Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書9章33節から41節
一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない(反対しない)者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
(注)
・カファルナウム:ガリラヤ湖の北西に位置する町です。イエス様の宣教の拠点です。
・子供:必ずしも、謙遜のことを意味しないのです。当時の子供は父親の所有物でした。それ故、無力な人(権力や財力を持たない人)を象徴(しょうちょう)しています。最も低い地位にある人々のことを指しているのです。
・ユダヤ人の祈祷師(きとうし):ユダヤ教やキリスト教の著名な指導者たちの名前を使って悪霊を追い出していました(使徒19:11-20)。
・キリストの弟子:12使徒、宣教師たち、最近改宗した信徒たち、社会的地位の低い人々、経済的困窮者たち、信仰の弱い人々などがいました。
・悪魔:サタン、誘惑する者、あるいは告発する者と呼ばれています。新約聖書には多く登場します。マタイ4:1-11、ルカ10:18、19、ヨハネ13:2、27、第1ペテロ5:8、ヨハネの黙示録12、13:1-4、20:1-3、7-10などです。ヨブ記1,2も参照してください。
・イエス様の憤(いきどお)り:他にも「イエスは怒って人々を見回し」があります(マルコ3:5)。日本語訳では「怒り」を和らげた表現になっている個所も見られるのです。原文に沿って訳せば「深く憐れんで」は「怒りに満ちて」(マルコ1:41)、「厳しく注意して」は「怒りで鼻を鳴らし」(マルコ1:43)となります。
(メッセージの要旨)
*聖書の個所は異なった話題にも関わらず意味するところが共通しているのです。12弟子はお互いに自分の信仰心の篤さを誇っていたのです。キリストの信徒としての生き方から完全に逸脱(いつだつ)しているのです。当時、子供や妻(女性)は父親や夫の所有物のように扱われていました。イエス様は使徒たちの不信仰を戒めるために、軽んじられている子供を例に挙げられたのです。キリスト信仰の根本理念は最も低い地位に置かれている人々に心を砕くことなのです。信仰の有無(うむ)は律法の認識ではなく、「行い」によって証明されるのです。「永遠の命」はイエス様を「救い主」として信じる信仰によって与えられるのです。ただ、「救い」に与った信徒たちには責務-人に仕えること-があるのです。使徒のヨハネには自分たちだけがキリスト信仰の本流に属しているという尊大さがあるのです。イエス様は傲慢(ごうまん)な態度を叱責(しっせき)されたのです。イエス様のお側で教えを受けていた12弟子すら福音の真理を理解していないのです。キリスト信仰を代表しているかのように自負する教派や信徒たちが見られるのです。自己に対する過大評価は大きな罪なのです。自分の組織や信仰を自負しても、他の人から賞賛を受けても、終わりの時における「祝福」や「救い」の保証にはならないのです。イエス様が神様から委(ゆだ)ねられた権威に基づいてそれぞれを裁かれるからです(ヨハネ5:22)。罪を自覚し悔い改めるのです。隣人に奉仕するのです。神様はこれらの人を憐れんで下さるのです。イエス様の教えを心に刻むのです。
*直前にイエス様は「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言われたのです。ところが、使徒たちは「だれがいちばん偉いか」について議論していたのです。グループに属する人々がこのテーマで論じることは一般的に行われていました。使徒たちはイエス様と寝食を共にしていました。イエス様が地上に遣わされた意味を誰よりも知っているのです。ところが、彼らの関心事は天上と地上の地位や名声のことなのです。イエス様の苦悩や悲しみへの無関心に驚かされるのです。今日のキリストの信徒たちも例外ではないのです。「自分の救い」に腐心しているのです。イエス様のお言葉を深刻に受け止めるのです。「神の国」(天の国)-神様の支配-において一番偉い人とは仕えられる人ではなく、仕える人なのです。律法を厳格に守っている人々から蔑(さげす)まれ、見捨てられた人々-貧しい人、心身に障害のある人、徴税人、娼婦、罪人たち-は社会の隅で生きているのです。これらの人は「救い」(解放と自由)を求めているのです。別の個所においてキリストの信徒たちの安易な信仰理解に警鐘が鳴らされています。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることは出来ない」のです(マタイ18:3)。正しい信仰と行いがなければ人は「救い」に与(あずか)れないのです。キリスト信仰を標榜(ひょうぼう)する人々は子供たち-社会の底辺で喘(あえ)ぎ苦しむ人々-に視線を注ぐのです。これらの人の重荷を取り除くために共に歩むのです。「行い」によって自分を低くするのです。
*イエス様の真のお姿が歪(ゆが)められているのです。日本語訳がそれを助長している場合があるのです。大切なことを伝えられる時には怒りの感情を表されたのです。ある時、イエス様に触(ふ)れていただくために、人々が子供たちを連れて来ました。弟子たちはこれらの人を叱(しか)ったのです。ところが、イエス様は憤(いきどお)られたのです。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨(さまた)げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。・・」と言われたのです(マルコ10:13-16)。安息日に手の萎(な)えた人を癒(いや)すことに反対する人々(マルコ3:1-6)に、死んで四日も経ったラザロを甦(よみがえ)らし、死が人間を支配していること(ヨハネ11:28-44)に怒られたのです。「神の国」の福音(良い知らせ)は虐(しいた)げられた人々に優先的に届けられるのです。道端に座っていた二人の盲人はイエス様が通られると聞いたのです。「わたしたちを憐れんで下さい」と叫(さけ)んだのです。イエス様に従う大勢の群衆が彼らを黙(だま)らせようとしたのです。イエス様は二人を見えるようにされたのです。御業によって反論されたのです。彼らはイエス様の群れに加わったのです(マタイ20:29-34)。「神の国」に招かれる人々とは信仰心を誇る人々、律法や神学理論に精通した人々ではないのです。イエス様の教えと力ある業に神様が共におられることを信じた人々です。「神様の御心」を実現する人々は祝福されるのです。これらの人に一杯の水を与えた人々も同じなのです。
*天使の中にも傲慢によって天上から追放された者がいたのです。それがサタンです。「さて、天で戦いが起こった。(大天使)ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、・・地上に投げ落とされたのである。・・」(ヨハネの黙示録12:7-9)。天使は神様に仕える天的な存在です。イエス様の誕生に関わって天使が遣わされました。「神様の御心」を伝える大きな役割を果たしたのです。ところが、天使も罪を犯すのです。堕落(だらく)した天使と呼ばれています。預言者イザヤが「かつて、お前は心に思った。・・雲の頂に登っていと高き者(全能の神)のようになろうと。・・」と表現しています(イザヤ書14:12-15)。神様と等しい者になろうとすること-神様を軽視する思いと振舞い-は最も大きな罪なのです。神様は傲慢の罪に厳しい罰を下されるのです。人は道徳的な罪に厳しいのです。傲慢の罪には寛大なのです。サタンのように自分を神様に等しい者としないまでも、神様に最も近い人間として振舞うことが「信仰の名」によって行われているのです。イエス様が警告されたように傲慢の罪は重大な結果をもたらすのです。サタンは赦されることなく天から追放されたのです。身近な弟子であっても悔い改めなければ「神の国」に入れないのです。キリスト信仰によって「救い」が確定した訳ではないのです。胆(きも)に銘じるのです。
*罪を犯さない人はいないのです。ところが、罪の自覚がなければその人にとって悔い改める理由はないのです。「神の国」における評価にこの世の基準は適用されないのです。「すべての人に仕える者になりなさい」を実行した人々だけがそれを得るのです。傲慢の罪は他の様々な罪よりもはるかに大きいのです。イエス様のご命令は使徒たちとって意外でした。彼らは指摘されて初めて「神の国」に入れないほどの大きな罪を犯していることに気づいたのです。人は信仰によって無条件で「神の国」に受け入れられるのではないのです。キリストの信徒たちには信仰の内実を証明する「行い」が求められるのです。キリスト信仰に生きることは簡単ではないのです。神様は人々が尊ぶもの-社会的地位や名声など-を忌み嫌われるのです(ルカ16:15)。神様の前に自らを低くすること、貧しい人々や虐げられた人々(隣人)に奉仕することを命じておられるのです(マタイ22:37-40)。神様と富の両方に仕えることは出来ないのです(ルカ16:13)。富を必要としている人々に施すことが義務付けられているのです。これらを実行することが「永遠の命」に至る道なのです。罪とは「神様の御心」から離れて生きていることです。特に、傲慢の罪は死に至る病です。キリストの信徒たちは日々自己を検証するのです。ただ、傲慢の罪の重大さに気づいている人は極めて少ないのです。イエス様のお言葉に耳を傾けるのです。克服する方法が示されているのです。視点を変えるのです。社会の底辺で苦しんでいる人々に目を向けるのです。全力で仕えるのです。