「偽りの断食」

Bible Reading (聖書の個所)イザヤ書58章1節から8節


喉をからして叫べ、黙すな/声をあげよ、角笛のように。わたしの民に、その背きを/ヤコブの家に、その罪を告げよ。彼ら(イスラエルの人々)が日々わたしを尋ね求め/わたしの道を知ろうと望むように。恵みの業を行い、神の裁きを捨てない民として/彼らがわたしの正しい裁きを尋ね/神に近くあることを望むように。何故あなたはわたしたちの断食を顧みず/苦行しても認めてくださらなかったのか。見よ、断食の日にお前たちはしたい事をし/お前たちのために労する人々を追い使う。見よ/お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし/神に逆らって、こぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては/お前たちの声が天で聞かれることはない。そのようなものがわたしの選ぶ断食/苦行の日であろうか。葦(あし)のように頭を垂れ、粗布(あらぬの)を敷き、灰をまくこと/それを、お前は断食と呼び/主に喜ばれる日と呼ぶのか。わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛(くびき)の結び目をほどいて/虐げられた人(人々)を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人(人々)にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人(人々)を家に招き入れ/裸の人(人々)に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなた(がた)の光は曙(あけぼの)のように射(さ)し出で/あなた(がた)の傷は速やかにいやされる。あなた(がた)の正義があなた(がた)を先導し/主の栄光があなた(がた)のしんがりを守る。

(注)

・預言者イザヤ:当時イスラエルは南北に分裂していました。北王国は「イスラエル」、南王国は「ユダ」と呼ばれていました。イザヤの宣教はユダ王国を中心に行われました。ウジヤ王の死(紀元前738年頃)と共に始まり、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ王の治世にも及びました。

・大祭司:新約時代には同時に最高法院の長でもありました。一年に一度贖罪日に自分自身とイスラエルの民全体のために、いけにえとして捧げられた雄牛の血を皿に入れて神殿の至聖所に入り、そこでその血を注いだのです(レビ記16:11-34)。祭司の家系から選ばれ、終身制でした。ヘロデ時代以降この制度は歪(ゆが)められ、任免が権力者の意のままに行われたのです。

・イエス様の警告:イエス様も宣教を開始するにあたり、40日間の断食を荒野でされたのです(マタイ4:2)。

■断食(だんじき)するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなた(がた)は、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなた(がた)の断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなた(がた)の父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなた(がた)の父が報いてくださる。 (マタイ6:16-18)

・聖句の入った小箱:皮で作られた四角の小さな箱のことです。そこに聖句が入っています。ユダヤ人の男性は額(ひたい)と左腕に箱を巻いて祈るのです(出エジプト記:13:9)。

・衣服の房(ふさ):

■主はモーセに言われた。イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。代々にわたって、衣服の四隅に房を縫(ぬ)い付け、その房に青いひもを付けさせなさい。それはあなたたちの房となり、あなたたちがそれを見るとき、主のすべての命令を思い起こして守り、あなたたちが自分の心と目の欲に従って、みだらな行いをしないためである。(民数記15:37-39)

・貧しい人々を支える義務:

■穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘(つ)み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者たちや寄留者たちのために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。(レビ記19:9-10)

・「主の祈り」:

■だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目(負債)を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭(あ)わせず、/悪い者から救ってください。』(マタイ6:9-13)

・贖罪日:

■以下は、あなたたちの守るべき不変の定めである。第七の月の十日にはあなたたちは苦行(断食)をする。何の仕事もしてはならない。土地に生まれた者たちも、あなたたちのもとに寄留している者たちも同様である。なぜなら、この日にあなたたちを清めるために贖(あがな)いの儀式が行われ、あなたたちのすべての罪責(罪)が主の御前に清められるからである。これは、あなたたちにとって最も厳(おごそ)かな安息日である。あなたたちは苦行(断食)をする。これは不変の定めである。(レビ記16:29-31)

●第七の月→太陰暦です。季節としては太陽暦の9月の終わりから10月の初めの頃です。

(メッセージの要旨)


*旧約の時代、宗教的な動機から一定期間食事を断つこと-断食-が実践されていました。モーセは「主の目に悪と見なされることを行って罪を犯し、主を憤らせた、あなたたちのすべての罪のゆえに、わたしは前と同じように、四十日四十夜、パンも食べず水も飲まず主の前にひれ伏した」と言っています(申命記9:18)。新約の時代も順守されていました(使徒13:2-3)。大祭司は贖罪の日に至聖所に入り、全国民の罪の懺悔(ざんげ)のために断食したのです。断食とは「神様の御心」に沿った生き方に立ち帰ることなのです。ところが、儀式だけに終わっているのです。神様は抑圧されている人々の苦しみと痛みへの共感に促されて、「救いの御業」を始められました(出エジプト記3:7-10)。「全人類の救い」の協力者として、最も貧弱な民を選ばれたのです(申命記7:6-8)。神様は民に律法を与えられました。イエス様は律法を要約して「神様と隣人を愛すること」を最も重要な戒めとされたのです。神様を愛するとは孤児、やもめ、寄留者などの権利を守ことです(申命記:10:12-19)。隣人を愛するとは雇い人たち、体の不自由な人々、虐げられている人々の側に立って行動することです(レビ記19:9-18)。断食は行われているのです。預言者イザヤは本来の目的を教えているのです。社会正義の妨げとなる事柄を断ち切ることなのです。神様は抑圧と差別を容認している人々に悔い改めを求めておられるのです。イエス様も指導者たちの内側が強欲と放縦に満ちていることを告発されたのです(マタイ23:25)。

*神殿で、ファリサイ派の人が心の中で「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通(かんつう)を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と祈ったのです。一方、徴税人は目を天に上げようともせず、胸を打ちながら「罪人のわたしを憐れんでください」と言ったのです。徴税人の祈りの方が聞き入れられたのです(ルカ18:9-14)。イエス様は律法学者たちやファリサイ派の人々の偽善を告発して「彼らはモーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣(なら)ってはならない。言うだけで、実行しないからである。・・そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。・・あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言われました(マタイ23:1-12)。不純な動機を隠して信仰心を装(よそお)えば、それは偽善なのです。神様ではなく自分を褒(ほ)めたたえることは偶像礼拝に他ならないのです。断食は施し、祈りと共にユダヤ教の中でも重要な信仰の証しなのです。しかし、人間は名声や富の誘惑に陥(おちい)りやすいのです。人間の評価を求めるいかなる行いも神様には喜ばれないのです。イエス様は「すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である(に災いあれ)」と言われたのです(ルカ6:26)。

*モーセは神様のご命令とお約束「三年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、あなたがたのうちに嗣業(しぎょう)の割り当てのないレビ人たちや、町の中にいる寄留者たち、孤児たち、寡婦たちがそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。そうすれば、あなたがたの行うすべての手の業について、あなたがたの神、主はあなたがたを祝福するであろう」をイスラエルの民に伝えました(申命記14:28-29)。人々はこの規定に則(のっと)って施しをするのです。安息日に会堂で貧しい人々に施しが行われていました。これは「神様の御心」に適っているのです。ところが施し方によっては人間の尊厳を損なうことがあるのです。元々施す側と施しを受ける側との間には貧富の差あるいは上下の関係があるのです。施しという現実はその関係を一層明白にするのです。どれほど注意を払っても施しをする人々は優越感を持ち施しを受ける人々に劣等感を植え付けるのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちのように人々の賞賛を得るために施しをすることは偽善なのです。ところが、兄弟姉妹に施しをして信仰心を誇ることもまた結果として偽善となるのです。本来、神様の命令である施しをしても誇る理由などないのです。イエス様が示された模範(もはん)に従って当然すべきことをしただけだからです(ヨハネ13:14-15)。施しには人を偽善と高慢に至らせる危険があるのです。貧しい人々に施すのです。同時に、自分を低くするのです。「救い」に与るための要件なのです(マタイ18:1-5)。

*確かに「神様の御心」に合致した行いはその人の篤い信仰心や敬虔さの表れです。一方、神様は人の心の奥を見られるのです。イエス様も信仰を自負するファリサイ派の人々に「あなたたちは人(人々)に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。施しをするときは人々からの誉れを期待して会堂や街角でしないこと、人々に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈らないこと、人々に見てもらおうと沈んだ顔つきをして断食しないこと」を助言されたのです。いずれも、人々を誤った信仰に陥(おちい)らせているからです。信仰心は神様に捧げるものであって、自分の誉(ほまれ)」を得るためのものではないのです。見せるための敬虔さや行いは空しいのです。神様はそのような信仰心を拒否されるのです。イエス様は「主の祈り」を教えられました。真空の中で語られたのではないのです。ローマ帝国の支配下にあって喘ぐユダヤ人たちに希望の光を示されたのです。「御名が崇められますように」にはローマ皇帝(シーザー)への偶像崇拝から解放して下さることへの願いが込められているのです。ローマ帝国はユダヤ人たちに信仰の自由を認める一方、皇帝を「神」として崇めることを強いていたからです。イエス様は同胞への債権を相互に放棄するように命じられました。神様と富との両方に仕えることは出来ないのです(マタイ6:24)。エルサレム神殿は強盗の巣窟なのです。地下の金庫にはたくさんの借用証書が保管されているのです。イエス様は神殿政治を担う指導者たちの偽善と腐敗を激しく非難されたのです。

*時代は下って紀元前520年頃、神様は預言者ゼカリアを通して「国の民すべてに言いなさい。また祭司たちにも言いなさい。五月にも、七月にも/あなたたちは断食し、嘆き悲しんできた。こうして七十年にもなるが/果たして、真にわたしのために断食してきたか。あなたたちは食べるにしても飲むにしても、ただあなたたち自身のために食べたり飲んだりしてきただけではないか」と言われたのです(ゼカリア書7:5-6)。イザヤの時代と変わっていないのです。断食が悔い改めの証しとして豊かな実を結んでいないのです。いつの間にか形だけのものになっているのです。イエス様も断食について言及されました。自分の信仰を誇るために断食しても何の役にも立たないのです。神様はそのような偽善を見抜いておられるのです。断食と訳されている言葉はもっと深刻なのです。自分を否定するという意味があるのです。食べ物や飲み物を断つだけでなく、お風呂に入ること(水浴び)や肉体を喜ばせること、心の楽しみなどを避けることなのです。断食をすることは施しをすること、祈ることと密接に関係しているのです。イエス様はファリサイ派の人々や律法学者たちに「あなたがたは不幸だ」と言われたのです。天罰が下ることを宣告されたのです(ルカ11:42-44)。大祭司たちはモーセの律法を熟知しているのです。ところが、本当の意味を理解していないのです。儀式として実行しているだけなのです。イエス様は「神様の御心」に従って職務を遂行しなさいと警告されたのです。権力者たちはイエス様を拒否し、殺すために全力を注ぐのです。

2025年04月06日