Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書1章14節から39節
(洗礼者)ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。
一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。
すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。
朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。
(注)
・ガリラヤ:エルサレムの人々から律法を軽んじる田舎として蔑まれていました。ガリラヤ湖は内陸部にある湖です。漁業が盛んな地域でした。ゼベタイは他の漁師を雇っており、比較的裕福です。
・カファルナウム:ガリラヤ湖の北西にある町です。産業の中心は漁業、農業、交易です。イエス様のホームタウンであり、宣教の拠点でした(マタイ9:1)。
・神の国:神様の全き支配のことです。神様が人間の心と社会の隅々にまで真に神様として崇められ、あらゆる価値の基準とされること、それを通して正義と平和の秩序が実現されることです。旧約聖書は神の国の到来を待ち望むイスラエルの信仰を書き記したものです。神様は自分たちをエジプト人の支配から救い出し、砂漠を経て約束の地へ導かれたのです。ご自分に頼る者を決して見捨てられないのです。どのような地上の力にも勝っておられるのです。信頼するに値するお方なのです。イスラエルは異国の支配下で弾圧され、分断され、捕囚の地に連れていかれたのです。その時も、神様は常に自分たちと共におられ、民の身の上を思い,心を痛められたのです。イスラエルはこの神様がいつの日か、必ず自分たちを解放して下さることを信じたのです。
・汚れた霊:悪霊、悪魔のことです。
・ヘロデ・アンティパスの妻:ユダヤ人歴史家ヨセフスによればヘロディアは兄弟フィリップの妻ではなく、フィリップの義理の母となっています。
・エゼキエルの預言:「・・王は嘆き/君侯たちは恐怖にとらわれ/国の民の手は震える。わたしは彼らの行いに従って報い/彼らの法に従って彼らを裁く。そのとき、彼らは/わたしが主であることを知るようになる」(エゼキエル書7:27)。7章全体をご一読下さい。
・ナザレ:ガリラヤ湖の西約24㎞にある農業を中心とする村です。
・律法学者:ユダヤ教の律法を専門的に解釈する官僚のことです。彼らの多くは、イエス様が宣教された「神の国」の福音を拒否したのです。
ヨベルの年:
あなた(たち)は安息の年を七回、すなわち七年を七度数えなさい。七を七倍した年は四十九年である。その年の第七の月の十日の贖罪日(しょくざいび)に、雄羊の角笛を鳴り響かせる。あなたたちは国中に角笛を吹き鳴らして、この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る。五十年目はあなたたちのヨベルの年である。種蒔くことも、休閑中の畑に生じた穀物を収穫することも、手入れせずにおいたぶどう畑の実を集めることもしてはならない。この年は聖なるヨベルの年だからである。あなたたちは野に生じたものを食物とする。ヨベルの年には、おのおのその所有地の返却を受ける(レビ記25:8-13)。
(メッセージの要旨)
*洗礼者ヨハネはイエス様の先駆けとして、人々に「悔い改め」を求めたのです。ヨルダン川で洗礼を授けていました。この人は権力者たちを恐れなかったのです。ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスは兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚したのです。ヨハネはこの件だけでなく、アンティパスの様々な悪事を告発したのです。アンティパスはヨハネを捕らえさせ、牢につながせたのです。最終的には首をはねさせたのです(マルコ6:14-29)。洗礼者ヨハネと入れ替わるかのように、イエス様は30歳の時に宣教を開始されたのです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音(良い知らせ)を信じなさい」と言われたのです。短いお言葉の中にキリスト信仰の真髄が要約されているのです。「時は満ち」において、エゼキエルが預言したように神様によって定められた「裁きの時」が迫っていることを告げられたのです。「神の国」は死後に行く「天国」のことではないのです。「神様の主権」が天上と地上の隅々に及ぶことです。イエス様は人々に「神の国」の到来を語るだけでなく、目に見える形で証明されたのです。様々な「癒しの業」を実行されたのです。時が来れば、この世に平和、正義、公平を実現して下さるのです。「悔い改めて福音を信じなさい」において、最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実践する人々に「永遠の命」が約束されたのです。シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネはイエス様の宣教活動を共に担ったのです。キリストの信徒たちも、一年を振り返り、どのように「神の国」の建設に参画したかを自問するのです。
*イエス様は「神の国」の到来がもたらす福音について、具体的にまた簡潔に表現されています(ルカ4:16-21)。イエス様はお育ちになったナザレでも、いつものとおり安息日に会堂に入られました。イエス様はどこに行っても安息日には礼拝を守られたのです。当時、申し出れば誰でも(旧約)聖書の朗読をすることが出来ました。一般的に、各巻は祭壇の後ろの壁面にある棚に置かれています。担当者から預言者イザヤの巻物(イザヤ書)が手渡されました。お開きになって「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人々に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人々に解放を、/目の見えない人々に視力の回復を告げ、/圧迫されている人々を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」に目を留められたのです(イザヤ書61:1-2)。イエス様は朗読された後「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われたのです。ご自身を通して「イザヤの預言」が具体化していることを明言されたのです。ユダヤ人のほとんどを占める貧しい人々に福音が優先的に届けられるのです。不当に逮捕され、牢獄につながれている人々は解放されるのです。目の不自由な人々は視力を回復するのです。圧政に苦しむ人々は自由を得るのです。聖なる50年目の年-ヨベルの年-の規定が厳格に適用されるのです。「神の国」が限定的に解釈されているのです。福音は個人的な「罪からの救い」で完結しないのです。社会と人間の「全的な救い」に及ぶのです。
*洗礼者ヨハネは牢の中で、イエス様のなさった様々な「癒しの業」を耳にしたのです。そこで、自分の弟子たちを送って「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねたのです。イエス様は「見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人々は見え、足の不自由な人々は歩き、重い皮膚病を患っている人々は清くなり、耳の聞こえない人々は聞こえ、死者たちは生き返り、貧しい人々は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人々は幸いである」と答えられたのです(マタイ11:2-6)。「神の国」はイエス様を通して各地に広がっているのです。心身の障害はその人の「罪の結果」であると考えられていました。弟子たちも従来の教えに支配されていたのです。彼らは、生まれつき目の見えない人を見かけて、イエス様に「誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と質問したのです。イエス様は「神の国」の到来を告げる「新しい解釈」を示されたのです。「罪の結果ではなく、神様の業がこの人に現れるためである」と教えられたのです(ヨハネ9:1-3)。「神の国」の到来は人々が患っている様々な病を癒し、社会の隅に追いやられた罪人たちを罪の縄目から解き放ったのです。人間の根源的な願いである「永遠の命」への希望に確信を与えたのです。既得権益に執着し、伝統的なユダヤ教に固執する人々(指導者たち)は躓(つまず)いたのです。「神の国」の福音に激しく抵抗したのです。キリスト信仰は「神の国」の到来を福音として信じることなのです。
*「神の国」は悔い改める人々に福音となって訪れるのです。しかし、福音に与った人々には「善い行い」によって、信仰を証しすることが求められるのです。この点を曖昧にしてはならないのです。イエス様はキリスト信仰を標榜(ひょうぼう)する人々に最も重要な戒めを二つ与えられました。ある時、イエス様の教えに心打たれた一人の律法の専門家が「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と尋ねたのです。イエス様は「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」と答えられたのです。律法学者はイエス様に「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」と言ったのです。イエス様は律法学者が適切な答えをしたので「あなたは、神の国から遠くない」と言われたのです
(マルコ12:28-34)。キリスト信仰とは「神の国」の福音に感謝するだけではないのです。最も重要な戒めへの責務を履行することなのです。「生き方」を通して「神様の御心」を証しするのです。信仰だけでは「救い」を得られないのです。「行い」が必須の要件だからです(ヤコブ書2:17)。
*「神の国」の到来は貧しい人々、虐げられた人々など暗闇に生きる人々にとって「希望の光」となったのです。同時に、「救い」が安価な恵みではないことを明確にしたのです。信仰には「行い」が不可欠なのです。イエス様は「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」と言われたのです(ヨハネ5:21-22)。最後の審判の判断基準についても、たとえ話によって示されたのです。飢えている人々に食べ物を、のどが渇いている人々に飲み物を提供し、旅をしている人々に宿を貸し、着る物のない人々に衣服を着せ、病気の人々を見舞い、牢にいる人々を訪ねて「神様の御心」を実践した人々が「永遠の命」(救い)に与ったのです。一方、社会の中で最も軽んじられている同胞に手を差し伸べなかった人々は「永遠の罰」を受けることになったのです(マタイ25:31-46)。キリスト信仰を神様と信徒との個人的な関係として理解されている人も多いのです。しかし、旧・新約聖書が伝える信仰の歴史は神様とユダヤ民族との関係であることを証明しているのです。イエス様が教えられた「主の祈り」も個人的な祈りではないのです。天におられる神様を崇め、富や権力の誘惑を退けて、「隣人愛」が貫けるようにと願う「信仰共同体」としての祈りなのです(マタイ6:9-13)。一年の終わりに、イエス様のお言葉と宣教活動を想起するのです。各自の信仰の軌跡を吟味するのです。怠惰であってはならないのです。新しい年に備えるのです。