「二人の金持ち」
Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書18章18節から30節及び19章1節から10節
ある議員(権力者)がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると議員(権力者)は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。イエスは、議員(権力者)が非常に悲しむのを見て、言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。するとペトロが、「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」
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イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
(注)
・議員:支配者あるいは権力者と訳すべき言葉です。日本語訳はイエス様の真意を曖昧(あいまい)にしているのです。
・エリコ:エルサレムから高度差およそ1,000m下り、約28km離れた所にある町です。
・神の国(天の国):神様の主権、神様の支配のことです。死後に行く「天国」のことではありません。
・永遠の命:神様によって来たるべき時に新しく創造されることです。ダニエル書12:2を参照して下さい。
・捨てる:日本語訳では非情な響きを与えますが、「神様に委ねること」です。
・正義と愛:
■アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。(創世記18:18-19)
■あなた(たち)は寄留者を虐げてはならない。あなたたちは寄留者の気持を知っている。あなたたちは、エジプトの国で寄留者であったからである。あなた(たち)は六年の間、自分の土地に種を蒔き、産物を取り入れなさい。しかし、七年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない。あなた(たち)の民の乏しい者(たち)が食べ、残りを野の獣に食べさせるがよい。ぶどう畑、オリーブ畑の場合も同じようにしなければならない。(出エジプト記23:9-11)
■同胞であれ、あなた(たち)の国であなた(たち)の町に寄留している者(たち)であれ、貧しく乏しい雇い人(たち)を搾取してはならない。賃金はその日のうちに、日没前に支払わねばならない。彼(ら)は貧しく、その賃金を当てにしているからである。彼(ら)があなた(たち)を主に訴えて、罪を負うことがないようにしなさい。(申命記24:14-15)
■主は裁きに臨まれる/民の長老、支配者らに対して。「お前たちはわたしのぶどう畑を食い尽くし/貧しい者(たち)から奪って家を満たした。何故、お前たちはわたしの民を打ち砕き/貧しい者(たち)の顔を臼でひきつぶしたのか」と/主なる万軍の神は言われる。(イザヤ書3:14-15)
■災いだ、恵みの業を行わず自分の宮殿を/正義を行わずに高殿を建て/同胞をただで働かせ/賃金を払わない者は。・・あなたの目も心も不当な利益を追い求め/無実の人の血を流し、虐げと圧制を行っている。(エレミヤ書22:13,17)
■このことを聞け。貧しい者(たち)を踏みつけ/苦しむ農民(たち)を押さえつける者たちよ。お前たちは言う。「新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。(アモス書8:4-5)
■災いだ、寝床の上で悪をたくらみ/悪事を謀る者(たち)は。夜明けとともに、彼らはそれを行う。力をその手に持っているからだ。彼らは貪欲に畑を奪い、家々を取り上げる。住人(たち)から家(々)を、人々から(彼らの)嗣業を強奪する。(ミカ書2:1-2)
(メッセージの要旨)
*イエス様はメッセージの中心に正義と愛を据えられました。旧約聖書が伝える律法を大切にされたのです(マタイ5:17-20)。律法には三つの目的があります。第一は制度が生み出す様々な弊害を最小限にすること、第二は人々を対立させている貧富の差をこれ以上拡大させないこと、第三は金持ちや権力者たちの搾取から貧しい人々や虐げられている人々を守ることです。イエス様はそれらを再解釈されたのです。ユダヤ人たちの信仰の原点は「出エジプト」の出来事にありました。神様がヘブライ人たち(イスラエルの民)をエジプトの圧政と搾取から解放されたからです。人々はエジプトと同じような罪を犯せば、神様から厳しい罰が下ることを知っているのです(ルカ1:51-52)。議員 たちは既得権益を享受しているのです。貧しい人々を犠牲にして富を蓄積しているのです。すべての財産を自分のために使っているのです(ルカ12:16-21)。エルサレム神殿では有り余るほどの中から多額の献金をしているのです(マルコ12:41)。一方、貧しい人々は借金返済のために担保の土地を奪われ、長時間労働と低賃金によって健康を害し、最低生活を維持するために日々奔走(ほんそう)しているのです。人々の貧しさの主たる原因は議員たちの搾取と強欲にあるのです。同時に、社会・政治・経済システムが議員たちと貧しい人々を再生産しているのです。イエス様は信仰と行いの矛盾に苦しんでいるこの議員に律法を厳格に守るように指示されたのです。しかし、この世に執着したのです。徴税人ザアカイは悔い改めて「救い」に与ったのです。
*二人の対照的な金持ちが登場します。一人は神様の戒めを守り、信仰の篤い人として人々から尊敬されている議員です。もう一人は徴税人の頭です。ローマ帝国に協力する罪人として社会から排斥されていたのです。前者は社会的地位の高い権力者ですが、どうしても「永遠の命」の確信を得られないのです。死の恐怖に怯(おび)えているのです。評判を聞いていたイエス様に解決方法を尋ねたのです。イエス様は十戒(出エジプト記20:1-17)の一部を引用して、それらを実行しなさいと言われたのです。議員は誇らしげに「子供の時から守っています」と答えたのです。しかし、イエス様は「あなたにかけているものがまだ一つある」と言われたのです。律法の重要な規定を守っていないことが指摘されたのです。貧しい人々に財産の一部または全部を施すという義務を怠っていたのです。議員は律法に精通しているのです。それを実行しているのです。しかし、自分にとって不都合な個所を除外していることが明らかになったのです。イエス様は「永遠の命」に至る道を示されたのです。「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と言われたのです。議員に不信仰と偽善を悔い改めることが求められたのです。神様を信頼することから始めるのです。お預かりしている大切な物(富)をお返しするのです。議員は大きな決断を迫られたのです。しかし、イエス様と共に歩まなかったのです。この世に執着したからです。自ら「神の国」に入る道を閉ざしたのです。
*徴税人たちはローマ帝国に協力して自国の民から税金を徴収し上納していました。見返りとして自分たちのために追加の税を取り立てる権限が与えられていたのです。ユダヤ人たちは過酷な税に喘(あえ)いでいたのです。徴税人たちを裏切り者、罪人として軽蔑したのです。交際することもなかったのです。ザアカイは徴税人たちを束ねる頭です。民衆の犠牲の上に富を築いている代表的人物の一人です。イエス様の評判はこの人にも伝わっていたのです。心の中に信仰心が芽生えていたのです。興味を持っていたイエス様を一目見ようとして木に登ったのです。ところが、イエス様の方からザアカイに声をかけ、家に泊りたいと言われたのです。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)にイエス様が徴税人や罪人たちと食事をされている様子が記されています。マルコ2:13-17が一例です。しかし、初対面の人に宿泊を申し出られた記事はどこにも見当たらないのです。ザアカイは喜んでイエス様を迎えたのです。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と言ったのです。これまでの生き方を悔い改めたのです。自分の意志によって財産の半分を貧しい人々に施すことにするのです。不正な手段によって富を得ていた場合は律法の規定に従って償うことにするのです(出エジプト記21:37)。イエス様は「今日、救いがこの家を訪れた」と言われたのです。ザアカイは「神様の御心」に適(かな)った「行い」によって罪を赦されたのです。「永遠の命」に与ったのです。
*イエス様は弟子たちに「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と言われました(マタイ5:48)。ところが、信仰を自負する人々は遵守すべき戒めの範囲を恣意的に狭めるのです。貧しい人々や虐げられた人々への無関心は罪ではないのです。イエス様はこれらの人に心を砕かれたのです。山上の説教(マタイ5-7)や平地の説教(ルカ6:17-49)に詳述されているのです。隣人を自分のように愛することは「永遠の命」に与るための必須の要件なのです。聖書に依拠することを表明しながらイエス様のお言葉を軽んじてはならないのです。議員のようにイエス様の教えを実行しなければ「神の国」に入れないのです。人は誰でも罪を犯すのです。イエス様は姦淫の罪に怯(おび)える女性を憐れまれたのです。「わたしもあなたを罪に定めない。・・これからは、もう罪を犯してはならない」と言われたのです(ヨハネ8:1-11)。放蕩息子は罪を悔いて父親の下へ帰ったのです。父親は息子の過去を非難しなかったのです。「死んでいたのに生き返った」と喜んで祝宴を開いたのです(ルカ15:11-24)。徴税人は神殿に上ったのです。罪の重荷に苦しんでいたからです。目を天に向けることもなく「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈ったのです。イエス様はこの人の罪が赦されたことを明言されたのです(ルカ18:9-14)。神様は罪人たちがご自身の下へ返って来ることを待っておられるのです。キリスト信仰とは信じることではないのです。イエス様に従って生きることなのです。
*イエス様は山上の説教において「神の国と富とに仕えることは出来ない」と言われました(マタイ6:24)。お言葉は弟子であるかどうかの判断基準になっているのです。「永遠の命」の要件があまりにも厳しいので弟子たちは「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言ったのです。弟子たちの率直な気持ちが表れているのです。自分たちに議員と同じような弱さがあることを自覚しているのです。イエス様は彼らを見つめて「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」と言われたのです。イエス様は弟子たちに譲歩して基準を緩和されることはなかったのです。全能の神様がすべての困難を取り除いて下さるからです。信仰の先駆者の中には福音宣教のために愛する家族と別れた人、家や畑を残して来た人がおられるのです。命を捧げられた方も一人や二人ではないのです。これらの方は悩みに悩んで決断されたのです。神様は「捨てる勇気」を与えられたのです。適切な時期にその労苦に報いて下さるのです。イエス様のお言葉はまことに厳しいのです。今日のキリストの信徒たちの中に「それでは、だれが救われるのだろうか」と言う方がおられるかも知れません。キリスト信仰は安価な恵みではないのです。神様は逡巡する信徒たちに困難な道へ踏み出す決断と力を与えて下さのです。父親の言いつけを拒否した兄は後に考え直したのです(マタイ21:28-29)。「神様の御心」に相応しい生き方を始めたのです。イエス様はザアカイのような信徒たちを待っておられるのです。「神の国」に迎え入れて下さるのです。