「求めなさい。・・与えられる」

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書11章1節から13節

イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇(あが)められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧(かて)を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦(ゆる)してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭(あ)わせないでください。』」

また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

(注)

・ユダヤ人の祈り:ユダヤ人の成人男性はエルサレムに向かって毎日三回午前、午後、夕方に祈ったのです。食前と食後にも立ったまま、あるいは頭(こうべ)を垂れて祈るのです。

■ダニエルは・・家に帰るといつものとおり二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた。(ダニエル書6:11)

■今は朝の九時(祈りの時)ですから、この人たちは・・酒に酔っているのではありません。(使徒言行録2:15)

■ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。(使徒言行録3:1)

・旧約聖書の詩編:祈りと賛美の書と呼ばれています。

■立ち上がってください、主よ。神よ、御手を上げてください。貧しい人(抑圧されている人々)を忘れないでください。なぜ、逆らう者(邪悪な者たち)は神を侮り/罰などはない、と心に思うのでしょう。あなたは必ず御覧になって/御手に労苦と悩み(悲しみ)をゆだねる人(人々)を/顧みてくださいます。不運な人(抑圧された人々)はあなたにすべてをおまかせします。あなたはみなしごをお助けになります。逆らう者(邪悪な者たち)、悪事を働く者(たち)の腕を挫(くじ)き/彼(ら)の反逆(邪悪さ)を余すところなく罰し(探し)てください。(詩編10:12-15)

■わたしは神を呼ぶ。主はわたしを救ってくださる。夕べも朝も、そして昼も、わたしは悩んで呻(うめ)く。神はわたしの声を聞いてくださる。(詩編55:17-18)。

・主の祈り:「神の国」の真髄(しんずい)です。

アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神のようなユダヤ教の特色がみられないのです。キリスト信仰を特徴づける「(救い主)イエス様の御名」のような表現もないのです。「主の祈り」はユダヤ人たちにもキリストの信徒たちにも受け入れられるのです。宗派や民族を超えて誰もが祈れる普遍的な祈りになっているのです。

(メッセージの要旨)

*イエス様は「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と言われました。神様がわたしたちの生活に必要なものを備えて下さるのです。わたしたちの関心を「神様と隣人」に向けるように促(うなが)されたのです。「主の祈り」の視点はここにあるのです。イエス様はペトロとアンデレに「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。二人はすぐに網を捨てて従ったのです。ヤコブとヨハネも同様に船と父を残して従ったのです(マタイ4:18-22)。収税所に座っている徴税人レビ(マタイ)にも「わたしに従いなさい」と命じられたのです。彼は立ち上がって従ったのです(マルコ2:13-14)。フィリポにも出会い「わたしに従いなさい」と言われたのです。この人もイエス様に従ったのです(ヨハネ1:43-45)。後に、これらの人は使徒に選ばれたのです。イエス様は召命した時に理由を告げられませんでした。弟子になった人々も尋(たず)ねなかったのです。ただ、イエス様の圧倒的な力(霊的エネルギー)を感じて従ったのです。寝食を共にし、「山上の説教」(マタイ5-7)に耳を傾ける中で、ユダヤ教の教えや慣習とは異なる「何か」に触れたのです。弟子の一人が申し出た目的は「祈り方」のことではないのです。「宣教の意味」、「自分の立ち位置」のことだったのです。ユダヤ人(弟子)たちはローマ帝国の支配下にあって喘(あえ)いでいたのです。イエス様は真空の中で語られたのではないのです。「主の祈り」を通して神様により頼むことを教えられたのです。

*旧約聖書の詩編は名もない無数の著者によって何世紀にもわたって編纂(へんさん)されたのです。歴史はダビデ王とソロモン王の時代に遡(さかのぼ)るのです。期間の長さと著者の多様性にもかかわらず、自由と正義の確立、抑圧からの解放で貫かれているのです。経済的搾取が野獣の攻撃に例えられています。「村はずれの物陰に待ち伏せし/不運な人(無力な人々)に目を付け、罪もない人(人々)をひそかに殺す。茂みの陰の獅子のように隠れ、待ち伏せ/貧しい人(人々)を捕えようと待ち伏せ/貧しい人(人々)を網に捕えて引いて行く。不運な人(無力な人々)はその手に陥(おちい)り/倒れ、うずくまり・・」(詩編10:8-10)。詩編94は抑圧と搾取の結果を殺人に等しいものとして描いています。「主よ、彼らはあなたの民を砕き/あなたの嗣業(相続人)を苦しめています。やもめや寄留の民を殺し/みなしごを虐殺します」(5-6)。律法、預言書、詩編において正義の重要性が強調されているのです。イエス様の先駆けとして遣わされた洗礼者ヨハネは「悔い改めに相応(ふさわ)しい実を結べ」と言ったのです。「どうすればよいのですか」と質問する人には「下着を二枚持っている者は一枚も持たない者に分けてやれ、食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えたのです。徴税人に「規定以上のものは取り立てるな」、兵士には「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と命じているのです(ルカ3:1-14)。イエス様も「山上の説教」の中で詩編を引用されているのです。

*洗礼者ヨハネの弟子であったペトロとヨハネは宣教の視点をすでに学んでいたのです(ヨハネ1:35-42)。ところが、弟子の中にはイエス様のお考えを確認したいと思っている人もいたのです。イエス様は抽象的に答えられませんでした。たとえ話を用いて語ることもされなかったのです。キリスト信仰を簡潔に要約した「主の祈り」を教えられたのです。それは「(わたしたちの)父よ、」で始まります。すべて複数形(わたしたちに・・など)が用いられているのです。誤解されているような個人的な祈りではないのです。信仰共同体に属している人々の窮状(きゅうじょう)に焦点を当てた祈りになっているのです。「御名が崇められますように」は神様が軽んじられていることを表しているのです。ユダヤ(イスラエル)はローマ帝国の支配下にありました。皇帝は「救い主」(解放者)という称号で呼ばれていたのです。唯一の神様を信じるユダヤ人たちにも試練が訪れるのです。ローマ皇帝の名前を崇めることが強いられたからです。このような政治状況にあって「主の祈り」は極めて過激です。「神様、地上の権力者たちを裁いて御力と正義をお示し下さい」と祈るのです。圧政下にあってなす術(すべ)のない人々の切実な願いが込められているのです。しかも、ローマ皇帝が神格化されていることへの間接的な批判になっているのです。イエス様は弟子たちに「あなたたちは聖なるわたしの名を汚してはならない。・・わたしは・・エジプトの国からあなたたちを導き出した者である。・・」を想起させられたのです(レビ記22:32-33)。

*「御国が来ますように。御心が行われますように・・」も、文脈において「御名が崇められますように」と同じです。抑圧的で非情なローマ皇帝の支配とそれに協力するユダヤ人指導者たちの不正が打ち砕かれて「神様の正義」が地上に確立されることを願う祈りになっているのです。民衆のほとんど(95パーセント以上)が貧しいのです。最も大きな要因として高額な税負担を挙げることが出来るのです。イエス様が誕生された頃に皇帝アウグストゥスは全領土の住民に住民登録を命じているのです(ルカ2:1-3)。福音書記者ルカは単に歴史的事実を紹介しているのではないのです。ローマ帝国の支配下にある国の人々から徴収する「人頭税」のための人口調査であることを際立たせているのです。キリストの信徒たちも厳しい政治・経済・社会の中で生きているのです。イエス様は人々の苦難と労苦を心に留められたのです。ユダヤ人たちはこれまで「神殿税」(会堂税)を納めるだけでした。ところが、「人頭税」が新たに課せられたのです。税の徴収を担っていたのが徴税人たちでした。彼らには徴収した税をローマ帝国に収めれば自分たちのために追加の税を徴収することが認められていたのです。同胞のユダヤ人たちから民族の裏切り者、罪人として軽蔑されていたのです。税を払えない農民たちの運命は過酷なものでした。祖先から代々受け継いできた土地を手放したのです。唯一の生産手段を失った人々は農園などを所有する金持ちの下で日雇い労働者として働いたのです(マタイ21:33-41)。多額の借金返済のために自分を売ったのです。

*「必要な糧を今日与えてください」はその日の食べ物にも事欠くユダヤ人たちの悲惨な状況を表しているのです。ローマ皇帝とその協力者たちがユダヤ人たちから日々必要なパンを奪っているのです。イエス様は「わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/赦しましたように」と祈るように教えられたのです。ローマ皇帝は苛酷(かこく)な徴税によって帝国を維持しているのです。ユダヤにおいても同様のことが行われているのです。イエス様は「愛の教え」に従って負債を相互に免除するように命じられたのです(ホセア書6:6)。「わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください」は誘惑に抵抗する力を与えて下さるように願う祈りなのです。道徳的、倫理的な誘惑のことではないのです。むしろ、社会的、政治的、経済的関係において生じる誘惑に言及されているのです。神様と共にローマ皇帝にも仕えることは止むを得ないという思いが人々の間に広がっているのです。神殿政治の中枢を担(にな)う祭司長たちがローマの総督ピラトに「わたしたちには、皇帝のほかには王はありません」と言っているのです(ヨハネ19:15)。驚くべきことです。一般民衆も不正や腐敗への抵抗を諦(あきら)め、支配者や指導者たちの理不尽な要求をやむを得ず受け入れているのです。信仰の闘いが激しくなれば、心身の疲弊(ひへい)も必然的に起こるのです。緊張から逃れたいという思いも日に日に増してくるのです。「主の祈り」は不当な支配と偶像礼拝に悩む人々に希望と勇気を与えているのです。

2023年10月15日