「声なき叫び」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書13章10節から21節 

安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている(ある霊によって手足を不自由にされている)女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった(体が前かがみになり、まっすぐに伸ばすことが出来なかった)。イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治(なお)った」と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治(なお)してもらうがよい。安息日はいけない。」しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日に(も)牛やろばを飼い葉桶(おけ)から解いて(小屋から出して)、水を飲ませに引いて行くではないか。この女(婦人)はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛(しば)られていたのだ。安息日であっても、その束縛(そくばく)から解いてやるべきではなかったのか。」こう言われると、反対者(敵対者たち)は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。そこで、イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔(ま)くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」また言われた。「神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨(ふく)れる。」


(注)


・日本語訳の問題点:


●「腰の曲がったまま・・」は意訳です。障害の詳細は不明です。


●「女」も「婦人」も原語は同じです。どちらかに統一すべきです。翻訳者の考え方が表れています。


・会堂長:礼拝を司(つかさど)り、建物や施設の管理を担(にな)っていました。


・安息日の規定:モーセの「十戒」にあります。


■安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなた(がた)の仕事をし、七日目は、あなた(がた)の神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなた(がた)も、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなた(がた)の町の門の中に寄留する人々も同様である(出エジプト記20:8-10)。これは人間のために設けられたのです。神様の深いご配慮なのです。


・アブラハムの娘:神様が選ばれた人々の一人であることを確認されたお言葉です。


■主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪(のろ)う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」(創世記12:1-3)


■イエス様は悔い改めた徴税人の頭ザアカイも「アブラハムの子」と呼ばれました(ルカ19:9)。


■悪霊と病気は深く関係しています。「癒しの業」はイエス様が悪魔の力に打ち勝っていることを証明しているのです。女性の弟子マグラダのマリアは「七つの悪霊」を追い出していただいた人です(ルカ8:4)。


・サタン:悪霊の頭です。悪魔と同じ意味を表しています。人間の罪を「告発する者」と呼ばれていました(ヨブ記1:6)。


■七十二人(弟子たち)は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻(いなずま)のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威(けんい)を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記(しる)されていることを喜びなさい。」(ルカ10:17-20)


・神の国(天の国):旧・新約聖書を貫く信仰の基本理念です。誤解されているような死後に行く「天国」のことではないのです。


●神様の全き支配のことです。神様が人間の心と社会の隅々において真に崇められ、あらゆる価値の基準とされることです。それらを通して正義と平和の秩序が実現されることなのです。旧約聖書は神の国の到来を待ち望むイスラエルの信仰を書き記したものです。神様はイスラエルの民をエジプト人の支配から救い出し、砂漠を経て約束の地へ導かれたのです。ご自分に頼る者を決して見捨てられないのです。どのような地上の力にも勝っておられるのです。信頼するに値するお方なのです。その後も、イスラエルの民は異国の支配下で弾圧され、分断され、捕囚の地に連れていかれたのです。しかし、神様はイスラエルと共におられたのです。民の身の上を思い,心を痛められたのです。イスラエルの民はこの神様がいつの日か、必ず自分たちを解放して下さることを信じたのです。イエス様は「神の国」の到来を目に見える形で福音(良い知らせ)として証しされたのです。


・パン種:パンの製造に使用する酵母(こうぼ)です。


・1サトン:約12.8リットルです。


(メッセージの要旨)


*イスラエルは歴史的に家父長社会です。男性が女性を圧倒的に支配しているのです。女性は男性(父親あるいは夫)の財産の一部として扱われたのです(出エジプト記22:15-16)。夫が妻に不満がある場合は簡単に離縁することが出来たのです(出エジプト記21:7-11)。女性は悪霊に取りつかれていました。手足も不自由な障害者だったのです。「生まれつきの盲人」を見て、弟子たちがイエス様に「誰が罪を犯したからですか」と尋(たず)ねているのです(ヨハネ9:1-2)。心身の障害は罪の結果であると考えられていたからです。女性の苦しみや悲しみは想像を絶するのです。会堂長や彼の信仰理解に同調する人々はイエス様を非難したのです。イエス様は彼らを偽善者たちと呼ばれたのです。人間よりも家畜の方を大切にしているからです。偽善は傲慢(ごうまん)から生まれるのです。イエス様は兄弟姉妹を裁く弟子たちにも「まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑(くず)を取り除くことができる」と言われたのです(マタイ7:5)。信仰を自負する人々が偽善に陥(おちい)っているのです。罪人を裁く資格があるかのように尊大になっているのです。罪の範囲を自分で決めているのです。してはならないことをすれば罪です。しかし、するべきことをしなければそれも罪なのです。イエス様に裁きが一切委(ゆだ)ねられていることを想起すべきです(ヨハネ5:22)。キリストの信徒たちは「声なき叫び」に耳を傾けるのです。「神の国」の建設に参画するのです。


*アメリカの西海岸にある都市シアトルでユダヤ教の礼拝に出席させていただいたことがありました。担当者の方によると、2000年前の礼拝様式と全く同じではないとのことでした。しかし、当時の状況を十分に追体験することが出来ました。印象に残ったことが幾つかあります。一部をご紹介します。会堂内の正面の壁の中に置かれたランプの両側に「十戒」が五戒に分けて掲示されていました。神様の戒めに忠実な人々はモーセの律法を大切にしておられることが分かるのです。礼拝のたびに「安息日を心に留め、これを聖別せよ」を確認されているのです(出エジプト記20:8)。イエス様はユダヤ人です。安息日に会堂で礼拝することを常とされていました。聖書(旧約聖書)を朗読されることもあったのです(ルカ4:16)。今回は教師として教えられたのです。この点はキリスト信仰を考える上とても重要です。18年間も手足の不自由な女性が礼拝に出席していました。彼女はイエス様に願い事を申し出た訳けではないのです。イエス様の方から「癒しの業」を施(ほどこ)されたのです。これが福音なのです。ところが、礼拝の責任者である会堂長は群衆に律法の規定を説明しながら、間接的にイエス様を非難しているのです。すでに、イエス様は「安息日は人のために定められたこと」、「ご自身が安息日の主であること」を明言しておらます(マルコ2:27-28)。「神の国」が到来しているのです。ただ、「からし種」や「パン種」のように小さいのです。イエス様はキリストの信徒たちにそれらを「大きくしなさい」と言われたのです。


*新約聖書のヤコブの手紙は示唆(しさ)に富んでいます。「あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来(き)、また、汚(きたな)らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたは、こちらの席にお掛けください』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座(すわ)るかしていなさい』と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし・・たことになるのではありませんか」と書かれています(ヤコブ書2:2-4)。18年間も病の霊に取りつかれ、体に障害がある女性が会堂に来ても、会堂長や律法主義に固執(こしつ)する人々は彼女を罪人として蔑(さげす)むだけなのです。女性の苦悩や悲しみに関心を示すことはなかったのです。軽蔑(けいべつ)の眼差(まなざ)しに耐(た)えながら、会堂の隅(すみ)に立って祈りを捧げたのです。女性は会衆と同じ空間にいながら孤独でした。イエス様はこの人に声をかけられたのです。ヤコブが「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継(つ)ぐ者となさったではありませんか」と言っています(ヤコブ書2:5)。イエス様は「力ある業」を通して「神様の御心」を伝えられたのです。パウロは「自分のことを正しい人であると自負しても救いの保証にはならない」と言うのです(1コリント4:4)。誰にも人を裁く資格はないのです。「神様の御心」を実践した人々だけが「神の国」に迎えられるのです(マタイ7:21)。


*イエス様はご自身を「神の子」と信じる人々に模範(もはん)を示されたのです。障害のある人々、悪霊に悩まされている人々、徴税人たち、遊女たち、サマリア人たち、貧しい人々、不当に弾圧されている人々、罪人として蔑(さげすまれている人々-社会の中で排斥されている人々-の友になるように命じられたのです。ところが、教会はイエス様の教えをこの世に順応させるために工夫を凝(こ)らして来たのです。キリスト信仰がイエス様の「生き方」ではなく、時代の寵児(ちょうじ)となった宗教指導者たちや神学者たちが作成した教義(神学理論)によって語られているのです。律法学者たちやファリサイ派の人々の解釈がユダヤ教を支配したように、これらの人の信仰理解がキリスト信仰を説明する根拠になっているのです。キリスト信仰とは名ばかりで、金持ちや権力者たちの主張を正当化するために「尊い御名」が用いられているのです。アメリカで見られる「繁栄の神学」などを例として挙げることが出来るのです。イエス様は「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」と言われたのです。ご自身の言葉を聞き、それらを行う人を「・・岩の上に土台を置いて家を建てた人」と呼ばれるのです(ルカ6:46-48)。イエス様は人々の「声なき叫び」に心を砕(くだ)かれたのです。自ら声をかけられたのです。それぞれの重荷を取り除かれたのです。キリストの信徒たちはイエス様の「生き方」に倣(なら)うのです。苦難に喘(あえ)ぐ人々が来るのを待つのではなく、これらの人の所へ出向くのです。


*イエス様は「神の国」の福音についてたとえ話を用いて語られたのです。イザヤの預言(イザヤ書6:9-10)を引用してその理由を説明しておられます。神様は「・・あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない」と言われたのです(マタイ13:14-15)。イザヤの預言はイエス様の時代においても真実なのです。会堂長や彼に同調する人々は「聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない」のです。イエス様はご自身を信じられない人々に譲歩して、「わたしの業」を信じなさいと言われたのです(ヨハネ10:38)。しかし、たとえ死者が生き返っても信じないのです。一方、群衆-ほとんどが貧しく、教育の機会に恵まれなかった人々‐は「癒しの業」に「神の国」の到来を確信したのです。イエス様は「神の国」の宣教方法について教えられました。キリスト信仰とは教義や神学理論を学ぶことではないのです。イエス様の苦難のご生涯に目を向けることです。生と死と復活の事実をありのままに伝えることなのです。キリストの信徒たちにとってからし種を大きな木に成長させることやパン種によって大きなパンを作ることは任意ではないのです。大切な使命なのです。「声なき叫び」に耳を傾けるのです。苦しみの中にある人々の重荷を少しでも軽くするのです。自分に出来ることから実行するのです。

2025年08月24日