「神の国の建設」
日 時 2026年08月30日 午前10時30分~
礼 拝 式 次 第
Prelude(前奏)
讃美歌527番
1
わがよろこび、わがのぞみ、
わがいのちの主よ、
ひるたたえ、よるうたいて
なお足らぬをおもう。
2
したいまつるかいぬしよ、
いずこの牧場に、
その群れを主はみちびき、
やしないたまえる。
3
シオンの娘、たれかし、
わがいのちの主に、
野辺にてか、幕屋にてか、
会いまつらざりし。
4
主のみかおのやさしさに、
みつかいよろこび、
みことばのうるわしさに
あめつちうたえり。
5
ならびもなき愛の主の
みこえぞうれしき。
わがのぞみ、わがいのちは
とわに主にあれや。
Brief Order for Confession and Forgiveness
(P) In the name of the Father, and of the + Son, and of the Holy Spirit.
(C) Amen
(P) God, whose love is everlasting, welcomes sinners to the table of mercy.
Let us confess our sin, confident in God’s forgiveness.
Silence for reflection and self-examination.
(P) Gracious God,
(C) Have mercy on us.
In your gracious compassion forgive us our sins, both known and unknown,
things done and left undone.
Uphold us by your Spirit so that we may serve you in newness of life,
to the honor and glory of your holy name, through Jesus Christ our Lord.
Amen.
(P) Since we are justified by God’s grace through faith,
We have peace with God through our Lord Jesus Christ.
Almighty God has mercy on you, forgives you all your sins,
And bring you to life everlasting. Amen
Prayer of the Day(今日の祈り)
Bible Reading (聖書の個所) ルカによる福音書10章1節から20節
その後、主はほかに七十二(七十)人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物(はきもの)も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子(平和を共有する人)がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」
「コラジン、お前は不幸だ(あなたに災いあれ)。ベトサイダ、お前は不幸だ(あなたに災いあれ)。お前たち(あなたたち)のところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない。しかし、裁きの時には、お前たち(あなたたち)よりまだティルスやシドンの方が軽い罰で済む。また、カファルナウム、お前(あなた)は、/天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府(よみ)にまで落とされるのだ。あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」
七十二(七十)人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
(注)
・七十二人:ヘブライ語から翻訳された現存する最古のギリシア語の聖書「七十人訳聖書」に基づいています。ヘブライ語の聖書によれば七十人です。出エジプト記24:1が根拠とされています。なぜ、七十二人になったのかは不明です。
■主はモーセに言われた。「あなたは、アロン、ナダブ、アビフ、およびイスラエルの七十人の長老と一緒に主のもとに登りなさい。あなたたちは遠く離れて、ひれ伏さねばならない。
・家(教会): 個人の家が宣教の拠点となっていました。初代教会も個々の家を訪問して宣教していたのです。(使徒言行録10:22)
・財布も袋も履物も持って行くな:宣教への覚悟のことです。人々による歓迎への期待でもあるのです。
・途中でだれにも挨拶をするな:緊急を要する宣教活動であったことが推測されるのです。不信仰の町に住む人々を一人でも救おうとされたのです。
■そこで(預言者)エリシャはゲハジ(従者)に命じた。「腰に帯を締め、わたしの杖を手に持って行きなさい。だれかに会っても挨拶してはならない。まただれかが挨拶しても答えてはならない。お前はわたしの杖をその(死んだ)子供の顔の上に置きなさい。(列王記下4:29)
・平和:イスラエルにおける伝統的な挨拶の言葉ですが、ここでは「救い」を表しています。「神の国」の到来が告げられているのです。
・「神の国」(天の国):誤解されているような死後に行く「天国」のことではないのです。神様の主権、神様の支配を表す言葉です。神様が神様として崇(あが)められるところです。イエス様はご自身の生と死と復活を通して「神の国」を証しされたのです。イエス様の第一の関心事は貧しい人々の窮状にあったのです。一方的に「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである」と宣言されたのです。(ルカ6:20)
■ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。(マルコ1:14-15)
■イエスは苦難を受けた(十字架上で処刑された)後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。(使徒言行録1:3)
・パウロの「神の国」:パウロの手紙に「神の国」への言及はほとんど見られないのです。あったとしても、個人の信仰心に限定されているのです。「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません」(1コリント書6:9-10)。
・パウロの手紙:ローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙一、コリントの信徒への手紙二、ガラテヤの信徒への手紙、フィリッピの信徒への手紙、テサロニケの信徒への手紙一、フィレモンへの手紙の七つは直筆であることが確認されています。これら以外は弟子あるいは他の人が書いたものとされています。
・ソドムの運命:旧約聖書の創世記19:24-28をお読み下さい。
・コラジン、ベトサイダ、カファルナウム:ガリラヤ湖北部の町々です。
・ティルス、シドン:地中海沿岸のフェニキアの異邦人の町々です。イエス様はこれらの町を訪問されたことがないのです。聖書地図を参照して下さい。
・陰府(よみ):死者の住まいを指しています。「永遠の罰」のことです。
・名が天に書き記されている:神様は悪魔と闘っておられるのです。神様の軍隊の一員に加えられていることです。
・失われた羊たち:貧しい人々や虐(しいた)げられた人々のことです。
■主の言葉がわたし(預言者エゼキエル)に臨んだ。「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ(天罰あれ)、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠(ほふ)るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷(かこく)に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食(えじき)となり、ちりぢりになった。わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。(エゼキエル書34:1-6)
(メッセージの要旨)
*イエス様はすでに十二人の使徒を選んで派遣するにあたり「・・イスラエルの家の失われた羊(たち)のところへ行きなさい。行って、『天の国(神の国)は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人(たち)をいやし、死者(たち)を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人(人々)を清くし、悪霊(たち)を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と言っておられます(マタイ10:6-8)。イエス様のお言葉はキリスト信仰の真髄(しんずい)なのです。「神の国」が到来しているのです。福音が失われた羊たちに届けられているのです。「神様の支配
(主権)」が地上に徐々に広がっているのです。伝統的な教義や社会のあり方に大きな変革が求められているのです。既得権益に執着している人々は「神の国」を拒否するだけでなく、使徒たちを迫害しているのです。今回、イエス様は七十二人を派遣するにあたって「狼の群れの中に小羊(たち)」を送るようなものだと言われたのです。イエス様ご自身も「神の国」を証しして敵対勢力‐主に律法学者たちやファリサイ派の人々‐に命を狙われているのです。「神の国」とこの世との間に調和はないのです。両者は常に緊張状態にあるのです。イエス様は指導者たちに「神の国」を受け入れること―神様に主権を返すこと―を迫られたのです。これらの人が悔い改めることはなかったのです。後に、ローマと協力してイエス様を十字架上で処刑するのです。イエス様は「神の国」を宣教する人々の労苦に報いられたのです。神様が共におられること-永遠の命に与っていることーを告げられたのです。
*イエス様は十二使徒に続いて、七十二人の弟子を派遣されました。「神の国」の到来を証ししたのです。狼の群れが彼らを虎視眈々(こしたんたん)と狙っているのです。「神の国」はそれを受け入れる人々に福音(良い知らせ)となるのです。拒否する人々には天罰(災い)が下されるのです。ユダヤ人たちは長い歴史の中で連綿と受け継がれて来たモーセの律法と慣習を大切にしているのです。イエス様を「救い主」として信じるキリスト信仰は新興宗教の一つに過ぎないのです。指導者たちはイエス様の教えを「道」と呼んで軽んじたのです。イエス様は「神の国」の宣教にご生涯を捧げられました。権力者たちから迫害され、政治犯として十字架上で処刑されたのです。復活された後も弟子たちに「神の国」について語られたのです。イエス様が天に帰られた後、およそ120人からなる初代教会が誕生したのです。対立する人々が弟子たちを軽蔑(けいべつ)するために用いた名称がクリスチャン-キリストに従う者-なのです(使徒言行録11:26)。信徒たちは「キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい」を肝に銘じ、苦難に耐えているのです(1ペトロ書4:16)。イエス様が証しされた「神の国」の福音を恐れることなく宣教したのです。最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を日々実践しているのです。この世に順応し、偽りの平和を享受(きょうじゅ)している人々に悔い改めが求められているのです。「永遠の命」への道は狭く険しいのです。
*「神の国」の到来を信じる人々は知識として理解するだけでなく、イエス様が歩まれた道を辿(たど)るのです。貧しい人々や虐げられた人々の側に立つのです。これらの人を苦しめている指導者たちの不信仰や腐敗を告発し、社会組織が内包する様々な問題点を改善させるのです。ただ、簡単なことではないのです。苦難が伴うのです。「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいたのです。イエス様は「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子(ご自身)には枕(まくら)する所もない」と言って、弟子であることの厳しさを事前に教えられたのです。別の人に「わたしに従いなさい」と言われたのですが、その人は「主よ、まず、父を葬(ほうむ)りに行かせてください」と答えたのです。イエス様は「死者の埋葬(まいそう)を他の人々に任(まか)せて、あなたは神の国を宣教しなさい」と命じられたのです。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」と申し出た人に「鋤(すき)に手をかけてから後ろを顧(かえり)みる者は神の国にふさわしくない」と言われたのです(ルカ9:57-62)。基準は厳しいのです。「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これ(ら)を憎まない(ご自身への忠誠を優先しない)なら、・・自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、・・自分の持ち物を一切捨てないならば(神様にお委(ゆだ)ねする覚悟がなければ、・・わたしの弟子ではありえない」と明言されたのです(ルカ14:26-27、33)。
*「名前が天に書き記(しる)されること」は決して安価な恵みではないのです。「救い」にとって「行い」は必須の要件なのです。「神の国」の建設に参画しないキリストの信徒たちは「永遠の命」に与(あずか)れないのです(ヤコブ書2:17)。イエス様が宣教された「神の国」とパウロの信仰理解が同じであるかのように誤解されているのです。パウロは設立した各地の教会あてに直筆の手紙(1コリントの信徒への手紙など)を七通書いています。それらの手紙にはキリスト信仰の本質である「神の国」に関する記述がほとんど見られないのです。言及されたとしても「罪の問題」に限定されているのです。人間の「全的な救い」が個人的な「罪からの救い」に縮小されているのです。パウロの解釈が恣意的(しいてき)に変容されているのです。注意すべき点は「信仰と行い」が分離されていることです。信仰のみが強調され、キリストの信徒たちの使命である「神の国」の宣教が軽視されているのです。パウロは復活の主に出会って罪を悔いているのです。教会の援助を受けなかったのです。テント職人として働きながら「十字架につけられたキリスト」を独自に宣教したのです(使徒言行録9-28)。信徒たちにはキリスト・イエスにのみ目を向けるように指示しているのです(1コリント書1:12-13)。パウロの信仰理解を正確に評価するのです。正しく引用するのです。キリスト信仰とは最も重要な戒め-正義・慈悲・誠実‐を実行して生きることです(マタイ23:23)。終わりの日に「神様の御心」に適っていたかどうかが判断されるのです。
*「神の国」の到来は必然的にこの世の権力者たちと彼らに同調する人々に悔い改めを迫るのです。現代においても「神の国」を宣教するキリストの信徒たちはこの世に属する人々から疎(うと)まれているのです。「神様の戒め」を心に刻(きざ)み、社会に正義と公平を実現するために取り組んでいるからです。これらの人は貧しい人々や虐げられた人々と共に歩み、権力者たちの不正や腐敗を厳しく批判しているのです。多くの人はキリスト信仰を「罪からの救い」、「永遠の命の付与」に至る道として理解しているのです。そのことは正しいのです。ただ、福音に与った人々には「神様の支配」が天上と地上のすべての被造物に及ぶことを知らせる責務があるのです。イエス様が再び来られる時(再臨)には人々を悲しませ、苦しめて来た死が滅ぼされるのです。イエス様は危険を承知の上で宣教に励んだ七十二人が戻って来るとその働きを労(ねぎら)われたのです。「神の国」の建設に参画した人々は祝福されるのです。権力者たちは支配の強化に役立つか利益を損なわないかという観点から何事も評価するのです。個人的な「罪からの救い」を宣教する限りキリストの信徒たちが迫害されることはないのです。しかし、「神の国」の本質‐人間の全的な救い-を追求すれば必ず敵対する人々が現れるのです。「神の国」の到来がこの世の権力者たちや既得権益に執着している人々を脅(おびやか)かしているのです。イエス様がご自身の苦難を語られたように、キリスト信仰に生きる人々に試練は尽(つ)きないのです。「永遠の命」の希望において前進するのです。
賛美歌529番
1
ああうれし わが身も
主のものと なりけり
うき世だに さながら
あまつ世の ここちす
歌わでや あるべき
救われし 身のさち
たたえでや あるべき
みすくいの かしこさ
2
残りなく みむねに
まかせたる 心に
えもいえず たえなる
まぼろしを 見るかな
歌わでや あるべき
救われし 身のさち
たたえでや あるべき
みすくいの かしこさ
3
胸の波 おさまり
心いと 静けし
われもなく 世もなく
ただ主のみ いませり
歌わでや あるべき
救われし 身のさち
たたえでや あるべき
みすくいの かしこさ
APOSTLES’ CREED
I believe in God, the Father almighty,
creator of heaven and earth.
I believe in Jesus Christ, his only Son, our Lord.
He was conceived by the power of the Holy Spirit
and born of the Virgin Mary.
He suffered under (Caiaphas and) Pontius Pilate,
was crucified, died, and was buried;
He descended into hell.
On the third day he rose again.
He ascended into heaven,
and is seated at the right hand of the Father.
He will come again to judge the living and the dead.
I believe in the Holy Spirit,
the holy catholic Church,
the communion of saints,
the forgiveness of sins,
the resurrection of the body,
and the life everlasting. Amen.
(使徒信条)
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、(カイアファと)ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に降り、三日目に死人のうちより蘇り,天にのぼり全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。 アーメン
Benediction(祝福の祈り)
The Grace of the L ord Jesus Christ, the love of God,
and the communion of the Holy Spirit be with all of you.
(P) Go in peace. Serve the Lord.
(C) Thanks be to God.
Postlude(後奏)
「Go now in peace」
Go now in peace, never be afraid
God will go with you each hour of ev’ry day
Go now in faith, steadfast, strong and true
Know God will guide you in all you do.
Go now in love, and show you believe.
Reach out to others so all the world can see.
God will be there watching from above.
Go now in peace, in faith and in love.
Amen, Amen, Amen.
(いずれの曲もインターネットで簡単に聴くことが出来ます)