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洗礼者ヨハネが捕らえられた後、イエス様はガリラヤ地方へ行き、福音(良い知らせ)を宣べ伝えて「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたのです(マルコ1:14-15)。イエス様は復活された後も、使徒たちに「神の国」について話されたのです(使徒1:3)。キリスト信仰の中心メッセージは「神の国」-神様の支配-にあるのです。

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「イエス様の視点」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書12章38節から13章2節

イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、正装して歩くことや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望んでいる。また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

イエスは献金箱の向かいに座り、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。そこへ一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「よく言っておく。この貧しいやもめは、献金箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

(注)

・律法学者:律法の専門家です。多くはファリサイ派に属していました。律法主義に固執し、愛の観点から律法を解釈されるイエス様と鋭く対立したのです。

・レプトン銅貨:最小の貨幣単位です。1デナリオン(平均的労働者の1日の賃金に相当する価値)の128分の一です。仮に1デナリオンを今日の通貨で換算して6,400円とすれば、50円です。やもめは一日100円で生活していたことになります。

・クァドランス:ローマの青銅貨幣です。1デナリオンの64分の一です。

・律法学者たちやファリサイ派の人々の罪:イエス様は彼らの行いを厳しく非難されました。以下はマタイ23章の抜粋です。機会がありましたら全体を通してご一読下さい。


■律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない(2-4)。・・律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷(はっか)、いのんど、茴香(ういきょう)の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが(23)。・・律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている(27-28)。・・蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか(33)。

●ファリサイ派の人々:律法を日常生活に厳格に適用した人々です。ただ、言うだけで実行しなかったのです。彼らは偽善者なのです。

●薄荷(はっか)、いのんど、茴香(ういきょう):最も小さなハーブです。


・やもめ:家父長(男性中心の)社会にあって 死別あるいは離婚されて一人身となった彼女たちは窮乏生活を余儀なくされたのです。


■災いだ、偽りの判決を下す者/労苦を負わせる宣告文を記す者は。 彼らは弱い者の訴えを退け/わたしの民の貧しい者から権利を奪い/やもめを餌食とし、みなしごを略奪する(イザヤ書10:1-2)。


■万軍の主はこう言われる。正義と真理に基づいて裁き/互いにいたわり合い、憐れみ深くあり やもめ、みなしご/寄留者、貧しい者らを虐げず/互いに災いを心にたくらんではならない。」ところが、彼らは耳を傾けることを拒み、かたくなに背を向け、耳を鈍くして聞こうとせず、心を石のように硬くして、万軍の主がその霊によって、先の預言者たちを通して与えられた律法と言葉を聞こうとしなかった。こうして万軍の主の怒りは激しく燃えた(ゼカリヤ書7:9-11)。


■裁きのために、わたしはあなたたちに近づき/直ちに告発する。呪術を行う者、姦淫する者、偽って誓う者/雇い人の賃金を不正に奪う者/寡婦、孤児、寄留者を苦しめる者/わたしを畏れぬ者らを、と万軍の主は言われる(マラキ書3:5)。

●詩篇94:1-7も併せてお読み下さい。

・腐敗した神殿政治:イエス様は「神様の御心」に反する神殿を実力行使によって激しく非難されたのです。

■イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」(マルコ11:15-17)

・神殿の崩壊:西暦70年、ローマ軍はエルサレムに侵攻し、神殿を完全に破壊したのです。

(メッセージの要旨)

*エジプトの圧政から逃れるためにイスラエルの民を導いた預言者モーセは「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏(おそ)るべき神、人を偏(かたよ)り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる」と言っています(申命記10:17-18)。律法に精通し、遵守(じゅんしゅ)しているように見える律法学者たちが貧しいやもめたちを食い物にしているのです。マタイ23章は彼らの偽善を詳細に記述しています。イエス様は指導者たちに天罰を宣告されたのです。一方「この貧しいやもめは、献金箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」と言われたのです。多くの人は出来事を「信仰のあり方」への言及として理解しているのです。律法主義者たちの強欲に憤(いきどお)ることはないのです。生活費のすべてを捧げたやもめの行く末に心を砕(くだ)くこともないのです。イエス様が神殿政治の腐敗を告発し、社会の底辺で苦しんでいる人々と共に歩んでおられるのです。ところが、弟子たちの視線は神殿の壮大さに向けられているのです。内包する様々な矛盾に関心を寄せることはないのです。キリスト信仰の真髄(しんずい)は正義、慈悲、誠実を実行することにあるのです。キリストの信徒たちの使命は「声なき民」の声を代弁することなのです。いつの時代においても「神様の御心」を軽んじる神殿や教会はいずれ崩壊するのです。

*旧約聖書は搾取(さくしゅ)され、貧しさに喘(あえ)ぎ、公の援助に依存する寡婦の実態を伝えています。神様は「寄留者を虐待(ぎゃくたい)したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなた(がた)が彼(ら)を苦しめ、彼(ら)がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる」と言われたのです(出エジプト記22:20-23)。さらに「支配者らは無慈悲で、盗人(たち)の仲間となり/皆、賄賂(わいろ)を喜び、贈り物を強要する。孤児(たち)の権利は守られず/やもめ(たち)の訴えは取り上げられない」(イザヤ書1:23)、「・・他国人は虐げられ、孤児や寡婦は・・苦しめられている。・・おまえ(たち)の中には賄賂を取って流血の罪を犯す者、利息を天引きして金を貸したり、高利を取って隣人を抑圧する者がいる」(エゼキエル書22:7-12)と記されています。いずれも権力者たちや金持ちたちへの警告なのです、新約聖書においても「自分は信心深い者だと思っても・・(信仰心がないのにあるかのように)自分の心を欺(あざむ)くならば、そのような人の信心は無意味です。みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です」とあるように「信仰の本質」が明確にされているのです(ヤコブ書1:26-27)。


*イエス様はやもめの家を食い物にする律法学者たちを非難し、貧しいやもめの献金に焦点を当て、エルサレム神殿の崩壊を再び予告されたのです。中心テーマはやもめの信仰心の篤さではなく神殿政治の在り方なのです。指導者たちの不信仰と腐敗が問題になっているのです。大勢の金持ちがたくさんの献金を捧げていました。一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れたのです。イエス様は弟子たちの前でやもめの信仰心を高く評価されたのです。やもめが貧しくなった原因は律法学者たちの強欲にあるのです。彼女の家を食い物にしているのです。律法に関する豊富な知識や知恵をやもめのために使うのではなく、悪用して彼女の財産を奪い取っているのです。彼らの心は不信仰と放縦に満ちているのです。「神様の御名」によってやもめの生活が成り立たないような献金を要求するのです。イエス様はやもめの献金額を明らかにして、現状の献金制度を批判されたのです。神殿政治を担う人々が献金によって富を蓄積し、やもめのような貧しい人々は献金によって最低限の生活さえ維持出来なくなるのです。律法学者たちは貧しい人々の重荷を軽くするために指一本動かさないのです。彼らは貧しい人々に「神様の祝福」(永遠の命)から除外されないための要件として神殿への献金の必要性を教えているのです。指導者たちの罪は真に大きいのです。イエス様は彼らの偽善を断じて許されないのです。ご自身が再び来られる時にはやもめに代表される貧しい人々を苦しめた指導者たちと強盗の巣と化した神殿を罰せられるのです。


*キリスト信仰を理解する上でイエス様の時代のエルサレム神殿の性格を知っておくことはとても重要です。エルサレム神殿は神様が臨在される神聖な場所です。異邦人も含めて多くの人がこのような観点からエルサレム神殿を見ているのです。ところが、神殿はそれ以上の機能を果たしているのです。イスラエルの政治・経済・社会を統括する国家機関なのです。大祭司によって最高法院が招集され、国の命運を左右する意思決定が行われているのです。法廷が開かれるのもエルサレム神殿なのです。ローマ帝国の利益のために自国の民を犠牲にするという苦渋の決断はエルサレム神殿においてなされたのです。イスラエルの経済をコントロールするセンターです。今日の中央銀行の役割を果たし、蓄積された莫大な富を保管する金庫なのです。しかし、指導者たちによる神殿政治は「神様の御心」から遠く離れているのです。イエス様は強盗の巣と化したエルサレム神殿を「祈りの家」に戻すために実力行使をされたのです。ご自身を通して「神の国」-神様の支配-が目に見える形で到来していることを群衆の前で公然と宣言されたのです。イエス様の神殿批判が指導者たちの霊的欠如、神殿の商業化に対する神殿潔めとして説明されることがあります。こうした信仰理解は「神の国」への誤解から生じているのです。「救い」は罪の問題に留まらないのです。人間の「全的な救い」として具体化するのです。「神の国」の到来が受け継がれて来た神殿政治の終焉(しゅうえん)を告げているのです。イエス様は教会も役員制度も設けられなかったことを心に留めるのです。

*対照的な二人の姿が描かれています。一方は「神の国」を軽んじるのです。他方は貧しくても「神の国」を第一に求めて生きているのです。律法学者たち(ファリサイ派の人々)は権力や社会的地位、富をこよなく愛しているのです。見せかけの信仰心で人々をだまし、豊富な知識を用いてやもめのような貧しい人から財産をかすめ取っているのです。献金をしなければ「神様の恵み」(永遠の命)に与れないなどと脅(おど)しているのです。果たして、貧しいやもめは指導者たちの教えを守り、生活費のすべてを捧げているのです。孤児や寄留の民と共に、寡婦は社会の中で最も援助を必要とする人々です。これらの人の窮状に対応するために、モーセの律法は様々な条項を定めています。例えば「三年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、あなた(がた)のうちに嗣業の割り当てのないレビ人(たち)や、町の中にいる寄留者(たち)、孤児(たち)、寡婦(たち)がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。・・あなた(がた)の神、主はあなた(がた)を祝福するであろう」と記述されています(申命記14:28-29)。律法学者たちは律法の規定を知っているのです。その上で寡婦たちを食い物にしているのです。「神様の名」によって略奪が行われているのです。断じて許されないのです。利益を得ている人々は厳しく罰せられるのです。やもめの信仰心の篤さに注目されがちですが、神殿政治を担う指導者たちの偽善と不正が批判されているのです。キリストの信徒たちの「視点」が問われているのです。

2025年11月16日

「イエス様への誤解」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書6章1節から15節

その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。


(注)

・ヨハネの福音書は4章⇒6章⇒5章⇒7章と読むとつながりが良くなります。

・その後:イエス様が2回目のしるし(王の役人の息子の癒し)を行われた後(ヨハネ4:54)

・ガリラヤ湖(ティベリアス湖):聖書地図を参照して下さい。

・ティベリアス湖の向こう岸:ベトサイダ(イエス様のガリラヤ宣教における重要拠点)近郊のことです。

・過越祭:

■エジプトの国で、主はモーセとアロンに言われた。「・・その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない。・・」(出エジプト記12:1-14)
 
●ヘブライ人(イスラエルの民)がエジプトの圧政から解放され、荒れ野で天から降って来たマンナ(パンの一種)によって養われたことに感謝し(ヨハネ6:31-35)、酵母を入れないパンを七日間食べて当時の試練を想起するのです。ユダヤ教の三大祭りの一つです。およそ10万人がエルサレムに巡礼したのです。出エジプト記12:1-13:10、申命記16:1-8を参照して下さい。ヨセフとマリアは12歳のイエス様と一緒にエルサレムに巡礼しています(ルカ2:41-42)。イエス様の「最後の晩餐」は過越祭の直近あるいはその当日に行われました。

・ユダヤ教の三大祭り:過越祭(三月か四月)、七週祭(五月か六月)、仮庵祭(10月)です。

・フィリポ:12使徒の一人です。

・二百デナリオン:1デナリリオンは当時の平均的な労働者の1日分の賃金に相当します。例えば10,000円であれば200万円になります。


・大麦のパン:貧しい人々が主食にしていました。

・預言者:西暦1世紀には預言者を公言する多くの人がいたのです。「救い主」は神様から遣わされたことを証明するために、様々な「力ある業」を行うものと信じられていました。

・王(政治的指導者):当時多くのユダヤ人はモーセのような預言者が起こされること(申命記18:15)を願い、エリヤの再来(マラキ書3:23-24)を期待していました。一方、自分がその預言者であるとかローマ帝国から解放するために遣わされた「救世主」であると公言するリーダー(指導者)もいたのです。ローマの総督ポンティオ・ピラトは十字架に「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という罪状書きを掛けました(ヨハネ19:19)。「神の国」(天の国)の福音はこの世と相容れないのです。イエス様は権力者に政治犯として処刑されたのです。

・ティベリウス:洗礼者ヨハネとイエス様の宣教活動の間のローマ皇帝、在位は西暦14年から37年です。

・ヘロデ・アンティパス:紀元前4年に死去したヘロデ大王の息子、ガリラヤとペレアの領主です。イエス様はヘロデ大王の治世下で誕生されたのです。

(メッセージの要旨)

*四福音書が共通して取り上げているイエス様の奇跡物語の一つです。神様がすでに約束された出来事なのです。マリアはイエス様を胎内に宿している時、神様に賛美の歌を捧げています。「その憐れみは代々に限りなく、/主を畏(おそ)れる者(たち)に及びます。・・権力ある者(たち)をその座から引き降ろし、/身分の低い者(たち)を高く上げ、飢えた人(たち)を良い物で満たし、/富める者(たち)を空腹のまま追い返されます」と言っています(ルカ1:50-53)。神様は貧しい人々や虐げられた人々と共に歩まれるのです。イエス様は「神様の御心」を実現するためにこの世に遣わされたのです。四福音書の記述を比較すると「食べ物の提供」という点では同じように見えるのですが、ヨハネは他の福音書とは若干異なる視点から出来事を伝えているのです。民族の歴史にとって重要な意味を持つ過越祭には多くのユダヤ人がエルサレムへ巡礼し、神殿に捧げ物をしたのです。ところが、この大切な時期におよそ五千人の男が宗教的、政治的、経済的権力の中心地エルサレムではなく、イエス様が宣教の拠点とされた地方のガリラヤへ向かったのです。イエス様が「真の礼拝場所」であることを理解したからです。一方、ローマと闘う政治的指導者(王)として仰(あお)ごうとしたのです。イエス様は誤解を正されるのです。先ず「力ある業」によって空腹を満たされたのです。男たちは先祖がモーセによってエジプトの圧政から解放され、荒れ野でマナを食べたことを想起したのです。「神の国」が到来しているのです。福音が告げられているのです。

*イエス様はガリラヤを宣教の拠点としながらもユダヤ人の祭りにはエルサレムへ上られたのです(ヨハネ5:1)。イエス様がユダヤ教の記念日を遵守されていたことが分かります。ヨハネは「食べ物の提供」の奇跡がガリラヤ湖の北東周辺で起こったことを記述しています。この湖をティベリアス湖と呼んでいます。ティベリアスはローマ皇帝ティベリウスの名前に因(ちな)んで領主ヘロデ・アンティパスが西暦26年頃に建設した新しい町です。ティベリアス、カファルナウム、マグダラ、コラジン、ベトサイダの村々には良い港があり、漁業が盛んでした。一方、ガリラヤは貧しい農村地域でもありました。農民たちは重税に喘ぎ、ヘロデ王朝に仕えるエリート貴族、ローマ帝国に税金を納める役人、祭司たちによって土地を奪われることも頻繁にあったのです。イエス様の教えと貧しい人々への共感は民衆の中に「神の国」の到来への熱い期待を生じさせたのです。カナの婚礼において水をぶどう酒に変えられた奇跡(ヨハネ2;1-11)やカファルナウムで王の役人の息子の病を癒された業(ヨハネ4:46-53)は弟子たちや人々を信仰に導いたのです。これらはイエス様が祭司たちに替(か)わってその重要な役割を担われたということに留まらないのです。神殿政治や宗教的権威の正当性がイエス様へ移行したことを宣言しているのです。神様が再認識されるのです。人間はイエス様を通して神様を知るのです。神様は宗教的指導者たちが教えて来たような厳しく、恐ろしいお方ではないのです。正義を基本とし、慈悲に満ち、誠実なお方なのです。

*イエス様が群衆の気持ちを引き付けたのは神様と人間の間が負債ではなく贈り物の関係であることを宣言されたからです。従来イスラエルにおいて神様の恵みや憐れみが人間の側の負債として教えられて来ました。このため、神様との間を執り成す祭司たちへの負債にもなったのです。負債は計上され後に回収されるのです。「神様への捧げ物」、「祭司たちへの献品(献金)」によって返済されるのです。神殿政治を担う指導者たちは負債の論理によって民衆を搾取しただけでなく、社会的、政治的にも彼らを支配したのです。イエス様は新しい道を示されたのです。「神様の愛」は無償で与えられるのです。イエス様は彼らに「・・どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい」と言われるのです(申命記15:7-8)。「・・貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない」のです(出エジプト記22:25)。「・・産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合は、二羽の山鳩または二羽の家鳩を携えて行き、一羽を焼き尽くす献げ物とし、もう一羽を贖罪の献げ物とする」ことによって清められるのです(レビ記12:8)。神様を愛する人々は自分を愛するように隣人をも愛するのです。不可能に見えることも人間の方から一歩踏み出せば神様がそれを実現して下さるのです。イエス様は貧しい人々の窮状を嘆くのではなく、具体的な解決策を提示されたのです。

*「神の国」の福音は言葉ではなく「行い」によって現実となるのです。ここにキリストの信徒たちの新しい生き方があるのです。イエス様はキリスト信仰の真髄(しんずい)を語っておられるのです。これまでの一般的な考え方とご自身の新しい道の違いを示すために、フィリポにおよそ五千人に食べ物を与えるための必要な経費を尋(たず)ねられたのです。これを聞いたアンデレは即座に不可能ですと答えたのです。イエス様は発想の転換を求められました。問題解決を図るための唯一の方法が「隣人愛」-最も重要な戒めの一つ-の実行にあることを再確認されたのです。男たちはイエス様から贈り物(食べ物)を受け取ったのです。「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」という教えを学んだのです(ルカ6:38)。持っている人々は持っていない人々を、金持ちたちは貧しい人々を支えるのです。権力のある人々は保護を必要とする人々のニーズを叶(かな)えるために最善を尽くすのです。神様への信仰を告白している人々は困難に直面している人々から取り立てるのではなく、これらの人々に必要なものを与えることに全力を注ぐのです。人々の要求が正当であるならば、それらを満たす「行い」は神様への聖なる捧(ささ)げものとなるのです。イエス様は「神の国」を「力ある業」によって証しされたのです。キリストの信徒たちもイエス様に倣(なら)って「与えること」を実践するのです。

*神様が命じられた新しい道に生きるキリスト者たちは最も重要な二つの戒め-神様と隣人を愛すること-を具体的に実践するのです(マルコ12:29-31)。しかし、神様を愛することに熱心であっても貧しい人々に必要なものを届けることに無関心であれば「救い」に与れないのです。イエス様が生命を賭(と)して「食べ物の提供」を行われたのです。イエス様だけでなく参加者たちを極めて危険な状況に晒(さら)すのです。ローマの許可を得ていない集会の首謀者や仲間たちは反乱の罪で十字架刑に処せられたのです。ヨハネは参加者たちを「人々」ではなく「男たち」であることを明確にしています。集まりが政治的であったことを強調しているのです。およそ5000人はローマ軍の連隊の兵士の数(6千人)に近いのです。参加者はイエス様の教えと不思議な業に預言者としての力を認めたのです。自分たちの王(リーダー)にしてローマの圧政と闘おうとしたのです。マルコの福音書には「それ(食べ物の提供)からすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた」と書かれています。イエス様は群衆がご自身について誤解していること、迫害の危険に直面していることをご存知なのです。ヘロデ・アンティパスの弾圧を避けるために弟子たちと群衆を急いで解散させられたのです。深い愛が表れているのです。「食べ物の提供」はイエス様が「神の子」であることを証明しているのです。同時に、キリストの信徒たちが「神の国」の建設に参画することを求めているのです。

2025年11月09日

「揺るぎない信仰」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書5章17節から26節

ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒瀆(ぼうとく)するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦(ゆる)すことができるだろうか。」イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れ(畏れ)に打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。

(注)


ファリサイ派の人々:律法を厳格に遵守するユダヤ教の一派です。学識の豊富さから民衆に尊敬されていました。しかし、イエス様は彼らを厳しく批判されたのです。その理由は彼らが偽善者だったからです。マタイ23:1-36を参照してください。一方、律法学者の多くはファイサイ派によるモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)(トーラ)の解釈を支持していました。イエス様と対立した律法学者たちはファイサイ派に属していました。

・律法学者たち:文書を記録する官僚であり、同時に学識を有する学者です。多くはイエス様に批判的でしたが、「先生,あなたがおいでになる所ならどこへでも従って参ります」と言った律法学者もいたのです(マタイ8:19)。

・主の力:天使はマリアに「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と明言したのです(ルカ1:35)。さらに、人々はイエス様の業に驚いて「一体、この言葉は何だ。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは」と言ったのです(ルカ4:36)。


・人の子:この呼称には三つの意味があります。第一は預言者です(エゼキエル書2:1-3)。第二は天の雲に乗って現れる終わりの時の審判者です(ダニエル書7:13-14)。今日の聖書の個所では、イエス様は預言された人の子であることを明らかにされたのです。他に「わたしとわたしの言葉を恥じる者(たち)は、人の子も自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときにその者(たち)を恥じる」(ルカ9:26)、「神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(ルカ18:8)などがあります。第三はこの世の人間を表しているのです(ルカ9:58)。

・災難、病気、心身の障害などが罪に由来するという伝統的なユダヤ人の考え方については申命記28-30章、エゼキエル書18章26-27節を参照して下さい。

(メッセージの要旨)

*ユダヤ教を代表するファリサイ派の人々や律法学者たちは祭司長や長老たちと共に宗教的権威(権力)を誇っていました。これらの人はイエス様を陥(おとしい)れる機会を虎視眈々(こしたんたん)と狙っていたのです。イエス様は多くの病人を癒(いや)しておられました。災難や病気は罪と深く結びつけられていました。生まれつき目の見えない人を見た弟子たちが、イエス様に「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですが。本人ですか。それとも両親ですか」と尋ねていることからも分かるのです。イエス様は「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業(わざ)が現れるためである」と答えられたのです(ヨハネ9:1-3)。心身の障害と罪との関連を完全に否定されたのです。イエス様は中風の人と運んできた男性たちをご覧になったのです。言葉のやり取りは一切ないのです。彼らの行動の中にご自身への信仰を確認されたのです。中風の人に「あなたの罪は赦された」と言われたのです。神様がご自身に「罪の赦し」の権限を委(ゆだ)ねておられることを明らかにされたのです(ヨハネ5:22)。ファリサイ派の人々や律法学者たちはイエス様のお言葉を神様への冒涜として非難したのです。罪の赦しや病気の癒しは神様しか出来ないからです。「癒しの業」が行われたのです。同時に、その事実は目に見えない罪の赦しを証明しているのです。一部始終を目撃した群衆は畏(おそ)れを覚えて、イエス様が「人の子」-終わりの時の審判者-であることを信じたのです。神様を賛美したのです。

*財産のある人が「神の国」に入ることはらくだが針のあなを通ることよりも難しいのです。しかし、イエス様は「人間にはできないことも、神にはできる」と言われたのです(ルカ8:18-27)。お言葉通り、不可能と思われた人々が「救い」に与っているのです。中風の人の罪は日本語訳では一つであるかのように表現されていますが、原文では「複数の罪」になっています。何か分かりませんが幾つかの罪を犯しているのです。しかし、イエス様は屋根の瓦を剥(は)がしてまでご自身に近づこうとした行動の中に「悔い改め」を認められたのです。「悔い改め」がなければ「救い」は訪れないのです。イエス様は徴税人や罪人たちと一緒に食事をされました。律法(慣習)は罪人との交際を禁じているのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちはイエス様を非難したのです。イエス様は「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と言われたのです。地上に遣わされた使命を目に見える形で実行されたのです(ルカ5:31-32)。徴税人はローマ帝国に協力して蓄財していたのです。同胞から裏切り者の烙印(らくいん)を押されていたのです。ところが、彼らの中にはレビ(マタイ)のように何もかも捨ててイエス様に従った人(ルカ5:27-28)、ザアカイのように自分の財産の半分を貧しい人々に施し、不正に得た利益を四倍にして返した人(ルカ19:1-10)もいたのです。「悔い改め」に相応しい行いよって「救い」を得たのです。

*罪人の中には犯した罪に苦しんでいる人々がいるのです。彼らに誇るものは何もないのです。身を低くして再出発するだけなのです。ローマ帝国軍の百人隊長(異邦人)はイエス様を信じていました。自分の奴隷が病気で死にかかっていたのです。イエス様に使いを送ったのです。彼の癒しを願い出たのです。一方、自分の罪の深さも自覚していました。「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるようなものではありません。・・ひと言おっしゃって下さい」と言ったのです。お言葉によって奴隷が癒されることを確信していたからです。イエス様は「ユダヤ人の中でもこれほどの信仰を見たことがない」と言われたのです。使いが家に戻ると奴隷はすでに元気になっていたのです(ルカ7:1-10)。ファリサイ派のシモンが願ったのでイエス様は食事をされることになったのです。イエス様が家に入ったときシモンは足を洗う水を出さなかったのです。ところが、町の中で評判の悪い一人の罪深い女性が香油の入った石膏(せっこう)の壺を持って来て、泣きながらイエス様の足を涙で濡らし、自分の髪の毛でぬぐい、接吻して香油を塗(ぬ)ったのです。シモンは彼女が罪人であることに焦点を当てるのです。イエス様はシモンに「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる」と言われたのです。女性は最後まで無言でした。しかし、「あなたの罪は赦された」と宣言されたのです(ルカ7:36-50)。放蕩息子も罪を心から悔いたのです。父親に「雇人の一人にしてください」と言って「救い」に与ったのです(ルカ15:11-32)。

*神様は自分が正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に全く異なる判断を下されるのです。ファリサイ派の人と徴税人が神殿で祈っていました。前者は心の中で「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と祈ったのです。ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と言ったのです。神様は徴税人の祈りを聞き入れられたのです(ルカ18:9-14)。ファリサイ派の人々や律法学者たちが姦通の現場で捕らえた女性を石打の刑で殺そうとしていました。イエス様はこれらの人に「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、先ず、この女(性)に石を投げなさい」と言われました。年長者から始まって、一人また一人その場から立ち去ったのです。イエス様は女性に「わたしもあなたを罪に定めない。これからは、もう罪を犯してはならない」と言われたのです(ヨハネ:1-11)。神様はイエス様に裁きの権限を委ねられたのです。ところが、自分たちにも裁く資格があるかのように誤解している敬虔(けいけん)な人々がいるのです。神様が赦された人々に再び有罪を宣告する教会があるのです。このような信仰理解や宣教姿勢は「神様の御心」に反しているのです。イエス様の「救いの業」を妨げているのです。傲慢は最も大きな罪です。死に至る病なのです。「悔い改め」がなければ赦されないのです。

*イエス様は連れて来た男たちの信仰をご覧になって、中風の人に「人(友)よ、あなたの罪は赦された」と言われたのです。この人は自分以外の人たちの信仰によって救いに与ったのです。これは「執り成しの祈り」と良く似ているのです。人々への奉仕には二つの意味があります。一つは現実の重荷を少しでも軽減することです。次に「行い」を通して証しされた「神様の愛」に触れて頂くことです。男たちは屋根に上って瓦(タイル)をはがし、中風の病人を寝台ごとつり降ろしたのです。彼らには必ず癒して下さるという確信があったのです。言葉によって信仰が告白されるとは限らないのです。「良い行い」によって表明されることがあるのです。中風の人が言葉や行いによって信仰を表明していないのです。ご自身の絶対的な権威に基づいてこの人の罪を赦し、病を癒されたのです。確かに「罪の赦し」と「病の癒し」が人々を驚かせたのです。もう一つ付け加えたいことがあるのです。無言であった中風の人が神様を賛美したことです。信仰から迷い出た人が再び神様の下に導かれたのです。イエス様の「力ある業」を見た群衆も憐れみ深い神様を賛美したのです。キリスト信仰において関心が「罪の赦し」に留まっているのです。信徒たちには果たすべき使命があるのです。「すべきことをしないこと」が安易に理解されているのです。「永遠の命」に関わる深刻な問題なのです。行いのない信仰は空しいからです。イエス様の権威を軽んじてはならないのです。命じられた最も大切な戒め-神様と隣人を愛すること-を実践するのです。審判は後に下されるのです。

2025年11月02日

「結婚の意義」

Bible Reading (聖書の個所) マルコによる福音書10章1節から16節

イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

(注)

・そこ:ガリラヤ湖の西北に位置するカファルナウムの町です。漁業、農業、交易が盛んです。イエス様はこの町の不信仰を激しく非難されたのです。

・ファリサイ派:律法を日常生活に厳格に適用したユダヤ教の一派です。ただ、彼らは言うだけで実行しなかったのです。イエス様に律法学者たちと共に敵対したのです。

・離縁と再婚の制限:

■人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきこと(夫に対する不誠実)を見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。その女(彼女)が家を出て行き、別の人の妻となり、次の夫も彼女を嫌って離縁状を書き、それを手に渡して家を去らせるか、あるいは彼女をめとって妻とした次の夫が死んだならば、彼女は汚されているのだから、彼女を去らせた最初の夫は、彼女を再び妻にすることはできない。これは主の御前にいとうべきことである。あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を罪で汚してはならない(申命記24:1-4)。

●離縁状は女性への所有権を放棄したという文書です。これによって彼女は再婚できるのです。一般的に女性の方から離縁を宣言することはないのです。

●ヨセフが結婚前のマリアの懐妊について悩む姿を伝えるマタイ1:19を参照して下さい。

・ヒレル(Hillel):ユダヤ教の律法学者です。律法の解釈には比較的柔軟でした。

・シャンマイ(Shammai):西暦一世紀初頭のユダヤ教の著名な学者です。


・神の国:神様の支配、主権のことです。イエス様は「神の国」を宣教するためにご生涯を捧げられたのです。復活された後も40日間それを語られたのです。キリストの弟子たちもイエス様に倣(なら)うのです。困難に耐える覚悟がなければ「神の国」に招かれることはないのです。

■イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた(神様にお委ねした)者は誰でも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」(マルコ10:29-30)。

●イエス様のお言葉の中に夫や妻は含まれていないのです。二人は切り離すことが出来ないからです。

・不法な結婚の例:洗礼者ヨハネはヘロデ大王の三人の息子の一人でガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスとその兄弟フィリポの妻へロディアとの結婚について「律法では許されていない」と言ったのです。アンティパスは牢の中でヨハネの首をはねさせたのです。イエス様もこの人の結婚に反対しておられたことを窺(うかが)わせるのです(マタイ14:1-13)。アンティパスはイエス様を自分が殺させたヨハネの蘇(よみがえ)りであると思っていたのです。

(メッセージの要旨)

*ファリサイ派の人々は「神様の御心」に即してモーセの律法を理解しないだけでなく、イエス様を貶(おとし)めるために趣旨を歪曲(わいきょく)しているのです。律法学者たちはイエス様が離縁に反対していることをすでに知っているのです。モーセの律法に違反していることを暴露するために質問したのです。イスラエルは男性が圧倒的に優位な家父長社会です。女性と子供は人格さえ認められていないのです。妻は夫の所有物です。妻を奪うことは夫の財産を盗むことと同じなのです。姦淫は財産権の侵害なのです。姦淫の罪に対する刑罰が厳しいのはこのためです。ケースにもよるのですが、双方が石打の刑で処刑されるのです(申命記22:22-29)。一方、イエス様は姦淫の罪を律法よりも広義に解釈されるのです。「不法な結婚(貞節違反)でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる」と言われたのです(マタイ5:31-32)。恣意的(しいてき)な離縁には姦淫の罪が適用されるのです。律法の背景には「神様の祝福」があるのです。イエス様は「神は御自分にかたどって人を創造された。・・男と女に創造された」(創世記1:27)、「・・男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2:24)を引用し、「結婚の意義」を再確認されたのです。律法主義に陥(おちい)って人間が神様によって一緒にされた二人を引き離してはならないのです。離縁について論じる前に「天地創造」の原点に戻ることを命じられたのです。

*ファリサイ派の人々は「昔の人の言い伝え」(慣習)に従わず、不信仰と偽善を批判するイエス様に敵対していたのです。人々の前でイエス様を陥(おとしい)れようと常に画策しているのです。今回もよく練った方法でイエス様に論争を挑んでいるのです。ユダヤ人の間で離縁は定着しているのです。ただ、離縁に至る判断基準は二つに分かれていたのです。一つはヒレル学派の見解です。夫は妻を些細(ささい)な理由-人格や振る舞いが嫌いになったこと、女性としての魅力がなくなったこと、パンを焦(こ)がしたこと―であっても、離縁することが出来ると教えていたのです。モーセ五書にある申命記24:1を根拠としたのです。もう一つはシャンマイ学派の解釈です。彼らは申命記24:1にある妻の恥ずべき事を「姦淫の罪」に限定したのです。妻がその罪を犯した時に離縁が成立したのです。ファリサイ派の人々はこうした事情を承知の上でイエス様に「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と質問しているのです。イエス様の答え方によってはどちらからも反感を買うのです。イエス様は両派の定義に直接言及することなく、ユダヤ人の誰もが知っている創世記を引用して結婚の原点を示されたのです。イエス様は離縁という問題を「神様の御心」の観点から説明されたのです。「結婚の意義」を離縁から語ることは本末転倒なのです。神様に依り頼む人は結婚の束縛から逃れるために律法の中に抜け道を捜すようなことはしないのです。夫と妻の結びつきは親と子のそれよりも強いのです。男の不信仰と傲慢が離縁の原因なのです。

*「神の国」に入るためには覚悟が不可欠です。様々な犠牲が伴うのです。最も近しい関係にある結婚においても同じことが言えるのです。モーセは結婚における神様の目的を理解しようとしない人間の頑(かたく)なさの故に離縁を許したのです。申命記24:1-4は二つに分けられます。前半において、夫の一方的な意向によって妻を離縁することが認められているのです。妻には弁明し、拒否する権利もないのです。後半において、元の夫は再婚した妻をもう一度妻にしてはならないことが定められています。元々離縁状の目的は離縁された女性の「結婚の自由」を保障することにあったのです。ファリサイ派の人々は禁止条項に触れずに、論点を「夫の権利の否定」へとすり替えているのです。離縁の問題において「神の国」に属する人々の信仰が問われるのです。正当な理由がないのに夫が妻を離縁し、他の女性と再婚すれば姦淫の罪を犯したことになるのです。ユダヤ教の伝統に慣れ親しんだ弟子たちが「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言っているのです(マタイ19:10)。ローマ帝国の支配下にあって世俗化が進んでいるのです。倫理観も低下しているのです。イエス様のお言葉は弟子たちにとって厳格に映ったのです。イエス様は「不法な結婚」(マタイ19:9)、「何か恥ずべきこと」(申命記24:1)として日本語に訳された罪について言及しておられます。「姦淫の罪」を犯した夫、また妻は離縁されるのです。イエス様が2000年前ユダヤ人社会において妻の離縁する権利を明確にされたことに驚かされるのです。

*イエス様は「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。・・」と言われるのです。イエス様の姦淫の定義は広いのです。心の中に生じた不純な思いがすでに罪なのです。しかも、それだけで地獄に落ちるのです(マタイ5:27-30)。離婚の原因の多くが夫の側にあることを指摘されているのです。男性の不信仰を厳しく非難しておられるのです。一方、離婚によって様々な問題が生じているのです。イスラエルが男性中心の社会であったことを直視するのです。男性が女性を圧倒的に支配しているのです。妻は夫の奴隷なのです。子孫を残すための道具と言っても過言ではないのです。夫が妻を離縁すれば生活手段-家や農地などーを持たない女性が一人で生きて行くことは極めて困難です。父親の下に帰るか、別の男性と結婚するかです。選択肢は限られているのです。いずれの場合も簡単ではないのです。特定の職業(娼婦など)によって生計を立てることも多いのです。社会から軽蔑され、罪人の烙印(らくいん)を押されるのです。人為的に母親を奪われた子供たちも不幸です。イエス様は子供たちを妨げる弟子たちに憤られたのです。イエス様は子供たち-困難を覚える人々-の側に立たれるのです。「神の国」の福音は安価な恵みではないのです。キリストの信徒たちに行動が求められているのです。子供たちの窮状に心を砕くのです。援助の手を差し伸べるのです。神様は彼らと共に歩む人々を祝福されるのです。

*聖書の個所を理解するために「前後三章を併せて読みなさい」と教えられたことがあります。ペトロの信仰告白からイエス様のエルサレム入城までの間信徒たちの覚悟が主題になっているのです(マルコ8:31-10:45)。弟子たちは十字架を担(にな)うために(8:34)、すべての人に仕えるために(9:35)、犠牲を厭(いとわ)わず「永遠の命」に与るために(9:43-48)、子供たちのように自らを低くするために(10::15)、家族や持ち物を残して福音宣教に携(たずさ)わるために(10:29-30)召し出されたのです。覚悟、人に仕えること、苦難との遭遇が繰り返し強調されているのです。マルコは離縁についても弟子の覚悟の一つであると考えているのです。離縁の論議は「律法の規定」からではなく「神様の祝福」を原点とするのです。結婚には「神様の御心」を実現する覚悟が必須なのです。ファリサイ派の人々は「結婚の意義」を考慮することなく、律法主義に固執(こしつ)しているのです。イエス様は離縁が不信仰の産物であることを断言されたのです。「神様の御心」はすでに「天地創造」の時に表れているのです。弟子になるために別れを告げる家族の中には夫と妻が含まれていないことに注目するのです。夫婦は基本的に一体なのです。ただ、様々な事情によって離縁は増え続けているのです。イエス様が苦難に喘(あえ)ぐ女性と子供たちを見捨てられることはないのです(ヨハネ8:1-11)。離縁は結婚の在り方の結論です。神様が祝福された「天地創造」の観点から論じるべき大切なテーマなのです。

2025年10月26日

「ヤコブの信仰理解」

Bible Reading (聖書の個所) ヤコブの手紙2章1節から17節

わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。

わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。だが、あなたがたは、貧しい人を辱(はずかし)めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜(ぼうとく)しているではないですか。もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者(たち)と断定されます。律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなた(がた)は律法の違犯者になるのです。自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者(たち)として、語り、またふるまいなさい。人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。

わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

(注)

・ヤコブの手紙の著者:伝統的にイエス様の兄弟ヤコブであると言われています。

・隣人を自分のように愛しなさい:旧約聖書の レビ記19:1-18をお読み下さい。

・最も重要な戒め:「永遠の命」に与るためには戒め(律法)を実行することが不可欠です。キリスト信仰は「行い」によって証明されるのです。

●イエス様は「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことが出来るでしょうか」と質問する律法の専門家に「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人(困っている人々)を自分のように愛しなさい」と答えられたのです(ルカ10:25-37)。

・パウロの手紙:パウロは各教会宛(あ)てに手紙を書いたのです。神学理論ではないのです。この点に留意することが必要です。ローマの信徒への手紙、コリント信徒への手紙一、コリント信徒への手紙二、ガラテヤの信徒への手紙、フィリッピの信徒への手紙、テサロニケの信徒への手紙一、フィレモンへの手紙の七つはパウロの著作であることが確認されています。それ以外は弟子あるいは他の人が書いたものとされています。

・パウロの信仰理解:「神の国」の福音が個人的な信仰心の問題に限定されているのです。

■口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです(ローマ書10:9-10)。

■正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません(1コリント書6:9-10)。

・ルター:宗教改革(1517年ごろ)の先駆者です。ヤコブの手紙が「パウロの信仰義認」に矛盾するとして、新約聖書の正典であることに異を唱えたのです。藁(わら)の手紙と呼んだのです。根拠としてパウロの手紙を引用しているのです。

■イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。(1コリント書3:11-13)

しかし、今日までヤコブの手紙が正典から取り除かれることはなかったのです。一方、ルターはドイツ農民戦争(1524年-1525年)-貴族の圧政に対する農民の反乱-において当初の支持を翻(ひるがえ)し、貴族の側に立ったのです。反乱者たちを狂犬のように鎮圧することを求めたのです。10万人以上が亡くなったのです。


・アブラハムがイサクを捧げる話:創世記22章1節から19節を参照して下さい。


・娼婦ラハブ:ヨシュア記2章1節から21節、ヘブライ人への手紙11章31節に登場します。

(メッセージの要旨)

*自分の信仰を誇っても、困っているみなしご(孤児)ややもめ(寡婦)の窮状に無関心であれば、その人に「救い」は訪れないのです。ヤコブは金持ちを優遇し、貧しい人を差別している教会を批判して「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか」と言うのです。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」と言われたイエス様の教えに合致(がっち)しているのです(ルカ6:20)。神様が祝福された人々を分け隔てすることは大きな罪です。子供の時から律法を厳格に守っている金持ちが「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねています。イエス様は「持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と答えられたのです(マルコ10:17-31)。ヤコブも畑で働く労働者たちに賃金を支払わない、富んでいる人たちに「やがて来る不幸」を宣告するのです。手紙(1-5章)はイエス様の教えを簡潔に表現しているのです。「御言葉を聞くだけではなく、行う人になりなさい。律法を実行する人は幸せになります」と結論づけるのです。ヤコブの手紙は教会で評価されなかったのです。ルターはパウロの言葉を引用して「藁(わら)のような手紙」と呼んだのです。パウロの「恵みによる救い」、自身の「信仰のみによる救い」と対立するからです。キリスト信仰は神学理論を知的に学ぶことではないのです。イエス様の教えに従って生きることなのです。ヤコブの手紙はキリストの信徒たちに再確認させるのです。

*ヤコブと度々比較されるのがパウロです。パウロはイエス様から直接教えを受けていないのです。宣教活動に加わったこともないのです。それにも関わらず、イエス様のメッセージの有力な解釈者になっているのです。設立した教会宛に少なくとも七つの手紙を書いています。問題はイエス様の教えを正確に伝えているかどうかなのです。遣わされた者は遣わしたお方に優(まさ)らないのです(ヨハネ13;16)。両者の間には「神様の子」と「人間」という決定的な違いがあるのです。パウロを過大評価してはならないのです。パウロはローマの市民権を持っているのです。様々な権利を有しているのです。一方、「キリストの再臨」が近いことを信じていました。圧政に苦しむ人々に「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう」(ローマ書13:1-2)、また「召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです」(1コリント書7:21-22)と言っています。「信仰の名」によって外国の不当な支配と奴隷制度を正当化しているのです。イエス様の宣教姿勢は明確です。貧しい人々や虐げられた人々の側に立たれたのです。

*パウロには地上における人々の自由や解放という考えはなかったのです。関心を「罪の赦し」と「天国」に向けていたのです。このため、イエス様が天に戻られるまでの間(復活された後も)宣教された「神の国」の福音-天上と地上における正義と解放の約束-がパウロの手紙には見られないのです。パウロが「神の国」の福音に言及する時は個人的な信仰心のあり方に縮小されているのです。ヤコブは誤った信仰理解を正すために手紙を書いたのです。旧約聖書から二人の人物を取り上げ、「行い」の重要性を述べているのです。「神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。・・同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか」と言うのです。パウロは異邦人宣教に大きな役割を果たしたのです。テント職人として働き、生計を維持したのです。実践的で学ぶことが多いのです。ただ、パウロの信仰理解を無批判的に受け入れることは出来ないのです。「神の国」は社会における正義と公平の実現として完成するのです。ヤコブの手紙にはパウロのような難解な哲学的、神学的な用語が見られないのです。イエス様に倣(なら)って平易な言葉で語っているのです。アブラハムや娼婦ラハブの信仰が示すように「永遠の命」は安価な恵みではないのです。自分の生き方を振り返るのです。

*ヤコブが伝える教会の状況は今日においても見られるのです。ある教会の礼拝に出席した時のことです。少し早く礼拝堂のベンチに座っていました。年配の女性が来て「そこはわたしの席です」と言ったのです。ところが、そのように言った後、事の重大さに気づいて発言を撤回されたのです。教会のメンバーでない人が初めて礼拝に出席した時のことです。祭壇に向かって最前列の左端に座られたのです。しばらくして、男性役員が来て「その席はわたしの席です」と言ったのです。来会者は別の席へ移られたのです。このことが原因かどうかは分からないのですが、その方が再び教会を訪れることはなかったのです。教会は神様を礼拝する所です。信徒たちを含め関係者が物心両面にわたって協力して建設したことには間違いないのです。しかし、神様に捧げられた建物なのです。すべての人に開放されているのです。エルサレムの神殿が「祈りの家」(マルコ11:17)であるように、教会も「神様の家」です。公の施設なのです。ところが、恣意的(しいてき)に運営されているのです。自分の振舞に細心の注意を払うのです。イエス様は「永遠の命」を願う律法学者に、最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実行するように促されたのです(ルカ10:25-28)。キリストの信徒たちにも正義を重んじ、慈悲に満ち、誠実であることを命じられたのです(マタイ23:23)。イエス様は一貫して「行い」を求められたのです。キリスト信仰の真髄(しんずい)はここにあるのです。「行い」を欠いた信仰は死んでいるのです。胆に銘じるのです。

*キリスト信仰を標榜する人々が金持ちや有力者たちが大切にされ、貧しい人々が差別されている現状に無関心なのです。正義や公平を実現するために行動しないのです。「信仰の名」によって「神様の御心」に反する行いを正当化しているのです。罪を犯した人は「神様の愛と憐れみ」によって生かされていることに感謝しているのです。一方、罪の自覚がない人は信仰心の篤さを誇っているのです。「永遠の命」を確信しているのです。しかし、イエス様が御子の権威に基づいて最終的に裁かれるのです(ヨハネ5:21-22)。イエス様は「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。・・しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である(に天罰あれ)。・・飢えるようになる。・・悲しみ泣くようになる」と言われたのです(ルカ6:20-25)。神様は貧しい人々と共に歩まれるのです。金持ちたちは貧しい人々に施さなければ「救い」に与れないのです。神様と富の両方に仕えることは出来ないからです(マタイ6:24)。権力や富を有する人々が教会を支配しているのです。教会では「この世」の論理が横行しているのです。「神の国」の福音が歪(ゆが)められているのです。預言者イザヤが「主は恵みを与えようとして/あなたたちを待ち/主は憐れみを与えようとして/立ち上がられる。まことに、主は正義の神」と言っています(イザヤ書30:18)。キリスト信仰において 愛が強調されているのです。ところが、社会の悪や不公正に寛容なのです。聖書の中に正義を欠いた愛は見当たらないのです。ヤコブ書に注目するのです。

2025年10月19日
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