「サマリア宣教を担った女性」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書4章1節から27節

 

さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった。それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。

サマリアの女(性)が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女(性)は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人(たち)はサマリア人(たち)とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女(性)は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者(たち)は決して渇かない。わたしが与える水はその人(彼ら)の内で泉となり、永遠の命に至る水が(水となって)わき出る。」女(性)は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」


イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、 女(性)は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女(性)は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女(性)が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」


ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人(女性)と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。


(注)

・サマリア人の歴史:

●ソロモン王の死後イスラエル王国は南北に分裂し、北王国は「イスラエル」、南王国は「ユダ」と呼ばれました。中心都市は北がサマリア、南はエルサレムでした。北王国は不信仰の故に主の御前から退けられ、紀元前721年、アッシリアによって滅ぼされたのです。アッシリアの王はイスラエルの人々を自国へ連れて行き、代わりにサマリアの地に様々な国の異邦人たちを住まわせたのです。これらの人は主を畏れ敬うのですが、同時に自分たちの神を造り、偶像にも仕えていたのです。列王記下17章をご一読下さい。

●その後、サマリア人たちの間に本来の信仰が戻ったのです。しかし、旧約聖書をモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)に限定したのです。知恵文学(詩篇など)や預言書(イザヤ書など)はユダヤとエルサレム(ダビデの系譜)に焦点を当てていたからです。エルサレムを巡礼地として認めなかったのです。シカルの町を見下ろすゲリジム山を礼拝場所としたのです(ヨシュア記8:30-35)。

●紀元前539年、バビロン捕囚から帰還したゼルバベルはエルサレム神殿の再建に着手しました。サマリアの人々は計画を知って援助を申し出たのです。ところが、ユダヤ人たちはこれを拒否したのです。両者の対立はさらに深まったのです(エズラ記4:2-3)。紀元前128年、ユダヤ人たちはサマリアを攻撃したのです。シカルの町を破壊し、ゲリジム山にある神殿を焼き尽くしたのです。

・当時の旅:サマリアはユダヤと北のガリラヤの間にあります。ユダヤ人たちは旅程を短縮できるサマリアのルート-例えばシカル経由-を利用しなかったのです。追いはぎも多かったのですが、エリコを通ってガリラヤへ向かったのです。今回、イエス様は迂回(うかい)せずに真っ直ぐ北上されたのです。以前、12弟子を福音宣教に派遣する際、サマリアの町を除かれていました(マタイ10:5)。

・シカル:旧約聖書に登場する「シケム」のことです。創世記33:18-19、ヨシュア記24:32を参照して下さい。

・ヤコブの井戸:旧約聖書にその名は記述されていないのです

・弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた:

歴史的経過からすれば、ユダヤ人たちがサマリア人たちから食料品を購入することはありえないのですが・・。

・女(Woman):日本語訳の「女」にはサマリア人女性が「ふしだらである」という軽蔑的なニュアンスが隠されているのです。五人の夫がいたことや現在の男性との関係が曖昧(あいまい)であることなどが根拠になっているのです。しかし、イエス様のお言葉には敬意を表す「婦人」(Woman) が用いられているのです。イエス様はサマリアにおける女性の苦悩と悲しみの原因をご存じなのです。「婦人」(女性)の日本語訳の方が「福音の真理」に適っているのです。

・主よ:この時点ではイエス様は一人の男性なのです。「救い主」(Lord)ではなく、見知らぬ男性への敬語(Sir)なのです。「あなたは」と訳されるべき言葉です。

・生ける水:一般的に湧き水のことですが、イエス様は「永遠の命」を意味されたのです。

・あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない:

律法には女性の権利を考慮しない規定があります。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。・・」は典型的な例です(申命記24:1-4)。男性が圧倒的に支配する家父長社会において、女性が自立して生きていくことは極めて困難なのです。サマリア人の女性を「罪深い女」として断定することは正しくないのです。イエス様はこの女性の不幸な過去と現在を憐れまれたのです。

・永遠の命:「神の国」と共にキリスト信仰の真髄(しんずい)を表す言葉です。

■上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。(ヨハネ3:31-36)

(メッセージの要旨)

*イエス様はファリサイ派の人々が監視していることを知り、北のガリラヤへ向かわれたのです。ところが、サマリアルートを選択されたのです。この道は旅に要する時間を短縮するのですが、信仰深いユダヤ人たちは利用しなかったのです。イエス様はこれまでサマリア宣教を控えておられました。しかし、時が満ちたのです。ユダヤ人たちやサマリア人たちの激しい反発が予想されるのですが、シカルの町に進まれたのです。もともと信仰を同じくするサマリア人にも「神の国」(天の国)の福音が届けられたのです。最初は、ユダヤ人から蔑まれ、サマリア人社会においても隅に追いやられていた一人の名もない女性に伝えられたのです。この人は「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます」と言ったのです。「救い主」が来られることを切望していたのです。イエス様は信仰に応えて「救い主」であることを明らかにされました。女性はイエス様が「メシア」であることを信じたのです。イエス様との出会いの後、町へ帰って人々に信仰体験を話したのです。証しによってサマリア人たちがイエス様のお言葉を直接聞くことになったのです。信仰へと導かれたサマリア人たちはイエス様にしばらくこの地に留まるように依頼したのです。イエス様は二日間滞在して「神の国」の福音を語られたのです。更に多くの人が「この方は本当に世の救い主である」と信仰を告白したのです。いつの時代においても女性が福音宣教の中心を担っているのです(ルカ8:1-3)。

*エルサレムからガリラヤへ旅する人々は通常サマリアを迂回してエリコに下り、ヨルダン川の西にあるユダヤとサマリアの丘陵に添いながら北へ向かったのです。ただ、このルートには追いはぎが頻繁(ひんぱん)に出没したのです(ヨハネ10:30)。それでも、ユダヤ人たちはサマリア経由の道を避けたのです。理由はサマリア人たちとユダヤ人たちの間にくすぶり続ける不幸な歴史にあるのです。イエス様の時代においても状況は変わらなかったのです。偶像礼拝から脱却したサマリア人たちは(旧約)聖書に立ち帰ったのです。「モーセ五書」のみを聖典としたのです。しかも、エルサレムへの巡礼を拒否したのです。シカルの町を見下ろすゲリジム山で礼拝を行ったのです。イエス様は「神様の御心」を実現するためにサマリア宣教を開始されたのです。サマリアの地で男性支配に苦しめられ、家庭的にも恵まれない一人の女性を宣教の担い手として選ばれたのです。サマリアもユダヤも家父長社会なのです。女性は子孫を残すための道具なのです。男性のために家事や雑事をこなし、飲み水を運ぶ大切な労働力なのです。夫の同席なしに他の男性と話をすることも出来なかったのです。妻に何か不都合なことがあるとか、気に入らないことがあれば、夫の申し立てによって離縁が成立するのです。女性が一人で生きてくことは不可能に近いのです。生活の糧を得るために男性と再婚するか、同棲するか、娼婦になる道しか残されていないのです。妻は心身共に夫に隷属しているのです。出来事の背景には女性が蔑(さげす)まれている厳しい現実があるのです。

*イエス様は旅に疲れて井戸のそばに座っておられました。正午ごろのことでした。その時刻は一日の内で最も暑い時間帯です。水汲みは女性の仕事ですが、彼女たちは涼しい朝か夕方にそれを行ったのです。しかし、この女性は人のいない昼頃に井戸に来ているのです。他の女性たちに会いたくない何か事情があったのかも知れないのです。イエス様は水を飲ませてくださいと言われました。ところが、女性は「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と逆に質問しているのです。彼女の驚きの原因は長年にわたりサマリア人たちを不信仰の民として軽蔑しているユダヤ人が水を求めたことではないのです。むしろ、男性がサマリア人の女性に話しか けたことにあるのです。結婚しているかどうかに関わらず、公の場所で男性が女性と話すことはほとんどなかったからです。イエス様のような教師はこうした慣習を厳格に守っていたのです。食べ物を買うために町に行っていた弟子たちが帰って来て、イエス様がサマリアの女性と話をしておられるのを見て驚いたことは当然なのです。彼らにとっても信じられないことが起こっているのです。今日においても同様の事例が報告されています。シカルから近い村を訪れたある聖書学者が女性に声をかけたのです。そこに住む人々を困惑させたのです。本人は不注意を深く反省したのです。サマリア人女性はユダヤ人との信仰理解における相違を明確にしているのです。イエス様は両者の亀裂を「神様の霊と真理」によって修復されるのです。今、その時が訪れているのです

*イスラエルが犯した数々の罪と憐れみ深い神様の赦しの歴史を想起させるのです。預言者イザヤは弱りはてた民に悔い改めを求めたのです。神様の招きのお言葉「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め/価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」を感謝して受け入れるように勧めたのです(イザヤ書55:1)。預言者エレミヤは反抗する不信仰の民に神様のお言葉「まことに、わが民は二つの悪(偶像崇拝とアッシリアやエジプトとの同盟)を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて/・・(自分たちのために)水溜めを掘った。水をためることのできない/こわれた水溜めを。・・」を伝えたのです(エレミヤ書2:13‐19)。預言者ゼカリアは「その日(主の勝利の日)、エルサレム(神様)から命の水が湧き出で/半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい/夏も冬も流れ続ける」と言って、「救い」が全世界に及ぶことを預言したのです(ゼカリア書14:8)。神様が「水」、「生ける水」として表現されているのです。サマリア人たちは「モーセ五書」以外を聖典として認めなかったのです。後に編纂された各巻がエルサレム神殿とダビデの系譜を中心にして書かれているからです。しかし、初めて会った男性がサマリア人である自分の過去を知っているのです。女性はこの人に特別な力があることを感じたのです。イエス様は神様が遣わされた預言者であることを確信したのです(申命記18:18)。イエス様を「メシア」(救い主)として信じたのです。

*神様は乾いたサマリアの地に「命の水」を注がれたのです。イエス様はご自身を「永遠の命に至る水」と言われました。サマリアの女性に神様のお言葉がご自身において成就し、新しい時代が到来していることを告げられたのです。信仰共同体における新しい礼拝のあり方が示されたのです。民は制限されていた礼拝の場所や礼拝様式から解放されるのです。神様をイエス様の名によって直接礼拝することが出来るようになるのです。神様と人間を仲介していた人々-大祭司や祭司-を必要としなくなるのです。イスラエルの民は外国勢力に苦しめられながらも神様が約束された「救い主」に望みを託したのです。サマリア人たちも「メシア」の出現を待ち続けていたのです。ユダヤの人々、サマリアの人々に限らず「永遠の命」へのあこがれはすべての人に共通しているのです。イエス様は「わたしが与える水は人々の中で永遠の命に至る泉となる」と言われたのです。サマリアの人々も「永遠の命」に与れることが宣言されたのです。サマリア人の女性はイエス様を信じたのです。非難や中傷を恐れずに自分の信仰体験を町の人々に語ったのです。多くのサマリア人がイエス様を信じたのです。イエス様の昇天後もサマリア宣教は行われるのです。使徒のフィリッポがサマリアで活動を続けたのです。人々は「神の国」の福音とイエス・キリストの名を信じて洗礼を受けたのです。さらに、ペトロとヨハネは聖霊を授けたのです(使徒8:4-25)。すべての始まりは、イエス様が福音の種を蒔かれたことにあるのです。名もない女性が信仰を証ししたことによるのです。

2024年02月04日