「地の果てに至るまで証人となりなさい」
Bible Reading (聖書の個所)使徒言行録1章3節から26節
イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。
そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。詩編にはこう書いてあります。『その住まいは荒れ果てよ、/そこに住む者はいなくなれ。』(詩編69:26)/また、/『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』(詩編109:8)
そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」
そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて、次のように祈った。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」
二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。
(注)
・使徒言行録はルカによる福音書の第二部と言われています。初代教会の信仰生活とその働きを伝えています。
・神の国:神様の全き支配のことです。神様が人間の心と社会の隅々にまで真に神様として崇められ、あらゆる価値の基準とされること、それを通して正義と平和の秩序が実現されることです。旧約聖書は神の国の到来を待ち望むイスラエルの信仰を書き記したものです。神様は自分たちをエジプト人の支配から救い出し、砂漠を経て約束の地へ導かれたのです。ご自分に頼る者を決して見捨てられないのです。どのような地上の力にも勝っておられるのです。信頼するに値するお方なのです。イスラエルは異国の支配下で弾圧され、分断され、捕囚の地に連れていかれたのです。その時も、神様は常に自分たちと共におられ、民の身の上を思い,心を痛められたのです。イスラエルはこの神様がいつの日か、必ず自分たちを解放して下さることを信じたのです。・ヨハネ:イエス様の先駆けとなった洗礼者ヨハネです。
・国を建てなおす:イスラエルの独立を回復することです。
・ヨセフとマティア:二人はこの個所以外に新約聖書のどこにも登場しないのです。
・くじを引く:「神様の御心」を確認する方法です。箴言16:33を参照して下さい。
・主の祈り: イエス様は群衆と弟子たちに祈りについて教えられました。
■だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国(神の国)が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧(かて)を今日与えてください。わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目(負債)のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』(マタイ6:9-12)
・最も重要な掟:イエス様は律法学者の質問に次のように答えられました。
■イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコ12:29-31)
(メッセージの要旨)
*イエス様は復活した後も40日間にわたって弟子たちに「神の国」(天の国)について話をされたのです。イエス様の宣教はガリラヤで始まりました。第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」でした(マルコ1:15)。キリスト信仰とは「神の国」の到来を福音として信じることです。アメリカのシアトル近郊である教会に出席させていただきました。福音書が朗読される時、会衆は全員起立して聞き入ったのです。イエス様が礼拝の中心におられるのです。イエス様の復活は迫害に怯(おび)えていた使徒や信徒たちに勇気と力を与えました。およそ120人の信徒からなる初代教会はイスカリオテのユダに代わってマティアを使徒として選出し、新しく12人の指導体制で歩みだしたのです。信徒の中には女性、イエス様の母マリアと兄弟たちもいました。神殿の境内で神様を褒め称え、祈りを捧げていたのです。イエス様の教えを忠実に守り福音の宣教に全力を注いだのです。使徒言行録が「神の国]で始まり(1:3)、「神の国」で終わっている(28:31)ことは注目に値するのです。「神の国」が到来しているのです。神様は新しい天地創造に着手されたのです。死の問題が解決され、「永遠の命」に生きる希望が与えられたのです。イエス様は天に上げられる前にご自身の使命を弟子たちに託されたのです。初代教会の信徒たちの多くは貧しかったのです。教育の機会に恵まれた人も少なかったのです。ところが「復活の主」に出会い、約束の聖霊様に導かれ、権力者たちを恐れず大胆にイエス様を証ししたのです。
*「神の国」とは神様の主権・支配のことです。誤解されているような死後に行く天国のことではないのです。旧約聖書を通して神様について知ることが出来るのです。神様は「アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主(わたし)がアブラハムに約束したことを成就するためである」と言われました(創世記18:18-19)。神様はすべての民を祝福されるのです。ただ、彼らが正義と公正を行い、後に与えられる「主の道」(出エジプト記20-24)-十戒-などのシナイ山の契約を守ることをその条件とされたのです。具体的な指示もされたのです。「土地の実りを刈り入れる場合、あなたがたは畑の隅まで刈り尽くしてはならない。刈り入れの落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどう畑の実を摘み尽くしてはならない。ぶどう畑に落ちた実を拾い集めてはならない。貧しい人(人々)や寄留者(たち)のために残しなさい。・・隣人を虐げ(だまし)てはならない。奪い取ってはならない。雇い人への賃金を翌朝までとどめていてはならない。耳の聞こえない人(たち)を呪(のろ)って(侮辱し)はならない。目の見えない人(人々)の前につまずく物を置いてはならない。・・裁きにおいて不正をしてはならない。・・隣人の命に関わる偽証をしてはならない。隣人を自分のように愛しなさい」と言われたのです(レビ記19:9-18)。神様とはこのようなお方なのです。胆に銘じるのです。
*神様は預言者たちを通してご自身の戒めを守って生きるように命じておられるのです。「正義が造り出すものは平和であり/正義が生み出すものは/とこしえに安らかな信頼である。わが民は平和の住みか、安らかな宿/憂いなき休息の場所に住まう」(イザヤ書32:17-18)、「正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない」(エレミヤ書22:3)と言われるのです。正義のないところには真の平和はないのです。正義を造り出すことや搾取されている者たちを虐げる者たの手から救いだすことは選択の問題ではないのです。神様の民に与えられた責務なのです。預言者エゼキエルは神様のお言葉「人を抑圧せず、負債者の質物を返し、力ずくで奪わず、飢えた者に自分のパンを与え、裸の者に衣服を着せ、利息を天引きして金を貸さず、高利を取らず、不正から手を引き、人と人との間を真実に裁き、わたしの掟に従って歩み、わたしの裁きを忠実に守るなら、彼こそ正しい人で、彼は必ず生きる」を民衆に語っています(エゼキエル書18:7-9)。「永遠の命」を得るためには「神様の御心」を具体化する「行い」が伴わなければならないのです。外国の支配と圧政に苦しめられて来たイスラエルの民は忍耐しながら「神の国」がこの世-地上の権力者たち-にとって代わることを忍耐して待っているのです。およそ2000年前に神様は約束のメシアイエス様を遣わされたのです。この世の終わりが近づいているのです。
*イエス様は様々な業を通して「神の国」が到来していることを証しされたのです。権力者たちは既得権益に執着したのです。イエス様を政治犯として処刑したのです。イエス様の福音宣教が挫折したように見えたのです。ところが、神様はイエス様を死者の中から復活させられたのです。ご自身が遣わした「独り子」であることを証明されたのです。イエス様は復活後も「神の国」を宣教されたのです。今日、「神の国」の福音が変容されているのです。この世との対立を避けるかのように「罪の赦し」に縮小されているのです。イエス様は聖霊様の降臨を待つように指示されて天に上げられたのです。この世の終わりには「最後の審判」を行うために再び来られるのです。初代教会の信徒たちに「神の国」の宣教が委ねられたのです。信徒たちは使命が果たせるように心を合わせてひたすら祈ったのです。祈り-聖霊様の働き-は信仰を強め、人々に力を与えるのです。イエス様が教えられた「主の祈り」は個人的な祈りではないのです。「わたしたち」が示すように信仰共同体としての祈りなのです。最初に「神の国」が天上と地上の隅々に及ぶことを祈るのです。信仰共同体のすべての人に日々の糧が与えられるように祈るのです。率先して債権を放棄する勇気が与えられるように祈るのです。権力たちや金持ちたちからの誘惑を退け、自分を愛するように隣人-貧しい人々や虐げられた人々-を愛することが出来るように祈るのです。宣教体制を強化するために一緒にいた者の中から新しい使徒が選出されたのです。知的信仰ではなく実践が重視されているのです。
*初代教会の信徒たちは信仰を具体的な「行い」によって示しました。ルカは次のように記述しています。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた・・」(使徒2:44-47)。神様は信徒たちを祝福し、民衆全体も彼らに好意を寄せていたのです。「救い」に与る人々が日々増えていったのです。信徒たちは「信仰は信仰」、「現実は現実」というような生き方をしなかったのです。迫害も予想される中において「キリスト信仰」を貫いたのです。人は教義を信じる人々の「行い」によってその正しさを確認するのです。信仰は神様と人間との個人的な関係に留まらないのです。信仰共同体として神様を礼拝し、証しするのです。ただ、信仰の確信が揺れ動いている人、悲しみの中で絶望している人、貧しさや苦しみに喘いでいる人など様々な信徒がいたのです。相互に励まし、慰め、経済的な必要性についても心を砕いたのです。神様は初代教会を祝福されたのです。今日、「神の国」の福音が正しく伝えられていないのです。神様の働きが個人的な「罪の赦し」に変容され、社会の隅々に「神様の正義」が及ぶことへの関心が希薄です。「神様への愛」を告白して、社会の不正や人々の貧しさや苦しみに無関心でいることは出来ないのです。「神の国」の福音に与るだけではなく「行い」によって証しするのです。イエス様のご命令なのです。