「三つの不信仰」
Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書1章40節から45節
さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで(怒りに満ち)、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし(祭司たちの下へ戻らせようとし)、厳しく注意して(怒りで鼻をならし)、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司(たち)に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい(祭司たちに証言しなさい)。」しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。
(注)
・新約聖書:原文はギリシャ語で書かれています。一つの単語が複数の意味を有している場合があるのです。どの意味を日本語に訳出するかについては翻訳(ほんやく)者の信仰理解によるところが大きいのです。時には原文の意味が全く変わるのです。
・重い皮膚病:レビ記13,14章をお読み下さい。様々な種類の皮膚病が記述されています。その中に「ハンセン病」も含まれているのです。祭司たちが皮膚病の有無・軽重について診断したのです。重い皮
膚病の人は周囲から目立つように衣服を裂き、髪をほどき、自分から「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわったのです。真に、非人間的な扱いを受けていたのです。
・ハンセン病:医学の知識が乏しい時代には強い感染性のある病気として考えられていました。罹患(りかん)した人は地域の共同体から隔離されたのです。現代では完治する病気であり回復者や治療中の人から感染する可能性は極めて低いことが確認されています。日本においては法律によって隔離政策が続けられて来ました。このため、患者は長い間差別と偏見に晒(さら)されたのです。近年ようやく政府が責任を認めて施設の入所者たち(患者団体)に謝罪し、新たな法律を作って補償することになったのです。
●全国13の国立療養所の入所者数がこの十年で半減し、5月1日現在1001人(平均年齢87.0歳)となっています。医療・介護水準の維持や、将来のあり方が課題となっているのです。ただ、コロナ禍で地域医療の拠点として再整備するなどの将来構想の実現に向けた議論は停滞しているとのことです。-2021年5月17日読売新聞オンラインから-
・祭司:律法学者たちやファリサイ派の人々と共に神殿政治の中枢を担(にな)う特権階級の一員でした。祭司職の家系に生まれたユダヤ人歴史家ヨセフスは著書の中で自分の家族がエルサレムの郊外に土地を持っていたこと、他の祭司たちが財産を蓄積している実態に言及しています(ヨセフスの生涯、63)。一般の人々より遥かに贅沢(ぜいたく)な暮らしをしていたのです。イエス様は一時的ですが神殿境内における商業活動を実力行使によって阻止されたのです。商売人たちと共にエルサレム神殿を「強盗の巣」にしている祭司たちを激しく非難されたのです(マルコ11:15-19)。既得権益と富に執着する指導者たちはイエス様を殺すために画策したのです。
・イエス様の癒しの業に与(あずか)っても、その後共に歩む人は少ないのです。
■イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った(癒した)。(ルカ17:11-19)
(メッセージの要旨)
*登場人物はイエス様と重い皮膚病を患った人の二人のように見えるのです。重要な人々が背後に存在しているのです。それが祭司たちです。物語はイエス様が重い皮膚病を患っている人を癒された出来事で完結しないのです。不誠実な祭司たちへの激しい非難となっているのです。重い皮膚病を患っている人は祭司たちが職務を果たさないことに絶望したのです。イエス様に最後の望みを託して状況を訴えたのです。多くの人は重い皮膚病を患っている人が直ちに癒された出来事に注目するのです。イエス様は病気の苦しみに加えて差別され、人格を否定されて生きている人の悩みや苦しみに共感されただけではないのです。律法の規定に従って「安全と安心」、「希望と将来」を与えるべき祭司たちが人々を追い詰めている現実に憤(いきどお)っておられるのです。癒した人に「祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、祭司たちに抗議しなさい」と命じられたのです。この意味は真に深いのです。清くなった体を祭司に見せ、生きている清い鳥二羽と杉の枝、緋糸、ヒソプの枝を捧げることは祭司たちの怠慢と腐敗への無言の告発になっているのです(レビ記14:4)。イエス様は「行って、示して、捧げなさい」のように行動を求められたのです。この人は実行しなかっただけではなく、イエス様を窮地に追い込むことになったのです。既得権益に執着する祭司たちが敵対しているのです。癒しの業が「救い」に結びついていないのです。日本語訳が「イエス様の実像」を歪(ゆが)めているのです。「神の国」の福音が妨げられているのです。
*重い皮膚病は必ずしも「ハンセン病」ではないのです。厳密に言えば「ハンセン病」を含む多くの皮膚病の一つです。重い皮膚病と診断されるとその人は他の人々との交際を禁じられたのです。(信仰)共同体の外で生活することを余儀なくされるのです。症状が与える恐怖と嫌悪感から、病気は罹患した人が犯した罪に対する「神様の罰」として考えられたのです。重い皮膚病の人はすでに祭司たちの所へ行って症状を診断してくれるように願い出ているのです。ところが、祭司たちは幾つかの理由-重い皮膚病の人の窮状への無関心、危険な職務に相応しい追加の報酬(わいろ)を期待出来ないことなど‐によって誠実に対応しなかったのです。イエス様はこの種の病気に深い理解を示しておられます。重い皮膚病の人シモンの家で弟子たちと共に食事をされたのです(マルコ14:3-9)。「神様の御心」を実現されたのです。「愛の観点」から律法では許されないことを行われたのです。イエス様の評判は各地に広まっていたのです。重い皮膚病の人はイエス様の特別な力(癒しの業)に期待したのです。イエス様はこの人の願いを聞くと直ちに行動されたのです。患部に手を触れて癒されたのです。「祭司たちに見せて、モーセの定めを実行しなさい」と言われたのです。祭司たちの怠慢を批判されているのです。本人が祭司たちの所に戻れば無言の抗議になるのです。ところが、祭司たちには体を見せなかったのです。必要性がなくなったからです。一方、自分に起こった「癒しの業」を大々的に宣伝したのです。癒された人の不信仰と非礼が際立つのです。
*重い皮膚病かどうかについて判断するのは祭司たちです。重い皮膚病に関する認定と取り消しの手続きが旧約聖書のレビ記13,14章に詳細に記述されています。数ある皮膚病の中で重い皮膚病と認定されればその人の将来は悲惨なものになるのです。祭司たちに委(ゆだ)ねられた権限は人々の運命を決定づけるに等しいのです。重い皮膚病の人がイエス様に「御心ならば(ご意思があれば)、わたしを清くすることがおできになります」と言っています。祭司たちがこの人の診断に関与しなかったのです。イエス様は祭司たちが職務を果たさなかったことを知って怒りを表されたのです。「神様の御心」に沿って癒しの業を即座に実行されたのです。イエス様は癒した人に二つのことを指示されたのです。第一は、誰かに事実を話して迫害されないように気を付けることでした。ところが、癒された人はイエス様のご指示に従わなかったのです。律法によれば重い皮膚病の人に触れた人は汚れているのです。イエス様は祭司たちに代わって職務を遂行されたのです。律法違反は明確です。祭司たちの反発は必至なのです。重い皮膚病を患った人々と同様にイエス様は村に入ることが出来なくなったのです。第二は律法に基づいて行動することです。しかし、この人は祭司たちと再び関わることを避けるのです。同じ状況にある人々のために癒された者が果たすべき役割を担わないのです。イエス様にひざまずいて癒しを願い出ているのです。しかし、癒された後は態度が一変するのです。サマリア人のようにイエス様の前にひれ伏して感謝することはなかったのです。
*多くの人にとってキリスト信仰は日本語訳を通して理解されるのです。聖書の翻訳が原文の意味を正確に表現していなければ読む人に誤解を与えることになるのです。今日の聖書の個所には翻訳上の問題点があるのです。翻訳者たちが自分の信仰理解や政治信条によって原文にある言葉や句を別の言葉に置き換えているからです。「深く憐れんで」はイエス様が祭司たちに怒っておられることを避ける言葉遣いになっているのです。「怒りを覚えて」と訳されるべきなのです。イエス様は食べたり飲んだりされる血と肉からなる社会的な存在なのです。キリストの信徒たちの中には「人間イエス様」に戸惑う方がおられるのです。マルコは「イエス様の実像」をありのままに記述しているのです。怒れるイエス様(マルコ3:5)、憤られるイエス様(マルコ10:14)として表現しているのです。「厳しく注意して」の原文の意味は馬が鼻息を鳴らすことです。人間の行為や感情に適用すると「怒りで鼻を鳴らして」になるのです。和らげて訳されているのです。イエス様は激しく怒っておられるのです。さらに、原文にはない言葉-人々に-が挿入されているのです。「祭司たちに証明しなさい」が「人々に証明しなさい」へと変更されているのです。イエス様の怒りが祭司たちに向かないように意図的に工夫しているのです。文章に整合性がなくなっただけでなく、イエス様の真意を歪(ゆが)めることになっているのです。イエス様は一貫して貧しい人々、虐げられた人々の側に立たれたのです。「イエス様の実像」を変容することは罪なのです。心に刻むのです。
*イエス様は癒しの業を行われただけではないのです。御業を通して重い皮膚病を患っている人々を苦しめている制度の不備や祭司たちの不信仰に憤っておられるのです。「イエス様の怒り」は個人的な感情から生じたものではないのです。祭司たちは重い皮膚病の人が自分の所に来ることを疎(うとん)んじるのです。イエス様はご自分の方からこれらの人に近づかれたのです。祭司たちから「汚れている」と宣告されることを承知の上で、しかも(信仰)共同体から追放される危険を冒(おか)して、その人に触れられたのです。レビ記13章に重い皮膚病の人を主に衛生上の理由から(信仰)共同体の外に強制的に住まわせることが定められています。ただ、これらの人を劣った人間として扱うべきであるとか、援助を提供してはならないというような規定はどこにもないのです。ところが、重い皮膚病に罹患していると診断された人は(信仰)共同体から隔離され、社会的地位をはく奪され、差別され、粗野に扱われているのです。一方、レビ記14章には重い皮膚病の人が(信仰)共同体に戻れる規定もあるのです。祭司たちの診断によって「汚れていないこと」が分かれば社会復帰することが出来るのです。神様によって任命された祭司たちが職務を遂行していないのです。地位と権威を悪用して富を増やしているのです。イエス様は断じて「穏やかなお方」ではないのです。「神様の子供たち」を苦しめている祭司たちに怒っておられるのです。翻訳者には「イエス様の実像」を伝える責務があるのです。何より癒した人が悔い改めることを待っておられるのです。