「聖霊様の降臨とペトロの証し」

Bible Reading (聖書の個所)使徒言行録2章22節からから42節

イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』(詩編16:8-11)

兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬(ほうむ)られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、/『彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない』(詩編16:10)/と語りました。神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで。」』(詩編110:1)

だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代(世代)から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。

(注)

・聖霊様の降臨:

■五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした(使徒言行録2:1-4)。

・五旬祭(七週祭):ユダヤ教の三大祭りの一つです。他の二つは過越祭、仮庵祭です。過越祭から数えて50日目に祝う春の収穫祭です。レビ記23:15-21をご一読下さい。キリスト教ではこの日を聖霊降臨日「ペンテコステ(ギリシャ語の五十を表す言葉)として記念する教派もあります。

・風:神様の顕現(けんげん)を示す言葉です。

■主は言われた。「出て来て、この山中で主の前に立ちなさい。」主が通り過ぎて行かれると、主の前で非常に激しい風が山を裂き、岩を砕いた。しかし、その風の中に主はおられなかった。風の後に地震があった。しかし、その地震の中に主はおられなかった(列王記上19:11)。イザヤ書66:15、エゼキエル書37:9-14を併せてお読み下さい。

・炎(火):神様の臨在(りんざい)を表しています。

■シナイ山は山全体が煙に包まれていた。主が火の中を通って、山の上に降り立たれたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた(出エジプト記19:18)。イザヤ書5:24;66:15-16も参照して下さい。

・ディアスポラ:外国に住んでいるユダヤ人のことです。

・ヨエルの預言:旧約聖書のヨエル書は紀元前800年から300年の間に編纂(へんさん)されたと言われています。

■神は言われる。終わりの時に(ヨエル書の原文では「その後」)、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘(たち)は預言し、/若者(たち)は幻を見、老人(たち)は夢を見る。わたしの僕やはしため(男女の奴隷たち)にも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴(しるし)を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる(ヨエル書3:1-5)。

●すべての人とは前後の文脈から悲しみや痛みの中にあるすべての人という意味です。息子や娘は遊女や酒を買うために売り飛ばされた少年や少女のことです(4:3)。若者は徴兵年齢に達した男子で、耐え難い死の恐怖に晒(さら)されているのです。老人は死の影に怯え、奴隷は苦難に喘(あえ)いでいるのです。


・陰府(よみ):神様から遠ざかった死者たちの住まいのことです。

・120人:ユダヤ教の伝統によれば地方の「サンヘドリン」(地方議会)を構成するためには最低120人のメンバーが必要でした。


・邪悪な時代から救われなさい:


ペトロは信仰共同体に罪が蔓延していることを強調するのです。「時代」と訳されている言葉は、英語の「GENERATION」に相当します。「世代」の方が適切と思われます。不正を好む曲がった世代はしかし、神を離れその傷の故に、もはや神の子らではない(申命記32:5)。先祖のように頑なな反抗の世代とならないように、心が確かに定まらない世代、神に不忠実な霊の世代とならないように(詩編78:8)。いずれも「世代」と訳されています。一方、「よこしまで曲がった時代」(フィリッピ2:15)と訳している個所もあります。

(メッセージの要旨)

*イエス様の逮捕以来姿を隠していたペトロは「復活の主」に出会い「神の国」の福音の正しさを確信したのです。ペトロは漁師でした。学識も豊かではなかったのです。聖霊様がペトロに勇気と力を与え、必要なことを語らせられたのです。旧約聖書(モーセ五書)が伝える神様のお言葉や油注がれたダビデの言葉はユダヤ人たちを緊張させたのです。ペトロは神様とイエス様と聖霊様の関係-三位一体-を丁寧に説明したのです。人々は大いに心を打たれ「わたしたちはどうしたらよいのですか」と質問したのです。ペトロは「イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と説明したのです。その日だけでも三千人ほどが仲間に加わったのです。ヨエルが神様のご計画を預言しているのです。福音書が具体例を記述しています。放蕩(ほうとう)の限りを尽くして財産を無駄遣いした弟は飢饉(ききん)に遭遇し、食べる物さえ買えなかったのです。ある時、ふと我に返り罪を深く悔いて神様の下へ立ち帰ったのです(ルカ15:11-32)。徴税人の頭で金持ちのザアカイはイエス様に会った時「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから、何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と言ったのです。イエス様は「今日、救いがこの家を訪れた」と言われたのです(ルカ19:1-10)。イエス様は失われた羊を救うために地上に来られたのです。聖霊様はこれらの人を導くために降臨されたのです。初代教会は「神の国」の建設に全力を注ぐのです。

*信徒たちは心を合わせて熱心に祈っていました。イエス様が約束された聖霊様の降臨を待っていたのです。神様は「復活の主」を天に上げられた後、今度は聖霊様を降(くだ)されたのです。五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いたのです。炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまったのです。すると、一同は聖霊に満たされ、神様の霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだしたのです。当時、祭りのために世界中から大勢のディアスポラがエルサレムに帰って来ていました、彼らはそれぞれの故郷の言葉が話されているのを聞いて驚き、戸惑ったのです。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」と言う人たちや「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」とあざける者たちがいたのです。ペトロは十一人と共に立って声を張り上げ話し始めたのです。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです」と説明したのです。集まって来た人々は出来事を預言の成就として理解したのです。初代教会は徐々に発展するのです。「神の国」の福音はすべての民に届けられることになるのです。

*ペトロは人々に悔い改めを通して、自らの中に聖霊様を迎え入れるように勧めたのです。神様(の霊)に導かれた人々の行動は常識では測れないのです。神様はアブラハムに「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。・・地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」と言われたのです(創世記12:1-3)。アブラハムは神様の約束を信じて出発するのです。神様はモーセに「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」と言われました。モーセは「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」と不安を表し、逡巡(しゅんじゅん)したのです(創世記3:9-11)。最後は神様の命令に従うのです。これらの人は生涯神様への信頼を貫いたのです。神様によって油注がれた少年ダビデは剣や槍を装備したペリシテの戦士ゴリアトとの一騎打ちに臨(のぞ)み、石投げ紐(ひも)と拾った石だけでゴリアトを撃(う)ち殺したのです(サムエル記上17:45-51)。ペトロはダビデの言葉によってイエス様の復活を証明するのです。復活されたイエス様は神様の右におられるのです。約束通り聖霊様を神様から受けて今注いで下さっているのです。

*使徒言行録の著者ルカは「ルカの福音書」を著しています。聖霊様の働きの重要性について強調しています。洗礼者ヨハネに言及して「彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる」と記述しています(ルカ1:15-17)。母エリサベトは親戚の乙女マリアの挨拶を聞いたとき、聖霊に満たされて「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。・・主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言ったのです(ルカ1:41-45)。父ザカリアも聖霊様に導かれて「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」と預言したのです(ルカ1:67-79)。主が遣わされるメシアを見るまでは死ぬことはないと聖霊様からお告げを受けていたシメオンは幼子イエス様を腕に抱いて神様を賛美したのです(ルカ2:25-35)。何よりも、イエス様の誕生は聖霊様の働きによるものだったのです(ルカ1:35)。夫ヨセフは一緒になる前に聖霊によって身ごもったマリアを迎え入れたのです。ヘロデ大王の迫害から幼子と妻マリアを守るためにエジプトへ逃げたのです。その後、エジプトからナザレに戻って来たのです(マタイ1-2)。聖霊様に導かれたペトロは「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを神は主とし、またメシア(キリスト)となさったのです」と公言したのです。

*「復活の主」は天に上げられましたが、神様が定められた時に再び来られるのです。その時に「神の国」は完成を見るのです。「天地」が新しく造り変えられるのです。新約聖書の最後に位置するヨハネの黙示録の著者は「完成した神の国」の様子について「神の幕屋が人(人々)と共にあり、神が人(人々)と共に住み、人(人々)は神の民となる。神自ら人(人々)と共にいて、その神となり、(彼らの)目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。最初のものが過ぎ去ったからである」と表現しています(ヨハネの黙示録21:3-4)。キリストの信徒たちには使命があるのです。「神の国」を全世界に宣教することです。聖霊様が信徒たちに降ったのです。ペトロは邪悪なこの時代(世代)から救われなさい」と勧めるのです。この言葉は神様に反抗したイスラエルの歴史を想起させるのです。ペトロは権威と既得権益に執着する指導者たちや彼らに同調する人々に警告しているのです。悔い改めによって「永遠の命」に与りなさいと言うのです。イエス様が罪を個人の問題に留めることなく、神殿政治を担う律法学者たちやファリサイ派の人々の偽善と腐敗に言及されたように、ペトロもまた罪を共同体の問題として捉えているのです。エルサレムにおいて当初120人ほどの小さな群れはこの後は飛躍的な発展を遂げて行くのです。特筆すべきは祭司も大勢この信仰に入ったのです(使徒6:7)。使徒言行録は「神の国」の完成を望みつつ、聖霊様に導かれて歩んだ初代教会の信仰と宣教活動を記録しているのです。

2025年05月04日