「選ばれる人は少ない」
Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書22章1節から15節
イエスは、また、たとえを用いて語られた。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。
そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。
(注)
・「天の国」(神の国):神様の主権、神様の支配のことです。死後に行く天国のことではありません。イエス様の「力ある業」よって福音(良い知らせ)が具体化されているのです。
・譬えられた人々:王は神様、家来たち(僕、奴隷)はイスラエルの預言者、招かれた人々は不信仰なユダヤ人、別の家来たちはクリスチャンの預言者あるいは使徒のことです。
・婚宴:将来の天における「救い」の祝賀会がイメージされています(マタイ8:11)。
・町の破壊:指導者たちの不信仰はローマ軍の司令官ティトス(後のローマ皇帝)によるエルサレム陥落を招くのです(西暦70年)。
・婚礼の礼服:イエス様が歩まれたように生きることです。自分を正しい者とし、信仰を自負することは最も大きな罪の一つです。
●イエス様は「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、 その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」と言われたのです(マタイ7:13-14)。
・預言者イザヤ:紀元前738年ごろに活動を始め、不信仰な王と偽預言者たちと闘ったのです。
■わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。(イザヤ書56:7)
・預言者エレミヤ:イザヤからおよそ100年後の紀元前609年ごろ、国を憂い破滅から救うために活動したのです。
■わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。(エレミヤ書7:11)
・サマリア人:紀元前721年アッシリアがサマリアを支配下に置きました。サマリアでは混血が進み、独自の信仰が形成されたのです。ユダヤ人たちはサマリ人たちを蔑み、交際を拒否したのです。
・異邦人:ユダヤ人以外の人々のことです。
・大通り:あらゆる国の人々が行き交っているのです。
・通りや小道:イスラエルの「外」を表しています。そこにいる人々は異邦人たち、あるいはサマリア人たちを指しています。申命記32:21を参照して下さい。
(メッセージの要旨)
*たとえ話はユダヤ教の指導者たちに向けられています。イエス様は彼らの不信仰を批判し、「悔い改め」を求められたのです。一方、彼らが罪人として社会から排斥した人々に福音を届けられたのです。ユダヤ人たちから蔑まれていたサマリア人たちや異邦人たち、善人たちだけでなく悪人たちにも伝えられたのです。福音の種はすべての人に蒔(ま)かれたのです。しかし、すべての人が「神の国」の到来を信じた訳ではないのです。悔い改めて新しい道を歩むこと-神様と隣人を愛して生きること-を決断しなかった人もいたのです。具体例が挙げられています。イエス様を信じていながら神様の栄光よりも人間の賞賛を選んだ議員たち(ヨハネ12:42-43)、自分の財産を貧しい人々に施すことが出来なかった金持ちの男(マルコ10:17-31)、返せない大きな額の借金を免除してもらっても、自分に少額の負債がある人に返済を迫る人がいるのです(マタイ18:21-35)。重い皮膚病を癒してもらった10人の内「救い」に与ったのはサマリア人一人だけだったのです(ルカ17:11-19)。婚宴の席に礼服を着ていない人がいたのです。事前に招待を受けた人々は用意することが出来るのです。しかし、大通りや小道で招待された人々には時間的ゆとりなどないのです。経済的余裕がある人もほとんどいないのです。悪人たちも招かれているのです。婚礼の礼服とは「悔い改め」、「罪人としての自覚」のことなのです。ユダヤ人や異邦人の区別なく、「神様の御心」に相応しい実を結ばない人々は「神の国」の福音に与れないのです。
*聖書は膨大な書物です。人によって読み方が異なるのは自然なことです。読書計画を立てて読まれる方がおられます。一方、特定の章を選んで、あるいは 小見出しを見て読まれる方も多いのです。婚宴のたとえ話が語られた背景、状況、聞き手は誰かなどを知っておくことは、内容を理解する上で助けとなるのです。旧約聖書にはイスラエルの指導者たちと民衆の信仰の歴史が記述されています。神様は偶像礼拝を繰り返すイスラエルを導くために預言者を遣わされたのです。権力者(王)のほとんどが彼らの警告に耳を傾けなかったのです。民衆は外国勢力の支配下にあって辛酸(しんさん)をなめたのです。一部は「捕囚の民」としてバビロン(現在のイラク)へ連行されたのです(紀元前587年)。イエス様の時代においても指導者たちは祖先と同じ道を歩むのです。ローマ帝国の重税に協力して私腹を肥やしたのです。「悔い改め」を迫る洗礼者ヨハネを殺し、「神の国」の福音を拒否したのです。イエス様は群衆の大歓迎を受けてエルサレムに入場されました。先ず、神殿の腐敗を非難されたのです。境内から商売人たちを追い出し、両替人たちの台や鳩を売る者の腰掛を倒されたのです。二人の預言者の言葉を引用して「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」と言われたのです(マタイ21:12-13)。後日、境内で教えておられる時、憤った祭司長や民の長老たちが「権威の根拠」を尋ねているのです。イエス様は「御子の権威」によって傲慢な人々を「神の国」から追放されるのです。
*神様の民として選ばれたイスラエルは「神様の御心」に背き、期待に応えられなかったのです。しかも、警告する預言者たちを迫害し、殺すことさえしたのです。中心的役割を果たしたのが偶像礼拝に陥った歴代の王たちだったのです。現在のエルサレム神殿も紀元前八世紀、七世紀に預言者たちが非難した状態と酷似しているのです。祭司長たち、長老たち、律法学者たちが神様に仕えるのではなく、私利私欲を満たすために奔走しているのです。律法主義と偽善によって人々を誤った方向に導いているのです。そこで、彼らに三つのたとえ話をされたのです。聖書の個所は三番目です。一番目は「二人の息子」です。弟は父親の指示を承知したのですが実行しなかったのです。拒否した兄は後に考え直して従ったのです。祭司長たちや律法学者たちはイエス様の先駆けである洗礼者ヨハネに耳を傾けなかったのです。「永遠の命」に与る機会を閉ざしたのです。一方、罪人として蔑まれていた徴税人たちや娼婦たちは福音を信じたのです(マタイ21:28-32)。二番目は「ぶどう園と農夫」です。地主は農夫たちにぶどう園を貸して旅に出たのです。しばらくして、収穫を受け取るために僕たちを遣わしたのです。しかし、農夫たちは彼らを袋叩きにして殺したのです。最後に、敬ってくれるだろうと思って息子を送ったのです。息子も殺されたのです。地主は激怒してぶどう園を彼らから取り上げたのです。ぶどう園主を軽んじる農夫たちに厳しい罰が下されるのです。ふさわしい実を期待して他の民族(異邦人たち)に与えたのです(マタイ21:33-43)。
*三番目に「婚宴のたとえ」が語られたのです。預言者たちの正しさが証明されるのです。不信仰と悪業に対する罰が下されるのです。王様は人殺したちを滅ぼしたのです。イエス様の宣教の第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」です(マルコ1:15)。神様はイエス様を通して人々に「悔い改め」を求められたのです。「悔い改め」とは心の問題に留まらないのです。これまでの「悪い行い」と決別し「悔い改め」に相応しい良い実を結ぶことなのです。当初、イエス様は異邦人たちやサマリア人たちではなく、ユダヤ人たちを優先的に宣教されたのです。しかし、彼らの多くはイエス様を拒否したのです(マタイ10:5-6)。福音はユダヤ人の中でも、社会の隅に追いやられ、罪人としての烙印を押された人々に届けられたのです。福音書記者ルカはそれらの人の社会的、身体的状況に言及しています。招待を断った人々に怒った主人は僕たちに「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人々、体の不自由な人々、目の見えない人々、足の不自由な人々をここに連れて来なさい」と言ったのです。彼らが「御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります」と言うと、主人は「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」と命じたのです(ルカ14:21-24)。婚宴の席は広場や路地、通りや小道で声を掛けられた人によって占められたのです。選ばれたユダヤ人たちは責務を果たさなかったのです。「神の国」の福音が世界中の人に届けられることになったのです。
*たとえ話は「異邦人の救い」に至るプロセスを説明するだけでなく、招かれた人々の責務についても言及しているのです。神様の恩寵が不信仰なユダヤ人たちから取り上げられ、すべての民族(異邦人)に「救い」が及ぶことになったのです。以前、イエス様は集まって来た群衆に「山上の説教」を語られました。神様を「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるお方」として紹介されているのです(マタイ5:45)。神様は不信仰なユダヤ人が悔い改めることを待っておられるのです。すべての民族が神様の下に来て礼拝することを願っておられるのです。善人か悪人かを問うことなく「神の国」の婚宴に招かれるのです。神様は人が罪を犯したことではなく、罪を悔い改めて「新しい生き方」をしているかどうかをご覧になられるのです。ユダヤ人がそうであったように、異邦人たちも使命を果たさなければならないのです。イエス様は模範を示されたのです。イエス様が歩まれた道を辿(たど)る人々―良い実を結ぶ人々―が「救い」に与るのです。過去に洗礼を受けたこと、教会に通っていることが「救い」の保証ではないのです。それらは婚宴に出席することを許されたことと同じなのです。問題は婚礼の礼服を身に着けているかどうかなのです。ユダヤ人は神様に選ばれた民なのです。ところが、不信仰が栄誉を無効にしているのです。異邦人たちも憐れみによって婚宴の席に招かれたのです。ただ、信仰のあり方を問われるのです。イエス様が命じられた重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実践するのです。