「神のものは神に返しなさい」
・Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書20章9節から26節
イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』(詩編118:22)その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。
そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者(スパイ・情報収集者たち)を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督(ポンティオ・ピラト)の支配と権力にイエスを渡そうとした。回し者らはイエスに尋ねた。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」彼らが「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは民衆の前でイエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった。
(注)
・律法学者:律法の書き写しを職業としていた人々です。旧約聖書に精通していたので教師、学者と呼ばれていました。多くはファリサイ派に属していました。
・祭司:神様と人との仲介者です。エルサレム神殿の宗教儀式を司(つかさど)る聖職者とその家系のことです。祭司長は祭司の頭(かしら)です。
・ファリサイ派:モーセの律法を守ることが「永遠の命」に至る道であると信じていました。ローマ帝国から「信仰の自由」を認められたことにより、納税への表立った抵抗はしなかったのです。イエス様はこれらの人の偽善と不信仰を激しく非難されたのです(マタイ23)。
・サドカイ派:祭司、長老(土地を所有している貴族)、上流階級の人々からなるグループです。モーセ五書だけを聖書と見なしたのです。霊、天使、復活を認めなかったのです。ローマの支配に協力的でした。ファリサイ派と対立していましたのでが、イエス様には共同で対抗したのです(マタイ16:1)。
・ヘロデ派:ヘロデ王家をパレスチナ支配の中心に据(す)えることを目論んでいました。信仰の問題に関心はなかったのです。ローマとの友好関係の維持に腐心していました。納税は当然のことでした。イエス様はこれらの人の不正と腐敗に警戒するように教えられたのです(マルコ8:15)
・ぶどう園:預言者イザヤがイスラエルに神様のお言葉を伝えています。
■わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ/わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに/なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。さあ、お前たちに告げよう/わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ/石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず/耕されることもなく/茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑/主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は(正しい)裁き(ミシュパト)を待っておられたのに/見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに/見よ、叫喚(ツェアカ)。(イザヤ書5:1-7)
・徴税(徴用)について:福音書にはローマ帝国の支配下にあったユダヤ人たちの様子が記述されています。対象人数を確認するために人口調査が行われたのです。
■そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。(ルカ2:1-5)
ただ、紀元後6年頃、ガリラヤのユダヤ人たちがキリニウスの命令による住民登録に抗議して暴動を起こしています(使徒5:37)。
・デナリオン銀貨:この時期の銀貨にはローマ皇帝ティベリウス・シーザー(紀元14年から37年)の肖像が描かれています。「ティベリウス・シーザー、神のアウグスト、アウグストの息子」という文字も刻印されているのです。
(メッセージの要旨)
*福音書はイスラエルに貧困が広まっていることを様々な形で詳細に伝えています。イエス様の教えと力ある業は貧しい人々や虐げられた人々の共感を得ていたのです。律法学者たちや祭司長たちはイエス様を殺すために手段を選ばないのです。巧妙な罠(わな)を仕掛けるのです。これらの人はこれまでユダヤ教の律法の範囲内でイエス様と論争したのです。今回の問いにはイエス様を全く違った土俵-政治-へ巻き込む意図があるのです。当時のユダヤはローマ帝国の支配下にありました。いつの時代においても税金は国家にとって重要な財源です。納税拒否は国家の根幹を揺るがす反逆行為なのです。ローマ帝国の支配に抵抗する人々は厳罰に処せられたのです。反乱者には十字架刑が適用されたのです。一方、ユダヤ教では十戒の冒頭に「あなた(がた)には、わたしをおいてほかに神があってはならない」と規定されています(出エジプト記20:3)。ユダヤ人たちにとって自らを神様と称するローマ皇帝に納税することは耐え難いのです。イエス様が神様を選べば反逆罪で政治犯として処刑されるのです。皇帝を選べば偽預言者として同胞から断罪されるのです。イエス様のお答えは短く、鋭く、力あるものでした。すべてのことは「神様のものは神様に返す」という根本理念に立ち返って判断されるのです。質問者たちに「皇帝のものは何か」を問いかけられたのです。「神様のもの」を自分のものにしている人々に「神様に返しなさい」と言われたのです。先ず、「神様の御心」-正義・慈悲・誠実-に沿って生きるのです。その後、税金を納めるのです。
*ユダヤ教の最高法院はイエス様を陥れるために罠を仕掛けるのです。ローマの総督の力を借りようとしているのです。派遣された人々は信仰を装っているのです。納税制度を熟知しているのです。ファリサイ派、サドカイ派、ヘロデ派の人々であることが推測されるのです。納税についての考え方は異なっていました。ところが、イエス様との対決においては一致して行動するのです。宗教的、政治的団体はお互いに牽制(けんせい)し、せめぎあっていたのです。民衆は大いに戸惑い、不安に揺れ動いていました。人々は信仰について指針を求めていたのです。質問は税金一般についてではないのです。ローマ皇帝への納税です。イスラエルの最大の関心事なのです。政治的な問題がユダヤ教の律法と絡(から)められているのです。ファリサイ派の背後にはこれらの人の指導に従順な民衆と伝統を重んじる正統派のユダヤ人たちがいるのです。サドカイ派とヘロデ派の後ろには強力なローマ軍が控(ひか)えているのです。権力者たちは立場の違いを超えて結束しているのです。イエス様がどのようなお答えをしても結論は同じなのです。処刑の口実を探しているからです。イエス様は「貧しい人々」、「捕らわれている人々」、「体の不自由な人々」、「抑圧されている人々」に解放を告げるために地上に来られたのです(ルカ4:18-19)。教えと力ある業は圧政に苦しむ人々に神様の臨在を感じさせたのです。権力者たちの権威と既得権益を脅かしているのです。社会の秩序と平穏を乱す危険思想なのです。イエス様をこのまま放置することは出来ないのです。
*イスラエルの貧困の最大の原因はローマ帝国による重税なのです。二年ごとに収穫物の四分の一を税として徴収し、当局の役人や兵士たちの生活を支えるために経費を支出させ、人頭税や関税を課しているのです。農民たちは経済的、精神的に疲弊しているのです。ローマの総督たちは赴任地を短期間で財を生みだす「打ち出の小づち」のように考えていました。イエス様を処刑したポンティオ・ピラト(紀元26年から36年)などはユダヤ人たちに貢物(みつぎもの)を求めたのです。在職中は徹底的に搾取したのです。さらに、民衆はエルサレムの神殿に仕える祭司たちを支えるために神殿税(宗教税)を納めなければならないのです。以前、祭司たちを支えるための定額献金や随時献金の習慣はなかったのです。巡礼者たちが捧げる供え物の一部を受け取っていただけなのです。ところが、バビロン捕囚からの帰還(紀元前538年)後に自分たちの収入を増やすために新たに12種類の献金を設けたのです。ローマ帝国への税と神殿税の合計は生活費のおよそ40%にも達したのです。それでも、毎年担当者たちが未納の農民たちの家を訪問し、定額献金を取り立てているのです。ユダヤ人歴史家ヨセフスは当時2万人の祭司がいたことを記録しています。これらの人は1年に2週間神殿に奉仕するのです。民衆の平均以上の報酬を得ているのです。イエス様は神殿政治の腐敗と不正を告発し、指導者たちを厳しく非難されたのです。社会の底辺に追いやられた貧しく、抑圧されている人々には正義の核となる力があるのです。「神の国」の建設に取り組むのです。
*イエス様の十字架上の死をあらかじめ神様が定められた出来事として、あるいは罪の贖(あがな)いの犠牲として理解している人も多いのです。イエス様は始めからご自身の命を捧げるために生きられたのではないのです。イエス様が生涯を捧げて宣教された「神の国」の福音は歪(ゆが)められてはならないのです。イエス様はご自身の死において初めて人間の救いがもたらされるとは考えておられなかったのです。特別の使命-神様への従順と隣人愛-を果たそうとする強い意志が結果として死を招いたのです。当時の歴史的背景を理解することはとても重要です。イエス様は真空の中で生きて来られたのではないからです。イエス様の教えと力ある業は「神の国」の到来を告げる具体的事実なのです。神様は終わりの時にこの世の権力者たちにご自身による直接統治を宣言されたのです。イエス様はご自身の生と死と復活を通して「神の国」-「神様の御心」-を証しされたのです(使徒1:3)。パウロの信仰理解を用いて福音を「罪の赦しの問題」に縮小してはならないのです。キリスト信仰の真髄は「神の国」の到来にあるのです。イエス様は人々に悔い改めて神様の下に立ち帰ることを促(うなが)されたのです。しかし、ユダヤ教の伝統に固執し、既得権益に執着するファリサイ派の人々や律法学者たちは「神の国」を受け入れなかったのです。大祭司たちの決意は揺るがないのです。世俗の力-ローマ皇帝の権力-を用いてイエス様を殺すのです。この時点から死は避けられなくなったのです。イエス様は十字架に向かって歩むことを決断されたのです。
*イエス様の結びのお言葉は様々に解釈されています。キリスト信仰を純粋に内的なもの、個人の魂の救いとして解釈し、政治と宗教の分離の根拠とされたのです。しかし、神様は「(アブラハムが)息子たちとその子孫に主の道(戒め)を守り、主に従って正義を行うように命じること」を祝福の要件とされたのです(創世記18:19)。イエス様は「神の国」-神様が支配者であること-を宣言されたのです。福音が「罪の赦し」に限定されてはならないのです。「神様の正義」はこの世のすべて-政治、経済、社会-に及ぶのです。地上の権力者たちに悔い改めが求められているのです。ところが、先祖の指導者たちと同じように預言者たちや使徒たちを迫害しているのです。神様が遣わされた「神の子」イエス様を殺そうとしているのです。たとえ話においてその事実が語られているのです。イエス様は民衆から強い支持を得ているのです。律法違反で殺すことは困難だったからです。そこで、もっと大きな力を得るために画策するのです。政治状況を巧みに利用するのです。イエス様の言葉尻を捕らえてローマ帝国に対する反逆者に仕立て上げるのです。ローマの総督に引き渡して処刑させようとしたのです。イエス様は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えられたのです。質問者たちは黙ってしまったのです。納税に苦しんでいる民衆はお言葉に納得したのです。指導者たちが神様のものを奪っていることを知っているのです。神様のものは神様に返すのです。信仰の原点はここにあるのです。拒否した人々に厳しい罰が下されるのです。