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洗礼者ヨハネが捕らえられた後、イエス様はガリラヤ地方へ行き、福音(良い知らせ)を宣べ伝えて「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたのです(マルコ1:14-15)。イエス様は復活された後も、使徒たちに「神の国」について話されたのです(使徒1:3)。キリスト信仰の中心メッセージは「神の国」-神様の支配-にあるのです。

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「指導者たちの腐敗と神殿崩壊」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書12章38節から13章2節 
            
イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

(注)


・律法学者たち:ユダヤ教の律法を専門的に解釈する学者であり、文書を書き記す官僚です。イエス様に敵対するグループの一つです。


・やもめ(寡婦):家父長社会にあって死別あるいは離婚されて一人となった彼女たちは窮乏生活を余儀なくされたのです。

■三年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、あなた(がた)のうちに嗣業の割り当てのないレビ人(たち)や、町の中にいる寄留者(たち)、孤児(たち)、寡婦(たち)がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。そうすれば、あなた(がた)の行うすべての手の業について、あなた(がた)の神、主はあなた(がた)を祝福するであろう。(申命記14:28-29)

■お前たち(指導者たち)が手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ 善を行うことを学び/裁きをどこまでも実行して/搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護せよ。・・支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり/皆、賄賂を喜び、贈り物を強要する。孤児の権利は守られず/やもめの訴えは取り上げられない。(イザヤ書1:15-23) 


■災いだ、偽りの判決を下す者/労苦を負わせる宣告文を記す者は。 彼らは弱い者の訴えを退け/わたしの民の貧しい者から権利を奪い/やもめを餌食とし、みなしごを略奪する。(イザヤ書10:1-2)


■万軍の主はこう言われる。正義と真理に基づいて裁き/互いにいたわり合い、憐れみ深くあり やもめ、みなしご/寄留者、貧しい者らを虐げず/互いに災いを心にたくらんではならない。」ところが、彼らは耳を傾けることを拒み、かたくなに背を向け、耳を鈍くして聞こうとせず、心を石のように硬くして、万軍の主がその霊によって、先の預言者たちを通して与えられた律法と言葉を聞こうとしなかった。こうして万軍の主の怒りは激しく燃えた。(ゼカリヤ書7:9-11)


■裁きのために、わたしはあなたたちに近づき/直ちに告発する。呪術を行う者、姦淫する者、偽って誓う者/雇い人の賃金を不正に奪う者/寡婦、孤児、寄留者を苦しめる者/わたしを畏れぬ者らを、と万軍の主は言われる。(マラキ書3:5)

●詩篇94:1-7も併せてお読み下さい。


・ファリサイ派:律法を日常生活に厳格に適用した人々です。

・ヘロデ派:ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパス、あるいはヘロデ王朝の支持者たちです。

・サドカイ派:ユダヤ教の一派です。死者の復活を否定しました。

・レプトン銅貨:当時流通していた貨幣の中で最も小さい単位の通貨です。平均的労働者の一日分の賃金1デナリオンの128分の1です。仮に1デナリオンを今日の通貨で換算して6,400円とすれば、50円です。やもめは一日100円で生活していたことになるのです。

・薄荷(はっか)・いのんど・茴香(ういきょう):最も小さいハーブです。

(メッセージの要旨)

*少し前に、イエス様は神殿の境内で売り買いしていた人々を追い出し、両替人たちの台や鳩販売業者たちの腰掛をひっくり返されたのです。物を運ぶことも阻止されたのです。「祈りの家」であるべき神殿が「強盗の巣」と化していることを激しく非難されたのです。祭司長たちや律法学者たちは彼らの権威と既得権益を守るためにイエス様をどのようにして殺そうかと謀議したのです(マルコ12:15-18)。緊迫した状況においても、イエス様はファリサイ派、ヘロデ派、サドカイ派の人々と論争されたのです。ご自身の方から挑戦するかのように律法学者たちの偽善と腐敗を告発されたのです。大勢の群衆がイエス様の教えに喜んで耳を傾けていたのです。指導者たちは律法を厳格に守るように教えているのです。ところが、自分たちはそれらを実行しないのです。富に執着し、専門的知識を悪用しているのです。金持ちたちは多額の献金によって「神様の祝福」を得ようとするのです。律法学者たちが貧しいやもめたちに援助の手を差し出すことはないのです。「神様の名」によって食い物にしているのです。イエス様はやもめの信仰を高く評価されたのです。一方では、やもめの献金に隠された指導者たちの大罪を告発しておられるのです。キリスト信仰において「愛」が強調されるのです。ただ、聖書のどこにも正義と裁きのない「愛」は見られないのです。最も重要な戒め-正義、慈悲、誠実の実行-を軽んじる人々には天罰が下されるのです(マタイ23:23)。後に、エルサレムの町と神殿はローマ軍によって完全に破壊されるのです(紀元70年)。


*エルサレム神殿はユダヤ人にとって神様が臨在される神聖な場所です。異邦人の中にもこのように考えている人が多いのです。神殿はそれ以外にも重要な役割を果たしているのです。イスラエルの政治・経済・社会を統括する国家機関なのです。大祭司によって最高法院が招集され、国の命運を左右する意思決定が行われているのです。ローマ帝国の利益のために自国の民を犠牲にするという苦渋の決断がエルサレム神殿においてなされたのです。ここでは法廷も開かれているのです。神殿はイスラエルの経済をコントロールするセンターなのです。中央銀行としての業務を行い、蓄積された莫大な富を保管しているのです。ところが、指導者たちは本来の機能を私的に悪用しているのです。イエス様は「強盗の巣」と化した神殿を「祈りの家」に戻そうとされるのです。物理的な力を用いて彼らに警告されたのです。「神の国」-神様の支配-が到来していることを群衆の前で公然と宣言されたのです。イエス様による実力行使が指導者たちの不信仰、神殿の商業化に対する「霊的な潔め」として語られているのです。ただ、「神の国」の全容を説明したことにはならないのです。福音(良い知らせ)が個人的な罪の問題に縮小されているからです。神様はしかるべき時に「新しい天地」を創造されるのです。イエス様を遣わし、ご計画を前もって明らかにされたのです。神様は指導者たちの腐敗と不正を断じて赦されないのです。イエス様は「神様の怒り」を表現されたのです。直接支配される日が近いのです。「神の国」は人間の「全的な救い」として完成するのです。

*神様はアブラハムに「わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである」と言われたのです(創世記18:19)。イエス様は律法学者たちの腐敗と偽善を厳しく批判されたのです。彼らはモーセの律法を教えているのです。しかし、言うだけで実行しないのです。しかも、律法に数多くの細かい規定を加えて人々を苦しめているのです。これらの人を「救い」に導くために指一本貸さないのです。守ることが出来ない人々を裁くだけなのです。自分たちの都合に合わせて律法を解釈するのです。神様さえも欺くのです。「神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない」、「祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない」と言うのです。黄金、供え物を神聖化するのです。献金(献品)の対象ではない農産物(薄荷、いのんど、茴香)の十分の一を献げて信仰を誇っているのです。彼らは白く塗った墓に似ているのです。外側は美しく見えるのです。しかし、内側は死者の骨で汚れているのです。外側は人に正しいように見せながら、内側は不法で満ちているのです。神様が遣わされた預言者、知者、学者たちを会堂で鞭打ち、町から町へと追い回しているのです。十字架上で処刑された人々もいるのです(マタイ23)。やもめたちや貧しい人々を虐げているのです。あらゆる策を弄(ろう)してこれらの人を搾取しているのです。

*人々がそれぞれの信仰に基づいて献金をしているのです。イエス様は献金額を確認できる位置に座られました。神様の前で「神の子」としての権威を示されたのです。金持ちたちがたくさんの献金をしているのです。貧しいやもめはレプトン銅貨二枚を捧げたのです。弟子たちを含め多くの人は献金額から金持ちの方が信仰心篤く、やもめは信仰心の薄い人として評価しているのです。しかし、神様は心の内を御覧になられるのです。イエス様が注目されたのは献金額の多寡ではなかったのです。信仰心を比較されたのです。献金額の多寡と信仰心は必ずしも連動しないのです。金持ちたちは献金の額によって「永遠の命」に与れると思っているのです。「神の国」に入るためには隣人-貧しい人々や虐げられた人々-を愛することが必須の要件なのです。それを実行すれば「救いの道」は開かれるのです(マタイ25:31-40)。一方、指導者たちは貧しい人たちにも「十分の一献金」を強いるのです。相応の献金をしなければ神様に罰せられるかのように教えているのです。やもめはその指示を忠実に実行したのです。しかし、生活費のすべてを捧げるような献金のあり方は「神様の御心」に反しているのです。確かに、イエス様は「だれよりもたくさん献金した」と言われたのです。やもめの信仰を誉められたのです。ただ、イエス様の真意を正確に理解することが重要です。注目すべき点はやもめの信仰心の篤さだけではないのです。生活費の全部を献金させる指導者たちの罪が告発されているのです。神様を欺く人々が「永遠の命」に与ることはないのです。

*律法学者たちは人々の前で「先生(ラビ=偉大な指導者)と呼ばれることを好んでいました。イエス様は弟子たちに「あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ 。・・『教師』(学究的先生)と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである」と言われたのです(マタイ23:8-10)。イエス様が天に上られた後、信仰共同体は初代教会へと発展するのです。信徒の数が増え、階層化も進んだのです。組織の効率化が不可欠になったのです。祭司(牧師)のような指導者たちが信徒の群れを率いるようになるのです。献金が貧しい信徒たちに分配されなくなったのです。指導者たちの生計維持に充当されるのです。しかし、パウロは経済的自立を貫いたのです。設立した教会から得られる権利-経済的支援-を敢えて行使しなかったのです。テント職人として働き、生活費を得ていたのです(1コリント9:12-18)。それは誰からも束縛されずに「復活の主」を証しするためであったのです。キリスト信仰を説明するためにパウロの「言葉」が多く引用されるのです。しかし、「生き方」への関心度は極めて低いのです。「聖書に忠実である」と明言する教会があるのです。愛が強調されているのです。ところが、正義や平和の重要性にほとんど言及していないのです。重要な聖書の個所が恣意的(しいてき)に選別されているのです。イエス様は「何よりもまず、神の国(神様の主権)と神の義(正義)を求めなさい」と命じられたのです(マタイ6:33)。お言葉を肝に銘じるのです。

2024年10月13日

「使命を果たしなさい」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書25章14節から30節

「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔(ま)かない所から刈り取り、(種子を)散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れて(銀行家に預けておく)おくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

(注)

・1タラントン:平均的労働者の15年分以上の賃金に相当する金額です。例えば、一日の賃金が10,000円とします。365日x15年x10,000円=54,750,000円となります。

・商売をして:宣教することです。迫害の危険に遭遇するのです。

・穴に埋める:何もしないということです。

・蒔かない所から刈り取り・・:人間にとって不可能なことです。(しかし、神様はそれを可能にされるのです。)

■イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた(神様に委ねた)者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(マルコ10:29-31)

・銀行に入れる:専門家に運用を委ねることです。優れた指導者の助言を求めることです。

・持っている人々、持っていない人々:「天の国」、「神の国」についての知識を持っている人々とそうでない人々のことです。「神の国」は死後に行く天国のことではないのです。神様の主権、神様の支配を表す言葉です。イエス様を「救い主」として信じる人々は神様と隣人を愛するのです。委ねられた才能を用いて「神の国」を建設するのです。

・12弟子:ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベタイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダです。(マタイ10:2)

(メッセージの要旨)

*イエス様は「タラントン」の前に「ノアの箱舟と大洪水」(創世記6-7章)に触れ、さらに「忠実な僕と悪い僕」や「十人のおとめ」のたとえ話を語っておられます。弟子たちにご自身の「再臨」-最後の審判-に備えるように前もって指示されたのです。主人と預かったお金を運用する僕たちとのやり取りはイエス様の教えを実践しようとする弟子たちの姿勢にたとえられているのです。イエス様は町や村を巡っては会堂で「神の国」の福音を宣べ伝え、人々のありとあらゆる病気や患いを癒されたのです。群衆が飼い主のいない羊の様に弱り果て打ちひしがれているのをご覧になって、働き手の少ないことを痛感されたのです。ペトロなど12弟子(後に72人)を選んで各地に派遣されたのです。病人たちをいやし、死者たちを生き返らせ、重い皮膚病を患っている人たちを清くし、悪霊たちを追い払う権能を授けられたのです。同時に「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と言われたのです。遭遇する苦難を予告されたのです(マタイ10:1-16)。派遣された弟子たちはそれぞれのタラントン(才能)を用いて「神様の御心」を実現したのです。一方、使命の遂行に逡巡(しゅんじゅん)した僕がいたのです。結局、怠惰な僕として「神の国」から追放されたのです。イエス様は「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」と言われました(マタイ10:39)。「行い」によって信仰を証しすることが求められているのです。自分の十字架に不忠実な人は「永遠の命」に与れないのです。

*イエス様は安易な信仰理解を戒めておられるのです。信仰には「行い」が伴わなければならないのです。弟子たちに人間の力を遥かに超えるタラントンが委ねられているのです。民衆は多くのしるしと不思議な業を見聞きしているのです。人々は病人たちを大通りに運び出し、担架や床に寝かせたのです。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにするためでした。果たして、そのことが起こったのです。一人残らず癒されたのです(使徒5:12-16)。地中海沿岸の町ヤッファにタビタという女性の弟子がいました。当時としては画期的なことです。この人はたくさんの良い行いや施しをしていました。ところが、病気で死んだのです。近くのリダに来ていたペトロはこの弟子を生き返らせたのです(使徒9:36-43)。一方、使徒たちに対する迫害は激しくなったのです。それはすべての弟子に広がったのです。最初の殉教者はステファノでした。恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていたからです。逮捕された後も最高法院で大祭司の前で堂々とイエス様への信仰を証ししたのです。神様への冒涜の罪で石打の刑に処せられたのです(使徒6:8-8:3)。ヘロデ大王の孫アグリッパ王は各教会に迫害の手を伸ばすのです。使徒ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺害したのです(使徒12:1-5)。「神様の御心」を実現するためには覚悟がいるのです。キリスト信仰に生きようとすれば迫害に遭遇するのです。弟子たちの中にもう一歩を踏み出せない人々もいたのです(ルカ9:57-62)。

*イエス様は律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実を実行しなさいと言われました(マタイ23:23)。キリスト信仰に生きる人々にはそれぞれに相応しいタラントンが与えられているのです。それらを「神様と隣人への愛」に用いるのです。新約聖書にはたくさんの具体例が記述されています。七つの悪霊を追い出していただいたマグダラのマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、スザンナなど多くの女性は自分の持ち物を出し合ってイエス様の一行に奉仕していたのです(ルカ8:1-3)。ユダヤ人たちから蔑まれていたサマリア人の女性はイエス様に出会ったのです。サマリアの地で最初の宣教者になったのです(ヨハネ4:1-42)。徴税人の頭ザアカイは財産の半分を貧しい人々に施したのです(ルカ19:38-42)。ニコデモはファリサイ派に属する議員でした。しかし、最高法院の意向に反してイエス様を弁護したのです(ヨハネ7:45-45-52)。アリマタヤ出身の議員ヨセフはローマの総督ポンティオ・ピラトにイエス様の埋葬を申し出たのです。初代教会においても見られたのです。バルナバと呼ばれるキプロス島生まれのヨセフなど土地や家を持っている人々はそれらを売ったのです。代金を持ち寄り使徒たちに委ねたのです。そのお金は信仰共同体のメンバーに必要に応じて分配されたのです(使徒4:32-37)。パウロはキリストの信徒たちを迫害していたのです。「復活の主」に出会って回心したのです(使徒9:1-19)。異邦人の宣教に生涯を奉げたのです。誰よりも労苦したのです(2コリント11:16-29)。

*「神の国」の福音(良い知らせ)-人間の全的な救い-が「罪からの救い」に縮小されているのです。しかも、キリスト信仰の厳しさが伝えられていないのです。福音はすべての人に届けられるのです。「救い」に与るためには幾つかの要件を満たす必要があるのです。主人から預かった1タラントンを僕はそのまま返したのです。何かの悪事を働いた訳でもないのです。しかし、この人は「永遠の命」に与れなかったのです。ある金持ちは律法を厳格に守っていたのです。ところが、富に執着したのです。貧しい人々に財産を施さなければ「神の国」に入れないのです(マルコ10:17-31)。傲慢な人々は心を入れ替えるのです。子供のように自分を低くしなければ決して「神の国」に入れないのです(マタイ18:1-5)。「救い」に不安を覚える弟子たちもいたのです。神様への信頼はキリスト信仰の真髄(しんずい)なのです。イエス様は機会あるごとに「終わりの日」に備えるように指示されたのです。キリスト信仰は「安価な恵み」ではないからです。「行い」のない信仰はそれだけでは死んでいるのです(ヤコブ2:14-17)。三人の僕のうちの二人は遭遇するかも知れない困難を承知の上で全力を尽くしたのです。もう一人は使命の遂行よりも自分の身の保全を優先したのです。その原因は自分の不信仰にではなく、主人(神様)の厳しさにあったと説明するのです。神様は「この民は・・唇でわたしを敬うが心はわたしから遠く離れている」と言われたのです(イザヤ書29:13)。神様は心の内をご存知です。欺く人を赦されないのです。

*イエス様は聖霊様によって誕生し「神の国」の福音に生涯を捧げ、天に戻られました。しかし、しかるべき時に再び来られるのです。再臨において、「新しい天地」が創造されるのです。神様から委ねられた「裁きの権限」を行使されるのです。すべての人が裁かれるのです(ヨハネ5:21-30)。忠実な僕であったかどうかによって、ある人は「永遠の命」に与り、ある人は「滅び」に至るのです。完成した「神の国」においては「・・神の幕屋が人(人々)の間にあって、神が人(人々)と共に住み、人(人々)は神の民となる。神は自ら人(人々)と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。・・」のです(ヨハネの黙示録21:3-4)。キリスト信仰を標榜する人々はこの福音を信じているのです。ただ、イエス様は「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。・・洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである」、「いつも目を覚ましていなさい」と言われたのです(マタイ24:36-44)。キリストの信徒たちにはそれぞれ貴重なタラントンが委ねられているのです。それらを「神様の御心」を実現するために有効に用いなければ「怠け者」として評価されるのです。自己義認はその人の「救い」に役立たないのです。キリスト信仰は「行い」を求めるのです。この事実を深刻に受け止めるのです。

2024年10月06日

「巧妙な搾取と偽善」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書20章1節から16節

「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者(たち)を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者(たち)をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者(たち)から始めて、最初に来た者(たち)まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中(者たち)は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中(最後に来た者たち)とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者(たち)にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

(注)

・聖書を正しく理解するためには当時の社会・政治・経済状況を常に念頭に置くことが必要です。キリスト信仰の根本理念に「正義」と「公平」の実現があるからです。

・労働者たち:元々、多くは農民でしたが借金を返済できずに担保の土地を失い労働者となった人々です。高利貸しの中には祭司たちもいたのです。彼らは毎日早朝から仕事を求めて「一定の場所」で雇い主たちが来るのを待ったのです。

・夜明け:午前6時です。

・1デナリオン:ローマ皇帝カエサルの肖像と刻印がある銀貨です。一般的労働者の一日の賃金に相当する額です。ただ、大きな家族の生計維持に十分な額ではないのです。

・神様の正義と愛:すべての分野に及ぶのです。

■寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。・・貧しい者(たち)に金を貸す場合は・・高利貸しのように・・利子を取ってはならない。・・隣人の上着を質に取る場合には、日没までに返さねばならない。(出エジプト記22:20-26)

■あなたたちは、不正な物差し、秤、升を用いてはならない。・・わたしのすべての掟、すべての法を守り、それ(ら)を行いなさい。わたしは主である。」(レビ記19:35-37)


■同胞であれ、あなたの国であなたの町に寄留している者であれ、貧しく乏しい雇い人(たち)を搾取してはならない。賃金はその日のうちに、日没前に支払わねばならない。彼(ら)は貧しく、その賃金を当てにしているからである。彼(ら)があなたを主に訴えて、罪を負うことがないようにしなさい。(申命記24:14-15)

・友よ:友達のように訳されていますが、実際には情愛のこもった言葉ではありません。元々は仲間のような少し距離を置いたニュアンスの言葉です。イエス様がご自身を逮捕するために群衆(ローマ兵を含む)と共にやって来たイスカリオテのユダに対して使われたお言葉と同じです。マタイ26:50を参照して下さい。

・後にいる者が先になり、先にいる者が後になる:

「神の国」(天の国)においてはこの世の地位が逆転するのです。イエス様は次のように言われました。

■自分を低くして、この子供のようになる人が天の国ではいちばん偉いのだ。(マタイ18:4)


■わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた(神様に委ねた)者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。(マタイ19:29)

・イエス様の宣教の原点:

■イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人(人々)に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人(人々)に解放を、/目の見えない人(人々)に視力の回復を告げ、/圧迫されている人(人々)を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(ルカ4:16-21)

・主の祈り:イエス様が教えられたこの祈りには借金に苦しむ労働者たちの切実な願いが表現されているのです。


■だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/赦しましたように。 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』 (マタイ6:9-13)

(メッセージの要旨)

*イエス様は「神様の御心」を軽んじる家の主人たちへの警告としてたとえ話を語られたのです。この家の主人はぶどう園で働く労働者たちを雇うために広場(労働市場)とぶどう園を何度も行き来しているのです。たくさんのぶどう園を所有していたからです。「家の主人」という日本語訳は彼らが貪欲な経営者であることを曖昧にするのです。「地主」と訳すべき言葉です。金持ちの地主はその日の仕事を求める労働者たちと交渉しています。一デナリオンの賃金に合意した労働者たちをぶどう園に送ったのです。「合意した」という言葉も誤解を招くのです。両者が対等であるかのような印象を与えるからです。実際は雇い主に最終的な決定権があるのです。成人男性は一デナリオンによってかろうじて肉体の必要を満たしているのです。家族を養うためにはもっとお金がいるのです。労働者たちは本来自分と家族を養えないような低賃金に同意しないのです。しかし、他に選択肢がなければ地主の提案を受け入れざるを得ないのです。地主は労働者たちの状況(弱さ)を熟知しているのです。利益を最大化するためには善意さえも装うのです。その方法は労働者たちの間に分裂をもたらすのです。たとえ話は貧しい人々の現実を反映しているのです。キリストの信徒たちは神様の愛と憐れみに注目しがちです。しかし、神様は正義と公平を大切にされるお方なのです。地主は暑い中一日中働いた労働者たちの正当な抗議を無視するのです。賃金の支払いを最後に回して侮辱しているのです。真実を見誤ってはならないのです。神様はこの人を厳しく罰せられるのです。

*たとえ話を聞いている人々の大半は貧しい農民であり、自分たちの姿と重ね合わせたのです。自分たちの土地があれば広場に仕事を求めて行くことはなかったのです。ところが、彼らにすでに土地はなく、生活の糧を確保するために仕事を見つける必要があるのです。どのような賃金でも働かざるを得ないのです。この事実は労働者たちの地主への対応に表れています。彼らはどれくらい払ってくれるかについて協議していないのです。地主の提示した額を考慮することなくそのまま受け入れているのです。労働者たちは地主が賃金を正当に支払ってくれることを願うだけなのです。地主と労働者たちの間にある力の差は歴然としているのです。一方には「ぶどう園」があり、他方には「労働力」しかないのです。地主が労働者たちの弱さに付け入るだけで十分に狡猾です。その上に、仕事を求めて広場にいる労働者たちに「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と尋ねているのです。農民たちは様々な理由(借金の返済など)によって土地の所有権を失い、必死で仕事を探しているのです。地主はその主要な原因を知っているのです。侮蔑的な質問をして労働者たちの自尊心を傷つけているのです。怠けて失業者になっているかのように認識させているのです。偽善は労働者たちの非難が自分たちに向かうことを避ける工夫の一つなのです。自然界に引力の法則があるのです。人間社会の経済活動にも法則があるのです。土地や資本を持っている人たちはそれらを持たない人々よりも優位に立つのです。たとえ話はその事実を具体的に明らかにしているのです。

*地主は労働者たちの不満に対する反論の根拠として「あなたがたはわたしと一デナリオンの約束をしたこと」を挙げるのです。地主は多くのぶどう園を所有しているのです。労働者たちには働く以外に生活の糧を得る方法がないのです。提示された賃金を拒否する余裕などないのです。労働者たちは地主の条件に合意しなければ決して雇われないことを知っているのです。地主は「わたしの気前のよさをねたむのか」と言って、巧みに論点をすり替えるのです。自分の善意に目を向けさせるのです。しかし、「神様の御心」に沿って是非を判断するのです。同一労働同一賃金の原則からすれば表面上の平等が不平等を招いているのです。気前の良さの問題ではないのです。ある労働者たちを苛酷に働かせ、ある労働者たちの労働時間を恣意的に軽減させているのです。それぞれの時刻に雇った労働者の人数は不明です。一般的に、早朝六時にぶどう園に送られた労働者の数が最も多いのです。1デナリオンで十二時間働いたのです。これらの人の労働によって十分な収益が確保されているのです。憐れみ深い人であるなら自分の利益を減らしてでも労働時間に応じた賃金を支払うのです。何よりも、労働者たちを時間ごとに雇うことなどしないのです。早朝に一括して採用するからです。その方が効率的です。長時間働いた労働者たちから非難された地主は「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか」と善意を強調しているのです。搾取と偽善のたくらみが露見しないように振る舞うのです。

*地主は労働者たちの賃金を一方的に決定しているのです。不公平な賃金の決定方法によって、一時的に得をした労働者たちがいるのです。しかし、楽をして賃金を得た労働者たちに明日も同じようなことが起こるとは限らないのです。別の雇い主が1デナリオン以下の賃金で働くことを強いるかも知れないのです。最悪の場合、一日中仕事に就けないこともあるのです。気まぐれや気前の良さは不公平を助長するのです。地主は尊大です。言葉には労働者たちへの愛や配慮が見られないのです。用いた方法も悪意に満ちているのです。自分の利益を最大化するために労働者たちを欺いているのです。労働者たちの間に分断をもたらしているのです。地主の強欲と富への執着がこの問題の根本原因なのです。労働時間数に応じて賃金を支払えば誰もが納得するのです。日没が六時であれば,五時に雇った労働者は一時間働いたのです。地主はこの人に1デナリオンを支払ったのです。この基準を他の労働者にも適用するのです。三時に雇った人には三デナリオン、正午に雇った人には六デナリオン、朝九時に雇った人には九デナリオン、六時に雇った人に十二デナリオンを支払うのです。ところが、一律だったのです。早朝から働いた労働者たちが賃金の上積みを求めることは当然です。地主が自分の取り分を減らして賃金に充当することはなかったのです。「主の祈り」にあるように、土地を失った(奪われた)農民たちは困窮しているのです。その日の糧を得ることに苦労しているのです。地主は労働者たちの声に耳を傾けなかったのです。神様がその訴えに応えられるのです。

*イエス様はファリサイ派の人々や律法学者たちの偽善を激しく非難して「律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実をないがしろにしている。これらこそ行うべきである」と言われたのです(マタイ23:23)。労働者のすべてが単身者ではないのです。これらの人には年老いた両親、妻や子供たちがいるのです。地主の目的は労働者たちを巧妙に搾取して最大の利益を得ることなのです。その意図を偽善によって覆い隠すのです。見せかけの正義と公平によって労働者たちを対立させるのです。地主は労働者たちに労働時間に関係なく1デナリオンを支払ったのです。契約上は正しいのです。キリストの信徒たちの中に地主の主張に賛同する人も多いのです。しかし、同一労働同一賃金の観点からは全く不公平なのです。地主の言動は愛と慈しみに満ちた「神様の御心」に反しているのです。労働者たちは地主が提示した賃金に異を唱えることなど出来ないのです。形式的な平等が実質的な不平等を生み出しているのです。地主の目的は明確です。労働者たちが生み出した果実を可能な限り自分の所有物にすることなのです。偽善はそのための手段なのです。イエス様は貧しい労働者たちに窮状の原因を分かり易く説明しておられるのです。雇い主の不正に対する労働者たちの申し立てを支持しておられるのです。神様はすべてのことをご存じです。虐げられた労働者たちの側に立たれるのです。不正を働く人々に報復されるのです。今日、同様なことが起こっているのです。農民や労働者たちが苦しんでいるのです。「神の国」においてはこの世の地位が逆転するのです。

2024年09月29日

「議員ニコデモの信仰」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書3章1節から15節

さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ(先生)、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。(わたしはそのように思わないのですが・・)」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風(霊)は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。

はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

(注)


・夜:イエス様は「・・しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである」と言われています(ヨハネ11:10)。ヨハネ13:30を併せてお読みください。

・ファリサイ派:厳格な律法解釈とその遵守、さらには慣習と伝統を大切にするユダヤ教の一派です。

・律法学者:文書を記録する官僚であり、同時に学識を有する学者です。多くはイエス様に批判的でしたが、「先生,あなたがおいでになる所ならどこへでも従って参ります」と言った律法学者もいたのです(マタイ8:19)。

・神の国:「天の国」とも言います。死後に行く「天国」のことではありません。神様の支配、神様の主権のことです。福音(良い知らせ)とは、神様がこの世を終わらせて「新しい天地」を創造されることです。イエス様はご自身の教えと「力ある業」を通してご計画の一部を示されたのです。いずれ、再臨する(再び来る)時に完全なものにされるのです。

・水と霊:旧約聖書にも記述されています。「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる」(エゼキエル書36:25-27)。イザヤ書32:15-20、ヨエル書3:1-5も参照して下さい。

●ユダヤ教ではユダヤ教への改宗者を「新しく生まれた子」と呼んでいました。

・霊から生まれた者:マリアはイエス様を聖霊様によって身ごもったのです(マタイ1:20)。

・サンへドリン:新共同訳聖書では「最高法院」と訳されています。エルサレムにあり、もともと司法(律法)に関する最高意思決定機関としての役割を果たしていました。大祭司がこの評議会の議長を担当し、議員は主として祭司職の家系の者、律法学者のような宗教指導者から選ばれました。結果として、祭司職のサドカイ派の人々、ファリサイ派に属する律法学者たちで構成されたのです。また、いずれの派にも属さない律法や慣習を監督する長老もメンバーに含まれていたのです。イエス様の時代にはローマ帝国の支配下にあり、大祭司は任命されたのです。自分たちで選ぶことは出来なかったのです。エルサレムの司法、行政、宗教(神殿政治)の中枢を担っていました。

・荒れ野の蛇:エジプトから導き出されたイスラエルの民は荒れ野における厳しい生活に耐えきれず、神様に不平を漏らしたのです。神様は怒って猛毒の蛇を地上の民に送られました。多くの死者が出たのです。神様の指示に従ってモーセは青銅の蛇を造り旗竿の先に掲げたのです。噛(か)まれてもこの蛇を仰げば死ぬことはなくなったのです。民数記21:4-9を参照して下さい。

(メッセージの要旨)

*ニコデモはヨハネによる福音書だけに三回登場します。信仰心の篤いユダヤ人で、サンヘドリンのメンバーでした。ファリサイ派の一員としてイエス様を理解しようと努力していました。密かな出会いを望んでいたのか、群衆を避けようとしていたのかは分かりませんが、イエス様を夜に訪問したのです。イエス様はご自身が「神の子であること」を信じられない人々に「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくてもその業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう」と言われました(ヨハネ10:37-38)。ニコデモは「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」と言っているように、彼(のグループ)はイエス様が神様から遣わされた教師であることを認めているのです。ただ、ニコデモが順守して来た「律法と預言者たち(の教え)」は洗礼者ヨハネの時を最後に重大な転換点を迎えるのです。イエス様を通して「新しい天地創造」が告げられているのです。この世の終わりが近いのです。イエス様は人々に水と霊(の洗礼)によって新たに生まれることを求められたのです。ニコデモはユダヤ教の教えと経験に基づいて反論するのです。ところが、新しく生まれ変わったのです。イエス様に有利な発言をしているのです。十字架上で処刑されたイエス様を埋葬したのです。同僚から非難され、地位の剥奪が予想されるのです。

*イエス様は神様から遣わされたお方です。ユダヤ教の教師(あるいは預言者)に留まらないのです。イエス様はニコデモの信仰理解をさらに深められるのです。サマリア人の女性に「神は霊である。 だから、神を礼拝する者は、霊と真理を持って礼拝しなければならない」(ヨハネ4:24)と言われたように、ニコデモにも「水と霊による洗礼を受けなければ神の国に入れない」と明言されたのです。ニコデモは神様がイエス様と共におられることを認めているのです。もう一歩が踏み出せないのです。イエス様は慈しんで「そこまで理解しているのに、なぜ、ご自身の中に神様がおられることを信じないのか」と不信仰を指摘されたのです。イエス様の母マリアは聖霊様によって身ごもったのです。イエス様が洗礼を受けられた時、天が裂けて「霊」が降っているのです(マルコ1:10)。神様はイエス様によって語られるのです。信じる人々に「永遠の命」を与えられるのです。神様とイエス様と聖霊様は一つなのです(ヨハネ10:30)。律法の厳格な順守による「救い」を確信し、人々にもそのように教えて来たニコデモが難題に直面しているのです。イエス様への応答がその人の「救い」を決定するという絶対的な要件に困惑するのです。律法の順守と「神の国」の福音とは矛盾しないのです。イエス様が「律法を廃止するためではなく、完成するために来た」と言われるからです(マタイ5:17-20)。イエス様を「神の子」と信じ、御跡に従うことは簡単ではないのです。新たに生まれるためには過去の生き方からの決別と強い信頼が不可欠なのです。

*イエス様はファリサイ派の人々や律法学者たちを非難して「(彼らは)モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」と言われたのです(マタイ23:2-4)。ニコデモはファリサイ派に属する議員です。律法を厳格に順守しているのです。社会的地位もあり、宗教指導者なのです。鋭く対立している相手のイエス様と会うことには危険が伴うのです(ヨハネ9:22)。相応の覚悟がなければイエス様を訪れることなど出来ないのです。しかし、ニコデモは他のファリサイ派の人々とは違っていました。自分の中に生じた「新しい教え」に対する疑問を何とかして解明したいのです。見えない力がそうさせているのです。すでに、聖霊様に導かれているのです。水と霊による洗礼は儀式や形式ではないのです。信仰を貫くことが出来る「神様の御力」に与ることなのです。ニコデモはイエス様への信仰を隠している議員が多い中、「行い」によって信仰を公にした数少ない人です(ヨハネ12:42-43)。キリスト信仰が誤解されているのです。「神の国」の福音-人類の全的な救い-が「霊的に」のみ語られているのです。ニコデモは最初「新しく生まれること」を論じたのです。ところが、後に「生き方」によってそれを示したのです。イエス様と出会って「水と霊から生まれた者」-真のキリストの信徒-になったのです。

*イエス様のお言葉「だれでも水と霊とによって生まれなければ、・・あなたがたは新たに生まれねばならない・・」が心(認識)の問題として理解されているのです。イエス様を「神の子」として信じた人々がこの世(肉)と同調することは出来ないのです。イエス様は神殿の境内から商売人たちを「実力行使」によって追い出されたのです。祭司長たちやファリサイ派の人々は激怒したのです。イエス様を捕らえるために下役たちを遣わすのです。イエス様を捕らえて殺そうとしているのです(マルコ11:15-18)。状況は緊迫しているのです。イエス様を信じる人たちも迫害を受けるのです。それでも、ニコデモは議員たちやファリサイ派の人々に「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」と警告しているのです(ヨハネ7:51)。権力者たちは威信が損なわれないように最善を尽くすのです。組織内部から造反者が出ないように注意を怠らないのです。必要なら力(恐怖)を用いて抑圧するのです。ニコデモが信念に基づいて「組織的律法違反」を告発するのです。制裁と不利益を被(こうむ)ることは避けられないのです。キリスト信仰とは信じることではないのです。「行い」によって信仰を証しすることなのです。ニコデモはイエス様の教えを聞いたのです。それらを実行するのです。「何よりもまず、神の国(神様の支配)と神の義(神様の正義)」を求めたのです(マタイ6:33)。新しく生まれたキリストの信徒はこのような人なのです。

*イエス様は聖霊様に導かれ「神様の御心」を実現するためにご生涯を捧げられました。権力の中枢にいたニコデモはイエス様に出会って新しく生まれ変わったのです。その後、同僚たちの非難を恐れずに律法を順守してイエス様を弁護したのです。そして、処刑されたイエス様のご遺体を議員であるアリマタヤのヨセフと共に埋葬したのです(ヨハネ19:38-40)。ヨセフは弟子であることを隠していたのです。ところが、イエス様のご遺体を取り降ろしたいとローマの総督ポンティオ・ピラトに願い出たのです。イエス様への信仰が公けになったのです。記述はないのですが、権力の中枢から迫害されたことは火を見るより明らかです。ニコデモやヨセフは議員の立場で出来ることを実行したのです。新しく生まれ変わった人々はこの世の常識の範疇(はんちゅう)-利害あるいは損得-で行動しないのです。最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実践するのです(マルコ12:29-31)。金持ちや社会的地位の高い人々が「神の国」に入るのは難しいのです。彼らには執着する物があまりにも多いからです。ニコデモはイエス様に出会って何が最も大切なことであるかを知ったのです。「水と霊によって生まれること」について様々な神学論争が行われているのです。議論で解明される問題ではないのです。もっと単純なのです。イエス様に神様と聖霊様が共におられることを信じるのです。「神様の御心」に沿ってこの世を生きるのです。議員ニコデモはイエス様を夜に訪れて「救い」に与ったのです。イエス様の教えを忠実に守った人なのです。

2024年09月22日

「狭い戸口」

聖書朗読(Bible Reading)ルカによる福音書13章22節から30節

イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義(悪)を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに(のを見るとき)、自分(たち)は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

(注)

・「救われる者は少ないのでしょうか」は広く議論されていました。旧約聖書続編のエズラ記(ラテン語)7:45-61を参照して下さい。旧約聖書続編は従来、第二聖典、アポクリファ、外典などと呼ばれています。紀元前三世紀以後、数世紀の間に、ユダヤ人によって書かれたものです。現在のヘブライ語の聖書の中には含まれていないのですが、初期のキリスト教徒はこれをギリシャ語を用いるユダヤ教徒から聖なる書物として受け継いだのです。この部分についてのカトリック教会の評価は定まっていますが、プロテスタント諸教会の間では必ずしも一定していないのです。(新共同訳聖書1987年版序文から)

■ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネ21:20-22)

・狭い戸口:

■すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」(ルカ10:25-28)

■「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイ25:31-40)

・不義を行う者ども:「不法」を働く者どもと訳す方が適切です。


■悪を行う者よ、皆わたしを離れよ。主はわたしの泣く声を聞き 主はわたしの嘆きを聞き/主はわたしの祈りを受け入れてくださる。(詩編6:9-10)


■イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」(マルコ12:38-40)

・神の国:神様の支配、神様の主権のことです。天の国とも言われます。ここでは狭い戸口のある家として表現されています。

・東から西、南から北: 世界中から

・後の人で先・・・:神様が最初に選ばれたのはイスラエル(ユダヤ人たち)です。しかし、不信仰の故にイエス様を通して「救い」はすべての民族に及ぶのです。

(メッセージの要旨)


*ある人がイエス様に「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねています。どのような思いから質問をしたのかは分かりませんが、この問題はユダヤ人の間では大きな関心事だったのです。すべてのイスラエルの民は救われると考える人もいれば、エジプトから脱出した人々の中で「約束の地」カナンに入ったのはヨシュアとカレブだけであったことを心に留める人もいたのです(民数記14:1-38)。イエス様は質問内容に直接答えるのではなく、もっと重要な問題―「どのようにすれば救われるのか」―について言及されたのです。そして、人々に「狭い戸口から入るように努めなさい」と言われたのです。これは、山上の説教で語られたお言葉「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」の再確認なのです(マタイ7:13-14)。多くの人は信仰によって「救い」が得られると信じているのです。しかし、「神の国」に入れる人は少ないのです。神様のご認識とキリストの信徒たちの理解には相違が見られるのです。「信仰によって救われる」という言葉が正しく伝えられていないのです。キリスト信仰は安価な恵みではないのです。「狭い戸口」、「狭い門」から入ることを求めるのです。自己犠牲を伴う厳しい信仰なのです。「神様の御心」-神様と隣人を愛すること-を実行した人が「永遠の命」に与れるのです。イエス様の御跡を辿(たど)るのです。苦難を覚える隣人のために全力で奉仕するのです。


*新約聖書の中に「広い門」を選んで滅びに至った人々と「狭い戸口」から入って「救い」に与った人々が記述されています。財産に執着して「神の国」から遠ざかった金持ちがいました。この人は律法の規定を忠実に守って生きて来たのです。ところが、「永遠の命」への確信が得られなかったのです。イエス様に「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と質問したのです。イエス様は「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬えという掟をあなたは知っているはずだ」と答えられたのです。金持ちは「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と誇らしげに語ったのです。イエス様は金持ちを慈しんで「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い貧しい人々に施しなさい。天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と命じられたのです。金持ちは「永遠の命」に至る道の厳しさに驚いたのです。気を落として悲しみながら立ち去ったのです。イエス様は「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と言われたのです。更に「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と続けられたのです。弟子たちは「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言ったのです(マルコ10:17-26)。自己評価は役に立たないのです。大切な物を捨てる(神様に委ねる)ことが求められているのです。金持ちは「狭い戸口」から入ることを決断出来なかったのです。


*「狭い門」から入った人々の中に徴税人のザアカイがいました。貧しい人々は重税に喘いでいました。徴税人たちが不正な取り立てをしていたからです。しかも、ローマ帝国の徴税に協力して利益を得ていたのです。ユダヤ人たちは彼らを民族の裏切り者と呼んだのです。罪人として蔑(さげす)んだのです。ザアカイはエリコ(エルサレムの東約37km)に住んでいました。徴税人の頭で金持ちでした。ある時、イエス様がこの町を通っておられました。ザアカイはどんな人か見ようとしたのですが、背が低かったので群衆に遮られて見ることができなかったのです。そこで、先回りしていちじく桑の木に登ったのです。イエス様はその場所に来ると「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われたのです。ザアカイは喜んでイエス様を迎えたのです。これを見た人たちが「イエス様は罪深い男のところに行って宿をとった」とつぶやいたのです。当然のことかも知れません。ところが、ザアカイはイエス様の憐れみに「行い」によって応えるのです。新しい生き方を表明するのです。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と言ったのです。前半は任意ですが、後半は律法の規定を十分に満たしているのです(出エジプト記22:1)。イエス様はザアカイの心の内を御覧になったのです。「今日、救いがこの家を訪れた。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」と言われたのです(ルカ19:1―10)。正義、慈悲、誠実は「救い」の基本要件なのです。


*「不義」と訳されている言葉には道徳的な過ちのニュアンスが強く表れているのです。原文の意味は不法行為、悪事のことなのです。信徒たちがキリスト信仰とこの世における生活を使い分けているのです。富の蓄積を擁護しているのです。一定の労働者を犠牲にしても、経営者が利益を得ることは企業の正当な経済活動だと主張しているのです。しかし、イエス様が明言されたように神様と富との両方に仕えることは出来ないのです(ルカ16:13)。「神の国」(神様の支配)と「神様の義」(神様の正義)を優先するのです(マタイ6:33)。当時の弟子たちがそうであったように、現代の信徒たちも同じ道を歩んでいるのです。イエス様の教えが日常生活から乖離(かいり)していることを理由に「逃れの道」を模索するのです。自分にとって可能な「戒め」だけを実行しているのです。イエス様は「『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。・・」と言われたのです(マタイ7:21-23)。ヤコブも「・・行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」と警告するのです(ヤコブ2:14-17)。「広い門」を選んだために「神の国」に入れない人が多くいるのです。キリスト信仰とは「神の国」の到来を福音(良い知らせ)として信じることです。人間の「全的な救い」として実現するのです。「罪からの解放」は一部です。キリストの信徒たちは「神様の恵み」を受けるだけでなく、「狭い戸口」から入るのです。「神の国」の建設のために責務を果たすのです。


*「狭い戸口」から入るために何よりも優先して神様の支配と神様の正義を求めるのです。ある男と徴税人ザアカイはいずれも金持ちでした。一方は、財産を施すことを惜しんで「神の国」から遠ざかったのです。金持ちが「神の国」に入ることは不可能に近いのです。しかし、イエス様は「人間にはできないことも、神様にはできる」と言われたのです(マタイ19:26)。お言葉の正しさが徴税人ザアカイを通して証明されたのです。徴税人は貧しい人々に財産の半分を施すこと、不正が確認されれば四倍にして返すことを明言して「救い」に与ったのです。イエス様は御子の権威によって「救い」の是非を判断される のです。このことを肝に銘じるのです。イエス様が「神様の御心」を実現するために十字架の死を遂げられたように、キリスト信仰に生きる人々も様々な苦難に遭遇するのです。「永遠の命」を希求しながら、神様のための「犠牲」を惜しむことは矛盾しているのです。キリスト信仰が誤解されているのです。キリスト信仰とはイエス様の教えを実行することです。イエス様に倣(なら)って生きることなのです。敵対する人々から迫害されるのです。イエス様は労苦している人々を慰め、励まして下さるのです。「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた(神様にお委ねした)者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」と約束されたのです(ルカ18:29-30)。イエス様を信じ「狭い戸口」から入るのです。「神の国」の到来を全力で証しし、名実ともにキリストの信徒になるのです。

2024年09月15日
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