「求められているもの」
Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書12章1節から14節
そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘(つ)んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。」
イエスはそこを去って、(ファリサイ派の)会堂にお入りになった。すると、片手の萎(な)えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。
(注)
・安息日の規定:十戒(じっかい)から
■安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである(出エジプト記20:8-11)。
・麦の穂を摘むこと:隣人の麦畑から麦の穂を摘むことは許されています。しかし、そのことが「安息日」に可能かどうかについての規定はないのです。
■隣人の麦畑の中に入ったなら、手で穂を摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑で鎌を使ってはならない(申命記23:26)。
・ファリサイ派の人々:ユダヤ教の一派です。律法(言い伝え)を生活のすべてにおいて厳格に適用したのです。しかし、心の中は不信仰と貪欲に満ちていたのです。イエス様はこれらの人を偽善者たちと呼ばれたのです。
・ダビデの行動:イエス様は旧約聖書を機会あるごとに引用されています。
■ダビデは、ノブの祭司アヒメレクのところに行った。ダビデを不安げに迎えたアヒメレクは、彼に尋ねた。「なぜ、一人なのですか、供はいないのですか。」ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王(サウル)はわたしに一つの事を命じて、『お前を遣わす目的、お前に命じる事を、だれにも気づかれるな』と言われたのです。従者たちには、ある場所で落ち合うよう言いつけてあります。それよりも、何か、パン五個でも手もとにありませんか。ほかに何かあるなら、いただけますか。」祭司はダビデに答えた。「手もとに普通のパンはありません。聖別されたパンならあります。従者が女を遠ざけているなら差し上げます。」ダビデは祭司に答えて言った。「いつものことですが、わたしが出陣するときには女を遠ざけています。従者たちは身を清めています。常の遠征でもそうですから、まして今日は、身を清めています。」普通のパンがなかったので、祭司は聖別されたパンをダビデに与えた。パンを供え替える日で、焼きたてのパンに替えて主の御前から取り下げた、供えのパンしかなかった。(サムエル記上21:2-7)
●ノブ:祭司の町と呼ばれています。
●祭司アヒメレク:有名な祭司エリの曽孫です。ノブで祭司長を務めていました。ダビデにパン(と剣)を与え、サウル王の前でダビデを弁護したのです。王の命を受けたエドム人ドエグによって殺害されたのです。サムエル記上22章をお読み下さい。
●供えのパン:神殿に供えられた12の聖別されたパンは毎週取り替えられました。レビ記24:5-9を参照して下さい。
・祭司は安息日を破ってもよい:直接的には祭司が安息日に祭式を執り行っていることを表しています。
・神殿よりも偉大なもの:「イエス様」あるいは「神の国」-神様の支配-を指しています。
・人の子:この呼称には三つの意味があります。第一は預言者です(エゼキエル書2:1-3)。第二は天の雲に乗って現れる終わりの時の審判者です(ダニエル書7:13-14)。他に「わたしとわたしの言葉を恥じる者(たち)は、人の子も自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときにその者(たち)を恥じる」(ルカ9:26)、「神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(ルカ18:8)などがあります。第三はこの世の人間を表しているのです(ルカ9:58)。
・わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない:
ホセア書「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない」(6:6)からの引用です。マタイ9:13にも記述されています。後にユダヤ教の教えにおいても、命に関わる緊急性がある場合は律法の規定に従わなくても良いことになったのです。
(メッセージの要旨)
*ユダヤ人の生活の基本となるのが「十戒」です。安息日の順守はその一つです。安息日には仕事を休むだけでなく、様々な規定(613項目)によって行動が制限されていたのです。「刈り取り作業」や「癒しの業」なども含まれていました。民衆はその日の行動について「許されること」、「許されないこと」を厳密に判断しなければならなかったのです。迷った場合には律法の専門家たちに助言を求めたのです。弟子たちは安息日に麦の穂を摘(つ)んで食べたのです。イエス様も安息日に片手の萎(な)えた人を癒されたのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちはユダヤ教の律法や慣習を公然と無視し、自分たちの権威を貶(おとし)めるイエス様と激しく対立したのです。特権的地位を守り、民衆の支持を得るために画策したのです。最終的にはイエス様を抹殺しようとするのです。イエス様はご自身が「安息日の主」であることを公言されたのです。安息日が制定された意味を明確にするために「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と言われたのです(マルコ2:27)。「神様の愛」は律法に貫(つらぬ)かれているのです。憐(あわ)れみを欠いた解釈は「神様の御心」に反しているのです。祭司アヒメレクはダビデと部下たちの窮状(きゅうじょう)を考慮したのです。聖別されたパンであっても与えたのです。イエス様も困難に直面している人々や苦難に喘(あえ)ぐ人々から重荷を取り除かれたのです。キリストの信徒たちに律法主義が見られるのです。求められているものは知的信仰ではなく、隣人愛なのです。
*弟子たちが空腹のために麦の穂を摘んだ日は安息日です。イエス様が片手の萎えた人を癒された日も安息日です。安息日を巡(めぐ)ってイエス様とユダヤ教の指導者たちとの間に激しい神学論争が起こっているのです。論点は大きく分けて二つあります。一つは律法の解釈です。もう一つは信仰と行いの不一致です。律法には安息日の順守が定められているのです。しかし、弟子たちだけでなく、イエス様もその規定を守られなかったのです。イエス様はその理由を説明されたのです。動物を災難から救出するために(経済的損失を避けるために)例外規定が設けられているのです(申命記22:4)。イエス様はご自身の権威によって安息日を定義し、憐れみは安息日の趣旨に沿っていると言われるのです(レビ記19:18)。ファリサイ派の人々はそれを認めないのです。イエス様はこれらの人のダブルスタンダード(偽善)を激しく非難されたのです。別の聖書の個所でも同様の事例が挙げられています。ある会堂に十八年間もサタンに縛られ、腰が曲がったまま伸ばすことができない女性がいたのです。イエス様はこの人に「婦人よ、病気は治った」と言って、手を置かれたのです。直ちに腰がまっすぐになったのです。女性は神様を賛美したのです。ところが、会堂長は腹を立て「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」と言ったのです。イエス様は「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか」と言って、反論されたのです(ルカ13:10-14)。
*創世記から始まる旧約聖書はイスラエルの父祖たちの信仰の歴史を詳細に記述しています。新約聖書にも紹介されています。アベル、エノク、ノア、アブラハムなどの信仰を取り上げて「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」と書かれています(へブル書11:1-2)。これらの人は神様に喜ばれる行いによって信仰を証ししたのです。一方、出エジプト記にはヘブライ人たちがエジプトの王ファラオの圧政から逃れた経緯と信仰の変遷(へんせん)が記録されています。旧約聖書の視点が個人的な信仰のあり方から集団的な民族の導きへ移って行くのです。エジプト脱出には抑圧と搾取の下に労苦する人々を解放するという神様の強いご意志が表れているのです。神様はモーセを召命して「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しさをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降ってゆき、エジプト人の手から救い出し・・彼らを乳と蜜(みつ)の流れる土地・・へ導き上る」と言われたのです(出エジプト記3:7-8)。神様が心を動かされた理由は人々の篤い信仰心ではなく、彼らの悲惨な現状に対する深い憐れみによるものだったのです。エジプト王の執拗(しつよう)な妨害を退け、シナイ山に導かれたのです。お与になったものが「十戒」と律法だったのです。「永遠の命」が得られるように判断基準を示されたのです。神様のご指示に従い、イスラエルの民は毎年「過越祭」をお祝いしているのです。
*神様はカナンの地に住むご自身の民を異教の神々から守るために第一の戒めとして「あなた(がた)には、わたしをおいてほかに神があってはならない」と命じられたのです(出エジプト記20:9)。「寄留者を虐待(ぎゃくたい)したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦(かふ)や孤児はすべて苦しめてはならない。・・貧しい者(たち)に金を貸す場合は、彼(ら)に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない。・・隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない」と言われたのです(出エジプト記22:20-26)。ところが、イスラエルの民は金の子牛を鋳造(ちゅうぞう)したのです。その偶像を礼拝したのです。権力者たちは賄賂(わいろ)を取って裁判をし/祭司たちは代価を取って教え/預言者たちは金を取って託宣(たくせん)を告げているのです(ミカ書3:11)。これらの人は預言者ホセアの言葉にも耳を傾けないのです。地位を用いて民衆を搾取(さくしゅ)しているのです。律法や慣習を都合よく解釈して精神的にも支配しているのです。神様は「憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者」と言われるのです(出エジプト記34:6-7)。その後も反抗する民を厳しく罰せられたのです。悔い改めた人々には愛を示されたのです。忍耐して導いておられるのです。
*神様は寄留者たち、寡婦や孤児たち、貧しい人々、虐げられた人々の叫び声を聞かれるのです。ご自身がこれらの人を苦しめる権力者たちに報復されるのです(ルカ18:7)。悪人たちにも善人たちにも太陽を昇らせ、正しい者たちにも正しくない者たちにも雨を降らせられるのです(マタイ5:45)。神様は「救いのご計画」を実現するために、終の日に先立ってイエス様をこの世に遣わされたのです。イエス様は「わたしと父(神様)とは一つである」と言われたのです(ヨハネ10:30)。イエス様の教えと力ある業には「神様の御心」が現われているのです。神様は一貫して罪人たちを愛しておられるのです。正しい人々ではなく罪人たちを優先的に「神の国」(天の国)に招いておられるのです(マルコ2:17)。これが福音(良い知らせ)なのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちは律法に精通しているのです。ただ、律法の精神を理解していないのです。キリストの信徒たちの中に教条主義に陥(おちい)っている人もいるのです。イエス様は旧約聖書に言及して「わたしについて証しするもの」(ヨハネ5:39)、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言われたのです(マタイ5:17)。律法はモーセを通して与えられたのです。恵みと真理はイエス様によって現わされたのです(ヨハネ1:17)。求められているものは御心に適(かな)った生き方なのです。イエス様はそれを示されたのです。イエス様に倣(なら)い憐れみ深い信徒となるのです。