「ユダヤ人と異邦人の信仰」

日   時  2026年10月11日(日)午前10時30分~

礼 拝 式 次 第

前奏 (Prelude)


讃美歌15番 
1
我らのみかみは 天地(あめつち)すべます
国々しまじま 喜びたたえよ

2
みいつの光は 世界を照らせり
大地はかしこみ み前にふるえり

3
誰かはさからう み神のみわざに
だれかはなみする み神のみむねを

4
よろずの君らよ み前にひれふせ
すべての力は み神のものなり

5
天にも地(つち)にも み歌ぞきこゆる
「わららの神こそ まことの神なれ」

BRIEF ORDER FOR CONFESSION AND FORGIVENESS

(P) In the name of the Father, and of the + Son, and of the Holy Spirit.

(C) Amen

(P) God, whose love is everlasting, welcomes sinners to the table of mercy.
Let us confess our sin, confident in God’s forgiveness.

Silence for reflection and self-examination.


(P) Gracious God,

(C) Have mercy on us.
In your gracious compassion forgive us our sins, both known and unknown, things done and left undone.
Uphold us by your Spirit so that we may serve you in newness of life, to the honor and glory of your holy name, through Jesus Christ our Lord. Amen.

(P) Since we are justified by God’s grace through faith,
We have peace with God through our Lord Jesus Christ.
Almighty God has mercy on you, forgives you all your sins,
And bring you to life everlasting.
Amen

Prayer of the Day(今日の祈り)

Bible Reading (聖書の個所)ルカによる福音書7章1節から10節 

イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。ところで、ある百人隊長に重んじられている部下(奴隷)が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下(奴隷)を助けに来てくださるように頼んだ。長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達(友人たち)を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕(召し使い)をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊(たち)がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下(奴隷)に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下(奴隷)は元気になっていた。

(注)


・日本語訳では「部下」、「僕」が混在して誰が病気なのか分かりにくいのです。病気にかかっているのは百人隊長の「部下」の兵士ではなく、「僕」(奴隷)なのです。
・これらの言葉:有名な「平地の説教」の一部です(ルカ6:17-49)。

・カファルナウム:ガリラヤ湖の西北にあります。漁業、農業、交易の盛んな町です。

・百人隊長:ローマ軍において百人以上の兵士からなる部隊を指揮する下士官です。兵士たちの傍若無人(ぼうじゃくぶじん)な振る舞いはユダヤ人たちを大いに苦しめたのです。この人はイエス様を「主」と呼んでいます。イエス様に対して敬意を表明しているのです。ただ、信仰告白とまでは言えないのです。ある人の信仰が間接的に他の人の病を癒したことは注目に値するのです。
      
■・・斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木 はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。(洗礼者)ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。(ルカ3:9-14)

■そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。(マルコ15:21-22)
・長 老:歴史的には年齢よりも高い身分や地位を表す言葉です(出エジプト記3:16)。ここでは、地方の会堂の指導者です。後に、イエス様や使徒たちと対立したエルサレムの権力者たちの一員となるのです。

・ふさわしい人:会堂建設などへの感謝を表す言葉です。同時に、ユダヤ人の律法にも受け入れられる人であることを示しています。

・割 礼(かつれい):男性の性器の包皮を切り取ることです。神様との契約を表しています(創世記17:9-14)。


・サレプタのやもめ:シドンはガリラヤの北にある地中海沿岸の町です。シドンの南に位置するサレプタにおいては異教の神バールが崇められているのです。この町に住む信仰心の篤(あつ)いやもめの話については列王記上17:1-16を参照して下さい。

・ナアマン:アラム(シリア)の王が信頼する軍の司令官です。以前、神様はこ  の異邦人によってイスラエルの王を罰せられたのです(列王記上22:1-39)。一方、この人は重い皮膚病を患っていました。預言者エリシャによって癒されたのです(列王記下5:1-14)。

・異邦人:一般的にユダヤ人以外の人々を指しています。この表現にはユダヤ人の選民としての傲慢(ごうまん)が表れているのです。「割礼のない者」(使徒言行録15:5)、「律法を持たない者」(ローマ書2:14)も同様の趣旨です。
 
・カイサリア:エルサレムの北にある地中海沿岸の町です。ここにはユダヤを管轄(かんかつ)するローマの行政府が置かれていました。大きな祭り(過越祭など)がある時は、総督(ポンティオ・ピラト)が治安維持のためにエルサレムに滞在したのです。

・ヤッファ:エルサレムの北西にある地中海沿岸の町です。

(メッセージの要旨)

*ユダヤ人と異邦人の信仰心が比較されています。イエス様はお育ちになったナザレの会堂において「預言者エリヤの時代に三年六か月の間雨が降らず、その地方一体に大飢饉(ききん)が起った時、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中の誰の下にも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめの下にだけ遣わされた」、さらに「預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった」と言われたのです。出席者たちは憤慨(ふんがい)してイエス様を崖(がけ)から突き落として殺そうとしたのです(ルカ4:25-27)。いつの時代においても、「神様の御心」に適(かな)う人々が祝福されることを明言されたのです。ユダヤ人たちは神様から選ばれた民であることを自負していました。ただ、イエス様を通して「神の国」-神様の支配-が到来していること、新しい天地創造が始まっていることを理解しなかったのです。イスラエルの不信仰は時代を経ても変わらないのです。一方、ユダヤ教の神様を畏(おそ)れる異邦人の百人隊長がいたのです。ユダヤ人たちを愛し、会堂建設にも貢献しているのです。律法にある最も重要な戒め-神様と隣人を愛すること-を実践しているのです。今、奴隷の病気を治すために全力を尽(つ)くしているのです。イエス様の評判を聞いていたのです。権力を笠に着て命令的に徴用するような方法を採らなかったのです。イエス様に敬意を表し、信頼したのです。イエス様は百人隊長の信仰に応えて奴隷を癒されたのです。

*ユダヤはローマの圧政下にありました。兵士たちが民衆を力で支配しているのです。彼らは必要な品物を徴用することが出来たのです。時には、食料品やワイン、家畜などを暴力的に奪ったのです。略奪の矛先(ほこさき)は女性たちにも向けられたのです。洗礼者ヨハネが兵士たちに悔い改めを求めたことは当然なのです。イエス様のお言葉は政治的背景の中に位置づけて理解することが不可欠なのです。百人隊長は異邦人ですが、ユダヤ教の神様を畏れていたのです。ただ、ユダヤ教への改宗者ではなかったのです。ユダヤ教徒として認められるためには目に見える割礼を受ける必要があるのです。兵士たちがユダヤ教の神様を信じることは禁じられていなかったのです。ローマは割礼を受けて改宗することを許可しなかったのです。百人隊長はユダヤ人の交際に関する慣習を知っていました。イエス様の「癒しの力」を信じていました。(罪深い)異邦人の家にユダヤ人であるイエス様を招き入れて,汚してはいけないと考えていたのです。イエス様の癒しのお言葉だけを願い出たのです。信仰は形式を整えるだけではないのです。「生き方」(行い)が伴わなければならないのです。イエス様はユダヤ人の会堂建設を支援し、地位の低い奴隷の病気の回復に心を砕き、神様の前に謙虚に振舞う百人隊長の姿にこの人の信仰をご覧になったのです。神様は偶像礼拝するイスラエルの王(アハブ)を厳しく罰せられたのです。異邦人のナアマン将軍を用いられたのです。イエス様は百人隊長の信仰を高く評価し、奴隷を癒されたのです。民族の違いは問題ではないのです。

*新約聖書はこの他に三人の百人隊長を取り上げています。最初はイエス様の処刑に立ち会った人です。既に昼の十二時ごろです。全地は暗くなり、それが三時まで続いたのです。太陽は光を失い、神殿の垂れ幕が真ん中から裂けました。イエス様は大声で叫ばれたのです。最後は「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言って、息を引き取られました。百人隊長は「本当に、この人は正しい人だった」と告白したのです。イエス様が「神の子」であることを認めたのです(ルカ23:44-47)。次はカイサリアに駐屯していたイタリア隊のコルネリウスです。一家そろって神様を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず祈っていました。天使の指示を受けてヤッファにいたペトロを自宅に招いたのです。ペトロはこの人の親類や親しい友人たちの前でイエス・キリストを証ししたのです。聖霊様が出席者たちに降ったのです。「異邦人のペンテコステ」と呼ばれているのです(使徒10:1-48)。異邦人のクリスチャンがここに誕生したのです。三番目は裁判のためにパウロをローマへ護送する皇帝直属部隊のユリウスです。この人はパウロを親切に扱い、友人たちの所へ行くことも許したのです。船が難破した時、兵士たちは囚人たちが泳いで逃げないように殺そうとしたのです。百人隊長はパウロを助けるために彼らの行動を制止したのです(使徒27:1-44)。これらの百人隊長は神様を畏れたのです。隣人を愛し、祈りを捧げ、キリストの信徒の命を救ったのです。「善い行い」によって信仰を証ししたのです。「永遠の命」は「行い」によって付与されるのです。

*ユダヤ人たちは異邦人たちを罪人として軽蔑していました。使徒の中の使徒であるペトロもそのような考え方を踏襲(とうしゅう)していたのです。前述の百人隊長コルネリウスに招かれた時、ペトロは「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています」と言っています。異邦人との交際禁止の根拠を律法に求めているのです。神様は「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と、ペトロを叱責(しっせき)されたのです(使徒10:11-15)。律法には「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂(わいろ)を取ることをせず、孤児と寡婦(かふ)の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる」と書かれているのです。ところが、ユダヤ人たちには「昔の人の言い伝え」があるのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちがその解釈を独占的に担っているのです。ユダヤ教の伝統の中で育ったペトロも「慣習」を厳格に守っているのです。キリスト信仰においても同じことが言えるのです。イエス様は教会を建てられなかったのです。任務の分担はあっても、祭司、牧師、役員などの役職を設けられなかったのです。手紙などによって指示をされることもなかったのです。「難解な神学理論」を文書として残されなかったのです。「言葉と力ある業」によって「神の国」の到来を福音として証しされたのです。イエス様の御跡を辿(たど)るのです。「最後の審判」は後に実施されるのです。

*百人隊長は「善い行い」によって信仰を表明したのです。「神様の御心」に適っているのです。ユダヤ人たちだけでなく、キリストの信徒たちへの警鐘になっているのです。迫害や貧困に苦しむ人々に無関心な信仰は死んでいるのです(ヤコブ書2:14-17)。イエス様は律法学者の質問に「神様と隣人を愛しなさい」(マルコ12:28-31)、ユダヤ人たちが交際を頑(かたく)なに拒否するサマリア人の「善い行い」に言及して「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ10:25-37)と命じられたのです。キリスト信仰とはイエス様の教えを理解することではないのです。イエス様の「生き方」に倣(なら)い「神様の戒め」を実践することなのです。イエス様が再び地上に来られる時、すべての人を裁かれるのです。すでに、裁きの基準は明らかにされているのです。右側にいる人々を祝福して「あなたがたは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」と言われるのです。正しい人たちの「主よ、いつわたしたちは、それらのことをしたでしょうか」という質問に「わたしの兄弟であるこの(これらの)最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と答えられたのです(マタイ25:31-40)。左側にいる人たちは虐げられた人々や困難を覚える人々に援助の手を差し伸べなかったのです。最も重要な戒めを実行した人が「永遠の命」に与るのです(マルコ12:29-31)。

讃美歌19番

1
みこえ聞くとて みまえにつどいぬ
あまつみおしえ ゆたかにたまえや
心もわが主と ひとつに合うまで

2
知恵とさとりは 暗きにとざされ
みたまの力 うくるによしなし
わが主よ みひかり とく照らしたまえ

3
さかえの主なる 光の光よ
われらの口と 心をひらきて
祈りとほめうた ささげしめたまえ

アーメン


APOSTLES’ CREED


I believe in God, the Father almighty, creator of heaven and earth.

I believe in Jesus Christ, his only Son, our Lord.
He was conceived by the power of the Holy Spirit and born of the Virgin Mary.
He suffered under (Caiaphas and) Pontius Pilate, was crucified, died, and was buried;
He descended into hell.
On the third day he rose again.
He ascended into heaven, and is seated at the right hand of the Father.
He will come again to judge the living and the dead.

I believe in the Holy Spirit, the holy catholic Church,
the communion of saints, the forgiveness of sins,
the resurrection of the body, and the life everlasting. Amen.

(使徒信条)

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、(カイアファと)ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に降り、三日目に死人のうちより蘇り,天にのぼり全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。 アーメン

Benediction(祝福の祈り)

The Grace of the Lord Jesus Christ, the love of God, and the communion of the Holy Spirit be with all of you.

(P) Go in peace. Serve the Lord.

(C) Thanks be to God.

Postlude(後奏)

「Here I am」

I, the Lord of sea and sky,
I have heard My people cry.
All who dwell in dark and sin,
My hand will save.
I who made the stars of night,
I will make their darkness bright.
Who will bear My light to them?
Whom shall I send?
Here I am Lord, Is it I, Lord?
I have heard You calling in the night.
I will go Lord, if You lead me.
I will hold Your people in my heart.

I, the Lord of snow and rain,
I have borne my people’s pain.
I have wept for love of them, They turn away.
I will break their hearts of stone,
Give them hearts for love alone.
I will speak My word to them
Whom shall I send?
Here I am Lord, Is it I, Lord?
I have heard You calling in the night.
I will go Lord, if You lead me.
I will hold Your people in my heart.

I, the Lord of wind and flame
I will tend the poor and lame.
I will set a feast for them,
My hand will save
Finest bread I will provide,
Till their hearts be satisfied.
I will give My life to them,
Whom shall I send?
Here I am Lord, Is it I, Lord?
I have heard You calling in the night.
I will go Lord, if You lead me.
I will hold Your people in my heart.

(いずれの曲もインターネットで曲名を入力すれば簡単に聴くことが出来ます。)

2026年10月11日