「打ち砕かれた悪霊の支配」

Bible Reading (聖書の個所) マルコによる福音書3章20節から30節


イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。はっきり言っておく。人の子ら(人々)が犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜(ぼうとく)する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

(注)

・身内の人たち:イエス様の母と兄弟たちのことです(マルコ3:31)。

・律法学者たち:ユダヤ教の律法を専門的に解釈していた人々です。イエス様の主要な敵対的グループの一つです。

・ベルゼブル:「住まいの主」(マタイ10:25)、「ハエ(蝶やトンボ)たちの主」(列王記下1:2)を意味する言葉が語源です。人間を支配する闇の力です。イエス様と悪魔の最初の闘いは荒れ野で行われたのです(ルカ4:1-13)。「人はパンだけで生きるものではない」、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」、「あなたの神である主を試してはならない」のお言葉で誘惑を退けられたのです。

・サタン:元は天使の一人です。告発する者と呼ばれています。

■七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇 やさそり(悪の象徴)を踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」 (ルカ10:17-20)。

■さて、天で戦いが起こった。ミカエル(大天使の一人)とその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、年を経た(古代の)蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた(黙示12:7-9)。

・三位一体:イエス様は11弟子に「・・あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け・・なさい」と言われました(マタイ28:19)。神様(父)とイエス様(子)と聖霊様(霊)の関係性を神学的に説明するお言葉です。初代キリスト教会の信徒たちは、礼拝において神様を讃える時「栄光が、聖霊において、子を通して、父なる神に帰せられるように」、神様の祝福を求める時「父なる神の祝福が、子を通して、聖霊において、あなたがたの上にあるように」と表現していたのです。神様とイエス様と聖霊様は一体なのです。「イエス・キリストを学ぶ」(百瀬文晃著)から。

・レギオン:およそ6千人からなるローマ軍の連隊もこのように呼ばれていました。「二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。」は、エジプトのファラオ王がイスラエルの民を追跡するために派遣した軍隊が紅海において敗北した姿を想起させるのです。

・神の国:天の国とも呼ばれています。イエス様の宣教の中心テーマは「神の国」-神様の主権-の実現にありました。福音(良い知らせ)はご自身の「力ある業」(奇跡)、「十字架の死と復活」によって明らかにされたのです。牢にいた洗礼者ヨハネは、自分の弟子たちを送って「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」と尋ねさせました。イエス様は、「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人(人々)は見え、足の不自由な人(人々)は歩き、重い皮膚病を患っている人(人々)は清くなり、耳の聞こえない人(人々)は聞こえ、死者(たち)は生き返り、貧しい人(人々)は福音を告げ知らされている」と答えられたのです(マタイ11:2-5)。

・イザヤの預言:「わたしたちの患いや病」はバビロンへの捕囚の民となったイスラエルの苦難のことです。紀元前587年に起こった歴史的大事件です。


(メッセージの要旨)


*イエス様は「神の国」の到来を言葉で語るだけではなく、具体的事実-癒しの業や奇跡-によって証明されたのです。不信仰なユダヤ人たちに「わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているならば・・その業を信じなさい」と言われたのです。神様がイエス様の中におられ、イエス様は神様の内におられるのです(ヨハネ10:37-38)。イエス様が中風の人の罪を赦された時、律法学者たちは「この人は・・神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と心の中で呟(つぶや)いたのです。イエス様は「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言って、中風の人の病も癒されたのです。当時、病は罪を犯した結果であると考えられていたからです。彼らはイエス様が罪人や徴税人たちと一緒に食事をされるのを見て非難したのです。イエス様は「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われたのです(マルコ2:1-17)。イエス様が安息日に会堂に入られると、そこに汚れた霊に取りつかれた男性がいたのです。悪霊に「この人から出ていけ」と命じられると大声を上げて出て行ったのです。イエス様の評判はガリラヤ地方の隅々に広がったのです(マルコ1:21-28)。既得権益に執着する律法学者たちは「御子の権威」を認めないのです。イエス様を貶(おとし)めるために三位一体の神様を冒涜するのです。その罪は赦されないのです。

*イエス様は悪霊の頭をサタンと呼ばれたのです。ガリラヤ地方で宣教を始める前に荒野でこのサタンから誘惑を受けられたのです。悪魔はイエス様を非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言ったのです。イエス様は「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』(申命記6:13)と書いてある」などと反論して誘惑を退けられたのです。イエス様は徹底して神様の戒めに準拠されたのです。ご自身の経験から、苦難に遭遇している人々に「勇気を出しなさい。わたしは既(すで)に世(悪魔の支配)に勝っている」と言われるのです(ヨハネ16:33)。サタンは「神の子」さえも誘惑するのです。信仰深い人を神様に敵対させるために機会を窺(うかが)っているのです。ヨブは無垢(むく)な正しい人で、神様を畏れ、悪を避けて生きていました。ところが、サタンはヨブの信仰を試みるために想像を絶する苦難を与えたのです。ヨブは悲しみの中にあっても「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と言ったのです(ヨブ記1:1-2:10)。ヨブは試練に遭遇しても神様を非難する罪を犯さなかったのです。12使徒の一人であるイスカリオテのユダはサタンの声に耳を傾け、イエス様を裏切ったのです(ヨハネ13:2)。最も近くにいたユダが「神の子」を捨てたのです。思いがけないことが起こるのです。信仰が篤い人でも、油断をすれば一瞬にしてサタンの罠(わな)に陥るのです。


*悪霊の頭に名前があるように「レギオン」(大勢)という名前の汚れた霊がいるのです(マルコ5:1-20)。この悪霊に取りつかれた人がイエス様を見ると走り寄って平伏し「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」と叫んだのです。自分たちをこの地方から追い出さないでほしいと願ったのです。結局、2千匹ほどの豚の中に入って崖から下り、湖の中でおぼれて死んだのです。「神の国」の福音が人間の「全的な救い」として実現することを予見させるのです。「レギオン」は戦闘に長け、残虐なローマ軍の連隊を表す言葉だったからです。「レギオン」はイスラエルに取り憑いて(占領して)いたのです。イスラエルを力で押さえつけて支配しているのです。イエス様の「悪魔祓(ばら)い」はローマ軍の傍若無人な行動に対するユダヤ人たちによる反乱を象徴する出来事なのです。この男性は昼も夜も墓場や山で叫び、石で自分を打ちたたいていました。自らを傷つける行為にイスラエルの悲惨な姿が現れているのです。福音書には「弱り果て打ちひしがれた人々」、「精神を病んでいる人々」、「体の不自由な人々」、「物乞いをする病人」、「出血が止まらない女性」、「土地を奪われた農夫たち」の様子が記述されています。これらは個人的な問題というよりも、社会不安や極度の緊張がもたらした結果なのです。追いはぎや強盗に襲われた人々、暴動や殺人の罪で投獄されている人々もいるのです。イエス様が宣教された地方の犯罪率は極めて高いのです、まさに、人々は汚れた霊に苦しめられているのです。


*安息日に病人を癒しておられるイエス様を非難しているのはガリラヤ地方の律法学者たちだけではないのです。エルサレムから下って来た律法学者たちも「神殿政治」を揺るがすイエス様を社会から抹殺するために画策するのです。彼らの目的はイエス様を「神様を冒涜する者」として処刑することなのです。しかし、民衆がそれを許さないのです。そこで、ローマ帝国の当局者に「政治犯」として引き渡し処刑させようとしたのです(マルコ10:32-34)。古代イスラエルにおいて「気が変になっている」とは悪霊に取り付かれていることです。悪霊に取りつかれている人は悪霊に支配されているのです。律法学者たちはイエス様の「癒しの業」をサタンの働きであるかのように強弁するのです。イエス様の権威を失墜させるために「あの男はベルゼブルに取りつかれている」、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と非難するのです。イエス様は「神の子」ではなく、「神の子」を騙(かた)るサタンの子分にするのです。イエス様が神様の独り子であることを否定する誹謗(ひぼう)なのです。エルサレムでもユダヤ人たちがイエス様について何度も「悪霊に取りつかれている」と言っているのです(ヨハネ7:20;8:48;10:19)。神様とイエス様と聖霊様が並列的に説明されているのです。父と子と聖霊のように簡略化されて語られているのです。しかし、三位(三人のお方)は天地創造以前から一体なのです。イエス様は聖霊様によって「神様の御心」を証しされたのです。律法学者たちは犯した罪によって永遠の罰を招くことになったのです。


*人々は悪霊に取りつかれた者を大勢イエス様の所に連れて来たのです。イエス様は言葉で悪霊を追い出し、病人たちを癒されたのです。それは預言者イザヤを通して言われていたこと-彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った(イザヤ書53:4)-が実現するためだったのです(マタイ8:16-17。イエス様を否定しようとしてもイエス様の「力ある業」が人々を信仰に導くのです。多くのユダヤ人が「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている」と言ったのですが、中には「悪霊に取りつかれた者が神様について語ることはないし、悪霊は盲人の目を開けることは出来ない」という人もいたのです(ヨハネ10:20-21)。イエス様の「癒しの業」の中に神様が働いておられることを信じたのです。イエス様はベールに包みながら「レギオン」に取り憑かれた男性をイスラエルの現状に譬えられるのです。「レギオン」が持つ破壊力や残虐性はローマ軍の特徴と一致するのです。イスラエルの人々への虐待はローマ軍(汚れた霊)の仕業なのです。ローマ帝国に協力するユダヤ人指導者たちの過酷な搾取と不誠実な政策にも原因があるのです。民衆の窮状は個々人が招いたものでも罪を犯したからでもないのです。イエス様は今日の信徒たちにも問題に対処する力があることを教えられるのです。イエス様がすでに汚れた霊の鎖(くさり)を打ち砕いて下さっているのです。「救い主」を信じる人々は自分たちを責めるのではなく、勇気を持って堂々と汚れた霊たちの名前(例えばレギオン)を明らかにし、彼らの悪業を告発するのです。

2023年07月30日