「平和と正義の実現」
Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書5章9節から12節及びイザヤ書32章17節から18節
平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。義(正義)のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである(マタイによる福音書5章9節から12節)
正義が造り出すものは平和であり/正義が生み出すものは/とこしえに安らかな信頼である。わが民は平和の住みか、安らかな宿/憂いなき休息の場所に住まう(イザヤ書32章17節から18節)。
(注)
・イザヤの預言:平和について
■終わりの日に・・/主は国々の間を裁き/多くの民のために判決を下される。/彼らはその剣を鋤(すき)に/その槍を鎌(かま)に打ち直す。/国は国に向かって剣を上げず/もはや戦いを学ぶことはない(イザヤ書2:4)。
国連本部の前の道路を挟んで向かい側に「英文の碑」(日本語訳と同じ内容)があります。
THEY SHALL BEAT THEIR SWORDS INTO
PLOWSHARES. AND THEIR SPEARS INTO
PRUNING HOOKS. NATION SHALL NOT LIFT
UP SWORD AGAINST NATION. NEITHER
SHALL THEY LEARN WAR ANY MORE.
ISAIAHA
・平和の君と正義について:
■万軍の主はこう言われる。「ぶどうの残りを摘むように/イスラエルの残りの者を摘み取れ。ぶどうを摘む者がするように/お前は、手をもう一度ぶどうの枝に伸ばせ。」誰に向かって語り、警告すれば/聞き入れるのだろうか。見よ、彼らの耳は無割礼で/耳を傾けることができない。見よ、主の言葉が彼らに臨んでも/それを侮り、受け入れようとしない。主の怒りでわたしは満たされ/それに耐えることに疲れ果てた。「それを注ぎ出せ/通りにいる幼子、若者の集いに。男も女も、長老も年寄りも必ず捕らえられる。家も畑も妻もすべて他人の手に渡る。この国に住む者に対して/わたしが手を伸ばすからだ」と主は言われる。「身分の低い者から高い者に至るまで/皆、利をむさぼり/預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らは、わが民の破滅(傷)を手軽に治療して/平和がないのに、『平和、平和』と言う。・・・(エレミヤ書6:9-14)
・裁きの判断基準:
■それから、王は左側にいる人たちにも言う。「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。」そこで、王は答える。「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。(マタイ25:41-46)。
・国連憲章:
国際連合の基本事項を規定した条約。第二次世界大戦中の連合国の協力を基盤とする戦後平和維持の理想を実現し、かつ国際連盟の失敗の教訓を生かした世界平和機構の設立を目的とするもので、1945年6月のサンフランシスコ平和会議で採択され、同年10月に発効した(日本大百科全書)
・UNHCR:
United Nation High Commissioner for Refugee の略称です。日本名は「国連高等難民弁務官事務所」です。1950年に設立された国連機関です。1945年、1981年にノーベル平和賞を受賞しています。国連UNHCR協会は日本における公式支援窓口です。
・日本国憲法第9条:
(1)日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又(また)は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
(2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
・非核三原則:「核兵器を持たず、造らず、持ち込ませず」のことです。
(メッセージの要旨)
*イエス様は「平和を実現する人々は神の子と呼ばれる」と言われたのです。キリスト信仰は行いを求めるのです。「神様の御心」に適(かな)った行いが人を「救い」に与らせるのです。平和を実現することはキリストの信徒たちの使命なのです。ただ、正義を欠いた平和は偽(いつわ)りなのです。この点は特に重要です。ユダヤ人たちの苦難の歴史が証明しているのです。イスラエルが南北の王国に分裂している時代がありました。預言者イザヤは南王国ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世において活動しました。期間は紀元前738年から688年の頃です。北王国イスラエルはホシェア王の時代、自分たちの神様を捨てて偶像に仕えたのです。中心都市サマリアはアッシリアによって陥落(かんらく)したのです(紀元前722/721年)。南のユダ王国もアッシリアの脅威(きょうい)に怯(おび)えていました。イザヤはヒゼキヤ王に先祖が行って失敗した政治的、軍事的な画策をやめて、神様により頼むことを助言したのです。ヒゼキヤ王は神様に祈ったのです。祈りは聞き入れられたのです。一夜にしてアッシリア軍18万五千人を撃(う)たれたのです。「・・主は平和を宣言されます/御自分の民に、主の慈(いつく)しみに生きる人々に・・慈しみとまことは出会い/正義と平和は口づけし、まことは地から萌(も)えいで/正義は天から注がれます」と明言するのです(詩編85:9-12)。今年は戦後80年です。キリストの信徒たちは最も重要な戒め‐神様と隣人を愛すること-を心に刻み、平和と正義の実現に取り組むのです。
*日本の8月は平和について考える良い機会です。6日は広島に、9日には長崎に原子爆弾が投下されました。両市でおよそ20万人の市民が犠牲になったのです。15日は戦争が終わった日ではないのです。侵略戦争を遂行した軍部と軍国主義が敗北した日です。敗戦の意味を考える日なのです。平和を実現する上でこれらの視点は決定的に重要です。戦争で約310万人の尊(とおと)い命が失われたのです。イエス様は「山上の説教」において群衆や弟子たちに平和の尊さを教えられました。平和は待っているだけでは訪れないのです。人々の不断の努力が不可欠なのです。平和とは現状を肯定することではないのです。争いがないことでもないのです。すべてにおいて正義と公平が貫かれていることに他ならないのです。イエス様は権力者たちの不信仰と腐敗を激しく非難されたのです。ご自身に倣(なら)って抑圧と搾取と闘っている人々を祝福されるのです。キリスト信仰を標榜(ひょうぼう)する信徒たちにも、飢(う)えに苦しむ人々、無一物の人々、不当に束縛されている人々の窮状(きゅうじょう)を救うために「何をしたか」と問われるのです。すべての人が大切にされ、豊かな生活を送れるように-戦争や紛争のない平和な社会を実現するために-自分に出来ることを実践することが求められているのです。イエス様は「この最も小さい者(たち)の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」と言われたのです。イエス様は再び地上に来られるのです。平和と正義を実現するための働きがその人の「救い」の保証となるのです。
*イエス様は神様の子供たちが「神様と隣人」を愛して生きるように教えられました。平和と正義を実現するという責務が与えられたのです。世界の多くの国において、信頼と公平が軽んじられ、国家間の争いが絶えないのです。政治的抑圧と富の偏在が顕著になっているのです。国内においても格差が拡大しているのです。近年、紛争を解決するためには武力行使も止むを得ないとする雰囲気が漂(ただよ)っているのです。日本は平和憲法を高く掲げ、唯一の被爆国として、戦争の残酷さと悲惨さを発信するのです。非核三原則を堅持し、原爆投下が人類に対する大罪であったことを訴えるのです。同時に、日本の軍部が近隣のアジア諸国を侵略し、真珠湾を攻撃し、人々の尊い命を奪い、多大な損害を与えたのです。これらの事実を曖昧(あいまい)にしてはならないのです。平和運動は思想・信条の垣根を越えて進められているのです。イエス様は平和の実現のために奔走(ほんそう)しているすべての人に希望を与えられたのです。平和は正義の裏付けを必要とするのです。簡単なことではないのです。正義を追求すれば既得権益に執着(しゅうちゃく)する人々と必然的に対立するのです。厳しい試練に遭遇(そうぐう)するのです。不断の闘い(意思表示)がなければ平和を勝ち取ることは出来ないのです。キリスト信仰が変容されているのです。多くの人が誤解しているのです。信仰には行いが伴わなければならないのです。行いのない信仰はそれだけでは死んでいるのです(ヤコブ書2:18)。「神様の御心」に適(かな)う人々が「神の子」になるのです。
*国連(国際連合)は数千万の人々が犠牲になった第二次世界大戦の深い反省の中から誕生しました(1945年10月24日)。国際間の平和と安全の推進、国際協力のために設立された機関です。日本は1956年に加盟しました。世界平和を具体化するために心血を注いだアメリカのルーズベルト大統領は自ら提案した「国連」という名称を見ることなく亡くなりました(1945年4月12日)。後を継いだトルーマン大統領は戦後処理に全力を傾注したのです。戦争終結後を見据えて国の力を誇示するため、映画「ひろしま」にあるように、広島、長崎を新兵器(原子爆弾)の実験場にすることを認めたのです。国連ビルの前にはイザヤの預言が刻(きざ)まれたモニュメントが建っています。世界に向けて信仰の観点から平和を訴え続けているのです。本部の中庭には日本が寄贈した平和の鐘(鐘楼)が置かれています。現実はイザヤの言葉通りになっていないのです。世界の至るところで戦争や紛争が起こっており、平和の要(かなめ)としての国連が大国の意向に振り回されているのです。UNHCRの「2024活動報告書」(2025年6月)によると、1億2260万人‐日本の総人口に匹敵する数の人々‐が止まない戦争や暴力行為による情勢の悪化、気候変動により、故郷を追われているのです。レバノンでの軍事攻撃、政情不安に苦しむシリア、戦争が始まってから3年目を迎えているウクライナでも厳しい状況は続き、ガザは人道危機に直面しています。これらの事態に無関心でいることは罪なのです。キリストの信徒たちは出来ることをするのです。
*平和と正義はキリスト信仰における根本理念です。ところが、「救い」と無関係であるかのように理解されているのです。イエス様の愛の教えに反しているとして、それらを実現するための闘いから距離を置いているのです。結果として原因である不公正や格差を容認する側に立っているのです。「愛の教え」を説かれたイエス様は「平和を実現する人々は幸いである」とも言われたのです。旧・新訳聖書を自分の都合に合わせて解釈してはならないのです。イエス様はご自身の権威に基づいて説明し、「生き方」を通して証されたのです。人は宗教的儀式への参加、聖句の暗唱力や礼拝出席の頻度(ひんど)によって「救い」に与るのではないのです。飢えや病気で苦しむ人々のために何を捧げたか、内戦や紛争で荒廃した地域や国において自由を奪われた人々のためにどのように取り組んだかによって、その人の「救い」が判断されるのです。平和を実現するためには正義の確立が不可欠です。正義を追求すれば抑圧者たちや不当な利益を得ている人々との対立は避けられないのです。不正や腐敗を告発すれば迫害されるのです。身に危険が及ぶことさえあるのです。「正義の闘い」なくして「真の平和」は訪れないのです。平和運動は盾(むじゅん)の中で行われているのです。イエス様が「中立の立場」を取られることはなかったのです。貧しい人々や虐(しいた)げられた人々の側に立たれたのです。イザヤと同様に「神様の御心」に反した現状を鋭く批判されたのです。キリストの信徒たちはイエス様の御跡を辿(たど)るのです。平和と正義を希求するのです。