「あなたを罪に定めない」

Bible Reading (聖書の個所)ヨハネによる福音書7章53節から8章11節


〔人々はおのおの家へ帰って行った。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女(婦人)に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕

(注)

・モーセ五書:旧約聖書に編纂された創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のことです。

・姦淫の罪:モーセの十戒には「姦淫してはならない」(出エジプト記20:14)とあります。また、律法も「男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない」(申命記22:22)、「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる」(レビ記20:10)と定めています。しかし、姦淫の罪に対する死刑の方法は述べていないのです。受け継がれてきた口述の規定や取決め(慣習)によって、石打ちの刑や絞首刑が執行されたのです。


・死刑の執行の手続き:死刑に処せられるには、二人ないし三人の証言を必要とする。一人の証人の証言で死刑に処せられてはならない。死刑の執行に当たっては、まず証人(たち)が手を下し、次に民が全員手を下す。あなた(たち)はこうして、あなた(たち)の中から悪を取り除かねばならない。(申命記17:6-7)

・口述の規定:長老たちによって受け継がれて来た戒めのことです。文字で記述された律法の規定と同様の効力がありました。

・女(婦人)よ:この呼びかけ方は必ずしも非礼ではないのです。むしろ敬意を表しています。日本語訳の「女」は「婦人」と訳される言葉です。イエス様は母マリアにもこの言葉(婦人)を用いておられます。ヨハネ2:4;19:26を参照して下さい。

(メッセージの要旨)

*信仰の指導者たちは律法を「愛」によって解釈されるイエス様に激しく反発していました。姦淫している現場で捕えられた女性をわざわざイエス様の前に連れて来たのです。証人も確保しているのです。石打ちの刑を執行する準備は整っているのです。あえてイエス様に見解を求めているのです。律法の規定に反する言質(げんち)を引出し、告発することを画策しているからです。姦淫の現場で捕えられたのは女性だけではないのです。相手の男性もいたはずです。女性と同じように男性も公衆の前で罰を受けなければならないのです。女性だけを連れて来て罰を与えようとしているのです。イエス様は彼ら自身がすでに律法の規定に違反していることをご存じなのです。石打ちの刑の執行にあたって「罪を犯したことのない者が、まず、この女(婦人)に石を投げなさい」と言われたのです。年長者から始まって、一人また一人その場所から去ったのです。その中に律法学者たちやファリサイ派の人々もいたのです。ユダヤ教の基本となる十戒には「わたしの他に神があってはならない」、「いかなる像も造ってはならない」、「主の名をみだりに唱えてはならない」、「安息日を聖別せよ」、「父母を敬え」、「殺してはならない」、「盗んではならない」、「偽証してはならない」、「隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなどを一切欲してはならない」が記述されています(出エジプト記20:3-17)。完全に守っている人は誰もいなかったのです。イエス様は女性に「わたしもあなたを罪に定めない。・・もう罪を犯してはならない」と言われたのです。


*教会で取り上げられることが少ないテーマです。自分たちの罪を不問にして他の人の罪を告発する人間の偽善性が鋭く描かれています。ある女性が姦通の罪で捕らえられました。律法は誤った告発を防ぐために二人以上の証人を義務付けています。ファリサイ派の人々や律法学者たちは証拠(証言)を得ているのです。石打の刑を適用すべきであると主張しています。ただ、刑の執行方法は女性が婚約しているか、結婚しているかによって異なるのです。女性が婚約者していれば相手の男性と共に石打の刑が執行されるのです(申命記22:23-24)。結婚していれば両者は共に殺されるのです。ただ、その方法について規定が設けられていないのです。「口述の規定」では姦淫の罪を犯した婚約者は石打の刑、同様の罪を犯した妻は絞殺となっているのです。女性は婚約者として犯した罪を問われているのです。相手の男性も罰を受けなければならないのです。ところが、告発者たちは男性の罪を不問にしているのです。当時、女性は男性の従属物でした。男性よりも不公平に裁かれたのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちにとって女性の罪の告発は手段なのです。何とか訴える口実を見つけるために、イエス様に執拗(しつよう)に見解を求めたのです。イエス様はこれらの人の悪意を見抜いておられるのです。律法に対して律法を持って反論されたのです(申命記17:7)。裁こうとする人々はすべて男性です。当時の社会状況を反映しているのです。しかも、裁きの中に「正義」が見られないのです。何よりも、自分が偽善者でないかを吟味するのです。

*多くの人は女性の犯した大きな罪とイエス様の無条件の赦しに注目するのです。それは正しいのです。他にも重要な視点が幾つかあるのです。女性が犯した罪は神様への冒涜(ぼうとく)でも、窃盗などの律法違反でもないのです。姦淫なのです。信仰共同体は性に関する規定-婚前交渉、堕胎、姦淫、離婚など-の違反者には迅速(じんそく)な裁きを行うのです。生死に直結する罰も執行されるのです。ユダヤ人の社会では女性が性的な罪を犯した場合はいつでも女性の側の霊性や道徳心の欠如が問題になったのです。男性の熱情は女性の魅力による誘惑であると考えられていました。ファリサイ派の人々や律法学者たちはモーセの座について罪人を裁いているのです。ところが、告発したのは女性だけなのです。相手の男性を無罪放免にしているのです。不公平な裁きが行われているのです。イエス様は自分たちの都合に合わせて律法を解釈するファリサイ派の人々や律法学者たちの偽善と不正を明らかにされたのです。これらの人は神殿では「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でなく、また、この徴税人のような者でないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と祈るのです(ルカ18:11-12)。信仰心の篤さを誇っているのです。しかし、心の内は、不信仰と放縦に満ちているのです。神様はすべてをご存じなのです。このような空しい祈りを拒否されたのです。「福音の真理」が歪(ゆが)められ、救われるべき罪人たちが「神の国」(天の国)から遠ざけられているのです。

*女性が罪を犯したことは明白です。律法に従ってこの罪人は罰せられるのです。ところが、イエス様は石打の刑の執行に疑問を呈されたのです。裁く人々の側に正義がなかったからです。ファリサイ派の人々や律法学者たちは律法が定める宗教儀式の遂行には熱心です。しかし、律法を恣意的(しいてき)に解釈するのです。他の人々の罪に厳しく対応し、自分たちの罪には寛大なのです。後に、イエス様はこれらの人を偽善者と呼び「正義、慈悲、誠実をないがしろにしている。これこそ行うべきことである」と言って、激しく非難されたのです(マタイ23:23)。罪を犯さない人は誰もいないのです。ところが、自分の罪に気づいていないのです。イエス様は罪人を救うために地上に来られたのです(ルカ5:31-32)。憐れみによって死の淵にあった女性が生かされたのです。「律法主義」とそれに伴う偽善が横行しているのです。人間の解釈によって赦されない罪の範疇(はんちゅう)が拡大しているのです。神様に代わって、資格のない人々が審判者となって罪人を裁いているのです。女性は罪の赦しを願い出た訳ではないのです。集まった人々も「悔い改め」を表明していないのです。イエス様は罪人たちに福音(良い知らせ)を告げられたのです。先ず、姦淫の罪を犯した女性が赦されたのです。「これからは、もう罪を犯してはならない」と命じられたのです。裁きに関わった人々に隠れた罪の有無を問われたのです。罰を与えることなく、一人一人に後の「生き方」を委ねられたのです。自分のためにも人を裁いてはならないのです(マタイ7:1)。

*イエス様は女性が犯した姦淫の罪を認めておられるのです。ただ、罪を犯したことを責めるとか、その理由や原因を尋ねられることはなかったのです。女性から悔い改めの言葉を聞かれた訳でもないのです。イエス様は「わたしもあなたを罪に定めない」と言われたのです。罪の赦しが一方的に宣言されたのです。女性は石打ちの刑で処刑されるところを救われたのです。律法学者たちやファリサイ派の人々は罪人を裁くことに熱心なのです。イエス様は罪に死んでいた人々に再び命を与えられるのです。罪を赦された人々は新しく生まれ変わるのです。イエス様を「救い主」と仰ぎ、同じ過ちを繰り返さないように歩むのです。さらに、イエス様は信仰の指導者たちの偽善と不公正を明らかにされたのです。傲慢な人々に心からの悔い改めと謙虚さを求められるのです。また、ユダヤ教と女性の社会的地位との関係を浮き彫りにされたのです。石打の刑の執行に関わった人々の罪が問われなかったのです。キリストの信徒たちは様々な罪を犯しているのです。その罪が公になっていないだけなのです。神様の目には罪人であることに変わりはないのです。教会は罪人の集まりなのです。ところが、そのことを認識している人は少ないのです。むしろ、「救い」に与った自分の信仰心を誇っているのです。石打ちの刑に参加した人々のように振舞っているのです。これこそ大きな罪なのです。イエス様は弟子たちの高慢を厳しく戒められたのです。彼らの「救い」が危うくなるからです(マタイ18:1-5)。教会は自らを低くし、罪人たちの再出発に全力を尽くすのです。

2025年01月26日