「幸いを得なさい」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書5章1節から20節

イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。義(正義)に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。義(正義)のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

「わたしが来たのは律法や預言者(たちの言葉)を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義(正義)が律法学者(たち)やファリサイ派の人々の義(正義)にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

(注)

・群衆:直前の4:23-25にありますように、イエス様の奇跡(あらゆる病気を癒されたこと)を聞いて、ガリラヤ、デカポリス(主にガリラヤ湖の南東地域)、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から大勢の群衆が来て、イエス様に従ったのです。エルサレムの指導者たちが民衆を掌握するまでは、人々はイエス様の教えに共感していたのです。聖書地図を参照して下さい。

・心の貧しい人々は幸いである:ルカによる福音書6:21では「貧しい人々は、幸いである」となっています。イエス様は旧約聖書(イザヤ書61:1-2;58:6)を引用し、ご自身の使命が貧しい人々や虐げられた人々の救いにあることを宣言されたのです(ルカ4:16-21)。聖書は全体的に理解することが大切です。可能でしたら様々な聖書訳を比較して下さい。より一層意味が深まります。

・天の国:神様の支配、神様の働きのことです。「神の国」と同じです。マタイは「神」を用いて表現することを避けて「天の国」と呼んだのです。ただ、「神の国」(マタイ12:28、19:24、21:31-43を使っている個所もあります。

・律法:神様のご意志による教えと戒めのことです。旧約聖書の最初の五巻-創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記-を指しています。「モーセ五書」と呼ばれています。

・律法学者たち:文書を専門に取り扱う官僚であり、学識を有していました。しかし、イエス様に敵対したのです。

・ファリサイ派の人々:ユダヤ教の教えを人々の日常生活に厳格に適用したのです。イエス様に反対するグループの一つです。

・正義の神様について:

■それゆえ、主は恵みを与えようとして/あなたたちを待ち/それゆえ、主は憐れみを与えようとして/立ち上がられる。まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人(人々)は。(イザヤ書30:18)

■わが民の中には逆らう者がいる。網を張り/鳥を捕る者のように、潜んでうかがい/罠を仕掛け、人を捕らえる。籠を鳥で満たすように/彼らは欺き取った物で家を満たす。こうして、彼らは強大になり富を蓄える。彼らは太って、色つやもよく/その悪事には限りがない。みなしごの訴えを取り上げず、助けもせず/貧しい者を正しく裁くこともしない。これらのことを、わたしが罰せずに/いられようか、と主は言われる。このような民に対し、わたしは必ずその悪に報いる。恐ろしいこと、おぞましいことが/この国に起こっている。預言者は偽りの預言をし/祭司はその手に富をかき集め/わたしの民はそれを喜んでいる。その果てに、お前たちはどうするつもりか。(エレミヤ書5:26-31)

■主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。それゆえ、牧者たちよ。主の言葉を聞け。わたしは生きている、と主なる神は言われる。・・(エゼキエル書34:1-8)

(メッセージの要旨)

*イエス様は旧約聖書と当時のユダヤ人たちが置かれていた社会的、経済的、政治的状況とを連動させて福音を語られたのです。歴史的背景を捨象して「神の国」を正しく理解することは出来ないのです。今日は「山上の説教」の基本となる冒頭の箇所から学びます。九つの幸いは終末論的です。しかし、聞いている人々にとって現実的な慰めの言葉となっているのです。イエス様はいろいろな病気や苦しみに悩む人々、悪霊に取りつかれた人々、てんかんの人々、中風の人々などあらゆる病人を癒し、「力ある業」を通して「神の国」が到来していることを証ししておられたからです。詩篇は神様に祝福される人々を「いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人」と表現しています(詩編1:1-2)。神様はご自身に聞き従い、教えを守る人々を祝福されるのです。箴言(しんげん)も同様の趣旨を記述しています(箴言8:32-34)。心の貧しい人々、悲しむ人々、柔和な人々、義に飢え渇く人々、憐れみ深い人々、心の清い人々、平和を実現する人々、義のために迫害される人々、ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる人々は幸いなのです。これらの人はイエス様の教えに従い、困難に直面しながら「神の国」の福音(良い知らせ)を宣べ伝えているからです。キリスト信仰は信じることで完結しないのです。何よりも「神の国と神の儀」を求めるのです。「神様と隣人」を愛して生きることなのです。


*弟子たちは「救い」の恵みに「行い」を持って応えるのです。神様のご計画-新しい天地創造-の完成のために全力を尽くすのです。一方、この世の権力者たちや富に執着する人々は「神の国」の広がりに敵対するのです。弟子たちは徹底的に迫害されているのです。絶望の淵をさまよい、深い悲しみと無力感に襲われているのです。神様は最も重要な戒め‐神様と隣人を愛すること‐のために悩み、苦しむ人々を決して見捨てられないのです。イエス様は「天には大きな報いがある」と明言し、「神様の約束」を信頼して歩むように教えられたのです。「心の貧しい人々」とは「誇るものがない人々」のことではないのです。迫害に苦しむ人々の心の状態を表しているのです。大きな力の前に「気力を打ち砕かれた人々」のことです。預言者イザヤは「主は・・わたしを遣わして/貧しい人(抑圧されている人々)に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人(捕虜となっている人々)には自由を/つながれている人(牢獄にいる人々)には解放を告知させるために」と宣言するのです(イザヤ書61:1)。さらに、「わたしたちの神が報復される日を告知して 嘆いている人々を慰め シオンのゆえに嘆いている人々に 灰に代えて冠をかぶらせ 嘆きに代えて喜びの香油を 暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために」と言うのです(イザヤ書61:2-3)。「悲しむ人々は幸いである・・」は個人への慰めの言葉ではないのです。神様は外国の支配下にあって生きる気力が萎(な)えている人々を再び立ち上がらせて下さるのです。


*「柔和な・・」が謙遜な人々、穏やかな人々のこととして理解されているのです。ローマ帝国の支配下にあって、なす術(すべ)もない「無力な人々」のことなのです。神様はイスラエルの民に「わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得、あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、それを得ることができるであろう」と言われたのです(申命記4:1)。掟と法を守るユダヤ人たちが虐げられたままに捨て置かれることはないのです。必ず約束の土地を与えて祝福して下さるのです。「義に飢え乾く・・」も個人的な信仰心のことではないのです。「義」と訳されている言葉が「神様との正しい関係」として解釈されているのです。元の言葉は「正義」と訳せるのです。イスラエルの民は「モーセ五書」、「預言書(エレミア書など)」、「詩編」に親しんでいました。「正義」の遂行が神様のご命令であることを良く知っていたのです(創世記18:19)。イエス様もまた「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と言われたのです(マタイ6:33)。イエス様の弟子として「正義」の確立を求めれば、不正に利益を得ている人々は必至で抵抗するのです。既得権益を守るために「義に飢え乾く人々」を迫害するのです。「憐れみ深い・・」は「憐れみ深くあること」の難しさを教えているのです。裁くよりも赦すことが出来る人たちは「憐れみ」を受けるのです。「心の清い・・」はこの世の悪から遠ざかり、主の教えを愛し、昼も夜も口ずさむ人々のことです。いつも神様を見ているのです。祝福されるのです。


*「平和を実現する・・」はキリストの信徒たちに広い視野と判断力を求めるのです。イエス様は「平和を維持する人々は幸いである」と言われなかったのです。抑圧や搾取のない世界を実現するために奮闘する人々は祝福されるのです。正義と公平を欠いた「平和」は偽りなのです。現状を維持するために「平和」を主張する人々は偽善者なのです。イエス様が判断される基準は宗教的な行事への参加でも、聖書の言葉を暗記することでも、教会に毎週出席することでもないのです。貧困や飢えに悩まされている人々をその窮状から救うために、不当に拘束されている人々のために何をしたかなのです。イエス様は貧しい人々や虐げられた人々とご自身を同一視されたのです。「この最も小さな者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」と言われるのです(マタイ25:31-41)。キリスト信仰は誤解されているような「個人的な救い」を信じることだけではないのです。日本はもとより世界の抑圧と搾取に苦しむ人々に目を向けることでもあるのです。神様の子供たちがもっと豊かに暮らせるように「平和の実現」に取り組むことなのです。信仰には「行い」が伴わなければならないのです。高い倫理観を保持することは当然のことです。「神様の御心」に沿った生き方を貫くのです。いずれも簡単なことではないのです。不正と不公平と戦争によって利益を得ている人々から誘惑されるからです。これらの人に同調することを拒否すれば迫害されるのです。イエス様は弟子たちに繰り返し覚悟を求められたのです(ルカ9:57-61)。


*イエス様の「生き方と教え」は本質的にこの世と相容れないのです。「神様の御心」を実行すれば相応の犠牲が伴うのです。キリスト信仰は誤解されているような「安価な恵み」ではないのです。「地の塩」とはキリスト信仰を日常生活において証しすることです。個人的な信仰心を深めるだけでなく、社会や組織の中に正義を確立することなのです。自らの立場を鮮明にして貧しい人々や虐げられた人々と共に歩むのです。イエス様は「山上の説教」を締め括るに際して弟子たちに警告をされたのです。「滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出すものは少ない」と言われるのです(マタイ7:13-14)。「狭い門」から入る人々(「山上の説教」に挙げられている人々など)に「救い」が訪れるのです。「主よ、主よ」と言う人が皆「神の国」に入る訳ではないのです(マタイ7:21)。人は信仰によって「救い」に与るのです。しかし、「行い」を欠いている信仰はそれだけでは死んでいるのです(ヤコブ書2:17)。イエス様は「神様の御心」を妨げる指導者たちと闘われたのです。これらの人の罪を公然と非難されたのです。敵対する人々はローマの権力を利用し、イエス様を「政治犯」として十字架上で処刑させたのです。今日においても、御跡を辿(たど)る人々が迫害されているのです。イエス様はご自身に倣(なら)う人々を「幸いである」と言われるのです。「山上の説教」はキリスト信仰に生きる人々を慰め、励まし、祝福しているのです。

2025年01月12日