「正義を求める信仰」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書18章1節から8節

イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れ(恐れ)ず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください(相手に対するわたしの主張の正当性を認めて下さい)』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れ(恐れ)ないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわない(煩わす)から、彼女のために(正しい)裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わす(へとへとにさせる)にちがいない。』」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさ(言うこと)を聞きなさい。まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。あなたがたに言っておくが、神はすみやかに(正しく)さばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。

(注)


・寡婦(やもめ)に関する聖書の個所:


■寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦(かふ)や孤児はすべて苦しめてはならない。(出エジプト記22:20―21)


■あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏(おそれ)るべき神、人を偏り見ず、賄賂(わいろ)を取ることをせず、 孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。(申命記10:17-18)


■寄留者や孤児の権利をゆがめてはならない。寡婦の着物を質に取ってはならない。(申命記24:17)


■寄留者、孤児、寡婦の権利をゆがめる者は呪われる。民は皆、「アーメン」と言わねばならない。(申命記27:19)


・レビレイト婚:先祖の名と寡婦の生活を守るための律法の規定です。

■兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。(申命記25:5-6)

・裁判官:イエス様は他の個所で裁判官や調停人に言及されています。

■群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」(ルカ12:13-14)

●先生、ラビ(先生の中の先生)と呼ばれる人々が遺産相続等に関する律法の解釈を行っていたのです。複雑な規定が民数記27:1-11,36:6-9,申命記21:15-17に記述されています。

・不正な裁判官:律法学者たちやファリサイ派の人々は「ラビ」と呼ばれることを好んだのです。裁判を担っていたことが十分に推測されるのです。イエス様はこれらの人の偽善と腐敗を厳しく批判されたのです(マタイ23)。


■律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。(ルカ20:46-47)


■主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。・・」(ルカ11:39)

■金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。」(ルカ16:14-15)

・主の祈り:イエス様が弟子たちに教えられた祈りです。

■だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇(あが)められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧(かて)を今日与えてください。わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』 (マタイ6:9-13)

・神様の正義と愛:

■主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなた(モーセ)をファラオ(エジプトの王)のもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」(出エジプト記3:7-10)


・人の子:


この呼称には三つの意味があります。第一は預言者です(エゼキエル書2:1-3)。第二は天の雲に乗って現れる終わりの時の審判者です(ダニエル書7:13-14)。他に「わたしとわたしの言葉を恥じる者(たち)は、人の子も自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときにその者(たち)を恥じる」があります(ルカ9:26)。イエス様はご自身が審判者であることを明らかにされたのです。第三はこの世の人間を表しているのです(ルカ9:58)。

(メッセージの要旨)


*たとえ話には二人の人物が登場します。一人は社会的地位の高い裁判官、もう一人は社会の底辺にあって日々の糧にも窮するやもめなのです。やもめは何かの件で「相手を裁いて、わたしを守ってください」と願い出たのです。ところが、裁判官は地位を利用して賄賂を求める不正な裁判官だったのです。やもめに特別なお金を支払う余裕などないのです。裁判官にとって、貧しいやもめの訴えを取り上げても実質的な利益はないのです。裁判官はやもめの切実な申し立てを無視したのです。権力の腐敗が無力なやもめを一層苦しめているのです。いつの時代も、公正を旨とするべき権力者たちの不正はなくならないのです。やもめに残された道は裁判官に訴え続けることでした。神様はやもめの権利を守るために律法を定めておられるのです。ところが、「神様の御心」が軽んじられているのです。やもめの人格と権利が否定されているのです。裁判官は社会的地位が高く、豊富な知識と経験を有する権力者なのです。地位も、お金も、支えてくれる人もいないやもめが対等に交渉することなど不可能に近いのです。しかし、やもめは諦(あきら)めることなく、正義の実現を訴え続けたのです。やもめの主張には共同体の一般の人々だけでなく、不正な裁判官も認めざるを得ない正当性があったからです。イスラエルの歴史が証明するように、神様は苦境に喘ぐ人々を決して見捨てられないのです。人々が祈る前から願いをご存じなのです(マタイ6:8)。イエス様は祈ることだけでなく、一人であっても正義を求めて立ち上がることの重要性を教えられたのです。

*神様は預言者たちを通して語られたのです。やもめらへの不当な扱いを決して容認されないのです。権力者たちが悔い改めなければ虐げられた人々に代わって報復されるのです。「もし、あなた(たち)が彼(ら)を苦しめ、彼(ら)がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる」と明言されたのです(出エジプト記22:22-23)。それにも関わらず、指導者たちの悪が絶えることはなかったのです。信仰の人サムエルの祭司職を継いだ二人の息子は父の道を歩まなかったのです。不正な利益を求め、賄賂を取って裁きを曲げたのです(サムエル記上8:2)。イスラエル(北王国)の王アハブは誰よりも主の前に悪事を重ねたのです(列王記上16:29-22:40)。その後も、神様は「支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり/皆、賄賂を喜び、贈り物を強要する。孤児の権利は守られず/やもめの訴えは取り上げられない」(イザヤ書1:23)、「イスラエルの君侯たちは、お前(エルサレム)の中でおのおの力を振るい、血を流している。父と母はお前の中で軽んじられ、お前の中に住む他国人は虐げられ、孤児や寡婦はお前の中で苦しめられている」(エゼキエル書22:6-7)、「裁きのために、わたしはあなたたちに近づき/直ちに告発する。・・偽って誓う者/雇い人の賃金を不正に奪う者/寡婦、孤児、寄留者を苦しめる者/わたしを畏れ(恐れ)ぬ者らを」(マラキ書3:5)と言って、警告されたのです。

*やもめの問題は家父長制度(男性中心の社会)と深く関わっています。女性は男性の所有物として扱われていました。自分のことについて決定権を持たなかったのです。娘は父の意向に従い、妻は夫に従属し、母は老後を長男に委ねるのです。結婚した女性がやもめになると状況は厳しくなるのです。特に、子供(男の子)を持たない女性の生活は悲惨です。自分に関心を寄せる男性が現れて庇護(結婚)してくれることを期待するだけなのです。日本における封建的な家制度と極めて似ているのです。旧約聖書のルツ記をご一読ください。夫を亡くしたやもめの苦労が詳細に描かれています。神様は夫の死後困窮生活を強いられるやもめの権利が守られ、最低必要な食物と衣服が与えられるように律法を定められたのです。やもめに後継ぎを儲けるために「レビレイト婚」の義務が課せられていたのです。ところが、神様のご命令を無視する夫の親せきも多く、妻を家から暴力的に追い出すことも行われたのです。やもめが律法の具体化を求めて裁判に訴えるケースがあったのです。たとえ話は現実に起こっている出来事を基に語られているのです。やもめは裁判官に執拗に願い出ているのです。将来に関わる重要な案件であることが推測されるのです。やもめが訴え出た裁判官は神様も人をも恐れない人物でした。地位を利用して不正を働いているのです。裁判官は貧しい人々よりも権力や財産のある人々を優遇するのです。金持ちには相応の賄賂を準備する経済的な余裕があるのです。当初、裁判官はやもめの訴えを無視していました。正義が歪められているのです。

*賄賂を払えない人々は律法の規定からも除外されるのです。しかし、不思議なことが起こるのです。やもめの正当性が徐々に広がり、裁判官の非情な姿勢が民衆の批判の対象となったのです。やもめの訴えを無視し続ければ、裁判官自身に不利益が及ぶのです。欲深い裁判官がやもめの訴えに譲歩したのです。彼女のために裁判が開かれることになったのです。やもめの粘り強い働きかけが大きな力となって裁判官を動かしたのです。イエス様は弟子たちに「諦めずに祈れば願いは叶えられること」を教えるために、窮状にあるやもめの信仰を例に挙げられたのです。ただ、やもめが祈っている姿はどこにも見られないのです。不正に対する不屈の精神と熱心な行動を強調しておられるのです。日々の生活に気を配らなければならないやもめにとって、何度も裁判官の所に行くことは簡単ではないのです。しかも、悪知恵に長けた自分を苦しめている相手や不正な裁判官と交渉しなければならないのです。想像を遥かに越える大変な状況に置かれているのです。しかし、女性は四面楚歌にあっても不正に屈服しないで、訴え続けたのです。イエス様が祈りを行動によって説明された意味は深いのです。祈りは神様に直接願いを申し出ることです。同時に、自らもその実現に向けて参画することなのです。相手や裁判官と自分との力関係には大きな差があるのです。結果は誰の目にも明らかなのです。しかし、やもめは律法が定める保護を求め続けたのです。一人で「主の祈り」を祈り、正義と愛の神様にすべてを委ねたのです。その上で自分に出来ることを実行したのです。

*イエス様はやもめの悲壮な姿を例に挙げて神様に願い続けることの大切さを教えられたのです。それと共に、やもめをそこまで追い詰めた貧しさとその原因に目を向けさせられたのです。やもめの窮状は指導者たちの不信仰と制度の欠陥の産物です。やもめは腐敗した社会の犠牲者なのです。公平を旨とする裁判官が職務を誠実に実行していないのです。権力を乱用して不当な利益を得ているのです。神様は必ず正義を求める人々の叫びを聞いて正しく裁いて下さるのです。ただ、イエス様は「人の子(ご自身)が来るとき、果たして地上に(やもめのような信仰を見いだすだろうか」と言われたのです。「自分の救い」にのみ関心を寄せるキリストの信徒たちに警鐘を鳴らしておられるのです。「永遠の命」に与るためには「行い」が不可欠なのです。イエス様は「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」と言われたのです(マルコ8:34-35)。お言葉に耳を傾けるのです。キリスト信仰がそれぞれの「生き方」を問うものではなく、「救いの手段」として理解されているのです。信徒たちは「自分を捨てること」や「自分の十字架を背負うこと」を実行するのではなく、ひたすら「救いの時」が来るのを待っているのです。「神様の御心」を実現するために奔走した人々が「永遠の命」に与るのです。やもめは「行い」によって信仰を表したのです。イエス様はこの点を高く評価されたのです。

2025年02月09日