「神様の戒めを守りなさい」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書5章17節から20節

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成(成就)するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国(神の国)で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義(正義)が律法学者(たち)やファリサイ派の人々の義(正義)にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

(注)

・モーセ五書:旧約聖書の中にある創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のことです。

・律法:神様の戒めのことです。最も基本となるのが「十戒」です。以下は抜粋です。

神はこれらすべての言葉を(モーセに)告げられた。「わたしは主、あなた(がた)の神、あなた(がた)をエジプトの国、奴隷の家から導き出した神で
ある。

一あなた(がた)には、わたしをおいてほかに神があってはならない。
一あなた(がた)はいかなる像も造ってはならない。
一あなた(がた)の神、主の名をみだりに唱えてはならない。
一安息日を心に留め、これを聖別せよ。
一あなた(がた)の父母を敬え。
一殺してはならない。
一姦淫してはならない。
一盗んではならない。
一隣人に関して偽証してはならない。
一隣人のものを一切欲してはならない。」 (出エジプト記20:1-17)


・イエス様が教えられた最も重要な戒め:

■彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコ12:28-31)

・律法学者:文書を取り扱う官僚であり、律法に関する学者です。

・ファリサイ派:律法を日常生活に厳格に適用したユダヤ教の一派です。イエス様に律法学者と共に敵対しました。

・過越祭:ユダヤ教の三大祭りの一つです。イスラエルの民がエジプトから解放されたことを祝うのです。ユダヤ人の信仰の原点となっています。

・七週祭:ユダヤ教の三大祭りの一つです。春の麦の収穫祭でしたが、律法を授けられた記念として過越祭から数えて50日目に祝います。

・仮庵祭:ユダヤ教の三大祭りの一つです。イスラエルの民が荒れ野で天幕に住んだことを記念しています。秋の果実の収穫祭でもありました。

(メッセージの要旨)

*旧・新約聖書は神様がどのようなお方であるかを伝えています。律法は「神様の御心」を表しているのです。神様はアブラハムが九十九歳になった時に現れて「わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする」、さらに「わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子(子供)たちとその子孫(家族)に、主の道を守り、主に従って(アブラハムに倣って)正義(義)を行うように命じて、主(わたし)がアブラハムに約束したことを成就(実現)するためである」と言われました(創世記17:1-18:19)。アブラハムを通して世界のすべての国民に祝福が宣言されたのです。同時に、すべての人に主の道を守ること-正義(社会正義)の追求と義(倫理的高潔さ)の堅持-が義務となったのです。時代が下って、ヘブライ人たち(イスラエルの民)はエジプトの王ファラオの圧政の下で苦しんでいたのです。神様はご自身の民の窮状をつぶさに御覧になったのです。天から降って行ってエジプト人の手から解放されたのです(出エジプト記3:7-12)。シナイ山ではモーセを通して彼らに基本となる十戒と関連する個別の規定を授けられたのです。人々が罪を犯すことなく、生きながらえるためでした。その後も、預言者たちを通して歴代の王を導かれたのです。新しい天地創造に先立って遣わされたイエス様は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたのです(マルコ1:15)。先ず「神の国」(神様の支配)と「神の義」(正義)を求めるのです(マタイ6:33)。そうすれば必要な物は必ず与えられるのです。

*聖書の個所は「山上の説教」(マタイ5-7)の中の一部分です。イエス様は「律法や預言者たち(種々の預言書)を廃止するためではなく、完成するために来た」と言われました。「神の国」は到来しているのです。ただ、まだ完成していないのです。イエス様が再び地上に来られる時(再臨)までキリスト信徒たちは新しい解釈の下で律法や預言者たちの言葉を守って-神様と隣人を愛して-生きるのです。現実(律法)から遊離した霊的側面を過度に強調するような信仰理解は避けなければなりません。イエス様はユダヤ人であるだけでなく、ユダヤ人であることに徹(てっ)せられたのです。ユダヤ教の伝統や聖なる日を順守し、過越祭、七週祭、仮庵祭にはエルサレム神殿へ巡礼し、安息日には会堂の礼拝に出席されたのです。宣教活動においては律法(旧約聖書)に言及されたのです。一方、イエス様はご自身が「安息日の主」であることを公言されたのです。「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と言って「神様の御心」を明確にされたのです(マルコ2:27-28)。安息日に手の萎(な)えた人を癒されたのです。批判する人々には「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と反論されたのです。「救いの御業」の完成者であるイエス様は御言葉を語られただけではなく、人々の痛みを担われたのです。病気の人々、体の不自由な人々、悪霊に悩まされている人々、罪人の烙印(らくいん)を押された徴税人や娼婦たち、貧しい人々と共に歩まれたのです。

*律法の解釈を巡り、律法学者たちやファリサイ派の人々との間に鋭い対立があったのです(マルコ3:1-6)。イエス様は御子の権威を持って「あなたがたは聞いている通り、・・しかし、わたしは言っておく」という形式でモーセの律法を新たに解釈されたのです(マタイ5:21-48)。従来の解釈が厳格化されたのです。誰も信仰を誇ることが出来ないのです。幾つかの例を挙げおられます。「・・昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、・・兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」神様が定められた裁きの基準は厳しいのです。人間の常識を遥かに超えているのです。「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし・・不法な結婚-不貞の罪を犯すこと-でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」当時は家父長社会-男尊女卑の社会-です。夫が思いのままに妻に離縁状を出しているのです。人間は許しても、神様は夫の横暴を厳しく罰せられるのです。「・・『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし・・悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。・・」が誤解されているのです。「愛」によって不正を赦すことではないのです。正義を非暴力で貫くための手法なのです。神様は何よりも正義を大切にされるのです。

*律法学者たちやファリサイ派の人々は民衆にモーセの律法の完全履行を求めるのです。ところが、自分たちはそれを実行しないのです。施しをする時は人々から賞賛を得るために敢えて会堂や街角で行うのです。祈る時は人々に見てもらおうとして大通りの角に立って祈るのです。宴会では上座、会堂では上席に座ること、広場では挨拶され、先生と呼ばれることを好むのです。規定の十分の一以上の捧げものをして信仰を誇るのです。しかし、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実をないがしろにしているのです。人々に外側を正しいように見せながら、心は偽善と不法に満ちているのです。イエス様は指導者たちの不信仰と貪欲を激しく非難されたのです。これらの人に天罰が下ることを明言されたのです(マタイ23)。一方、弟子たちには「あなたがたの義(正義)が律法学者たちやファリサイ派の人々の義(正義)にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と言われたのです。信仰によって「天の国」に入れると信じている人々には真に厳しいお言葉となるのです。ヤコブも「行いのない信仰はそれだけでは死んだものです」と言うのです(ヤコブ2:14-17)。正義の希求と高潔さは「救いの要件」なのです。キリスト信仰による「救い」は安価な恵みではないのです。イエス様は最も重要な戒めとして「神様と隣人を愛すること」を挙げられました。「神の国」の建設のために働いた人々が「永遠の命」に与るのです。多くの人が御言葉を語っているのです。しかし、その正しさは「行い」によって証明されるのです。

*律法が恣意的(しいてきに)に解釈されているのです。イエス様のお言に従うのではなく、自分が許容できる教えだけに耳を傾けているのです。イエス様に敵対するファリサイ派の議員たちの中に回心したニコデモがいました。最高法院ではイエス様を弁護し、十字架上で処刑されたイエス様のご遺体を埋葬したのです。すべてをイエス様に捧げる覚悟がなければこのような行動には出られないのです。その後、同僚の議員や指導者たちから非難され、迫害を受けたことは容易に想像されるのです。手の萎えた人のように障害がある人は罪人と見なされ、社会の隅に追いやられたのです。仕事にもつけず、物乞いをするしか生きる道はなかったのです。イエス様はこのような人々に援助の手を差し伸べないことは「これらの人を殺すことである」と言われたのです。隣人愛によって「人を殺してはならない」の趣旨が深められているのです。「神様の御心」と人々の間に深刻な認識のずれがあるのです。イエス様は律法を都合よく解釈する人々に警鐘を鳴らしておられるのです。キリスト信仰が誤解されているのです。信仰とは「生き方」のことなのです。イエス様が模範を示されたように弱い立場にある人々の側に立つのです。社会正義の実現に取り組み、篤い信仰心を貫くのです。キリスト信仰を表明しただけでは「救い」に与れないのです。「行い」が伴わなければならないのです。「神様の戒め」を軽んじてはならないのです。「イエス様の教え」を変容してはならないのです。高慢は大きな罪です。「死に至る病」です。イエス様が「救い」を判断されるからです。

2024年06月09日