「命のパン」
Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書6章34節から59節
そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』(イザヤ書54:13)と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった(民数記14:26-35)。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。
(注)
・彼ら:イエス様はご自身の教えを聞くために集まったおよそ五千人の群衆に食べ物(大麦のパンと魚)を与えられたのです。彼らの空腹は満たされたのです。ところが、中にはイエス様を自分たちの王(ローマ帝国の圧政と闘う政治的指導者)として戴くために連れて行こうとする人々もいたのです。イエス様はそこを逃れて身を隠されたのです。しかし、これらの人はイエス様を捜し続けたのです(ヨハネ6:1-15)。再び出会った人々はイエス様に次のように質問したのです。
■「わたしたちが見てあなたを信じることができるように、(さらに)どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」と言ったのです。すると、イエス様は「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」と答えられたのです。(ヨハネ6:30-33)。
・イエス様によるご自身の定義:わたしは・・である
*わたしは命のパンである
*わたしは世の光である(ヨハネ8:12)
*わたしは門である(ヨハネ10:9)
*わたしは良い羊飼いである(ヨハネ10:11)
*わたしは復活であり、命である(ヨハネ11:25)
*わたしは道であり、真理であり、命である(ヨハネ14:6)
*わたしはまことのぶどうの木(ヨハネ15:1)
・預言者の書:神様は「新しい契約」を人々の心の中に刻まれるのです。
■「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」
(エレミヤ書31:31-34)
・マンナ(マナ):パンのことです。出エジプト記16章をご一読下さい。詩篇78:24―25を併せてお読み下さい。
・カファルナウム:ガリラヤ湖の北の端にある町です。イエス様の宣教の拠点です。聖書地図をご覧下さい。
・イエス様が引用されたイザヤ書の個所:貧しい(抑圧された)人々への福音となっているのです。
■主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしを捕えた。わたしを遣わして、貧しい(抑圧された)人々に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心(人々)を包み、捕らわれ人(た人々)には自由を、つながれている人(囚人たち)には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年、わたしたちの神が報復される日を告知して、嘆いて人々を慰め・・。(イザヤ書61:1-2)
(メッセージの要旨)
*イエス様は後を追って来た5千人の人々に食べ物を与えるという「力ある業」を行われました。満腹した人々はイエス様を自分たちの王として戴こうとしたのです。イエス様はご自身への誤解を正されるのです。「神様の子」であることを先祖が荒れ野で食べた「パン」と比較して説明されたのです。民衆はローマ帝国の支配下にあって貧しい暮らしを余儀なくされているのです。日々の糧を確保するために奔走(ほんそう)しているのです。このような状況にあって、人々が食べ物に関心を注ぐことは当然なのです。しかし、そのことだけでは「永遠の命」に与れないのです。イエス様はこれらの人を深く憐れまれたのです。「神の国」-神様の支配-に迎えられる方法を教えられたのです。「ご自身を遣わされた方を信じる人々は永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」(ヨハネ5:24)、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子(イエス様)があなたがたに与える食べ物である」と言われたのです(ヨハネ6:27)。イエス様はご自身への絶対的な信仰を求められるのです。同時に、「永遠の命」を約束された人々に「神様の御心」を実践する責務を課せられるのです。「わたしは命のパンである」は霊的なものが肉的なものよりも優れていることを意味しているのではないのです。イエス様の教えを心に刻むことです。イエス様の生き方に倣って「神の国」の実現のために働くことなのです。イエス様に対する応答が「救い」を決定するのです。
*イエス様は「わたしは…である」という言葉で七回もご自身を定義しておられます。その最初が「わたしは命のパンである」です。パンは人間の肉体的必要性を満たすことについて誰もが知っているのです。しかし、民衆は「わたしたちに必要な糧を今日お与えください」と祈らなければならないほど貧しかったのです(マタイ6:11)。イエス様は窮乏生活を十分承知の上で人々に「朽ちない食べ物」-永遠の命に至る食べ物-を求めなさいと言われたのです。そこで、彼らは「主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい」と願い出たのです。人は「力ある業」を経験し、あるいは見聞きしてもイエス様を「救い主」として信じる訳ではないのです。この世の思いが信仰を妨げていることも多いのです。モーセは「あなた(がた)の神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。・・主はあなた(がた)を苦しめ、飢えさせ、あなた(がた)も先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなた(がた)に知らせるためであった」と言っています(申命記8:2-3)。イエス様は宣教を開始する直前、四十日間荒れ野で断食をされたのです。空腹を覚えられた時、悪魔が来て「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と誘惑したのです。イエス様はモーセの言葉によって反論されたのです(ルカ4:1-4)。ご自身は「神様の御心」を実現するために生涯を奉げられました。群衆にもそのように生きることを教えられたのです。
*ユダヤ人たちの信仰の根底には先祖が経験したエジプトの圧政からの解放があるのです。神様は「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、・・彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」と言って、モーセを遣わされたのです(出エジプト記3:1-21)。ヘブライ人たち(イスラエルの民)が信仰深いからではなく、絶望的な窮状に喘(あえ)いでいたことを心に留められたのです。この歴史的事実はキリスト信仰を理解する上で重要な役割を果たしているのです。「出エジプト」はイエス様のメッセージの原点を形成しているからです。宣教活動において繰り返しモーセの言葉と働きを取り上げておられます。「神様の御心」を想起させておられるのです。神様がエジプトの王ファラオによるヘブライ人への抑圧を直接介入の動機とされたように、イエス様もイザヤ書を引用して、貧しい人々や虐げられた人々の解放を宣教の目的にされたのです(ルカ4:18)。イエス様を通して「神の国」が到来しているのです。「神の国」の福音が個人の「霊的な救い」に縮小されてはならないのです。貧しい人々に福音(良い知らせ)が届けられているのです。神様は人々の切実な祈り-主の祈り-「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」に応えて下さるのです(マタイ6:11)。今、「新しい天地創造」が始まっているのです。イエス様は「何よりもまず、神の国(神様の支配)と神の義(正義)を求めなさい」と言われました。最も重要な戒めの一つです。優先順位が明確です。神様に信頼する人々に最低必要な物と「永遠の命」が与えられるのです。
*福音書記者マタイ、マルコ、ルカは「主の晩餐」について記述しています。最も古いマルコの福音書は「イエスはパンを取り・・弟子たちに与えて言われた。『これはわたしの体である。』また、杯を取り・・彼らにお渡しになった。そして、イエスは言われた。『これは多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」と記述しています(マルコ14:22-26)。ヨハネの福音書によれば、イエス様は「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」と言われたのです。イエス様の体(肉)を食べ、血を飲む者は誰でも「永遠の命」に与れるのです。ユダヤ人たちはイエス様のお言葉に躓(つまず)いたのです。人間の肉を食べることは究極の敵意を表しているのです(詩篇27:2)。血を飲むことは律法で禁じられているからです(レビ記3:17)。キリストの信徒たちはイエス様と一体になることであると理解しているのです。イエス様は「神の国」を宣教して指導者たちから迫害されたのです。イエス様の御跡を辿(たど)る人々はこの世に同調しないのです。このため、親、兄弟、親族、友人から見捨てられ、社会的地位や財産を失っているのです。時には命の危険に晒(さら)されることになるのです(ルカ21:7-19)。神様はすべての人に必要なパンを与えられるのです。しかし、誰もが「永遠の命」に与れる訳ではないのです。イエス様の肉を食べ、イエス様の血を飲む者だけが「永遠の命」に与れるのです。
*「命のパン」の意味が正しく伝えられていないのです。キリスト信仰における「救い」を説明するために、パウロの信仰理解-「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら救われる・・」―が引用されることも多いのです(ローマ10:9-10)。このような「救いの定義」はイエス様の教えから乖離(かいり)しているのです。知的信仰によって「救い」を得ることは出来ないのです。「行い」が必須の要件なのです。「天から降って来たパン」の意味の厳しさに気づいた-安価な恵みに慣れ親しんだ-弟子たちの多くが去り、共に歩まなくなったのです(ヨハネ6:66)。イエス様「わたしよりも父や母を愛する者は(だれでも)、わたしにふさわしくない。・・自分の十字架を担ってわたしに従わない者は(だれでも)、わたしにふさわしくない」と言われました(マタイ10:37-39)。「永遠の命」に与ろうとする人々には物心両面にわたる犠牲が伴うのです。キリスト信仰において「救い」は強調されるのですが、弟子としての覚悟や責務についてあまり語られていないのです。キリスト信仰に関する神学的、哲学的な説明が却って人々の正しい理解を妨げているのです。キリスト信仰とは信じることではないのです。イエス様の「命のパン」を食べることです。イエス様の「生き方」を自分の「生き方」とすることなのです。イエス様はご自身の生と死と復活を通して「神の国」を証しされたのです。「神の国」の到来こそ福音なのです。キリストの信徒たちは「神の国」の建設に参画するのです。