「異邦人たちの信仰」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書7章1節から10節 

イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。ところで、ある百人隊長に重んじられている部下(奴隷)が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下(奴隷)を助けに来てくださるように頼んだ。長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下(奴隷)に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下(奴隷)は元気になっていた。

(注)


・日本語訳では部下、僕が混在して誰が病気なのか分かりにくいのです。病気にかかっているのは百人隊長の部下の兵士ではなく、僕(奴隷)の一人なのです。


・これらの言葉:有名な「平地の説教」のことです(ルカ6:17-49)。

・カファルナウム:ガリラヤ湖の西北に位置しています。漁業、交易の中心地です。


・百人隊長:100人以上の兵士を指揮するローマ軍の下級士官です。ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの配下にあり、カファルナウムとその近郊の治安を守っていました。


・シドン:ガリラヤ地方の北にある地中海沿岸の町です。異教の神バール信仰が
盛んでした。

・サレプタのやもめ:シドンの南に位置するサレプタにおいても異教の神バールが崇められていました。この町に住む信仰心の篤(あつ)いやもめは偶像礼拝を拒否したのです。列王記上17:1-16をお読み下さい。


・ナアマン:アラム(シリア)軍の勇猛な司令官です。神様はこの異邦人を用いて罪を犯し続けるイスラエルの王を罰し、アラムの王に勝利を与えられたのです(列王記上22:1-40)。この人は重い皮膚病を患っていました。しかし、神の人エリシャの言葉に従ってヨルダン川で体を洗ったのです。すると、元どおりになったのです(列王記下5:1-14)。

・カイサリア:エルサレムの北にある地中海沿岸の町です。ここにはユダヤを管轄するローマ帝国の行政府が置かれていました。

・ヤッファ:エルサレムの北西にある地中海沿岸の町です。

・昔の人の言い伝え:長老たちによる口述伝承のことです。ファリサイ派の人々によって律法と同等の戒めとして扱われたのです。かつてこの教えに従っていたパウロは自らの誤りを認めています(ガラテヤ1:14)。

(メッセージの要旨)

*ユダヤ人たちは神様から選ばれた民であることを自負していました。一方、異邦人たちを罪人として蔑(さげす)んでいたのです。ところが、イエス様を通して「神の国」(天の国)-神様の支配-が到来しているのです。新しい天地創造が始まっているのです。彼らはこの事実を受け入れなかったのです。イスラエルの不信仰は時代を経ても変わらないのです。イエス様はナザレの会堂で「預言者エリヤの時代に三年六か月の間雨が降らず、その地方一体に大飢饉が起った時、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中の誰の下にも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめの下にだけ遣わされた」、「預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった」と非難されたのです。出席者は憤慨してイエス様を崖(がけ)から突き落として殺そうとしたのです(ルカ4:25-27)。ローマ帝国の支配下にあったカファルナウムに百人隊長がいました。異邦人でありながらユダヤ教の神様を畏(おそ)れていたのです。ユダヤ教の会堂の建設に大きな貢献をし、奴隷の病気を治すために東奔西走しているのです。治安維持を担う権力者のようにではなく、ユダヤ教の信奉者-改宗者ではない-として、イエス様に召し使いの癒しを申し出たのです。奴隷は直ちに回復したのです。百人隊長は「行い」によって信仰を表しているのです。イエス様はこの人の「信仰」を高く評価されたのです。悔い改めに相応しい「生き方」を示した人の願いは聞き入れられるのです。

*新約聖書はこの他にも三人の百人隊長を好意的に取り上げています。最初の人はイエス様の処刑に立ち会った百人隊長です。既に昼の十二時ごろです。全地は暗くなり、それが午後三時まで続いたのです。太陽はその光を失っていました。エルサレム神殿の垂れ幕が真ん中から裂けたのです。イエス様は大声で叫ばれました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言って、息を引き取られたのです。百人隊長はこの出来事を見て「本当に、この人は正しい人だった」と神様を賛美したのです(ルカ23:44-47)。次の人はカイサリアに駐屯していた「イタリア隊」のコルネリウスです。信仰心あつく、一家そろって神様を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず祈っていたのです。彼は天使の指示を受けてヤッファにいたペトロを自宅に招いたのです。ペトロはコルネリウスの親類や親しい友人の前でイエス・キリストを証ししたのです。御言葉を聞いている人々の上に聖霊様が降ったのです。この出来事は「異邦人のペンテコステ」と呼ばれています(使徒10:1-48)。異邦人のクリスチャンたちが初めて誕生したのです。三番目の人はパウロをローマへ護送していた皇帝直属部隊のユリウスです。彼はパウロを親切に扱い、友人たちの所へ行くことを許したのです。船が難破した時、兵士たちは囚人たちが泳いで逃げないように殺そうとしたのですが、百人隊長はパウロを助けるために彼らの行動を制止したのです(使徒27:1-44)。異邦人であり、権力者側に立つ百人隊長であっても、それぞれの置かれている場所において「信仰」を証明したのです。

*ユダヤ人たちは異邦人たちを軽蔑していました。使徒の中の使徒であるペトロもそのような考え方の影響下にあったのです。百人隊長コルネリウスに招かれた時「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています」と言っています。ペトロは異邦人との交際禁止の根拠を律法に求めています。ところが、神様はペトロを戒めて「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と言われたのです(使徒10:11-15)。律法に「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏れるべき神、人を偏り見ず、賄賂(わいろ)を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる」と記述されているからです(申命記10:17-18)。しかし、ユダヤ人たちにはもう一つの「律法」-昔の人の言い伝え-があるのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちはそれを恣意的(しいてき)に解釈しているのです。自分たちの利益のために「神様の掟」を軽んじているのです。イエス様は預言者イザヤの言葉「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている」(イザヤ書29:13)を引用して、彼らの不信仰と腐敗を非難されたのです(マルコ7:1-13)。ペトロも「昔の人の言い伝え」を厳格に守っていたのです。回心した元ファリサイ派のパウロもかつては同じだったのです。信徒への手紙の中で過ちを告白しているのです。

*イエス様はある律法学者の質問に「神様と隣人を愛しなさい」(マルコ12:28-31)、ユダヤ人たちが交際を頑(かたく)なに拒否するサマリア人の善い行いを例に挙げて「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ10:25-37)と答えられたのです。「知的信仰」に陥(おちい)っている人々に警鐘(けいしょう)を鳴らしておられるのです。イエス様が再び地上に来られる時、すべての民族は御前に集められるのです。一人一人の「行い」に応じて裁か行われるのです。すでに、イエス様は「裁きの基準」について明らかにしておられるのです。最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実践したかどうかがその人の「救い」を決定するのです。人々が左右のグループに分けられています。右側にいる人々を祝福して「あなたがたは、わたしが飢(う)えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢(ろう)にいたときに訪ねてくれたからだ」と言われたのです。正しい人たちが「主よ、いつわたしたちは、それらのことをしたでしょうか」と質問しています。「わたしの兄弟であるこの(これらの)最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と説明されたのです。一方、左側には貧しい人々や虐(しいた)げられた人々に援助の手を差し伸べなかった人々がいるのです。これらの人には「永遠の罰」が宣告されたのです(マタイ25:31-40)。「神様の愛」を具体化しない信仰は空(むな)しいのです(ヤコブ2:17)。


*イエス様はユダヤ人たちに「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」と言われました(ルカ6:46)。異邦人の百人隊長の「行い」は「神様の御心」に適(かな)っているのです。ユダヤ人たちから罪人として蔑まれた一人の異邦人が「救い」に与っているのです。キリスト信仰とはイエス様の教えを理解することだけではないのです。イエス様の「生き方」に倣(なら)って信仰を具体化することなのです。イエス様が高く評価された百人隊長の信仰には「罪の自覚と悔い改め」、「会堂建設の支援」、「奴隷への思いやり」が見られるのです。信仰は告白するだけではなく「行い」によって本物になるのです。「神様の御心」が百人隊長の「行い」を通して人々に伝えられているのです。信仰が唯一の「救いへの道」であると言われています。しかし、ファリサイ派の人々がそうであったようにキリスト信仰を標榜する人々も意味を誤解しているのです。イエス様は機会あるごとに信仰における「行い」の重要性を強調されたのです。キリスト信仰とは「神の国」の福音を信じ、「行い」によって証しすることなのです。教派に属していることや教義を理解していることが「救い」の保障にはならないのです。「神様と隣人」を愛したかどうかがその人の「救い」を決定するのです。この重要な教えに言及されることが少ないのです。他の宗派-仏教や神道など-に属している人々がそれぞれの教義に基づいて隣人愛を実践しておられるのです。キリスト信仰においても、先ず、傲慢(ごうまん)を悔い改めるべきなのです。

2023年07月16日