(心の)貧しい人たちへの良い知らせ
「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」-マルコ1:15-
旧・新約聖書を正しく理解するためには、文章や言葉の意味を当時の社会的背景の中に位置づけることが不可欠です。この作業を省略して現代の経験や知識だけで解釈すると誤解が生じるのです。日本語訳であることにも留意する必要があるのです。翻訳者の信仰理解が反映されているからです。新約聖書は旧約聖書を土台とする壮大な建築物の先端を構成しているのです。神様は「わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主(わたし)がアブラハムに約束したことを成就(じょうじゅ)するためである」と言われました(創世記18:19)。イエス様も「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人(たち)が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国(天の国)と神の義(神の正義)を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と明言されたのです(マタイ6:31-33)。旧・新約聖書は「神様の正義」で貫かれているのです。神様はそれを「祝福の要件」とされたのです。「聖書に忠実である」という言葉が聞かれるのです。実際は御言葉が恣意的(しいてき)に用いられているのです。「神様の愛」や「罪の赦し」が強調されるのです。ところが、「神様の正義」の重要性に言及されることは少ないのです。「愛と正義」が対立する概念であるかのように考えている人も多いのです。聖書の中に正義と裁きのない平和、愛、祝福は見つからないのです。
*イエス様はご生涯を「神の国」の宣教に捧げられました。「神の国」とは死後に行く「天国」のことではないのです。神様の支配あるいは神様の主権を表す言葉なのです。「神の国」の到来こそ福音でありキリスト信仰の中心メッセージなのです。イエス様は貧しい人々や虐げられた人々の苦しみや悲しみを共に担われたのです。愛する兄弟ラザロの死に直面して嘆く姉妹をご覧になって涙を流されたのです。死が人間を支配していることに憤り、この人を蘇(よみがえ)らされたのです。信仰を導く立場にあるファリサイ派の人々や律法学者たちの不信仰を厳しく非難されたのです。祈りの家であるべきエルサレム神殿を強盗の巣にしている指導者たちの腐敗を告発し、境内から不正を働く商人たちを「実力」で追い出されたのです。「神の国」の到来は既得権益と律法主義に執着する権力者たちとの間に鋭い対立をもたらしたのです。また、イエス様は「わたしを見た者は、父を見たのだ」と言って、ご自身と神様が一体であることを表明されたのです。イエス様の言動が「唯一の神様」を信じる指導者たちには神様への冒涜(ぼうとく)として映るのです。律法の規定に従って殺さなければならないのです。ローマの総督ポンティオ・ピラトの協力を得て「政治犯」として処刑したのです。しかし、神様はイエス様を三日目に復活させられたのです。最も重要な正義、慈悲、誠実を軽んじる指導者たちに「天罰」が下されるのです。悔い改めて「神様と隣人」を愛し、「神の国」を実現する人々に「救い」が訪れるのです。キリスト信仰は安価な恵みではないのです。
*新約聖書にはキリスト信仰の真髄(しんずい)を簡潔に表現している個所があるのです。代表的な例として下記を挙げることができます。ただ、内容が正確に理解されていないことも事実なのです。
徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言い出した。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで探し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。(新共同訳聖書ルカ15:1-7)
(指導者たちへの非難)
社会の隅に追いやられ、人々から蔑(さげす)まれている徴税人や罪人たちと神殿政治の中枢を担(にな)い、信仰心を自負するファリサイ派の人々や律法学者たちが登場します。イエス様は指導者たちの誤った信仰理解に反論するためにたとえ話をされたのです。ところが、文脈から切り離されて「神様の愛の物語」として語られることが多いのです。それではイエス様の真意が伝わらないのです。たとえ話は「罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と言って、不平を漏らした指導者たちへの非難なのです。これらの人は「神の国」に招かれている人々の「救い」を妨げているのです。人間に人を裁く権限は与えられていないのです。「神の国」における評価がこの世の判断によって左右されることはないのです。神様がイエス様に「裁きの権能」を委ねておられるからです(ヨハネ5:27)。指導者たちの罪は極めて重いのです。それだけではなく、「神の国」の福音を拒否して自分たちの「救いの道」を閉ざしているのです。イエス様はたとえ話によってキリスト信仰の本質を明らかにされたのです。そこには「神様の御心」が表れているのです。迫害に苦しみ、犯した罪に悩む徴税人や罪人たちに希望の光が差し込んだのです。「神の国」の福音が貧しい人々や虐(しいた)げられた人々に優先的に届けられているのです。罪を心から悔い改めた人は誰でも「永遠の命」に与れるのです。ところが、指導者たちはあたかも資格があるかのように九十九人の中に自分を含めているのです。深刻な誤解なのです。彼らこそ「悔い改め」を必要とする罪人なのです。
(罪の自覚)
罪を犯さない人はいないのです。ところが、罪の自覚がなければその人に悔い改める理由はないのです。イエス様は「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と質問する弟子たちに「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」と言われたのです(マタイ18:1―5)。イエス様のお答えは弟子たちとって意外なものでした。彼らは指摘されて初めて自分たちの考え方が「天の国」に入れないほどの大きな罪であることを知ったのです。「神の国」に受け入れられるためには様々な要件があるのです。それらはこの世の常識を遥かに超えているのです。神様は人々が尊ぶもの-社会的地位や名声など-を忌み嫌われるのです(ルカ16:15)。神様の前に自らを低くすること、困難を覚える人々(隣人)に奉仕することを求められるのです(マタイ22:37-40)。神様と富の両方に仕えることは出来ないのです(ルカ16:13)。富を必要としている人々に施すことが義務付けられているのです。「神様の御心」から離れて生きていることが罪なのです。イエス様が処刑された後、使徒たちは指導者たちの迫害を恐れて隠れていました。ところが、身分の高い議員アリマタヤのヨセフは勇気を奮ってローマの総督ピラトにご遺体の引き渡しを願い出たのです。それは許可されたのです(マルコ15:43-45)。ヨセフは「行い」によって信仰を証ししたのです。ところが、その報いは同僚たちからの激しい批判と容赦のない迫害だったのです。信徒としての覚悟と自己検証が常に求められているのです。
(全的な救い)
「神の国」の福音は「罪の赦し」で完結しないのです。神様の支配(正義と平和)が天上と地上において確立すること-人間の「全的な救い」-として実現するからです。ところが、キリスト信仰を標榜(ひょうぼう)する人々の多くは福音を「個人的な救い」に限定しているのです。神様から選ばれた指導者たちは過ちを犯すことがない、あるいはこれらの人々を批判することは不信仰であると考えているのです。たとえ話を読んでも羊飼いの過ちに言及することはほとんどないのです。原因の所在が羊飼いではなく、迷い出た羊の方にあるかのように結論付けるのです。しかし、イスラエルの歴史の中で良い羊飼いはほとんどいなかったのです。旧約聖書に精通している指導者たちはそのことを知っているのです。預言者エゼキエルは神様が指導者たちの不信仰と腐敗を厳しく非難されたことを伝えています(エゼキエル書34章)。羊飼い(王や祭司たち)は「神様の御心」-愛と正義-を実行しなかったのです。贅(ぜい)の限りを尽くすのです。民衆のために良い物を提供することはなく、離散した人々を捜すこともしなかったのです。力によって過酷に民衆を支配したのです。神様は憤って悪い羊飼いたちに立ち向かわれたのです。失われた人々を尋ね求め、追われた人々を連れ戻し、傷ついた人々を包み、弱った人々を強くされたのです。非情な権力者たちと貪欲(どんよく)な人々を滅ぼされるのです。公平に民衆を養うことが宣言されたのです。イエス様も「わたしは良い羊飼である。・・羊のために命を捨てる」と言われたのです(ヨハネ10:11―14)。
(正義の実行)
マタイもまたファリサイ派の人々や律法学者たちの偽善と不正を詳述しています(マタイ23章)。イエス様は指導者たちを非難して、「彼らが言うことは、すべて行いまた守りなさい。しかし、彼らの行いは見倣(なら)ってはならない。言うだけで実行しないからである。彼らは背負いきれない数々の律法の規定を実践するように人々に強いるが、それらの重荷を軽減するために指一本貸そうともしない」と言われたのです。指導者たちは外側を正しいように見せながら、その内側を強欲と放縦で満たしているのです。信仰心を誇るために長い衣をまとって歩き回り、見せかけの長い祈りをしたのです。広場で挨拶されることや会堂では上席、宴会では上座に座ることを好んだのです。律法の規定を無視するのです。やもめ(寡婦)を食い物にしているのです。貧しい人々から利益を貪(むさぼ)っているのです(マルコ12:38-40)。指導者たちは人々を「救い」に導くどころか、信仰から遠ざける躓(つまづ)きの石になっているのです。「神様の権威」を用いて、人々に律法の順守と従順を強いているのです。ところが、自分たちは「神様の戒め」を軽んじ、悪事を働いているのです。イエス様が証しされた「神の国」の到来は民衆に福音となったのです。指導者たちには既得権益を脅かす悪い知らせなのです。悔い改めない指導者たちの罪が赦されることはないのです。イエス様は「災いあれ」と言われたのです。彼らに天罰を宣告されたのです。キリスト信仰に生きる人々も指導者たちの不信仰と誤りを躊躇(ちゅうちょ)することなく告発するのです。
(神の国の到来)
「神様の御心」が指導者たちによって歪(ゆが)められて来たことは歴史的事実なのです。神様は自分自身を養うイスラエルの牧者たちに「災いだ」(天罰あれ)と言われたのです。イエス様もファリサイ派の人々や律法学者たちを白く塗った墓に例えて偽善者たちと呼び、「不幸だ」(災いあれ)と宣告されたのです。たとえ話は「神様の憐れみ」を強調する物語として完結しないのです。指導者たちの不信仰と強欲への批判であることが見落とされてはならないのです。悔い改めなければ、その人に「神様の罰」が下されるのです。イエス様は宣教の開始(マルコ1:15)から、復活(使徒1:3)を経て、天に上られるまで「神の国」の到来を語り、証しされたのです。キリスト信仰とは「神の国」の到来を福音として信じることなのです。イエス様は「医者を必要とするのは、丈夫な人(人々)ではなく病人(たち)である。わたしが来たのは、正しい人(人々)を招くためではなく、罪人(たち)を招くためである」と言われたのです(マルコ2:17)。(心の)貧しい人たちは幸いです。「神の国」はこれらの人のものだからです。「神様と隣人」への愛を実践することが「救いの要件」なのです。イエス様は天から再びこの世に来られるのです。すべての人に「あなたがたは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたか」と問われるのです(マタイ25:31-46)。悔い改めに相応しい実を結んだ人々に「救い」が訪れるのです。
*キリスト信仰が誤解されているのです。キリスト信仰とはイエス様の御跡を辿ることなのです。「神の国」の建設-新しい天地創造-に参画することなのです。このような観点から御言葉をお届けしています。
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