「イエス様の処刑と復活信仰」

Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書15:25-38及び16:9-20

イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。<底本に節が欠けている個所の異本による訳文>こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。†そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

・・・・・・・・・・・・・

〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。〕

(注)

・最後のお言葉の比較:

●「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46;マルコ15:34)は詩篇22:1の引用です。

・・わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻(うめ)きも言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。わたしたちの先祖はあなたに依り頼み/依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され/あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥(人々から嘲りを受け、軽蔑されている)。わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑(あざわら)い/唇を突き出し、頭を振る。「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」・・わたしを遠く離れないでください/苦難が近づき、助けてくれる者は(誰も)いないのです。雄牛が群がってわたしを囲み/バシャン(ガリラヤ湖の東側)の猛牛がわたしに迫る。餌食(えじき)を前にした獅子のようにうなり/牙をむいてわたしに襲いかかる者(たち)がいる。わたしは水となって注ぎ出され/骨はことごとくはずれ/心は胸の中で蝋(ろう)のように溶ける。口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎(うわあご)にはり付く。あなたはわたしを塵(ちり)と死の中に打ち捨てられる。犬(敵)どもがわたしを取り囲み/さいなむ者が群がってわたしを囲み/獅子のようにわたしの手足を砕く。骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺(なが)め わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。主よ、あなただけは/わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ/今すぐにわたしを助けてください。わたしの魂を剣から救い出し/わたしの身を犬どもから救い出してください。獅子の口、雄牛の角からわたしを救い/わたしに答えてください。・・わたしの魂は必ず命を得 子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。

●「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」(ルカ23:46)は詩篇31:5の引用です。

●「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)。

・神の国:天の国とも言います。死後に行く天国のことではないのです。神様による完全な支配のことです。人間の心と社会の隅々において神様として崇められ、あらゆる価値の基準とされることです。正義と平和と愛に満ちた秩序が実現することです。イエス様は「神の国」の福音宣教を神様から与えられた使命として受け止められたのです。ご自身の生と死と復活を通して証しされたのです(使徒1:3)。「神の国」の福音はキリスト信仰の真髄なのです。

・エリヤ:イスラエル(北王国)において紀元前865年から850年ごろに活動した偉大な預言者です。突然現れ、風のように消えたことで有名です。旧約聖書列王記上・下をお読み下さい。

・週の初めの日の朝早く:「安息日」は土曜日の午後6時に終わります。日曜日の朝のことです。

(メッセージの要旨)

*今日はイースターです。イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って宣教を開始されました(マルコ1:15)。神様の支配の到来を告げる「神の国」の福音はこの世の権力者たちとの間に鋭い対立を生み出したのです。大祭司やファリサイ派の人々は「安息日」を軽んじ、自分たちの不信仰と腐敗を告発するイエス様を何とかして殺そうとしたのです。ユダを裏切らせ、ピラトの権限を巧みに利用し「政治犯」として処刑することに成功したのです。イエス様がご生涯を通して宣教された「神の国」がこの世の権力たちによって否定されようとしているのです。ところが、神様はイエス様を三日後に復活させられたのです。イエス様は四十日にわたって使徒たちに現れ、ご自身が生きていることを多くの証拠によって示し、「神の国」について語られたのです。神様はイエス様を見捨てられなかったのです。切実な祈りに応えられたのです。「神の国」の到来が真実であることを証明されたのです。イエス様の教え-「山上の説教」(マタイ5-7)や「平地の説教」(ルカ6:17-49)、「最も重要な掟」(マルコ12:28-34)、「イザヤの預言」(ルカ4:16-21)、「御子の権威」(ヨハネ5:19-31)など-が人々を正しい道へ導くのです。イエス様は死者の中から復活された初穂なのです。死の支配が打ち砕かれたのです。復活信仰に生きる人々に「永遠の命」が約束されたのです。「新しい天地創造」が始まっているのです。イエス様に倣(なら)って「神の国」の建設に全力を尽くすのです。

*イエス様は弟子たちにご自身の死と復活について三度も予告されています(マルコ9:31)。エルサレムへは受難を覚悟して入城されたのです。ところがゲツセマネの祈りにおいて「御心に適うことが行われますように」という言葉で結ばれているとはいえ、神様に「この杯をわたしから取りのけて下さい」と訴えておられるのです(マルコ14:36)。十字架上では絶対的な信頼を表明しながらも、神様に「なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」と疑問を呈されたのです。マルコより後に書かれたルカは「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」、ヨハネは「成し遂げられた」と表現を和らげているのです。マルコ(マタイ)の記述の方が史実に近いように推測されるのです。イエス様の罪状書きには「ユダヤ人の王」と書かれています。イエス様はローマ帝国への反逆罪で処刑されたのです。両側の強盗も「政治犯」であることが考えられるのです。十字架刑は人間の尊厳を否定する屈辱的な刑罰でした。裸にされ、数日人目に晒(さら)されたのです。手首や足に釘が打たれているだけで体を支える物が下にはないのです。途方もない苦痛と出血を伴いながら窒息死するのです。イエス様がお心を騒がせられた理由は分からないのです。死に至る過程おいて筆舌に尽くしがたい試練を経験されたのです。惨めさや悲惨さを軽んじて死を美化するようなことがあってはならないのです。神殿の垂れ幕が上から下まで裂けたのです。重要な意味を暗示しているのです。信徒たちに祭司たちの仲介がなくても、イエス様を通して神様に近づける道が開かれたのです。

*イエス様の死を目撃した人々にも様々なことが起こっているのです。異邦人である百人隊長はイエス様が息を引き取られたのを見て「本当に、この人は神の子だった」と言ったのです。11人の使徒はイエス様が逮捕されて以来姿を隠しているのです。女性の信徒たちはイエス様の処刑の様子を遠くから見守っていたのです。マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、サロメもいたのです。イエス様がガリラヤにおられた時にお世話をしていた人々です。他にも、イエス様と共にエルサレムへ上って来た女性たちが大勢いたのです。十字架上のイエス様は母マリアと愛する弟子に言葉をかけておられます(ヨハネ19:26-27)。権力の中枢にいた議員の中にはイエス様を信じている人も多かったのです。しかし、会堂から追放されることを恐れていたので信仰を告白しなかったのです(ヨハネ12:42)。イエス様が処刑された日は安息日の前日の金曜日です。夕方にアリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが勇気を出して総督ピラトにイエス様の遺体を渡してくれるように願い出たのです。この人も密かに「神の国」を待ち望んでいたのです。同僚から非難され、議員の職を奪われ、社会から排斥されることが予想されるのです。それでも信仰を証ししたのです。ピラトはイエス様の死を確認してから下げ渡したのです。ヨセフは亜麻布を買い、イエス様を十字架から降ろして布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口を石で塞いだのです。以前、イエス様を訪ねたことがある議員のニコデモも埋葬に加わったのです(ヨハネ19:38-42)。

*イエス様は日曜日の朝早く復活して先ずマグダラのマリアにご自身を現わされたのです。マリアが他の弟子たちにこのことを知らせたのです。彼らは信じなかったのです。また、別の二人の弟子にもご自身を現わされました。彼らの言うことも他の弟子たちは信じなかったのです。弟子たちはイエス様からご自身が殺され三日後に復活されることを聞いていたのです。11人の使徒も含めてイエス様のお言葉を信じていなかったのです。イエス様は彼らの不信仰を叱責されたのです。譲歩して復活の事実を目に目る形で示されたのです。「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」と言われたのです(ルカ24:39)。「焼いた魚を一切れ 差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた」と記述されているのです(ルカ24:42-43)。イエス様は弟子たちに全世界に行って福音を宣教するように命じられたのです。地位の高い人、財産を持っている人、教育の機会に恵まれた人はほとんどいなかったのです。ところが、「復活の主」に出会って「神の国」の意味をようやく理解することが出来たのです。「永遠の命」の希望において生きるのです。大祭司や議員、長老や律法学者などの権力者たちを恐れることはなくなったのです。至る所で(旧約)聖書に基づいてイエス様の復活を証ししたのです。指導者たちは自信に満ち、大胆に「イエスの名による以外に救いの道はない」と語るペトロとヨハネに驚いたのです(使徒4:12-13)。

*イースターの日にキリストの信徒たちは「復活の主」に出会うのです。弟子たちのようにイエス様がご生涯を通して証しされた「神の国」の意味を再確認するのです。神様はナザレのイエス様を復活させることによって次の点を明らかにされたのです。第一は、ご自身がどのようなお方であるかを決定的な形で啓示されたことです。無から有を造り、不可能なことを可能にされるのです。依り頼む者を決して見捨てられないのです。第二は、イエス様が寝食を忘れて証しされた「神の国」の福音と律法解釈を御旨に適うものとして認められたことです。福音の範囲を「罪からの救い」に縮小してはならないのです。第三は、「永遠の命」の希望に生きる人々に保証を与えられたことです。「神の国」は人間の全的な救いとして完成するのです。イエス様の復活によって基礎づけられた「神の国」の到来を確信し、「復活信仰」に生きる人々は「神様の御心」の実現のために与えられた使命を果たすのです。キリスト信仰とは知的に理解することではないのです。イエス様が歩まれた道を辿(たど)ることなのです。ロシアのウクライナ侵攻が三年目を迎えているのです。中東・パレスチナのガザ地区では激化した紛争により、甚大な被害が子供たちにも広がっているのです(ユニセフ2024年3月)。神様の助けを待つのではなく、出来ることを実践するのです。「悪の力」と戦うのです。無意味に思われるような取り組みであっても愛によってなされた行為には価値があるのです。挫折と行き詰まりを前にして失望しないのです。イエス様もそのように生きられたのです。

2024年03月31日