「狭い戸口」

聖書朗読(Bible Reading)ルカによる福音書13章22節から30節

イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義(悪)を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに(のを見るとき)、自分(たち)は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

(注)

・「救われる者は少ないのでしょうか」は広く議論されていました。旧約聖書続編のエズラ記(ラテン語)7:45-61を参照して下さい。旧約聖書続編は従来、第二聖典、アポクリファ、外典などと呼ばれています。紀元前三世紀以後、数世紀の間に、ユダヤ人によって書かれたものです。現在のヘブライ語の聖書の中には含まれていないのですが、初期のキリスト教徒はこれをギリシャ語を用いるユダヤ教徒から聖なる書物として受け継いだのです。この部分についてのカトリック教会の評価は定まっていますが、プロテスタント諸教会の間では必ずしも一定していないのです。(新共同訳聖書1987年版序文から)

■ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネ21:20-22)

・狭い戸口:

■すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」(ルカ10:25-28)

■「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイ25:31-40)

・不義を行う者ども:「不法」を働く者どもと訳す方が適切です。


■悪を行う者よ、皆わたしを離れよ。主はわたしの泣く声を聞き 主はわたしの嘆きを聞き/主はわたしの祈りを受け入れてくださる。(詩編6:9-10)


■イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」(マルコ12:38-40)

・神の国:神様の支配、神様の主権のことです。天の国とも言われます。ここでは狭い戸口のある家として表現されています。

・東から西、南から北: 世界中から

・後の人で先・・・:神様が最初に選ばれたのはイスラエル(ユダヤ人たち)です。しかし、不信仰の故にイエス様を通して「救い」はすべての民族に及ぶのです。

(メッセージの要旨)


*ある人がイエス様に「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねています。どのような思いから質問をしたのかは分かりませんが、この問題はユダヤ人の間では大きな関心事だったのです。すべてのイスラエルの民は救われると考える人もいれば、エジプトから脱出した人々の中で「約束の地」カナンに入ったのはヨシュアとカレブだけであったことを心に留める人もいたのです(民数記14:1-38)。イエス様は質問内容に直接答えるのではなく、もっと重要な問題―「どのようにすれば救われるのか」―について言及されたのです。そして、人々に「狭い戸口から入るように努めなさい」と言われたのです。これは、山上の説教で語られたお言葉「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」の再確認なのです(マタイ7:13-14)。多くの人は信仰によって「救い」が得られると信じているのです。しかし、「神の国」に入れる人は少ないのです。神様のご認識とキリストの信徒たちの理解には相違が見られるのです。「信仰によって救われる」という言葉が正しく伝えられていないのです。キリスト信仰は安価な恵みではないのです。「狭い戸口」、「狭い門」から入ることを求めるのです。自己犠牲を伴う厳しい信仰なのです。「神様の御心」-神様と隣人を愛すること-を実行した人が「永遠の命」に与れるのです。イエス様の御跡を辿(たど)るのです。苦難を覚える隣人のために全力で奉仕するのです。


*新約聖書の中に「広い門」を選んで滅びに至った人々と「狭い戸口」から入って「救い」に与った人々が記述されています。財産に執着して「神の国」から遠ざかった金持ちがいました。この人は律法の規定を忠実に守って生きて来たのです。ところが、「永遠の命」への確信が得られなかったのです。イエス様に「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と質問したのです。イエス様は「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬えという掟をあなたは知っているはずだ」と答えられたのです。金持ちは「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と誇らしげに語ったのです。イエス様は金持ちを慈しんで「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い貧しい人々に施しなさい。天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と命じられたのです。金持ちは「永遠の命」に至る道の厳しさに驚いたのです。気を落として悲しみながら立ち去ったのです。イエス様は「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と言われたのです。更に「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と続けられたのです。弟子たちは「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言ったのです(マルコ10:17-26)。自己評価は役に立たないのです。大切な物を捨てる(神様に委ねる)ことが求められているのです。金持ちは「狭い戸口」から入ることを決断出来なかったのです。


*「狭い門」から入った人々の中に徴税人のザアカイがいました。貧しい人々は重税に喘いでいました。徴税人たちが不正な取り立てをしていたからです。しかも、ローマ帝国の徴税に協力して利益を得ていたのです。ユダヤ人たちは彼らを民族の裏切り者と呼んだのです。罪人として蔑(さげす)んだのです。ザアカイはエリコ(エルサレムの東約37km)に住んでいました。徴税人の頭で金持ちでした。ある時、イエス様がこの町を通っておられました。ザアカイはどんな人か見ようとしたのですが、背が低かったので群衆に遮られて見ることができなかったのです。そこで、先回りしていちじく桑の木に登ったのです。イエス様はその場所に来ると「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われたのです。ザアカイは喜んでイエス様を迎えたのです。これを見た人たちが「イエス様は罪深い男のところに行って宿をとった」とつぶやいたのです。当然のことかも知れません。ところが、ザアカイはイエス様の憐れみに「行い」によって応えるのです。新しい生き方を表明するのです。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と言ったのです。前半は任意ですが、後半は律法の規定を十分に満たしているのです(出エジプト記22:1)。イエス様はザアカイの心の内を御覧になったのです。「今日、救いがこの家を訪れた。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」と言われたのです(ルカ19:1―10)。正義、慈悲、誠実は「救い」の基本要件なのです。


*「不義」と訳されている言葉には道徳的な過ちのニュアンスが強く表れているのです。原文の意味は不法行為、悪事のことなのです。信徒たちがキリスト信仰とこの世における生活を使い分けているのです。富の蓄積を擁護しているのです。一定の労働者を犠牲にしても、経営者が利益を得ることは企業の正当な経済活動だと主張しているのです。しかし、イエス様が明言されたように神様と富との両方に仕えることは出来ないのです(ルカ16:13)。「神の国」(神様の支配)と「神様の義」(神様の正義)を優先するのです(マタイ6:33)。当時の弟子たちがそうであったように、現代の信徒たちも同じ道を歩んでいるのです。イエス様の教えが日常生活から乖離(かいり)していることを理由に「逃れの道」を模索するのです。自分にとって可能な「戒め」だけを実行しているのです。イエス様は「『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。・・」と言われたのです(マタイ7:21-23)。ヤコブも「・・行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」と警告するのです(ヤコブ2:14-17)。「広い門」を選んだために「神の国」に入れない人が多くいるのです。キリスト信仰とは「神の国」の到来を福音(良い知らせ)として信じることです。人間の「全的な救い」として実現するのです。「罪からの解放」は一部です。キリストの信徒たちは「神様の恵み」を受けるだけでなく、「狭い戸口」から入るのです。「神の国」の建設のために責務を果たすのです。


*「狭い戸口」から入るために何よりも優先して神様の支配と神様の正義を求めるのです。ある男と徴税人ザアカイはいずれも金持ちでした。一方は、財産を施すことを惜しんで「神の国」から遠ざかったのです。金持ちが「神の国」に入ることは不可能に近いのです。しかし、イエス様は「人間にはできないことも、神様にはできる」と言われたのです(マタイ19:26)。お言葉の正しさが徴税人ザアカイを通して証明されたのです。徴税人は貧しい人々に財産の半分を施すこと、不正が確認されれば四倍にして返すことを明言して「救い」に与ったのです。イエス様は御子の権威によって「救い」の是非を判断される のです。このことを肝に銘じるのです。イエス様が「神様の御心」を実現するために十字架の死を遂げられたように、キリスト信仰に生きる人々も様々な苦難に遭遇するのです。「永遠の命」を希求しながら、神様のための「犠牲」を惜しむことは矛盾しているのです。キリスト信仰が誤解されているのです。キリスト信仰とはイエス様の教えを実行することです。イエス様に倣(なら)って生きることなのです。敵対する人々から迫害されるのです。イエス様は労苦している人々を慰め、励まして下さるのです。「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた(神様にお委ねした)者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」と約束されたのです(ルカ18:29-30)。イエス様を信じ「狭い戸口」から入るのです。「神の国」の到来を全力で証しし、名実ともにキリストの信徒になるのです。

2024年09月15日