「自分の十字架を担いなさい」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書10章26節から42節

「(敵対する)人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は(誰でも)、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は(誰でも)、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も(誰でも)、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は(誰でも)、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者(人々)は、それを失い、わたしのために命を失う者(たち)は、かえってそれを得るのである。」

「あなたがたを受け入れる人は(誰でも)、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は(誰でも)、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は(誰でも)、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は(誰でも)、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は(誰でも)、必ずその報いを受ける。」

(注)

・1アサリオン:1デナリオン(平均的労働者の一日分の賃金に相当する額)の16分の一です。

・人々の前でわたしを知らないと言う者:ペトロを想起するのです。

■ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。(マルコ14:66-72)

・イエス様による「神の国」の到来を示す言葉:

■イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人(人々)に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人(人々)に解放を、/目の見えない人(人々)に視力の回復を告げ、/圧迫されている人(人々)を自由にし、 主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(ルカ4:16-21)

■(洗礼者)ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人(人々)は見え、足の不自由な人(人々)は歩き、重い皮膚病を患っている人(人々)は清くなり、耳の聞こえない人(人々)は聞こえ、死者(たち)は生き返り、貧しい人(人々)は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。(マタイ11:2-6)

・「神の国」とこの世に関するパウロの認識:

■正しくない者(悪事を働く人々)が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをして(だまされて)はいけない。(性的に)みだらな者(たち)、偶像を礼拝する者(たち)、姦通する者(たち)、男娼(を行う人々)、男色をする者(たち)、泥棒(をする人々)、強欲な者(たち)、酒におぼれる者(たち)、人を悪く言う者(たち)、人の物を奪う者(たち)は、決して神の国を受け継ぐことができません。(1コリント6:9-10)

■人は皆、上に立つ権威(権力)に従うべきです。神に由来しない権威(権力)はなく、今ある権威(権力)はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は(だれでも)、神の定めに背くことになり、背く者(たち)は自分の身に裁きを招くでしょう。実際、支配者(たち)は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなた(がた)は権威者を恐れない(権力の恐怖から解放される)ことを願っている(のですか)。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう(権力による承認を得られるのでしょう)。権威者(権力)は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者(権力)はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。(ローマ13:1-4)

・ファリサイ派の人々:ユダヤ教の律法を生活の隅々に適用し、厳格に守ったのです。しかし、それは人々に見せるために行われたのです。彼らは偽善者なのです。

・律法学者たち:ユダヤ教の律法を専門的に解釈していた人々です。イエス様の主要な敵対的グループの一つです。

・敵対させるために:ミカ書7:6を参照して下さい。

・この小さな者の一人:クリスチャン宣教師のことです。

(メッセージの要旨)

*イエス様は生と死と復活を通して「神の国」(天の国)-神様の支配-を証しされたのです。キリスト信仰とは「神の国」の到来を福音として信じることなのです。キリスト信仰が誤解されているのです。福音が「罪の赦し」に縮小されているのです。キリストの信徒としての責務が疎(おろそ)かにされているのです。イエス様は神様から委ねられた使命のためにご生涯を奉げられたのです。「神様の御心」を実現するためには激しい対立さえも恐れられなかったのです。ファリサイ派に属する律法学者たちはイエス様が徴税人や罪人たちと食事していることを非難したのです。イエス様は「罪人たちを神様の下へ招くために来た」と言って反論されたのです(マルコ2:17)。それ故に迫害されたのです。イエス様は使徒たちを派遣するにあたって「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と言われたのです(マタイ10:16)。イエス様の弟子であると言う理由で地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるのです。家族にも分裂が生じるのです。兄弟は兄弟を、父は子を、子は親を殺すのです。イエス様の名前のために、すべての人に憎まれるのです。イエス様は弟子たちに覚悟を求められるのです。クリスチャンとは「キリストにつける者」と言う意味です。イエス様が十字架を背負われたように、自分の十字架を担った人がキリストの信徒と呼ばれるのです。キリスト信仰は安価な恵みではないのです。犠牲が伴うのです。「永遠の命」に与った人々はこの世に同調することは出来ないのです。御跡を辿(たど)るのです。「真理の剣」を高く掲げるのです。


*イエス様はユダヤ教の拠り所であるエルサレム神殿のあり方を公然と非難されたのです。過越祭-エジプトの圧政から解放されたことを記念する重要な祭り-が近づいた時です。イエス様はエルサレムへ上られたのです。神殿の境内で生贄(いけにえ)の羊や鳩などを売っている人々、座っている両替人たちを御覧になったのです。イエス様は縄で鞭(むち)を作り、動物たちをすべて追い出し、両替人の金をまき散らして「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と命じられたのです(ヨハネ2:13-16)。エルサレム神殿が腐敗していることに憤られたのです。エルサレム神殿に「祈りの家」の面影は見られないのです(イザヤ書56:7)。民衆を搾取する「強盗の巣」になっているのです(エレミヤ書7:11)。神殿機能が一時的に停止したのです。供え物の動物たちが確保されなければ、他国の通貨を清める両替が行われなければ神殿礼拝の正当性が失われるのです。ユダヤ教にとって最も重要な神殿礼拝が根底から揺らいでいるのです。大祭司カイアファを代表とする指導者たちにとって前代未聞のことが起こっているのです。神様への冒涜(ぼうとく)を断じて赦すことは出来ないのです。どのようにしてイエス様を殺そうかと謀議したのです。イエス様は誕生以来十字架の死を目指して歩まれた訳ではないのです。「神様の御心」-神の国の福音-が実現していることを証しされたのです。言葉だけではなく、「実力行使」によって神殿崩壊を警告されたのです。果たして、ローマ軍はエルサレム神殿を完全に破壊したのです(紀元70年)。

*「神の国」の福音を宣教するイエス様とユダヤ教の伝統に固執する人々の間に律法の解釈を巡って対立が生じているのです。イエス様は弟子たちに「恐れることなく、大胆に証ししなさい」と言われるのです。イエス様のお言葉には力があるのです。神様がイエス様と共におられるからです。イエス様は民衆の社会的、経済的、政治的窮状に心を砕かれたのです。信仰を自負するファリサイ派の人々や律法学者たちは最も重要な戒め-正義、慈悲、誠実を実行しないのです、既得権益に執着し、神様を軽んじて偽善者であり続けるのです。彼らに天罰が宣告されたのです(マタイ23)。使徒言行録は初代教会の信徒たちの多くがガリラヤから来た貧しい農民であったこと、イエス様が十字架上で政治犯として処刑された後も敵対する人々(指導者たち)から執拗に迫害されたことを伝えているのです(使徒1-8)。キリストの信徒たちは持ち物を共有していたので貧しい人は一人もいなかったのです。キリスト信仰は抑圧され、搾取されている人々には希望の光なのです。神様が御力を発揮して下さると信じているのです。勇気を出して家族関係を問い直し、指導者たちの不信仰と不正を告発するのです。キリスト信仰が恵みを受けるだけの信仰に陥(おちい)っているのです。イエス様はこのような信仰のあり方に警鐘を鳴らしておられるのです。キリストの信徒たちに曖昧(あいまい)な生き方は許されないのです。イエス様に従って「永遠の命」に与(あずか)るか、イエス様を拒否して「滅び」に至るかなのです。御心に適う人々は決して見捨てられないのです。

*預言者イザヤは「正義が造り出すものは平和であり/正義が生み出すものは/とこしえに安らかな信頼である」と言っています(イザヤ書32:17-18)、イエス様は山上の説教において「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。義(正義)のために迫害される人々は、幸いである、/天の国(神の国)はその人たちのものである」(マタイ5:9-10)と宣言されたのです。正義と平和は不可分なのです。いずれも「待っていれば訪れる」というものではないのです。人間の不断の努力が必要なのです。平和を希求するキリストの信徒たちは闘うことになるのです。「神様の御心」を軽んじる権力者たちと対峙するのです。剣なしでは平和は実現しないのです。このような視点が隅に追いやられているのです。個人的な罪の問題は強調されても、平和や正義に言及されることが極めて少ないのです。主な理由の一つは「神の国」を個人的な信仰心の問題として理解したパウロの影響です。パウロはイエス様から教えを受けたことや宣教活動に従事したこともないのです。ところが、キリスト信仰の有力な解釈者となっているのです。二つ目はローマ皇帝コンスタンティンがキリスト教を公認したことです(西暦312年)。このことが「神の国」の意味を変容するのです。権力者たちは支配を正当化するためにパウロの言葉「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」を引用するのです。「正当性」は言葉ではなく行いによって判断されるのです。

*「神の国」の福音は「罪からの救い」に留まるものではないのです。「人間の全的な解放」として実現するのです。ところが、クリスチャンに「永遠の命」のことは語られても、「自分の十字架」を担うことの厳しさが伝えられていないのです。この事実をもっと深刻に受け止めるべきです。キリスト信仰には行いが不可欠なのです。行いのない信仰は思いがけない悲惨な結果をもたらすのです(マタイ25:31-46)。イエス様は「わたしは柔和で、謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と言われたのです(マタイ11:29)。十字架の重みに耐えながら黙々と日々を過ごしている人々がいるのです。イエス様はこれらの人が涙を流し、眠れない夜を過ごしていることをご存知なのです。一方、イエス様の実像が歪められているのです。洗礼者ヨハネがイエス様について「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と言っています。人物像を屠り場に向かう穏やかで従順な小羊に重ねる人も多いのです。イエス様は平和、柔和、謙遜を大切にされたのです。同時に、正義、慈悲、誠実を貫かれたのです。イエス様は弟子たちに絶えず覚悟を求められたのです。キリストの信徒たちも様々な困難に遭遇するのです。幸いにも「涙と共に種を蒔(ま)く人は喜びの歌と共に刈り入れる」のです(詩編126:5)。イエス様も「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と約束されたのです(マタイ24:13)。お言葉を心に刻み、自分の十字架を担うのです。恐れることなく歩むのです。

2024年07月14日