「我に返ること」

日   時  2026年09月20日(日)午前10時30分~

礼 拝 式 次 第

前奏 (Prelude)


讃美歌2番


(1)いざや共に 声うち上げて
くしき御業 ほめ歌わまし
造りましし 天地(あめつち)みな
神によりて 喜びあり


(2)母の胸に ありし時より
わが踏む道 さきわい給う
今も後(のち)も 仇(あだ)を防ぎ
世の災い 除き給わん


(3)迷いを去り 安きを与え
常に恵み 慰め給う
父なる神 御子 御霊に
代々(よよ)みいつと 御栄えあれ

BRIEF ORDER FOR CONFESSION AND FORGIVENESS

(P) In the name of the Father, and of the + Son, and of the Holy Spirit.

(C) Amen

(P) God, whose love is everlasting, welcomes sinners to the table of mercy.
Let us confess our sin, confident in God’s forgiveness.

Silence for reflection and self-examination.

(P) Gracious God,

(C) Have mercy on us.
In your gracious compassion forgive us our sins, both known and unknown, things done and left undone.
Uphold us by your Spirit so that we may serve you in newness of life, to the honor and glory of your holy name, through Jesus Christ our Lord. Amen.

(P) Since we are justified by God’s grace through faith,
We have peace with God through our Lord Jesus Christ.
Almighty God has mercy on you, forgives you all your sins,
And bring you to life everlasting. Amen

Prayer of the Day(今日の祈り)

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書15章11節から32節

また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換(か)えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩(ほうとう)の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉(ききん)が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せた(で雇ってもらった)ところ、その人は彼を畑にやって豚(ぶた)の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物(はきもの)を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠(ほふ)られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

(注)


・放蕩の内容:詳細は不明です。兄が「娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶした」と言っているのです。また、「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません」と自分を評価しています。父親はこれらについて同意していないのです。


・豚:律法によると豚は汚れた動物です。レビ記11:7を参照して下さい。ユダヤ人にとって豚の世話をすることは恥です。それらのエサを食べることはさらに屈辱(くつじょく)だったのです。

・我に返る:神様のお導きを暗示しています。

・良い服・・指輪:弟の地位と正当性表しています。創世記41:42を併せてお読み下さいさい。

・肥えた子牛:肉が食されることはほとんどないのです。特別なお祝いの席に出されるのです。

・兄の弟に対する態度:ファリサイ派の人々や律法学者たちのそれと酷似(こくじ)しているのです。

・神の国:「天の国」とも呼ばれています。神様の支配、神様の主権を表す言葉です。神様が神様として崇(あが)められることです。誤解されているような死後に行く「天国」のことではないのです。

・徴税人:ローマに協力して民衆から過酷な税を徴収していました。人々は彼らを罪人として蔑(さげす)んだのです。

・1ドラクメ銀貨:ギリシャの通貨です。価値は平均的労働者の一日分の賃金に相当します。


・士師:神様はイスラエルを敵から解放するために軍事的、政治的指導者を選ばれたのです。士師記には12人の名前が登場します。サムソンはその一人です。

・ダビデ:三十歳で王となり、四十年間王位にありました(サムエル記下5:4)。イスラエルの歴史において最も重要な人物の一人です。

・新共同訳聖書の小見出しは「『放蕩息子』のたとえ」になっています。日本語訳がキリスト信仰を誤解させる要因の一つになっているのです。全体の文脈から「『放蕩息子とその兄』のたとえ」とすべきです。神様は放蕩息子が悔い改めてご自身の下へ帰って来たことを喜び、兄にたとえられた傲慢(ごうまん)なファリサイ派の人々や律法学者たちを厳しく非難されているのです。

(メッセージの要旨)

*「放蕩息子のたとえ」は身を持ち崩(くず)した息子が神様の深い憐れみによって再び命を得た話として語られることが多いのです。しかし、それだけに焦点を当てるとすれば「木を見て森を見ない」ことになるのです。他の二つの視点にも注目する必要があるのです。一つは、たとえ話がイエス様を非難したファリサイ派の人々や律法学者たちに対する反論であったことです。もう一つは、家族の一員として再び迎えられた弟の処遇に反発する兄が叱責(しっせき)されていることです。ファリサイ派の人々や律法学者たちは律法や慣習(言い伝え)を日常生活の中で厳格に守っているのです。兄も「わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません」と言っています。これらの人の信仰理解には共通性があるのです。律法や戒めを遵守(じゅんしゅ)した人々だけが「救い」に与(あずか)るのです。律法主義こそ「永遠の命」に至る道なのです。徴税人たちはローマの手先になって同胞から税を過酷(かこく)に取り立てているのです。しかも、私腹を肥やしているのです。律法を守らない人々は健全な社会から排斥すべき存在なのです。これらの罪人は赦されてはならないのです。イエス様を通して「神の国」が到来しているのです。福音が社会の隅に追いやられた人々に届けられているのです。罪が赦され「救い」に与(あずか)っているのです。神様は弟のように罪の中に死んでいた人がご自身の下に帰って来ることを何よりも喜ばれるのです。兄のように「神様の御心」を軽んじている人々に悔い改めが求められているのです。

*ファリサイ派の人々や律法学者たちが「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と質問したのです。イエス様は「医者を必要とするのは、健康な人(人々)ではなく病人(たち)である。わたしが来たのは、正しい人(人々)を招くためではなく、罪人(たち)を招いて悔い改めさせるためである」と答えられたのです(ルカ5:31-32) 。福音の真理を語られたのです。お言葉には神様の愛と憐れみが表れているのです。神様は罪に苦しんでいる人々をもう一度生かされるのです。百匹の羊の内一匹を見失ったとすれば九十九匹を野原に残して見失った一匹を見つけ出すまで捜し回り、ドラクメ銀貨十枚の内一枚をなくしたらその一枚を見つけるまで捜(さが)されるお方なのです(ルカ15:1-10)。「放蕩息子のたとえ」も同様の趣旨に基づいているのです。弟は父親の下で神様を仰いで暮らしていました。ある日、遠い国-この世の誘惑が溢(あふ)れている所-に憧)あこが)れて旅に出たのです。財産を使い果たし、辛酸(しんさん)を舐(な)めることになったのです。神様への信仰まで無くしたのです。「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである」の通り、暗闇を彷徨(さまよ)ったのです(ヨハネ3:20)。弟は「神様の戒め」を知っているのです。ところが、この世の誘惑から抜け出せなかったのです。神様はご自身の方から近づいて悔い改める機会を与えられたのです。弟は不思議な導きによって我に返ったのです。父親の下へ帰ることを決心したのです。

*我に返った弟は「雇い人の一人にしてください」と言ったのです。特権を放棄(ほうき)するのです。悔い改めには痛みが伴うのです。旧約聖書にも具体例が記述されています。士師サムソンには生まれる前からイスラエルをペリシテ人から救うことが定められていました。神様は成長したサムソンを祝福し、特別な力を与えられたのです。サムソンの怪力はペリシテ人を大いに苦しめたのです。ところが、ペリシテ人に買収された恋人デリラの誘惑に負けて「力の秘密」を洩らし、捕らえられて両目を失ったのです。見世物となったサムソンは「わたしの神なる主よ。わたしを思い起こしてください。神よ、今一度だけわたしに力を与え・・てください」と祈ったのです。再び力を得て柱を倒したので建物は崩れ、サムソンは宴席にいた3000人のペリシテ人と共に死んだのです(士師記13-16)。神様はダビデを祝福しイスラエルの王とされたのです。しかし、家臣であるヘト人ウリヤの妻バト・シェバを妻にするために画策するのです。ウリヤを激戦地に送って戦死させたのです。神様は預言者ナタンによって罰することを告げられたのです。ただ、犯した罪を深く悔いたので死だけは免(まぬか)れたのです。ダビデの家に骨肉の争いが絶えなかったのです(サムエル記下11-12)。バト・シェバとの間に生まれた息子のソロモンに「・・主の掟と戒めと法と定めを守れ。そうすれば、あなたは何を行っても、どこに向かっても、良い成果を上げることができる」と言って眠りについたのです(列王記上2―3)。罪の赦しは安価な恵みではないのです。


*イエス様のたとえ話を引用する時「神様の愛」を強調して終わることが多いのです。それでは全体を語ったことにはならないのです。憐れみ深い神様と罪を赦された弟の物語として完結していないのです。兄は悔い改めて帰ってきた弟の過去の罪を赦さないのです。「あなたのあの息子」と呼んで突き放すのです。弟に対する父親の対応についても激しく反発しているのです。父親は「神様の御心」を理解しない兄を厳しく叱責(しっせき)したのです。イエス様は間接的にファリサイ派の人々や律法学者たちの自己義認(自分を正しい人間とすること)と律法主義を非難しておられるのです。兄のその後について記述されていないのです。父親の説明に納得できずに祝宴に出席しなかった(悔い改めなかった)可能性もあるのです。信仰の傲慢は「神の国」に入れないほどの大きな罪なのです。イエス様の弟子であるということで免罪される訳ではないのです(マタイ18:1-5)。「神の国」の福音が「罪の赦し」にのみ向けられているのです。根本理念が恣意的(しいてき)に変容されているのです。「神の国」の到来はすべての人にこれまでの歩みを深く内省させるのです。悔い改めを迫るのです。兄の父親に対する不満に共感する人々もいるのです。神様が赦された罪人を再び裁くことほど大きな罪はないのです。たとえ話は自分を正しい者とし、神様に代わって人を裁くファリサイ派の人々や律法学者たちへの警告なのです。キリスト信仰とは最も重要な戒め-正義を重んじ、慈悲に満ち、誠実であること-を実行して生きることなのです(マタイ23:23)。


*弟は悔い改めと決意を伝えたのです。ところが、父親は息子の放蕩生活に一切言及することなく、ただ、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったことを心から喜んだのです。以前と同じように自分の息子の印として手に指輪をはめてやったのです。神様は悔い改めた罪人を再び「神の国」に招き入れられるのです。これが福音なのです。理由は様々ですが、長い信仰生活の中で「神の国」から迷い出ることがあるのです。神様から離れた生き方をすれば、肉体は生きていても魂が死んでいるのです。弟のように我に返って罪を悔やんで涙を流すことがあるのです。一方、兄のように信仰を自負して罪人を蔑(さげす)んでいる人々がいるのです。自分で自分を正しい者と認定しても「永遠の命」の付与にとって何の役にも立たないのです。神様が最終的にその人の「救い」を判断されるからです。神様の位置に自分を置くことや隣人愛をおろそかにすることは深刻な罪なのです。しかし、道徳的、倫理的な罪ほどに罪として認識されていないのです。キリスト信仰における根本問題がここにあるのです。罪としての自覚がなければ罪を犯していないということではないのです。罪を犯さない人は誰もいないのです。神様の下へ帰る方法があるのです。それは「我に返ること」によって可能となるのです。悔い改めが真実であれば「神様の子」として認められるのです。弟のように悔い改めに相応(ふさわ)しい実を結んで「永遠の命」に与るのです。兄のような人は先ず自分を低くするのです。神様が共にいて下さることに感謝して「救い」を待つのです。

讃美歌3番

1
あめつちの御神をば
ほめまつれ、人の子よ。
われらが主のみとのこそ
照りかがやけ、いや栄(は)えて。

2
ひかりをばころもとし、
くろくもをくるまとし、
いかずちしてさき駆(お)わせ、
よろず治(し)らすかしこさよ。

3
いとくすし主の律法(おきて)、
雪と敷き雨とふり、
谷をはしり野にながれ、
風とそよぎ花と咲く。

4
ちりひじに生(な)りし身は、
主にたよるほかぞなき。
代々かわらぬみめぐみや、
わが御神よ、わが父よ。

APOSTLES’ CREED


I believe in God, the Father almighty, creator of heaven and earth.

I believe in Jesus Christ, his only Son, our Lord.
He was conceived by the power of the Holy Spirit and born of the Virgin Mary.
He suffered under (Caiaphas and) Pontius Pilate, was crucified, died, and was buried;
He descended into hell.
On the third day he rose again.
He ascended into heaven, and is seated at the right hand of the Father.
He will come again to judge the living and the dead.

I believe in the Holy Spirit, the holy catholic Church, the communion of saints, the forgiveness of sins, the resurrection of the body, and the life everlasting. Amen.

(使徒信条)


我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、(カイアファと)ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に降り、三日目に死人のうちより蘇り,天にのぼり全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。 アーメン

Benediction(祝福の祈り)

The Grace of the Lord Jesus Christ, the love of God, and the communion of the Holy Spirit be with all of you.

(P) Go in peace. Serve the Lord.

(C) Thanks be to God.

Postlude(後奏)

「Here I am」

I, the Lord of sea and sky,
I have heard My people cry.
All who dwell in dark and sin,
My hand will save.
I who made the stars of night,
I will make their darkness bright.
Who will bear My light to them?
Whom shall I send?
Here I am Lord, Is it I, Lord?
I have heard You calling in the night.
I will go Lord, if You lead me.
I will hold Your people in my heart.

I, the Lord of snow and rain,
I have borne my people’s pain.
I have wept for love of them, They turn away.
I will break their hearts of stone,
Give them hearts for love alone.
I will speak My word to them
Whom shall I send?
Here I am Lord, Is it I, Lord?
I have heard You calling in the night.
I will go Lord, if You lead me.
I will hold Your people in my heart.


I, the Lord of wind and flame
I will tend the poor and lame.
I will set a feast for them,
My hand will save
Finest bread I will provide,
Till their hearts be satisfied.
I will give My life to them,
Whom shall I send?
Here I am Lord, Is it I, Lord?
I have heard You calling in the night.
I will go Lord, if You lead me.
I will hold Your people in my heart.

 

それぞれの曲はインターネットで題名を入力すれば簡単に聴くことが出来ます。

2026年09月20日