「神様の御心の実現」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書3章1節から6節

イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。(ファリサイ派の)人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

(注)

・安息日の規定(十戒):

■安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。(出エジプト記20:8-11)

●この他にも人々の行動は細かく制限されていました。例えば、900メートルしか移動できなかったのです。

・善を行うこと(命を救うこと):

■もし、あなたを憎む者のろばが荷物の下に倒れ伏しているのを見た場合、それを見捨てておいてはならない。必ず彼と共に助け起こさねばならない。(出エジプト記23:5)

■同胞のろばまたは牛が道に倒れているのを見て、見ない振りをしてはならない。その人に力を貸して、必ず助け起こさねばならない。(申命記22:4)

・イエス様の律法解釈:

■・・ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。(マタイ12:1-8)

■・・イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。そして、言われた。『あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。』彼らは、これに対して答えることができなかった。(ルカ14:13-6)。

・安息日に癒された人々:

●腰の曲がった婦人(ルカ13:10-17)

●38年間病気で苦しんでいる人(ヨハネ5:1-18)

・ファリサイ派:ユダヤ教の改革運動を推進し、信仰の証として律法や慣習を生活の隅々に厳格に適用したのです。

・ヘロデ派:ローマ帝国との協調を最優先する人々のことではないかと推測されています。ファリサイ派の人々とは互いに敵対関係にありましたが、イエス様を殺すために協力するのです。

(メッセージの要旨)


*福音書の中で最も古いとされているマルコにはイエス様の誕生物語が記述されていないのです。イエス様の宣教から始まっています。第一声において「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣言されたのです(マルコ1:15)。「神の国」(天の国)の到来-新しい天地創造の開始-は福音となったのです。イエス様は先ず漁師であるシモン(ペトロ)、アンデレ、ヤコブ、ヨハネを弟子に選ばれました。安息日にはユダヤ教の会堂に入り、旧約聖書を教えられたのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちは律法を教条的に解釈したのです。イエス様は「律法の主」として、最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実行するように命じられたのです。様々な力ある業を通して「神の国」を見える形で証しされたのです。汚れた霊に取りつかれた人、重い皮膚病を患っている人,中風の人、手の萎えた人などを癒されたのです。民衆は皆驚いて神様を賛美したのです。イエス様の評判はガリラヤ地方の隅々にまで広まったのです。病気が犯した罪の報いとして考えられていた時代に、イエス様は病人たちを癒されるだけでなく、これらの人の罪をも赦されたのです。社会から蔑まれていた罪人(娼婦)たちやローマ帝国に協力して高額な税を取り立てていた徴税人たちと交際し、強い絆(きずな)を養う場となる食事も共にされたのです。イエス様は立ち位置を明確にされるのです(マタイ9:13)。イエス様の言動はファリサイ派の人々の権威を危うくしているのです。容認することは出来ないのです。イエス様を殺そうとするのです。

*イエス様はユダヤ教の伝統的な考え方と真っ向から対峙(たいじ)されたのです。貧しい人々や虐げられた人々は「神の国」の到来に希望の光を見たのです。イエス様を「神様の子」として信じたのです。ファリサイは「分離する」という意味です。ファリサイ派の人々は罪人たちを蔑(さげす)んだのです。自分たちの信仰心を誇るために徹底的に罪人たちとの接触を避けたのです。モーセの十戒はユダヤ教の基本理念です。人々は大切に守って来たのです。ところが、指導者たちは自分たちの権威を強化し、民衆を支配するための手段として用いたのです。律法主義(形式主義)的に解釈して本来の趣旨を歪(ゆが)めたのです。民衆のための戒めが逆に人々の重荷となったのです。イエス様は指導者たちの誤りを指摘するかのように、癒しの業の多くを「安息日」に実行されたのです。「神様の御心」を鮮明にされたのです。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と言われたのです(マルコ2:27)。「安息日」は人々が働き過ぎて(働かされ過ぎて)命を損なわないように定められたことを想起させられたのです(申命記5:12-15)。「安息日」には善を行うこと、命を救うことは許されているのです。イエス様の主張は「神様の御心」に適っているのです。新しい律法解釈は民衆の熱い支持を得ているのです。ファリサイ派の人々の罪が告発されているのです。指導者たちに悔い改めが求められているのです。しかし、既得権益に執着するこれらの人は福音を拒否するのです。イエス様との対立を一層深めて行くのです。


*イエス様は「安息日」を破るだけではなく、「安息日の主である」と宣言されたのです(マルコ2:28)。エルサレム神殿を「父の家」と呼び、境内から両替人や商売人たちを追い出されたのです(ルカ19:45-47)。アブラハムが生まれる前から「わたしはある」(ヨハネ8:58)、わたしと父は一つである(ヨハネ10:30)と言って、ご自身を神様と等しい者とされたのです。イエス様の主張は神様への冒涜(ぼうとく)です。唯一の神様を信じるユダヤ人たちにとってイエス様は死罪に値する大罪人なのです。イエス様を殺さなければならないのです。イエス様はその理由について尋ねられました。指導者たちは「善い業のことで、石で打ち殺すのではない、神を冒涜しているからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ」と答えたのです(ヨハネ10:33)。イエス様の言動はファリサイ派やヘロデ派の人々にとって看過出来ないのです。信心深さを装う回し者を遣わし、イエス様の言葉じりをとらえ、ローマの総督(ポンティオ・ピラト)に引き渡すために、政治的に巧妙に工夫された「皇帝への税金」の問題を質問させているのです(マタイ22:15-22)。大祭司カイアファはイエス様への民衆の絶大な支持がローマ帝国への反乱に繋がることを恐れたのです。「ユダヤ人全体」を救うためにイエス様を政治犯として殺すのです(ヨハネ11:47-53)。イエス様は民衆と共に歩まれたのです。人々の悲しみや苦悩に心を砕かれたのです。御子として使命を果たされるのです。権力者たちから迫害を受けるのです。


*キリスト信仰における最も重要な戒めは「神様と隣人(苦難を覚える人々)」を愛することです。イエス様は貧しい人々や障害者たちが不当な扱いを受けているのを見て「怒り」を露にされたのです。律法を率先して順守すべきファリサイ派の人々のような指導者たちがこれらの人を虐げているのです。言うだけで律法を守らないのです。「神様の御心」である正義、慈悲、誠実を軽んじているのです。イエス様は先生や教師と呼ばれている人々の信仰姿勢を厳しく非難されたのです。彼らの不信仰と不正を赦されないのです。イエス様は「偽善者たち」と呼び、天罰が下ることを明言されたのです(マタイ23)。怒りや憤りが「罪」として見なされているのです。こうした信仰理解はキリスト信仰に対する誤解から生じているのです。キリスト信仰は「個人の救い」で完結しないのです。「全的な救い」として実現するのです。イエス様のご生涯から学ぶのです。「神の国」の建設に参画するのです。神様は終わりの日にそれを完成して下さるのです。イエス様の怒りを論じるのではなく、正義や公平を実現するために奔走(ほんそう)されたことに倣(なら)うのです。イエス様は権力者たちや指導者たちが「神様の御心」に反していれば躊躇(ちゅうちょ)することなく憤られたのです。抑圧や差別に対する怒りは「隣人愛」の原点です。ただ、それを正しく表現するのです。キリスト信仰における「霊性」と信徒としての「生き方」とは切り離せないのです。先ず「神様の霊」の導きを求めるのです。貧しい人々や虐げられた人々に共感する力が与えられるのです。

*イエス様の怒りは個人的な感情表現や気まぐれではないのです。指導者たちによる貧しい人々の搾取や不当な扱いへの抗議なのです。教条的な律法解釈や傲慢な振る舞いが障害のある人々から希望を奪い、絶望の淵に追いやっているのです。福音書が伝えるように、イエス様は民衆を取り巻く社会的、経済的、政治的状況の改善に深く関与されたのです。ところが、「救い主」の霊的な側面だけが強調されているのです。「神の国」の福音が誤解されているのです。キリストの信徒たちは隣人を愛するのです。そのためには立場を明確にするのです。正義の側に立たなければ悪と闘うことは出来ないのです。「神様の子供たち」から祝福を奪う体制、組織、政策、行為に憤るのです。「神様の名」によって傷つけられ、差別されている人々がいるなら怒るのです。信仰深い人々を誤った方向に導いている教会があるなら告発するのです。少数の人が経済的富を独占していることに憤るのです。役員の一年間の報酬が平均的労働者の生涯賃金を上回っているなら怒るのです。宗教、性別、人種、階層の故に虐げられている人々がいるなら告発するのです。「神様の御心」を実現するためには覚悟が必要なのです。「神様の座」に着いている人々が必死で抵抗するからです。イエス様は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と言われるのです。慰めと励ましのお言葉に支えられて今日も歩むのです。

2024年11月10日