「神様の評価」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書18章9節から30節

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。するとペトロが、「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた(神様に委ねた)者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」

(注)

・神の国:キリスト信仰における根本理念です。イエス様の宣教の第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」です(マルコ1:15)。「神の国」-神様の支配-の到来こそ福音(良い知らせ)なのです。イエス様を通して「神の国」は具体化しているのです。病人が癒され、人の罪が赦されているのです。

・永遠の命:「神の国」に入ること、「救い」に与(あずか)ることです。

ファリサイ派の人:律法を厳格に遵守するユダヤ教の一派です。学識の豊富さから民衆に尊敬されていました。しかし、イエス様は彼らを厳しく批判されたのです。その理由は彼らが偽善者だったからです。マタイ23:1-36を参照してください。一方、律法学者の多くはファイサイ派によるモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)(トーラ)の解釈を支持していました。イエス様と対立した律法学者たちはファイサイ派に属していました。


・サドカイ派:「復活」を認めなかったのです。この点において、ファリサイ派の人々とは対立していました。しかし、イエス様には一致して敵対したのです。


徴税人:ローマ帝国のためにユダヤ人から税を徴収していました。他のユダヤ人からは「裏切り者」と呼ばれていました。さらに、民衆から集めた税金を当局に納めた後は自分のために追加の税を徴収することが許されていました。徴税人たちは強欲さと不正の故に「罪人」の一員として扱われ、社会の隅に追いやられたのです。ファリサイ派の人々からは蔑まれていましたが、イエス様は彼らの友となられたのです。さらに、徴税人マタイを12使徒の一人に選ばれたのです(マタイ9:10-13)。


・義:日本語訳では個人の道徳性の高さや信仰心の篤さとして理解されています。この言葉には社会的な正義という意味もあるのです。イエス様は「義(正義)に飢え乾く人々は、幸いである」(マタイ5:6)、さらに「何よりもまず、神の国と神の義(正義)を求めなさい」(6:33)と言われたのです。福音とは「神の国」(天の国)-神様の支配(主権)-が地上に遍(あまね)く行き渡り、「神の義(正義)」が確立されることなのです。

・子供:子供は無力な存在です。自分が出来ることは限られているのです。両親に頼る以外に方法はないのです。絶望の淵に生きる貧しい人々や虐げられた人々は「神の国」の到来に希望の光を見たのです。キリストの信徒たちは信仰によって「救い」に与るのではないのです。「神の国」を建設する使命があるのです。神様の戒めを守り、隣人を愛することが「永遠の命」に至る道なのです。

(メッセージの要旨)

*神様に訴えても受け入れられない祈りがあるのです。神様が願いを聞き入れられるかどうかは人間による評価とは全く関係がないのです。ファリサイ派の人は自分にとって都合の良い所だけを報告するのです。神様に信仰心の篤さを認めさせようと画策しているのです。称賛を得るためには神様さえコントロールしようとするのです。傲慢の極みです。神様は「高ぶる者を低くされ、へりくだる者を高められるのです。人間の心の内だけではなく御心を実践しているかどうかをご覧になられるのです。イエス様は卓越した知識や能力を不正な蓄財の手段として用いるファリサイ派の人々や律法学者たちに「蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか」と言われるのです(マタイ23:33)。徴税人はファリサイ派の人のように自分の良い行いを自画自賛することはありませんでした。自分の生き方を心の底から後悔しているのです。それは胸を打ち叩く姿に表れています。譬(たと)え話はファリサイ派の人の尊大さと徴税人の謙虚さを比較しているのではないのです。事態はもっと深刻なのです。偽善と不法に身を染めるファリサイ派の人が「滅び」に至り、徴税人が憐れみによって「救い」に与ったのです。両者を分けたのは犯した罪に対する悔い改めの姿勢なのです。傲慢(ごうまん)は大きな罪の一つです。一方、金持ちの議員は信仰心の篤い人です。ただ、信仰を許容範囲に限定するのです。イエス様のご指示を拒否したのです。神様の前に正しい人はいないのです。イエス様は謙遜と隣人愛を「救いの要件」とされたのです。

*ユダヤ人たちは毎日神殿で礼拝をしていました。ファリサイ派の人々も徴税人たちもこのために神殿に来ていました。神殿は犠牲の供え物を捧げるだけでなく祈りの場所でもありました。二人は神殿内部の至聖所近くの「イスラエルの庭」(ユダヤ人男性の礼拝場所)で祈ったのです。それぞれはユダヤ人社会の中で対照的な存在でした。ファリサイ派はサドカイカイ派と並んでユダヤ教の宗派の一つです。ファリサイ派はイエス様が地上に来られるおよそ150年前に創設されました。元々これらの人は信仰心が篤かったのです。律法と伝統を厳格に遵守していたのです。ところが、時代を経るに従って、信仰は形式化し、自己義認によって偽善化していったのです。一方、徴税人たちはローマ帝国に協力してユダヤ人たちから過酷に徴税し、富を蓄えていたのです。ユダヤ人たちから裏切り者、罪人と呼ばれたのです。こうした二つの階層に属する人々が祈っているのです。譬え話は神様の前で自らを正しい者であると公言し、罪人たちを蔑んでいる人々に向けて語られているのです。ファリサイ派の人は自分が奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でないことを自負しています。尊大にも神様に自分の評価を認めさせようとするのです。一方、罪人たちや社会の隅に追いやられている人々を見下しているのです。この人にとって律法を知らない徴税人は呪われているからです(ヨハネ7:49)。ファリサイ派の人には神様への畏敬の念が見られないのです。徴税人に対しても横柄に振舞うのです。徴税人は自分の罪を率直に告白し、神様の憐れみと赦しを乞うたのです。

*イエス様は「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われました。このお言葉は「人は神様を信頼しなければ神の国に入れない」というように理解されているのです。何事においても信頼を欠いては大切な関係を維持できないのです。しかし、ここで言われていることは、子供たちが置かれている位置-父親の従属物になっていること-にまで降りて行くことなのです。最も小さい者たち-貧しい人々や虐(しいた)げられた人々-と共に歩むことなのです。律法には基本となる戒めが二つあります。一つは「イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏(おそ)れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか」です(申命記10:12-13)。もう一つは「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。・・貧しい者(たち)や寄留者(たち)のために残しておかねばならない。・・あなた(がた)は隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。・・自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。・・」です(レビ記19:9-18)。イエス様はこれらを最も重要な戒めとされたのです(マルコ12:29-31)。キリスト信仰とは信じることではないのです。信じたことを実行することなのです。神様と隣人を愛して「救い」に与るのです。

*ある金持ちの議員は子供の時から「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」という掟を守ってきました。ところが、なお「永遠の命」の確信が得られなかったのです。議員と訳されている言葉は支配者のことです。日本語訳は往々にしてキリスト信仰に相応しくないとして政治的言葉を避けているのです。恣意的な翻訳は当時のイスラエルの民衆が置かれていた政治状況を正確に伝えないのです。絶大な権力とたくさんの財産を持っている支配者の一人が信仰上の不安を覚えているのです。イエス様はこの人の信仰心を認めておられるのです。ただ、「救い」は安価な恵みではないのです。本人が理解していない点を指摘し、解決方法を示されたのです。この世の権力とそれから得た富が信仰の確信へ至る道を妨げているのです。イエス様は「自分の財産を売って貧しい人々に施しなさい」、「ご自身の弟子になりなさい」と言われたのです。しかし、この金持ちは様々な思い煩いからイエス様の招き-「神の国」の福音を拒否したのです。現在の位置から社会の底辺へ降りて行くことが出来なかったのです。社会的地位と既得権益に執着したのです。この議員は律法の規定を選別しているのです。守ることが出来た規定だけを誇らしげに取り上げているのです。「隣人を自分のように愛しなさい」を実践するまでには至らなかったのです。神様よりも富の方を愛したことは明白です。神様はすべてのことをご存です。金持ちが「神の国」に入るのはらくだが針の穴を通るよりも難しいのです。しかし、神様はこの人の「救い」を断念されることはないのです。


*イエス様は「神の国」の本質を明確にされるのです。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」のです。しかし、イエス様のお言葉を実行することは簡単ではないのです。子供のように「神の国」を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできないのです。キリスト信仰が「罪の赦し」に縮小されているのです。「神の国」は人間の「全的な救い」として完成するのです。イエス様はご自身の教えと力ある業によって「神の国」が到来していることを証しされたのです。イエス様の教えを実践しない人々は「永遠の命」に与れないのです。道徳的、倫理的な罪のみが罪ではないのです。信仰の傲慢、富への執着、正義や平和への無関心はより深刻な罪なのです。身近にいた弟子たちも誰が一番偉いかについて議論しているのです。イエス様は彼らの誤った信仰理解を正すために徹底して仕えることを命じられたのです(マルコ9:33-37)。信仰を自負する人々は多くの場合自分たちの傲慢に気づかないのです。信仰の傲慢はその人を死に至らせるのです。一方、金持ちの議員はイエス様に教えを願い出ているのです。ところが、イエス様が示された「救いの道」を受け入れられないのです。有り余る富を隣人のために施すことに消極的なのです。視点を最も小さい人々へ向けなければ「神の国」に入れないのです。神様はこの人の悔い改めを忍耐して待っておられるのです。信仰を自負する人々が後になり、蔑まれていた徴税人が先になったのです(マタイ20:16)。信仰を誇っても無意味なのです。神様が判断されるからです。

2024年06月16日