「良い実を結びなさい」
日 時 2026年09月13日(日)午前10時30分~
礼 拝 式 次 第
前奏 (Prelude)
讃美歌533番
1
くしき主の光 こころに満つ
み空わたる日の かげにまさる
ああ主よ わが主よ 輝く御姿を
胸にうつすとは わが主の恵み
2
くしき物の音は こころにみつ
口に言い得ねど 主はききたもう
ああ主よ わが主よ 輝く御姿を
胸にうつすとは わが主の恵み
3
春ののどけさは こころにみつ
鳥は声きよく 花はかおる
ああ主よ わが主よ 輝く御姿を
胸にうつすとは わが主の恵み
4
愛のよろこびは こころにみつ
かくてわが歌は ついに成りぬ
ああ主よ わが主よ 輝く御姿を
胸にうつすとは わが主の恵み
BRIEF ORDER FOR CONFESSION AND FORGIVENESS
(P) In the name of the Father, and of the + Son, and of the Holy Spirit.
(C) Amen
(P) God, whose love is everlasting, welcomes sinners to the table of mercy.
Let us confess our sin, confident in God’s forgiveness.
Silence for reflection and self-examination.
(P) Gracious God,
(C) Have mercy on us.
In your gracious compassion forgive us our sins, both known and unknown,
things done and left undone.
Uphold us by your Spirit so that we may serve you in newness of life, to
the honor and glory of your holy name, through Jesus Christ our Lord. Amen.
(P) Since we are justified by God’s grace through faith,
We have peace with God through our Lord Jesus Christ.
Almighty God has mercy on you, forgives you all your sins,
And bring you to life everlasting. Amen
Prayer of the Day(今日の祈り)
Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書13章1節から23節
その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔(ま)く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨(いばら)の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」
弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。
持っている人(人々)は更に与えられて豊かになるが、持っていない人(人々)は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』(イザヤ書6:9-10)しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟(さと)らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」
(注)
・たとえ話:自然や日常生活から導き出された簡単な比較物語です。イマジネーションを掻(か)き立て、既存の価値を問い直し、ポイントを考えさせるのです。
・群衆:エルサレムの指導者たちに扇動されるまではイエス様に対して中立的か好意的でした。マタイ7:28、9:33、12:23、14:13、21:46を参照して下さい。
・耳のある者は聞きなさい:中には聞く耳を持っている人々がいるのです。
・天の国の秘密:イエス様が御言葉と力ある業を通して証しされた「神の国」(天の国)‐神様の支配・神様の主権-のことです。マタイ4:17、10:1、11:25、16:17に記述されています。ダニエル書2:27-28を併せてお読み下さい。
・持っている人(人々)、持っていない人(人々):お金や物品のことではなく、「神の国」についての理解の有無(うむ)です(マタイ25:29)。
・エリヤ:旧約聖書に登場する預言者です。火の馬に引かれた火の戦車に乗って嵐の中を天に上って行った人物です(列王記下2:11)。イエス様の先駆けとして遣わされた洗礼者ヨハネはこのエリヤの再来なのです。「主の日」(再臨の日)の前に戻って来ることが約束されていたのです(マラキ書3:23-24)。
・福 音:
■主の霊がわたし(預言者イザヤ)の上におられる。貧しい人(人々)に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人(人々)に解放を、/目の見えない人(人々)に視力の回復を告げ、/圧迫されている人(人々)を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。(ルカ4:18-19)
●主の恵みの年:土地は50年後に元の所有者に返却されるのです(レビ記25)。
■神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(ヨハネ3:16)。
●神様は信仰の指導者たち(祭司や律法学者たち)の仲介がなくても、イエス様を救い主と信じるすべての人に「永遠の命」を与えられるのです。
■そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。(ヨハネの黙示録21:3-4)
●神様は、相応しい時期にこの世を終わらせ、新しい天地を創造されるのです。
・あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ:イエス様を通して「神の国」が到来しているのです。
■イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることを(洗礼者)ヨハネに伝えなさい。目の見えない人(人々)は見え、足の不自由な人(人々)は歩き、重い皮膚病を患っている人(人々)は清くなり、耳の聞こえない人(人々)は聞こえ、死者(たち)は生き返り、貧しい人(人々)は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。(マタイ11:4-6)
・神様と富との関係:キリスト信仰において曖昧(あいまい)にされているのです。イエス様は「山上の説教」において明確にされたのです。
■神と富とに仕えることはできない。(マタイ6:24)。
■何よりもまず、神の国(神様の支配)と神の義(神様の正義)を求めなさい。そうすれば、これらのもの(生活に必要な物)はみな加えて与えられる。(マタイ6:33)
・良い実を結ぶ:最も重要な戒めを実践することです。キリスト信仰は「行い」を求めるのです。
■イエスはお答えになった。「第一の掟(おきて)は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコ12:29-31)
■神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。(ヨハネの手紙㈠5:3)
(メッセージの要旨)
*特定の個所の意味を理解するためには注意が必要です。誤解しないように前後を併せて読むのです。11章、12章にたとえ話を用いられた背景が記述されています。洗礼者ヨハネは指導者たちの不信仰を激しく非難したのです。群衆はヨハネが食べも飲みもしないでいると「あれは悪霊に取りつかれている」と貶(おとし)めるのです。イエス様は「あなたがたが認めようとすれば分かることだが、彼は現れるはずのエリヤだ。耳のある人は聞きなさい」と擁護されたのです。イエス様が飲み食いすると今度は「見ろ、大食漢で大酒のみだ。徴税人や罪人の仲間だ」と非難したのです。イエス様はガリラヤ湖の北に位置する町コラジン、ベトサイダ、カファルナウムで様々な奇跡を行われたのです。人々は悔い改めなかったのです。異邦人の町ティルスやシドン、あの悪名高いソドムの町より厳しい罰を宣告されたのです(創世記19:1-29)。弟子たちは空腹を覚えたのです。麦の穂を摘(つ)んで食べたのです。その日は安息日だったのです。ファリサイ派の人々はこのことを咎(とが)めたのです。イエス様は「わたしが求めるのは憐みであって、生贄(いけにえ)ではない」と反論されたのです。安息日に片手の萎(な)えた人を元通りに良くし、ご自身が「安息日の主であること」を公言されたのです。ユダヤ教の教えと鋭く対立されたのです。福音がすべての人に届けられているのです。ただ、躓(つまずき)の石‐傲慢(ごうまん)、覚悟の欠如、この世の思い煩い、誘惑-が成長を妨げているのです。イエス様のお言葉とご生涯に目を向けるのです。
*イエス様は「・・わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している」と言われたのです(ヨハネ8:26)。ファリサイ派の人々や律法学者たちはイエス様をどのようにして殺そうかと相談したのです。このような緊迫した状況の中でイエス様はたとえ話を語られたのです。たとえ話は自然や人々の日常生活に生起する出来事を題材として取り上げていることに特徴があるのです。十分な教育を受けていなくても、耳を傾ける人々には理解できるように工夫されているのです。「天の国」の秘密は知恵ある人々や賢い人々には隠されているのです。幼子のような人々(素直に信じる人々)に明らかにされるのです。イエス様は「種を蒔く人」の後に、「迷い出た羊」(18:10-14)、「ぶどう園の労働者」(20:1-16)、「タラントン」(25:14-30)などのたとえ話を語られたのです。いずれも「天の国」の意味を説明するために用いられたのです。憐れみ深い神様が新しい天地の創造に着手されたのです。人間の営み(歴史)に介入されたのです。イエス様を通して正義と愛、平和と自由に関する基本理念が示されたのです。悔い改めて「天の国」を受け入れるのか、拒否するのかがその人の運命を決定づけるのです。群衆はエルサレムの指導者たちから影響を受けるまでイエス様に対して中立的でした。共感を覚える人も少なくなかったのです。しかし、多くのユダヤ人はイエス様から離れて行ったのです。イエス様は神様がイザヤを召命する時に言われた言葉を引用して厳しく非難されたのです。
*たとえ話だけを抜きだして抽象的、観念的にキリスト信仰が論じられているのです。しかし、内容は極めて具体的です。蒔かれた種とは福音のことです。果実-信仰のあり方‐が問われているのです。道端とは信仰心を誇り、罪人であることを認めない人々の頑(かたく)なな心の状態なのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちは長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好むのです。人前で見せかけの長い祈りをするのです。イエス様はこれらの人を偽善者と呼び、人一倍厳しい裁きを宣告されたのです(マルコ12:38-40)。指導者たちはイエス様を誉(ほ)めそやすのです。罠にはめて捕らえるためです。悪魔がこれらの人を支配しているのです。悔い改めることがないのです。石ころの多い土地にたとえられた人々は御言葉に接して喜ぶのです。しばらくは信仰に燃えているのです。しかし、確固とした信念が心の内に形成されていないのです。艱難(かんなん)や迫害が起こると信仰を捨てるのです。イエス様は「わたしが命のパンである。・・先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる」と言われたのです。弟子たちの多くはこれを聞いて「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と不平を漏(も)らして離れ去ったのです(ヨハネ6:22-71)。キリスト信仰とは教えを理解することではないのです。イエス様は「わたしに従いなさい」と言われたのです(マタイ19:21)。全力で御跡を辿(たど)るのです。
*茨が茂る土地にたとえられた人々は御言葉を受け入れたのです。一方、お金や富、楽しみや快楽にも心を奪われているのです。この世の事に時間を費やし、やがて「永遠の命」に至る道を閉ざすのです。イエス様は「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」と警告されたのです。ある人は畑が豊作だったので倉を大きくしたのです。穀物や財産をみなしまい「これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたので、ひと休みして食べたり飲んだりして楽しもうと思ったのです。ところが、神様は「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」と言われたのです。自分のために富を積んでも、神様の前に豊かにならないのです(ルカ12:13-21)。良い土地にたとえられた人々は御言葉を聞いて悟ったのです。「神様の御心」を実現するために働いたのです。能力に応じて百倍、六十倍、三十倍の良い実を結んだのです。御言葉を聞いた人々がすべて初めから良い土地であった訳ではないのです。イエス様の教えを聞いた人々はユダヤ教の土壌の中で育ったのです。大きな決断がいるのです。ある金持ちは律法が定める「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」を幼いころから守って来たのです。信仰の篤い人なのです。しかし、イエス様のご指示‐貧しい人々に財産を施しなさい-には従わなかったのです。神様よりも富を選んだのです。富への執着によって「救い」から遠ざかることになったのです(マルコ10:17-31)。
*ザアカイは徴税人の頭で金持ちでした。一方、ローマに協力して自国の民を苦しめる罪人として蔑(さげす)まれていたのです。ある日イエス様はザアカイに「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われたのです。ザアカイは喜んでイエス様を迎え入れたのです。これを見た人たちは「イエス様が罪深い男のところに行って宿をとった」と呟(つぶや)いたのです。すると、ザアカイは突然「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と明言したのです。イエス様は「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」と言われたのです(ルカ19:1-10)。ザアカイは悔い改めて「救い」に与ったのです。アリマタヤ出身の議員ヨセフはイエス様の弟子であることを隠していたのです。この人がローマの総督ポンティオ・ピラトにイエス様を埋葬(まいそう)したいと申し出たのです。ピラトはこれを許可したのです。ヨセフは十字架からご遺体を取り降ろしたのです。そこへ、かつて夜にイエス様のもとに来たことのある議員のニコデモが没薬(もつやく)と沈香(じんこう)を混ぜた香料を百リトラ(約34kg)持って来ました。ユダヤ人の習慣に従ってイエス様を墓に埋葬したのです(ヨハネ19:38-42)。二人は11使徒も行わなかったことを実行したのです。大祭司や同僚の議員たちから迫害されることは必至なのです。ヨセフとニコデモは大きな犠牲を払って信仰を証ししたのです。
讃美歌1番
1
神の力を とこよにたたえん
すべてのものを つくりたまいて
目には見えねど 高きみくらに
世をすべたもう 神の力を
2
われをも恵み みもとにひきて
かそけき望み はげましたもう
ものみな神に よりて生くれば
いかなる時も 離れまつらじ
3
み恵み いよよ 増し加われば
うえなき宝 ついにはたまわん
みくらのほかに 隠れ家あらじ
神よ この身を 受け入れたまえ
アーメン
APOSTLES’ CREED
I believe in God, the Father almighty, creator of heaven and earth.
I believe in Jesus Christ, his only Son, our Lord.
He was conceived by the power of the Holy Spirit and born of the Virgin
Mary.
He suffered under (Caiaphas and) Pontius Pilate, was crucified, died, and
was buried;
He descended into hell.
On the third day he rose again.
He ascended into heaven, and is seated at the right hand of the Father.
He will come again to judge the living and the dead.
I believe in the Holy Spirit, the holy catholic Church, the communion of
saints, the forgiveness of sins, the resurrection of the body, and the
life everlasting. Amen.
(使徒信条)
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、(カイアファと)ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に降り、三日目に死人のうちより蘇り,天にのぼり全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。 アーメン
Benediction(祝福の祈り)
The Grace of the Lord Jesus Christ, the love of God, and the communion
of the Holy Spirit be with all of you.
(P) Go in peace. Serve the Lord.
(C) Thanks be to God.
Postlude(後奏)
「Here I am」
I, the Lord of sea and sky,
I have heard My people cry.
All who dwell in dark and sin,
My hand will save.
I who made the stars of night,
I will make their darkness bright.
Who will bear My light to them?
Whom shall I send?
Here I am Lord, Is it I, Lord?
I have heard You calling in the night.
I will go Lord, if You lead me.
I will hold Your people in my heart.
I, the Lord of snow and rain,
I have borne my people’s pain.
I have wept for love of them, They turn away.
I will break their hearts of stone,
Give them hearts for love alone.
I will speak My word to them
Whom shall I send?
Here I am Lord, Is it I, Lord?
I have heard You calling in the night.
I will go Lord, if You lead me.
I will hold Your people in my heart.
I, the Lord of wind and flame
I will tend the poor and lame.
I will set a feast for them,
My hand will save
Finest bread I will provide,
Till their hearts be satisfied.
I will give My life to them,
Whom shall I send?
Here I am Lord, Is it I, Lord?
I have heard You calling in the night.
I will go Lord, if You lead me.
I will hold Your people in my heart.
いずれの曲もインターネットで題名を入力すれば簡単に聴くことが出来ます。