「イエス様への殺意と陰謀」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書11章45節から57節

(ベタニアの)マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので(無意識に)預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。

さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。

(注)

・イースター:イエス・キリストの復活をお祝いする日(日曜日)です。八世紀の早い時期に始まりました。西方教会では3月22日から4月25日の間を移動します。

・カイアファ:在任期間は紀元後18年から36年です。祭司職は本来世襲でした(民数記25:10-13)。ところが、紀元後1世紀にローマ帝国の総督の承認事項になったのです。宗教指導者であると同
時に政治的指導者です。最高法院を招集する権限を有していたのです。

・最高法院:サンヘドリン-衆議会-のことです。今日の最高裁判所と国会の機能を兼ねています。神殿の治安を維持する警察の役割も果たしていました。 

・エフライム:場所は不明です。ベタニア(エルサレムの東)の近くではないかと推測されています。聖書地図を参照して下さい。

・過越祭:三月か四月に行われました。およそ10万人がエルサレムへ巡礼したのです。歴史的経過については出エジプト記12:1-13:10をご一読ください。イエス様は三回エルサレムで過ごされました(ヨハネ2:13,6:4,11:55)。

・イエス様のエルサレム巡礼:福音書記者ヨハネによると四回です。2:13,5:1(ユダヤ人の祭り),7:10(仮庵祭),12:12です。


・イエス様の宣教活動:十字架の死によって終結するのです。イエス様の死はキリスト教以外の文献タキツスの「年代記」やヨセフスの「ユダヤ古代誌」によっても証明されています。

・ティベリウス:ローマ帝国の皇帝、在位は紀元後14年から37年です。

・ポンティオ・ピラト:ローマ帝国から任命されたユダヤの総督です。在位は紀元後26年から36年です。新約聖書は意志の弱い人物として伝えていますが、古代の歴史家たちは圧政と不正で悪名をなした人物として紹介しています。本来の赴任地は地中海沿岸の都市カエサリアです。ユダヤ人たちの「過越祭」には多くの人々が集まるので治安を確保するためにエルサレムに滞在したのです。

・ヘロデ・アンティパス:ヘロデ大王(ローマ人によって「ユダヤ人の王」と呼ばれていました)の三人の息子の一人です。在位は紀元前4年から紀元後39年です。

・ヘロデ・フィリポ:ヘロデ大王の三人の息子の一人、在位は紀元前4年から紀元後34年です。イトラヤとトラコンはそれぞれガリラヤ湖の北と東に位置しています。

・ヘロデ・アルケラオ:ヘロデ大王の三人の息子の一人です。ユダヤとサマリアの領主、在位は紀元前4年-紀元後6年です。三人の中で最も残虐な人物です(マタイ2:22)。ローマ皇帝アウグストス(紀元前27年-紀元後14年)は統治能力に欠けるアルケラオを廃位し、管轄地をローマ帝国の直轄領としたのです。総督が任命されたのです。

・リサニア:この人物については不明です。アビレネはダマスカスの北西にある町です。

・アンナス:紀元後6年から15年まで大祭司でした。職を退いた大祭司にも慣例として大祭司の称号が用いられたのです。イエス様の裁判、使徒ペトロとヨハネの裁判に関わっています。

・メシア:ヘブライ語です。ギリシャ語のキリストのことです。いずれも「油注がれた者」という意味です。神様から特別の使命を与えられたのです。政治的指導者でもありました。サムエル記上10:1-10を参照して下さい。イスラエルの民はメシアを待望していたのです。キリスト信仰とはイエス様を「キリストである」と信仰することなのです。


(メッセージの要旨)

*今年のイースターは3月31日(日)です。イエス様はヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた後、「神の国」の到来を福音として宣教されたのです。福音書記者ルカは当時の政治状況について「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき・・」と記述しています(3:1-2)。ガリラヤでの宣教活動は多くの人に感銘を与え、キリスト信仰へ導いたのです。一方、宗教的、政治的な民衆運動へと発展する機会にもなったのです。イエス様から食べ物を与えられた五千人の群衆はイエス様を自分たちの王とするために連れて行こうとしたのです(ヨハネ6:1-14)。イエス様は教えと力ある業を通して「神の国」を宣教されました。しかし、人々の間に意見の対立を生み出したのです。ラザロが墓から蘇った出来事を見たり、聞いたりした人の多くはイエス様が神様の子であることを信じたのです。エルサレムに近いベタニアの人々がイエス様を「メシア」として受け入れたのです。イエス様はガリラヤとエルサレムの間を何度も旅しておられます。ユダヤの中心に住む人々までがイエス様の影響を受ければ宗教的対立の枠内に留まらないのです。ユダヤ人による反ローマ帝国運動になりかねないのです。エルサレムの指導者たちは危機感を募(つの)らせたのです。カイアファの意向を受けた最高法院は重大な決定を行ったのです。イエス様を「政治犯」として処刑させるのです。

*イエス様は(旧約)聖書に基づいて宣教姿勢を明確にされるのです。「地上に平和ではなく、分裂をもたらすために来た」と言われたのです(ルカ12:49-53)。弟子たちや群衆の誤解を正されるのです。お育ちになったナザレでいつものとおり安息日に会堂に入り「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人(人々)に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人(人々)に解放を、/目の見えない人(人々)に視力の回復を告げ、/圧迫されている人(人々)を自由にし、主の恵みの年(50年目の年-ヨベルの年-におのおの所有地の返却を受けること)を告げるためである」(イザヤ書61:1-2及び58:6)を朗読されたのです。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき実現した」と言われたのです(ルカ4:16-19)。ところが、故郷の人々は信じなかったのです。イエス様は預言者エリヤの時代に三年六か月の間雨が降らずその地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたがエリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタ-異教の神バール信仰の中心地である地中海沿岸の町-の信仰深いやもめのもとにだけ遣わされたこと(列王記上17:1-16)を例に挙げて、彼らの不信仰を批判されたのです。会堂内の人々は皆憤慨し、イエス様を町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとしたのです。四福音書はイエス様のお言葉が真実であることを伝えているのです。

*イエス様はご自身を敵視するファリサイ派の人々の会堂にも入られました。そこに、片手の萎(な)えた人がいたのです。指導者たちがイエス様を陥れるために、律法主義の観点から「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねたのです。人々は安息日であっても穴に落ちた羊を手で引き上げているのです。人間は羊よりはるかに大切なのです。イエス様は「安息日に善いことをするのは許されている」と答えて、手の不自由な人の手を癒されたのです。ファリサイ派の人々はどのようにしてイエス様を殺そうかと相談したのです(マタイ12:9-14)。しかし、後代には教条主義的な律法解釈が現実に合わなくなったのです。命に関わる緊急の場合には例外が認められるようになったのです。敵対する人々が「わたしたちの父アブラハムよりもあなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。あなたは自分を何者だと思っているのか」と質問したのです。イエス様は「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」と答えられたのです。彼らは不遜な態度に激怒したのです。石を取り上げてイエス様に投げつけようとしたのです(ヨハネ8:48-59)。ユダヤ人たちは神殿の境内でイエス様を取り囲んで「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」と詰問したのです。イエス様は「わたしが父の名によって行う業がわたしについて証しをしている。わたしを信じる人々に永遠の命を与える。わたしと父とは一つである」と言われたのです。イエス様を打ち殺そうとして石を取り上げたのです(ヨハネ10:22-31)。

*イエス様は「神様の声」として語り、「神様の権威」を持って行動されたのです。ご自身の呼びかけに対する応答がその人の「救い」を決定すると公言されたのです。これらはユダヤ教の律法を根底から覆(くつがえ)しているのです。律法を無視し、神様を冒涜(ぼうとく)するイエス様の言動は万死に値するのです。旧約聖書に神様を冒涜する者に対する死刑の掟が記されています。「冒瀆した男を宿営の外に連れ出し、冒瀆の言葉を聞いた者全員が手を男の頭に置いてから、共同体全体が彼を石で打ち殺す」(レビ記24:14)、「その預言者がわたしの命じていないことを、勝手にわたしの名によって語り、あるいは、他の神々の名によって語るならば、その預言者は死なねばならない」(申命記18:20)が挙げられます。イエス様は律法の規定に従って断罪されているのです。「神様の御心」の解釈を巡る神学的な争いが起こっているのです。イエス様は「神の国」の宣教を神様から与えられた使命として理解されたのです。迫害と死の危険が迫っている時にあっても、恐れることなく寝食を忘れて目的の実現のために全力を尽くされたのです。貧しい人々や虐(しいた)げられた人々と共に歩まれたのです。権力者たちを公然と批判されたのです。ヘロデ・アンティパスを「あの狐」と呼ばれたのです(ルカ13:32)。これは民族を裏切ってローマ帝国に協力するヘロデに人々がつけた「あだ名」なのです。エルサレム神殿から不正な商人たちを追い出し、神殿政治を担う指導者たちの不信仰と腐敗を激しく非難されたのです(マルコ11:15-16)。

*イエス様はご自身の死において初めて人間の「救い」がもたらされるとは考えておられなかったのです。ただ、イスラエルの民が「神の国」の福音を拒否したことにより新しい状況が生まれたのです。イエス様の十字架上の死を神様のご計画に定められた贖(あがな)いの犠牲とするだけでは「福音の全体」を説明したことにはならないのです。「神の国」は正義と愛を基本理念としているからです。貧しい人々や虐げられた人々の側に立って社会秩序の変革を求めるのです。イエス様はご自身の方から権力者たちを挑発するような言動をされたのです。イエス様の宣教活動は急進的であり、宗教的、政治的な権力者たちから迫害されることは必然だったのです。「神の国」の福音は本質的にこの世の権力たちと相容れないのです。エジプトの王ファラオ、ローマ皇帝が「神様の支配」に服従することはないのです。「神の国」の福音はローマ帝国の支配とユダヤ教の律法と鋭く対立したのです。民衆の多くはイエス様を熱烈に支持したのです。「神の国」の宣教活動がローマ帝国の平和を損なう要因になりかねないのです。ローマ帝国は支配下にある国や地域の民族解放闘争を決して容認しなかったのです。(事実、紀元後70年にローマ軍はエルサレムの町と神殿を完全に破壊するのです。)今、神殿政治(民族の自治)の存立が危ぶまれているのです。カイアファはユダヤ(特にエルサレム)の政治的安定に腐心するのです。イエス様を十字架刑に処するために民衆が動員されるのです。彼らはローマの総督ポンティオ・ピラトを脅迫するのです(ヨハネ19:12)。

2024年03月10日