ヨハネによる福音書5章19節から40節
そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」
「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。 わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。
ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。
(注)
・ヨハネ4章から7章について:4章から6章、続いて5章、7章と読むとスムーズです。
・彼ら:イエス様に敵対するファリサイ派の人々や律法学者たちなどです。
・死んだ者が神の子の声を聞く・・:ラザロの復活に言及されていると推測されるのです(ヨハネ11:38:44)。
・人の子:三つの意味があります。第一は預言者です(エゼキエル書2:1-3)。第二は天の雲に乗って現れる終わりの時の審判者です(ダニエル書7:13-14)。他に「わたしとわたしの言葉を恥じる者(たち)は、人の子も自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときにその者(たち)を恥じる」があります(ルカ9:26)。第三はこの世の人間を表しているのです(ルカ9:58)。イエス様はご自身が最後の審判者であることを明らかにされたのです。
・マラキ書:旧約聖書の最後に編纂されています。
・預言者エリヤ:紀元前865年から850年頃まで北王国(イスラエル)で活動しました。異教の神バールを信仰するアハブ王と鋭く対立したのです。エリヤは嵐の中を天に上って行った人です(列王記下2:11)。
・シドン:異教の神バール信仰の中心地です。
・ヒゼキヤ王:紀元前715年にアッシリアの支配下にあった南王国ユダの王に就任したのです。ほとんどの時間を国の独立と異教の神との闘いに費やしたのです。
・預言者イザヤ:紀元前8世紀の後半のおよそ40年間、神様の言葉を南王国ユダの四人の王-ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ-に伝えました。
・センナケリブ:紀元前704年から681年までの間アッシリアを統治した王です。701年にユダに侵攻したのですが、ヒゼキヤ王は預言者イザヤに対応について相談したのです。主の天使がアッシリア軍を打ち破ったのです。(列王記下18-19)
・カナ:ガリラヤ地方の中央部に位置し、弟子の一人ナタナエルの故郷です。聖書地図を参照して下さい。
・カファルナウム:イエス様が宣教の拠点とされた村です。ガリラヤ湖畔にあり商取引が盛んに行われていました。
(メッセージの要旨)
*イエス様はご生涯を通して、また復活された後も40日にわたって「神の国」(天の国)-神様の支配-を宣教されたのです。預言者マラキは嵐の中を天に上って行った預言者エリヤが再び地上に来ることを預言しています(マラキ書3:23-24)。イエス様はご自身の先駆(さきが)けとして遣わされた洗礼者ヨハネをエリヤの再来であると言われたのです(マタイ11:14)。このヨハネがイエス様に弟子を送って「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねさせたのです。イエス様は「見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人(人々)は見え、足の不自由な人(人々)は歩き、重い皮膚病を患っている人(人々)は清くなり、耳の聞こえない人(人々)は聞こえ、死者(たち)は生き返り、貧しい人(人々)は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人(人々)は幸いである」と答えられたのです(ルカ7:18-23)。神様は新しい天地創造に着手されたのです。貧しい人々や心身に障害がある人々など苦難に喘(あえ)ぐ人々が優先的に慰められるのです。永遠のテーマであった「死の支配」が打破されたのです。人々は「永遠の命」の希望において生きることが出来るのです。イエス様は「力ある業」を通して「神の国」を先取りして見せて下さるのです。今日の聖書の個所はキリスト信仰の本質を要約しています。同時に、変容されたキリスト信仰への警鐘となっているのです。「救い」は教義を理解することによって得られないのです。イエス様の教えを実行するのです。
*イエス様は天地創造の初めから神様が「命の付与者」であることを明確にされたのです。異教の神を信じる悪名高いアハブ王の時代、神様は預言者エリヤに地中海沿岸にあるシドンの町サレプタに行き、信仰心の篤(あつ)いやもめの家に逗留(とうりゅう)することを命じられました。ところが、彼女の息子が病気のために亡くなったのです。エリヤは主に向かって「主よ、わが神よ、あなたは、わたしが身を寄せているこのやもめにさえ災いをもたらし、その息子の命をお取りになるのですか」と祈ったのです。彼は子供の上に三度身を重ねてから、また主に向かって「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください」と願ったのです。主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになり、子供は生き返ったのです(列王記上17:8-24)。死に至る病に罹(かか)った南王国(ユダ)の王ヒゼキヤは顔を壁に向けて祈り「ああ、主よ、わたしがまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください」と大いに泣いたのです。神様は預言者イザヤを通して「わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、わたしはあなたをいやし、三日目にあなたは主の神殿に上(のぼ)れるだろう。わたしはあなたの寿命(じゅみょう)を十五年延ばし、センナケリブの手からあなたとこの都を救い出す」と言われたのです(列王記下20:1-7)。神様は貧しいやもめの窮状を心に留め、ヒゼキヤ王の涙の訴えを聞き入れられたのです。神様はご自分に依り頼む者たちを決して見捨てられないのです。
*ヨハネの福音書はイエス様の「力ある業」や「しるし」を合わせて7回伝えています。これらはイエス様が「神様の子であること」を証明するのです。最初はガリラヤ地方のカナにおける結婚式で水をぶどう酒に変えられた出来事です。弟子たちはイエス様を「神様の子」と信じたのです(2:1-12)。カファルナウムに住む王の役人がカナにおられたイエス様を訪ねて来ました。病で死にかかっている自分の息子の癒しを願い出たのです。イエス様は遠く離れたカファルナウムにいる子供を病から回復させられたのです。役人と家族はこぞってイエス様を信じたのです(4:46-53)。三回目はガリラヤ湖の東側の山の上に集まった五千人に食べ物を与えられたことです。群衆はイエス様のなさった「力ある業」を見て、この人こそ世に来られる預言者であると言ったのです(6:1-15)。イエス様は湖の上を歩かれたのです。弟子たちに「神様の御力」を示されたのです(6:16-21)。その後、イエス様はエルサレムで38年間もベトザタの池の周りの回廊に横たわっている病人を安息日に癒されたのです。五回目です(5:1-18)。エルサレムで安息日に生まれつきの盲人を見えるようにされたのです。「心身の障害は罪の結果である」とする解釈を「神様の御業が現れるためである」へ変更されたのです(9:1-41)。七回目は病気で死んだラザロを蘇らされたことです。マルタヤマリア、近しい人々を悲しませている「死」に憤られたのです。その支配を打ち砕かれたのです(11:38-44)。多くの人が「救い主」を信じたのです。
*イエス様は安息日を守らないだけでなく、ご自身を神様と等しい者とされたのです。ユダヤ人たちはイエス様を神様への冒涜(ぼうとく)の罪で殺そうとしているのです。律法によると死刑に処するためには二人以上の証人が必要です(申命記17:6)。権力者たちはイエス様を告発できる証拠と証人を確保しているのです。一方、イエス様はご自身が「神様の子」であることを裏付ける五人の証人を用意されているのです。最初の証人は神様です。神様はイエス様と共におられるのです。御子としての使命に権威を与えられたのです(ヨハネ17:1-6)。神様の「御言葉」と「御力」がイエス様に内在しているのです。第二の証人は洗礼者ヨハネです。イエス様の先駆けとして燃えて輝くともし火となっただけでなく、イエス様を「世の罪を取り除く神の小羊」として宣言したのです(ヨハネ1:29)。第三の証人はご自身による「力ある業」です。神様が共におられなければ「奇跡」や「しるし」は起こらなかったのです。イエス様の「復活」において決定的な確証が与えられたのです。第四の証人は(旧約)聖書です。ユダヤ人は聖書の研究に熱心でした。しかし、イエス様に関するメッセージがどのように成就するかについて理解しなかったのです。最後にモーセを証人に加えるのです。「主はあなた(たち)の中から・・わたしのような預言者を立てられる。・・彼に聞き従わねばならない」と命じたのです(申命記18:15)。神様はイエス様について数多くの証拠を備えて下さっているのです。イエス様は神様から遣わされた「神様の子」なのです。
*キリスト信仰とはイエス様を信じることです。神学的(理論的)に「救い主であること」を認識するのではなく、イエス様の御跡を辿(たど)って生きることなのです。イエス様のご生涯は四福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)に詳述されています。日本語に訳された聖書の種類は限られていますが、世界には個人訳を含めて特色のある聖書が出版されています。イエス様のお言葉をすべて「赤字」で印刷している聖書もあります。一方、礼拝で福音書が朗読される時には会衆が全員起立する教会もあります。イエス様はキリスト信仰の中心であることが強調されているのです。イエス様への応答がその人の運命を決定づけるのです。イエス様の「神様の子」の主張はユダヤ人にとって躓(つまず)きの石となったのです。イエス様は一般民衆に難しい言葉を語られなかったのです。「野原の花」(ルカ12:27-28)や「からし種」(マタイ13:31-32)に譬(たと)えて「神の国」-神様の主権-を説明されたのです。人々は福音の真理を容易に理解することが出来たのです。律法に精通した指導者たちにはご自身の「力ある業」から学びなさいと言われたのです。神様がイエス様と共におられなければ、死んで四日も経ったラザロが蘇(よみがえ)らなかったのです。生まれつきの盲人が見えるようになることもなかったからです。キリスト信仰は神学や哲学によって解釈された教義ではないのです。イエス様は「わたしの言葉を信じなさい」と言われ、「ご自身に従いなさい」と命じられたのです。これらを順守して歩む「生き方」のことなのです。