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洗礼者ヨハネが捕らえられた後、イエス様はガリラヤ地方へ行き、福音(良い知らせ)を宣べ伝えて「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたのです(マルコ1:14-15)。イエス様は復活された後も、使徒たちに「神の国」について話されたのです(使徒1:3)。キリスト信仰の中心メッセージは「神の国」-神様の支配-にあるのです。

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「あなたは隣人を愛したか」

聖書の個所(Bible Reading)マタイによる福音書25章31節から46節 


「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 そして、すべての国の民(異邦人たち)がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たち(あなたがた)のために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たち(あなたがた)は、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たち(あなたがた)は、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」


(注)


・人の子:この場合は審判者です。預言者ダニエルがそのイメージを表現しています。


■「夜の幻をなお見ていると、/見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り/日の老いたる者(神様)の前に来て、そのもとに進み 権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。(ダニエル書7:13-14)


■イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る。」(マタイ26:64)

・ノアの洪水:洪水になる前には人々は食べたたり飲んだりしていました、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで何も気が付かなかったのです。創世記6章-8章をお読み下さい。


・羊を右に、山羊を左に:すでに、預言者エゼキエルの言葉に登場しています。


■お前たち(あなたがた)、わたしの群れよ。主なる神はこう言われる。わたしは羊と羊、雄羊と雄山羊との間を裁く。お前たち(あなたがた)は良い牧草地で養われていながら、牧草の残りを足で踏み荒らし、自分たちは澄んだ水を飲みながら、残りを足でかき回すことは、小さいことだろうか。わたしの群れは、お前たち(あなたがた)が足で踏み荒らした草を食べ、足でかき回した水を飲んでいる。それゆえ、主なる神は彼らにこう言われる。わたし自身が、肥えた羊とやせた羊の間を裁く。お前たち(あなたがた)は、脇腹と肩ですべての弱いものを押しのけ、角で突き飛ばし、ついには外へ追いやった。しかし、わたしはわが群れを救い、二度と略奪にさらされないようにする。そして、羊と羊との間を裁く。(エゼキエル書34:17-22)

・正義と公平:

■主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人(抑圧された人々)に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人(た人々)には自由を/つながれている(人たち)には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。彼らはとこしえの廃虚を建て直し/古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。(イザヤ書61:1-4)

・最も重要な掟:

■イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコ12:29-31)


・神の国:イエス様の宣教の第一声はこのお言葉で始まっています。「天の国」とも呼ばれています。死後に行く「天国」のことではありません。神様の主権、神様の支配を表す言葉です。


・神の義:義は神様と人間との(倫理的な)正しい関係を表す言葉として用いられることが多いのです。しかし、元々の言葉(ギリシャ語)には「正義」の意味があるのです。神の国と神の義はキリスト信仰の真髄なのです。


・永遠の炎:イメージは次の通りです。

■彼ら(サタンの手下たち)は地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都(エルサレム)とを囲んだ。すると、天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。そして彼ら(神の民)を惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣(キリストに敵対するローマ皇帝)と偽預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。(ヨハネの黙示録20:9-10)


・百人隊長:100人のローマ兵を指揮し、命令を下していました。

(メッセージの要旨)


*最後の審判の様子が描かれています。「最も重要な戒め」を実践したかどうかが裁きの基準になっているのです。人は信仰によって「永遠の命」に与るのではないのです。社会の中で最も小さい者と呼ばれる人々を愛したかどうかが問われているのです。聖書の個所はイエス様の再臨(新しい天地創造)と深く関わっています。イエス様はご自身に起こる出来事を弟子たちに前もって教えられたのです。十字架上で政治犯として処刑され、三日目に復活し、再び地上に来てすべての国の民(異邦人たち)を裁くことを明言されたのです。初代教会の信徒たちは再臨が自分たちの時代に起こるものと考えていました。しかし、2000年の時を経た現在もまだイエス様の再臨は起こっていないのです。再臨が遅いのは神様の深い愛と憐れみの表れなのです。神様はすべての人が「救い」に与るように再臨の時期を遅らせておられるのです。イエス様はご自身の再臨をノアの時代に例えられたのです。洪水が襲って来て一人残らず取り去るまで、人々は洪水に気づかなかったのです。このように誰もその時を知らないのです。ただ、父なる神様だけがご存じなのです。イエス様は再臨の時に備えて「目を覚ましていなさい」と言われたのです(マタイ24:42)。イエス様を信じることは「救い」に至る道です(ヨハネ3:16)。キリストの信徒たちには「神様と隣人」を愛する責務が生じるのです。第一の戒めは実行されているのです。ところが、第二の戒め(隣人愛)が軽視されているのです。この事実は深刻な結果を招くのです。「行い」のない信仰は空しいのです。

*キリスト信仰を標榜(ひょうぼう)する人々は「神様の愛」と「罪の赦し」に感謝するのです。ところが、「神様の正義」の実現には極めて消極的なのです。キリスト信仰が誤解されているのです。神様は「わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主(わたし)の道を守り、主(わたし)に従って正義を行うよう命じて、主(わたし)がアブラハムに約束したことを成就するためである」と言われたのです(創世記18:19)。「正義と恵みの業(高潔さ)を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人(たち)、孤児(たち)、寡婦(たち)を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の(人の)血を流してはならない」と命じられたのです(エレミヤ書22:3)。イエス様も「先ず、神の国と神の義を求めなさい」と言われたのです(マタイ6:33)。「神の国」を人々に見える形で証しされたのです。福音が心身の障害で苦しむ人々、貧しい人々、虐げられた人々、不当に投獄された人々に届けられたのです。ヤコブも「信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ・・彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」と明言したのです(ヤコブ2:14-17)。

*神様による解放と救いの御業が始まっているのです。神様とイエス様の教えに従って「神の国」の建設に参画することがキリストの信徒たちの使命なのです。ところが、苦しみや悲しみに共感された「神様の御心」が個人的な「罪からの救い」に縮小されているのです。イエス様は直前に弟子たちに「天の国」について二つのたとえ話をされたのです。一つは「十人のおとめ」です(マタイ25:1-13)。もう一つは「タラントン」です(マタイ25:14-39)。神様から命じられた役割を忠実に果たした人々と与えられた責務を遂行しなかった者たちの話です。神様は前者を祝福し、後者を「神の国」から追放されたのです。「神の国」に招かれた人々は「神様の御心」を実現するのです。「善い働き」をしなければ「永遠の命」に与れないのです。たとえ話と今日の聖書の個所は連動しているのです。イエス様のお言葉が正確に語られていないのです。パウロの言葉「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなた(がた)は救われるからです」が「救いの根拠」とされているのです(ローマ10:9)。パウロの手紙を引用する場合は特に注意が必要なのです。「神の国」の福音が狭義に解釈されているからです。イエス様が明らかにされたように「罪の定義」は広いのです。個人の道徳的、倫理的な罪がすべてではないのです。最も小さい人々から目を逸(そ)らせていることも罪なのです。同情だけでは隣人を愛したことにはならないのです。窮状から解放するための支援行動が不可欠なのです。

*今日においても、貧困の故に飢えや渇きに苦しんでいる人々、迫害によって住むところを追われた人々、病気になっても十分な医療を受けられずに死を早めている人々、正義のために闘って投獄されている人々がいるのです。こうした現状を直視しない生き方は「神様の御心」に合致しないのです。「救い」から遠ざかっているのです。国連の機関UNICEF(日本ユニセフ協会)のパンフレット(5月)によると五歳未満で亡くなる世界中の子どもの数はおよそ490万人です。その約五割を生後一か月未満の新生児が占めているのです。死亡率が高い国のほんどは紛争下にあるのです。毎日数千人の新生児の命が失われているのです。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)はニュースレター(6月)で難民の危機に言及しています。ウクライナや中東での戦闘が日々ニュースで取り上げられています。一方、世界から見過ごされ支援が届かない中、多くの人が家を追われ、今こうしている間にも命の危険に晒(さら)されているのです。国内においても家族とのつながりもなく簡易宿舎に住み、日雇い労働によって糧を得ている人々がいるのです。高齢や病気のために仕事につけず困難な生活を余儀なくされている人々がいるのです。人種や民族、因習や偏見によって差別され、思想や信条の違いから迫害され、不当な扱いを受けている人々がいるのです。神様のお言葉やイエス様の教え、重要な聖書の個所が恣意的(しいてき)に読み飛ばされているのです。キリストの信徒たちが苦難にある人々との関りを逡巡(しゅんじゅん)しているのです。これらも罪なのです。

*神様はイエス様に人間を裁く権能を委ねられたのです。イエス様は「救いの基準」を誰もが理解できるように短い言葉で表現されたのです。人は信仰によって、教派の教義を通して「救い」に与るのではないのです。キリスト信仰に生きる人々は「最も重要な戒め」を実践するのです。ローマ帝国の圧政を担う百人隊長はユダヤ人たちから罪人として蔑まれていました。しかし、この人はユダヤ人たちを愛し、自分の僕(奴隷)の病のために奔走(ほんそう)したのです。イエス様は信仰を褒められたのです。ある金持ちは有り余るほどの富を持っていました。自宅の前で寝ている同胞の貧しいラザロに分け与えることはなかったのです。この人には厳しい罰が待っていたのです。ある旅人は追はぎに襲われて瀕死(ひんし)の状態にある人を助けたのです。イエス様は律法の専門家に「行ってあなたも同じようにしなさい」と言われたのです(ルカ10:25-37)。知的信仰は「救い」の役に立たないのです。旧・新約聖書の最後のヨハネの黙示録はイエス様の再臨で締め括られています。イエス様は「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる 」と言われるのです(ヨハネの黙示録22:12)。イエス様が再び来られる時、すべての国民が集められるのです。キリストの信徒たちも裁かれるのです。イエス様の警告を真剣に受け止めるのです。悔い改めて信仰の原点に戻るのです。言葉ではなく「行い」によって証しするのです。そして、「主イエスよ、来て下さい」と言うのです(ヨハネの黙示録22:20)。

2024年07月21日

「自分の十字架を担いなさい」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書10章26節から42節

「(敵対する)人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は(誰でも)、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は(誰でも)、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も(誰でも)、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は(誰でも)、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者(人々)は、それを失い、わたしのために命を失う者(たち)は、かえってそれを得るのである。」

「あなたがたを受け入れる人は(誰でも)、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は(誰でも)、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は(誰でも)、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は(誰でも)、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は(誰でも)、必ずその報いを受ける。」

(注)

・1アサリオン:1デナリオン(平均的労働者の一日分の賃金に相当する額)の16分の一です。

・人々の前でわたしを知らないと言う者:ペトロを想起するのです。

■ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。(マルコ14:66-72)

・イエス様による「神の国」の到来を示す言葉:

■イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人(人々)に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人(人々)に解放を、/目の見えない人(人々)に視力の回復を告げ、/圧迫されている人(人々)を自由にし、 主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(ルカ4:16-21)

■(洗礼者)ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人(人々)は見え、足の不自由な人(人々)は歩き、重い皮膚病を患っている人(人々)は清くなり、耳の聞こえない人(人々)は聞こえ、死者(たち)は生き返り、貧しい人(人々)は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。(マタイ11:2-6)

・「神の国」とこの世に関するパウロの認識:

■正しくない者(悪事を働く人々)が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをして(だまされて)はいけない。(性的に)みだらな者(たち)、偶像を礼拝する者(たち)、姦通する者(たち)、男娼(を行う人々)、男色をする者(たち)、泥棒(をする人々)、強欲な者(たち)、酒におぼれる者(たち)、人を悪く言う者(たち)、人の物を奪う者(たち)は、決して神の国を受け継ぐことができません。(1コリント6:9-10)

■人は皆、上に立つ権威(権力)に従うべきです。神に由来しない権威(権力)はなく、今ある権威(権力)はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は(だれでも)、神の定めに背くことになり、背く者(たち)は自分の身に裁きを招くでしょう。実際、支配者(たち)は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなた(がた)は権威者を恐れない(権力の恐怖から解放される)ことを願っている(のですか)。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう(権力による承認を得られるのでしょう)。権威者(権力)は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者(権力)はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。(ローマ13:1-4)

・ファリサイ派の人々:ユダヤ教の律法を生活の隅々に適用し、厳格に守ったのです。しかし、それは人々に見せるために行われたのです。彼らは偽善者なのです。

・律法学者たち:ユダヤ教の律法を専門的に解釈していた人々です。イエス様の主要な敵対的グループの一つです。

・敵対させるために:ミカ書7:6を参照して下さい。

・この小さな者の一人:クリスチャン宣教師のことです。

(メッセージの要旨)

*イエス様は生と死と復活を通して「神の国」(天の国)-神様の支配-を証しされたのです。キリスト信仰とは「神の国」の到来を福音として信じることなのです。キリスト信仰が誤解されているのです。福音が「罪の赦し」に縮小されているのです。キリストの信徒としての責務が疎(おろそ)かにされているのです。イエス様は神様から委ねられた使命のためにご生涯を奉げられたのです。「神様の御心」を実現するためには激しい対立さえも恐れられなかったのです。ファリサイ派に属する律法学者たちはイエス様が徴税人や罪人たちと食事していることを非難したのです。イエス様は「罪人たちを神様の下へ招くために来た」と言って反論されたのです(マルコ2:17)。それ故に迫害されたのです。イエス様は使徒たちを派遣するにあたって「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と言われたのです(マタイ10:16)。イエス様の弟子であると言う理由で地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるのです。家族にも分裂が生じるのです。兄弟は兄弟を、父は子を、子は親を殺すのです。イエス様の名前のために、すべての人に憎まれるのです。イエス様は弟子たちに覚悟を求められるのです。クリスチャンとは「キリストにつける者」と言う意味です。イエス様が十字架を背負われたように、自分の十字架を担った人がキリストの信徒と呼ばれるのです。キリスト信仰は安価な恵みではないのです。犠牲が伴うのです。「永遠の命」に与った人々はこの世に同調することは出来ないのです。御跡を辿(たど)るのです。「真理の剣」を高く掲げるのです。


*イエス様はユダヤ教の拠り所であるエルサレム神殿のあり方を公然と非難されたのです。過越祭-エジプトの圧政から解放されたことを記念する重要な祭り-が近づいた時です。イエス様はエルサレムへ上られたのです。神殿の境内で生贄(いけにえ)の羊や鳩などを売っている人々、座っている両替人たちを御覧になったのです。イエス様は縄で鞭(むち)を作り、動物たちをすべて追い出し、両替人の金をまき散らして「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と命じられたのです(ヨハネ2:13-16)。エルサレム神殿が腐敗していることに憤られたのです。エルサレム神殿に「祈りの家」の面影は見られないのです(イザヤ書56:7)。民衆を搾取する「強盗の巣」になっているのです(エレミヤ書7:11)。神殿機能が一時的に停止したのです。供え物の動物たちが確保されなければ、他国の通貨を清める両替が行われなければ神殿礼拝の正当性が失われるのです。ユダヤ教にとって最も重要な神殿礼拝が根底から揺らいでいるのです。大祭司カイアファを代表とする指導者たちにとって前代未聞のことが起こっているのです。神様への冒涜(ぼうとく)を断じて赦すことは出来ないのです。どのようにしてイエス様を殺そうかと謀議したのです。イエス様は誕生以来十字架の死を目指して歩まれた訳ではないのです。「神様の御心」-神の国の福音-が実現していることを証しされたのです。言葉だけではなく、「実力行使」によって神殿崩壊を警告されたのです。果たして、ローマ軍はエルサレム神殿を完全に破壊したのです(紀元70年)。

*「神の国」の福音を宣教するイエス様とユダヤ教の伝統に固執する人々の間に律法の解釈を巡って対立が生じているのです。イエス様は弟子たちに「恐れることなく、大胆に証ししなさい」と言われるのです。イエス様のお言葉には力があるのです。神様がイエス様と共におられるからです。イエス様は民衆の社会的、経済的、政治的窮状に心を砕かれたのです。信仰を自負するファリサイ派の人々や律法学者たちは最も重要な戒め-正義、慈悲、誠実を実行しないのです、既得権益に執着し、神様を軽んじて偽善者であり続けるのです。彼らに天罰が宣告されたのです(マタイ23)。使徒言行録は初代教会の信徒たちの多くがガリラヤから来た貧しい農民であったこと、イエス様が十字架上で政治犯として処刑された後も敵対する人々(指導者たち)から執拗に迫害されたことを伝えているのです(使徒1-8)。キリストの信徒たちは持ち物を共有していたので貧しい人は一人もいなかったのです。キリスト信仰は抑圧され、搾取されている人々には希望の光なのです。神様が御力を発揮して下さると信じているのです。勇気を出して家族関係を問い直し、指導者たちの不信仰と不正を告発するのです。キリスト信仰が恵みを受けるだけの信仰に陥(おちい)っているのです。イエス様はこのような信仰のあり方に警鐘を鳴らしておられるのです。キリストの信徒たちに曖昧(あいまい)な生き方は許されないのです。イエス様に従って「永遠の命」に与(あずか)るか、イエス様を拒否して「滅び」に至るかなのです。御心に適う人々は決して見捨てられないのです。

*預言者イザヤは「正義が造り出すものは平和であり/正義が生み出すものは/とこしえに安らかな信頼である」と言っています(イザヤ書32:17-18)、イエス様は山上の説教において「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。義(正義)のために迫害される人々は、幸いである、/天の国(神の国)はその人たちのものである」(マタイ5:9-10)と宣言されたのです。正義と平和は不可分なのです。いずれも「待っていれば訪れる」というものではないのです。人間の不断の努力が必要なのです。平和を希求するキリストの信徒たちは闘うことになるのです。「神様の御心」を軽んじる権力者たちと対峙するのです。剣なしでは平和は実現しないのです。このような視点が隅に追いやられているのです。個人的な罪の問題は強調されても、平和や正義に言及されることが極めて少ないのです。主な理由の一つは「神の国」を個人的な信仰心の問題として理解したパウロの影響です。パウロはイエス様から教えを受けたことや宣教活動に従事したこともないのです。ところが、キリスト信仰の有力な解釈者となっているのです。二つ目はローマ皇帝コンスタンティンがキリスト教を公認したことです(西暦312年)。このことが「神の国」の意味を変容するのです。権力者たちは支配を正当化するためにパウロの言葉「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」を引用するのです。「正当性」は言葉ではなく行いによって判断されるのです。

*「神の国」の福音は「罪からの救い」に留まるものではないのです。「人間の全的な解放」として実現するのです。ところが、クリスチャンに「永遠の命」のことは語られても、「自分の十字架」を担うことの厳しさが伝えられていないのです。この事実をもっと深刻に受け止めるべきです。キリスト信仰には行いが不可欠なのです。行いのない信仰は思いがけない悲惨な結果をもたらすのです(マタイ25:31-46)。イエス様は「わたしは柔和で、謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と言われたのです(マタイ11:29)。十字架の重みに耐えながら黙々と日々を過ごしている人々がいるのです。イエス様はこれらの人が涙を流し、眠れない夜を過ごしていることをご存知なのです。一方、イエス様の実像が歪められているのです。洗礼者ヨハネがイエス様について「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と言っています。人物像を屠り場に向かう穏やかで従順な小羊に重ねる人も多いのです。イエス様は平和、柔和、謙遜を大切にされたのです。同時に、正義、慈悲、誠実を貫かれたのです。イエス様は弟子たちに絶えず覚悟を求められたのです。キリストの信徒たちも様々な困難に遭遇するのです。幸いにも「涙と共に種を蒔(ま)く人は喜びの歌と共に刈り入れる」のです(詩編126:5)。イエス様も「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と約束されたのです(マタイ24:13)。お言葉を心に刻み、自分の十字架を担うのです。恐れることなく歩むのです。

2024年07月14日

「真理が見えない人々」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書9章24節から41節


さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方(預言者)が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。


イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者(人々)は見えるようになり、見える者(人々)は見えないようになる。」イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る(あなたたちが罪人であることに変わりはない)。」


(注)


・神様の業:この人が盲目になった原因が問題ではないのです。神様の癒しの業が現れる機会である点が重要なのです。

・預言者:一世紀には神様がローマ帝国からイスラエルを解放するために遣わされた預言者、王(救い主)と自称する人がたくさんいたのです。

・安息日:厳格に順守することが求められました。ところが、イエス様は「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」、さらに、ご自身を「安息日の主」と言われたのです(マルコ2:23-28)。ユダヤ教の指導者たちとの決定的な対立の要因となったのです。


・ユダヤ人たち:ファリサイ派の人々のことです。


・ファリサイ派の人々:会堂を実質的に管理・運営していました。社会的地位の高い議員の中にはイエス様を信じる人も多かったのです。しかし、会堂から追放されることを恐れて、自分たちの信仰を公にしなかったのです(ヨハネ12:42)。

・神は罪人の言うことはお聞きにならない:旧約聖書の詩篇34:16;66:18を参照して下さい。

・神様の御心:

■主は彼(モーセ)の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」(出エジプト記34:6-7)

■それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。(エゼキエル書18:30-31)

・人の子:


この呼称には三つの意味があります。第一は預言者です(エゼキエル書2:1-3)。第二は天の雲に乗って現れる終わりの時の審判者です(ダニエル書7:13-14)。今日の聖書の個所では、イエス様は預言された人の子であることを明らかにされたのです。他に「わたしとわたしの言葉を恥じる者(たち)は、人の子も自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときにその者(たち)を恥じる」(ルカ9:26)、「神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(ルカ18:8)などがあります。第三はこの世の人間を表しているのです(ルカ9:58)。

・見えない者(人々)は見えるようになり、見える者(人々)は見えないようになる:イザヤ書6:9-10からの引用です。イザヤ書35:5-6を併せてお読み下さい。

・ハーメルンの笛吹き男:物語の要旨は次の通りです。

ドイツのハーメルンという町にネズミがやたらに増えて人々は困っていました。そのような時に不思議な身なりをした笛吹き男が現れたのです。男は町の偉い人たちに自分をネズミ捕りとして紹介したのです。町に大金の報酬を約束させて、ネズミの駆除に取り掛かったのです。男の笛の音は町中のネズミを大きな川へ誘い出し一匹残らず溺れさせたのです。ところが、町の人たちはネズミがいなくなった途端、急にお金を払うのが惜しくなったのです。何のかんのと言ってお金を払おうとしないのです。とうとう笛吹き男は怒って帰ったのです。次の日曜日ハーメルンの町にまた笛吹き男が現れたのです。町角に立っていつかのように笛を吹き鳴らしたのです。町の子どもたちは不思議な笛の音につられて笛吹き男の後をついて行き山の洞穴に消えてしまったのです。子供たち(目の不自由な男の子と口の利けない男の子の二人を除く)と笛吹き男は二度とハーメルンの町に戻って来なかったのです。

●ハーメルン:中世の街並みが残るドイツの市です。現在の人口はおよそ57,000人です。緯度は北海道の最北端稚内よりもさらに北です。「ハーメルンの笛吹き男」は笛吹き男と共に130人の子どもたちがこの町から姿を消した事件です。1284年6月28日に起こっています。一般的に、この事件は東ヨーロッパに集団移住させられたことと、当時人気の職業だった「ネズミ捕り屋」が合体した話だとされています。その他にも諸説あります。

(メッセージの要旨)

*イエス様は通りすがりに生まれつき目の見えない人を見かけられました。ユダヤ人たちは-イエス様の弟子たちも同様に-この人の目が見えなくなった原因を本人か両親の罪の結果と考えていたのです。しかし、イエス様はユダヤ教の伝統的な教えである障害と罪の関連を明確に否定されたのです。「神様の愛が現れるためである」と新たな解釈を示されたのです。「力ある業」を用いてその事実を証明されたのです。ところが、ファリサイ派に属する指導者の中には生まれつき目の見えなかった人が見えるようになったことを信じない人々がいたのです。不信仰な人々はたとえ死者の中から生き返った人があってもその人の言うことを信じないのです(ルカ16:31)。しかも、イエス様をメシア(油注がれた者―キリスト(救い主)―であると公言する者がいれば会堂から追放すると決めていたのです。両親を呼び出して真相を確かめようとしたのです。両親は子が生まれつき目の見えなかったこと、今見えるようになったこと以外は分からないと説明したのです。詳しくは本人に聞いて下さいと言ったのです。ファリサイ派の人々は生まれつき盲人であった人を再び呼び出したのです。暗闇から解放されたことを喜ぶのではなく、癒しの業が「安息日」に行われたことを非難しているのです。癒された本人は「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今見えるということです」と反論したのです。モーセの座に着いている人々が罰せられ、イエス様を神の子と信じる人が「永遠の命」に与ったのです。

*「神の国」(天の国)-神様の支配-が到来しているのです。イエス様は見える形で証しされたのです(ルカ7:20-23)。すべての人に福音(良い知らせ)が届けられているのです。エリコの町で盲人バルティマイを見えるようにされたのです。この人は見えるようになるとイエス様に従ったのです(マルコ10:46-52)。ガリラヤ地方では二人の盲人を癒されたのです(マタイ9:27-31)、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人を、ものが言え目も見えるようにされたのです(マタイ12:22)。ベトサイダの村では盲人の目に唾(つば)をつけ、両手をその目に当てて癒されたのです(マルコ8:22-26)、エルサレムでは神殿の境内で売り買いをしていた人々を皆追い出した後、そばに寄って来た盲人たちを見えるようにされたのです(マタイ21:14)。目の病気は日常的に起こっていました。不衛生が大きな原因だったのです。特に、きれいな水が不足していたのです。しかも、治療方法がほとんど確立されていなかったのです。目が不自由な人々も生きて行かなくてはならないのです。しかし、これらの人が適切な仕事を見つけ自立することは極めて困難でした。多くの人は路上で物乞いをしたのです(ルカ18:35)。幸いなことに、生まれつき目の見えない人は両親の庇護の下にいたのです。癒された人々は「神の国」の福音を聞いただけではないのです。実際に目が見えるようになったのです。イエス様の教えが真実であることを経験したのです。イエス様の癒しの業は苦難に喘ぐ人々を信仰へと導いたのです。

*キリスト信仰が「霊的な救い」のみを目的にしているかのように誤解されているのです。「神の国」は人間の「全的な救い」としてしかるべき時に完成するのです。イエス様はそのことを部分的に先取りしておられるのです。生まれつきの盲人はイエス様の癒しの業を通して「救い」に与ったのです。一方、モーセの弟子を自負するユダヤ人たちは不信仰の故に「永遠の命」から遠ざかったのです。イエス様は信じられない人々に業を信じなさいと言われました(ヨハネ10:37-38)。神様がイエス様と共におられなければそのような「力ある業」は実現しないからです。イエス様の業と信仰を切り離すことは不信仰なのです。信仰と行いは表裏一体なのです。行いの伴わない信仰はそれだけでは死んだものなのです(ヤコブ2:17)。グリム兄弟の「ハーメルンの笛吹き男」は世界中の子供たちに親しまれています。物語については様々な解釈が行われています。キリスト信仰のあり方が問われていることに注目したいのです。町の偉い人たちはネズミが駆除された後に笛吹き男に約束したお金を払わなかったのです。ところが、次の日曜日には神様の祝福を求めて礼拝に出席しているのです。人々にとって信仰は魂の救いであって、正義や誠実さと関りがないのです。行いのない信仰を非難するかのように、子供たちの失踪事件は大人たちが皆教会でお祈りをしている時に起こったのです。ただ、目の不自由な男の子と口の利けない男の子の二人は他の子どもたちから遅れたので助かったのです。グリム兄弟の作品はいずれも何らかの真実を語っているのです。


*イエス様は「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」と言われたのです。イエス様に対する応答の如何(いかん)が既に裁きになっているのです。イエス様を信じた生まれつきの盲人は「神の国の本質」が見えるようになったのです。信仰を自負するユダヤ人たちは「福音の真理」を受け入れられないのです。誰でも謙虚にならなければ「神の子」に近づくことは出来ないのです。ファリサイ派の人々はモーセの律法を熟知しているのです。しかし、それらを実行しないのです。真に偽善者なのです。「見える」と言う人々は神様の位置に自分たちを置いているのです。人間が作った教義(神学)に基づいて「救い」を確信しているのです。ある人を義人、別の人を罪人として選別しているのです。イエス様は山上の説教で「人を裁いてはならない」と言われたのです(マタイ7:1-5)。パウロも自分を戒めて「・・主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。・・」と言うのです(1コリント4:5)。人間に人の「救い」の有無(うむ)を決定する権限はないのです。神様はイエス様に裁きを一切任せておられるからです(ヨハネ5:22)。キリストの信徒たちはこのことを肝に銘じるのです。尊大な人々には真理が見えないのです。「永遠の命」を得られないのです。謙虚な人々には物事が正しく見えるのです。罪人として蔑まれた人が信仰によって救われるのです。


*生まれつきの盲人は見えるようになったのです。イエス様を「救い主」として信じたのです。この人は「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません」と言っています。神様が共におられなければ起りえなかった出来事なのです。イエス様が神様のもとから来られたお方であることを確信しているのです。しかし、誤解を恐れずに言うならば信仰は決して「救い」の保証ではないのです。信仰を貫くためには絶え間ない努力と良い行いが必要なのです。キリスト信仰を告白していないけれども、隣人-貧しい人々や体の不自由な人々-を愛している人々がいるのです。これらの人は「神様の御心」を具体化しているのです。一方、あなたの良い行いは認めるがキリスト信仰を表明していないから「救い」に与れない、信仰があるから良い行いは必要ではないという人々もいるのです。信仰と行いが分離されているのです。キリスト信仰とは「神の国」の福音に与り、それを建設することなのです。分離して論じること自体が誤っているのです。人間の罪は神様への畏れ(恐れ)を無くしたことから始まるのです。「神様の御心」が人間の教義によって恣意的に変容されているのです。イエス様は弟子たちに徹底して謙虚になることを教えられたのです。そうしなければ「永遠の命」に与れないからです(マタイ18:1-5)。キリストの信徒たちはイエス様の生き方に倣(なら)うのです。最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実践するのです。選択の問題ではないのです。「救い」の要件なのです。

2024年07月07日

「財産の使い方」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書16章1節から14節

イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口(非難)をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』

また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富(この世の富)で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ(神の子であるという観点から対応しなければ)、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのもの(あなたがに属するもの)を与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。

(注)

・金持ち:イエス様は「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われました。ここに、イエス様のお考えが表れています。ただ、神様はこれらの人の「救い」を断念された訳ではないのです。マタイ19:24;マルコ10:25;ルカ18:25を参照して下さい。

・富:「マモン」から訳出された言葉です。「マモン」はお金のことです。そこには軽蔑的な意味が込められているのです。貪欲の「神」を表しているからです。

・不正な富:金持ちの多くは律法の規定に反して蓄財しているのです。

■もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない。(出エジプト記22:24)

■あなたたちは、不正な物差し、秤、升を用いてはならない。正しい天秤、正しい重り、正しい升、正しい容器を用いなさい。わたしは、あなたたちをエジプトの国から導き出したあなたたちの神、主である。わたしのすべての掟、すべての法を守り、それを行いなさい。わたしは主である。(レビ記19:35-37)

・管理人:一般的に良く訓練(教育)を受けた奴隷のことです。重要な仕事-管財-を任されていたのです。この世の子を代表しているのです。

・無駄遣い:金持ちが不正な管理人と呼んでいます。しかし、管理人が財産を横領したとか、何かを盗んだということではないのです。金持ちの貪欲な目的-利益優先―を遂行しないことです。お金に執着する人々にとっては職務怠慢なのです。

・パトス:約23リットルです。

・コロス:約230リットルです。


・抜け目のない:金持ちの立場から発せられた言葉です。「思慮ふかい」、「的確な」とも訳せる言葉です。管理人が「悪い人物である」という前提に立って翻訳されているのです。

・光の子:神様の子のことです。ヨハネ12:35-36を参照して下さい。しかし、富の誘惑に晒(さら)されているのです。

・太宰治:小説家、本名は津島修治です。1909年に生まれ1948年に没しています。「斜陽」、「走れメロス」、「津軽」、「人間失格」が有名です。

・永遠の住まい:「神の国」あるいは「永遠の命」を表しています。

(メッセージの要旨)

*管理人には財産管理を適切に行い、資金を効率よく運用し、最大限の利益をもたらすことが期待されているのです。ところが、金持ちは管理人が財産を無駄遣いしている-金持ちの利益を損なっている-という知らせを受け取ったのです。金持ちはこの人を不正な管理人と呼んでいます。しかし、私的に流用するなどの犯罪に手を染めた分けではないのです。金持ちの意向-利益第一主義-に沿った働きをしなかっただけなのです。お金の使い方がその人の「救い」を決定するのです。解雇通告を受けた管理人は就職先を模索するのです。債務者たちの証文を書き直させるのです。発想は「神様の御心」に適っているのです。イエス様は自らの職と引き換えに、不当な条件で貸し付ける金持ちを批判した管理人に「救い」を約束されたのです。マタイ16章は人間の貪欲に対する警告で貫かれているのです。この話の後に金に執着するファリサイ派の人々が厳しく批判されたのです。家の門前で横たわる貧しいラザロに援助の手を差し伸べなかった金持ちが死後に厳しく罰せられたのです。陰府(よみ)で炎にもだえ苦しんでいるのです。富に対する姿勢がその人の「救い」を左右するのです。イエス様は神様と富との両方に仕えることは出来ないと言われたのです。キリスト信仰の本質に関わるお言葉が恣意的に解釈されているのです。キリストの信徒たちが富との決別に逡巡しているのです。一方、この世の子が「神様の御心」を実践しているのです。「信仰告白」ではなく「行い」によって神の子であることが証明されるのです。立場を明確にしない信仰は空しいのです。

*この話を聞いたのは弟子たちだけではないのです。金に執着するファリサイ派の人々もいたのです。彼らに「悔い改め」を求められたのです。キリスト信仰において「富の問題」が曖昧にされてはならないのです。金持ちが不正に蓄財しているのです。管理人も不正に加担し(させられ)ているのです。管理人は財産を無駄遣いしているのです。金持ちの意向に沿った使い方をしていないのです。金持ちは職務怠慢を許さないのです。解雇するのです。管理人は債務者たちからだまし取った金額を返還して新しい就職先を確保しようとするのです。イスラエルの人々の困窮生活の原因は高額な税にありました。もう一つは負債です。農民たちの収入のおよそ半分はこれらの支払いに充当されたのです。生活は苦しかったのです。来年に備える農産物(種子など)は残らなかったのです。新しく作付けをするために、再び借金しなければなかったのです。青森県五所川原市金木にある太宰治(ペンネーム)の生家「斜陽館」(記念館)を訪れる機会がありました。津島家は大地主でした。一階の土間で銀行業務が行われたのです。小作人たちが地主に融資を申し込み、あるいは返済の猶予を願い出たのです。貧しい農民たちは凶作で苦しみ、生きて行くために娘を「奉公」に出したのです。税と借金はイスラエルの人々にとって深刻な問題でした。多額の負債を返済できなかった人々は土地、財産を処分したのです。労働力として貴重な本人や長男を奴隷として売りに出したのです。妻や他の子どもたちを売ることもあったのです。管理人の行為はこれらの人々を助けたのです。

*「神の国」の福音が誤解されているのです。「罪からの救い」に縮小されているのです。キリスト信仰とは「神の国」の建設に参画することなのです。ところが、神の子がそれを実践していないのです。イエス様は管理人を例に挙げてキリストの信徒たちに警告しておられるのです。管理人は就職先を確保する手段として主人の負債を用いたのです。目的は債務者たちに「恩を売ること」でした。ただ、手法は「神様の御心」に適っているのです。管理人は債務者たちの債務状況を的確に把握しているのです。負債のある人を順次呼んで律法の規定に従って金利分を減額したのです。金持ちは管理人の「抜け目のないやり方」を苦々しく思っているのです。律法に反して蓄財している金持ちは管理人を公然と非難できないのです。債務を軽減された人々は管理人に心から感謝したのです。イエス様は管理人の「隣人愛」を誉(ほ)められたのです。金持ちが不正に得た富を用いて-正しい経済活動を通して-友だちを作っているのです。この世の子が不正な富に正しく対応しているのです。ところが、神の子らは「富の問題」に真剣に取り組んでいないのです。神の子らの姿勢が曖昧である限り、本当に価値のあるもの-神の国の福音-を任せていただけないのです。管理人は金持ちの悪業に疑問を呈することなく、黙々と働いていれば現在の職を失うことはなかったのです。しかし、律法に反する金持ちのビジネス方針に心を痛めていたことは確かなのです。無駄遣いの内容は語られていないのです。債務者たちや貧しい人々への配慮であったことなどが推測されるのです。

*イエス様は「律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消え失せる方が易しい」と言われたのです(ルカ16:17)。律法を大切にしておられるのです。しかし、人々が律法を軽んじているのです。律法は経済活動について様々な規定を設けています。貧しい人々に対する横暴を厳しく戒めているのです。神様の命令は必要とする人々に必要なものを惜しみなく与えることです。「・・貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。『七年目の負債免除の年が近づいた』と、よこしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい。その同胞があなたを主に訴えるならば、あなたは罪に問われよう。彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない」と言われたのです(申命記15:7-10)。ところが、金持ちたちは人々の弱さに乗じて高利で貸し付けているのです。不正な物差し、秤、升を用いて暴利をむさぼっているのです。彼らには天罰が必ず下るのです。イエス様が宣教された「神の国」の根本理念は「神様と隣人」を愛することです。神様は戒めを実行する人々を祝福されるのです。イエス様は「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」と言われたのです。言い換えれば、光の子らが自分の仲間に無関心になっているのです。この世の富に執着しているからです。キリストの信徒たちが律法の中で最も重要な戒めを順守していないのです。

*金持ちの立場からすれば必要な支出を抑えてでも最大限の利益を追求することは当然なのです。管理人の様々な配慮はすべて無駄遣いとして映るのです。金持ちは律法の規定に反して不当な利息を課して儲(もう)けているのです。あるいは計量をごまかして利益を得ているのです。イエス様は金持ちが不正に蓄財していることをご存じなのです。不正な商取引に携わっている管理人は「神様の御心」に適った生き方をしたいのです。解雇という人生の転機が管理人を神様の下へ立ち帰らせるのです。律法に基づいて不正に得た利益を債務者たちに返したのです。管理人は「無駄遣い」によって職を失うことになったのです。後に、別の家に迎えられたかどうか分からないのです。「永遠の住まい」に招き入れられたことだけは確かなのです。今日においても、イエス様の時代と同じようにキリスト信仰に生きる人々の信仰が問われているのです。ビジネスに従事する人々が不正な取引に加担させられているのです。行政に携わる人々が特定の人々(政治勢力)に協力することを強いられているのです。悩みながら信仰と現実を切り離して解決する人々もいるのです。徴税人の頭で金持ちのザアカイは「主よ、・・だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と言ったのです。律法の規定(レビ記5:15-16)を上回る額で罪を償うのです。イエス様は「今日、救いがこの家を訪れた・・」 と言われたのです(ルカ19:1-10)。管理人の手法は律法に合致しているのです。光の子たちも信仰に堅く立って「神の国」の福音を証しするのです。

2024年06月30日

「神様が報いて下さる」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書6章1節から18節

「見てもらおうとして、人(人々)の前で善行をしない(敬虔さを表さない)ように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなた(がた)は施しをするときには、偽善者たちが人(人々)からほめられようと会堂や街角でするように、自分(たち)の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなた(がた)の施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなた(がた)に報いてくださる。」

「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人(人々)に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなた(がた)が祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなた(がた)の父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなた(がた)の父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人(たち)のようにくどくどと述べてはならない。異邦人(たち)は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧(かて)を今日与えてください。わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』もし人(人々)の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがた(の過ち)をお赦しになる。しかし、もし人(人々)を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

「断食するときには、あなたがたは偽善者(たち)のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者(たち)は、断食しているのを人(人々)に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなた(がた)は、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなた(がた)の断食が人(人々)に気づかれず、隠れたところにおられるあなた(がた)の父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなた(がた)の父が報いてくださる。」

(注)

・最も重要な戒め:第一は「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなた(がた)は心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなた(がた)の神、主を愛しなさい」(申命記6:4-5)、第二は「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」です(レビ記19:18)。イエス様もこれら二つを最も重要な戒めとされたのです(マルコ12:29-31)。

・施し:安息日にユダヤ教の会堂で施しや慈善寄付が行われていました。

・偽善者たち:律法学者たちやファリサイ派の人々を指しています。彼らの悪行はマタイ23章に詳述されています。

・祈り:ユダヤ人の成人男性はエルサレムに向かって毎日三回午前、午後、夕方に行います。食前と食後にも立ったまま、あるいは頭(こうべ)を垂れて祈ります。

・過ち:律法や慣習に違反することです。個人的(道徳的、倫理的)な観点から説明されることが多いのですが、返済期限を守らないことや返済不能なども含まれています。これらは社会的な要因が大きいのです。イエス様はローマ帝国の圧政に苦しんでいる貧しいユダヤ人キリスト者たちに「主の祈り」を教えられたのです。マタイ18:21-35を参照して下さい。

・断食:肉体に苦痛を課して自己を否定することです。食べ物や飲み物など体に必要なものを摂取しないだけでなく、体を清潔に保つことや楽しませたりすることも断つのです。レビ記16:29-31をご一読下さい。

(メッセージの要旨)

*「施し」、「祈り」、「断食」の戒めを遵守することはユダヤ教の重要な教えでした。イエス様は弟子たちにもそれらの実践を求められたのです。「神様の御心」に合致した行いは篤い信仰心や敬虔さの表れです。しかし、人は往々にしてそれを通して自分を喜ばせようとするのです。神様に栄光を帰すためではなく、自分を誇っているのです。偽りの信仰に堕(だ)しているのです。神様は心の奥底を見られるのです。イエス様も信仰を自負するファリサイ派の人々に「あなたたちは人(人々)に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるもの(富、地位、名誉など)は、神には忌み嫌われるものだ」と言われました(ルカ16:15)。偽善者と真のキリストの信徒の違いを明確にされたのです。「神様の御心」を実践する人は人間の賞賛を求めないのです。神様が報いて下さることを知っているからです。施しをするときは会堂や街角でしないこと、会堂や大通りの角に立って祈らないこと、沈んだ顔つきをして断食しないことは偽善に陥らないための警鐘なのです。イエス様は直前に「・・あなたがたの義(正義)が律法学者やファリサイ派の人々の義(正義)にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と言われたのです(マタイ5:20)。高慢と不正は大きな罪です。「死に至る病」なのです。それらは神様を欺いているからです。神様はそのような信仰を拒否されるのです。「主の祈り」は真に的を射ているのです。神様に日々「わたしたちを誘惑から守って下さい」と祈るのです。

*「施し」をすることはユダヤ人たちの義務なのです。モーセは「三年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、あなた(がた)のうちに嗣業(しぎょう)の割り当てのないレビ人や、町の中にいる寄留者、孤児、寡婦(か)がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。そうすれば、あなた(がた)の行うすべての手の業について、あなた(がた)の神、主はあなた(がた)を祝福するであろう」と言っているからです(申命記14:28-29)。神様は戒めを守る人々に報いて下さるのです。イエス様も隣人愛-貧しい人々や虐げられた人々への支援-を最も重要な戒めとされたのです。「祈り」は神様との直接対話です。誠実さが不可欠です。イエス様は「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と言われるのです。神様は祈る前から願いの内容を知っておられるのです。先ず「神様と隣人」について祈ることを教えられたのです。「主の祈り」は短い文章です。しかし、キリスト信仰の本質を要約しているのです。「わたしたちの」、「わたしたちを」、「わたしたちが」のように複数形が用いられているのです。「個人的な祈り」ではないのです。神様が「あなたたちは聖なるわたしの名を汚してはならない。・・わたしは・・エジプトの国からあなたたちを導き出した者である」と言われたことを起させるのです(レビ記22:32-33)。信仰共同体の一員であることを自覚し、同胞の苦難を担うことを命じられたのです。イエス様の教えは旧約聖書と律法に基づいているのです。

*「御名が崇められますように」は神様が軽んじられていることを表しています。当時、ローマ帝国がイスラエルを支配していました。皇帝は「救い主」(解放者)という称号で呼ばれていました。ユダヤ人たちにもローマ皇帝の名前を崇めることが強制されたのです。このような政治状況にあって、イエス様のお言葉は極めて過激です。「神様、地上の権力者(支配者)を裁いてご自身の御力と正義をお示し下さい」と解釈出来るからです。「御国が来ますように。御心が行われますように・・」も、文脈において「御名が崇められますように」と同じです。非情で不正に満ちた皇帝の支配が打ち砕かれて「神様の正義」が地上の隅々に及ぶことを願う祈りになっているのです。ユダヤ人のほとんどが貧しい生活を余儀なくされたのです。高額な税負担(収入の約40%)が大きな要因です。イエス様が誕生された年(紀元前6年ごろ)に皇帝アウグストゥスは全領土の住民に住民登録を命じているのです(ルカ2:1-3)。「主の祈り」が複数形になっている理由はこの点にあるのです。ユダヤ人たちは神殿税(会堂税)を納めるだけで良かったのです。ところが、新たに人頭税が課せられたのです。しかも、徴税人たちには税を上納した後、自分たちの裁量で追加の税を徴収することが許されたのです。彼らは民族の裏切り者として非難されたのです。罪人として蔑(さげす)まれたのです。税を払えない農民たちは悲惨でした。祖先から受け継いた土地を手放したのです。生産手段を失った人々は農園で過酷な日雇い労働に従事したのです(マタイ21:33-41)。

*「必要な糧を今日与えてください」は貧しい人々や虐げられた人々の切実な願いなのです。ローマ皇帝とその支配に協力している指導者たちが民衆に十分なパンを与えていないのです。イエス様は「わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/赦しましたように」と祈ることを教えられたのです。民衆は率先して「愛の教え」(ホセア書6:6)に従って負債を相互に免除するのです。「わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください」には苦痛や艱難を回避するために権力者たちの不正を黙認し、富の誘惑に屈している現実が反映されているのです。民衆はローマ帝国に協力して平和を維持するという誘惑に晒(さら)されているのです。信仰に堅く立って歩めるように願っているのです。「断食」は神様の前に自分を低くすることです。古くから受け継がれた悔い改めの儀式なのです。イスラエルの民は主を離れて異教の神々(バール)やアシュトレト(女神)を拝んでいたのです。士師サムエルは罪を犯した民に「イスラエルを全員、ミツパに集めなさい。あなたたちのために主に祈ろう」と訴えたのです。人々はミツパに集まると、水をくみ上げて主の御前に注ぎ、その日は断食し「わたしたちは主に罪を犯しました」と言ったのです(サムエル記上7:5-6)。「断食」は悔い改めを見える形で表しているのです。偽りがあってはならないのです。ファリサイ派の人々は信仰心の篤さを自負しているのです。「断食」は見せびらかすための手段です。イエス様は偽善を厳しく批判されたのです。

*キリストの信徒たちは「施し」(隣人愛)、「祈り」(神様との対話)、「断食」(悔い改め)を実行するのです。そのような生き方によって神様に栄光を帰すのです。ところが、いつの間にか自分を誇る手段になっているのです。誘惑に陥らないように日々警戒するのです。「主の祈り」には当時の社会的背景が反映されているのです。神様は権力者たちの圧政に喘(あえ)ぎ、窮乏生活に苦しむ人々の悲痛な叫びに応えられるのです。ご自身に信頼する人々に勇気と希望を与えて下さるのです。ユダヤ教の伝統的な祈りにも合致(がっち)しているのです。「アブラハム、イサク、ヤコブの神」のような言葉使いが見られないのです。「イエス様の御名によって」、「救い主の御名を通して」のようなキリスト教的な表現もないのです。「主の祈り」はユダヤ教、キリスト教を超えた普遍的な祈りなのです。困難を覚えるすべての人の慰めになっているのです。イエス様はユダヤ人たちが交際しなかったサマリア人たちにも「神の国」の福音を届けられたのです(ヨハネ4:39-42)。ローマ帝国の力による支配の担い手である兵士(百卒長)の息子を癒されたのです(マタイ8:5-13)。神様はご自身の民を決して見捨てられないのです。「もし同胞が貧しく、自分で生計を立てることができないときは、寄留者ないし滞在者を助けるようにその人を助け、共に生活できるようにしなさい」と人々に命じられたのです(レビ記25:35)。最も重要な戒め-正義、慈悲、誠実-を実践して「神様の愛」にお応えするのです。神様は必ず報いて下さるのです。

2024年06月23日
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