「受胎告知とマリアの賛歌」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書1章26節から38節及び46節から56節

(エリザベトが身ごもって)六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。・・・

(エリザベトが聖霊様に満たされて「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言うと)・・マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者(たち)に及びます。主はその腕で力を振るい、/思い上がる者(たち)を打ち散らし、権力ある者(たち)をその座から引き降ろし、/身分の低い者(たち)を高く上げ、飢えた人(たち)を(様々な)良い物で満たし、/富める者(たち)を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。


(注)


・天使ガブリエル:ダニエル書8:16,9:21にも登場しています。

・ナザレ:サマリアの北に位置するガリラヤの小さな村です。周辺地域から孤立しており要衝の地でもありませんでした。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言われていたのです(ヨハネ1:46)。聖書地図をご覧下さい。


・イエス様の系図:ルカ3:23-38、マタイ1:1-17に記載されています。


・神にできないことは何一つない:

■主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」(創世記18:13-14)イエス様は同様の言葉で語っておられます。マタイ19:26、マルコ14:36を参照して下さい。

・マリアの賛歌:サムエルの誕生に伴うエルカナの妻ハンナの賛歌(サムエル記上2:1-10)を併せてお読み下さい。

・神様とアブラハムの契約:「これがあなたと結ぶわたしの契約である。・・わたしは、あなたをますます反映させ、諸国民の父とする。・・」(創世記17:4-6)。


・神様によるダビデへの約束:「わたしは、・・あなたを・・わたしの民イスラエルの指導者にした。・・敵をわたしがすべて退けて、あなたに安らぎを与える。・・わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。・・」(サムエル記下7:8-16)。


・一リトラ:約326(あるいはおよそ340)グラムです。


・三百デナリオン:一デナリオンは当時の平均的労働者の一日分の賃金に相当します。一日5千円で計算すると150万円になります。高額です。

(メッセージの要旨)

*マリアは思春期を少し過ぎた頃と推測されています。ヨセフと婚約していました。一緒に住んでいないというだけで、両者は結婚と同じ義務を負っているのです。洗礼者ヨハネの母エリザベトとは親類です。すでに、天使ガブリエルは祭司の夫ザカリアに「不妊の妻エリザベトが子を宿すこと」を告げているのです。マリアはザカリアと同じように「どうして、そのようなことがあり得ましょうか・・」と天使の言葉に疑問を投げかけたのです。ところが、天使は「神にできないことは何一つない」と説明したのです。マリアはそれ以上反論することもなく「お言葉通り、この身に成りますように」と申し出たのです。マリアは真に信仰篤い女性でした。イエス様の誕生物語に言及する時、多くの場合この点が強調されて終わるのです。ところが、マリアの信仰告白はさらに続くのです。聖霊様に導かれて「マリアの賛歌」として有名な一連の言葉で主を讃えるのです。イエス様の誕生の意味が先取りされ、具体的に表現されているのです。身分の低い主のはしため(下女)にも目を留めてくださったこと、主の憐れみは代々限りなく、主を畏れる者たちに及ぶことを確信したからです。当時の社会には極めて裕福な人々と日々の生活を維持するのにさえ困難な人々がいたのです。神様はこうした現状を容認されないのです。ご自身の思いに反していることをマリアの言葉によって明確にされたのです。福音(良い知らせ)は貧しい人々や虐げられた人々に優先的に届けられるのです。クリスマスにはイエス様の誕生をお喜びすると共に「マリアの賛歌」を心に刻むのです。


*マリアは「救い主」の誕生に関わる重要人物です。ところが、それ以外にマリアの名前はほとんど見当たらないのです。福音書ではヨハネが「イエスの母」、マルコが「母マリア」と記述しています。使徒言行録に「イエスの母マリア」と一度だけ出ています(1:14)。マリアの祖先の詳細は不明です。洗礼者ヨハネの母エリザベトと親戚関係にあり、レビ族に属していたことが分かっています。イエス様の誕生において、マリアが聖霊様によって身ごもることやマリアの純粋な信仰に関心が集まるのです。キリスト信仰の真髄は「マリアの賛歌」にあるのです。マリアは天使ガブリエルから聞いた「救い主誕生」の告知をイスラエルに対する神様の憐れみ、祖先への約束の成就として理解したのです。「救い主誕生」はイスラエルの歴史の延長線上に起こった出来事なのです。マリアは神様が下女に目を留めて下さったことに感謝しているのです。「マリアの賛歌」は士師サムエルの母ハンナの祈りに似ています。長い間子供が授からなかったハンナは「わたしはこの子を授かるように祈り、主はわたしが願ったことをかなえて下さいました」と言って、神様を讃えているのです。出来事は身分の低い人々や虐げられている人々への希望の光となったのです。「救い主」は名もない、貧しい女性から誕生されたのです。この事実に注目するのです。神様はマリアによってご自身がどのようなお方であるかを明らかにされたのです。「救い」の意味を具体化されたのです。イエス様は「神様の御心」を実現するためにこの世に遣わされたのです。御業が証明しているのです。


*神様は不妊のエリザベトにヨハネ、マリアにイエス様を授けられたのです。ザカリアとマリアはヨハネとイエス様の将来について預言しています。洗礼者ヨハネはイエス様の先駆けとして道を整え、イエス様は「神の国」(天の国)-神様の支配-の宣教に生涯を捧げられたのです。神様はご自身の計画(新しい天地創造)に着手されたのです。「救い主」は貧しいヨセフとマリアの家庭に誕生されたのです。神様はへりくだった人々、貧しい人々や虐げられた人々を心にかけて下さるのです。「救いの御業」はイエス様の誕生から始まり、苦難の宣教活動と十字架刑、復活を経て再臨によって完成するのです。イエス様が誕生の瞬間から「十字架の死」を目指して歩まれたというような信仰理解は避けなければなりません。聖霊様はイエス様の誕生に関わるすべてのことを準備されたのです。「マリアの賛歌」は伝統的に「マグニフィカ―ト」と呼ばれています。キリスト信仰において「マリアの賛歌」が取り上げられることは極めて少ないのです。しかし,そこには「神の国」の本質が表現されているのです。マリアが語った内容は神様の勝利を祝う旧約聖書の詩篇のモチーフから引用されているのです。「その御名は尊く・・」はユダヤ人の賛美の歌なのです(詩篇111:9)。「主はその腕で力を振るい・・」は詩篇89:11を彷彿とさせるのです。「わたしたちの先祖におっしゃったとおり・・」は神様とアブラハムとの契約を想起させるのです。神様にダビデへの約束の成就を感謝する言葉です。「マリアの賛歌」はイエス様の宣教の視点そのものなのです。

*イスラエルにおける金持ちは人口の5パーセント以下でした。ローマ帝国の官僚たち、特権階級としての祭司たち、一握りの大土地所有者たち、そして財を成した徴税人たちでした。残りの人々は貧しく、その多くは極貧の状態にありました。ユダヤ教の文献には地方を徘徊しているホームレスの貧しい人々の集団が教会から給付されるわずかなお金を奪い合う様子が記録されています。福音書にも様々な形で貧しい人々の様子が描かれています。労働者の群れが広場に集まり、支払われる賃金の額を雇い主に尋ねることもなく、必死でその日の仕事を求めているのです。雇い主は労働者たちの間に分裂をもたらして搾取するのです(マタイ20:1-16)。ラザロというできものだらけの貧しい人が門前に横たわり、金持ちの食卓から落ちる物で空腹を満たしたいものだと思っていました。汚れた動物とされている犬もやって来てそのできものをなめたのです。この人にはもう犬を追い払う力がなかったのです(ルカ16:19-21)。イエス様の足に塗るために純粋で非常に高価なナルドの香油1リトラが使われたのです。イエス様を裏切ったイスカリオテのユダは「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って貧しい人々に鉾さなかったのか」言って、非難したのです(ヨハネ12:4-5)。ユダは貧しい人々を心にかけていなかったのですが、人々の生活状況を知ることは出来るのです。貧しい人々や虐げられた人々は「救い主」が来られることを待望していたのです。イエス様は「神の国」の福音を告げ、悔い改めた人々に「永遠の命」を与えられるのです。

*マリアは様々な困難(迫害)を恐れずに、天使ガブリエルの言葉を信じて「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と言ったのです。胎内の子(メシア)が後に「飢えた人(人々)を良い物で満たして下さることを確信したのです。神様がイエス様によって「新しい天地創造」に着手されたことを高らかに宣言したのです。イエス様の誕生の意味が「罪からの救い」に限定されているのです。キリスト信仰の本質が誤解されているのです。イスラエルの民は「エジプトの圧政」や「バビロン捕囚」に代表されるような他国の支配の下で苦しんだのです。イエス様の時代も人々はローマ帝国の圧政の下で喘(あえ)いでいるのです。「マリアの賛歌」は神様がこの世に直接介入されたことを讃えているのです。マリアとヨセフはイエス様を主に献上する儀式において、通常の羊ではなく最低限必要な山鳩一つがい(家鳩の雛二羽)を捧げているのです(ルカ2:22-24)。二人が貧しかったことを証明しているのです。イエス様は人々が貧困に苦しんでいる姿に心を痛められたのです。一方、「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今、飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる」と言われたのです(ルカ6:20-21)。マリアは聖霊様に初めから終わりまで導かれたのです。「マリアの賛歌」は年齢の若さや経験のなさを超えた「神様の啓示」です。イエス様が生と死と復活を通して証しされた「神の国」の福音の予告なのです。キリストの信徒たちは「神様の御業」に感謝するのです。

2024年12月08日