「復活信仰」
Bible Reading (聖書の個所)マルコによる福音書15章25節から41節及び16章9節から20節
イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。<底本に節が欠けている個所の異本による訳文>こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。†そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや(なるほど)、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。
昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦(あし)の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。
しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。
・・・
〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。
その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。〕
(注)
・最後のお言葉の比較:
■「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46、マルコ15:34)。詩篇22:1からの引用です。
■「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」(ルカ23:46)。詩篇31:5か らの引用です。
■「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)。
・詩篇22編:イエス様が引用されたお言葉の全体は以下の通りです。
・・わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻(うめ)きも言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。わたしたちの先祖はあなたに依り頼み/依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され/あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥(人々から嘲りを受け、軽蔑されている)。わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑(あざわら)い/唇を突き出し、頭を振る。「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」・・わたしを遠く離れないでください/苦難が近づき、助けてくれる者は(誰も)いないのです。雄牛が群がってわたしを囲み/バシャン(ガリラヤ湖の東側)の猛牛がわたしに迫る。餌食(えじき)を前にした獅子のようにうなり/牙をむいてわたしに襲いかかる者(たち)がいる。わたしは水となって注ぎ出され/骨はことごとくはずれ/心は胸の中で蝋(ろう)のように溶ける。口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎(うわあご)にはり付く。あなたはわたしを塵(ちり)と死の中に打ち捨てられる。犬(敵)どもがわたしを取り囲み/さいなむ者が群がってわたしを囲み/獅子のようにわたしの手足を砕く。骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺(なが)め
わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。主よ、あなただけは/わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ/今すぐにわたしを助けてください。わたしの魂を剣から救い出し/わたしの身を犬どもから救い出してください。獅子の口、雄牛の角からわたしを救い/わたしに答えてください。・・わたしの魂は必ず命を得
子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。
・エリヤ:イスラエル(北王国)において紀元前865年から850年ごろに活動した偉大な預言者です。突然現れ、風のように消えたことで有名です。ユダヤ人の中には「エリヤは困難にある人を救い出す預言者」として期待する人もいたのです。列王記上・下をお読み下さい。
・神の子:イエス様に対する特別な称号です。神様の救いの歴史における忠実な僕を意味しています。預言者ナタンがダビデ王に神様のお言葉「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫(ソロモン)に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据(す)える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が過ちを犯すときは、人間の杖、人の子らの(人間が用いる)鞭をもって彼を懲らしめよう」を告げています(サムエル記下7:12-14)。
・婦人(女性)たち:イエス様の弟子たちの中に多くの女性がいました。家父長社会(男性中心の社会)にあった当時としては考えられないことでした。
・週の初めの日の朝早く:安息日は土曜日の午後6時に終わります。日曜日の朝のことです。
・しるし:イエス様が「水をぶどう酒に変えられたこと」(ヨハネ2:1-11),「死にかかっている役人の息子の病気を癒されたこと」(ヨハネ4:43-53)などは多くの人々を信仰に導いたのです。
・新しい言語:他の国々の言葉、あるいは「異言」のことです。使徒言行録2:4-11;10:46をお読み下さい。
・神の右:
■【ダビデの詩。賛歌。】わが主に賜った主の御言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」(詩篇110:1)
・神の国:天の国とも言います。場所のことではなく「神様の支配」を表す言葉です。来るべき日に、正義と愛に満ちた秩序として完成するのです。
「復活信仰」
April20,2025
(メッセージの要旨)
*今日はキリスト信仰の原点イースターです。「復活の主」に感謝し、新たな一歩を踏み出すのです。イエス様の十字架刑による死は「神の国」の福音を貫かれたことが招いた当然の帰結なのです。「神の国」-神様の主権・支配-がこの世の権力者たちによって拒否されたことなのです。イエス様の心の内を推測することは真に畏(おそ)れ多いことです。キリスト信仰を正確にお伝えするためにこの作業を進める必要があるのです。イエス様は弟子たちに三度もご自身の身に起ころうとしていることについて「人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人(たち)に引き渡す。異邦人(たち)は人の子を嘲(あざけ)り、唾をかけ、鞭打ち、殺す。そして、人の子は三日後に復活する」と予告されたのです(マルコ10:33-34)。ところが、十字架上では「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言われたのです。神様に絶対的な信頼を寄せていたイエス様が「見捨てられている」と思われたのです。福音書記者たちはその理由を記述していないのです。十字架刑は人間の尊厳を徹底的に奪う残酷な処罰です。イエス様は屈辱と悲惨の極みを経験されたのです。しかし、神様は決して沈黙しておられなかったのです。イエス様と共に人間の宿命である死の苦しみを担われたのです。死者からの初穂として復活させられたのです。罪と死の影に怯(おび)えている人々に「永遠の命」への希望を与えられたのです。同時に、イエス様の復活は神様が「神の国」の福音の正しさを証明された出来事なのです。
*イエス様の罪状書きには「ユダヤ人の王」と書かれていました。イエス様はローマ帝国への反逆罪で処刑されたのです。両側の強盗も政治犯であることが推測されるのです。イエス様の最後のお言葉は弟子たちに戸惑いを与えたのです。余りにも惨めに映ったからです。他の福音書の記者たちもそのように感じたのです。ルカは「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」という言葉に置き換えています。イエス様の穏やかな死を表現しているのです。ヨハネはイエス様の荘厳な死を描くために「成し遂げられた」と記述しています。しかし、イエス様は大声を出して息を引き取られたのです。十字架刑はよく知られた過酷な拷問の一種です。裸のまま手足を十字架に釘付けにされたのです。通行人たちに晒(さら)され、耐え難い苦痛と出血がおよそ36時間も続いたのです。福音書にはそのような残酷さと恐怖が記述されていないのです。むしろ、見物人や通行人たち、ローマ帝国の兵士や百人隊長、家族や弟子たちの様子が伝えられているのです。おそらく、福音書記者たちの深い配慮があったのです。最も古いマルコの表現が史実に近いのではないかと言われています。イエス様は神様から委ねられた「神の国」の福音のために、この世に正義と平和を実現するためにご生涯を捧げられたのです。ところが「神様の御心」を踏みにじる権力者たちは、イエス様を十字架刑-政治犯-で処罰したのです。キリスト信仰はユダヤがローマ帝国の支配下にあった時に生まれたのです。イエス様が自ら進んで死を選ばれたというような信仰理解は非歴史的であり、一面的なのです。
*イエス様の処刑後に幾つかの特筆すべき出来事が起こっています。エルサレム神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたのです。至聖所と聖所を分ける垂れ幕が取り払われたのです(出エジプト記26:31-37)。神殿の役割が終わったこと、大祭司のような仲介者が不要になったことを象徴しているのです。イエス様を通して神様に近づくことが出来るようになったのです。百人隊長がイエス様について、「本当に、この人は神の子だった」と言っています。異邦人が初めてイエス様を「神の子」として認めたのです。また、議員であるアリマタのヨセフとニコデモがイエス様のご遺体を埋葬したのです。彼らは同僚の議員やファリサイ派の人々を恐れていたのですが「行い」によって自分たちの信仰を証ししたのです(ヨハネ19:38-42)。一方、イエス様の刑死によって「神の国」の福音が終焉(しゅうえん)したかのように見えたのです。多くの弟子たちが群れから離れて行ったのです。しかし、神様は三日目に死んで葬(ほうむ)られたイエス様を復活させられたのです。福音書は様々な事例を挙げてイエス様の復活が現実に起こったことを証明するのです。「復活の主」はまずマグダラのマリアにご自身を現されました。男性の弟子ではではなかったのです。その後、二人の弟子にもご自身を現されたのです。名もない信徒たちです。ところが、イエス様の身近にいた使徒たちがこれらの人の証言を信じなかったのです。「復活の主」は使徒たちの不信仰を厳しく叱責されたのです。キリスト信仰の正当性は「復活」を信じることにあるからです。
*神様は決定的な方法-イエス様を復活させること-によって「神の国」の正しさを確認されたのです。イエス様は「何よりもまず、神の国(神様の支配)と神の義(神様の正義)を求めなさい。そうすれば、これらのもの(最低限必要な物)はみな加えて与えられる」(山上の説教)(マタイ5-7)、「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」(平地の説教)と明言されたのです(ルカ6:17-49)。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と言われたのです(ルカ5:31-32)。姦淫(かんいん)の現場で捕らえられた女性に石打ちの刑が執行される直前に、一方的に彼女の罪を赦されたのです(ヨハネ8:3-11)。中風(ちゅうぶ)の人の罪を赦すだけでなく、この人の病気も癒されたのです(マルコ2:1-12)。「父(神様)が死者を復活させて命をお与えになるように、子(イエス様)も、与えたいと思う者に命を与える」と言われたのです(ヨハネ5:21)。会堂長ヤイロの娘を死から蘇生(そせい)されたのです(マルコ5:35-43)。埋葬に向かおうとしているやもめの息子を生き返らされたのです(ルカ7:11-17)。死後四日も経っているラザロに再び命を与えられたのです(ヨハネ11:38-44)。「神様と隣人」を愛して「永遠の命」に与りなさいと言われたのです(ルカ10:21-37)。イエス様の復活によって、すべては神様のご意志であることが明らかになったのです。
*「神の国」を認めない権力者たちは、イエス様をローマ帝国への反逆者-ユダヤ人の王-として十字架刑で処罰したのです。しかし、神様はイエス様を復活させられたのです。イエス様の祈りに応えられたのです。ご自身により頼む者を決して見捨てられないのです。イエス様を「救い主」として信じる人々と共におられるお方なのです。イエス様の復活はキリスト信仰の本質を要約しているのです。イエス様の生と死を通して宣教された「神の国」の福音は「神様の御心」であったことが証明された出来事だったのです。神様は死が滅ぼされたことを宣言し、約束の「永遠の命」を先取りして見せて下さったのです。ところが、弟子たちの多くはイエス様の復活を信じられなかったのです。イエス様はご自身に出会って復活を信じた12弟子の一人トマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われたのです(ヨハネ20:29)。今日のキリストの信徒たちもトマスと大きな違いはないのです。具体的証拠によって確認しなければ事実を信じないのです。イエス様は不信仰な信徒たちに「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい」と譲歩して下さるのです(ヨハネ10:37-38)。聖書が伝える神様はイエス様の「しるし」や「癒しの業」の中で共に働いておられるのです。「復活信仰」はキリスト信仰の根幹なのです。キリストの信徒たちはイエス様が歩まれた道を辿り、「神の国」の建設に参画するのです。