「掟を守りなさい」

Bible Reading (聖書の個所) ヨハネによる福音書14章1節から15節


「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。・・」


(注)


・戒(いまし)めについて:旧約聖書から 


■あなた(がた)の神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼(主)を畏(おそ)れなさい。(申命記8:6)

■あなたの命令から英知を得たわたしは/どのような偽りの道をも憎みます。あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。わたしは誓ったことを果たします。あなたの正しい裁きを守ります。(詩編119:104-106)

・最も重要な掟(おきて)について:新約聖書から

■彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。(マルコ12:28-31)

・ペトロ、トマス、フィリポ:いずれも12使徒です。

・共観福音書:マタイ、マルコ、ルカによる福音書は、構成、考え方(観点)、内容に共通性を持っています。ヨハネによる福音書と区別してこのように呼ばれています。


・慰めに満ちたイエス様のお言葉:


■憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ(異教の神による神殿ぼうとくが行われている)のを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。このことが冬に起こらないように、祈りなさい。それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。(マルコ13:14-23)

(メッセージの要旨)


*イエス様はガリラヤで宣教を開始されました。洗礼者ヨハネの弟子であったペトロは、ヨハネの言葉「イエス様は神の小羊である」を聞いて、イエス様の弟子となったのです。フィリポはイエス様のお言葉「わたしに従いなさい」によって直ちに弟子となったのです(ヨハネ1:35-51)。彼らはイエス様と寝食を共にし、「道」(新しい教え)を学んだのです。最も重要な戒めを実践するのです。ところが、イエス様はこの世を去られるのです。弟子たちの足を洗われたのです(ヨハネ13:5)。イエス様の振る舞いやお言葉を理解できない使徒たちは質問したのです。先ず、ペトロが「主よ、どこへ行かれるのですか」と行く先を尋ねたのです。すると、イエス様は「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」と言われたのです。ペトロは「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」と決意を表明するのです。しかし、イエス様は「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言う」と予告されたのです(ヨハネ13:36-38)。トマスも同様の質問し、フィリポは「御父をお示しください」と願っているのです。イエス様は心を騒がせる使徒たちに理由を説明されたのです。天において住居を準備されるのです。そこで「救い」に与った人々と共に住むことを約束されたのです。キリスト信仰に生きる人々は「神様と隣人」を愛するのです。ただ、簡単なことではないのです。敵対する人々から迫害されるのです。「永遠の命」の希望が勇気を与えているのです。

*ヨハネによる福音書は三つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ)-共観福音書-から際立って異なっていると考えられているのです。その理由の一つに共観福音書が取り上げている記事や物語を欠いていることが挙げられます。あるいはそれらが言及していない人物や出来事を記述していることも一因になっているのです。それにも関わらず、神学的、霊的な福音書として高く評価されているのです。共観福音書との共通性も見られるのです。今日の聖書の個所がそのことを証明しているのです。イエス様を愛するとは命じられた「掟」を守ることなのです。キリスト信仰は「行い」を求めるのです。イエス様は愛するラザロの死に直面し「死の支配」に憤られ(心を騒がされ)たのです(ヨハネ11:33)。十字架の死を目前にし「今、わたしは心騒ぐ。『父よ、わたしをこの時から救ってください』」と言われたのです(ヨハネ12:27)。ユダの裏切りを知った時にも、心を騒がされたのです。しかし、神様の御力と約束に対する信頼が揺らぐことはなかったのです。今、弟子たちが同様の経験をしているのです。イエス様はこの世から父なる神様のもとへ移る時が来たことを悟り、食事の席で弟子たちの足を洗われました。どのように生きるべきかについて模範を示されたのです。互いに愛し合うように命じられたのです(ヨハネ13:1-35)。初代教会はすべての物を共有にし、心を一つにして祈っているのです。神様は彼らの信仰生活を祝福し、日々新しい仲間を加えられたのです(使徒2:43-47)。キリスト信仰は信じることで完結しないのです。


*神様はモーセに「わたしはある。わたしはあるという者だ」とご自身を紹介されたのです(出エジプト記3:14)。イエス様はユダヤ人たちに「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」と言われたのです(ヨハネ8:58)。「永遠の存在であること」を強調されたのです。「わたしと父は一つである」と言って「神様と一体であること」を公言されたのです(ヨハネ10:30)。神様を冒涜する言葉です。ユダヤ人たちは「あなたは、人間なのに自分を神としている」と激しく非難したのです。律法に従って、石打の刑で殺そうとしたのです。イエス様は彼らの手を逃れて去って行かれたのです。しかし、最終的には十字架上で処刑されるのです。その時も、イエス様は「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と言われたのです(ルカ23:34)。「神様の子」を受け入れることの難しさに言及されたお言葉なのです。神様はイスラエルの民の叫び声を聞かれるのです。中立の立場を取られることはないのです。抑圧された人々の側に立たれるのです。イエス様もイザヤの預言「・・貧しい人々に良い知らせを伝えるために。・・つながれている人々には解放を告知させるために。・・」に沿って使命を果たされるのです(イザヤ書61:1-2)。イエス様が「神性」を明確にすればするほどユダヤ人たちは反発したのです。「力ある業」(しるし)に接しても「この人は、大工ではないか。マリアの息子・・」と言って躓(つまず)いたのです(マルコ6:3)。弟子たちにとっても信じることは容易ではなかったのです。


*聖書が旧約聖書、新約聖書に分けられています。それは便宜上のことです。旧約聖書が伝える神様を語らないキリスト信仰は根のない草花に似ています。ひと時の感動を与えてもいずれ生命力が失われるのです。イエス様が神様とご自身を等しい者とされることには理由があるのです。キリスト信仰の本質がこの点にあるからです。復活されたイエス様も「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われたのです(マタイ28:18-20)。父と子と聖霊が並列されているのです。初代教会における典礼上の簡略された表現なのです。本来、神様をたたえるときは「栄光が、聖霊において、子を通して、父なる神に帰せられるように」、神様の祝福を求めるときは「父なる神の祝福が、子を通して、聖霊において、あなたがたの上にあるように」と表現するのが一般的だったのです。使徒たちはイエス様がどのようなお方であるかを理解していないのです。イエス様は「こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか」と叱責されたのです。「知る」というお言葉には信仰上の重要な意味があるのです。キリスト信仰とは「救い主」を認識することではないのです。神様が遣わされたイエス様の御跡を辿(たど)ることなのです。苦難が待っているのです。聖霊様がキリストの信徒たちを導いて下さるのです。


*キリスト信仰は信じることで始まるのです。信仰は抽象的な心の問題に留まらないのです。具体的な「行い」を求めるのです。四福音書は共通してこの点を明確にしているのです。共観福音書はイエス様が命じられた「最も重要な掟」を伝えているのです。律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいているからです。イエス様は自分を正当化しようとする律法の専門家に「善いサマリア人」のたとえ話を語って、言葉ではなく「行い」によって「永遠の命」に与りなさいと言われたのです(ルカ10:25-37)。ヨハネの福音書も実践を強調されたイエス様のお言葉「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。・・互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」を取り上げているのです(ヨハネ15:9-13)。イエス様はこの世を去って再び来られるまでの間、弟子たちがどのように生きるべきかについて教えられたのです。簡潔で、分かり易いのです。キリスト信仰において難しい神学は必要ないのです。イエス様の「生き方」がキリスト信仰の真髄を語っているからです。イエス様に倣(なら)って掟を実践することが「永遠の命」に至る道です。ただ、内容が正確に伝えられていないのです。キリスト信仰による「救い」が「罪からの解放」に縮小されているのです。イエス様の掟に戻るのです。

2024年09月01日