「ヨセフの信仰から学ぶ」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書1章18節から2章23節


イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(イザヤ書7:14)。この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた(1:18-25)。


・・・【占星術の学者たちの訪問】(2:1-12)・・・


占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」(ホセア書11:1)と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった(2:13――15)。


・・・【二歳以下の男の子の虐殺】(2:16-18)・・・


ヘロデが死ぬと、主の天使が(突然)エジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」 そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり(行き)、ナザレという町に(行って)住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった(2:19-23)。


(注)


・ダビデの子ヨセフ:主の天使はヨセフがイスラエルの最も偉大な王ダビデ(サムエル記上16:1-列王記上2:12)の子孫であることを確認しています。


・アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図から抜粋:


■アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを、・・サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、・・エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、ソロモンはレハブアムを、・・ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。バビロンへ移住させられた後、・・ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である(マタイ1:1-17)。


●系図の中に異邦人女性のタマル(創世記38)、ラハブ(ヨシュア記2:1-21)、ルツ(ルツ記2-4)、ウリヤの妻(バト・シェバ-サムエル記下11-12)が掲載されています。彼女たちは神様のご計画の中で重要人物と考えられているのです。


●メシア(キリスト)とは油注がれた者のことです。イスラエルでは王や祭司たちは油で聖別されました。レビ記21:10-12をご覧ください。


・イエス:当時の一般的な名前で「神様は救う」と言う意味があります。


・占星術の学者:占星術や魔術を行う宮廷祭司です。彼らが持参した乳香は香りのする樹脂、没薬(もつやく)は油を注ぐ時、あるいは防腐処置を施す場合に用いられる樹脂です。東方はパルティア(現在のイランの北部)ではないかと言われています。


●星には政治的な意味が含まれています。「わたしには彼(ダビデ)が見える。しかし、今はいない。彼を仰いでいる。しかし、間近にではない。ひとつの星がヤコブから進み出る。ひとつの笏(しゃく=王権を象徴する杖)がイスラエルから立ち上がり/モアブ(民族)のこめかみを打ち砕(くだ)き/シェト(民族)のすべての子らの頭の頂(いただき)を砕く」(民数記24:17)。ローマ帝国と戦いわずか数年(紀元後132年-135年)ですが独立を勝ち取ったユダヤ人の指導者バー・コクバは「星の子」と呼ばれています。 

・ユダヤ人の王;占星術の学者たちは幼子イエス様に敬意を表して「ユダヤ人の王」と呼んでいます。ところが、ローマの総督ポンティオ・ピラトはイエス様を侮蔑してこの称号を用いているのです(マタイ27:11)。そして、十字架の上に掛ける罪状書には「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いたのです。イエス様が十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読みました。ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていました。祭司長たちがピラトに「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と申し出たのですが、ピラトは「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と拒否しています(ヨハネ19:19―22)。

・ヘロデ大王:ローマ皇帝の承認を受け、ローマ人から「ユダヤ人の王」と呼ばれていました。猜疑心が強く自分の地位を脅かす人々(妻や息子たちを含めて)を容赦なく処刑しました。さらに、ユダヤ教の祭司たちも殺害したのです。これにより最高法院(ユダヤの最高議決機関)は弱体化したのです。幼子が成長して将来自分や後継者を脅かす存在になることを恐れたのです。二歳以下の男の子をすべて殺したのです。

・アルケラオ:ヘロデ大王には処刑した妻と三人の子の他に、別の妻との間に三人の息子がいました。ヘロデ・アルケラオはユダヤ、サマリア、イドマヤを統治しました(紀元前4―紀元後6)。ヘロデ・アンティパスはガリラヤとペレアを支配しました(紀元前4年-紀元後39年)。ヘロデ・フィリップはガリラヤ湖の北部地域を管轄しました(紀元前4年―紀元後33/34年)。アルケラオは三人の息子の中で最も残虐な人物でした。ローマ皇帝アウグストス(紀元前27年―紀元後14年)は統治能力に欠けるアルケラオを廃位し、管轄地をローマ帝国の直轄領としたのです。

・ナザレ:ガリラヤ湖の西約24㎞にある農業の村です。聖書地図を参照して下さい。

・彼はナザレの人と呼ばれる:旧約聖書にこの表現に対応する特定の個所はありません。

 
(メッセージの要旨)


*イエス様の誕生に関してマリアに焦点を当てて語られることが多いのです。しかし、ヨセフの信仰と働きがなければ幼子が命を長らえることは不可能だったのです。神様から遣わされた天使はマリアと同じようにヨセフにもマリアの胎の子は聖霊様によって宿ったことを告げたのです。ヨセフは主の天使と言葉を交わしていないのです。「・・この子は自分の民を(彼らの)罪から救うからである」と言われたことを信じたのです。キリスト信仰を神様との個人的な関わりとして理解されている方も多いのです。聖書の日本語訳において集合的表記(複数)」が必ずしも行われていないことが影響しているのかも知れません。聖書はイスラエル(ユダヤ民族)あるいは「信仰共同体」を念頭に置いて読むことが必要不可欠です。天使は信仰の篤いヨセフに「ダビデの子」と呼びかけているのです。「救い主」の誕生と保護という特別な使命を与えるためなのです。同時に、民族の罪の歴史-繰り返された神様への反抗-を想起させているのです。ヨセフは天使の指示を考慮することなく、自分の考えを貫くことも出来たのです。しかし、そのようにはしなかったのです。神様にすべてを委(ゆさ)ねたのです。クリスマスにおいて幼子の誕生が牧歌的に語られているのです。それだけでは「誕生の意味」を説明したことにはならないのです。この世の権力者たちは「救い主」の誕生-神の国の到来-に怯(おび)えているのです。信仰の人ヨセフはさらに三度も夢を見たのです。その都度、天使の指示に従って行動したのです。幼子と両親は危機を逃れることが出来たのです。


*最初の段落はイエス様の誕生物語です。ところが、イエス様の誕生が直接語られている分けではないのです。旧約聖書の中で預言された「神様のご計画」が成就(成就)しようとしていることを強調しているのです。婚約は結婚していることと同じように見なされたのです。婚約の解消は離婚によって成立するのです。ヨセフは夫として紹介されています。妻マリアは姦淫(かんいん)の罪を犯したのです。律法の規定に従って石で打ち殺されるのです(申命記22:23-24)。ヨセフは正しい人です。律法を厳格に守っていたのです。マリアの罪を明らかにして「神様の正義」を実現しなければならないのです。しかし、ヨセフは憐み深い人でもありました。妻の罪を公にすることなく密かに離縁しようと考えたのです。マリアが助かる道を選んだのです。ただ、家父長社会にあって離縁された女性が生きて行くことは悲惨の極(きわ)みです(エレミヤ書22:3)。生産手段(土地や財産)を持たない若いマリアは幼子といばらの道を歩むことになるのです。ところが、天使がヨセフに夢で現れて妻マリアを受け入れるように命令したのです。マリアは天使ガブリエルの受胎告知に「わたしは男の人を知りませんのに」と反論しています。ヨセフもマリアの胎内にいる子が自分と無関係であることを確信しているのです。当然、マリアに不信感を抱いたのです。ヨセフは天使に質問や疑問を投げかけていないのです。語られた言葉を信仰によって受け入れたのです。ありのままのマリアを妻として迎え入れたのです。ヨセフは「神様のご計画」に参画したのです。


*マタイは第1章で系図を示してヨセフがダビデの子孫であることを明らかにしているのです。天使の言葉「ダビデの子ヨセフ」はユダヤ教とキリスト信仰との密接な関係を表しているのです。イエス様はダビデの家系に連なるヨセフの妻マリアからお生まれになるのです。神様が預言者を通して言われていたことが実現するのです。幼子は自分の民を罪から救うためにこの世に来られるのです。ただ「神様のご計画」は人間を媒介にして具体化されるのです。人間の側から参画することが求められているのです。ヨセフにも自由意思があるのです。しかし、自分の思いよりも「神様の御心」を尊重したのです。ヨセフの神様への揺るぎない信頼がそうさせたのです。東方(パルティア=現在のイラン)から旅をして来た占星術の学者たちはベツレヘムでお生まれになった幼子を礼拝した後「ヘロデのところに帰るな」と夢でお告げを受けたのです。彼らは指示に従ったのです。自分たちの国へ無事に帰ることが出来たのです(マタイ2:12)。神様はご計画に協力した占星術の学者たちを守られたのです。ヨセフにも二回目の夢で天使からヘロデの陰謀について知らされたのです。直ちにマリアと幼子を連れて遠いエジプトへ逃れたのです。神様は特定の時代と約束の地において「救いの業」を始められたのです。「救い主」はローマ帝国とヘロデが支配するユダヤのベツレヘムでお生まれになったのです。「神の国」が到来したのです。後に、イエス様は宣教の第一声で「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われるのです(マルコ1:15)。


*ヘロデ大王は占星術の学者たちの「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか、わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」という言葉を聞いて不安になったのです(マタイ2:1-3)。ヘロデのような絶対的な権力者が名もなく貧しいヨセフとマリアから生まれた幼子を恐れているのです。不思議なことです。しかし、ヘロデの性格や行いを知れば納得出来るのです。猜疑心が強く自分の地位を脅かす可能性のある人々-妻や息子たちを含む-を容赦なく殺害したのです。ヘロデは紀元前4年に亡くなっています。イエス様は紀元前6年ごろに誕生されたのではないかと推測されているのです。ヘロデにとって後継者の問題は喫緊(きっきん)の課題だったのです。祭司長たちや律法学者たちを密かに集めて「メシアはどこに生まれることになっているのか」と質問しているのです。彼らは「ユダヤのベツレヘムです」と答えたのです。預言者ミカの「ユダの地、ベツレヘムよ、・・お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである」(ミカ書5:1)や占星術の学者たちの訪問はヘロデを疑心暗鬼にさせたのです。人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させたのです(マタイ2:16)。残虐性においてイスラエルの男児をすべて殺すように命じたエジプトの王ファラアオと同じです(出エジプト記1:15-16)。イエス様は誕生後命の危険に晒(さら)されたのです。それは十字架の死に至るまで続くのです。


*天使の指示に従いヨセフは幼子とマリアと共にエジプトに滞在したのです。親子三人は寄留の地で落ち着かない日々を過ごしたのです。ヘロデが死ぬと、天使はヨセフに第三の夢でイスラエルの地に戻れることを告げたのです。ただ、ヨセフはヘロデの息子のアルケラオがユダヤを統治していることを知ったのです。故郷へ帰ることを恐れたのです。第四の夢で指示があったのでガリラヤ地方のナザレに住むことにしたのです。ヨセフは神様のお導きを疑わなかったのです。そのことによって迫害から逃れることが出来たのです。一方、別の判断をすることも可能だったのです。しかし、そのような道を選ばなかったのです。苦悩しながらも夢で現れた天使の言葉を受け入れたのです。ヨセフは村の大工でした(マタイ13:55-56)。少なくとも12歳の時までは父親としてイエス様を育てたのです。後継者にするために訓練もしたのです。宣教を開始される前に数年間は大工として働かれたのです。イエス様はヨセフとマリアの下で知恵が増し、背丈も伸び、神様と人とに愛されたのです(ルカ2:52)。ヨセフは聖霊様に導かれたのです。信仰に堅く立って自分の使命を果たしたのです。キリスト信仰が誤解されているのです。「信仰によって救われる」と理解されている方も多いのです。しかし、神様が導いて下さるから何もしなくても良いということではないのです。キリストの信徒たちも現実の社会の中でヨセフのように信仰を問われ続けるのです。クリスマスにおいてヨセフの信仰を想起するのです。「神様のご計画」-神の国の建設-に参画するのです。

2023年12月17日