:9-13)

(メッセージの要旨)

*イエス様はヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた後ガリラヤへ行き神の福音を宣教されました。その第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」でした(マルコ1:15)。この短いお言葉の中に 福音の真理が凝縮されているのです。キリスト信仰は「神の国」-神様の支配-の到来を福音(良い知らせ)として信じることなのです。福音の種はすべての人に蒔かれるのです。イエス様が神様の独り子であることを認められない人々や福音に無関心な人々、御言葉を聞いてすぐに受け入れても艱難や迫害に遭遇するとすぐにそれを捨てる人々、御言葉を聞くけれども富や様々な欲望の誘惑に負けて中途半端な信仰に終始する人々、そして御言葉を聞いて福音を信じる人々に届けられるのです。神様は「イエス様を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得ること」を願っておられるからです(ヨハネ3:16)。しかし、キリスト信仰を生涯貫くことは簡単ではないのです。受け入れた人々が途中で挫折する場合があるのです。拒否していた人々が悔い改めて「救い」に与ることもあるのです。一方、キリスト信仰は恵みに与ったことで完結しないのです。悔い改めた人々には神様と隣人を愛して生きることが責務になるのです。「神の国」の福音が「罪からの救い」に縮小されているのです。「神の国」の到来とはこの世に正義と愛が遍(あまね)く行き渡ることなのです。キリスト信仰を標榜する人々は「神の国」の建設に参画するのです。種はその人の現在の状況において蒔かれるのです。イエス様への応答が運命を決定するのです。

*「神の国」の秘密について、イエス様は身近な弟子たちなどごく少数の人々には打ち明けるが、グループ以外の人々にはすべてをたとえで示すと言われました。その理由についてイザヤ書を引用して説明されたのです。イザヤの時代のイスラエルは聖なる方を侮り、異国の民と手を結んで戦争をし、国内には偶像が満ち溢(あふ)れていました。支配者たちは無慈悲で、まるで盗人のようでした。賄賂を喜び、民衆に贈り物を強要したのです。孤児の権利を守らず、やもめの訴えを取り上げなかったのです。それ故、神様はご自分の民に向かって激しく怒り、御手を伸ばして、彼らを撃(う)たれたのです(イザヤ書1-5)。一方、「ユダ」も罪を犯し続けたのです。ウジヤ王が死んだ年のことです。神様はイザヤを召命されたのです。そして「この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし・・悔い改めていやされることのないために」と言われたのです。イザヤが「いつまででしょうか」と質問すると、神様は「町々が崩れ去って、住む者もなく/家々には人影もなく/大地が荒廃して崩れ去るときまで」と答えられたのです。「ユダ」の支配者たちも神様からのメッセージを拒んだのです。後に、新バビロニアの王ネブカドネザルはエルサレムを征服したのです。人々の大半は「捕囚の民」としてバビロン(現在のイラク)へ連れて行かれたのです(紀元前587年)。神様は民を滅ぼされることはないのです。少数の人々を残されるのです。これらの人を用いて「ユダ」を救おうとされるのです。

*神様はイエス様を遣わしてご自身の御心をすべての人に語られたのです。神様の御言葉(種)はどのような人にも届けられるのです。聞いた人々はそれぞれ応答するのです。最初の例は御言葉を聞いてもすぐにサタンによって福音を奪い去られる人々のことです。ファリサイ派の人々や律法学者たちを挙げることが出来ます。これらの人は最初から「神の国」を拒絶しているのです。「神の国」は特権的地位や既得権益の放棄を求めるからです。これまで、長い衣をまとって歩き回ることや広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好み、見せかけの長い祈りをして信仰心の篤さを誇っていたのです。やもめ(寡婦)の家を食い物にし、貧しい人々や虐げられた人々を苦しめて来たのです。律法を厳格に守っているように見せながら、心は強欲と放縦で満ちているのです。律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実をないがしろにしているのです。イエス様はこのような偽善者たちに「神様の罰」が下ることを明言されたのです(マタイ23)。一方、イエス様に「神様と隣人への愛はどんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」と答えて、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた律法学者もいたのです(マルコ12:32-34)。アリマタヤ出身の議員ヨセフは総督ピラトに願い出てイエス様のご遺体を埋葬したのです(ヨハネ19:38-42)。仲間たちの迫害を恐れずにキリスト信仰を証ししたのです。誰でも悔い改めて神様の下へ帰ることが出来るのです。人を裁くことには慎重であるべきなのです(マタイ7:1-5)。

*「神の国」の到来に感謝するのですが、艱難(かんなん)や迫害が起こるとすぐに躓(つまず)いてしまう人々がいるのです。イエス様はご自身を「天から降って来たパンである。・・このパンを食べる者は永遠に生きる」と言われました。弟子たちの多くの者はこれを聞いて「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。・・」と言って、イエス様と共に歩まなくなったのです(ヨハネ6:35-71)。理由は明確ではありませんが、12使徒の一人であったイスカリオテのユダはイエス様を裏切ったのです(ルカ22:47-48)。権力の中枢にイエス様を信じる人々は少なくなかったのです。ただ、彼らはファリサイ派に属していたました。キリスト信仰を公にすればユダヤ教の会堂から追放されるのです。社会的地位や名声だけでなく、生活の糧さえ失うことになるのです。結局、これらの人々は神様からの誉れよりも人間からの賞賛を選んだのです(ヨハネ12:42-43)。富に執着し「神の国」から遠ざかった金持ちの男(マタイ10:17-25)や門前に横たわる貧しいラザロを気にかけることなく贅沢に暮らして「永遠の命」を失った金持ち(ルカ16:19-31)もいるのです。一方、財産の半分を貧しい人々に施すなどして「救い」に与った徴税人ザアカイがいました(ルカ19:1-10)。弟は父親から譲り受けた財産を放蕩生活の中で浪費し、信仰的にも死んでいたのです。ところが、悔い改めによって生き返ったのです(ルカ15:11-24)。神様はこれらの罪人がご自身の下へ帰って来たことを喜ばれたのです。

*譬え話はキリスト信仰から距離を置く人々に日常生活の出来事によって説明する手法なのです。イエス様は譬え話を通して人々のところへ降りて行かれるのです。イエス様は「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と言われたのです(ルカ5:31-32)。キリスト信仰の真髄はこのお言葉にあるのです。神様の御言葉は道端、石だらけの所、茨の中、良い土地など様々な場所に届けられるのです。イエス様は弟子たちに「子供のように神の国を受け入れる人でなければ決してそこに入ることは出来ない」と警告されたのです(ルカ18:15-17)。素直さの勧めであるかのように誤解されているのです。視点を移して貧しい人々や虐げられた人々の所に降りて行くことなのです。イエス様はご自身の弟子になることを願う人々に「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子(ご自身)には枕する所もない」と言われました(マタイ8:18-22)。弟子には覚悟が必要です。イエス様は「神の国」の福音のために生涯を捧げられたのです。「神の国」を地上に建設するためには召命された人々もまた迫害を受けるのです。イエス様に倣(なら)う生き方は必然的にこの世と対立するのです。サタンはこの世の富や権力などを用いてキリストの信徒たちを誘惑するのです。神様から切り離して滅ぼそうと日夜画策しているのです。キリスト信仰に生きる人々は「主の祈り」に支えられて誘惑を退けるのです。豊かな実を結ぶために奔走するのです。

2024年06月02日

「パウロの信仰理解と宣教姿勢」

Bible Reading (聖書の個所)コリントの信徒への手紙一9章1節から27節

わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか。他の人たちにとってわたしは使徒でないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです。あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです。

わたしを批判する人たちには、こう弁明します。わたしたちには、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか。わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資(し)を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。

そもそも、いったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか。わたしがこう言うのは、人間の思いからでしょうか。律法も言っているではないですか。モーセの律法に、「脱穀している牛に口籠(くつこ)をはめてはならない」と書いてあります。神が心にかけておられるのは、牛のことですか。それとも、わたしたちのために言っておられるのでしょうか。もちろん、わたしたちのためにそう書かれているのです。耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分け前にあずかることを期待して働くのは当然です。わたしたちがあなたがたに霊的なものを蒔(ま)いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。他の人たちが、あなたがたに対するこの権利を持っているとすれば、わたしたちはなおさらそうではありませんか。しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます。あなたがたは知らないのですか。神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかります。同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました(マタイ10:10)。

しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない。それくらいなら、死んだ方がましです……。だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない(奪ってはならないのです)。(もっとも、)わたしが福音を告げ知らせても(いるなら)、それはわたしの誇り(の根拠)にはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです(わたしに災いあれ)。自分から(の意志で)そうしているなら、報酬を得るでしょう(受け取ります)。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。

わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。

あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。

(注)

・コリント:現在のギリシャにある都市です。

・主の兄弟たち:イエス様の兄弟たちです。中でもヤコブが有名です。1コリント15:7を参照して下さい。

・「脱穀している牛に口籠(くつこ)-噛みついたり食べたりしないようにする籠(かご)-をはめてはならない」は申命記25:4からの引用です。働く雄牛の取り扱いを通して人間の社会的公平性が例示されているのです。

・バルナバ:パウロの協力者です(使徒9:27;11:19-30)。しかし、後に考え方の違いから別行動をすることになりました(使徒15:36-41)。

・ケファ:ペトロの別名です。結婚していました(マルコ1:30)。

・他の人たち:アポロとペトロのことです。

・アポロ:エジプトのアレクサンドリア出身です。聖書に詳しい雄弁家です。コリントの教会でも有名です。使徒18:24-19:1に登場します。

・朽ちる冠:二年ごとにコリントの近くのイストミア地方で行われる競技会では勝者の冠は「しおれたセロリ」で作られていました。

・朽ちない冠:「救い」(永遠の命)を意味しています。

・ポントス:現在のトルコの北にある州の名前です。

・クラウディウス:ローマ皇帝(在位は紀元後41-54年)です。

・七つの手紙:ローマの信徒への手紙、コリント信徒への手紙一、コリント信徒への手紙二、ガラテヤの信徒への手紙、フィリッピの信徒への手紙、テサロニケの信徒への手紙一、フィレモンへの手紙

・弱い人々:社会的地位の低い未信者たち、信仰の弱い人々のことです。1コリント1:26-28、8:1-13を参照して下さい。

・啓示による信仰:神様は来るべき出来事(イエス様の再臨-最後の審判)によって助けて下さる」という信仰理解に基づいています。神様が瞬時にこの世を「新しい世界」に造り変えられるので信徒たちは何もする必要がないのです。ただ待つだけなのです。結果、人々の苦悩の原因や社会の不正に無関心になるのです。

(メッセージの要旨)


*コリントの信徒への手紙第一は西暦54年ごろにパウロが中心になって創設した教会の信徒たち宛に書いた手紙です(使徒18:1-18)。当時のコリントは繁栄した大都市です。道徳的にも、文化的にも、宗教的にも、多様な人々が暮らしていたのです。コリントにはユダヤ人もいましたが、異邦人が中心の町です。(1コリント12:2)。多くの人は貧しく、社会的地位も高くなかったのです(Ⅰコリント1:26-28)。信徒たちはそれぞれグループを形成して住んでいたのです。聖日には礼拝と聖餐式を行うために教会に集まったのです(1コリント11:18)。しかし、コリントの教会は無秩序に近い状態でした。グループ間の争いが絶えなかったのです。信仰の一致が揺らいでいたのです。「わたしはパウロに」、「わたしはアポロに」、「わたしはケファに」につくと言い合っていたのです(1コリント1:10-17)。不道徳の問題も深刻でした。ある人は父の妻をわがものとしていたのです(1コリント5:1-13)。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」(出エジプト記32:6)とあるように偶像礼拝も蔓延しているのです(1コリント10:1-22)。敵対する人々はパウロの権威を失墜させるために画策していたのです(1コリント4:1-5)。コリントの信徒たちは「救いの意味」を誤解しているのです。何事に対しても自由奔放に生きているのです。教会はパウロの見解を質すのです。パウロは「弱い人々」のために自由の制限(節制)が必要であることを教えたのです。使徒の諸権利を放棄して例示したのです。


*パウロが去ってからコリントの教会は論争と混乱の中にありました。パウロの教えから逸脱した信仰理解が原因の一つだったのです。信徒の中には知恵や知識を誇る人々がいたのです。これらの人はキリスト信仰を知的(自分本位)に理解しているのです。パウロは「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らない」と批判したのです(1コリント8:1-2)。霊的な賜物(異言や預言)を誇る人々には、それは神様が与えられた賜物であって、教会全体の益のために用いるように指示したのです(1コリント12-14)。コリントの教会は栄光に輝くイエス様と共にいるのです。天上の支配者(王様)であるかのように振る舞っているのです。勝手に信仰を自負しているのです(1コリント4:8)。彼らにとってパウロたちの助けはもはや不要なのです。パウロは彼らが失格者にならないように「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。・・次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」と証しするのです(1コリント15:3-8)。神様の知恵であるキリスト・イエスに目を向けさせるのです。


*パウロは一人でも救うために何でもしたのです。このために、様々な迫害を受けたのです。「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。・・」と言っています(2コリント11:23-29)。福音宣教に全身全霊を捧げたのです。パウロはコリントの信徒への手紙―を含めて少なくても七つの手紙を書いています。いずれにおいても「啓示による信仰」が基調になっているのです。不正や不公平に満ちた社会の変革にほとんど言及していないのです。神様が直接介入して社会正義を実現して下さることを確信していたからです。信徒たちにも不安定な現実の生活に思い悩むことなく、罪から救われるために信仰心に溢(あふ)れた生活に努めることを勧めていたのです。しかし、このような信仰理解は貧しい人々や虐げられた人々の解放(救い)に心を砕かれたイエス様の視点とは明らかに異なっているのです。パウロはイエス様が宣教された「神の国」の到来を「個人の救い」に縮小しているのです。キリスト信仰をパウロの信仰理解によって説明する際はこの点に留意することが必要です。それにも関わらず、パウロの宣教姿勢から学ぶことが多いのです。大きく分けて二つ挙げることが出来ます。一つは、混乱したコリントの教会の信徒たちに福音の本質-キリスト・イエスに焦点を当てること-を再度示したことです。もう一つは、自分の労働によって生活の糧を確保したことです。教会から自由になることによって信徒たちを正しく導くことが出来るのです。

*経済的に依存する宣教者たちは往々にして教会の有力者たちに迎合するのです。彼らの要求に応じなければ、彼らの信仰理解を認めなければ生活の糧を失うかもしれないのです。日本では少ないのですが、欧米の牧師夫婦には共働きが多いのです。これによって、教会から自由になって大切な意思決定をすることが出来るのです。パウロは自分の信仰の確信について誰からも束縛されないと言っています。コリントでポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会っています。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、二人は最近イタリアから来たのです。パウロと職業が同じであったのです。パウロは彼らの家に住み込んで一緒にテント造りをしたのです。安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていたのです(使徒18:1-4)。パウロは仕事をしながらキリスト信仰を証ししたのです。様々な問題を抱える信徒たちには適切なアドバイスが求められるのです。時には意見も厳しくなるのです。その際、経済的に自立していることが不可欠なのです。「安価な恵み」に慣れた信徒たちは原則に忠実な宣教者を屈服させるか、排斥しようとするのです。パウロは教会の支配を断固として拒否するのです。福音を告げ知らせるときにはそれを無報酬で伝え、自分が持っている諸権利を行使しないのです。神様からの報酬のみを望んでいるのです。パウロは迫害していた自分を用いて下さった神様に心から感謝しているのです。与えられた使命を果たそうとする決意がひしひしと伝わって来るのです。

*信仰は理論や神学によって得られるものではないのです。神様の導きによって、人はキリストの信徒になるのです。キリスト信仰を標榜(ひょうぼう)する人がキリストの信徒ではないのです。イエス様の生き方に倣(なら)う人、御跡を辿(たど)る人がキリストの信徒なのです。イエス様が生と死と復活を通して宣教された「神の国」への応答の如何によってその人の「救い」は決定されるのです。パウロは確かに「復活の主」に出会ったのです。しかし、イエス様から直接教えを受けていないのです。「神の国」の福音を「啓示による信仰」によって理解したのです。社会的な視点-正義と公平に対する認識-がほとんど見られないのです。男尊女卑を肯定するかのように「女が男のために造られた」と言うのです(使徒11:1-16)。ローマ帝国の圧政と搾取に苦しむ人々に支配者への従順を説いているのです(ローマ13:1-7)。パウロにはキリスト信仰を哲学的、神学的に語る傾向があるのです。その際、イエス様の宣教姿勢に立ち帰ることが重要です。一方、パウロは「復活の主」を全身全霊で証しするのです。この世の誘惑に屈してキリスト信仰から遠ざかった人々に悔い改めを求めているのです。言葉だけではなく、生き方によって「永遠の命」に至る道を示したのです。労働によって経済的自立を確保するのです。自己を抑制し、節制するのです。対象者を徹底的に配慮するのです。一人でも救うために命さえも惜しまないのです。キリスト信仰とは「神の国」の到来を福音として信じることです。パウロがイエス様を超えることはないのです。

2024年05月26日
» 続きを読む