「光のあるうちに歩きなさい」
Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書12章20節から43節
さて、祭り(過越際)のとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え(いなさい)。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した(過去)。再び栄光を現そう(現在)。」そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者(サタン₋=権力者たち)が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。
このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせ(神様からのメッセージ)を信じましたか。主の御腕(主の御業)は、だれに示されましたか」(イザヤ書53:1)。彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟(さと)らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない」(イザヤ書6:10)。イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである(イザヤ書6:1-4)。とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉(ほま)れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。
(注)
・ギリシヤ人:異邦人を総称する言葉です。将来の異邦人宣教を象徴しています。
・フィリポとアンデレ:12使徒に選ばれています。
・人の子:
この呼称には三つの意味があります。第一は預言者です(エゼキエル書2:1-3)。第二は天の雲に乗って現れる終わりの時の審判者です(ダニエル書7:13-14)。他に「わたしとわたしの言葉を恥じる者(たち)は、人の子も自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときにその者(たち)を恥じる」があります(ルカ9:26)。イエス様はご自身が審判者であることを明らかにされたのです。第三はこの世の人間を表しているのです(ルカ9:58)。
・人の子が栄光を受ける時:イエス様の死と復活と昇天が起こること、神様の名が讃えられることを表しています。
・心が騒ぐ:「ゲツセマネの祈り」にも表しておられます。
■そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ14:33-36)
・メシア:「油注がれた者」という意味です。選ばれた王や祭司です。以下は一例です。
■(あなた(神様)は言いました。)「わたしが選んだ者とわたしは契約を結び/わたしの僕ダビデに誓った あなたの子孫をとこしえに立て/あなたの王座を代々に備える、と。」(詩編89:4-5)
・天からの声:他にも記述があります。
■そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適(かな)う者」という声が、天から聞こえた。(マルコ1:9-11)
■ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆(おお)った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。(ルカ9:34-36)
光:ご自身に関する定義の一つです。
■イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ8:12)
・預言者イザヤ:当時イスラエルは南北に分裂していました。北王国は「イスラエル」、南王国は「ユダ」と呼ばれていました。イザヤの宣教はユダ王国を中心に行われました。ウジヤ王の死(紀元前738年頃)と共に始まり、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ王の治世にも及びました。
終末のしるし:
■イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」(マタイ24:3-14)
・キング牧師:アメリカの公民権運動の指導者の一人です。黒人の差別撤廃に短い生涯を捧げたのです。たくさんの名言を残しています。以下はその一例です。
The ultimate tragedy is not the oppression and cruelty by the bad people
but the silence over that by the good people.
「悪人たちの抑圧と残虐行為は悲劇です。しかし、究極の悲劇は善人たちがそのことに沈黙していることです。」(私訳)
(メッセージの要旨)
*イエス様はエルサレム入城後、ご自身の使命を実力行使によって遂行されたのです。神殿の境内から礼拝に必要な生贄(いけにえ)の羊や牛をすべて追い出し、献金のために外国の通貨をシェケル銀貨に交換する両替人の金をまき散らし、鳩を売る者たちに「わたしの父の家を商売の家としてはなららない」と言われたのです。神殿政治の機能が一時的に停止したのです。祭司長、律法学者、長老たちがやって来て「何の権威でこのようなことをするのか。誰が、そうする権威を与えたのか」と詰問したのです。イエス様は「この神殿を壊して見よ。三日で建て直してみせる」と明言されたのです。彼らは建設するのに四十六年も費やしたエルサレム神殿を「三日で建てる」と言われたイエス様を非難したのです(ヨハネ2:13-22)。指導者たちは神殿の威光を貶(おとし)めるイエス様に激怒したのです。しかし、群衆はイエス様の教えや力ある業(癒しの業など)に共感していたのです。神様を畏(おそ)れる数人のギリシャ人がイエス様を訪ねたのです。ユダヤ教への改宗者ではないのです。ユダヤ教の教えや伝統に敬意を表する人々です。病気の奴隷(使用人)のために奔走(ほんそう)し、ユダヤ人たちのために会堂を建てたローマ軍の百卒長もそのような人たちの一人です(ルカ7:1-10)。イエス様は世の光です。暗闇を照らす真の光なのです。「神の国」の福音が着実に広がっているのです。ただ、多くのユダヤ人にはこの光が見えないのです。イエス様を殺すために陰謀が巡(めぐ)らされているのです。弟子たちに覚悟が求められているのです。
*イエス様の評判を聞いてギリシヤ人が数人訪ねて来ました。しかし、この時期に彼らと会うことは極めて危険でした。後に、パウロに起こった事件がそのことを証明しています。ディアスポラのユダヤ人たちが神殿の境内でパウロを見つけ「この男は、民と律法とこの場所に背くことを、至るところで誰にでも教えている。その上、ギリシヤ人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった」と告発したのです。群衆がパウロを境内から引きずり出したのです(使徒21:27-30)。これは誤解に基づく出来事だったのですが、異邦人との接触は敵対する人々に迫害する口実を与える機会となるのです。しかし、イエス様は「その時」が来たことを悟られたのです。弟子たちに繰り返し「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」と言われたのです(マタイ10:37-39)。かつて、イエス様は地中海沿岸の町に住む異邦人の女性に出会われました。この人は悪霊にひどく苦しめられている娘の癒しを申し出たのです。イエス様は「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と答えられたのです。ところがが、女性の立派な信仰心がイエス様のお心を動かすことになるのです(マタイ15:21-28)。今、ギリシャ人たちにも覚悟を求められたのです。
*「終末のしるし」が現れているのです。四福音書はイエス様が政治犯として処刑される前後の出来事を詳細に記述しています。それぞれの記者は事実を見て(あるいは聞いて)記事を書いたのです。イエス様は敢然と十字架に向かわれたというような信仰理解は避けなければならないのです。「父よ、わたしをこの時から救ってください」と言って、心を騒がせられたのです。イエス様はエルサレムへ入城される前に、ベタニヤで死後四日も経ったラザロを甦(よみがえ)らされたのです。出来事を目撃したユダヤ人の多くがイエス様を信じたのです。大祭司カイアファを中心とする指導者たちは自分たちの権威と地位が脅(おびや)かされていることを敏感に感じ取ったのです。最高法院(サンヘドリン)を招集してイエス様の抹殺を決議したのです。しかも、生き証人であるラザロも殺そうとしているのです(ヨハネ11:45-12:9-10)。神様はイエス様と共におられたのです。数々の力ある業がそのことを証明しているのです。ご自身の栄光をイエス様によって現わされたのです。伝統的なメシア思想に慣れ親しんでいる人々はイエス様に権力者である王の姿を重ね合わせたのです。民族の解放者としての圧倒的な力を期待しているのです。イエス様は彼らのメシア理解を根底から覆(くつがえ)されるのです。イザヤの預言にあるように「苦難の僕」として最後まで歩まれるのです。ご自身の死によって「救い」が訪れることを宣言されたのです。多くの人はイエス様に失望したのです。しかし、神様はこれらの人のために再び栄光を現わされるのです。
*律法によれば、石打の刑は「霊媒や口寄せをする者」(レビ記20:27)、「他の神々を礼拝する者」(申命記13:10)、「安息日を犯した者」(民数記15:35)、「神様を冒涜する者」(レビ記24:14)に適用されるのです。以前、イエス様はご自身を石打の刑で殺そうとする祭司長たちやファリサイ派の人々に「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか」と質問されたのです。彼らは「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒瀆したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ」と言って罪状を明らかにしたのです(ヨハネ10:31-33)。今回も、イエス様は「天に上げられる」という言葉で「神様の独り子であること」を鮮明にされたのです。十字架上の死を経て復活し、神様の下へ帰られることを予告されたのです。ユダヤ教のメシアから全人類に「永遠の命」を与える「救い主」になられるのです。一方、群衆は従来のメシア像に固執するのです。イエス様は「神様のお約束」を信じるように促(うなが)されたのです。ご自身を闇に輝く光に例えて「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。・・光のあるうちに歩きなさい」と命じられたのです。ユダヤ人たちにも決断を迫られたのです。イエス様は終わりの日が来る前にこの世に遣わされたのです。神様にとって1000年は一日に等しいのです。一人でも救おうと忍耐されているのです。終わりの日がいつかは誰にも分らないのです。しかし、確実に突然起こるのです。
*イエス様はご自身を主語として語られました。「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」(ヨハネ8:58)、「わたしは彼ら(ご自身を信じる人々)に永遠の命を与える」、あるいは「わたしと父(神様)とは一つである」と言われたのです(ヨハネ10:28-30)。ご自身を「安息日の主」(マタイ12:8)、エルサレム神殿を「わたしの家」と呼ばれたのです(マルコ11:17)。罪深い女性に「罪の赦し」を一方的に宣言されたのです(ルカ7:48)。イエス様の言動はユダヤ教の伝統と律法を順守する人々にとって「神様への冒涜」なのです。イエス様が「神の国」の宣教において死を覚悟されていたことは十分に推測されるのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちはローマ帝国への恭順と協力によって「信仰の自由」を確保したのです。一方、「神様の名」によって貧しい農民や労働者たちを搾取し、私腹を肥やしたのです。イエス様は指導者たちの偽善と腐敗を激しく非難されたのです。彼らは悔い改めることなく既得権益に執着したのです。「神の国」の福音を拒否したのです。イエス様を「石打の刑」ではなく、ローマ帝国への反逆者に適用される十字架刑で殺そうとするのです。当初、民衆の多くはイエス様を支持していました。指導者たちはローマ帝国の脅威を訴えて巧妙に分断するのです。正義が歪(ゆが)められているのです。いつの時代においても、キング牧師の言葉は真実なのです。キリスト信仰を標榜する人々がダブル・スタンダードに陥(おちい)っているのです。「神の国」と「この世」とは両立しないのです。