「イエス様の視点」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書12章38節から13章2節

イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、正装して歩くことや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望んでいる。また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

イエスは献金箱の向かいに座り、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。そこへ一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「よく言っておく。この貧しいやもめは、献金箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

(注)

・律法学者:律法の専門家です。多くはファリサイ派に属していました。律法主義に固執し、愛の観点から律法を解釈されるイエス様と鋭く対立したのです。

・レプトン銅貨:最小の貨幣単位です。1デナリオン(平均的労働者の1日の賃金に相当する価値)の128分の一です。仮に1デナリオンを今日の通貨で換算して6,400円とすれば、50円です。やもめは一日100円で生活していたことになります。

・クァドランス:ローマの青銅貨幣です。1デナリオンの64分の一です。

・律法学者たちやファリサイ派の人々の罪:イエス様は彼らの行いを厳しく非難されました。以下はマタイ23章の抜粋です。機会がありましたら全体を通してご一読下さい。


■律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない(2-4)。・・律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷(はっか)、いのんど、茴香(ういきょう)の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが(23)。・・律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている(27-28)。・・蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか(33)。

●ファリサイ派の人々:律法を日常生活に厳格に適用した人々です。ただ、言うだけで実行しなかったのです。彼らは偽善者なのです。

●薄荷(はっか)、いのんど、茴香(ういきょう):最も小さなハーブです。


・やもめ:家父長(男性中心の)社会にあって 死別あるいは離婚されて一人身となった彼女たちは窮乏生活を余儀なくされたのです。


■災いだ、偽りの判決を下す者/労苦を負わせる宣告文を記す者は。 彼らは弱い者の訴えを退け/わたしの民の貧しい者から権利を奪い/やもめを餌食とし、みなしごを略奪する(イザヤ書10:1-2)。


■万軍の主はこう言われる。正義と真理に基づいて裁き/互いにいたわり合い、憐れみ深くあり やもめ、みなしご/寄留者、貧しい者らを虐げず/互いに災いを心にたくらんではならない。」ところが、彼らは耳を傾けることを拒み、かたくなに背を向け、耳を鈍くして聞こうとせず、心を石のように硬くして、万軍の主がその霊によって、先の預言者たちを通して与えられた律法と言葉を聞こうとしなかった。こうして万軍の主の怒りは激しく燃えた(ゼカリヤ書7:9-11)。


■裁きのために、わたしはあなたたちに近づき/直ちに告発する。呪術を行う者、姦淫する者、偽って誓う者/雇い人の賃金を不正に奪う者/寡婦、孤児、寄留者を苦しめる者/わたしを畏れぬ者らを、と万軍の主は言われる(マラキ書3:5)。

●詩篇94:1-7も併せてお読み下さい。

・腐敗した神殿政治:イエス様は「神様の御心」に反する神殿を実力行使によって激しく非難されたのです。

■イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」(マルコ11:15-17)

・神殿の崩壊:西暦70年、ローマ軍はエルサレムに侵攻し、神殿を完全に破壊したのです。

(メッセージの要旨)

*エジプトの圧政から逃れるためにイスラエルの民を導いた預言者モーセは「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏(おそ)るべき神、人を偏(かたよ)り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる」と言っています(申命記10:17-18)。律法に精通し、遵守(じゅんしゅ)しているように見える律法学者たちが貧しいやもめたちを食い物にしているのです。マタイ23章は彼らの偽善を詳細に記述しています。イエス様は指導者たちに天罰を宣告されたのです。一方「この貧しいやもめは、献金箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」と言われたのです。多くの人は出来事を「信仰のあり方」への言及として理解しているのです。律法主義者たちの強欲に憤(いきどお)ることはないのです。生活費のすべてを捧げたやもめの行く末に心を砕(くだ)くこともないのです。イエス様が神殿政治の腐敗を告発し、社会の底辺で苦しんでいる人々と共に歩んでおられるのです。ところが、弟子たちの視線は神殿の壮大さに向けられているのです。内包する様々な矛盾に関心を寄せることはないのです。キリスト信仰の真髄(しんずい)は正義、慈悲、誠実を実行することにあるのです。キリストの信徒たちの使命は「声なき民」の声を代弁することなのです。いつの時代においても「神様の御心」を軽んじる神殿や教会はいずれ崩壊するのです。

*旧約聖書は搾取(さくしゅ)され、貧しさに喘(あえ)ぎ、公の援助に依存する寡婦の実態を伝えています。神様は「寄留者を虐待(ぎゃくたい)したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなた(がた)が彼(ら)を苦しめ、彼(ら)がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる」と言われたのです(出エジプト記22:20-23)。さらに「支配者らは無慈悲で、盗人(たち)の仲間となり/皆、賄賂(わいろ)を喜び、贈り物を強要する。孤児(たち)の権利は守られず/やもめ(たち)の訴えは取り上げられない」(イザヤ書1:23)、「・・他国人は虐げられ、孤児や寡婦は・・苦しめられている。・・おまえ(たち)の中には賄賂を取って流血の罪を犯す者、利息を天引きして金を貸したり、高利を取って隣人を抑圧する者がいる」(エゼキエル書22:7-12)と記されています。いずれも権力者たちや金持ちたちへの警告なのです、新約聖書においても「自分は信心深い者だと思っても・・(信仰心がないのにあるかのように)自分の心を欺(あざむ)くならば、そのような人の信心は無意味です。みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です」とあるように「信仰の本質」が明確にされているのです(ヤコブ書1:26-27)。


*イエス様はやもめの家を食い物にする律法学者たちを非難し、貧しいやもめの献金に焦点を当て、エルサレム神殿の崩壊を再び予告されたのです。中心テーマはやもめの信仰心の篤さではなく神殿政治の在り方なのです。指導者たちの不信仰と腐敗が問題になっているのです。大勢の金持ちがたくさんの献金を捧げていました。一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れたのです。イエス様は弟子たちの前でやもめの信仰心を高く評価されたのです。やもめが貧しくなった原因は律法学者たちの強欲にあるのです。彼女の家を食い物にしているのです。律法に関する豊富な知識や知恵をやもめのために使うのではなく、悪用して彼女の財産を奪い取っているのです。彼らの心は不信仰と放縦に満ちているのです。「神様の御名」によってやもめの生活が成り立たないような献金を要求するのです。イエス様はやもめの献金額を明らかにして、現状の献金制度を批判されたのです。神殿政治を担う人々が献金によって富を蓄積し、やもめのような貧しい人々は献金によって最低限の生活さえ維持出来なくなるのです。律法学者たちは貧しい人々の重荷を軽くするために指一本動かさないのです。彼らは貧しい人々に「神様の祝福」(永遠の命)から除外されないための要件として神殿への献金の必要性を教えているのです。指導者たちの罪は真に大きいのです。イエス様は彼らの偽善を断じて許されないのです。ご自身が再び来られる時にはやもめに代表される貧しい人々を苦しめた指導者たちと強盗の巣と化した神殿を罰せられるのです。


*キリスト信仰を理解する上でイエス様の時代のエルサレム神殿の性格を知っておくことはとても重要です。エルサレム神殿は神様が臨在される神聖な場所です。異邦人も含めて多くの人がこのような観点からエルサレム神殿を見ているのです。ところが、神殿はそれ以上の機能を果たしているのです。イスラエルの政治・経済・社会を統括する国家機関なのです。大祭司によって最高法院が招集され、国の命運を左右する意思決定が行われているのです。法廷が開かれるのもエルサレム神殿なのです。ローマ帝国の利益のために自国の民を犠牲にするという苦渋の決断はエルサレム神殿においてなされたのです。イスラエルの経済をコントロールするセンターです。今日の中央銀行の役割を果たし、蓄積された莫大な富を保管する金庫なのです。しかし、指導者たちによる神殿政治は「神様の御心」から遠く離れているのです。イエス様は強盗の巣と化したエルサレム神殿を「祈りの家」に戻すために実力行使をされたのです。ご自身を通して「神の国」-神様の支配-が目に見える形で到来していることを群衆の前で公然と宣言されたのです。イエス様の神殿批判が指導者たちの霊的欠如、神殿の商業化に対する神殿潔めとして説明されることがあります。こうした信仰理解は「神の国」への誤解から生じているのです。「救い」は罪の問題に留まらないのです。人間の「全的な救い」として具体化するのです。「神の国」の到来が受け継がれて来た神殿政治の終焉(しゅうえん)を告げているのです。イエス様は教会も役員制度も設けられなかったことを心に留めるのです。

*対照的な二人の姿が描かれています。一方は「神の国」を軽んじるのです。他方は貧しくても「神の国」を第一に求めて生きているのです。律法学者たち(ファリサイ派の人々)は権力や社会的地位、富をこよなく愛しているのです。見せかけの信仰心で人々をだまし、豊富な知識を用いてやもめのような貧しい人から財産をかすめ取っているのです。献金をしなければ「神様の恵み」(永遠の命)に与れないなどと脅(おど)しているのです。果たして、貧しいやもめは指導者たちの教えを守り、生活費のすべてを捧げているのです。孤児や寄留の民と共に、寡婦は社会の中で最も援助を必要とする人々です。これらの人の窮状に対応するために、モーセの律法は様々な条項を定めています。例えば「三年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、あなた(がた)のうちに嗣業の割り当てのないレビ人(たち)や、町の中にいる寄留者(たち)、孤児(たち)、寡婦(たち)がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。・・あなた(がた)の神、主はあなた(がた)を祝福するであろう」と記述されています(申命記14:28-29)。律法学者たちは律法の規定を知っているのです。その上で寡婦たちを食い物にしているのです。「神様の名」によって略奪が行われているのです。断じて許されないのです。利益を得ている人々は厳しく罰せられるのです。やもめの信仰心の篤さに注目されがちですが、神殿政治を担う指導者たちの偽善と不正が批判されているのです。キリストの信徒たちの「視点」が問われているのです。

2025年11月16日