「傲慢な人々への警告」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書18章9節から17節


自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 

イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

(注)

・ファリサイ派の人々:律法(や昔の人の言い伝え)を厳格に日常生活に適用しているユダヤ人のグループです。例えば、食事の前には必ず手を洗うことです。一方、自分たちの都合に合わせて解釈を変更したのです(マルコ7:1-19)。イエス様は彼らの偽善と腐敗を厳しく非難されたのです(マタイ23章)。ファリサイ派の人々はイエス様に敵対していました。ところが、所属する議員の中にはニコデモのようにイエス様を信じている人もいたのです(ヨハネ19:38-42)。

・律法学者たち:文書を記録する官僚であり、学識を有していたのです。多くはイエス様に批判的でしたが、「先生,あなたがおいでになる所ならどこへでも従って参ります」と言った律法学者もいたのです(マタイ8:19)。

・罪人:ローマに協力する徴税人たち、身体や精神に障害のある人々、不道徳な女性たち、律法を順守しない人々(献金をしない貧しい人々)、サマリア人や異邦人と交際する人々のことです。

・徴税人:ユダヤの民衆は苛酷な税に苦しめられていたのです(ルカ3:13)。徴税人たちはローマに税を上納するだけでなく、規定以上の税を取り立てて私腹を肥やしていたのです。一方、イエス様は社会から排斥された徴税人や罪人たちと食事をされたのです(ルカ5:30-32)。

・断食:年に一度の「贖(あがな)いの日」に大祭司は神殿内にある至聖所に入り、全民衆の罪の懺悔(さんげ)のために断食をしました。

・献金:ユダヤ人には神殿と祭司たちを支えるために農産物の十分の一を捧げることが義務付けられていました(レビ記27:30-33)。ハーブ類の薄荷(はっか)、いのんど、ういきょうは除外されていました。ファリサイ派の人々はこれらの十分の一も捧げて信仰を誇るのです。しかし、イエス様は律法で最も重要な正義、慈悲、誠実をないがしろにするこれらの人を厳しく非難されたのです(マタイ23:23)。


・義:日本語訳では「義」と訳されていますが、元の言葉には「正義」という意味があるのです。「神様の御心」に適(かな)った心のあり方だけでなく、その人の生き方を表しているのです。個人的な倫理感、道徳心の高さとして用いられることが多いのです。しかし、この言葉には社会的な正義、公平に関する認識の深さも含まれているのです。

・子供たち:両親(保護者)の下に成長するのです。無力な人々(権力を持たない人々)を象徴(しょうちょう)しているのです。貧しい人々や虐げられた人々のことです。これらの人は「神の国」の到来を福音-良い知らせ-として素直に受け入れたのです。神様にすべてをお委(ゆだ)ねしたのです。最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を真剣に守っているのです。

・神の国:天の国とも呼ばれています。死後に行く「天国」のことではないのです。神様の主権、神様の支配を表す言葉です。イエス様の宣教の第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」です(マルコ1:15)。イエス様を通して「神の国」はこの世に具体化しているのです。病人や心身に障害のある人々が癒され、罪の赦しが行われているのです。この事実が福音なのです。

(メッセージの要旨)


*イエス様のたとえ話は2000年前のファリサイ派の人々への警告として語られたのです。内容は現代に生きるキリストの信徒たちにも通じるのです。「聖書に忠実である」と言う言葉が時々聞かれるのです。しかし、そのようなことは誰にも出来ないのです。「神の国」が知的に、神学的に理解されているのです。旧・新約聖書が伝える神様は一貫して言葉ではなく、行いによる信仰を求められるのです。イエス様によって「神様の主権」は天上と地上のすべてに及ぶことが宣言されたのです。終わりの日(最後の審判の時)に人間の「全的な救い」として完成するのです。光がある内に悔い改めてこれまでの「生き方」を根本的に変えるのです。一方、イエス様は二つの重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実践するように命じられたのです。「主の祈り」には「わたしたち、わたしたちの、わたしたちを」が用いられています。個人的な祈りではないのです。信仰共同体を構成する人々の均質性が強調されているのです(ルカ11:4)。キリストの信徒たちは貧しい人々や虐(しいた)げられた人々に奉仕することによって「神様への信仰」を証しするのです。すべての罪は神様を試みること、神様を軽んじること-人間の不信仰-から生じているのです。驕(おご)り、高ぶりを克服する有効な方法があるのです。誇りとなる物(富や才能など)を手放すことです。隣人のためにそれらを使うのです。社会の底辺で喘(あえ)ぐ人々の所へ降りて行くこと-子供のようになること-によって謙遜を学ぶのです。何よりもイエス様の生き方に倣(なら)うのです。


*神殿で祈っている二人は全く異なった信仰心を表しています。ファリサイ派の人は正直で、律法を順守する生活を送っています。しかも、律法が求める以上のことを実行しているのです。律法には一年に一度「贖(あがな)いの日」に断食をすることが定められています。ところが、一週間に二度-月曜日と木曜日-に断食をしているのです。献金についても求められていない分を含めて収入の十分の一を捧げているのです。この人は神殿の目立つ場所に立って、神様に赦しを乞うようなことが何もないかのように祈るのです。すべて「わたし」で始めて信仰心を誇り、律法を守らない人々を見下しているのです。一方、徴税人は神殿の聖所から遠く離れた場所で、目を天に向けることなく、神様に祈ったのです。罪を告白して、ただ「神様の憐れみ」を願い出たのです。神様に祈りを聞き入れられた人は徴税人でした。たとえ話は二人の信仰心を比較しているだけではないのです。もっと深い意味が隠されているのです。神様は社会から排斥された人々に優先的に福音を届けられるのです。ご自身を求めて来る罪人たちを受け入れられるのです。律法で規定された宗教儀式の順守や善行によって自分を誇る人々には耳を閉ざされるのです。善い行いが悪い分けではないのです。神様に栄光を帰すことだからです。自分を誇るためであればそれは偽善なのです。偽善者たちは「神の国」に入れないのです。「神の国」においてこの世の価値基準が逆転するのです。罪を犯さない人はいないのです。信仰を誇ることなど誰にも出来ないのです。悔い改めなければ皆滅ぶのです。

*キリストの信仰が「個人的な救い」の問題として限定的に理解されているのです。「神の国」の福音は「永遠の命」の付与に留まらないのです。政治、経済、社会を含む人間の「全的な救い」として実現するのです。ある律法の専門家が「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねました。イエス様は「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」と答えられたのです。そして「それを実行しなさい」と命じられたのです(マルコ10:25-28)。「行い」は「救い」にとって必須の要件となっているのです。「救い」に与った人々には使命(責務)があるのです。イエス様の御跡を辿(たど)って「神の国」の建設に参画することです。イエス様は山上の説教において「あなたがたの義(正義)が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と断言されたのです(マタイ5:17-20)。ヤコブも「『隣人を自分のように愛しなさい』という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔(へだ)てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです」と言っています(ヤコブ書2:8-10)。傲慢はその人の「救い」を左右する大きな罪です。信仰を自負する人々には思いがけない結末が待っているのです。

*律法の規定をすべて厳格に実行することは至難の業です。完全に履行しようとする熱心さの中にかえって偽善が生まれるのです。罪を犯したことのない人は誰もいないのです。イエス様はそのことをご存じなのです。律法学者たちやファリサイ派の人々が姦通の現場で捕らえられた女性を連れて来て「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」と尋ねました。イエス様は「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われたのです。これを聞いた人々は年長者から始まって、一人また一人と、その場を立ち去ったのです(ヨハネ8:3-9)。姦淫の罪は律法(十戒)の中で取り上げられています。犯した者は石打の刑に処せられるのです。ところが、イエス様は一方的に女性が犯した罪を赦されたのです。人々は軽微な罪は簡単に赦されるものと考えているのです。しかし、罪は罪なのです。罪には罰が伴うのです。信仰心の篤さを誇っても「救い」の保証にはならないのです。イエス様は「人を裁くな」と命じられました(マタイ7:1-5)。権限はご自身にあると言われるのです(ヨハネ(5:22)。パウロも「自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです」と明言しているのです(1コリント4:4)。「神様の憐れみ」は尽(つ)きないのです。それ故に、憐れみ深い人間になるのです。「裁き」をお待ちするのです。

*「神様の支配」が少しずつ人間の心と社会に浸透しているのです。人々に悔い改めが起こっているのです。キリスト信仰とは「神の国」の到来を福音として信じることです。「神の国」は死後の救い-人間の究極的な願い-に限定されるものではないのです。神様は政治、経済、社会の福音化にも深く関心を寄せておられるのです。イエス様は「神様の御心」を体現されるのです。社会から排斥された徴税人や罪人たちと共に食事をされたのです。パリサイ派の人々や律法学者たちは律法違反を指摘したのです。イエス様は「神の国」に対する無理解と律法主義への固執を厳しく非難されたのです。九十九ひきを残して迷い出た一匹の羊を必死で探し求める羊飼い(マタイ18:10-14)、10枚持っている銀貨の内1枚を無くしたので部屋中を掃いて見つけるまで探している女性(ルカ15:8-10)、分け与えた財産を放蕩(ほうとう)して使い果たした息子が帰って来ると喜んで迎える父親(ルカ15:11-24)のように、神様は罪人がご自身の下へ帰って来るのを忍耐して待っておられるのです。神様はそういうお方なのです。イエス様は律法の中にある最も大切な言葉-正義、慈悲、誠実-を基本にして「神様の御心」を証しされたのです(マタイ23:23)。「思いと行い」の判断基準を神様の戒めに求める生き方こそキリスト信仰の真髄(しんずい)なのです。「神様の憐れみ」に応えるのです。この世の真っ只(ただ)中に力を合わせて「神の国」を建設するのです。信仰の対極にあるのが傲慢です。最大の罪なのです。真剣に内省するのです。

2026年07月12日