「二度の死刑判決」
Bible Reading(聖書の個所)マルコによる福音書14章53節から65節及び15章1節から15節
人々は、イエスを大祭司のところへ連れて行った。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来た。ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていたからである。すると、数人の者が立ち上がって、イエスに不利な偽証をした。「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」しかし、この場合も、彼らの証言は食い違った。そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」
しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に囲まれて来るのを見る。」大祭司は、衣を引き裂きながら言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。」一同は、死刑にすべきだと決議した。それから、ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った。
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夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
(注)
・大祭司:カイアファのことです。在職は西暦18-36/7年です。最高法院(サンヘドリン)においてイエス様を尋問した中心人物です。
・最高法院:大祭司を中心に祭司たち、祭司の家系の長老たち、民の長老たち、律法学者たちの71人で構成されていました。後に、ペテロとヨハネを尋問し(使徒4:5-42)、ステファノを死刑にし(使徒6:8-7:60)、迫害のためにパウロを任命し(使徒9:1-2)たのはこの最高法院なのです。
・ポンティオ・ピラト:ユダヤにおけるローマの第五代総督で、在位は西暦26-36年です。イエス様を十字架刑で処刑する権限はローマの総督にありました。
・ユダヤ人の王:イエス様に対するローマ総督ピラトの皮肉を込めた呼び方です。
・暴動:ローマ帝国の支配に抵抗する闘争のことです。当時ユダヤ人の反乱は至る所に見られたのです。ユダヤ人歴史家ヨセフスもそのことを記述しています。
・囚人の釈放:福音書以外にこのような慣例を記述した文献などは見当たらないのです。
・銀貨三十枚:傷を負った奴隷の値打ちに相当します(出エジプト記21:32)。ゼカリヤ書11章をお読みください。
・十字架刑:ローマ帝国への反逆者や重大な罪を犯した奴隷に対して適用されたのです。見せしめのために用いられた最も残酷な死刑の執行方法です。
(メッセージの要旨)
*イエス様はヨハネから洗礼を受けられた後「神の国」(天の国)-神様の主権と神様の正義-について宣教されたのです。神殿政治を担う人々の不信仰と腐敗を厳しく批判されたのです。多くの人がイエス様を支持したのです。政治運動へ発展しかねないのです。一方、イエス様は「神様の愛」の観点からユダヤ人たちがこれまで順守してきた律法の解釈を変更されたのです。ある時、弟子たちは空腹になったのです。安息日に麦の穂を摘んで食べたのです。ファリサイ派の人々は弟子たちの行為を律法違反として非難したのです。イエス様は律法の厳格な適用よりも憐れみの大切さを指摘されたのです。姦通の現場で捕らえられた女性に「わたしはあなたを罪に定めない」と言われたのです(ヨハネ8:11)。「神の国」の福音はユダヤ教の指導者たちの権威と既得権益を危うくしたのです。さらに、ご自身を「安息日の主」と呼ばれたのです(マタイ12:1-8)。「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」と公言されたのです(ヨハネ5:21-22)。これらの言動は神様を冒涜(冒とく)しているのです。祭司長たちやファリサイ派の人々は最高法院を招集したのです。律法に従って死刑の判決を下したのです。ところが、刑を執行しないのです。イエス様を「政治犯」として断罪しようと画策するのです。ただ、十字架刑を適用する権限はなかったのです。ピラトに裁かせるのです。ローマ皇帝に反逆する「ユダヤ人の王」として処刑させるのです。
*イエス様は「その人は犯罪人の一人に数えられた」(イザヤ書53:12)を引用し、ご自身に起こる受難を予告されたのです(ルカ22:37)。イエス様は「神の子」としてご自分をモーセの律法の上に置かれたのです。最高法院-裁判所と議会を兼ねた機関-は神様を冒涜する者、偽預言者として認定したのです。しかし、律法に従って石打ちの刑で処刑しないのです。ローマ帝国の治安を脅かす政治犯などに適用される十字架刑で処刑させようとしているのです。「神の国」の本質が一層明らかになるのです。イエス様は政治的な観点から宣教されたのではないのです。ただ、「神の国」は人が人を支配するような社会秩序とは根本的に相容れないのです。イエス様はご自身への応答が裁きの基準になるという途方もない主張をされたのです。ユダヤ人たちに「神の国」かローマ皇帝かを選択させるのです。この世の権力者たちはイエス様を断じて許さないのです。殺さなければならないのです。新約聖書の記者たちはイエス様の死を神様のご計画の中に定められていたこと、世の罪を取り除くために捧げられた犠牲であったこと、神様のご意思を絶望の中において受け止められたこととして理解したのです。これらはイエス様の復活を通して形成された信仰理解なのです。現実の出来事をベースにして解釈されているのです。「知的信仰」への警戒を怠(おこた)ってはならないのです。イエス様は神様から与えられた使命の実現に生涯を奉げられたのです。弟子たちに倣(なら)うように命じられたのです。「神の国」を宣教する人々は試練に遭遇するのです。
*イエス様の予告が現実になったのです。暗闇と群衆の中でイエス様を逮捕することは至難の業です。ところが、考えられないことが起こったのです。サタンが十二弟子の一人イスカリオテのユダを支配しているのです(ルカ22:3)。ユダはグループの内情を熟知しているのです。サタンと共に歩むことを決断したのです。祭司長たちに「あの男」をあなたたちに引き渡せば幾らくれますかと申し出たのです。彼らは陰謀への加担の謝礼として銀貨三十枚を支払ったのです(マタイ26:14-15)。しかし、ユダはイエス様に有罪判決が下ったのを知って後悔したのです。銀貨を神殿に投げ込み首をつって死んだのです(マタイ27:3-5)。祭司長、長老、律法学者たちが集まりイエス様に対する裁判を開始したのです。大祭司は「お前はほむべき方(神様)の子、メシアなのか」と尋ねたのです。イエス様は「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に囲まれて来るのを見る」と答えられたのです。旧約聖書の「詩篇110:1」、「ダニエル書7:13-14」がご自身において成就することを明言されたのです。「神の子」であることを宣言されたのです。「神様のご意思」の解釈をめぐる審理が行われているのです。イエス様の断罪はピラトの言うような妬(ねた)みとか悪意ではないのです。最高法院の宗教的権威が「神様の名」によって決定したのです。「政治犯」として処刑させるために陰謀が実行されるのです。ピラトに十字架刑の判断を迫るのです。イエス様は大祭司カイアファの邸宅から総督の官邸へ連行されるのです。
*祭司長たちは汚れないで過越の食事をするために官邸に入らなかったのです。表面上は律法を順守しているのです。しかし、彼らの心はイエス様に対する敵意と憎しみで満ちているのです。ピラトが出て来て「どういう罪でこの男を訴えるのか」と問い質したのです。祭司長たちは「この男が悪いことをしていな
かったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と答えたのです。ピラトは関わりを避けるために「自分たちの律法に従って裁け」と言ったのです(ヨハネ18:31)。彼らは「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と答えたのです。イエス様をローマ帝国の支配に抵抗する「政治犯」として処刑させるための決意が表れているのです。ピラトは罪状を確かめるためにイエス様に「お前がユダヤ人の王(政治的指導者)なのか」と尋ねたのです。イエス様はピラトの質問に直接答えられなかったのです。ただ、「神の子」として「もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人(たち)に引き渡されないように、部下(弟子たち)が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない」、さら「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と言われたのです。ピラトはユダヤ教における信仰上の争いとして結論付けたのです。イエス様に反逆の意図がないことを確認したのです。「わたしはあの男に(政治犯として)何の罪も見いだせない」と見解を示したのです(ヨハネ18:38)。祭司長たちはイエス様の釈放に激しく抵抗したのです。代わりにバラバ(政治犯)を求めたのです。
*同じ政治犯ならば誰が釈放されてもいいはずなのです。祭司長たちは何としてもイエス様を処刑させたいのです。「イエスを釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称するものは皆、皇帝に背いています」と言って、ピラトを脅したのです(ヨハネ19:12)。ヘロデ大王の死後三人の息子の一人アルケラオがユダヤを統治したのです。この人は残酷で悪政を重ねたのです。ユダヤ人たちがアルケラオの不適格性をローマに上訴したのです。皇帝は職を解任したのです(紀元後6年)。ユダヤはローマの直轄領となり、総督が派遣されることになったのです。ピラトもユダヤ統治の難しさを知っているのです。祭司長たちはピラトに過去の歴史を想起させるのです。ピラトがイエス様を外に連れ出し「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、彼らは「殺せ。殺せ。十字架につけろ」と叫んだのです。ピラトは「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と反論したのです。祭司長たちは「わたしたちには皇帝のほかに王はありません」と答えたのです(ヨハネ19:14-17)。公然と皇帝崇拝を宣言しているのです。律法の基本である「十戒」の規定に違反しているのです。大罪を犯しているのです。信仰を捨てたとさえ言えるのです。ローマの総督の最大の任務は祭りの間エルサレムの治安を維持することです。エルサレムにおいて暴動が起きれば皇帝から責任を問われるのです。一方、ピラトは在任中に莫大な富を蓄えているのです。社会的地位と既得権益に執着するのです。不本意でも譲歩したのです。イエス様を執行人たちに引き渡したのです。