「偽善者たちの悪業」

The Order of Worship
   am. 10:30~ 09/06/2026

前奏 (Prelude)

讃美歌531番

1.こころの緒琴に  み歌のかよえば、
  しらべに合せて  いざほめ歌わん。

 (おりかえし)
  あぁ平和よ、   くしき平和よ、
  み神のたまえる  くしき平和よ。

2.天よりくだれる  きよけき平和は
  まどえる心の   固きいしずえ。

3.主イェスを君とし かしこみ仰げば、
  こころに溢るる  天つみめぐみ。

4.みそばにはべれば 平和は絶えせず、
  なみかぜさわがじ こころの海に。

BRIEF ORDER FOR CONFESSION AND FORGIVENESS


(P) In the name of the Father, and of the + Son, and of the Holy Spirit.

(c) Amen

(P) God, whose love is everlasting, welcomes sinners to the table of mercy.
Let us confess our sin, confident in God’s forgiveness.

Silence for reflection and self-examination.

(P) Gracious God,

(C) Have mercy on us.
In your gracious compassion forgive us our sins, both known and unknown, things done and left undone.
Uphold us by your Spirit so that we may serve you in newness of life, to the honor and glory of your holy name, through Jesus Christ our Lord. Amen.

(P) Since we are justified by God’s grace through faith,
We have peace with God through our Lord Jesus Christ.
Almighty God has mercy on you, forgives you all your sins,
And bring you to life everlasting.      Amen

Prayer of the Day(今日の祈り)

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書7章1節から23節

ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人(長老たち)の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』

あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分(たち)の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」

それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」<底本に節が欠けている個所の異本による訳文> 聞く耳のある者は聞きなさい。イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、 姦淫(かんいん)、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢(ごうまん)、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

(注)


・ファリサイ派の人々:律法を厳格に遵守するユダヤ教の一派です。学識の豊富さから民衆に尊敬されていました。イエス様と対立した律法学者の多くはファイサイ派に属しています。サウロ(パウロ)は誰よりも熱心なファリサイ派でした。


・律法学者たち:文書を記録する官僚であり、同時に学識を有する学者です。ファイサイ派によるモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)(トーラ)の解釈を支持していました。多くはイエス様に批判的でした。ただ、「先生,あなたがおいでになる所ならどこへでも従って参ります」と言った律法学者もいたのです(マタイ8:19)。

・言い伝え:長老たちが口述した慣習のことです。ファリサイ派の人々は、口述であっても律法と同じように日常生活に厳格に適用したのです。

・この民は口先ではわたしを敬うが、・・・:

●イザヤ書29:13からの引用です。イザヤは南王国ユダ(エルサレム)の王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に預言者として登場しました(イザヤ書1:1)。

■むなしい捧げものを持ってくるな。・・お前(あなた)たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆(おお)う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ善を行うことを学び/裁き(正義)をどこまでも実行して/搾取する者を懲(こ)らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護せよ。(イザヤ書1:10-17)


■わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛(そくばく)を断ち、軛(くびき)の結び目をほどいて/虐(しいた)げられた人(人々)を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢(う)えた人(人々)にあなた(たち)のパンを裂(さ)き与え/さまよう貧しい人(人々)を家に招き入れ/裸の人(人々)に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなた(たち)の光は曙(あけぼの)のように射(さ)し出(い)で/あなた(たち)の傷は速やかにいやされる。あなた(たち)の正義があなた(たち)を先導し/主の栄光があなた(たち)のしんがりを守る。(イザヤ書58:6-8)

・神の掟(おきて):神様の戒め、律法のことです。

・父と母を敬え:十戒における第五番目の戒めです(出エジプト記20:12)。「父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである」は出エジプト記21:17からの引用です。

・みだらな行いと姦淫の違い:一般的に前者が結婚前、後者が結婚後のことを表しています。

・指導者たちの腐敗と天罰:

■わたしは失われたもの(たち)を尋ね求め、追われたもの(たち)を連れ戻し、傷ついたもの(たち)を包み、弱ったもの(たち)を強くする。しかし、肥えたもの(たち)と強いもの(たち)を滅ぼす。わたしは公平(正義)をもって彼らを養う。お前たち(あなたがた)、わたしの群れよ。主なる神はこう言われる。わたしは羊(たち)と羊(たち)、雄羊(たち)と雄山羊(山羊たち)との間を裁く。お前たち(あなたがた)は良い牧草地で養われていながら、牧草の残りを足で踏み荒らし、自分たちは澄んだ水を飲みながら、残りを足でかき回すことは、小さいことだろうか。わたしの群れは、お前たち(あなたがた)が足で踏み荒らした草を食べ、足でかき回した水を飲んでいる。それゆえ、主なる神は彼らにこう言われる。わたし自身が、肥えた羊(たち)とやせた羊(たち)の間を裁く。お前たち(あなたがた)は、脇腹と肩ですべての弱いものを押しのけ、角で突き飛ばし、ついには外へ追いやった。しかし、わたしはわが群れを救い、二度と略奪にさらされないようにする。そして、羊(たち)と羊(たち)との間を裁く。(エゼキエル書34:16-22)。

●群れには多様な動物がいるのです。

●それぞれの「行動」が裁きの判断基準になっているのです。


■ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ(に災いあれ)。あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。また、『祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。ものの見えない者たち、供え物と、供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか。祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ。天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。(マタイ23:16-22)

*ヒットラーの演説:

The national government will maintain and defend the foundations on which the power of our nation rests. It will offer strong protection to Christianity as the very basis of our collective morality. Today Christians stand at the head of our country. We want to fill our culture again with the Christian spirit. We want to burn out all the recent immoral developments in literature, in the theater, and in the press-in short, we want to burn out the poison of immorality which has entered into our whole life and culture as a result of liberal excess during recent years. ( ヒットラー演説集I「私の新しい秩序」の英訳版(1941年)871-872)

政府は我が国の力の原点を大切にし、その保持に努めます。そして、我々の道徳性の土台であるキリスト教の普及に全力を注ぎます。今日、クリスチャンたちが先頭に立って我が国を導いています。我々の文化をキリスト教の精神で再び満たしたいのです。近年見られる文学や演劇、さらに報道機関における倫理性の欠如という風潮を終わらせたいのです。要するに、ここ数年の行き過ぎた自由の結果として健全な生活と文化に入り込んだ不道徳という害毒を根絶したいのです。(私訳)

(メッセージの要旨)

*ファリサイ派の人々や律法学者たちがイエス様に「なぜ、あなたの弟子たちは・・汚れた手で食事をするのですか」と尋ねたのです。これは衛生上の問題を取り上げているのではないのです。弟子たちが通りで異邦人たちと偶然に接触したことなどを清めないことに対する宗教的批判なのです。イエス様はこれを人間の言い伝えに過ぎないとして反論されたのです。手を洗うことに信仰的意義はないのです。指導者と呼ばれる人々は人間の言い伝えを厳格に遵守(じゅんしゅ)しているのです。ところが、神様の戒めを軽んじているのです。両親のために蓄えたお金であっても神殿に献金すると言えば両親への義務は免除されるのです。神殿収入を増やす(彼らの私腹を肥やす)ために人々の信仰心を利用しているのです。神様はその人の心をご覧になられるのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちは信仰心が篤いように装(よそお)っているのです。神様を欺(あざむ)いているのです。「むなしくわたしを崇めている」と言われたのです。イエス様も「あなたたち偽善者は不幸だ(に災いあれ)。盃や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。・・まず、盃の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる」と言って非難されたのです(マタイ23:25-26)。人の汚れは悪い思いから生じるのです。宗教的儀式のみによって清められるのではないのです。真摯(しんし)な悔い改めが不可欠なのです。民衆を心身共に抑圧する指導者たちの不信仰と偽善に天罰が下されるのです。イエス様は弟子たちにも警告されたのです。

*神殿政治の中枢を担うファリサイ派の人々や律法学者たちはユダヤ教の教義に精通しているのです。これらの人がイエス様の権威を貶(おとし)め、告発するためにエルサレムの本部から派遣されたのです。その機会が早速訪れたのです。弟子たちの中に洗わない手で食事をする者がいたのです。そこで師であるイエス様を非難したのです。ユダヤ教の戒めは大きく二つに分けられるのです。一つは旧約聖書に書かれているモーセの律法です。もう一つはモーセに始まり、祭司アロンと彼の息子たち、長老たち、民族の指導者ヨシュア、預言者たちに連綿と受け継がれている言い伝えです。律法には手を洗うことに関する規定が明記されていないのです。彼らは口述の慣習に照らして弟子たちの違反を問題にしたのです。イエス様は手洗いの必要性を否定されていないのです。それには衛生上の効力があるからです。一方、指導者たちは「神様の御名」を自分の強欲のために用いているのです。イエス様はこれらの人を偽善者と呼ばれたのです。山上の説教において「・・人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。・・偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑(くず)を取り除くことができる」と言われたのです(マタイ7:1-5)。罪を犯さない人は誰もいないのです。神様の前に誇れる人などいないのです。指導者たちは様々な罪を隠しているのです。偽りの信仰心を自負しているのです。他の人の罪を赦さないのです。神様はすべてをご存じです。正しい裁きを行われるのです。

*イエス様はファリサイ派の人々や律法学者たちが犯している様々な罪の中から例を挙げられました。神様はエジプトの圧政からイスラエルの民を解放されたのです。モーセによって基本となる戒め(十戒)を与えられたのです。その中に「父と母を敬え」があるのです。律法には「父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである」という規定を設けられたのです。神様に捧げ物をする場合の手続きも詳述されているのです(レビ記27:2-33)。彼らはモーセを偉大な指導者として認めているのです。十戒や律法を厳格に守って「救い」に与(あずか)ろうとしているのです。一方、「神様の戒め」に細々(こまごま)とした規定を付け加えているのです。人々にそれらを順守するように強いているのです。ところが、言うだけで実行しないのです。指導者としての地位を強固にし、既得権益を享受(きょうじゅ)するために「神様の戒め」を悪用しているのです。神様を確信的に侮(あなど)っているのです。牛や羊などを「コルバン」として宣言すれば神様への献(ささ)げ物になるのです(レビ記1:2)。しかし、実際は生贄(いけにえ)として献げられていないのです。相変わらず家畜として私的に使用されているのです。献げた人から両親の世話をする義務まで免除されているのです。「神様の戒め」を恣意的(しいてき)に変更するのです。神様の前で公然と大罪を犯しているのです。イエス様は指導者たちの不遜(ふそん)と不信仰を白日の下に晒(さら)されたのです。信仰の信ぴょう性は言葉ではなく「行い」によって明らかになるのです。

*ファリサイ派の人々や律法学者たちは昔から受け継がれてきた慣習を固く守っているのです。念入りに手から肘(ひじ)までを洗ってからでないと食事をしないのです。市場から帰った時も異邦人(罪人)と接触した可能性があることを恐れて、身を清めてからでないと食事をしなかったのです。杯、鉢、銅の器や寝台も丁寧(ていねい)に洗ったのです。彼らは外側をきれいにしているのです。一方、十戒や律法に関する豊富な知識や社会的地位を用いて悪事を働いているのです。やもめ-寡婦(かふ)-たちを食い物にしているのです(マルコ12:40)。ユダヤ人歴史家ヨセフスが伝えています。指導者たちは人々の義務となっている献げ物(献金)などから得た収入によって莫大な資産を築いているのです(ヨセフスの生涯63)。そのお金の中から律法の規定(十分の一)を超える多額の献金を行っているのです。信仰心を見せびらかすためなのです。最も大切な戒め-正義、慈悲、誠実-をおろそかにしているのです(ルカ11:42)。イエス様は「あなたたち偽善者は不幸だ(に災いあれ)。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている」と言われたのです(マタイ23:27)。指導者たちの心が偽善と不法に支配されているのです。神様を冒涜(ぼうとく)しているのです。天罰を宣告されたのです。人間の心から出て来る様々な悪い思いが個人の道徳的、倫理的な罪に留まっていないのです。社会の制度や組織を腐敗させている大きな要因となっているのです。これらの点に注目するのです。

*キリスト信仰において寛容と無批判が混同されているのです。両者は全く異なっているのです。厳密に使い分けるべきです。ユダヤ人の大虐殺で悪名高いヒットラーは演説の中でキリスト教を擁護しています。クリスチャンを味方につけるためでした。天才的な雄弁が功を奏し、世界的な不況に喘(あえ)ぐドイツ人の多くが立派な指導者の登場に歓喜したのです。ところが、後のヒットラーの行動はそれが単なるリップサービスあったことを証明するのです。言葉だけでその人を判断してはならないのです。正しさはその人の行いが「神様の御心」に適っているかどうかによって明らかになるのです。イエス様は「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。・・」と断言されたのです(ルカ6:43-44)。ファリサイ派の人々や律法学者たちの信仰心の篤(あつ)さやヒットラーの護教精神は偽善なのです。いつの時代においても指導者たちの信仰心や政治信条は巧妙に脚色されているのです。本当の姿が隠されて見えにくいのです。言説や行動を絶えず検証して実像に迫るのです。十戒や律法を都合に合わせて解釈しているのはファリサイ派の人々や律法学者たちだけではないのです。似たようなことが現在においても行われているのです。信仰の指導者たちが時の権力者と癒着(ゆちゃく)しているのです。キリスト信仰を歪(ゆが)めているのです。政治的指導者が教派の力を借りているのです。他国の侵略と殺戮(さつりく)を正当化しているのです。これらの人は厳しく罰せられるのです。

讃美歌532番

1
ひとたびは死にし身も
主によりて いま生きぬ。
みさかえの かがやきに
つみの雲 きえにけり。

(おりかえし)
ひるとなく、よるとなく、
主の愛に まもられて。
いつか主にむすばれつ、
世にはなき まじわりよ。

2
主のうけぬこころみも、
主の知らぬ かなしみも
うつし世に あらじかし、
いずこにも みあと見ゆ。
(おりかえし)

3
ひるとなく、よるとなく、
主はともに ましませば、
いやされぬ やまいなく、
さちならぬ 禍(まが)もなし。
(おりかえし)


MEAL

PEACE

(P) The Peace of the Lord be with you always.

(C) And also with you.

SHARING OF THE PEACE(平和のあいさつ)

 

聖餐式(HOLY COMMUNION)
   
(P) The Lord be with you. 
(C) And also with you.
(P)  Lift up your hearts.
(C) We lift them to the Lord.
(P) Let us give thanks to the Lord our God.
(C) It is right to give our thanks and praise.
(P) It is indeed right and salutary that we should at all times and in all places offer thanks…….(Here the minister continues with the proper preface, concluding: ) we praise your name and join their unending hymn: 

WORDS OF INSTITUTION

In the night in which he was betrayed, our Lord Jesus took bread, and gave thanks; broke it, and gave it to his disciples, saying:
Take and eat; this is my body, given for you.
Do this for the remembrance of me.

Again, after supper, he took the cup, gave thanks, and gave it for all to drink, saying:
This cup is the new covenant in my blood, shed for you and for all people for the forgiveness of sin.
Do this for the remembrance of me.

(制定の言葉)           


わたしがあなたがたに伝えたことは、私自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りを捧げてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は,わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの 記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。(コリントの信徒への第一の手紙11:23-26)

LORD’S PRAYER

Our Father, who art in heaven,
hallowed be thy name,
thy kingdom come,
thy will be done,
on earth as it is in heaven.
Give us this day our daily bread;
and forgive us our trespasses,
as we forgive those who trespass against us;
and lead us not into temptation,
but deliver us from evil.
For thine is the kingdom, and the power, and the glory,
forever and ever. Amen

主の祈り
  

天にまします我らの父よ
願わくはみ名を崇めさせたまえ
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日もあたえたまえ
我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく
我らの罪をも赦したまえ
我らをこころみに遭わせず、
悪より救い出したまえ
国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり アーメン                     

 

(Communion)

The sacrament of Holy Communion is a Means of Grace from God to his people through which the crucified and risen Christ is present and active to forgive, to save, to unite, to give life, to comfort, and to strengthen for the work to which He calls his people in all the world. All baptized and believing Christians are welcome to share in the Lord’s table. Children who have not received their first communion are welcome to come for a blessing.

聖歌(CANTICLE)

A post-communion canticle or an appropriate hymn or song may be sung.

[Jesus Remember Me]

Jesus remember me,
when you come into your Kingdom.

Jesus remember me,
when you come into your Kingdom.

祈り(PRAYER)
   
(P) God our creator, at this table you have satisfied us with the good things of your grace. Fix our hearts on your mercy and truth, that our lives may reflect your love for all creation; through Jesus Christ our Lord.

(C) Amen

祝祷 (Benediction)
   
The Grace of the Lord Jesus Christ, the love of God, and the communion of the Holy Spirit be with all of you.

(P) Go in peace. Serve the Lord.

(C) Thanks be to God.

祝祷 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊(せいれい)の交わりが, あなたがた一同と共にあるように。(コリントの信徒への第二の手紙13:13)

後奏 (Postlude) 

「Here I am」

I, the Lord of sea and sky,
I have heard My people cry.
All who dwell in dark and sin,
My hand will save.
I who made the stars of night,
I will make their darkness bright.
Who will bear My light to them?
Whom shall I send?
Here I am Lord, Is it I, Lord?
I have heard You calling in the night.
I will go Lord, if You lead me.
I will hold Your people in my heart.

I, the Lord of snow and rain,
I have borne my people’s pain.
I have wept for love of them,
They turn away.
I will break their hearts of stone,
Give them hearts for love alone.
I will speak My word to them
Whom shall I send?
Here I am Lord, Is it I, Lord?
I have heard You calling in the night.
I will go Lord, if You lead me.
I will hold Your people in my heart.

I, the Lord of wind and flame
I will tend the poor and lame.
I will set a feast for them,
My hand will save
Finest bread I will provide,
Till their hearts be satisfied.
I will give My life to them,
Whom shall I send?
Here I am Lord, Is it I, Lord?
I have heard You calling in the night.
I will go Lord, if You lead me.
I will hold Your people in my heart.

(いずれの曲もインターネットで題名を入力すれば簡単に聴くことが出来ます)

2026年09月06日