「キリスト信仰の真髄」
Bible Reading (聖書の個所)マタイによる福音書5章1節から16節
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。義(正義)に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。義(正義)のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
(注)
・この群衆:イエス様に従った人々のことです。
■イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った(マタイ4:23-25)。聖書地図を参照して下さい。
・正義と平和:神様は預言者たちを通して歴代の王に正義と平和を実現するように命じられたのです。しかし、「神様の御心」に適(かな)った王はほとんどいなかったのです。ヒゼキヤは数少ない信仰の篤い王でした。
■ひとりのみどりご(ヒゼキヤ王)がわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。(イザヤ書9:6)
●「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」はエジプトの王が戴冠する時に唱えられた賛辞に似ているのです。
■万軍の主はこう言われる。「ぶどうの残りを摘むように/イスラエルの残りの者を摘み取れ。ぶどうを摘む者がするように/お前は、手をもう一度ぶどうの枝に伸ばせ。」誰に向かって語り、警告すれば/聞き入れるのだろうか。見よ、彼らの耳は無割礼で/耳を傾けることができない。見よ、主の言葉が彼らに臨んでも/それを侮(あなど)り、受け入れようとしない。主の怒りでわたしは満たされ/それに耐えることに疲れ果てた。「それを注ぎ出せ/通りにいる幼子、若者の集いに。男も女も、長老も年寄りも必ず捕らえられる。家も畑も妻もすべて他人の手に渡る。この国に住む者に対して/わたしが手を伸ばすからだ」と主は言われる。「身分の低い者から高い者に至るまで/皆、利をむさぼり/預言者から祭司に至るまで皆、欺(あざむ)く。彼らは、わが民の破滅(傷)を手軽に治療して/平和がないのに、『平和、平和』と言う。・・・・」と主は言われる。(エレミヤ書6:9-14)。
●神様は不信仰の町エルサレムを罰せられるのです。そのために他国の王と軍隊を用いられるのです。彼らがそこまで迫っているのです。預言者エレミヤが逃げるように警告するのです。しかし、耳を傾ける者がいないのです。結局、人々は苦難と死を経験し、捕囚の民となるのです。
・イエス様と平和:
■あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。(ルカ12:51-53)。
■イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」・・・エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」(ルカ19:37-44)
●平和への道:正義を実現することです。ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスはイエス様を殺そうとしていたのです。この話を聞いたイエス様は動揺されなかったのです。ご自身の強い意志(宣教活動の継続)をヘロデに間接的に伝えられたのです。(ルカ13:31-34)
・山上の説教と平地の説教(ルカ6:20-26)を比較して下さい。後者には「幸い」だけでなく「不幸」(天罰)が記述されているのです。
・士 師:部族の長の名称です。オトニエル、エフド、シャムガル、デボラ、ギデオン、トラ、ヤイル、エフタ、イブツアン、エロン、アブドン、サムソンの12人です。神様の導きによって敵対する勢力との戦いに勝利するのです。イスラエルは士師の下で神様の正義と憐れみ、罰と赦し(解放)を経験するのです。
■主は士師たちを立てて、彼らを略奪者の手から救い出された。しかし、彼らは士師たちにも耳を傾けず、他の神々を恋い慕って姦淫し、これにひれ伏した。彼らは、先祖が主の戒めに聞き従って歩んでいた道を早々に離れ、同じように歩もうとはしなかった。主は彼らのために士師たちを立て、士師と共にいて、その士師の存命中敵の手から救ってくださったが、それは圧迫し迫害する者を前にしてうめく彼らを、主が哀れに思われたからである(士師記2:16-18)。
・立派な行い:キリスト信仰とは信じて「救い」に与ることではないのです。キリストの信徒たちには「地の塩」、「世の光」として信仰を証しする使命があるのです。終わりの日にイエス様がそれぞれの行いによって「救い」の有無を判断されるのです(マタイ25:31-46)。
・UNHCR:
United Nation High Commissioner for Refugee の略称です。日本名は「国連高等難民弁務官事務所」です。1950年に設立された国連機関です。1945年、1981年にノーベル平和賞を受賞しています。国連UNHCR協会は日本における公式支援窓口です。
(メッセージの要旨)
*神様はエジプトの圧政から先祖の民を解放されたのです。イエス様はユダヤ人にとって信仰の原点となる「過越祭」には毎年エルサレムへ巡礼されたのです(ヨハネ5:1)。イエス様の時代にはローマがユダヤ人たちを支配していました。ローマ皇帝は反乱を企てた人々に厳罰を持って対処したのです。ユダヤ人歴史家ヨセフスによると、イエス様が誕生される数年前ナザレの近くの町セフォリスでローマ軍は帝国の支配に抵抗した人々およそ2000人に十字架刑を適用したのです(ユダヤ古代誌17)。イエス様の処刑を許可したローマの総督ポンティオ・ピラトは残虐な性質の持ち主でした。(処刑した)ガリラヤ人の血を彼らが捧げるいけにえに混ぜさせたのです(ルカ13:1)。福音書にも彼らの支配を示す具体的事実が記述されています。ローマ皇帝アウグストは人頭税の徴収のために全住民に住民登録を命じているのです(ルカ2:1-2)。ユダヤ人たちに対する「裁判権」をも行使していたのです(マタイ5:25)。ローマ軍は必要に応じてユダヤ人を徴用することが出来たのです(マタイ5:41)。ローマはユダヤ人たちを武力と重税によって抑圧したのです。一握りのユダヤ人特権階級-議員、土地所有者、祭司たち-はローマに協力して富を蓄積しているのです。民衆の95パーセントは貧しい生活を余儀なくされたのです。極貧の人も少なくなかったのです。律法はモーセを通して与えられたのです。恵みと真理はイエス・キリストによって現わされたのです(ヨハネ1:17)。山上の説教はキリスト信仰の真髄(しんずい)なのです。
*山上の説教はマタイの5章から始まり7章まで続きます。今日の引用個所はその冒頭部分です。イエス様の「幸い」は個々人が偶然に遭遇する苦難に対する慰めではないのです。イエス様のお言葉を正しく理解するために当時のユダヤ人たちが置かれていた社会的、経済的、政治的な背景を知っておくことは不可欠です。民衆はローマの支配下にあって窮乏生活を強いられていました。ユダヤ人指導たちはローマに協力して人々をさらに苦しめていたのです。山上の説教がすべて「心の問題」への慰めのお言葉であるかのように誤解されているのです。民衆の厳しい現実から目を逸(そ)らせてはならないのです。「心の貧しい人々・・」は心身ともに打ちのめされ、その日の食べ物を確保することに苦労している人々に福音が届けられているのです。「悲しむ人々・・」は罪を後悔するというような個人的なことではないのです。暴虐がはびこる社会の中で絶望する人々を励ましておられるのです。「義に飢え渇く人々・・」は「神様の正義」の実現を待ち続ける人々へのお約束なのです。これらの人の努力は報われるのです。「平和を実現する人々・・」は公正で平等な社会を建設するために闘っている人々に「神様の祝福」があるのです。キリスト信仰に生きる人々は地の塩、世の光となるのです。個人的な信仰心を深めるだけでなく、貧しい人々や虐げられた人々と共に歩むのです。社会に正義を実現するために奔走(ほんそう)するのです。富や権力に執着する人々との対立は避けられないのです。「義のために迫害される人々・・」は希望の光となったのです。
*旧約聖書に士師記があります。イスラエルの民が国家(政府)を持たない時代に、神様はご自身の民が正しい道から逸れないように士師(指導者)を起こされたのです。彼らはアブラハム、イサク、ヤコブの神のみを礼拝させることに腐心したのです。敵対する外国の勢力の抑圧から民を守るために先頭に立って戦ったのです。山上の説教は士師の考え方を継承しているのです。イエス様は個人の生活や行いにおいて「神様の御心」を実践することー柔和で、憐み深く、清い心を持つことーに加えて、社会において正義を確立し、隣人を愛するように命じられたのです。民衆にとって衣・食・住は最優先の課題なのです。しかし、イエス様はすべてのことをご承知の上で「何よりもまず、神の国と神の義(正義)を求めなさい」と言われるのです(マタイ6:33)。それだけではないのです。この世に同調する人々に「・・異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間ではそうであってはならない」と戒められたのです(マタイ20:25-26)。「神様の御心」に従って生きようとすればこの世との決別は不可避なのです。キリスト信仰においてこうした根本理念が忘れられているのです。イエス様は弟子たちに覚悟と犠牲を求められたのです。「救い」は安価な恵みではないのです。キリストの信徒の中には「信仰は信仰」、「この世はこの世」のようにダブルスタンダードを用いている人もいるのです。イエス様は覚悟のない人々が「永遠の命」に与ることはないと明言されたのです(ルカ9:23-26)。
*イエス様は山上の説教を締(し)め括(くく)るにあたって、一連の警告をされています。「滅びに通じる門は広く、その道も広々して、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出すものは少ない」と言われるのです(マタイ7:13-14)。「狭い門」から入る(山上の説教を日々実践する)人にしか「救い」は与えられないのです。「主よ、主よ」と言う人がすべて「天の国」に入るのではないのです。「神様の御心」を実行した人だけが招かれるのです(マタイ7:21)。人は信仰によって「救い」に与るのです。しかし、「行い」を伴っていなければそれは死んでいるのです(ヤコブ書2:17)。イエス様は「神様の御心」を実現するために腐敗した指導者たちに立ち向かわれたのです。既得権益に執着する人々はイエス様を迫害し、最終的に十字架上で処刑したのです。イエス様の御跡を辿(たど)る人も様々な形の迫害に遭遇しているのです。イエス様はご自身に従う人々に神の子となる資格を与え「天の国」に招き入れて下さるのです。山上の説教はキリスト信仰に生きる人々の道しるべなのです。福音が「罪からの救い」に限定して解釈されているのです。福音に与った人々には使命があるのです。このような大切なことが読み飛ばされているのです。キリストの信徒たちは山上の説教を心に刻むのです。悪がはびこる地上に正義の塩を蒔(ま)くのです。暗闇が支配するこの世に善い行いによって光を輝かせるのです。苦難は避けられないのです。イエス様が終わりの日に祝福して下さるのです。
*8月はキリスト信仰に生きる人々に戦争の悲惨さや平和の尊さを考え、信仰を問い直す良い機会となるのです。キリスト信仰が誤って解釈されているのです。信仰とは信じることではないのです。「天の国」の建設に参画(関与)することなのです。大切な基本理念が恣意的(しいてき)に捨象され、語られることが極めて少ないのです。神様は預言者イザヤを通して「正義が造り出すものは平和であり/正義が生み出すものは/とこしえに安らかな信頼である。わが民は平和の住みか、安らかな宿/憂いなき休息の場所に住まう」と言われるのです(イザヤ書32:17-18)。神様は「正義の神様」なのです。「神様の御心」が世界各地で踏みにじられているのです。悪業を告発し、非暴力的に闘うことはキリストの信徒たちの責務なのです。平和とは戦争がないことではないのです。対立する勢力の均衡状態のことでもないのです。「神様の正義」が地上に遍(あまね)く行き渡ることなのです。直近のUNHCRの報告書によると世界では紛争や暴力、迫害等で1億2千万人以上が故郷を追われ、支援を必要とする人々は増え続けているのです。ロシアによるウクライナへの侵略は続いており、アメリカ・イスラエルとイランの紛争は終息の兆しが見えないのです。毎年8月6日に広島、9日に長崎の「原爆の日」の式典、15日に全国戦没者追悼式が行われています。戦争で犠牲になられた人々を追悼し、平和な世界の実現を祈念するのです。「神様の愛」は観念的ではないのです。人々や国家に正義を求められるのです。腐敗した指導者たちは罰せられるのです。