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洗礼者ヨハネが捕らえられた後、イエス様はガリラヤ地方へ行き、福音(良い知らせ)を宣べ伝えて「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたのです(マルコ1:14-15)。イエス様は復活された後も、使徒たちに「神の国」について話されたのです(使徒1:3)。キリスト信仰の中心メッセージは「神の国」-神様の支配-にあるのです。

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「悪霊との闘い」

Bible Reading (聖書の個所)

「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊(たち)に対する権能(を支配する権限)をお授けになった。汚れた霊(たち)を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。・・イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人(たち)の道に行ってはならない。また、サマリア人(たち)の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊(たち)のところへ行きなさい。行って、『天の国(神の国)は近づいた』と(言って福音を)宣べ伝えなさい。病人(たち)をいやし、死者(たち)を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人(人々)を清くし、悪霊(たち)を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」(マタイ10:1-15)

イエスはそこ(ガリラヤ湖の西北岸)を立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑(くず)はいただきます。」そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。(マルコ7:24-30)

(注)

・汚れた霊:悪霊のことです。当時、あらゆる病気や患いの原因であると考えられていました。ファリサイ派の人々はイエス様の癒しの業を貶(おとし)めるために「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言ったのです。(マタイ9:32-34)

・サタン:元々は神様の命に従って活動する天使です。「告発する者」と呼ばれています。悪霊の頭です。ベルゼブルはサタンの別名です。

■ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢(むく)な正しい人で、神を畏(おそ)れ、悪を避けて生きている。」サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪(のろ)うにちがいありません。」主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。(ヨブ記1:6-12)

・サタンの誘惑:宣教を開始される前のイエス様に挑戦しています。

■すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。(マタイ4:3-11)

・サタンの追放:

■さて、天で戦いが起こった。ミカエル(大天使)とその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。(ヨハネの黙示録12:7-9)


・12使徒:ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネは漁師でした(マタイ4:18-22)。フィリポはイエス様から「わたしを見た者は、父を見たのだ」と叱責されました(ヨハネ14:8-9)。トマスはイエス様が「神様であること」を明言しました(ヨハネ20:24-29)。マタイはローマ帝国の税の取り立てに協力する徴税人でした(マタイ9:9-13)。もう一人のシモンはローマ帝国の支配に武力で抵抗する熱心党に属していました。イスカリオテのユダは祭司長たちからお金をもらってイエス様を裏切りました(マルコ14:10-11)。バルトロマイ、アルファイの子ヤコブとタダイの詳細は不明です。

 

・72人の派遣:その後、イエス様はご自分が行くつもりの町や村に二人ずつ先に遣わされました。

 

■七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ10:17-20)

・異邦人宣教:マタイ8:5-13,15:21-28,28:19-20に記述されています。

 

・サマリア宣教:ヨハネ4、ルカ9:51をお読みください。

 

・イスラエルの家の失われた羊:牧者と羊の関係を表しています。民数記27:16-17、イザヤ書40:11、エゼキエル書34:1-6を参照して下さい。

・天の国:神の国とも言います。神様の支配を表す言葉です。天上と地上において神様が神様として崇(あが)められることです。

・家:教会を兼ねている家もあったのです。イエス様は「家」を宣教の拠点とされていました(マルコ3:20)。

・足の埃を払い落とすこと:強い拒絶反応を表す行動です。

・ソドムとゴモラ:いずれも不信仰の町です。創世記18ー19に登場します。

・サマリア、シリア、ガリラヤ、ゲラサ、エルサレム、ユダヤについては聖書地図を参照して下さい。

・ティルス:ガリラヤの西北に位置しています。ほとんどの住民が異邦人です。ユダヤ人たちから蔑(さげす)まれていました。エゼキエル書26:1-28:19を参照して下さい。

・ひれ伏す:イエス様を「神の子」として認めていることです。

・ギリシア人:一般的には異邦人を指しています。この場合、民族(国籍)としてはシリア・フェニキア人を表しています。

・子供たち:イスラエルの人々(ユダヤ人たち)です。

・子犬たち:犬はユダヤ人たちにとって汚れた動物です。異邦人たちに対する極めて非礼な言葉です。

・サタンがペトロを一時的に支配することがあったのです。

■それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。(マルコ8:31-33)

■「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」(ルカ22:31-34)

(メッセージの要旨)

*イエス様は「わたしは、サタンが稲妻(いなずま)のように天から落ちるのを見(てい)た」と言われました。「神様の御心」が天上で実行されているのです。神様は地上においてもご意思を貫かれるのです。それが、イエス様を通して証しされた「神の国」の到来なのです。すでに、神様は天上と地上において勝利を宣言されたのです。ところが、汚れた霊たち(サタン)は人間を一時的にでも何とか支配しようとしているのです。汚れた霊たちはイエス様を見れば自分たちの方から話しかけるのです。彼らの中には自分の名前を持っている悪霊もいるのです。イエス様が悪霊を追い出しておられると、人々の中には「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者たちもいたのです。イエス様は彼らに「わたしは神の指で悪霊を追い出している」と反論されたのです(ルカ11:14-20)。後の話ですが、パウロがエフェソ(現在のトルコ)で宣教していた頃、悪霊がイエス様の名前によって自分を追い出そうとするユダヤ人祈祷師(きとうし)たちに「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ」と言って、彼らをひどい目に遭わせたこともあったのです(使徒19:11-16)。結果として、イエス様の名が大いに崇(あが)められるようになったのです。しばらくはこの世の支配者であるサタンとの闘いが続くのです。その際、キリストの信徒たちの信仰が常に問われることになるのです。ティルスの母親が示したようなイエス様への揺るぎない信頼が闘いを勝利に導くのです。

*イエス様は洗礼者ヨハネが捕らえられた後、ガリラヤへ行き「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って宣教を開始されました。いよいよ「神様の支配」が実現するのです。イエス様を通してその事実が人々に見えるようになるのです。先ず、シモン(ペトロ)、アンデレ、ヤコブ、ヨハネを弟子とし、ガリラヤ湖畔の町カファルナウムの会堂で安息日に教え始められたのです。人々は律法を引用するのではなく、ご自身を主語とする教え方に驚いたのです。そのとき、会堂にいた汚れた霊に取りつかれた男が叫んだのです。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエス様が「黙れ。この人から出て行け」とお叱(しか)りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行ったのです。人々は「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚(けが)れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエス様の評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々に広まったのです。夕方になって日が沈むと(安息日が終わると)、町中の人が病人たちや悪霊に取りつかれた人たちを連れて来ました。イエス様は彼らを癒されたのです(マルコ1:14-34)。最も古いマルコ福音書は16章です。他の福音書と比べても短いのです。イエス様の悪霊払いを四例も取り上げているのです。最初に「復活の主」に出会ったマグダラのマリアは七つの悪霊を追い出していただいた女性です(マルコ16:9)。人々は悪霊に苦しめられていたのです。

*イエス様は弟子たちの中から12人を選んで使徒として各地方に派遣されました。その際、汚れた霊に対する権能をお授(さず)けになられたのです。「神の国」の宣教活動の中には悪霊払いという重要な使命がありました。多くの人が悪霊に悩まされているという厳しい現実があったからです。イエス様の一行がガリラヤ湖の東側にあるゲラサ(ガダラ)地方に着きました。汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来てひれ伏したのです。イエス様がこの人から出て行けと言われると、汚れた霊は「いと高き神の子イエス・・苦しめないでほしい」と大声で叫んだのです。この霊には「レギオン」(大勢)という名前がありました。イエス様は彼らの希望通りに豚に乗り移らせました。豚の群れは崖(がけ)から落ちて湖の中でおぼれ死んだのです。汚れた霊に取りつかれていた人は正気に戻り、イエス様に従いたいと願い出たのです。しかし、イエス様は主があなたを憐れんで下さったことを身内の人々や地元の人たちに証ししなさいと言われたのです。この人は直ちにそれを実行したのです(マルコ5:1-20)。カファルナウムの会堂にいた汚れた霊もゲラサの「レギオン」もイエス様を見て自分たちの方から語りかけているのです。早かれ遅かれ滅ぼされることを承知しているのです。イエス様のお名前を使うと汚れた霊たちは屈服するのです。サタンはすでに天から追放されているのです。イエス様は「・・あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と励まして下さるのです(ヨハネ16:33)。

*一方、イエス様は悪霊に取りつかれた子供たちの癒しについては悪霊と直接言葉を交わされることはなかったのです。親の信仰を重視されるのです。地中海沿岸の町ティルスにも悪霊に苦しめられている異邦人の幼い女の子がいました。母親は幼い娘のことを心配していましたが、有効な治療方法は見つからなかったのです。ある時、母親はイエス様が近くに来られたことを聞きつけたのです。すでに、彼女はイエス様の評判を知っていました。藁(わら)をもつかむ思いでイエス様のもとへ駆けつけたのです。ところが、イエス様は母親の申し出をすぐには受け入れられませんでした。「悔い改め」が必要な同胞への宣教を優先されるのです。「神様の祝福は他の民族(異邦人たち)よりもユダヤ人たちに優先的に与えられるという祖先への約束」を表現した諺(ことわざ)を用いて、母親の信仰心を確かめられたのです。彼女はユダヤ人たちの優越性を認めた上で、恵みの極一部を異邦人の娘にも分けて下さるようにと懇願したのです。母親の言葉は謙虚とか遠慮と言うようなものではないのです。イエス様への絶対的な信頼を表明しているのです。彼女はイエス様が誰にでも癒しの業を実施して下さることを信仰によって確信していたからです。マタイの並行個所では、イエス様は「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように」と言われたのです(マタイ15:28)。その時、悪霊は幼い娘から追い出されたのです。母親は家に帰ってその事実を確認したのです。先ず、イエス様を信じることから始めるのです。そうすれば願いは叶えられるのです。

*汚れた霊に苦しめられている(恐らくてんかん症状のある)息子を持つユダヤ人の父親がイエス様に助けを求めてやって来ました。汚れた霊はイエス様を見るとすぐにその子をひきつけさせたのです。その子は地面に倒れ、転び回って泡(あわ)を吹いたのです。幼い時から今日に至るまで息子の病状は少しも改善しませんでした。汚れた霊が息子の命を危うくすることも度々あったのです。父親はイエス様の弟子たちに癒していただこうとしたのですが、彼らには出来なかったのです。イエス様に出会った父親はわずかな望みを抱いて「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助け下さい」と申し出たのです。イエス様は「おできになるなら・・」と言った父親の不信仰を叱責(しっせき)されたのです。「信じる者には何でもできること」を明言されたのです。父親は自分の不信仰を悔いたのです。「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい」と再度訴えたのです。イエス様は汚れた霊に「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな」と命じられたのです。すると、汚れた霊は叫び声をあげ、ひどくひきつけさせて息子から出て行ったのです(マルコ9:14-27)。イエス様から指示されると彼らは黙って従うのではないのです。人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行くのです。汚れた霊たちは抵抗するのです。しかし、最終的に人間に対する支配を放棄するのです。悪霊であれ、他の誰であれ「神の国」の福音を妨げることは出来ないのです。イエス様を信じて悪霊と闘うのです。

2025年06月15日

「わたしの言うことを行いなさい」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書6章37節から49節

「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量(はか)りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤(はかり)で量り返されるからである。」イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑(くず)は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」

「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺(ゆ)り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊(こわ)れ方がひどかった。」

(注)

・十戒:神様の深い愛が表れています。

■神はこれらすべての言葉を告げられた。「わたしは主、あなたたちの神、あなたたちをエジプトの国、奴隷(どれい)の家から導き出した神である。あなたたちには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたたちはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたたちはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたたちの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代(いくせんだい)にも及ぶ慈(いつく)しみを与える。あなたたちの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたたちの仕事をし、七日目は、あなたたちの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたたちも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたたちの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。あなたたちの父母を敬え。そうすればあなたたちは、あなたたちの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。殺してはならない。姦淫(かんいん)してはならない。盗んではならない 隣人に関して偽証してはならない。隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」

民全員は、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が煙に包まれる有様を見た。民は見て恐れ、遠く離れて立ち、モーセに言った。「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます。」モーセは民に答えた。「恐れることはない。神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたたちの前に神を畏(おそ)れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである」(出エジプト記20:1-20)

・最も重要な掟(おきて):主はモーセに次のように仰せになりました

■穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは盗んではならない。うそをついてはならない。互いに欺いてはならない。わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたたちの神の名を汚してはならない。わたしは主である。あなたたちは隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたたちの神を畏れなさい。わたしは主である。あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたたちは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。民の間で中傷をしたり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。わたしは主である。心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒(いまし)めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐(ふくしゅう)してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。(レビ記19:9-18)

■イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたたちの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。・・・あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏(おそれ)るべき神、人を偏(かたよ)り見ず、賄賂(わいろ)を取ることをせず、孤児と寡婦(かふ)の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。(申命記10:12-19)

●あなたは「あなたがた」と訳さなければなりません。共同体として信仰が求められているからです。

・イエス様の宣教の視点:

■イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人(人々)に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人(人々)に解放を、/目の見えない人(人々)に視力の回復を告げ、/圧迫されている人(人々)を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた(ルカ4:16-21)。

(メッセージの要旨)

*キリストの信徒たちはイエス様(キリスト・イエス)を「救い主」として信じているのです。「永遠の命」の希望の内に生きることが出来るのです。ただ、信仰の意味を誤解している方もおられるのです。キリスト信仰は信じることで完結しないのです。福音は信じれば救いに与(あずか)れるというような安価な恵みではないのです。「神様の戒め」を実行することが必須の要件になっているのです。信仰の有無はその人の「生き方」によって証明されるのです。再び来られたイエス様がそれぞれの「行い」によって「救い」を決定されるのです(ヨハネ5:22)。「無慈悲に裁いたこと」、「罪人を赦さなかったこと」、「升(ます)に緩やかに盛って量を多く見せたこと」が「永遠の命」に大きく影響するのです。傲慢(ごうまん)と貪欲(どんよく)が「救い」を危うくしているのです。イエス様は「誰が天の国(神の国)でいちばん偉いのでしょうか」と質問する弟子たちに「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入れない」と言われたのです(マタイ18:1-5)。何を食べようか、何を着ようかと思い悩む人々に「ただ、神の国を求めなさい。・・自分の持ち物を売り払って施しなさい。・・富を天に積みなさい」と命じられたのです(ルカ12:31-34)。キリスト信仰には「行い」が伴わなければならないのです。「主よ、主よ」と言うだけで「良い実」を結ばない信仰は空しいのです。ヤコブはさらに厳しく「行いのない信仰はそれだけでは死んだものなのです」と言うのです(ヤコブ書1:17)。胆に銘じるのです。

*イエス様は度々神殿の境内で民衆に(旧約)聖書について教えられました。その学識に驚いて、多くの人がイエス様を預言者あるいはメシアとして信じたのです。逮捕に向かっていた下役たちも「あの人のように話した人はいません」と報告したのです。祭司長たちやファリサイ派の人々はイエス様に好意的な発言をした下役たちを叱責したのです。イエス様に従う群衆を「律法を知らない人々は呪われている」と言って非難したのです。エルサレムで神殿政治を担っている指導者たちは信仰心の薄いガリラヤ地方(ガリラヤ出身の人々)を軽蔑していました。その地から優れた預言者が出ることなど想像もしなかったのです(ヨハネ7:45-52)。イエス様は指導者たちを偽善者と呼び、天罰が下ることを宣言されたのです(マタイ23)。ある時、二人の人が祈るために神殿に上(のぼ)りました。一人はファリサイ派の人、もう一人はローマ帝国の協力者として社会から排斥されていた徴税人でした。ファリサイ派の人は心の中で自信に満ちて「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と祈ったのです。一方、徴税人は遠くに立って目を天に上げようともせず、胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と訴えたのです。イエス様は「神様に義(正しい人)とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」と明言されたのです(ルカ18:9-14)。

*神様は「アブラハム(イスラエルの父祖)は大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主(わたし)の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである」と言われました(創世記18:18-19)。「神様の御心」は人々が正義を実行して祝福に与ることなのです。ご自身が先ず模範を示されたのです。エジプト王ファラオの圧政に苦しむイスラエルの民を哀れみ、モーセによって解放されたのです。基本となる戒め-十戒-と関連する律法を付与されたのです。目的は人々を罰するためではなく、生かすためなのです。イエス様は「神様の愛」の観点から律法を解釈されたのです。ところが、ユダヤ人たちには律法違反を助長しているように映ったのです。イエス様は誤解を払拭(ふっしょく)するために「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言われたのです(マタイ5:17)。ただ、イエス様は優先順位があることを明確にし「何よりもまず、神の国(神様の支配)と神の義(正義)を求めなさい。そうすれば、これらのもの(生活に最低必要なもの)はみな加えて与えられる」と言われたのです(マタイ6:33)。キリスト信仰において「神様の愛」は強調されるのです。一方、「神様の正義」が軽んじられているのです。旧・新約聖書を通して「正義」のない「愛」はどこにも見られないのです。順序を間違えてはならないのです。

*イエス様はある律法学者の「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」 という質問に「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」と答えられました。律法学者は「二つの戒めを実行することがどんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」と同調したのです。イエス様はこの人の信仰を褒(ほ)めて「あなたは神の国から遠くない」と言われたのです(マルコ12:28―34)。イエス様は律法学者たちの偽善を厳しく非難しておられます(マタイ23)。その中にあって「救い」に与る可能性を告げられた数少ない人となったのです。イエス様のお言葉-神の国から遠くない-は意味が深いのです。この時点では「行い」によって信仰が証明されていないからです。「救い」は「神様の御心」に沿って善い業を実践した人々に訪れるのです。神様は迷い出た一匹の羊を見つけ出すまで探し回られるお方です(ルカ15:1-7)。イエス様は罪人の烙印(らくいん)を押され、社会から排斥された徴税人や娼婦たちと共に歩まれたのです(マタイ21:28-32)。飢えている時に食べさせ、のどが渇いている時に飲ませ、旅をしている時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいる時に訪ねた人々を祝福されるのです(マタイ25:35-36)。キリスト信仰の真髄は「行い」なのです。

*神様は天地創造の始めからイエス様の再臨-終わりの日-に至るまで罪深い人間を忍耐して導いておられるのです。「神様の裁きと赦し」が繰り返されているのです。信仰のみによって「救い」に与(あずか)れると信じている人も多いのです。イエス様は具体的な「善い行い」を求められるのです。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」と言われたのです(マタイ7:21-23)。「天の国」にはイエス様の御名によって預言し、悪霊を追い出し、奇跡をいろいろ行ったとしても、やもめの家を食い物にするような人々は入れないのです(マルコ12:30)。商取引においても公正を貫くのです。量(はかり)り升を不正に用いてはならないのです。イエス様は最後の審判者として再び来られるのです。その時、すべての人が「行い」によって裁かれるのです。神様は「主の道」-正義と愛の実践-を歩む人々を祝福されるのです。イエス様は社会の底辺で苦しんでいる人々に寄り添い、出来ることを実行しなさいと命じられたのです。罪とは「神様の戒め」を軽んじることです。「行い」のない信仰がその人の「救い」に役に立つことなどないのです。

2025年06月08日

「パウロの回心と苦難」

Bible Reading (聖書の個所)使徒言行録9章1節から31節


さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。 ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。

ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。・・・

そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。・・・

かなりの日数がたって、ユダヤ人(たち)はサウロを殺そうとたくらんだが、この陰謀はサウロの知るところとなった。しかし、ユダヤ人(たち)は彼を殺そうと、昼も夜も町の門で見張っていた。そこで、サウロの弟子たちは、夜の間に彼を連れ出し、籠(かご)に乗せて町の城壁づたいにつり降ろした。

サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。また、ギリシア語を話すユダヤ人(たち)と語り、議論もしたが、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ出発させた。こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。


(注)


・サウロ(パウロ)の回心:使徒言行録22:3-21、26:12-18を併せてお読み下さい。


・ダマスコ:ガリラヤ湖の北東約100kmにある町、現在のシリアの首都ダマスカスです。ただ、エルサレムの大祭司にダマスコにある諸会堂まで命令を下す権限があったというような歴史的事実は確認されていないのです。


・この道:「新しい教え」、キリスト信仰のことです。


・カイサリア(マルティマ):地中海沿岸の港湾都市です。イエス様の時代にはユダヤを管轄するローマ帝国の総督府が置かれていました。


・タルソス:ローマ帝国キリキア州の州都、現在はトルコの都市です。


・バルナバ:精霊様に導かれた信仰篤い人物です。パウロを大いに支え、助けています(使徒11:19-30)。後に、考え方の違いから二人は別々に宣教活動をするようになったのです(使徒15:36-41)。

・ステファノによる大祭司たちへの非難:

■・・かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。パウロは、ステファノの殺害に賛成していた。(使徒7:1-8:1)


・ガマリエル:民衆全体から尊敬されている律法の教師です。ファリサイ派に属していました。最高法院(サンヘドリン)において使徒たちに言及しています。


■あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。(使徒5:38-39)


・コリント:現在のギリシャの都市です。

・ポントス:現在のトルコの町です。

・アポロ:エジプトのアレクサンドリアで生まれ、旧約聖書に詳しい雄弁家です。コリントの教会でも有名です。使徒18:24-19:1に登場します。

・パウロの手紙:ローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙一、コリントの信徒への手紙二、ガラテヤの信徒への手紙、フィリッピの信徒への手紙、テサロニケの信徒への手紙一、フィレモンへの手紙の七つは、パウロの直筆であることが確認されています。これら以外は弟子あるいは他の人が書いたものとされています。


・パウロの信仰告白:

■わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。以前、わたしは神を冒涜(ぼうとく)する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。(1テモテ1:12-17)

・パウロの「神の国」:

■正しくない者(たち)が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者(たち)、偶像を礼拝する者(たち)、姦通する者(たち)、男娼(たち)、男色をする者(たち)、泥棒(たち)、強欲な者(たち)、酒におぼれる者(たち)、人を悪く言う者(たち)、人の物を奪う者(たち)は、決して神の国を受け継ぐことができません。あなたがたの中にはそのような者(たち)もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者(たち)とされ、義(神様との正しい関係にある者たち)とされています。(1コリント6:9-11)。

・啓示による信仰:

神様は来るべき出来事-イエス様の再臨-によって助けて下さるという信仰理解のことです。神様が瞬時にこの世を新しい世界に造り変えられるのです。信徒たちは何もする必要がないのです。ただ待つだけなのです。結果、人々の苦悩の原因や社会の不正に無関心となるのです。イエス様が生と死と復活を通して宣教された「神の国」の福音-人間の全的な救い-が個人的な救いに縮小されているのです。イエス様が命じられた最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-は軽んじられているのです。

(メッセージの要旨)


*パウロの回心は二重の大きな苦しみとなったのです。キリストの信徒たちを律法に従い取り締まっていたユダヤ人たちからは裏切り者として命を狙われたのです。一方、パウロに迫害された信徒たちからは非情さと執拗(しつよう)さを恐れられ、信仰共同体(教会)の一員に加わることに疑念を持たれたのです。苦境にあるパウロを支え、励ましたのがバルナバだったのです(使徒9:27-28)。二人は聖霊様に導かれて第一次宣教に出かけたのです(使徒13:1-14:28)。しかし、両者の間に意見の対立が生じて別々に行動することになるのです。パウロは第二次宣教を独自に始めるのです(使徒15:36-18:22)。第三次宣教を終えてエルサレムに戻ったのですが、誤解も重なってユダヤ人たちによって逮捕され、ローマへ護送されることになったのです(使徒21-28)。この間、パウロは回心を告白し、イエス・キリストについて証しし、「神の国」(天の国)の到来を宣べ伝えたのです。しかし、中心テーマは「人間の全的な救い」ではなく、「罪」あるいは「罪人」なのです。「神の国」に言及する時も、個人的な信仰心や敬虔さの観点から説明したのです。福音が「個人的な救い」に限定されているのです。著名な律法学者ガマリエルの教えを受けた知識人であったこと(使徒22:3)、ローマ帝国の市民権を持っていたこと(22:25)、イエス様の苦難を経験する機会がなかったことが影響しているのです。キリスト信仰とは「永遠の命」に与るだけではなく、人々の苦しみを共に担い「神様の正義」を実現することなのです。


*パウロが新約聖書に登場するのはエルサレムにおけるギリシャ語を話す教会の指導者の一人、ステファノの処刑に立ち会った時からです。ステファノは最高法院の尋問に反論したのです。神様が人間の手によって造られたエルサレム神殿に住まわれないことを公言し、大祭司カイアファを頂点とする指導者たちがメシアであるイエス様を殺した罪について非難したのです。パウロは初代教会が証しする新しい道(教え)がこれ以上広まれば、ユダヤ教の律法や伝統が脅かされることを危惧したのです。そこで、エルサレムにいる初代教会の信徒たちを迫害したのです。特に、ディアスポラ(外国に住んでいるユダヤ人たち)を脅迫してキリスト信仰を断念させようとしたのです。迫害を強化するためシリアの都市ダマスコへも向かったのです。ところが、ダマスコに近づいたとき「復活の主」に出会い劇的に回心したのです。当時を振り返り「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都(エルサレム)で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです」と告白しています(使徒22:3-4)。その後、今日のシリア、トルコ、ギリシャなどの国にキリスト教会を設立したのです。パウロは異邦人宣教において中心的な役割を果たしたのです。活動は苦難の連続でした。投獄されたこと、鞭打たれたこと、死ぬような目にあったことも度々だったのです(2コリント11:23)。


*パウロは博学でした。旧約聖書にも精通していました。「復活の主」を宣教することにおいて労苦を厭(いと)いませんでした。命さえ惜しまなかったのです。しかし、以前は先頭に立ってキリストの信徒たちを暴力的に迫害したのです。多くの人の命さえ奪ったのです。パウロはユダヤ人たちやキリストの信徒たちから反発されることを承知の上で「復活の主」に出会ったこと、自分が犯した罪について深く悔いていること、自分のような罪人に異邦人宣教が委ねられたことを説明したのです。罪から解放されるためには「救い主」を信じなければならないことを神学的、哲学的に論証したのです。パウロは言葉だけでなく「生き方」によってキリスト信仰を証ししたのです。経済と文化の中心地であるギリシャのコリントではポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会っています。パウロと職業が同じであったので彼らの家に住み込んで一緒にテントを造ったのです。パウロは自力で生活を維持しながら宣教に取り組んだのです。イエス様は「(宣教のために)働く者たちが食べ物を受けるのは当然である」と言われました(マタイ10:10)。しかし、パウロは人々を救うために当然の権利さえ放棄するのです(1コリント9:14-15)。信仰の確信に基づき安息日ごとに会堂で論争し、ユダヤ人たちやギリシア人たちの説得に努めたのです(使徒18:1-4)。ユダヤ教の教えやキリスト信仰と関わりのなかった異邦人たちに「復活の主」を伝えることは簡単ではないのです。パウロは相手の状況に応じて宣教方法を選んだのです。


*パウロの宣教に対する並々ならぬ決意が伝わって来るのです。人々は覚悟を備えた指導者の教えに耳を傾けるのです。ユダヤ教の伝統や律法を順守していたディアスポラのキリストの信徒たちは現地の慣習や文化への対応、人々との交際のあり方などについて悩んでいたのです。しかも、偽宣教者(偽預言者)たちがパウロが設立した教会に混乱を持ち込んでいるのです。信徒たちを正しく導くためには経済的に自立していることが不可欠です。教会に依存する指導者は往々にして有力信徒の信仰理解に迎合するのです。信徒たちの考え方を認めなければ生活の糧を失う可能性があるからです。「安価な恵み」に慣れた信徒たちは原則に忠実な指導者を自分たちの信仰理解に屈服させるか、あるいは教会から追放するのです。パウロは信徒の支配を断固として拒否するのです。キリスト信仰を宣教する指導者のあるべき姿が示されているのです。日本では少ないのですが、アメリカでは共働きの牧師が多く見られます。パウロの「生き方」が影響しているのかも知れないのです。パウロがキリスト信仰の有力な解釈者として評価されているのです。パウロの信仰理解の一部分だけが強調されているのです。時には、「知的信仰」を正当化するための根拠として用いられているのです。パウロは「七つの手紙」を教会と信徒あてに書いています。誤解されているような「パウロの神学」を語った訳ではないのです。信徒たちが陥(おちい)り易い誤り-重要な視点の欠如-を指摘しているのです。人間ではなく、「復活の主」に目を向けるように促(うなが)しているのです。


*パウロは異邦人宣教に大きな役割を果たしたのです。キリスト信仰に関する有力な解釈者になっているのです。一方、パウロの信仰理解には「人間の全的な救い」に心を砕かれたイエス様の視点が欠落していることも事実なのです。パウロはイエス様から直接教えを受けていないのです。イエス様と苦楽を共にしたこともないのです。豊かな学識と教養によってキリスト信仰を理解したのです。これらは「神の国」の福音を「個人の罪からの救い」に限定する要因となったのです。パウロは設立した教会と信徒あてに手紙を書いています。いずれも「啓示による信仰」が基調になっているのです。「社会の変革」についてほとんど言及していないのです。信徒たちには貧しい生活を忍耐して、思い悩むことなく道徳的な生活に努めることを勧めたのです。まもなく、イエス様が再び来られて「社会正義」を実現して下さるのです。キリストの信徒たちは何もする必要がないのです。再臨を待つだけなのです。結果、貧しい人々や虐(しいた)げられた人々の窮状を容認し、正当化することになったのです。パウロは自分の立ち位置を自覚して「あなたがたはめいめい、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファ(ペトロ)に』『わたしはキリストに』などと言い合っているとのことです。キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか」と言うのです(1コリント1:12-13)。パウロがイエス様を超えることはないのです。

2025年06月01日

「隣人のために何をしたか」

Bible Reading Matthew 25:31-46


31 "When the Son of Man comes in his glory, and all the angels with him, then he will sit on the throne of his glory. 32 All the nations will be gathered before him, and he will separate people one from another as a shepherd separates the sheep from the goats, 33 and he will put the sheep at his right hand and the goats at the left. 34 Then the king will say to those at his right hand, "Come, you that are blessed by my Father, inherit the kingdom prepared for you from the foundation of the world; 35 for I was hungry and you gave me food, I was thirsty and you gave me something to drink, I was a stranger and you welcomed me, 36 I was naked and you gave me clothing, I was sick and you took care of me, I was in prison and you visited me.' 37 Then the righteous will answer him, "Lord, when was it that we saw you hungry and gave you food, or thirsty and gave you something to drink? 38 And when was it that we saw you a stranger and welcomed you, or naked and gave you clothing? 39 And when was it that we saw you sick or in prison and visited you?' 40 And the king will answer them, "Truly I tell you, just as you did it to one of the least of these who are members of my family, you did it to me.'

41 Then he will say to those at his left hand, "You that are accursed, depart from me into the eternal fire prepared for the devil and his angels; 42 for I was hungry and you gave me no food, I was thirsty and you gave me nothing to drink, 43 I was a stranger and you did not welcome me, naked and you did not give me clothing, sick and in prison and you did not visit me.' 44 Then they also will answer, "Lord, when was it that we saw you hungry or thirsty or a stranger or naked or sick or in prison, and did not take care of you?' 45 Then he will answer them, "Truly I tell you, just as you did not do it to one of the least of these, you did not do it to me.' 46 And these will go away into eternal punishment, but the righteous into eternal life."

(Notes)

・Other Bible Passages

■21 For just as the Father raises the dead and gives them life, even so the Son gives life to whom he is pleased to give it. 22 Moreover, the Father judges no one, but has entrusted all judgment to the Son, 23 that all may honor the Son just as they honor the Father. Whoever does not honor the Son does not honor the Father, who sent him.24 “Very truly I tell you, whoever hears my word and believes him who sent me has eternal life and will not be judged but has crossed over from death to life. (John5:21-24)

■11 For God does not show favoritism.12 All who sin apart from the law will also perish apart from the law, and all who sin under the law will be judged by the law. 13 For it is not those who hear the law who are righteous in God’s sight, but it is those who obey the law who will be declared righteous. 14 (Indeed, when Gentiles, who do not have the law, do by nature things required by the law, they are a law for themselves, even though they do not have the law. 15 They show that the requirements of the law are written on their hearts, their consciences also bearing witness, and their thoughts sometimes accusing them and at other times even defending them.) 16 This will take place on the day when God judges people’s secrets through Jesus Christ, as my gospel declares. (Romans 2:11-16)

■14 What good is it, my brothers and sisters, if someone claims to have faith but has no deeds? Can such faith save them? 15 Suppose a brother or a sister is without clothes and daily food. 16 If one of you says to them, “Go in peace; keep warm and well fed,” but does nothing about their physical needs, what good is it? 17 In the same way, faith by itself, if it is not accompanied by action, is dead. (James 2:14-17)

・Second Coming:

■9 pNow when He had spoken these things, while they watched, qHe was taken up, and a cloud received Him out of their sight. 10 And while they looked steadfastly toward heaven as He went up, behold, two men stood by them rin white apparel, 11 who also said, “Men of Galilee, why do you stand gazing up into heaven? This same Jesus, who was taken up from you into heaven, swill so come in like manner as you saw Him go into heaven.” (Act1:9-11)

(A few comments)


Some Christians struggle to understand the relationship of works to faith. They wonder, “If we are saved by faith alone without works, are not works still required?” Unless we understand the biblical relationship of works to faith, we will be confused by texts such as Matthew 25:31-46.


The text teaches us: on the last day Jesus will judge all people by their works. The sheep, who have produced good works as the fruits of their faith, will be saved. Jesus judges the existence of their saving faith on the basis of their works, for where there is saving faith, there will be good works. The goats, however, will be damned, because they have no good works as the fruits of faith. Jesus judges their lack of good works as evidence of their lack of faith.


Jesus will look for the good works of faith that fulfill his commandments to love God and our neighbor. By our works of love he will determine that we are a believer in him whose faith produced the works he sees. On the other hand, if he sees a lack of good works of faith, he will judge us to be an unbeliever.


Needless to say, when Jesus comes in his glory, we want to be numbered among his sheep. Our faith in Jesus, who saved us and gave us eternal life, will produce the good works of love that declare we are his sheep. Our faith will do good deeds for those around us, and in the process do them for Jesus.


We have many opportunities to do this. We can collect food items to help a needy family in our area. We can collect gifts for those in institutions like hospitals and prisons. We can give items that we no longer use to agencies that help the poor. We can give a special gift to a relief fund that helps the victims of floods, tornadoes, earthquakes, or other natural disasters. We can help an elderly or sick neighbor by cutting his grass or shoveling his snow or running his errands. The opportunities are endless.

Today’s passage presents a perfect picture of judgment and the coming world. There is little doubt about what is waiting for God’s sons in glory. The questions have to do with judgment and the future of unbelievers who have done deeds of love. Remember, Paul said that some Gentiles who do not have the Law will have been “justified ”by having done “instinctively” what God requires. We know that believers are justified by faith in Jesus and they will obey His commands to love others. Some others will love by instinct and I think that those people will have chances to be justified.

The parable can thus be summed up: LOVE is the answer. One group is merciful, kind, generous, loving and willing to do whatever it takes - even at their own expense - to help out another fellow human ('the least') in true need. Jesus regarded their actions as personally affecting him. Because of their unselfishness and giving behavior they inherit God's kingdom. The other group is selfish, self-centered, self-absorbed and self-seeking. They are rejected in the judgment.

(聖書の個所)マタイによる福音書25章31節から46節 


「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 そして、すべての国の民(異邦人たち)がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たち(あなたがた)のために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たち(あなたがた)は、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たち(あなたがた)は、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」


(注)


・他の聖書の個所


■すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。(ヨハネ5:21-24)

■神は人を分け隔てなさいません。律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。(ローマ書2:11-16)

■わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

・イエス様の再臨:

■こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(使徒言行録1:9-11)


・人の子:この場合は審判者です。預言者ダニエルがそのイメージを表現しています。「夜の幻をなお見ていると、/見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」(神様)の前に来て、そのもとに進み 権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない」(ダニエル書7:13-14)。

・羊を右に、山羊を左に:すでに、預言者エゼキエルの言葉に登場しています。


■お前たち(あなたがた)、わたしの群れよ。主なる神はこう言われる。わたしは羊と羊、雄羊と雄山羊との間を裁く。お前たち(あなたがた)は良い牧草地で養われていながら、牧草の残りを足で踏み荒らし、自分たちは澄んだ水を飲みながら、残りを足でかき回すことは、小さいことだろうか。わたしの群れは、お前たち(あなたがた)が足で踏み荒らした草を食べ、足でかき回した水を飲んでいる。それゆえ、主なる神は彼らにこう言われる。わたし自身が、肥えた羊とやせた羊の間を裁く。お前たち(あなたがた)は、脇腹と肩ですべての弱いものを押しのけ、角で突き飛ばし、ついには外へ追いやった。しかし、わたしはわが群れを救い、二度と略奪にさらされないようにする。そして、羊と羊との間を裁く。(エゼキエル書34:17-22)。

・正しい人たち:異邦人であれ、ユダヤ人であれ、「神様の御心」-平和、正義、隣人愛-を実行している人たちのことです。

・最も小さい者たち:第一義的にはイエス様を救い主と信じ、宣教活動に従事している人々のことです。社会的に排斥された貧しい人々や虐げられた人々を表しています。


・神の国(天の国):死後に行く天国のことではありません。神様の主権、神様の支配を表す言葉です。


・神の義:「義」は神様と人間との(倫理的な)正しい関係を表す言葉として用いられることが多いのです。ただ、元々の言葉(ギリシャ語)は「正義」の意味を持っているのです。神様は人間に「正義」の実行を求められるのです。


・百人隊長:100人のローマ兵に指揮・命令を行っていました。


・モーセ五書:旧約聖書の創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のことです。


・御国の子(たち):ユダヤ人たち、あるいはファリサイ派の人々や律法学者たちのことです。


・陰府(よみ):すべての死者が住む暗闇の世界を意味していました(イザヤ書38:10)。後に「神様の御心」に背いて永遠の罰を受けた人々が死後に滞在する場所となったのです。


(メッセージの要旨)


*初代教会の信徒たちは再臨が自分たちの時代に起こるものと考えていたのです。ところが、2000年の時を経た現在もイエス様の再臨は実現していないのです。再臨が遅いのは神様の深い愛と憐れみの表れなのです。神様はすべての人が「救い」に与るように再臨の時期を遅らせておられるのです。イエス様はご自身の再臨をノアの時代に例えておられます(創世記6-7)。洪水になる前人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。洪水が襲って来て一人残らず取り去るまで、洪水について気づかなかったのです。このように誰もその時を知らないのです。ただ、父なる神様だけがご存じなのです。それ故に、再臨の時に備えて「目を覚ましていなさい」と言われたのです(マタイ24:42)。イエス様はたとえ話を用いて簡潔に説明されるのです。「十人のおとめ」においては、真夜中に到着した花婿を備えの油まで用意して迎えた賢いおとめたちとして、「タラントン」においては、主人から預かったお金をその能力に応じて増やした忠実な良い僕たちとして褒められたのです(マタイ25)。キリスト信仰は罪人が赦されたことで完結しないのです。「神の国」の建設に参画することを厳しく求めるのです。イエス様は最も重要な戒めとして「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」、「隣人を自分のように愛しなさい」の二つを挙げられたのです(マタイ22:37-39)。後者が軽んじられているのです。深刻な結果を招くことが予告されているのです。「行い」を伴わない信仰は空しいのです。

*最後の審判の様子が描かれています。イエス様が命じられた「隣人愛」を実践したかどうかが「救い」の判断基準になっているのです。社会の中で最も小さい者たちと呼ばれる人々を自分を愛するように愛したかどうかが問われているのです。キリスト信仰を標榜(ひょうぼう)する人々の中には「神様の愛」と「罪の赦し」に感謝しながら「神様の正義」の実現に消極的か、無関心な方々がおられるのです。旧・新約聖書を恣意的(しいてきに)に読んでいることに原因があるのです。正確に読めば分かるのです。信仰のみによって「救い」に与ることは出来ないのです。神様は「正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人(たち)、孤児(たち)、寡婦(たち)を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の(人の)血を流してはならない」と命じられたのです(エレミヤ書22:3)。しかし、ファリサイ派の人々や律法学者たちは「神の国」の福音を拒否し、社会的地位や既得権益に執着して民衆を苦しめているのです。モーセ五書を教えるのですが、言うだけで実行しないのです。イエス様は難しい神学を語られなかったのです。心身の障害に苦しむ人々、貧しい人々、虐げられた人々、不当に投獄された人々の側に立たれたのです。それぞれの苦難を共に担われたのです。「神の国」の福音-癒しと解放の業-を届けられたのです。「救い主」として信じる人々には「先ず、神の国と神の義(正義)を求めなさい」と言われたのです(マタイ6:33)。語るだけでなく「生き方」によって模範を示されたのです。


*「救い」と「滅び」を分ける根拠は明白です。その人に信仰があるかではないのです。「行い」が伴っているかどうかなのです。ユダヤ人のために会堂を建てた異邦人の百人隊長がいました。中風でひどく苦しんでいる僕の癒しを願い出たのです。イエス様は「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われたのです。ところが「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。わたしの僕はいやされます」と答えたのです。イエス様は「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、(不信仰な)御国の子らは、外の暗闇に追い出される」と断言されたのです(マタイ8:5-13)。金持ちがぜいたくに遊び暮らしていました。門前にラザロという貧しい人が横たわり、空腹に耐えて日々を過ごしていたのです。やがて、貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのそばに連れて行かれました。金持ちも死んで葬られたのです。金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとラザロとがはるかかなたに見えたのです。そこで「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。炎の中でもだえ苦しんでいます」と訴えたのです。アブラハムは「お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」と言ったのです(ルカ16:19-31)。


*最も小さい者たちとは何らかの困難な状況に置かれている人々のことです。国内には家族とのつながりもなく簡易旅館に住み、日雇い労働によって生活の糧(かて)を得ている人々がいます。高齢や病気のために仕事につけず困難な生活を余儀なくされているのです。イエス様のお言葉通りこれらの人は裸なのです。人種や民族、因習や偏見によって差別されている人々がいるのです。思想や信条の故に権力者たちから迫害されている人々がいるのです。世界に目を向ければ各地で紛争や戦争が起こっています。人道危機も深刻です。国連の機関UNICEF(ユニセフ)が「2022年2月に戦火が拡大して以来3年間、ウクライナで戦争の影響を受けなかった子どもは一人もいません。避難先で、あるいは自宅で、空襲警報が鳴り響くたびに地下シェルターや防空壕で耐えている子どもたちに、停電や断水、暖房の停止が追い打ちをかけています。子どもたちの父親の多くが戦場に赴き、一緒に暮らせなくなる中、大切な人の死や学校の閉鎖によって不安と孤独にさいなまれています」と訴えています(3月号)。同じくUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)は4月号で「世界では、1億2千万人を超える人々が故郷を追われていますが、そのうち5000万人以上が18歳未満の子どもです。彼らはかけがいのない子ども時代を奪われ、過酷な避難生活を続けています。また、世界の難民の子どもたのうち、約半数は教育を受けることができません。『学校に行きたい』と切望しながら、それが叶わず、未来への希望を失っている子どもたちが多くいます」と報告しています。

*「天の国」に招かれた人々も「神様の御心」を具体化するために善い働きをしなければ「永遠の命」に与れないのです。教会ではこうしたキリスト信仰の根本教理がほとんど語られていないのです。パウロの「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなた(がた)は救われるからです」の意味が教条的に解釈されているのです(ローマ書10:9)。パウロはイエス様の再臨が自分の存命中に起ると信じていました。神様が直接介入して「神の国」を速やかに完成して下さるのです。キリストの信徒たちは「その時」を待つだけだったのです。パウロはイエス様から直接教えを受けていないのです。「神の国」の福音を限定的に理解したのです。パウロは自分の立場をわきまえていました。自らを戒めて「自分には何もやましい(責められる)ところはないが、それでわたしが義とされている(救いに与っている)わけではありません。わたしを裁くのは主なのです」と言っているのです(1コリント4-5)。ところが、パウロの言葉が無批判的に引用されているのです。パウロの真意が伝えられるべきです。イエス様はご自身の「生き方」に学びなさいと言われるのです。イエス様を「救い主」と信じる人々に視点の変更を迫るのです。「悔い改める」とは隣人-貧しい人々や虐げられた人々-への無関心を反省することです。「神の国」を建設することなのです。「神の国」の福音を「罪からの救い」に縮小してはならないのです。「神の国」は終わりの日に「人間の全的な救い」として完成するのです。

2025年05月18日

「見たことや聞いたことを話しているのです」

Bible Reading (聖書の個所)使徒言行録4章1節から22節

ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである。しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。

次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。そして、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した。そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、/『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石』(詩編118:22)/です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった。

そこで、二人に議場を去るように命じてから、相談して、言った。「あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレムに住むすべての人に知れ渡っており、それを否定することはできない。しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう。」そして、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した。しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」議員や他の者たちは、二人を更に脅してから釈放した。皆の者がこの出来事について神を賛美していたので、民衆を恐れて、どう処罰してよいか分からなかったからである。このしるしによっていやしていただいた人は、四十歳を過ぎていた。

(注)


・ペトロとヨハネ:12使徒の中でもイエス様が最も愛された三人の弟子の内の二人です。もう一人はヤコブです。信徒たちは「新しい道」の弟子と呼ばれていました。後に、他の人々から軽蔑を込めてクリスチャンと呼ばれたのです。使徒11:26、1ペトロ4:16を参お読み下さい。


・午後三時:神殿において定例の祈りが行われました。祭壇に犠牲も捧げられたのです。ダニエル書9:21をご一読下さい。


・神殿守衛長:神殿境内における秩序の維持を職務としていました。権力的には大祭司の次に位置づけられていました。


・サドカイ派の人々:死者の復活を信じていなかったので、キリスト信仰に反対していました。ユダヤ教の宗派としての詳細は明らかではありませんが、貴族政治や神殿祭司制度の中枢を担っていました。彼らはローマ帝国に協力する見返りとして大祭司の職(皇帝の任命)を得ていたのです。


・男の数:家父長社会にあって女性は低い地位を強いられていました。人数に加えられることもなかったのです。


・大祭司アンナスとカイアファ:アンナスの在任期間は西暦6年から15年です。カイアファはアンナスの義理の息子です。西暦18年から36(37)年の間大祭司の職にありました。アンナスが卓越していたことからカイアファの時代になっても大祭司と呼ばれていたのです。


・ヨハネとアレクサンドロ:詳細は不明です。

・デカポリス:ヨルダン川の東側の地域です。聖書地図を参照して下さい

・「平地の説教」の抜粋:

■さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」(ルカ6:20-26)

・四十歳を過ぎていた:ルカは癒しの出来事の信ぴょう性を強調しています。

(メッセージの要旨)


*神様は初代教会を祝福し救われる人々を日々加えられたのです。信徒たちは毎日心を一つにして神殿に参り礼拝していました。ペトロとヨハネも午後三時に神殿に上りました。生まれながら足の不自由な人に出会ったのです。ペトロがナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさいといったのです。彼は直ちに歩けるようになったのです。不思議な業としるしは民衆を驚かせたのです。「神の国」の福音にはこの世の価値基準を覆(くつがえ)す力があるのです。イエス様のお言葉「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」が現実になるのです(マルコ10:31)。貧しい人々、心身に障害がある人々、社会から排斥された人々、罪人と言われた人々が優先的に「救い」に与るのです。初代教会の信徒たちは「主の復活」によって見たことや聞いたことが真実であることを確信したのです。ペトロとヨハネは漁師でした。律法を専門的に学んだこともないのです。聖霊に満たされて旧約聖書の創世記や申命記に言及しているのです。民衆にイエス様が約束のメシアであることを説明したのです。指導者たちには詩編を用いて彼らの不信仰を批判するのです。イエス様は「神の国」の福音を人々が理解しやすいように「平地の説教」として簡潔に要約されたのです。日常に生起する出来事-種を蒔く人のたとえ話など-によって教えられたのです(マタイ13)。キリスト信仰とは、誤解されているように教義を理解することではないのです。「復活の主」に倣(なら)って生きることです。「行い」によって証しすることなのです。


*イエス様はエルサレムから遠く離れた辺境の地ガリラヤから宣教を始められました。この事実はとても重要です。「福音の視点」を明確にされているからです。人々は貧しく、飢えにも苦しめられていたのです。イエス様は各地を回って諸会堂で教え「神の国」(天の国)-神様の支配-の到来を語られたのです。農民(小作人)や土地を持たない労働者たちは日々の生活を確保するために必死で働いたのです。安息日における礼拝出席も自由にならず、十分の一献金も滞(とどこお)ったのです。指導者たちは律法を厳格に遵守(じゅんしゅ)しないガリラヤの人々に罪人の烙印(らくいん)を押して蔑(さげす)んだのです。イエス様はご自身を「神の子」と信じる人々に「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」と明言されたのです(ヨハネ10:27-28)。民衆のありとあらゆる病気や患(わずら)いを癒されたのです。罪人として排斥された人々を優先的に「救い」に導かれたのです。イエス様の評判は周辺地域にも広まったのです。デカポリス、エルサレム、ユダヤだけでなく、ヨルダン川の向こう側の地域からも大勢の群衆が来てイエス様に従ったのです(マタイ4:23-25)。「神の国」の福音がユダヤ教の垣根を越えて広がっているのです。社会の底辺で労苦する人々に届けられているのです。弟子たちはイエス様の教え、力ある業、奇跡を見たり、聞いたりしたのです。自らも直接経験しているのです。これらの出来事は神様がイエス様と共におられることを確信させたのです。


*ペトロは集まって来た人々に出来事の意味を語ったのです。足の不自由な人の癒しは自分たちが行ったように見えるが、実際はあなたがたが殺したイエス様の御力によるものであることを訴えたのです。自分たちの罪が消し去られるように悔い改めて立ち帰ることを勧めたのです(使徒3:11―26)。ところが、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が来て二人を捕えたのです。一方、初代教会はおよそ120人から前回3000人、今回5000人の仲間を加え、着実に発展しているのです。使徒たちの宣教活動は指導者たちにとって看過できなくなったのです。大祭司アンナスとカイアファ、議員、長老、律法学者たちが集まって対策を協議したのです。ペトロとヨハネに「お前たちは何の権威によって・・ああいうことをしたのか」と尋問するのです。神殿から商人たちを追い出されたイエス様に対する質問と同じです(マルコ11:27-28)。ペトロは聖霊様に導かれてナザレのイエス・キリスト-復活の主-を証ししたのです。ナザレという地名によって、実在した人物であることを強調するのです。「あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石」によって、指導者たちの罪を告発したのです。彼らが権威の拠り所としている旧約聖書に基づいて断罪したのです。神様に反抗してきた歴史を想起させるのです。大祭司たちはユダヤ教の律法や伝統に精通しているのです。しかし、イエス様が「神の子」であることを認めなかったのです。キリスト信仰-永遠の命に至る道-は学識によって得られないのです。神様のお導きなのです。


*初代教会の発展に中心的な役割を果たしたのは「復活の主」に会った人々でした。新しく信徒になった人々も使徒たちから熱心に学んだのです。彼らの生き方は民衆の共感を得たのです。神様は初代教会を祝福して救われる人々を日々加えられたのです。信徒たちは「復活の主」を言葉で語るだけでなく「行い」によって証ししたのです。神様が遣わされたイエス様の戒め-神様と隣人を愛すること-を聖霊様の助けによって実践したのです。心も思いも一つにし、お互いを兄弟姉妹と呼び、愛と尊敬をもって交際したのです。社会・政治・経済の根底にある自己中心性、貪欲性を拒否したのです。信徒たちは「御名が崇められますように・・」「御国が来ますように・・」(マタイ6:9-10)と唱えるだけでなく、自らを神様と公言するローマ皇帝に恭順しなかったのです。土地や家を持っている信徒たちはそれらを売って代金を持ち寄り、お金は必要な信徒たちに分配したのです。彼らの中に一人も貧しい人がいなかったのです。初代教会の信徒たちは今日のキリストの信徒たちが往々にして忘れている、あるいは誤解している「信仰の原点」に固く立っているのです。キリスト信仰とは心で信じることで完結しないのです。イエス様のご生涯に倣(なら)って生きることだからです。要するに、イエス様のなさったことを信徒たちもするのです。イエス様が選ばれた道を信徒たちも選び取る、イエス様が立たれた視点に信徒たちも立つ、イエス様が受けられた苦難や悩みを信徒たちも恐れずに受け入れるのです。簡単ではないのです。「安価な恵み」ではないのです。


*イエス様はご自身を「救い主」として宣教する弟子たちが迫害されることをご存知でした。そこで、あらかじめ「わたしのために総督や王の前に・・引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。・・言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」と言われました(マタイ10:18-20)。果たしてイエス様のお言葉が実現するのです。ペトロは聖霊様に励まされて、指導者たちの罪を公然と非難するのです。彼らはペトロとヨハネがイエス・キリストを大胆に証しする態度に圧倒されるのです。無学な普通の人であることを知って驚かされるのです。学識や知恵が人を宣教者にするのではないのです。篤い信仰(信頼)がそうさせるのです。ペトロとヨハネは聖霊様から力を受けて「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」と言っています。彼らはイエス様の証人として自分たちを捧げたのです。イエス様は人々の日常生活に即して分り易いお言葉で福音を語られたのです。弟子たちはイエス様の生と死と復活の事実をそのまま話したのです。初代教会は「復活の主」が教えられた「神の国」の福音を宣教したのです。現代のキリストの信徒たちはイエス様に直接お会いしていないのです。しかし、聖書を通して知っているのです。個々の経験によって「救い主」であることを確信しているのです。いつの時代においても、愛と正義を貫く人々は権力者たちによって迫害されるのです。信徒たちには与えられた使命があるのです。責務を果たすのです。

2025年05月11日
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