「良い知らせ」
Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書9章13節から18節及び24節から41節
人々は、前に(生まれつき)盲人であった人(男)をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。・・・
さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。
イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者(人々)は見えるようになり、見える者(人々)は見えないようになる。」イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」
(注)
・イエス様の使命:
■イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人(人々)に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人(人々)に解放を、/目の見えない人(人々)に視力の回復を告げ、/圧迫(弾圧)されている人(人々)を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(ルカ4:16-21)
・ファリサイ派の人々:律法学者たちの多くはこの派に属していました。共に宗教的、政治的権力の中枢を担っていたのです。
・預言者:紀元一世紀には神様がローマ帝国からイスラエルを解放するために遣わされた預言者、王(救い主)と自称する人がたくさんいました。
・ユダヤ人たち:ファリサイ派の人々のことです。彼らは会堂を管理・運営していました。
・神は罪人の言うことはお聞きにならない:旧約聖書の詩編に登場する言葉です。
■わたしが心に悪事を見ているなら/主は聞いてくださらないでしょう(詩編66:18)。
詩編34:16も参照して下さい。
・見えない者(人々)は見えるようになり、見える者(人々)は見えないようになる:ヨハネは別の個所でもイザヤの言葉を引用しています。
■「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。(ヨハネ12:40―41)
イザヤ書6:9-10を併せてお読み下さい。
・ハーメルンの笛吹き男:グリム兄弟が1284年にこの町で起こった「子供の失踪(しっそう)事件」をもとに作った物語です。消えた子供の数は130人です。グリム童話はどの話もそれぞれ真実を含んでいて面白いのです。この物語も昔から子供たちに人気のあるものの一つです。身勝手な人間の姿を抉(えぐ)り出しています。現在ドイツのハーメルンは人口およそ五万八千人の都市になっています。緯度は北海道の最北端稚内より上です。
(あらすじ)
町にネズミがやたらに増えて人々は困っていました。そのような時に不思議な身なりをした笛吹き男が現れたのです。男は町の偉い人たちに自分をネズミ捕りとして紹介したのです。町からネズミを追い出せば多額の謝礼を受け取る約束で、直ちにネズミの駆除に取り掛かったのです。笛を吹きながら町中のネズミを大きな川へ誘い出して一匹残らず溺(おぼ)れさせたのです。ところが、ネズミがいなくなると、町の人たちは急にお金を払うのが惜(お)しくなりました。何のかんのと言ってお金を払おうとしません。笛吹き男は怒って帰ってしまいました。次の日曜日、大人たちが教会でお祈りをしている時でした。笛吹き男がまた町に現れたのです。町角に立っていつかのように笛を吹き鳴らしました。子どもたちは不思議な笛の音に誘われて家から飛び出し、男の後をついて行きました。やがて山の洞穴の中へ消えてしまったのです。目の不自由な男の子と口の利けない男の子の二人を除いて、子供たちと笛吹き男は二度とハーメルンの町に戻って来なかったのです。
(メッセージの要旨)
*イエス様が目の不自由な人々を見えるようにされた「癒しの業」は福音書に幾つか記述されています。「神の国」が到来していることを証明しているのです。牢の中から「来るべき方(救い主)はあなたでしょうか」と質問する洗礼者ヨハネに、イエス様はご自身の様々な「力ある業」を例示して答えとされたのです(マタイ11:2-6)。ガリラヤ湖の北端にあるベトサイダの村では盲人の目に唾(つば)をつけ、両手をその目に当てて治されたのです(マルコ8:22-26)。ガリラヤ地方のある家では二人の盲人を癒されました(マタイ9:27-31)。悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人をものが言え目が見えるようにされたのです(マタイ12:22)。エルサレムから近い歴史的なエリコの町で盲人バルティマイを見えるようにされたのです(マルコ10:46-52)。エルサレムでは神殿の境内で売り買いをしていた人々を皆追い出されたのです。そばに寄って来た盲人たちの視力を回復させられたのです(マタイ21:14)。目の病気は日常的に起こっていました。不衛生が主な原因でした。特に、水に問題がありました。効果的な治療方法もなかったのです。目の不自由な人々が仕事を見つけ自立することは極めて困難でした。多くの人は物乞(ものご)いによって日々の糧(かて)を得ていたのです。ところが、イエス様の「癒しの業」はこれらの人の日常生活を一変させたのです。病気による苦難だけでなく、罪人としての重圧からも解放されたのです。「良い知らせ」は障害のある人々や貧しい人々に優先的に届けられるのです。
*心身の障害は罪と深く結びつけられていました。ある時、イエス様は通りすがりに生まれつき目の見えない人を見かけられたのです。弟子たちも含めてユダヤ人たちは盲人の目が見えなくなった原因を本人か両親が犯した罪にあると考えていました。ところが、イエス様は伝統的な教えである障害と罪の関連について明確に否定されたのです。「神様の愛」が現れるためであると明言されたのです。「癒しの業」によってそのことを証明されたのです(ヨハネ9:1-12)。しかし、ファリサイ派の人々など指導者たちは生まれつき目の見えなかった人が見えるようになったことを信じなかったのです。しかも、厳しい命令を出していたのです。イエス様をメシア(キリスト)-油注がれた者-と公言する者は会堂(共同体)から追放されるのです(ヨハネ11:57)。本人の両親からも真相を確かめようとしたのです。両親は生まれつき息子の目が見えなかったこと、そして見えるようになったこと以外は分からないと答えたのです。詳しくは本人に聞いて下さいと言ったのです。指導者たちはもう一度生まれつき盲人であった人を呼び出したのです。本人は「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ・・わたしが、今見えるということです」と説明したのです。自分に起こったことだけを伝えたのです。指導者たちは信じなかったのです。父祖アブラハムがそのことについて言及しています。不信仰な人々はたとえ死者の中から生き返る人があってもその人の言うことを信じないのです(ルカ16:31)。「癒しの業」は神様からのメッセージです。
*「神の国」-神様の支配-の福音がイエス様を通して到来しているのです。ところが、「罪の赦し」、「霊的な救い」として限定的に理解されているのです。イエス様は「神の国」の福音に対する誤解を正されるのです。それはしかるべき時に人間の「全的な救い」として完成するのです。生まれつき目の見えなかった人は自分に起こった出来事によって「永遠の命」に導かれることになるのです。この人は見えるようにして下さったお方がイエス様であることを知って「救い主」として信じたのです。イエス様は信じられない人々に譲歩してご自身の業によって信じなさいと言われたのです(ヨハネ10:37-38)。モーセの弟子であることを自負するユダヤ人たちは神様が「癒しの業」の中に働いておられることを信じなかったのです。自分たちを「永遠の命」から遠ざけているのです。罪人の烙印(らくいん)を押されていた人が「救い」を得、信仰を誇っていた人々が罪の中に留まっているのです。「神の国」においてこの世の評価は何の役にも立たないのです。人には他の人を裁く資格は与えられていないのです。罪を犯さない人は誰もいないからです(ルカ7:1-5)。神様は一切の権限を御子であるイエス様にお委(ゆだ)ねになられたのです(ヨハネ5:22)。イエス様は「裁き主」でもおありになるのです。終わりの日にそれぞれの「行い」を判断されるのです。イエス様の教えに対する真摯(しんし)な応答がその人の「救い」にとって決定的に重要となるのです。お言葉に耳を傾けるのです。ご生涯から学ぶのです。それらを実践するのです。
*「ハーメルンの笛吹き男」は世界中の子供たちに読まれています。作者のグリム兄弟はドイツの小さな町で実際に起こった出来事に基づいてこの物語を書いたのです。社会生活を営む上で大切な考え方が簡潔に語られているのです。内容については様々な観点から解説が行われています。キリストの信徒たちにとっても示唆(しさ)に富んでいるのです。町の偉い人たちは約束していたお金を払わなかったのです。笛吹き男は不誠実さに怒って帰って行ったのです。ところが、次の日曜日に再びこの町に現れたのです。一方、人々は何事もなかったかのように教会の礼拝に出席して神様にお祈りをしていたのです。笛吹き男は不思議な音色で子供たちを家々から誘い出し、やがて山にたどり着くとぽっかりと口を開けた洞穴の中へ消えて行ったのです。この様子を見ていた子守娘は町の人々に知らせたのです。大人たちは大急ぎで子供たちを探すために山へ向かったのです。しかし、他の子供たちは一人も見つからなかったのです。ただ、目の不自由な男の子と話すことが出来ない男の子の二人だけが町に戻ってきたのです。正義と信頼を損(そこ)なった大人たちは取り返しのつかない代償(だいしょう)を払うことになったのです。消えた子供たちのその後についは分からないのです。ドイツから少し離れたハンガリーのトランシルバ山に住む人たちがハンガリー語を使わずにドイツ語を話しているのです。笛吹き男が連れて行った子供たちの子孫だとも言われているのです。「行いを伴わない信仰の危うさ」(ヤコブ書2:14-17)が鋭く指摘されているのです。
*イエス様は「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る(あなたたちは罪の中にある)」と言われたのです。信仰を誇り、生まれつき目の見えない人を罪人として蔑(さげす)む指導者たちには「福音の真理」が見えないのです。これらの人の不信仰は深刻な結果をもたらすのです。ファリサイ派の人々に天罰が宣告されるのです(マタイ23)。一方、かつて目が見えなかった人はイエス様の「癒しの業」に神様が共に働いておられることを確信したのです。この人に「救い」が訪れたのです。イエス様は教義や知識を駆使(くし)して信仰を正当化しようとする人々に警鐘(けいしょう)を鳴らしておられるのです。モーセの律法を厳格に守っていたとしても、その人の「救い」はまだ確定してないのです。イエス様の教えを実践したかどうかによって最終的に判断されるからです。ある金持ちの男は「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」という戒めを子供の時から守っていました。イエス様はこの人に「持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。それから、わたしに従いなさい」と命じられたのです。金持ちは悲しみながらその場を去ったのです。誰もが認める信仰深い人でも「神の国」に入れないことがあるのです(マルコ10:17-31)。人間による「罪の定義」の是非が問われているのです。イエス様に従うのです。神様を崇め、「神様の御心」を実行するのです。最後の審判の時に「良い知らせ」を受け取るのです。