「神様と富」
Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書6章19節から24節
「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなた(がた)の全身が明るいが、 濁っていれば、全身が暗い。だから、あなた(がた)の中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」
「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
(注)
・神の国:神様の主権、神様による支配のことです。天の国とも呼ばれています。死後に行く「天国」のことではないのです。イエス様は「神の国」の宣教に生涯を捧げられました。既得権益に執着する権力者たちは「神の国」を拒否し、イエス様を十字架上で処刑したのです。イエス様は復活後も天に帰られるまでの間、地上で弟子たちに「神の国」について教えられたのです(使徒1:3)。キリスト信仰の真髄なのです。
・体のともし火は目である。目が澄んでいれば・・:
「富」の問題と関係がない文章が挿入されているように見えますが、工夫された言葉の表現です。「目が澄んでいる」と訳されている言葉の「目」は本来複数ですが、ここでは単数なのです。豊かに施すことを表しているのです。「濁っている」は吝嗇(りんしょく)、あるいは富への執着に例えているのです。朽ちる富に「永遠の命」はないのです。イエス様こそが「救い」に至る道を照らす真の光なのです。
・神と富とに仕えることはできない:
「富」はアラム語の「マモン」から日本語に訳された言葉です。「マモン」はお金、家畜、土地などの財産を表しています。使い方を誤ってはならないのです(ルカ16:11)。ここでは偶像崇拝に陥(おちい)らせる「主人」として擬人化されているのです。
・主の祈り:イエス様が弟子たちに教えられた祈りです。
■・・あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』
(マタイ6:8-13)
・借金の深刻さ:マタイ18:21-35をお読み下さい。
・ぶどう園の労働者の状況:マタイ20:1-16を参照して下さい。
・デカポリス、ガリラヤ、エルサレム・・:聖書地図を参照して下さい。
(メッセージの要旨)
*イエス様はバプティスマのヨハネから洗礼を受けられた後、ガリラヤの諸会堂で「神の国」の福音を証しされたのです。民衆のありとあらゆる病気や患いを癒されたのです。イエス様の評判は近隣のシリアにも広まり、人々はいろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たのです。これらの人は様々な束縛から解放されたのです。ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から来た大勢の群衆はイエス様に従ったのです。イエス様は山に登り「山上の説教」を語られたのです(マタイ5-7)。「愛の観点」から律法を再解釈されたのです。ローマ帝国の支配下にあったユダヤ人の圧倒的多数は苦難の生活を強いられていたのです。イエス様に従った群衆も貧しかったのです。日々の生活を維持するのに奔走(ほんそう)していたのです。これらの人の関心が富に向かうことは当然だったのです。しかし、イエス様は「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と言われるのです。神様を信頼して「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈るように教えられたのです。富には人間を神様から遠ざける力が潜んでいるのです。神様のお導きによって富の誘惑を退けるのです。何よりも「神の国」と「神の義」を求めるのです。自分を愛するように隣人-貧しい人々や虐げられた人々-を愛するのです。「救い」は安価な恵みではないのです。富に執着する人々は厳しい裁きを受けるのです。イエス様のお言葉を真剣に受け止めるのです。
*当時のイスラエルは5パーセントにも満たない少数の金持ちと圧倒的多数の貧しい人々で構成されていました。金持ちの多くはローマ帝国に協力する議員たち、祭司職を担う人々、一握りの大土地所有者、成功した徴税人たちでした。貧しい人々の大半は農民と労働者たちです。ローマ帝国に高額な税を納めた後は自分たちの生計を維持するために心を砕いたのです。農民は自然災害や不作に備えるための余剰の農産物を蓄えることなど出来なかったのです。緊急事態が起これば、やむを得ずお金を借りたのです。やがて、支払い不能となり担保の土地は没収されたのです。男性は家族を養うためにぶどう園などで働く労働者になったのです。これらの人の悩みは尽きないのです。イエス様は「山上の説教」において「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」と言われたのです(マタイ5:3)。一方、「平地の説教」において「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、・・あなたがたは飢えるようになる」と明言されたのです(ルカ6:24-25)。イエス様の宣教姿勢は明確です。貧しい人々を優先的に祝福されるのです。ご自身が再臨する時の「裁きの基準」にも言及しておられます。人々が飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねたことが「救いの要件」になっているのです(マタイ25:31-46)。この世の富の「使い方」が厳しく問われるのです。イエス様の警告が恣意的(しいてき)に読み飛ばされているのです。
*「主の祈り」には貧しいユダヤ人たちの切実な状況が反映されています。しかも個人的な祈りではないのです。「わたしたちの父」、「わたしたちに必要な糧」、「わたしたちの負い目(負債)」、「わたしたちを誘惑に」とあるように、信仰共同体のあるべき姿を示す祈りになっているのです。イエス様は「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」と言われたのです(ヨハネ15:12)。「主の祈り」にも同様の趣旨が含まれているのです。人々は日々の糧と負債の問題に頭を悩ませているのです。生活が不安定であれば心身ともに疲弊するのです。本人や家族が病気になり、何らかの障害を有していれば経済的にも、精神的にも悩みは一層深くなるのです。中風の人の悩みを共に担った四人の男性がいました。彼らはイエス様(の癒しの業)を信じていました。中風の人を癒していただくために運んで来たのです。ところが、群衆に阻まれて御言葉を語っておられるイエス様のもとに連れて行くことが出来なかったのです。イエス様がおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろしたのです。イエス様はその人たちの信仰を御覧になって、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたのです。この人は癒されて家に帰ったのです(マルコ2:12)。後の初代教会の信徒たちは心も思いも一つにしたのです。貧しい人は一人もいなかったのです。土地や家を持っている人々は皆それらを売ったのです。持ち寄ったお金は必要に応じて分配されたのです(使徒言行録4:32-35)。
*イエス様は「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」と警告されたのです。たとえ話によってさらに説明されたのです。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』」と言われたのです(ルカ12:15-20)。ある金持は毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。門前にはラザロというできものだらけの貧しい人が横たわっていたのです。この人は死んで天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれたのです。金持ちも死んで葬られたのです。陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとがはるかかなたに見えたのです。「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます」と叫んだのです。アブラハムは「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」と言ったのです(ルカ16:19-25)。
*キリスト信仰とは「神の国」の到来を福音として信じることです。悔い改めて「神様の御心」に沿って生きることなのです。「神の国」の建設に参画し、最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実行するのです。昼も夜も「御名が崇められますように、御国が来ますように、御心が行われますように」と祈るのです。神様と富との両方に仕えることは出来ないのです。富の対応がその人の「救い」を決定するのです。人は「信仰」のみによって救われないのです。「行い」のない信仰-立ち位置を明確にしない信仰-は空しいのです。キリスト信仰が誤解されているのです。主な要因は二つです。一つはパウロの信仰理解が無批判的に引用されていることです。イエス様は弟子たちに「あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ」と言われました(マタイ23:8)。パウロがイエス様を超えることはないのです。もう一つは日本語訳にあるのです。新共同訳聖書の編纂に携わった方々に心から感謝するのです。同時に、問題点も指摘しなければならないのです。例えば「神の義」には原語にある「正義の神様であること」が表現されていないのです。ユダヤ人指導者たちは「神様の御心」を軽んじているのです。ローマ帝国に協力して民衆を抑圧し、搾取しているのです。「神の国」の福音-人間の全的な救い-が個人的な「罪からの救い」に縮小されているのです。キリストの信徒たちは信仰によって「永遠の命」に与れることを確信しているのです。しかし、神様と富との両方に仕えることは出来ないのです。「福音の真理」を変容してはならないのです。