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洗礼者ヨハネが捕らえられた後、イエス様はガリラヤ地方へ行き、福音(良い知らせ)を宣べ伝えて「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたのです(マルコ1:14-15)。イエス様は復活された後も、使徒たちに「神の国」について話されたのです(使徒1:3)。キリスト信仰の中心メッセージは「神の国」-神様の支配-にあるのです。

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「神の国の建設」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書1章14節から39節

(洗礼者)ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。

朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。

(注)

・ガリラヤ:エルサレムの人々から律法を軽んじる田舎として蔑まれていました。ガリラヤ湖は内陸部にある湖です。漁業が盛んな地域でした。ゼベタイは他の漁師を雇っており、比較的裕福です。

・カファルナウム:ガリラヤ湖の北西にある町です。産業の中心は漁業、農業、交易です。イエス様のホームタウンであり、宣教の拠点でした(マタイ9:1)。

・神の国:神様の全き支配のことです。神様が人間の心と社会の隅々にまで真に神様として崇められ、あらゆる価値の基準とされること、それを通して正義と平和の秩序が実現されることです。旧約聖書は神の国の到来を待ち望むイスラエルの信仰を書き記したものです。神様は自分たちをエジプト人の支配から救い出し、砂漠を経て約束の地へ導かれたのです。ご自分に頼る者を決して見捨てられないのです。どのような地上の力にも勝っておられるのです。信頼するに値するお方なのです。イスラエルは異国の支配下で弾圧され、分断され、捕囚の地に連れていかれたのです。その時も、神様は常に自分たちと共におられ、民の身の上を思い,心を痛められたのです。イスラエルはこの神様がいつの日か、必ず自分たちを解放して下さることを信じたのです。

・汚れた霊:悪霊、悪魔のことです。

・ヘロデ・アンティパスの妻:ユダヤ人歴史家ヨセフスによればヘロディアは兄弟フィリップの妻ではなく、フィリップの義理の母となっています。


・エゼキエルの預言:「・・王は嘆き/君侯たちは恐怖にとらわれ/国の民の手は震える。わたしは彼らの行いに従って報い/彼らの法に従って彼らを裁く。そのとき、彼らは/わたしが主であることを知るようになる」(エゼキエル書7:27)。7章全体をご一読下さい。

・ナザレ:ガリラヤ湖の西約24㎞にある農業を中心とする村です。

・律法学者:ユダヤ教の律法を専門的に解釈する官僚のことです。彼らの多くは、イエス様が宣教された「神の国」の福音を拒否したのです。

ヨベルの年:

あなた(たち)は安息の年を七回、すなわち七年を七度数えなさい。七を七倍した年は四十九年である。その年の第七の月の十日の贖罪日(しょくざいび)に、雄羊の角笛を鳴り響かせる。あなたたちは国中に角笛を吹き鳴らして、この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る。五十年目はあなたたちのヨベルの年である。種蒔くことも、休閑中の畑に生じた穀物を収穫することも、手入れせずにおいたぶどう畑の実を集めることもしてはならない。この年は聖なるヨベルの年だからである。あなたたちは野に生じたものを食物とする。ヨベルの年には、おのおのその所有地の返却を受ける(レビ記25:8-13)。

(メッセージの要旨)

*洗礼者ヨハネはイエス様の先駆けとして、人々に「悔い改め」を求めたのです。ヨルダン川で洗礼を授けていました。この人は権力者たちを恐れなかったのです。ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスは兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚したのです。ヨハネはこの件だけでなく、アンティパスの様々な悪事を告発したのです。アンティパスはヨハネを捕らえさせ、牢につながせたのです。最終的には首をはねさせたのです(マルコ6:14-29)。洗礼者ヨハネと入れ替わるかのように、イエス様は30歳の時に宣教を開始されたのです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音(良い知らせ)を信じなさい」と言われたのです。短いお言葉の中にキリスト信仰の真髄が要約されているのです。「時は満ち」において、エゼキエルが預言したように神様によって定められた「裁きの時」が迫っていることを告げられたのです。「神の国」は死後に行く「天国」のことではないのです。「神様の主権」が天上と地上の隅々に及ぶことです。イエス様は人々に「神の国」の到来を語るだけでなく、目に見える形で証明されたのです。様々な「癒しの業」を実行されたのです。時が来れば、この世に平和、正義、公平を実現して下さるのです。「悔い改めて福音を信じなさい」において、最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実践する人々に「永遠の命」が約束されたのです。シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネはイエス様の宣教活動を共に担ったのです。キリストの信徒たちも、一年を振り返り、どのように「神の国」の建設に参画したかを自問するのです。

*イエス様は「神の国」の到来がもたらす福音について、具体的にまた簡潔に表現されています(ルカ4:16-21)。イエス様はお育ちになったナザレでも、いつものとおり安息日に会堂に入られました。イエス様はどこに行っても安息日には礼拝を守られたのです。当時、申し出れば誰でも(旧約)聖書の朗読をすることが出来ました。一般的に、各巻は祭壇の後ろの壁面にある棚に置かれています。担当者から預言者イザヤの巻物(イザヤ書)が手渡されました。お開きになって「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人々に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人々に解放を、/目の見えない人々に視力の回復を告げ、/圧迫されている人々を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」に目を留められたのです(イザヤ書61:1-2)。イエス様は朗読された後「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われたのです。ご自身を通して「イザヤの預言」が具体化していることを明言されたのです。ユダヤ人のほとんどを占める貧しい人々に福音が優先的に届けられるのです。不当に逮捕され、牢獄につながれている人々は解放されるのです。目の不自由な人々は視力を回復するのです。圧政に苦しむ人々は自由を得るのです。聖なる50年目の年-ヨベルの年-の規定が厳格に適用されるのです。「神の国」が限定的に解釈されているのです。福音は個人的な「罪からの救い」で完結しないのです。社会と人間の「全的な救い」に及ぶのです。

*洗礼者ヨハネは牢の中で、イエス様のなさった様々な「癒しの業」を耳にしたのです。そこで、自分の弟子たちを送って「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねたのです。イエス様は「見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人々は見え、足の不自由な人々は歩き、重い皮膚病を患っている人々は清くなり、耳の聞こえない人々は聞こえ、死者たちは生き返り、貧しい人々は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人々は幸いである」と答えられたのです(マタイ11:2-6)。「神の国」はイエス様を通して各地に広がっているのです。心身の障害はその人の「罪の結果」であると考えられていました。弟子たちも従来の教えに支配されていたのです。彼らは、生まれつき目の見えない人を見かけて、イエス様に「誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と質問したのです。イエス様は「神の国」の到来を告げる「新しい解釈」を示されたのです。「罪の結果ではなく、神様の業がこの人に現れるためである」と教えられたのです(ヨハネ9:1-3)。「神の国」の到来は人々が患っている様々な病を癒し、社会の隅に追いやられた罪人たちを罪の縄目から解き放ったのです。人間の根源的な願いである「永遠の命」への希望に確信を与えたのです。既得権益に執着し、伝統的なユダヤ教に固執する人々(指導者たち)は躓(つまず)いたのです。「神の国」の福音に激しく抵抗したのです。キリスト信仰は「神の国」の到来を福音として信じることなのです。

*「神の国」は悔い改める人々に福音となって訪れるのです。しかし、福音に与った人々には「善い行い」によって、信仰を証しすることが求められるのです。この点を曖昧にしてはならないのです。イエス様はキリスト信仰を標榜(ひょうぼう)する人々に最も重要な戒めを二つ与えられました。ある時、イエス様の教えに心打たれた一人の律法の専門家が「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と尋ねたのです。イエス様は「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」と答えられたのです。律法学者はイエス様に「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」と言ったのです。イエス様は律法学者が適切な答えをしたので「あなたは、神の国から遠くない」と言われたのです (マルコ12:28-34)。キリスト信仰とは「神の国」の福音に感謝するだけではないのです。最も重要な戒めへの責務を履行することなのです。「生き方」を通して「神様の御心」を証しするのです。信仰だけでは「救い」を得られないのです。「行い」が必須の要件だからです(ヤコブ書2:17)。

*「神の国」の到来は貧しい人々、虐げられた人々など暗闇に生きる人々にとって「希望の光」となったのです。同時に、「救い」が安価な恵みではないことを明確にしたのです。信仰には「行い」が不可欠なのです。イエス様は「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」と言われたのです(ヨハネ5:21-22)。最後の審判の判断基準についても、たとえ話によって示されたのです。飢えている人々に食べ物を、のどが渇いている人々に飲み物を提供し、旅をしている人々に宿を貸し、着る物のない人々に衣服を着せ、病気の人々を見舞い、牢にいる人々を訪ねて「神様の御心」を実践した人々が「永遠の命」(救い)に与ったのです。一方、社会の中で最も軽んじられている同胞に手を差し伸べなかった人々は「永遠の罰」を受けることになったのです(マタイ25:31-46)。キリスト信仰を神様と信徒との個人的な関係として理解されている人も多いのです。しかし、旧・新約聖書が伝える信仰の歴史は神様とユダヤ民族との関係であることを証明しているのです。イエス様が教えられた「主の祈り」も個人的な祈りではないのです。天におられる神様を崇め、富や権力の誘惑を退けて、「隣人愛」が貫けるようにと願う「信仰共同体」としての祈りなのです(マタイ6:9-13)。一年の終わりに、イエス様のお言葉と宣教活動を想起するのです。各自の信仰の軌跡を吟味するのです。怠惰であってはならないのです。新しい年に備えるのです。

2024年12月29日

「信仰の人シメオンの預言」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書2章21節から40節

八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」


また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。


親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。

(注)

・八日目の割礼:いつの時代でも、あなたたちの男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆、生まれてから八日目に割礼を受けなければならない。(創世記17:12)

・清めの儀式:主はモーセに仰せになった。・・妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚れの日数と同じ七日間汚れている。・・産婦は出血の汚れが清まるのに必要な三十三日の間、家にとどまる。その清めの期間が完了するまでは、聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない。・・男児もしくは女児を出産した産婦の清めの期間が完了したならば、産婦は一歳の雄羊一匹を焼き尽くす献げ物とし、家鳩または山鳩一羽を贖罪の献げ物として臨在の幕屋の入り口に携えて行き、祭司に渡す。・・なお産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合は、二羽の山鳩または二羽の家鳩を携えて行き、一羽を焼き尽くす献げ物とし、もう一羽を贖罪の献げ物とする。祭司が産婦のために贖いの儀式を行うと、彼女は清められる。(レビ記12:1-8)

・初めて生まれる子:主はモーセに仰せになった。「すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである。」(出エジプト記13:1-2)

・イスラエルの慰め:約束されたイスラエルの独立(解放)のことです。具体例としてバビロン捕囚からの帰還を挙げることが出来ます(イザヤ書40:1-2)。イザヤ書49:5-6、61:1-2を併せてお読み下さい。

・あなた自身も剣で心を刺し貫かれます:人々は神様の救いの業を拒否するのです。分裂の剣はマリアと家族にも苦痛をもたらすのです。ルカ8:19-21、11:27-28、12:51-53をご一読下さい。

・アンナ:祖先については申命記33:24-25を参照して下さい。預言者としての正当性が証明されています。アンナの言葉はシメオンの預言的宣言に呼応しているのです。

・ナザレ:サマリアの北に位置するガリラヤ地方の小さな村です。周辺地域から孤立しており、要衝の地でもなかったのです。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言われていたのです(ヨハネ1:46)。聖書地図をご覧下さい。

(メッセージの要旨)


*イエス様の誕生を共にお喜びします。同時に、イエス様の苦難に満ちたご生涯を想起したいのです。12月1日から、日曜日ごとに「洗礼者ヨハネの使命」、「受胎告知とマリアの賛歌」、「ヨセフが果たした役割」を学んでいます。それぞれは幼子の誕生の目的を明らかにしているのです。すべてにおいて聖霊様が働いておられるのです。イエス様はイスラエルを憎む者すべての敵から救い、権力のある者たちをその座から引き降ろし、身分の低い者たちを高く上げ、ご自分の民を罪から救われるのです。今日は「シメオンの預言」を通してイエス様のご生涯について考えます。イエス様の誕生は当時の社会情勢や政治状況の中で起こった出来事なのです。イエス様はローマ帝国が支配するユダヤのベツレヘムでお生まれになったのです。これは後のキリスト信仰を理解する上で重要な視点となるのです。幼子はヘロデ大王などの権力者たちから迫害されたのです。将来に起こる律法学者たちやファリサイ派の人々との鋭い対立を予想させるのです。「神の国」(天の国)―神様の支配―の到来は貧しい人々や虐げられた人々には「良い知らせ」なのです。ところが、支配者たちには既得権益の放棄を迫る「悪い知らせ」となるのです。イエス様は地上に分裂をもたらすために来られたのです(マタイ10:34-39)。「正義と公平」を主張されたので権力者たちが抵抗しているのです。「悔い改め」を求められたので家族の中にも対立が生じているのです。人々の「生き方」を問われたのです。シメオンは福音の真理とキリスト信仰に必要な覚悟を事前に語ったのです。


*シメオンについての詳細は不明です。ただ、信仰心篤く、律法を守り、イスラエルに「救い主」が現れるのを待ち続けていた人として紹介されているのです。神様は無名のシメオンを用いてイエス様の誕生の意味を明らかにされたのです。シメオンはイエス様が誕生された事実を知らなかったのです。ところが、聖霊様の不思議な導きによって神殿の境内でメシア(油注がれた者)‐キリスト‐に会うことが出来たのです。マリアは神殿の「イスラエル人の庭」(ユダヤ人の男性のみが礼拝することを認められた場所)に入れなかったのです。シメオンもそこには行かなかったのです。男女が共に礼拝することを許された「女性の庭」に向かったのです。それ故に、マリアとヨセフと幼子に出会ったのです。イエス様が約束の「救い主」であることを確認したのです。シメオンは神様を賛美したのです。ユダヤ人は異邦人を神様から離れた罪人として蔑んでいました。シメオンも例外ではなかったはずです。ところが、この人は幼子を抱いて「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです」と言ったのです。ユダヤ教にとって重大な教義の変更が一人のユダヤ人によって宣言されたのです。イエス様を通してユダヤ人にも、異邦人にも「救い」が訪れたのです。「救い主」が貧しいヨセフとマリアの間に誕生されたように、神様は御心を伝えるために、富や社会的地位、知恵や知識の有無ではなく、信仰をご覧になって用いられるのです。旧・新約聖書にこのような人が登場します。備えを怠ってはならないのです。


*シメオンはイエス様の誕生に神様の「救い」を見たのです。イエス様の行く末について「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ・・」と預言したのです。果たして、シメオンの預言は現実になるのです。「神の国」の福音(良い知らせ)に接した多くの人は悔い改めてイエス様を信じたのです。一方、神殿政治の中枢を担う律法学者たちやファリサイ派の人々の多くは既得権益と社会的地位に執着して悔い改めなかったのです。福音‐神様の憐れみ‐を拒否したのです。それだけではなく「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ5:31-32)と言われたイエス様を徹底的に迫害したのです。さらに、シメオンはマリアに「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と言っています。マリアが将来遭遇する苦悩を預言しているのです。イエス様は「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と言われたことがあります。マリアは意味を理解しながらも、地上の母としては遠ざかる「神の子」(息子)に心が揺れたのです(ルカ8:21)。人々の「あの男は気が変になっている」という言葉を聞いて、家族のある者たちがイエス様を取り押さえに来たのです。家族や親戚でも信仰理解は異なるのです。対立は避けられないのです。マリアは心を痛めたのです(マルコ3:21)。しかし、イエス様の兄弟の中に母マリアと共に熱心に祈る者たちもいたのです(使徒1:14)。


*ヨセフとマリアは主の律法で定められたことをみな終えたので、ガリラヤのナザレに帰ったのです。そこで、イエス様はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれて成長したのです。そして、イエス様は12歳の時(紀元後6年頃)、両親と共に「過越際」のためにエルサレムへ巡礼されたのです。ルカのみがこの出来事を伝えています。ヨセフとマリアはナザレへの帰途に着いたのです。ところが、イエス様はその群れの中におられなかったのです。神殿の境内に残っておられたのです。学者たちの真ん中に座って話を聞き、質問をしておられたのです。結局、イエス様は境内に三日間もおられたのです。論議の内容は不明ですが、人々はイエス様の賢い受け答えに驚いたのです。イエス様は捜しに戻って来た両親に「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということ知らなかったのですか」と言われました。すでに「神の子」であることを認識しておられるのです。この年、民族的にも、政治的に大きな事件が起こりました。多くの愛国的ユダヤ人は信仰に燃えていました。外国の支配者への納税を拒否するように呼びかけていたのです。彼らは代表団を派遣し、ユダヤ、サマリアを統治していたヘロデ大王の息子の一人ヘロデ・アルケラオ(紀元前4年に着任)の残虐性と統治能力の欠如をローマ皇帝アウグストに申し出たのです。皇帝は訴えを認めて領主アルケラオの地位をはく奪したのです(紀元後6年)。ユダヤはローマ帝国の直轄領となり、総督が派遣されたのです。クリスマスはイエス様の誕生の背景と苦難のご生涯を共有する機会なのです。

*シメオンはおよそ30年後(ルカ3:23)のイエス様の宣教活動を先取りして説明しているのです。イエス様はガリラヤで宣教を開始されました。その第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」でした(マルコ1:15)。イエス様はユダヤ人に「神の国」の到来を宣言することによって、「この世」の権力者が誰であっても、神様こそがイスラエルとすべての被造物の「王」であることを再確認させられたのです。これまで「神様の主権」が外国の勢力、専制君主、悪魔の力よって軽んじられて来たのです。しかし、時は満ちたのです。神様はご自身の主権を回復するために立ち上がられたのです。「救い主」(メシア)を通して支配者たちを打ち砕き、「死の支配」さえ滅ぼされるのです。イエス様は「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。今泣いている人々は幸いである。あなたがたは笑うようになる」(ルカ6:20-21)、「子供のように(自分を弱い立場にある人々の位置において)神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(マルコ10:15)と言われたのです。神様は「新しい天地創造」に着手されたのです。イエス様によってそれを証明されたのです。キリスト信仰は「良い行い」を求めるのです。隣人(貧しい人々や虐げられた人々)に奉仕しなければ「永遠の命」に与れないのです(マタイ25:31-46)。終わりの日に、ご自身と共に歩んだ信徒たちの「信仰内容」を問われるのです。

 

2024年12月22日

「ヨセフが果たした役割」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書2章1節から23節

イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者(支配者)たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者(一人の支配者)が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』(ミカ書5:1)」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」(ホセア書11:1)と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」(エレミヤ書31:15)

ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。


(注)


・ヘロデ大王:ローマ皇帝の承認を受け、ローマ人から「ユダヤ人の王」と呼ばれていました。猜疑心が強く自分の地位を脅かす人々(妻や息子たちを含めて)を容赦なく処刑しました。さらに、ユダヤ教の祭司たちも殺害したのです。これにより「最高法院」(ユダヤの最高議決機関)は弱体化したのです。幼子イエス様が成長して将来自分や後継者を脅かす存在になることを恐れたので、二歳以下の男の子をすべて殺したのです。在位は紀元前37年-4年です。

・ベツレヘム:エルサレムの南10kmにあり、ダビデ王の生誕地です(サムエル記上17:12)。


・占星術の学者:占星術や魔術を行う宮廷祭司です。彼らが持参した乳香は香りのする樹脂、没薬(もつやく)は「油を注ぐ」時、あるいは「防腐処置」を施す場合に用いられる樹脂です。東方はパルティア(現在のイランの北部)ではないかと言われています。


●星には政治的な意味が含まれています。「わたしには彼が見える。しかし、今はいない。彼を仰いでいる。しかし、間近にではない。ひとつの星(ダビデ)がヤコブから進み出る。ひとつの笏(王権を象徴する棒)がイスラエルから立ち上がり/モアブ(人たち)のこめかみ(ひたい)を打ち砕き/シェト(牧羊民族)のすべての子らの頭(の頂)を砕く 」(民数記24:17)。ローマ帝国と戦いわずか数年(紀元後132-135)ですが独立を勝ち取ったユダヤ人指導者バー・コクバは「星の子」と呼ばれています。 

・ユダヤ人の王;占星術の学者たちは幼子イエス様に敬意を表して「ユダヤ人の王」と呼んでいます。一方、ローマの総督ポンティオ・ピラトはイエス様を侮蔑してこの称号を用いています(マタイ27:11)。十字架の上に掛ける罪状書には「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いたのです。イエス様が十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読みました。ヘブライ語、ラテン語、ギリシヤ語で書かれていました。ユダヤ人の祭司長たちがピラトに「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男はユダヤ人の王と自称した』と書いてください」と申し出たのです。ピラトは「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と拒否したのです(ヨハネ19:19-22)。


・ダビデの子ヨセフ:主の天使はヨセフがイスラエルにおける最も偉大な王ダビデの子孫であることを確認しているのです。ダビデについては、サムエル記上16:1-列王記上2:12をお読み下さい。


・エレミヤの預言:ダビデ王の子ソロモン王の死後、イスラエルは南北に分裂しました。北王国はイスラエル、南王国はユダと呼ばれていました。北王国はアッシリヤによって滅ぼされたのです(紀元前722/721)。南王国はバビロン(現在のイラク)のネブカドレツアル王によって征服されました(紀元前587/586)。多くの人が捕囚の民となったのです。ラマはエルサレムの北8kmにある町です。捕囚地バビロンへの中継地です。エレミヤ書40:1をお読みください。ラケルはヤコブ(父祖アブラハムの子であるイサクの子)の妻です。イスラエルの「民族の母」の一人です(創世記30:23-24)。マタイは殺された子供たちの母親の嘆きをラケルの悲しみとして表現しているのです。


・アルケラオ:ヘロデ大王には処刑した妻と三人の子の他に、別の妻との間に三人の息子がいました。ヘロデ・アルケラオはユダヤ、サマリア、イドマヤを統治しました(紀元前4―紀元後6)。ヘロデ・アンティパスはガリラヤとペレアを支配しました(紀元前4-紀元後39)。ヘロデ・フィリップはガリラヤ湖の北部地域を管轄しました(紀元前4―紀元後33/34)。アルケラオは三人の息子の中で最も残虐な人物でした。ローマ皇帝アウグストス(紀元前27―紀元後14)は統治能力に欠けるアルケラオを廃位し、管轄地をローマ帝国の直轄領としました。


・ナザレ:ガリラヤ湖の西約24㎞にある農業の村です。

・彼はナザレの人と呼ばれる:旧約聖書にこの表現に対応する特定の個所は見当たらないのです。

(メッセージの要旨)

*神様から遣わされた天使ガブリエルはマリアと同じようにヨセフにも「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったこと」を告げたのです。イエス様の誕生においてマリアに焦点が当たるのですが、ヨセフも重要な役割を果たしているのです。マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、身ごもっていることが明らかになったのです。マリアの信仰、名誉、評判を貶(おとし)めるだけでなく、生命をも危うくするのです。ヨセフがマリアに疑いの目を向けるのは当然です。「姦淫の罪」を曖昧にすることは許されないのです。律法に従ってマリアの行為を公(おおやけ)に告発しなければならないのです。マリアは石打ちの刑で処刑される可能性があるのです(申命22:23,24)ヨセフは正しい人であると同時に憐れみ深い人でもありました。マリアのことを表沙汰(おもてざた)にしなかったのです。密かに離縁することを決断したのです。ただ、離縁を言い渡された女性が生活手段(土地など)を確保して生きることはほとんど不可能に近いのです。ヨセフはマリアに罪を償わせようとしているのです。ところが、主の天使が夢に現れて「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と言ったのです(マタイ1:20-21)。マリアは天使の受胎告知に「わたしは男の人を知りませんのに」と反論したのです。ヨセフも胎内の子が自分と無関係であることを確信しているのです。しかし、信仰によって「イエス様の誕生」の意味を理解したのです。


*ルカによればローマ皇帝アウグストス(紀元前31年-紀元後14年)、ガリラヤとユダヤを含む広大な行政区を管轄していたシリア州の総督キリニウスの時代に、ヨセフとマリアは住民登録(紀元後6-7年頃)のためにベツレヘムに滞在していました。イエス様はその時にお生まれになったのです。一方。マタイによればイエス様はヘロデ大王(紀元前4年に死亡)の統治下で誕生されたのです。その年は紀元前6年より以前ではないかと推測されています。どちらかが歴史的事実を誤認しているのです。イエス様の誕生日を特定することは困難なのです。イエス様の誕生に関わる状況についても両者の説明は異なるのです。ルカには牧歌的な雰囲気が漂(ただよ)っています。主の天使が羊飼いたちに「ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」と告げたのです。天の大軍が加わり「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ」と神様を賛美したのです(ルカ2:10-14)。ヘロデ大王の残虐行為に触れていないのです。マタイによれば、イエス様は誕生の瞬間から権力者に命を狙われているのです。誕生物語において、こうした事実に言及されることが極めて少ないのです。イエス様は「神の国」を延べ伝えてからも迫害されたのです。心を休ませられる日はなかったのです。キリスト信仰に生きる人々も試練に遭遇するのです。覚悟が求められるのです。

*ヘロデ大王は東方から来た占星術の学者たちの言葉を聞いて不安になったのです。ここで「不安を抱いた」と訳されている元の言葉はもっと驚きを表す「仰天した」と訳さなければならないのです。ヘロデ大王は自分の意志が及ばないところで、別の「ユダヤ人の王」が決定されていたことに恐れおののいたのです。人々、特に祭司長たちや律法学者たちも同じように動揺したのです。猜疑心の強いヘロデ大王は自分の地位を危うくする者に警戒したのです。妻子さえも容赦なく殺したのです。新たな「ユダヤ人の王」を早い段階で抹殺しようと画策することは当然でした。ヘロデ大王は幼子の生まれた場所とおよその年齢を特定したのです。占星術の学者たちは幼子を見つけると拝み、贈り物を献じたのです。ヘロデ大王が新たな「ユダヤ人の王」の正統性を主張するかも知れない東方の学者たちを生かして帰らすことはないのです。ところが、これらの人に「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったのです。報告をせずに自分たちの国へ帰ったのです。神様は異邦人である占星術の学者たちを助けられたのです。ヘロデ大王は占星術の学者たちが約束を守らなかったことに激怒したのです。確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を一人残らず殺させたのです。家族や親戚は激しく泣いたのです。誕生物語が恣意的に変容されているのです。脚色されたりもしているのです。「神の国」の福音は聖書が伝える厳しい現実において予告されているのです。キリストの信徒たちは真実から目を逸らしてはならないのです。


*主の天使は四度にわたってヨセフに現れました。ヨセフは真に信仰の人でした。「マリアが聖霊様によって身ごもった」という天使の言葉を信じてマリアを妻として迎え入れたのです。イエス様は信仰深いヨセフとマリアの間にお生まれになったのです。誕生物語は多くの場合この時点で終わるのです。キリスト信仰は「安価な恵み」でないのです。絶対的権力者ヘロデ大王と同じように、後の大祭司カイアファたちもイエス様を恐れたのです(ヨハネ11:48)。ローマ総督ポンティオ・ピラトを利用してイエス様を「ユダヤ人の王」として十字架上で処刑したのです。権力者たちが勝利したように見えたのです。ところが、神様はイエス様を復活させられたのです。復活を通して権力者たちの大罪を明らかにされたのです。ヨセフは信仰によってイエス様の誕生に深く関与したのです。その後も、イエス様と妻マリアを権力者たちの迫害からを守ったのです。「神様に委ねているので何もしなくても良い」と言うような信仰理解は避けなければなりません。キリスト信仰とは「神様の御心」を実現するために協力することです。マリアは天使に「わたしは主のはしため(下女)です。お言葉通り、この身に成りますように」と言ったのです。ヨセフは夢に現れた主の天使の指示に従って黙々と行動したのです。二人は「神様のご計画」のために自分たちを捧げたのです。マリアやヨセフの信仰から学ぶことは多いのです。キリストの信徒とは「神様の御心」に沿って生きる人のことです。「救い」はこの世の終わりの日‐再臨の日‐に判断されるのです。心に刻むのです。


*イエス様が降誕された当時は飢えと貧困、抑圧と反乱の時代だったのです。厳然たる事実がキリストの信徒たちに語られていないのです。理由は大きく分けて二つあります。一つはイエス様が生と死と復活を通して証された「神の国」の福音が「罪からの救い」に縮小されていることです。もう一つは指導者たちが一部の有力な信徒たちに配慮していることです。結果として、新約聖書が伝えるイエス様の実像を曖昧にしているのです。讃美歌109番「きよし、このよる・・」、114番「雨なる神には・・」も、イエス様が静かな環境に包まれ、平和の下で誕生されたような雰囲気を醸(かも)し出しているのです。しかし、事実とは明らかに異なっているのです。イスラエルの民はローマ帝国の支配と指導者たちの不信仰と腐敗に苦しめられていたのです。イエス様は「神様の御心」を実現するためにこの世に遣わされたのです。人を貶(おとし)める行動や抑圧的な政治構造と対峙されるのです。「神様の正義」を確立されるのです。イエス様は幼子の時にすでに人々の苦しみや悩みを直接経験しておられるのです。「神の国」が到来したのです。神様はすべてにおいて支配者であることを宣言されたのです。いずれ「新しい天と地」が創造されるのです。神様の子供たちは正義と公平を永遠に享受するのです。貧しい人々や虐げられた人々の目から涙が拭い去られるのです。一方、イエス様の誕生は地上の権力者や金持ちたちにとって脅威となったのです。これらの人に「悔い改め」が求められているのです。ヨセフの信仰によって福音の基礎が築かれたのです。

 

2024年12月15日

「受胎告知とマリアの賛歌」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書1章26節から38節及び46節から56節

(エリザベトが身ごもって)六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。・・・

(エリザベトが聖霊様に満たされて「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言うと)・・マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者(たち)に及びます。主はその腕で力を振るい、/思い上がる者(たち)を打ち散らし、権力ある者(たち)をその座から引き降ろし、/身分の低い者(たち)を高く上げ、飢えた人(たち)を(様々な)良い物で満たし、/富める者(たち)を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。


(注)


・天使ガブリエル:ダニエル書8:16,9:21にも登場しています。

・ナザレ:サマリアの北に位置するガリラヤの小さな村です。周辺地域から孤立しており要衝の地でもありませんでした。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言われていたのです(ヨハネ1:46)。聖書地図をご覧下さい。


・イエス様の系図:ルカ3:23-38、マタイ1:1-17に記載されています。


・神にできないことは何一つない:

■主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」(創世記18:13-14)イエス様は同様の言葉で語っておられます。マタイ19:26、マルコ14:36を参照して下さい。

・マリアの賛歌:サムエルの誕生に伴うエルカナの妻ハンナの賛歌(サムエル記上2:1-10)を併せてお読み下さい。

・神様とアブラハムの契約:「これがあなたと結ぶわたしの契約である。・・わたしは、あなたをますます反映させ、諸国民の父とする。・・」(創世記17:4-6)。


・神様によるダビデへの約束:「わたしは、・・あなたを・・わたしの民イスラエルの指導者にした。・・敵をわたしがすべて退けて、あなたに安らぎを与える。・・わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。・・」(サムエル記下7:8-16)。


・一リトラ:約326(あるいはおよそ340)グラムです。


・三百デナリオン:一デナリオンは当時の平均的労働者の一日分の賃金に相当します。一日5千円で計算すると150万円になります。高額です。

(メッセージの要旨)

*マリアは思春期を少し過ぎた頃と推測されています。ヨセフと婚約していました。一緒に住んでいないというだけで、両者は結婚と同じ義務を負っているのです。洗礼者ヨハネの母エリザベトとは親類です。すでに、天使ガブリエルは祭司の夫ザカリアに「不妊の妻エリザベトが子を宿すこと」を告げているのです。マリアはザカリアと同じように「どうして、そのようなことがあり得ましょうか・・」と天使の言葉に疑問を投げかけたのです。ところが、天使は「神にできないことは何一つない」と説明したのです。マリアはそれ以上反論することもなく「お言葉通り、この身に成りますように」と申し出たのです。マリアは真に信仰篤い女性でした。イエス様の誕生物語に言及する時、多くの場合この点が強調されて終わるのです。ところが、マリアの信仰告白はさらに続くのです。聖霊様に導かれて「マリアの賛歌」として有名な一連の言葉で主を讃えるのです。イエス様の誕生の意味が先取りされ、具体的に表現されているのです。身分の低い主のはしため(下女)にも目を留めてくださったこと、主の憐れみは代々限りなく、主を畏れる者たちに及ぶことを確信したからです。当時の社会には極めて裕福な人々と日々の生活を維持するのにさえ困難な人々がいたのです。神様はこうした現状を容認されないのです。ご自身の思いに反していることをマリアの言葉によって明確にされたのです。福音(良い知らせ)は貧しい人々や虐げられた人々に優先的に届けられるのです。クリスマスにはイエス様の誕生をお喜びすると共に「マリアの賛歌」を心に刻むのです。


*マリアは「救い主」の誕生に関わる重要人物です。ところが、それ以外にマリアの名前はほとんど見当たらないのです。福音書ではヨハネが「イエスの母」、マルコが「母マリア」と記述しています。使徒言行録に「イエスの母マリア」と一度だけ出ています(1:14)。マリアの祖先の詳細は不明です。洗礼者ヨハネの母エリザベトと親戚関係にあり、レビ族に属していたことが分かっています。イエス様の誕生において、マリアが聖霊様によって身ごもることやマリアの純粋な信仰に関心が集まるのです。キリスト信仰の真髄は「マリアの賛歌」にあるのです。マリアは天使ガブリエルから聞いた「救い主誕生」の告知をイスラエルに対する神様の憐れみ、祖先への約束の成就として理解したのです。「救い主誕生」はイスラエルの歴史の延長線上に起こった出来事なのです。マリアは神様が下女に目を留めて下さったことに感謝しているのです。「マリアの賛歌」は士師サムエルの母ハンナの祈りに似ています。長い間子供が授からなかったハンナは「わたしはこの子を授かるように祈り、主はわたしが願ったことをかなえて下さいました」と言って、神様を讃えているのです。出来事は身分の低い人々や虐げられている人々への希望の光となったのです。「救い主」は名もない、貧しい女性から誕生されたのです。この事実に注目するのです。神様はマリアによってご自身がどのようなお方であるかを明らかにされたのです。「救い」の意味を具体化されたのです。イエス様は「神様の御心」を実現するためにこの世に遣わされたのです。御業が証明しているのです。


*神様は不妊のエリザベトにヨハネ、マリアにイエス様を授けられたのです。ザカリアとマリアはヨハネとイエス様の将来について預言しています。洗礼者ヨハネはイエス様の先駆けとして道を整え、イエス様は「神の国」(天の国)-神様の支配-の宣教に生涯を捧げられたのです。神様はご自身の計画(新しい天地創造)に着手されたのです。「救い主」は貧しいヨセフとマリアの家庭に誕生されたのです。神様はへりくだった人々、貧しい人々や虐げられた人々を心にかけて下さるのです。「救いの御業」はイエス様の誕生から始まり、苦難の宣教活動と十字架刑、復活を経て再臨によって完成するのです。イエス様が誕生の瞬間から「十字架の死」を目指して歩まれたというような信仰理解は避けなければなりません。聖霊様はイエス様の誕生に関わるすべてのことを準備されたのです。「マリアの賛歌」は伝統的に「マグニフィカ―ト」と呼ばれています。キリスト信仰において「マリアの賛歌」が取り上げられることは極めて少ないのです。しかし,そこには「神の国」の本質が表現されているのです。マリアが語った内容は神様の勝利を祝う旧約聖書の詩篇のモチーフから引用されているのです。「その御名は尊く・・」はユダヤ人の賛美の歌なのです(詩篇111:9)。「主はその腕で力を振るい・・」は詩篇89:11を彷彿とさせるのです。「わたしたちの先祖におっしゃったとおり・・」は神様とアブラハムとの契約を想起させるのです。神様にダビデへの約束の成就を感謝する言葉です。「マリアの賛歌」はイエス様の宣教の視点そのものなのです。

*イスラエルにおける金持ちは人口の5パーセント以下でした。ローマ帝国の官僚たち、特権階級としての祭司たち、一握りの大土地所有者たち、そして財を成した徴税人たちでした。残りの人々は貧しく、その多くは極貧の状態にありました。ユダヤ教の文献には地方を徘徊しているホームレスの貧しい人々の集団が教会から給付されるわずかなお金を奪い合う様子が記録されています。福音書にも様々な形で貧しい人々の様子が描かれています。労働者の群れが広場に集まり、支払われる賃金の額を雇い主に尋ねることもなく、必死でその日の仕事を求めているのです。雇い主は労働者たちの間に分裂をもたらして搾取するのです(マタイ20:1-16)。ラザロというできものだらけの貧しい人が門前に横たわり、金持ちの食卓から落ちる物で空腹を満たしたいものだと思っていました。汚れた動物とされている犬もやって来てそのできものをなめたのです。この人にはもう犬を追い払う力がなかったのです(ルカ16:19-21)。イエス様の足に塗るために純粋で非常に高価なナルドの香油1リトラが使われたのです。イエス様を裏切ったイスカリオテのユダは「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って貧しい人々に鉾さなかったのか」言って、非難したのです(ヨハネ12:4-5)。ユダは貧しい人々を心にかけていなかったのですが、人々の生活状況を知ることは出来るのです。貧しい人々や虐げられた人々は「救い主」が来られることを待望していたのです。イエス様は「神の国」の福音を告げ、悔い改めた人々に「永遠の命」を与えられるのです。

*マリアは様々な困難(迫害)を恐れずに、天使ガブリエルの言葉を信じて「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と言ったのです。胎内の子(メシア)が後に「飢えた人(人々)を良い物で満たして下さることを確信したのです。神様がイエス様によって「新しい天地創造」に着手されたことを高らかに宣言したのです。イエス様の誕生の意味が「罪からの救い」に限定されているのです。キリスト信仰の本質が誤解されているのです。イスラエルの民は「エジプトの圧政」や「バビロン捕囚」に代表されるような他国の支配の下で苦しんだのです。イエス様の時代も人々はローマ帝国の圧政の下で喘(あえ)いでいるのです。「マリアの賛歌」は神様がこの世に直接介入されたことを讃えているのです。マリアとヨセフはイエス様を主に献上する儀式において、通常の羊ではなく最低限必要な山鳩一つがい(家鳩の雛二羽)を捧げているのです(ルカ2:22-24)。二人が貧しかったことを証明しているのです。イエス様は人々が貧困に苦しんでいる姿に心を痛められたのです。一方、「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今、飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる」と言われたのです(ルカ6:20-21)。マリアは聖霊様に初めから終わりまで導かれたのです。「マリアの賛歌」は年齢の若さや経験のなさを超えた「神様の啓示」です。イエス様が生と死と復活を通して証しされた「神の国」の福音の予告なのです。キリストの信徒たちは「神様の御業」に感謝するのです。

2024年12月08日

「洗礼者ヨハネの使命」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書1章5節から25節

ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。 さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父(両親たち)の心を子(たち)に向けさせ、逆らう者(たち)に正しい人(たち)の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」


民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った。その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた(隔絶された)。そして、こう言った。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」


(注)


・待降節:教派によって呼び方は異なります。イエス・キリスト(救い主)のご降誕を待ち望む期間のことです。クリスマスの4週前の日曜日から始まります。


・ヘロデ大王:イスラエルのレビ族が統治したハスモン王朝を倒し、エドム人へロデが統治するヘロデ王朝を創設しました。ローマ帝国との協調関係を維持し、エルサレム神殿の大改築を行いました。一方、猜疑心が強く身内を含む多くの人を殺害したのです。三人の息子たちと区別してヘロデ大王と呼ばれています。在位は紀元前37年から紀元前4年です。イサクの双子の息子、兄のエサウはエドム人、弟のヤコブはユダヤ人の祖先です。二つの民族の間に争いが絶えなかったのです。洗礼者ヨハネが宣教を開始した頃のガリラヤの領主ヘロデは、三人の息子の一人ヘロデ・アンティパスです。在位は紀元前4年から紀元後39年です。


・アビヤ組:祭司たちは余りも多くなったので24の組に分けられました。それぞれの組には名前がありました。一年に2週間職務を遂行したのです。それ以外はエルサレムを離れていたのです。自分の組が当番で あった時に、ザカリアのようにくじで選ばれて聖所で一日に二回香を焚くことは極めて稀です。


・アロン:モーセより三歳年上です。モーセとアロンの系図を参照して下さい(出エジプト記6:14-27)。イスラエルの祭司職の祖先です (出エジプト記40:12-15)。


・不妊の女性:エリザベトのような不妊の女性に子供が授かった例は他にもあります。アブラハムとサラの息子イサク(創世記18:1-15)、マノアとその妻の息子サムソン(士師記13:1-5)、エルカナとハンナの息子サムエル(サムエル記上1-2)をご一読下さい。


・天使(ガブリエル):神様からの公的な使節です。ダニエル書8:16、9:21にも登場します。


・エリヤの霊と力:エリヤは死ぬことなく天に上げられた偉大な預言者です(列王記下2:11)。洗礼者ヨハネはエリヤの再来と言われたのです。人々を「悔い改め」に導く使命が与えられたのです。旧約聖書の巻末マラキ書は次のように記述しています。


■見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤ(ヨハネ)をあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。(マラキ書3:23-24)
         
・救いの角:「救い主」イエス様のことです。この表現はダビデの家系に連なる支配者であることを強調しています。「主は逆らう者を打ち砕き天から彼らに雷鳴をとどろかされる。主は地の果てまで裁きを及ぼし王に力を与え油注がれた者の角を高く上げられる」(サムエル記上2:10)。詩篇18:3、132:17を参照して下さい。


・ヨセフス:祭司職の家系に生まれました。軍人、歴史家です。自伝「フラビウス・ヨセフスの生涯」を著しています。

(メッセージの要旨)


*今日から待降節が始まります。四福音書は預言者イザヤの言葉「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」(イザヤ書40:3)を引用し、ヨハネの使命について言及しています。ヨハネは神様が選ばれた器です。イエス様に先立って「神の国」の福音を担うのです。「神様の御心」を実現するために生涯を捧げたのです。祭司ザカリアと妻エリザベトは子供が授かることを願っていました。しかし、時は空しく過ぎたのです。ある日、ザカリアは神殿で香を焚いていました。天使ガブリエルが現れて「エリザベトが子を産むこと、その子によって主のために道が整えられること」を伝えたのです。ところが、ザカリアは天使の言葉を疑ったのです。ヨハネが生まれるまで口が利けなくなったのです。6か月後、同じ天使は乙女マリアに男の子が生まれることを告知し、親類のエリザベトにも子が宿ったことを知らせたのです。マリアは急いでエリザベトを訪れました。挨拶をするとエリザベトの胎内の子がおどったのです。ザカリアは話せるようになると聖霊様に導かれて「主は我らのために救いの角(イエス様)を、/僕ダビデの家から起こされた。・・幼子(ヨハネ)よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え・・」と預言したのです(ルカ1:67-80)。ヨハネは身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒野にいたのです。神様の言葉が降ったのです。人々に「悔い改め」を迫り、領主ヘロデ・アンティパスの様々な悪事を告発したのです。


*ユダヤ人の社会では女性の社会的地位は極めて低く、特に子供のいない(跡継ぎを儲けない)女性は蔑まれたのです。人格さえ否定されたのです。年老いたザカリアはエリザベトに子供が授かることを諦めていました。当時、祭司職にある人の数は膨大になっていました。ヨセフスは2万人の祭司がいたと記録しています。必要以上の祭司がいたので24組に分かれて奉仕したのです。それぞれの組は年に二週間奉仕するだけでした。それでも、一般的なユダヤ人が羨む収入を得ていたのです。ゼカリアはくじによって聖所で一日に二回香を焚く祭司に選ばれました。大変名誉なことでした。薄暗い光の中で一人立っている時に天使のお告げを聞いたのです。旧約聖書に精通し「救い主」の到来を信じている信仰篤いザカリアでも、年老いた妻エリザベトにアブラハムの妻サラやエルカナの妻ハンナと同様の祝福が与えられたことを信じなかったのです。不信仰の故にしばらくの間口が利けなくなったのです。その後、約束された男の子は生まれたのです。エリザベトは「主はわたしの恥を取り去ってくださいました」と言って、心から感謝したのです。ゼカリアはエリザベト共に子供の名前をヨハネにしたのです。その時、話すことが出来るようになったのです。父親であり、祭司であるザカリアは聖霊様に導かれて「救い主」イエス様の誕生の意味と我が子ヨハネの使命を預言するのです。洗礼者ヨハネは民衆に「行いによる悔い改め」を求めたのです。権力者たちの罪を躊躇(ちゅうちょ)することなく批判したのです。イエス様はそれをさらに先鋭化されたのです。


*エルサレム神殿におけるエリート祭司たちの状況を理解しておくことは重要です。祭司の家系は世襲で様々な特権を有していました。福音書は、大祭司の家が大きく贅沢な造りであったことを伝えています(ヨハネ18:12-18)。さらに、祭司の家系に生まれた歴史家ヨセフスは自分の家族がエルサレム郊外に土地を持っていたこと、祭司たちが貧しい民衆から集めた「十分の一税」によって広大な所有地を得ていたことを記しています。祭司たちは自分たちの利益を守るためにローマ帝国の支配を受け入れ、物心両面にわたって協力したのです。人々にローマ帝国に上納する新たな税の負担を強いるだけでなく、毎日カエサル(皇帝)へ「犠牲の供え物」を捧げたのです。皇帝は忠誠心と引き換えに、ユダヤ人指導者たちにエルサレム神殿の保護と宗教活動の自由を約束したのです。一方、神殿政治の腐敗から距離を置いている数少ない人がいたのです。ザカリアもその一人です。わが子の誕生に感謝して神様を賛美するのです。「救い主」の誕生を喜んで「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」、「それ(救いの角)は・・我らを憎む者の手からの救い。主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは・・恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく」と預言したのです(ルカ1:68-75)。「救い」は罪の赦しに留まらないのです。人間の「全的な解放」として完成するのです。


*荒れ野にいるヨハネに神様のお言葉が降ったのです。ヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために「悔い改め」の洗礼を授けていました。洗礼を申し出た群衆には厳しい口調で「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。・・斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と言ったのです(ルカ3:1-9)。信仰心の篤さや祭司による儀式の順守のことではないのです。「隣人愛」の欠如や「社会正義」の軽視を問題にしているのです。教えに心を打たれた群衆は「わたしたちはどうすればよいのですか」と率直に尋ねたのです。ヨハネは「下着を二枚持っている者は(誰でも)、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も(誰でも)同じようにせよ」と答えたのです。徴税人(たち)も洗礼を受けに来て「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と質問したのです。「規定以上のものは取り立てるな」と指示したのです。兵士たちが「このわたしたちはどうすればよいのですか」と言うと、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と命じたのです。さらに「わたしよりも優れた方(イエス様)が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と明言したのです。「手に箕(み)を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」と警告したのです。

*イエス様の宣教は洗礼者ヨハネの洗礼によって始まりました。ヨハネとイエス様はたびたび比較されています。共通点も多いのです。ヨハネは「悔い改めよ。天の国(神の国)は近づいた」と言って、宣教を開始したのです(マタイ3:2)。イエス様の第一声と同じです(マルコ1:15)。拠点として人口が多い都市や町ではなく、ユダヤの荒れ野を選んだのです(マタイ3:1)。預言者エリヤを想起させる毛衣を着、腰には皮の帯を締めていたのです(列王記下1:8)。質素な生き方を貫いたのです。イエス様は「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子(ご自身)には枕する所もない」と言われたのです(ルカ9:58)。貧しい人々や虐げられた人々と共に歩まれたのです。神殿の境内から商人たちを追い出し、指導者たちの偽善と不正を激しく非難されたのです(マルコ11:15-16)。ヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結べ。・・斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と言ったのです。イエス様は「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。・・集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」と明言されたのです(ヨハネ15:2-6)。ヨハネはイエス様の宣教-「神の国」の福音-を先取りしているのです。「悔い改め」と「社会の変革」を促(うなが)したのです。必然的に、権力者たちから迫害されたのです。後に、イエス様は「およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない」と言われたのです(ルカ7:28)。

2024年12月01日
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