「正義と平和」

Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書5章1節から12節


イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。義(正義)に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。義(正義)のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

(注)

・群衆:

■イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。(マタイ4:23-25)

・心の貧しい:ローマ帝国の圧政とそれに協力するユダヤ人指導者たちの下で苦しむ人々の心の状態のことです。気力が打ち砕かれているのです。ルカでは「貧しい人々は、幸いである」となっているのです(ルカ6:21)。イエス様はイザヤ書61:1-2;58:6を引用し、ご自身の宣教の目的が貧しい人々や圧迫された人々を解放するためであることを宣言されたのです(ルカ4:16-21)。

・神の国(天の国):神様の主権、あるいは神様による支配のことです。私たちが死後に行く「天国」のことではありません。イエス様は「神の国」の宣教に生涯を捧げられました。既得権益に執着する権力者たちは「神の国」を受け入れることが出来ずに、イエス様を十字架上で処刑したのです。ところが、神様はイエス様を復活させられたのです。イエス様は復活された後も天に帰られるまでの間、弟子たちに「神の国」について教えられたのです(使徒1:3)。

・偽りの平和:


■万軍の主はこう言われる。「ぶどうの残りを摘むように/イスラエルの残りの者を摘み取れ。ぶどうを摘む者がするように/お前は、手をもう一度ぶどうの枝に伸ばせ。」誰に向かって語り、警告すれば/聞き入れるのだろうか。見よ、彼らの耳は無割礼で/耳を傾けることができない。見よ、主の言葉が彼らに臨んでも/それを侮り、受け入れようとしない。主の怒りでわたしは満たされ/それに耐えることに疲れ果てた。「それを注ぎ出せ/通りにいる幼子、若者の集いに。男も女も、長老も年寄りも必ず捕らえられる。家も畑も妻もすべて他人の手に渡る。この国に住む者に対して/わたしが手を伸ばすからだ」と主は言われる。「身分の低い者から高い者に至るまで/皆、利をむさぼり/預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らは、わが民の破滅(傷)を手軽に治療して/平和がないのに、『平和、平和』と言う。(エレミヤ書6:9-14)


■あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。(ルカ12:51-53)

・正義と平和と裁き:フランシスコ会司祭本田哲郎氏が著書「小さくされた者の側に立つ神」(新世社、2003年)の中で解説しています(p38)。

●正義とは、個人や家族、民族や国家、そこに含まれるさまざまな団体や自然環境などあらゆる被造物が、本来神から与えられている権利と義務を十分に果たせるような状態を築きあげる働きのことであり、そこに生み出されるものが平和です。裁きとは、その権利が奪われたり、義務がなおざりにされて誰かを苦しめたりしている場合に、それを奪われた人の側に立って取り戻すこと、平和と喜びと自由を回復することにほかなりません。

・UNHCR:

United Nation High Commissioner for Refugee の略称です。日本名は「国連高等難民弁務官事務所」です。1950年に設立された国連機関です。1945年、1981年にノーベル平和賞を受賞しています。国連UNHCR協会は日本における公式支援窓口です。

・日本国憲法第9条:

(1)日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又(また)は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

(2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

・非核三原則:「核兵器を持たず、造らず、持ち込ませず」のことです。

・回想録:「ALL THE GALLANT MEN 」(2016年)、著者はDonald Stratton (当時97歳)です。

(メッセージの要旨)

*「山上の説教」(マタイ5-7)はキリスト信仰を要約しています。今日の聖書の個所はその冒頭部分です。イエス様の重要な教えから正義と平和について 学びます。この二つはキリスト信仰の根本理念です。ところが、礼拝において言及されることが少ないのです。「救い」と関係がないかのように理解されているからです。日本語訳も影響を与えているのです。「心の貧しい」は個人的な心の問題ではないのです。ユダヤ民族としての苦悩や絶望感を表しているのです。「義」も個人的な倫理観を強調した訳になっているのです。原語は「正義」と訳されるべき言葉なのです。いずれにしても、誤解の原因は「神の国」の福音が「神様の支配」の実現ではなく「罪からの救い」に縮小されていることにあるのです。神様は父祖アブラハムに「息子たちとその子孫に主の道を守り、正義を行わせること」を命じられたのです(創世記18:19)。詩編の作者の口を通して「慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけし」と宣言されたのです(詩編85:11)。預言者イザヤは「正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものはとこしえに安らかな信頼である」と言うのです(イザヤ書32:17)。イエス様も「何よりもまず、神の国と神の義(正義)を求めなさい」(マタイ6:33)、「律法の中で最も大切な正義、慈悲、誠実をないがしろにしてはならない」(マタイ23:23)と言われたのです。キリスト信仰を標榜する人々には大切な使命があるのです。「神様と隣人」を全力で愛し、この世に正義と平和に満ちた「神の国」を建設するのです。


*「山上の説教」にはイスラエルの社会的、経済的、政治的状況が色濃く反映されているのです。ユダヤはローマ帝国の支配下にあり、人々は皇帝ではなく神様が真に崇められる日が来ることを待ち望んでいたのです。人々の生活は貧しく、困窮を極めたのです。日々の糧を確保することも簡単ではなかったのです。一方、ファリサイ派の人々や律法学者たちは不正な利益を得ていたのです。後に、イエス様はエルサレムに上り、「平和の都」と呼ばれていたその町が遠望できるところに立たれ、涙を流して「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである」と言われたのです(ルカ19:42-44)。「平和への道」とは「神様の御心」を実行することです。義(正義)に飢え渇く人々、平和を実現する人々、義(正義)のために迫害される人々は幸いなのです。行いによって「天の国」に招き入れられるのです。「聖書に忠実である」と言う言葉が聞かれます。多くの場合、聖書の言葉を恣意的に選別しているのです。正義や裁きの大切さが読み飛ばされているのです。キリスト信仰が変容される要因の一つなのです。これらの人はイエス様が愛と喜びと平和を説かれたのだと信じているのです。ただ、聖書のどこを探しても正義と裁きのない愛、喜び、平和は見つからないのです。


*イスラエルの民は幼いころから律法に関する書(出エジプト記、レビ記、申命記)、預言書(エレミア書など)、旧約聖書の詩編に親しんでいるのです。正義が「神様の御心」であることを知っているのです(イザヤ書42:1-5)。義(正義を)実現することはユダヤ人たちの使命なのです。キリストの信徒たちもその責務を負っているのです。「神の国」の建設-神様が神様として崇められること-に全力を注ぐのです。不正に利益を得ている人々は「神の国」の到来を拒否するのです。特権的地位と既得権益を守るために告発者たちを迫害するのです。イエス様は弟子たちに覚悟を求められたのです(ルカ9:57-62)。矛盾を内包する見せかけの平和ではなく、正義に貫かれた真の平和を希求する人々は幸いなのです。抑圧や搾取のない世界のために奮闘する人々は祝福されるのです。宗教的儀式、御言葉の暗記、毎週の礼拝出席ではないのです。イエス様が「救い」を判断される基準は明確です。貧困や飢えに喘ぐ人々を窮状から救うために、不当に拘束されている人々の解放のために何をしたかなのです。イエス様は貧しい人々や虐げられた人々の側に立たれたのです。それ故に「この最も小さな者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」と言われるのです(マタイ25:31-41)。キリスト信仰は「個人の救い」で完結しないのです。日本だけではなく、世界の抑圧と搾取に目を向けるのです。神様の子供たちがもっと豊かに暮らせるように「平和への道」を着実に前進するのです。「神の国」の福音を届けるのです。


*8月は戦争と平和について考える良い機会です。1945年8月6日(広島)、9日(長崎)に原子爆弾が投下されました。およそ20万人が犠牲となりました。その後、5年間に犠牲者の数は34万人へと膨らんだのです。15日には日本の軍国主義が敗北し、第二次世界大戦が終結したのです。日本の戦死者の数はおよそ310万人、世界全体では5000万人から8000万人とされています。あまりにも多くの尊い命が戦争によって失われたのです。アメリカハワイ州オアフ島にあるアリゾナ記念館を訪れたことがあります。大日本帝国海軍による1941年12月8日の奇襲攻撃で米兵2403人が命を落としました。湾内に停泊していた戦艦アリゾナの乗組員1177人のうち1102名が死亡しました。生き残った兵士もいたのです。この中の一人が回想録を出版しています。著者は負傷したけれども一命をとりとめ、再び太平洋戦争終結直前の沖縄戦にも従軍しているのです。自分の経験や大日本帝国陸軍のアジアにおける数々の残虐行為の情報に接して、理不尽な戦争を終わらせるために原爆投下はやむを得なかったと結論付けています。この考え方はアメリカ人に共通しています。一方、原爆投下に批判的なアメリカ人も少数ですがいるのです。著者は日本人にわだかまりはないが日本軍をいまも許せないと言うのです。戦争は偶然に起こるのではないのです。無謀な戦争を推し進めた人々がいるのです。彼らの責任が厳しく問わなければならないのです。それ以降も数次の中東戦争やシリア内戦、ロシアによるウクライナ侵攻などが起こっているのです。

*預言者イザヤは正義と平和を関連づけているのです。正義のない平和は偽りなのです。正義とは個人や家族、民族や国家、自然環境などのあらゆる被造物が、本来神様から与えられている権利と義務を十分に行使できるような状態を築き上げる働きのことです。そこに生み出されるものが平和なのです。平和は抑圧や搾取がなくなった時に訪れるのです。日本は平和憲法を高く掲げ、唯一の被爆国として、戦争の残酷さと悲惨さを発信しているのです。非核三原則を堅持し、原爆投下が人類に対する大罪であることを訴えているのです。同時に、日本の軍部が近隣のアジア諸国を侵略し、真珠湾を攻撃して人々の尊い命を奪い、多大な損害を与えた事実を忘れてはならないのです。世界の多くの国において政治的抑圧と経済的格差が顕著になっているのです。武力衝突も頻繁に起こっているのです。国家や地域間の争いは人々の生活に深刻な結果をもたらしているのです。UNHCRの報告書によると5月の時点で紛争や迫害により故郷を負われた人の数は1億2000万人を超えているのです。日本の総人口に匹敵する人数なのです。平和運動は思想・信条を越えて進められているのです。真の平和はただ待っているだけでは来ないのです。正義と公平を追求する人々の不断の努力によって実現するのです。ただ、平和への道は簡単ではないのです。茨の道でもあるのです。正義を追求すれば既得権益に執着する人々の抵抗も激しくなるのです。イエス様は「あなたがたは神の子と呼ばれる」と言われたのです。平和の実現のために奔走するすべての人に希望を与えられたのです。

2024年08月04日